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【展覧会】 萩博物館 没後百年企画展{日本工学の父 山尾庸三}

山尾庸三フライヤー(表)[1] 山尾庸三フライヤー(裏)[1]
日本工学の父・山本庸三の人物像に迫る

幕末に伊藤博文・井上馨・山尾庸三・井上勝・遠藤謹助らとともに、「長州ファイブ」のひとりとしてイギリスへ密航留学、帰国後は日本工学教育の分野で活躍し、工部大学校(後の東京大学工学部)創設に尽力するなど、日本の工学教育形成に尽力した山尾庸三を紹介。
本展は、2017年が山尾庸三没後100年という節目の年にあたることから、これを記念し開催されたもので、2016年3月に山尾家から萩市に寄贈された約1000点の資料の中から一部を展示。大部分が初公開となる貴重な資料を観覧できる。

【詳細情報 : 萩博物館 】 
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バーナー {新塾餘談}

Yozo_Yamao_01[1]山尾庸三 (やまお-ようぞう 一八三七-一九一七)

明治時代の旧長州藩出身の官僚。天保八年(一八三七)十月八日、萩藩士山尾忠治郎の次男として出生。
文久元年(一八六一)、幕府が江戸その他の開市開港の延期を諸外国と交渉するため、勘定奉行竹内保徳をヨーロッパに派遣した際、庸三は同使節に随行し、シベリアに渡る。
翌年、帰国後、高杉晋作らの攘夷運動に加盟して、品川御殿山のイギリス公使館の焼打ちに参加したこともある。その後、英国商人のT・グラバーの助力を得て、四人の同志とともにイギリスにおもむき(密航)、その産業や文化を視察した。この時の同行者のなかに、のちの伊藤博文や井上馨らがいた。

明治三年(一八七〇)に帰国後、庸三は民部権大丞兼大蔵権大丞を経て工部大丞へ昇進、同十三年には工部卿に就任。この間長崎製鉄所の責任者であった平野富次郎(富二)との接触が多かった。
その後、宮中顧問官・法制局長官などを歴任し、また同二十一年、東京日比谷官庁街の建設事業を担当する臨時建築局総裁を兼ねたこともある。同二十年、子爵を叙爵。
また岸田吟香らとともに楽善会訓盲院(現筑波大学附属視覚特別支援学校 東京都文京区目白台3-27-6)の創立につくした。
大正六年(一九一七)十二月二十一日没。八十一歳。
[参考文献] 古谷昌二『平野富二伝-考察と補遺』、井関九郎編『現代防長人物史』三、『国史大辞典』(吉川弘文館)
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山尾庸三は現下の<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>でも注目される存在であるが、古谷昌二氏は『平野富二伝―考察と補遺』の「二-六 長崎製鉄所の経営責任者就任と退職」(.p.96-109)のなかで、すでに相当詳しく論述されている。 

山尾庸三は明治三年(一八七〇)に英国から帰国後、当時、工部権大丞で、新設されて間もない工部省の実質的な責任者であった。『文書科時務簿』(長崎県立図書館所蔵)の年表によって全体の流れを見ると、次のことが分かる。

