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【偲ぶ会】ヘルムート・シュミットを偲ぶ会+展示|プリントギャラリー|9月1・2日

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ヘルムート・シュミットを偲ぶ会
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ヘルムート・シュミットを偲ぶ会+展示
2018年9月1日[土]、 2日[日]
13:00 から 18:00 
参加費:500円

ご都合の良い時間にお越しください。 
会場にドリンク、軽食のご用意があります。 
献花、ご香典は勝手ながら固く辞退申し上げます。

展示のみ
2018年9月3日[月]、7日[金]、8日[土]
13:00 から 18:00 
入場無料

会 場:プリントギャラリー
東京都港区白金1-8-6, 1F
地図 / アクセス

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今年7月2日に急逝したタイポグラファ、ヘルムート・シュミットを偲ぶ集いを
プリントギャラリーにて2日間にわたって開催いたします。
代表的な制作物や著作を展示し、その事績や思い出を語り合う機会にしたく存じます。
どなたでもお気軽にご来場ください。また、シュミット家の皆さんも
2日間にわたって在廊する予定です。
なお、展示は9月3日[月]、7日[金]、8日[土]まで引き続き観覧可能です。

1942年にオーストリアに生まれたシュミットは、スイスのバーゼル工芸専門学校で
エミール・ルーダーのもとにタイポグラフィを学びました。
1960年代より欧米各地および日本で活動し、

1981年以降は大阪を拠点にして活動を続けました。大塚製薬「ポカリスエット」や資生堂「MAQuillAGE」、IPSAをはじめ、日本人には馴染み深い仕事も数多く残しています。
その一方で、シュミットは長年にわたって執筆、出版、教育にも精力的にかかわってきました。
著書『タイポグラフィ・トゥデイ』はデザイン書の古典として広く知られるほか、
『TM』『アイデア』などへの継続的な寄稿は東西のデザイン・コミュニティを接続する役割を担ってきました。
また、国内外での教育活動や講演を通じて、デザイナーが持つべき姿勢や精神について
メッセージを発し続けてきました。近年も東アジア圏での教育活動や、数々のデザイン・プロジェクト、出版企画にかかわり、急逝する直前まで仕事を続けていました。
ヘルムート・シュミットを偲びつつ、彼が私たちに手渡したもの、残したものについて、
あらためて考える機会になれば幸いです。

発起人・主催(50音順)
阿部宏史(プリントギャラリー)、ニコール・シュミット(ヘルムートシュミットデザイン)、室賀清徳(「アイデア」誌前編集長)

【詳細:プリントギャラリー ヘルムートシュミット デザイン 】

【艸木風信帖】暑中お見舞い申しあげそうろう 百日紅とあせ知らず

谷中天王寺 日吉洋人撮影連日の暑さが続いています。皆さんご壮健でいらっしゃいますか。

暦のうえでは、あす08月07日は「立秋」。それ以後は「残暑」となる。だからここで皆さまに「暑中お見舞い」を。

迷走・逆走台風12号につづき、今週はノロノロ台風13号が週央あたりに日本列島に接近 乃至は 上陸の予報が発表されている。しかも気象庁の予想進路では、日本列島のうえで、筆順が違うが、ひら仮名の「く」の字を下から描くようにして、北東方向に向かうらしい。
すでに、豪雨があり、猛暑と熱波でさんざんな目にあっているのに、もうご勘弁を、といいたいところだが、自然が相手では如何ともなしがたい。大過なく過ぎることを祈るばかりである。

台風13号進路予想 気象庁

《夏を彩る さるすべり-百日紅 紫薇》
冒頭に紹介した植物は「谷中の天王寺」にある「さるすべり-百日紅 紫薇」である。撮影は 日吉洋人 さん。

徳川幕府の庇護をうけ、宏大な寺域と、幸田露伴『五重塔』にしるされた巨塔を有していた天王寺に関しては、{活版アラカルト}に、【[イベント] メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-05 明治産業人掃苔会訪問予定地 戸塚文海塋域に吉田晩稼の書、三島 毅・石黒忠悳の撰文をみる】としてあらかたしるした。

「谷中の天王寺」は、戊辰戦争に際して、徳川方の彰義隊の営所となって被弾し、太平洋戦争では米軍機による焼夷弾の被害によって、伽藍の大部分を焼失するなど数奇な歴史をへてきた。その次第は、天台宗 東京教区 護国山尊重院 天王寺】に詳しく記録されている。

花のすくないこの季節、淡黄色の大輪の花をつける「トロロアオイ」とならんで、文字どおり三ヶ月、百日ほどのあいだ、紅色 乃至は 白い花をつけている「さるすべり 百日紅」に関しても、しばしば{活版アラカルト}にしるしてきた。
この喬木に「さるすべり → 百日紅」という絶妙な「漢字」を与えたのは、わが国でのことであったかも知れない。つまり中国ではこの喬木を、もっぱら「紫薇 シビ」と呼んでいる。
小社近辺の新宿御苑にそった道にも「さるすべり 百日紅」が植えられ、開花の盛りであるが、まだ植樹から数年ばかりで、樹皮の脱落もさほどみられず、「谷中の天王寺」のそれに及ぶべくも無い。

[参考:『日本大百科全書』小学館]
【 さるすべり [学]Lagerstroemia indica L . 】
ミソハギ科の落葉高木で高さ5-10メートル。中国南部原産で、中国名は紫薇-シビ。樹皮は赤褐色、滑らかで薄くはげ、跡が帯褐白色の雲紋状になる。7-9月、枝先の円錐花序に紅紫色、径3-4センチメートルの6弁の花を開く。花が白色のシロサルスベリ、淡紫色のウスムラサキサルスベリもある。
サルスベリの名は樹皮が滑らかなのでサルも滑り落ちるとの意味〔実際は平気で駆けあがるらしいが〕であり、赤い花が長く咲き続けるのでヒャクジツコウ(百日紅)ともいわれる。日本には江戸時代に入っており、貝原益軒-かいばらえきけん-の『花譜』(元禄7=1694)にはじめて百日紅の名が出てくる。
栽培は陽樹で、土地を選ばず、成長は速い。整枝、剪定に耐え、萌芽力が強く、病害虫も少ない。繁殖は実生、挿木による。庭園、公園、寺院などに植え、並木にもする。

