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【Pickup】花筏ゟ|タイポグラフィあのねのね|金属活字の主要原料-アンチモンの原料鉱石|輝安鉱の伝承と新資料発見

金属活字の主要原料-アンチモンの原料鉱石
輝安鉱の伝承と新資料発見 

輝安鉱・アンチモン・伊予白目【 独:Antimon,  英:Antimony,  羅:Stibium 】

本木昌造が谷口黙次に依頼して採掘したとされる「肥後国西彼杵郡高原村」の鉱山から
産出した、アンチモンの原料鉱石/輝安鉱 キ-アン-コウ

き-あん-こう【輝安鉱】── 広辞苑
硫化アンチモンから成る鉱物。斜方晶系、柱状または針状で、
縦に条線がありやわらかく脆い。鉛灰色で金属光沢がある。アンチモンの原料鉱石。

《 ともかく鉱物 イシ が好きなもんで…… 》
どんなジャンルにも熱狂的なマニアやコレクターがいるらしい。この輝安鉱の原石を調査・提供されたかたは、重機械製造で著名な企業の、技術本部の有力役員であったが、「趣味のアマチュアですし、社員に知られると笑われるので…… 」とするご本人のつよいご要望で「和田さん」とだけ紹介したい。
和田さんは小社に直接ご来社になり、小社刊『本木昌造伝』(島屋政一著  2001年8月20日刊)をお求めになられた。和田さんは事前に『本木昌造伝』p. 106 に紹介された「伊予白目、アンチモニー、輝安鉱」に関するわずかな記録に着目されており、その記録が三菱金属(現:三菱マテリアル)ほかの文献と一致しないにもかかわらず、印刷・活字業界では追跡調査がないままに放置されていることを遺憾だとされた。これを機にときおり来社され、さまざまな情報交換をすることになった。

¶  ともかく鉱物の 原石 イシ に関心がおありだそうである。全国規模で、同好の士も多いとかたられる。そのため、あちこちの鉱山跡をたずね歩き、すでに廃鉱となった 鉱山 ヤマ でも現地調査をしないと気が済まないとされる。そして、たとえ廃鉱となっていても、その周辺の同好の人士と連絡しあえば、少量の残石程度は入手できるのだそうである。

「蛇 ジャ の道は 蛇 ヘビ ですからね」[蛇足 ── 蛇がとおる道は、仲間の蛇にはよくわかるの意から、同類・同好の仲間のことなら、なんでも、すぐにわかるということ]と笑ってかたられる。
お譲りいただいた輝安鉱の原石はわずかなものだが、ふしぎな光彩を放って存在感十分である。これがアンチモンになる。かつては日本が世界でも有数の輝安鉱の産出国であったそうだが、現在は採掘されることがほとんどなく、多くは中国産になっているそうである。

¶ 和田さんはこと鉱石に関してはまことにご熱心であり、マニアックなかたでもある。もちろんさまざまな原石のコレクションを保有されており、グループの間では展覧会や交換もさかんだそうである。そんな和田さんは、金属活字の主要合金とされるアンチモンに関して、わが国印刷・活字業界に資料がすくなく、当該資料に関しても、明治24年『印刷雑誌』、昭和8年、三谷幸吉『詳伝 本木昌造 平野富二』での紹介以後、文献引用のみが続き、その後ほとんど現地調査がされていないことが、むしろふしぎだと述べられた。

¶ このような異業種のかたからのご指摘は、稿者にとってはまことに痛いところを突かれた感があり、汗顔のきわみであったが、これを機縁として、簡略ながらわが国の近代活字鋳造における「伊予白目、アンチモニイ、アンチモン、アンチモニー、輝安鉱」の資料を、わずかな手許資料から整理してみた。
まだ精査をの終えておらず、長崎関連資料や、牧治三郎、川田久長らの著述も調査しなければならないが、それは追々追記させていただきたい。目下の調査では、本木昌造が採掘させたとするアンチモンの鉱山は、「肥後の天草島なる高浜村、肥後国西彼杵郡高浜村」であるとされていた。
の記述は、福地櫻痴の記述では当時のアンチモンの品質が極端に悪いことを嘆くばかりで、探鉱のことや、産出地の地名などはみられない。本木昌造・谷口黙次による採鉱のことは、出典不明ながら三谷幸吉が最初に述べていた。ふるい順に列挙すると下記のようになる。

    • 〔福地櫻痴〕「本木昌造君ノ肖像并ニ行状」『印刷雑誌』(伝/福地櫻痴 第1次 第1巻 第2号 明治24年2月  p. 6)
    • 〔三谷幸吉〕『詳伝 本木昌造 平野富二』(三谷幸吉 同書頒布会 昭和8年4月20日  p. 61-2)〔三谷幸吉〕「本邦活版術の開祖 本木昌造先生」『開拓者の苦心 本邦 活版』(三谷幸吉 津田三省堂  昭和9年11月25日 p. 21-22)
  • 〔島屋政一〕『本木昌造伝』(島屋政一  朗文堂  2001年8月20日   脱稿は1944年10月  p.102-6、p. 175)

〔福地櫻痴〕「本木昌造君ノ肖像并ニ行状」『印刷雑誌』(伝/福地櫻痴 第1次 第1巻 第2号 明治24年2月  p. 6)ゟ 抜粋
原文はカタ仮名交じり。若干意読を加えた。
安政5年(1858)本木昌造先生が牢舎を出でて謹慎の身となられしころ、もっぱら心を工芸のことにもちいた。(中略)従来わが国にて用いるところの鉛は、その質純粋ならずして、使用に適さざるところあるのみならず、これに混合すべき伊予白目(アンチモニイ)もはなはだ粗製であり、硫黄その他の種々の物質を含有するがゆえに、字面が粗造にて印刷の用に堪えず。アンチモニイ精製の術は、こんにちに至りてもいまだ成功せず。みな舶来のものをもちいる。

〔三谷幸吉〕『詳伝 本木昌造 平野富二』(三谷幸吉 同書頒布会 昭和8年4月20日  p. 61-2)
若干の句読点を設けた。

明治六年[本木昌造先生](五十歳) 社員某を肥後の天草島なる高濱村に遣はして、専らアンチモニーの採掘に從事せしむ。先生最初活字製造を試みられしに當りて、用ふる所の 伊豫白目 イヨ-シロメ(アンチモニー)は、其質極めて粗惡なるのみならず、産出の高も多からざれば、斯くて數年を經ば、活字を初として、其他種々なる製造に用ふべきアンチモニーは 悉 コトゴト  く皆舶來品を仰ぐに至るべく、一國の損失少からじとて、久しく之を憂へられしに、偶偶 タマタマ 天草に其鑛あることを探知しければ、遂に人を遣はして掘り取らしむるに至れり。さて先生が此事の爲めに費されたる金額も亦甚だ少からざりし由なり。然れども其志を果す能はず、中途にて廢業しとぞ。
〔 編者曰く〕  ←三谷幸吉
註 社員某とあるは先代谷口默次[1844-1900 初代 長崎人・のち大阪活版製造所代表]氏を指したのである。卽ち當時アンチモニーは、上海と大阪にしか無かつたので、平野富二先生が明治四年十一月に、東京で活字を売った金の大部分を、大阪でアンチモニーの買入れに費やした位であるから、谷口默次氏が大阪で一番アンチモニーに經験が深かつた關係上、同氏を天草島高濱村に差向けられたのである。

〔三谷幸吉〕「本邦活版術の開祖 本木昌造先生」『開拓者の苦心 本邦 活版』(三谷幸吉 津田三省堂  昭和9年11月25日 p. 21-22)
若干の句読点を設けた。

(前略)斯カくの如く、わずか両三年を出でずして、其の活版所を設立すること既に数ヶ所に及んで、其の事業も亦漸く世人に認められるようになったが、何がさて、時代が時代だったから、如何に其の便益にして、且つ経済的なることを世間に宣伝はしても、其の需用は極めて乏しく、従って其の収益等はお話にならぬものであった。

而シ かも日毎に消費するところの鉛白目[ママ](アンチモニー)や錫を購入する代金、社員の手当、其他種々の試験等の為に費やす金高は実に莫大で、[本木昌造]先生は、止むなく伝家の宝物什器等 悉 コトゴト く売り払って、これに傾倒されたと云うことである。先生の難苦想うだけでも涙を禁じ得ないのである。

明治六年[1873年]、門弟谷口黙次 タニグチ-モクジ[1844-1900 初代]氏を、肥後国天草島なる高浜村に遣わし、専らアンチモニーの採掘に従事させた。先生が最初に活字の製造を試みられた当時に使用した伊豫白目(アンチモニー)は、其質極めて粗悪で、且つ産出の高も多くなかったから、若しこのまま数年を経過すれば、活字は勿論其他種々な製造に用うべきアンチモニーは、悉 コトゴト く舶来品を仰ぐに至るであろう。斯くては一国の損失が莫大であると憂慮され、種々考究中、偶々タマタマ 天草に其鉱脈のあることを探知したので、早速前記谷口氏を派遣して、これを掘り取ることに努めさせたのであるが、どう云うわけであったか、其の志を果さず中途で廃業された由である。

〔島屋政一〕『本木昌造伝』(島屋政一  朗文堂  2001年8月20日   脱稿は1944年10月  p.102-6、p. 175)
本木昌造は鹿児島に出張中に、上海では「プレスビタリアン活版所」や、「米利堅メリケン印書館」および「上海美華書館」[この3社はいずれも上海・美華書館を指すものとおもわれる 稿者]などと称するところにおいて、漢字の活字父型と、その活字母型をつくっていて、また多くの鋳造活字を製造していることをきいた。そのために長崎に帰ってから、早速門人の酒井三蔵(三造とも)を上海につかわして、活字母型の製造法を伝習せしむることとした。(中略)

上海で日本製の金属活字(崎陽活字)を見せて批評を求めたのにたいしては、活字父型の代用として、木活字の技術を流用することができること。その木活字は、字面が 平 タイラ で、大きさが揃っている必要があることなどを知ることができた。また見本として持参した活字地金の品質に関してはきびしい指摘がなされた。つまり地金に混入するアンチモニーは、もっと純度が高くなければならぬことなどを聞きこんできた。

そのために本木昌造は、伊予[愛媛県]に人を派遣して、当時伊予白目 イヨシロメ と称されたアンチモニーを研究させたが、これも純度を欠いていたので、天草島の高浜村にアンチモニーの良質の鉱脈があることを聞いて、さっそくここにも人を派遣して、調査の上採掘に従事させた。この事業は莫大な費用を要して、しかも得るところは僅少で、やむなく事業を中止することになった。(後略)

明治4年(1871)11月、平野富二は事業の第一着手として、社員2名とともに新鋳造活字2万個をたずさえて東京におもむいた。(中略)帰途には大阪活版製造所に立ち寄って、良質の活字地金用の鉛と、アンチモニーを買い入れて長崎に帰った。

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《 三谷幸吉いわく、肥後の天草島なる高浜村、肥後国西彼杵郡高浜村は、現 熊本県天草市天草 》熊本の同好の士からのプレゼントだとされる「熊本県天草市天草採鉱の輝安鉱」標本を、「これは複数入手できたので差しあげます。若干の毒性がありますから取り扱いには注意して」とのみかたられて、和田さんは飄々とお帰りになった。
標本の採集地は「熊本県天草市天草町」であるが、廃鉱となって久しく、なんの遺構もなかったそうである。そもそも本木昌造らによるアンチモニーの鉱山であったとされる場所は、「肥後の天草島なる高浜村、肥後国西彼杵郡高浜村」と記述にバラツキがみられた。また、現在の市政下では、どこの県、どこの市かもわかりにくかった。また、肥前の国・肥後の国は、現在は存在しない。迷いがあったが熊本県東京出張所から紹介されて、天草市役所観光課に架電した。
その結果、たしかに同市には「高浜地区」があり、その周辺ではいまでも「天草陶石」などが採掘されているそうである。ただ「輝安鉱」の鉱山の存廃、もしくはその廃鉱の時期に関しては記録はないとされた。せめて地元での噂話でもと食い下がったが、「存じません」という回答であった。
彼杵郡は「そのぎ-ぐん、そのき-の-こおり」と訓む。

彼杵郡は、かつて肥前の国の中西部にあった郡であるが、明治11年(1878)の郡区町村法制定にともなって、東彼杵郡と西彼杵郡の1区2郡に分割されたようだ。ウィキペディア にも紹介されているが、書きかけで、少少わかりづらい。

タイポグラファとしては、ここは鉱石標本をみて喜ぶだけではなく、やはり現地調査のため長崎・熊本行きを目論むしかないようである。あるいは「蛇 ジャ の道は 蛇 ヘビ」で、長崎のタイポグラファの友人からの情報提供を待つか。
こうした一見ちいさな事蹟の調査を怠ったために、わが国のタイポグラフィは「書体印象論」を述べあうことがタイポグラファのありようだという誤解を生じさせたような気もする昨今でもある。

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《活字地金とアンチモン》

活字地金各種。刻印は鋳型のメーカー名で、さしたる意味はない。

金属活字の地金(原材料)は、鉛を主成分として、アンチモン、錫スズを配合した三元合金からなっている。
鉛は流動性にすぐれ、低い温度で溶解し、敏速に凝固する性質をもっているため、合金による成形品には良く用いられる金属である。
また、錫は塑性(形成・変形しやすい性質・可塑性)に関わる。
アンチモンは合金の硬度を増す働きがある。
わが国の印刷業界では近代活字版印刷術導入の歴史を背景として、ドイツ・オランダ語系の名称から「アンチモン」と呼称されるが、ほかの業界では英語からアンチモニーとされることがおおい。「アンチモン、アンチモニー」に関しては ウィキペディアに詳しい解説があるので参照してほしい。

文字活字のばあい、その地金の配合率は、鉛 70-80%、錫 1-10%、アンチモン 12-20%とされるが、その配合率は、活字の大小、用途によってそれぞれ異なり、活字地金は業界内では循環して再利用されている。
また企業によって活字地金に独自の工夫を凝らすことがある。「欧文活字の晃文堂」と評された神田晃文堂(リョービ印刷機販売、リョービイマジクスを経てモリサワに経営移譲)は、極細の曲線をもつ「パレススクリプト/日本名 プリンススクリプト」な度の活字の合金配合率を理化学研究所に依頼して研究して対応していた。柏の残存工場を含め、「活字の弘文堂」が閉鎖して久しいが、その活字は今なお現役なのは、こうした配慮が貢献している。

摩耗したり、損傷した活字は「滅 メツ 箱、地獄箱 Hell-Box」などと呼ばれる灯油缶やクワタ箱に溜められたのち、ふたたび融解して成分を再調整し、棒状の活字地金にもどして利用されていた。ここでも活字地金業者が近年、ほぼ壊滅状態に陥り、業界的に対応を迫られる事態となっている。

[ 初 出:朗文堂ブログロール 花筏 2011年3月3日。一部修整して2023年8月  本欄に転載 ]

タイポグラフィあのねのね*008 江川活版製造所、江川次之進資料

直系子孫により発掘された
江川活版製造所:江川次之進関連資料

《きっかけは活字ホルダー》
朗文堂とサラマ・プレス倶楽部(旧称:アダナ・プレス倶楽部)の Website では、数度にわたって《活字ホルダー》を取りあげてきた。当初のころは、この簡便な器具の正式名称すらわからなかった。その後、アメリカ活字鋳造所(ATF)や、フランスのドベルニ&ペイニョ活字鋳造所の、20世紀初頭のふるい活字見本帳に紹介されている《活字ホルダー》の図版を紹介し、その名称と使用法は広く知られるようになった。
またサラマ・プレス倶楽部では、故・志茂太郎氏の遺品から《活字ホルダー》を復元して、あらたな活版ユーザーに向けて製造販売にあたっている人気アイテムのひとつである。

『VIVA!! カッパン♥ 』
(サラマ・プレス倶楽部編  朗文堂  2010年5月21日 p.64)に紹介された《活字ホルダー》

《ご先祖様の遺影と肖像画があるのですが……》
ある日、サラマ・プレス倶楽部の Website をご覧になった、江川活版製造所の創業者・江川次之進の直系のご子孫だという女性から、お電話をいただいた。
「曾祖父の江川次之進の遺影と、掛け軸になった肖像画があるんですが、右手に持っているものがなんなのかわからなくて。これがどういう情景を描いたものかが分からなかったのですが《活字ホルダー》なんですね。おかげで、曾祖父が若い頃に活字の行商をしていたというわが家の伝承がはっきりしました」

この女性は、現在は長野県北安曇郡白馬村でペンションを経営されている。最初にお電話をいただいてから少し時間が経ち、先日、お身内のカメラマンの手による、江川次之進の遺影と肖像画の鮮明なデジタルデータをご送付いただいたのでご紹介しよう。

江川 次之進 [1851-1912]

新資料/江川次之進 活字行商の肖像画

表具を改装して軸装された江川次之進の活字行商時代の肖像画。

肖像画の部分拡大。当時としてはハイカラな洋傘を左手に、右手には活字ホルダーを握りしめている。重い活字を背負っているせいか、小腰をかがめているが、晩年の江川次之進の肖像写真とにた、端正な顔立ちである。右上部後方の背景にひら仮名異体字(変体仮名)で「たばこ」としるされている。江川次之進は当初もっぱら「煙草商と質屋」に活字を販売していたと記録されている。

《圧倒的に資料不足な江川次之進と江川活版製造所の業績》
「江川行書活字」「江川隷書活字」と、活版印刷関連機器の開発でしられる江川活版製造所は、いっときは東京築地活版製造所、秀英舎に次ぐ、活字製造業界第3位の売上げを誇った活字鋳造所とされる。
そうした歴史のある江川次之進と江川活版製造所であるが、その業績をかたる資料や活字見本帳のたぐいは極めて少ない。人物伝としては、わずかに三谷幸吉の『本邦 活版 開拓者の苦心』にその紹介をみる程度である。すこし読みにくい文章だが、これをお読みいただくと、「活字行商」からはじめ、日本有数の活字鋳造所に発展させた、江川次之進の背景がおわかりいただけるはずである。これは句読点を整える程度の修整をして、全文を後半で紹介したい。

また印刷関連の業界誌では、明治24年(1875)『印刷雑誌』に、江川活版製造所ご自慢の新書体「江川行書」による1ページ広告が3号連続で掲載されている。また、江川家一族が経営権を深町貞次郎に譲渡したのち、昭和13年(1938)『日本印刷大観』の差し込み広告として、これも1ページ大の広告が掲載されている。こちらの社長名は深町貞次郎になっている。
この深町時代の江川活版製造所がいつ廃業したかの資料は目下のところ見あたらないが、いずれにしても深町貞次郎の晩年か逝去ののち、良き後継者の無いまま、戦前のある時点において廃業を迎え、戸田活版製造所、藤井活版製造所、辻活版製造所などに継承されたものとみられる。
ただし、江川活版製造所仙台支店もやはりそのころに分離・独立したものとみられるが、同社は「江川活字製造所」の名称で2003年-5年ころまでは、仙台市内(仙台市青葉区一番町1-15-7)で営業を継続して、東北方面一円への活字供給にあたっていた。

『印刷雑誌』(第1次 明治24年10月号-12月号掲載)主要書体は新鋳造の「江川行書」活字。

『日本印刷大観』(東京印刷同業組合 昭和13年8月20日)差し込み広告。
社長名は深町貞次郎になっている。事業内容は平凡で、なんら特色のないものになっている。

さて、肖像画において、江川次之進が右手に持っている《活字ホルダー》であるが、わが国でも相当古くから製造販売されていたとおもわれる。
『活字と機械』(東京築地活版製造所 大正3年6月)の扉ページ「印刷機械及器具」の、外周イラストの下右隅に、あきらかに《活字ホルダー》が存在している。江川次之進はこうした簡便な器具と、重い活字を携行して、煙草屋や質店などに活字販売をして資金を蓄積して、本格的な活字鋳造所を起業したことになる。三谷幸吉が『開拓者の苦心 本邦 活版 』にのこした伝承が、今回の肖像画の発掘によってあらためて証明されたことになった。
「印刷機械及器具」『活字と機械』扉ページ。右下隅に《活字ホルダー》が紹介されている。
ここにみるイラスト図版の器具類は、ほとんど現在も使われている。(下図は部分拡大図)

★    ★    ★

行書体活字の創製者 江川次之進氏
―敏捷奇抜の商才で成功す―

本邦 活版 開拓者の苦心』
(三谷幸吉執筆  津田三省堂  昭和9
年11月25日 p.173-180より全文
[ ]内は筆者の加筆

江川次之進氏[1851-1912]は、福井県坂井郡東十郷村の人、[旦丘-あさおか、旦丘家と江川家は隣接していた村の共に庄屋の家柄。次之進は旦丘家から江川家の養子となりその姓を名乗った。冨沢ミドリ氏資料]由右衛門氏の次男として、嘉永四年[1851]四月二十五日に生れる。

明治十四年[1881]、三十一歳と云う中年で俄かに志を樹てゝ上京、某医師の書生を勤め、又は横浜に出て、運送店の書記に住込む等、此間容易ならぬ難行苦行を重ねたのである。

一日碇泊の汽船に乗組んで作業中、過って船底に墜落して既に一命を抛ナゲウったかと思ったが、幸いにして命拾いをしたので、再び上京、古帽子の色揚げなどで其日を糊して、眞ん底から憂き世の辛酸を嘗めつくしていた。然るに其頃、[銀座]文昌堂におった山口定雄氏の奨めによって、活字の販売に従事することゝなったが、店舗を開く迄の資金が無かったので、活字行商と云う珍思考を案出したのである。氏がこれに着眼した動機が如何にも面白い。

当時は煙草が民営であったから、其の袋に販売店の住所番地が一々筆書されてある。それを今日のゴム印の様に、活字をスタンプに入れて押すと、頗スコぶる便利だと云うことに気付いて、毎日小さな行李コウリに活字とスタンプを入れて、各店舗を廻ったものである。
それに又質屋を訪問して、質札や帳簿に年号なり家名なりを押すことを勧誘したので、何れも其の便利なのに調法がられて、急に流行の寵児となったのだから、氏の慧眼ケイガンには生き馬の眼を抜くと云う江戸ッ子の活字屋も推服したものだそうな。
此時氏の受売りをした活字は、[東京]築地活版所と印刷局と文昌堂[東京築地活版製造所・昭和13年清算解散、印刷局・現独立行政法人国立印刷局、文昌堂・銀座に旧在した活字商]の三ヶ所の製品であった。

斯カくて一年足らずの間に意外に儲け出して、相当の資本も出来た。従って印刷局や築地活版所も、氏を信用すると云う極めて良い條件に恵まれたので、在来の行商式を廃し、両国広小路、上野広小路、浅草広小路、新橋附近などの、人通りの多く、且つ交通便利な場所へ、さゝやかながら店舗を張ることにした。当時既に欧米の文化が急速度に消化され、印刷物の需要が多々益々増大されたので、活版所も勿論これに伴って続設、濫設されて、活字の供給迅速を要求することになった。そこで勢い買入れに便利な活字屋へ顧客が集中したのだから、江川氏の策戦は見事にあたって、店勢日に日に旺盛を極むるにいたったのである。

而して動ヤヤともすれば、印刷局なり、築地活版なりの受け売りだけでは、間に合わぬ場合が生じたり、其他何かと不便を感じたので、将来身を活字販売に委ねる以上、寧ムシろ自家鋳造[活字母型を購入し、自社内で活字鋳造をする]を断行するに如かずと決意することゝなった。

其頃の印刷局の活字は大きさも高さも不統一であったから、大きいのは一々鑢ヤスリで削り、高いのは尻を鉋カンナで削って、築地製品に合わせて販売すると云う、中々面倒な手数が掛かったとのことである。これは築地製は明治十四年[1881]米国から買入れたカスチング[ブルース型手廻し活字鋳造機]で機械的に造ったから、規格が揃っていたのに反し、印刷局製は手鋳込み[手鋳込み式ハンドモールドのこと。ただし東京築地活版製造所と印刷局は創立以来ポンプ式ハンドモールドをもちいたとみられる。またブルース型手廻し式活字鋳造機を東京築地活版製造所が先行して1台は輸入した記録はあるが、本格導入は、東京築地活版製造所、印刷局の両社とも大川光次らによる国産機の開発を待った。その導入はほぼ同時期とされる]で造った関係からではないかと云われている。

明治十六年[1883]総べての準備が整ったので、愈々イヨイヨ活字の自家製造を開始すべく、日本橋区境町四番地に江川活版製造所を創設したのである。工場主任として母型師字母駒ボケイシ-ジボ-コマ(有名な字母吉ジボ-キチの弟)を招聘ショウヘイし、これに当時東京印刷関係職工中の最高級の五拾銭を支給したと云うから、江川氏の意図が奈辺にあったかゞ判るではないか。其頃はアリ(ガラハニーの這入るボテの凹部)切り[電鋳法による活字母型をマテ材に嵌入させる凹部をつくる器具]もなく、皆鑢ヤスリで削り、十本宛仕上げしたとのことである。

明治十八年[1885]、弘道軒で楷書活字を販売[鹿児島人、神崎正誼創設の弘道軒活版製造所。楷書活字の一種、清朝セイチョウ活字の開発で著名]しているのに対抗して、行書活字の創製に着手したが、さてこれが完成する迄の苦慮は狭隘キョウアイの紙面では記述し尽せぬものがある。
当初書体の下書を中村正直[まさなお、洋学者・教育家。号して敬宇。1866年幕命により渡英。明六社を組織して啓蒙思想の普及に努力。東大教授・貴族院議員。訳書『西国立志篇』『自由之理』など。1832-91]先生に[活字原字版下を]依嘱して種字を造ったが、書体が細いのやら、太いのやら、丸いのやら角なのやらが出来て、使用に堪えぬので、遂に中止してしまった。これが為に多大の損害を蒙むったとのことである。
而かも行書体の種字は筆法が太いために、黄楊ツゲに彫っては木目が出て面白くないところから、鉛の彫口を微かい砥石で砥ぎ、それに種字を彫付けてガラハニーとした[いわゆる地金彫り。活字地金などの柔らかい金属、あるいは「焼きなまし」による鉄材などに種字を直刻して種字として、電鋳法により活字母型をつくった]と云うから、其苦心の並々でなかった一端を知ることが出来よう。

翌十九年[1886]、業務拡張の為に、日本橋区長谷川町に引移った。其年著名な書家其頴久永氏[久長其頴 ヒサナガ-キエイ 書家 詳細不詳 乞う情報提供]に、改めて行書種字の揮毫を依頼し、此に初めて現今伝っている様な行書々体が出現することゝなったのである。

斯くて此間三、四年の星霜を費やして、漸く二号行書活字を完成し、次ぎに五号行書活字も完備することゝなったので、明治二十一年[1881]秋頃から、「江川の行書」として市販し出したところ、非常に人気を博し、売行亦頗ぶる良好であったと云う。明治二十五年[1892]十一月十五日引続き三号行書活字を発表した。

然るに昔も今も人心に変りがないと見え、此行書活字が時好に投じ、前途益々有望であることを観取した一派は、窃ヒソカにこれが複刻[いわゆる種字盗り。活字そのものを種字代わりとして、電鋳法によって活字母型を複製して活字鋳造をした]を企画するにいたり、殊に甚だしきは、大阪の梶原某と云う人が、凡ゆる巧妙な手段を弄して、行書活字を買い集め、これを種字となして遂に活字として発売したから、此に物議を醸すことゝなった。即ち江川では予め行書活字の意匠登録を得ていたので、早速梶原氏に厳重な抗議を提起したが、その結果はどうなったか判明しない。

これより前、明治二十二年[1889]に横浜伊勢崎町で、四海辰三外二名のものをして活字販売店を開かしめ、同二十四年[1891]大阪本町二丁目にも、淺岡光[旦丘 光、東京では旦丘-あさおか-が通じにくく、一部文書記録でも浅岡・淺岡をみる]をして活字販売店を開設せしめ、地方進出に多大の関心を持つことゝなった。

明治二十五年[1892]大阪中島機械工揚が、初めて四頁足踏ロール印刷機械を製造したが、大阪でも東京でも購買力が薄く難儀したので、東京での販売を江川氏に依頼した。商売に放胆な江川氏は、売行の如何を考うるまでもなくこれを快諾したそうである。
同二十六年[1893]、長男貫三郎氏の異兄をして福井県三国町[現福井県坂井市三国町地区。九頭竜川が貫流し、東尋坊で著名。三国町は江川家・旦丘家の在地でもあった]に支店を開かしめ、続いて廿七年[1894]山田朝太郎氏に仙台支店を開設せしめた[江川活版製造所仙台支店は江川活字製造所と改組・改称されて、仙台市青葉区一番町1-15-7で2003年頃まで営業を持続して、東北地区一円の需要を担った]。

東京築地活版製造所が製造した「乙菊判四頁掛け足踏み印刷機械」≒ B 3 寸伸び。
江川次之進が製造した活版印刷機も、これに類似したものだったとおもわれる。
『活字と機械』(東京築地活版製造所 大正3年6月)
PS : 掲載後に読者より江川活版製造所による印刷機の写真画像提供を受けた。続編に紹介したい。

尚二十九年[1896]には、隷書活字の創製所たる佐柄木町[さえきちょう、現神田須田町・淡路町周辺]の文昌堂(元印書局の鋳造部技手松藤善勝氏村上氏等が明治十三年[1880]に設立したもの)を買収したる外、松山氏に勇文堂、柴田氏に勇寿堂を開店せしむる等、巨弾又巨弾を放って販路の拡大に努力する有様、他の同業者の心胆を寒からしめた由である。

明治三十三年[1900]築地二丁目十四番地に、江川豊策氏を主任として、且つて築地活版所にいた本林勇吉氏を招聘し、本林機械製作所を開設して、印刷機械の製作にも従事するようになった。

此頃は江川活版製造所の全盛時代で、すること為すこと成功せざるはなしと云う盛運を負っていたのである。然しながら月満つれば欠くの譬タトエの通り、同氏の才気に誤算を生ずるようになってからは、事、志と異う場面が逐次展開されて来た。

明治四十年[1907]この数年以前から、東京の新聞社は、活字を小さくして記事を多く詰める傾向となり、「萬朝報ヨロズ-チョウホウ」の如きは、秀英舎に註文して、既に三十七年二月[1904]から、五号横二分四分の活字(平型)[いわゆる新聞扁平活字]を使用して好評を博したので、氏も亦五号竪二分四分活字[いわゆる江川長体明朝活字]を創製するにいたった。
然し此活字は一般の趣向に合致しなかったものか売行が思わしくなく、加うるに二三の地方新聞に納入した代金が回収不能となったので、断然製造を中止することになった。[江川長体明朝は、国内での販売がおもわしくなく、都活字などの手を経て、当時邦人が進出していたハワイやサンフランシスコの邦字紙などで主にもちいられたとされる。『本邦 活版 開拓者の苦心』津田伊三郎の章にその記録がのこる。また、後年津田伊三郎はあらたに長体明朝の開発をおこなっている]。斯くして此年、営業権を長男貫三郎氏に譲り、悠々自適の境遇に入ったのである。

明治四十二年[1909]、創立当時より在店する某が、隠居江川氏に向い、時の支那公使李慶均の証明書を提出し、当時茗荷谷ミョウガ-ダニにあった支那人経営の新荘街と云う印刷所を弐拾万円の株式会社に組織変更するに就き、運動費の提供を求めた。依って十二月二十八日に壱万円、翌年二月に壱万五千円、同四月に壱万円、五月末に壱万円都合半年間に四万五千円を出資したが、其後有耶無耶になってしまったので、これらが原因となり営業上に一大支障を生ずることゝなった。
そこで親族会議の結果、江川の家名を穢したくないとの理由で、江川活版製造所閉鎖の議が出たが、結局親族宇野三郎氏、加藤喜三郎氏等が経営の任にあたった。然しこうなっては、隠居の恩顧に預った人達も、何んとなく腰が落ち着かず、心平らでないまゝに、誰れ彼れとなくこゝを却シリぞいて、各々自活の道を講ずることになったから、折角の復興策も思うように行かなかった。

ところが、多年扶殖した努力と信用の惰力により、兎に角江川の名は引続き業界に喧伝されていたのである。尤もこれには明治二十六年(九歳)から奉公している甲州出身の深町貞次郎氏が、温厚実直で且つ経営の才があったから、先輩の退散にも滅げず、江川をこゝまで頑張らしめて来たのである。茲ココに於いてか、大正十一年[1922]、親戚一統協議の結果、江川当主を差しおいて、深町氏に一切の営業権を譲渡し、氏をして自由に商才をふるわしむるにいたった。

それはさておき、隠居次之進氏は、明治四十五年[1912]二月八日、淀橋拍木[新宿駅西口近く]で、六十二歳を一期として黄泉の客と化せられたのである。

法名 繹乗誓信士

―― 挿  話 ――

足踏ロールを東京で初めて販売した人は江川氏であるそうな。当時四六判四頁が一台百六拾円であったが、取扱った当初は不振で殆んど売れなかった。然るに、其後二、三年経過してからは、トントン拍子に売れたのだから、そうなると中島氏が高くとまって註文品を送って来ないと云う始末。尤 も其頃中島では発動機に手を出し、其方に資金が膠着したらしいので、江川氏は屡々シバシバ前金を渡して製品を急がせたことがあったそうな。
而して中島氏の曰くには「印刷機械は十貫目拾五円にしかならないが、発動機の方は十貫目四拾五円だから三倍になるからネ」と意味深長な言葉を洩らした由である。これに依って見ると、印刷機械が他の機械に比して廉価であることは、昔からの伝統とも見えるのである。

江川次之進氏は組合役員や其他の名誉職を各方面から持ち込まれたが、無口の方であった為か、一切顔を出さなかった。宗教には深い関心を持ち、本願寺[築地本願寺、浄土真宗本願寺派の寺院]へは毎年千五百円宛寄附され、同寺では中々良い顔立をしていられたとのことである。

現在の江川活版製造所は深町氏によって隆運を続けている。又、戸田活版製造所、藤井活版製造所[初代藤井三太夫、直系の孫が新宿にて営業中]、辻活版製造所等は何づれも江川の出身である。

[ 関連: 活版 à la carte 【寄贈式】 江川活版製造所、江川次之進活字行商の図-武蔵野美術大学美術館・図書館と冨沢ミドリさん
◉ 初掲載:2011年4月26日
◉ 2020年02月14日 図版を拡大し、一部の字句を修整し、当日付で再掲載した。

タイポグラファ群像*005 長瀬欄罫製作所を記録する

活字鋳造と罫線製造 長瀬欄罫製作所半世紀の歴史

 初代 長瀬利雄/二代 長瀬慶雄

【 初掲載 : 2013年07月08日 動画 ・ 画像を加えた改訂版 : 2013年07月25日 】
【 二代 長瀬慶雄氏の逝去をもって、2015年11月10日 再掲載 】
【長瀬慶雄氏の三回忌に際して再編集】
長瀬欄罫製作所 第二代代表 長瀬慶雄
1942年(昭和17)08月08日-2015年(平成27)08月20日 享年73

2006年、アダナ ・ プレス倶楽部(現サラマ・プレス倶楽部)の設立以来、とてもお世話になってきた長瀬欄罫製作所が、工場兼住居の建て替えを契機に、2011年いっぱいをもって閉鎖された。
また先般、第二代代表 長瀬慶雄氏が73歳をもって卒した。
長瀬欄罫製作所、二代、60年余の歴史をここに記録しておきたい。

さいわい、サラマ・プレス倶楽部では長瀬欄罫製作所の繁忙期のもよう、設備の概略をビデオで撮影してある。
その記録はイベントや講演会 ・ 活版ゼミナールなどのたびにご覧いただいてきたが、2013年07月25日 YouTube に動画を公開した ( 担当 : 北 美和子さん)。 ご関心のあるかたは動画もご覧いただきたい。

【YouTube 長瀬欄罫製作所 日本語モノタイプ&インテル鋳造機の稼動の記録 音が出〼 3:40】

また同社の機械設備のほとんどを供給し、その保守点検にもあたっていた「 小池製作所 」 は、2008年08月31日に破産いたった、この小池製作所に関しても、ここにあらためて記録したい。
★小池製作所の詳細は 「 花筏 小池製作所|小 池 林 平 と 活 字 鋳 造|日本の活字史のもうひとつの側面から 」に詳しい。

