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【展示】日本美術刀剣と押形展|長崎歴史文化博物館企画展示室|日本美術刀剣保存協会長崎県支部|本木昌造の佩刀が展示されました

DSC_1192DSC_118920181003144508_00001本木昌造、諱:永久-ながひさ-がもちいていた佩刀が長崎歴史文化博物館で展示され、長崎会員からスマホ写真を頂戴いたしましたので紹介いたします。本木家・平野家はともに長崎の地役人で、明治維新以後のいっときは「卒族」とされていましたが、苗字帯刀をゆるされていました。

日本美術刀剣と押形展
会 場  長崎歴史文化博物館企画展示室
期 間  2018年9月13日-24日 会期終了
主 催  日本美術刀剣保存協会長崎県支部
平野富二武士装束uu平野富二(富次郎)が長崎製鉄所を退職し、造船事業への進出の夢を一旦先送りして、活版印刷の市場調査と、携行した若干の活字販売のために上京した、1871年(明治4)26歳のときの撮影と推定される。知られる限りもっともふるい平野富二像。旅姿で、丁髷に大刀小刀を帯びた士装として撮影されている。
廃刀令太政官布告は1876年(明治9)に出されているが、平野富二がいつまで丁髷を結い、帯刀していたのかは不明である(平野ホール所蔵)。
[関連:花筏 平野富二と活字*09 巨大ドックをつくり船舶をつくりたい-平野富二24歳の夢の実現まで
日本鋳造活字始祖大阪四天王寺境内にある「本木氏昌造翁紀念碑」。ここにみる本木昌造の銅像と碑域は明治30年に建立されたが、昭和20年金属供出令で銅像をうしなった。昭和60年の再建にあたっては、本木昌造が士装した資料がなかったため、絵画をよくした森川龍文堂:森川健市が戦前の写真をもとに絵画をおこし、それにもとづいて像造したとされる。

(『本木昌造先生銅像復元記念誌』大印工本木先生銅像復元委員会 昭和60年9月)
[関連:【講演録】文字と活字の夢街道 ]

【古谷昌二 新ブログ スタート】 東京築地活版製造所 歴代社長略歴 ── 初代社長 平 野 富 二

社長略史01【古谷昌二 新ブログ スタート】
東京築地活版製造所

歴代社長略歴

初代社長 平 野  富 二

(1)初代社長就任とその実績
(2)築地活版製造所の前史
     〔本木昌造の活字製造事業を受託〕
     〔活版製造事業の改革〕
     〔事業責任者として大阪・東京に出張〕
     〔事業所の東京移転〕
(3)平野富二の貢献

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古谷昌二さんuu[1]平野富二生誕の地碑建立有志の会の< WebSite 平野富二──明治産業近代化のパイオニア >において、精力的に「平野富二」に関する最新研究成果を<古谷昌二ブログ>に連続発表されている古谷昌二氏。その蓄積は2017年01月-2018年06月にわたり、都合18回の連載をかさねています。

平野富二は長崎から上京後、わずか20年ほどのあいだに、明治産業近代化のパイオニアとしてさまざまな事業を手がけました。そのひとつが活字製造と活字版印刷関連機器の開発で、東京築地活版製造所の名称でひろく知られます。ところが同社が昭和初期に解散したために、企業史の側面からの研究は十分とはいえない状況にありました。

近年、長崎と東京で「活版さるく」をはじめとするさまざまなイベントが開催され、東京築地活版製造所関連資料があらたに発掘され、周辺では共同研究も盛んになってきました。
これらの成果の一端として、<古谷昌二 新ブログ 東京築地活版製造所歴代社長略歴>は、明治18年(1885)6月16日に設立され、昭和13年(1938)3月17日、臨時株主総会の決議によって解散を迎えるまでの東京築地活版製造所の消長を、個性ある歴代の社長の姿を追うことで明らかにしようとするものです。ご愛読をたまわりたく存じます。

[平野富二生誕の地碑建立有志の会 事務局長:日吉洋人]
平野富二03ea964d3f22efbbfc3e02f6c3213aee727888b699973808e40cc8ca99d760c07448e9df747f3cf40629d5bdf0b3b66c55ebe9892c555028e236a51c24cad9c0『印刷雑誌』第1巻第8号1891.09m24 部分拡大

