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タイポグラフィあのねのね*006 「てにをは」、「ヲコト点」

「てにをは」と「ヲコト点」

タイポグラファなら、文章作法の初歩として、「てにをは が 合わない」とされるのはまずいことぐらいは知っている。ところがこの漢文訓読法――漢字に日本語をあてて読むこと――の「(隠された)記号」ともいえる「てにをは」とはなにか、を知ることは少ない。そもそも漢文そのものに触れることが少なくなった現代においては、「てにをは」を、「弖爾乎波、天爾遠波」のように漢字表記しようとすると、結構苦労することになる。もちろんふつうのワープロ・ソフトでは変換してくれない。しかも歴史上、漢文の訓読は、諸流・諸家によって微妙にことなり、また、それぞれの漢文の訓読法をながらく秘伝としていたからより一層やっかいである。

「てにをは」を知るためには、すこし面倒だが「ヲコト点 乎古止点」を知ると容易に理解できる。ここからは『広辞苑 第4版』を案内役としたい。ただし、同書電子辞書をもちいると、第5版をふくめ、ほとんどの電子辞書には図版がないために、理解しにくくなる。ここは面倒でも重い紙の『広辞苑』の出番となる。

また文献としては、『てにをはの研究 日本文法』(広池千九郞 ヒロイケ-セン-クロウ 1866-1938 早稲田大学出版部 明治39年12月 国立国会図書館 請求記号YMD78491)がある。Website情報で簡便に知りたければ、松本淳氏の「日本漢文へのいざない」 が平易でわかりやすく説いている。

以下に〔乎古止点〕の図版を2点紹介する。下図1はポイントを点(ドット)であらわしており、上部右肩を上から順によむと「ヲコト」となり、「ヲコト点、乎古止点」の語源となったものである。

下図2はポイントを横棒(バー)であらわしている。このうちのいくつかは、のちに紹介する、いわゆる「カタ仮名合字」の元となったと考えられる。

を-こと-てん【乎古止点】  漢文の訓読で、漢字の読みを示すため、字の隅などにつけた点や線の符号。その形と位置とで読みが決まる。たとえば、もっとも多くおこなわれた博士家点 ハカセ-ケ-テン では、「引」の左下の隅に点があれば「引きて」と読み、左上の隅に点があれば「引くに」のたぐいとなる。したがって「ヲコト点、乎古止点」とは、図に表した右上の2点をとって名づけられた。なお漢字の「乎古止」は、「ヲコト」の万葉仮名表記である。

て-に-を-は【弖爾乎波、天爾遠波】  漢文の訓読で、漢字の読みを示すため、字の隅などにつけた点や線の符号。その形と位置とで読みが決まる。たとえば、もっとも多くおこなわれた博士家 ハカセ-ケ がもちいた「ヲコト点」の四隅の点を、左下から時計回りに順に「てにをは」と読んだことに由来する名称。

花こよみ*009

花こよみ 009

詩のこころ無き吾が身なれば、折りに触れ、
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。
まして、原子力発電所の暴走にオロオロするだけの今においてをや。

雨ニモマケズ

宮澤賢治(1896―1933)
改行と文節の一部に手を加え、一部にふり仮名を付した。

雨ニモマケズ 風ニモマケズ
雪ニモ 夏ノ暑サニモ マケヌ
丈夫ナ カラダヲ モチ
慾ハナク 決シテ 瞋イカラズ
イツモ シヅカニ ワラッテヰル
一日ニ 玄米四合ト 味噌ト 少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ ジブンヲ カンジョウニ 入レズニ
ヨクミキキシ ワカリ ソシテ ワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ 病気ノ コドモアレバ 行ッテ 看病シテヤリ
西ニ ツカレタ母アレバ 行ッテ ソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ 死ニサウナ 人アレバ
行ッテ コハガラナクテモイヽトイヒ
北ニ ケンクヮヤ ソショウガアレバ
ツマラナイカラ ヤメロトイヒ
ヒデリノトキハ ナミダヲ ナガシ
サムサノナツハ オロオロアルキ
ミンナニ デクノボートヨバレ
ホメラレモセズ クニモサレズ
サウイフモノニ ワタシハナリタイ

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩

タイポグラフィあのねのね*005 長音符「ー」は「引」の旁から 『太陽窮理解説』

長音符「ー」は、「引」の旁ツクリからつくられた
『太陽窮理了解説』和解草稿2冊
『日本の近代活字』――「文明開化とタイポグラフィ勃興の記録」の補遺として

『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』
(発行:近代印刷活字文化保存会、 2003年11月7日

