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朗文堂-好日録019 活版カレッジ台湾旅行 新活字母型製造法を日星鋳字行でみる

《CAD システムを駆使した日星鋳字行の活字母型製造法》
今回の台湾旅行の最大の目的は、台湾・台北市にある活字版製造所/日星鋳字行(代表/張 介冠氏 チョウ-カイカン)をたずね、パンタグラフの比例対応方式を応用した、機械式活字父型・母型彫刻法(以下ベントン彫刻と略称)にかわる、あらたな活字母型の製造法、すなわち  Computer Aided Design(CAD)方式の採用による「あたらしい活字母型製造法」を実地に体験して、それを学習することにあった。

既報のとおり、わが国における近代活字の活字母型製造法とは、なんの疑いもなく、西洋近代の文明開化を象徴する新技術として、明治最初期から「電鋳法(電胎法とも)活字母型 Galvanic matrix」がほとんどであった。
この方法は簡便ではあるが、「既成の活字から、それを複製原型として、あらたな活字母型、活字をつくる ──  Making Matrices from Type」、すなわち活字の不正複写が多発するとされて敬遠され、欧米ではオーナメントや精密画像の複製用などの「電気版 電胎版とも Electrotype」に使用される程度にとどまった技法であった。

ところがわが国では、近代タイポグラフィの導入期から、各地の活字鋳造所でひろくおこなわれていた活字母型製造法は、この不正複写問題が多発するとされ、欧米では敬遠された「電鋳法(電胎法とも)活字母型 Galvanic matrix」であったことは、そろそろ明確に記憶にとどめてもよいだろう(『Practical Typecasting』Theo Rehak, Oak Knoll Books, Delaware, 1993, p.152-163 )。

わが国では、ほかには「弘道軒清朝活字」を製造販売した「弘道軒活版製造所」など、ほんの数社が、欧米とおなじように、複製原型としての活字父型を彫刻して「パンチド・マトリクス方式  Punched Matrix」を採用して活字母型を製造していた。

すなわち世界的な規模において、近代タイポグラフィ界にあっては、ながらく、活字製造の複製原型は活字父型(木製のばあい種字とされることもある)であり、その活字父型(種字)の存在が、原鋳造所のなによりの誇りであり、証明となっていた。
当然活字父型はたいせつに保管されていたので、欧米各国の活字鋳造所、活字博物館、活字記念館などでは枢要な展示物として活字父型をみることができる。

わが国では、前述した弘道軒活版製造所の活字父型のほとんどは、関東大地震の被害をまぬげれて、神崎家 → 岩田百蔵氏 → 日本タイポグラフィ協会の手をへて、まだ未整理な段階にあるものの、現在は印刷博物館が所蔵している。
また岩田百蔵氏の時代、少数ながら弘道軒活版製造所のよく整理された資料が、女婿・平工栄之助の手に継承され、その資料は研究対象として現在朗文堂がお預かりして、公開展示や実際の印刷テストなどにももちいている(平工家蔵)。
【参考資料:「弘道軒清朝活字の製造法とその盛衰」『タイポグラフィ学会誌 04』(片塩二朗、タイポグラフィ学会、2010年11月1日)】

イタリアのタイポグラフィの王者、王者のタイポグラファと称賛される Giovanni Battista BODONI(1740-1913、パルマ)の「ボドニ活字博物館」の収蔵資料。同館ではボドニの活字父型、活字母型、鋳造活字、それで印刷された書物がすべてセットで展示されているのが大きな特徴である。

このパンタグラフの原理を応用した機械彫刻方式は、リン・ボイド・ベントン(Benton, Linn Boyd  1844-1932)によって、1884年に活字父型彫刻機(Punch Cutting Machine)として実用化された「機械式活字父型・母型彫刻機、ベントン」であった。
しかしながらこの方式による機械式活字母型製造法は、安形製作所、協栄製作所などの彫刻技術者が2012年に相次いで逝去されたため、ここに、アメリカでの実用化から128年、国産化から62年という歴史を刻み、2012年をもって事実上幕をおろすこととなった。
【参考資料:花筏 タイポグラファ群像*004 安形文夫】

