A Kaleidoscope Report 001 活字発祥の碑 問題提起

『 活 字 発 祥 の 碑 』
( 全日本活字工業会 活字発祥の碑建設委員会 昭和46年6月29日 )

『 活字発祥の碑 』 パンフレット表紙

活字発祥の碑 案内図

「活字発祥の碑」。
コンワビル晴海通り側、排気筒の傍らにひっそりと佇む。

旧築地川をはさんだ遠景。 右より松竹ビル、コンワビル、電通テックビル。
コンワビルがほぼ東京築地活版製造所の跡地。
電通テックビルのあたりに、関東大地震まで平野家があった。
隣接して元駐英ロンドン公使 ・ 元老院議員/上野景範(ウエノ カゲノリ 1845-88)家があった。
ここはまた、上野の義兄 ・ 神﨑正誼による弘道軒清朝活字誕生の地でもあった。

かつての築地川は埋め立てられ地下を高速道路がはしり、地上は小公園になっているが、
日比谷通りの交差点には今も  「  万年橋東 」  の標識がのこる。

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 東京 ・ 築地にちいさな石碑がある。 称して 「 活字発祥の碑 」 である。 このあたりがわが国の近代タイポグラフィが発祥した場所であることを記念するちいさな碑である。 所在地は東京都中央区築地1-12-22。 懇話会館ビルの傍らにひっそりと鎮まっている。 この地と、「 活字発祥の碑 」 は、タイポグラフィの実践者、研究者ならぜひとも訪れ、活字と書物の来し方、行く末におもいを馳せていただきたいものである。 碑面には以下のようにしるされている。

活 字 発 祥 の 碑

明治六年(一八七三)平野富二がここに
長崎新塾出張活版製造所を興し
後に株式会社東京築地活版製造所と改稱
日本の印刷文化の源泉となった


『 BOOK  OF  SPECIMENS  MOTOGI  &  HIRANO 』
( 俗称/平野活版所明治10年版活字見本帳 )。
築地に開設された平野活版所の木版画。
看板に長崎系の出自を現す 「 長崎新塾出張活版製造所 」 とある。
木版印刷物を版下とした石版印刷とみられる。

1903年(明治36)ころの東京築地活版製造所の威容。
銅版印刷物を版下とした石版印刷とみられる。
当時は重量のある印刷機器や活字の運搬には水運を用いることが多かった。

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1873年 ( 明治6 ) 青雲の志を抱いて、平野富二  ( 1846―92 )  がこの地に 「 長崎新塾出張活版製造所 」 を設立した。平野富二このとき26歳。 当時の住所表示では 「 東京築地2丁目万年橋東角20番地 」 にあたる。 このあたりは、明治5年、銀座から築地一帯をおそった大火により一面の焼け野原であった場所であった。 草創期の素朴な建物は神田佐久間町の味噌蔵を 《 耐火煉瓦で改装した建物 》  であったが、増築をかさねられた。

やがて事業の安定をみた平野富二は、次第に活字製造 ・ 販売を、膝下の長崎 ・ 新街私塾系の人脈に任せて、自らの軸足を1876年 ( 明治9 ) から、念願の造船 ・ 重機製造において 「 石川島平野造船所 」 を設立した。 この企業は改組 ・ 改称を繰り返し、現在は株式会社 I H I として造船 ・ 重機界の巨大企業となっている。 いっぽう 「 平 野活版所 」  も改組 ・ 改称を繰り返しながら 「 東京築地活版製造所 」 として発展した。 そして明治36年ころともなると、威容を誇る大工場に成長した。

東京築地活版製造所においては、明治6年の創業から、1938年 ( 昭和13 ) の解散の直前にいたるまで、長崎の本木昌造系人脈、なかんずく長崎新街私塾の教授陣とその元塾生が代表を勤めていた。 すなわち東京築地活版製造所では、開祖の本木昌造は 「 翁 」 と称され、平野富二は 先生 と呼ばれていた。また、従業員であっても、長崎 ・ 新街私塾出身者は 塾生 と呼ばれていた。そして東京で雇用をみたものは、従業員でも職人で もなく、 生徒  と呼ばれていた ( 島屋政一 『本木昌造伝』 )。