『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』(発行:近代印刷活字文化保存会、発売:朗文堂 2003年11月7日 版元在庫品切れ)がある。この書物は「本木昌造・活字復元プロジェクト」の一環として編纂された。

「本木昌造・活字復元プロジェクト」――肩書きはいずれも当時のもの
主 唱:本木昌造顕彰会(会長・内田信康)/株式会社モリサワ(会長・森澤嘉昭)/印刷博物館/全日本印刷工業組合連合会(会長・中村守利)
編纂委員会:委員長・樺山紘一(国立西洋美術館長)、委員・板倉雅宣(印刷文化研究家)、片塩二朗(タイポグラファ)、小塚昌彦(タイプデザインディレクター)、小宮山博史(佐藤タイポグラフィ研究所代表)、鈴木広光(奈良女子大学助教授)、府川充男(築地電子活版代表)、高橋律男(株式会社アルシーヴ社)
編著者:『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』編纂委員会
発 行:NPO法人 近代印刷活字文化保存会
発 売:株式会社 朗 文 堂
発売日:2003年11月7日

筆者(片塩二朗)はその編纂委員会のメンバーであり、「文明開化とタイポグラフィ勃興の記録」(p286-331)の章を執筆した。いいわけめいて恐縮だが、この書物のツメの段階にあたって、筆者は病を得て病床にあった。元を正せば永年の不摂生がたたったのだろうが、2002年9月、残暑が厳しい年だった。このとき長崎の小さなビジネス・ホテルに滞在して、長崎県立図書館、長崎市立図書館、長崎市立博物館、長崎印刷工業組合、飽アクの浦近辺の立神 タテガミ ドッグほかの跡地、通称寺町通り近辺の「本木家の菩提寺:大光寺」、「西道仙ニシ-ドウセンの菩提寺:大音寺」、「矢次家ヤツグ-ケ(平野富二の生家)の菩提寺:禅林寺」などを駈けまわっていた。

長崎の市街地は、海岸に沿ったほんのわずかな地域をのぞくと、平坦地はほとんど無い。市街地をちょっとでもはずれると、まるですり鉢からせりあがるように、凧合戦で知られる風頭山カザ-ガシラ-ヤマをはじめ、稲佐山イナ-サ-ヤマ、星取山ホシ-トリ-ヤマなどの急峻な山脈がいきなり迫る。それらの山山を総称して後山ウシロ-ヤマと呼ぶこともある。寺町はそんな長崎の風頭山の山裾を巡って点在する。しかも、大音寺や禅林寺など、ほとんどの寺院の墓地は、山裾から頂上部にかけて這いあがるように存在する。したがってこれらの寺では、日頃から運動不足のわが身にとっては、墓参や調査というより、むしろ登山・登頂といったほうが似つかわしい難行になる。それを連日の残暑のなかで、登ったり降ったりを繰りかえしていた。

ともかく残暑の厳しい9月初旬であった。そんな「登山」を終えて、汗みずくになってホテルにもどり、シャワーも浴びず、エアコン冷房を最強にして、バタン・キュー状態でうたた寝をした。ビジネス・ホテルのちいさな部屋でエアコンは効きすぎた。おかげで一発で風邪をひき、それでもこりずにかけずり回っていたら、ひどい肺炎になって、帰京を長崎の医師に命じられた。それで緊急入院してから、院内感染を含むさまざまな病にとりつかれた。

これ以上、いいわけや「病気自慢」をしてもつまらない。病は2009年に手術を経て完治した(とおもっている)。ともかく振り返れば、不覚なことに、『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』刊行の折、多くの関係者に多大な迷惑をかけながら、筆者は駒沢にある国立東京療養センター呼吸器科病棟に入院していた。したがって「文明開化とタイポグラフィ勃興の記録」の章は、スタッフがパソコンからデータを取り出して、編集を担ったアルシーヴ社にファイルを渡して進行した。校正紙は病床に届いたが、意識が混濁していてほとんど校正もできない状況にあった。当然この章だけがレイアウトも若干まとまりのないものとなったが、収集した資料は、できるだけほかの執筆者に利用していただくこととした。

ところで『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』のうち、拙著「文明開化とタイポグラフィ勃興の記録」p321に、「まどい星の翻訳と音引きの制定者・本木良永」の節がある。この紹介がまことに中途半端な紹介となって、刊行後に読者から何度かお問い合わせをいただいた。それがいつも気になっていた。

2010年7月、ようやく復調して、ぜひとも「近代活字版印刷術発祥の地・長崎」を訪問したいとする「活版カレッジ」の皆さんの、頼りはないがガイド役として、懐かしい長崎を訪れた。筆者にとっては、かねがね気になっていた「まどい星の翻訳と、音引きの制定者・本木良永」の再調査がかくれた目的でもあった。

