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朗文堂-好日録 010 ひこにゃん、彦根城、羽原肅郎氏、細谷敏治翁

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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ここのところ野暮用に追われまくりの毎日
されど[カラ]元気で、オイチニ、オイチニ !

¶ あの日、そう、あの03月11日以来、ここ新宿邨周辺では、大通りを闊歩していた紅毛碧眼人コウモウ-ヘキガン-ジンがめっきり減った。また、中国のひとの「ニイハオ! 謝謝」も、韓国のひとの「アンニョイハシュムニカ、カムサハンムニダ」のおおきな声もめったに聞かれなくなった。
新宿邑では、たれもが心もちうつむき加減で歩き、夜の街は、ここが繁華街のただなかであることを忘れさせるほど、すっかり暗い街になった。お江戸の空も空気が澄んで、夜空に星がまたたくのがみえるようになった。計画停電や節電が叫ばれ、余震におびえる、地震冷えの寒い毎日であった。

¶ 03―04月は、震災前から決まっていた年度末・年度はじめの作業に追われたが、ふり返ってみると、どことなく気が抜け、なんとはなしに腰が抜け、まとまりを欠いた日日だった。
それが5月の連休明けから、それまでの2ヶ月分の反動のように、俄然慌ただしくなった。それも従来の企画や行事を惰性のように反復するのではなく、ゼロ基盤から立ち上げる作業が多く、気がつけば、06―07月の両月は、ほぼ休日無しでの仕事がつづいた。

¶ アダナ・プレス倶楽部〔現サラマ・プレス倶楽部〕では、5月の連休恒例の〈活版凸凹フェスタ〉の開催を、震災後の諸事情を考慮して中止した。それでも会報誌『Adana Press Club NewsLetter Vol.13 Spring 2001』に、被災地の復興・再建の夢と、活版印刷ルネサンスの希望をのせて、会員の皆さんに、トロロアオイの種子を数粒ずつ同封して配送した。

まもなく仙台市青葉区在住の女性、Oさんから、「トロロアオイの種子が元気よく発芽しました」との写真添付メールが送られてきた。Oさんは毎年〈活版凸凹フェスタ〉に、はるばる仙台から駆けつけてくださる熱心な活版ファンである。
やつがれも5月初旬に、「空中庭園」の植木鉢に3株を植えたが、現在は腰ほどの高さにまで成長し、ちいさく花芽もつけている。この草は、アオイ書房の志茂太郎が愛した花として知られ、晩夏から初秋のころ、たった1日だけ美しい花をつける(はずだ)。

¶ おそらく秋が深まったころ、アダナ・プレス倶楽部の有志諸嬢と諸君は、このトロロアオイの根っこを持参し、恒例の〈手漉き紙体験会〉に賑やかにくりだすはずだ。ところがなんと――つい最近詳細を知ったが――、なにかと催事が好きなアダナ・プレス倶楽部は、10月の3連休を利用して、〈活版カレッジ修了生新潟支部――実存するのだ!〉のY嬢と、Y博士の肝煎りで、新潟漫遊 モトイ 新潟研修旅行を計画しているらしい……。そのあとで、もっと水が冷たくなる11月下旬ころに〈手漉き紙体験会〉となるスケジュールだそうである……。

  やつがれにとって、都下あきる野市行きとは、手漉き紙体験も楽しみだが、それよりも、近在の「喫茶 むべ」――アケビの別称――の珈琲が楽しみだ。水のせいかとおもうが、ともかくここの珈琲は絶品である。そこでは造形者だった老店主との会話が弾む。また「喫茶むべ」の近くには、湯の香もゆたかな天然温泉もあるという、おまけたっぷりの東京都下への旅となる。そして今年は、会員みずからが育てたトロロアオイの根っこが、ネリとして、コウゾの繊維とともに手漉き紙用の「舟」にいれられそうだ。 

¶ 07月某日、関西方面出張。タイポグラフィゼミナール、活版ゼミナールを兼ねての強行軍での出張。たまたまほぼ同じ時期でのおはなしだったので、スケジュールを集約調整して、大阪3ヶ所、京都2ヶ所、滋賀1ヶ所を駈けまわるという強行スケジュール。なにはともあれ交通の便だと、京都駅前のタワーホテル(オノボリサン丸出しもいいところ。のちほど京都育ちのHさんに、古都の景観を損傷した京都タワービルには入ったこともない …… と呆れられた)をベース・キャンプにして仕事に集中。

連日、大阪・京都・大津といったりきたり。それなりの成果もあったし、充実感もあった。されど、ここで仕事のはなしをするのは野暮というもの。なにせノー学部といっしょだったから、忙中に閑あり。やってくれました! なんともまぁ、唖唖、こんなこと !!

¶ なにかおかしいぞ……、と、嫌な予感はした。
「京都から大津にいって、彦根にいくって、たいへんですか」
「直線距離ならたいしたことはないけど、なにせ琵琶湖の縁をこうグルッとまわってだね …… 、結構面倒かな」
「彦根城には、いったことはあるんでしょう」
「水戸天狗党の藤田小四郎を調べていたころ、井伊大老の居城ということでいった」
「じゃぁ、日曜日が空いているから、京都観光巡りじゃなくて、彦根城にいきましょう」
やつがれ、なにを隠そう、じつはちいさいながらも城下町で育ったせいか、彦根のふるい家並みの街が好きである。ここには大坂夏の陣で破れた忠義の武将、木村重成公の墓(首塚)もあるし、お馴染みの「徳本トクホン行者 六字名号碑 南無阿弥陀仏」もある。それよりなにより、近江牛のステーキは垂涎ものなのだ!

¶ 雨中の江州路をゆく……。こうしるせば、ふみのかおりたかいのだが、実相は違った。ハレ男を自認しているやつがれにしては、この日はめずらしくひどい雨がふっていた。
「並んで、並んで。ハイハイ並んでくださ~い」。
やつがれ、駅からタクシーで彦根城にきて、いきなりわけもわからず行列に並ばされた。2-300人はいようかという大勢の行列である。みんな「ひこにゃん」なるものを見るのだそうである。きょうは雨なので、お城に付属した資料館のようなところに「ひこにゃん」なるものは登場するらしい。行列に並びながら、やつがれ「ほこにゃんとは、そも、なんぞい」とまだおもっていた。
ところがナント、まことにもって不覚なことながら、やつがれ、(順番の都合で偶然とはいえ)、最前列に陣どって、ともかく嗤いころげて「ヒコニャン」をみてしまったのだ。要するにかぶり物のキャラクターだったが、ちいさな仕草がにくいほどあいらしかった。
あとはもうやけくそ! 字余り、破調、季語ぬけおかまいなしで、一首たてまつらん。

      

エッ、この人力車に乗ったかですか。乗るわけないでしょうが、いいおとなが。――ところがやつがれ、こういうキッチュなモノが意外と好き。ハイハイ正直に告白、「ひこにゃん」も見ましたし、この人力車にも乗りましたですよハイ。チト恥ずかしかったケド、しっかりとネ。
ともかく急峻な坂道を天守閣までのぼり、さらに内堀にそってずっと歩いたために、足が棒になるほど疲れていた(言い訳ながら)。実際は、なによりも旨い近江牛をはやく食しに、このド派手な人力車に乗って、車中堂堂胸をはって(すこし小さくなっていたような気もする)いった。ステーキはプチ贅沢、されど旨かった。

雨中に彦根城を訪ねる   よみしひとをしらず
    ヒコニャンに  嗤いころげて  城けわし
青葉越し  天守の甍に  しぶき撥ね
湖ウミけぶり  白鷺舞いて  雨しげく

木邑重成公の墓に詣る  よみしひとをしらず
    むざんやな 苔むす首塚 花いちりん

   

        

   

¶ 8月某日、爆睡ののち、おもいたっての外出。

¶ それにしても、ことしの夏は暑い毎日であり、猛暑 → 酷暑 → 劇暑 → 烈暑 → 殺暑 …… 南無~~ といった具合に暑かった。そのせいかどうか知らぬが、新宿邑の街路樹として、近年の夏を彩る「サルスベリ 百日紅」の開花がおそく、蝉どももなかなか鳴かなかった。それが一度涼しい日が数日つづいたあと、百日紅が一斉に深紅の花をつけ、蝉がにぎやかに鳴きはじめた。