【明治産業近代化】株式会社 I H I 社内報『あい・えいち・あい』2018年2月号にて同社創始者:平野富二時代に製造された手引き式活版印刷機を紹介

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株式会社 I H I 社内報『あい・えいち・あい』2018年2月号(通巻687号)
表紙・表紙裏・本文三ページにわたって「手引き式活版印刷機」を紹介

総合重機械大手企業、株式会社 I H I(東京都江東区豊洲3-1-1 豊洲 I H I ビル  光岡次郎社長)は、同社創始者の平野富二のもうひとつの事業、「平野活版製造所 のち 東京築地活版製造所」による、活字版印刷器機製造・活字製造事業を紹介すべく、社内報『あい・えいち・あい』(B5判 中綴じ 28ページ)に表紙を含む3ページにわたる特集記事を掲載しました。

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平野 富二(ひらの とみじ)
1846年10月4日〔弘化3年8月14日〕-1892年〔明治25年〕12月3日

実業家、県立長崎製鉄所(現、三菱重工業長崎造船所の前身)最後の経営責任者、石川島平野造船所(現、株式会社IHI)創立者、東京湾汽船会社(現、東海汽船)創立委員・取締役。これに先立ち、東京築地活版製造所(1938年3月17日解散決議)を設立した。
平野富二は活版印刷普及の貢献者、民間洋式造船所の嚆矢、明治産業近代化のパイオニア。
バーナー20180326162657_00001 20180326162657_00003 20180326162657_00004HI TECHNOLOGICAL HISTORY MUSEUM

IHIものづくり館アイミューズ
開館時間 9:30-17:30    4月24日[水]リニューアルオープン
休  館  日 毎週土曜日・日曜日
        * 年末年始、ゴールデンウィーク。
        * 夏期連休(休館日の詳細については、直接お問い合わせ下さい)
入  場  料 無 料
交通のご案内
◯ 地下鉄有楽町線「豊洲」駅下車1c 出口より徒歩約5分
◯ 東京臨海新交通臨海線ゆりかもめ「豊洲」駅下車改札口より徒歩約10分
◯ 都営バス「 I H I 前」バス停下車
 [豊洲01]、[都05出入]、[業10]、[錦13]、[東15]、[東16]、[門19]系統乗車
◯ 当館専用の駐車場はありませんので、なるべく公共交通機関でのご来場をお願いします。
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〒135-8710 東京都江東区豊洲3ー1ー1 豊洲 I H I ビル内1階
TEL  03-6204-7032 FAX  03-6204-8614
http://www.ihi.co.jp/i-muse/

img 石川島資料館01 石川島資料館02石川島資料館
石川島造船所の創業から現在までと、それと深い関わりを持つ
石川島・佃島の歴史や文化などを紹介した館です。
開館時間 10:00~12:00、13:00~17:00
開  館  日 毎週水曜日・土曜日(ただし年末年始は除きます)
入  場  料 無 料
交通のご案内
◯ 地下鉄有楽町線、大江戸線「月島」駅下車6番出口より徒歩約6分
◯ 都営バス「リバーシティ21」バス停下車
  [東16]系統乗車
◯ 当館専用の駐車場はありませんので、なるべく公共交通機関でのご来場をお願いします。
〒104-0051 東京都中央区佃1-11-8 ピアウエストスクエア1階
TEL  03-5548-2571
78c9bdb7ed01487055858ec639c66de32017年11月、メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭にあたり{江戸・東京 活版さるく}が実施された。

その折り、株式会社 I H I 豊洲ビル内にある<ものづくり館 アイミューズ>を訪問した。
同館は160年以上にわたり、エンジニアリングの最先端を探求してきた I H I のチャレンジ精神の軌跡を展示する場であるが、現在はきたる4月24日[火]のリニューアルオープンを控えて改修のさなかにある。

ついで創業の地に設けられた<石川島資料館>を訪問し、平野富二と I H I の160年余の歴史を学んだ。
その詳細報告は今夏発行予定の『タイポグラフィ学会誌 11号』に発表予定である。