★      ★      ★      ★

◎ 創業者(初代)    長瀬 利雄 ナガセ―トシオ

    • 大正03年(1914)10月27日 東京うまれ。
    • 伊藤欄罫製作所( 新宿区榎町53番地、大願寺の裏手に旧存した ) で技術修行。
    • 社名にみる 「 欄罫 」 の名称の由来は、おもに関西で輪郭のことを 「 欄 」 と称したために、輪郭と罫線の製造業者を、ふるくは 「 欄罫業者 」 と呼んだことによる。
      大阪には現在も 「 日本欄罫工業株式会社 」 などがあるが、すでにオフセット平版印刷材料商に転じている。
    • 終戦後まもなく、昭和20年から大日本印刷市谷工場活版部に13年ほど勤務。 おもに輪郭罫と罫線の製造を担当した。
    • 昭和33年(1958)01月、長瀬欄罫製作所を現在地 ( 文京区関口 ) にて創業。
    • 昭和59年(1984)70歳にて逝去。

 ◎ 第二代事業主  長瀬 慶雄 ナガセ-ヨシオ

  •  昭和17年(1942)08月08日 東京うまれ
  • 学業修了後に父の事業を援け、長瀬欄罫製作所に勤務。
  • 父 ・ 長瀬利雄は職人技を重んじ、装飾罫線などはおもに手技による直接彫刻法によったが、長瀬慶雄は積極的に自動化された機器を導入して、能率と精度の向上を計った。
  • 1970年代初頭が生産のピークで、インテル鋳造機4台、罫線鋳造機1台、罫線仕上げ機1台とその関連設備を保有し、次弟 ・ 長瀬律雄 (ナガセ―リツオ  昭和23年うまれ) とともに、一家を挙げて多忙を極めた。
    金属インテルだけでも、大日本印刷に毎日 1 トン以上の納入がふつうだった。
  • 1970年のころ有限会社に改組して、有限会社長瀬欄罫製作所とした。
  • 昭和48年(1973)第一次  オイル ・ ショック  の際して、すべての資材の供給が困難となったため、大日本印刷が企業力をもって資材の円滑な供給をはかった。
    その際金属インテル鋳造は、大日本印刷内部での内製化を計ったために、次弟 ・ 律雄が大日本印刷市谷工場に出向というかたちで勤務してインテル鋳造にあたり、のちに自動活字鋳植機の担当も兼務した。
    長瀬欄罫製作所では、罫線、装飾罫線の鋳造が中心となった。
  • 1970年代の後半となると、写真植字の自動化と、文字 ・ 組版精度が急激に向上して、金属活字の競合相手となってきたが、長瀬欄罫製作所では金属活字への愛着があって、近在の同業者の転業に際し、「 KMT 型 全自動活字組版機 ( 小池式モノタイプ ・ マシン )」 3 台を購入して、自動活字鋳植機によるページ物組版 (おもに 8pt. 9pt. 10pt.  明朝体)を担当した。
    同社での高い技倆と精度のために、活版印刷ページ物印刷業者からの信頼を集めて業績は順調だった。それでもふたたび襲った1979-80年の第二次石油ショックの影響は軽微とはいえなかった。
  • 1980年代に入ると、金属活字を主要な印刷版とする活字版印刷業界は、顕著に衰退のかたむきがみられた。活版印刷業者のおおくがオフセット平版印刷業などに転廃業し、活字鋳造機器の製造業者や、資材業者もこれにならったため、機材の保守、資材の確保などに困難をみた。
  • 2003年(平成15)03月31日、長年の主要顧客の大日本印刷が、金属活字組版と、金属活字版印刷部門を閉鎖した。
    活版印刷機の一部は残存したが、使途は、型抜き機、ナンバーリング押し機、平ミシン罫打ち抜き機などに転用された。
  • 2008年(平成20)08月31日、「 KMT 型 全自動 活字組版機 」 の製造企業、小池製作所が破産 ( のち同社の特許 ・ 人員のほとんどを三菱重工業が買収した) するにおよび、KMTほかの活字鋳造機器の整備 ・ 保守に困難をきたした。
  • 長瀬欄罫では 「 KMT 型 全自動 活字組版機 」 文字入力システムの 「 6 単位鑽孔テープ 」 を特注によって確保するなどして、最後まで自動活字鋳植機によって8-10pt. の本文用活字 ( 活字母型は岩田母型製造所によった ) を供給して事業の維持に努めた。
  • 2011年(平成23 )07月、長瀬欄罫製作所は、後継者不在と従業員の高齢化を理由に、年内いっぱいをもって廃業の意向を関係者に通知。あわせて、現存している製造機器の無償譲渡を表明して、各所の活字鋳造所と交渉におよんだが、はかばかしい進展はなかった。
  • 2011年(平成23)12月24-25日、年末ギリギリに 台湾 ・ 日星鋳字行が来日して、罫線鋳造機、インテル鋳造機の譲渡希望を表明。「 乙仲業者 」 が当該機器を輸出梱包のため集荷。
  • 2011年(平成23)12月28日、66年の歴史をもって長瀬欄罫製作所が閉鎖された。
  • 2012年(平成24)01月18日、台湾 ・ 日星鋳字行に向けて、罫線鋳造機、インテル鋳造機とその関連機器が 「 乙仲業者 」 によって船積みされた。
  • 2012年(平成24)01月31日、「 KMT 型 全自動 活字組版機 」 をはじめ、残存機器のすべての整理が終わる。その際真鍮製で売却 ・ 換金を予定していた 「 KMT 活字母型庫、通称 : フライパン 」 などを、アダナ ・ プレス倶楽部が有償譲渡を受けた。
  • 2013年(平成25)02月、長瀬欄罫工場跡に、二世帯居住用住居が完成。
  • 2015年(平成27)08月20日 享年73をもって逝去。
  • 長瀬欄罫 資料PDF

《小池製作所と長瀬欄罫製作所、そしてサラマ・プレス倶楽部の奇妙なおつき合い》
「 21世紀になって、はじめての、純国産で、あたらしい活版印刷機を創りたい 」 として、朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部が発足した際、衰退著しかった活版印刷機器製造会社のなかで、その夢のようなはなしに耳を傾け、関心を示してくれる製造所はなかった。

たまたま旧晃文堂系人脈からの紹介で、
「 小池製作所なら、技術水準は高いし、誠実な企業だから ………. 」
との紹介を得た(代表取締役/小池隆雄、常務取締役/小池吉郎、小社担当)。
そして、小型活版印刷機 Adana-21J を小池製作所の全面協力を得て、円高を背景に、当時の製造業の流行だった、海外部品工場などをつかうことなく、こだわりをもって、純国産方式での設計 ・ 試作機製造 ・ 実機製造がはじまった。

★ 小池製作所の詳細は 「 花筏 小池製作所|小 池 林 平 と 活 字 鋳 造|日本の活字史のもうひとつの側面から 」 に詳しい。
なお上掲記録は 『 小池製作所の歩み 』 を中核資料としているが、最近の研究の進捗により、ブルース(型)活字鋳造機 ( カスチング、手回し式カスチング、タイプキャスティング ) の導入期などの記述に若干の齟齬がみられることをお断りしたい。
『 小池林平と活字鋳造 』 に関しては、あらためて本欄 『 花筏 』 に別項を得たい。

ようやく Adana-21J  第二ロットの製造に着手したころ、積年の負債と、主要顧客であった大手新聞各社の急速な業績不振がもととなって、2008年(平成20)08月31日、小池製作所が破産 (破産後まもなく同社の特許 ・ 人員のほとんどを三菱重工業が買収 ) した。
幸い Adana-21J  関連の設計図、主要部品の鋳型、成形品製作所などは、小社の管理下にあったので、Adana-21J の生産は、組立 ・ 調整工場を変更するだけで済んだ。

ところで小池製作所の主力機器 「 KMT 型全自動組版機」 は、その後さらに改良がくわえられ、邦文組版だけではなく、欧文組版にも適合するように改良が加えられていた。
それに際して、小池製作所は英国/ランストン ・ モノタイプ社との間に 「 クロス ・ ライセンス 」 契約を交わし、のちに小池製作所はモノタイプ ・ コーポレーションの日本代理店ともなった。

そのためにモノタイプ ・ コーポレーションの閉鎖にともなって、2000年ころからの小池製作所は、東南アジア諸国はもとより、インド半島、アラブ圏の各国、東欧諸国までの、旧モノタイプ ・ コーポレーション製造の欧文自動鋳植機の、部品供給、保守、修理にあたる唯一の企業であった。
またわが国の数十社におよぶ各社が製造した 「 手回し式活字鋳造機、いわゆるブルース型活字鋳造機 」 「 自動式活字鋳造機、いわゆるトムソン型活字鋳造機 」 の部品供給、保守、修理能力をもっていた。

突然破産宣告がなされた2008年8月31日も、社員の一部は工具箱ひとつをもって、インドやイランに出張中であったほど急なことであった。
当然その破綻は、たんに小池製作所製の機器だけでなく、ほかの活字鋳造関連機器の、整備 ・ 点検 ・ 保守 ・ 部品供給にいちじるしい困難をきたすことになって、これらの設備の廃棄が加速化し、関連業者の転廃業が相次いだ。

上) 小池林平肖像写真(1914/大正3うまれ。70歳の時)
中) 小池製作所主要製品(『小池製作所の歩み』東洋経済、昭和60年6月30日)
下) 『 印刷製本機械百年史 』 (同史実行委員会、昭和50年3月31日)

長瀬欄罫製造所の主要機器は小池製作所製造のものがほとんどであった。
これらの機器のほとんどが、存続の危機を迎えているのが、わが国の活版印刷のいまであることを深刻に捉えねばならない時期にいたっている。

このように活版印刷関連機器の、製造 ・ 点検 ・ 部品供給 ・ 保守基盤という、足下が崩壊しつつある深刻な事態を迎え、すっかりちいさくなってしまったのが業務としての活字版印刷業界の現状である。 したがって、いまはちいさくなったとはいえ、業界をあげ、一致団結して、この危機を乗りこえていきたいものである。
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【 インテル鋳造機 Slug casting machine, Strip caster 】
金属製インテルを自動的に鋳造する機械。活字鋳造機に類似するが、( いくぶん軟らかめの ) 活字地金をもちい、地金溶解釜から細い隙間をとおして地金を鋳型に送り込み、一定の長さに鋳造されたインテルの部片をつぎつぎに融着させて、一本の長いインテルに仕上げる装置。

米国ルドロー社 ( Ludlow Typograph ) 製が知られるが、長瀬欄罫製作所が使用していた国産機は、昭和21年毎日新聞技術部副部長 ・ 古川恒ヒサシの依頼をうけ、小池製作所 ・ 小池林平が昭和24年11月に 3 年がかりで完成させたもの。

 【 罫線鋳造機 Rule casting machine 】
罫線 Rule は活字と組み込んで線を印刷するための金属の薄片。わが国では五号八分-二分、または 1pt.-5pt. の厚さが一般的。
材質は主に活字地金をもちい、亜鉛 ・ 真鍮 ・ アルミニウム製などがある。

その形状によって、普通罫と飾り罫にわける。普通罫には単柱罫 ( 細い辺をオモテ罫、太い辺をウラ罫として使い分ける ) ・ 無双罫 ・ 双柱罫 ・ 子持ち罫などがある。
飾り罫 ( 装飾罫 ) はあまりに種類が多くて列挙しがたい。

罫線鋳造機はこの罫線を活字地金でつくるための機械で、自動式と流し込み式がある。長瀬欄罫製作所の同機は、八光活字鋳造機製作所製造の自動式で、インテル鋳造機と類似した構造で、上掲写真の各種の「罫線用鋳型」を取りつけ、融着させながら長い罫線をつくった。

 【 参考資料 】
『 VIVA!! カッパン 』  母型盤、母型庫 ( アダナプレス倶楽部/大石 薫、朗文堂、2010年5月21日)  
『 印刷製本機械百年史 』 ( 昭和50年3月31日、印刷製本機械百年史実行委員会 )

タイポグラフィ あのねのね*014|アルダス工房|ドベルニ&ペイニョ活字鋳造所|アーツ&クラフツ運動

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烏兎匆匆 ウト-ソウソウ  ②
うかうか三十、キョロキョロ四十、烏兎匆匆

先達の資料に惹かれ、おちこちの旅を重ねた。 吾ながらあきれるほど喰い
囓っただけのテーマが多い。 いまさらながら馬齢を重ねたものだとおもう。
文字どおり 「うかうか三十、キョロキョロ四十」 であった。 
中華の国では、
歳月とは烏カラスが棲む太陽と、 兎ウサギがいる月とが、 あわただしくすぎさる
ことから 「烏兎匆匆 ウト-ソウソウ」 という。 そろそろ残余のテーマを絞るときが
きた。 つまり中締めのときである。  後事を俊秀に託すべきときでもある。 お
あとはよろしいようで……なのか、 おあとはよろしく……、 なのかは知らぬ。
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本項の初掲載は2011年08月22日であった。
テーマと問題点に進行がみられないこともあり、ここに再掲載した。

活字版印刷術と情報は、水の流れにも似て……
五体と五感をもちいたアルチザンの拠点

◎ おあとは、よろしいようですね!

デザイン界に、いまだ充実した 「 教科書 」 が不在だったころのはなしである。そうふるい話しではない。1997年のこと。
京都のさる美術大学が、四年制の通信教育学部をつくろうとなったとき、あたりまえといえばあたりまえだが、所轄官庁から 「 教科書 」 の製作を強くもとめられた。
そのタイポグラフィ篇の教科書の執筆を依頼されたが、単独執筆では偏りを生ずるおそれがあったので、K氏、S氏に依頼して、03名で共同執筆にあたった。

執筆に取り組んで、あらためておどろいた。当時の美術大学や芸術大学 ( くどいようだが1997年のこと )にはどこにも、デザインの教科書はもとより、先行資料といえるようなまとまった資料はなかったのだ。 先行資料が無いということは、ある意味では提灯も無く暗い夜道を歩むようなものであった。
そのため、まったく手探りで、「 デザイン教育用の教科書 」 をまとめなくてはならなかった。 そのツメの段階にきたとき、資料不足が明確になったので、筆者を含む03名で、ヨーロッパ駆け足取材 ( 費用は各自負担だったケト ゙ ) を計画した。

執筆と旅行の準備に追われていたある日、S氏が血相を変えて駆け込んできた。
ゲーテ 『 イタリア紀行 』 に,アルダス ・ マヌティウスの工房が、「 ベネツィアのサンセコンド2311番地 」 にあることが紹介されている、と興奮した面持ちでかたった。
18-19世紀の文豪 ゲーテ ( Johann Wolfgang von Goethe  1749―1832 ) が記録したその記録が、現在もまだ有効な資料かと半信半疑ながら、「 ヴェネツィア、サンセコンド2311番地 」 の名前だけは咒文のように記憶して出かけることになった。
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ともかく慌ただしい旅 ( 珍道中ともいえる ) であった。  ドイツに入り、パリを経由して 列車でスイスに、そしてまた列車でイタリアに入った。
イタリアでは拠点を パドヴァ のちいさなホテルにおいた。 すなわち長靴形のイタリア半島を上下に移動するのではなく、半島の付け根を左右に行ったり来たりした。 ミラノから取材をはじめ、翌日にはヴェローナのタイポグラファの友人、マルチーノ ・ マーダシュタイク氏からさなざまな支援を受けた。

当然、ヴェネツィアのアルダス工房の所在地も聞いたが、
「 ヴェネツィアのどこかに、いまもアルド ・ マヌッツィオ ( マルチーノの発音 ) の工房があることは聞いた気がするなぁ」
程度の曖昧な回答だった。

そこで、やはり ヴェネツィアに行くしかない……、 となった。
いまならグーグルマップで即刻詮索だろうが、この取材は1997年のこと。
ヴェネツィア駅に降り立って、すぐに詳細な街路図を購入して、駅前広場で地図をひろげて03人による鳩首検索。
おなじ列車で着いた旅行者は四散して、駅頭からすっかりひとがいなくなったのに、まだ駅前でただただ地図とにらめっこをしている奇妙な日本人が03人。

「あった~! ココにある」。
やはり最初に豆粒のような街路図から 「 サンセコンド 」 の名を見つけたのはS氏だった。

さっそく いくつかの橋を ( 駆け抜けるように ) わたって 「 サンセコンド通り 」 に駆けつけた。
それからの興奮、舞いあがりのさまをしるすのは ( あまりに恥ずかしいから ) 控えよう。 ともかく03人は、いまはヴェネツィアン ・ グラスの工房 ( 写真向かって左 ) と、ブティック ( 写真向かって右 ) になっているこの建物に、( 買い物のふりをして ) 押し入り、仔細に ( 柱の1本1本に頬ずりをし、壁もナデナデして ) 内部構造もミタ。

まことに奇跡ではないかとおもった。 520年ほど以前 ―― わが国では足利幕府の時代、すなわち1495年ころから この工房は活動を開始し、20年余にわたって133冊 ( 種類 ) の評価のたかい書物をのこしている。 その工房がそっくりそのまま地上にのこっているのだから、高松塚古墳 モトイ ポンペイの遺跡が発掘されたときよりおどろいた !?

それから筆者はここを都合04回訪れ、いつもお義理でヴェネツィアン ・ グラスの安いものを購入していた。 そのため工房のあるじとも親しくなった。 店主はいかにも技芸の街、ヴェネツィアのアルチザンといった朴訥 ボクトツ なひとで、
「 最近、日本人のデザイナーが良く来る。 かれらは丁重で、必ず名刺を出して、死ぬほど写真を撮りまくる 」
と ( いうようなことを ) ボソボソとかたっていた。 それでも気のせいか、この建物に入ると、いつも活版インキ独特の甘い残り香をかんじていた。 なによりも、この 「 サンセコンド2311番地 」 の 建物正面の壁面には、重々しく銘板が埋め込まれており、以下のような文言がしるされている。

その名があまねく知れわたりし マヌティウス家の啓蒙者
アルダス ・ マヌティウス
このヴェネツィアの地にて 優れし印刷術に 身も心も捧げたひと

大学側の最初の説明では、通信教育学部の発足までに、各教科 都合10冊の教科書をつくることが必要だとされた。 吾吾03人組はなにはともあれ締め切りは守った。
それにしても……、常勤の大学教員はただただ傍観するだけ、その間なにもしなかったなぁ。 それがして、それまで美術大学に教科書が無かった理由かもしれない。
ともあれ、発足までに間にあったのは、吾吾が担当したタイポグラフィ篇と、別の著者によるイラスト篇だけだったようだ。 のこりの教科は、大学当局が監督官庁となんとかうまく話しあったのだろう。
したがってこのふたつが取りあえず合冊されて、『 情報デザイン演習Ⅰ 情報デザインシリーズ Vol.1  イラストレーションの展開とタイポグラフィの領域 』 と、えらく長い ( 大仰な ) タイトルがつけられて、1998年(平成10)04月01日に発行され、四年制の通信教育学部の発足をみた。
そして、それから数年もたたずに、あちこちの美術大学や芸術大学に 「 教科書 」 がもうけられるようになった。 わが国には <ちいさく右へ倣え> のふうがある。

◎ イタリア アルダス工房

ヴェネツィア、サンセコンド2311番地 15世紀後半- ( 白井敬尚氏撮影 )

アルダス工房は、水の都とされるヴェネツィアの運河沿い ( 工房の真裏が運河になっている ) に、出版総合プロデューサーともいうべき アルダス ・ マヌティウス ( Aldus  Manutius  1450―1515 ) によって1490年ころに創設された。 工房には、編集者、校閲者、組版工、印刷工らの職人が常時30名ほど働いていたとされる。

もともと東方貿易によって繁栄をきわめたヴェネツィア共和国だったが、15世紀中ごろに トルコがギリシャを占領したために、その難民が大挙してヴェネツィアに避難し、古代ギリシャの写本などの文献も豊富に持ちこまれていた。 そして、そのギリシャからの文献をもとめて、人文主義者らがヴェネツィアにたくさん集まっていた。

こんな歴史を背景として、アルダス工房の書物の大半は ギリシャ語活字によって組版 ・ 印刷されている。
しかしながらこんにち評価が高いのは、数は少なかったが ラテン語 ・ イタリア語による書物で、そこにもちいられたアップライト ・ ローマン体活字が、ボローニャ出身の有能な活字父型彫刻士、フランチェスコ ・ グリフォ ( Francesco Griffo   ?―c.1518 ) の設計 ・ 彫刻によって、1495―99年にかけてつぎつぎと誕生した。

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上) 朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部 2006年ニューイヤー ・ カード 使用活字書体 「 ベンボ 」
下) 朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部 2007年ニューイヤー ・ カード 使用活字書体 「 ポリフィラス 」

この時代のアルダス工房のローマン体は、まず1495年  「 アルダス/第 1 ローマン体 」 と呼ばれ、ピエトロ ・ ベンボ著 『 De Aetna 』 にもちいられた。
この 「 アルダス/第1ローマン体 」 は1929年にスタンリー ・ モリスンの監修によって復刻され、最初の 『 De Aetna 』 の著者の名をとって 「 ベンボ 」 と名づけられた。 この 「 ベンボ 」 は、いまなお金属活字でも電子活字でも入手が可能である。

「 アルダス第 2 ローマン体 」 は、1496年にグリフォによって彫刻され、レオニセヌス著 『 Epidemia 』 にもちいられた。
「 アルダス第 3 ローマン体 」 は、1499年に おそらくこれもグリフォによって彫刻され、美しい木版画をともなって著名な 『 Hypnerotomachia  Poliphil 』 ( 邦名 : ポリフィラスの夢 or ポリフィロの狂恋夢 ) にもちいられた。

この 「 アルダス第 3 ローマン体 」 も、1923年にスタンリー ・ モリスンの監修によって復刻され、モノタイプ社から最初の書物の名をとって 「 ポリフィラス  or  ポリフィリ 」 として発売をみた。 この 「 ポリフィラス 」 も、いまなお金属活字でも電子活字でも入手が可能である。

さらにアルダス工房の名をたかめたのは、「 手早く書かれた、やや傾斜のある非公式の書 体 ≒ チャンセリー ・ カーシブ 」 に着目し、それを活字書体としてグリフォによって彫刻させ、 詩集など小型判の書物にもちいたことである。

このように出版プロデューサーとしてのアルダス ・ マヌティウスの企画力と、アルチザンとしてのフランチェスコ ・ グリフォの手腕によって製作された活字書体は、こんにち 「 オールド ・ ローマン体 」 として、いまなお活字界においては屹立した存在である。

そしてこのアルダス工房など、15世紀後半に各地のアルチザン工房がのこしたさまざまな書物は、のちにドイツの書誌学者によって、まだ活字と書物がゆりかごのなかにあった時代の書物、すなわちラテン語のゆりかごからの意から 「 インキュナブラ   Incunabula  揺籃期本 」 と命名され、きわめて評価がたかい図書となっている。

そしてアルダス工房の活字は、やがてルネサンスの精神とともに、フランスに影響を与え、クロード ・ ギャラモンらによって一層の発展をみた。
そしてグリフォの、「手早く書かれた、やや傾斜のある非公式の書体 ≒ チャンセリー ・ カーシブ 」 活字は、フランスではイタリックと呼ばれ、これまた一層の充実をみた。

そしてわが朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部では、毎年のニューイヤー ・ カードにおける活字紹介シリーズとして、2006年 「 ベンボ 」、2007年 「 ポリフィラス 」 の両活字書体を紹介した。
そしていまなお手を尽くして、モノタイプ母型による金属活字の輸入販売にもあたっているのである。

すなわちヴェネツィアの運河を背にした、このちいさな工房の歴史のおもさをおもわずにはいられないのである。

◎   と、ここまで書き進めて、吾輩ハタと気づいた。 吾輩は 「 烏兎匆匆 ウト-ソウソウ ② 」 としてこのページをしるしていることをである。 すなわちこのテーマは今後どなたかにお任せするとしているのである。
いまや復習したり、再考 ・ 再検証するときではない。 まして、アルダス工房とその書物と活字にたいする関心は世界規模でおおいにたかまっている。 もはや吾輩の出る幕ではない。

以下にもうふたつのテーマを紹介するが、もうしつこくは書かないゾ。
ところがじつは、そのどちらかは、これから一層集中 ・ 注力するテーマとしている。 どちらかは秘密だけどネ。 いずれにしても、あとはお任せなのである。

◎   しかしである。 しかしながら、オールド ・ ローマン体の研究を深めるためには、先行したヴェネツィア ・ ローマン体の研究をもっとふかめる必要がある。 すなわち、アルダス ・ マヌティウスより30歳ほど年長で、これも同じくヴェネツィアを本拠地とした、ニコラ ・ ジェンソン ( Nicolas Jenson  1420―80 ) の工房調査がまったく進行していない事実にいまさらながら気づいた。
アルダス工房の調査も ( 大袈裟にいえば、世界のタイポグラファがみな )、ここにしるしたような些細なことから大きく進捗したのである。
そ こで最後に、真摯なタイポグラファの皆さんに声を大にして のお願い。

ニコラ ・ ジェンソン工房の調査を、ぜひ !


◎ フランス   ドベルニ&ペイニョ活字鋳造所

パリ、セーヌ河畔、ビスコンティ通り17番地 c.1825/27-1923年

パリのセーヌ川沿いのカチェラタン地区に、『 人間喜劇 』 『 谷間の百合 』 『 ゴリオ爺さん 』 などで知られる、文豪 ・ オノレ ・ バルザックが、ド ・ ベルニ家の支援を受けて設立した名門活字鋳造所の誕生の地がある。

若いころ、いっときバルザックの作品が好きで読みふけったことがある。 だからパリのペール ・ ラシェーズ墓地をたづねた。 その記録は 『 文字百景 』 のどこかにしるしたはずだ。
またフランスではいまだにバルザックの評価がたかく、
【 URL : Chateâu de Saché サシェ城 とバルザック記念館

があり、バルザックが使用した印刷機器なども展示されており、日本語紹介も充実しているが、日本語でのそこへの訪問記をみたことはない。 どなたかがここを訪問していただけるとうれしい。

同社創業者のバルザックは経営から早早に去ったが、同社はド ・ ベルニ家とペイニョ家の両家による後継者に恵まれ、1923年からはペイニョ家が実質的な経営にあたった。
ペイニョ家の歴代経営者では、Gustave Peignot  1839-99,  Georges Peignot  1872-1914,  Charles Peignot  1897-1983 らが著名である。
20世紀にはいってからも、同社はフランス国立印刷所の活字父型 ・ 活字母型の修復 ・ 鋳造にあたるとともに、「 カッサンドル 」 「 ペイニョ 」 などの意欲的な活字を開発した。

またパリ16区に移転後の1952年、シャルル ・ ペイニョがスイスからアドリアン ・ フルティガーを迎え、「メリディエン  子午線」、「ユニバース  宇宙」 などの書体を産んだ。
しかしながら、急速な活版印刷の衰退という時代の推移もだしがたく、ついに1972年(昭和47)、同社の活字資産はフランス国立印刷所に収蔵され、製造権はスイスの Haas 社が継承し、その長い歴史に幕をおろしたのである。

ビスコンティ通りはセーヌ川から近く、写真のように、小型車がようやく通り抜けられるような狭い路地にある。 創業当時からの建物は、写真左手に顕彰レリーフとともにいまもあり、現在は出版社が使用している。
オノレ ・ バルザック ( Honoré de Balzac   1799-1850 ) に関する邦訳書は多いが、そこでは、かれが艶福家であったことや、放縦な生活ぶりは描かれても、かれが 「 印刷狂 ・ 活字狂 」 であったことをしるした書物は少ないようだ。

◯ 1826年(27歳)
バルビエなる印刷所の監督と既設の印刷所を買い取り、06月印刷業者の免許をとる。
『 Oeuvres de Colardeau 』   Paris, 1826   Imprimerie de H. BALZAC
バルザックの印刷による上記の豆本を吾輩所有。 天地110mm×左右67mm  180p
極小サイズの活字を使用。巻頭に印刷者としてバルザックの名がある。
他文献に紹介を見ず。 調査不十分。

◯ 1827年(28歳)
07月印刷所が頓挫する。そこでド ・ ベルニ夫人の出資を受けて、ローランとバルビエと共同で、印刷所にかえて、活字鋳造所を設立した ( 写真の場所 )。
『 La Fouderie Typographique  De Laurent, Balzac et Barbier 』  Paris,  1827
すばらしい活字見本帳である。 同書は1992年に正確な複製版が発行された。
オーナメント、活字、ヴィネットの紹介が豊富。 吾輩も1992年版を所有。

◯ 1828年(29歳)
活字鋳造所の事業が不振で、バルザックとバルビエは印刷 ・ 活字鋳造から手を引く。
04月活字鋳造業を ド ・ ベルニ夫人の息子に譲渡。 夫人が1万5千フランの負債を肩代わりした。 バルザックの負債は結局 6 万フランの巨大なものにのぼった。

◯ 1952年―― Charles Peignot  1897-1983
Charles Peignot らが、同社の事実上最後の総合活字見本帳 『 DEBERNY ET PEIGNOT 』 を発行。
創業者 ・ バルザックからはじまり、 ド ・ ベルニ家 と ペイニョ家歴代経営陣の紹介がある。
「 カッサンドル 」 「 ペイニョ 」 活字書体の紹介が豊富。 吾輩も所有。

◎ イギリス  アーツ&クラフツ運動

ロンドン、アッパーマル12-26番地 19世紀末-20世紀初頭

テムズ河畔、馬車はもちろん、車も入れない、せまいせまい路地がアッパーマル通り。
19世紀中葉からこの路地に造形者が集まり、産業革命の負の側面を解消し、労働の喜びを賛歌するひとつの運動体を形成した。 それが 「 アーツ & クラフツ運動 」 であった。

著名なケルムスコット ・ プレスは この路地の入口、馬車のUターンのスペース ( 現在は駐車場 ) の前に、テムズ河畔に面してあり、路地にはダヴス ・ プレスなどの著名な印刷所と、製本 ・ 皮革工芸 ・ ステンドグラス ・ 刺繍の工房などが軒をつらねていた。

アーツ & クラフツ運動と、ウィリアム ・ モリスに関する紹介は、わが国でも多すぎるほど多い。 吾輩も英国 ・ 米国 ・ わが国の先行資料をそれなりにもっている。
さりながら、多くの執筆者たちは、このせまい路地に立ったことがあるのだろうか……とおもわせる記述が多い。 なによりも、この路地のテムズ川にせりだした 《 パブ ・ ダヴ 》 の珈琲はかなりうまいのだが、たれもそれにはふれないなぁ。

<字と呼ぶ國、漢字という国> 畑 畠 そして 手紙 嗚呼 !!

 

Web畑・畠《 畠中 結 さんとの往復書簡から  往 信 》
畠 中 結様  楊   黙  様 ── 片塩二朗  2014年05月25日

きょうは日曜(星期日)ですが、野暮用があって出勤しています。
お送りいただいた上海の活字鋳造所の写真データーは、さっそく〈朗文堂 アダナ・プレス倶楽部〉 と 朗文堂〉、双方の WebSite で使用させていただきました。ありがとうございました。

なおがき
いまは上海にお住まいの<畠中さん>のお名前をみるたびにおもいだすのですが、30-20年ほど前にしばしば中国にでかけていました。その折、上海の強 暁明さんという知性のあるかたと懇意になって、「手紙」の日中での意味のおおきな違いからはじまり、やがて日本製の字<国字>のはなしになりました。
強 暁明さんは、わたくしが手帳にしるした<畑 ・ 畠>の字をしばらくみつめて、
「これは<字>ではありませんね」
とニッコリとしながらも、断言されていました。

あれから20数年が経過しましたが、わたくしがときおりもちいている『 漢 典 』をみても、いまなお<畑 ・ 畠>ともにユニコード対応になっており、「日本の姓名につかわれる」とする程度の、素っ気ない解説をみるばかりです。
ユニコード対応の<字 / 畠>は、現在の中国ではどのように扱われているのか、お時間のあるときに
でもご教示いただけたら幸甚です。
朗文堂  片塩 二朗
畑 畠──────  日本の電子版 簡易 漢和辞典 での紹介
<畑>
教育漢字 小学校三年配当。常用漢字。 シフトJIS : 94A8
常読 : はた/はたけ
意読 : はた/はたけ

<畠>
人名漢字。 シフトJIS : 94A9
意読 : はた/はたけ

《 畠 中   結 さんとの往復書簡から  返 信 》
片塩 二朗様 ── 畠 中   結 2014年05月29日
メールありがとうございました!
月末月初はどうしてもバタバタしてしまい、返信が遅くなってしまい申し訳ありません。
また〈アダナ・プレス倶楽部ニュース〉、〈活版アラカルト〉、〈朗文堂ニュース〉を拝見いたしました。とても素敵です!