一部では「暑苦しい花」として不評らしいが、やつがれ、この暑い盛りに深紅の花を、それこそ百日ほどにわたってつける「サルスベリ 百日紅」が好きである。それより、雪深い田舎町出身のわりに、暑い夏は嫌いではない。むしろ、寒い冬は、炬燵に潜りこんで厳冬をやりすごした癖がぬけないのか、愚図ぐずと、なにをする気力もなくなり、惰眠をむさぼるふうがある。

 ¶ わが「空中庭園」にも、蝶や蜂がしばしば訪れるようになったのは、08月の中旬、甲子園野球が決勝戦を迎えようかというころだっった。お盆の4日だけの休暇でノー学部が帰郷したので、高校野球の観戦もせず、08月14日[日]だけ、爆睡、また爆睡を決め込んだ。時折目覚めてカフェに行き、珈琲一杯とサンドイッチを食してまた爆睡。
そしたら疲労がいっきに回復して、かねて気にしていた、大先輩の訪問をおもいたって、相手の迷惑もかんがえず、勝手に08月15日[月]に押しかけた。

¶ 九段下で乗り換えて多摩プラーザに「活字界の最長老・細谷敏治翁」を訪ねる。細谷翁は90を過ぎてなお車の運転をして周囲をハラハラさせたが、現在御歳98歳、やつがれとの年齢差33歳。車の運転こそやめたが、耳は難聴を患ったやつがれよりはるかに確かだし、視力も相当なもの。しかもシャカシャカと歩いて元気そのものなのである。くどいようだが98歳!

細谷敏治氏――東京高等工芸学校印刷科卒。戦前の三省堂に入社し、機械式活字父型・母型彫刻機の研究に没頭し、敗戦後のわが国の金属活字の復興にはたした功績は語りつくせない。
三省堂退社後に、日本マトリックス株式会社を設立し、焼結法による活字父型を製造し、それを打ち込み法によって大量の活字母型の製造を可能としたために、新聞社や大手印刷所が使用していた、損耗の激しい活字自動鋳植機(いわゆる日本語モノタイプ)の活字母型には必須の技術となった。また実用新案「組み合わせ[活字]父型 昭和30年11月1日」、特許「[邦文]モノタイプ用の[活字]母型製造法 昭和52年1月20日」を取得している。

また、新聞各社の活字サイズの拡大に際しては、国際母型株式会社を設立して、新聞社の保有していた活字の一斉切りかえにはたした貢献も無視できない。
今回は、その細谷翁直々の「特別個人講義」を受講した。資料もきっちり整理が行き届いており、「やはり本物はちがうな」という印象をいだいて渋谷に直行。

 ¶ 車中あらためておもう。
「戦前の工芸教育と、戦後教育下における、工業(工業大学・工学部)と、藝術・美術(藝術大学・美術大学・造形大学)に分離してしまった造形界の現状」を……。すなわちほぼ唯美主義が支配している、現状の「藝術・美術・造形」教育体制のままで、わが国の造形人、なかんずくこれから羽ばたき、造形界に参入しようとする若いひとたちを、これからもまだ市民社会が受け容れるほど寛容なのか、という素朴な疑問である。

¶ 渋谷から山の手線に乗り換えて大崎駅下車。小社刊『本へ』の著者、羽原肅郎氏を訪問。最近少し体調を崩されたと聞いていたのでチョイと心配していたが、写真のようにまったくお元気で安堵・安心。
羽原さんはともかく無類のモダン好き。だからつい最近まで、ヘアーカットは「ウルマー・カット」(ウルム造形大学生のかつての流行ヘアー・スタイル)、そして眼鏡はマックス・ビル風のまん丸い「ビル・メガネ」という凝りようだった。この万年青年のように純粋なひととかたっていると、やつがれも若者のような心もちになるからふしぎだ。
夕陽をあびて、帰途は大崎駅まで送っていただいた。写真のピントがあっていないのは、デジタル音痴のやつがれのせいで、ナイコンのせいではないことはあきらかである。

¶ 立秋を迎え、夏休みも終わりだ。残暑も収まりつつある佳き日のきょう。8月26日[金] 五黄先負癸丑ミズノト-ウシ。

タイポグラフィあのねのね*013 マインツとグーテンベルク

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烏兎匆匆 ウト-ソウソウ

うかうか三十、キョロキョロ四十、烏兎匆匆

先達の資料に惹かれ、おちこちの旅を重ねた。吾ながらあきれるほど喰い
囓っただけのテーマが多い。いまさらながら馬齢を重ねたものだとおもう。
文字どおり 「うかうか三十、キョロキョロ四十」 であった。中華の国では、
歳月とは烏カラスが棲む太陽と、兎ウサギがいる月とが、あわただしくすぎさる
ことから「烏兎匆匆 ウト-ソウソウ」という。 そろそろ残余のテーマを絞るときが
きた。つまり中締めのときである。 後事を俊秀に託すべきときでもある。お
あとはよろしいようで……なのか、おあとはよろしく……、なのかは知らぬ。
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活字版印刷術と情報は、水の流れにも似て……
五体と五感をもちいたアルチザンの拠点

近代活字版印刷術 Typographyの始祖
グーテンベルクの生没地 マインツは、
ライン河畔に沿った街

16世紀、マインツ市の繁華を描いた木版画。手前がライン川で、
マインツ市はその水運を利用した物資の集散地として繁栄した。


ドイツ、マインツ市のグーテンベルク博物館のサイン

1639年の印刷工房を描いた木版画。左手と中央奥に木製の手引き式印刷機があり、
右手奥が校閲者、右手手前が植字作業を描いている。

◎ グーテンベルク(Gutenberg, Johann Gensfleisch  c1399—1468)
あれをバブルと呼ぶのだろうか? 小社の刊行書が欧州でよく売れて、毎年秋にフランクフルトで開催されるブック・メッセに9年連続出展した。
下見に出かけた時を合わせると、10年連続して初秋のドイツに出かけたことになる。1週間のメッセ期間が終わると、狭い展示スペースで立ちっぱなしなことと、馴れない外国語漬けのせいで、ひどく疲労をおぼえた。その疲労回復を口実に、いそいそとマインツ(あるいはふるい大学都市で、良い古書店があったハイデルベルク)に向かった。
マインツは近代活字版印刷発祥の地であり、またその始祖・グーテンベルクの生誕と逝去の街でもあった。

¶ グーテンベルクは1440-55年ころ、ブドウ搾り機から想を得て、ネジ式木製手引き印刷機を製作、金属と親和性のある油性インキを開発、鉛合金活字を鋳造するなどして、近代活字版印刷術 Typography を創始したとされる人物である。ただし、老舗の店舗にもよくあるように、「元祖・家元・創始者」などとする説には異論もあって、オランダなどは、いまもって「グーテンベルク近代活字版印刷創始説」を肯んじてはいない。
それでもマインツには、グーテンベルクの住居・工房跡や、通称『42行聖書』、『カトリコン』などの印刷された書物はよく保存されている。しかし相次いだ内乱や戦乱のためもあって、建物の一部と書物はのこったが、印刷機器や活字そのものはまったく現存していない。印刷と書物という、複製術の威力を痛感させられる街でもある。

¶ グーテンベルクの生誕地、逝去地は、ともにドイツ西部、ライン川左岸に沿った、ラインラント・ファルツ州の州都・マインツであった。マインツはラインの水利を利用した商工業が盛んで、ワインの集散地でもある。1994年の人口は18万4千人と記録され、知名度が高いわりには、こぢんまりと、閑静な街でもある。
自動車もないこの時代はもちろん、創始者のときから数百年にわたって、印刷機はもとより、印刷用紙、活字など、相当の重量のある活字版印刷術は、水運の便のよい地で発達した。

¶ マインツには「グーテンベルク博物館 Gutenberg-Museum Mainz」があり、同館には『タイポグラフィ学会誌 01-04』、大日本印刷から提供された日本語活字組版なども収蔵されている。また本稿の執筆中(これがまた、実にモタモタとやっていた)に、『VIVA!! カッパン♥』(大石 薫 朗文堂  2010年5月11日)、『der Weg nach Basel, the road to Basel, バーゼルへの道』(ヘルムート・シュミット 朗文堂 1997年6月3日)がパーマネント・コレクション(長期保存)されたという嬉しい知らせもあった。また、かつて印刷を地場産業としていた新宿区が、マインツと「姉妹都市」の提携を結んでいたが、現在の事情は不詳である。

