月別アーカイブ: 2014年10月

日刊新聞発祥の地 『横浜毎日新聞』 の記念碑

日刊新聞発祥の碑 [ 写真提供 : 松尾篤史氏 ]

《 日刊新聞発祥の地-表面 碑文 》
碑 文

日刊新聞発祥の地

明治三年十二月八日 我が国日刊新聞が鼻祖「横浜毎日新聞」はこの地で誕生した
この新聞はまた冊子型木版刷りの旧型から 活字一枚刷りの現代型へと踏切った
我が国最初の新聞であった
これが端緒となって 日本が大新聞国へと発展したことを思うと文明開化の窓口としての
横浜の意義はきわめて大きい

こうした偉業を記念すると同時に その計画者 時の神奈川県令井関盛艮
社長島田豊寛  編集担当者子安峻 印刷担当者陽其二 資金協力者原喜三郎
茂木惣兵衛 吉田幸兵衛  増田嘉兵衛 高瀬英祐等諸氏の功績を後世に伝えるため
この記念碑を建立する

  昭和三十七年十月十日
    撰文  日本新聞学会会長 上野    秀雄
    書   神奈川県知事      向山岩太郎
    協賛          神奈川県
                 横  浜  市
                 日本新聞資料協会
    建立          神奈川新聞社

《 日刊新聞発祥の地-表面 銅板レリーフ 》
日刊新聞発祥の地 碑 横浜毎日新聞 第一号紙面
(明治03年12月08日発行)
[ 原本は国立国会図書館蔵 ]
横浜毎日新聞第一号《 日刊新聞発祥の地-裏面 碑文 》

 この記念碑は当初 昭和三十七年十月十日
 横浜市中区北仲通五丁目の旧生糸検査所の敷地
 内に建立されました。その後、再開発に伴い解
 体、撤去され 同敷地内に復元を予定していま
 したが、本来の創刊の地が同区本町六丁目のこ
 の地付近であることが分かり、横浜市の協力を
 得て、ここに記念碑を移設、再建しました。
      平成二十一年十二月八日
              神奈川新聞社

《 日刊新聞発祥の地-所在地とその再建の経緯 》
所在地 : 神奈川県横浜市中区本町06丁目
JR みなとみらい線、馬車道駅の「1 b 出口」を出ると、目の前に高さ119m の高層ビル「横浜アイランドタワー」がある。

このビルの西側広場に 高さ1.3m  幅2.1m の 灰色の御影石製の石碑 「 日刊新聞発祥の地 」 の碑が建立されている。
碑面には 「 横浜毎日新聞 」 創刊号の紙面写真が銅板に刻まれたレリーフが埋め込まれている。
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日本で最初に発行された新聞は、1864年(元治元)に ジョセフ 彦 が横浜で発刊した 『 海外新聞 』 とされている。
すなわち本年は <新聞発行150周年>にあたり、ジョセフ 彦の郷里 : 播磨町では各種の行事が予定されている。
【 関連情報 : 播磨町役場 新聞の父 ジョセフ ・ ヒコ ≪2014(平成26)年は、ジョセフ ・ ヒコ新聞発行150周年≫

ジョセフ 彦(1837-97)は播磨国加古郡古宮村(現 : 兵庫県播磨町古宮)のひと/彦太郎で、乗船が難破して漂流中のところをアメリカの商船に救助され、アメリカで教育を受けてカトリックの洗礼を受けた。
のちにアメリカ国籍をえるとともに、「ジョセフ」のクリスチャンネームを受け、ジョセフ 彦と名乗った。

1859年(安政06)アメリカ領事館の通訳として、 初代日本総領事ハリスとともに 開国直後の日本に着任した。 一旦アメリカに帰国後、1864年(元治元)年 再来日し、06月から < わが国最初期の新聞 『新聞誌』、『海外新聞』> を発刊した。
『 海外新聞 』 は当初は 『 新聞誌 』 と称していた。 これはジョセフ彦が外国の新聞を翻訳し、岸田吟香と本間潜蔵が、ひらがな交じりのやさしい日本文に直したもので、半紙4-5枚に筆写したものを こよりで綴り、横浜市内に100部程度配っていた。 翌年には 『 海外新聞 』 と改題し、木版刷りで26号まで発行している。
『 海外新聞 』 は外国人居留地だった横浜(横浜市中区山下町 中華街 関帝廟直近の場所)で発行された。 月刊新聞で、半紙 4-5 枚を仮綴したもので、 最初は 手書きだったが、のちに木版印刷をもちいて、 02年間で 26号まで発行したとされる。
青山外人墓地に 「浄世夫  彦」 の名前で墓地がある。 1837-97。

