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【平野富二論攷輯】 01-1 平野富二の後継者と目されながら姫路出張の旅先に客死したひと『株式会社東京築地活版製造所社長 曲田成君略伝』

平野富二論攷輯バーナー01resized

平野富二平 野  富 二
長崎新塾出張東京活版製造所/有限責任東京築地活版製造所 創設者
石川島平野造船所/有限責任石川島造船所(現 IHI) 創設者
明治産業近代化のパイオニア 生誕170年
弘化03年08月14日-明治25年12月03日 1846. 08. 14-1892. 12.03 享年47

曲田成 resized曲田 成(まがた-しげり)
東京築地活版製造所第二代社長
弘化03年10月01日-明治27年10月15日 1846. 11.19-1894. 10. 15  享年49
MG_0664uu[1] MG_0665uu[1] MG_0689uu[1]平野家墓地 所在地 : 谷中霊園 甲一一号一四側
平野富二(1846-92)、平野こま(古ま・コマ・駒子とも 1851-1911)夫妻墓標
撮影/『平野富二伝』古谷昌二編著 刊行記念 展示・講演会 併催 「掃苔会」 2013.11.30

本墓標の書は吉田晩稼(よしだ-ばんか、一部資料によしだ-ばんこう。一八三〇-一九〇七)による。太平洋戦争で上野駅周辺に投下された焼夷弾が至近に落下したために墓標には焼損がみられるが、晩稼の書を知るためにも貴重な墓標である。
吉田晩稼(一八三〇-一九〇七)に言及した資料はすくないが、ここではわずかな記録から紹介する。

吉田晩稼は長崎興善町に文政一三年一〇月六日(一八三〇年)生まれた。はじめ長崎明倫堂・長川東洲、書を春老谷にまなび、のち兵学を高島秋帆にまなぶ。
幕末に奔走家として活動し、維新のさいには新潟に遊学していたが、そこで山県有朋の寵を得て、秘書、ついで陸軍大尉となった。
のち東京にでて書家に転じる。楷書大字を得意とし、筆力雄勁にして及ぶ者なしと評された。大阪四天王寺境内本木昌造銅像台座、靖国神社の石標、旧陸軍省、警視庁などの門標を書している。明治四〇年四月三日七八歳をもって東京で死去。 別号に香竹。
吉田晩稼夫妻の墓は、東京都港区南青山・青山霊園、二種イ号八側にある。墓碑銘は「香竹吉田先生墓」(書は門人の岡見正)。

また教科書用活字として、俗に「晩稼流 ばんか-りゅう」とされる楷書書風で版下を製作し、一八九九(明治三二)年一〇月二二日、国文社発行『尋常小学校読本』巻五以上に使用・刊行されている(『教科書体変遷史』板倉雅宣、朗文堂、p.20)。
先般<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>会員:平野正一氏が吉田晩稼の書の興味ぶかい資料を入手され、同会に寄託された。そのため同会内部で数名が吉田晩稼研究に着手したという。

《中国東北部ハルビン市にのこされていた「伝バンカ活字」》

稿者は一九九五年五月、コンピュータ-・ソフトメーカーの社長連とつれだって、改革開放初期の中国ハルビンを訪れたことがあった。
その折り、かつて古賀和佐雄が率いていた頃の千代田活字・千代田印刷機材料製造株式会社(千代田マシナリーを経て、現・株式会社小森コーポレーション傘下)が、中国東北部奉天((旧満州、現・瀋陽)を中心に進出し、ハルビンにも活字版製造工場「哈爾浜ハルビン印刷材料廠」をのこしていた。

ハルビン活字01 ハルピン活字02あれからまもなく三〇年ほどになるが、一九九五年の改革開放が叫ばれていた時期において、旧日本人街とされるこの石道街あたりは大規模な再開発のさなかにあり、古賀和佐雄時代からの系譜を継承している「哈爾浜印刷材料廠」(当初の名称は{三三書局}だったと老工匠は語ったが、若干疑問がある)も、工事着手を機に閉鎖するとされていた。

その際に入手した、当時の「哈爾浜印刷材料廠」の活字見本帳『鉛字 品种様本』が稿者の手許にのこっている。
その五九ページに「日歴字瑪 72点 → 日本統治時代の活字見本 七二ポイント 二千五百字種」がある。楷書大字を得意とした吉田晩稼の書と通底するところがあるのかも知れない。ところで七二ポイントサイズの活字とは、一インチ(二・五四センチ)格のおおきなサイズであり、わが国では鋳造活字としてはあまり見かけないものである。

招待先の黒竜江大学のご好意で、日本統治時代から長年にわたって同所に勤務されたという老工匠が招かれ、工場案内にあたられていた。このかたは日本語がきわめて流暢だった。
老人はこの書体の風格には厳しかったが、「この七二ポイント活字は日本の書家の原字で、バンカ活字」だと何度も述べていたのが印象にのこっている。

まとまりの無い資料だが、このときの訪中記録が、翌年三月発行「文字百景 一三」 『柳絮 リュウジョ のまう町で …… 文字の国・中国の活字事情』 (組版工学研究会・坪山一三、一九九六年三月)にのこっている。
中国の友人でハルビン市出身の四〇歳代前半のかたがいるが、この写真をおみせしても、すでにこのあたりの風景はまったく変わっているとされ、「哈爾浜印刷材料廠」の名前もご存知無かった。下記に「文字百景 一三」の PDF データを用意した。ご関心のあるかたはご覧いただきたい。文字百景13 ハルビン活字文字百景13『柳絮のまう町で……文字の国・中国の活字事情』(組版工学研究会・坪山一三)
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《東京谷中霊園 平野家墓地に石に刻されてのこった曲田成の名前》

IMG_1914 IMG_1915谷中霊園甲一一号一四側、平野家墓地の背の高い石柱の門を入った参道の右側に、石の水盤が置かれてある。
この水盤は東京石川島造船所の関係者によって捧げられたもので、その左側面に重村直一・島谷道弘・片山新三郎・桑村硯三郎の名前が刻んである。
これらの名前は東京石川島造船所の株主名簿に示されており、平野富二から重用された部下であった(『平野富二伝 考察と補遺』古谷昌二、朗文堂)。

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MG_0689uu[1]その先の参道に左右一対の石灯籠がある〔撮影:掃苔会 時盛淳氏〕。
上掲写真「掃苔会」のおりの集合写真では、向かって左側の石灯籠をみることができる。
三段重ねの基壇があり、そのうえに台座がしつらえられており、軽やかで瀟洒なものである。墓標と同様に焼夷弾をあびているが、火袋を交換修復しただけで創建時の状態をよく保っている。

この一対の石灯籠は東京築地活版製造所の関係者によって捧げられたものである。
向って左側の石灯籠の台座裏面に「東京築地活版製造所」と刻し、続いて曲田成、松田源五郎、谷口黙次、西川忠亮、野村宗十郎、竹口芳五郎、谷田鍋太郎、松尾篤三、湯浅文平、古橋米吉、高木麟太郎、浅井義秀、太原金朔、仁科衛など総勢十四名の氏名が列記してある。