¶ 近年、マインツ市は歴史的建造物と景観保存に注力し、グーテンベルク屋敷工房(生家)、フストとシェッファーとの共同印刷工房、最後の屋敷工房、埋葬地などが碑文をもって顕彰されており、それらの地を逍遙ショウヨウするガイドマップも完備したので、意外なほど狭隘なグーテンベルク時代の街を訪ね歩くのも楽しい。もちろん15世紀のひと、グーテンベルクも、徒歩か、せいぜい馬車で動き回っていたはずであり、ほとんどの史跡は徒歩で十分な近接地にある。

◎ 『42行聖書 ラテン語』(Biblia, latina, 42lines ― the Gutenberg Bible.  Mainz : Printer of the 42-line Bible, Johann Gutenberg and Peter-Schoefer c1455)
近代タイポグラフィの始祖とされるグーテンベルクはマインツの中産階級の家にうまれ、もともと鏡をつくったり、貨幣鋳造(個人が貨幣をつくって良いかどうかはさておき……)などにあたる金属細工士であったとされる。1434年ころから居をストラスブールに移し、印刷術の創始に没頭し、1440年には最初の活字版印刷に成功したことが裁判記録から推測されているが、実物は現存しない。1445年ころマインツに戻って、自宅に工房を開設して、印刷術の完成のためにさらに試行錯誤を続けた。

¶ グーテンベルクは生涯に6種類の活字セット(フォンツ)を製作したとされる。最初に製造した素朴な活字は、かつては「36行聖書の活字」と呼ばれていたが、現代ではDKタイプと呼ぶことが多い。このDKタイプは、ドナートゥス『文法書』『トルコ暦』などの小型印刷物(端物印刷)にもちいられている。

¶ 「42行聖書の活字」と呼ばれるものは、マインツの実業家ヨハネス・フスト(?-1466)からグーテンベルクが多額の出資を仰いで、生家の近接地にあらたな工房を開き、またパリ大学を卒業した能書家ペーター・シェーファー(?-1502/03)を校閲係として雇用してから製造されている。このあたらしい活字をもちいて、1454年末から1455年はじめのころに、最初の近代活字版印刷による本格的な書籍となった『42行聖書』(ラテン語ウルガタ訳)を完成させたとみなされている。

¶ こんにち『グーテンベルク聖書』として親しまれているこの聖書も「グーテンベルク博物館」でみることができる。同書は博物館本館中央のゆるやかな回廊をゆっくりと下降し、次第に暗がりに視力がなれてきたころ、特製ケースのなかで、淡い照明のもとでみられる。歯がゆいのは、稀覯書キコウショのために仕方がないとはいえ、ここまで出かけてきても、たったひと見開きを、薄暗い灯りのもとで、ガラスケース越しでしかみることができないことである。「もっと見たい、ページを繰りながらすべてのページを見たい」と、たれしもがおもう(はずである)。

¶ この聖書が通称『42行聖書』とされるのは、各ページのほとんどの行が42行で構成されているためである。同博物館資料によると、初版はほとんどのページが42行で構成されているが、旧約聖書の巻頭部分が40-41-42行に変化しているとしている。ところが第2刷りになると、すべてのページが42行に揃えられている。すなわち、1ページあたり42行、2段組、2巻、あわせて1282ページ。第1巻には旧約聖書の冒頭から詩編まで、第2巻には旧約聖書ののこりの部分と、新約聖書のすべてが収録されている。

¶ 活字はゴシック体(テクストゥール、典礼書体)で、1フォントで、300キャラクター以上の使用が確認されている。アルファベットは26キャラクターで、その大文字、小文字で、都合52キャラクターで済むとおもっていたら大間違いである。活字版印刷術創始者のときから、1フォントに300キャラクター余を製作していたのである。また1ページあたりでみると、およそ3,700本の活字が使用されている。これがして、全ページを見たくなるゆえんでもある。

¶  『42行聖書』はヴェラム製(子牛・子羊・子山羊などの皮を薄く剥ソいで、鞣ナメして筆記用としたもの。本来は子牛の皮をもちいたが、高級羊皮紙と表記される。装本材料にももちいられる)のものが30部、紙製のものが150部、都合およそ180部が印刷されたと推定されている。
また刊行から556年後の現在、『42行聖書』は47部の存在が確認されている。そのうち12部がヴェラム刷りで、のこりの35部が紙刷りとされる。活字版印刷はすべてスミ1色刷りの両面印刷であるが、ヘッドライン、イニシャル、とりわけ2巻の新約聖書篇には、ルブリケーター(装飾士)による、手彩色の赤と青の装飾が美しい。わが国でも、慶應義塾大学図書館が数億円を投じて購入した2巻揃いを、また早稲田大学図書館が、原葉1枚を所蔵している。

◎  『カトリコン』(Catholicon  Balbus, Johannes. Mainz : Printer of the ‘Catholicon’ 1460)
なにもできなかったなぁ、と苦いおもいがするのが『カトリコン』である。かつて町田市立国際版画美術館が「西洋の初期印刷本と版画展」(図録『書物の森』 1996)を開いて、早大図書館資料『42行聖書 原葉1枚』が展示された。またこれもグーテンベルクの刊行とされる、明星大学図書館蔵、バルブスのラテン語辞典『カトリコン』とともに黒山のひとだかりであった。

¶ この書物にもちいられた小型の活字は「カトリコン・タイプ」とされ、グーテンベルクが最後に製造した活字とされて争いはないようだ。しかし『カトリコン』には異本が多く、また印刷者名の記名もないことから、印刷者の名前はグーテンベルクではなく、「カトリコン・プリンター Printer of the ‘Catholicon’」と称されることが多い。

¶ 「カトリコン・タイプ」に注目したのは、その活字鋳型の製造者をおもったからである。グーテンベルクの死後まもなく、マインツに大規模な内乱が発生し、弟子や職人は欧州諸国にばらばらになって離散した。突然襲った内乱に際し、かれらが携行したであろう活字鋳型(ハンド・モールド)が、「カトリコン・タイプ」と極めて近似していることに気づいたためである。
すなわち初期印刷者たちは、「36行聖書の活字 DKタイプ」、「42行聖書の活字」と同寸の鋳型ではなく、「カトリコン・タイプ」とほぼ同寸の、ちいさなサイズの活字鋳型を携行してマインツを脱出し、欧州各地でそれをもちいて、独自の活字版印刷工房を開設したのではないかとみている。
これは活字父型や活字母型、つまり活字書体の形象(デザイン)をいっているのではない。鋳型が近似しているということは、活字のサイズが近似し、行間にインテルを挿入することがすくなっかった当時、行の送りが近似することになる。

¶ つまり、マインツから四散した初期印刷者たち、すなわちニコラ・ジェンソンらは、マインツの、名もない金属職人が製造した鋳型をたいせつにかかえて、欧州各地に四散したのではないかとおもっていた。イタリアのスビアコで、ベネチュアで、そして全欧州で展開した初期活字鋳造と、活字版印刷は、マインツの鋳型ではなかったか? そんなおもいでインキュナブラ(15世紀後半の書物・揺籃期本)をみていた。
しかしながら『カトリコン』の原本は所有していないし、インキュナブラも所有していないわが身にとっては、想像・想定以上に研究がおよぶことはなかった。あとはお任せ……の次第である。

◎ 資料紹介(やつがれの参考書だった。ご希望のかたには喜んでお見せしたい)
『欧文書体百花事典』(組版工学研究会朗文堂 2003年7月7日)
『グーテンベルク』(戸叶勝也 清水書院 1997年8月27日)
『Gutenberg  Man of the Millennium』(City of Mainz, 2000)
『ヨーロッパの出版文化史』(戸叶勝也 朗文堂 2004年10月13日)
『書物の森へ――西洋の初期印刷本と木版画』
       (企画構成・発行/町田市立国際版画美術館 1996年10月5日)
『The Gutenberg Bible』(Facsimle Bibla Sacra Mazarinea. France 1985)