これに付記すると、わが国における新聞のはじまりは、徳川幕府の施設 蕃所調所の 活字方によるもので、オランダ領東印度会社 総督府の機関誌で、週02回発行されていた 『ヤパッシェ ・ クーラント   Javasche Courant 』 の主要記事を 日本語に翻訳した、『 官板バタヒヤ新聞 』(文久02年)がある。
東京大学 明治新聞雑誌文庫で実見の機会をえたが、「蕃所調所 活字方」が手がけたとはいいながら、この新聞というより 小冊子にちかい情報誌は、木版印刷によるものとみたい。
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開港地長崎には、英人編集者にして、印刷人の名門にうまれた ハンサード(Albert William Hansard,  1821-65)がいた。
ハンサードは開国を待ちかねて1860年(万延元)12月に長崎に来て、英字新聞 『 Nagasaki Shipping List and Advertiser 』 を28号まで発行したが、これには長崎奉行の許可を得て、陽 其二 ヨウ-ソノシ ゙らの 本木昌造一門が研修をかねて助勢していたことが記録されている。

ハンサードは翌1861年(文久元)11月、新開地として興隆しつつあった横浜に転じて、『 英字紙 ジャパン・ヘラルド Japan Herald 』 を発行して、1865年ころに英国に帰国したとされている。
すなわち、本年は < 新聞発行150周年 > にあたり、横浜ではジョセフ 彦らによって1864年(元治元)06月から < わが国最初期の新聞 『新聞誌』、『海外新聞』> を発刊されていた。
さらに英人 : ハンサードによって、1860年(万延元)12月、長崎での英字新聞 『 Nagasaki Shipping List and Advertiser 』 が発行され、翌1861年(文久元)11月、新開地として興隆しつつあった横浜に転じて、『 英字紙 ジャパン ・ ヘラルド Japan Herald 』が発行されていた。
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こうした新聞発行の基盤のあった開港地 横浜に、ハンサードから10年ほどのち、ジョセフ 彦から07年ほどのちになって、ときの神奈川県令 : 井関盛艮(いせき-もりとめ 1833-90)の発案によって、「明治三年庚午 十二月八日」 (旧暦。新暦では1871年01月28日)に、わが国初の日刊新聞 『 横浜毎日新聞 』 は呱呱の声をあげたのである。

20141027170907551_0001[ この項 『 本木昌造伝 』 島谷政一 朗文堂 編集子あとがきより ]
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日本語による日刊新聞のはじめは、1870(明治3)12月08日に発刊された『 横浜毎日新聞 』で、 これは 西洋紙の両面に最初は木活字、次第に鋳造活字を使って活字版印刷したものであった。
活字版印刷機の機種は判明しないが、いずれにしても人力による、写真のような 「 手引き活版印刷機 」 だったとみられ、当時の物価水準からみたら 相当高額な料金で販売された。
アルビオン『 横浜毎日新聞 』 はその後、1879(明治12)に東京に移り、『 東京横浜毎日新聞 』 という名前に改称され、さらに 『 毎日新聞 』、『 東京毎日新聞 』 と紙名を変えたが、時局の切迫した1941年(昭和16)に廃刊になった。
なお現在の 『 毎日新聞 』 は、銀座にあった 『 東京日日新聞 』 の系譜に属し、『 横浜毎日新聞 』 とは無関係である。

この <日刊新聞発祥の地> 碑は、かつて生糸検査所(現 ・ 横浜第二合同庁舎)前にあった[1062年(昭和37)建立]が、 生糸検査所が合同庁舎に建て替えられた時に撤去され、同所の駐車場に保管されていた。
今回は石碑を造りなおして、新しく判明した 『横浜毎日新聞』 の発行所があったこの場所に再建された。
[写真ならびに情報提供/松尾篤史氏]
 

Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO-Report 00 番外編 しろくまは カゴンマ de ゴアンド !