そして漢字の話ですが・・・・・・。 そうなんです <畠>。
それでも文明が進化して、中国でもなんとか上位機種のパソコンでは表示もプリントもできるようになりました。ところがまだ病院や公的機関のパソコンでも表示されない事が多々有ります。そういう場合は仕方なく<田中>という名前になってしまいます。
ただ、公的な名前という意味でいえば、中国でもアルファベット表記になりますので、日常生活では不便でも基本的には大丈夫です。

しかし中国では、英語よりもやはり漢字のほうが受け入れられますから、病院の受付などで英語で書くわけにもいかず……、それに見た目は外国人というわけでも無いですし……。
実は、わたしの<畠中>の名字は、「はたなか」とよく間違われるんですが、正しくは「はたけなか」なんです。
一時は日本の健康保険証のふりがなを間違えられていたことがあって、日本にいた時からすでに不便でした。それに大学のおなじクラスに、偶然にも「畠中 はたなか君」がいたもので、出欠をとるときも毎回間違われていました。

ですから今までずっと名字(姓)を訂正してきた人生でしたから、結婚したら名字が変わるんだ! と、ものすごく期待をもっていましたが、国際結婚のために夫婦別姓……ガーーン。
しかも中国に来ても、またまた不便な名前が<畠中>。
でももうこれが運命だと思って受け入れています(笑)。

最近の日本では、子供に複雑な名前を付けるブームがあるようですが、名字を訂正する人生の苦しみを知っているわたしは、誰でも読める単純な名前が一番良いかと思っています。ただ、名字は選べないですが。
また何かありましたら何でもご連絡下さい!
上海は今はもう夏です、このまま09月頃までヒートアイランド現象で暑くなります。
片塩さん、大石さんもお体には何卒お気をつけて!
畠 中  結

──────
《中国の(男性の)友人には、<手紙>を出さないほうがよい !? 》
30-20年ほど以前のはなしである。そのころ上海旅遊社の添乗ガイドだった強暁明さんに何度かお世話になった。強さんはいくぶんやつがれより年嵩だったが、のちに日本の大手建築会社に就職して、上海に日系のゴルフ場やビル(大楼・大厦)をつくるなどしていた。
このころの中国旅行とは不便なもので、旅行の最初から最後まで添乗するガイドと、それぞれの目的地の現地ガイドと運転手を引き連れての「お大名旅行」であったが、現地通貨/人民元ならぬ兌換券ダカンケンという名の、外国人専用の紙幣がつかえる場所-政府公認の場所にしかいけなかった。

強さんは上海大学を卒業して、流暢な日本語をあやつる知的なひとであった。このかたとすっかり親しくなって、上海から西安へ、上海から北京へ、上海から洛陽へ、上海から杭州・蘇州・無錫へと、数次にわたった列車(軟座か寝台車)での長い往復の旅行中に、さまざまな雑談もした[『逍遙本明朝物語』片塩二朗、1994年 p.60-]。

もちろん携帯電話も電子メールも無い時代のことゆえ、当初の連絡はもっぱら国際電話か書状(航空郵便)であり、のちにかろうじてファクシミリ(伝真・传真)となった。
その文中に、やつがれは無意識のうちに、なんども「手紙」と書いていた(らしい)。

たしかに日中は同文の国ではあるが、その意味するところがおおきく異なることがある。
たとえば「自動車」は、中国では「汽車」であり、わが国の「汽車」は、中国では「火車」である。

洛陽の茶館で、強さんがいいにくそうに、中国での「手紙」が意味するところを教えてくれた。当時のやつがれは「手紙」が「衛生紙」であり、トイレットペーパーを意味することは知っていたが、コノテーション(言外の意)としてまったく別の隠れた意味合いがあることは知らなかった。
漢 典 』にリンクしておいたのでご覧になってほしい。「手紙」から引いていくと「衛生紙」に誘導される。
すなわち、
ここでも「手紙」が中国で(あんに)意味するところ、とりわけ 2. ── が説くところはしるしにくい。
手紙《田 tián、圃 pŭ があれば十分でしょう。畑、畠の字は中国ではみたことがありません》
たぶん上海から蘇州への列車(火車)の車中だったとおもうが、車窓からみえる稲をつくっている「田圃/たんぼ」と、野菜をつくっている「畑/畠」をわけてはなしていたことから、いつのまにか<国字>のはなしになった。
【ウキペディア : 国  字 】  【URL : 漢字辞典 国字とは 】

強さんは最初のうちはニヤニヤして、
「漢字という呼び方は日本独自のもので、わたしたちは<字>がふつうです。まれに<国字>とも書きますが、それは日本でいう<漢字>のことで、中国でつくられた<字>ですよ」
「それはある程度わかります。強さんは国文学部出身でも、日本風にいうと、中国文学学部になるしね。ではこれからは<日本製の字>ということにしましょう」
「日本製の字といえば、この前日本にいったとき、寿司屋で<魚づくし>というのですか、魚偏の字だけで文[文様]にした湯呑みをみました。あの造字法はおもしろかったですよ」
「中国の魚偏の字は少ないからね。黄河に棲んでいた魚の字ぐらいしか無いようだ。内陸部では海をみたことがなかったのかな」
「殷商のみやこ、鄭州や安陽だけでなく、周、隋、漢など、造字活動がさかんだった時代のみやこは、ほとんど黄河の上流から中流域にありましたから、古代の神官などは海の魚を知らなかったのでしょう。その点では日本はきれいな水の河川が多いし、四方が海ですから。魚もおいしいですね。だから魚偏の字が多いのでしょう。」

「じゃぁ、まえからふしぎにおもっていることだけど、<鮎>は国字 モトイ 日本製の字ですか」
「あぁ前回の宿題ですね。大学の図書館で調べてきました。<鮎 nián>は、中国ではなまずのことでした。それがどういうわけか日本では清流に棲む<鮎 あゆ>に字義と字音がかわり、そして日本では「鮎」とは別に、わざわざ<鯰 なまず  nián>という字をつくったようです。それが中国に逆輸入されました。この「鯰」の字はいまの中国でも使えます」
「じゃぁ強さん、鮎・あゆ と 鯰・なまず は、同音・同義の異体字ということですか」
「中国には鮎が遡上するような清流は、すくなくとも中原にはありませんし、あの柳の葉のような美しい魚をみたことはありません。ですから中国での字としては、鮎も鯰も両方とも日本のなまずですし、中国音 nián です。ですから鯰は鮎の異体字(异体字)といえますね」
田 圃
「鯰を鮎の異体字だとするとは恐れ入ったね。いかにも中国的なおおらかさだ」
「いや、片塩さんもおおらかですよ。さっきから<たんぼ 田圃>といっていますね。わたしたちは<田 tián>と、<圃 Pŭ>は明確にわけていますよ」
「これは一本とられたな。日本では<たんぼ 田圃>を便利につかいすぎているところがあるのかもしれない。つまり田と畑・畠は別のもので、水を張って、おもに水稲をつくるところを<田・水田 or 田圃 たんぼ>といいます。そして平らな耕地に水を張らないで、おもに野菜や果樹・花卉を育てるところを畑といいます。そして畑のなかでも水利のわるいところは畠ではないでしょうか。これは個人的な意見ですが」

「その意見はおもしろいですね。許慎『説文解字』的にいうと、焼き畑でつくった<田 tián>が畑ということですね」
「そう。もとは焼き畑だったから火偏がのこった。そして 白+田 = 畠は、水利がわるいはたけということです」
「説文解字でも、余白・空白のように、白にはゼロ・零にちかい意味があるし、その個人的見解は納得できますね」
「なにかふたりだけで盛り上がったようだね。そろそろ蘇州が近いんじゃない」
というわけで、<畑/畠>は、火車のなかでの強 暁明さんによれば、やはり、
「これは 字 では無い」
ということになった。

《 なほかき なおがき 追伸 Postscript 》
中国では<田/畑・畠>を、ふつう明確にはわけて認識しないことは何度か本欄でもしるしてきた。
また「手紙」の例と同様に、中国での<異体字/異體字/异体字>には、コノテーション(言外の意)、あるいは含意として、「(おもに北朝などの非漢族の)異民族がのこしていった字」という、隠れた意味合いもある(『漢語詞典』)。

そこでふたたび畠中結さんのおたよりにもどってみよう。
そして漢字の話ですが・・・・・・。 そうなんです <畠>。
それでも文明が進化して、中国でもなんとか上位機種のパソコンでは表示もプリントもできるようになりました。ところがまだ病院や公的機関のパソコンでも表示されない事が多々有ります。そういう場合は仕方なく<田中>という名前になってしまいます。

中国では<田/畑>は、ともに中国音で<tián>であることは紹介した。すなわち同音であり、ほぼ同意の異体字とみなしていることになる。
したがって日本の姓の「畑山・畑野・畑中」などは、パソコンなどで表示できないばあいに「田山・田野・田中」などに置きかえられることがある。同音・同意なので悪意はないだろうし、むしろ「田」という姓は中国では名門に属する。

いっぽう<畠 zāi, zī>は同音・同意というわけにはいかない。こういうときには部首に注目するのが中国である。「畠 の部首は 田」である。またそこに「畑山・畑野・畑中」などを、「田山・田野・田中」に置きかえたのと同様な思考もはたらいたとおもえる。もちろんここにも悪意はないとおもってよいだろう。
こうして畠中さんのお名前は、中国ではときおり「田中」と表示されるのであろうとおもえる。

ことばとその音がかわるのとおなじように、字 ≒ 漢字はもとより、仮名 でさえもその変化のあゆみをとめない。これがして、<字学>のおもしろいところではなかろうか。

【アダナ・プレス倶楽部】 中国 上海の活字製造と活版印刷情報

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《錯綜する中国の活字製造と活版印刷関連情報》
なにしろ広大な国土の中国のことであり、活字製造と活版印刷関連情報とひとくちにいっても、とかく情報が混乱して錯綜していた。
比較的情報がはいりやすい北京とその近郊には、すでに活字製造業者、活版印刷業者
が存在しないことは確実とみられるが、
「中国東北部の吉林省や遼寧省では、まだ活版印刷業者があって、活字も供給されているようだ」
「中国西部の四川省でも、まだ金属活字の製造が継続しているようだ」
といった、伝聞や風評ばかりで、歯がゆいものがあった。

ところで、上海で活躍する版画家:楊 黙さんと畠中 結さんのご夫妻は、2012年の暮れに、朗文堂 アダナ・プレス倶楽部から<小型活版印刷機 Adana-21J >を購入された。
上掲写真のように、 Adana-21J は楊 黙さんのスタジオに設置されて、その造形活動の拡大に貢献している。そんなおふたりから今般上海郊外の活字鋳造所の現況報告と写真をご送付いただいた。

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★ 中国 上海の活字製造と活版印刷関連情報 ── 畠中結さんからのご報告

──────
楊 黙  Yang Mo ┊ 1980年中国うまれ
中国上海在住。日常生活のすべてを芸術、デジタル・デザイン、版画製作に捧げているアーティスト。
楊氏は南京芸術大学を卒業し、そののち版画製作の最先端の研究を、ドイツ中央部、芸術と大学都市、カッセル(Kassel)で続行した。同地で日本から留学中の畠中 結さんと知り合って結婚した(中国では夫婦別姓がふつう)。
中国に帰国後、ふたりは上海にアトリエを開設して、中国各地でいくつかの展覧会を開催した。また2012年の東京TDC賞にも選ばれている。
楊氏はおもにデジタル・デザイナーとして活躍しているが、常に彼自身の版画作品をつくって、現代中国では顧みられることの少ない、あたらしい版画芸術を提案し続ける、意欲にあふれる造形家である。
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《上海郊外にある、いまでも実際に稼働している活字鋳造所》
下掲の写真は、おそらくわが国では、はじめて紹介されるものとおもわれる。
撮影は今春に、この活字鋳造所を訪問された楊 黙さんによるものである。
中国では〈活版ルネサンス〉のうごきははじまったばかりであるが、写真でみる限り、この活字鋳造所には10台以上の活字鋳造機があるようにみられる。
また「活字母型タンス」もしっかり管理されているようであり、もう少し中国における〈活版ルネサンス〉の動向が顕著となって、既存の活版印刷業者の奮起と、あたらしい活版造形者が増加すれば、ふたたび活性化することは可能のようにみられる。
──────
西欧諸国からもたらされた近代印刷術に関していえば、わが国では「江戸期通行体 お家流」の可読性と判別性がひくかったために、明治新時代の民衆の旺盛な読書需要にこたえるために、お家流のような連綿形ではなく、一字一字が独立して、また明確な矩形による明朝体活字を中心とした活字版印刷の普及に積極的であった。

それにたいして、清国末期から中華民国初期の時代(明治時代から大正初期)の中国では、まず膨大に存在した古文書の影印本(古文書の文面を、写真術によって複写・製版・印刷した複製本)の製作に熱心で、活版印刷より石版印刷の普及に意欲的だったという非我の相異がみられた。

そんな社会風潮もあって、中国における近代活字版印刷術の開発と普及は遅延した。ところが1940年代の後半からの新中国では、民衆のリテラシーの向上が国是となって、活字製造と活版印刷は急速に普及した。
まず楷書体が注目され、さまざまな企業が開発にあたったが、なかでも上海漢文正楷書書局の開発による製品名「正楷書」活字がおおきな成功をおさめた。

近代中国の活字書風の「楷書体」は、北宋の皇族の末で、清朝の乾隆帝・康煕帝などによってたかく評価された、元朝の書芸家「趙松雪チョウ-ショウセツ(趙子昴チョウ-スゴウ、趙毛頫チョウ-モウフ トモ)の柔軟な書風をもととして、「矩形にまとめられた柔軟な楷書  ≒ 軟字・軟体楷書」を源流とするものが多い。
とりわけ上海漢文正楷書書局の「正楷書」(正楷書は製品名)
活字は、昭和前期に名古屋・津田三省堂などによってわが国にも導入されて、やはり「正楷書活字」と呼ばれて、それまでにわが国にも存在していた「楷書体活字」との競争に互角の勝負をいどみ、いまなお楷書活字の基本となっている。
[この項参考資料:ヴィネット09 『楷書体の源流をさぐる』 林 昆範、朗文堂、p.84-]

また北宋王朝刊本に源流を発する、彫刻の特徴が際立った、工芸書風としての倣宋版活字(倣はならう・まねる ≒ 模倣)が積極的に開発された。
著名なものとしては華豊書局製造の「倣宋版活字」(わが国では森川龍文堂の導入によって龍宋体とされた)、「商務印書館の倣宋体」、「中華書局聚珍倣宋版、倣宋版」(わが国には昭和前期に名古屋:津田三省堂らによって導入されて宋朝体とされた)の開発に集中していたようである。
その反面、わが国では意欲的に開発がすすんだ、「宋体-わが国の明朝体」、「黒体-わが国のゴシック体」の開発には消極的であった。
──────
ともあれ、現代中国でもあたらしい活版造形者が増加するかたむきをみせはじめている。そんな背景もあって、楊 黙さんのスタジオには最近中国メディアからの取材が盛んだとお聞きした。
これを好機として、ここに声を大にして、字の国、漢字の国、中国の活字鋳造所の復活と交流を望みたいところである。 できたらことし中に、上海に楊 黙さん・畠中 結さんをおたずねして、この活字鋳造所を訪問したいものである。
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タイポグラフィあのねのね*007 活字における「捨て仮名」の誕生

活字《捨て仮名》の誕生は意外と新しい !?

この記事は2011年04月20日に初掲載されたものである。
なぜか、ここのところ「捨て仮名、促音・拗音」活字の
創始に関するお問い合わせがつづいたので

若干の補整をくわえて、2014年5月08日ここに再掲載したものである。

すて-がな【捨て仮名】――広辞苑
①  漢文を訓読する時に、漢字の下に小さく添えて書く送り仮名。すけがな。
②  促音・拗音などを表すのに用いる小さな字。「っ・ゃ・ゅ・ょ・ィ・ォ」の類。

このタイポグラフィ・ブログロール「花筏」―― 「タイポグラフィ あのねのね*005 音引き・長音符「ー」は、「引」の旁からつくられた 『太陽窮理解説』」 において、長崎のオランダ通詞・本木良永が、天文学書の翻訳『太陽窮理解説 和解ワゲ草稿』(1792年 寛政4  長崎歴史博物館蔵)のために、下記のような記述法を創意・工夫・考案し、それを「凡例」のような形で文書化して巻首にのこしていることを報告した。

本稿は本木良永が縦組みの手書き文書のなかで考案した、「促呼する音――促音・拗音――の小仮名片寄せ表記」が、旧仮名遣いとされる文書や印刷物のなかでは、わずかな例外は当然あったにしても、一般にはなかなか普及をみずにいたものが、いつから印刷物の中――活字書体として採用され、実施されたのかを探るために記述した。
そこで本木良永『太陽窮理解説 和解ワゲ草稿』から、もういちど復習して、「促呼する音――促音・拗音――の小仮名片寄せ表記」が普及したのかを、まず実際の印刷物から考察してみたい。

『太陽窮理了解説』和解草稿2冊にみる意外な記録

  • アラビア数字を、活字(金属活字か? 捺印式)をもちいて紹介した。
  • カタ仮名の濁音[ガギグゲゴの類]を、「〃」のように、母字に2点を加えることと制定した。
  • カタ仮名の半濁音[パピプペポの類]を、「°」 のように、母字に小圏(小丸)を加えることと制定した。
  • カタ仮名の促音を、角書きツノガキにならって小さく表記すると制定した。
  • 長音符号(音引き)を、引の字の旁ツクリからとって、「ー」と制定した。
  • オランダ語の詠みを、カタ仮名表記と併せ、漢字音を借りて(当て字)併記して表記した。

明確な記録が存在する、
新聞組版における捨て仮名の初使用

「促音、拗音に小活字」
新聞整版では、一般に促音、拗音の小活字が用いられていないが、中國新聞社で(昭和24年)5月26日号に使いはじめてから、だんだん復活のきざしが生まれている。
――「NEWS」『印刷雑誌』(1949年 昭和24年9月号 p.30)

「新聞の組版に拗促音の小活字を使用」

中國新聞社が新聞整版で、はじめて拗促音の小活字を(昭和24年)5月26日号から使いだした。これにより次第に他紙にも普及している。(印刷雑誌’49.9)
――引用紹介 「1949(昭和24年)文字組版」『日本印刷技術史年表』(同書編纂委員会  印刷図書館  昭和59年3月30日 p.17)

『印刷雑誌』1949.9 表紙・本文ページ(印刷図書館蔵)

『日本印刷技術史年表』』(同書編纂委員会  印刷図書館  昭和59年3月30日)は、 1945-80年までの印刷関連の歴史資料を編纂したもので、以下の8項目に分けて簡潔に記述されている。
調査・編集にあたったメンバーは、おもに東京高等工芸学校(旧制高等学校のうち、大学にならなかった数少ない高等学校。一部の教職員と在校生が千葉大学工学部に移動したために、同校は東京高等工芸学校・現千葉学大工学部と表記されることが多い)の出身者で、それぞれが下記の8項目を分担して、調査・編集にあたっている。
「文字組版」の担当は加藤美方(カトウ-ヨシカタ 1921-2000)であった。

  • 原稿作成・デザイン・出版     小柏又三郎
  • 文字組版                  加藤 美方
  • 写真製版                    板倉 孝宣
  • 凸 版                       坪井滋憲・新木 恒彦
  • 平 版                       飯坂義治・佐藤富士達
  • 凹版・グラビア                市川家康(凹版)・飯坂義治(グラビア)
  • 特殊印刷・製本・加工        山本隆太郎
  • 教育・資材その他          川俣 正一

中國新聞 昭和24 年5 月23日号
中國新聞 昭和24年5月24日号
中國新聞 昭和24年5月25日号
中國新聞 昭和24年5月26日号
『中國新聞』 (国立国会図書館蔵)

上記の記録を得て「中國新聞社」に架電したところ、同紙の戦後版は国立国会図書館にマイクロフィルムがあるとの情報を得た。そこで昭和24年5月26日の前後、数日分の複写記録を取得した。その複写資料が上記に紹介した『中國新聞』である。

興味深かったのは5月23 日までは、見出し・本文ともに捨て仮名活字の使用はみられないが、5月24日号の見出し活字の一部が捨て仮名活字になっており、本文中には、捨て仮名と並仮名――(促音と拗音であっても)ふつうの大きさの仮名活字、おもに捨て仮名にたいしていう――活字が混在していたことであった。
そして翌日の5月25日号では、
またすべて並仮名活字の使用にもどり、5月26日号からは、見出し、本文ともに、促音と拗音のすべてが捨て仮名活字になっていた。

その理由は分明しないが、捨て仮名活字の鋳造が間に合わなかったというより、おそらくは5月24日号で捨て仮名への移行が試行され、その読者の反応と社内体制の進捗具合を確認して、昭和24年5月26日号から、『中國新聞』において、見出し・本文活字ともに本格的に「捨て仮名」活字の使用がはじまったものとおもわれた。

このように、新聞に関しては、促音と拗音が、並仮名活字から捨て仮名活字への切り替え時期に関する明確な記録があったが、書籍印刷、商業印刷、端物印刷における捨て仮名活字の移行期はなかなか判明しない。そもそも先に紹介した新聞に関する原記録では、
新聞整版では、一般に促音拗音の小活字が用いられていないが、中國新聞社で5月26日号に使いはじめてから、だんだん復活のきざしが生まれている。
――「NEWS」『印刷雑誌』(1949年  昭和24年9月号 p.30)
とあり(アンダーラインは筆者による。以下同)、「新聞整版[活字組版]では、一般に促音拗音の小活字が用いられない」とされている。

また、「だんだん復活のきざしが生まれている」という結びの部分も気になる。
すなわち、換言すれば、
「一般図書や端物印刷では、ふつう促音・拗音に小活字[捨て仮名活字]が用いられている」
「新聞組版は捨て仮名活字を用いた時期もあったが、中國新聞社が復活させた」
とも読める。したがってかなり悩ましい記録であることが判明する。

また初出が「促音拗音」だったのが、加藤美方による以下の引用文、
「新聞の組版に拗促音の小活字を使用」
中國新聞社が新聞整版で、はじめて拗促音の小活字を5月26日号から使いだした。これにより次第に他紙にも普及している。(印刷雑誌’49.9)
――「1949(昭和24年)文字組版」『日本印刷技術史年表』(同書編纂委員会 印刷図書館 昭和59年3月30日 p.17)

ここにおいては、「促音と拗音」の順序が変わり、「と」のひと文字が省略されて、「拗促音」なる合成語に変わっている。それでも加藤美方はあくまでも「拗促音の小活字」としており、現在一部で活字用語の省略語としてもちいられている、いささか横着な「拗促音」のように、音≒声と、字の形姿、活字形態とを混同しているわけではない。
この促音・拗音・撥音・拗促音の活字表記の名称の混乱に関しては、国語教育の問題と関連づけて、いずれ再度本欄で取りあげてみたい。

手がかり難な一般図書の捨て仮名の初使用

書籍印刷、商業印刷、端物印刷における「捨て仮名」活字の移行期はなかなか判明しないことは既述した。そこで筆者の手許資料『理想社印刷所六十年』(田中昭三 理想社)から、ひとつの手がかりを紹介したい。
同書は創業者の一代記ともいえる内容の文書記録『田中末吉』(創業50周年記念 昭和46年12月28日)と、新本社工場ビルの竣工を記念した写真記録『町工場六十年』(創業60周年記念 昭和56年10月20日)との二分冊となってケースに入っているが、おもに文書記録『田中末吉』から紹介しよう[『理想社印刷所六十年』(田中昭三 理想社)は2013年オンデマンド印刷方式によって増刷された]。

『町工場六十年』口絵の田中末吉
理想社の創業者/田中末吉(明治25年―昭和34年、昭和16年ころ)

昭和10年ころの理想社印刷作業場風景(中央・田中末吉)
昭和10年ころの理想社文選作業風景
昭和10年ころの理想社植字作業(奥)、カエシ作業(手前)

理想社は1921年(大正10)の創業で、岩波書店、有斐閣などを主要顧客とする書籍印刷の中堅印刷業者である。
創立者の田中末吉は1892年(明治25)12月4日、牛込市ヶ谷加賀町にうまれた。1905年(明治38)秀英舎(現大日本印刷)に文選見習い工として入舎して、入退舎を繰りかえしながら、日本新聞社(神田)、三光舎(春日町)、文明社、中外印刷、丸利印刷、東洋印刷(芝)、凸版印刷(本所)、博文館(小石川、現共同印刷)、その他を転転として修行をかさねた。

さらに1909年(明治42)には、徒歩で、横浜・横須賀・小田原・静岡・京都・大阪などの、秀英舎の修了生が経営・在勤する工場を、文選箱、セッテン、組版ステッキだけを携行して訪ね歩き、活版印刷全般の研鑽を重ねたとされる(田中昭三)。
この時代の秀英舎には、包丁一本を抱えて修行に研鑽した、日本料理職人の修業にも似た、現場修行を重んじるよき慣習があった。また同舎の修了生は、こうして訪ねてくる「舎弟」の面倒をよくみていたことが、長野市の柏与印刷の社史などにも記録されている。

田中末吉が満を持して「理想社組版所」の看板を牛込柳町に掲げたのは1921年(大正10)のことだったが、幸い関東大地震の被害が軽微であり、また岩波書店の強い後援もあって、次第に大型活版印刷機を導入するなどして発展を続け、19331年(昭和8)現在地の新宿区改代町に移転した。

昭和10年(1935)当時の同社の記録(田中末吉筆)をみると、
活版印刷機四六全判、菊全判6台、活字鋳造機[自家鋳造用、トムソン型か]を7台に増設し、活字1回限りの使用とした。従業員70余名を使用する小工場を経営することとなる。
当時のおもなお得意先は、岩波書店、東京堂、誠文堂新光社、古今書院、長崎書店、理想社出版、創元社、白水社、有斐閣、帝大出版部、大村書店、早大出版部、羽田書店、栗田書店など、数十社のごひいきを賜る-としている。

昭和17年(1942)それまで順調な進展をかさねてきた理想社におおきな不幸が見舞った。第二次世界大戦による「企業統合」である。
理想社は軍需工場への転換を拒否し、苦渋の決断として「企業統合」の道を受け入れた。そのため設備と在庫と在版の大半を「供出」させられ、社員の相当数を「軍役召集」と「勤労奉仕」によって失い、同業数社と統合されて、世田ヶ谷区祖師谷大蔵に「疎開」を命じられた。

(田中末吉筆) 戦時体制により、印刷業界も企業統制下に置かれることとなる。この機に当面し、崩壊する民間企業に立ち、 ひとり前記のお得意先を支持し、率先して理想社を主体とした、内田ほか2業者を合併し、株式会社大和ダイワ印刷を興し、世田ヶ谷区の労働科学研究所内に全工場を統括疎開し、事業を継続する。この間大和印刷社長に就任。また戦後の苦難を嘗める。

活字・捨て仮名は、理想社の創意によるもの !?

『田中末吉』の p.83-96に、「戦前の理想社」と題する座談会が収録されている。出席者は以下の6名である。
松浦  元  大正15-昭和27年在社 当時文殊印刷社長
石渡  光  昭和8年-20年在社 元植字職長
三須  力     昭和8年-36年在社 元文選職長
建守 正好  昭和8年-18年在社 元営業
田中 昭三  理想社2代目社長(田中元子の婿)
田中 元子  田中末吉の長女

『田中末吉』 p.94より

田中昭三: 理想社印刷所が大正3年、故田中末吉によって設立されてから、今年でちょうど創業50年になります。これを記念して、先代社長の回想を兼ねて、当社の歴史的側面を記録しておくことにいたしました。
大正末期から昭和初期の、いわゆる理想社の基礎を築いた時代の諸先輩の皆さまにお集まりいただき、色々な想い出を話していただきたいと存じます。(中略)
田中昭三: オヤジは亡くなる前、入院中でも、校正刷りを持ってこさせて、それをみては、この[活字]母型を直せとか、これを検査してみろと、色々指示していましたが。
三 須:  それは真剣にやっていた。うるさかったですよ。文選ケースも自分でよく工夫されていた。活字が悪かったら、印刷が良くても駄目だと良く主張していた。
石 渡:  [活字]母型はたくさんの種類をもっていた。田端の木村さんによく新しく彫刻させていたんです。それと五号の角[ボディサイズ]に六号を片寄せして、いまでいう “捨てカナ” (半音)をつくったのは社長[先代田中末吉]だったね。あれなんかは他社ではやっていませんでした。(後略)

石渡  光(昭和8年-20年理想社在社 元植字職長)の口からでた、おもわぬことばがここに記録されている。 石渡 光は「昭和8年-20年在社 元植字職長」とされている人物である。
すなわち昭和24年5月26日『中國新聞』における「捨て仮名」の採用に先立って、昭和8年・1933-昭和20年・1945のいずれのときかに、
「五号の角[ボディサイズ]に六号を片寄せして、いまでいう “捨てカナ” (半音)をつくった」
のは理想社社長、田中末吉の創意と工夫であり、同社によって「捨て仮名」活字の使用がはじまったとしている。

理想社は現在、田中末吉の嫡孫・田中宏明ヒロアキがひきいており、2008年までは四六全判活字版印刷機も轟音をひびかせて稼働していた。
同社長によると、理想社では現在も促音・拗音の仮名を「捨て仮名、半音、まれに、寄せ仮名・促音・小仮名」活字と呼ぶそうである。
また、活字母型製造は知る限り飯田活字母型製造所に依頼していたとするが、「田端の木村さん」という活字母型製造所が、飯田活字母型製造所をさすのか、あるいはほかの活字母型製造所なのかはわからないそうである。

繰りかえしになるが、新聞媒体に「捨て仮名」活字の使用がはじまったのは、以下の比較的信頼すべき媒体に紹介されたように、1949年(昭和24)5月26日、中國新聞によりはじまっている。

「促音、拗音に小活字」
新聞整版では、一般に促音、拗音の小活字が用いられていないが、中國新聞社で(昭和24年)5月26日号に使いはじめてから、だんだん復活のきざしが生まれている。 ――「NEWS」『印刷雑誌』(1949年 昭和24年9月号 p.30)
「新聞の組版に拗促音の小活字を使用」
中國新聞社が新聞整版で、はじめて拗促音の小活字を(昭和24年)5月26日号から使いだした。これにより次第に他紙にも普及している。(印刷雑誌’49.9) ――「1949(昭和24年)文字組版」『日本印刷技術史年表』(同書編纂委員会  印刷図書館  昭和59年3月30日 p.17)

それにたいして、ここに、書籍印刷のなかではじめて「捨て仮名」活字の使用がはじまった時期は、昭和8年・1933-昭和20年・1945のいずれのときかに、理想社社長、田中末吉の創意と工夫によって「捨て仮名」活字の使用がはじまったとする記録が存在していることを紹介した。

五号の角[ボディサイズ]に六号を片寄せして、いまでいう “捨てカナ” (半音)をつくったのは社長[先代田中末吉]だったね。あれなんかは他社ではやっていませんでした。
――石渡 光 昭和8年-20年 理想社に在社 植字職長

この記録は座談会のなかでのものであり、いささか厳密さに欠ける。
またこの程度の工夫なら、同時多発的に、各地・各所の印刷所や新聞社においても実施された可能性を否定できない。
当然手書き文書のなかには、ほとんど無意識であろうが、促音・拗音を小振りに、右寄せ(縦組み)にしたものは、先行事例としてたくさんみる。
したがって、理想社/田中末吉の創意と工夫とは、活字組版におけるたくさんの創意と同様に、手書き文書の慣行を、無理なく活字組版に取り入れたものとみなすのが順当であろう。

理想社は、戦時体制下における企業統合の際に、「印刷所保存版書籍」のすべてを没収されており、戦前の同社の記録はきわめて乏しい。
しかしながら、「捨て仮名」活字を「寄せ仮名」活字と呼称する印刷所や出版社もいまでも多数あり、すでに「片寄せして……」とした石渡 光の発言は無視できないものがある。
田中末吉が詳細に紹介した有力取引出版社の過半は現存している。理想社の「印刷所保存版書籍」は没収されているが、「版元用保存版書籍」をたどれば、出版物における「捨て仮名」活字の使用時期がわかりそうである。手がかりとは、こんな些細な記録に埋もれていることが多いのである。
問題提起をここにした。皆さんの助力を願うゆえんでもある。

タイポグラフィ あのねのね*020 活字列見 or 並び線見

【初掲載:2013年07月07日 改訂版:2013年07月20日掲載】

《きっかけは2011年12月をもって第一線を退いた 長瀬欄罫製作所 の提供の品であった》
2011年、あのおおきな地震と、原子力発電所の大事故が03月11日に発生した年であった。
東京都文京区関口にあった「長瀬欄罫ランケイ製作所」が、設備の老朽化と、経営者と従業員の高齢化、後継者不在のために、2011年の年末をもって閉鎖することが夏頃から書状をもって公表されていた。

長瀬欄罫製作所 第二代/長瀬 慶雄ナガセ-ヨシオ(昭和17年/1942年/8月8日 東京うまれ)とやつがれとは、ほぼ同世代であり、ながいつきあいになる。
長瀬欄罫は戦前は文字どおり活版印刷用の「欄罫製造業者」であった。戦後は大日本印刷の外注企業として、おもにページ物に使用する金属インテルや、日本語モノタイプ(自動活字鋳植機、通称:小池式 KMT 邦文活字自動鋳植機)をもちいて、各社に本文用活字を供給していた。

長瀬慶雄氏は、親子二代にわたって長年使用してきた「インテル鋳造機、欄罫鋳造機、KMT邦文活字自動鋳植機」などの廃棄をきめていたが、やはり長年にわたって愛用してきた機器に愛着があり、無償でよいからと、継続して使用する業者に譲渡される方途を探っていた。
やつがれも、友人・知人をあげて引き受け手を探したが、活版印刷関連業者はどこも現状維持が精一杯で、まして大地震と大事故のあとのことでもあり、無償でもこれらの大型機器の引き取り手は無かった。
────────
ところが暮れも押し詰まった2011年12月24日に、台湾の「日星鋳字行」という活字版製造所が、インテル鋳造機の引き取りに名乗りをあげて来日された。
12月24日とはクリスマス・イヴであった。
どうしても年内いっぱいには工場を閉めたいという、長瀬さんのつよいご希望があり、あわただしく「乙仲業者」を起用して、台湾にむけてインテル鋳造機を梱包発送できたのは、2011年12月29日というギリギリの日程であった。

台湾・日星鋳字行にもありました! このちいさな器具が。
「やつがれ-これをナント呼んで、ナニに使っていますか」
「張介冠チョウカイカン代表-名前は知らないけど、欧文活字を鋳込むとき、ベースラインを見本活字とあわせるのに必ずつかっています」
「やつがれ-なるほど、日本とほとんど同じですね」
「柯 志杰カシケツさん-そうか、知らなかったなぁ」
【参考資料:朗文堂-好日録019 活版カレッジ台湾旅行 新活字母型製造法を日星鋳字行でみる 2012年10月22日

大型機器が搬出された工場内は、ガランとした空間になったが、そこに前から気になっていた、ちいさな「器具や道具」が数個のこされていた。長瀬氏も「欧文活字の検査に使っていた」とされたが、名前は忘れたということであった。
「あした産業廃棄物業者がきて、全~部持っていくから、それはあげるよ」
ということで、その「器具」をいただいて、あわただしい師走の街並みをぬって帰ってきた。
【参考資料:タイポグラファ群像*005 長瀬欄罫製作所/小池製作所を記録する
───────
年が明けて、名前が分からないままというのも落ち着かない気分だったので、年始の挨拶などの会話で、この「道具」の名前の取材からはじめた。
その記録は、
タイポグラフィ あのねのね*016 これはナニ?  2012年02月23日
タイポグラフィ あのねのね*018 2012年03月13日
の2回にわたって『花筏』に発表した。掲載記事にリンクするとともに、要点だけを以下に挙げた。

タイポグラフィ あのねのね*016 要旨

これはナニ? なんと呼んでいますか? 
活版関連業者からお譲りいただきました。

◎  元・岩田母型製造所、高内  一ハジメ氏より電話録取。(2012年01月04日)
   《版見》と書いて《はんみ》と呼んでいました。
◎ 築地活字 平工希一氏談。(2012年01月10日)
   ふつうは「はんめ」と呼んでいます。漢字はわかりません。
   ひとに聞かれると「活字の高さを見る道具」だと説明しています。

◎  匿名希望 ある活字店談。(2012年02月02日)
   うちでは「はんめんみ」と呼んでいます。
   漢字は不確かながら「版面見」ではないかとおもいます。
◎ 精興社 小山成一氏より@メール(2012年02月15日)
   小社では《ハンミ》と呼んでいたようですが、元鋳造課長の75歳男に訊いたところ、
   判面(はんめん)と呼んでいたとのことでした。
────────

タイポグラフィ あのねのね*018 要旨

Type Inspection Tools   活字鋳造検査器具 

Type Lining Tester  活字列見

《これはナニ? なんと呼んでいますか?  タイポグラフィ あのねのね*016での問題提起》
2012年2月23日、タイポグラフィ あのねのね*016 において、下掲の写真を紹介するとともに、その呼称、役割、使途などを調査する一環として、金属活字鋳造、活字版印刷関連業者からのアンケートをしるした。 
その問題提起とアンケート結果は、上記アドレスにリンクしてあるので、まだ前回資料を未見のかたは、ご面倒でも事前にご覧いただきたい。

簡略なアンケートながら、このちいさな器具の呼称は、
「版見ハンミ、はんめ、版面見ハンメンミ、ハンミ、判面ハンメン」
などと、活字鋳造業者、活版印刷業者のあいだでは様様に呼ばれていたことがわかった。
140年余の歴史を有するわが国の近代活字版印刷術 タイポグラフィ と、活字鋳造業界には、じつに多様な業界用語があり、それがしばしば訛ってもちいられたり、省略されてもちいられることが多い。まして金属活字鋳造業界はながい衰退期にあるため、情報の断絶がしばしばみられるのがつねである。

『VIVA!! カッパン♥』(アダナプレス倶楽部・大石薫、朗文堂)は、「活版印刷の入門書」とされるが、大半を活版印刷に使用する(された)機器の紹介が占めている。あらたな事象を知るためには、迂遠なようでも、まず関連機器の正式な名称とその役割を知ることがたいせつと信じてのことであった。

またその使途・用途は、アンケート結果をみると大同小異で、ほとんどが、
「活字の高さを調べる器具」
「活字のライン、とりわけ欧文のベースラインの揃いを確認する器具」
との回答をえた。
現在の電子活字、とりわけその主流を占めるアドビ社の「ポストスクリプト・フォント・フォーマット」においては、ベース・ラインの設定は、全角 em を1,000としたとき、120/1000の位置に設定されている。欧文活字設計、欧文組版設計において、もっとも重視される基準線がベース・ラインであることは、昔も今もなんら変化がない。
そしていまや、和文電子活字、和文電子組版でさえ「ポストスクリプト・フォント・フォーマット」が主流となったため、ベース・ラインはより一層その重要性をたかめている。