長崎の本木昌造顕彰会の皆さんをはじめ、長崎史談会の皆さんも、8年余の空白をわすれさせる歓迎をしていただいて嬉しかった。ほんとうの同学・同好の士との邂逅カイコウとは心温まるものであった。また同書に「長崎と阿蘭陀通詞オランダ-ツウジ本木家――本木昌造のルーツ」の章(p240-269)を執筆された、元・長崎市立博物館館長/原田博二氏には、「長崎歴史博物館」に移行した資料「本木家文書」の閲覧許可の取得にたいへんご尽力いただいた。

ちなみに、グーグル検索エンジン(2011年3月9日調査)によると、「本木昌造――82,400件」、「本木良永――270,000件」となる。タイポグラファのあいだでは、長崎のオランダ通詞として本木昌造がよくしられるが、じつはその曾祖父にあたる、本木良永が3倍強の数値でヒットすることにおどろく。本木良永は天文学関係者のあいだでは極めてよく知られた人物だったのである。しかもその本木良永が訳語を制定した「惑星―訳出時にはマドヒホシとふり仮名がある」にいたっては、7,760,000件と、とてつもなく膨大な数にのぼる。

すなわち、タイポグラフィあのねのね*005は、『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』「文明開化とタイポグラフィ勃興の記録」p321、「まどい星の翻訳と音引きの制定者・本木良永」の節の、補遺[ホイ もらし落とした事柄を、拾い補うこと。また、その補ったもの――広辞苑]である。

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『太陽窮理了解説』和解草稿2冊にみる意外な記述

アラビア数字を、活字(金属活字か? 捺印式)をもちいて紹介した。
カタ仮名の濁音を、〃のように、母字に2点を加えることと制定した。
カタ仮名の半濁音を、° のように、母字に小圏(小丸)を加えることと制定した。
カタ仮名の促音を角書きツノガキにならって小さく表記すると制定した。
長音符号(音引き)を、引の旁ツクリからとって、「ー」と制定した。
オランダ語の詠みを、カタ仮名表記と併せ、漢字音を借り(当て字)併記して表記した。

『太陽究理了解説 和解草稿』 凡例に相当するページ
(長崎市立博物館旧蔵 2002年 佐治康生氏撮影 筆者立ち会い)

『太陽究理了解説 和解草稿』 本文ページの一例。惑星が紹介されている。
(長崎市立博物館旧蔵 2002年 佐治康生氏撮影 筆者立ち会い)

本木昌造の曾祖父にあたる本木良永ヨシナガ/リョウエイがしるした『太陽窮理了解説』和解ワゲ草稿上下2冊(翻訳の下書き書)がある。天文学の分野では「惑星 モドヒホシ/ワクセイ」をはじめて紹介した書物としてしばしば取り上げられる書物である。かつては長崎市立博物館が所蔵していたが、現在は長崎歴史博物館の所蔵となっている。200年以上前の、1792年(寛政4)にしるされた手稿であるが、そこには実子の本木昌左衛門によるヒレ紙(附箋)がある。本体ともども虫食いが激しいが、大意次のようにある「お役所に差しあげ置き品は、外にこれあり候とも、父御自筆なれば、大切に直し囲い置いた」

この翻訳はオランダ甲必丹カピタン、すなわち阿蘭陀オランダ商館長が、天球儀と地球儀を長崎奉行に呈上したために、その用法を長崎奉行が本木良永に命じて記述させたものとされる。本草稿は太陽系に関する諸説の変遷を述べ、コペルニクスの地動説をもって終わっている〔原田博二〕。また長崎学の古賀十二郎は、この原著を『Treatise on the Construction and Use of Globes』(George Adams 1766)に擬し、本木良永は同書のオランダ語版『通俗基礎太陽系天文学』(オランダ語の書名は不詳)から和訳したとする。

本木良永はこの翻訳にあたって、天文学の訳語とその記述法に困惑して、さまざまな工夫を凝らした。その結果が『太陽窮理了解説』和解草稿下巻の冒頭にみる「凡例風」の記録としてのこったわけである。本木良永は困難を乗りこえて翻訳を終え、1792年(寛政4)に『星術本原太陽窮理了解新制天球二球用法記』として、老中松平定信に献上したとされているが、本書はその草稿にあたる。

なお幕府献上本『星術本原太陽窮理了解新制天球二球用法記』は、当時の幕府の施設「天文方」に託され、現在は国立天文台が所蔵すると一部で記録されている。そこで、今回国立天文台を訪れてマイクロ・フィッシュを取得したが、国立天文台所蔵資料は『太陽窮理了解説』和解草稿、すなわち現在の長崎歴史博物館所蔵資料からの大正期の写本であって、正本ではないことが判明した。また同天文台の所蔵書は下巻を欠いていた。ただし『星術本原太陽窮理了解新制天球二球用法記』に関して、グーグル検索エンジンではフランス語と中国語? の2件の文献にヒットするので、どこかに正本が存在する可能性は否定できない。