すなわち、これからのわが国での活字鋳造の継続を考慮したとき、いかに慣れ親しんだ技法とはいえ、残存するわずかな原字パターンの字体にも、常用漢字を中心に時代性と齟齬がみられたり、もはやあまりにふるい「機械式活字父型・母型彫刻機、ベントン」という19世紀の活字製造周辺技術にすがることなく、いずれ、あらたな活字母型彫刻法を開発しなければならない状況にあった。
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台湾における活字鋳造会社、日星鋳字行の存在と、そのCAD方式をもちいたあたらしい活字母型製造法の情報は、だいぶ以前から林 昆範 リン-クンファン 氏(台湾中原大学助教授、タイポグラフィ学会会員)からいただいていた。
したがって、そもそもこの台湾旅行は、昨年中におこなわれる予定の企画だったが、2011年3月11日の東日本大震災の影響もあってのびのびになっていた。その間逆に、昨年末に数回、日星鋳字行の張 介冠 チョウ-カイカン 代表と、台湾活版印刷文化保存協会の 柯 志杰 カ-シケツ さんが、日本における活字鋳造の現状調査、台湾のテレビ局の取材の立ち会い、欠損部品の補充などを目的に、わざわざご来社いただくことが数度あった。

さらにふしぎなことに、昨2011年の年末、クリスマスの日も、年末をもって廃業される活字関連業者の設備移動に関して、急遽来日されたおふたりと過ごしていた。
なによりも日星鋳字行さんは《活版凸凹フェスタ2012》に独自スタンドをもうけて出展されており、アダナ・プレス倶楽部〔現サラマ・プレス倶楽部〕会員の皆さんとも、すっかり親しい間柄になっていた。
★アダナ・プレス倶楽部 活版凸凹フェスタ*レポート14 

  
  
  
上左・右)日星鋳字行のコンピューターで、あらかじめ送付しておいた原字データーに、鋳造活字にもとめられる「Bevel 傾斜面」のデーターを付加するなど、CAD彫刻方式に必要な画像処理が加えられていた。

中左)そののち、斬削加工機にデーターが搬送される。この斬削加工機はさして特殊なものではなく、金属加工業界ではふつうにもちいられている程度のものだそうである。
中右)所定の金属材料マテ(Material のなまり。ここでは真鍮の角材)を、定められた位置に正確に置いて固定する。それ以後は操作パネルの操作で、極細のドリルが降下してきて、あとは自動的に彫刻がはじまる。

下左)ドリルの移動は、ベントン彫刻機が手技によって輪郭線をなぞる作業からはじまるのにたいして、本機ではデジタル・スキャナーと同様に、ドリルは上部から下部にかけて、水平運動を繰り返していく。ドリルは作業中交換されることは無く、この1本のみで終了する。これで初号から、現段階では実験的ながら、六号サイズまでの活字母型彫刻に対応しているとのことである。
下右)彫刻を終えた活字母型は、検品・補修のうえ、すぐさま活字鋳造がはじまった。日星鋳字行には活字鋳造機が、台湾製/2台と、日本・八光活字鋳造機製作所(長野県埴科郡戸倉町に旧在した)による「全自動活字鋳造機 セルフデラックス」1台があった。今回の活字鋳造は八光活字鋳造機製作所のものがつかわれた。

日星鋳字行の活字鋳造機は、上掲写真右側の八光活字鋳造機製作所(長野県埴科郡戸倉町に旧在した)の製造による「全自動活字鋳造機 セルフデラックス」とほぼ同型の機種であった。

今回の参加者全員の原字データーは、いったんアダナ・プレス倶楽部に集約されて、かつてのベントン彫刻機のパターン製造のときと同様に、あらかじめ簡便な「文字作成ソフトウェア」をもちいて、2インチ角の枠と、センター・トンボをつけた文字データとして日星鋳字行に送付しておいた。
作成予定の活字母型と活字は、初号活字(42ポイント)であった。形象が複雑で、彫刻時間が長時間になるものは、あらかじめ日星鋳字行で機械彫刻が先行していた。

彫刻時間だけをみると、楷書体初号「朗」のひと文字を彫刻するのに15分ほど、おなじく「文」のひと文字を彫刻するのに10分ほどの時間がかかった。
斬削中はつねに操作面に機械油が注がれて、斬削粉の除去と、ドリルの加熱を防止していた。
なにぶん金属加工や機械関連には知識が乏しい。また、日星鋳字行の独自のノウハウも尊重しなければならない立場であった。そのため参考資料として【平田宏一氏 機械加工の基礎知識】をあげておいた。関心のあるかたは参考にしていただきたい。

