タイポグラフィあのねのね*013 マインツとグーテンベルク

*********************************

烏兎匆匆 ウト-ソウソウ

うかうか三十、キョロキョロ四十、烏兎匆匆

先達の資料に惹かれ、おちこちの旅を重ねた。吾ながらあきれるほど喰い
囓っただけのテーマが多い。いまさらながら馬齢を重ねたものだとおもう。
文字どおり 「うかうか三十、キョロキョロ四十」 であった。中華の国では、
歳月とは烏カラスが棲む太陽と、兎ウサギがいる月とが、あわただしくすぎさる
ことから「烏兎匆匆 ウト-ソウソウ」という。 そろそろ残余のテーマを絞るときが
きた。つまり中締めのときである。 後事を俊秀に託すべきときでもある。お
あとはよろしいようで……なのか、おあとはよろしく……、なのかは知らぬ。
*********************************

活字版印刷術と情報は、水の流れにも似て……
五体と五感をもちいたアルチザンの拠点

近代活字版印刷術 Typographyの始祖
グーテンベルクの生没地 マインツは、
ライン河畔に沿った街

16世紀、マインツ市の繁華を描いた木版画。手前がライン川で、
マインツ市はその水運を利用した物資の集散地として繁栄した。


ドイツ、マインツ市のグーテンベルク博物館のサイン

1639年の印刷工房を描いた木版画。左手と中央奥に木製の手引き式印刷機があり、
右手奥が校閲者、右手手前が植字作業を描いている。

◎ グーテンベルク(Gutenberg, Johann Gensfleisch  c1399—1468)
あれをバブルと呼ぶのだろうか? 小社の刊行書が欧州でよく売れて、毎年秋にフランクフルトで開催されるブック・メッセに9年連続出展した。
下見に出かけた時を合わせると、10年連続して初秋のドイツに出かけたことになる。1週間のメッセ期間が終わると、狭い展示スペースで立ちっぱなしなことと、馴れない外国語漬けのせいで、ひどく疲労をおぼえた。その疲労回復を口実に、いそいそとマインツ(あるいはふるい大学都市で、良い古書店があったハイデルベルク)に向かった。
マインツは近代活字版印刷発祥の地であり、またその始祖・グーテンベルクの生誕と逝去の街でもあった。

¶ グーテンベルクは1440-55年ころ、ブドウ搾り機から想を得て、ネジ式木製手引き印刷機を製作、金属と親和性のある油性インキを開発、鉛合金活字を鋳造するなどして、近代活字版印刷術 Typography を創始したとされる人物である。ただし、老舗の店舗にもよくあるように、「元祖・家元・創始者」などとする説には異論もあって、オランダなどは、いまもって「グーテンベルク近代活字版印刷創始説」を肯んじてはいない。
それでもマインツには、グーテンベルクの住居・工房跡や、通称『42行聖書』、『カトリコン』などの印刷された書物はよく保存されている。しかし相次いだ内乱や戦乱のためもあって、建物の一部と書物はのこったが、印刷機器や活字そのものはまったく現存していない。印刷と書物という、複製術の威力を痛感させられる街でもある。

¶ グーテンベルクの生誕地、逝去地は、ともにドイツ西部、ライン川左岸に沿った、ラインラント・ファルツ州の州都・マインツであった。マインツはラインの水利を利用した商工業が盛んで、ワインの集散地でもある。1994年の人口は18万4千人と記録され、知名度が高いわりには、こぢんまりと、閑静な街でもある。
自動車もないこの時代はもちろん、創始者のときから数百年にわたって、印刷機はもとより、印刷用紙、活字など、相当の重量のある活字版印刷術は、水運の便のよい地で発達した。

¶ マインツには「グーテンベルク博物館 Gutenberg-Museum Mainz」があり、同館には『タイポグラフィ学会誌 01-04』、大日本印刷から提供された日本語活字組版なども収蔵されている。また本稿の執筆中(これがまた、実にモタモタとやっていた)に、『VIVA!! カッパン♥』(大石 薫 朗文堂  2010年5月11日)、『der Weg nach Basel, the road to Basel, バーゼルへの道』(ヘルムート・シュミット 朗文堂 1997年6月3日)がパーマネント・コレクション(長期保存)されたという嬉しい知らせもあった。また、かつて印刷を地場産業としていた新宿区が、マインツと「姉妹都市」の提携を結んでいたが、現在の事情は不詳である。