 

天文館「ママ」のしろくまくん

本項の初出は2013年09月20日であった。 好評をいただいて閲覧カウンター数も多かったようである。
この旅の目的のひとつに、本年の <Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO> の会場交渉があった。
<Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO> の開催、2014年11月01-03日の開催が迫ったいま、ここに若干の補整を加えて再紹介したい。
―― 2014年10月15日
Goando-red【 名 称 】 Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO
【 会 期 】 2014年11月1日[土], 2日[日], 3日[月 ・祝] 3日間
【 時  間 】   開場 8 : 30 ― 閉場 17 : 30
【 会 場 】 仙巌園〔磯庭園〕  尚古集成館本館 展示室 鹿児島県鹿児島市吉野町9700-1
【 主  催 】 朗文堂  アダナ ・ プレス倶楽部

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【 緊 急 の お 知 ら せ 】

◆ 尚古集成館 館長 : 田村 省三氏による
特別講演 と ギャラリー ・ トークの 開催が決定しました !!
<尚古集成館所蔵/重要文化財 『木村嘉平活字』 と 薩摩藩集成事業について>

◯ 今回の <Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO> 開催にともなって、尚古集成館別館に、重要文化財「木村嘉平関係資料」が特別展示されます。
◯ 『木村嘉平活字』 研究の第一人者 : 田村省三館長に、講演とギャラリー ・ トークを担当いただきます。
◯ 11月02日[日] 14:00-17:00 仙巌園会議室
◯ またとない機会ですが、会場の都合で 限定20名様となります。
◯ 聴講料は不要ですが、仙巌園 ・ 尚古集成館の共通入場券 ¥1,000 が必要となります。
◯ 参加希望のかたは adana@robundo.com に、件名「木村嘉平活字講演会参加」で申し込みを。
◯ 申し込みは先着順で、定員になり次第締め切りとさせていただきます。
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《 いやぁ~ 南国 鹿児島での しろくま 結構なもので ごあんど ! 》

やつがれは下戸である。したがって甘党でもある。
糖尿病予備軍と医者に通告されてから及び腰になったが、ともかく甘いものには目がない。

完食寸前のアレの本物? カップアイスでは味わえない、本物のアレ。完食寸前でもう一杯食べたいおもいがある。

口惜しいことがあった。もう07年余も笑われ モトイ あざ嗤われてきた。
やつがれがお気に入りの、その 「アイス」 に囓りついていると、ノー学部が嘲笑を浮かべてボソッと口ばしる。

「 カチカチのカップ入りなんて……。 本物を知らないから、あわれなのよね~ 」
買い物は苦手だが、煙草の補給のためにときおりコンビニにいく。 帰り際にさりげなくアイスクリームのケースをのぞく。
「 アレ は本物じゃない、あわれなのだ 」
といわれたくないから、あくまでもさりげなくケースをのぞく。

人気の赤木乳業 「 ガリガリ君 」 はいつも中央部にデンと据わり、種類もまことに豊富だ。
「 ガリガリ君 」 なら、やつがれはあっさりめのソーダ味と梨味が好きだ。中央部はかき氷風で、外周部はキャンデーのようだ。
それ
でも 「 ガリガリ君 」 はあくまでも代替品であり、狙いのアレ、本命の アレ ではない。

その 「 疑似の アレ 」 は、気まぐれのように、時折コンビニのアイスケースの端のほうに、数個だけ置かれることがある。
家の近くにのコンビニは 「 ファミマ 」 が多いが、ときおりすこし遠い 「 セブン 」 に足を伸ばすのは、おなじ「 疑似の アレ 」 でも、セブンのアレのほうが、トロリと豊饒な甘さがあるからであある。 ファミマのアレは、カップの底までなめてやろうというまでの、恍惚たる至福感にいたることはない。