◎ ファクシミリ版 『The Gutenberg Bible』

あらためて上記に参考資料を整理してみた。ほかにも何冊かドイツ語の資料はあるが、ほとんど読んでないし、気休めにしかすぎなかった。すなわちたいした書物はもっていない。すこしだけ愛用した資料は1985年、フランスで発行されたファクシミリ版 『42行聖書』 である。
本書は、フォリオ判(38×28.5cm)、2巻、正確な複写版で、重さは7キロほどもある。装本は素っ気ないほど地味だが、すべてが子牛のなめし革による堅牢な製本で、ドイツの製本所が担当した。幸運な偶然から吾輩の手許に転がりこんできたが、ファクシミリ版とはいえ、当時50-70万円以上で販売されていた書物である。
それでも、これなら気軽に、全ページを繰ってみることができる。意外とあたらしい発見があるものである。なんだ、これしかないのか、とあきれないでほしいのだ。吾輩はこれらをまとめきることができなかった。烏兎匆々ウト-ソウソウとしたゆえんである。

タイポグラファ群像*003 牧治三郎氏

タイポグラファ群像*003

牧    治 三 郎

(マキ-ジサブロウ  1900年(明治33)5月-2003年(平成15)

本ブログロール『花筏』 A Kaleidoscope Report 1-7において、『活字界』連載「活字発祥の碑」を通じて、「印刷業界の生き字引き」としての牧治三郎のことを紹介してきた。その一部を再録し、その後このページをご覧になった板倉雅宣氏からご提供いただいた新資料と、わずかに発見したあたらしい資料を補足しながら、ここにわが国の印刷史研究に独自の歩みをのこした牧治三郎を記録したい。
(2011年8月20日改訂)、(2011年9月9日、某古書店の協力により牧治三郎氏没年を改訂)。

     
牧  治 三 郎  まき-じさぶろう
1900年(明治33)うまれ  67歳当時の肖像写真と蔵書印

牧治三郎と筆者は、20-15年ほど以前に、改築前の印刷図書館で数度にわたって面談したことがあり、その蔵書拝見のために「印刷材料商」だった牧の自宅(当時の居住地 : 東京都中央区湊3-8-7)まで同行したことがある。夕まぐれに到着したが、当時はすでに看板は掲げていなかったとおもう。
わずかに、階下に活字スダレケースや、活字架などの活版木工品、活版インキやパックのままのケース入り名刺などの在庫が置かれている程度であった。

当時の牧治三郎はすでに90-100歳にちかい高齢だったはずだが、頭脳は明晰で、常識や節度といったバランス感覚も良く、また年代などの記憶もおどろくほどたしかだった。また、上記の写真で紹介した60代の風貌とは異なり、鶴のような痩躯をソファに沈め、顎を杖にあずけ、度の強い眼鏡の奥から相手を見据えるようにしてはなすひとだった。

そんな牧が印刷図書館にくると「あの若ケエノ?! は来てねぇのか……」という具合で、当時の司書・佐伯某女史が、
「長老が呼んでいるわよ……」
と笑いながら電話をしてくるので、取るものも取り敢えず印刷図書館まで駆けつけたものだった。
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 牧治三郎の出身地、新潟県新発田シバタ市は、いまこそ豊かな米どころととして知られるが、当時の農村の生活は貧しく、幼少のころから上京して、いっとき活字版印刷工場で「小僧」修行をしたことがあるとのべていた。新潟から上京した時期と勤務先は聞きそびれた。
そして1916年(大正5)15-16歳の頃から「印刷同業組合」の事務局の書記役として勤務していたが、一念発起して(夜学とおもえる)日本大学専門部商科を1923年(大正12)23-24歳のころに卒業している。

したがって卒業後に印刷会社に入ったものの、
「ソロバンが達者で、字[漢字]もよくしっているので、いつのまにか印刷同業組合の書記のほうが本職になっていた」
と述べた。
「昔の活版屋のオヤジは、ソロバンはできないし、簿記も知らないし……」
とも述べていた。
──────────
牧治三郎とは、東京築地活版製造所の元社長・野村宗十郎の評価についてしばしば議論を交わした。

◎2011年9月9日追記:
牧治三郎は珈琲が好きで、印刷図書館を出てすぐ前の〈バロン〉という喫茶店で話しこんだ。牧には奇癖があって、丸くて上蓋がパカッと持ちあがる、ふるいタイプのシュガー・ポットから、砂糖を山盛りで摂りだし、それをティー・スプーンの柄の部分をもちいて、いつも器用に摺りきり三杯にして飲んでいた。

2011年9月9日、久しぶりに印刷図書館を訪ねた際、〈バロン〉はまだ営業していた。懐かしいおもいで飛びこんで珈琲を注文したが、あのふるいシュガー・ポットは、丸いスプーンとともに健在だった。そこで牧の癖を真似てみたが、おもいきり砂糖をテーブル一面にこぼしてしまった。

筆者が野村の功績は認めつつ、負の側面を指摘する評価をもっており、また野村がその功績を否定しがちだった東京築地活版製造所の設立者、平野富二にこだわるのを、
「そんなことをしていると、ギタサン(平野富二嫡孫、後述)にぶちあたるぞ。東京築地活版製造所だけにして、平野富二に関して触れるのはやめておけ」とたしなめられることが多かった(『富二奔る』  片塩二朗 朗文堂)。

ギタサンとは俗称で、平野富二の嫡孫、平野義太郎(ヒラノ-ヨシタロウ、元東京大学法学部助教授。戦前の悪法・治安維持法によって公職を追われた。のち高名な法学者として知られる。1897-1980)のことで『富二奔る』に詳しい。

なにぶん牧は1916年(大正5)から印刷同業組合の書記をつとめており、まさに業界の生き字引のような存在とされていた。牧はかつて自身がなんどか会ったことがあるという、野村宗十郎(1857-1925)を高く評価して、終始「野村先生」と呼んで、なかば神格化してかたっていた。
したがって筆者などは「若ケエノ」とされても仕方なかったが、平野の功績と野村の功罪をめぐって、ときに激しいやりとりがあったことを懐かしくおもいだす。

また、牧治三郎の1938年(昭和13)から、敗戦の1945年までのあいだの経歴が「印刷材料商を自営」とだけなっており、その間の行蔵コウゾウはあきらかにされていない。
印刷同業組合の書記の職を辞して「印刷材料商を自営」した1938年には、牧はまだ38歳程度の年齢であった。
向上心と自意識がきわめてつよかったこのひとが、活版木工の取次程度の閑職に甘んじていたとはおもえなかった。

この「変体活字廃棄運動」の件になると、ふつう饒舌な牧は、俄然寡黙になり、筆者がどこまでその実態に迫っているのかを逆に探ることのほうが多かった。しかしついに、牧はそれを詳細にかたることがなかった。

ただいえることは、牧はさしたる理由もなく、印刷同業組合の書記役から身をひいたものの、単なる「印刷材料商」としてではなく、あきらかに「緊張の時局下」の印刷界の枢要な黒子として、水面下で活動した。
そして、まぎれもなく「変体活字廃棄運動」と、企業整備令にもとづく、印刷企業の「廃止・整理・統合」の背後で、重要な役割をもった人物として存在していた。
──────────
印刷産業における企業整備令――国家の統制下に、諸企業を整理・統合し、再編成すること――の実施とは、
「弱小企業A社を廃止し、中小企業B社とC社の設備と人員を整理(縮小)し、中堅企業D社の設備と人員も大幅に削減する。その後、B+C+D社を統合した上で、残存会社としてE社を設立する」
というような形で実施された。

官界からは業種ごとに数値だけが指示された。すなわち、
「企業・工場を、廃止・整理・統合し、兵士××名を徴兵可能とせよ。また工場の廃止・整理・統合にともない、金属資源××万トンを供出可能とせよ」
という数値目標だけの「指示」である。

もちろん官僚は自らの手を汚すことなく、それを民たる同業組合などに「指示」した。
つまり印刷同業組合では、政府から命じられた数値を、固有名詞、すなわち個個の企業の名前に書きかえる、ないしは置きかえる必要があった。
ところが同業組合の幹部とは、たれもが斯界シカイの事業主の一員であって、当然ながら、同業他社の内実・実情などはほとんどわからなかったし、自らの企業がそれを免れることに必死なだけであった。

つまり政府から命じられた「数値」を、仲間内の同業者の「固有名詞」に置きかえるためには「汚れ役」が必要だった。そこで印刷業界の隅々まで知悉チシツしていた人物がもとめられたのは当然であろう。
敗戦から半世紀余の当時でも「企業統合」の憂き目にあった印刷業者からは、企業生命を制する「企業の赤紙」として怖れられた「企業統合」のときの、さまざまな怨嗟エンサのことばや、風説はしばしば耳に入っていたので、それを牧に直接確認した。