つまり兄弟企業の 「 大阪活版製造所 」 と同様に、この企業は人脈 ( 新街私塾 ・ 新町活版製造所 )、 金脈 ( 長崎銅座の旦那衆 ・ 六海社 ・ 長崎十八銀行、元薩摩藩士で長崎遊学が長かった関西の豪商 ・ 五代友厚 ) ともに、 最初に平野富二が看板に掲げた商号 「 長崎新塾出張活版製造所 」 があらわすように、 「 長崎の新街私塾と新町活版製造所から、東京の築地に出張してきている、活字版印刷関連機器製造販売と 活字鋳造製造販売の企業 」、すなわち 「 東京築地活版製造所 」 という 「 意識 」 が色濃くみられた ( 平野義太郎 『 活字界31,34』 )。

それだけでなく、両社ともに終幕を迎えた折りは、多くの企業のように汚点をのこしがちな、いわゆる倒産や破産ではなく、「 解散 」 によって見事に清算されて、歴史に汚点を残すことがなかった。 当然そこには、長崎十八銀行が人材 ・ 資金ともに支援にあたり、敏速かつ徹底的な清算にあたったことはいうまでもない ( 『長崎十八銀行百年史』 )。  すなわち最初から最後まで、なにかと長崎に依存することが多かった、いささか特異な企業として記録されている。

東京築地活版製造所の代表者を列挙すると、長崎にうまれ育った設立者の平野富二に続き、病弱で終生平野の支援を受けた、本木昌造の長男 ・ 新街私塾出身/本木小太郎 (1857-1910)、 新街私塾出身/曲田 成 (マガタ  シゲリ 1846―94)、 新街私塾教授・大審院院長・貴族院議員/名村泰三 (ナムラ  タイゾウ 1840―1907)、 新街私塾出身・大蔵省銀行局出身/野村宗十郎 (1857―1925 )、 長崎第十八銀行頭取と東京築地活版製造所代表を兼任/松田精一にまで及ぶ。

この長崎系人脈が絶えたあと、同社は東京市電気局長の大道良太を社長に迎え、ついで宮内省関係出身の阪東長康を専務に迎えたが、経営は不振を極め、1938年 ( 昭和13 ) 3月17日、臨時株主総会において一挙に解散廃業を決議して、土地建物は債権者の勧業銀行から、懇話会館に売却された。 この株式会社懇話会という、いっぷう変わった名の企業も、広島に悲しい残骸をさらしている 「 原爆ドーム 」 とともに いずれ紹介したい。

この石碑の建立がなったのは1971年 ( 昭和46 ) 6月29日のこと。その披露にあたって配布された小冊子が  『 活字発祥の碑 』 ( B5判  針金中綴じ 28ページ 非売品 ) である。

巻末の会員名簿によれば、主唱団体だった全日本活字工業会の当時の会員は、北海道支部4社、東部支部51社、中部支部14社、西部支部9社、九州支部8社、都合86社を数えていた。 しかしながらほぼ40年後のこんにち、全日本活字工業会の会員の多くはオフセット平版印刷材料商などに転廃業しており、2010年 ( 平成22 ) 現在も活字鋳造を継続実施している業者は、わずかに6社を数えるのみという淋しさである。 皮肉なことに、むしろこの名簿に記載されていない、比較的小規模だった非組合員の活字鋳造所のほうが、現在もたくさん操業している。

「 活字発祥の碑 」 は小さくて簡素な碑ではあるが、そこにはじつにさまざまなドラマが秘められている。  それをそのまま歴史の大海の中に放置し、風化に任せるのは心許ないものがある。  また、タイポグラフィの歴史の空白がどんどん拡大して、活字印象論や活字美醜論だけが大手をふるって語られている現状を寂しくおもう。

この碑の建立には、全日本活字工業会、東京活字協同組合、印刷工業会、全日本印刷工業組合連合会、東京都印刷工業組合など、1970年代初頭の印刷 ・ 活字界の有力団体と企業が総力をあげて資金を拠出し、建立に尽力している。  しかしながら、ここにはすでに発起人にも協賛団体としても 活字母型工業会の名前は無く、わずかに東京母型工業会が拠金にあたって名をのこしている。  それは活字母型製造界の雄とされた 株式会社岩田母型製造所が、すでに1968年に倒産しており、この時代にはもはや活字母型製造界が活力を失っていたことが大きい。 すなわち 『 活字発祥の碑 』 の建立がなった1971年 ( 昭和46 ) とは、すでに活字母型製造業は凋落し、その発注者であった金属活字製造社とその関連業界にもあきらかな翳りが見え、オフセット平版印刷の隆盛がはじまっていたのである。