【関連情報:株式会社 I H I   http://www.ihi.co.jp/ 】{ 簡略情報:活版 à la carte

【展覧会】 萩博物館 没後百年企画展{日本工学の父 山尾庸三}

山尾庸三フライヤー(表)[1] 山尾庸三フライヤー(裏)[1]
日本工学の父・山本庸三の人物像に迫る

幕末に伊藤博文・井上馨・山尾庸三・井上勝・遠藤謹助らとともに、「長州ファイブ」のひとりとしてイギリスへ密航留学、帰国後は日本工学教育の分野で活躍し、工部大学校(後の東京大学工学部)創設に尽力するなど、日本の工学教育形成に尽力した山尾庸三を紹介。
本展は、2017年が山尾庸三没後100年という節目の年にあたることから、これを記念し開催されたもので、2016年3月に山尾家から萩市に寄贈された約1000点の資料の中から一部を展示。大部分が初公開となる貴重な資料を観覧できる。

【詳細情報 : 萩博物館 】 
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バーナー {新塾餘談}

Yozo_Yamao_01[1]山尾庸三 (やまお-ようぞう 一八三七-一九一七)

明治時代の旧長州藩出身の官僚。天保八年(一八三七)十月八日、萩藩士山尾忠治郎の次男として出生。
文久元年(一八六一)、幕府が江戸その他の開市開港の延期を諸外国と交渉するため、勘定奉行竹内保徳をヨーロッパに派遣した際、庸三は同使節に随行し、シベリアに渡る。
翌年、帰国後、高杉晋作らの攘夷運動に加盟して、品川御殿山のイギリス公使館の焼打ちに参加したこともある。その後、英国商人のT・グラバーの助力を得て、四人の同志とともにイギリスにおもむき(密航)、その産業や文化を視察した。この時の同行者のなかに、のちの伊藤博文や井上馨らがいた。

明治三年(一八七〇)に帰国後、庸三は民部権大丞兼大蔵権大丞を経て工部大丞へ昇進、同十三年には工部卿に就任。この間長崎製鉄所の責任者であった平野富次郎(富二)との接触が多かった。
その後、宮中顧問官・法制局長官などを歴任し、また同二十一年、東京日比谷官庁街の建設事業を担当する臨時建築局総裁を兼ねたこともある。同二十年、子爵を叙爵。
また岸田吟香らとともに楽善会訓盲院(現筑波大学附属視覚特別支援学校 東京都文京区目白台3-27-6)の創立につくした。
大正六年(一九一七)十二月二十一日没。八十一歳。
[参考文献] 古谷昌二『平野富二伝-考察と補遺』、井関九郎編『現代防長人物史』三、『国史大辞典』(吉川弘文館)
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山尾庸三は現下の<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>でも注目される存在であるが、古谷昌二氏は『平野富二伝―考察と補遺』の「二-六 長崎製鉄所の経営責任者就任と退職」(.p.96-109)のなかで、すでに相当詳しく論述されている。 

山尾庸三は明治三年(一八七〇)に英国から帰国後、当時、工部権大丞で、新設されて間もない工部省の実質的な責任者であった。『文書科時務簿』(長崎県立図書館所蔵)の年表によって全体の流れを見ると、次のことが分かる。