¶ 近年、マインツ市は歴史的建造物と景観保存に注力し、グーテンベルク屋敷工房(生家)、フストとシェッファーとの共同印刷工房、最後の屋敷工房、埋葬地などが碑文をもって顕彰されており、それらの地を逍遙ショウヨウするガイドマップも完備したので、意外なほど狭隘なグーテンベルク時代の街を訪ね歩くのも楽しい。もちろん15世紀のひと、グーテンベルクも、徒歩か、せいぜい馬車で動き回っていたはずであり、ほとんどの史跡は徒歩で十分な近接地にある。

◎ 『42行聖書 ラテン語』(Biblia, latina, 42lines ― the Gutenberg Bible.  Mainz : Printer of the 42-line Bible, Johann Gutenberg and Peter-Schoefer c1455)
近代タイポグラフィの始祖とされるグーテンベルクはマインツの中産階級の家にうまれ、もともと鏡をつくったり、貨幣鋳造(個人が貨幣をつくって良いかどうかはさておき……)などにあたる金属細工士であったとされる。1434年ころから居をストラスブールに移し、印刷術の創始に没頭し、1440年には最初の活字版印刷に成功したことが裁判記録から推測されているが、実物は現存しない。1445年ころマインツに戻って、自宅に工房を開設して、印刷術の完成のためにさらに試行錯誤を続けた。

¶ グーテンベルクは生涯に6種類の活字セット(フォンツ)を製作したとされる。最初に製造した素朴な活字は、かつては「36行聖書の活字」と呼ばれていたが、現代ではDKタイプと呼ぶことが多い。このDKタイプは、ドナートゥス『文法書』『トルコ暦』などの小型印刷物(端物印刷)にもちいられている。

¶ 「42行聖書の活字」と呼ばれるものは、マインツの実業家ヨハネス・フスト(?-1466)からグーテンベルクが多額の出資を仰いで、生家の近接地にあらたな工房を開き、またパリ大学を卒業した能書家ペーター・シェーファー(?-1502/03)を校閲係として雇用してから製造されている。このあたらしい活字をもちいて、1454年末から1455年はじめのころに、最初の近代活字版印刷による本格的な書籍となった『42行聖書』(ラテン語ウルガタ訳)を完成させたとみなされている。

¶ こんにち『グーテンベルク聖書』として親しまれているこの聖書も「グーテンベルク博物館」でみることができる。同書は博物館本館中央のゆるやかな回廊をゆっくりと下降し、次第に暗がりに視力がなれてきたころ、特製ケースのなかで、淡い照明のもとでみられる。歯がゆいのは、稀覯書キコウショのために仕方がないとはいえ、ここまで出かけてきても、たったひと見開きを、薄暗い灯りのもとで、ガラスケース越しでしかみることができないことである。「もっと見たい、ページを繰りながらすべてのページを見たい」と、たれしもがおもう(はずである)。

¶ この聖書が通称『42行聖書』とされるのは、各ページのほとんどの行が42行で構成されているためである。同博物館資料によると、初版はほとんどのページが42行で構成されているが、旧約聖書の巻頭部分が40-41-42行に変化しているとしている。ところが第2刷りになると、すべてのページが42行に揃えられている。すなわち、1ページあたり42行、2段組、2巻、あわせて1282ページ。第1巻には旧約聖書の冒頭から詩編まで、第2巻には旧約聖書ののこりの部分と、新約聖書のすべてが収録されている。

¶ 活字はゴシック体(テクストゥール、典礼書体)で、1フォントで、300キャラクター以上の使用が確認されている。アルファベットは26キャラクターで、その大文字、小文字で、都合52キャラクターで済むとおもっていたら大間違いである。活字版印刷術創始者のときから、1フォントに300キャラクター余を製作していたのである。また1ページあたりでみると、およそ3,700本の活字が使用されている。これがして、全ページを見たくなるゆえんでもある。

¶  『42行聖書』はヴェラム製(子牛・子羊・子山羊などの皮を薄く剥ソいで、鞣ナメして筆記用としたもの。本来は子牛の皮をもちいたが、高級羊皮紙と表記される。装本材料にももちいられる)のものが30部、紙製のものが150部、都合およそ180部が印刷されたと推定されている。
また刊行から556年後の現在、『42行聖書』は47部の存在が確認されている。そのうち12部がヴェラム刷りで、のこりの35部が紙刷りとされる。活字版印刷はすべてスミ1色刷りの両面印刷であるが、ヘッドライン、イニシャル、とりわけ2巻の新約聖書篇には、ルブリケーター(装飾士)による、手彩色の赤と青の装飾が美しい。わが国でも、慶應義塾大学図書館が数億円を投じて購入した2巻揃いを、また早稲田大学図書館が、原葉1枚を所蔵している。