ここで1960年 ( 昭和35 ) 当時の全国活字工業会の主要メンバーを紹介する。 これらの同業組合の役員とは、多分に1-3年ごとに持ち回り制のところがみられるが、ある程度はこの時代の活字関連業者の主要メンバーを知ることができる。

○ 会  長  古賀和佐雄
千代田活字有限会社 東京都千代田区神田猿楽町1-5
○ 副会長 ・ 東部支部長 吉田市郎
株式会社晃文堂 東京都千代田区神田鍛冶町2-18
○ 副会長 ・ 中部支部長 津田太郎
株式会社津田三省堂 名古屋市中区矢場町1-35
○ 副会長  古門正夫
株式会社モトヤ 大阪市南区塩町通1-14
○ 西部支部長  奥田福太郎
日本活字工業株式会社 大阪市北区真砂町43
○ 北海道支部長  林下忠三
北海道印刷資材株式会社 札幌市大通り西1丁目16
○ 九州支部長  島田栄八
合資会社南陽堂商店 北九州市門司区大阪町2-4-2

また 『 活字発祥の碑 』 発行所としてしるされた、全日本活字工業会/東京活字協同組合の合同事務局は、東京都千代田区三崎町3-4-9 宮崎ビル にあった。 そこには12-3年ほど前までは非常勤ながら職員がいて、毎週水曜日には開館していたが、これまた現在は閉鎖されて事務局自体が存在しない。 それだけでなく、「 活字発祥の碑建設委員会 」 に名を連ねた15名のほとんどが鬼籍に入り、わずかに吉田市郎氏と中村光男氏だけが健在という、ぎりぎりの状況にある。 すなわちいまは 「 活字発祥の碑 」 と、その記録書 『 活字発祥の碑 』 だけがわずかにのこっているという状態である。

『 活字発祥の碑 』
発 起 人           全日本活字工業会   東京活字協同組合
協   賛         印刷工業会 全日本印刷工業組合連合会 東京都印刷工業組合
土地所有者     株式会社懇話会館
所 在 地        東京都中央区築地2丁目13番地
( 旧東京築地活版製造所跡 )
設 計 者        国方秀男氏 ( 日総建 )
銘板レイアウト     大谷四郎氏 ( 大谷デザイン )
銘板之製作     菊川工業株式会社
石       材     宮本石材店

《 収録内容 》
◎ 活字発祥の碑建設にあたり ―― 渡辺宗助 ( 株式会社民友社活版製造所 )
全日本活字工業会会長/活字発祥の碑建設委員会委員長
◎ 活字発祥の碑建立に当たりて ―― 山崎善雄 ( 株式会社懇話会代表取締役 )
◎ 心の支えとして ―― 松田友良 ( 株式会社松田 )
◎ 東京築地活版製造所の歩み ―― 牧治三郎
◎ 東京日日新聞と築地活版――古川 恒  ( 毎日新聞社 )
◎ 活字発祥の碑建設のいきさつ ―― 活字発祥の碑建設委員会
◎ 建設基金協力者御芳名
◎ 全日本活字工業会 会員名簿

わが国の活字鋳造に関する記念碑としては、 戦前から、長崎 ・ 諏訪公園、 大阪 ・ 四天王寺境内に本木昌造の銅像があった。  ところが関東にはなんらこうした活字関連の記念碑が無く、その建立が再々提起されていたが、議論百出、実現をみないままに終わっていた。 その議論の主要な争点は、「本木昌造 ・ 平野富二らの長崎系の活字鋳造より先んじて、ほかにも活字鋳造を実施した者がおり、東京築地活版製造所系だけの顕彰には問題がある 」 とするグループが存在したためであるとされる。 それに対して 「 先行事例は認めるが、活字鋳造と活字版印刷の量産と、工業化に成功したのは、平野富二と東京築地活版製造所である 」 とするグループ間の論争がもとになっていたとされる。

ところが 『 活字界 』 ( 21号―1966年5月、 22号―1966年7月、 全日本活字工業組合 ) に掲載された、B5判2ページずつ、都合2回、計4ページの きわめて短い連載記事 「 旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し 」 ( 牧治三郎 ) が、活字業界にとてつもなく大きな衝撃を与え、この余震は印刷界にまで及んだ。