《活版凸凹フェスタ2012》会場にて──2012年05月05日

上) 『昔字・惜字・習字』(臺灣活版印刷文化保存協會 2011年 中華民国100年12月
同書の序文に「鉛活字印刷技術之復興 ── 風行一時、日星又新」とある。
日台でのおもいは同じで、どちらも《活版ルネサンス》。柯 志杰さんによると、
いまの台湾では、活字鋳造、活版印刷の崩壊をあやうく防止できたという段階に
あり、これから徐徐に修復作業にとりかかり、将来課題として新刻作業に入る
段階にあるとのこと
である。
左) 日星鋳字行  張 介冠(チョウ-カイカン)代表

右) 台湾活版印刷文化保存協会  柯 志杰(カ-シケツ)さん

日星鋳字行地階の作業場にて。後列はアダナ・プレス倶楽部 活版カレッジ修了生の皆さん。

前列右)日星鋳字行  張 介冠(チョウ-カイカン)代表
前列左)台湾活版印刷文化保存協会  柯 志杰(カ-シケツ)さん

  

  

 上左)日星鋳字行は活字版製造所(活字組版所)を兼ねているため、活字の在庫はふつうの活字鋳造所にくらべるときわめて多い。写真は文選箱を手に、ずらりと並んだ活字ケース架をぬって、台湾ならではの活字の購入に忙しい会員の皆さん。
上右)さまざまな国からの見学者が増え、カバンや手荷物が当たって活字の落下事故が増えているそうである。活字ケース架(ウマ棚)には手荷物の持ち込みはやめていただきたいとのこと。
また財政担当の張夫人がやつがれに、
「長時間見学や撮影だけして、なにも買わないか、せいぜい名前の活字2-3本だけ買って帰る人はねぇ」と、ポツリ……。結構こたえた!

下左)台湾では縦組み、横組みを問わず「句点  、」と「読点 。」も中央におかれる。そのための中付きの句読点の活字。
下右)台湾・日星鋳字行にもありました! 「活字列見」。
「やつがれ-これをナント呼んで、ナニに使っていますか」。「張代表-名前は知らないけど、欧文活字を鋳込むとき、ベースラインを見本活字とあわせるのに必ずつかっています」。「やつがれ-なるほど、日本とほとんど同じですね」。「柯さん-そうか、知らなかったなぁ」。

日本と台湾のタイポグラファの交流はこうして続いていく。

★タイポグラフィ あのねのね*016
これはナニ? なんと呼んでいますか?  活版関連業者からお譲りいただきました。

★タイポグラフィ あのねのね*018
Type Inspection Tools   活字鋳造検査器具  Type Lining Tester  活字列見

【この項つづく】

タイポグラファ群像*004 安形文夫 ベントン活字母型彫刻士

安 形 文 夫  (写真撮影 : 2008年09月28日)
〔あがた-ふみお 1941年(昭和16)10月26日うまれ-2012年(平成24)01月01日歿〕
機械式彫刻活字母型製造工場「安形製作所」代表
2012年01月01日、膵臓がんのため永眠。行年71
法名 : 誠徳院華岳文光居士

 《最初に山梨市の安形製作所の工房を訪ねたとき》
あれは何年前だったのだろう。
武蔵野美術大学に、まだ短期大学部があったころだから15-20年ほど前のことになる(2003年 平成15年、 武蔵野美術大学短期大学部は廃止。 したがってそれ以前のこと)。

このころすでに、パンタグラフの比例対応方式を応用した、機械式活字父型・母型彫刻法(以下ベントン彫刻と略称)の産業基盤と、その技術継承に不安があるということで、元・岩田活字母型製造所の高内 一 タカウチ-ハジメ 氏のお骨折りで、武蔵野美術大学短期大学部の学生諸君が、ベントン活字母型製造工場 「安形製作所」(代表社員:安形文夫、山梨県山梨市三ヶ所)の作業のすべてを、ビデオ映像に撮影・保存する企画があった。

左写真)
機械式活字父型 ・ 母型彫刻機(ベントン彫刻機、ベントンと略称された)
上写真)
高内 一氏(2012年08月14日撮影) 