『太陽窮理了解説』和解草稿の山下満津丈による写本(国立天文台蔵)

『太陽窮理了解説』の正本『星術本原太陽窮理了解新制天球二球用法記』は、幕府天文方に献上されたものであるから、その機構の一部を継承した国立天文台(東京都三鷹市大沢2-21-1)に存在すると一部の記録にみる。そのために同所の所蔵書も調査してみたが、同所蔵書の巻末に「大正3年10月、長崎公園内長崎市役所仮庁舎ニテ 山下満津丈 識 シルス」とあり、その跋 バツ/アトガキ によると、国立天文台所蔵書は「正本」ではなく、長崎の『太陽窮理了解説』和解草稿(現長崎歴史博物館蔵)の写本であるとしていた。また同一ページに別人の手による小さな書き込みがあって、「昭和36年1月11日、東京本郷××古書店より購入」とあり、ここで取りあげる「凡例」を含んだ、肝心の下巻は残念ながら発見できなかった。

◎『太陽窮理了解説』和解草稿にみる興味ぶかい記述

『太陽窮理了解説』和解草稿の原文はカタ仮名混じりであるが、若干意訳して紹介する。ちなみに本木良永は西家から本木家に養子にはいった。曾孫にあたる本木昌造も、やはり他家(馬田家から・北島家からとする両説がある)から本木家に養子にはいったという、似た経歴がある。また本木良永は本木昌造に先立つこと89年前に誕生したが、文章は近代的で、曾孫・本木昌造よりはよほど平易である。ただ、図版で紹介したように、同書は虫食いがきわめてひどく、一部は判読によった。

プラネーテンということばはラテンの天文学用語なり。この語はオランダ語ドワールステルと通ず。ここに惑星 マドヒホシ と訳す。いまここにあるかと見れば、あそこにありて、天文学者が測量をなすに迷い惑へるによる。

また下巻の冒頭、「凡例風」の文中にこんな驚くこともしるしている。なお算用数字/アラビア数字は、金属活字をもちいており、印刷方式ではなく金属活字をもちいて捺印方式によってしるしたものとおもわれる。

算数文字別形
1 一  2 二  3 三  4 四  5 五  6 六  7 七  8 八  9 九  0 十
一 オランダ語の音声をあらわすとき、日本のカタ仮名文字を用いる。濁音[ガギグゲゴなど]には、カタ仮名の傍らに〝 のようなふたつの点を加える。その余の異なる音声[半濁音、パピプペポ]には、やはりカタ仮名の傍らにこのように ° 小圏[小丸]をしるす。また促呼する音声[促音]には、ツノ字[角書きツノ-ガキのこと・菓子や書物の題名などの上に複数行にわけて副次的に書く文字]を接し、長く引く音には、引の字のツクリを取りて『ー』のごとくしるす。かつカタ仮名の□以下数文字判読不能□新字を為し、このように記し、かつカタ仮名の傍らにこのような字をつけてしるしても、まだオランダ語の語音をあらわしがたい。そこで唐通事[中国語の通訳]石崎次郎左衛門に唐音をまなんで、オランダ文字と漢字をあわせてしるすなり。

としている。すなわちカタ仮名に濁音記号と半濁音記号を設け、カタ仮名に促音を設け、カタ仮名の音引き・長音符としての記号「ー」をつくったのは、1793年ころ、長崎の本木仁太夫良永であったのである。また算用数字を明瞭な形象、おそらく印章と同様に捺印方式によったとみられるが、金属活字の影印をもちいて、1-0までを紹介している。

東京天文台蔵の写本で、山下満津丈はその跋バツ/アトガキに「此の書中のアルファベットは皆木版を用ゆ」と紹介しているが、現・長崎歴史博物館蔵書を都合4度実見した筆者は、算用数字を含むアルファベットのほとんどは、水性の墨のはじき具合、その影印からいって、木版(木活字)によるものではなく、金属活字による捺印であるとみなしたい。また虫食いがひどい部分で判読は困難だが、「新字を為し」の部分からは、いわゆる「カタ仮名合字」も本木良永が制定した可能性も否定はできない。さらに「促呼する音声」とされた部分には、正確にいうなら、促音・拗音・撥音もみられるが、ここでは音声学・音韻学的な分析までは及ばないことをお断りしたい。

◎ 本木良永とは、どんな人物だったのか?