この時代の全国活字工業組合の広報委員長は中村光男氏 ( 株式会社中村活字店社長 1926― 。  84歳) であった。  中村光男氏は牧の原稿をみて 驚愕するというより、むしろ震えあがり、直ちに ( 『活字界』 22号の発行前に ) 迅速に行動した。 そしてその結果を 6月27日開催の東京活字協同組合理事会に 「 コト は急を要する緊急課題だ 」 として問題提起した。 東京活字協同組合理事会では 「活字発祥の碑 」 建立が、このときばかりは嫌も応もなく即決された。  したがっ て 『 活字界 』  ( 22号―1966年7月20日発行 ) には、牧治三郎の連載記事 「 旧東京築地活版製造所  社屋の取り壊し 」 とあわせて、その下部の広告欄を潰す形で、 「 旧東京築地活版製造所その後 」 ( 中村光男 ) が同一ページに緊急掲載されているので紹介しよう。



旧東京築地活版製造所その後
東京活字協同組合では  6月27日開催の理事会で 「 旧東京築地活版製造所跡に記念碑を建設する件 」 について協議した。 旧東京築地活版製造所跡の記念碑建設については 本誌 『 活字界 』 に牧治三郎氏が取壊し記事を掲載したことが発端となり、牧氏と同建物跡に建設される懇話会館の八十島社長との間で話し合いが行なわれ、八十島社長より好意ある返事を受けることができた。
この日の理事会はこうした記念碑建設の動きを背景に協議を重ねた結果、今後は全日本活字工業会および東京活字協同組合が中心となって、印刷業界と歩調を併せ、記念碑建設の方向で具体策を進めていくことを確認。 この旨全印工連、日印工、東印工組、東印工へ文書で申し入れることとなった。

牧治三郎が何を指摘したのか、 詳細は次回のこのレポートで報告したい。  牧は B5判4ページの連載の最後にこうしるした。  「 以上が由緒ある東京築地活版製造所社歴の概略である。 叶えられるなら、同社の活字開拓の功績を、棒杭で [ も ] よいから、懇話会館新ビルの片すみに、記念碑建立を懇請してはどうだろうか。 これには活字業界ばかりでなく、印刷業界の方々にも運動 [ への ] 参加を願うのもよいと思う 」。

1960年代の東京活字協同組合の重鎮は、 瓢箪のマークで知られる千代田活字製造株式会社 ・ 古賀和佐雄であり、 中堅としては欧文活字で盛名を馳せた 株式会社晃文堂 ・ 吉田市郎氏と、 株式会社民友社活版製造所 ・ 渡辺宗助であった。 そして若手の活動家に中村光男氏がいた。 中村光男氏は銀座 ( 木挽町 )の 株式会社中村活字店の社主であり、現在の中村明久社長の叔父にあたる人物である。  『 活字発祥の碑 』 を理解するために、まず、この3人の記録を追ってみよう。

古賀和佐雄――
1898年 ( 明治31 ) 3月10日―1979年 ( 昭和54 ) 8月5日
佐賀県小城郡大字柿樋瀬315番地の富農の家に、父 ・ 徳市、母 ・ トラの三男として誕生。  中央大学経済学部卒業からまもなく、1922年 ( 大正11 ) 東京神田蝋燭町に千代田印刷材料社を創立。  凸版印刷株式会社と提携して、旧満州 ( 中国東北部 ) に大々的に進出したものの  敗戦により撤収。 1946年 ( 昭和21 ) 千代田印刷機械製造株式会社に改組 ・ 改称。  1950年( 昭和25 ) 同社立川工場から活字鋳造部門を千代田区猿楽町に移転。 罫線 ・ 活字母型製造 ・ 鈑金 ・ 活版木工の総合工房とする。 のちに瓢箪マークで知られる 千代田活字株式会社がこれである。 この頃より活字ケース ( ウマ棚 ) のスチール製 ・ レール多段式などを開発。  古賀和佐雄の没後、 同社は小森コーポレーションの一部として吸収された。