武蔵野美術大学の学生諸君の引率・指導は横溝健志さん。 その撮影に便乗して、森 啓さんとやつがれも、一連の活字母型彫刻工程見学のために参加した。

もちろん、横溝氏、森氏、それにやつがれも、ベントン彫刻機はあちこちで目にしていたし、簡略ながら、実際に操作体験くらいはしたこともあった。それでも山梨市在住の安形文夫というベントン彫刻士を知ったのは、このときが最初だった。
安形氏はやつがれよりいくぶん年長だったが、この年齢ともなればもはやほぼ同世代であり、なにかと親しくおつき合いいただいた。

《安形文夫氏の略歴》
安形文夫 〔あがた-ふみお、1941年(昭和16)10月26日、山梨県うまれ〕は、ながらく横浜市の活字母型製造所「横浜精工所」に「活字父型 ・ 活字母型機械彫刻士」 として勤務された。「横浜精工所」の主業務は活字母型彫刻で、東京・飯田橋(のちに千駄ヶ谷に移転)にあった「飯田母型」と「横浜精工所」は、工場主が実の兄弟の間柄だったとされる (高内 一氏談)。

安形文夫はその 「横浜精工所」 で、ベントン彫刻機の彫刻士としてながらく勤務された。
1980年代のはじめ、「横浜精工所」を退職後に、山梨市三ヶ所に「安形製作所」を設立。 ベントン彫刻機を数台設置して、おもに活字母型彫刻の業務にあたった。

1960-70年代前半には、新聞社と大手印刷所を中心に「機械式活字自動鋳植機」(いわゆる日本語モノタイプ)が盛んに稼働していた。
「活版印刷」が後退したいまではすこしわかりにくいが、1970年代の印刷によるページ物書籍や、新聞などのほとんどは、端物印刷所などでみられる、活字の手びろいよる「文選」ではなく、相当機械化と自動化がすすんだ 「日本語モノタイプ」 によって、活字が鋳造 ・ 植字され、校了後に、「紙型取り作業  Matrix molding」から、疑似活字版ともいえた「鉛版 Stereotype,  Stereo」を製造して「凸版印刷  Letterpress printing」された。 これらの一連の作業もふくめて、ふつう 「活版・活版印刷」 と呼んでいる。

実践活字母型彫刻:朗文堂 アダナ・プレス倶楽部 特別企画/感動創造の旅 協力:真映社・安形製作所・築地活字実践活字母型彫刻(イメージ写真)

高速かつ大量に活字を鋳造・植字する「機械式活字自動鋳植機」にあっては、高速で激しく稼働する機械のために、新規購入時はもちろん、鋳造作業によって損傷した活字母型の補充注文も大量に発生して、「安形製作所」 の活字母型製造業務は比較的好調な出足となった。
それでも、活版印刷業と活字鋳造界全体が、1970年代の後半から急速に衰退するなかにあって、設立からの安形製作所の経営は決して楽なものとはいえなかった。それでも設立直後の同所に追い風となったのは、新聞各社の紙面変革にともなう活字書体の大型化であった。
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わが国の近代活字活字版印刷術(タイポグラフィ)は、1873年(明治6)長崎から10人ほどのスタッフを伴って上京した平野富二が、旧伊勢国津 藤堂藩上屋敷の門長屋の一隅(現・千代田区神田和泉町1)に活版製造所(のちの東京築地活版製造所、当初はさまざまな呼称で呼ばれていた)を設けたことで本格始動した。

関東大震災と第二次世界大戦の被害によって、わが国の金属活字と活字母型は壊滅的な打撃をこうむっていた。 また戦禍を免れたとしても、大正期から戦前までの 「電鋳法による活字母型(電胎母型)」 は、すでに耐久性が限界をはるかに越えて、ほとんど実用性をうしなっていた。

戦後の再出発に際して、大手印刷所、大手新聞社のほとんどは、1947-1950年代の初頭から、おおがかりな活字母型の改刻作業に入った。 その先鞭をつけたのは 「毎日新聞社」 と 「大日本印刷」 であった。
毎日新聞社は、大日本印刷とともに、津上製作所製造の、国産による 「機械式活字父型 ・ 母型彫刻機」(いわゆるベントン彫刻機、ベントンとも)を導入して、文字形象を整備するとともに、それまでの損耗の激しかった電鋳活字母型から、真鍮の地金に直接機械式で彫刻し、それを活字母型にすることで、電鋳活字母型のおよそ5-10倍の活字母型の耐久性の向上を計った。
また活字母型深度の統一( ≒ 活字の高さの統一)によって、いわゆる 「ムラ取り」 時間を大幅に短縮することに成功した。