向って右側の台座裏面には、左側に続くかのように以下の十六名の氏名が列記してある。
秋山雅長、奥井徹郎、横井清三郎、広瀬己巳郎、上原定次郎、益子芳之介、西成□政、若林由三郎、倉岡寿平次、永井卯三郎、片寄利吉、岡崎努、栄朝重、伊藤義人、三野又一、岡 洵。

本稿では、おもに平野富二の創設による東京築地活版製造所の第二代社長:曲田成を取りあげる。
これまで曲田成に関する資料は、業界紙誌の断片的な記録をのぞくと、
『日本人名大辞典』(講談社)の以下のようなわずかな紹介をみるだけであった。

【曲田 成 まがた-せい 1846−1894】
明治時代の実業家。弘化三年生まれ。もと阿波徳島藩士。維新後実業界にはいり、明治一六年平野富二の東京築地活版製造所をついで所長となった。明治二七年一〇月一五日死去。四九歳。幼名は岩本壮平。

ほかにもこの献灯台座に名を刻した何人かが登場してくる。そしてなぜか、この献灯台座には、東京築地活版製造所の象徴的な創立者とされ、平野富二が礼を尽くしていた本木昌造の継嗣・本木小太郎(いっとき東京築地活版製造所「社長心得」に就任 一八五七-一九一〇)の名がみられない(『本木昌造伝』島屋政一、朗文堂)。

あらかじめ断りしておくが、平野富二の逝去後まもなく一八九三(明治二六)年に商法が実施された。したがって商法の実施以後に、長崎新塾出張東京活版製造所/有限責任東京築地活版製造所は、株式会社東京築地活版製造所となる。
また石川島平野造船所/有限責任石川島造船所も、株式会社東京石川島造船所となり、幾多の増資・合併と変遷をへて現 IHI につらなってる。
商法の実施後の両社の商号に、ともに「東京」の名前が冠されていることは、ここではひとまず注目しておいていただきたい。


本稿では煩瑣をさけ引用資料紹介などをのぞき、これ以降年代区分をすることなく、両社を一貫して「東京築地活版製造所/東京石川島造船所」と表記させていただく。
平野富二が手がけた多くの事業のうち、残念ながら、活字版製造と印刷関連器機製造を主業務とした東京築地活版製造所は、一九三八(昭和一三)三月に清算解散が決議され、多くの記録がうしなわれ、一部は神話化されて伝承されてきた。

平野富二生誕一七〇年にあたり、平野家墓地の献灯台座に、東京築地活版製造所関連者の筆頭に刻まれていた「曲田成」に関して、近年国立国会図書館によって紹介された新資料から見ていきたい。

 曲田成 resized曲田 成(まがた-しげり、一部資料にまがた-せい)
東京築地活版製造所第二代社長
弘化03年10月01日-明治27年10月15日 1846. 11.19-1894. 10. 15  享年49譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈陦ィ1 譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈2 譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈3 譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈螂・莉・
ダウンロード用 PDF  『曲田成茂君略伝』 3.62MB

株式会社東京築地活版製造所社長 『曲田成君略伝』

明治二八年一〇月一六日発行  (非売品)
編輯兼発行者   松尾 篤三         東京市京橋区築地一丁目七番地
印   刷  者   野村宗十郎        東京市京橋区築地一丁目二十番地
印   刷  所   東京築地活版製造所  東京市京橋区築地二丁目十七番地
【 国会図書館資料 請求記号:特29-644 】

《知られざる人物だった 『曲田成君略伝』について》

東京築地活版製造所の基礎を築いた創業期のふたりの社長をあらためて並べてみた。
◯ 平野 富二

東京築地活版製造所創設者/初代社長
弘化三年八月一四日-明治二五年一二月 三日 1846. 08. 14-1892. 12.03 享年47
◯ 曲 田 成 
東京築地活版製造所第二代社長
弘化三年一〇月一日-明治二七年一〇月一五日 1846. 11. 19-1894. 10. 15  享年49

このふたりは弘化三年(一八四六)という同年のうまれである。わずかに一ヶ月半ほど平野富二が先に誕生している。
またふたりとも仕事人間で、平野富二は講演中に倒れ、そのまま卒した。曲田成は出張先の姫路の旅舎で倒れ、看取るものもなく卒した。
わずかな違いは、曲田成が二年ほど長命だっただけで、それでもふたりとも五〇歳を迎えることなく卒している。

稿者にとっては長らくの疑問があった。
それは、東京築地活版製造所を語るとき、象徴的な創業者である本木昌造ばかりが熱心に語られ、創設者の平野富二はわずかに触れられるだけで、二代社長/曲田成、三代社長/名村泰蔵に関してはほとんど触れられず、ポンと飛んで第四代社長/野村宗十郎が喧伝される事実であった。

本書『東京築地活版製造所社長 曲田成君略伝』は、東京築地活版製造所第二代社長/曲田 成(まがた-しげり)の略伝である。知られる限り唯一本であり、管見ながら本書から引用された論考をみたことは無い。
序文を校閲〔刪正〕にあたった福地源一郎(櫻痴 三号明朝 字間 四分アキ)がしるしている。本文は氏名不詳のふたりの人物がしるし、(五号明朝 字間 四分アキ)で組まれている。
本文後半に弔文「曲田成君ヲ弔フ文」(東京活版印刷業組合頭取 佐久間貞一)、「曲田成氏ヲ追弔ス」(密嚴末資榮隆  不詳)がある。
最後に「跋」がおかれ、東京築地活版製造所社長の名で名村泰蔵(三号明朝 字間 四分アキ)がしるしている。

刊記(奥付)には、発行日として「明治二八年一〇月一六日」とあり、おそらく曲田成の一周忌に際して刊行されたものとみられる。
編集兼発行者は松尾篤三(東京市京橋区築地一丁目七番地)である。この松尾篤三に関して知るところは少ないが、谷中霊園の平野富二墓前の対の石灯籠の向かって左側の台座、東京築地活版製造所関連の名前の列挙八番目にその名をみることができる。
印刷者として支配人・野村宗十郎(東京市京橋区築地一丁目二〇番地)がある。
印刷所として東京築地活版製造所(東京市京橋区築地二丁目一七番地)がある。

『東京築地活版製造所社長 曲田成君略伝』によって、今後本木昌造、平野富二関連文書の行間を大幅に補填することが可能となった。
すなわち従来は平野富二と曲田成・名村泰蔵に言及するところがきわめて少なく、両者のであい、東京築地活版製造所創設当初の器械設備、活字改良の次第などは暗中模索の状態にあった。