吉田市郎――
1921年 ( 大正10 ) ― 。 90歳
新潟県柏崎市うまれ。  名古屋高等商業 ( 現 ・ 名古屋大学経済学部 ) 卒。 三井商事を経て、株式会社晃文堂社長、株式会社リョービイマジクス社長。 現在同社顧問。 1970年代からの吉田氏は、リョービ ・ グループに参入して、 リョービ印刷機販売株式会社 ( 現リョービイマジクス )  を設立して、徐々に活字版印刷関連業界から、オフセット平版印刷業界に軸足を移していた。 それでも活字工業会会員としては、古賀和佐雄、民友社 ・ 渡辺宗助とともに積極的に活動していた。 「活字発祥の碑 」 銘板レイアウトに大谷四郎 ( 大谷デザイン ) を起用したのは吉田市郎であるが、碑文の文章でも喧々諤々の議論あり、またできあがった碑面の書体が いわゆるレタリング調で、一部の会員からは東京築地活版製造所明朝体独特の、気迫と格調が無いとして不評をかったと苦笑する。  また東京活字工業組合では、現在地ではなく、「 もう少し方角の違う場所に建立したかったのだが、それは懇話会館ビルの設計変更が必要だったので、現在地に決まった 」 とだけ述べている。

中村光男――
1926年3月11日―  。 84歳
1910年 ( 明治43 ) 初代 ・ 中村貞二郎が、京橋区木挽町1丁目 ( 現 ・ 中央区銀座2丁目13番地7 ) において、活字母型と活字の取扱店 「 中村活字店 」 を創業。 中村貞二郎には4人の男子、長男 ・ 貞吉 ( 1908年1月31日― 。 102歳 )、 次男 ・ 國次郎 ( 1916年3月18日ー1992年6月4日 )、 三男 ・ 光男氏 ( 1926年3月11日― 。 84歳)、四男 ・ 和男氏があり、貞吉から光男氏までが 順次 「 中村活字店 」 の代表をつとめた。 第4代 ・ 中村光男氏は、古賀和佐雄、吉田市郎氏らが第一線をひいたのちの 全日本活字工業会/東京活字協同組合を、野見山芳久 ( 株式会社錦精社 千代田区神田錦町3-15 )、後藤 孝 ( 株式会社後藤活字製造所 港区西新橋3-14-1 ) らとともに 逆風の中で良く牽引した。  また中村光男氏は 全日本活字工業組合の広報委員長として、また機関誌 『 活字界 』 40号までの10年間を編集長として尽力した。その間、牧治三郎の記述 ( 提言 ) をうけ、率先して 「 活字発祥の碑 」 建立にあたった。 なお現在株式会社中村活字店は 創業100年を誇るが、社長/第5代 ・ 中村明久氏の父は 第3代 ・ 國次郎であり、 第4代 ・ 中村光男氏は叔父にあたる。

中村光男氏と 『 活字界 』、 そして牧治三郎 「 旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し 」 に触れるのは別稿を得たい。 冒頭で 「 活字発祥の碑 」に は秘められた、おおきなドラマがある……としるした。 たしかにこの碑に関しては比較的資料が多い。 しかしながら資料がすべてをかたるわけではない。 むしろ、その資料の行間に秘められ、隠された事実をひとつひとつ洗い出していく努力が必要であろう。

筆者はかつて吉田市郎氏がフト漏らした 「 あの碑は、本当はもう少し方角の違う場所に建立したかったのだが、それは懇話会館ビルの設計変更が必要だったので、現在地に決まった 」 とする言を、 [ たしかに排気筒の近くであるし、また路地深くに入ったところであるから……]、 程度に軽くとらえていた。 つまり、中村光男氏がのこした記録の行間に、秘められた物語があることに気づいたのはつい最近のことである。 そのため、筆者もすこし時間をかけて、行間を埋める努力をしなければならない。

ここでは、まず 『 活字発祥の碑 』 に掲載された 興味深い論考をひとつ紹介したい。 執筆者は古川恒である。 古川は日報社 『 東京日日新聞 』 と、東京築地活版製造所の長い取引を紹介している。 『 東京日日新聞 』 は1872年 ( 明治5 ) 2月21日、 條野傳平、 西田傳助、 落合幾次郎が日報社を設けて創刊した 東京最初の日刊紙であり、その後改組 ・ 改称を重ねて現在の 『 毎日新聞社 』 となっている。 当初は浅草茅町 ( 現浅草橋近辺 ) の條野の居宅から発刊したが、 2年後 銀座 ( 現 ・ 銀座五丁目 ニューメルサビルのあたり ) に社屋を建てて進出した。 最初は雑報入りの 「 新聞錦絵 」 が東京土産として話題を呼んだ。 1873年 岸田吟香が入社し、平易な口語体の雑報欄が受けて大衆紙として定着した。 また1874年入社とともに主筆に就任した福地源一郎 ( 櫻痴 ) が社説を創設してから 紙面を一新して、政府擁護の論陣を張る 「 御用新聞 」 となり、自由民権派の政論新聞と対抗した。 櫻痴 ( 福地櫻痴 ) の社説、 吟香の雑報、 それに成島柳北の雑録が 『 東京日日新聞 』 の三大名物と謳われた。

