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朗文堂-好日録 009 2011年3月11日、宮澤賢治と活字ピンセット

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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あの日のこと、そして
たかが……、されど、貴重なピンセッ

メディア・リテラシー   久しぶりに「朗文堂-好日録」をしるしている。期末・期首で忙しかったせいもあるが、やはり平成23年(2011)3月11日[金]14時46分、あの大地震と災害の凄まじさで、筆 モトイ キーボードが重かった。あの日、あの時、やつがれは遅い昼食を摂ろうと、まさにコンビニおにぎりを開封しようとしていた。この作業がいつもうまくいかず、包材が破れて海苔がのこるのが口惜しいので、きわめて慎重、かつ、きわめて丁寧に剥離の作業に一心不乱、熱中している最中、第一撃がドカンときた。続いてユッサユッサとおおきな揺れが続き、これはでかいぞとおもった。続いて第二撃がおそった。不安定だった書棚の書物が崩れるのを、おにぎりを持ったまま呆然とみた。どこのビルもエレベーターが自動停止して、非常階段が叫び声であふれた。みんなが口々に「逃げろ、逃げろ! 早く新宿御苑に避難しろ」と叫んでいた。第3撃がきたとき、吾輩は[取りあえず、主震よりでかい余震はないからな……]と開き直って、椅子にかけて大好物の「昆布おにぎり」を食べていた。しばらくして新宿御苑の避難から戻った社員にあきれられた。

¶ もともと小社にはテレビが無い。今回わかったことだが、社員私物のラジオが1台あるだけである。それでも今回の地震では、全員が帰宅困難者になったので、ラジオ、Websiteの動画、新聞社や私鉄のデジタル情報が役にたった。情報は東北で地震があったことを伝えるだけで、詳細はまったく不明。むしろヘリコプターが乱舞して、九段会館の天井が落下して死傷者がでていることと、千葉県の燃料タンクの炎上を伝えていただけだった。すでに携帯電話が通話できなくなって、かろうじて固定電話だけが時折通ずる状態になっていた。ネットの情報は、おびただしい流言飛語リュウゲン-ヒゴが飛びかい、片言隻語ヘンゲン-セキゴで埋めつくされていた。あの日の夜、新宿の通りは徒歩で帰宅するひとびとであふれかえった。ほとんどたれも東北の大惨事をまだ知らず、まして原子力発電所の非常事態も知らずに、ひたすら帰宅の道を急いだ。通信網が砕け散ったとき、高度情報化時代の「情報」とは、こんな脆弱ゼイジャクさを内包している。

¶ ところで、メディア・リテラシー(media literacy)である。昨春まで大学で情報学を教えていたので一応専門領域である。メディア・リテラシーを簡略に述べると、情報メディアを主体的に読み解いて、必要な情報を引き出し、その真偽を見抜き、活用する能力のことである。すなわち「情報を評価・識別する能力」ともいえる。あの日、携帯電話と固定電話が不通になり、パソコンの電源が落ちた被災地からの肝心な情報はまったく届かず、現代の電子メディアはほとんど無能となる醜態をさらけだした。あの日からしばらくして、吾輩はテレビをほとんど観ないことにした。断片的で、根拠不明の情報が多く、また疲れるし、重い気分になるだけだった。別に忌避したわけではなく、テレビというメディアは、この段階ではまだ真相を伝えるにはいたっていないと判断したからである。それに代えて、定期購読の新聞のほかに、数紙を交互に購入するようにした。タイポグラファとしては、日頃見慣れていない新聞の活字書体には相当抵抗があったが、「情報」、とりわけ原子力発電所の情報に、かなりのバイアスがみられるとかんじたので、普段手にすることのない新聞も購入した。それを持ってロダンの椅子に腰をおろすことが多かった。

《災害は忘れたころにやってくる》 ――いいふるされたことわざである。なんの新鮮さもないが、それだけに重い。《災害は忘れたころにやってくる》。それで十分だ。あの日のことを、想定外であり、未曾有ミゾウな事象などとメディアは盛んに記述する。[本当にそうだろうか……]と、あの日以来だいぶ滞在時間が長くなった「ロダンの椅子」に腰をおろしておもう。そもそも、なにゆえ想定外、未曾有な事象!? などという(まともに読めないひとがいることが自明な)、にわか漢語、はやりことばをもちいるのだとおもう。敗戦を終戦とし、占領軍を進駐軍、事故を事象とするなど、わが国では一朝ことあると、漢語の森(中国の傘のもと)に逃げ込む悪癖がみられる。「想像もできなかった」「かつて無いできごと」ではいけないのだろうか。