わが国の金属活字の時代も、当然ベース・ラインの揃いは重視され、すくなくとも『活字と機械』に紹介された図版をみると、1914年(大正3)には使用されていたことがあきらかになった。
しかしながら、拡大鏡をもちいるとはいえ、この簡便な器具での視覚検査だけではおのずと限界がある。したがって相当以前から、このほかにも「顕微鏡型」とされる、より正確な、各種の活字鋳造検査器具が開発され、また鋳造現場での創意・工夫がなされ、随所にもちいられていた。
そのひとつは「ライン顕微鏡 Lining microscope」とされ、アダナプレス倶楽部が所有している。

  

《文献にみる、この器具の資料》
まだ精査を終えたとはいえないが、この器具はいまのところ外国文献には紹介を見ていない。しかし過去の例からいって、本格的に写真図版を紹介すると、やがて資料の提供があちこちからあるものと楽観している。
またのちほど紹介する、インチ目盛りのついた類似器具が、かつて学術書組版のために、欧文自動活字鋳植機(いわゆる欧文モノタイプ)を使用していた、新宿区内の企業から発見されている。いずれ外国文献の報告はあるものと期待をこめてみていたい。

わが国の資料では、『活字と機械』(東京築地活版製造所、大正3年6月)の各章の扉ページ(本書にページ番号は無い。電気銅版とみられる同一図版が6ヶ所にもちいられている)にもちいられたカット(イラスト)の左上部、上から二番目に類似の器具が図版紹介されている。
今回の調査をもって、この図版にみる12点の器具すべての呼称と役割が判明した。それだけでなく、ここにある12点の器具は、すべて朗文堂アダナ・プレス倶楽部が所有し、いまもってほとんどの道具や器具を使用している。すなわちわが国の活字印刷術とは、おおむね明治末期から大正初期に完成期を迎えていたとみなすことが可能である。
 
       

上左:『活字と機械』(東京築地活版製造所、大正3年6月)表紙には損傷が多く、若干補修した。本書にはページナンバーの記載は無い。
上右:『活字と機械』扉ページ。外周のイラストは電気銅版(電気版、電胎版とも)とみられ、外周部の同一の絵柄が、都合6ヶ所にもちいられている。

『活字と機械』扉ページより、左上部2番目の器具を拡大紹介した。この時点ではまだ正式呼称はわからなかった。主要素材は銅製で、下のネジを回すと、手前の鉄片が上下する仕組みになっている。取っ手にみえる円形の輪は、この鉄片の上下動を固定する役割を担っている。

右最下部:「活字ハンドモールド──同社では活字台・活字スタンプ」と呼び、1902年(明治35)12月27日に特許を取得している。

また江川活版製造所創業者、江川次之進が、この簡便な器具を「活字行商」に際してもちいたことが、直系子孫が保存していた掛け軸の絵柄から判明している。2012年05月《活版凸凹フェスタ》にて詳細な発表をした。また近近江川活版製造所に関する論文発表の機会も得たい。

《ついに発見! 晃文堂資料から──LININNG TESTER  列見》
これまでも筆者は、かつて吉田市郎がひきいていた「晃文堂」に関してしばしばふれてきた。
ここでふたたび『KOBUNDO’S TYPE-FACES OF TODAY』(株式会社晃文堂 千代田区神田鍛冶町2-18、p.67、1958)を紹介したい。

『KOBUNDO’S TYPE-FACES OF TODAY』は、たんなる活字見本帳ではない。活字版印刷術 タイポグラフィを見据えた、総合技芸をサポートする豊富な内容となっている。そのp.67に問題の器具の写真が紹介されている。
左半分は〈INSPECTION TOOLS〉すなわち〈活字鋳造検査器具〉の各種である。
その(A)に LININNG TESTER  列見 と紹介されている。 

左図の中央部に、(A)LINING TESTER  列見が紹介されている。(B)「ライン顕微鏡 Lining microscope」である。この類似機をアダナプレス倶楽部が所有している。

ここにみる機器は製造ラインが破綻したものもあるが、小社をふくめ、いまも活字版印刷所、活字鋳造所などでは現役でつかわれている。アダナ・プレス倶楽部では《活版ルネサンス》などのイベントに際し、陳列・展示、一部は水面下にあった製造ラインを「復活 ルネサンス」させて、製造・販売にあたっているものである。

ようやく晃文堂が提示したこの器具の呼称があきらかにされた。いまならば和製英語としても「ベースライン・テスター」でも良かろうとおもわれるが、前述のようにかつての活字版印刷術の職人は、欧文を横文と呼んで毛嫌いするかたむきがあり、あえて「欧文のベースラインの行の列をみる → 列見」としたようである。
そしてこれが訛って「版見ハンミ、はんめ、版面見ハンメンミ、ハンミ、判面ハンメン」などと呼ばれるようになったものとおもわれた。
────────

 《『印刷事典』第1版と、『印刷事典』第5版の記述の紹介》
「活字列見」は、ご覧のように愛嬌のある姿をしているので、『花筏』での紹介後に人気をあつめたとみられ、何人かのかたが「つぶやき プロフィール・アイコン」などに使用されているらしい。
そんなうわさを聞くと、責任も発生してくるので、晃文堂カタログに紹介された「LINING TESTER  列見」をもとに外国文献にもあたってみた。
図版紹介はないものの、「lining gauge, aligning gauge ; Linienmaß」の名称での説明が関連用語として外国文献にも紹介されていた。

ついで和洋折衷ともいえる『英和  印刷-書誌百科事典』(日本印刷学会、印刷雑誌社、昭和13年1月12日──印刷学会出版部では同書を『印刷事典 第一版』とする)と、『第五版 印刷事典』(日本印刷学会、印刷朝陽会、平成14年1月7日)にあたってみた。

あたりまえといえばそれまでだが、事典や辞書とは、名前から引いて表題語にたどりつくものである。したがって狭隘な自分の経験即だけでかたられたり、業界用語として訛ってもちいている用語では、目的語にたどり着けないことがある。いかに「ウンチク派」とそしられようとも、やはり正式な名前とその機能を知ることは肝要である。
結果は以下にご覧のとおりで、おもわず苦笑するしかなかった。

ついでながら『英和  印刷-書誌百科事典』の刊記(奥付)をご覧いただくとわかるが、同書は1938年(昭和13)という、活版印刷が奈落に突き落とされる寸前の、もっとも高揚期に刊行された書物で、秀英舎から大日本印刷に衣替えした直後、しかも矢野道也、郡山幸夫、川田久長ら、日本印刷学会の創立者たちの名前がしるされている。
とりわけ印刷者として、川田久長の個人名と自宅住所がしるされているのは興味ふかい。また1938年(昭和13)における、活版印刷の和欧混植組版の技倆はかるための、最適の資料ともいえる。



『英和  印刷-書誌百科事典』のp.330から Lining の解説がはじまり、p.332 にいたって図版入りで以下のように解説がなされている。

lining gauge (Linienmass
活字の Line を測定する器具。aligning gauge ともいふ。

図版は、これまで紹介したものより、「榎町のおじいちゃん、小宮山のおじいちゃん」の所蔵品の「モノタイプ・コーポレーションの純正測定器」として紹介したものに近似している。


ついで、『第五版 印刷事典』(日本印刷学会、印刷朝陽会、平成14年1月7日)にあたってみた。同書p.381には、【ならびせん 並び線 (同)ベースライン】の記述に続いて、以下のように図版入りで解説されている。

【ならびせんみ 並び線見  lining gauge, aligning ; Linienmaβ
欧文活字の並び線を測定する器具。(同)版面見、筋見
─────
さて、ここで整理してみよう。
『花筏』での紹介後、あちこちで図版や図像としてご利用いただいたのは嬉しいが、情報の提供はいただけなかった。
できたら過誤のご指摘をふくめて、情報のご提供をいただけたら嬉しい。

◎  『英和  印刷-書誌百科事典』(日本印刷学会、印刷雑誌社、昭和13年1月12日)
    lining gauge (Linienmass
    活字の Line を測定する器具。aligning gauge ともいふ。[図版あり]
◎  『第五版 印刷事典』(日本印刷学会、印刷朝陽会、平成14年1月7日)
    ならびせんみ 並び線見  lining gauge, aligning ; Linienmaβ
    欧文活字の並び線を測定する器具。(同)版面見、筋見[図版あり]
◎ 『KOBUNDO’S TYPE-FACES OF TODAY』
  (株式会社晃文堂 千代田区神田鍛冶町2-18、p.67、1958) 
    LINING TESTER  列見[写真図版あり]


◎ まとめ
この器具は、活字鋳造現場、とりわけ欧文活字のベース・ラインの測定・設定にもちいられる。英語では Lining gauge, Aligning, Lining tester などとされ、 ドイツ語では Linienmass とされる。わが国では「並び線見、版面見、筋見、列見」などと呼んだ。

【講演録】文字と活字の夢街道


『四天王寺』所収。講演録「文字と活字の夢街道」
2004年01月05日  片塩二朗

大阪市天王寺区に聖徳太子建立の寺とされる四天王寺がある。
四天王寺は593年、一説には623年ころに創建されたとみられ、山号を荒陵山とする。
もちろん著名な名刹のお寺で、伽藍の配置は塔・金堂・講堂が、中心線上に一直線にならんだ「四天王寺式」とされる荘重なものである。

堂宇は幾度も焼失したが、第二次大戦後に復元建造がなり、いまは正式には「和宗総本山 荒陵山 四天王寺」という。気取りのない親しみやすいお寺であった。

 この四天王寺では毎月第二土曜日に、各界から講師を迎えて「四天王寺仏教文化講演会」を開催している。この講演会はすでに数百回を数えているが、過去の講演記録をみると、必ずしも仏教関係者ばかりではなく、キリスト教関係者を含むひろい範囲にわたっている。

あるご縁があって、やつがれがこの「四天王寺仏教文化講演会」の講師として招かれたのは、もうふるいはなしで、平成11年(1999)6月のことであった。
前の月の講演者が、建築家の安藤忠雄氏だとうかがって、肩にちからが入ったことを覚えている。それでも当時50歳代なかばの年齢で、日ごろから冠婚葬祭を苦手とすることを広言し、しかも不熱心ながら浄土真宗の門徒たるやつがれが、どうして「四天王寺仏教文化講演会」の講師に選ばれたのかはいまだによく解っていない。

ただ、講師控え室でお抹茶をいただきながらうかがった寺僧のはなしでは、しばしば講演中に居眠りをしたり、座布団を枕に、横になる老人がいるそうである。ある講師はそれに憤慨して、講演を中断して、途中で帰ってしまったことがあったとされた。

 「この講演会は、土曜日の午後に、家にいてもなにかと居心地のわるい、ご高齢の皆さんへの仏さまの功徳なのです。ですからご講演中にご高齢者が居眠りをされても、どうぞご寛容に……」
とのはなしが印象的であった。 
────────
そんなわけで、おもに関西の文字と活字 ── いつものとおりタイポグラフィのはなしをさせていただいた。畳敷きの大広間で、来場者は150名あまりいらしていた。やつがれの教え子などの関係者をのぞけば、おそらく講堂のなかではやつがれがもっとも若輩だったかもしれないが、みなさん居眠りをされることなく、興味ふかそうに聴いておられた。
講演後の懇話会では、元教職にあったというかたも多く、相当の教養人がお集まりだったことを知って慌てたほどだった。

すでにふるいはなしでもあり、この講演会のことはほとんど忘れていたが、四天王寺勧学部の担当者から連絡があって、月刊誌『四天王寺』に講演録として掲載するとのことであった。
よくわからないまま気楽に承諾したが、通巻699号という、歴史のある立派な月刊誌に掲載されていた。
担当者は、90分ほどの、それもとりとめもないやつがれのはなしを、とてもよくまとめていた。また写真のいくつかは、わざわざ現地に出向いて追加取材をされたようで、掲載誌ではやつがれの写真ではなかった。したがって四天王寺勧学部の担当者は、相当の力量のあるかたとみられたし、またご熱意のほどがしのばれた。
またその後にも、再度の講演を慫慂されたが、
「滅相もございません」
と、仏教用語でお断りした。相手もすぐにわかったようで、お互いに大嗤いした。

というわけで……、たまたまふるい資料がでてきた。あのころ、片塩二朗は大阪にいって、やはりひとつばなしで、こんなはなしをしていたのか ── とわれながらあきれる内容ではある。
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ここに紹介した写真のほとんどは、2012年に関西を再訪し、いつものコースを巡ったときのものである。ところが、黄檗山萬福寺宝蔵院オウバクサン マンプクジ ホウゾウイン『鉄眼一切経テツゲンイッサイキョウ』の原本となった中国福建省『嘉興蔵カコウゾウ』が、いつのときか、同書を中国から購入していた北陸地方の黄檗宗の末寺から、本山たる同寺に贈呈されて「萬福寺宝物館 文華殿」に展示されている。そのために原本(オリジナル)とならぶことになった、覆刻版『鉄眼一切経』は、どうにも微妙な立ち場になっていた。
また、「王仁博士」の伝承墓地は、20年ほどまえには訪れるひともほとんどいない、閑静な場所だったが、いつのまにか妙に大仰かつ華美になっていて、なにか落ち着かないものがあった。

さいきんは、関西圏でもあたらしい活版造形者の増加がみられるし、一部ながら、若者に背を押されるように、ふるくからの活版印刷業者が後継者を得られて活性化され、元気になられていることはうれしいことである。
そんな関西圏の皆さんへの連帯と、エールの意を込めて、できるだけ講演録を優先し、若干の修整をくわえてご紹介したい。

★      ★      ★      ★

 四天王寺仏教文化講演会 聴講録 ③ 

文字と活字の夢街道

片塩 二朗

《大阪からはじまる、わたしの夢街道》
わが国ではあまり知られていない学問ですが、わたしの専門はタイポグラフィです。
このタイポグラフィということばには、うまい翻訳語がありません。明治の翻訳者は「活字版印刷術」と訳しました。何か職人さんの秘術か秘技のようですね。

タイポグラフィは、本来は印刷という「技芸」であり、それをもととした学問・研究だったものです。ところが残念なことに、わが国では近代印刷そのものが、欧州での産業革命期を経た、完成された「産業」、それも「文明開化」の象徴として、書籍印刷、新聞印刷、雑誌印刷、商業印刷にまでわたり、なにもかもが一緒に導入されたために、キリスト経典の写経からはじまる、書籍印刷のなかで培われた「印刷における技芸」という側面を知ることが少なく、多くの誤解に包まれています。

わたしは「タイポグラフィ ≒ 書籍形成法」ということばを使っています。形を成す、形成ということばは、ドイツ語では「ゲシュタルト」です。ドイツのわたしの友人は、ほとんどゲシュタルタ、またはタイポグラファと呼ばれています。

わたしの会社は新宿の朗文堂というちいさな出版社です。つくっている書物の大半は書籍形成法、タイポグラフィに関する書物です。売れているとはあまり自慢できませんが、専門書出版社として、そこそこの評価はいただいております。
おおきな出版社ですと、企画部があり、編集は編集部、営業は営業部などと分担して担当しますが、わたしどものような零細な出版社ですと、企画を立て、執筆者を捜す。見つからなければ仕方がないから自分で原稿を書く。そして、パソコンを叩き、組版システムを使って、印刷・製本となります。世界規模でもタイポグラフィ専門書の出版社は似たような規模です。

完成した書物は、書籍の問屋さん ── 取次トリツギのコンピュータまかせの配送(委託配本)をせずに、各地の書店さんを訪問し、実物をご覧いただき、いただいた注文数だけ、一店一店、できるだけ丁寧に取次経由でお納めしています。
この方式は限られた読者層を前提とする専門書の版元がよく採用していますが、大量一括販売を目的とする前者を委託配本方式、わたしどものような方法を注文配本方式と呼んでいます。

このような事情で、しばしば大阪の書店さんをお訪ねしています。大阪では書店向け営業の仕事が終わりますと、それからがわたしのひそかな楽しみの時間です。
おおむね、こちらの四天王寺さんに足を運びます。ここからわたしのタイポグラフィの夢街道がはじまることになります。

 《この町から文化文明の再発信を》
大阪は出版の町、印刷と出版の発信地でした。
「でした」という過去形なのが残念ですが……。
いまでも大阪はとても活力ある「商都」ですが、美術館や博物館、コンサートホール、あるいは大阪発のメディアが少ないようです。
近代金属活字版印刷術、タイポグラフィの歴史は、江戸時代の開港地、長崎で揺籃期ヨウランキをすごして、ここ大阪の「大阪活版製造所」から本格開花しました。
すなわち大阪城大手門前に、明治4年(1871)に大阪活版製造所が開設され、ついで青山進行堂、森川龍文堂などの著名な活字鋳造所が大阪の印刷・出版・新聞文化を支えました。

ところが近年は、大阪の情報発信力は低下しています。例えば活字メディアとしてのタウン誌です。一見地味な存在ですが、各都市や地域で魅力的なタウン誌がたくさん発行されています。発行にはご苦労があるようですが、それが都市や地域を活性化させ、特色ある存在にしています。
大阪にもいくつかはあるのですが、まだまだ数が足りないのではないかとおもいます。

江戸期の大坂は町民文化の花が開いた町でした。
江戸前期の浮世草子作者・俳人の井原西鶴(イハラサイカク 1642-93)は『好色一代男』『西鶴諸国ばなし』などを著しました。
浄瑠璃・歌舞伎脚本作者、近松門左衛門(1653-1724)は『曾根崎心中 ソネザキシンジュウ』『国姓爺合戦 コクセンヤガッセン』『心中天の綱島 シンジュウアマノツナシマ』などで大活躍しました。
また難波の旅舎で歿した松尾芭蕉(1644-94)は『のざらし紀行』『笈オイの小文』『奥の細道』などをのこしています。

これらの書物のほとんどは木版刊本ですが、すばらしい出版物が大坂からたくさん発行されました。そして、京阪神地区の読者の需要をみたすと、その印刷版としての版木が「くだりもの」として江戸に搬送されて珍重され、江戸でも刊行されていました。江戸に搬送する価値はないものと評価されると「〇〇〇〇」とされたようです。

江戸には幕府・行政機関がありましたから、官僚の町ですね。あるいは職人の町、消費の町でした。ですから、江戸期から明治初期までは、書物を通じて大阪から文化が発信されていたことになります。
ところがここのところ、大阪発の情報が少ないようにおもいます。これは残念なことです。聖徳太子ゆかりの、この四天王寺さんをはじめ、伝統ある大阪のまちから、ぜひとも、もう一度、文化文明の発信をしていただきたいとおもうのです。
────
わたしは信州信濃、長野県の北部で生まれました。越後新潟県との県境で、豪雪地帯で知られ、また島崎藤村の『破戒』や『千曲川のスケッチ』の舞台になった 飯山 というちいさなまちです。
高校生になってまちを出たときは人口4万3千人ほどでした。現在は近隣の町村を合併しても2万3千人ほどです。豪雪地帯で、過疎化がどんどん進んでいます。
過疎地というだけでなく、小説の舞台であろうがなかろうが、悲しいことに、文化文明をそこ飯山からは発信できない辛い現実があります。

なぜならわたしの郷里には、印刷の強固な基盤がありません。
印刷という技芸や技術はとても大きな総合産業で、おおきな裾野、関連産業、関連文化を必要としますので、本格的な出版となりますと、とても一社だけで孤立してはできません。ですからわたしが郷里に帰って情報発信しようとしても、なかなかできないわけです。

その点、大阪府の人口はおよそ880万人、周辺都市人口をあわせれば1,000万人余の巨大都市です。とりわけ大阪市の人口は270万人ほど、これは英国のロンドンとほぼ匹敵する、規模のおおきなまちです。十分に情報発信ができる基盤があるはずです。
しかし、それが難しくなった理由というのはたったひとつです。それはここからすぐそこ、この四天王寺さんの境内にある『本木昌造 モトギ ショウゾウの碑』に象徴的に表れています。

《近代印刷版印刷術の始祖・本木昌造モトギショウゾウ》
四天王寺さんのご境内、ここからすぐのところです。
いまは墓地にのみ込まれたかたちになっていますが、明治のころには、ご境内の参道の一部だったようです。そこに本木昌造記念碑と、等身大の本木昌造さんの銅像が立っています。
本木昌造は正式な士族ではありませんが、長崎阿蘭陀通詞オランダツウジとして苗字帯刀と士装が許されていました。陣笠をかぶり、大刀と小刀を携えた旅姿としてのこされています。家紋は本木昌造の裏紋で、活字界ではよく知られたもので、俗に「まる に も」とされる家紋です。

明治30年(1897)の創建でして、台座には篆書で「日本鋳造活字始祖」とあります。撰文は何禮之 ガ レイシ、書は吉田晩稼 バンカ による、おおぶりで勇壮な楷書です。いずれも長崎の本木一門の出身者で、明治期に活躍したかたたちです。台座はいくぶん損傷がみられますが、創建時の姿を保っています。

本木昌造(1824-75)は、徳川幕府の長崎在勤のオランダ語の通訳、阿蘭陀通詞で、このかたが近代活字版印刷術、つまりタイポグラフィを日本にひろめたひととされています。
ですからこのかたを、わたしたちはたんに「日本鋳造活字始祖」としてではなく、もうすこし積極的に「日本近代活字版印刷術の始祖」と讃えています。
かつて、昭和60年代の末ころまでは、毎年10月1日、ここ四天王寺さんで、大阪の印刷・活字・出版関連業者が集まって「本木昌造祭」が営まれていました。
まず、長崎うまれのこのかたの銅像が、なぜこちらの四天王寺さんにあるのかということを、おはなししたいとおもいます。

本木昌造記念碑は、大阪在住の4人が発起人となって明治26年(1893)、本木会を結成したことにはじまりました。当初は、この碑と銅像を高麗橋のたもとに立てようとしたようです。というのは高麗橋が大阪ではじめての鉄橋で、この鉄橋の建造に尽力したのも本木昌造だったからです。

しかし当時の価値観で、位階(地位・身分の序列で等級の意)がないひとの銅像建立はまずいということになりました。同じ理由で、中之島公園、天王寺公園と相次いで断られました。それで四天王寺さんにお願いして、ようやくこちらの境内の一画をお借りしたようです。
ついでですが、本木昌造は明治最末期になって従五位下を、後継者の平野富二(東京築地活版製造所、石川島平野造船所/現 IHI の創業者)も従五位を追贈されています。

碑面には明治30年9月建立となっていますが、現在立っている銅像は三代目です。最初の銅像は日清戦争(明治27-8、1894-5)の影響で、台座だけが先行して、実際に銅像が建立されたのは明治33年(1900)に銅像が建立され、完成をみたと記録されています。
不幸なことにこの銅像は、戦時中の金属供出令により軍需物資として供出されてしまいました。昭和27年(1952)に仮再建されましたが、これは簡易的なものでした。そして昭和60年(1985)に戦前の姿を再現して建立されてこんにちにいたっています。

本木昌造は幕末の混乱でとても苦労されたかたですが、オランダ通詞としての本木家の伝統もあって、西洋の近代活字版印刷の書物に触れる機会がおおかったせいでしょうか、活字鋳造とタイポグラフィに興味を持ったとされています。
このように幕末から明治最初期の、日本における近代活字版印刷術を担ったほとんどのかたは、徳川幕府の旧官僚でした。
ところが明治維新の結果、中央官庁は戊辰戦争に勝利した、薩長土肥を中心とした旧西南雄藩の新権力が握りました。もちろん旧徳川系の士族の多くは失業したわけですね。けれども、活字鋳造、活字組版、印刷は、読み書きの能力が相当高度でないとできません。それには旧徳川系の失業士族にはピッタリの職種でした。

当時の日本は世界でも有数の識字率を誇っていましたが、印刷士という職業は、世界的にリテラシーの能力の優れた人が担う技芸であり、産業でもあったわけです。ですから戊辰の戦争に敗れたとはいえ、読み書き能力にすぐれた旧徳川の官僚団がその任に就きました。
ゆえに印刷士は、わが国のばあい、いまもって、どことなく、反権力、反中央志向がございます。これが典型的に表出したのが大阪の地です。

本木昌造の本拠は長崎でしたが、明治4年、大阪に印刷所を開設しました。「長崎新塾出張大阪活版所、のちの大阪活版製造所」であり、日本における本格的な印刷所の最初です。
この開設には薩摩藩の出身ながら、官界につくのを潔しとせずに、関西財界の雄となった 五代友厚 (ゴダイ トモアツ、大阪商工会議所初代会頭、天保6年12月26日(1836年2月12日)- 明治18年(1885年)9月25日)の要請と資金支援があったとされています。

その後、本木昌造は京都に「点林堂テンリンドウ」という印刷所を開設しました。点林堂とは一種の洒落でして、「林」という字の左側に点を打って、すこし離すと「本木モトギ」になるわけです。当時の印刷人は酒落が得意で、反骨精神に富んでおりました。
それはさておき、大阪市東区大手前に誕生した日本初の本格的印刷所では、廃藩置県の太政官布告が印刷されています。廃藩置県はじつは大阪から発せられていたわけです。

ところが昭和期前半、戦前の大阪で不幸な事件がありました。東京のある印刷業者が、
「金属活字は贅沢だ、文字のサイズの大小や、楷書だ明朝だと能書きをいうな、活字は一種あればいい。ほかの金属活字は国に寄付(献納・売却)して、聖戦遂行だ」
と提唱しました。それを官僚が巧妙に利用して、昭和13年(1938)ころから、官製の国民運動「変体活字廃棄運動」が興りました。

この運動に東京の活字鋳造関係者は相当はげしく抵抗しました。また実務にあたった印刷同業組合、活字同業組合のお目こぼしもあって、東京の活字と活字母型は結構戦争の中でも生きのこっています。
ところが大阪では、中央から派遣されていたひとりの高級官僚が、この運動(活字と活字母型の献納・売却)を一種の使命感をもって強力に推進し、活字母型はほぼ全面的に没収されました。
最近明らかにされましたが、これらの資材は、実際には戦時物資として使われることもなく戦後をむかえましたが、戦後の払い下げでも混迷があり、結局有効に利用はされていません。

このように「変体活字廃棄運動」は、発信地の東京よりも、たったひとりの中央官僚が、きわめて精力的に「運動」を推進したために、大阪で猖獗ショウケツをきわめました。東京では「印刷業者の企業合同」はかなり強引にすすめられましたが、活字業者はなんとかその難を逃れたケースが多くみられます。

その結果、大阪の活字鋳造の基盤がゆらぎ、脆弱となり、戦後の復興にあたってみられた「出版物渇望時代」に、大阪では活字の供給がおもうに任せない面がありました。
金属活字は使用すると損耗します。その活字が無ければ、印刷も出版も新聞発行もできませんから、多くの出版社や新聞社は、その軸足を、活字の供給が円滑な東京に移してしまいました。これは不幸なことでした。文化文明の根底には、なんといっても活字と書物があります……。

昭和20年までの大阪には、多くの出版社がありました。変体活字廃棄運動で活字がなくなったから東京へ行った出版社がたくさんあるのです。すなわち文化文明の根底には活字があります。そしてはっきりと目に見える物として、書物が生まれる。それが文化文明をさらに発展させるのではないかとおもいます。
この魅力に富んだ大阪に、もう一度活字と印刷と書物を見直す気運が高まり、活力ある文化文明を作っていただきたいというのがわたしの願いです。

《世界最古の印刷物のナゾ》
奈良の法隆寺に「百万塔陀羅尼 ダラニ」という重要文化財に指定されている小塔があります。重要文化財といってもその一部であり、同じ形のものがいくつかあり、かつて奈良の骨董店では60-100万円くらいで販売していました。この金額の差は何かといいますと『無垢浄光大陀羅尼経 ムクジョウコウダイダラニキョウ』という仏教経典が中にあるかどうかです。

なぜ世界最古かといえば、『続日本紀』につぎのような記録があります。
「はじめ天皇の八年、乱平らげるとき、すなわち弘願を発して三重の小塔百万基を作らせたもう。高さ四寸五分、根元の径三寸五分、露盤の下に各々の根本・慈心・相輪・六度などの陀羅尼を置く。ここに至りて功(工)終わり、諸寺に分置す」。

ここでの乱とは恵美押勝エミオシカツ(藤原仲麻呂 706-64)の乱のことです。この戦乱が治まったことに感謝し、国家の安泰を祈って、770-71年につくられたものとされています。
塔は木製のくりもので、標準的な高さは21.4センチ、基底部の直径は10.5センチほどのちいさなもので、全体に白土ハクドが塗布されていましたが、剥落したものも少なくありません。

これを百万塔作り、それぞれの塔心部に四種の陀羅尼を丸めて収め、十寺に十万基ずつ賜った ── すなわち都合百万枚の印刷物を収容した百万塔となったわけです。
おなじ『続日本紀』宝亀元年4月26日(770年5月25日)の条には、完成した百万塔を、大安寺・元興寺・興福寺・薬師寺・東大寺・西大寺・法隆寺・弘福寺・四天王寺・崇福寺の10の官寺に置いたことがしるされています。
すなわちいまなお、百万塔の「印刷物」は、製造年代の明確な資料が存在する最古の印刷物であることに争いはありません。

ところがこの四天王寺をふくめて、これらの大きなお寺の伽藍の多くは、何度にもおよぶ焼失の歴史を持っており、小塔もほとんどが失われました。現存するのはわずかに法隆寺だけになっています。明治はじめの調査では、四万数千基あったとされています。
しかし、ほぼ同時期に廃仏棄釈運動があり、そのときに法隆寺も荒廃したようです。貴重な品だから売れば儲かるぞと、何人かが小塔を持ち出してしまったわけです。
法隆寺に残存した小塔には『無垢浄光陀羅尼経』の六種の呪(陀羅尼)の印刷された経文が入っていています。経文は写真の通り、あまりお上手な字でも、印刷物でもございません。

昭和27年(1952)、大阪の印刷学会西部支部でこの経の研究が行われました。これは印刷物とされているが、印刷版は何だろう。印刷法はどうしたのだろうという研究です。
ある方は粘土に文字を浮き出しで作り、陶器のように焼き固めたのではないかといい、ある人は銅板を叩き出すようにした、あるいは凹ませた物の中に銅を流して印刷版をつくったのではないかという説。しかし、これらの説は否定されました。

最後まで残ったのが板目木版印刷版と、銅と錫の合金によろ印刷版説、あるいは膠のような物を固めて印刷版として使ったのではないかという説です。
印刷法も、捺印のように押圧したのか、紙片を上に置いてバレンのようなもので擦ったのか、議論はさまざまになされましたが、結局さしたる成果をあげないまま、研究会は解散しました。
したがいまして、今もって、どのようにして印刷版がつくられ、印刷(摺印、押印)されたのか定かではない、ふしぎな重要文化財です。

《現存する世界最古の印刷物は、韓国の陀羅尼経?》
日本の歴史教科書の多くは、法隆寺の百万塔陀羅尼が770年または771年に作られた世界最古の印刷物であるとしています。ところが、これを世界最古としているのはほぼ日本だけです。
残念ながら、現在世界最古の現存する印刷物、ただし明確な文書記録はないものの──は、韓国の『無垢浄光陀羅尼経』とされてほぼ争いのない現実があります。こちらは早い説をとれば705年、遅い説をとれば751年の板目木版印刷物です。
もちろん文化と文字の伝播の歴史からみて、中国にはよりふるいものがあったものとみられていますが、現在までに中国からの確実な報告はありません。

1) 新羅のみやこ、慶州にある仏国寺全景。
2) 仏国寺石橋。春は櫻、秋はもみじの名所でもある。
3) 仏国寺大雄殿前の釈迦塔(韓国国宝第21号)。
   この下部から二層めの基壇から経典が発見
された。
4) 経典は鍍金された金属製容器に入れられて、密閉された状態で発見された。
    推定ながら板目木版印刷とされている。

5) 仏国寺釈迦塔出土『陀羅尼経』(統一新羅、8世紀、長さ≒60センチ)韓国国宝第126号 
[引用資料:『慶州』(宇進文化社、1992)。『国立慶州博物館』(通川文化社、1988年)]

『無垢浄光陀羅尼経』は、韓国の中東部、慶州にある仏国寺の講堂前、釈迦塔の第二層目から1966年に発見されました。こちらの方が古いことは寺伝をふくむさまざまな論拠から証明されているのですが、日本の学者や学会はこれを頑として認めていません。
わが国ではこの発見の報に接したとき、最初のうちは新羅の僧が中国に行き、中国からお土産でもらってきたものを塔の中にしまいこんだのだろうとしました。それがこの塔が建立されたとされる705-751年ぐらいだったのではないか……。そこまではしぶしぶ認めたわけです。
しかし、この推測も否定されました。否定したのは皮肉なことに日本の通産省(現経済産業省)の下部機関です。

この経緯を説明しますと、まず韓国政府からこの紙の成分の研究依頼があったことにはじまりました。そこで高松の通産省紙業技術研究所で手漉き紙の研究をされている方たちが、ソウルの中央博物館に行って調査・研究されました。その調査を経て、紙の素材は韓国産のコウゾに間違いないということが通産省の技官から発表されました。

当時の日本の紙は、コウゾとガンピの混合材科を使っています。日本の紙は世界でも優秀な品質と評価されますが、その評価の元はガンピの混入です。ですから調査した紙は韓国固有の紙であるとして製紙業界では異論はなかったわけですが、東洋史、仏教史を研究されている方はこれに関しては沈黙を守っておられます。
あるいは、法隆寺百万塔には『続日本紀』などの信頼にたる文書記録があるのにたいして、慶州仏国寺釈迦塔には寺伝程度しか文書記録がないことを理由にあげて、その製造年代に疑念を呈しています。

仏国寺から発見されたこの経典は、ソウルの中央博物館に収蔵されています[この建物は取り壊されて現存しない]。
この博物館は少し問題のある建物です。というのは、ソウルの中心、李王朝の宮廷の真ん前に、当時の日本政府が朝鮮総督府としてこの巨大な建物を建てたわけです。戦後、韓国はこれを中央博物館として使っていましたが、現在は、取り壊され、建て替え中のようです。

わたしはソウルの書店にも営業に行きますが[現在はほとんど行かないが……]、時問が空きますと中央博物館によく行きました。
かつて親日家の友人に現地で聞いたはなしですが、そこではおもしろい話がありまして、建設当時、中央博物館の中央ホールの壁をぐるりと取り巻く彫刻絵柄をつくっているとき、日本の某大佐が、
「この花はどうも桜では無いようだ。何の花だ」
と訊ねたそうです。
「大佐殿は関東のご出身でいらっしやいますか」
「そうだ」
「関東では吉野桜しかないようですが、ここに描いたのは関西方面で咲く牡丹桜です」
という説明をしたそうです。
これは当時の韓国の人のひそかな抵抗だったようで、そこに刻まれたのは吉野桜でも牡丹桜でもなくて、まぎれもない韓国の国花、ムクゲでした。晩夏に薄紫の可愛い花をつけます。

《王仁博士の中国千字文》
そんな韓国の国花ムクゲが豪華に咲き誇る場所が関西にあります。場所は大阪府枚方市藤阪東町2丁目。JRの長尾駅からゆっくり歩いて15分ほどです。そこに王仁ワニ博士の伝承上の墓地があります。
「なにはづに さくやこの花 ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな」(『古今和歌集』仮名序)
という有名な歌がありますが、これが王仁博士の作と伝えられています。

王仁(ワニ、生没年不詳)は、『古事記』と『日本書紀』の双方に記述されている人物で、百済から日本に渡来して、『千字文』と『論語』を伝えたとされるひとです。
『日本書紀』では王仁ワニ、『古事記』では和邇吉師ワニキシと表記されています。
『古事記』には以下のように紹介されています。

又、科賜百濟國、若有賢人者、貢上。故受命以貢上人名、和邇吉師。即論語十卷・千字文一卷、并十一卷、付是人即貢進。
〔此和邇吉師者、文首等祖〕 
読み下し:天皇はまた百済国に「もし賢人がいるのであれば、献上せよ」と仰せになった。それで、その命を受けて[百済が]献上した人の名は和邇吉師ワニキシという。『論語』十巻と『千字文』一巻、合わせて十一巻を、この人に附けて献上した。
〔この和邇吉師が、文首フミノオビトの始祖である〕
──『古事記』(中巻・応神天皇二十年己酉)