『 東京日日新聞 』 と 『 毎日新聞 』 の題号の変遷についても略記したい。
・1872年3月29日 ( 明治5 ) 『 東京日日新聞 』 東京浅草の日報社から創刊。
・1876年                                  『日本立憲政党新聞 』 大阪で創刊。
・1885年             『 大阪日報 』 と改題。
・1888年              『 大阪毎日新聞 』 と改題。
・1911年                                 大阪毎日新聞社が日報社を合併。
・1943年1月1日                   東西で異なっていた題号を 『 毎日新聞 』 として統一した。

『 東京日日新聞 』 と東京築地活版製造所、活版製造所弘道軒の地理関係も簡単に紹介したい。 銀座5丁目の日報社 『 東京日日新聞 』 から 「 東京築地2丁目万年橋東角20番地 」、現 ・ 懇話会館ビルのあたりの 東京築地活版製造所 までは、徒歩7分ほどで到着できる。 また活版製造所 弘道軒 は 「 京橋区南鍋町二丁目一番地 」 ( 現 ・ 銀座鈴之屋呉服店のあたり) とは、ほぼ棟を接する至近距離にあった。

古川に関しては略歴を紹介できる。 しかしここのところ困惑しているのは、『 京橋の印刷史 』 の主著者であり、この碑の建立にも深く関わった牧治三郎の経歴がまったくわからないことである。 筆者は晩年の牧の謦咳に接し 「 戦前は印刷同業組合の書記を永らく勤めた 」 「 もうじき百歳になる。 そうしたらお迎えがくる 」 とは聞いていたが、うっかり牧の経歴調査をおこたってきた。 どなたか ご存知のかたがおられたらぜひともご教授願いたい。

古川 恒 ―― ふるかわ ひさし  1910―86年。享年76。
昭和2年6月16日 『 東京日日新聞 』 入社。 印刷局、活版部副部長、企画調査局第一部長、総務局副理事、同参与。 同社は1943年 ( 昭和18 ) 大阪毎日新聞、東京日日新聞の題号を 『 毎日新聞 』 に統一した。  また 「 家庭に恵まれず、現 ・ 東京都立工芸高校 夜間部に通いながら 東京日日新聞、毎日新聞に奉職した 」 と自らしるしている。 [東京日日新聞/毎日新聞の活版部員、1989、6頁]。  なお 『 毎日新聞百年史 』 の技術編はそのほとんどを古川が執筆した。 晩年は小池製作所の技術顧問を勤めた。

東京日日新聞と築地活版
古河 恒 ( 毎日新聞社 )

毎日新聞は昭和47年2月21日で創刊100周年を迎える。[毎日新聞の前身] 『 東京日日新聞 』 の創刊号は木版、題字奥付はセピア色、本文は黒という凝ったものであった。この色刷は11号までセピア、以後は青系統に変わり、30号から黒1色となっている。

2号から11号めまでは、当時恵比寿屋が上海美華書館から輸入した明朝体の活字が使われている。 この活字は 漢字にすべきところを カタカナにしたところが多く、また奇妙な当て字が多く使われているために 「 新聞漢文 」 と悪口を言われたという。 この原因は 漢字が足りなかっただけでなく、肝腎のケース [ 活字ケース、 活字スダレケース ] というものがなく、 [ 活字の ] 分類と整理が不完全であったのではないかと思われる節がある。

12号から 木版に返り、117号まで続き、 明治5年7月2日付 118号から木活字が使われている。

明治5年といえばこの時既に、本木系の活字も、勧工寮の活字もできていたのだが、何故わざわざ手間のかかる木活字を作ったのであろうか。 結局鉛活字は高価で買うことが出来なかった[ためだと ] と思われる。

木活字の工賃について 広岡幸助氏の思い出話によると、当時の東京日日新聞の活字は 四号に近かったが、1個の工賃は5厘、日新真事誌は三号に近かったが、1個につき6厘で、職人が『日新真事誌 』 の方が割がよいというので、東京日日新聞の仕事をやりたがらず、やむを得ず東京日日新聞も6厘にしたとのことである。