¶ すこし時計をもどそう。平成7年(1995)1月17日、あの日はひどく寒かった。中国から戻ったばかりで忙しく、徹夜明けで、近くにあった《夜明けから、日没まで営業》という、いっぷう変わった店で夜明けの珈琲を飲んでいた。午前5時46分、早暁のなかでガツンという衝撃があった。老店主はすぐさま古ぼけたテレビのスイッチを入れた。「関西地方で地震が発生」という速報に続き、「京都の三十三間堂で仏像が倒壊した」という、あとからおもえば、いささかピントのずれた第2報のテロップが流れた。震源地であり、最大の被害を受けた、神戸のコの字もなかった。おそらく大阪・神戸への通信回路は壊滅しており、京都までの情報しか「エヌ-エイチ-ケイ」でも入手できなかったのであろう。この地震はのちに「阪神・淡路大震災」と名づけられた。京都での被害は軽微だったので、「京阪神」とは名づけられなかった。

¶  ふたたびあの日。あの日以来、「テラ、シーベルト、ベクレル」などの、さまざまな単位語やテクニカル・タームを覚えさせられた。テラ(tera)はギリシア語で「怪物」の意の teras から派生したことばで、一兆の一万倍をあらわす単位の接頭語で、漢字であらわすと「京 ケイ」である。いったい幾つ 0ゼロ が並ぶとテラなる怪物を表示できるのだろうか。また、最初のうちはマイクロ・シーベルトなどといっていた。それが、いつのまにかミリの単位に変わって、ミリ・シーベルトといっていた……。小数点以下の0ゼロが随分とれてしまっていた。

¶ ところで、活字を扱っていると、すこし高額だが「マイクロ・ゲージ」が必要となる。マイクロは「微少」の意のギリシア語 mikros から派生したことばで、百万分の一(10―6)を表す単位の接頭語であり、ミクロとも呼ばれ、記号はμである。すなわち吾輩も正確を期して活字計測にマイクロ・ゲージを用いることがある。金属活字ではマイクロの単位は容易に可視化しないが、ミリの単位なら、100円ショップで売っている定規で事足りるし、視覚でも触覚でも判別できる。すなわち原子力発電所と放射能汚染に関して、桁違いの話しを平然とした表情ではなされても、門外漢にとっては困ってしまう。しかもその門外漢のど素人たる吾輩は、原子物理学になど興味もないし、知りたくもない。ただ安全であることだけを願って、ことの推移を「情報」から知ろうとしただけだ。

¶  あの日の地震は、最初のうちは気象庁の発表によって「東北地方太平洋沖地震」と呼んでいた。メディアもそれに倣っていたが、いつのまにか内閣府によって「東日本大震災」と名称がかわったようである。ことばにこだわっても収穫が少ないが、「地震と、それによる災害」を省略して、「震災」と生活語で呼ぶ分には問題はなかろう。しかしながら、歴史をかたるための正式呼称としては若干の疑問がある。あの日の地震はおおきな津波を伴い、万余の犠牲者をみた。これは先例もある地震と津波によるあきらかな天災。ただし一部から危険を指摘(想定されていた)原子力発電所の暴走は、情報のバリアーが徐々に外され、もうたれもが知ってしまったように、危険性を軽視し、警告を無視し、事故を事象などといいかえて判断ミスを重ねたことによる、あきらかなる人災であろう。

¶ すなわち地震と津波による天災と、トリガーをひいたのは津波とはいえ、原子力発電所がもたらす大災害は、チェルノブイリやスリーマイル島の先行事例もあって、想定外とは許されないできごとであろう。むしろ十分に想定可能で、かつ、事故への適切な対処が可能な事象!? であろう。すなわち原子力発電所がもたらした人災を、「震災」という合成語でなにもかもをひとくくりにすると、今後の復旧・再生・補償に齟齬ソゴをきたさないかと不安を覚える。ひとがつくった「原子力発電所、略して原発」という怪物が、ひとの手に負えない大暴走を繰りかえし、それこそ「未曾有――いまだ曾カツて起こったことがないこと」の悲劇をもたらした。また、いまはかたずをのんで静観するしかないが、これから数十年にわたって、放射能汚染という可視化できない化け物によって、不安と危惧をもたらし続けることが明らかにされたいまである。素朴におもう。地震と津波による天災と、原子力発電所の制御不能事態という人災は峻別すべきではなかろうか。

¶  あの日、幸い小社では被害というほどの損傷はなかった。しかし通信網・交通網が復旧するのにつれて、次第に身内にも犠牲者がでていたことを知った。やつがれの妹の亭主は仙台の出身である。その義弟の姉(血縁ではないが一応親戚だ)が激甚被災地で犠牲となった。ようやく遺躰は発見されたが、火葬ができなくて土葬にふされた。仮葬儀に駆けつけた妹は、「ともかく凄いことになっている。テレビじゃとても伝わらない、凄惨なことになっていた」と嗚咽をこらえて報告した。被災地の友人・知人に架電すると明るく笑うが、少なからず身内や友人に犠牲者をかかえている。あの日から四十九日忌をむかえるいま、あらためて「東日本全域を襲った、地震と津波の災害」によって犠牲となられたかたがたのご冥福を祈りたい。そして天災と人災によるすべての被災地の皆さまに、心からのエールを送りたい。