このように応神朝オウジンチョウ(5世紀前後に比定されている)に、皇子の教育係として派遣されてきたとされる人物が王仁さんです。彼は日本の史書には『論語十巻』と『千字文一巻』を持ってきたと書いてあります。しかし、この『千字文一巻』のくだりは疑わしいというのが歴史研究者、東洋史のかたの見解のようです。
そもそも『千字文』というのは四字を一句として二百五十句で構成された、文字の勉強のための教則本です。
日本の東洋史の方がなぜ信用できないとおっしゃるかというと、その当時、つまり5世紀前後とされる応神天皇の頃には、6世紀中葉、中国でできたとされる『千字文』はまだ成立していなかった。したがって、これは後世に書かれた古事記の作者の創作だろう、というのがほとんどの方の見解のようです。

『千字文』とは、中国南朝のひとつ梁(みやこは建業・南京 502-557)の 周興嗣 シュウコウシが、梁の武帝の命によって撰した韻文一巻です。四字一句、250句、重複のない一千字からなり、「天地玄黄 宇宙洪荒……謂語助者 焉哉乎也」におわります。
初学の教科書や習字手本として流布したものですが、周興嗣の作以前にもあった可能性が指摘されています。しかも中国の千字文というのは一つではなく、別種の千字文がございます。中国では最近も発見されておりますが、十種類ぐらいはあったのではないかという説が多くございます。
ともあれ、5-6世紀の事象であまり最古論争をしても収穫は少ないものです。これは歴史のロマンということでソッとしておきたいところです。

 《隠元インゲン和尚のもうひとつのおみやげ》
つぎに江戸時代前期、鉄眼禅師テツゲンゼンジが17年もの歳月をかけて覆刻開版(原本どおりの複製版の作成。鉄眼は覆刻法・かぶせ彫りという方法によった)した重要文化財『鉄眼一切経テツゲンイッサイキョウ』についておはなしいたします。

鉄眼(テツゲン 諡号:宝蔵国師、1630-82)さんは、寛永7年、今でいう熊本でお生まれになり、13歳で出家、23歳で黄葉宗 オウバクシュウ の隠元禅師 インゲンゼンジ に帰依されたかたです。
現在は萬福寺マンプクジ境内に宝蔵院 ホウゾウイン という塔頭があり、その後背地に重要文化財『鉄眼一切経版木収蔵庫』と、墓地(開山塔)があります。

一切経 イッサイキョウ とは、別称大蔵経 ダイゾウキョウ ともいわれ、仏教聖典の総称とされています。経蔵、律蔵、論蔵の三蔵と、それらの注釈書を網羅した仏教の大全集です。
日本の遣隋使、遣唐使たちは、仏教経典を一生懸命に日本に運んでいらっしゃいますが、江戸時代になっても、仏教大全集というべき一切経は、高価な中国製の刊本を購入するしか無く、まだ日本製の物がなかったわけです。

京阪線に黄葉駅があります。駅の近くに黄葉山萬福寺があり、これが隠元(中国明代の福建省の僧侶。1592-1673)和尚創建の寺です。隠元和尚はインゲン豆だけでなく、スイカをもたらしましたし、喫茶のふうをひろめて普茶フチャ料理ももたらしました。

隠元和尚はまた、福建版一切大蔵経(嘉興蔵カコウゾウ)を持ってきました。とても大量の経典です。それを日本の若い僧侶・鉄眼が複製版をつくりたいと願い出てゆるされました。
鉄眼は綴じられていたもとの経典を外して、それを裏返して桜材の板目木版の上に置いて、漆と膠で貼り付け、それをなぞって彫刻しました。これが覆刻法──かぶせ彫りという複製法です。
版木はおよそ六万枚で、今日でもほとんどが保存されていますし、印刷(摺印)も続いています。

これには楷書体、明朝体という二種類の字様(木版刊本上では書体を字様とする)が使われています。こんにちの日本でもとてもよく使われる書体ですが、こんにちの活字明朝体とはすこし異なっています。
近代明朝体、とりわけ金属活字の明朝体は、西洋価値観が外国占有地・租界の上海で浸透していて、当時の欧米活字の主流であった「モダンスタイル・ローマン」に倣って、水平線・垂直線で構成されるものとなり、『鉄眼一切経』にみる字様とはかなり異なります。
ですから中国の人は、金属活字明朝体を「印刷体・倣宋体」と呼び、大袈裟で、内容が空疎で、どうにもできが悪い書風だという風に見ているようです。
────────
日本人の文字と活字書体を見る眼は特異です。すなわち仏の慈悲を説く仏典と、神の愛を説く聖書が、まったくおなじ活字書体であっても違和感を抱かないようです。
あるいは行政や司法の担当者が使っている書体と、日常生活で使われる書体、クッキング・ブック、ガーデニング・ブック、自動車やコンピューターのマニュアルなどが同じ活字書体──ほとんどが明朝体でも頓着しないようです。

こういう活字書体にたいする認識度というのは世界的にあまり例がありません。先進国の中でこういう国は日本だけだといっても乱暴ではないようです。これは良いとか悪いというわけではありません。わたしは若干残念だとおもっているのですが、やはり好きな作家の文章は、好きな活字書体で読みたいな……、とおもうのです。

日本の文字活字の風景を変えるちから、それは行政のまち、官僚のまち、そして硬直してしまった東京では、もはや困難かもしれません。
関西圏のながい文字と活字の歴史をおはなししてきました。みじかい雌伏のときをへて、いまは大阪を中心とする関西圏が、もう一度文字と活字に活力を取りもどす起点になっていただきたいとおもう次第です。                      
※平成11年6月12日のご講話より

タイポグラフィ あのねのね*019 わが国の新号数制活字の原器 504 pt. , 42 picas

 これはナニ? なんと呼んでいますか?
仮称「活字の原器」 と「活字のステッキ」
わが国新号数制
活字の最小公倍数 504pt., 42 picasとは

活版関連業者からお譲りいただきました。

2012年03月17日 掲出/2012年12月25日 修整版


《この「活字のステッキ」!? 差しあげますよ……。そしてもっともたいせつな「活字原器」》
2011年の暮れ、年内いっぱいでの廃業を告知していた有限会社長瀬欄罫製作所の残務整理を手伝った。その際同社第 2 代社長:長瀬慶雄ナガセ-ヨシオ氏が、自動活字鋳植機(小池式和文モノタイプ)の作業台にあった器具を差し出し、
「コレは大事にしていたものです。名前はわからなくなったけど、いわば《活字の原器》と《活字のステッキ》だけど、必要ですか?」
ときかれた。

「HAKKO」の刻印から、この器具の製造所は、かつて長野県埴科郡ハニシ-グン戸倉町戸倉3055に存在した活字鋳造機器の有力メーカー、株式会社八光活字鋳造機製作所の製造であることが判明した。

2012年4月7日追記:
アダナ・プレス倶楽部恒例の《活版ルネサンス》(2012年3月30-31日)に際して、長瀬欄罫の諸資料を整理したところ、さらにふるいものとみられ、メッキが施されていない、いくぶん錆びの発生がみられる総鉄製の「活字の原器・活字のステッキ」を1セット発見した。
これは持ち手のつけ方からみて、左利きのひとのために製造された「活字のステッキ」だと想像された。

製造年月日はどこにも記載がなかった。
素材はスチールにクロームメッキを施したものとみられたが、ひとつで2キロほどの重量があってひどく重かった。また留め金はふたつのネジできつく締められ、ほとんど固定されていた。
写真奥は右利きのひと用で、手前は左利き用だとする。ずいぶんと親切なものだった。

《ふつうの「ステッキ Composing Stick」と、特殊な「活字のステッキ」》
活字版印刷術の現場でのふつうの「ステッキ  Composing Stick」とは、和文の組版では植字チョクジ(組版)の現場でもちいられる器具である。
欧文組版ではステッキに活字を拾いながら組み並べるが、和文組版では文選を終えた活字をステッキに移動して、活字組版の行長を一定に揃えて組むための道具である。

ふつうは左手にこれを持ち、右手で活字・込め物・罫線などをステッキの上にのせて、左手の親指でクリックしながら組み並べ、いっぱいになったら取りだしてゲラに移すものである。
そのために「ステッキ」は、できるだけ軽量であることが求められ、なおかつ行長によって変化する組幅を固定するための留め金を、しっかり保持するだけの十分な強度を求められる。
そのために素材は、鉄製・アルミ製・ステンレス製などがあるが、ほとんど製造ラインが停止していたものを、アダナ・プレス倶楽部が近年復活させて、製造・販売にあたっている。

ところが長瀬欄罫製作所の「活字のステッキ」は、「の」のひと文字が入っている分だけ「組版ステッキ」とはおおきく異なるものであった。
まず、なによりその重量である。鉄製とおもわれる素材に、クローム・メッキがほどこされ、2キロはたっぷりあって、片手で長時間保持するものではないことは明らかであった。

また「組版ステッキ」の留め金は、行の組み幅によって可変できるようにスライド式になっていて、固定する留め金は、ネジ式・小型レバー式などがある。ところが「活字のステッキ」の留め金は、きわめて頑丈なもので、締めつけもきつく、ほぼ本体にがっちりと固定されていた。

 この「活字のステッキ」のなかに、「組版ステッキ」であれば最初におこなう作業 ── 組みたいとおもう行長に相当する込め物を並べ入れて、留め金を固定する ── における、「行長を固定するための込め物」に相当するのが「鉄製の金属片、活字の原器」である。これを「活字のステッキ」に入れる。
もちろん留め金は、はじめからほとんど固定されているので、1キロほどの重量の金属片は、ぎりぎり「活字のステッキ」に差し込むことができる。すなわち「活字の原器」と「活字のステッキ」は、ふたつが揃ってはじめて意味をなす、活字鋳造現場での検査器具である。
────
ここでひとつお断りがある。ここでいう「活字の原器」「活字のステッキ」とは、あくまでも仮称である。「活字の原器」とは、上図「活字のステッキ」の奥にはめ込まれた金属片である。これは長瀬氏談からとったものである。
その際の状況は、暮れもすっかり押し詰まった2011年12月29日、本品の譲渡作業後にちかくの喫茶店に移動して、筆者にこの器具の名称と役割をくどく聞かれて、苦しそうに、
「ふつうはアテとかアテガネっていってたかな。まぁ活字の原器のようなものですよ」
と述べたことによる。
こうした背景から、ここでは「活字の原器」「活字のステッキ」とも、まだ正式名称ではないが、そのまま借用することにした。

『VIVA!! カッパン』より、活字と活字の大きさ、号数制活字とポイント制活字

この「活字原器」に刻印された数字との関連から、この器具は、活字の大きさや高さに日本工業規格(JIS規格)が適用された1962年(昭和37)以降の活字、いわゆる「新号数制活字、JIS規格活字」に対応するものではなく、現在でも関東近辺で採用されている、いわゆる「旧号数制活字」に対応する測定器具だと推定された。
またもっともふるくから開発された号数制活字ながら、イングリッシュ系とされて、ながらく他の号数制活字となにかと「相性」のわるい、四号と一号活字が「活字の原器」の測定範囲に入っていないことも印象的なものだった。これに関しては後述する。

2012年12月25日追記:
上記のパラグラフには問題がある。どう計算しても、この「活字の原器・活字のステッキ」は「新号数制活字、JIS規格活字」に対応するものであり、むしろ「新号数制活字、JIS規格活字」が導入された1962年以降に、その趣旨を徹底させ、また端境期における混乱を収束させるために製造されたとみられるからである。

「新号数制活字、JIS規格活字」の原案は、札幌・株式会社ふかみやの初代社長・深宮榮太郎の考案によるもので、はやくも昭和4年に「深宮式新活字」として誕生している(「深宮式の新活字」『フカミヤ八十年史 1918-1998』 p37-41)。
すなわち「旧号数」と「新号数制活字、JIS規格活字」の歴史的背景をもうすこし研究・分析・取材しなければならなくなった。
したがってまことに申し訳ないが、もうしばらく、上記1パラグラフは保留にさせていただきたい。

この金属片「活字の原器」は、きわめてたいせつにされていて、使用しないときには中面にラシャを貼った専用の木製ケースにはいっている。木製ケースには「HAKKO」の社名か、マークが、焼き印で刻されている。
購入価格も「活字の原器と活字のステッキ」のセットで、とても高額だったとされる。
「そうだなぁ、見習いの給料と、職人の給料の間くらいの感じだったかな」
「そうすると、いまなら20万円ほどですか?」
「そう、いまなら15-20万円くらいの感じかなぁ。ともかく高かったんだよ」

「活字のステッキ」にはめ込まれた「活字の原器」。
この左右の数値、504pt.と177.135mm に注目していただきたい。

《わが国の金属活字ボディサイズの最小公倍数、504pt.》
わが国の近代活字版印刷術の開始以来、活字ボディサイズには混乱がみられ、「大きさはあっても、寸法のない活字」と酷評されたり、大正期からさまざまな議論が交わされてきた。しかも製造現場での混乱が収束しても、活字ボディサイズに関する議論はやむことはなかった。
しかしながら、これらの議論とは、かくいう筆者をふくめて、活字版印刷術の現業経験に乏しい論者によってなされることが多く、ありていにいえば、活字鋳造現場の実態を熟知しないままの議論が多く、生煮えであり、成果に乏しく、空理空論とされても仕方がない側面がみられた。

すなわち、この「活字の原器、活字のステッキ」の登場によって、タイポグラフィ研究者を自認するほどのひとならば、全面的に議論の再構築を求められることになった。
もちろん活字鋳造に際しては、ノギスやマイクロメーターも使用されている。しかしながらこうした機器での計測だけでは十分とはいえないのが活字でもある。

活字鋳造の現場では、すでに、遅くとも1955-1962年頃から「活字の原器を、活字のステッキに入れて、そこに鋳造活字を指定の個数分組み並び入れて検証する」という、現業者に特有の「きわめて即物的かつ明快な方法」、それだけに議論の余地のない方法によって、活字のボディサイズの測定と検証がなされ、こうした検証を経た活字が印刷現場に供給されていたのである。────
ここで筆者をはじめ、読者諸賢にも「最小公倍数」(Least Common Multiple, L.C.M)を復習していただきたい。最小公倍数とは、ふたつ以上の整数または整式が与えられたとき、それらの公倍数のうち、正で最小または最小次数のものをいう〔広辞苑〕。

すなわちこの「活字の原器」に刻された504pt. , 177.135mm とは、わが国の主要活字の最小公倍数として提示されていることになる。
そして明治最初期からもちいられてきた四号サイズと、その倍角の一号サイズは除外されていた。それは上掲の『VIVA!! カッパン』の「活字の大きさ:号数制」をご覧いただくと、四号と一号は(アングロ・アメリカン)ポイントサイズにおいて、≒オヨソの印つきとはいえ、ほかの号数活字とは異なっており、最初から最小公倍数となるべきポイントの整数ではなかったためではないかとおもわれた。

「活字の原器」の中央部の数字は、G は号数をあらわし、P は(アングロ・アメリカン)ポイントをあらわす。つまり最小公倍数504 pt.の「活字の原器をいれた活字のステッキ」のなかに、さまざまな号数とポイントの活字が、何本はいるのかを、実際の活字をもって検査・検証するためものである。
そしてその際の公差は、右下隅に表示された+0.015mm 以下でないと不合格とされてきたほど厳格なものであった。

製造元の八光活字鋳造機製作所は19461年(昭和21)の設立であるが、その設立者・酒井修一は戦前からの活字鋳造機製造所として著名だった林栄社の工場長経験者であり、この両社ともほとんど記録をのこさず1965-75 年の間に閉鎖された現在、この「活字の原器と活字のステッキ」がいつから発売されたかはわからない。
しかしながら長瀬氏の記憶によれば、おそらく1955年(昭和30)ころから、こうした検査・検証をへて、わが国近代の活字がつくられていたことを示す物的証明のひとつが出現したことになる。

504pt. の意味するところ

七号活字      96本    9ポイント活字   56本
六号活字      84本    五号活字      48本
7ポイント活字   72本    三号活字      32本
六号活字      64本    二号活字      24本
8ポイント活字   63本

これからここに提示された504 pt.の最小公倍数にもとづいて、さまざまな研究がはじまることになる。まことに楽しみなことである。
繰りかえしになるが、筆者がこの「活字の原器をいれた、活字のステッキ」の譲渡をうけたのは、2011年の暮れも押し詰まった12月29日であった。そして正月をはさんで「活字の原器をいれた活字のステッキ」は、しごくちいさなグループの間の、おおおきな話題となっていた。
あきれることに、何人かは正月の屠蘇気分はどこえやら、「活字の原器をいれた、活字のステッキ」で鳩首し、さまざまな検証をかさねていたのである。諸賢の研究の一助になればとご紹介した。

おひとりはアドビシステムズ株式会社の山本太郎さん。もうおひとりは、21世紀の、そして平成の日本で、最初の金属活字鋳造見習工として勇気ある精進をつづけている日吉洋人さん(武蔵野美術大学基礎デザイン学科助手)です。

★     ★     ★

 ◎送信者:山本太郎 2012年01月05日 10:55
片塩二朗様
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

さて、504 ptのステッキの件ですが、504という数を素因数分解すると、2^3 x 3^2 x 7 = 504となります(ここで、x^yは、xのy乗の意味です)。このことから、次の事が言えるでしょう。

45 pt以下で、このステッキの長さが整数のボディサイズの倍数と一致するのは以下のサイズに限られます。
2, 3, 4, 6, 7, 8, 9, 12, 14, 18, 21, 24, 28, 36, 42

整数ではない10.5も、21の1/2なので、割り切れます。

このステッキは、日本におけるポイント制活字の実用的な多くのサイズに対応しているという意味では、よく考えてあり、興味深いものがあります。

ただし、「504 pt」と明記している以上、これはあくまでポイント制を基準にしたものだという点は明らかです。
号数活字との対応についても、JISが行っているのと同様、ポイント単位に換算した対応関係を基にしたものでしかありません。10.5 の整数倍が504に一致するからといって、それは「10.5 pt = 5号」ということを初めから前提にしているから5号と一致するに過ぎません。
他方で、「10.5 pt = 5号」という関係がポイント制成立以前に存在しなかったこともまた自明のことです。もちろん、JISがはっきりと明記してしまったように、「10.5 pt = 5号」という想定を無条件に受け入れた上で、それを慣習として倣って作られた5号活字が10.5 ptと一致することもまた自明なことです。つまり、既製のポイント制および号数とポイント制との慣習的な対応関係を受け入れた上で、後付けで作られたものと考えられます。

JISにおける号数とptとの対応関係のようなものが受容され、普及していたのであれば、このステッキが便利で機能的であったであろうことも、十分予想できます。
ただ、そのこととSmall Picaや5号の歴史的なボディの大きさの議論とは、関連はありますが、少し論点が異なるように思います。
───
◎ 送信者:日吉洋人  2012年01月09日@メール
片塩さま
日吉です。
例の504グリッドを制作していて気づいたのですが、6号=7.875アメリカンポイントだよってことですか?

片塩さま
何度もすいません。日吉です。
先ほどのつづきですが、6号が7.875ポイントで、5号が10.5ポイントだとしますと、名刺を組版する際に使うインテルの長さが、5号24倍なので……、8ポイントだと二分あまりますが、6号だとピッタリおさまりますので気持ちがいいですね。
今後DTPで本文を組版する時には、あえて実験的に本文の文字サイズに7.875ポイントを使ってみたいと思います。

片塩さま
日吉です。これが最後です。
まだ旧号数のすべてで計算したわけではありませんが、例えば、5号24倍(252ポイント)で割り切れないところ(例えば、8ポイント、10ポイント、11ポイントあたり)に突如「号数」が現れるような印象を受けました。
なぜ号数がそのように現れたかと考えますと、単純に複数のサイズの活字を一緒に組んだときに、分物を使わずにすむからだと思います。ならば初号とは何かってなりますが……。
それでは失礼します。お休みなさい。

504pt.と  五号24倍の相関関係の考察表  日吉洋人

2012年12月25日 修整版  



────
2012年04月07日追記:
グラフィックデザイナー K 氏。ご来社のうえ談。

わたしはパッケージのデザインが多いのですが、その際、基本尺度としてメートル法だけでなく、曲尺カネジャク単位を考慮します。曲尺の一尺、およそ30.303センチと、この504pt.の表にあらわれる号数制活字は、なにか関連があるようにかんじました。
きょう「活字の原器と活字のステッキ」の実物を拝見しましたので、これから調査に本腰をいれたいとおもいます。

タイポグラフィ あのねのね*020|1921(大正10)年創業、 創業90周年を迎えた印刷会社三社|理想社・笹氣出版印刷・小宮山印刷工業

 

 1921(大正10)年創業、
創業90周年を迎えた 印刷会社 三社

株式会社理想社
   1921年(大正10)5月:東京市牛込区柳町において初代田中末吉が「理想社組版所」

  を創業。

笹氣出版印刷株式会社
  1921年(大正10)8月10日:、笹氣幸治の個人経営によって仙台市国分町に笹氣

  印刷所が創立された。

小宮山印刷工業株式会社
1921年(大正10)10月:小宮山幸造個人営業をもって小宮山印刷所を創立し、東京
  都新宿区早稲田鶴巻町371番地において一般印刷事業の経営に着手。
────

《なんの因果かしらないが、親しくおつき合いいただいてきた印刷会社が揃って創業90年》
もともと数字には弱いらしい。
たまたま 新宿私塾 フィールド・ワーク で理想社さんにでかけて、うかつなことに同社が1921年(大正10)の創業で、本年が創業90年のめでたい年にあたることを知った。

 
新宿私塾フィールド・ワーク。理想社で書籍製作をまなぶ。2012年5月12日

そこで フト 気づいた。まてよ……、親しくおつき合いいただいている笹氣出版印刷さん、小宮山印刷工業さんも、たしか1921年(大正10)の創業だとおもいあたった。両社のWebsiteをのぞいたら、はたしてこの三社はともに 1921年(大正10)創業で、そろって創業90年を迎えていた。

どうしてこの三社が1921年(大正10)に創業したのかを知ろうと『日本全史』(宇野俊一ほか、講談社、1991年3月20日)をみたが、さして印刷勃興に関連するような記事はなかった。むしろ大正モダニズムと新中間層の登場を紹介していて、「都市の生活」がはじまったことを重点に記録していた。すなわちこの三社が1921年(大正10)に創業したのは奇妙な偶然であり、活字版印刷術が明治初期からの第一世代から、ひろく本格普及をはじめた時代だったためかとみられた。

株式会社理想社、笹氣出版印刷株式会社、小宮山印刷工業株式会社(以下法人格・敬称略)は、いわゆるページ物印刷業者とされる。すなわち商業印刷を主体とする、あわただしい印刷所とはいくぶんことなり、顧客は比較的安定し、かつ固定化している。そのために営業人員よりも、印刷現場の人員が多く、印刷機は四六全判、菊全判などの大型印刷機が多く、多色刷りよりも単色印刷機が主体となっている。

三社に共通する特徴としてあげられるのは、創業まもなくから社内に組版部門を有し、学術書、専門書などに要求される、高度な組版を実施していることである。
理想社などは「理想社組版所」としてのスタートであった。もともと活字版組版にこだわりがつよく、活字版組版を主体とした企業として誕生し、印刷機などの設備はのちに導入しているほどの企業である。その文字活字を中心とする組版重視の伝統はいまなお同社にはのこっている。

つまり三社とも、金属活字組版の時代には、それぞれ戦前から活字母型を購入し、社内に活字鋳造機を所有して活字自家鋳造にあたっていた。また、本格ページ物のためには、欧文・和文の語別活字鋳植機(いわゆる欧文モノタイプ、和文モノタイプ)を設置・稼働させていた企業である。当然活字書体にたいする感度が鋭敏なことも特徴的なことである。

もちろん現在では、金属活字組版にかえて電子組版システムをもちいているが、それでもいまだに汎用機というより、組版専用機が主体で、積分記号や微分演算子など、表記がむずかしい数式や特殊記号をふくむ文書を編集・印刷するために、「TeX テフ」などの「文書整形ソフトウェア」を自在に駆使している。

また組版スキルのレベルは各社とも格段に高く、有力出版社・大学・研究学会・研究機関・官公庁・学術図書出版社などとの長年の取引で蓄積され、顧客それぞれの要求にあわせた、独自のハウス・ルールを所有している。
理想社などは電算写植時代の後期から、いまでいう「合成フォント」に近い技術で、顧客ごとに漢字と和字と欧字の字面率設定をかえているほどのものである。
この取引先各社の字面設定率を何度も田中社長にきいているが、そのつど「ワラ ゴマ」で躱カワされている。しかし同社の主要顧客である、岩波書店と、有斐閣の字面率はあきらかにことなり、そのために版面表情はすこしくことなっているようにみえるのだが。ウ~ン!

メディア産業に大変革の波が襲っているいま、印刷産業も寡占化と全体的な衰退の渦中にあり、1970年(昭和45)に1万2千社近くあった全国の中小印刷業者は、2012年現在は、半分以下の5,600社余りにまで減少しているそうである(全日本印刷工業組合連合会発表、『中日新聞』2012年4月17日)。

そんな悪条件のなか、前述三社の90年におよぶ健闘はひかる。またリーマン・ショックの経済苦境に続き、東日本大震災の影響が、仙台に本社・工場をおく笹氣出版印刷と、おなじく宮城県気仙沼市と仙台市内に主力工場をおく小宮山印刷工業にはきわめておおきかった。
そのため三社ともに、おおがかりな創業記念祭などはおこなってはいないようである。それだけに余計なお節介を承知で、この慶事をブログロール『花筏』読者の皆さまにご報告したかった。
以下創業順に、おもに各社のWebsiteから三社をご紹介したい。

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株式会社理想社
                  1921年(大正10)5月:東京市牛込区柳町において初代田中末吉が「理想社
                                                        組版所」を創業。
        代表取締役/田中宏明
        現所在地/東京都新宿区改代町24番地
        従業員数/46名(2011年6月現在)

【 ごあいさつ 】
代表取締役 田中宏明

代表取締役 田中宏明

理想社は1921(大正10)年に創業以来、より美しく読みやすい書籍印刷を提供することに専心し、わが国文化の向上に大きく貢献してきました。歴史、芸術、学術、文芸など、文化の芽をはぐくみ開花させるのは、言葉であり文字です。その文字の集成が書籍です。

創業者田中末吉は、常に文字品質の向上に傾注し「理想社書体」へのこだわりを追求しながら、先端技術の導入も積極的に行なってまいりました。そしてなによりもお客様に満足していただくために、“誠実に、より良い品質の書籍を提供すること”に情熱を注いできたのです。

現在は、多様化するメディアの中で、印刷業界も大きな変革の時期を迎えております。理想社はトータルな本作りはもちろんのこと、さまざまなご要望にお応えすべく、新技術、新サービスに対する研鑽を怠らず、常にお客様の信頼を得られるよう日々努めてまいります。

創業者が身をもって実践した「温故知新」「低處高思」という教え。その創業精神を堅持しながら、新たな課題へチャレンジする理想を社員一同共有し、社名ともども掲げながら着実に実現していきます。

蛇 足 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
理想社は秀英舎の「舎弟」であった、初代・田中末吉(1892・明治25年12月4日-1959・昭和34年3月3日 享年67)がその基礎を築いた。田中末吉は「低處高思」の銘を掲げていたとされる。すなわち、身は低い処においているが、想いは常に高く掲げ、懸命の努力と精進をかさねていた。これがして社名を理想社と名づけたゆえんであろう。
この理想は初代・田中末吉の薫陶を受けた、第2代・田中昭三(田中末吉 長女 元子の女婿・昭和31年5月5日結婚)に受け継がれ、そして田中昭三の急逝をうけて急遽代表に就任した、3代目現社長・田中宏明にまで脈脈と継承されている。

理想社90年の歴史には、関東大震災での罹災があり、昭和15年ころからの「変体活字廃棄運動」の影響もおおきかった。また戦時体制下には「企業合同」によって、活字と印刷機の大半を没収され、従業員のおおくが徴兵・徴用された。さらに弱小印刷企業数社と合併されて、理想社の名前を剥奪されて、いかにもこの不幸な時代らしい「大和ダイワ印刷」に改組・改称を命じられ、また世田ヶ谷区大蔵への移転を強制されてもいる。

そんな理想社の記録として、創業50年にあたって刊行された『田中末吉』(理想社、昭和46年12月28日)がある。ついで創業60年にあたっては、『町工場六十年』(理想社、昭和56年10月20日)が刊行されている。
その際に既刊書『田中末吉』も改訂・増補・再刷され、この2冊を併せて『理想社印刷所六十年』と題したスリップケースにいれて関係者に配布した(非売品)。この『理想社印刷所六十年』は、大正期後期から昭和前期の印刷史・活字書体史研究には欠かせぬ貴重な資料といえる。

2011年10月20日、理想社は創業90年を迎えたが、東日本大震災ののちのことでもあり、社内会議室において簡素に創業90周年祝賀会を開催した(らしい)。初代・田中末吉は岩波書店の創業者・岩波茂雄の薫陶をうけ、いまもって理想社は岩波書店を主要顧客としている。
岩波書店出入りの印刷所では精興社も知られる。両社とともに取引があるやつがれからみると、理想社は歴代経営者が技術肌のひとで、歯痒いまでに謙虚で宣伝下手なところがみられる。それでも精興社に負けず劣らぬ実績をあげているのが理想社である。そして同社は創業100年にむけて、堅実な歩みをつづけている。

ところで、理想社・田中宏明社長には筆舌に尽くしがたい様様なご協力をいただいているが、理想社の記録が、創業50年、創業60年にまとめられているのに、今回の創業90年に際して予定されていないのはさびしいことである。
先代・実父の急逝をうけ、30代前半から理想社経営の重責を担ってきた田中宏明社長であり、まだ50代の前半の壮齢でもある。ぜひとも『理想社100年史』の刊行を望み、お手伝いもしたいところである(が、やつがれがそこまで持続するか、いささか不安でもある)。

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笹氣出版印刷株式会社
        1921年(大正10)8月10日、笹氣幸治の個人経営によって仙台市国分町
        に笹氣印刷所が創立された。
        代表取締役社長/笹氣幸緒
        現所在地/宮城県仙台市若林区6丁目西町8番45号
        従業員数/62名(2006年12月)


笹氣出版印刷創業まもなくの時代の社屋入り口・工場・事務所の写真。同社Websiteより。

【 90年目の笹氣 】
当社は創業以来、お客様に支えていただき、おかげさまで創立90周年の節目を迎えることができました。
印刷業界を取り巻く環境はここ数年で劇的に変化しています。
しかし、この変化をチャンスととらえ、今まで培ってきた技術を礎に、新しい情報発信にチャレンジをしています。
100周年企業の仲間入りを果たすべく、次なる10年を挑戦の10年に位置づけ、真にお客様のお役にたてる企業を目指していきます。

【 文字の笹氣 】
当社は創立以来、本づくりの過程において、文字の読みやすさにこだわり続けてきました。
古くは活字の時代から、昨今のDTPによる組版まで、「読みやすさ」に対する挑戦は今も続いています。
もちろんこうした挑戦と、そこから身に付いた技術は、本以外にも様々な当社の制作物に生きています。
これからもお客様の発信するメッセージが、読み手に違いなく届くよう、読みやすさへの挑戦は続きます。

 蛇 足 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
杜モリの都、仙台発祥の笹氣出版印刷株式会社は、大正10年8月10日、初代・笹氣幸治の個人経営によって創立された。
筆者と親しくおつき合いいただいているのは只野俊裕(取締役)である。笹氣信三(専務取締役・東京営業所長)とも数度お会いしたことがあるが、同社を訪問したことはまだない。

7 年ほど前、小社で只野さんと旧晃文堂社長・吉田市郎さんが出会ったことがある。
「仙台の笹氣出版印刷のかたですか! 昭和30年頃、東北出張というと、真っ先に笹氣出版印刷さんをお訪ねしました。笹氣さんにはランストン・モノタイプの1号機があってねぇ、活字と組版にはとても厳格な企業でした。晃文堂の活字母型も積極的に購入していただきました」
吉田市郎氏は笹氣出版印刷・只野俊裕さんの名刺を手に、感に堪えないという面持ちであった。

笹氣出版印刷には、現社長・笹氣幸緒氏の父、笹氣直三(故人)氏の研究・試作・開発による「陶活字」がある。これは中国のふるい文献にみる「陶活字」を、実際に試作・再現し、印刷まで実施した、わが国では類例をみない貴重な資料である。
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現代の中国では、印刷学院付属  中国印刷博物館(北京市・撮影不可)と、下記に図版紹介した、中国文字博物館(河南省安陽市、同館は開設からまもなく、図録などはきわめて未整備の段階)に「膠泥活字・陶活字」を復元したレプリカが展示されているが、知る限りでは印刷実験までなされた形跡はない。

中国/北京市 中国印刷博物館 地上3階・地下1階の大型施設であるが、印刷関連大型機器展示場の地階以外は撮影禁止で、 案内パンフレット、図録集などは無かった。併設の印刷学院ともどもわが国で知ることが少ないが、展示物は質量とも群をぬくすばらしさである。2011年9月

2010年10月に新設された「中国文字博物館」。甲骨文発見の地、河南省安陽市の駅前に巨大な外観を誇る。同館は必ずしも交通至便とはいえず、河南省省都・鄭州(テイシュウ  Zhengzhou)から電車でいく。さらに、甲骨文出土地として知られる、いわゆる安陽市小屯村 ── 中国商代後期(前1300頃-前1046)の都城「殷墟」までは、さらに駅前のターミナルから、バスかタクシーを乗り継いでいく必要がある。宿泊施設も未整備だとの報告もみる。したがって当面は鄭州からタクシーをチャーターして日帰りされるほうが無難である。2011年9月

《チョット寄り道。中国のふるい活字製造法とその消長》


畢昇の陶活字 レプリカ(『中国文字博物館』文物出版社 2010年10月)
左:右手に「膠泥活字」、左手に「膠泥活字植字盆」(10文字が入っている)を手にする畢昇銅像。右端上部は「膠泥活字の大小のレプリカ」。右端下部はネッキもある金属活字で、どうしてここに近代の活字が紹介されているのか不明。
『中国文字博物館』は、規模は壮大で、甲骨文に代表される収蔵物には目を瞠るものもあるが、まだコンテンツや解説は未整理な段階にあった。

中国南宋時代の古典書物『夢渓筆談 ムケイ-ヒツダン』に、南宋・慶暦年間(1041-48頃)に畢昇ヒッショウが「膠泥コウデイ活字」を発明したとする記述がある。ここにみる「泥」が、わが国では「水気があって、ねちねちとくっつく土 ≒ 土の状態」に重きをおくので、「膠泥活字」の名称をさけて、むしろ「陶活字・陶板活字」などとされることが多い。
ところが「泥」は、その扁が土扁ではなく、サンズイであるように、「金泥≒金粉をとかした塗料」「棗泥ソウデイ≒ナツメの実をつぶしたあんこ」「水泥≒現代中国ではコンクリート」など、むしろ「どろどろしたモノ」にあたることが多い。

昨年の秋、中国河南省安陽市に新設された「中国文字博物館」を訪れた。そこでみた畢昇の銅像と、手にしている「畢昇泥活字」は、ひと文字が5センチ平方ほどもある大きなもので、あまりに大きくて驚いた。またガラスケース越しではあったが、素材はよく中国でつくられる煉瓦の一種の「磚セン・甎セン」と同様の手法で、ドロドロに溶かした膠ニカワを型取りして固形化させたか、もしくは粘土を型取りして焼いたものとみられた。詳細な説明はなかった。

つづいて元の時代の古典書物『農書  造活字印書法』に、元朝大徳2年(1298)王禎オウテイが木活字で『旌徳県志  セイトク-ケンシ』という書物を印刷したことがしるされている。残念ながら畢昇の「膠泥活字」も、王禎の「木活字」も現存しないし、この木活字をもちいたとする書物『旌徳県志』も現存しないので、推測の域をでない。
──── 本題にもどろう。