明治6年3月2日付304号から [ 東京日日新聞は ] 勧工寮の鉛活字を使い始めた。 この時の払下げ価格が幾らであったかは 必ずしも判明しないが、 同年2月18日付日新真事誌の付録に、勧工寮の広告に、鉛活字大2分5厘方が1銭1厘、 中縦2分5厘横2分が8厘5毛、 2分方が8厘、 小1分2厘5毛方が7厘、 同振仮名6厘2毛5糸方が4厘5毛とある。 この小1分2厘5毛方が五号で 1個7厘だったのである。

東京日日新聞は 創刊以来意外なほどの売行きを示した。 創立者の1人 西田傳助氏の思い出話によると、 100号毎に1,000部ずつ部数を増したとのことである。 従って鉛活字に切換えた時は、既に4,000部近く発行していたものと思われる。 そして経済的にも、木活字より高価な活字の払下げを受けることもできたのであろう。

勧工寮にとって東京日日新聞への活字の払下げは 一つの紀元 [ 起源 ・ 転機 ] となったようである。 東京日日新聞の木活字の使用経験、特に [ 活字収納 ] ケースのあり方は、鉛活字実用化への正に踏み石となったのである。 勧工寮では明治6年5月19日に、活字を広く販売する方針を決め、6月19日付東京日日新聞に広告を掲載している。 そしてこの時は鉛製活字 大2分5厘方が9厘、 中縦2分5厘横2分が8厘、 小1分2厘5毛方が3厘で、 前記日新真事誌の広告の時に比べ大幅な値下げをしている。 特に五号活字は 半分以下の値段となっていることが注目される。 なおこの時勧工寮の活字の売捌元になったのは、 東京日日新聞の木活字を作った辻家であったのである。

勧工寮の活字は、少なくとも3種の系統の異なった活字が混在していた。 そしてその一つは本木系で、平野富二によって納入されたものであった。 これは書体のよくそろった美しいもので 順次他の系統のものを駆逐して行った。 明治6年8月16日付東京日日新聞第453号に、

是迄外神田佐久間町3丁目において、活版並銅版鎔製エレキトルタイプ 摺機附属器共製造致し来り候処、今般築地2丁目20番地に引移猶盛大に製造廉価に差上可申候間、不相変御用向之諸君賑々舗御来臨のほど奉希望候也
明治6年酉8月 東京築地2丁目万年橋東角20番地
長崎新塾出張活版製造所 平野富二

という広告が掲載されている。 この広告掲載に際し、平野富二が浅草瓦町の東京日日新聞を訪れたか否かは 必ずしも判っていない。 しかし このころから東京日日新聞は築地活版の活字を直接購入する計画を立てたようである。

勧工寮は明治6年11月19日に廃止され、活字製造の業務は製作寮に引継がれた。 東京日日新聞はこれを機に、築地に移転した平野活版と直接取引を開始した。 東京日日新聞11月24日付第540号からこの活字が使われ、 この時以来築地活版と密接な繋りを持った。

明治42年4月2日付第10603号 ( 創立満37周年記念特集号 ) の 第9面に 「 我邦活版の祖 」 と題して、野村宗十郎の談話が掲載され、野村氏は本木昌造の功績を述べたあと、次のようにいっておられる。

……吾社の今日有るは実に本木氏の御陰であります。 其間我社の終始変ぜざる一大花主 [ 得意先 ] ともいふべきは、 即はち日日新聞社で 明治5年の頃より我社の明朝活字を採用され、10年頃一時弘道軒の楷書活字を使用された事あるも、再び我社の花主と為て以来、今日に至る迄髙庇を蒙って居る次第である。 斯の如く本社とは其の創立の年を同じくし、互に姉妹の関係を以て三十有七年の久しき共に、社運の隆興を見るに至ったのは誠に慶賀に堪へない次第である。

ここで  [ 野村宗十郎は ] 弘道軒の活字に触れているが、これは東京日日新聞が 明治14年1月4日付から8ページとなり、同8月1日付から 本文活字として弘道軒の活字を採用したことを指しており、この活字は明治23年2月11日付まで使われた。しかしこの間にも相場、商況広告等は築地活版の明朝五号が使われており、築地と縁が切れていたわけではなかった。

創業100周年を前にして、本社と因縁の深い築地活版跡に記念碑の建てられることは極めて意義のあることと思われる。 種々の困難を克服して、これを実現された活字工業会のご努力に対し心からの敬意と、深甚の感謝の意を表する次第である。