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苦労しています。活版用ピンセット 活版印刷材料商がほぼ転廃業をみた現在、「活版用ピンセット Tweezers  Pincet」は入手難な器具のひとつである。

『VIVA!! 活版♥』(アダナ・プレス倶楽部 朗文堂 2010年5月11日)

みた目は医療用やデザイン用に用いるピンセットと類似するが、これはバネの弾力が強く、先端内側の刻みが深くて、生まれも育ちも「活版用ピンセット」である。活字版印刷(活版)のよき再生をめざしたアダナ・プレス倶楽部の発足時には、さまざまな障壁があった。活版はここ40年ほど、ゆるやかな衰退を続け、なかんづく平成の時代になってからは業務としての活版印刷は急激な凋落をみていた。その技芸を壊滅させることなく、あたらしい時代のユーザーを得て、「再生・ルネサンス」をめざそうとした。いまとなれば笑って話せるが、「活版用ピンセット」には苦労が多かった。その在庫を探したが、どこにもなく、新規発注だと500―1,000本が最低製造ロットだとされて困惑した。ようやく探しあてた金属加工商に相当数の在庫があったが、宅配便の手配などをいやがる高齢の経営者だったので、現金を持って訪問しては購入していた。ところがある日、「活版用ピンセットが全部売れちゃってね、悪いけどもう在庫はないよ」との店主からの架電があった。あまりに唐突だったので唖然とした。

¶  しばらくして、最低でも50本はあった「活版用ピンセットを買い占めた」のは、大手の園芸業者であり、芝生などに生える野草(雑草)を引き抜くのにピッタリだとして、全量を購入したことがわかった。折りしもサッカー・ブームである。あの巨大なピッチの芝に紛れこむ野草とは、相当しっかりした根をはるらしい。それを始末するのに「活版ピンセット」は十分な強度を持っていた。朗報もあった。園芸業者の購入意欲は強く、相当数の「園芸用ピンセット」を新規製造することになったのだ。もちろん仕様は「活版用ピンセット」と同一のままである。ヤレヤレと胸をなでおろした。

¶  文豪・宮澤賢治に苦情をいうわけではないが……  活版印刷とピンセットというと、活版の非実践者は「活字を拾う――文選作業」に用いるものだと誤解していることが多い。ところが和文・欧文を問わず、意外に軟らかな活字を拾う(採字)ためにはピンセットは使わない。Websiteでも 《活版印刷今昔01》 の執筆者は、文選作業でのピンセットを使用している写真画像に相当お怒りのようである。すなわち活版印刷にはピンセットは必需品だが、その用途は、組版の結束時や、校正時の活字類の差し替え作業にもちいることにほぼ限定される。この活字文選とピンセットの相関関係の誤解は、意外に読者層にも多い。その原因はどうやら宮澤賢治の童話『銀河鉄道の夜』に発するようである。

¶ 宮澤賢治(1896-1933)は、岩手県花巻市生まれ、盛岡高等農業学校卒。早くから法華経に帰依し、農業研究者・農村指導者として献身した。詩『春と修羅シュラ』『雨ニモマケズ』、童話『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』などがある。ここで『新編 銀河鉄道の夜』(宮澤賢治 新潮社 平成元年6月15日)を引きたい。ご存知のように宮澤賢治作品のほとんどは、生前には未発表の未定稿であり、数年あるいは数十年にわたって、しかも数次におよぶ宮澤賢治自身による推敲スイコウ・改稿・改作を経ており、没年の翌年からはじまった刊行作業のために、編集者はたいへんな苦労をしながら校訂をしてきた。本書は『新修 宮澤賢治全集』(筑摩書房 1972-77)を底本としており、多くの流布本や文庫本とくらべると、比較的未定稿の原姿を留めた(ただし、同文庫の編集方針により、仮名遣いは新仮名遣いになっている)書物といえる(天沢退二郎)。この「活版所」『銀河鉄道の夜』に問題の記述がある。(アンダーラインは筆者による

活 版 所

ジョバンニが学校の門を出るとき、同じ組の七八人は家へ帰らずカムパネルラをまん中にして校庭の隅の桜の木のところに集まっていました。それはこんやの星祭に青いあかりをこしらえて川へ流す烏瓜を取りに行く相談らしかったのです。

けれどもジョバンニは手を大きく振ってどしどし学校の門を出て来ました。すると町の家々ではこんやの銀河の祭りにいちいの葉の玉をつるしたりひのきの枝にあかりをつけたりいろいろ仕度をしているのでした。