◎  『カトリコン』(Catholicon  Balbus, Johannes. Mainz : Printer of the ‘Catholicon’ 1460)
なにもできなかったなぁ、と苦いおもいがするのが『カトリコン』である。かつて町田市立国際版画美術館が「西洋の初期印刷本と版画展」(図録『書物の森』 1996)を開いて、早大図書館資料『42行聖書 原葉1枚』が展示された。またこれもグーテンベルクの刊行とされる、明星大学図書館蔵、バルブスのラテン語辞典『カトリコン』とともに黒山のひとだかりであった。

¶ この書物にもちいられた小型の活字は「カトリコン・タイプ」とされ、グーテンベルクが最後に製造した活字とされて争いはないようだ。しかし『カトリコン』には異本が多く、また印刷者名の記名もないことから、印刷者の名前はグーテンベルクではなく、「カトリコン・プリンター Printer of the ‘Catholicon’」と称されることが多い。

¶ 「カトリコン・タイプ」に注目したのは、その活字鋳型の製造者をおもったからである。グーテンベルクの死後まもなく、マインツに大規模な内乱が発生し、弟子や職人は欧州諸国にばらばらになって離散した。突然襲った内乱に際し、かれらが携行したであろう活字鋳型(ハンド・モールド)が、「カトリコン・タイプ」と極めて近似していることに気づいたためである。
すなわち初期印刷者たちは、「36行聖書の活字 DKタイプ」、「42行聖書の活字」と同寸の鋳型ではなく、「カトリコン・タイプ」とほぼ同寸の、ちいさなサイズの活字鋳型を携行してマインツを脱出し、欧州各地でそれをもちいて、独自の活字版印刷工房を開設したのではないかとみている。
これは活字父型や活字母型、つまり活字書体の形象(デザイン)をいっているのではない。鋳型が近似しているということは、活字のサイズが近似し、行間にインテルを挿入することがすくなっかった当時、行の送りが近似することになる。

¶ つまり、マインツから四散した初期印刷者たち、すなわちニコラ・ジェンソンらは、マインツの、名もない金属職人が製造した鋳型をたいせつにかかえて、欧州各地に四散したのではないかとおもっていた。イタリアのスビアコで、ベネチュアで、そして全欧州で展開した初期活字鋳造と、活字版印刷は、マインツの鋳型ではなかったか? そんなおもいでインキュナブラ(15世紀後半の書物・揺籃期本)をみていた。
しかしながら『カトリコン』の原本は所有していないし、インキュナブラも所有していないわが身にとっては、想像・想定以上に研究がおよぶことはなかった。あとはお任せ……の次第である。

◎ 資料紹介(やつがれの参考書だった。ご希望のかたには喜んでお見せしたい)
『欧文書体百花事典』(組版工学研究会朗文堂 2003年7月7日)
『グーテンベルク』(戸叶勝也 清水書院 1997年8月27日)
『Gutenberg  Man of the Millennium』(City of Mainz, 2000)
『ヨーロッパの出版文化史』(戸叶勝也 朗文堂 2004年10月13日)
『書物の森へ――西洋の初期印刷本と木版画』
       (企画構成・発行/町田市立国際版画美術館 1996年10月5日)
『The Gutenberg Bible』(Facsimle Bibla Sacra Mazarinea. France 1985)

◎ ファクシミリ版 『The Gutenberg Bible』

あらためて上記に参考資料を整理してみた。ほかにも何冊かドイツ語の資料はあるが、ほとんど読んでないし、気休めにしかすぎなかった。すなわちたいした書物はもっていない。すこしだけ愛用した資料は1985年、フランスで発行されたファクシミリ版 『42行聖書』 である。
本書は、フォリオ判(38×28.5cm)、2巻、正確な複写版で、重さは7キロほどもある。装本は素っ気ないほど地味だが、すべてが子牛のなめし革による堅牢な製本で、ドイツの製本所が担当した。幸運な偶然から吾輩の手許に転がりこんできたが、ファクシミリ版とはいえ、当時50-70万円以上で販売されていた書物である。
それでも、これなら気軽に、全ページを繰ってみることができる。意外とあたらしい発見があるものである。なんだ、これしかないのか、とあきれないでほしいのだ。吾輩はこれらをまとめきることができなかった。烏兎匆々ウト-ソウソウとしたゆえんである。