野村宗十郎建立概要_表紙さらにことばをかさねれば、原稿が完成していながら、東京築地活版製造所から『平野富二伝』が発行されるにいたらなかった次第は、本書と、こののちに紹介する「故野村宗十郎翁略伝」『野村宗十郎翁胸像建立概要』(昭和五年八月)の中であきらかになってくる。
ここに(2016年09月23日{活版 à la carte}{文字壹凜})読者諸賢に『東京築地活版製造所社長 曲田成君略伝』の存在をお知らせし、ともに本書ををタイポグラフィ研究に資することを期待したい。
──────────
このように、ほぼ一年前に諸賢に『東京築地活版製造所社長 曲田成君略伝』公開の情報をお知らせした。それ以来多くの方が国立国会図書館のデーターをダウンロードされ、ともに研究をすすめてきた。
したがって本稿はまだ読了されていない諸賢に、再度データーの存在をお知らせするとともに、まず旧漢字片かなまじりで明治文語体の、いささか読みにくい本文を、常用漢字におきかえ、あわせて文意を損なわない程度に現代通行文にした記録である。
原文との参照には、国立国会図書館の PDF データをご覧いただきたい。

この間、古谷昌二氏をはじめ、板倉雅宣氏、桜井孝三氏、平野正一氏、春田ゆかり氏、松尾篤史氏、大石 薫らとの論考会を何度かもった。そこで解消した疑問も多いが、あらたに発生した疑問も多数ある。
したがってまず本稿を01-1としてご紹介し、あまり時日をおかずに、01-2の発表を準備している。

株式会社東京築地活版製造所社長 『曲田成君略伝』

曲田成略伝序
〔福地源一郎 Ⅰ-Ⅳ  四号明朝体 20字詰め 08行 字間二分 行間全角〕
東京築地活版製造所の社長、名村泰蔵君が一小冊子を懐にして来たりて余〔福地源一郎・櫻痴〕に告げて曰く、これはわが社の故社長 : 曲田成の略伝なり。曲田の没後、予〔名村〕はその空席〔乞〕を継いで職を続けています。所務を統纜するのに際して、いつも曲田の、ものごとをきちんとやり遂げる能力と、勉励を追憶して忘れることはありません。

わが東京築地活版製造所にこんにちある者は、曲田の功績は実に多大であったとしています。福地先生は曲田を識るひとです。願わくば先生がこの略伝を閲覧たまわり、あえてお願いいたしますが、文章・字句などの悪いところをけずり改める〔刪正〕加工をしてくださいと。

余はたしかに曲田君を知る。名村君にいたっては竹馬の同窓であり旧友である。したがって病後の衰労を理由としてこの要請を辞退することは忍びない。そこで要請をうけてこれを閲読し、余分なところを削り、その欠けたるところを補い、事歴をつまびらかにすることに及んで、益〻曲田君がおおいに当時のひととして卓越したひとであったことを知るなり。

そもそも創意をこらしたり、起業をなすことが困難なことはひとの認めるところである。ところがそれを継承し改良することが困難なことは、ときとして創意起業の困難より至難なことを、往々にしてこれを認めることができないのは世間にありがちなことである。
而して曲田君はこの至難な継業に任じて、能く所務の隆盛をはかるひとである。名村君が曲田君を追憶して止まないのはまことにもっともなことである。

まさしくひとが世にあるときは、赫々の功名はいっとき喧伝されるが、その死後となると、ぼんやりとしてしまって、尋ねるための跡も無いものである。滔々と世の流れていくさまとはみなこのようである。

曲田君のような人物は、その生前のときを知らなければ、一見もって中庸のひととする。しかるに歿後にいたり、ひとをして敬慕と哀惜の念を増さしめる斯くのごときものは、実際に本当の功績が存在することに感銘するがゆえにあらずや。

余はここにおいて、曲田君の生前に君を敬い、重くみることが少なかったことを愧じるのみである。
嗚呼余は先に平野富二君を追悼してまだ数年にもならないのに、また曲田君の伝記を校閲した。筆を擱いて涙がはらはらと落ちるばかり〔泫然〕。
明治二八年〔一八九五〕一〇月               福地源一郎 しるす

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曲 田 成 君 略伝
〔氏名無記名の筆者がふたり。五号明朝体 30字詰め 10行 字間四分アキ 行間五号全角と二分  ひとりは二字下げでリード分をしるしたひと。もうひとりは感情を抑制して事実列記につとめたひと p.01-25〕

偉大なる事業とは一世一代にして大成するものではない。まず発明があり、創意工夫があり、継業があり、改良があってのちに、はじめて大成をえるものである。

いにしえより、英雄豪傑の士は時勢の気運に乗じて、その功を一世にしておさめたといえども、やはりふつうは一世一代にして大成するものではない。 いわんや、蒸気機関の開発や電気器機のような、ものごとの大業とされる事業とは、みなこのようである。

わが国の活版事業においても実にこの通則にあるものであった。 まさしく活版事業の創意者は本木昌造君にして、その継業者は平野富二君である。そしてその事業を拡張・改良して、これを大成させたる者は曲田成君であった。これらの三名は皆その年齢が五十歳に達しないまま〔本木昌造は数えて52歳で歿〕はるか遠くにいってしわまわれた〔遠逝〕。

ああ、天はどうしてこの三君にたいして歳をかさねることを惜しんだのだろう。 そして創始者たる本木君の伝は曲田君がこれを世におおやけにした〔 『日本活版製造始祖故本木先生小伝』曲田成編 明治二七年九月〕。継業者たる平野君の伝もまたその稿を脱稿した〔未見〕。ゆえにここに拡張者であり改良者である曲田君の略伝を編輯して、その経営と辛苦の蹟を顕わさんと欲するなり。

君の姓は曲田(はじめ岩木と称す)、名は成(幼名を荘平という)〔まがた-しげり/『日本人名大辞典』(講談社)ほか一部の資料は、まがた-せいとする〕。 弘化三年一〇月一日〔一八四六年一一月一九日〕淡路の国津名郡物部村〔淡路島にある兵庫県洲本市。江戸期は阿波徳島蜂須賀藩領であった〕にうまれた。

父を富太郎と呼ぶ。母は関氏のひと。曲田家は代代徳島〔本藩の〕藩士であった。二歳にして父をうしなって母に養われた。幼くして川端豊吉氏を師として書をまなび俊秀の名があった。やや長ずるにおよび藩学校にはいり漢籍をまなぶ。その進歩の様子は衆を越えていた。

一八六六年〔慶応二年 曲田成数えて二〇歳〕藩主蜂須賀侯〔一三代蜂須賀斉裕-はちすか なりひろ〕が、従来の兵法をあらためて英国式の兵制を布くのにあたって、曲田君は熱心に練兵の法をまなんでおおいに得るところがあった。そのため銃卒一番大隊の小隊司令官に選抜され、刻苦勉励、もっぱら隊伍を訓練することをもって自任していた。

一八七〇年〔明治三〕藩士が稲田家に事件をおこすにあたり〔五月一三日(新暦六月一一日)徳島藩士が、家老稲田氏所管の洲本屋敷(館)を襲撃。稲田騒動、阿波庚午事変とも。別項で紹介〕、曲田君は一方の指揮官となり進退はなはだよろしきをえたが、その挙動〔稲田騒動〕はまったく藩士の私憤に出るのゆえをもって、その職を罷免された。