値段もファミマのほうは少し安いかもしれないが、あまり気にしていない。どうせ 「 アイス 」 だし、「 疑似の アレ 」 と罵られている代物だ。
しかもどこのコンビニも 「 ガリガリ君 」 の補充には熱心だが、もともと 「 疑似の アレ 」 は、専有面積が少ないし、同好の士もわずかにいるとみえて、アイスケースの手前右隅 ―― 一番目につきにくいところが定番の置き場所 ―― はポツンと空いていることが多い。

《 カゴンマ イキモンソ ! ウマカ ゴアンド ! ― 鹿児島にいきました。 悶絶する旨さでした !  》
2013年08月10日-12日、所用があって数年ぶりに鹿児島にでかけた。 主要な打ち合わせの相手が多忙ということで、こんなお盆休暇の直前での打ち合わせとなった。
旅の同行者はノー学部。

ノー学部は福岡で生まれ育ったが、父親が鹿児島大学を卒業し、母親の実家も鹿児島にあり、子供のころから長期休暇はイトコが多い鹿児島で過ごすことが多かったという。
そして父親が亡くなったいまは、母親が里の鹿児島にもどったために、ノー学部にとっては帰省の旅ともなった。やつがれは02泊03日の慌ただしい旅となる。

「むじゃき」
「むじゃき」2

「むじゃき」3 待望のしろくまくんに挑戦。

《 唖唖 遂に至福のときはいたれり。 やつがれ、鹿児島にて しろくま を食す 》
諸君 見て欲しい !
この天をもどよもす圧倒的なボリュームを、入道雲のごときふわふわ感を。なんとも圧巻ではないか !!  どうだ、これが本物の アレ、鹿児島名物 本物の「 しろくま 」 である。 

屈辱の07年余、軽蔑 ・ 侮蔑 ・ 嘲笑されながらも、ひとり黙黙と 「 コチコチで疑似のカップアイスの アレ 」 を食し、心中ひそか、せめて一度で良いから本物を食そうと、念願 祈願 切望してきた、これぞ 「 しろくま 」 の本物である !!!
鹿児島到着の夜、ホテルから近く、閉店間際に駆けこんだ、元祖 「 天文館むじゃき 鹿児島中央駅前店 」 での歓喜のひとこまである。
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コンビニのパックにはいった 「 アレ 疑似しろくま 」 しか知らなかったやつがれ、フルーツが山のように盛られ、蜜と練乳がたっぷりかけられた 本物の 「 しろくま 」 に陶然となった。
ところがやつがれ、かき氷はもちろん 「 アレ  疑似のしろくま 」 でも、食している最中にこめかみのあたりが痛くなり、最後は頭を絞りあげられるような傷みがはしる。

その怖れを抱きながら食したが、なんと本家 ・ 元祖 ・ 家元、鹿児島の 「 しろくま 」 は、1949年(昭和24) の発売開始のころから、ピュアな角氷を 「 カンナ削り製法 」 によって、ふんわりとやさしく仕上げてあるそうである。
そのせいかこのボリュームを食べても、こめかみにズキズキ感は無いし、むしろもっと食べたい気分にさせる。

「 フル-ティー & ミルキー  しろくま  ウマカ ゴアンド ―― とても美味しゅうございました 」

《 翌日は鹿児島市内を駈けまわったが、天文館の 「喫茶ママ」 で 「 しろくま 」 に再度挑戦 》

天文館「ママ」のしろくまくん

今回の鹿児島行きでは、車をふくめてすっかりノー学部の従姉 ・ ミカさんのお世話になった。
そのミカさんが繁華街/天文館の一隅、昭和のかおりがのこる喫茶店 「ママ」 に連れていってくれた。このひとは寡黙だが、薩摩おごじょであり、芯はつよいのかもしれない。
「 このママという店は、父と母が はじめてデートしたお店だそうです 」
「 やはりご両親も、初デートで しろくま をたべたのかなぁ 」
「 そこまでは聞いていませんが、それぐらいふるくからある喫茶店です 」