家へは帰らずジョバンニが町を三つ曲ってある大きな活版処にはいってすぐ入口の計算台に居ただぶだぶの白いシャツを着た人におじぎをしてジョバンニは靴をぬいで上りますと、突き当りの大きな扉をあけました。中はまだ昼なのに電燈がついてたくさんの輪転器がばたりばたりとまわり、きれで頭をしばったりラムプシェードをかけたりした人たちが、何か歌うように読んだり数えたりしながらたくさん働いて居りました。

ジョバンニはすぐ入口から三番目の高い卓子に座った人の所へ行っておじぎをしました。その人はしばらく棚をさがしてから、「これだけ拾って行けるかね。」と云いながら、一枚の紙切れを渡しました。ジョバンニはその人の卓子の足もとから一つの小さな平たい函をとりだして向うの電燈のたくさんついた、たてかけてある壁の隅の所しゃがみ込む小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次と拾いはじめました。青い胸あてをした人がジョバンニのうしろを通りながら、「よう、虫めがね君、お早う。」と云いますと、近くの四五人の人たちが声もたてずこっちも向かずに冷くわらいました。

ジョバンニは何べんも眼を拭いながら活字をだんだんひろいました。

六時がうってしばらくたったころ、ジョバンニは拾った活字をいっぱいに入れた平たい箱をもういちど手にもった紙きれと引き合せてから、さっきの卓子の人へ持って来ました。その人は黙ってそれを受け取って微かにうなずきました。

ジョバンニはおじぎをすると扉をあけてさっきの計算台のところに来ました。するとさっきの白服を着た人がやっぱりだまって小さな銀貨を一つジョバンニに渡しました。ジョバンニは俄かに顔いろがよくなって威勢よくおじぎをすると台の下に置いた鞄をもっておもてへ飛びだしました。それから元気よく口笛を吹きながらパン屋へ寄ってパンの塊を一つと角砂糖を一袋買いますと一目散に走りだしました。

¶ 『銀河鉄道の夜』は宮澤賢治の生前には刊行されず、事前の校閲や著者との合議がなかったから、没後に発表された刊行書の随所に、ことばの不統一がみられる。まず、章題の「活版所」は、本文中では「活版処」とされている。明治の大文豪が「吾輩・我輩」を混用して書物を刊行したが、その没後、大文豪の書物の刊行にあたった大手版元の校閲部では、有無をいわせず「吾輩」に統一して一部から顰蹙をかったことがあった。また、やつがれが敬愛する司馬遼太郎氏などは、送り仮名も、漢字のもちいかたも、あちこちにバラツキがみられるが、生前のご本人はほとんど気にしなかったようである。もちろん並の校閲者では手も足も出なかったとみえて、「不統一のママ」で刊行されている。なんでも揃えるという考えには賛成しかねるゆえんである。「ひとつの小さな平たい函」とあるのは、おそらく「文選箱」であろう。ガキのころから活版所を遊び場のひとつとしていたやつがれは、10歳のころには「文選箱」を宝物にしていた。また、いまもって文選箱を持つと、妙に気持ちが昂ぶる悪弊がある。「たてかけてある壁の隅の所しゃがみ込むと」とある。これも、「活字ケース架 俗称ウマ」に向かって、文選のために立ったのであろう。ふつう文選作業にあたって、最下部に配される「外字」「ドロボー・無室」ケースの採字以外は、しゃがみこむことはあまりない。

¶ ついに問題の箇所である。ジョバンニは「小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次と拾いはじめました。」とある。既述したが、わが国でも欧米でも、活字の文選作業は手で拾う。ピンセットをもちいると、軟らかな活字の面ツラを傷つけるおそれがあるためである。活版印刷全盛の時代には、床に落下した活字を拾うことさえ禁じられた。落下した活字は、汚れが付着するだけでなく、活字面 type face にキズやカケが発生している可能性があり、そのまま印刷して活字の面のキズやカケによるクレームがないように、灼熱地獄行きの「地獄箱 Hell Box」に活字を投げ入れた。この活字は捨てられるのではなく、溶解され、怪獣サラマンドラのごとく甦るのである。したがって、活版印刷の現場では、古今東西を問わず、ピンセットは、組版を結束したり、校正時の差し替え作業にもっぱら使われる器具である。したがって、宮澤賢治は活版印刷所の内部にはあまり立ち入ったことが無かったと推測される。また、もし作者の生前に『銀河鉄道の夜』の印刷・刊行をみていたら、編集者・校閲者・文選工・組版工・印刷工といった、たくさんのひとの手と作業工程を経るなかで、たれかがこの問題点を謙虚に、そしてひそかに指摘したとおもわれる。「あのですね、宮澤先生。ピンセットで活字を拾ったら、活字が泣きますよ」と……ネ。まぁ、『銀河鉄道の夜』は、幻想・夢想のなかにたゆたうような名作である。あまり目くじらをたてる必要も無いが……。