この確認を再再にわたってせまった筆者に、牧は、
「戦争中は、ともかくいろいろあったからなぁ」
と曖昧に答えるだけだった。しかしながら、否定はしなかった事実も多い……。これ以上踏み込むと牽強付会のそしりを免れない。

もどかしいことながら、戦争末期の「変体活字廃棄運動」と、企業整備令関連文書記録などのすべてが焼却処分されたとされ、いまだにその真相に迫ることができない。
しかしながら、東京築地活版製造所が解散に追い込まれた1938年(昭和13)、すなわち牧が印刷組合書記を離れて水面下に潜行し、その行蔵が不明となった年以降、わが国の印刷と活字の業界には、なにかみえざる大きな黒い手が蠢動していたことは事実である。

しかし「牧老人が亡くなった……」と 風の便りが届いたとき、その写真はおろか、詳細な経歴を伺う機会もないままに終わったことが悔やまれた。
牧治三郎の蔵書とは、ほとんどが印刷・活字・製本関連の機器資料と、その歴史関連のもので、書籍だけでなく、カタログ、パンフレット、ビラのたぐいもよく収蔵していた。
その膨大な蔵書は、まさに天井を突き破らんばかりの圧倒的な数量であった。しかしながら、これだけの蔵書を個人が所有すると、どうしても整理が追いつかず、当時筆者が閲覧を希望した「活版製造所弘道軒関連の資料」は蔵書の山から見いだせなかった。

牧治三郎は、
「オレが死んだらな、そこの京橋図書館に『治三郎文庫』ができる約束だから、そこでみられるさ」
と述べていたが、どうやら『治三郎文庫』はついに実現しなかったようである。
その蔵書は(おそらく)神田S堂を通じ、すでに二度にわたって大量に古書市場に流出して、事情通の古書店主らを驚愕・仰天させたそうである(N古書店店主談)。
また、牧の蔵書印は縦長の特徴のあるもので、「禁 出門 治三郎文庫」とあり、現在も古書店などで、この蔵書印をときおり目にすることがある。

牧の旧宅(当時は中央区湊3-8-7)があった中央区湊三丁目周辺は、すっかり様相がかわっており、高層ビルの建ち並ぶ街になって、ご家族の所在をわからないでいる。
牧は「板橋の家にも蔵書がある……」とも述べていたので、当時から郊外にご子息などが居住していた可能性もある。

そこで、付きあいのある神田S堂に架電して、牧家のあたらしい連絡先を尋ねたが、
「お客さまの個人情報はご勘弁を……」
ということで、いまだに牧治三郎の没年を掌握していない。
〈2011年9月9日:某古書店の協力で、牧の没年は2003年(平成15)であったことが判明した〉。

《牧 治三郎の略歴》

幸い「牧治三郎氏に聞く―― 大正時代の思い出」『活字界15』(昭和42年11月15日)にインタビュー記事があったので、40年以上前という、ふるい資料ではあるが、牧治三郎の67歳当時の風貌がわかる写真(最上部に蔵書印影印とともに掲出)と、略歴を紹介したい。聞き手は同誌編集長だった中村活字・中村光男氏とみられる。

あわせて、『東京の印刷組合百年史』(印刷組合百年史刊行委員会 東京都印刷工業組合 平成3年2月25日)の巻末に、〈執筆者紹介〉として牧治三郎の略歴がある。
牧は同書全27章のうち、前章―7章までを執筆している。ほかの執筆者は三浦康(ミウラ-コウ 8-13章)、山川俊郎(ヤマカワ-トシロウ 14-19章)、真神博(マガミ-ヒロシ 20-24章)、南惠之助(ミナミ-ケイノスケ 25-27章)の各氏である。

興味深いのは、平成3年のこのころ、すでに京橋区は中央区に改称されて相当の時間が経過しているが、なにかと「印刷の街・京橋」に居住していることを自慢にしていた牧は、その住所を「京橋区湊三丁目」としるして平然としている。

「牧治三郎氏に聞く―― 大正時代の思い出」
『活字界15』(昭和42年11月15日 )

〈大正から昭和初期は、ひどい値下げ競争時代〉
私が活字業界のお手伝いをしたのは、大正5年頃から昭和10年頃であった。その頃私は東京印刷同業組合の事務局にいたので、活字業界に頼まれて庶務の仕事をやっていたが、ひとことでいうと、当時はひどい値下げ競争であった。
協定価格の半額が通常で、少しまとまった顧客にはさらに一割引きとか二割引きでやっていたようである。また当時は業者間でも派閥争いが激しく、ともかくたいへんな時代であったようにおもう。

〈古い資料をたくさんお持ちのようですが〉
特に集めたわけではないのですが、印刷組合、活字組合のお手伝いをしていた関係上、明治・大正時代の珍しいものが自然にたまってしまったような訳です。なかなか整理ができず、適当な機関に順次差しあげたいとおもっております。活字組合さんにも、保存さえしていただければ、寄贈したいとおもっております。

〈印刷工業組合設立の苦労をうかがわせてください〉
印刷組合のことですが、昭和6年にはじめて重要生産品に指定されて、ようやく政府にも印刷産業の重要性を認められたことでしょう。その結果、昭和8年に東京印刷工業組合が設立できた訳です。
それまでは、ほかの産業と同じくたいへんな不景気で、活字業界も四苦八苦のようでしたが、印刷業界の工業組合ができて、少しずつ過当競争を改めていったようにおもいます。
今でこそ政府の認可ということは、それほど重要ではないようにおもわれますが、当時はお役所の了解を得るのに、業界の幹部はたいへんな苦労をなさっていました。

〈今の印刷会館は三代目の建物ですか?〉
そうです。新富町の印刷会館もこれで三代目です[現在は全面改築されて四代目]。
昭和6年に木造二階建てに改築したのですが、そのとき吾々事務局は[秋葉原の]凸版印刷の本社に半年ばかりお世話になりました。

牧治三郎さんは明治33年うまれ。67歳とはおもわれない元気さで、思い出話にも少しも渋滞がない。大正10年のお茶の水の印刷展覧会、大正12年の京都の印刷博覧会など、きのうのことのように話しをすすめられる。[中略]なお、同氏は現在、中央区で、木具・ケイ・リンカク業を営んでいる。

〈執筆者紹介〉『東京の印刷組合百年史』
(印刷組合百年史刊行委員会 東京都印刷工業組合 平成3年2月25日)

牧 治三郎(まき じさぶろう)

1900年(明治33)5月、新潟県新発田市に生まれる。1916年(大正5)7月東京印刷同業組合書記採用。1923年(大正12)7月日本大学専門部商科卒業。以来、印刷倶楽部、印刷協和会、印刷同志会、東京印刷連盟会、大日本印刷業組合連合会、東京印刷協和会、東京洋紙帳簿協会、東京活字鋳造協会などの嘱託書記を経て、昭和13年7月退職。京橋区湊三丁目で印刷材料商を自営(前章―7章担当)。〈2011年9月9日追記:某古書店の協力で、牧の没年は2003年(平成15)であったことが判明した〉。

《主著と呼ぶべき著作がない、能筆な執筆者・牧治三郎》

◎ 「印刷界の功労者並びに組合役員名簿」『日本印刷大観』
(東京印刷同業組合 昭和13年8月20日)
四六倍版 本文848ページ 各種印刷版式使用 上製本

印刷同業者組合の内部文書などは別として、牧治三郎がはじめて本格的な著述をのこしたのは『日本印刷大観』である。
同書には広告や差し込みページが多いが、その本文848ページのうち、「印刷の起源及び発達」239ページ、28%ほどを庄司浅水が記述し、のこりの590ページ、69%ほどを「印刷界の功労者並びに組合役員名簿」として牧が記述している。

すなわち牧は、本格的な書物の舞台に初登場した38歳ほどのときから、ある意味では共著者の庄司浅水をこえて、主たる著述者であったことはあまり知られていない。
本書を執筆した際に、牧が発行元となった印刷同業組合書記に在職していたかどうかはわからない。いずれにしても『日本印刷大観』が発行された1938年(昭和13)7月に、印刷同業組合の職を離れ、印刷材料商(代理・中継ぎ販売)というちいさな店の店主となった。いつも、どこかに、韜晦トウカイのふうがみられるのが牧の特徴だった。