すなわち1923年(大正12)に、東京築地活版製造所、印刷局、三省堂の注文により、三井物産をつうじて、わずかに米国から03台だけ輸入され、実験的に稼働していた三省堂所有のベントン彫刻機をモデルとして、国産機が製造され、急速な普及をみたのは1950年(昭和25)からのことであった(「ポイント制活字の開発と機械式活字母型彫刻機」『秀英体研究』片塩二朗、大日本印刷、2004年12月11日)。

東京築地活版製造所最後の活字種字彫刻士とされた安藤末松(本名 : 仁一 1935-72年)
印章士のように、文字を裏文字、原寸で種字に彫刻する技術は、急速なベントン彫刻機の普及もあって、安藤の晩年にも、すでにまとまった 「活字種字彫刻」 の仕事はほとんどなく、特殊文字 ・ 図画など、いわゆる 「足し駒」 の種字彫刻や、足し駒木活字の製造がもっぱらだった。
「足し駒木活字」 とは、
金属活字に無い、特殊な文字や図形を、活字とおなじ大きさ ・ 高さの木台に裏文字で彫刻するもので 「木活 ・ 足し駒」 とも呼ばれた。
紙型どりはもちろん、原版刷りでも、
ほんのわずかに活字より低くすることで、3,000枚程度の原版刷りにももちいられた。 この安藤末松の逝去をもって、わが国の活字種字彫刻士の系譜は事実上幕をおろした。

このベントン彫刻機国産化の成功は、おおきな衝撃を印刷 ・ 活字界にもたらした。 国産機メーカーも、先発した津上製作所につづいて、不二越製作所も追随して開発に成功して、朝日新聞社、凸版印刷なども、ベントン型彫刻機を競って大量に導入した。

《技術の変遷にともなう活字原型彫刻技法の変化》
18世紀中葉-19世紀にかけ、イギリスでは人力にかえて、蒸気機関などの動力が開発された。 その結果、機械産業がいちじるしく発展して産業革命をもたらした。 この産業革命は活字製造と活字版印刷術にもおおきな変化をもたらした。

近代活字版印刷術(Typography)の創始のころから、印刷用文字活字複製原型の製造とは、特殊技能者とされた 「パンチカッター (活字父型彫刻士)」 が、手技によって、逆文字(鏡文字 ・ 裏文字)を金属材に彫刻する技法で 「活字父型  Punch」 をつくり、それを簡便な道具で、マテ(マテとは Material が訛ったものとされる。 真鍮、ニッケル、鉄などの角棒材) に打ちこむ(押しこむ)ことで 「活字母型  Matrix」 をつくる 「パンチド ・ マトリクス方式   Punched Matrix」であった。

この技術、なかんずく活字父型彫刻法とは、市販されているふつうの針金程度の鋼材を、焼きなましによって軟鉄とし、そこに逆向きの文字を彫刻し、それを焼き締めて硬化させてから、真鍮などのマテ材に、押圧を加えて活字母型とするものであった。
誤解をおそれずしるせば、これは、象牙 ・ 牛角 ・ 水晶といった硬い素材に、文字を彫刻する「印章士」と、さほどの技術上の違いはない。

ところが欧米では、この技術がながらく秘技・秘伝とされ、家伝ないしは師弟相伝によって技術が継承されてきたために、欧米でも想像以上に書物による紹介は少なかった。
またわが国においては、活字父型彫刻法とは、かたい 「鋼鉄」 「ハガネ」 に文字原型を刻するものとされたために、多くの誤解や神話をうんだ。

「欧州活字鋳造所の説話」 『活版術要』 (原著:American Printer)によれば、1637年、英国国王第Ⅱ世ジュリー王の勅命をもって、英国活字鋳造所のご法度として、活字父型彫刻法が厳しく制限された記録がのこっている。そこには、
「刷印活字鋳造師[原文はパンチ・カッター]ハ四名に限ルヘキモノ」
「英全国ノ刷印師総数ヲ定限シ二〇名トス」
とある。