おもえば本木家歴代において、もっとも傑出した人物は本木仁太夫良永(モトギ-ジンダユウ-リョウエイ、ヨシナガトモ 1735-94 享保20-寛政7)かもしれない。本木系譜所引本木家系図には「本木仁太夫良永、永之進、幼名茂三郎、字士清、号 蘭皐ランコウ」[『日本の近代活字』ではランサイとルビをふったが、お詫びして訂正したい]とある。

西家の出で、西松仙の三男。14歳にして本木仁太夫良固の女婿となり、稽古通詞からはじめで大通詞になった。阿蘭陀通詞本木家のひとではあったが、このひとは通詞の実務家というよりは、学者であり研究者であった。おもな訳書に『平天儀用法』1774年、『天地二球用法』1774年、『渾天地球総説』1781年、『阿蘭陀全世界地図書訳』1790年、『太陽窮理了解説』1792年などがある。大光寺の本木家墓地で、もっとも立派な墓標は、中央を占める本木仁太夫良永蘭皐のものである。その墓誌には次のようにある。

寛延元年君年一四、充訳員、転副訳末席、天明七年累進為副訳、八年擢家訳、茲歳、蘭入貢永続暦、官命訳之、寛政元年、頁万国地図書、又命訳之、作解書二冊献之、三年、見異船於豊前藍島、君寵命抵彼地竣事而還、同年、訳和蘭天地二球及用法之書、作太陽窮理了解説献之、訳前書全部献之、此際賞賜数次、声誉亦大顕六年秋病辞職、君在職四十七年、以享保二十年乙卯六月十一日生、寛政六年甲寅七月十七日病卒、享年六十、葬于大光寺焉

『太陽究理了解説 和解草稿』 本文ページの一例。『日本の近代活字』p254に紹介。(長崎市立博物館旧蔵 2002年 佐治康生氏撮影 筆者立ち会い)

このひとはたしかに偉大な業績をのこしたが、曾孫・本木昌造と同様に牢獄にもはいった。この時代、長崎阿蘭陀通詞が罰を得て入牢するのはとりたてて特殊なことではなかったのである。1790年11月『犯科張』(長崎県立図書館旧蔵)によると、大通詞本木良永、大通詞楢林重兵衛のふたりは30日の押込(入牢)、通詞目付吉雄幸作は30日の戸締(蟄居)を命じられた。その罪状はたかだかとしたものである。句点のみ加えで原文のまま紹介する。

右之者共先輩仕癖之事与者申なから、御改正被仰出候上者心付候儀は追々ニも可申出処、無其儀年来樟脳銀銭之儀ニ付、不束之取計候段不埒之至ニ付、厳科可申付処、令宥免、幸作儀は戸〆、重兵衛、仁太夫は押込申付候

これらの3名は、オランダに売り渡す樟脳や銀銭などの書類に、ふつつかな和解ワゲ、ホンヤクをして幕府に損害を与えたとして罰を与えられたのである。こうした処罰は長崎奉行所が下したが、ふつうはしかるべき肝いりからの嘆願書が出され、押込は蟄居に、戸締は謹慎に減刑されるものであった。この3名も結局そうなった。

ちなみに長崎の医師の家系であった西家と、阿蘭陀通詞・本木家ではしばしば婚姻・養子縁組がなされている。『Vignette 00号 櫻痴、メディア勃興の記録者』(片塩二朗、朗文堂、2001年12月10日、p128)から、「本木家関係系図」をふたつ紹介するので参考にしてほしい。

上図 : 『Vignette 00号 櫻痴、メディア勃興の記録者』
(片塩二朗、朗文堂、2001年12月10日、p128)から、
本木昌造関連家系図(旧長崎県立図書館の資料から補整、1992年)

下図 : 『Vignette 00号 櫻痴、メディア勃興の記録者』
(片塩二朗、朗文堂、2001年12月10日、p129)から、島屋政一資料「本木家関係系図」

◎ データ公開が待たれる『太陽窮理了解説』和解草稿

『太陽窮理了解説』上下二冊の木製ケース
(長崎歴史博物館蔵、2010年7月、原純子氏撮影)

『太陽窮理了解説』上巻の本文ページ
(長崎歴史博物館蔵、2010年7月、原純子氏撮影)

『太陽窮理了解説』和解草稿上下二冊を、8年ぶりに長崎歴史博物館において閲覧することができた。しかしながら、先の調査時における長崎市立博物館とは異なり、同書は基本的には閲覧不可書目になっており、方々に手を尽くしての閲覧であった。したがって同館の担当者が立ち会い、紹介した見開きページだけを開いて撮影することができた。肝心の下巻はより損傷が激しくて、開くことは許可にならなかった。