一八七一年〔明治四〕藩主〔一四代蜂須賀茂韶-はちすか もちあき〕はふたたび兵制をあらため、フランス式練兵法を採用するにあたり、再度その教授役に挙げられた。しかしながら曲田君はおおいに時勢を達観するところがあって、断然その職を辞し、もって自活独立の途をもとめるために、親戚や知人のつよい諫めを聴かず、単身旅したくをととのえて上京の途につけり〔曲田成数えて二五歳の頃〕。

嗚呼たれか安逸を望まざるものがあろうか。嗚呼たれか娯楽を欲せざるものあらんや。そのようなわけで〔然り而して〕、この安逸のために不測の辛酸を嘗め、この娯楽のために惨憺たる悲劇を演じて、ついに失望の域に沈み、落胆の岩に触れ、いまだ彼岸に達せざるに、すでにその身をおくに苦しむものはいずれも〔比比〕皆同様である。
しかるに曲田君が職を辞して、さらにあらたな路に向かって自営の道をもとめ、意を決して東上したことは、ただ気ままに遊び楽しむこと〔目前の逸楽〕は他日の不幸となることを前もって知った〔前知〕ためではなかろうか。

曲田君が征途についたとき、ほんのわずかな資金をふところにし、そまつな笠をかぶり、みずからひと包みの服を背負い、気力をふるいおこして〔慨然〕故郷をさった。道中では幾多の艱苦をなめたが、かろうじて東京に達した。
しかしながら寄るべき朋友は無く、訪問すべき故旧をおとなうこともなく、ひとりぼっちで〔孤影単身〕艱苦は身に迫ってしまった。

江戸名所道外尽 十 外神田佐久間町resized平野富二・曲田成の東京での出発点となった藤堂和泉守上屋敷の門長屋の風景。
江戸期以来、町人地とは異なり武家地と社寺地には町名がなく、この絵士:広景も「外神田佐久間町」として庶民の正月風景を描いているが、佐久間町は画面左手にあたり、ほとんど描かれていない。
実際に描かれたのは現・東京都千代田区和泉町一にあたる、藤堂藩の藩屏たる門長屋の風景である。この藤堂藩三五万石藩邸(上屋敷)の敷地と門長屋はおおきく、平野富二は画面右側の最奥部に仮工場を設置したと見られる。

平野富二がここを本拠地とした期間は一八七二年七月-七三年七月までのほぼ一年間という短い期間であったが、平野と曲田成の膠漆の交わりがはじまったのは、この現・東京都千代田区和泉町一の東南あたりの地であったとみてよい。

ここには東京大学医学部の前身「大学東校 だいがく-とうこう」が開設され、森鷗外もこの門長屋での寄宿生活をすごし、小説『雁』にこの風情をのこしている。
 (平野の会:古谷昌二・平野正一氏情報提供 『江戸名所道外尽 神田佐久間町』広景画、辻岡屋、国立国会図書館 請求記号:寄1-9-1-7)

幸いなことに当時東京築地活版製造所の創始のときに際し、平野富二君が神田佐久間町〔藤堂和泉守藩邸内門長屋の一隅・現千代田区和泉町一、和泉公園の神田佐久間町三丁目の右斜め向かい側あたり〕に、長崎出張所〔長崎新塾出張活版製造所〕を開設し、ひろく活版業の需要をはかり、将来にむけて有為の士をもとめていた。

曲田君ははからずも平野君の知遇を得て、今後この事業をともにすることを約した。それからの平野君と曲田君の親密なる交際〔情交〕は、骨肉の兄弟のように一挙一動を共にして一体の観をなした〔平野富二:弘化三年八月一四日うまれ、曲田成:弘化三年一〇月一日うまれ。ふたりは同年のうまれである〕。

平野君が佐久間町〔千代田区和泉町一〕に斯業を創始したのは明治五年七月〔一八七二年六月〕のことで、まだ世間ではおおむね活版とは何であるかを理解するものは無く、顧客、ユーザー〔需用者〕はまたわずかであった。 しかしながら曲田君はひたすら平野君のさしず〔指顧〕にしたがって日夜事業の進展をもとめ、あえてほかを顧みることはしなかった。
まさしく当時の曲田君の心境は、いわゆる南海の一寒生〔貧しい書生・自分の謙称〕にして、平野君の知遇を得たるをもって、ひたすらつとめはげみ〔孜々黽勉 ししびんべん〕、ただそれでも及ばざることを恐れ、そのはじめはみずから活版配達夫となって奔走した。
累進して鋳造係りとなり、翌明治六年八月〔長崎新塾出張活版製造所が〕築地二丁目に移転するにおよび、ますます平野君とともに斯業に勉励した。

長崎新塾出張活版製造所uu[1]

わが国最古級の冊子型活字見本帳の口絵に描かれた東京築地活版製造所社屋の図版は、木口木版を印刷版とし活版印刷機で印刷された/笹井祐子

平野富二が単身で上京し、東京での市場調査と、携行した活字を販売したのち、本格的に首都東京に進出したのはまだ改暦前で一八七二年六月(明治五年七月)のことであった。
平野富二がこの上京に際して、上海 → 長崎 → 神戸 → 横浜間の定期貨客船(外国飛脚船)をもちいて、まだ普及していなかった海上損害保険に本木昌造の反対を押しきって加入していたことは記録されている。
このとき活字鋳造器機、活字母型その他の荷物とともに、新妻・こま、品川徳太郎(品川徳多とも、品川藤十郎長男、一八五一-八五)、松野直之助(一八四六-七八 上海にて歿す)、松尾徳太郎、桑原安六(のち東京築地活版製造所支配人)、和田国雄(のち東京築地活版製造所支配人)、相原市兵衛、大塚浅五郎、柘植広蔵らとともに海路上京した。

この旅の詳細は記録されていないが、おそらく横浜で外国船をおりて、小型船で品川沖から石川島沖を経由して隅田川に入り、さらに神田川を遡上して和泉橋あたりで荷物を降ろしたものと想像される。
すなわち、平野富二が当時の呼称、神田佐久間町大学東校表門通り〔和泉藤堂守上屋敷門長屋/現在の千代田区和泉町一〕に「長崎新塾出張活版製造所」の看板をかかげて斯業を創始したのは一八七二年六月(明治五年七月)のことであった。

ここには「文部省活版所」の名で、本木昌造の命をうけて先行していた小幡正蔵と営業部員の大坪本左衛門が、どういうわけか「小幡活版所」の看板を掲げていた。
この「文部省活版所」、「小幡活版所」の業容と消長は知るところがすくないが、小幡正蔵は一八七一年(明治三)一〇月本木昌造が「文部省活版御用」を任ぜられ、大阪活版製造所の小幡正蔵をともなって上京したと記録されている。したがって小幡正蔵はもともと大阪活版製造所のひとで、短期間の在京で帰阪したものとみられる。
また平野富二一行到着の翌年、大坪本左衛門は平野富二の了解を得て、湯島嬬恋坂下に「大坪活版所」を設けて独立開業して、平野富二の活字取次販売と活版印刷業をはじめた(『本木昌造伝』島屋政一、朗文堂)