¶ 2011年4月28日 二黒 仏滅 癸 丑 あの日から四十九日忌にあたり、泪のような雨が降りそそぐ。肌寒し。

タイポグラフィあのねのね*008 江川活版製造所、江川次之進資料

直系子孫により発掘された
江川活版製造所:江川次之進関連資料

《きっかけは活字ホルダー》
朗文堂とアダナ・プレス倶楽部のWebsiteでは、数度にわたって《活字ホルダー》を取りあげてきた。当初のころは、この簡便な器具の正式名称すらわからなかった。その後、アメリカ活字鋳造所(ATF)や、フランスのドベルニ&ペイニョ活字鋳造所の、20世紀初頭のふるい活字見本帳に紹介されている《活字ホルダー》の図版を紹介し、その名称と使用法は広く知られるようになった。またアダナ・プレス倶楽部では、故・志茂太郎氏の遺品から《活字ホルダー》を復元して、あらたな活版ユーザーに向けて製造販売にあたっている人気アイテムのひとつである。

『VIVA!! カッパン♥ 』
(アダナ・プレス倶楽部 朗文堂 2010年5月21日 P64)に紹介された《活字ホルダー》

《ご先祖様の遺影と肖像画があるのですが……》
ある日、アダナ・プレス倶楽部のWebsiteをご覧になった、江川活版製造所の創業者・江川次之進の直系のご子孫だという女性から、お電話をいただいた。
「曾祖父の江川次之進の遺影と、掛け軸になった肖像画があるんですが、右手に持っているものがなんなのかわからなくて。どういう情景を描いたものかが分からなかったのですが、これが《活字ホルダー》なんですね。おかげで、曾祖父が若い頃に活字の行商をしていたというわが家の伝承がはっきりしました」

この女性は、現在は長野県北安曇郡白馬村でペンションを経営されている。最初にお電話をいただいてから少し時間が経ち、先日、お身内のカメラマンの手による、江川次之進の遺影と肖像画の鮮明なデジタルデータをご送付いただいたのでご紹介しよう。

江川次之進[1851-1912]

新資料/江川次之進 活字行商の肖像画

軸装された江川次之進の活字行商時代の肖像画。

肖像画の部分拡大。当時としてはハイカラな洋傘を左手に、右手には活字ホルダーを握りしめている。重い活字を背負っているせいか、小腰をかがめているが、晩年の江川次之進の肖像写真とにた、端正な顔立ちである。

《圧倒的に資料不足な江川次之進と江川活版製造所の業績》
「江川行書活字」「江川隷書活字」と、活版印刷関連機器の開発でしられる江川活版製造所は、いっときは東京築地活版製造所、秀英舎に次ぐ、業界第3位の売上げを誇った活字鋳造所とされる。そうした歴史のある江川次之進と江川活版製造所であるが、その業績をかたる資料や活字見本帳のたぐいは極めて少ない。人物伝としては、わずかに三谷幸吉の『開拓者の苦心 本邦 活版 』にその紹介をみる程度である。すこし読みにくい文章だが、これをお読みいただくと、「活字行商」からはじめ、日本有数の活字鋳造所に発展させた、江川次之進の背景がおわかりいただけるはずである。これは句読点を整える程度の修整をして、全文を後半で紹介したい。

また印刷関連の業界誌では、明治24年(1875)『印刷雑誌』に、江川活版製造所ご自慢の新書体「江川行書」による1ページ広告が3号連続で掲載されている。また、江川家一族が経営権を深町貞次郎に譲渡したのち、昭和13年[1938]『日本印刷大観』の差し込み広告として、これも1ページ大の広告が掲載されている。こちらの社長名は深町貞次郎になっている。この深町時代の江川活版製造所がいつ廃業したかの資料は目下の所見あたらないが、いずれにしても深町貞次郎の晩年か逝去ののち、良き後継者の無いまま、戦前のある時点において廃業を迎え、戸田活版製造所、藤井活版製造所、辻活版製造所などに継承されたものとみられる。ただし、江川活版製造所仙台支店もやはりそのころに分離・独立したものとみられるが、同社は「江川活字製造所」として2003年-5年ころまでは、仙台市内(仙台市青葉区一番町1-15-7)で営業を継続しており、東北方面一円への活字供給にあたっていた。