これは17世紀の英国においては、国王の勅命によって、パンチカッターの技能を有する者は04名に、刷印師(原文は Master-printer であり、親方印刷士としたい)は20名に制限されていたことがわかる資料である(「弘道軒清朝活字の製造法とその盛衰」『タイポグラフィ学会誌04』片塩二朗、タイポグラフィ学会、2010年11月1日、p.60-62)。

この技術が「秘伝」の封印を解かれ、ようやく公開されるようになったのは、19世紀後半から20世紀初頭からで、もはや手技による活字父型彫刻法を秘匿する積極的な根拠がなくなってからのちのことになる(「弘道軒清朝活字の製造法とその盛衰」『タイポグラフィ学会誌04』片塩二朗、タイポグラフィ学会、2010年11月1日、p.57)。

    
    

アメリカ側の記録によると、大正期(1923年 大正12)に、三井物産をつうじて、印刷局(現 独立行政法人 国立印刷局)、東京築地活版製造所(1938年廃業)、三省堂(現 三省堂印刷)などが 「機械式活字父型 ・ 活字母型彫刻機、ベントン彫刻機」 を輸入している。
この輸入に際しては、関東大震災での被害に直面して、輸入品が一時行方不明となり、焼失説がもっぱらだった。 のちに、まだ通関前で、横浜の保税倉庫に保管されていたことが判明したとされる。

また激甚をきわめた関東大震災のなかに関連書類が焼失したのか、アメリカ側への支払いがいまだに済んでいないとする、ふるい文書が存在する(『Practical Typecasting』 Theo Rehak, Oak Knoll, Delaware, 1993,  p.105-110)。
この記録文書は、米人の研究者の手をはなれて、現在は日本の個人が所有している。

このときわが国にもたらされ、考案者の名前から「ベントン、ベントン彫刻機」としてよく知られている 「機械式活字父型 ・ 活字母型彫刻機」 は、米国/ノースウェスタン活字鋳造所(Northwestern Type Foundry) の経営者であった、リン-ボイド-ベントン(Benton, Linn Boyd  1844-1932)が、1884年に、もともとは活字父型彫刻機(Punch Cutting Machine)として実用化し、翌1885(明治18)年に英米両国の特許を得た機械である。
すなわちアメリカでの実用化から40年ほどのはやさで わが国への輸入をみたことになる。

その後ノースウェスタン活字鋳造所は、1892年にアメリカ活字鋳造所 ( ATF,  American Type Founders Inc. )に併合され、リン-ボイド-ベントンも同社に移動し、のちには ATF の代表社員となっている。
前述の印刷局、東京築地活版製造所、三省堂の三企業では、第二次世界大戦の戦禍で、ほとんどの印刷関連機器を焼失した印刷局のほかは、東京築地活版製造所の所蔵機は、さまざまな変転をへて、現在は印刷博物館に収蔵されている。
また三省堂所蔵機は、国産ベントン彫刻機のモデルとなり、いまは同社関連企業の三省堂印刷(八王子市)に保存されている。
このうち、実際にリン-ボイド-ベントン考案による 「機械式活字父型 ・ 母型彫刻機」 の本格稼働に成功したのは三省堂だけだったとされる。

三省堂では導入からしばらくしてから、輸入機をもちいて、もっぱら 「三省堂常用漢字3000字」 の製作にあたった。それに際して三省堂では、活字父型彫刻というより、もっぱら活字母型を彫刻し、同機を 「ベントン彫刻機」 と呼び、その周辺技術はもとより、操作法のすべてを、敗戦までは社外にかたく秘していた。
この間の情報は、あらかたこのブログロール 『花筏』《タイポグラファ群像*002  杉本幸治》にしるしたので、興味のあるかたはご覧いただきたい。 

《機械式活字母型彫刻機、ベントンのすべてを知るひと――細谷敏治氏のこと》

細谷敏治氏  ──  ほそや としはる
1913年(大正2)山形県西村山郡河北町カホク-マチ谷地ヤチうまれ。谷地町小学校、寒河江サガエ中学校(旧制)をへて、1937年(昭和12)東京高等工芸学校印刷科卒。
戦前の三省堂に1937年に入社し、入社直後からもっぱら 「機械式活字父型 ・ 母型彫刻機、いわゆるベントン彫刻機」の操作と研究に没頭した。 また、同氏が敗戦後のわが国の金属活字の復興と振興にはたした功績は語りつくせない。