まつことしばし。 新種の 「 しろくま 」 登場。 昨夜よりいくらか落ちついて歓喜のときを迎えたが、「むじゃき」 とはいくぶん異なりながらも、これまた取り乱すほどの美味であった。
こちらは自家製の練乳を、これでもか、これでもかとかけて、おおきく切ったオレンジ、バナナ、スイカ、メロンがドカンと盛りつけられ、中央に餡豆が表情をつくるようにのせられている。
「フル-ティー &ミ ルキー しろくまくん ウマカ ゴアンド ―― とても美味しゅうございました 」

長島美術館から見た錦江湾と桜島。薩摩は人をもって城となす。薩摩鶴丸城は館づくりの平城であった。

鹿児島県立図書館の薩摩辞書の碑愛猫家の皆さんへのプレゼント!

シラス台地の海岸線東シナ海に没する夕陽

《 慌ただしい旅は終わった ―― 成果と宿題の多い旅となった 》
こうして久しぶりに鹿児島のタイポグラファとの再会をはたし、来年(つまりことし)の企画の打ち合わせもできた。また美術館、文学館、歴史資料館などでも打ち合わせを重ねることができた。
最終日の12日[日]は、アダナプレス倶楽部の鹿児島会員 : 陶芸家の窯と、手漉き紙工房の造形家のもとをたづねることができた。
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ことし(2013年)の夏、07月は北海道 《Viva la 活版 Viva 美唄》 にでかけ、08月はこうして鹿児島に出かけていた。
どちらも暑く、帰京してからも残暑がきびしかった。
そんなわけで暑さに負けて、すっかり脳内発酵をみて、この 《タイポグラフィ ・ ブログロール 花筏》 の更新が滞っていた。
何人かの愛読者からは 「さぼるな」 「躰の調子でも悪いのか」 と、@メールでの叱声や、お心遣いをいただいた。

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たしかにいささか夏バテ気味ではあったが、本音は夏季休暇を終えて出社したノー学部が、
「 偶然、JAL の機内誌に、作家の浅田次郎さんが 『 しろくま 』 のことを書いていました。 面白いからお土産に貰ってきました 」
と、機内誌 『 SKY WARD 』 (620号、2013年07月27日) を差しだしたことにある。
その p.119-122 にわたって、文 : 浅田次郎 、絵 : 川上和生による 「 続 ・ しろくま綺譚」 が掲載されていた。

それによると、浅田氏は 5 年前の鹿児島訪問にあたって、取材のスケジュールに追われるあまり、 「 しろくま 」 を食べる機会を逸し、それ以後 5 年にわたり 「 しろくま 」 を食すことを渇望し、ようやく仇討ちにも似た気分で 「 しろくま 」 にありついたそうである。その感動を、軽妙な筆で描写していた。

浅田次郎氏といえば、やつがれはたいていの作品を読んでいる愛読者である。このとき浅田氏は宮崎での講演会を終えて、ひとり (ひそかに) 鹿児島を訪れて 「 天文館むじゃき 」 の 「 しろくま 」 を、二杯もむさぼったらしい。以下に 『 SKY WARD 』 の一部を抜粋したい。

旅の感動を言葉で表現するのは難しい。それを百も承知で書くと、たいそうすこぶるチョーメッチャうまかった。

カキ氷でもフラッペでもない。いったいどんなカキ方をすれば氷の粒子ががこんなに細かく、ふんわりとでき上がるのであろう。テンコ盛りのトロピカルフルーツと、クラシックな自家製練乳の甘みが相俟って、そのおいしさたるや、私がしろくまを食べているのか、それともしろくまに食われているのか、わからなくなるほどであった。

『 SKY WARD 』 のエッセイは、うれしくもあり、筆力の差を見せつけられたようで疎ましくもあった。 そのためと暑さ負けとで、ついついやつがれの駄文をしるす筆がおもくなっていた。
内心ではひそかに、
「 なんだよ、浅田次郎は 5 年のお預けかよ。こちとら、カタシオ ジロウは 7 年だぞ。俺のほうがずっとながく、臥薪嘗胆、艱難辛苦、かてて加えて 屈辱に耐えてきたぞ 」
「 文章家なら、感情表現に、もそっと気配りをせい。 『 たいそう すこぶる チョーメッチャ うまかった 』 とはなんだ。 テレビのグルメ番組のタレントでも、こんな寒いセリフは云わんぞ 」
と、悔し紛れの悪態をついていた。