  • 製鉄所御用掛となった井上聞多(井上馨)の示達に基づき、製鉄所頭取助役の青木休七郎は、長崎府からの食禄を辞退し、製鉄所の経営を独立採算制とし、その収益の中から職員の給料を支払うことにより、職員の改革努力で給料が上がる仕組みを作った。
  • しかし、青木休七郎は、職員の給料を捻出するため、部下の経理担当者と共謀して二重帳簿により製鉄所の収益を計上させた。
  • 頭取役本木昌造はそれに気付いて、内々で調査をしたが、井上聞多に直結する青木一派の勢力が強く、限界を感じて頭取職を辞職した。
  • 代わって頭取となった青木休七郎は、部下の経理担当者を昇格させ、本木一派と目される品川藤十郎と平野富次郎を小菅諸務専任として本局の経営から分離した。
  • 明治二年(一八六九)末、製鉄所職員の給料が無視できない程高くなっていることから、長崎県当局から県職員のレベルに合わせるように指示が出された。
  • 明治三年(一八七〇)五月、民部省の山尾庸三が製鉄所事務総管となった。青木休七郎は、それまで製鉄所兼務で、部下の経理担当者に任せ切りであったため、製鉄所専任を命じられた。
  • 同年六月、青木休七郎は大阪出張大蔵省から呼び出しを受け上阪することになった。これは製鉄所の経理不正を疑われた結果と見られる。
  • 青木頭取不在中の対応として、平野富次郎等が諸事合議して運営することを申し入れ、次いで頭取職として県当局から兼務の形で少属の者二名が派遣された。
  • 同年七月、小菅分局に勤務していた品川藤十郎と平野富次郎が本局に呼び戻され、他の機関方六名と共に兼務頭取との合議制による製鉄所の経営が行われた。
  • 明治三年(一八七〇)秋(九月頃)になって、経理担当の責任者二名が逼塞を命じられ、製鉄所経営陣の刷新が行われた。このとき品川藤十郎は頭取心得、平野富次郎は元締役となった。
  • 同年閏一〇月になって、品川藤十郎が退職すると共に、平野富次郎が長崎県権大属に昇格した。(このとき、頭取にはならず、県職員の頭取兼任者との合議によって製鉄所の運営が行われたらしい。)
  • 明治三年(一八七〇)三月に長崎製鉄所の工部省移管準備として山尾庸三が事務総管となって以来、青木一派の経理不正が疑われるようになり、遂に悪事が露見して製鉄所経理不正の首謀者たちは免職させられ、東京に連行された。
  • 明治四年(一八七一)三月、県営製鉄所の最後の責任者となっていた平野富次郎は責任を取って辞任した。

このように、慶応四年から明治四年にかけて、製鉄所の経営改善を名目にして経理上の不正が行われ、これが工部省移管の過程で発覚し、その渦中に巻き込まれた平野富次郎の様子を窺がい知ることができる。

長崎製鉄所の工部省移管のために、山尾庸三が長崎に出向き、平野富二と対面したとき、山尾庸三は算えて三四歳、すでに新政府の高官であり能吏であった。
いっぽう長崎製鉄所の事実上の責任者として中央官僚と対峙することになった平野富二は算えて二六歳、長崎の地下役人の立場でありながら、前任者たちの乱脈経営をきびしく指摘され、つらい立場となった。それでも富二は終止誠実に対応し、山尾庸三は好感をもったようである。富二も明治一七年(一八八四)一二月三日「工学会への寄付により同会の賛助会委員として登録される」などの記録をのこしている。

また先般開催された<メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭>の「江戸・東京 活版さるく」でも山尾庸三の設立にかかる工部大学校(後の東京大学工学部)跡地を訪問した。
工部大学校時代の山尾庸三はこんなことばをのこしている。
おそらく山尾庸三は若き平野富次郎/平野富二にも、おおきな可能性を見いだしていたのではなかろうか。平野富二は翌年上京し、多くの近代産業を興している。

― 仮令当時為スノ工業無クモ 人ヲ作レバ其人工業ヲ見出スベシ ―
たとえ今は工業が無くても、
人を育てればきっとその人が工業を興すはずだ

【平野富二論攷輯】 01-1 平野富二の後継者と目されながら姫路出張の旅先に客死したひと『株式会社東京築地活版製造所社長 曲田成君略伝』

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平野富二平 野  富 二
長崎新塾出張東京活版製造所/有限責任東京築地活版製造所 創設者
石川島平野造船所/有限責任石川島造船所(現 IHI) 創設者
明治産業近代化のパイオニア 生誕170年
弘化03年08月14日-明治25年12月03日 1846. 08. 14-1892. 12.03 享年47

曲田成 resized曲田 成(まがた-しげり)
東京築地活版製造所第二代社長
弘化03年10月01日-明治27年10月15日 1846. 11.19-1894. 10. 15  享年49
MG_0664uu[1] MG_0665uu[1] MG_0689uu[1]平野家墓地 所在地 : 谷中霊園 甲一一号一四側
平野富二(1846-92)、平野こま(古ま・コマ・駒子とも 1851-1911)夫妻墓標
撮影/『平野富二伝』古谷昌二編著 刊行記念 展示・講演会 併催 「掃苔会」 2013.11.30

本墓標の書は吉田晩稼(よしだ-ばんか、一部資料によしだ-ばんこう。一八三〇-一九〇七)による。太平洋戦争で上野駅周辺に投下された焼夷弾が至近に落下したために墓標には焼損がみられるが、晩稼の書を知るためにも貴重な墓標である。
吉田晩稼(一八三〇-一九〇七)に言及した資料はすくないが、ここではわずかな記録から紹介する。