《 むか~し ばなし ── 郷里の祖母による DDT の散布と あせ知らずの塗布 》
ほんとうに昔のはなしである。生家がいなかの開業医で、ながらく土日も無く患者さんが押しかけていた。そのため週末は、兄・妹と三人そろって、田舎のバスにゆられて母の実家に行かされることがおおかった。
そこも開業医であったが、伯父が軍医として招集され、南方戦線で戦歿したため、女医の伯母・叔母がふたりと、もうひとりの叔母・看護婦さん・従姉妹がふたり・祖母と、どういうわけか九人ほどの女性ばかりがいた。
すなわち生家は母が医業事務のほかにすべての家事をとりしきり、通いの看護婦さんがふたりいただけだけで、育児にはなかなか手が回らなかった。それに対して、母の実家には十分な人手(女手)があったことになる。

バスで小一時間(いまなら車で20分ほど)かけて母方の実家に到着すると、祖母か伯母のどちらかが、
「まぁまぁ、みんな頭がシラミだらけ。DDT を噴霧するからね」
と、頭髪に向けてシュパシュパと、頭がまっ白になるまで DDT を散布された。続けて、
「ホラホラ、三人とも躰じゅうあせもだらけ。あせ知らず、あせ知らず」
と、今度は全裸にされて、パタパタとおしろいをたたくように、全身が DDT と「あせ知らず」でまっ白になるまで大騒ぎをしてから入室を許された。こんな光景は格別珍しいものではなく、小・中学校でも全学童に DDT 散布をしばしば実施していた。
つまり戦後まもなく、わが国が貧しかった時代のはなしである。

当時の DDT は占領軍(GHQ)からの援助品 であったが、のちに DDT に発癌性がうたがわれ、環境ホルモン 作用とあわせておおきな話題となった。そのために現在のわが国ではほとんど使われることがないらしい。
これは昭和25-30年ころ、大昔のはなしであるが、こんな過去があって、DDT ともども「あせ知らず」も苦いおもいでとなっていた。
あせ知らずたまたま洗面所に「あせ知らず」が置かれていた。家人によると、アセモ(汗疹)予防に良いし、香りも爽やかだということで、近年の話題アイテムだそうである。そして使用をすすめられた。
この齢になって、湯上がりに「ベビー・パウダー」もどうかな? とおもっていたので、恐る恐る使ってみた。たしかに爽快だし、むかしとおなじようなパッケージで、懐かしい香りがした。

おもえば DDT は随分批判されたが、「てんか粉 あせ知らず」は話題にもならず、ただただ黙って忘れられていたような気がする。
この狂気にみちた夏は、「あせ知らず」で乗りきることにしようとおもった次第。

【Season’s Greetings】 ドイツの友人バウマン+バウマンより All the best… 問題は思考だけでは解決できないのだから

cid_image001_jpg@01D24635-512x1024[1] cid_image001_png@01D239D9[1]上掲のカードは1993年のボンに設けられた当時の国会議事堂のプロジェクトで使用した詩です。
どんな色も、どんな問題も解決も、間違いも真実も、すべては混在しているというこの詩は、驚くほど現代とも通底しています。
親愛なる日本の友人たちに素敵なクリスマスと新年がやってくることを心から願っています。
情熱や勇気、既成概念にとらわれないクリエイティビティが、必ずや軍艦の浮かぶ世界の海を越えてくれるはずです。問題は思考だけでは解決できないのだから。
バーバラ・バウマン+ゲアド・バウマン b+b 

文字壹凜まとめ
【文字百景26 バウマン+バウマンと私たち PDF moji-hyakkei 26 B&B_1

【造形詩集】 森 郁 男 造形詩集 『 青 春 の 虜 』

森 郁男は、若くしてデビューした「造形詩」の詩人であった。 そして80年代のどこかで交通事故に遭遇し、いっときは生命の危険すらあったひとである。
森郁男造形詩集_青春の虜
たれに紹介されたのか、刊行直後に『 森 郁 男 造形詩集 青 春 の 虜 』を入手した。
それからすでに40余年が経過した。
やつがれも詩人も相応の歳をかさね、いつの間にかやつがれの書棚から詩集がみられなくなった。

それでも年賀状の交換がつづいた。いつも正月になると一枚のはがきにつづられた森 郁男のことばに霰にうたれたようになり、ときに、あかるい陽光をあびたような気持ちになっていた。

最近 『 森 郁 男 造形詩集 青 春 の 虜 』 を再読したくなったが、詩人の手もとにも一冊をのこすだけだと聞いてあきらめていたところ、デジタルデーターを送付していただいた。
ここに紹介する。
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<森  郁 男  略歴>
1949年  新潟県十日町市にうまれる (本名 : 江村 清)
1952年  東京都足立区梅田町に移転
1971年    同人誌 『わだち』 創刊に参加
1973年  「 詩と造形について No.2 」を『わだち』第7号に発表
1975年  『 森 郁 男 造形詩集 青 春 の 虜 』 わだちの会より発行

その詩は、みずからことばを紡ぎだし、そのことばを、縦横に、大胆にコンポジションする作風で、一世を風靡した。
その詩集に綴られた百篇のことばは、ひとのことばではなく、呻吟し、選択をこらし、みずからが紡ぎだしたことばによる。
またその造形手法は、ふり返れば性能のひくい写真植字機をみずから駆使しての 「造形詩」で あった。

森 郁男は、造形詩集『青春の虜』を発刊後も、翌1977年より官製はがきによる「造形詩通信」を発行。2016年現在76号。表現粒子としての「文字」の可能性を探り続ける。
「日独ヴィジュアル・ポエトリイ展」や「ヴィジュアル・ポエジィ・パリ展」をはじめ内外のヴィジュアル・ポエム展への出品を継続中。

そういえば森 郁男は、電子メール、ケイタイ電話などのデジタルメディアには消極的なようである。その分達筆で、悪筆をきわめるやつがれなど、お便りをいただくたびに赤面する。 そこでいまは、わが国には森 郁男という、すごい詩人がいる ―― ということにしておこう。

森郁男造形詩集_青春の虜 森-01rre 森-02rre 森-03rre 森-04rre 森-05rre造形詩集    青 春 の 虜
著      者    森  郁 男
発  行  所    わだちの会
装      本    A 5 判 118ページ 上製本 横開き
組版印刷    写真植字版下法 オフセット平版印刷

発      行    1976年01月01日
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造形詩集    青 春 の 虜     あとがき
「青春の虜」という名の詩集。今から四年前に名づけられていた脳裏の中の詩集。
それが、やがて間もなく現実のものとなろうとしている。 詩集と呼ぶところを敢えて「造形詩集」と袮したことについては、ここで理由づけをするまでもなく、読んでいただいた人、あるいは視ていただいた人の判断にお任せしようと思っている。