ところでそこから浅田氏は奇矯に奔ることになったらしい。
つまり浅田氏はひとりでの鹿児島入りであり、仇討ちにも似た 「 しろくまを食した 」 ことの立会人 (つまり証人) がいないことにハタと気づいたという。
そこで、もちいたことのない写メールを、店員に操作を教えてもらいながら、5 年前に取材 (だけに) に引きずり回した担当編集者に 「 しろくま征伐、勝利の凱歌 」 の記録として送ったとしるしている。

『 SKY WARD 』 の挿絵は情感のある良い絵だが、この機内誌の編集者は、空前絶後かもしれぬ 「 浅田次郎の写メール 」 を紹介する、千載一遇の機会を逸しているのは残念である……。
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そしてやつがれ、火を吐く山 ・ 櫻島、錦江湾の紺碧の海、半島の尖端でみた東シナ海に没する夕陽、すなわち鹿児島のエトスにこころを奪われた。
エトス Ethos はギリシア語で、エートスとも音される。ご存知の パトス Pathos 感情 ・ 激情の対語である。そのことは本欄でもしるしたことがある。

【 花筏 : 朗文堂-好日録015  五日市のランドスケープ、佐々木承周老師 2011年11月23日 】

すなわちエトスとは、やつがれにとっては情念にちかく、簡略に述べると、ひとの性格 ・ 心性であり、ある社会集団にゆきわたっている恒常的な感性 ・ 情念であり、ときとして色彩感覚や宗教観や死生観でもあろうか。

どうやらやつがれ、田舎育ちのゆえに、火の山櫻島、紺碧の錦江湾、そして南国の氷菓 「 しろくま 」 にまで、地霊 ・ 山霊 ・ 岩霊 ・ 艸霊 ・ 木霊 ・ 水霊をおぼえるのである。そのふところに身をゆだねると安堵するエトス ── 情念 ・ 性癖ないしは心性があるらしい。
こうした山川の地では、一木一艸がいとおしく、小川のせせらぎ、かすかな瀬音、どうということのない路傍の小石までがこころをなごませる。

これからしばし、エトスが存するまち、なんといっても 「 しろくま 」 が一年中食せるまち、「 鹿児島 」 に、内心ひそかに情念のほむらを燃やしながら、こだわるつもりのこの頃ではある。

タイポグラファ群像007*【訃報】 戦後タイポグラフィ界の巨星 : 吉田市郎氏がご逝去されました

 

yoshida_sama[1]吉田市郎  1921(大正10年)01月28日-2014(平成26年)09月29日 行年93

元株式会社晃文堂代表取締役/株式会社リョービ印刷機販売代表取締役、株式会社リョービイマジクス代表取締役、リョービ株式会社取締役、吉田市郎氏が、2014年09月29日肺炎によりご逝去されました。
ここに謹んで皆さまにご報告いたします。

吉田市郎氏にお世話になったのは、朗文堂 : 片塩二朗がまだ小学生のころに、日本橋丸善の店頭にあったスミスコロナ社の欧文タイプライター(パイカとエリートサイズを搭載していた)に惹かれ、神田鍛冶町二丁目18 にあった、株式会社晃文堂-欧文活字の晃文堂をオヤジとともに訪ねたのが最初でした。

以来半世紀余にわたり、筆舌につくせないご薫陶をたまわりました。
ご高齢でもあり、いつかこの日がくることは覚悟していたつもりでしたが、お知らせをいただいて、まさに <巨星 墜つ> のおもいで ことばもございません。

いずれ別項 <タイポグラファ群像> をもうけてご報告いたしますが、吉田市郎氏は、終戦後ようやく復員し、まもなく晃文堂を設立され、金属活字 ・ 活版印刷関連機器の製造販売からスタートし、写真植字、デジタル世代の三代にわたって、つねにその先頭にたって業界を牽引したかたでした。
またタイポグラファの見地から、印刷術をシステムとしてとらえ、その基盤の書体開発から、印刷までの、一貫したシステムの開発に尽力されました。