笹氣出版印刷ではこの「陶活字」を中心に、2001年2月1日【美しき文字の調べ──笹っぱ活字館】をオープンさせた。
ここには故・笹氣直三の研究・再現・印刷実験による「陶活字」を中心に、ランストン・モノタイプ(語別活字自動鋳植機)の活字母型盤をふくむフルセットと、機械式活字父型母型彫刻機(いわゆるベントン彫刻機)、見出し用活字母型、活字鋳造機などが陳列されている。どうしても拝見したい貴重な資料である。

只野さんからは、タイポグラフィ現業者独特の、辛口の批評をしばしば頂戴する。
曰く 「パッケ出しが甘いですね」
曰く 「フォロー・バックがうまく機能していない」
いわれた直後はいささか腹がたつときもあるが、ありがたいことである。
そんな只野さんであるが、同社のランストン・モノタイプが、わが国導入1号機であるとされることには半信半疑だった。
「確かに、笹氣出版印刷社内では、このランストン・モノタイプが、わが国での導入1号機とされていますけど、世間では研究社さんが最初の導入社とされていますから……」

『笹氣出版印刷  経歴書』(2012年04月)には、要旨以下のように記録されている。
・大正10年08月
笹氣幸治、仙台市国分町に笹氣印刷所創業。
・大正12年
日本タイプライター社より「活字万能自動鋳造機」を購入。
・昭和02年
当時書籍印刷はほとんど東京に依存していた業界にさきがけて、日本タイプライター株式会社製「邦文モノタイプ鋳植機」を購入し、「常にあたらしい活字による印刷」[活字版の解版・戻しをしないで、いわゆる活字1回限りの使用]をはじめる。
・昭和03年
日本タイプライター社よりふたたび「活字万能鋳造機」を購入。
「ドイツ製二回転式印刷機」を設備。「あたらしい活字による印刷」にあわせ、「美麗なる印刷物」を推進。
・昭和06年03月
米国のモノタイプ・コーポレーション社より、日本でも珍しい「ランストン・モノタイプ」を購入。美しい欧文論文の印刷に「モノ式欧文活字自動鋳造植字機」がおおいに活躍し、業界に貢献した。
・昭和20年07月
仙台大空襲で工場全焼。
・昭和22年10月
東北地方の中心地、仙台市役所ならびに宮城県庁にほど近い上杉の地に本社営業所ならびに工場を落成、移転して業務を開始した。
・昭和25年03月
東北大学文学部の依頼をうけ、5年の歳月を費やし、『西蔵撰述佛典目録』を原本としてチベット文字を創刻し、活字母型をおこし、昭和35年5月これを印刷完了し各国に配布。この事業が学会に貢献した。
・昭和31年06月
インド・ナグプールのインターナショナル・アカデミー・オブ・インディアン・カルチャーの懇請をうけ、チベット語活字を、「河北新報社」を介し、インド大使館を通じて日印友好ならびに文化交流のために寄贈。
・昭和41年08月
全自動モノタイプを設備。邦文組版の文選・鋳造の能率効果をあげる。
・昭和49年03月
文字組版の画期的改革を企図し、電算写植機「サプトンA7262」を当社用に開発導入。
…………
・平成23年03月
3月11日東日本大震災によりオフセット印刷機が大破。およそ2ヶ月間の休業に追い込まれた。

ところが組織とは面白いもので、只野さんも筆者も所属しているタイポグラフィ学会の副会長/小酒井英一郎さん(研究社印刷社長)のお話しでは、
「本邦での欧文モノタイプ導入の最初は、仙台の笹氣出版印刷さんときいていますが……」
となります。

参照データ:タイポグラファ群像*001 加藤美方

高島義雄氏→加藤美方氏をへて譲渡された『TYPE FACES』
研究社印刷 1931年(昭和6)
B5判 160ページ かがり綴じ 上製本
この活字見本帳は、端物用、ページ物用の欧文活字書体の紹介がおもである。
研究社・小酒井英一郎氏によると、管見に入る限り、研究社の冊子型活字見本帳では
これが最古のものであり、またこれが唯一本とみられるとのことである。
現在、整理がヘタなやつがれは、目下のところこの見本帳をしまい込んでいて
探し出せないでいるが、昭和6年の研究社では、行別活字鋳植機(ライノタイプ)が
主流であったと
記憶している。

また後述する小宮山印刷工業の「ご隠居」小宮山清さんも、
「ランストン・モノタイプの導入の最初は、仙台の笹氣出版印刷さんですよ」
とケロリとして断言されます。
もちろんこの両社は、東京におけるランストン・モノタイプ導入企業として、また本格欧文組版ではきわめて著名な両社である。

また印刷業界に欧文モノタイプと研究社の関連がひろく知られたのは、『欧文植字』(水沼辰夫編、工場必携シリーズA6 印刷学会出版部)だったとされる。筆者所蔵書は刊記ページを欠くが、同じ著者によるシリーズ図書『文選と植字』(水沼辰夫 工場必携シリーズA5 印刷学会出版部 昭和25年10月25日)があり、また『欧文植字』巻頭の「はしがき」附記に、編者しるす──として1949年3月の記載がある。したがって『欧文植字』は昭和24-26年頃の刊行とみたい。そこには、以下のような記述がみられる。

附記──[前略]本書中「モノタイプ」については、研究社印刷所のオペレーター鈴木金藏氏に負うところが多い。また組版・図版その他については研究社印刷所から多大の援助をこうむった。ここにしるして感謝の意を表する。
本文最終 p.196──以上、モノタイプについては概略を述べたが、複雑きわまりない構造と、その機能については、説いて尽くさざるうらみが多い。モノタイプは現在東京牛込の研究社印刷所に2台あるから、志ある人はついて見られたい。作業に妨げのない限り応じられると思う。

このように、戦後まもなくの時代、しかも現業者の水沼辰夫氏は、仙台・笹氣出版印刷のランストン・モノタイプの存在を知ることが無かったのかもしれない。その分だけ研究社印刷所を中心に記述したために、在京の印刷業者には笹氣出版印刷関連の情報が欠けたものとみられるのである。
現在わが国では欧文モノタイプを稼働させている企業は無いが、笹氣出版印刷、研究社印刷所、印刷博物館などでそのシステムを見学することができる。

ですから只野さん、なにも先陣争いをするわけではありませんが、どうやら笹氣出版印刷が、わが国でのランストン・モノタイプの導入の最初だったようですよ。

《2011年3月11日、あの日のこと……》
笹氣出版印刷は仙台市若林区6丁目西町8番45号に広大な本社・工場を置いている。あの日、2011年3月11日、仙台空港に津波が押しよせる影像が繰りかえし流れた。笹氣出版印刷は仙台市内から工場団地ともいえる海よりの敷地に移転したと聞いていたので、「もしかして……」というおもいから数度架電した。電話はまったくつながらず、@メールにも返信はなかった。

2011年3月19日、ようやく只野さんから
「只野  です」
と、いつもの穏やかな口調で電話をいただいた。
地震と津波のはなしは双方ともに避けた。どういうわけかタイポグラフィのはなしをしたことを覚えている。のちに「寒中見舞い」をいただいて、只野家は福島県の出身だということを知った……。
2012年2月17日、池袋サンシャインビルで開催された JAGAT『PAGE1012』の展観に只野さんが上京された。ほぼ1年ぶりの再会であった。タイポグラフィのはなしをするのが楽しかった。

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小宮山印刷工業株式会社
        1921年(大正10)10月:小宮山幸造個人営業をもって小宮山印刷所を
                      創立し、東京都新宿区早稲田鶴巻町371番地に
                      おいて一般印刷事業の経営に着手
        代表取締役社長/小宮山恒敏
        現所在地/本社:東京都新宿区天神町78番地
                宮城工場:宮城県気仙沼市本吉町猪の鼻169-7
               KOPAS(仙台営業所):宮城県仙台市青葉区木町通2-5-19
        従業員数/251名

いきなりの 蛇 足 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ここまで紹介してきた理想社、笹氣出版印刷は、朗文堂ならびにやつがれにとっては、どちらかというと活字書体・組版・印刷実務が中心であり、タイポグラフィ学会系のおつき合いである。
ここからご紹介する小宮山印刷工業 2代目代表 /小宮山清さんは、朗文堂 活版印刷事業部/アダナ・プレス倶楽部の皆さんとのおつき合いが中心である。

《第11回 活版ルネサンス フェア》にご来場の折の写真。2012年3月30日 御年85歳。 

もしかすると「小宮山印刷のおじいちゃん」(失礼!)と呼んで、親しくおつき合いされているアダナ・プレス倶楽部の皆さんは、この情報と、小宮山印刷工業  のWebsite  の詳細をみて驚かれるかもしれない。
名刺には「小宮山印刷工業株式会社   小宮山  清」とだけしるされている。肩書きに類するものはまったくない。それでも小宮山 清(昭和6年2月26日うまれ  85歳)さんは、ページ物欧文組版、欧文印刷、高度学術書組版・印刷に関しては、わが国有数の知識と経験を有されている。

ランストン・モノタイプ社製 Type Lining Tester 活字列見。欧文のベースラインの揃いなどを確認・調整するための器具。実際の使用に際しては90度回転させて、マイクロ・ゲージが下部になるようにしてもちいる。小宮山清氏蔵。

参照資料:タイポグラフィ あのねのね*018  Inspection Tools 活字鋳造検査器具  活字列見

またその企業 小宮山印刷工業 とは、学術・研究書を中心にきわめて高い評価があり、小宮山清さんがときおり本郷あたりに出没すると、少壮研究者のころから、論文のまとめや執筆・刊行にお世話になったとして、並みいる大学教授が深深とお辞儀をするほどの人物であることはほとんど知られていない。
また小宮山印刷工業の一貫生産システム──  Komiyama Orijinal Printing Automation Systemは「KOPAS」と呼ばれ、同システムによる学術書出版への評価はたかく、スリランカ(旧・セイロン)にも関連企業を有している。
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小宮山清さんは、アダナ・プレス倶楽部主催のイベントには、しばしば気軽に足を運ばれている。そこで活版印刷実践者の若者たちと、あれこれと活字・印刷・製本などの技術を物語ることが至極楽しそうである。
ご本人はまったく偉ぶることが無いし、質問には懇切丁寧にこたえられ、自分の功績や会社の規模を誇ることはないから、アダナ・プレス倶楽部の会員の皆さんは、ほんとうに親しく「小宮山さん、小宮山印刷のおじいちゃん」として敬愛しているようである。

アダナ・プレス倶楽部 餅プレス大会で、威勢よく杵をふるう小宮山清さん。このとき御年83歳。お元気である。ともかく若者は、つきたてのおいしい餅を食べることと、呑むことに夢中なので、3臼ほどを小宮山さんが率先して搗きあげていた。2011年11月27日。足立区ママースの協力にて。

《2011年3月11日、あの日のこと……》
宮城県気仙沼市本吉町猪の鼻169-7 に主力工場を置き、仙台市に「COPAS  事業部」をおく小宮山印刷工業にも、あの日の被害はおおきかった。

小宮山清さんに、津波が近在の河川をつたって、本当に気仙沼工場の直下まで激しい勢いで押しよせた映像をみせていただいた。
「びっくりしたけどねぇ、それでも高台に工場をつくっていたから助かった。若い社員のみんなが頑張って、もうすっかり復旧させましたよ」
いつもの抑揚せまらぬ口調で、おおきな災害をかたられた。
小宮山印刷工業は、いまは小宮山清さんのご子息や甥の経営陣が主体であり、4代目にあたる孫世代への継承がつづいているそうである。小宮山清さんはそんな現状を、自分はやりきったおもいで心強くみまもるだけで、余計な口出しはしないそうである。ぜひとも小宮山清さんが、同社の創業100年祭にお元気で参加されることを祈ってやまない次第である。

タイポグラフィ あのねのね*018 活字列見

タイポグラフィ あのねのね*018

Type Inspection Tools   活字鋳造検査器具 

Type Lining Tester  活字列見

《これはナニ? なんと呼んでいますか?  タイポグラフィ あのねのね*016での問題提起》
2012年2月23日、タイポグラフィ あのねのね*016 において、下掲の写真を紹介するとともに、その呼称、役割、使途などを調査する一環として、金属活字鋳造、活字版印刷関連業者からのアンケートをしるした。 
その問題提起とアンケート結果は、上記アドレスにリンクを貼ってあるので、まだ前回資料を未見のかたは、ご面倒でも事前にご覧いただきたい。

簡略なアンケートながら、このちいさな器具の呼称は「版見ハンミ、はんめ、版面見ハンメンミ、ハンミ、判面ハンメン」などと、活字版印刷業者のあいだではじつに様様に呼ばれていたことがわかった。
140年余の歴史を有するわが国の近代活字版印刷術 タイポグラフィ と、活字鋳造業界には、じつに多様な業界用語があり、それがしばしば訛ってもちいられたり、省略されることが多い。まして金属活字鋳造業界はながい衰退期にあるため、情報の断絶がしばしばみられるのがつねである。

またその使途・用途は、アンケート結果をみると大同小異で、ほとんどが、
「活字の高さを調べる器具」
「活字のライン、とりわけ欧文のベースラインの揃いを確認する器具」
との回答をえた。

現在の電子活字、とりわけその主流を占めるアドビ社の「ポストスクリプト・フォント・フォーマット」においては、ベース・ラインの設定は、全角 em を1000としたとき、120/1000の位置に設定される。欧文活字設計、欧文組版設計において、もっとも重視される基準線がベース・ラインであることは、昔も今もなんら変化がない。
そしていまや、和文電子活字、和文電子組版でさえ「ポストスクリプト・フォント・フォーマット」が主流となったため、ベース・ラインはより一層その重要性をたかめている。

わが国の金属活字の時代も、当然ベース・ラインの揃いは重視され、すくなくとも『活字と機械』に紹介された図版をみると、1914年(大正3)には使用されていたことがあきらかになった。
しかしながら、拡大鏡をもちいるとはいえ、この簡便な器具での視覚検査だけではおのずと限界がある。したがって相当以前から、このほかにも「顕微鏡型」とされるような各種の活字鋳造検査器具が開発され、また鋳造現場での創意・工夫がなされ、随所にもちいられていたとみることが可能である。

《文献にみる、この器具の資料》
まだ精査を終えたとはいえないが、この器具はいまのところ外国文献には紹介を見ていない。しかし過去の例からいって、本格的に写真図版を紹介すると、やがて資料の提供があちこちからあるものと楽観している。
またのちほど紹介する、インチ目盛りのついた類似器具が、かつて学術書組版のために、欧文自動活字鋳植機(いわゆるモノタイプ)を使用していた、新宿区内の企業から発見されている。いずれ外国文献の報告はあるものと期待をこめてみていたい。

わが国の資料では、『活字と機械』(東京築地活版製造所、大正3年6月)の各章の扉ページ(本書にページ番号は無い。電気銅版とみられる同一図版が6ヶ所にもちいられている)にもちいられたカット(イラスト)の左上部、上から二番目に類似の器具が図版紹介されている。
今回の調査をもって、この図版にみる12点の器具すべての呼称と役割が判明した。それだけでなく、ここにある12点の器具は、すべて朗文堂アダナ・プレス倶楽部が所有し、いまもほとんどの道具や器具を使用している。すなわちわが国の活字印刷術とは、おおむね明治末期から大正初期に完成期を迎えていたとみなすことが可能である。
 
       

上左:『活字と機械』(東京築地活版製造所、大正3年6月)表紙には損傷が多く、若干補修した。本書にはページナンバーの記載は無い。
上右:『活字と機械』扉ページ。外周のイラストは電気銅版(電胎版とも)とみられ、同一の絵柄が都合6ヶ所にもちいられている。

『活字と機械』扉ページより、左上部2番目の器具を拡大紹介した。この時点ではまだ正式呼称はわからなかった。主要素材は銅製で、下のネジを回すと、手前の鉄片が上下する仕組みになっている。取っ手にみえる円形の輪は、この鉄片を固定する役割を担っている。
右最下部:「活字ハンドモールド──同社では活字台・活字スタンプ」と呼び、1902年(明治35)12月27日特許を取得している。また江川活版製造所創業者、江川次之進が、この簡便な器具を「活字行商」に際してもちいたことが、直系子孫が保存していた掛け軸の絵柄から判明している。2012年5月《活版凸凹フェスタ》にて詳細発表の予定。

《ついに発見! 晃文堂資料から──LININNG TESTER  列見》
これまでも筆者は、吉田市郎ひきいる晃文堂に関してしばしばふれてきた。ここでふたたび『KOBUNDO’S TYPE-FACES OF TODAY』(株式会社晃文堂 千代田区神田鍛冶町2-18、p.67、1959)を紹介したい。

わが国の近代活字は、幕末の導入からわずかに50年ほど、明治40年代のなかばになると、はやくもおおきな壁にぶつかっていた。その理由のひとつに、導入直後から東京築地活版製造所、秀英舎、大手新聞各社など、ほんの一部をのぞくと、もっぱら徒弟修行にもとづく、経験則の伝承にたよったために、情報収集・分析と解析能力、技術革新の意欲に欠けていたことを指摘せざるをえない。

またわが国への近代活字版印刷術、タイポグラフィの導入が、18-19世紀の産業革命の成果をともなった、高度量産型産業として導入されたために、タイポグラフィが本来内包していた「工芸」としての役割をみることが少なかった。工芸であれば、クラフトマン・シップであり、そこには身体性をともなった創造の喜び、無償の創作欲の発露の場にもなりえたであろう。
ところが、幸か不幸か近代活字版印刷術は、文明開化の時代の「近代産業」、すなわち工業として招来されたために、あたらしい技術に目を奪われ、ふるいとされた技術を弊履のごとく捨て去ることがこの業種のならいともなっていた。このことは、一面からみると不幸なことであった。

皮肉なことではあるが、高学歴で、情報収集とその応用能力にたけた人材と企業は、営利追究に敏であり、ながい衰退期というトンネルを経過しつつある活字版印刷術業界から、ほとんどが去っている。かれらの多くは、新技術としてのオフセット平版印刷業者に転じ、一部はより新鮮な電子情報処理への道をひたはしっている。

晃文堂は、名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒の吉田市郎と、その軍隊仲間(おもに経理担当の主計将校であった)を中心として、戦後に創立した活字鋳造所であった。そのため海外情報に敏速に接することができ、他社が手をこまねいていた欧文活字の復元と新開発に意欲的に進出し、やがて欧文書体の権利関係が複雑になるにおよんで、和文活字の開発に転じている。もともと晃文堂は活字版印刷術の多彩な情報提供をおこない、また総合商社のような役割もはたしており、その一部が現在のリョービイマジクスのひとつの源流をなしている。

わが国戦後の活字見本帳の製作は、西では、かつての森川龍文堂経営者、森川健市が、岩田母型製造所大阪支店の名において、精力的に活字見本帳を製造していた。東では、やはり吉田市郎ひきいる晃文堂が、もっとも意欲的に活字と機械に関する見本帳を製造していた。
晃文堂は社歴があさかったために、研究社人脈、三省堂人脈、印刷局朝陽会人脈、科学技術試験所人脈などを積極的に取りこんで、知・技・美の三側面の充実を意識した活動がめだった。

『KOBUNDO’S TYPE-FACES OF TODAY』は、たんなる活字見本帳ではない。活字版印刷術 タイポグラフィを見据えた、総合技芸をサポートする豊富な内容となっている。そのp.67に問題の器具の写真が紹介されている。
左半分は〈INSPECTION TOOLS〉すなわち〈活字鋳造検査器具〉の各種である。
その(A
)に LININNG TESTER  列見 と紹介されている。 

中央部に(A)LINING TESTER  列見が紹介されている。
ここにみる機器は製造ラインが破綻したものもあるが、小社をふくめ、いまも活字版印刷所、活字鋳造所などでは現役でつかわれている。アダナ・プレス倶楽部では《活版ルネサンス》などのイベントに際し、陳列・展示、一部は水面下にあった製造ラインを復活 ルネサンスさせて、製造・販売にあたっているものである。

ようやく晃文堂が提示したこの器具の呼称があきらかにされた。いまならば和製英語としても「ベースライン・テスター」でも良かろうとおもわれるが、前述のように活字版印刷術の職人たちは、欧文を毛嫌いするかたむきがあり、あえて「欧文のベースラインの行の列をみる → 列見」としたようである。
そしてこれが訛って「版見ハンミ、はんめ、版面見ハンメンミ、ハンミ、判面ハンメン」などと呼ばれるようになったものとおもわれた。

《そろそろ脱却したい、「母型」の呼称》
『KOBUNDO’S TYPE-FACES OF TODAY』の裏表紙、〈営業品目〉のなかに、和文・欧文対訳で活字母型が3種類紹介されている。どういうわけか、相当の専門書であっても、こと活字に関しては単に「母型」としるされることが多い。
また『広辞苑』にも、
「母型」を「活字の字面を形成する金属製の型」との紹介をみる。ところが後半には「打込母型(パンチ母型)」とある。
すなわち以下のパラグラフで説明されるように、この記述は戦後、ある特定できる人物の記述による。いまや『広辞苑』第4版からのタイポグラフィ関連項目のこの執筆者をふくめて、そろそろ「母型」を特殊業界用語とすることは、一考を要する時代となっているとおもわれるがいかがであろうか。

すなわち様様な鋳物(金属活字も鋳物の一種である)、陶磁器、プラスチック製品などの量産製造のためには、複製原型としての父型(雄型)と、その複製の母型(雌型)があるからである。
ふるくは鋳型であり、雄型・雌型、オス・メスであった。また鋳型素材の多くが粘土であったために、砂型とも呼ばれた。また陶磁器業界・プラスチック業界などでは「成形型」と呼び、石膏製・素焼き製・金属製の三種類がある。

活字における「母型」の呼称は、おそらく明治初期の「MATRIX」からの訳語が印刷・活字界にひろがり、業界用語とされたものであろう。このとき隣接業界、なかんずく鋳物業者を調査したとはおもえない。
つまり、アダナ・プレス倶楽部にとっても、Adana-21J製造のための各種鋳型が山をなす。そこには当然、設計図と試作機があり、また数十点におよぶAdana-21J用父型と、Adana-21J用母型がある。

これが単に活字界での「母型」の独占では困るとするゆえんである。また、こうした業界特殊用語? をもちいてきたために、活字「母型」の製造は特殊化し、孤立・停滞し、 彫金業界などの他業界はもとより、鋳造業界など隣接業界との交流の妨げにもなってきたという不幸な歴史も指摘したい。
端的にいえば、彫金・鋳物業界にも文字活字を重くみる人士は多い。すでに台湾の日星鋳字行などでは、コンピューターの3Dソフトを駆使して、パソコン直結によって活字「母型」を製造している現状も報告したい。
ところがわが国では、戦後に普及した「機械式活字母型彫刻機、ベントンと俗称」にあまりにこだわりがつよかった。その
活字「母型」製造ラインがほとんど破綻した現在、隣接の彫金業界などと提携し、活字母型の製造を円滑化させ、より活発なものとする余地は十分にある。このテーマは検討に値するとおもうがいかがであろう。

晃文堂は、活字鋳造とその販売だけでなく、自家鋳造の大手業者にむけて積極的に活字母型の販売も実施していた。
◎PUNCHED MATRIX
和欧文パンチ母型。ここでの「パンチ母型」とは、欧米式の活字父型 Punch から、簡便な押圧式手法で活字母型 Matrix を製造するパンチド・マトリクス技法とは異なる。晃文堂は後述する国際マトリックス社・細谷敏治氏の特許・造語の技法による「パンチ母型」を積極的に販売していた。
◎ENGRAVED MATRIX
ベントン機械式活字彫刻母型(パントグラフ理論にもとづく機械式直刻活字母型)。これから焼結法によって活字父型をつくり、それをマテ材に打ちこんだのが細谷氏特許の「パンチ母型」である。すなわち「パンチ母型」は細谷氏の造語である。
価格面からみると、直刻母型は高額で、複製父型から製造される細谷式「パンチ母型」のほうが低廉であり、活字母型の不具合に際して、交換・補充が容易であった。おもに自動式活字鋳植機(いわゆる日本語モノタイプ)や、大手印刷所、新聞社などの自家鋳造に採用された。当時の品質評価は直刻式のほうが高かった。
◎GALVANIZED MATRIX
電胎母型(電鋳法による活字母型)。熱変化に弱く、耐用性の側面からみると、全国規模の活字鋳造所で限界にいたっていることが危惧される。

 LINING TESTER  列見の素朴なバージョン。付属のルーペでは拡大率が足りず、10-20倍のルーペで検品することがほとんどだったとされる。欧文活字の鋳造の際には必ずベースラインを検証したし、活字鋳型の交換に際しても検品するのが常だったと長瀬欄罫ではかたる。

 
リング状の輪を「固定ハンドル」と呼んでいたと長瀬欄罫ではかたる。同社では10ポイント活字の鋳造が多く、この「固定ハンドル」を10ポイント専用として、ベースラインの位置に固定させていたとする。

 東京都新宿区榎町のK印刷にのこされた「ベースライン・ゲージ」。モノタイプ社製で、柄の先端にインチ尺によるマイクロ・ゲージが付属している。撮影アングルは天地が逆向きといえ、「LINING TESTER  列見」と同様に、活字ベース・ラインを目視とあわせて、マイクロ・ゲージで検証するためのものだった。

  

タイポグラフィ あのねのね*016 これはナニ? 活字列見

 タイポグラフィ あのねのね*016

これはナニ? なんと呼んでいますか? 
活版関連業者からお譲りいただきました。

 

◎  元・岩田母型製造所、高内  一ハジメ氏より電話録取。(2012年01月04日)
《版見》と書いて《はんみ》と呼んでいました。
◎ 築地活字 平工希一氏談。(2012年01月10日)
ふつうは「はんめ」と呼んでいます。漢字はわかりません。ひとに聞かれると「活字の高さを見る道具」だと説明しています。
◎  匿名希望 ある活字店談。(2012年02月02日)
うちでは「はんめんみ」と呼んでいます。
漢字は不確かながら「版面見」ではないかとおもいます。
◎ 精興社 小山成一氏より@メール(2012年02月15日)
小社では《ハンミ》と呼んでいたようですが、元鋳造課長の75歳男に訊いたところ、判面(はんめん)と呼んでいたとのことでした。

★      ★      ★

活版愛好者の人気アイテムのひとつに《活字ホルダー》という簡便な器具があります。いまや《活字ホルダー》の名称とその役割は、ひろく知られるところとなりました。ところがこのちいさな器具は、5年ほど前までは使途も名称もわからなかったものでした。
会員の皆さまからの情報提供をいただきながら、朗文堂 アダナ・プレス倶楽部が中心となって、ようやく、その歴史・名称・役割があきらかになって、いまでは活版実践者はもとより、製本・皮革などの工芸者全般がひろく利用する便利な器具として復興 ルネサンスをみました。

ところで上掲の写真です。この器具の主要部は銅製で、高さは100円ライターとほぼ同じ、ちいさなものです。
中央下部、脚部の中央にある円形のネジをまわすと、中央手前の鉄製の金属片が上下する仕組みになっています。
取っ手のようにみえるループ状の金属片は、取っ手ではなくて、おもに固定の役割をします。
またルーペが付属したものもありますが、実際の使用に際しては、もっと倍率の高いルーペをもちいることが多いようです。
現在でも活字鋳造所ではしばしば使用されています。また、かつて活字の自家鋳造を実施していた大手印刷所などの企業では、名称も使途もわからないまま、なんとなく捨てがたい、愛らしい形状をしているために保存してあるものです。

この写真の器具を、2011年いっぱいをもって廃業された「有限会社長瀬欄罫」様からお譲りいただきました。最後まで日常業務に使用されていたために、銅製品に特有の錆びはほとんどみられませんが、長年の酷使のためか、脚部が曲がっているものもあります。脚部の素材は銅ですから容易に修整できますが、機能に障害はないためにそのまま使用していたようです。
またこの写真のほかに、「ウ~ン、最低でも30年は前だったかなぁ」とされる、木製箱入りの未使用のものもひとつあります。これは供給の途絶を危惧して購入したものだそうですが、愛用の器具が酷使に耐えたので、しまい込んだまま(忘れて)こんにちにいたったものでした。

ついで、周囲の活字鋳造所や、かつて活版印刷に関係していた皆さんにアンケート。
「これはナニに使用しますか(しましたか)? ナント呼んでいますか(いましたか)?」
アンケートの結果はご覧のようになりました。業界用語とは面白いもので、各社それぞれ独自の呼称をもって「版見ハンミ、はんめ、版面見ハンメンミ、判面ハンメン」などと呼んでいますし、呼ばれていました。
使用目的・使用用途は、どの回答者も、いいかたは様様でしたが、まったく同じでした。

現在までの調査では、この器具を紹介した資料は、東京築地活版製造所の見本帳の電気版イラストによる紹介を、1914年(大正3)にみます。また1965年(昭和40)の晃文堂のカタログに、欧文表記と製品写真の紹介をみています。外国文献には、いまのところ紹介をみていません。
ところがきょう2月23日、数台の欧文モノタイプを稼働させていた、ふるい活版印刷業者(現在はオフセット平版印刷に転業)を訪問したところ、偶然ながら、まったく同じ用途にもちいられていた外国製の器具を、「クワタ箱」を転用した「活版印刷の忘れがたいお道具箱」のなかから発見しました。これらの報告は改めてということで……。
どうしても知らなきゃガマンがならぬ、というお気の短いかたは、『VIVA!! カッパン♥』p.114に簡略な報告がありますので、そちらをどうぞ。

タイポグラフィ あのねのね*015 『ハンドプレス・手引き印刷機』

タイポグラフィ あのねのね*015

 朗文堂書籍 新刊書

『ハンドプレス・手引き印刷機』 板倉雅宣著

板倉雅宣氏(1932年東京うまれ)の労作『ハンドプレス・手引き印刷機』が発売を迎えた。本書はわが国の明治初期における活字版印刷機の、導入・開発・普及・変遷を丹念に追い、それを通じて近代日本の成立の歴史を、ときに俯瞰し、ときに微細に記録したものである。

わが国の近代印刷の黎明は、板目木版への刻字から、金属活字文字組版への変革をもたらし、木版版木バレン摺りから鉄製活字版印刷機の使用への転換をともなった。蒸気機関や電動モーターの実用化に先だつこのころ、総鉄製とはいえ「手引き印刷機」とは、金属活字版を印刷版とし、人力をもっぱらとする、素朴な印刷機であった。
本書は幕末期に点描のように導入された輸入活版印刷機から説きおこし、1873年(明治6)長崎から進出した平野富二らによる「手引き印刷機/ハンドプレス  Hand Press」の本格開発と、その急速な全国への普及、追随した各社の動向を丹念に追っている。
ともすると従来の近代活字版印刷の研究は、活字とその書体形象に集中してきたきらいがあった。ここに活字版印刷術の車の両輪ともいえる、印刷機と活字に関する近代タイポグラフィの開発史研究が明瞭に姿をあらわした。

詳細 : 朗文堂ニュース9月2日

板倉雅宣著『ハンドプレス・手引き印刷機』の発売にともなって、エールの交換をおもいたった。すなわち、小社既刊書『VIVA !!  カッパン♥』において、〈アルビオン型手引き印刷機〉をカラー図版をともなって紹介していたので、その一部を紹介し、読者の理解の一助になればと愚考した。
機構が素朴かつ堅牢な「手引き式活字版印刷機」は、わが国でも、あるいはひろく欧米各国でも、いまなお愛着をもって活版印刷の実用機としてもちいられている。また、各地の博物館などでも、重要なコレクション・アイテムとして所蔵しているところが多い。
すなわち、慌ただしい現代にあって、ひとがつくり、ひとがもちいた、もっともプリミティヴな印刷機が熱く注目されている。前に進むために、ここはいったん立ち止まり、もっとも素朴かつ堅牢であり、印刷術、大量複製術の原点ともいえる「手引き式活字版印刷機」を再検証・再評価するときなのかもしれない。

エール交換 !!  朗文堂書籍

新刊書 ―― 『ハンドプレス・手引き印刷機』  板倉 雅宣著
既刊書 ―― 『VIVA !!  カッパン♥』 アダナ・プレス倶楽部 大石 薫著

    

VIVA !!  カッパン♥

アダナ・プレス倶楽部  大  石    薫 著
2010年5月21日発行   朗  文  堂
p.62  Column  コトとモノの回廊 #
05 より

 

アルビオン型手引き印刷機

「手引き印刷機 Hand Press」は手動で操作する印刷機の総称です。一般にはグーテンベルクがもちいたとされる印刷機のかたちを継承し、水平に置いた印刷版の版面に、上から平らな圧盤を押しつけて印刷する「平圧式」の活版印刷機の一種とされます。そのため、厳密には手動式であっても「Adana-21J」や「手キン」など、印刷版の版面が縦型に設置される「平圧印刷機 Platen Press」とは区別されます。

グーテンベルクの木製手引き印刷機(1445年頃)は、ブドウ絞り機をヒントに考案されたネジ棒式圧搾機型印刷機(Screw Press)であったとされますが、その活字や鋳造器具と同様に、印刷機も現存していないため、あくまでも想定するしかできません。
現存する最古の手引き印刷機としては、ベルギーのアントワープにある、プランタン・モレトゥス・ミュージアムの木製手引き印刷機が知られています。また、アメリカの政治家として知られるベンジャミン・フランクリン(1706―90)も木製手引き印刷機をもちいて印刷業を営んでいたことが知られています。

グーテンベルクの活版印刷機の時代から、その後350年ほどは、細かな改良は加えられたものの、1798年にイギリスのスタンホープ伯爵が、総鉄製の「スタンホープ印刷機」を考案するまでは、活版印刷機の基本構造そのものには大きな変化がありませんでした。
その後の著名な手引き印刷機としては、「コロンビア印刷機」「アルビオン印刷機」「スミス印刷機」「ラスベン印刷機」「ワシントン印刷機」「ハーガー印刷機」(以上年代順)などがあげられます。

[板倉雅宣著『ハンドプレス・手引き印刷機』 p.22-23より抜粋]
アルビオン・プレス(Albion Press)――英国のアルビオン・プレスは、コロンビアン型のレバー式加圧を改良し、加圧機構を肘張継ぎ手にしたもので、英国のコープ(Richard Whitta Cope)が1820年(文政3)に発明したというが、確かな資料がない。アルビオンの最も古い、確かな資料に1822年にパリの工場で輸入申請許可を得るために作成された図面がある。この最も古い機種の No.132 は[日本の]印刷博物館に所蔵されている。
1832年に新聞広告を掲載しているが、
「構造がシンプルで、軽量小型で、階上の狭い部屋でも設置できる」
と宣伝している。この特徴があるのでアルビオン・プレスは普及したものと思われる。
コープの工場のホプキンソン(John Hopkinson)は1842年に改良を加えている。ウィリアム・モリスはこの機種で『チョーサー著作集』を印刷したという。(中略)
アルビオン・プレスを製作していたホプキンソンの死後、その機種の模作を規制しなかったために、キャズロン社などの多くの活字鋳造所のほか、海外でもアルビオンを製造販売するようになった。

[編者曰く……活字版印刷術のように、きわめて古い歴史を有する機器にあっては、かつては特許や実用新案などの法整備も十分ではなかった。また機器の製造に不可欠な鋳型が、高熱鋳造による熱変形を生じたり、損傷すると、原製造所であっても継続生産が困難となるばあいが現在でもままみられる。したがって需要に応えるかたちで、このような複製機の製造がしばしばみられた。そのため活版印刷機器の関連業界では、原製造所の製品を正式呼称で呼び、複製機の製品を、ほとんどが原製造所への畏敬を込めて、製品名に『型』をつけて呼称することが多い]

写真の活版印刷機は、イギリスの活字鋳造所フィギンズ社による1875年製のアルビオン型手引き印刷機です。印刷機としての実用面だけでなく、アカンサスなどの植物模様や猫脚などに装飾の工夫がみられます。
「アルビオン Albion」とは、ちょうどわが国の古称「やまと」と同様に、イングランド(英国)をあらわす古名(雅称)です。ラテン語「白 Albus」を原義とし、ドーバー海峡から望むグレート・ブリテン島の断崖が、白亜層のために白く見えることに由来します。