いずれにしても、二〇代も後半になって、やがて〝いい年をして〟などと云われるような頃になってこれを発行することに、若干のためらいを感じたりしている。
しかし、この「青春の虜」を発行することで、きょうに至るまで私の青春に対して、ひとつの区切りをつけたいという気持ちがあったことは確かである。
詩隼を発行することが青春への訣別ならば、一日延ばしに発行が遅れて、何年も時が経ってしまったこの年月の間、私はまさに青春の虜の中にいたのかも知れないと思ったりしている。

〝お前の青春時代に何があったのか?〟と問われたとき、私は詩を書くかくことしかなかったと答えるかも知れない。
私にとって、生命の次に大切なものが、青存時代に書き綴ったこれらの詩篇だといえる。
〝僕はね、たった今、火事か地震がきたら、書き綴ったこれらの詩篇の束を抱いて、外へ飛び出すつもりだ〟と友に語ったことがある。
生命の証し、あるいは生きた証し。青春時代にひとつの情熱を燃やして書き綴った紙きれが、日々の思いを日めくりのよう再現してくれるはずである。


しかし、私は殆んどといっていいくらいに、過去に書いた詩を読むことをしない。過去を回顧することよりも、できることなら明日の為の新しいい一ページを書き添えたいと思っている。 詩を書くことしかなかった十代の終わりからの青春の日々。万年筆を握りしめて、ただただ何かを見つめていた、そんな過ぎし日の自分の姿が思い出されてくる。

詩を他人に見てもらうということは、嘗て思いもよらないことだった。詩は、ひとり静かに書き綴っていればよいのではないか。そんな思いが、今となっても心の奥底に濳んでいたりする。

今は、詩集を出そうと決意した日から今日に至るまでの問、常に心の中にあった緊張から解放されて、ほっとしたやすらぎを感じている。
この詐集を発行することで、青春への訣別を告げるとともに、できうれば、明日からの道標としたいと思っている。

単なる詩隼としてではなく「造形詩」としてヴァリエーション化したこの試みが、どのように受けとられるか未知である。心の中では、今後も造形詩に閇わっていくかも知れないという疑問符に浸りながらも、その一方では、ひとつひとつ言葉を創造していった青春の日々のようにして詩を書いてみたいという願いがあったりする。

造形詩への傾倒は、出版に当って詩と最後まで関わっていこうと思ったこと。自らの手でクリエイ卜することによって、より一層詩と一体化できるのでは? と考えたからである、さらに、この百篇の詩の背後には、詩集に載ることのなかった多くの詩篇があることを自ら認識したいと思っている。
オリジナリティとかアイディアの踏襲だとかいうことには、何の意見も持ち合わせてはいない。とにかく自分の力の可能な限り頑張ってみたつもりである。
この「青春の虜」の意味することは、新しい創造へのステップだとか芸術だとか理屈づけをすることではなく、青春の日に毎夜憑かれたように詩を書いていた一人の青年の、極く単純なロマンの軌跡であると回時に、ロマンへの執着魂であるといえる。
一九七五年 冬                     森   郁 男

年越しの古株からトロロアオイの花が咲きました

この種子のもとは2009年05月に、都下あきる野市五日市町の軍道紙グンドウガミの工房からわけていただいた数株の苗にはじまった。
トロロアオイの花。2013.10その年の暮れからアダナプレス倶楽部の会員の皆さんに種子を配布してきたが、何人ものかたが単年に終わらせず、もう3回も同じ茎からトロロアオイの開花をみているそうである。

昨年早春、ビルの保守工事で、煉瓦をつんでつくった手づくりの「空中花壇」が、お気に入りの「ロダンの椅子」ともどもそっくり破壊されてしまった。

ごてごてと 草花植ゑし 小庭かな

正岡子規(俳人・歌人 1867-1902)「小園の記」より

「空中庭園」には、子規庵の庭園さながら、雑多の艸艸がそだっており、煉瓦の裏側には野バトの巣もあった。工事がおわったあと、寒寒としたベランダになったままきょうにいたる。
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例年3月下旬に黒ポットにトロロアオイの種を播き、その2-3本を定植して花を楽しんできた。昨春は黒ポットも無くなっていたので、卵のパックに播種をしたが発芽段間で失敗したので、晩春に植木鉢に種子を直まきして成長をみまもった。
とろろあおい播種 DSCN7232密植しすぎて育ちはわるかった。しかも開花期に国外にでかけていて、報告の機会を失した。
ろくに肥料もやらず、鉢をそのままにしておいたら、04月下旬に花をつけた。例年に比ぶべくもない小ぶりな花だったがうれしかった。ほかにも花芽をつけていたので、あわてて液肥を購入してつぎの開花をまっている。
どうじに種子がたくさん残っているので、もう一鉢にトロロアオイを播いた。どんな花をつけてくれるかたのしみにしている。

【 関連情報 : 花筏 朗文堂-好日録032 火の精霊サラマンダーウーパールーパーと、わが家のいきものたち 2013年10月09日

 

ときのたつのははやいもの。久しぶりに薩摩隼人・薩摩おごじょの皆さんと熱い交流

adana トップページつい最近のこととおもっていたのに、もうあれから一年半ほどのときがたちました。
3日間5,000人ほどのお客さまを迎えた活版礼讃イベント<Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO>開催の地、櫻島を至近にあおぐ鹿児島「尚古集成館・仙巌園」に2月13日[土]-14日[日]の週末に、商用もあって一泊二日の日程でいってきました。

【 関連情報 : Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO - Report 15  いまも続く薩摩隼人, 薩摩おごじょとの協働作業 DSCN6311 DSCN6293 DSCN6311 DSCN6293 DSCN6291 DSCN6318 DSCN6320 DSCN6325 DSCN6328 DSCN6329DSCN6333仙巌園の菜の花2014年11月開催の<Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO>以後、おおきな変化は2015年(平成27)7月5日に、尚古集成館(旧集成館・旧集成館機械工場を含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が世界文化遺産に登録)が世界遺産に登録されたことでしょうか。

そのために「尚古集成館」「仙巌園」ともどもサインや施設の一部に変更がみられました。
また二月の初旬に数十年ぶりにみた降雪のため、「尚古集成館」も特別休館を余儀なくされ、植栽にも被害があったそうですが、二月中旬のこのとき、館内庭園には避寒櫻が花をつけ、名をしらぬ大きな鳥が憩っていました。

<Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO>で併催された、尚古集成館 館長 : 田村 省三氏による特別講演会 < 尚古集成館所蔵/重要文化財 『 木村嘉平活字 』 と 薩摩藩集成事業について >で薩摩藩(鹿児島)の、そして長崎の活版印刷事業の嚆矢となった俗称『薩摩辞書』と五代友厚に関しては、NHK 連続ドラマ『朝がきた』が話題となったことで、すっかり著名な存在となっていて、田村館長ともどもすこし笑いました。
【 関連情報 : Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO - Report 11  講演会 : 田村省三館長、 展示紹介 : 加久本真美さん、渡辺 絵弥子さん
DSCN7916 DSCN7912 DSCN7914 DSCN7918 DSCN7926DSCN7927《鹿児島の夜はいつものところで、いつものメンバーとご一緒しました》
鹿児島にはアダナ・プレス倶楽部の会員がたくさんいらっしゃいます。
今回も六花窯:横山博さんの肝煎りで、鹿児島市役所ちかくの「いつものところ-店主のご意向で店名はご容赦を」で、松山先生、前田さんご夫妻、早川さん、稲留さん、橋口さんらの様様な造形者の皆さんとの熱い交流。

お料理いっぱい、薩摩焼酎どっさりのせまい会場では、地元の皆さんでも数年ぶりという再会があったり、前田夫人の詩吟もとびだして、鹿児島の夜はしんしんと更けていきました。
いずれにしても、各所で活版印刷が始動しています。
鹿児島にも一粒の種子がちいさな芽をだしました。こんどまた鹿児島を訪問するのはそう遠くはないようです。 DSCN6286 DSCN6277 DSCN6276

【会員情報】 Bonami の三人が「湯河原・真鶴アート散歩」の一環として<dear my sister>の展示会開催

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Bonami のホームページに「dear my sister」の特設ページがアップされています。
http://atelierbonami.com/?p=2777
閲覧をお勧めいたします。

Bonami

< ボナミ について >
杉山聡 三木葉苗 三木咲良さん のトリオ。
神奈川県の小さな港町、真鶴のアトリエで
手製本、活版印刷などを用いた本や紙のものを制作しています。
Bon ami ( ボナミ ) はフランス語で 「 なかよし ・ 良き友だち 」 の意味。
私たち 3 人は、はじめて出会ったその瞬間から仲良しになりました。
そのことが、私たちの人生でいちばんの彩りです。
浮き沈む日々も、ただ、こう言います。 「 私たちは Bonami ( なかよし ) です。」
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いつも、どこか、なにか、いい感じの Bonami  のトリオです。
活版礼讃イベント<Viva la 活版 Let’s 豪農の館>での出品作品は、多くのかたが手にされ、おおきな感動を呼んでいました。
そんな Bonami のお三方が、2015年11月「湯河原・真鶴アート散歩」の一環として<dear my sister>と題した「活版印刷と手製本で綴るオリジナル絵本 四作目」の展示会を開催されます。
開廊日に注意してのご参観をお勧めいたします。

相響するふたつの美術館 【碌山美術館/新宿中村屋サロン美術館】, 荻原碌山と相馬黒光 ― その相剋と懊悩

愛は芸術、相剋は美なり - Love is Art, Struggle is Beauty.
―― 荻原碌山


平成27年度 夏季・秋季特別企画展
荻原碌山 制作の背景-文覚・デスペア・女

会  期 : 2015年08月01日[土]-11月08日[日] 会期中無休
会  場 : 碌山美術館 第二展示棟    399-8303  長野県安曇野市穂高5095-1

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荻原守衛   《 女 》
作者名 : 荻原守衛 制作年 : 1978年
鋳造サイズ : 98.0×70.0×80.0 cm  技法/素材 : ブロンズ

この彫刻作品は、荻原守衛(碌山)の絶作です。
膝立ちのポーズで、両手を後ろに組んでいながらも前へ上へと伸び上がろうとする胴体。
立ち上がろうとしながらも膝から下は地面についたまま立ち上がれない。
つま先から額までが螺旋構造となり、不安定なポーズでありながら全体の動きの中で統一された美しさを放っています。
また内側から迫ってくる緊張感と力強いエネルギーが観るものを圧倒します。

荻原は、1910年(明治43)に 《 女 》 の石膏像を完成させて亡くなりました。 同年、山本安曇によって鋳造され、その半年後の第 4 回文展に出品されています。その作品は現在、東京国立近代美術館に所蔵されています(重要文化財)が、本作品は、のちに制作された石膏複製より鋳造されたものと考えられています。
[ 上掲写真は新宿中村屋サロン美術館 所蔵/引用許可取得済み]
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荻原守衛(おぎわら もりえ 号 : 碌山 ロクザン 1879-1910年)が残した傑作 《女》(1910年)は、相馬黒光への思いが制作の動機となっています。この作品をより深く理解する上で不可欠なのが 《文覚》(1908年)、《デスペア》(1909年)の二つの作品です。

鎌倉の成就院に自刻像として伝わる木像に、文覚モンガク上人(平安末期-鎌倉時代の真言宗の僧。1139-1203)の苦悩を見て取って制作した《文覚》、女性の悲しみに打ちひしがれる姿に文字通り絶望(despair)を表わした《デスペア》には、当時の荻原の胸中が重ねられています。
最後の作品となった《女》には、それらを昇華した高い精神性が感じられます。それはまた人間の尊厳の表象にもつながるものなのです。

個人的な思いを元にして作られた作品が、普遍的な価値あるものとなっていることは、百年前の作品が現代の我々の心に響いていることからも容易にうなずくことができます。
作品に普遍的価値をもたらした荻原の精神的な深さと芸術の高さ、またそれらの当時における新しさとを、多くの方々に感じ取っていただこうと本企画展を開催いたします。

20150724142207024_000120150724142207024_0002  [上掲フライヤー PDF  rokuzan-bijyutukan 4.5MB ]

[ 季節違いで恐縮だが、以下の碌山美術館の写真は、昨晩秋の2014年11月21日撮影 ]
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DSCN9437DSCN9439DSCN9446DSCN9442DSCN9466 [ 参考資料 : 『 碌山 愛と美に生きる 』 碌山美術館 平成19年 第三版 ]
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《 新宿餘談-荻原守衛 碌山 、女 をんな  ………… 》

愛は芸術、相剋は美なり - Love is Art, Struggle is Beauty.
―― 荻原碌山

菓子匠:新宿中村屋の創業者、相馬愛蔵 ・ 相馬 良 リョウ(通称:黒光コッコウ)夫妻は、1901年(明治34)本郷でパン屋 「 中村屋 」 を創業した。 そして1909年(明治42)には、新宿の現在地に本店を移転した。
相馬夫妻は芸術に深い造詣を有していたことから、中村屋には多くの芸術家、文人、演劇人が出入りするようになり、 それが「中村屋サロン」のはじまりとなって、現在は「 中村屋サロン美術館 」として公開されている。