この前年、一八七二年四月三日(旧暦では明治五年二月二六日)、「銀座大火」とされる大火災があった。銀座大火は和田倉門内旧会津藩邸から出火、折からの強風にあおられ、、東京の中心地、丸の内、銀座、築地一帯が焼失した。こまかくは、銀座の御堀端から築地までの九五万四百平方メートル(四一町、四千八百七九戸)を焼失した。焼死八人、負傷者六〇人、焼失戸数四千八百七四戸という記録がのこる。

京橋の町人地を一通り焼いた火焔は、ふたたび東隣の旧武家地に侵入、伊達宗徳邸(旧宇和島藩伊達家上屋敷)、亀井茲監邸(旧備中松山藩板倉家中屋敷)、西尾忠篤邸(旧横須賀藩西尾家中屋敷)などを焼いて、築地川(現首都高速都心環状線)を越え、開墾会社・牛馬会社など新興会社が拠点としていた現築地一-三丁目を横断、築地本願寺に到達し、築地本願寺の大伽藍はもちろん、周辺の末寺も焼失した。
この「銀座大火」をきっかけに、明治新政府は銀座周辺をを耐火構造の西洋風の街路へと改造することとなった。

平野富二は教育施設となった「大学東校 文部省活版所」内、あるいは隣接地での仮工場は、活字鋳造には不適であると判断し、また森鷗外と同様に居心地がわるかったとみえる。
そこで平野富二が注目したのは、水運に恵まれ、焼亡地となっていた築地二丁目二〇番地の一画一二〇坪余であった。
上京後一年、はやくも一八七三(明治六)年夏には金三千余円をもって購入手続きをすませ、七月某日「長崎新塾出張活版製造所」を築地の仮工場に移転し、同年一二月二五日、自費で建築した耐火性に富んだ煉瓦家屋の引き渡しをうけた。

この築地の土地は、のちに東京築地活版製造所の本社工場敷地、隣接して平野富二邸敷地として周辺が買い増しされていくが、明治六年〔一八七三〕一二月に完成した煉瓦づくりの新社屋の図がのこる。
東京進出からわずか五年後、アメリカ合衆国独立100周年を記念して開催されたフィラデルフィア万国博覧会(一八七六年五月一〇日-一一月一〇日)への出展に際して製作されたとみられる冊子型活字見本帳、通称『活版様式』(一部欠損本、印刷図書館蔵、明治九)の口絵である。
同展には先行したパリ万博・ウィーン万博での中心展示となった漆器・陶磁器・扇子・屏風・浮世絵などに加えて、文明開化の成果としての近代産業の展示が政府からもとめられた(『米国博覧会報告書 日本出品目録第二』米国博覧会事務局、明治九年、国立国会図書館、請求記号:特28-157)。

この際、直接の担当者(官僚)は手島精一で、のちに蔵前の東京高等工業学校校長、現東京工業大学の創立者のひとりとされる人物であった。手島精一はその後も東京築地活版製造所に支援をかさね、『花の栞』巻四、五に序文をしるしている。
この手島精一らの要請をうけて、官営の印刷局とならんで、民間企業の東京築地活版製造所も和田国雄を主任として現地に派遣し、活字類・手引き式印刷機などを出展した。

その翌一八八七年(明治一〇年)、東京上野公園で第一回内国勧業博覧会(政府主催)が開催された。その際に出展したものとみられる東京築地活版製造所『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所平野富二、平野家蔵、明治一〇)も現存している。
この俗称「平野活版所活字見本 明治九年版・明治一〇年版」の二冊の活字見本帳は、それぞれ孤本(明治九年版はほぼ完本で一九八〇年頃にはイギリスの図書館にあったが、現在は所在不明)とされているが、二冊ともに口絵図版の門柱に「長崎新塾出張活版製造所」の表札があり、一八七三年(明治六)年一二月に完成した煉瓦づくりの新社屋の図がのこる。

この版式と印刷方式は不詳だったが、『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所平野富二、平野家蔵、明治一〇)の原本を間近にご覧になった日本大学藝術学部教授(版画コース担当)/笹井祐子氏により、版式は木口木版、印刷方式は活版印刷機使用であると判断された。
従来はわが国における西洋式「木口木版」の開始は、生巧館・合田清のフランス留学からの帰国一八八七(明治二〇)年をもってはじめとするが(『日本印刷技術史』中根勝、八木書店  p.246)、その通説をくつがえす報告である。

当時の〔活字〕鋳造は、いまのような「カスチング」をもちいず、はじめは「流し込み」たりしものにして、「ハンドポンプ」をもちいるようになったのはひとつの進歩というべきほどのことであった。曲田君は日常の談話でよくこのことに触れ、手足や顔に火傷をすることがたびたびであったとかたっていた〔この部分は稿をあらためて解説したい〕。

一八七六年〔明治九〕六月二六日、曲田成は平野富二の奥書を得て、家禄奉還のことを出願した。家禄を奉還して自力で食い扶持を得ようとすることは、実に常人のできることではない。日本帝国中でこのような断りの意思を示した行為は稀有のことであるとして、知事はこれをよしとして、銀盃一個を賞賜した。
その文に曰く、
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乞 家 禄 奉 還 書 (家禄奉還を乞う書)
士族  曲 田  成 謹言す

名東ミョウドウ県令公閣下 維新以来文明は日に進み、開化は月にあらたに、都市もひなびた地方でも〔都鄙〕様相をかえて〔革面〕、旧習をのぞき、善政がおこなわれ農民も商人も食に満ち足りて、生業を楽しんで〔鼓腹〕います。
このような時に際して、士族はほんのすこし〔繊毫〕も役にたつこと〔裨益〕もなくして、家禄をたまわり、空しく日日の食事にありつくこと〔素飱〕に甘んじています。あるいは〔士族の籍を〕奉還して賜金をもとめ、子孫への遺産となしています。これは実にみずからを省みることが無きこと甚だしいものです。
不肖 曲田成がかんがえるに〔以為〕、彼もひとなり、我もひとなり。我ひとり日日の食事にありつくこと〔素飱〕をしていてよいのでしょうか。ですからみずから活路をもとめ、子孫のために策を設け、早急に自由の美郷に奔走しようとする以外ないと〔駆馳〕鋭意奮起して、ついに世間のつよい諫め〔指謗〕を顧みず、こころざしを奮い起こして〔慨然〕、一八七三年〔明治六〕二月出京して、活版製造所社長平野富二なるものに遇い、活版の用法を熟聞しておおいに感得するところがありました。

説に曰く、ひとがこの世にあるときは、おのれの能力に応じて食していくべきである〔人の世に在る各其力に食せざるに可らず〕。而してひとりのために謀るは衆のためにするのにおよばない〔若かず〕。一己のために謀るはひろく天下の利益〔洪益〕を謀るのと同等ではない〔如かず〕。その説深く肝肺に銘ず。
それ天下のことに労するものは、必ず報酬を得て、労なくして報酬をえるのは、いわゆるただ喰い〔素飱〕である。 これにおいて断然平野氏と将来の盛衰を共にせんと約託し、該社に入社(投員)してこの業に従事し、社員と共に夜も日もなくつとめ励んではたらき〔孜々労作〕、忍耐倦まず。まさに時運に応ずる該社の事業は倍増しこんにちの盛大にいたる。