  • 製鉄所御用掛となった井上聞多(井上馨)の示達に基づき、製鉄所頭取助役の青木休七郎は、長崎府からの食禄を辞退し、製鉄所の経営を独立採算制とし、その収益の中から職員の給料を支払うことにより、職員の改革努力で給料が上がる仕組みを作った。
  • しかし、青木休七郎は、職員の給料を捻出するため、部下の経理担当者と共謀して二重帳簿により製鉄所の収益を計上させた。
  • 頭取役本木昌造はそれに気付いて、内々で調査をしたが、井上聞多に直結する青木一派の勢力が強く、限界を感じて頭取職を辞職した。
  • 代わって頭取となった青木休七郎は、部下の経理担当者を昇格させ、本木一派と目される品川藤十郎と平野富次郎を小菅諸務専任として本局の経営から分離した。
  • 明治二年(一八六九)末、製鉄所職員の給料が無視できない程高くなっていることから、長崎県当局から県職員のレベルに合わせるように指示が出された。
  • 明治三年(一八七〇)五月、民部省の山尾庸三が製鉄所事務総管となった。青木休七郎は、それまで製鉄所兼務で、部下の経理担当者に任せ切りであったため、製鉄所専任を命じられた。
  • 同年六月、青木休七郎は大阪出張大蔵省から呼び出しを受け上阪することになった。これは製鉄所の経理不正を疑われた結果と見られる。
  • 青木頭取不在中の対応として、平野富次郎等が諸事合議して運営することを申し入れ、次いで頭取職として県当局から兼務の形で少属の者二名が派遣された。
  • 同年七月、小菅分局に勤務していた品川藤十郎と平野富次郎が本局に呼び戻され、他の機関方六名と共に兼務頭取との合議制による製鉄所の経営が行われた。
  • 明治三年(一八七〇)秋(九月頃)になって、経理担当の責任者二名が逼塞を命じられ、製鉄所経営陣の刷新が行われた。このとき品川藤十郎は頭取心得、平野富次郎は元締役となった。
  • 同年閏一〇月になって、品川藤十郎が退職すると共に、平野富次郎が長崎県権大属に昇格した。(このとき、頭取にはならず、県職員の頭取兼任者との合議によって製鉄所の運営が行われたらしい。)
  • 明治三年(一八七〇)三月に長崎製鉄所の工部省移管準備として山尾庸三が事務総管となって以来、青木一派の経理不正が疑われるようになり、遂に悪事が露見して製鉄所経理不正の首謀者たちは免職させられ、東京に連行された。
  • 明治四年(一八七一)三月、県営製鉄所の最後の責任者となっていた平野富次郎は責任を取って辞任した。

このように、慶応四年から明治四年にかけて、製鉄所の経営改善を名目にして経理上の不正が行われ、これが工部省移管の過程で発覚し、その渦中に巻き込まれた平野富次郎の様子を窺がい知ることができる。

長崎製鉄所の工部省移管のために、山尾庸三が長崎に出向き、平野富二と対面したとき、山尾庸三は算えて三四歳、すでに新政府の高官であり能吏であった。
いっぽう長崎製鉄所の事実上の責任者として中央官僚と対峙することになった平野富二は算えて二六歳、長崎の地下役人の立場でありながら、前任者たちの乱脈経営をきびしく指摘され、つらい立場となった。それでも富二は終止誠実に対応し、山尾庸三は好感をもったようである。富二も明治一七年(一八八四)一二月三日「工学会への寄付により同会の賛助会委員として登録される」などの記録をのこしている。

また先般開催された<メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭>の「江戸・東京 活版さるく」でも山尾庸三の設立にかかる工部大学校(後の東京大学工学部)跡地を訪問した。
工部大学校時代の山尾庸三はこんなことばをのこしている。
おそらく山尾庸三は若き平野富次郎/平野富二にも、おおきな可能性を見いだしていたのではなかろうか。平野富二は翌年上京し、多くの近代産業を興している。

― 仮令当時為スノ工業無クモ 人ヲ作レバ其人工業ヲ見出スベシ ―
たとえ今は工業が無くても、
人を育てればきっとその人が工業を興すはずだ

【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-06 <江戸・東京 活版さるく>訪問地:お玉が池種痘所

 

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バーナーDSCN2784江戸・東京 活版さるく 訪問先
27 お玉ヶ池種痘所 跡
所在地 千代田区岩本町2丁目 (もと勘定奉行川路聖謨旧私邸内)

標示物 : 「お玉ヶ池と種痘所跡」標柱、記念プレート、解説板
概  要 : 安政5(1858)年5月に江戸の蘭方医83人が出資して、神田お玉が池に「種痘所」を設置した。この土地はのちに累進して幕府勘定奉行筆頭となった川路聖謨(かわじ としあきら 1801―68)が、かつて所有していた私有地を提供したと伝えられている。
しかしこの地での「種痘所」は、同年11月、開設からわずか半年にして火災により類焼したため、大槻俊斎(おおつき しゅんさい 1806―58)と、伊東玄朴(いとう げんぼく 1801―71)の家を臨時の種痘所とし、その後神田和泉町へ移った。→ ●43、●42