三省堂退社後に日本マトリックス株式会社を設立し、焼結法による活字父型を製造し、それを打ち込み法によって大量の活字母型の製造を可能としたために、新聞社や大手印刷所が使用していた、損耗の激しい自動活字鋳植機(いわゆる日本語モノタイプ)の活字母型には必須の技術となった。

同氏はまた、実用新案「組み合わせ[活字]父型 昭和30年11月01日」、特許「[邦文]モノタイプ用の[活字]母型製造法 昭和52年01月20日」を取得している。
この活字父型焼結法による特許・実用新案によった「機械式活字母型製造法」を、欧米での「Punched Matrix」にならって「パンチ母型」としたのは細谷氏の造語である。
したがって欧米での活字製造の伝統技法 「Punched Matrix」 方式は、わが国では弘道軒活版製造所が明治中期に展開して 「打ち込み母型」 とした程度で、ほかにはほとんど類例をみない。
また、新聞各社の活字サイズの拡大に際しては、国際母型株式会社を設立して、新聞社の保有していた活字の一斉切りかえにはたした貢献も無視できない。
(2011年8月15日撮影、細谷敏治氏98歳。左は筆者)。
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《半工、半農をこころみた安形製作所》
1970年代後半-1980年代になると、金属活字とその活字母型の需要が次第に減退し、1980年代には技術的に成熟期を迎えた写真植字法による版下製作、写真製版、オフセット平版印刷などの業者が擡頭するようになった。その反面、活版印刷業の衰勢は覆いがたいものになっていた。

そんな時代、1980年代の前半に安形文夫氏は横浜をはなれ、郷里の山梨市に工場兼住宅を新築して、そこに横浜精工所と、岩田母型製造所から譲渡されたベントン彫刻機を10台ほど設置して「安形製作所」を創立して、おもに活字母型製造と、箔押し用の金型(金盤 カナバン)製造などに関わった。
活字母型彫刻の発注が途絶えたときは、菜園の作業や花卉づくりにいそしんだ。また晩年には花卉づくりに熱心になって、作業場の一部を温室に改造して育苗につとめたりもした。

このころの活字母型製造とは、すでに技術におおきな変化がみられて、手組み用に活字鋳造機で単字鋳造されるもの(Foundry type)の活字母型製造より、モノタイプ、ルドロータイプ、インタータイプ、ライノタイプなど、いわゆる自動活字鋳植機とされた、日本語 ・ 欧文モノタイプにもちいる、画鋲のような形態の活字母型(Machine type)の製造のほうが多かった。
とりわけ新聞各社が競って本文活字を大きめのサイズに改刻したときには、近在の農家の主婦までが作業に加わって、工場はおおいに繁忙をきわめたこともあった。
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《 こんな時 代だから 金属活字も創っています !  2009年アダナ ・ プレス倶楽部アラタ1209製造 》
こんな時代だから 活版印刷機を創っています!
そんなスローガンをかかげ、朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部が発足したのが2005年であった。
先行した各種の小型活字版印刷機を参考に、あらたに設計 ・ 試作機づくり ・ 鋳型製造 ・ 組立と進行して、「21世紀の日本で、はじめて完成した活版印刷機」 のおもいを込めて命名した  Adana-21J  が誕生したのは2007年のことである。 

こんな時代だから 金属活字も創っています!
活版印刷機  Adana-21J  の製造 ・ 販売だけでもたいへんな時期だったのに、こんな無謀なスローガンを掲げて、カタ仮名専用活字を創ろうと試みたのは2008年のことだった。
原字 「アラタC」 の製作者はミキ イサム(1904年-85年)、同家ミキ ・ アラタ氏の了承を得て、ライセンス供与は株式会社モトヤからうけた。 カタ仮名専用書体とはいえ、濁音 ・ 促音 ・ 拗音 ・ 約物をあわせると92キャラクターとなる。
モトヤの担当者からは 「いまから活字で新書体をつくっても、絶対商売にならないから、おやめになったほうが……」 と説得されたが、もうプロジェクトは走りだしていた。

★アダナ・プレス倶楽部 News  No.39
    特別企画/感動創造の旅:実践活字母型彫刻
★アダナ・プレス倶楽部 News  No.40
    実践活字母型彫刻、素晴らしい成果をあげて無事終了!
★アダナ・プレス倶楽部 News  No.43
    実践活字鋳造会 盛況裡に終了!