然り而して既往の事跡を追想するに、社長の常にあらざる勉強と、社員のねばりづよい労働〔労耐〕による。そしてここに前掲のようにますます該社は盛大となり、社則も精設して、拙工といえども給与金の三分の一をもって永途就産の資本に予備するの方法〔失業保険制度のこと〕を設け、これにおいて活路すでに確定す。これは勉励によるといえども、そもそもまた、天皇陛下〔天子〕のすぐれた知徳と恩沢〔聖明徳澤〕がもたらしたところである。

よって今回家禄を奉還して平民の戸籍〔民籍〕にはいり、その身のほど〔分〕をまもり、活路にいささかも安んぜずして、ますます素志を拡伸し、確実な資産〔確産〕を子孫にのこす〔遺設〕ことを希望する。

さきに〔曩に〕家禄奉還許可の政令あり。このときにあたって、同属はつぎつぎと〔陸続〕士籍を奉還して、政府から下賜されるお金〔賜金〕を請求した。
不肖 曲田成がおもうには〔以為〕、ここにおいて家禄を拝受するは無駄喰い〔素飱〕なり。賜金を拝受するのもまた素飱なり。素飱をあまんずることは同一である。

不肖 曲田成が家禄を仰ぐことにはもとより希望のものではない。いわんや賜金を貪ることも同様である。然れども、当時はいまだ家禄を辞退することができなかった。これは小生 曲田成の遺憾として切歯するところなり。ここにおいて眼前の小利に営々とせず、また遠大な志を企て、常に活路の方法に着目し、もし事が成就したならば、家禄を奉還せんと日夜願うところただ此れのみ。
しかるにまた一八七五年〔明治八〕七月家禄奉還を中止するとの政令があった。しかれどもいま、なりわい〔活計〕の方法すでに確定す。いまにして家禄を奉還しなければ〔せざれば〕、これは禄を貪っておのれが儲けをためる〔儲蓄〕を欲しいままにすることになる。これはいさぎよさを傷つけること〔傷廉〕、はなはだしきものというべし。

よってまず家禄を奉還し、民籍に編入せんこと懇願す。伏して乞う、この許可を賜らんことを。かつ賜金拝受のごときは天皇陛下の恩恵が親切で手厚いこと〔徳澤の優渥〕に因るといえども、食のために働かない連中を、いさぎよい態度とはおもえないところである。ゆえに特に辞して免除〔辞免〕を蒙らん。 ここにまたあらかじめお願い申しあげます。右陳述するごときであるので、憐れみ、お察しくだされ〔請禹閣下憐察を垂れ〕、そのそそっかしくてくるっていること〔疎狂〕を許して〔寛〕採用あらんことを請う。

もっか〔方今〕県務多端に属す。こまかくてつまらぬ〔区々〕志願をかえりみず、あえて尊厳を干犯す。恐惶のいたりにたまらず伏して明旨を俟つ。

名東県下淡路国津名郡物部村士族 東京築地二丁目四八番地寄留
明治九年六月二六日                曲 田   成(印)
頓首再拝     

前書願い書のとおり、曲田成儀とは四ヵ年前より居食をともにし、兼ねて同人儀も素飱を悔いて日夜勉励し、こころざしを同じくし、すでに活路の見込みも相定まり候のとき〔場合〕に至り、わたくしにおいてもしかと〔聢〕保証いたしますので(仕り候間)、本人の願いどおりご採用くだされたく奥書つかまつり候なり。

        東京築地二丁目二〇番地        平 野 富 二(印)
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名東県令富岡敬明公閣下   ※名東ミョウドウ県は、明治初期に、阿波国・讃岐国・淡路国を範囲とした県。範囲は、当初は現在の徳島県および兵庫県淡路島であったが、長らく香川県の一部も含まれていた。県庁所在地は徳島。一八七一年一二月二六日に設置され、一八七六年八月二一日に廃止された。

※富岡敬明 最後の名東県令。一八七五年(明治八年)九月五日-一八七六年(明治九年)八月二一日:権令・富岡敬明(前山梨県参事、元小城藩士)

一八七九年〔明治一二〕東京築地活版製造所の「四号明朝活字」と、「六号明朝活字」の活版〔活字〕書体の改良のために、曲田君は上海に出張し、翌一三年春に帰朝した。

はじめ東京築地活版製造所が斯業を長崎の地におこすのにあたっては、なにぶん草分け〔草創〕のためもあって、その活字書体・原字書体〔字母書体〕を精選するにいとまがなく、得る〔獲得〕のにしたがって、これを製造し、これを販売してきた。したがってその活字書体は雑駁にして、みやびやかな風情〔雅致〕も、感興をさそうあじわい〔趣味〕も有していなかった。

M7,M37社屋それでも活版印刷の需用者は、平野君およびその他の尽力と、社会の進歩の刺激にともなって、都下はもちろん、ひなびた地方〔隦陬〕にまでおよび、その発達を誘導して、活版の利便であることを知ると同時に、その地金の良し悪し〔精錬〕を論じ、活字書体〔字体〕の良否によって活字を選択する傾向があることを察していた。
平野君は社員のなかで、がまん強く、困難に屈しない〔堅忍不撓〕精神を持ち、かつ熱心に事にあたる事業家を採用して活字書体の改良を計ろうとしていた。

そして遂に平野君はこの大任を曲田君に任せることにした。曲田君はこれに応えて、一層の奮発と励精とをもってその任にあたった。幾多の歳月を積みかさね、ようやくにしてこの活字書体の改良を大成することができた。その間活字原字彫刻〔種版彫刻〕の技術に関して得ることができた経験と知識はわずかなもの〔尠少〕ではなかった。

こんにち活字の良品とするもので、まずわが東京築地活版製造所に指を屈するようになったのは、ひとえに曲田君の刻苦勉励がもたらしたものである。そして逝去の一日前にも、旅先の姫路から書簡を社員に寄せて、ますます精進するように命じていた。

これより先、平野君は造船製鉄事業を東京石川島に開き、〔東京築地活版製造所と石川島平野造船所〕の両方の事業がますます繁盛におもむくのをもって、さらに北海道函館港に造船工場を設置せんとして、一八八〇〔明治一三〕九月曲田君を伴って函館に出かけ、その地の有力家渡辺熊四郎氏ほか数名とともに、同所にある海軍省の造船用の器械類の払い下げを請求するのにあたり、曲田君は終始これの斡旋の労をとり、計画に参加してよい結果を得た。

翌一八八一〔明治一四〕東京築地活版製造所支配人の桑原安六氏の退社に際し、函館より帰京して支配人補助となり、一八八五年〔明治一八〕和田國雄氏にかわって支配人となった。