国立天文台の資料が、一部の伝承とは異なって、長崎資料の大正期における写本であることは紹介した。したがって天文学関係者の皆さんはもちろん、タイポグラファも『太陽窮理了解説』和解草稿上下二冊のデータ公開を待つことになる。先の調査では挿入図版が手書きではなく、銅版印刷である可能性を発見していたが、今回の短い調査時間ではその追跡もままならなかった。しかしながら、長崎歴史博物館では、ともかく幕末期の長崎の資料は膨大であり、いまのところは各施設から継承したこれらの資料の整理に追われており、いつデジタル・データーとして公開できるかは不明だとの説明をうけた。

いずれにしても、本木良永訳『太陽窮理了解説』和解草稿上下二冊には、今回できるだけ図版紹介をともなって紹介したような、おどろくべき事実が記されている。もちろんこうしたあたらしい表記方法は、個人の創意工夫だけによるものではなく、同時発生的に、各地、各個人も実施していた可能性も否定できない。だからこそ、『太陽窮理了解説』和解草稿上下二冊のデータ公開が待たれるいまなのである。

タイポグラフィあのねのね*004 アンチモンの原料鉱石、輝安鉱

アンチモンの原料鉱石/輝安鉱の原石とその産出地
アンチモン【独:Antimon, 英:Antimony, 羅:Stibium】

本木昌造が谷口黙次に依頼して採掘したとされる「肥後国西彼杵郡高原村」の鉱山から産出したアンチモンの原料鉱石/輝安鉱 キ-アン-コウ

き-あん-こう【輝安鉱】――広辞苑
硫化アンチモンから成る鉱物。斜方晶系、柱状または針状で、縦に条線がありやわらかく脆い。鉛灰色で金属光沢がある。アンチモンの原料鉱石。

《ともかく鉱物 イシ が好きなもんで……》
どんなジャンルにも熱狂的なマニアやコレクターがいるらしい。この輝安鉱の原石を調査・提供されたかたは、重機械製造で著名な企業の、技術本部の有力社員であるが、ご本人のご要望で和田さんとだけ紹介したい。
和田さんは小社刊『本木昌造伝』(島屋政一 2001年8月20日 p106)をお求めになられた。そこに紹介された「伊予白目、アンチモニー、輝安鉱」に関するわずかな記録に着目され、ときおり来社され、また情報交換をすることになった。

¶  ともかく鉱物の原石イシに関心がおありだそうである。全国規模で、同好の士も多いそうである。そのため、あちこちの鉱山をたずね歩き、すでに廃鉱となった鉱山ヤマでも現地調査をしないと気が済まないとされる。そして、たとえ廃鉱となっていても、その周辺の同好の人士と連絡しあえば、少量の残石程度は入手できるのだそうである。

「蛇ジャの道は 蛇ヘビですからね」[蛇足――蛇がとおる道は、仲間の蛇にはよくわかるの意から、同類・同好の仲間のことなら、なんでも、すぐにわかるということ]と笑ってかたられる。
お譲りいただいた輝安鉱の原石はわずかなものだが、ふしぎな光彩を放って存在感十分である。これがアンチモンになる。かつては日本が世界でも有数の輝安鉱の産出国であったそうだが、現在は採掘されることがほとんどなく、多くは中国産になっているそうである。

¶  和田さんはこと鉱石に関してはまことにご熱心であり、マニアックなかたでもある。もちろんさまざまな原石のコレクションを保有されており、グループの間では展覧会や交換もさかんだそうである。そんな和田さんは、金属活字の主要合金とされるアンチモンに関して、わが国印刷・活字業界に資料がすくなく、当該資料にかんしても、その後ほとんど調査もなされていないことがむしろふしぎだと述べられた。

¶  このような異業種のかたからのご指摘は、筆者にとってはまことに痛いところを突かれた感があり、汗顔のきわみであったが、これを機縁として、簡略ながらわが国の近代活字鋳造における「伊予白目、アンチモニイ、アンチモン、アンチモニー、輝安鉱」の資料を、わずかな手許資料から整理してみた。
まだ精査を終えておらず、長崎関連資料や、牧治三郎、川田久長らの著述も調査しなければならないが、それは追々追記させていただきたい。目下の調査では、本木昌造が採掘させたとするアンチモニーの鉱山、
「肥後の天草島なる高浜村、肥後国西彼杵郡高浜村」
の記述は、福地櫻痴の記述では探鉱のことや産出地の地名などはみられず、出典不明ながら三谷幸吉が最初に述べていた。ふるい順に列挙すると下記のようになる。