◎ 『京橋の印刷史』
(編集・発行 東京都印刷工業組合京橋支部五十周年事業委員会 昭和47年11月12日)
B5判 800ページ 全活字版印刷 上製本

この書物が牧治三郎の主著といえば主著といえるのかもしれない。
しかしながら本書はおよそ印刷同業組合の一支部がつくるような資料とはいえないほどの、広汎な内容とボリュームをもつ。また背文字・表紙・スリップケースに著者名も発行者名も無く、ただ書名の『京橋の印刷史』だけがポツンとしるされた書物である。その異常といえば異常な書物が『京橋の印刷史』である。

巻頭の「ごあいさつ」で、東京都印刷工業組合京橋支部支部長・荒川隆晴は以下のように述べている。
この『京橋の印刷史』を編纂刊行できましたことは、衷心より喜びにたえません。内容をお読みくださればすぐおわかりになることですが、本書は「京橋の印刷史」というよりは「日本の印刷史」と申すべきが適当な内容で、実に日本の印刷史をひもといた、見事な、立派な、かつ貴重な歴史が刊行できましたことを、委員会を代表して心から慶賀を申しあげる次第であります。

この印刷史の編纂に当たっては、四百字詰め原稿用紙三千枚の執筆のほか、貴重な資料、写真の提供などに多大なご尽力をいただいた牧治三郎氏の約一ヶ年半にわたる長期のご努力がありました。[後略]

編纂委員として名を連ねた荻野義博は――あとがき――にこうしるしている。
[前略]この印刷史を刊行する話しがあったのは、昨年(昭和46)早春の部長会であった。四月の定時総会に諮り、満場一致の賛成を得て、直ちに印刷史に実に造詣の深い牧治三郎氏にすべてお願いすることにした。

[中略]牧氏の起稿の全貌は12月にいたって大略目安がついたが、なお脱稿まで計算すると、かなり厖大になるものと予想されたので、A5判の予定をB5判に変更することになり、加えて記念式典も盛大にということになり、予算の関係で、やむを得ず企業紹介コーナーを設けて、[組合員はもとより、ひろく関連企業からの]ご協賛を仰がなければならなかった。[後略]

牧治三郎は『京橋の印刷史』の執筆依頼をうけると、1ヶ年半という短期間に、一気呵成に400字詰め原稿用紙3,000枚を書き上げた。そのため、編纂委員会では判型をA5判からB5判に、ページ数を800ページへと急遽拡大して変更せざるを得なかったことがわかる。それでも牧治三郎は紙幅が足りないと主張したそうである。
それよりなにより、編纂担当委員は大幅な予算超過となり、「広告という名の協賛金」集めに奔走せざるを得ない仕儀とあいなった。

したがって、巻末部におかれたp.693-797「印刷略年表」(扉ページにこのタイトルがのこっている)は、校正時に編纂委員会から原稿の一部の削除と減少を懇願された。妥協案として、近代印刷だけに絞って「近代印刷小史年表」にタイトルを変更され、しかも本文活字の9pt. 30字詰め 2段組ではなく、6pt.という豆粒のようなちいさなサイズにされ、6pt. 30字詰め 3段組が実施されている。
牧はおそらく内心におおきな不満があったに違いない。それが扉ページの「校正ミス」としてのこったとみている。

皮肉なことに、筆者にとっては、この巻末部の「近代印刷小史年表」がもっとも興味深く、かつ役立つ資料であることは事実である。
同書刊記(奥付)には、多くの組合役員名が麗々しく列挙されたなかに、ポツンと「著者 牧治三郎」とだけある。

◎ 「いんさつ明治百年」『日本印刷新聞』
(牧治三郎 昭和41年7月15日―昭和43年5月22日 国立国会図書館蔵)
【板倉雅宣氏資料提供】
印刷業界紙(週刊)『日本印刷新聞』の発行元・日本印刷新聞社は、その本拠地を印刷会館ビル内に置く、典型的な業界紙である。
そこに昭和41年7月15日―昭和43年5月22日まで、ほぼ毎週、全145回にわたって幕末の近代印刷創始のことから説き起こし、凸版・凹版・平版といった印刷版式の歴史と技術解説、印刷機とその関連機器の紹介、活字業界の動向、各業界の盛衰などをきめこまかくしるしている。

◎ 「活版印刷伝来考」『印刷界』
(牧治三郎 昭和41年3月号―昭和42年2月号 国立国会図書館蔵)
「活版印刷伝来考」『印刷界』――「資料で見る印刷100年――印刷文化財保存会資料より」
(牧治三郎 昭和42年5月号―昭和42年12月号 国立国会図書館蔵)
【板倉雅宣氏資料提供】
印刷業界誌『印刷界』にも、牧治三郎はしばしば執筆を重ねた。「活版印刷伝来考」は、下記の「印刷文化史年表」の先駆けをなしたものとみられ、『印刷界 148号―169号』まで、毎月5ページほどの分量で執筆をかさねたものとみられるが、昭和42年3-4月号、160―161号は保存されていない。
組版は活字版印刷で、8pt. 明朝体、横組み、25字詰め、1段46行、2段組が実施されている。すなわち牧は毎月11,500字、400字詰め原稿用紙にして25―30枚ほどを執筆していたものとみられ、相当の知識と資料の蓄積と、巧まざる筆力の持ち主であったことがわかる。

◎ 「印刷文化史年表」『印刷界』(牧治三郎 印刷界 昭和48年4月-51年10月)
[印刷図書館蔵 沼倉氏複写寄贈  2001年12月5日板倉雅宣氏目録作成]

牧治三郎「印刷文化史年表」は、業界誌『印刷界』に4年間、43回にわたって連載されたものである。同書原本の全冊揃いは早くから失われていたようで、「沼倉覚□?選資料」として、複写されたものが所蔵されている。その整理がついていなかった資料を、板倉雅宣氏が、順序を正し、全目録を作成したものが印刷図書館に所蔵されている。

なにしろありままる実物を抱えていた牧治三郎であるから、『京橋の印刷史』の口絵をふくめて、引用図版はどれも貴重な資料ではあるが、あまりこだわりがなかったのか、図版類は比較的杜撰な処理になっている。
「印刷文化史年表」もその類にもれず、図版でみせようという意識はほとんど感じられず、厖大な資料を駆使した論説を読むことになる。

正直、筆者もこの不鮮明な複写資料「印刷文化史年表」は、一部を拾い読みした程度で十分に読んだことはない。しかし板倉雅宣氏の整理を得て、目録が充実したために、最近「印刷文化史年表」を手許において、しばしば読みふけることが増えてきた。

幸せだったのか、不幸だったのかわからないが、韜晦をきめこんでいた牧治三郎には、論敵とされる人物はいなかった。ひと世代前なら、『本木昌造 平野富二 詳伝』の著者三谷幸吉(1886年3月9日-1941年8月31日)と、『活版印刷史』の著者、川田久長(1890年5月25日-1962年7月5日)とは、さまざまな論争をかさね、お互いを触発しながら、双方ともにおおきな成果をのこした。

ところが牧治三郎にはそうしたよきライバルも、支持者もすくなかった。その発表の舞台も、ふつうは目に触れることが少ない、いわゆる業界紙誌や組合年史に限られている。
いずれにしても、これから折りに触れ「印刷文化史年表」を紹介することが増えそうないまである。

◎ 『活字界』(全日本活字工業組合 1-80号 中村光男氏合本製作・保存)
第1号 昭和39年6月1日-第80号 昭和59年5月25日
活字版印刷 B4
判2丁を二つ折り 都合B5判8p 無綴じ投げ込み

簡素ながら、丁寧な活字版印刷による活字界の業界誌である。全80号の大部分を銀座・中村活字店/中村光男が広報委員長として編集にあたり、同氏による全冊綴じ込み合本が中村活字に保存されている。
牧治三郎の寄稿は「活字発祥の碑」建立関係の寄稿が多く、建立のなった暁からは、まったく寄稿していない。その次第の詳細は、本ブログロール  A Kaleidoscope Report  1-7 を参照して欲しい。

◎ 『東京の印刷組合百年史』(東京都印刷工業組合 平成3年2月25日)
2分冊を特製スリップケース入り   全上製本
論文篇:B5判872ページ 図版・資料篇:46倍判362ページ

2冊のサイズ違いの上製本が、特製スリップケースに入って配布された年史である。既述したように、本書論文篇の骨子をなす、前章-第7章までを牧治三郎が執筆している。サイズの大きな図版篇は、おもに『多摩の印刷史』の主要な著者だった桜井孝三氏が担当している。論文篇は当時牧治三郎90歳ころの読みでのある資料である。