ともかく仕事一筋のかたでしたから、業界紙誌への寄稿はたくさんありますが、まとまった著述はのこされませんでした。わずかに吉田市郎氏からの聞き語りと、頂戴した資料をもとに記述した拙著 『逍遙 本明朝物語』 (オフセット印刷版は完売。樹脂凸版印刷版のみ在庫。朗文堂) が、わずかにそのタイポグラファとしてのお姿を伝えるばかりです。
【 朗文堂ブックコスミイク : 既刊書案内 『逍遙 本明朝物語』

また、吉田市郎氏は多年にわたる業界への貢献によって、数数の顕彰を受けてきましたが、2008年(平成20)タイポグラフィ学会による、第一回 平野富二賞を受賞されました。そのことをとても喜ばれて、
「活字と印刷機器の製造販売を担ってきた者として、平野富二賞の受賞はとても嬉しいことでした」
と再再述べられていたことも、鮮明なおもいでとしてのこっています。
第一回平野富二賞 吉田市郎氏吉田市郎氏賞状組版
受賞者 吉田市郎氏 について ―― タイポグラフィ学会
吉田市郎氏は、終戦の翌年に晃文堂を創業されて、活字製造の事業を興され、その後リョービ印刷機販売株式会社 (現 リョービイマジクス株式会社) の経営にあたられ、総合的な印刷システムの開発と普及に尽力されました。
社会や技術の急速な変化の中にあっても、同氏は活字書体とタイポグラフィに対する深い理解と愛着を堅持され、その普及 ・ 発展に貢献してこられました。 
タイポグラフィ学会は同氏の功績を顕彰するため 「第 1 回 平野富二賞」 受賞者に選考いたしました。

【 タイポグラフィ学会 URL : 第一回平野富二賞受賞者 吉田市郎氏 2007.08.18

そこで、吉田市郎氏の晩年の2006年に発足した、朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部の <ニュース第一号> にお寄せいただいたご祝辞を紹介させていただき、せめてもの吉田市郎氏のご人徳をしのぶよすがとさせていただきます。 DSC03368[1] DSC03405[1]
【 元記事 : アダナ・プレス倶楽部ニュース No.001- Adana-21J の誕生おめでとう 2006.09 
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ニュース No.001 【アダナ・プレス倶楽部便り】

アダナ型印刷機 < Adana – 21 J > の誕生、おめでとう  !

吉田 市郎 株式会社リョービイマジクス顧問 (元 ・ 株式会社晃文堂代表取締役)

このたび、朗文堂/アダナ・プレス倶楽部からアダナ型小型活版印刷機「 Adana – 21J 」が誕生されるとうかがい、大変嬉しく存じます。

古い話しになりますが、株式会社晃文堂の時代に 「アマチュア用印刷機 ADANA 」 を 2 機種 (3×5 inch, 5×8 inch) 輸入販売いたしました。
当時のわが国では活版印刷はとても盛んでしたが、国家そのものに外貨の蓄えがなく、外貨の為替管理がきわめて厳しくて、海外からの、活字、活版印刷関連機器など、物資の輸入には様々な困難がありました。

幸い多くのユーザーの皆さまを得て、アダナ印刷機はご好評をいただきましたが、その後イギリスのメーカーが製造を中止し、また活版印刷全般も衰勢をみせるようになって、アダナ印刷機の代理販売業務からは撤退いたしました。
従いまして、多くのユーザーの皆さまには、不本意ながらご迷惑をおかけすることになったことにたいして、内心忸怩たるものがありました。

それが今般、長年ご厚誼をいただいている朗文堂さんの新事業部門、アダナ・プレス倶楽部によって、新設計による国産活版印刷機 「 Adana-21J 」 が誕生するとうかがい、大変嬉しく思っております。
おそらく活版印刷と鋳造活字には、まだまだ寒風が押し寄せるでしょうが、それにめげず、創意と挑戦の意欲を持って、これからの開発 ・ 販売にあたって頂きたいと存じます。 「 Adana-21J 」 の試作機のご発表、おめでとうございます。