アルビオン印刷機は、これに先んじてアメリカで考案された「コロンビアン印刷機」を改良した印刷機です。アメリカ大陸の古名「Columbia」の名をもつ「コロンビアン印刷機」は、1816年頃にクライマーによって考案され、加圧ネジをレバー装置に置き換え、圧盤をテコの応用で楽に持ち上げるための錘オモリが、アメリカの象徴である鷲の姿をしています。
「アルビオン印刷機」は、この「コロンビアン印刷機」をもとに、圧盤を重い錘オモリのかわりにバネで持ち上げるなどの改良を加え、1820年頃リチャード・W・コープ(?―1828)によって考案されました。

19世紀末には、すでに動力による大型印刷機が商業印刷の主流でしたが、アーツ・アンド・クラフト運動を牽引した、ウィリアム・モリスは、手工芸の再興の象徴として、手動式で装飾的なアルビオン印刷機をもちいました。また、石彫家にしてタイポグラファでもあったエリック・ギルも同型機をもちいていました。

わが国でも「アルビオン型印刷機」との付きあいはふるく、明治初期に平野富二が率いた東京築地活版製造所によって、アルビオン型(複製)の手引き印刷機が大量につくられました。また秀英舎(現・大日本印刷)の創業に際してもちいられた印刷機も大型のアルビオン型印刷機であったことが写真資料で明らかになっています。

タイポグラフィあのねのね*013 マインツとグーテンベルク

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烏兎匆匆 ウト-ソウソウ

うかうか三十、キョロキョロ四十、烏兎匆匆

先達の資料に惹かれ、おちこちの旅を重ねた。吾ながらあきれるほど喰い
囓っただけのテーマが多い。いまさらながら馬齢を重ねたものだとおもう。
文字どおり 「うかうか三十、キョロキョロ四十」 であった。中華の国では、
歳月とは烏カラスが棲む太陽と、兎ウサギがいる月とが、あわただしくすぎさる
ことから「烏兎匆匆 ウト-ソウソウ」という。 そろそろ残余のテーマを絞るときが
きた。つまり中締めのときである。 後事を俊秀に託すべきときでもある。お
あとはよろしいようで……なのか、おあとはよろしく……、なのかは知らぬ。
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活字版印刷術と情報は、水の流れにも似て……
五体と五感をもちいたアルチザンの拠点

近代活字版印刷術 Typographyの始祖
グーテンベルクの生没地 マインツは、
ライン河畔に沿った街

16世紀、マインツ市の繁華を描いた木版画。手前がライン川で、
マインツ市はその水運を利用した物資の集散地として繁栄した。


ドイツ、マインツ市のグーテンベルク博物館のサイン

1639年の印刷工房を描いた木版画。左手と中央奥に木製の手引き式印刷機があり、
右手奥が校閲者、右手手前が植字作業を描いている。

◎ グーテンベルク(Gutenberg, Johann Gensfleisch  c1399—1468)
あれをバブルと呼ぶのだろうか? 小社の刊行書が欧州でよく売れて、毎年秋にフランクフルトで開催されるブック・メッセに9年連続出展した。
下見に出かけた時を合わせると、10年連続して初秋のドイツに出かけたことになる。1週間のメッセ期間が終わると、狭い展示スペースで立ちっぱなしなことと、馴れない外国語漬けのせいで、ひどく疲労をおぼえた。その疲労回復を口実に、いそいそとマインツ(あるいはふるい大学都市で、良い古書店があったハイデルベルク)に向かった。
マインツは近代活字版印刷発祥の地であり、またその始祖・グーテンベルクの生誕と逝去の街でもあった。

¶ グーテンベルクは1440-55年ころ、ブドウ搾り機から想を得て、ネジ式木製手引き印刷機を製作、金属と親和性のある油性インキを開発、鉛合金活字を鋳造するなどして、近代活字版印刷術 Typography を創始したとされる人物である。ただし、老舗の店舗にもよくあるように、「元祖・家元・創始者」などとする説には異論もあって、オランダなどは、いまもって「グーテンベルク近代活字版印刷創始説」を肯んじてはいない。
それでもマインツには、グーテンベルクの住居・工房跡や、通称『42行聖書』、『カトリコン』などの印刷された書物はよく保存されている。しかし相次いだ内乱や戦乱のためもあって、建物の一部と書物はのこったが、印刷機器や活字そのものはまったく現存していない。印刷と書物という、複製術の威力を痛感させられる街でもある。

¶ グーテンベルクの生誕地、逝去地は、ともにドイツ西部、ライン川左岸に沿った、ラインラント・ファルツ州の州都・マインツであった。マインツはラインの水利を利用した商工業が盛んで、ワインの集散地でもある。1994年の人口は18万4千人と記録され、知名度が高いわりには、こぢんまりと、閑静な街でもある。
自動車もないこの時代はもちろん、創始者のときから数百年にわたって、印刷機はもとより、印刷用紙、活字など、相当の重量のある活字版印刷術は、水運の便のよい地で発達した。

¶ マインツには「グーテンベルク博物館 Gutenberg-Museum Mainz」があり、同館には『タイポグラフィ学会誌 01-04』、大日本印刷から提供された日本語活字組版なども収蔵されている。また本稿の執筆中(これがまた、実にモタモタとやっていた)に、『VIVA!! カッパン♥』(大石 薫 朗文堂  2010年5月11日)、『der Weg nach Basel, the road to Basel, バーゼルへの道』(ヘルムート・シュミット 朗文堂 1997年6月3日)がパーマネント・コレクション(長期保存)されたという嬉しい知らせもあった。また、かつて印刷を地場産業としていた新宿区が、マインツと「姉妹都市」の提携を結んでいたが、現在の事情は不詳である。

¶ 近年、マインツ市は歴史的建造物と景観保存に注力し、グーテンベルク屋敷工房(生家)、フストとシェッファーとの共同印刷工房、最後の屋敷工房、埋葬地などが碑文をもって顕彰されており、それらの地を逍遙ショウヨウするガイドマップも完備したので、意外なほど狭隘なグーテンベルク時代の街を訪ね歩くのも楽しい。もちろん15世紀のひと、グーテンベルクも、徒歩か、せいぜい馬車で動き回っていたはずであり、ほとんどの史跡は徒歩で十分な近接地にある。

◎ 『42行聖書 ラテン語』(Biblia, latina, 42lines ― the Gutenberg Bible.  Mainz : Printer of the 42-line Bible, Johann Gutenberg and Peter-Schoefer c1455)
近代タイポグラフィの始祖とされるグーテンベルクはマインツの中産階級の家にうまれ、もともと鏡をつくったり、貨幣鋳造(個人が貨幣をつくって良いかどうかはさておき……)などにあたる金属細工士であったとされる。1434年ころから居をストラスブールに移し、印刷術の創始に没頭し、1440年には最初の活字版印刷に成功したことが裁判記録から推測されているが、実物は現存しない。1445年ころマインツに戻って、自宅に工房を開設して、印刷術の完成のためにさらに試行錯誤を続けた。

¶ グーテンベルクは生涯に6種類の活字セット(フォンツ)を製作したとされる。最初に製造した素朴な活字は、かつては「36行聖書の活字」と呼ばれていたが、現代ではDKタイプと呼ぶことが多い。このDKタイプは、ドナートゥス『文法書』『トルコ暦』などの小型印刷物(端物印刷)にもちいられている。

¶ 「42行聖書の活字」と呼ばれるものは、マインツの実業家ヨハネス・フスト(?-1466)からグーテンベルクが多額の出資を仰いで、生家の近接地にあらたな工房を開き、またパリ大学を卒業した能書家ペーター・シェーファー(?-1502/03)を校閲係として雇用してから製造されている。このあたらしい活字をもちいて、1454年末から1455年はじめのころに、最初の近代活字版印刷による本格的な書籍となった『42行聖書』(ラテン語ウルガタ訳)を完成させたとみなされている。

¶ こんにち『グーテンベルク聖書』として親しまれているこの聖書も「グーテンベルク博物館」でみることができる。同書は博物館本館中央のゆるやかな回廊をゆっくりと下降し、次第に暗がりに視力がなれてきたころ、特製ケースのなかで、淡い照明のもとでみられる。歯がゆいのは、稀覯書キコウショのために仕方がないとはいえ、ここまで出かけてきても、たったひと見開きを、薄暗い灯りのもとで、ガラスケース越しでしかみることができないことである。「もっと見たい、ページを繰りながらすべてのページを見たい」と、たれしもがおもう(はずである)。

¶ この聖書が通称『42行聖書』とされるのは、各ページのほとんどの行が42行で構成されているためである。同博物館資料によると、初版はほとんどのページが42行で構成されているが、旧約聖書の巻頭部分が40-41-42行に変化しているとしている。ところが第2刷りになると、すべてのページが42行に揃えられている。すなわち、1ページあたり42行、2段組、2巻、あわせて1282ページ。第1巻には旧約聖書の冒頭から詩編まで、第2巻には旧約聖書ののこりの部分と、新約聖書のすべてが収録されている。

¶ 活字はゴシック体(テクストゥール、典礼書体)で、1フォントで、300キャラクター以上の使用が確認されている。アルファベットは26キャラクターで、その大文字、小文字で、都合52キャラクターで済むとおもっていたら大間違いである。活字版印刷術創始者のときから、1フォントに300キャラクター余を製作していたのである。また1ページあたりでみると、およそ3,700本の活字が使用されている。これがして、全ページを見たくなるゆえんでもある。

¶  『42行聖書』はヴェラム製(子牛・子羊・子山羊などの皮を薄く剥ソいで、鞣ナメして筆記用としたもの。本来は子牛の皮をもちいたが、高級羊皮紙と表記される。装本材料にももちいられる)のものが30部、紙製のものが150部、都合およそ180部が印刷されたと推定されている。
また刊行から556年後の現在、『42行聖書』は47部の存在が確認されている。そのうち12部がヴェラム刷りで、のこりの35部が紙刷りとされる。活字版印刷はすべてスミ1色刷りの両面印刷であるが、ヘッドライン、イニシャル、とりわけ2巻の新約聖書篇には、ルブリケーター(装飾士)による、手彩色の赤と青の装飾が美しい。わが国でも、慶應義塾大学図書館が数億円を投じて購入した2巻揃いを、また早稲田大学図書館が、原葉1枚を所蔵している。

◎  『カトリコン』(Catholicon  Balbus, Johannes. Mainz : Printer of the ‘Catholicon’ 1460)
なにもできなかったなぁ、と苦いおもいがするのが『カトリコン』である。かつて町田市立国際版画美術館が「西洋の初期印刷本と版画展」(図録『書物の森』 1996)を開いて、早大図書館資料『42行聖書 原葉1枚』が展示された。またこれもグーテンベルクの刊行とされる、明星大学図書館蔵、バルブスのラテン語辞典『カトリコン』とともに黒山のひとだかりであった。

¶ この書物にもちいられた小型の活字は「カトリコン・タイプ」とされ、グーテンベルクが最後に製造した活字とされて争いはないようだ。しかし『カトリコン』には異本が多く、また印刷者名の記名もないことから、印刷者の名前はグーテンベルクではなく、「カトリコン・プリンター Printer of the ‘Catholicon’」と称されることが多い。

¶ 「カトリコン・タイプ」に注目したのは、その活字鋳型の製造者をおもったからである。グーテンベルクの死後まもなく、マインツに大規模な内乱が発生し、弟子や職人は欧州諸国にばらばらになって離散した。突然襲った内乱に際し、かれらが携行したであろう活字鋳型(ハンド・モールド)が、「カトリコン・タイプ」と極めて近似していることに気づいたためである。
すなわち初期印刷者たちは、「36行聖書の活字 DKタイプ」、「42行聖書の活字」と同寸の鋳型ではなく、「カトリコン・タイプ」とほぼ同寸の、ちいさなサイズの活字鋳型を携行してマインツを脱出し、欧州各地でそれをもちいて、独自の活字版印刷工房を開設したのではないかとみている。
これは活字父型や活字母型、つまり活字書体の形象(デザイン)をいっているのではない。鋳型が近似しているということは、活字のサイズが近似し、行間にインテルを挿入することがすくなっかった当時、行の送りが近似することになる。

¶ つまり、マインツから四散した初期印刷者たち、すなわちニコラ・ジェンソンらは、マインツの、名もない金属職人が製造した鋳型をたいせつにかかえて、欧州各地に四散したのではないかとおもっていた。イタリアのスビアコで、ベネチュアで、そして全欧州で展開した初期活字鋳造と、活字版印刷は、マインツの鋳型ではなかったか? そんなおもいでインキュナブラ(15世紀後半の書物・揺籃期本)をみていた。
しかしながら『カトリコン』の原本は所有していないし、インキュナブラも所有していないわが身にとっては、想像・想定以上に研究がおよぶことはなかった。あとはお任せ……の次第である。

◎ 資料紹介(やつがれの参考書だった。ご希望のかたには喜んでお見せしたい)
『欧文書体百花事典』(組版工学研究会朗文堂 2003年7月7日)
『グーテンベルク』(戸叶勝也 清水書院 1997年8月27日)
『Gutenberg  Man of the Millennium』(City of Mainz, 2000)
『ヨーロッパの出版文化史』(戸叶勝也 朗文堂 2004年10月13日)
『書物の森へ――西洋の初期印刷本と木版画』
       (企画構成・発行/町田市立国際版画美術館 1996年10月5日)
『The Gutenberg Bible』(Facsimle Bibla Sacra Mazarinea. France 1985)

◎ ファクシミリ版 『The Gutenberg Bible』

あらためて上記に参考資料を整理してみた。ほかにも何冊かドイツ語の資料はあるが、ほとんど読んでないし、気休めにしかすぎなかった。すなわちたいした書物はもっていない。すこしだけ愛用した資料は1985年、フランスで発行されたファクシミリ版 『42行聖書』 である。
本書は、フォリオ判(38×28.5cm)、2巻、正確な複写版で、重さは7キロほどもある。装本は素っ気ないほど地味だが、すべてが子牛のなめし革による堅牢な製本で、ドイツの製本所が担当した。幸運な偶然から吾輩の手許に転がりこんできたが、ファクシミリ版とはいえ、当時50-70万円以上で販売されていた書物である。
それでも、これなら気軽に、全ページを繰ってみることができる。意外とあたらしい発見があるものである。なんだ、これしかないのか、とあきれないでほしいのだ。吾輩はこれらをまとめきることができなかった。烏兎匆々ウト-ソウソウとしたゆえんである。

タイポグラフィあのねのね*012 平野富二と李白 春夜宴桃李園序

活版製造所 平野富二の活字組み見本にみる
李白 春夜宴桃李園序

◎『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』の概略紹介
『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所平野富二 推定明治10年 平野ホール藏)を再再紹介してきた。これは、俗に『平野富二活字見本帳』(活版製造所 平野富二 推定明治9年 St. Bride Library蔵)、『改定 BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所平野富二 明治12年 印刷図書館蔵)とともに、冊子型活字見本帳としてはわが国最古級のものとされている。

『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所 平野富二 推定明治10年 平野ホール藏)は平野富二の旧蔵書であった。また筆跡からみて、平野富二の自筆とみられる書き込みが、一部に鉛筆によってしるされている。本書は平野富二の逝去後も、東京築地活版製造所に隣接した平野家に保存されていたが、1923年(大正12)関東大地震の火災に際して消火の水をかぶったため、表紙を中心に損傷がみられる。しかしながら貴重書として、平野家歴代にわたってよく保存され、こんにちなおその資料性を失っていない。

巻頭第Ⅰにみる木版画による本社社屋。

巻頭第Ⅱにみる小扉。円弧に沿って活字組版をするのは
相当の技倆を必要とする。

巻頭第Ⅲにみる本扉。たくさんの種類の活字をもちいた、多色刷り
となっており、4-6度刷り作業をおこなったとみられる。

第1ページにみる「第初號」[明朝体活字]
これは鋳造活字ではなく、木活字とみられている。

最終丁にみる刊記。住所と「活版製造所 平野富二」とある

◎『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』の造本仕様紹介

本文仕様    天地228mm×左右168mm(各ページに若干の異同有り)
輸入紙とみられる厚手の非塗工紙に片面刷り。
基本的にスミ1色刷り。扉・装飾罫ページには特色使用。
本文112丁 キリ状のもので2-4穴をあけ糸を通して綴ったものとみられ
る。穴の痕跡は明確に残るが、糸は存在しない。
最終ページに装飾枠に飾られた刊記あり。
「東京築地二丁目二十番地 活版製造所 平野富二」

装本仕様      損傷が激しく、推定部分が多いことを事前にお断りしたい。
装本材料、本文用紙などは輸入品とみられる。
芯ボール紙に代え、薄い木材片を表紙芯材として、表紙1-4に使用。
芯が木材とはいえ、皮をまいた、本格的な皮装洋装本仕立てである。
表紙1-2 オモテ表紙には、小扉ページと同様な絵柄が、空押し
もしくは、箔押しされたとみられるが、箔の痕跡はみられない。
BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO が楕円形で組まれ、
その中央に《丸に も》形のマークが月桂冠の装飾によっておかれ、
その中央にブラック・レターのHがある。最下部に、住所標記として
「Tsukiji Tokio. Japan」がある。
表紙3-4 ウラ表紙には、文字活字が印刷もしくは型押しされた痕跡は無い。
背にあたる部分は存在しない。

また、俗に『活字見本帳』(活版製造所平野富二 推定明治9年  St. Bride Library蔵)とされる活字見本帳は、10年ほど前までは英国St. Bride Libraryにあり、表紙の撮影だけが許されていた。しかし近年大勢出かけている留学生や旅行者の報告では、「収蔵書が多すぎて整理が追いつかなく、同書は収納場所がわからないので閲覧をお断りする」との回答が報告されている。St. Bride Libraryにはさまざまな経済的な荒波が襲ったと仄聞するが、その一刻も早い公開が待たれるところである。

『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所平野富二 推定明治10年 平野ホール藏)は、平野富二の曾孫にあたる平野正一氏が、関東大震災当時、平野家土蔵に収蔵されていて被害がなかった、膨大な平野富二関連資料(書画・証書・表彰状類が多い)の山を整理されたおり、その一隅から偶然、損傷の激しい本書を発見されて、公開されたものである。それを長らく小生が拝借してきたが、そろそろ平野家にお返ししないと、いくらなんでも心苦しい時期になってきた。それよりなにより、平野家から、本書の影印複製本の作成を許諾されているのに、いまだに図書販売環境にとらわれて、その刊行ができないでいることもあわせて心苦しいのだ。

◎東京本格進出5年後、32歳の平野富二の挑戦
『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』は、長崎のひと、若干27歳の平野富二が、六海商社ないしは五代友厚に「平野富二首証文」(嫡孫・平野義太郎記述、本ブログロール A Kaleidoscope Report 001-7 までを参照)を提出し、それを担保として創業資金を借財し、1872年(明治5)7月に「神田佐久間町三丁目の門長屋」(現在の秋葉原駅前・和泉公園の前あたりと推定される)に鋳造活字製造工場を設け、翌1873年(明治6)築地二丁目二十番地に煉瓦造りの工場を新築し、活字の鋳造ならびに関連機器の製造販売、すなわち、のちの東京築地活版製造所を創業したことに端を発する。

平野富二が築地川沿い、万年橋東角のこの地を、活字版印刷術関連機器製造販売、ならびに活字鋳造販売の本格展開の場所に選んだのは、これまで見落とされていた事実があったことが、『活字界』の連載を調査するなかから浮かび上がってきた(本ブログロール A Kaleidoscope Report 001-7 までを参照)。
すなわち1872年(明治5)2月26日、銀座・築地・日本橋周辺において大火災が発生し、折からの強風もあって、旧京橋区・旧日本橋区一帯が焼亡した。政府は同年7月布告を発して、この地区に再建される建築物を、できるだけ新技術で、耐火性にすぐれた、煉瓦造りにするように命じた。また同時に、東京・渋谷に火災の被害にあった墓地の移築を命じた。これが青山墓地のおこりとなり、さらに同年11月28日、雑司ヶ谷と駒込にも大型墓地を設けて、移築をなかば強制した。
この結果、築地本願寺は大きく敷地を削られ、付属する墓地のない現在の姿となった。また京橋区・日本橋区、すなわち現在の中央区には、墓地はもちろん、社寺地がいちじるしく減少して、一大町人地となった。それがして、こんにちの銀座一帯のきわめて繁華な商業地をもたらすおおきな原因となった。

すなわち、1873年(明治6)、28歳の青年・平野富二は、焼亡した広大な敷地のなかから、もっとも水運に恵まれた、築地二丁目二十番地、万年橋東角に、耐火性をおもんぱかって煉瓦造りの工場を新築し、活字版印刷術関連機器製造販売、ならびに活字鋳造販売、すなわちのちの東京築地活版製造所を創業したことになる。

さらに興味深い事実を指摘しておこう。平野富二が最初の拠点とした「神田佐久間町三丁目の門長屋」(現在の秋葉原駅前・和泉公園の前あたりと推定される)のすぐ裏には総武線の線路が走るが、かつてここには江戸城の外堀をなした運河があった。江戸末期の古地図(江戸切り絵図)を調べると、同所から、築地二丁目二十番地の前を流れていた築地川(現在は高速道路として利用)までは、相当な規模の舟が運航できたものと見られる。
活字の製造設備をはじめ、印刷・組版関連機器、活字などの重量はそうとうなものとなる。神田から築地への比較的近距離への移転とはいえ、自動車や起重機などの陸上交通機関が未発達なこの頃、同社の移転はもとより、その後の隆盛に向けて、水運の利便性は極めて重視されたことが想像される。

ところが、『活字界21号』(編集・発行 全日本活字工業会 昭和46年5月20日)で牧治三郎は、平野富二が求めたこの土地を以下のように紹介し、やがて野村宗十郎社長時代にこの地に1923年(大正12)に新築された本社ビルが、移転の当日に関東大震災に襲われただけでなく、方位学からみると「呪われたビル」であるとした。
《移転当時の築地界隈》
平野富二氏が買い求めたこの土地の屋敷跡は、江戸切り絵図によれば、神田淡路守の子、秋田筑前守(五千石)の中奥御小姓屋敷の跡地で、徳川幕府瓦解のとき、此の屋敷で多くの武士が切腹した因縁の地で、あるじ無き門戸は傾き、草ぼうぼうと生い茂って、近所には住宅もなく、西本願寺[築地本願寺]を中心として、末派の寺と墓地のみで、夜など追いはぎが出て、ひとり歩きができなかった。

しかしながら碩学の牧治三郎も、1872年(明治5)2月26日、銀座・築地・日本橋周辺に大火災が発生していた事実を見落としたようである。この大火後、前述のように墓地はもとより、社寺地は大きく減少している。また『実測東京全図』(地理局 明治11年)をみても、現在の中央区の区画は、関東大震災の復旧に際して設けられた昭和通りをのぞくと、ほぼ現在の区画に近い。すなわち、この周辺にはすでに江戸切り絵図の姿とは異なり、寺や墓地はなかったはずである。

もともと鋳物士(俗にイモジ)・鋳造業者とは、奈良朝からのふるい歴史をゆうする特殊技芸者であり、いわば験ゲン担ぎの職能人ともいえた。その系譜を継承した活字鋳造業者も、火を神としてあがめ、火の厄災を恐れ、不浄を忌み、火伏せの神・金屋子カナヤコ神を祭神とするきわめて異能な集団であったことは報告(A Kaleidoscope Report 002)した。
平野富二と初期東京築地活版製造所の面々も、陽の力、すなわち太陽がもっとも低くなる冬至に際し、「鞴フイゴ祭、蹈鞴タタラ祭」を催し、強い火勢をもって祭神に「一陽来復」を願っていた。したがって、かれらは猛火の火によって十分に除霊されたこの地を、機械製造や活字鋳造に最適な場所として選んだとみてよいであろう。

同社の創業当時の社名は様々に呼び、呼ばれていたようである。本書口絵に相当する板目木版画には、右端にちいさな看板が紹介されているが、そこには「長崎新塾出張活版製造所」とある。かれらは東京進出後もながらく、「長崎の新街私塾[長崎新塾]が、東京に出張して開設した活字版製造所」という意識があったものとみられる。このように、同社は設立当初から、廃業に追い込まれる1838年(昭和13)の直前まで、長崎系人脈と長崎系資本との密接な関係がみられた。そしてその人脈と金脈が枯渇したとき、同社は巨木が倒れるようにドウと倒れたとみてよいだろう。

また同書巻末の刊記には「東京京橋二丁目二十番地活版製造所 平野富二」とあるが、発行日は記載されていない。同書が推定明治10年版とされるのは、紹介されたカレンダーの年号からと、本書の改訂版が明治12年に発行されているためである。いずれにしてもこの時代は、平野活版所ないしは平野活版製造所、あるいは単に活版所と呼ばれることが多かったようである。

そろそろ平野家にお返しする(つもりだ)から、名残り惜しくて、しばしば『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』を開いてはため息をつく。その都度、いまでもあらたな発見がある。紹介された印刷関連機器、さりげなく置かれた装飾罫、欧文活字の招来先、印刷されていない込め物の分割法、そして活字書風などである。
そもそもこの時代には、まだ「明朝体」をふくめて活字に定まった名称はなかった。『本木昌造伝』島屋政一の報告では、「長崎活字・平野活字・崎陽活字・近代活字」などとさまざまに呼ばれていたようである。活字の書体名として「明朝風」ということばがはじめて登場するのは、1875年(明治8)本木昌造の逝去を報じた、福地櫻痴筆とみられる『東京日日新聞』「雑報」が最初であることは報告した。

『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』では、漢字活字、和字活字(ひら仮名・カタ仮名)、欧字活字(欧文)は明瞭に切り分けられて紹介されている。むしろ現在のデジタル・タイプの環境下のように、明確な根拠もなく普遍化? した「漢字書体に随伴する仮名書体」、「従属欧文」という考え方などよりも、ある面では明確かつ明快といえるかもしれない。
『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』の漢字活字の文例は、よく知られた『李白 春夜宴桃李園 序』が、すべての漢字活字書体および漢字活字サイズの紹介に使用されている。
漢文紹介とその読み下しには、異本紹介や、異論がつきものだが、ここではいちおう、はるかな昔、漢文の教師(古ッ)が抑揚たっぷり、朗々と吟じた名調子を思いだしながら紹介したい。
そこで思いだしたことがひとつ。この李白を引いたとされる松尾芭蕉『奥の細道』を指導した古文の教師(古ッ)は、過客をカ-キャクというか、むしろ明けガラスの鳴き声のように「クヮ-キャク」と読んでいた。漢文の教師は故事成句にならって「カカク」といっていた。それをどこにでもいる勘違い男が、どちらの教師にか忘れたが、「クヮキャク」と「カカク」の違いに関して余計な質問をして食い下がっていた。そんなものは自分で辞書でも調べろ、とおもって鼻をほじっていたが、いまもってどうでもいい気がしないでもない。

第5ページにみる「第3号」[明朝体活字]。第3号からは
李白『春夜宴桃李園 序』が全文にわたって紹介されている。

長崎造船所出身の平野富二は、造船と機械製造にすぐれた手腕を発揮した。
ともすると東京築地活版製造所は
活字を中心に語られるが、はやくも1873年(明治6)
6月には、同社は上図のような、英国製を摸倣した国産機、アルビオン型手引式活字版
印刷機を製造・販売していたことが、諸記録からあきらかになっている。したがって
『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所平野富二 推定明治
10年 平野ホール藏)は、上図のような国産印刷機で印刷したものとみなされる。

◎盛唐の詩人・李白(701-62年)の序文『春夜宴桃李園 序』
「春の夜に、桃李トウ-リ、モモ-ヤ-スモモの園にて 宴ウタゲをする の 序」

◎ 江戸の俳人・松尾芭蕉(1644-94年)『奥の細道』
「月日は百代の過客カカクにして、行きかう年トシもまた旅人なり。舟の上に生涯をうかべ 馬の口をとらえて老オイを迎える者は、日々旅にして旅を栖スミカとす」

*     *     *

夫天地者萬物之逆旅     夫れ 天地は 萬物の逆旅ゲキリョ、タビ-ノーヤドにして
光陰者百代之過客      光陰は百代の 過客カカク、トオリスギシ-ヒト、タビビトなり
而浮生若夢      而して 浮生フセイ、ウキヨは 夢の若し
爲歡幾何          歓ヨロコビを為すこと 幾何イクバクぞ
古人秉燭夜遊     古人は 燭を秉トり 夜に遊ぶ
良有以也       良マコトに 以ユエ有る也ナリ
況陽春召我以煙景   況イワんや陽春の我を召すに 煙景エンケイを以てし
大塊假我以文章          大塊タイカイの我を仮すに 文章を以てする
會桃李之芳園     桃李トウリの芳園ホウエンに会し
序天倫之樂事     天倫テンリンの楽事ラクジを序す
群季俊秀       群季グン-キ、ムレヲナスの俊秀シュンシュウは
皆爲惠連       皆惠連ミナ-ケイ-レンたり
吾人詠歌       吾人ゴジン、ワレワレの 詠歌は
獨慚康樂       独り康樂コウガクに 慚ハじる
幽賞未已       幽賞 未だ 已ヤまざるに
高談轉清       高談 転たウタタ、ツギツギ-ト 清し
開瓊筵以坐花     瓊筵ケイエン、ブンガ-ナ席を開いて 以て花に坐し
飛羽觴而醉月     羽觴ウショウ、サカヅキを飛ばして 月に酔う
不有佳作       佳作有らずんば
何伸雅懷       何ぞ雅懷ガカイ、フウガナ-ココロを伸べん
如詩不成       如しモシ 詩成らずんば
罰依金谷酒數     罰は 金谷キンコクの酒の数に 依らん

タイポグラフィあのねのね*011 活字書体判断3原則 判別性・可読性・誘目性

活字書体判断における三原則

1.  判 別 性  Legibility    レジビリティ
活字書体におけるほかの文字との差異判別や、認識の程度。

2. 可 読 性  Readability   リーダビリティ
文章として組まれたときの語や、
文章としての活字書体の読みやすさの程度。
3.誘 目 性  Inducibility     インデューシビリティ
視線を補足して活字書体などの情報に誘うこと。
またはその誘導の程度。

★   ★   ★

これらの外来語由来のタイポグラフィ専門用語は、耳慣れないことばかもしれない。また、本来は活字版印刷術 ≒ タイポグラフィの業界用語であったから、簡易版の英英辞典や英和辞典には掲載されていないものがあるし、紹介があっても混乱しがちである。

したがって、その翻訳語としての紹介(日本語)は混乱の極地にある。なにも外来語をありがたがるわけではないが、近代活字版印刷術 ≒ タイポグラフィが、江戸最末期から明治初期に海外諸国から招来されたため、その基本用語のおおくが外来語になっている。それは現代のパソコン業界用語とされる、 PostScript, PDF, DDCP など、もはや翻訳語すら追いつかなくなった現状に鑑みたら仕方ないことだろう。
そのためもあって、わが国における活字書体の差異判別や特徴をかたることばは混乱しがちであり、あいまいな感覚語をもちいたり、共通基盤を有さない印象論が大手をふるってかたられている。しかしこれらのことばは活字書体の評価や判断にあたってたいせつなことばである。タイポグラファなら、あるいはタイポグラファたらんとする有志の皆さんは、ぜひとも記憶していただき、適切に使用していただきたい。

《 詳 細 解 説 》

《判別性 Legibility レジビリティ》
判別性は、大文字の「B」が、数字の「8」に見えたりするときや、大文字の「I」 アイ、小文字の「l」 エル、アラビア数字の「1」イチがはっきりと区別できなかったり、大文字「O」オーと、数字の「0」ゼロが明確に区別・判別・識別できないときなどにもちいられる。わが国では、漢字の「網」と「綱」、「ー」オンビキ、チョウ- オン-フ と「-」ダッシュの差異判別や、カタ仮名の「ロ」 ロ と、漢字の「口」 クチが見分けられるように、活字を製作したり、それを議論するときなどにもちいられる。Legibility の和訳語はなかなか定着せず、従来は可視性・識別性・視認性などともされてきた。

Legibility は形容詞 legible から派生した名詞で、文字が読みやすいこと、文字の読みやすさ、文字の判別や識別の程度――判別性・識別性などをあらわす。活字版印刷術が創始されてから間もなく、すなわち1679年にその初出がみられる。形容詞の legible は、筆跡や印刷された文字が、看取される、判別可能な-という意味である。そのほかにも、容易に読める、読みやすいという意味で、後者の比較語(confer)としては readable がある。

こうした判別性を、19世紀末から20世紀初頭に活躍した、英国のタイポグラファのエリック・ギルは、
「A は A、B は B である」
というフレーズをしばしば挑発的に口にしたとされる。また著書『エッセイ・オン・タイポグラフィ』にも各所にしるしている。この「A は A、B は B である」とは、たとえば A という文字を成立させている、画線の組合せでしかない図形を、どう書けばもっとも A らしくなるのかということである。逆にいえば、A を構成しているどの線をどう歪め、どうくずせば A ではなくなるのかという、字体(文字の骨格)の限界の追求を、アルファベットのすべてについて試みることであろう。

文字が成立した長い歴史におもいをはせれば、文字誕生の神秘とその洗練の過程には、確たる文字の姿(字体)を獲得するにいたった人間の工夫と、そのために「定まった字型 Type」をもつ活字のはたした役割の重要性に気づくはずである。文字はひとしく万人のものであり、それゆえに公的な存在であり、その最大多数が迷うことなく、ひとしく判別できる字体(文字の姿・骨格)を探し出す努力は、タイポグラフィの実践者や、活字書体設計にたずさわる者にとっては、基本的な問いかけといえよう。

《可読性  Readability   リーダビリティ》
可読性とは、漢語調で、いかにもふるくからあったという語感で納得させられるが、意外にあたらしい活字版印刷界の業界用語である。もとはドイツ語で Lesbarkeit の英訳語の名詞で、読みやすいこと、読めること、可読性という意味と、面白く読める、面白く書いてあることをあらわすのが原義である。

英語での Readability の初出はあたらしく、 1843年にはじめての使用をみる。わが国ではおそらく明治期に、たれかが Readability に「可読性」という、じつにうまい訳語をあたえたものと想像される。『広辞苑』には 「かどく-せい 【可読性】 読み取れる性質・度合い」 とされている。また一部にこれを「速読性」としたいというむきもある。

1980年代後半、アナログからDTPへの過渡期――技術の継承期――には世界規模での混乱がみられた。そのころ膨大に出版されたアメリカの資料の一部には、レジビリティはフォントを表わし、リーダビリティはファンクションを表す――などという記述も見られた。なにをいっているのか分からなくなる記述が出現し、困ったことに、いまでもそうした資料を引くむきがみられる。

要するにこのことばは、文字の見分けやすさと、文字の読みやすさのこと。つまりタイポグラフィの基本的役割に関わる用語である。したがってタイポグラフィ関連やデザイン関連の洋書に触れると頻出するので、あらためて確認していただきたい。すなわち、あまりこれらのことば自身を難しく考えないで、むしろタイポグラフィの基本的な役割が「文字の見分けやすさと、その読みやすさ」であることを確認したいものである。

《誘目性  Inducibility   インデューシビリティ》
英語の形容詞 「Inducible = 誘致[誘引]できる;誘導できる;帰納できる」の名詞形である。名詞形の Inducibility としての初出はきわめてふるく、印刷術の創始から間もない1643年のこととされる。すなわち「視線を補足して、活字書体などの情報に誘うこと。またはその誘導の程度」をあらわすために、活字版印刷の業界用語として登場したので、簡易版の英英辞書、英和辞書などには未紹介のものが多いようである。

誘目性が重視されるのは、サインデザインや広告の世界が多い。空港や駅頭で、的確な情報を提供し、そこに視線を誘導することは、文字設計者の重要な役割でもある。またポスターやカタログなどの商業広告においても、旺盛な産業資本の要請にこたえて誘目性を重視した書体も開発されてきた。

産業革命以後、この誘目性が活字書体設計に際して「ディスプレー書体」などとして強く意識されるようになり、黒々とした、大きなサイズの活字が誘目性に優れているという誤解も生じた。しかしながら、もともと「Display」は動物の生得的な行動のひとつで、威嚇や求愛などのために、自分を大きく見せたり、目立たせる動作や姿勢のことで、誇示・誇示行動をあらわす。

もちろん、現代では「Display」は、表示・展示・陳列などの意でも用いられるし、コンピューターの表示・出力として、図形・文字などを画面に一時的に表示する装置にも用いられる。ところが原義とは怖ろしいもので、ディスプレー書体の多くは、誘目性を過剰に意識するあまり、あまりに太かったり、奇妙・奇抜なデザインに走って(判別性と可読性に劣ったために)、一過性の流行の中に消滅してしまったものも少なくはない。活字の世界で求められるのは、まず第一義的には、判別性と可読性であり、誘目性はむしろ抑制したほうが無難なようである。

ところが近年、バリア・フリーの考え方が進化して「ユニバーサル・デザイン」が提唱されるにおよんで、電子活字書体の一部が「UDフォント」などと称しはじめた。ここでの文字情報の役割は、判別性とともに、誘目性が重視されるようになった。まだわが国の「UDフォント」は開発の第一段階にあるようだが、ここにあげた《活字書体判断における三原則》に立ち帰り、地に足のついた、真の「UDフォント」の開発をめざして、進化・発展して欲しいものである。

タイポグラフィあのねのね*010 江川次之進とアルビオン型印刷機

江川活版製造所と江川次之進
タイポグラフィあのねのね*008
その後のおもわぬ展開
Aloha, 江川製 Albion Hand Press

《ハワイから Aloha! の @メールに 吃驚仰天!》
このブログロール「花筏」は、締め切りもなく、また、ほとんどなんの制約もなく、のんびり、ゆっくり書き進めようとおもっていた。しかしながら、なにぶんデジタル弱者ゆえ、ブログの構成はきわめて拙いし、まして、やつがれの拙文では、おおかたの評価はないものとおもっていた。ところが意外に熱心な読者がおられて、「最近、アップの速度が少し落ちていますね。なにぶんわたしは激甚被災地にいますので、書物も読めなくなって、『花筏』を読むことを楽しみにしていますから、もっとアップを!」という東北地方居住のかたからの@メールや、記述の齟齬や遺漏への、建設的かつ率直なご指摘・ご提案を、リアルタイムでいただけるのはうれしいことだ。

とりわけ前掲の「タイポグラフィあのねのね*008」には、「江川活版製造所がなにかと気になっていたのですが、やはり資料は少ないようですね」などと、若い読者からのお便りもたくさん頂戴した。そんな情報のひとつに、Website情報、「書体の覆刻--『日本の活字書体の名作精選』の制作にまつわることなど」(小宮山博史)に、「江川活版三号行書仮名の存在があった。これはかつてどこかで読んだ記憶もあったが、デジタル仮名活字の覆刻(かぶせ彫り)制作の経緯をのべたもので、興味深く読ませてもらった。小宮山氏もやはり文中に、「江川活版製造所の本格的活字見本帳は実見したことがない」ことを述べていた。

やつがれも印刷図書館所蔵の花形活字(オーナメントなど)の小冊子はみているが、やはり文字活字のまとまった資料に接したことはない。むしろ、江川活版製造所の広告資料などと比較しても、関西系の業者の活字見本帳のなかに、あきらかに江川活版製造所の摸倣活字とみられる例をみることのほうが多い。したがって江川活版製造所の資料不足は、一朝一夕には解消しないようだ。しかしながらやつがれの経験上、たれかが問題提起をし、それを根気よく続けていると、必ず、どこからか、資料や情報の提示があるものだ。いまはしばらく、引き続いて江川活版製造所の問題にかかわっていきたい。

ところで、「タイポグラフィあのねのね*008」に、『直系子孫によって発掘された江川活版製造所:江川次之進関連資料』をアップして間もなく、ハワイから一通の@メールを頂戴した。これには腰を抜かすほど吃驚仰天ビックリ-ギョウテンした。またやつがれが、そこで江川活版製造所関連資料の不足を嘆いたために、友人・知人から、資料提供や、資料の所蔵先を紹介いただいた。
そもそも「Websiteとは Interactive インタラクティブ だ」とされる――これはInter とActiveの合成語か? すなわちコンピューター業界用語では「対話方式の」であり、Interactively では、「相互に作用して、互いに影響しあって」の意とされる。ツイッターをやるにはチト恥ずかしいし、まずもって携帯電話を「無用の長物なり」として処分したほどのアナログ派のやつがれには、この程度の軽便なブログロールが「相互に作用して、互いに影響しあって」いて手頃なようだ。

アルビオン型手引き印刷機を紹介した『VIVA!! カッパン♥』
(アダナ・プレス倶楽部 2010年5月21日 朗文堂)
1875年英国の活字鋳造所フィギンズ社製造。写真のマシンはLiugua Florence 所蔵。
まずここで、アルビオン型手
引き印刷機の概略と歴史を知っていただきたい。

2011年5月16日、ハワイで個人印刷工房マノア・プレスを主宰されている、ジェームス・ランフォード(Manoa Press, James Rumford)氏から@メールが到着した。
Dear Robundo,
I am sorry that my Japanese is not very good.  I only can read a little bit.
I wanted to tell you about my printing press, an Albion, made by Egawa around the year 1900. It came to Hawaii before World War II, and so survived the war.