中村屋サロンの中心人物は荻原守衛 (おぎわら-もりえ 以下 碌山 ろくざん 1879-1910 行年30 )であった。
碌山は、相馬愛蔵と同郷の 長野県 南安曇郡 東穂高村 ( 現 : 安曇野市穂高町 ) の出身で、18歳のとき、相馬 良 ( 以下 黒光 コッコウ ) が嫁入りの際に持参した、長尾杢太郎 の《亀戸風景》 の油絵ではじめて油絵を知り、画家を志したという。

最初はアメリカに、まもなくフランスにわたり、極貧にあえぎながらの海外研修は07年余におよび、画家志望から彫刻家に転向した碌山が帰国したのは1908年(明治41)のことであった。帰国後は中村屋のほどちかく、新宿角筈ツノハズにアトリエを設け、中村屋に足しげく通った。
碌山は帰国からわずか02年余ののち、結核のために1910年(明治43)、30歳の若さで歿した。その最後の作品が「女 をんな」であった。
──────────
愛は芸術、相剋は美なり - Love is Art, Struggle is Beauty.
―― 荻原碌山

はじめて彫刻作品「女 をんな」をみたとき、おもわず全身に鳥肌がたった。そして、碌山が黒光と出逢ってからの18年ほど、狂おしいまでの懊悩にみちた歳月をおもった。
東北・仙台のひと、黒光が、山里ふかい安曇野で碌山のまえにあらわれたとき、黒光はすでに相馬愛蔵の妻であり、手の届かないところにいた。

こいしいこととは、かなしいことである ―― それからの18年余の碌山の人生とは、ただただ相剋と煩悶と懊悩の日日でしかなかった。

帰国した碌山は、すでに労咳におかされていた。当時の労咳は死の病であった。
そのやせ衰えた碌山のまえに、黒光は輝くばかりの裸身を挺した。碌山はせわしなくおもいびとの裸体のスケッチをかさね、石膏像を刻みだした。
そして銅像としての完成をみないまま、中村家の襖を緋アケにそめて喀血し、そのまま息をひきとった。

散るとみれば また咲く花の にほひにも 後れ先立つ ためしありけり
―― 西 行

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《 新宿餘談-碌山美術館門前の蕎麦は絶品だった 》

昨年の晩秋に所用があって長野県白馬村にでかけた。そのかえりに碌山美術館をおとづれた。北アルプスの高嶺にはすでに冠雪がみられ、木木もすっかり落葉して、館の庭にはカリンが拾うひともないままに実をたくさんつけていた。
碌山美術館のギャラリーショップ「グズベリーハウス」では、すでに薪ストーブが赤くもえ、そのぬくもりがうれしかった。

「かた 型」のあるものが好きである。「カタ TYPE」とは「定まったカタチ TYPE」を有するものである。だからタイポグラフィ Typography にこだわりがあるし、彫刻にもかなりのこだわりをもっている。
ほんとうはここで荻原碌山と相馬黒光のことを書きたかった。労咳に仆れた碌山がのこした「女 をんな」像は、銅像ではなく、その原型「かた Type」でもあった。
ところが、非才にしてそれに迫ることはならなかった。そこでありきたりの蕎麦談義と、つまらんお国自慢になってしまった。
読者諸賢のご海容を願う次第である。
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信州信濃、田舎うまれやつがれは、蕎麦にはこだわりがある。
なにもない、蕎麦だけの「盛り蕎麦」がこのみである。せっかくの香りをとばしてしまう、絆創膏を貼りつけたような海苔や、いかに地元の特産とはいえ、とってつけたようなワサビもいらない。
信州蕎麦には、古来、信州善光寺大門町/八幡屋磯五郎の「七味唐がらし」ときめている(勝手に)。ちなみに「七味」が「ヒチミ」になって発音がつらい東京者(亡妻がそうだった。日比谷はシビヤ)は「七色唐辛子 ナナイロ トンガラシ」である。つまり、ただ蕎麦だけがあればよい。

碌山美術館の正門の前にちいさな蕎麦屋があった。蕎麦処信州でも、いまやなかなか旨い蕎麦にありつくことが少なくなった。はじめて入った店でもあるし、さして期待もせずに、
「大盛りの、盛り蕎麦一枚」
と注文した。そこで一瞬の間があって、店員いわく、
「あの~、ウチの盛りはいくぶん多めなのですが、よろしいですか」
「ああ、結構ですよ。大盛りの蕎麦をください」
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出てきた「大盛り蕎麦」のボリュームにのけぞった。東京ならふつうの「盛り蕎麦」五枚分はたっぷりありそうなたいそうな量の蕎麦だった。
最下部写真の手前が、家人が注文したふつうの「盛り蕎麦」。これだけで東京の「大盛り蕎麦」より分量はありそうだった。その倍量がこの店の「大盛り蕎麦」だった。

食べはじめたら、これが絶品。これぞ、まさしく蕎麦という、腰と香味のある旨い蕎麦だった。
おもへらく、かまで旨い蕎麦を食したのは、子供のころにオヤジの実家で、あるいは戸隠山の山中で、あるいは長野善光寺のちかく、地元客しかいかない蕎麦屋くらいであろうか。
これらの蕎麦で共通していたのは、いずれも水道水をもちいないことのようだった。そもそもオヤジの実家以外の蕎麦屋の蕎麦粉は、いまや蕎麦畑をみることもほとんどなくなった信州でも、おそらくは輸入品であろうし、東京でも信州でもおなじものであるとおもわれた。

その食感がはなはだしくことなるのは、蕎麦は、蕎麦うちからはじまって、茹で、水洗いと、大量の水をもちいる。そして付け汁の煮出しにも水がもちいられている。しろうとかんがえだが、この水が水道水だと、どうしてもカルキ臭くなって蕎麦の食味にも影響がありそうである。
たしか碌山美術館正門前、駐車場脇の蕎麦屋は「寿々喜/すゞき」といったとおもう。このあたりは、北アルプスの湧水が随所にわく。安曇野の銘水はひろく知られるところである。碌山美術館参観の折にはおすすめしたい。
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ところで、新宿朗文堂のちかくにも、なかなか旨い蕎麦屋がある。屋台のような、素朴でちいさな店だが、寡黙なオヤジと、その娘らしきふたりのおばさんが店を切り盛りしている。
なぜここの蕎麦が旨いのかと、画材の世界堂にいった帰りに店の裏をのぞいてみた。そこにはちいさな店には不似合いの、おおきな浄水器が鎮座していた。