そもそも企業組合の歴史書、すなわち企業組合年史の執筆などは、労多くして恵まれるところすくなく、ましてほとんど読者大衆の目に触れることもなく埋没するものである。
したがって「年史」の執筆などは、ほとんどの文筆家が逃げ腰になるものだが、牧は38歳のころの『日本印刷大観』にはじまり、90歳を迎えてなお、これだけの大著の骨子をなす大役を引き受けている。これがして、筆者が牧治三郎をたかく評価するゆえんであり、これからも、数少ない読み手であろうとおもう所以ユエンである。

タイポグラフィあのねのね*012 平野富二と李白 春夜宴桃李園序

活版製造所 平野富二の活字組み見本にみる
李白 春夜宴桃李園序

◎『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』の概略紹介
『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所平野富二 推定明治10年 平野ホール藏)を再再紹介してきた。これは、俗に『平野富二活字見本帳』(活版製造所 平野富二 推定明治9年 St. Bride Library蔵)、『改定 BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所平野富二 明治12年 印刷図書館蔵)とともに、冊子型活字見本帳としてはわが国最古級のものとされている。

『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所 平野富二 推定明治10年 平野ホール藏)は平野富二の旧蔵書であった。また筆跡からみて、平野富二の自筆とみられる書き込みが、一部に鉛筆によってしるされている。本書は平野富二の逝去後も、東京築地活版製造所に隣接した平野家に保存されていたが、1923年(大正12)関東大地震の火災に際して消火の水をかぶったため、表紙を中心に損傷がみられる。しかしながら貴重書として、平野家歴代にわたってよく保存され、こんにちなおその資料性を失っていない。

巻頭第Ⅰにみる木版画による本社社屋。

巻頭第Ⅱにみる小扉。円弧に沿って活字組版をするのは
相当の技倆を必要とする。

巻頭第Ⅲにみる本扉。たくさんの種類の活字をもちいた、多色刷り
となっており、4-6度刷り作業をおこなったとみられる。

第1ページにみる「第初號」[明朝体活字]
これは鋳造活字ではなく、木活字とみられている。

最終丁にみる刊記。住所と「活版製造所 平野富二」とある

◎『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』の造本仕様紹介

本文仕様    天地228mm×左右168mm(各ページに若干の異同有り)
輸入紙とみられる厚手の非塗工紙に片面刷り。
基本的にスミ1色刷り。扉・装飾罫ページには特色使用。
本文112丁 キリ状のもので2-4穴をあけ糸を通して綴ったものとみられ
る。穴の痕跡は明確に残るが、糸は存在しない。
最終ページに装飾枠に飾られた刊記あり。
「東京築地二丁目二十番地 活版製造所 平野富二」

装本仕様      損傷が激しく、推定部分が多いことを事前にお断りしたい。
装本材料、本文用紙などは輸入品とみられる。
芯ボール紙に代え、薄い木材片を表紙芯材として、表紙1-4に使用。
芯が木材とはいえ、皮をまいた、本格的な皮装洋装本仕立てである。
表紙1-2 オモテ表紙には、小扉ページと同様な絵柄が、空押し
もしくは、箔押しされたとみられるが、箔の痕跡はみられない。
BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO が楕円形で組まれ、
その中央に《丸に も》形のマークが月桂冠の装飾によっておかれ、
その中央にブラック・レターのHがある。最下部に、住所標記として
「Tsukiji Tokio. Japan」がある。
表紙3-4 ウラ表紙には、文字活字が印刷もしくは型押しされた痕跡は無い。
背にあたる部分は存在しない。

また、俗に『活字見本帳』(活版製造所平野富二 推定明治9年  St. Bride Library蔵)とされる活字見本帳は、10年ほど前までは英国St. Bride Libraryにあり、表紙の撮影だけが許されていた。しかし近年大勢出かけている留学生や旅行者の報告では、「収蔵書が多すぎて整理が追いつかなく、同書は収納場所がわからないので閲覧をお断りする」との回答が報告されている。St. Bride Libraryにはさまざまな経済的な荒波が襲ったと仄聞するが、その一刻も早い公開が待たれるところである。

『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所平野富二 推定明治10年 平野ホール藏)は、平野富二の曾孫にあたる平野正一氏が、関東大震災当時、平野家土蔵に収蔵されていて被害がなかった、膨大な平野富二関連資料(書画・証書・表彰状類が多い)の山を整理されたおり、その一隅から偶然、損傷の激しい本書を発見されて、公開されたものである。それを長らく小生が拝借してきたが、そろそろ平野家にお返ししないと、いくらなんでも心苦しい時期になってきた。それよりなにより、平野家から、本書の影印複製本の作成を許諾されているのに、いまだに図書販売環境にとらわれて、その刊行ができないでいることもあわせて心苦しいのだ。

◎東京本格進出5年後、32歳の平野富二の挑戦
『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』は、長崎のひと、若干27歳の平野富二が、六海商社ないしは五代友厚に「平野富二首証文」(嫡孫・平野義太郎記述、本ブログロール A Kaleidoscope Report 001-7 までを参照)を提出し、それを担保として創業資金を借財し、1872年(明治5)7月に「神田佐久間町三丁目の門長屋」(現在の秋葉原駅前・和泉公園の前あたりと推定される)に鋳造活字製造工場を設け、翌1873年(明治6)築地二丁目二十番地に煉瓦造りの工場を新築し、活字の鋳造ならびに関連機器の製造販売、すなわち、のちの東京築地活版製造所を創業したことに端を発する。

平野富二が築地川沿い、万年橋東角のこの地を、活字版印刷術関連機器製造販売、ならびに活字鋳造販売の本格展開の場所に選んだのは、これまで見落とされていた事実があったことが、『活字界』の連載を調査するなかから浮かび上がってきた(本ブログロール A Kaleidoscope Report 001-7 までを参照)。
すなわち1872年(明治5)2月26日、銀座・築地・日本橋周辺において大火災が発生し、折からの強風もあって、旧京橋区・旧日本橋区一帯が焼亡した。政府は同年7月布告を発して、この地区に再建される建築物を、できるだけ新技術で、耐火性にすぐれた、煉瓦造りにするように命じた。また同時に、東京・渋谷に火災の被害にあった墓地の移築を命じた。これが青山墓地のおこりとなり、さらに同年11月28日、雑司ヶ谷と駒込にも大型墓地を設けて、移築をなかば強制した。
この結果、築地本願寺は大きく敷地を削られ、付属する墓地のない現在の姿となった。また京橋区・日本橋区、すなわち現在の中央区には、墓地はもちろん、社寺地がいちじるしく減少して、一大町人地となった。それがして、こんにちの銀座一帯のきわめて繁華な商業地をもたらすおおきな原因となった。

すなわち、1873年(明治6)、28歳の青年・平野富二は、焼亡した広大な敷地のなかから、もっとも水運に恵まれた、築地二丁目二十番地、万年橋東角に、耐火性をおもんぱかって煉瓦造りの工場を新築し、活字版印刷術関連機器製造販売、ならびに活字鋳造販売、すなわちのちの東京築地活版製造所を創業したことになる。

さらに興味深い事実を指摘しておこう。平野富二が最初の拠点とした「神田佐久間町三丁目の門長屋」(現在の秋葉原駅前・和泉公園の前あたりと推定される)のすぐ裏には総武線の線路が走るが、かつてここには江戸城の外堀をなした運河があった。江戸末期の古地図(江戸切り絵図)を調べると、同所から、築地二丁目二十番地の前を流れていた築地川(現在は高速道路として利用)までは、相当な規模の舟が運航できたものと見られる。
活字の製造設備をはじめ、印刷・組版関連機器、活字などの重量はそうとうなものとなる。神田から築地への比較的近距離への移転とはいえ、自動車や起重機などの陸上交通機関が未発達なこの頃、同社の移転はもとより、その後の隆盛に向けて、水運の利便性は極めて重視されたことが想像される。