『印刷雑誌』(第1次 明治24年10月号-12月号掲載)主要書体は、
新鋳造の「江川行書」活字である。

『日本印刷大観』(東京印刷同業組合 昭和13年8月20日)差し込み広告。
社長名は深町貞次郎になっている。事業内容は平凡で、なんら特色のないものになっている。

さて、肖像画において、江川次之進が右手に持っている《活字ホルダー》であるが、わが国でも相当古くから製造販売されていたとおもわれる。『活字と機械』(東京築地活版製造所 大正3年6月)の扉ページ「印刷機械及器具」の、外周イラストの下右隅に、あきらかに《活字ホルダー》が存在している。江川次之進はこうした簡便な器具と、重い活字を携行して、煙草屋や質店などに活字販売をして資金を蓄積して、本格的な活字鋳造所を起業したことになる。三谷幸吉が『開拓者の苦心 本邦 活版 』にのこした伝承が、今回の肖像画の発掘によって証明されたことになった。 「印刷機械及器具」『活字と機械』扉ページ。右下隅に《活字ホルダー》が紹介されている。ここにみるイラスト図版の器具類は、ほとんど現在も使われている。(下図は部分拡大図)

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行書体活字の創製者 江川次之進氏
―敏捷奇抜の商才で成功す―

『開拓者の苦心 本邦 活版』(三谷幸吉執筆 津田三省堂 昭和9年11月25日 p173-180より全文

江川次之進氏[1851-1912]は、福井県坂井郡東十郷村の人、由右衛門氏の次男として、嘉永四年[1851]四月二十五日に生れる。

明治十四年[1881]、三十一歳と云う中年で俄かに志を樹てゝ上京、某医師の書生を勤め、又は横浜に出て、運送店の書記に住込む等、此間容易ならぬ難行苦行を重ねたのである。

一日碇泊の汽船に乗組んで作業中、過って船底に墜落して既に一命を抛ナゲウったかと思ったが、幸いにして命拾いをしたので、再び上京、古帽子の色揚げなどで其日を糊して、眞ん底から憂き世の辛酸を嘗めつくしていた。然るに其頃、[銀座]文昌堂におった山口定雄氏の奨めによって、活字の販売に従事することゝなったが、店舗を開く迄の資金が無かったので、活字行商と云う珍思考を案出したのである。氏がこれに着眼した動機が如何にも面白い。

当時は煙草が民営であったから、其の袋に販売店の住所番地が一々筆書されてある。それを今日のゴム印の様に、活字をスタンプに入れて押すと、頗スコぶる便利だと云うことに気付いて、毎日小さな行李コウリに活字とスタンプを入れて、各店舗を廻ったものである。それに又質屋を訪問して、質札や帳簿に年号なり家名なりを押すことを勧誘したので、何れも其の便利なのに調法がられて、急に流行の寵児となったのだから、氏の慧眼ケイガンには生き馬の眼を抜くと云う江戸ッ子の活字屋も推服したものだそうな。此時氏の受売りをした活字は、築地活版所と印刷局と文昌堂[東京築地活版製造所・昭和13年廃業、印刷局・現独立行政法人国立印刷局、文昌堂・銀座に旧在した活字商]の三ヶ所の製品であった。

斯カくて一年足らずの間に意外に儲け出して、相当の資本も出来た。従って印刷局や築地活版所も、氏を信用すると云う極めて良い條件に恵まれたので、在来の行商式を廃し、両国広小路、上野広小路、浅草広小路、新橋附近などの、人通りの多く、且つ交通便利な場所へ、さゝやかながら店舗を張ることにした。当時既に欧米の文化が急速度に消化され、印刷物の需要が多々益々増大されたので、活版所も勿論これに伴って続設、濫設されて、活字の供給迅速を要求することになった。そこで勢い買入れに便利な活字屋へ顧客が集中したのだから、江川氏の策戦は見事にあたって、店勢日に日に旺盛を極むるにいたったのである。

而して動ヤヤともすれば、印刷局なり、築地活版なりの受け売りだけでは、間に合わぬ場合が生じたり、其他何かと不便を感じたので、将来身を活字販売に委ねる以上、寧ムシろ自家鋳造[活字母型を購入し、自社内で活字鋳造をする]を断行するに如かずと決意することゝなった。

其頃の印刷局の活字は大きさも高さも不統一であったから、大きいのは一々鑢ヤスリで削り、高いのは尻を鉋カンナで削って、築地製品に合わせて販売すると云う、中々面倒な手数が掛かったとのことである。これは築地製は明治十四年[1881]米国から買入れたカスチング[ブルース型手廻し活字鋳造機]で機械的に造ったから、規格が揃っていたのに反し、印刷局製は手鋳込み[手鋳込み式ハンドモールドのこと。ただし東京築地活版製造所と印刷局は創立以来ポンプ式ハンドモールドをもちいたとみられる。またブルース型手廻し式活字鋳造機を東京築地活版製造所が先行して1台は輸入した記録はあるが、本格導入は、両社とも大川光次らによる国産機の開発を待った。その導入はほぼ同時期とされる]で造った関係からではないかと云われている。