この店は冷暖房もほどんどない、吹きさらしにちかい店なので、客の大半は蕎麦と酒好きの中年オヤジとみた。オヤジに連れられて若者も来店するが、かれらは軽薄に掲示板型の「食べ◯◯」などに情報をながさない。そんなことをしたら、多忙のあまりオヤジは過労死し、おばさんふたりは腰痛か疲労骨折かなにかで閉店するに違いないとおもっている。
だから常連客は、店がたて込んでいれば、冷や酒一本と、盛り蕎麦一枚ですますし、すいていれば、山菜の天ぷら、自家製の漬けものなどをとって、たのしく談笑しているのである。
新宿邨もなかなかすてたものではない。

【 既出情報 : 朗文堂ニュース 新宿中村屋サロン美術館開館と、相馬黒光、荻原碌山のこと。2014.11.28 】
【 詳細情報 : 碌山美術館 /  関連情報(姉妹館) : 新宿中村屋サロン美術館

残暑お見舞い & 新塾餘談 おもかげのはし

2015残暑見舞い
《 新 宿 餘 談 》

七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき

新宿区神田川に架かる「 面影橋 」ちかくの空き地に咲いていた名をしらぬ野艸。
このあたりは、江戸千代田城の築造者とされる 太田道灌 の逸話にちなむ「山吹の里」の地とされ、江戸時代・明治時代には名所のひとつであった。いまは山吹はみあたらないが、橋のたもとにそれをつたえる記念碑がひっそりとたたずむ。 DSCN0022DSCN0034DSCN0041DSCN0030DSCN0046DSCN0049DSCN0052いまではなんの風情もないコンクリートの橋ではあるが、この橋は歌人:在原業平がきよらかな水面にその姿をうつしたことから「姿見の橋」とも、あるいは徳川三代将軍家光がこのあたりで鷹狩りの鷹をみつけて名づけた橋ともされる。
「おもかげのはし/俤の橋」の名は、和田於戸姫なるものが、かずかずの悲劇をなげいて、この水面に身をなげうったときの和歌から名づけられたとする。

いずれにしても、漢字だけの「面影橋」よりも、どれもが風情のある名前ではある。
その「おもかげのはし」のたもとに水稲荷神社があり、そこのおおきなマンションに友人が事務所を開設していた。その友人「松本八郎」が逝って、はやいものでまもなく一年になろうとしている。夏の夕まぐれ、「おもかげのはし」をたずね、クレマチスの真っ白な花弁を見ながら、勝手に先に逝った友人を偲んだ。

花こよみ 019

詩のこころ無き吾が身なれば、折りに触れ
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。

例年になくはやく櫻が開花した春でした。
そこで、ひさしぶりの「花こよみ」。
おりしも春爛漫、若葉が萌え、花が咲き、鳥が歌い、いのちが輝く、とても良い季節です。
清明節(03月05日)早朝にほころんだ  菜の花  壹凛、ご進呈もうしあげそうろう。

原へねころがり

なんにもない空をみていた

     八木 重吉(1898-1927)  

花こよみ 018

花こよみ 018 

詩のこころ無き吾が身なれば、折りに触れ
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。

燃えさかる 夏の散歩に
ぼくは採る
  みどりしたたる 木の葉一枚
いつの日か
  ぼくに語ってくれよう
うぐいすが
  高らかに鳴き
森のみどりに
  萌えるこの日を

作詩/テオドール・シュトルム(Hans Theodor Woldsen Storm   1817-1888)
邦訳/藤原  定 訳 

   

通勤路にあるマンションの脇に、トクサ(木賊・砥草)が花をつけていました。ツクシのようですね。

  《空中庭園 ── すこし手入れをさぼったら、悲惨な状況になっている》
どうやら冬のあいだの手入れ、肥料やり、種蒔きなどが奏功したのか、早春の吾が空中庭園は、菜の花、レンゲをはじめ、いろいろな艸の花が一斉に咲きほこって、それはそれは賑やかなものだった。
その花の宴がおわったあと、八百屋で買った人参や長ネギが花をつけた。これらは花や艸というよりむしろ野菜だが、泥つきのものを買ってきた。その大部分は食して、根っこの食べ残しを適当に植えておいたものだった。
人参も長ネギの花も、いささか鑑賞には適さないが、元気いっぱい、愛嬌たっぷりのネギ坊主になったり、モジャモジャした頭髪のようになる人参の花も悪くなかった。

すこし空間がさびしくなったので、気まぐれに花屋でミニトマトの苗と、フリージアの鉢植えを買ってきた。ついでに朝顔の苗も買った。都合450円の出費。ところがこれが失敗だった。ミニトマトの鉢にナメクジがついていて、アッというまにせまい空中庭園いぱいに繁殖した。しかもナメクジだけではなく、ダンゴ虫も付着していたようで、いろいろ播いた艸花の新芽を食い尽くすという暴挙にでた。

ふつう、やつがれは、空中庭園では「ロダンの椅子──100円ショップで買ったゴミ箱を天地逆にし、そこに人工芝を敷いたもの」に腰をおろし、よしなしごとをかんがえている。それがここのところ、つぎつぎと這いでてくるナメクジと、ダンゴ虫の退治で、いそがしいったらない始末に追いこまれた。なによりも紫煙をくゆらしている間に、つぎつぎと這いでてくるのだから嫌になる。

おまけに、いつの間にか灌木化したクチナシのような木(名は忘れた)がたくさん花をつけ、蜂や揚羽蝶が飛来していた。キャツラ、とくに蝶蝶は、あきらかに花蜜を盗んでいたが、秘めやかに産卵もしていたらしい。フト気づいたら、新芽を蝶の幼虫にすっかり蚕食されていた。

かつて昆虫少年だったので、蝶の幼虫、イモムシはなんとはなく生存を許している。それにしてもキャツラの食欲は旺盛で、灌木の葉をすべて食べつくしそうな勢いで、チョイと悩んでいる。はやく成蝶になって飛翔していってほしいのだが……。
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《花筏 ── すこし更新をさぼったら、非難囂々》
5月の連休のイベント【活版凸凹フェスタ2012】の前後に、ひどい喘息の発作がつづいた。アレルギー源は近所の内装工事のペイントとみなした。いいわけになるが、かなり辛いものだった。
また新年度のさまざまなイベントが重なって多忙でもあった。
【活版凸凹フェスタ2012】の終了後、まもなく2ヶ月になるが、まとまった報告をしていないのが気になっている。そして今年の失敗は撮影担当者をきめていなかったことである。イベントの終了後にアダナ・プレス倶楽部の会員から写真を寄せていただいたが、それが重複しながら2,000枚以上になって、情弱やつがれの手に余っていた。
また、顔真卿生誕1300年を期して、タイポグラファとしてのひとつの見方を工夫をしていた。