その後社会の文運はますます進歩し、斯業の発達は愈〻迅速になった。東京築地活版製造所は常にその指導者となり、これら斯業者のよき仲間〔夥伴〕となり、活字の改良も益〻あゆみ〔歩武〕を進め、先進者たることの名声を失墜させることがなかった。これらは実に支配人として、事業家として、曲田君の操縦よろしきに因るものあった。

本木 小太郎本木小太郎
本木昌造次男・継嗣
安政4年9月18日-明治43年9月13日 1857. 09. 18-1910.  09. 13

一八九九年〔明治二二〕六月、本木小太郎氏が海外留学七年の星霜を経過して(閲して)帰朝した。そこで平野君は創業者たる本木昌造君の遺志にそって、また自分の日頃からのおもい〔素願 ここでは造船と器械製造〕を遂げるために、東京築地活版製造所社長の職を小太郎氏に譲ることとした〔社長心得〕。
そのとき曲田君は支配人から工務監査の職に転じ、いささかの閑を得たが、止むことなく益〻工事の作業を研究していた。

ところで当時の経済と社会のさわぎ〔波瀾〕はほとんどその極に達し、商工業者はみな衰えて元気をなくして〔萎靡〕振るわなく、沈滞の歎声は国内全体〔海内〕にかまびすしく、朝に起こりて夕に倒れたるもの、指を屈するにいとまがないという惨憺たる状況となった。商工業者は挙げて、まさにおおきな惨禍〔一大旋禍〕のなかにひきこまれようとする危機的状況にあった。

東京築地活版製造所もまたその渦中に巻きこまれようとしたことは数次におよんだ。そのためにしばしば〔屢〻〕株主総会をひらき、将来の営業方針を討議したが、いつも重要な点をつかむ〔要を得ず〕ことができなかった。このときにあたり、このこんぐらかった糸のように、まぎれ乱れた〔紛乱せる乱麻〕議論を整理し、こんにちのような盛大な企業にしたるゆえんは、あげて曲田君の力によった。

当時の曲田君はおおいに計画するところがあって、一八八九年〔明治二二〕一二月三〇日、株主総会最終日、すなわち東京築地活版製造所の存廃を決するという日において、七項の条件を委任〔たれから? どんな条件を? 当時の株主は平野富二・初代谷口黙示・松田源五郎・品川藤十郎と島屋政一は記録する〕せられて社長の任につき、翌三一日事務員一同の辞職を聞き届け、各部の職工を解雇した。年をこえて一八九〇年〔明治二三〕一月二日、再度曲田君が信任するものを挙げて事務を分担させ、職工の雇い入れなどをなさしめた。

およそ社会のことは、盛んにもてはやされたり、敗れたり、また、張りつめることもあれば、弛むこともある〔一興一敗一張一弛〕ことは免れざるところにして、またやむを得ないことである。
そしてその歳月〔年所〕を経るにしたがって、まちまちであり、また私情がからんで処置のしにくい事柄〔区々の情実〕がまとわりついて〔纏綿〕、ついに一種の疾病となることは往往みなそのとおりである。 当時の東京築地活版製造所も、実にこのような疾病を得た状態にあった。しかしながら社会の風潮はようやく実業の前途において、その場のがれや、一時的にとりつくろう〔姑息の緶縫〕ことを許さないという状況にいたっていた。

それに加えて不景気の嘆声は東京築地活版製造所の前途の販路を押しこめてふさぎ〔壅塞〕、閉店の杞憂を抱かしめ、早晩の挽回の方法を講じなければいかんとも〔奈何〕なすことができないという状況に瀕していた。
こうした事情があって、株主が一致して曲田君を挙げて、東京築地活版製造所の挽回を一任したのである。

このような時機に際しては、あたかも名医が快刀一下、病疾の宿瘍を切開するように根本的な改革をおこなわなければ、この危機を救済することはできない。曲田君はおおいにそこに覚悟があって、事務員と職工を解雇するという英断を施すにいたったのである。そもそも数年にわたる親密な交際〔情交〕がある者に向かって、いきなり〔一朝〕解雇 の厳命を伝えるのは人情において忍びないところがあるが、曲田君のきっぱりとした決心は、幾多の毀誉を顧みずに、改革の企図のもとその効験を確信しておこなわれた。
んにちふたたびその基礎を確実にして、社運が隆盛にいたったのは、実にこの曲田君の英断と卓識に因ったものであった。

一八九〇年〔明治二三〕一一月東京活版印刷業組合創立に際し、同業の諸氏とともに運動してこれを成立させた。ついで翌一八九一年〔明治二四〕六月東京石版印刷業組合の創立にも曲田君は創立に尽力し、同組合でも事務委員となり、爾後重任を重ねて晩年にいたった。

一八九一〔明治二四〕二月『印刷雑誌』発刊の挙があって、故本木昌造君の偉大なる事業〔鴻業〕の伝記が掲載された。これを全国の同業者知らしめんと欲して、特に数百部を購入して各同業者に配布した。

一八九三年〔明治二六〕製版協会の設立を斡旋し、翌年同会が解散して東京彫工会に合併するのにあたり、その交渉委員に挙げられた。

同年七月印刷物見本交換〔同会発行冊子『花の栞』〕を創定した。これはわが国におけるこの種の〔印刷物交換の〕嚆矢にして、斯業者を益すること尠少ではなかった。翌年第二回を挙行し、その結果をみずして歿す。当初のその一冊を帝国博物館〔館長/手嶋精一 のち『花の栞』四号・五号に序文をしるす。のち現東京工業大学学長に就任〕に納めたところ、官はこれを嘉して木盃を賜った。

一八九三年〔明治二六〕八月東京彫工会製版部長に挙げられ、同二七年東京活版印刷業組合副頭取に挙げられた〔頭取/秀英舎・佐久間貞一〕。

またこれより先、曲田君は播但鉄道株式会社の創立に従事した。曲田君の名望卓識は遂に同社株主をして君を監査役としたため、しばしば〔屢〻〕山陰山陽一帯を遍歴〔跋渉〕していた。

一八九四年〔明治二七〕一〇月もまた、播但鉄道株式会社のために兵庫県姫路に出張していたが、一〇月一五日午後、突然脳充血症をもって姫路の旅宿に歿した。ときに数えて四九歳であった。

急ぎの電報が自邸に達し、驚愕、悲傷のさまはたとえようもなかった。遺族はただちに西下し、遺骸を護って帰ってきた。一〇月二一日東京府白金大崎村に葬った。当日東京活版印刷業組合頭取/秀英舎・佐久間貞一ほか一名が左の弔文を朗読せり。

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曲田成君ヲ弔フ文

これ、明治二七年十月二一日、築地活版製造所長曲田成君の葬儀を挙行する。東京活版印刷業組合委員等が棺の前に参会し、謹んで〔寅テ〕君の霊に告げる。

即ち、君は本木・平野両氏の後を承けて、ますます活版製造の事業を拡大し、諸種の活字が精確で、花形・片画〔ママ 罫画か装飾罫の可能性〕が斬新なことは、すべて君が熱心に企画した所に関係している。これによって、築地活版製造所の名声は国内・国外に鳴りひびき、欧米の印刷雑誌もこぞって〔嘖嘖〕賞賛するようになった。