なおこの土地の提供者とされる川路聖謨は、のちに累進して幕府の勘定奉行となり、ロシアのプチャーチンとの外交交渉を担当したことでも知られる。
ロシア側は川路の聡明さを高く評価し、その肖像画(写真)を残そうとしたが、子供の頃に疱瘡(天然痘)を患ったために痘痕(あばた)顔であった川路は、
「自分のような醜男が、日本男児の標準的な顔だと思われては困る」
という機知に富んだ返答をしたという逸話が残っている。また筆まめで『長崎日記』、『下田日記』(東洋文庫124 平凡社)などをのこした。

Toshiakira_Kawaji[1]川路聖謨(1801-68)
天然痘をわずらったため、顔にはあばた(痘痕)が多かったとされる
天然痘予防の「種痘所」が旧宅に設けられたのは、なにか因縁を抱かせる

戊申の折には「表六番町-現在の市ヶ谷近くか」に隠居し、また中風になって右腕が不自由な躰であったが、江戸開城の報を聞き、割腹、さらにピストルを喉に発射、自死して徳川幕府に殉じた。日本で最初にピストル自殺をした人物ともされる。

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読書家のかたにとっては、なにをいまさらといわれかねないが、吉村 昭『落日の宴-勘定奉行川路聖謨』 を読みなおしている。同書帯にも引用されているが、吉村 昭は文芸誌『群像』に連載する前に、二〇年余の準備期間ともいえる時間をかけて川路聖謨の取材をかさねていた。

『落日の宴-勘定奉行川路聖謨』  あとがき
〔前略〕 川路〔聖謨〕は、幕末に閃光のようにひときわ鋭い光彩を放って生きた人物である。軽輩の身から勘定奉行筆頭まで登りつめたことでもあきらかなように、頭脳、判断力、人格ともに卓越した幕吏であった。
このような異例の栄進は、一歩道をあやまれば日本が諸外国の植民地になりかねない激動期に、幕閣が人材登用を第一とし、家柄、序列その他をほとんど無視したからである。
大きな危機感をいだいていた閣老たちは、川路をはじめとした有能な幕吏を積極的に抜擢し、その期待にかれらは十分にこたえた。開国以後の欧米列国との至難な外交交渉、国内の目まぐるしい混乱をへて日本を明治維新にすべり込ませることができたのは、これらの秀れた幕吏の尽力に負う所が大きい。〔後略〕

20171106152311_00001徳川幕府の奉行職とは、ほとんど旗本がその職につき、知名度のわりに禄高はひくかった。
川路聖謨もはじめは200俵の扶持米の軽格であり、勘定奉行の時500石とされている。役職金の500石を加えても、さほどの禄を得ていたわけではない。

神田お玉が池の旧宅に、川路聖謨がいつの時代に居住したのかあきらかではないが、当時は藍染川にそった、湿気のたかい、簡素な家だったようである。
いまは東京大学医学部建立による簡素な石柱がある。

参考資料 : 『 国史大辞典 』 (吉川弘文館)

      川路聖謨 かわじとしあきら (一八〇一-六八)

