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【展覧会】 東京国立近代美術館 ── 没後40年 熊谷守一 生きるよろこび ── 3月21日まで好評開催中

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東京国立近代美術館 企画展
没後40年 熊谷守一 生きるよろこび  
Kumagai Morikazu: The Joy of Life
2017年12月1日 - 2018年3月21日

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熊谷守一(くまがい-もりかず  1880-1977)は、明るい色彩とはっきりしたかたちを特徴とする作風で広く知られます。特に、花や虫、鳥など身近な生きものを描く晩年の作品は、世代を超えて多くの人に愛されています。

その作品は一見ユーモラスで、何の苦もなく描かれたように思えます。しかし、70年以上に及ぶ制作活動をたどると、暗闇でのものの見え方を探ったり、同じ図柄を何度も使うための手順を編み出したりと、実にさまざまな探究を行っていたことがわかります。
描かれた花や鳥が生き生きと見えるのも、色やかたちの高度な工夫があってのことです。穏やかな作品の背後には、科学者にも似た観察眼と、考え抜かれた制作手法とが隠されているのです。

東京で久々となるこの回顧展では、200点以上の作品に加え、スケッチや日記などもご紹介し、画家の創造の秘密に迫ります。
明治から昭和におよぶ97年の長い人生には、貧困や家族の死などさまざまなことがありました。しかし熊谷はひたすらに描き、95歳にしてなお「いつまでも生きていたい」と語りました。その驚くべき作品世界に、この冬、どうぞ触れてみて下さい。 

【詳細情報:東京国立近代美術館 展覧会特設サイト

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{新宿餘談}
DSCN5793喘息のモトになるからと医者に飼育を禁じられたが、いまもって犬・猫が好きである。というより、いまでも町歩きのさなかに見知らぬ猫が躰をすり寄せてきたりする。どうやら猫に好かれるたちらしい。
かつて「権之助」という名の猫を飼っていた。いっしょに柴犬も飼っていたが、犬はあまりに従順で、ときには卑屈にみえたりして物足りなかった。その点では猫はおそろしく反抗的である。
「権之助」はいつの間にか屋外にも出かけるようになった。したがって外から蚤やダニをひろってくるので週一ペースで風呂に入れた。ところが「権之助」は風呂が嫌いで、やつがれが裸になると気配をかんずるのか、いつの間にかスゥッ~とどこかに消えた。それをなんとか捕まえて浴室に抱き込む。
それからがまたひと騒動。猫専用のシャンプーで洗い、シャワーをかけると、猛然とツメをたてて抵抗。頭にシャワーのお湯が当たろうものなら、浴室中を駆けまわり、爪と牙をむきだして、咬むは引っ掻くはで大わらわ。ともかく「権之助」専用のバスタオルで拭ってやるまでの抵抗たるやすざましいものがあった。

熊谷守一翁も猫が好きだったようである。たれが風呂に入れたのだろうか…… 。
熊谷守一《猫》はどこかで、いつも、見続けていたような気がした。参観の翌日近くのとんかつ屋に確認にいったら、やはりこの絵の複製画が額にはいって掲示されていた。このとんかつ屋とのつき合いはながい。まさに昭和のぬくもりがあった。
展示されたスケッチに、猫のさまざまな姿態がとても丁寧に描かれていた。熊谷守一の猫好きに共感したよい展覧会だった。

雪が融けたら参観をおすすめしたい。

20180129154916_00003熊谷守一 生きるよろこび 展覧会図録
20180129154916_00002国立近代美術館市販はがき 熊谷守一《猫》愛知県美術館 木村定三コレクション

【展覧会】 萩博物館 萩の鉄道ことはじめ ’17年12月16日─’18年4月8日+日本鉄道の父:井上 勝

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萩博物館 企画展

萩の鉄道ことはじめ  ― 待ちに待ったる鉄道いよいよ開通す―
◯ 開 催 日 : 2017年12月16日[土]-2018年4月8日[日]
◯ 時     間 : 09:00-17:00(入館は16:30まで)
◯ 会     場 : 萩博物館 企画展示室
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日本近代化の象徴である鉄道は萩に何をもたらしたのでしょうか。
「鉄道の父」井上勝をはじめ、草創期の「鉄道技術者」飯田俊徳、
「時刻表創刊者」手塚猛昌など、萩ゆかりの人びとが鉄道をつうじて
近代化に貢献していったことに注目し、萩と鉄道のかかわりを
多角的な視点から紹介します。
【 詳細情報 : 萩博物館 
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{ 新塾餘談 }

* 飯田 俊徳(いいだ-としのり、1847-1923)
日本の鉄道の父といわれる井上 勝らと共に、日本の鉄道敷設に努めた明治時代の官僚、技術者。山口県萩市出身。元長州藩士。
萩藩大組飯田家の子として生まれ、幼名吉次郎。藩校明倫館に学んだ後、吉田松陰の松下村塾にまなび、また大村益次郎らに師事する。高杉晋作率いる奇兵隊にも所属していた。