感心することには〔嗚呼〕、君のようなひとは、よく草創の事業を継ぎ、先輩の偉業を衰えさせない者ということができる。

今や欧米の印刷術は一変して、精妙で巧緻を競うようになった。君はこれに対して、この風潮に伴って美術的観念を活版製造上にうまく傾注するばかりでなく、また、うまく活版印刷上に用いて、見本交換を発起し、同業者と提携してこの技術の改良・進歩を計画すること、至れり尽くせりであった。ああ、嘆くしかないが〔嗟々〕君が同業社会に功労あるのは、このようにまったく多大である。仮にも君の後継者が十分に君の意思を体してその規模を倍々に拡張したとして、それは君がすでに死んだというけれども、生きていると同じことである。心から希望するに〔庶幾クハ〕君の霊が、また少しく慰め労わるところがあるであろう。

活版印刷業組合を組織されてから、われわれ仲間は君と手を一堂に握り、この技術の進歩を企画すること数回であるが、君は、或る日、われわれ仲間をそのままにして、遠くに逝ってしまった。今後は相談仲間が一人少なくなってしまった。これを思うと涙が止まらない。これ以上ことばがおもいつかない。
東京活版印刷業組合頭取
明治二七年一〇月二一日                  佐久間貞一再拝
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曲田成氏を追弔する

人の世に暮らしてゆくには、必ず艱難なしにはできない。艱難がなければ、目的を達する気持ちが堅固で確実なものにはなり難い。したがって、艱難に遭遇することがますます多ければ、ますます奮励して不撓不屈の精神により、これを克服することができる。そうでなくても、もしも、途中でその艱難辛苦のために、むなしく目的達成の気持ちが折れ曲がることがあれば、はたして、その年来の志望を達成して美しい花を咲かせることができるだろうか。

昔から洋の東西を問わず、英雄豪傑と称されてその勲功を永く伝え、その名声を百代まで伝える人は、皆、この定められた道を踏まない者はないであろう。

考えてみれば、あのアメリカを発見して世界に他の人のない勇敢者と言われたコロンブスは、自分の身をはるかに巨大な浪に直面させ、技量を茫漠とした海洋で練り、何日も生死の目に遭い、数多くの風雨にさらされて、ついに念願の志望を達成し、絶大な大業を樹立して、世界に冠たる者となったのではないだろうか。

あれこれ多くの人がいうには、人間が人間として大業・偉功によって人を驚かすようになるには、不撓不屈の精神で艱難に立ち向かって全力を尽くし励む力があって、ここに至るというより他に道はない。

いま、曲田氏の来歴のようなものも、また、同様である。活版事業の羅針盤となり、鉄道事業家の指導者と仰がれ、内では多くの人に尊敬され、外では多くの人が従う地位を授けられたのも、これまでになったのは偶然ではない。

もの悲しい風が寂しく吹き、悲しみの涙が雨のように落ち、堅固な精神と断ち切る断腸の思いで、身を置くところもなく、温かい着物もなくて飢えに苦しむという年月も、あるいは、幾星霜のことか。

公〔曲田茂氏〕は、よくこれを実践し、これを耐え忍んだことで、今日、世間の人が尊敬し、功名が朝日のように昇るに伴って、死んでも名前が残る者であるということができる。感心することに、これは尋常で平凡な人ではないと、われ等は声を大きくして憚らない。

そうとはいっても、不老不死の薬を得る者が誰かあるだろうか。生きる者は必ず死し、会う者は必ず別れの時が来る。川はながれ流れて昼夜の別なく変転すること速く、昔の人は今は居ないという格言を免れることはできない。

曲田成君にても、本月一五日、播州姫路の旅館で、錦風蕭颯の声のように突然、
病魔に襲われ、年令四十余りを一期として、急にあの世へと帰らぬ人となった。
これにより肉親・知己の者達は、悲しみの涙が胸中にあふれ、哀悼の情につつまれた。
喪に服すよりも、むしろ、涙してかなしみなさい。嘆き悲しむに情けある人ならばこの人に対して誰か追悼し、惜別の涙を流さない者はあるだろうか。

悲しみに涙することで、人をいきかえらすことができるだろうか。嘆いても声のない帰らざる旅路は、いっそのこと、縁ある導師を招いて、およそ即身成仏の印契を受けるほかないであろう。

よって、導師は、仏号を得芳院慈運明成居士と与え、堂の柱上にある飾り受木は雲上の荘厳をよそおい、読経の梵唄は粛々として内院に導き、焼香の芳薫は馥郁として霊魂を慰める。

行きたまえ、行きたまえ、奥深く荘厳な密厳の園へ。

名園の赤く色づいた樹木は、霜枯れた枝をより良いとは思わない。ひらひらと舞い落ちる木の葉は、落葉の時にその奇妙さを競う。これらを快く思うことに疑いがあるだろうか。

 よって、もし、人が仏の慈悲を求めるならば、菩提心に通達する。

     父母が生む所の身体は、速やかに大いなる悟りの境地を保証する。

時に明治二七年一〇月二一日    密厳の末に資する 栄隆 謹んで申す
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※上記の後半六行ほどは意味不明のところもありますが、ひとまずこの程度でご容赦を〔弔文釈読/古谷昌二〕。

曲田君の資性は篤実で人情にあつく〔敦厚〕、穏やかで慎み深い〔穆乎〕温容は、ひとをして心服させる。その凛乎たる決心は、ひとをして感動せしむ。君の先見は着々と企図にあたり、君の熱心はいちいちそのおこないにみられる。君の統率は寛厳その良きを得て、君の心のひろさ〔襟度〕は児女もなおこれを慕う。
早くから〔夙に〕本木君の小伝〔『日本活版製造始祖故本木先生小伝』曲田成編 明治二七年九月〕を著してこれを世上に紹介し、『実用印刷術袖珍版』を著して同業者の進歩をはかり、近日また平野君の小伝の稿あり〔未見〕。
惜しいかな、天は命を君に仮さず、この有為のひとをして有為の年に遠逝せしめたり。
君に二女あり。伊藤氏の子を以て長女に配す。 

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跋 〔あとがき〕
〔名村泰蔵 Ⅰ-Ⅱ  四号明朝体 20字詰め 08行 字間二分 行間全角〕

噫、胸がつまってため息がでるが、本書は故曲田成君の略伝なり。君の歿後に予〔名村泰蔵〕は推薦せられて東京築地活版製造所社長の重任を承けた。 君の計画していたところを挙行し、君の企図したところを実施し、地下にある君をして遺憾の意をいだくことがないように希望するのにほかならない。

ここに社員に委嘱して君の略伝を作製し、福地先生に閲読、刪正〔文章・字句などをけずり改める〕をお願いした。こうして原稿が完成し、これを印刷し、社友および曲田君を知る諸君に贈呈する。これは社員一同のこころざしなり。
明治二八年一〇月
東京築地活版製造所社長  名村泰蔵しるす