吉田晩稼は長崎興善町に文政一三年一〇月六日(一八三〇年)生まれた。はじめ長崎明倫堂・長川東洲、書を春老谷にまなび、のち兵学を高島秋帆にまなぶ。
幕末に奔走家として活動し、維新のさいには新潟に遊学していたが、そこで山県有朋の寵を得て、秘書、ついで陸軍大尉となった。
のち東京にでて書家に転じる。楷書大字を得意とし、筆力雄勁にして及ぶ者なしと評された。大阪四天王寺境内本木昌造銅像台座、靖国神社の石標、旧陸軍省、警視庁などの門標を書している。明治四〇年四月三日七八歳をもって東京で死去。 別号に香竹。
吉田晩稼夫妻の墓は、東京都港区南青山・青山霊園、二種イ号八側にある。墓碑銘は「香竹吉田先生墓」(書は門人の岡見正)。

また教科書用活字として、俗に「晩稼流 ばんか-りゅう」とされる楷書書風で版下を製作し、一八九九(明治三二)年一〇月二二日、国文社発行『尋常小学校読本』巻五以上に使用・刊行されている(『教科書体変遷史』板倉雅宣、朗文堂、p.20)。
先般<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>会員:平野正一氏が吉田晩稼の書の興味ぶかい資料を入手され、同会に寄託された。そのため同会内部で数名が吉田晩稼研究に着手したという。

《中国東北部ハルビン市にのこされていた「伝バンカ活字」》

稿者は一九九五年五月、コンピュータ-・ソフトメーカーの社長連五名とつれだって、改革開放初期の中国ハルビンを訪れたことがあった。
その折り、かつて古賀和佐雄が率いていた頃の千代田活字・千代田印刷機材料製造株式会社(千代田マシナリーを経て、現・株式会社小森コーポレーション傘下)が、中国東北部奉天((旧満州、現・瀋陽)を中心に進出し、ハルビンにも活字版製造工場「哈爾浜-はるびん-印刷材料廠」をのこしていた。

ハルビン活字01 ハルピン活字02あれからまもなく三〇年ほどになるが、一九九五年の改革開放が叫ばれていたあの時期において、旧日本人街とされるこの石道街あたりは大規模な再開発のさなかにあり、古賀和佐雄時代からの系譜を継承している「哈爾浜印刷材料廠」(当初の名称は{三三書局}だったと老工匠は語ったが、若干疑問がある)も、工事着手を機に閉鎖するとされていた。

その際に入手した、当時の「哈爾浜印刷材料廠」の活字見本帳『鉛字 品种様本』が稿者の手許にのこっている。
その五九ページに「日歴字瑪 72点 → 日本統治時代の活字見本 七二ポイント 二千五百字種」がある。楷書大字を得意とした吉田晩稼の書と通底するところがあるのかも知れない。
ところで七二ポイントサイズの活字とは、一インチ(二・五四センチ)格のおおきなサイズであり、わが国では新聞社の見出し活字などをのぞくと、鋳造活字としては一般市場ではあまり見かけないものである。

招待先の黒竜江大学のご好意で、日本統治時代から長年にわたって同所に勤務されたという老工匠が招かれていて、工場案内にあたっていただいた。このかたは日本語がきわめて流暢だった。
老人はこの書体の風格には厳しかったが、「この七二ポイント活字は日本の書家の原字で、バンカ活字」だと何度も述べていたのが印象にのこっている。

まとまりの無い資料だが、このときの訪中記録が、翌年三月発行「文字百景 一三」 『柳絮 リュウジョ のまう町で …… 文字の国・中国の活字事情』 (組版工学研究会・坪山一三、一九九六年三月)にのこっている。
いまは、中国の友人でハルビン市出身の四〇歳代前半のかたがいるが、この写真をおみせしても、すでにこのあたりの風景はまったく変わっているとされ、「哈爾浜印刷材料廠」の名前もご存知無かった。下記に「文字百景 一三」の PDF データを用意した。ご関心のあるかたはご覧いただきたい。文字百景13 ハルビン活字文字百景13『柳絮のまう町で……文字の国・中国の活字事情』(組版工学研究会・坪山一三)
ダウンロード用 PDF 3.61MB