明治十六年[1883]、総べての準備が整ったので、愈々イヨイヨ活字の自家製造を開始すべく、日本橋区境町四番地に江川活版製造所を創設したのである。工場主任として母型師字母駒ボケイシ-ジボ-コマ(有名な字母吉ジボ-キチの弟)を招聘ショウヘイし、これに当時東京印刷関係職工中の最高級の五拾銭を支給したと云うから、江川氏の意図が奈辺にあったかゞ判るではないか。其頃はアリ(ガラハニーの這入るボテの凹部)切り[電鋳法による活字母型をマテ材に嵌入させる凹部をつくる器具]もなく、皆鑢ヤスリで削り、十本宛仕上げしたとのことである。

明治十八年[1885]、弘道軒で楷書活字を販売[神崎正誼創設の弘道軒活版製造所。清朝活字の開発で著名]しているのに対抗して、行書活字の創製に着手したが、さてこれが完成する迄の苦慮は狭隘キョウアイの紙面では記述し尽せぬものがある。当初書体の下書を中村正直[洋学者・教育家。号して敬宇。1866年幕命により渡英。明六社を組織して啓蒙思想の普及に努力。東大教授・貴族院議員。訳書『西国立志篇』『自由之理』など。1832-91]先生に依嘱して種字を造ったが、書体が細いのやら、太いのやら、丸いのやら角なのやらが出来て、使用に堪えぬので、遂に中止してしまった。これが為に多大の損害を蒙むったとのことである。而かも行書体の種字は筆法が太いために、黄楊ツゲに彫っては木目が出て面白くないところから、鉛の彫口を微かい砥石で砥ぎ、それに種字を彫付けてガラハニーとした[いわゆる地金彫り。活字地金などの柔らかい金属に、種字を直刻して種字として、電鋳法により活字母型をつくった]と云うから、其苦心の並々でなかった一端を知ることが出来よう。

翌十九年[1886]、業務拡張の為に、日本橋区長谷川町に引移った。其年著名な書家其頴久永氏[久長其頴ヒサナガ-キエイ 書家 詳細不詳 乞う情報提供]に、改めて行書種字の揮毫を依頼し、此に初めて現今伝っている様な行書々体が出現することゝなったのである。

斯くて此間三、四年の星霜を費やして、漸く二号行書活字を完成し、次ぎに五号行書活字も完備することゝなったので、明治二十一年[1881]秋頃から、「江川の行書」として市販し出したところ、非常に人気を博し、売行亦頗ぶる良好であったと云う。明治二十五年[1892 ]十一月十五日引続き三号行書活字を発表した。

然るに昔も今も人心に変りがないと見え、此行書活字が時好に投じ、前途益々有望であることを観取した一派は、窃ヒソカにこれが複刻[いわゆる種字盗り。活字そのものを種字代わりとして、電鋳法によって活字母型を複製して活字鋳造をした]を企画するにいたり、殊に甚だしきは、大阪の梶原某と云う人が、凡ゆる巧妙な手段を弄して、行書活字を買い集め、これを種字となして遂に活字として発売したから、此に物議を醸すことゝなった。即ち江川では予め行書活字の意匠登録を得ていたので、早速梶原氏に厳重な抗議を提起したが、その結果はどうなったか判明しない。

これより前、明治二十二年[1889]に横浜伊勢崎町で、四海辰三外二名のものをして活字販売店を開かしめ、同二十四年[1891]、大阪本町二丁目にも、淺岡光をして活字販売店を開設せしめ、地方進出に多大の関心を持つことゝなった。

明治二十五年[1892]大阪中島機械工揚が、初めて四頁足踏ロール印刷機械を製造したが、大阪でも東京でも購買力が薄く難儀したので、東京の販売を江川氏に依頼した。商売に放胆な江川氏は、売行の如何を考うるまでもなくこれを快諾したそうである。同二十六年[1893]、長男貫三郎氏の異兄をして福井県三国町に支店を開かしめ、続いて廿七年[1894]山田朝太郎氏に仙台支店を開設せしめた[江川活版製造所仙台支店は江川活字製造所と改組・改称されて、仙台市青葉区一番町1-15-7で2003年頃まで営業を持続して、東北地区一円の需要を担った]。

東京築地活版製造所が製造した「乙菊判四頁掛け足踏み印刷機械」≒B3寸伸び。
江川次之進が製造した活版印刷機も、これに類似したものだったとおもわれる。
『活字と機械』(東京築地活版製造所 大正3年6月)
PS:掲載後に読者より江川活版製造所による印刷機の写真画像提供を受けた。続編に紹介したい。

尚二十九年[1896]には、隷書活字の創製所たる佐柄木町の文昌堂(元印書局の鋳造部技手松藤善勝氏村上氏等が明治十三年[1880]に設立したもの)を買収したる外、松山氏に勇文堂、柴田氏に勇寿堂を開店せしむる等、巨弾又巨弾を放って販路の拡大に努力する有様、他の同業者の心胆を寒からしめた由である。