江戸時代末期の勘定奉行。名は聖謨、通称は弥吉、ついで三左衛門、叙爵して左衛門尉と称し、隠居して敬斎と号し、死の直前に頑民斎と改めた。
享和元年(一八〇一)四月二十五日、幕府直轄領の豊後国日田(大分県日田市)に生まれた。父は日田代官所の属吏内藤吉兵衛歳由。 文化五年(一八〇八)父が幕府の徒士組に転じたので、伴われて江戸に移り、同九年十二歳で小普請組川路三左衛門光房の養子となった。
はじめ小普請組から支配勘定出役・評定所留役を経て、文政十年(一八二七)寺社奉行吟味調役となり、天保六年(一八三五)出石藩主仙石家の内紛の断獄にあたり、奉行脇坂安董を扶けて能吏としての名を挙げ、勘定吟味役に抜擢され、同十一年佐渡奉行、翌十二年小普請奉行、同十四年普請奉行、弘化三年(一八四六)奈良奉行、嘉永四年(一八五一)大坂町奉行を歴任、翌五年九月勘定奉行に昇進し海防掛を兼ねた。
同六年六月ペリーの浦賀来航には国書の受理を主張し、また若年寄本多忠徳に従って房総海岸を巡視した。
ついでプチャーチンの長崎来航により、同年十月露使応接掛を命ぜられ、十二月以降長崎において、翌安政元年(一八五四)十一月以降下田において談判し、十二月二十一日大目付筒井政憲とともに日露和親条約に調印した。
翌二年八月禁裏造営掛を命ぜられ、上京して大任を果たした。
同三年十月老中堀田正睦が外国事務取扱を兼ねると、外国貿易取調掛を命ぜられ、翌四年八月にはハリス上府用掛となった。

同五年正月正睦が条約勅許奏請のため上京するにあたり、外国事情に通じているところから目付岩瀬忠震とともに随行を命ぜられた。 かつて奈良奉行時代に青蓮院宮尊融入道親王(のち朝彦親王)に知遇を得、また禁裏造営掛として公卿間にも知己が多く、大いに運動したが失敗し、四月正睦と帰府した。
時に政治問題となっていた将軍継嗣では、一橋慶喜を擁立する一橋派に属していたため、大老に就任した井伊直弼に疎まれ、同年五月西丸留守居の閑職に左遷され、翌六年八月さらに免職・隠居を命ぜられ、差控に処せられ、家督は嫡孫太郎(寛堂)が継いだ。
文久三年(一八六三)五月外国奉行に起用されたが、十月老疾をもって辞した。
以来官途につかず、慶応二年(一八六六)二月中風を発して身体の自由を失い、読書に親しみ、かつ徳川家の高恩を思い、奉公の念を忘れなかった。
明治元年(一八六八)三月十五日の朝、東征軍が迫って江戸開城も目前にあるを察し、表六番町(千代田区六番町)の自宅において、
「天津神に背くもよかり蕨つみ飢にし人の昔思へは 徳川家譜代之陪臣頑民斎川路聖謨」
の辞世を残し、割腹ののち、短銃をもって果てた。六十八歳。法名は誠恪院殿嘉訓明弼大居士。
上野池ノ端七軒町(台東区池之端)大正寺に葬った。贈従四位。

川路聖謨は平素文筆に親しんで多くの遺著を残したが、遠国奉行中の日記をはじめ、露使と応接した『長崎日記』『下田日記』、京都に使いした『京都日記』『京日記』および晩年の日記は『川路聖謨文書』全八巻(『日本史籍協会叢書』)に収められる。
ちなみに下田奉行・外国奉行などを歴任、外交の第一線で活躍した井上清直は聖謨の実弟である。

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59e3429eb264f1[1]吉村昭記念文学館
吉村昭 生誕90周年記念 企画展
「吉村昭とふるさとあらかわ ~生い立ちとその作品世界~」
会    期 : 10月28日[土]-12月10日[日]
* 11月26日[月]・16日[木]は休館
時    間 : 9時30分-17時(常設展示は20時30分まで)
入館料 : 無料
会   場 :  ゆいの森あらかわ 3階 企画展示室
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荒川区出身の小説家、吉村昭(昭和2年-平成18年)の生誕90周年を記念して、
「吉村昭とふるさとあらかわ~生い立ちとその作品世界~」を開催します。

吉村昭は、昭和2年(1927)、現在の荒川区東日暮里六丁目に生まれました。多感な時期を荒川区で過ごし、その時の経験は「吉村昭」の原点となりました。随筆や短篇小説には度〻荒川区が登場し、最後の長篇小説も荒川区を舞台とした「彰義隊」でした。
本展示では、荒川区で過ごした幼少期から青年期にかけての写真やゆかりの品などから「吉村昭」の原点をたどり、自筆原稿や作品に関連する挿絵を通して、吉村の描いた作品世界を紹介します。

【 詳細 : 吉村昭記念文学館 】