《東京谷中霊園 平野家墓地に石に刻されてのこった曲田成の名前》

IMG_1914 IMG_1915谷中霊園甲一一号一四側、平野家墓地の背の高い石柱の門を入った参道の右側に、石の水盤が置かれてある。
この水盤は東京石川島造船所の関係者によって捧げられたもので、その左側面に重村直一・島谷道弘・片山新三郎・桑村硯三郎の名前が刻んである。
これらの名前は東京石川島造船所の株主名簿に示されており、平野富二から重用された部下であった(『平野富二伝 考察と補遺』古谷昌二、朗文堂)。

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MG_0689uu[1]その先の参道に左右一対の石灯籠がある〔撮影:掃苔会 時盛淳氏〕。
上掲写真「掃苔会」のおりの集合写真では、向かって左側の石灯籠をみることができる。
三段重ねの基壇があり、そのうえに台座がしつらえられており、軽やかで瀟洒なものである。墓標と同様に焼夷弾をあびているが、火袋を交換修復しただけで創建時の状態をよく保っている。

この一対の石灯籠は東京築地活版製造所の関係者によって捧げられたものである。
向って左側の石灯籠の台座裏面に「東京築地活版製造所」と刻し、続いて、曲田成、松田源五郎、谷口黙次、西川忠亮、野村宗十郎、竹口芳五郎、谷田鍋太郎、松尾篤三、湯浅文平、古橋米吉、高木麟太郎、浅井義秀、太原金朔、仁科衛など総勢十四名の氏名が列記してある。

向って右側の台座裏面には、左側に続くかのように以下の十六名の氏名が列記してある。
秋山雅長、奥井徹郎、横井清三郎、広瀬己巳郎、上原定次郎、益子芳之介、西成□政、若林由三郎、倉岡寿平次、永井卯三郎、片寄利吉、岡崎努、栄朝重、伊藤義人、三野又一、岡 洵。

本稿では、おもに平野富二の創設による東京築地活版製造所の第二代社長:曲田成を取りあげる。
これまで曲田成に関する資料は、業界紙誌の断片的な記録をのぞくと、
『日本人名大辞典』(講談社)の以下のようなわずかな紹介をみるだけであった。

【曲田 成 まがた-せい 1846−1894】
明治時代の実業家。弘化三年生まれ。もと阿波徳島藩士。維新後実業界にはいり、明治一六年平野富二の東京築地活版製造所をついで所長となった。明治二七年一〇月一五日死去。四九歳。幼名は岩本壮平。

ほかにもこの献灯台座に名を刻した何人かが登場してくる。そしてなぜか、この献灯台座には、東京築地活版製造所の象徴的な創立者とされ、平野富二が礼を尽くしていた本木昌造の継嗣・本木小太郎(いっとき東京築地活版製造所「社長心得」に就任 一八五七-一九一〇)の名がみられない(『本木昌造伝』島屋政一、朗文堂)。

あらかじめ断りしておくが、平野富二の逝去後まもなく一八九三(明治二六)年に商法が実施された。したがって商法の実施以後に、長崎新塾出張東京活版製造所/有限責任東京築地活版製造所は、株式会社東京築地活版製造所となる。
また石川島平野造船所/有限責任石川島造船所も、株式会社東京石川島造船所となり、幾多の増資・合併と変遷をへて現 IHI につらなってる。
商法の実施後の両社の商号に、ともに「東京」の名前が冠されていることは、ここではひとまず注目しておいていただきたい。


本稿では煩瑣をさけ引用資料紹介などをのぞき、これ以降年代区分をすることなく、両社を一貫して「東京築地活版製造所/東京石川島造船所」と表記させていただく。
平野富二が手がけた多くの事業のうち、残念ながら、活字版製造と印刷関連器機製造を主業務とした東京築地活版製造所は、一九三八(昭和一三)三月に清算解散が決議され、多くの記録がうしなわれ、一部は神話化されて伝承されてきた。

平野富二生誕一七〇年にあたり、平野家墓地の献灯台座に、東京築地活版製造所関連者の筆頭に刻まれていた「曲田成」に関して、近年国立国会図書館によって紹介された新資料から見ていきたい。