1. 提供された原字をデジタル・データーにして 2 inch 角の原字パターン原図を作成。
   〔正向き、新宿 ・ 朗文堂〕
2. パターン原図をもとに亜鉛凹版によるパターンを製作。
   「懐かしいなぁ。昔は岩田母型さんも日本活字さんもウチでパターンをつくってい
        たけど、こんなまとまった !?  パターンをつくるのは、20-25年ぶりくらいかなぁ」
       (角田常務)。〔正向き、神田 ・ 真映社〕
3. 亜鉛凹版92枚のパターンを持参して安形製作所へ。12 pt の活字彫刻母型製造
        依頼。 「えっ、まだ亜鉛凹版のパターンをつくれるの。 知らなかったな。 ここんとこ
   「足しコマ」か損傷母型の補充ばっかりだったんで、パターンは板ボールをひと皮
   はがして、紙パターンばっかりだった。 これからは朗文堂にパターン製造を依頼
   しよう」。〔正向き、山梨・安形製作所〕
4. 活字彫刻母型が完成。横浜で鋳造。
   「ひさしぶりで、まっさらな活字母型で鋳造すると、嬉しくなるなぁ」
   〔裏向き、築地活字株式会社〕
5. アダナ・プレス倶楽部で「アラタ1209」の商品名で販売中。乞う! ご発注。
   
★ 朗文堂  Type Cocmique
     こんな時代だから、金属活字も創っています! コレダ!カタ仮名専用活字復興。

多くの企業の協力と、多くのひとの努力で復興したベントン式活字母型とその活字スキーム。

こんな時代だから 金属活字も創っています!
「アラタ1209活字復興プロジェクト」は多くの収穫をもたらした。 すなわちベントン式活字母型製造法は、あちこちでパイプが詰まっていた。 その詰まった部分を、ひとつひとつゆっくり丁寧に解消して、円滑な流れをつくることにつとめた。
また、その成果を『アダナ・プレス倶楽部 会報誌』などに公開することで、その後何人ものひとや企業が、ベントン式活字母型製造から活字鋳造に挑戦するようになったことは望外のよろこびであった。
なによりも、わずかとはいえ、安形製作所の稼働率があがったことがおおきな成果であった。

《創造感動の旅 実践活字母型彫刻》
その後もアダナ ・ プレス倶楽部と「安形製作所」は積極的な交流 ・ 発注をつづけた。
とりわけにぎやかで、若者の参加が多くて、安形文夫氏もよろこばれたイベントが、2008年09月27日開催の「朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部 特別企画/感動創造の旅 実践活字母型彫刻」であった。このときはマイクロ ・ バスをチャーターして10数名での参加だった。

そのときの写真をあらためてみると、作業にはきびしく、若者にはやさしい愛情をそそがれた、安形文夫氏のおもかげがしのばれる。
このときは、参加者全員が持ちきれないほどたくさんの椎茸をみやげにいただき、すっかり暗くなった夜道を走って、元従業員だったとされるかたの農場で、山梨名産のブドウを安くわけていただいたのも懐かしい。

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なにぶん正月中の逝去だったために、葬儀は親族だけで密葬された。
2012年08月14日、あらためて友人 ・ 知人 ・ 隣組の皆さんをまじえ、僧侶を招いてのご供養があった。 やつがれはそこで万感のおもいをもってお別れをした。
その後、小社とは直接取引はなかったが、東京 ・ 板橋にあったベントン彫刻所の経営者も2012年09月に逝去されたとの情報があった。

リン-ボイド-ベントン(Benton, Linn Boyd  1844-1932)によって、1884年に活字父型彫刻機(Punch Cutting Machine)として実用化された「機械式活字父型 ・ 母型彫刻機、ベントン」による活字父型 ・ 母型製造法は、ここにアメリカでの実用化から128年、わが国での国産化から62年の歴史をもって、事実上幕をおろすこととなった。
朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部では、生前の安形文夫氏とも相談しながら、次世代の活字母型彫刻法をさまざまに探ってきた。 その成果はいずれ発表したい。

機械式活字母型彫刻士 安形文夫、2012年1月1日、膵臓がんのため逝去。行年71 合掌