  • 〔福地〕「本木昌造君ノ肖像并ニ行状」『印刷雑誌』(伝/福地櫻痴 第1次 第1巻 第2号 明治24年2月 1891 p6)
  • 〔三谷1〕『詳伝 本木昌造 平野富二』(三谷幸吉 同書頒布会 昭和8年4月20日 1933 p61-2)
  • 〔三谷2〕「本邦活版術の開祖 本木昌造先生」『開拓者の苦心 本邦 活版』(三谷幸吉 津田三省堂 昭和9年11月25日 1934 p21-22)
  • 〔島屋〕『本木昌造伝』(島屋政一 朗文堂 2001年8月20日 脱稿は1949年10月 p102-6、p175)

〔福地〕 原文はカタ仮名交じり。若干意読を加えた。
安政5年(1858)本木昌造先生が牢舎を出でて謹慎の身となられしころ、もっぱら心を工芸のことにもちいた。(中略)従来わが国にて用いるところの鉛は、その質純粋ならずして、使用に適さざるところあるのみならず、これに混合すべき伊予白目(アンチモニイ)もはなはだ粗製であり、硫黄その他の種々の物質を含有するがゆえに、字面が粗造にて印刷の用に堪えず。アンチモニイ精製の術は、こんにちに至りてもいまだ成功せず。みな舶来のものをもちいる。

〔三谷1〕 若干の句読点を設けた。
明治六年[本木昌造先生](五十歳) 社員某を肥後の天草島なる高濱村に遣はして、専らアンチモニーの採掘に從事せしむ。先生最初活字製造を試みられしに當りて、用ふる所の伊豫白目イヨ-シロメ(アンチモニー)は、其質極めて粗惡なるのみならず、産出の高も多からざれば、斯くて數年を經ば、活字を初として、其他種々なる製造に用ふべきアンチモニーは悉コトゴトく皆舶來品を仰ぐに至るべく、一國の損失少からじとて、久しく之を憂へられしに、偶偶タマタマ天草に其鑛あることを探知しければ、遂に人を遣はして掘り取らしむるに至れり。さて先生が此事の爲めに費されたる金額も亦甚だ少からざりし由なり。然れども其志を果す能はず、中途にて廢業しとぞ。
編者曰く
註 社員某とあるは先代谷口默次[1844―1900 初代]氏を指したのである。卽ち當時アンチモニーは、上海と大阪にしか無かつたので、平野富二先生が明治四年十一月に、東京で活字を売った金の大部分を、大阪でアンチモニーの買入れに費やした位であるから、谷口默次氏が大阪で一番アンチモニーに經験が深かつた關係上、同氏を天草島高濱村に差向けられたのである。

〔三谷2〕 若干の句読点を設けた。
(前略)斯カくの如く、わずか両三年を出でずして、其の活版所を設立すること既に数ヶ所に及んで、其の事業も亦漸く世人に認められるようになったが、何がさて、時代が時代だったから、如何に其の便益にして、且つ経済的なることを世間に宣伝はしても、其の需用は極めて乏しく、従って其の収益等はお話にならぬものであった。

而シかも日毎に消費するところの鉛白目[ママ](アンチモニー)や錫を購入する代金、社員の手当、其他種々の試験等の為に費やす金高は実に莫大で、[本木昌造]先生は、止むなく伝家の宝物什器等悉コトゴトく売り払って、これに傾倒されたと云うことである。先生の難苦想うだけでも涙を禁じ得ないのである。

明治六年[1873年]、門弟谷口黙次タニグチ-モクジ[1844―1900 初代]氏を、肥後国天草島なる高浜村に遣わし、専らアンチモニーの採掘に従事させた。先生が最初に活字の製造を試みられた当時に使用した伊豫白目(アンチモニー)は、其質極めて粗悪で、且つ産出の高も多くなかったから、若しこのまま数年を経過すれば、活字は勿論其他種々な製造に用うべきアンチモニーは、悉コトゴトく舶来品を仰ぐに至るであろう。斯くては一国の損失が莫大であると憂慮され、種々考究中、偶々タマタマ天草に其鉱脈のあることを探知したので、早速前記谷口氏を派遣して、これを掘り取ることに努めさせたのであるが、どう云うわけであったか、其の志を果さず中途で廃業された由である。

〔島屋〕
本木昌造は鹿児島に出張中に、上海では「プレスビタリアン活版所」や「米利堅メリケン印書館」および「上海美華書館」[この3社はいずれも上海・美華書館を指すものとおもわれる]などと称するところにおいて、漢字の活字父型と、その活字母型をつくっていて、また多くの鋳造活字を製造していることをきいた。そのために長崎に帰ってから、早速門人の酒井三蔵(三造とも)を上海につかわして、活字母型の製造法を伝習せしむることとした。(中略)