1867年(慶応3)12月、藩命で長崎・米国・オランダへ留学。帰国後工部省鉄道局に入局。
1877年(明治10)、大阪停車場(現大阪駅)構内にて日本最初の鉄道技術者養成機関として設立された「工技生養成所」で教鞭を執り、多くの技術者を育て上げる。翌年、東海道本線京都・大津間にて逢坂山トンネル建設の総監督を務め、2年後完成させた。これは日本人の手で施工された最初の鉄道トンネルである。
その後も東海道本線をはじめとする東海地方・関西地方の数々の鉄道敷設を主導、1890年(明治23)に鉄道庁部長となるが、3年後鉄道国有化問題で退職。晩年は長男新の住んでいた愛知県豊橋市に隠居し、そこで没した。

* 手塚 猛昌(てづか-たけまさ  1853-1932)
明治-昭和時代前期の実業家。「時刻表の父」として知られる、明治期の実業家。日本最初の月刊時刻表とされる「汽車汽船旅行案内」の発行者。現在の山口県萩市須佐出身。
嘉永6年11月22日生まれ。神職をつとめたのち慶応義塾にまなぶ。明治27年「汽車汽船旅行案内」を発行。星亨(ほし-とおる)らと東京市街鉄道をおこし、39年東洋印刷を設立し社長。明治40年帝国劇場の創設にも参加した。昭和7年3月1日死去。享年80。本姓は岡部。

バーナー井上勝 小学館ライブラリー井 上  勝(いのうえ-まさる 1843-1910)

明治期の鉄道技術者。鉄道庁長官。日本鉄道の父とされる。
長門国(山口県萩市)の長州藩士井上勝行の三男として天保10年(1843)8月1日生まれる。いっとき野村家を継ぎ野村弥吉と名のり、明治維新後実家に復籍して井上勝と称した。
長崎や江戸、そして箱館(函館)の武田斐三郎(たけだ-あやさぶろう)の塾で洋学を修めた。

長州五傑/長州ファイブ在英中の長州五傑 前列右から時計回りに紹介
山尾庸三、井上馨、遠藤謹助、井上勝、伊藤博文

職掌は唯クロカネの道作に候
吾が生涯は鐵道を以てはじまり、すでに鐵道を以て老いたり
まさに鐵道を以て死すべきのみ
井 上   勝

1863年(文久3)いわゆる「長州五傑・長州ファイブ」のひとりとして、伊藤俊輔(伊藤博文 ひろぶみ)、井上聞多(井上馨かおる)、山尾庸三(わが国工学の父 1837-1917)、遠藤謹助(近代貨幣制度の導入者・造幣局長 1836-1893)らとともにイギリスに密航、このとき井上勝は二〇歳、養家の姓から野村弥吉と名乗っていた。

英国滞在中はユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(ロンドン大学群)で鉄道、鉱山技術を学び卒業、1868年(明治1)帰国。1871年工部省鉱山頭兼鉄道頭に任ぜられ、翌1872年鉄道頭専任となり、東京-横浜間(新橋駅-桜木町駅)の鉄道敷設に尽力した。
関西で鉄道建設がはじまると鉄道寮の大阪移転を断行した。外国人技師主導からの自立を目ざし、飯田俊徳をはじめとする日本人鉄道技術者を養成し、1871年からの京都-大津間の敷設には、井上自身が技師長となって逢坂山トンネル建設の難工事を乗りこえ、はじめて日本人だけの手で工事を完成した。技監、工部大輔、鉄道庁長官などを歴任、東海道線ほか幹線の敷設に貢献した。

また鉄道庁長官として東北線を敷設する際に、広大な荒地を農場に変えようと念願し、岩手県におよそ900万坪の宏大な敷地に「小岩井農場」(現小岩井農牧株式会社 岩手県岩手郡雫石町)を創設した。
この農場の名称は共同創立者三名、日本鉄道会社副社長:小野義眞(おの-ぎしん)、三菱社社長:岩崎彌之助、鉄道庁長官:井上勝の姓の頭文字をとって「小岩井」農場と名づけられた。すなわち小岩井の「井」は井上勝の頭文字の「井」である。
なお「小岩井農場」は宮澤賢治の詩文集『春と修羅』にも「小岩井農場 パート一-九」にかけて印象深く描かれている。

1893年、幹線国有化論を主張したことがもとで鉄道庁長官を辞任した。
1896年汽車製造合資会社(のちに株式会社となったが、1972年川崎重工業に吸収)を設立、社長となった。欧州での鉄道視察中に病に倒れ、若き日を過ごしたロンドンで1910年8月12日息をひきとる。享年68。
遺言によって、現地で荼毘に付されたのち、東海寺大山墓地(東京都品川区北品川4-11-8)に埋葬された。ここはJR東海道本線・JR山の手線・京浜急行・東海道新幹線の鉄道線路に近接した場所である。井上 勝、愛称 : オサルの得意やいかにとおもわせる地でもある。
東京駅(丸の内北口付近)に彫刻家:朝倉文夫による銅像があったが、同地区再開発工事中のため撤去されており、現在はみられない。

(追記 : 初掲載{活版 à la carte}2017年12月08日。本稿アップロード寸前、2017年12月07日丸の内広場北西端、オアゾビルと新丸ビルの近くに、井上勝像が10年ぶり再建されたことを夕刊で各紙が報じていた)