ところが、『活字界21号』(編集・発行 全日本活字工業会 昭和46年5月20日)で牧治三郎は、平野富二が求めたこの土地を以下のように紹介し、やがて野村宗十郎社長時代にこの地に1923年(大正12)に新築された本社ビルが、移転の当日に関東大震災に襲われただけでなく、方位学からみると「呪われたビル」であるとした。
《移転当時の築地界隈》
平野富二氏が買い求めたこの土地の屋敷跡は、江戸切り絵図によれば、神田淡路守の子、秋田筑前守(五千石)の中奥御小姓屋敷の跡地で、徳川幕府瓦解のとき、此の屋敷で多くの武士が切腹した因縁の地で、あるじ無き門戸は傾き、草ぼうぼうと生い茂って、近所には住宅もなく、西本願寺[築地本願寺]を中心として、末派の寺と墓地のみで、夜など追いはぎが出て、ひとり歩きができなかった。

しかしながら碩学の牧治三郎も、1872年(明治5)2月26日、銀座・築地・日本橋周辺に大火災が発生していた事実を見落としたようである。この大火後、前述のように墓地はもとより、社寺地は大きく減少している。また『実測東京全図』(地理局 明治11年)をみても、現在の中央区の区画は、関東大震災の復旧に際して設けられた昭和通りをのぞくと、ほぼ現在の区画に近い。すなわち、この周辺にはすでに江戸切り絵図の姿とは異なり、寺や墓地はなかったはずである。

もともと鋳物士(俗にイモジ)・鋳造業者とは、奈良朝からのふるい歴史をゆうする特殊技芸者であり、いわば験ゲン担ぎの職能人ともいえた。その系譜を継承した活字鋳造業者も、火を神としてあがめ、火の厄災を恐れ、不浄を忌み、火伏せの神・金屋子カナヤコ神を祭神とするきわめて異能な集団であったことは報告(A Kaleidoscope Report 002)した。
平野富二と初期東京築地活版製造所の面々も、陽の力、すなわち太陽がもっとも低くなる冬至に際し、「鞴フイゴ祭、蹈鞴タタラ祭」を催し、強い火勢をもって祭神に「一陽来復」を願っていた。したがって、かれらは猛火の火によって十分に除霊されたこの地を、機械製造や活字鋳造に最適な場所として選んだとみてよいであろう。

同社の創業当時の社名は様々に呼び、呼ばれていたようである。本書口絵に相当する板目木版画には、右端にちいさな看板が紹介されているが、そこには「長崎新塾出張活版製造所」とある。かれらは東京進出後もながらく、「長崎の新街私塾[長崎新塾]が、東京に出張して開設した活字版製造所」という意識があったものとみられる。このように、同社は設立当初から、廃業に追い込まれる1838年(昭和13)の直前まで、長崎系人脈と長崎系資本との密接な関係がみられた。そしてその人脈と金脈が枯渇したとき、同社は巨木が倒れるようにドウと倒れたとみてよいだろう。

また同書巻末の刊記には「東京京橋二丁目二十番地活版製造所 平野富二」とあるが、発行日は記載されていない。同書が推定明治10年版とされるのは、紹介されたカレンダーの年号からと、本書の改訂版が明治12年に発行されているためである。いずれにしてもこの時代は、平野活版所ないしは平野活版製造所、あるいは単に活版所と呼ばれることが多かったようである。

そろそろ平野家にお返しする(つもりだ)から、名残り惜しくて、しばしば『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』を開いてはため息をつく。その都度、いまでもあらたな発見がある。紹介された印刷関連機器、さりげなく置かれた装飾罫、欧文活字の招来先、印刷されていない込め物の分割法、そして活字書風などである。
そもそもこの時代には、まだ「明朝体」をふくめて活字に定まった名称はなかった。『本木昌造伝』島屋政一の報告では、「長崎活字・平野活字・崎陽活字・近代活字」などとさまざまに呼ばれていたようである。活字の書体名として「明朝風」ということばがはじめて登場するのは、1875年(明治8)本木昌造の逝去を報じた、福地櫻痴筆とみられる『東京日日新聞』「雑報」が最初であることは報告した。

『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』では、漢字活字、和字活字(ひら仮名・カタ仮名)、欧字活字(欧文)は明瞭に切り分けられて紹介されている。むしろ現在のデジタル・タイプの環境下のように、明確な根拠もなく普遍化? した「漢字書体に随伴する仮名書体」、「従属欧文」という考え方などよりも、ある面では明確かつ明快といえるかもしれない。
『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』の漢字活字の文例は、よく知られた『李白 春夜宴桃李園 序』が、すべての漢字活字書体および漢字活字サイズの紹介に使用されている。
漢文紹介とその読み下しには、異本紹介や、異論がつきものだが、ここではいちおう、はるかな昔、漢文の教師(古ッ)が抑揚たっぷり、朗々と吟じた名調子を思いだしながら紹介したい。
そこで思いだしたことがひとつ。この李白を引いたとされる松尾芭蕉『奥の細道』を指導した古文の教師(古ッ)は、過客をカ-キャクというか、むしろ明けガラスの鳴き声のように「クヮ-キャク」と読んでいた。漢文の教師は故事成句にならって「カカク」といっていた。それをどこにでもいる勘違い男が、どちらの教師にか忘れたが、「クヮキャク」と「カカク」の違いに関して余計な質問をして食い下がっていた。そんなものは自分で辞書でも調べろ、とおもって鼻をほじっていたが、いまもってどうでもいい気がしないでもない。

第5ページにみる「第3号」[明朝体活字]。第3号からは
李白『春夜宴桃李園 序』が全文にわたって紹介されている。

長崎造船所出身の平野富二は、造船と機械製造にすぐれた手腕を発揮した。
ともすると東京築地活版製造所は
活字を中心に語られるが、はやくも1873年(明治6)
6月には、同社は上図のような、英国製を摸倣した国産機、アルビオン型手引式活字版
印刷機を製造・販売していたことが、諸記録からあきらかになっている。したがって
『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所平野富二 推定明治
10年 平野ホール藏)は、上図のような国産印刷機で印刷したものとみなされる。

◎盛唐の詩人・李白(701-62年)の序文『春夜宴桃李園 序』
「春の夜に、桃李トウ-リ、モモ-ヤ-スモモの園にて 宴ウタゲをする の 序」

◎ 江戸の俳人・松尾芭蕉(1644-94年)『奥の細道』
「月日は百代の過客カカクにして、行きかう年トシもまた旅人なり。舟の上に生涯をうかべ 馬の口をとらえて老オイを迎える者は、日々旅にして旅を栖スミカとす」

*     *     *

夫天地者萬物之逆旅     夫れ 天地は 萬物の逆旅ゲキリョ、タビ-ノーヤドにして
光陰者百代之過客      光陰は百代の 過客カカク、トオリスギシ-ヒト、タビビトなり
而浮生若夢      而して 浮生フセイ、ウキヨは 夢の若し
爲歡幾何          歓ヨロコビを為すこと 幾何イクバクぞ
古人秉燭夜遊     古人は 燭を秉トり 夜に遊ぶ
良有以也       良マコトに 以ユエ有る也ナリ
況陽春召我以煙景   況イワんや陽春の我を召すに 煙景エンケイを以てし
大塊假我以文章          大塊タイカイの我を仮すに 文章を以てする
會桃李之芳園     桃李トウリの芳園ホウエンに会し
序天倫之樂事     天倫テンリンの楽事ラクジを序す
群季俊秀       群季グン-キ、ムレヲナスの俊秀シュンシュウは
皆爲惠連       皆惠連ミナ-ケイ-レンたり
吾人詠歌       吾人ゴジン、ワレワレの 詠歌は
獨慚康樂       独り康樂コウガクに 慚ハじる
幽賞未已       幽賞 未だ 已ヤまざるに
高談轉清       高談 転たウタタ、ツギツギ-ト 清し
開瓊筵以坐花     瓊筵ケイエン、ブンガ-ナ席を開いて 以て花に坐し
飛羽觴而醉月     羽觴ウショウ、サカヅキを飛ばして 月に酔う
不有佳作       佳作有らずんば
何伸雅懷       何ぞ雅懷ガカイ、フウガナ-ココロを伸べん
如詩不成       如しモシ 詩成らずんば
罰依金谷酒數     罰は 金谷キンコクの酒の数に 依らん

花こよみ 014

詩のこころ無き吾が身なれば、折りに触れ、
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。

 海 の 入 り 日

浜の真砂マサゴに 文フミかけば
また波が来て 消しゆきぬ
あわれ はるばる わが思い
遠き岬に 入り日する

                                 木下杢太郎(キノシタモクタロウ 1885-1945)