上海で日本製の金属活字(崎陽活字)を見せて批評を求めたのにたいしては、活字父型の代用として、木活字の技術を流用することができること。その木活字は、字面が平タイラで、大きさが揃っている必要があることなどを知ることができた。また見本として持参した活字地金の品質に関してはきびしい指摘がなされた。つまり地金に混入するアンチモニーは、もっと純度が高くなければならぬことなどを聞きこんできた。

そのために本木昌造は、伊予[愛媛県]に人を派遣して、当時伊予白目イヨシロメと称されたアンチモニーを研究させたが、これも純度を欠いていたので、天草島の高浜村にアンチモニーの良質の鉱脈があることを聞いて、さっそくここにも人を派遣して、調査の上採掘に従事させた。この事業は莫大な費用を要して、しかも得るところは僅少で、やむなく事業を中止することになった。(後略)

明治4年(1871)11月、平野富二は事業の第一着手として、社員2名とともに新鋳造活字2万個をたずさえて東京におもむいた。(中略)帰途には大阪活版製造所に立ち寄って、良質の活字地金用の鉛と、アンチモニーを買い入れて長崎に帰った。

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《肥後の天草島なる高浜村、肥後国西彼杵郡高浜村》
「輝安鉱」の標本を「これは差しあげます。若干の毒性がありますから取り扱いには注意して」とのみかたられて、和田さんは飄々とお帰りになった。
標本の採集地は「熊本県天草市天草町」だそうである。
そもそも本木昌造らによるアンチモニーの鉱山であった場所は、「肥後の天草島なる高浜村、肥後国西彼杵郡高浜村」と記述にバラツキがみられる。
また、現在の市政下ではどこの県、どこの市かもわかりにくかった。また、肥前の国・肥後の国は、現在は存在しないし、迷いがあって熊本県東京出張所から紹介されて、天草市役所観光課に架電した。
その結果、たしかに同市には高浜地区があり、その周辺では「天草陶石」などが採掘されているそうである。ただ「輝安鉱」の鉱山、もしくはその廃鉱に関しては「存じません」という回答であった。

彼杵郡は「そのぎ-ぐん、そのき-の-こおり」と訓む。
彼杵郡は、かつて肥前の国の中西部にあった郡であるが、明治11年(1878)の郡区町村法制定にともなって東彼杵郡と西彼杵郡の1区2郡に分割されたようだ。ウィキペディア にも紹介されているが、書きかけで、少少わかりづらい。
タイポグラファとしては、ここは鉱石標本をみて楽しむだけではなく、やはり現地調査のために長崎行きを目論むしかないようである。あるいは「蛇ジャの道は 蛇ヘビ」で、長崎のタイポグラファの友人からの情報提供を待つか。
こうした一見ちいさな事蹟の調査を怠ったために、わが国のタイポグラフィは「書体印象論」を述べあうことがタイポグラファのありようだという誤解を生じさせたような気もする昨今でもある。

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《活字地金とアンチモン》

活字地金各種。刻印は鋳型のメーカー名で、さしたる意味はない。

金属活字の地金(原材料)は、鉛を主成分として、アンチモン、錫スズを配合した三元合金からなっている。
鉛は流動性にすぐれ、低い温度で溶解し、敏速に凝固する性質をもっているため、合金による成形品には良く用いられる金属である。
また、錫は塑性(形成・変形しやすい性質・可塑性)に関わる。
アンチモンは合金の硬度を増す働きがある。
わが国の印刷業界では近代活字版印刷術導入の歴史を背景として、ドイツ・オランダ語系の名称から「アンチモン」と呼称されるが、ほかの業界では英語からアンチモニーとされることがおおい。「アンチモン、アンチモニー」に関しては ウィキペディアに詳しい解説があるので参照してほしい。

文字活字のばあい、その地金の配合率は、鉛70―80%、錫1―10%、アンチモン12―20%とされるが、その配合率は、活字の大小、用途によってそれぞれ異なる。また活字地金は業界内では循環して利用されている。
摩耗したり、損傷した活字は「滅メツ箱、地獄箱 Hell-Box」と呼ばれる灯油缶やクワタ箱に溜められたのち、ふたたび融解して成分を再調整し、棒状の活字地金にもどして利用されている。

花こよみ 008

詩のこころ無き吾が身なれば、折りに触れ、
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。

春 暁

春眠シュンミン 暁アカツキを 覚えず

処処ショショ 啼鳥テイチョウを 聞く

夜来ヤライ 風雨の 声

花 落オつること 知る 多少

孟 浩 然(モウ-コウネン 667-740 中国唐代の詩人)