 曲田成 resized曲田 成(まがた-しげり、一部資料にまがた-せい)
東京築地活版製造所第二代社長
弘化03年10月01日-明治27年10月15日 1846. 11.19-1894. 10. 15  享年49譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈陦ィ1 譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈2 譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈3 譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈螂・莉・
ダウンロード用 PDF  『曲田成茂君略伝』 3.62MB

株式会社東京築地活版製造所社長 『曲田成君略伝』

明治二八年一〇月一六日発行  (非売品)
編輯兼発行者   松尾 篤三         東京市京橋区築地一丁目七番地
印  刷   者    野村宗十郎         東京市京橋区築地一丁目二十番地
印  刷   所    東京築地活版製造所           東京市京橋区築地二丁目十七番地
【 国会図書館資料 請求記号:特29-644 】

《知られざる人物だった 『曲田成君略伝』について》

東京築地活版製造所の基礎を築いた創業期のふたりの社長をあらためて並べてみた。
◯ 平野 富二

東京築地活版製造所創設者/初代社長  
弘化三年八月一四日-明治二五年一二月 三日 1846. 08. 14-1892. 12.03 享年47
◯ 曲 田 成 
東京築地活版製造所第二代社長
弘化三年一〇月一日-明治二七年一〇月一五日 1846. 11. 19-1894. 10. 15  享年49

このふたりは弘化三年(一八四六)という同年のうまれである。わずかに一ヶ月半ほど平野富二が先に誕生している。
またふたりとも仕事人間で、平野富二は講演中に倒れ、そのまま卒した。曲田成は出張先の姫路の旅舎で倒れ、看取るものもなく卒した。
わずかな違いは、曲田成が二年ほど長命だっただけで、それでもふたりとも五〇歳を迎えることなく卒している。

稿者にとっては長らくの疑問があった。
それは、東京築地活版製造所を語るとき、象徴的な創業者である本木昌造ばかりが熱心に語られ、創設者の平野富二はわずかに触れられるだけで、二代社長/本木小太郎、三代社長/曲田成、四代社長/名村泰蔵に関してはほとんど触れられず、ポンと飛んで第五代社長/野村宗十郎が喧伝される事実であった。

本書『東京築地活版製造所社長 曲田成君略伝』は、東京築地活版製造所第二代社長/曲田 成(まがた-しげり)の略伝である。知られる限り唯一本であり、管見ながらこれまで本書から引用された論考をみたことは無い。
序文を校閲〔刪正〕にあたった福地源一郎(櫻痴 三号明朝 字間 四分アキ)がしるしている。本文は氏名不詳のふたりの人物がしるし、(五号明朝 字間 四分アキ)で組まれている。
本文後半に弔文「曲田成君ヲ弔フ文」(東京活版印刷業組合頭取 佐久間貞一)、「曲田成氏ヲ追弔ス」(密嚴末資榮隆  不詳)がある。
最後に「跋」がおかれ、東京築地活版製造所社長の名で名村泰蔵(三号明朝 字間 四分アキ)がしるしている。

刊記(奥付)には、発行日として「明治二八年一〇月一六日」とあり、おそらく曲田成の一周忌に際して刊行されたものとみられる。
編集兼発行者は松尾篤三(東京市京橋区築地一丁目七番地)である。この松尾篤三に関して知るところは少ないが、谷中霊園の平野富二墓前の対の石灯籠の向かって左側の台座、東京築地活版製造所関連の名前の列挙八番目にその名をみることができる。
印刷者として支配人・野村宗十郎(東京市京橋区築地一丁目二〇番地)がある。
印刷所として東京築地活版製造所(東京市京橋区築地二丁目一七番地)がある。

『東京築地活版製造所社長 曲田成君略伝』によって、今後本木昌造、平野富二関連文書の行間を大幅に補填することが可能となった。
すなわち従来は平野富二・本木小太郎(本木昌造の継嗣)・曲田 成・名村泰蔵に言及するところがきわめて少なく、両者のであい、東京築地活版製造所創設当初の器械設備、活字改良の次第などは暗中模索の状態にあった。