そんなことが重なって、このタイポグラフィ・ブログロール『花筏』の更新が滞っていた。それが最近@メールで、
「花筏の更新が止まっていますけど、体調でも悪いのですか?」
といったお便りを頂戴している。もっと直裁に、
「花筏、新情報を楽しみにしています!」
というお便りも頂戴した。いずれも少し年配のかたが中心なのが無念ではあるが……。
ですから、はた迷惑を承知で、このブルグロールの更新に注力いたします。ご愛読をお願いいたします。

花こよみ 017

花こよみ 017 

詩のこころ無き吾が身なれば、折りに触れ、
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。

おぼろ  月  夜

  菜の花畠に 入日薄れ
  見わたす山の端 霞ふかし
  春風そよふく 空を見れば、
  夕月かかりて、にほひ淡し


  里わの火影ホカゲも 森の色も
  田中の小路を たどる人も
  蛙カワズのなくねも かねの音も
  さながら霞める 朧月夜

蛇  足 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
小学唱歌『朧月夜 オボロ-ヅキヨ』 
作詞:高野 辰之 (明治9年4月13日-昭和22年1月25日)
昭和8年(1933年)『新訂尋常小学唱歌 第六学年用』
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高野辰之さんのこと [  高野辰之記念館  ]
高野辰之さんの生家は長野県下水内郡豊田村であった。やつがれの生家は、豊田村から秋津村をはさんで、もうひとつ千曲川にそった下流、新潟県との県境につらなる下水内郡飯山町  →  飯山市である。
高野さんは長野師範学校(現信州大学教育学部)卒、飯山町で教員生活をしたのち、東京音楽学校(現東京藝術大学)教授となり、在京時代は代々木駅前に居住していた。その東京での旧居は3年ほど前まで保存されていた。
老境にいたり、郷里にちかい長野県上高井郡野沢温泉村の「温泉旅館住吉屋」の離れに移住して、ここでご夫妻とも逝去した。

高野辰之さんと、やつがれの母方の祖父はよほど昵懇だったらしい。またオヤジの郷里も野沢温泉村である。だからしばしば父母に連れられて高野家を訪問した。昨年逝ったアニキは、高野さんに抱かれたことを覚えており、その写真も実家にある。やつがれも抱かれたらしいが、乳児のころとて記憶にない。むしろ「温泉のおばあちゃん」と呼んでいた高野未亡人に、おおきな温泉風呂にいれてもらったり、氷水やマクワウリをご馳走になったことをわずかに覚えているくらいである。

猪瀬直樹『唱歌誕生  ふるさとを創った男』(小学館、2008年8月)がある。主人公は高野辰之さんと、真宗寺先先代住職井上某氏。浄土真宗西本願寺派・真宗寺の元住職は、明治の頃、ここ草深い信州から旅だって「大谷探検隊」の一員として、敦煌莫高窟の調査にあたった奇特なひとである。この真宗寺はふるく、飯山女学校(現飯山南高等学校)の教師時代に、島崎藤村が下宿として住んだ寺であり、ここにやつがれのオヤジとアニキも眠っている。

『おぼろ月夜 ♫ 菜の花畠に 入日薄れ 見わたす山の端 霞ふかし~』
『故郷フルサト ♫ 兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川~』
『春の小川 ♫ 春の小川は さらさら流る 岸のすみれやれんげの花に~』
『春が来た ♫ 春が来た 春が来た どこにきた~』
『紅葉モミジ ♫ 秋の夕陽に 照る山紅葉 濃いも薄いも 数あるなかに~』
以上の小学唱歌の作詞は、すべて高野辰之さんである。

猪瀬直樹氏(実は お~獅子シッシ と呼ばれていた一級後輩)はしるす……。
「ほとんどの日本人は、ふるさとというと、たくまずして、山があり、川が流れ、雪がシンシンと降りつもる、ここ北信州・信濃の飯山周辺の情景をおもう。それは小学唱歌で刷りこまれた幼児時代の記憶であり、その作詞家・高野辰之の心象描写による」と。
お~獅子、エライ!

ところで、北アルプスに源流を発する梓川と、南アルプスに源流を発する千曲川は、長野市のあたりで合流して正式には信濃川となる。上流からみて、その左岸はふるくから上水内カミミノチ郡、下水内シモミノチ郡、右岸は上高井カミタカイ郡、下高井シモタカイ郡と呼ばれてきた。信濃川をはさんだだけというのに、これらの各郡はともに競合し、ライバル視する仲であった。

高野辰之さんの郷里とやつがれの郷里は、道路が整備されたいま、車なら15分ほどであり、実家の片塩医院の通院・往診範囲であり、ともに下水内郡にあった。ところがなんと、豊田村は2005年4月1日、いわゆる平成の大合併で、川向こうの旧下高井郡信州中野市と合併した。
したがって、かつて飯山市が中心となって設立した  高野辰之記念館 は、信州中野市の施設となっている。 

豊田村の合併にやぶれた飯山市は逆襲にでて、やはり川向こうの、下高井郡野沢温泉村を合併しようとしたが、住民投票の結果合併は拒否され、勇気ある孤立のみちを野沢温泉村は選んだ。すなわちわがふる里・飯山市は、豊田村を川向こうの中野市にうばわれ、仕返しとばかり、川向こうの野沢温泉村に合併をしかけて袖にされた。豪雪の地、過疎の町・飯山は、あまりにあわれである。

オヤジが元気なころ、盆暮れには子供を引きつれてそんな飯山に帰省していた。オヤジが去って、アニキの代になると、次第に足が遠のいた。まして昨年アニキが逝くと、ひとがいいとはいえ、兄嫁さんと甥・姪の家では、もうふる里とはいいがたい。
てまえ自慢と同様に、いなか自慢はみっともないとされる。
されど、故郷  忘じがたくそうろう!

花こよみ 016

花こよみ 016  

詩のこころ無き吾が身なれば、折りに触れ、
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。
 

小学唱歌 春よ来い 

春よ来い 早く来い
あるきはじめた みいちゃんが 
赤い鼻緒の じょじょはいて
おんもへ出たいと 待っている 

春よ来い 早く来い
おうちのまえの 桃の木の
つぼみもみんな ふくらんで
はよ咲きたいと 待っている

蛇  足 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
作詞/相馬  御風 (豪雪地帯・新潟県糸魚川市出身 1883-1950)
作曲/弘田龍太郎(1892-1952)
あまりに寒いので、春をまつせつない気持ちを、小学唱歌に
たくしました。皆さま風邪など召しませぬように!