明治三十三年[1900]築地二丁目十四番地に、江川豊策氏を主任として、且つて築地活版所にいた本林勇吉氏を招聘し、本林機械製作所を開設して、印刷機械の製作にも従事するようになった。

此頃は江川活版製造所の全盛時代で、すること為すこと成功せざるはなしと云う盛運を負っていたのである。然しながら月満つれば欠くの譬タトエの通り、同氏の才気に誤算を生ずるようになってからは、事、志と異う場面が逐次展開されて来た。

明治四十年[1907]この数年以前から、東京の新聞社は、活字を小さくして記事を多く詰める傾向となり、「萬朝報ヨロズ-チョウホウ」の如きは、秀英舎に註文して、既に三十七年二月[1904]から、五号横二分四分の活字(平型)[いわゆる扁平活字]を使用して好評を博したので、氏も亦五号竪二分四分活字[いわゆる江川長体明朝活字]を創製するにいたった。然し此活字は一般の趣向に合致しなかったものか売行が思わしくなく、加うるに二三の地方新聞に納入した代金が回収不能となったので、断然製造を中止することになった。[江川長体明朝は、国内での販売がおもわしくなく、都活字などの手を経て、当時邦人が進出していたハワイやサンフランシスコの邦字紙などで主にもちいられたとされる。『開拓者の苦心 本邦 活版 』津田伊三郎の章にその記録がのこる。また、後年津田伊三郎はあらたに長体明朝の開発をおこなっている]。斯くして此年、営業権を長男貫三郎氏に譲り、悠々自適の境遇に入ったのである。

明治四十二年[1909]、創立当時より在店する某が、隠居江川氏に向い、時の支那公使李慶均の証明書を提出し、当時茗荷谷ミョウガ-ダニにあった支那人経営の新荘街と云う印刷所を弐拾万円の株式会社に組織変更するに就き、運動費の提供を求めた。依って十二月二十八日に壱万円、翌年二月に壱万五千円、同四月に壱万円、五月末に壱万円都合半年間に四万五千円を出資したが、其後有耶無耶になってしまったので、これらが原因となり営業上に一大支障を生ずることゝなった。そこで親族会議の結果、江川の家名を穢したくないとの理由で、江川活版製造所閉鎖の議が出たが、結局親族宇野三郎氏、加藤喜三郎氏等が経営の任にあたった。然しこうなっては、隠居の恩顧に預った人達も、何んとなく腰が落ち着かず、心平らでないまゝに、誰れ彼れとなくこゝを却シリぞいて、各々自活の道を講ずることになったから、折角の復興策も思うように行かなかった。

ところが、多年扶殖した努力と信用の惰力により、兎に角江川の名は引続き業界に喧伝されていたのである。尤もこれには明治二十六年(九歳)から奉公している甲州出身の深町貞次郎氏が、温厚実直で且つ経営の才があったから、先輩の退散にも滅げず、江川をこゝまで頑張らしめて来たのである。茲ココに於いてか、大正十一年[1922]、親戚一統協議の結果、江川当主を差しおいて、深町氏に一切の営業権を譲渡し、氏をして自由に商才をふるわしむるにいたった。

それはさておき、隠居次之進氏は、明治四十五年[1912]二月八日、淀橋拍木[新宿駅西口近く]で、六十二歳を一期として黄泉の客と化せられたのである。

法名 繹乗誓信士

―― 挿  話 ――

足踏ロールを東京で初めて販売した人は江川氏であるそうな。当時四六判四頁が一台百六拾円であったが、取扱った当初は不振で殆んど売れなかった。然るに、其後二、三年経過してからは、トントン拍子に売れたのだから、そうなると中島氏が高くとまって註文品を送って来ないと云う始末。尤 も其頃中島では発動機に手を出し、其方に資金が膠着したらしいので、江川氏は屡々シバシバ前金を渡して製品を急がせたことがあったそうな。而して中島氏の曰くには「印刷機械は十貫目拾五円にしかならないが、発動機の方は十貫目四拾五円だから三倍になるからネ」と意味深長な言葉を洩らした由である。これに依って見ると、印刷機械が他の機械に比して廉価であることは、昔からの伝統とも見えるのである。

江川次之進氏は組合役員や其他の名誉職を各方面から持ち込まれたが、無口の方であった為か、一切顔を出さなかった。宗教には深い関心を持ち、本願寺へは毎年千五百円宛寄附され、同寺では中々良い顔立をしていられたとのことである。

現在の江川活版製造所は深町氏によって隆運を続けている。又、戸田活版製造所、藤井活版製造所、辻活版製造所等は何づれも江川の出身である。

花こよみ 010

花こよみ 010

詩のこころ無き吾が身なれば、折りに触れ、
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。

 菜 の 花 や 月 は 東 に 日 は 西 に

                                  与謝野蕪村(1716-1783)