どうして日本語だけの本稿を、ジェームス氏が読み解いたのかわからぬまま、やつがれも、まもなく返事をジェームス氏に送った。向こうが母語たる英語でしるしてきたから、こちらも最初の2行を別にして、すべてやつがれの母語たる日本語でしるした。
Dear James,
I am sorry that my English is not very good.  I only can read a little bit.
あなたからのお便りにとても驚き、嬉しくおもいました。江川活版製造所がアルビオン型活字版印刷機をつくっていたという記録はみたことがなく、まして1900年(明治33)ころに製造されたとする、江川活版製造所のアルビオン型手引き印刷機が、はるばるとハワイにわたり、第二次世界大戦の被害もなく、いまも大切に保存・使用されていることを知って、ほんとうに嬉しくおもいます。

マノア・プレスの 江川活版製造所製アルビオン型手引き印刷機
正面 江川の文字と商標 がみられる。

マノア・プレスの 江川活版製造所製アルビオン型手引き印刷機
背面 旧日本海軍艦隊旗がみられる

マノア・プレスの 江川活版製造所製アルビオン型手引き印刷機 側面
頭頂部にバネを内蔵した突起がみられるのが、アルビオン型手引印刷機の特徴。

木製とおもわれる部材に刻印された、江川の商標 と社名。マノア・プレス蔵。

その後 マノア・プレス のランフォード氏との@メールのやりとりが続いている。かれは1900年(明治33)ころに、江川活版製造所がつくった アルビオン型手引き印刷機 を所蔵 しているという。 なぜだかしらないが、ランフォード氏は語学がやたらと巧みで、アラビア語や中国語を相当読みこなせるらしい。しかも日本語でも漢字を拾い読みして、大方は理解できるらしい。したがってやつがれが苦手とする「漢文調?」の文章で日本語をしるすと、理解しやすいそうである。――日本語の根底には漢文がドテッと居座っているからか……。
それでも理解できない部分は、ハワイ在住の日系人に翻訳してもらっているとのことである。またランフォード氏は、ちょうど日本語の習得につとめていたので、「花筏」をテキスト代わりとして、日本語学習のテキストとして読みすすめているそうである。やつがれの拙文がテキストではチョイと困ってしまうけど。

また、マノア・プレスのWebsiteには、米国映画『HAWAII』の動画サイトYou-Tubeへのリンクがある。『HAWAII』は、『サウンド・オブ・ミュージック』のエーデル・ワイスの曲でお馴染みの女優/ジュリー・アンドリュースと、『偉大な生涯の物語』のマックス・フォン・シドーが主演しているが、現在では人種問題の扱いなどに問題があって、あまり上映されない映画のようである。その分You-Tubeにはたくさん紹介されているが、『HAWAII-Part 10』 の開始からしばらく、5-6分ころにかけて、なんと、くだんの江川型アルビオン型印刷機が画面に登場する。
映画のなかでの印刷作業の手つきは、手引きというより、手押しになっていて怪しい。(そういえば、渥美清の寅さんの映画でも、裏のタコオヤジのアオリ型円圧活字版印刷機の操作が怪しくて辟易ヘキエキしたが……)。ジェームス氏にもまだ十分に確認していないが、ともかくここに登場する、まぎれもないアルビオン型印刷機は、わが国の江川活版製造所が製造したものとされているのには驚いた。

しかもである。ジェームス氏は小社のWebsiteから、例年5月のGウィークに開催されていた「活版凸凹フェスタ」のことを知ったらしい。そして、今年は東日本大震災の被害者をおもんぱかり、また、活版実践者の精神的衝撃が深刻で、製作に集中しがたい状況を考慮して、苦渋の検討を重ねた結果、開催中止を決断したことを知ったという。
そして、被害者の皆さんの一刻も早い災害からの復興を望むとともに、日本での活版実践者とそのファンとの交流のために、来年5月開催予定の「活版凸凹フェスタ」に、「ハワイに渡った江川活版製造所製のアルビオン型手引き印刷機」を持って来日したいのだという。江川アルビオンはおよそ500パウンド、250キロ。すなわちハワイ出身の巨漢力士だった小錦ふたり分ほどの重量だそうである。ジェームス氏、ともかくすごい熱のいれようだ。

《調査不足を猛省! 明確な記述があった江川手引き印刷機》

『印刷雑誌』(第1次 明治24年10月号-12月号掲載)
社名の前の行に「●改良手引ハンド(八ページ・四ページ)製造販売」とある。
これは江川活版製造所が手引き式印刷機―アルビオン型?を
製造・販売をしていたことを想像させる記録であった

上記の図版は「 タイポグラフィあのねのね*008」にも紹介したものである。その際、キャプションとして、
「『印刷雑誌』(第1次 明治24年10月号-12月号掲載)。主要書体は、新鋳造の「江川行書」活字である」
とだけ紹介した。ここでのやつがれは、ついつい江川行書のインパクトに引きずられて、活字印象だけをかたっていた。すなわち江川行書活字は、明治初期のひとびとのあいだに、まだ、篆書・隷書・行書・草書・楷書などの読み書きの素養があった時代に誕生した、きわめて勁烈な筆運びの活字書体である。すべからく、活字書体や書風とは、時代の風や空気を背景として誕生する。その見本のような活字書体が江川行書活字であった。したがって現代の視点では、むしろその勁烈さゆえに、あまりに強すぎる活字書体とみられていた。

しかもそれを実際にテキストとして読もうとすると、行書活字はともかく、それに組み合わされた仮名書体、なかんずくひら仮名異体字(変形仮名)の読み取りに苦労することになり、活字印象派の諸君のように、活字の影印印象だけをかたって、その記述内容の紹介は誤謬をおそれておろそかにした。そこで今回は引用図版から、誤謬をおそれず、ひら仮名交じりの現代文に直しながら全文を紹介しよう。

諸賢のますますのご清適を賀し奉りそうろう。さて、拙者製造の行書活字は、発売以来ことのほかご好評をこうむり、需要日に増加し、業務繁栄におもむき千万センバン、ありがたく謝し奉りそうろう。そもそも右行書活字の義は、筆力遒勁シュウ-ケイ、トテモ-ツヨイ、おのずから雅致あるをもって、これまではおもに名刺に用いられ、大いに江湖コウコ、セケンの喝采を博し、石版[印刷]よりも尚鮮美なりとの高評を辱ふせられそうろうところ、右は独り名刺のみならず、書籍そのほか広告文などに御用いになられることそうらはば、更に美妙に之あるべくそうろう間、多少を論ぜず陸続倍旧ご注文仰せ付けくださるよう希望奉りそうろう              敬 白

追白 右行書活字の義は、拙者種々シュジュの困苦を嘗め、経験を積み、莫大の資本を費やし、明治20年の頃より活字母型製造に着手し、ようやく発売の運びに至りそうろう処、昨今大坂地方にて右に類似の活字を製造販売致し居りそうろう者之有り趣オモムキにそうらえども、右はみずから巧拙、良否の区別之有り。拙者製造のものとは、大いに相違致しおりそうろうあいだ、御購求の際は呉々もご注意然るべしと存じ奉りそうろう也
●改良手引ハンド(八ページ/四ページ)製造発売
東京日本橋区長谷川町
江  川  活  版  製  造  所
大坂東区本町二丁目堺筋
東 京 江 川 支 店 朝 日 堂

やつがれは恥ずかしいことに、この江川活版製造所の広告を何度も見ていながら、そこに、
「●改良手引ハンド(八ページ/四ページ)製造発売」
とある、重要な記録を見落としていた。すなわちタイポグラフィを総合技芸として把握する努力を怠っていたことを猛省させられた。もしかするとこの手引ハンドとは、ハワイのマノア・プレスに現存する「江川アルビオン型活字版印刷機ハンドプレス」のことであることも想像された。

また手引きハンドプレスのチェース、すなわち印刷版の収納サイズをあらわす、八ページはB3判ほど、四ページはB4判ほど、とおもってよいだろう。ここでの手引き印刷機とは、現代の事務用コピー複写機程度のちいさな印刷機だったとみてよい。
ただし、後述する『開拓者の苦心 本邦 活版』(三谷幸吉執筆 津田三省堂 昭和9年11月25日 p173-180)に紹介された、江川活版製造所における活版印刷機関連の記述をみると、同所は明治24年(1891)には、まだ活版印刷機を製造する態勢を築いていたとはおもえない内容である。推測ではあるが、活字の供給と同様に、すでに同型機を製造・販売していたことが、さまざまな資料から類推される、東京築地活版製造所から、現在のOEMのような状態で供給を得た可能性のほうが大きいとみたい。

明治二十五年[1892]大阪中島機械工揚が、初めて四頁足踏ロール印刷機械を製造したが、大阪でも東京でも購買力が薄く難儀したので、東京の販売を江川氏に依頼した。

また、マノア・プレスのジェームス・ランフォード氏は、ハワイの同型機を1900年ころの製造としている。そうすると三谷幸吉の紹介する本林機械製作所の製造によるものである可能性があることになる。

明治三十三年[1900]築地二丁目十四番地に、江川豊策氏を主任として、且つて築地活版所にいた本林勇吉氏を招聘し、本林機械製作所を開設して、印刷機械の製作にも従事するようになった。

『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』
(平野富二 推定明治10年 平野ホール藏)
本書は平野富二の旧蔵書で、ところどころに自筆の鉛筆の書き込みがみられる。
関東大地震で消火の水をかぶったが、なんとか修復してある。
管窺に入る限り、本邦唯一本である。

同書口絵ページ、板目木版印刷
看板の商号は「長崎新塾出張 活版製造所」であり、同社には最初から最末期まで
長崎の「新街私塾から出張ってきた活版製造所」との意識があった。

同書小扉ページ 金属活字を円弧に組版するのは、昔も今も相当の技倆を必要とする。
MOTOGI & HIRANO 両氏の名前を強調している。住所は Tsukiji Tokio. Japan である。

同書本扉ページ 活字版多色刷り印刷。
平野富二の東京進出から6年ほどだが、19世紀のタイポグラフィに特有の
一行ごとに書体と刷り色をかえるなど、
高度な組版・印刷技術である。

同書「第初號」とされた、木活字による初号明朝体。
まだ鋳造技術が未熟で、大型活字のツラに「ヒケ、オチョコ」の発生を防げず、
初号・一号は木活字を使用していた。

巻末部に紹介された活版印刷関連器機。
これらの器機は現在でもほとんどが使用されている。

巻末部に紹介された活版印刷関連器機。
これらの器機は現在でもほとんどが使用されている。

平野富二と東京築地活版製造所が明治10年ころから
アルビオン型手引き印刷機を意識し、
それを摸倣して製造? していたことをうかがわせる図版。
この図版とほぼ同一の、同社製のアルビオン型手引き印刷機は、現在でも
長崎印刷工業組合、水野プリテック、府中歴史博物館などに現存する。

欧文活字収納用ケース

木製部材と金属を併用したプレス機。

《江川活版製造所の印刷機械製造の記録》
ここでふたたび『開拓者の苦心 本邦 活版』(三谷幸吉執筆 津田三省堂 昭和9年11月25日 p173-180)「行書体活字の創製者 江川次之進氏――敏捷奇抜の商才で成功す――」から、活字鋳造と、大坂方面における「種字盗り」の記録、印刷機の製造・販売に関する記録の部分を紹介しよう。

明治十九年[1886]、業務拡張の為に、日本橋区長谷川町に引移った。其年著名な書家其頴久永氏[久長其頴 ヒサナガ-キエイ 書家 詳細不詳 乞! 情報提供]に改めて行書種字の揮毫を依頼し、此に初めて現今伝わっている様な行書々体が出現することゝなったのである。

斯くて此間三、四年の星霜を費やして、漸く二号行書活字を完成し、次ぎに五号行書活字も完備することゝなったので、明治二十一年[1881]秋頃から、「江川の行書」として市販し出したところ、非常に人気を博し、売行亦頗ぶる良好であったと云う。明治二十五年[1892 ]十一月十五日引続き三号行書活字を発表した。

然るに昔も今も人心に変りがないと見え、此行書活字が時好に投じ、前途益々有望であることを観取した一派は、窃ヒソカにこれが複刻[いわゆる種字盗り]を企画するにいたり、殊に甚だしきは、大阪の梶原某と云う人が、凡ゆる巧妙な手段を弄して、行書活字を買い集め、これを種字となして遂に活字として発売したから、此に物議を醸すことゝなった。即ち江川では予め行書活字の意匠登録を得ていたので、早速梶原氏に厳重な抗議を提起したが、その結果はどうなったか判明しない。

これより前、明治二十二年[1889]に横浜伊勢崎町で、四海辰三外二名のものをして活字販売店を開かしめ、同二十四年[1891]、大阪本町二丁目にも、淺岡光をして活字販売店を開設せしめ、地方進出に多大の関心を持つことゝなった。

明治二十五年[1892]大阪中島機械工揚が、初めて四頁足踏ロール印刷機械を製造したが、大阪でも東京でも購買力が薄く難儀したので、東京の販売を江川氏に依頼した。商売に放胆な江川氏は、売行の如何を考うるまでもなくこれを快諾したそうである。同二十六年[1893]、長男貫三郎氏の異兄をして福井県三国町に支店を開かしめ、続いて廿七年[1894]山田朝太郎氏に仙台支店を開設せしめた[江川活版製造所仙台支店は江川活字製造所と改組・改称されて、仙台市青葉区一番町1-15-7で2003年頃まで営業を持続して、東北地区一円の需要を担った]。

尚二十九年[1896]には、隷書活字の創製所たる佐柄木町の文昌堂(元印書局の鋳造部技手松藤善勝氏村上氏等が明治十三年[1880]に設立したもの)を買収したる外、松山氏に勇文堂、柴田氏に勇寿堂を開店せしむる等、巨弾又巨弾を放って販路の拡大に努力する有様、他の同業者の心胆を寒からしめた由である。

明治三十三年[1900]築地二丁目十四番地に、江川豊策氏を主任として、且つて築地活版所にいた本林勇吉氏を招聘し、本林機械製作所を開設して、印刷機械の製作にも従事するようになった。

ここで、真田幸文堂から提供いただいた、江川活版製造所の印刷機に関する新資料を紹介したい。この記録は明治の末、上野池之端で大々的に開催された「東京博覧会」の記録である。ここには江川活版製造所の活版印刷機の写真が、不鮮明ながら石版印刷で紹介されている。
また江川長体明朝の数少ない資料として『印刷世界』から、活字広告を紹介しよう。このような埋もれていた記録が、これからも陸続と紹介できそうで楽しみなことである。また、板倉雅宣氏は2003年ころより手引き印刷機の所蔵先の調査をされている。この本格的な発表もまたれるいまである。

「江川の印刷機械と國華社の美術木版」『東京博覧会大画報』
(第6巻第3号 冨山房 明治40年 真田幸文堂蔵)

江川印刷機械所主・江川次之進氏は、明治16年斯業シギョウを創立し、独立独行幾多の困厄と奮闘して、爾来ジライ20有余年。この間幾多の改良を加え、以て製造に注意せる結果、今や江湖の信用最も厚く、内地は勿論、支邦、朝鮮などにまで分工場を起こし、業務日に月に益々隆盛に趣きつつあり。上図はすなわち出品の機械類なるが、上は足踏みロール印刷機械、下は新型のロール印刷機械なり。(以下國華社分 紹介略)

The Yegawa Type Foundry の雑誌広告 江川長体明朝の管窺にいるかぎり唯一の資料。
『印刷世界』(第2巻第1号 明治44年1月0日 佐藤タイポグラフィ研究所蔵)
「各種活字 印刷機械 附属品一式」――二号江川行書 行間二分
「本文:弊所は明治十六年の創業~」――五号江川長体明朝 行間二分

タイポグラフィあのねのね*009 活字ステガナ、ナミガナ、促音、拗音

活字《捨て仮名》《並み仮名》は様々な名称で呼ばれる!
捨て仮名派・半音派・促音派・寄せ仮名派・拗促音派?・無名派!
あなたは促音・拗音の仮名文字活字をどう呼びますか?

《促音・拗音・撥音と「捨て仮名」活字》
ここでは別に、国語表記論や、音韻論を展開しようというものではない。タイポグラフィの実践の現場で、日日処理をせまられる事柄を検証してみただけである。すなわち、ながらく筆者は、なんの疑いもなく、促音・拗音をあらわす「っ・ゃ・ゅ・ょ・ィ・ォ」など、小さなサイズの仮名文字活字のことを「捨て仮名」と呼び、そのほかの、ふつうの大きさの仮名文字活字を「並み仮名、乃至ナイシは まれに、直音チョク-オン仮名」と呼んできた。ところが先般イベントの打ち合わせ中に、写植活字からスタートした活字書体設計者(50代後半かな?)に、「カタシオさん、どうして拗促音ヨウ-ソク-オンのことを、捨て仮名というんですか?」と、かなり強い口調で質問(詰問?)を受けた。

同席していたほかの書体ベンダーのかた(50代かな?。写植世代人)に「アレッ、オタクでは促音や拗音の活字のことを捨て仮名っていわない?」と問うと、「ウチでも拗促音です」といわれた。前者はさらにことばを継いで「捨て仮名っていわれると、なにか拗促音を軽視されているような気がする」ともいわれた。もちろん筆者は「捨て仮名」活字を軽視するわけではないし、促音・拗音・撥音ハツ-オン(日本語の語中または語尾にあって、1音節をなす音。ひら仮名では「ん」、カタ仮名では「ン」であらわす)のことはひととおり知っているつもりだったが、「拗促音」なるチョイと便利そうな合成語? は知らなかったので、奇異におもった。

ちなみに「拗促音」は『広辞苑』(申し訳ない。主として電子辞書第4版を使用している)にも、印刷業界の用語集『印刷事典』(第5版 日本印刷学会 印刷朝陽会 平成14年1月7日)にも紹介されていない。そしてTさんやIさんが辛い評価をくだした「捨て仮名」は、両書にしっかりと紹介されていた。少し退屈かもしれないが、まず国語辞書や印刷業界の用語集では、これらのことばをどう扱っているのか見て欲しい。

そく-おん【促音】――広辞苑(第4版)
語中にあって次の音節の初めの子音と同じ調音の構えで中止的破裂または摩擦をなし、一音節をなすもの。「もっぱら」「さっき」のように「っ」で表す。また、感動詞「あっ」「っ」で表す音のように、語末で急に呼気をとめて発するものにもいう。つまる音。つめる音。促声。

よう-おん【拗音】――広辞苑(第4版)
(「拗」は、ねじれる意)〔言〕
国語のア〔a〕ウ〔u〕オ〔o〕の母音の前に半母音〔j〕を伴った子音が添っている音節。「や」「ゆ」「よ」の仮名を他の仮名の下に添えて表し(現在は一般に小さく書く)一音節をなす。すなわち「きゃ〔kja〕」「きゅ〔kju〕」「きょ〔kjo〕」、その他「ぎ」「し」「じ」「ち」「に」「ひ」「び」「ぴ」「み」「り」に「や」「ゆ」「よ」が添うもの。開拗音。
「か」「が」「け」「げ」の子音と母音との間に〔w〕の音の挿入された音節。「くゎ〔kwa〕」「ぐゎ〔gwa〕」「くゑ〔kwe〕」「ぐゑ〔gwe〕」。現在は、方言に「くゎ」「ぐゎ」が残るのみ。合拗音 ⇄ 直音

よう-そく-おん【拗促音】――広辞苑(第4版)
記載なし
そくおん  促音/ようおん 拗音/ようそくおん 拗促音―-印刷事典(第5版)
記載なし

すて-がな【捨て仮名】――『広辞苑』(第4版)[傍線筆者。以下同じ]
① 漢文を訓読する時に、漢字の下に小さく添えて書く送り仮名。すけがな。
② 促音・拗音などを表すのに用いる小さな字。「っ・ゃ・ゅ・ょ・ィ・ォ」の類。
すてがな 捨て仮名―――『印刷事典』(第5版
一般に半音と呼んでいる拗ヨウ音、促音のこと。縦組みは右横付き、横組みは下付きに鋳込まれる。

はん-おん【半音】――『広辞苑』(第4版)
〔音〕[音楽用語の解説のみ。以下略]
はんおん 半音―――――『印刷事典』(第5版)
記載なし

ちょく-おん【直音】――『広辞苑』(第4版)
日本語の音節の一種。拗音・促音以外の音。1音節が、かな1字で表される音。
ちょくおん-ひょうき【直音表記】――『広辞苑』(第4版)
拗音に撥音されたと考えられる漢字音を、直音のかなで表記すること。シャ(者)・シュ(主)・ショ(所)を、サ・ス・ソと書く類。
ちょくおん 直音/ちょくおんひょうき  直音表記―――――『印刷事典』(第5版)
記載なし

★     ★     ★

造本と印刷』(山岡勤七 印刷学会出版部 昭和23年1月25日)
敗戦直後で書物が少ない時代にあって、本書は出版・印刷人が争って求めたとされる。本文用両仮名活字は凸版印刷勤務時代のミキ イサムによる「横組み用9ポイント新刻仮名活字」で、本書にのみ使用例をみるもので、原資料・活字母型・活字は保存されていないとされる(凸版印刷談)。装幀:原 弘





『造本と印刷』第六章:当用漢字・新かなづかい、68項:新かなづかい(現代かなづかい)について――は、昭和21年9月、国語審議会の答申に基づき、内閣訓令、告示により「現代かなづかい」と「当用漢字表」が公布されたのをうけてしるされている。p84第9. ヨウ音をあらわすには、ヤ、ユ、ヨを用い、なるべく右下に小さく書く。第10. ソク音をあらわすには、ツを用い、なるべく右下に小さく書く。――とある。ここには正式な名称は与えられていないし、なるべく……など、あいまいな記述が目立つ。この文部科学省のあいまいな姿勢は「現代仮名遣い」昭和61年7月1日 内閣告示 にも継承されて現在にいたっている。

ここまで調べてきて、どうやら明治からの文部省・文部科学省が、促音と拗音を表記する、仮名文字活字の名称とその定義を明確にしてこなかったために、民間で混乱がおこっているらしいことに気づいた。これについては、いずれ明治からの仮名遣いに関する公文書を紹介して整理したい。それでも気になって、あれこれ調べることになった。冒頭に掲げたように、『広辞苑』では「捨て仮名」はしっかり紹介されていた。もちろん『広辞苑』がすべてのことばを包含・包摂するわけではないが、すくなくとも小社では、現代通行文として「芝居を観て、感動して家にもどつた」としるせば、「つ」の部分に、横組みなら「」、縦組みなら「」のような校正記号で朱記がはいるか、あるいは「つ」に丸記号がしるされ、そこから枝のように伸びた修整指示として「捨て仮名にカエ」、あるいは単に「ステ」という指示が入ることになる。その逆に、歴史的仮名遣いなどでは「芝居を観て、感動して家にもどった」とあれば、前記と同様の記号とともに、「並み仮名にカエ」、あるいは単に「ナミ」という指示が入る。すなわち「捨て仮名活字 ≒ 促音・拗音をあらわす小さなサイズの仮名活字」と「並み仮名活字・直音仮名活字 ≒ ふつうのサイズの仮名活字」のふたつのことばはセットでもちいられる。したがって「拗促音にカエ」などの指示はしたことはないし、これが当たり前だとおもっていた。そこで簡単な調査であったが、近接業界のひとに直接取材した。

★     ★     ★

「捨て仮名活字」派は、比較的高齢な出版人・編集者・校閲者に多い。また、活版印刷時代からの歴史を有する書籍印刷所では、いまでもふつうにもちいられている。これらの職業人は、ほぼ全員が「捨て仮名/並み仮名・直音仮名」という、サイズの異なる仮名活字を意識して併用していた。また、このグループのひとたちは、「促音」「半音」「寄せ仮名」も理解していたが、通常「捨て仮名」が第一位で、相手によって「促音」をつかいわけるとした。またおひとり「一部で『拗促音』というが、促音と拗音は明確に異なるから、安易な合成語は疑問。しかも『拗促音』は、字音(読み)を表すが、意味範疇が活字の形象に及んでいないから意識して使わない」とするひと(学生時代は音韻論を専攻)もみられた。

金属活字業者・活版印刷業者・オフセット平版印刷業者は「半音ハン-オン仮名活字」派が圧倒的多数派。ほかにも「小仮名活字・寄せ字・寄せ仮名活字・捨て仮名活字・促音活字」などと、実にさまざまな呼称をもちいている。 ここで印刷業界の業界用語集『印刷事典』を再度紹介する。
すてがな 捨て仮名―――印刷事典(第5版)
一般に半音と呼んでいる拗ヨウ音、促音のこと。縦組みは右横付き、横組みは下付きに鋳込まれる。
この『印刷事典』にあるように、印刷業界ではいまでも「促音・拗音[にもちいる仮名活字]を、一般に半音 乃至ナイシは 半音仮名活字と呼んでいる。また促音「っ」を吃音キツオンとしたり、「ぁぃぅぇぉァィゥェォ」の文字列を「半母音ハン-ボ-イン、ハン-ボ-オン」とする例もみられた。また「半音」にたいして「直音・全角」があり、「五号明朝の半音活字の『っ』と、直音(全角)の『つ』の仮名活字」のようにつかいわけていた。校正指示記号や金属活字の発注にあたっては、「半音/直音(全角)」と表記すればこと足りる。この金属活字を使用するグループの標本数は8例と少ないが、現在はオフセット平版印刷に転じているものの、社内に組版部を有する中規模の書籍印刷所5社も同様の傾向をしめした。都合16例のうち2例をのぞき「拗促音」は理解されない。

写植活字時代になると、どこかの写植メーカーがそう呼称したのか、比較的高齢者の写植業界人や、周辺のグラフィックデザイナーを中心に、「拗促音」派が存在する。 写植世代といえるかどうか、おおむね45歳-団塊世代 60代前半の、かつて文字組版として写植活字を主にもちいていた層、ないしは、商業印刷のデザインが中心だったグラフィックデザイナーの比較的高齢者の一部が、促音と拗音をつづめて「拗促音」ということがわかった。この「拗促音」と呼ぶひとたちに特徴的なのは、たれも「拗促音活字」とはいわなかったことである。すなわちこれ(拗促音)が字音をあらわすだけで、文字形象には及ばないことを理解していないようであった。また「捨て仮名/並み仮名」「半音仮名活字/直音仮名活字・全角仮名活字」といった対語を「拗促音」は持たず、「仙台にいった」の文例から、「っ 」は、すみやかに「拗促音」と答えるが、「仙台にい○た」のほかの仮名部分の名称をもたず、「う~ん、ふつうの仮名かな」「こういったふつうの仮名に名前なんてあるの」という答えがおおかった。「最近では、拗促音だと、クライアントやスタッフとコミュニケーションがとれないから、できるだけ促音といっている」という例もあった。また、このグループに顕著だったのは「歴史的仮名遣い」への理解と経験の不足であった。

いました!「無呼称・無名」派。20-30代のDTP世代に意外と多くいる! 驚いてはいけない。パソコンの登場期以後の若い世代に「仙台にいった」の文例をみせて、「っ」の名称を聞いたところ、「こういうのって、なにか名前なんてあるんですか?」、「う~ん、小さな つ かな?」という答えが多かった。なかには「Xのキーボードを押して、 TU を入力すると出る字」、「いや、L のキーを押してから、TUのほうが楽だよ」「KYA, KYU, KYO でも きゃ、きゅ、きょ がでてくるし……」。パーソナル・コンピュータと、ワード・プロセッシング・ソフトウェアという便利な道具をはじめから獲得していた世代にとっては、まれに「ボスが時々促音とかっていっています」程度の関心しかないようである。つまり、かれらは手段・方法だけをかたっていた。この世代人にとっては、捨て仮名と並み仮名を差異化して処理する必要に迫られたことがないのであろうか。こうしたひとはウェヴ・デザイナーやDTPデザイナーに多くみられたので、将来の国語表記に漠然とした不安をいだかせた。まことにやれやれであった。されど、きちっと体系立ててこの国のタイポグラフィの基盤を構築してこなかった責任を感ずるものの、目下のところ唖然とするばかりでなにもいうこと無し。諸君の未来に幸多かれと祈るばかりである。次回は、江戸中期から平成の世までの「促音と拗音の仮名活字表記の歴史」を検証したい。

タイポグラフィあのねのね*006 「てにをは」、「ヲコト点」

「てにをは」と「ヲコト点」

タイポグラファなら、文章作法の初歩として、「てにをは が 合わない」とされるのはまずいことぐらいは知っている。ところがこの漢文訓読法――漢字に日本語をあてて読むこと――の「(隠された)記号」ともいえる「てにをは」とはなにか、を知ることは少ない。そもそも漢文そのものに触れることが少なくなった現代においては、「てにをは」を、「弖爾乎波、天爾遠波」のように漢字表記しようとすると、結構苦労することになる。もちろんふつうのワープロ・ソフトでは変換してくれない。しかも歴史上、漢文の訓読は、諸流・諸家によって微妙にことなり、また、それぞれの漢文の訓読法をながらく秘伝としていたからより一層やっかいである。

「てにをは」を知るためには、すこし面倒だが「ヲコト点 乎古止点」を知ると容易に理解できる。ここからは『広辞苑 第4版』を案内役としたい。ただし、同書電子辞書をもちいると、第5版をふくめ、ほとんどの電子辞書には図版がないために、理解しにくくなる。ここは面倒でも重い紙の『広辞苑』の出番となる。

また文献としては、『てにをはの研究 日本文法』(広池千九郞 ヒロイケ-セン-クロウ 1866-1938 早稲田大学出版部 明治39年12月 国立国会図書館 請求記号YMD78491)がある。Website情報で簡便に知りたければ、松本淳氏の「日本漢文へのいざない」 が平易でわかりやすく説いている。

以下に〔乎古止点〕の図版を2点紹介する。下図1はポイントを点(ドット)であらわしており、上部右肩を上から順によむと「ヲコト」となり、「ヲコト点、乎古止点」の語源となったものである。

下図2はポイントを横棒(バー)であらわしている。このうちのいくつかは、のちに紹介する、いわゆる「カタ仮名合字」の元となったと考えられる。

を-こと-てん【乎古止点】  漢文の訓読で、漢字の読みを示すため、字の隅などにつけた点や線の符号。その形と位置とで読みが決まる。たとえば、もっとも多くおこなわれた博士家点 ハカセ-ケ-テン では、「引」の左下の隅に点があれば「引きて」と読み、左上の隅に点があれば「引くに」のたぐいとなる。したがって「ヲコト点、乎古止点」とは、図に表した右上の2点をとって名づけられた。なお漢字の「乎古止」は、「ヲコト」の万葉仮名表記である。

て-に-を-は【弖爾乎波、天爾遠波】  漢文の訓読で、漢字の読みを示すため、字の隅などにつけた点や線の符号。その形と位置とで読みが決まる。たとえば、もっとも多くおこなわれた博士家 ハカセ-ケ がもちいた「ヲコト点」の四隅の点を、左下から時計回りに順に「てにをは」と読んだことに由来する名称。