花こよみ 015

花こよみ 015  

詩のこころ無き吾が身なれば、折りに触れ、
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。
〔9月7日改訂〕

くさぐさの
実こそこぼれる 岡のべの
秋の日ざしは 静かになりて

          斎藤 茂吉(1882-1953)

アダナ・プレス倶楽部会報誌『Adana Press Club NewsLetter Vol.13 Spring 2001』に、東日本大震災被災地の復興・再建の夢と、活字版印刷ルネサンスの希望をのせて、会員の皆さんに、トロロアオイの種子を数粒ずつ同封して配送した。
吾が「鼠のひたい」を誇る空中庭園にも、鉢植えひと株、地植えふた株を植えた。昨年のトロロアオイを育てた経験から、連作は不可、株間を十分離し、丹念な水遣りを心がけ、液肥を10日に一度ほど与えてきた。

きょう9月2日[金]、颱風の襲来が予測される蒸し暑い朝であった。どんよりとおもい空であったが、鉢植えのひと株が花をつけた。すなわちこれが速報である。花はもめん豆腐ほど、うっすらとした黄色味を帯び、手のひらをいっぱいにひろげたほどの大輪の花である。これからしばらく、毎朝の着花が楽しみとなりそうだ。各地のアダナ・プレス倶楽部会員からも、
「もうすぐウチのトロロアオイが咲きそうです……」
といった、嬉しい@メールも着信している。

情けないことに吾が空中庭園では、花はすべて、陽光のある外に向かって着花するので、写真撮影はどうしても逆光になり、うっとうしいビルも避けがたく写りこんでしまう。おまけに撮影技術が拙劣とあって、トロロアオイの可憐さを十分お伝えできないのがなんとも口惜しい。
そこで、アダナ・プレス倶楽部会員のかたからお送りいただくであろう《花だより》も、本欄で随時アップしていきたいとおもう。

種子は三株が順調に開花すれば、ことしは100粒は採れそうである。おそらく会員のかたからも種子は譲っていただけそうだ。「ふるさと工房」に甘えるのではなく、来年はもっと多くのかたに、種子から育てるトロロアオイの成長をを楽しんでいただき、手漉き紙づくりにいそしんでみたい。
それにしても、9月に入ったというのに、この蒸し暑さはなんということだろう。おまけに、つい先ほどは激しい驟雨までふった。颱風が四国に上陸しそうな勢いで心配である。
本日、9月2日 七赤 赤口 庚申カノエ-サル。

花こよみ 014

詩のこころ無き吾が身なれば、折りに触れ、
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。

 海 の 入 り 日

浜の真砂マサゴに 文フミかけば
また波が来て 消しゆきぬ
あわれ はるばる わが思い
遠き岬に 入り日する

                                 木下杢太郎(キノシタモクタロウ 1885-1945)

花こよみ 013

詩のこころ無き吾が身なれば、折りに触れ、
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。

活 字 鋳 造 士

錫 と 鉛 の  秘 法 を も っ て
鋳 造 活 字 を  つ く る の が  こ の 儂ワシ じ ゃ
組 版 は  正 確 き わ ま り な く
整 然 と  活 字 が  な ら ぶ
ラ テ ン 語、 ド イ ツ 語
ギ リ シ ャ の 文 字 で も  同 じ こ と
イ ニ シ ャ ル、 句 読 点、 終 止 符 と 揃 え
あ と は  い つ で も 刷 る ま で さ

Illustration by Jost Amman
Text by Hans Sachs
1568

花こよみ 012

花こよみ 012

詩のこころ無き吾が身なれば、折りに触れ、
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。

    花たちばな 二首 

風に散る 花たちばなを 手にうけて
君がみためと おもひつるかな

―― 万葉集異体歌 山部赤人集 所収 よみしひとをしらず

五月待つ 花たちばなの 香をかげば
昔のひとの 袖の香ぞする

―― 古今集 よみしひとをしらず

花こよみ 011

花こよみ 011

詩のこころ無き吾が身なれば、折りに触れ
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく

  ふるさとの夜に寄す

 やさしいひとらよ  たづねるな!
―― なにをおまへはして来たかと 私に
やすみなく 忘れすてねばならない
そそぎこめ すべてを 夜に……

 いまは 嘆きも 叫びも ささやきも
暗い碧ミドリの闇のなかに
私のためには 花となれ!
咲くやうに ひほふやうに

 この世の花のあるやうに
手を濡らした真白い雫のちるやうに――
忘れよ ひとよ……ただ! しばし

 とほくあれ 限り知らない悲しみよ にくしみよ……
ああ帰つて来た 私の横たはるほとりには
花のみ 白く咲いてあれ! 幼かつた日のやうに

   立原道造(1914-39 24歳数ヶ月で夭逝した詩人・建築家・造形家)

花こよみ 010

花こよみ 010

詩のこころ無き吾が身なれば、折りに触れ、
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。

 菜 の 花 や 月 は 東 に 日 は 西 に

                                  与謝野蕪村(1716-1783)

花こよみ*009

花こよみ 009

詩のこころ無き吾が身なれば、折りに触れ、
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。
まして、原子力発電所の暴走にオロオロするだけの今においてをや。

雨ニモマケズ

宮澤賢治(1896―1933)
改行と文節の一部に手を加え、一部にふり仮名を付した。

雨ニモマケズ 風ニモマケズ
雪ニモ 夏ノ暑サニモ マケヌ
丈夫ナ カラダヲ モチ
慾ハナク 決シテ 瞋イカラズ
イツモ シヅカニ ワラッテヰル
一日ニ 玄米四合ト 味噌ト 少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ ジブンヲ カンジョウニ 入レズニ
ヨクミキキシ ワカリ ソシテ ワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ 病気ノ コドモアレバ 行ッテ 看病シテヤリ
西ニ ツカレタ母アレバ 行ッテ ソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ 死ニサウナ 人アレバ
行ッテ コハガラナクテモイヽトイヒ
北ニ ケンクヮヤ ソショウガアレバ
ツマラナイカラ ヤメロトイヒ
ヒデリノトキハ ナミダヲ ナガシ
サムサノナツハ オロオロアルキ
ミンナニ デクノボートヨバレ
ホメラレモセズ クニモサレズ
サウイフモノニ ワタシハナリタイ

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