野村宗十郎建立概要_表紙さらにことばをかさねれば、原稿が完成していながら、東京築地活版製造所から『平野富二伝』が発行されるにいたらなかった次第は、本書と、こののちに紹介する「故野村宗十郎翁略伝」『野村宗十郎翁胸像建立概要』(昭和五年八月)の中であきらかになってくる。
ここに(2016年09月23日{活版 à la carte}{文字壹凜})読者諸賢に『東京築地活版製造所社長 曲田成君略伝』の存在をお知らせし、ともに本書ををタイポグラフィ研究に資することを期待したい。
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このように、ほぼ一年前に諸賢に『東京築地活版製造所社長 曲田成君略伝』公開の情報をお知らせした。それ以来多くの方が国立国会図書館のデーターをダウンロードされ、ともに研究をすすめてきた。
したがって本稿はまだ読了されていない諸賢に、再度データーの存在をお知らせするとともに、まず旧漢字片かなまじりで明治文語体の、いささか読みにくい本文を、常用漢字におきかえ、あわせて文意を損なわない程度に現代通行文にした記録である。
原文との参照には、国立国会図書館の PDF データをご覧いただきたい。

この間、古谷昌二氏をはじめ、板倉雅宣氏、桜井孝三氏、平野正一氏、春田ゆかり氏、松尾篤史氏、日吉洋人氏、大石 薫らとの論考会を何度かもった。そこで解消した疑問も多いが、あらたに発生した疑問も多数ある。
したがってまず本稿を01-1としてご紹介し、あまり時日をおかずに、01-2の発表を準備している。

株式会社東京築地活版製造所社長 『曲田成君略伝』

曲田成略伝序
〔福地源一郎 Ⅰ-Ⅳ  四号明朝体 20字詰め 08行 字間二分 行間全角〕
東京築地活版製造所の社長、名村泰蔵君が一小冊子を懐にして来たりて余〔福地源一郎・櫻痴〕に告げて曰く、これはわが社の故社長 : 曲田成の略伝なり。曲田の没後、予〔名村〕はその空席〔乞〕を継いで職を続けています。所務を統纜するのに際して、いつも曲田の、ものごとをきちんとやり遂げる能力と、勉励を追憶して忘れることはありません。

わが東京築地活版製造所にこんにちある者は、曲田の功績は実に多大であったとしています。福地先生は曲田を識るひとです。願わくば先生がこの略伝を閲覧たまわり、あえてお願いいたしますが、文章・字句などの悪いところをけずり改める〔刪正〕加工をしてくださいと。

余はたしかに曲田君を知る。名村君にいたっては竹馬の同窓であり旧友である。したがって病後の衰労を理由としてこの要請を辞退することは忍びない。そこで要請をうけてこれを閲読し、余分なところを削り、その欠けたるところを補い、事歴をつまびらかにすることに及んで、益〻曲田君がおおいに当時のひととして卓越したひとであったことを知るなり。

そもそも創意をこらしたり、起業をなすことが困難なことはひとの認めるところである。ところがそれを継承し改良することが困難なことは、ときとして創意起業の困難より至難なことを、往々にしてこれを認めることができないのは世間にありがちなことである。
而して曲田君はこの至難な継業に任じて、能く所務の隆盛をはかるひとである。名村君が曲田君を追憶して止まないのはまことにもっともなことである。

まさしくひとが世にあるときは、赫々の功名はいっとき喧伝されるが、その死後となると、ぼんやりとしてしまって、尋ねるための跡も無いものである。滔々と世の流れていくさまとはみなこのようである。

曲田君のような人物は、その生前のときを知らなければ、一見もって中庸のひととする。しかるに歿後にいたり、ひとをして敬慕と哀惜の念を増さしめる斯くのごときものは、実際に本当の功績が存在することに感銘するがゆえにあらずや。

余はここにおいて、曲田君の生前に君を敬い、重くみることが少なかったことを愧じるのみである。
嗚呼余は先に平野富二君を追悼してまだ数年にもならないのに、また曲田君の伝記を校閲した。筆を擱いて涙がはらはらと落ちるばかり〔泫然〕。
明治二八年〔一八九五〕一〇月               福地源一郎 しるす

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曲 田 成 君 略伝
〔氏名無記名の筆者がふたり。五号明朝体 30字詰め 10行 字間四分アキ 行間五号全角と二分  ひとりは二字下げでリード分をしるしたひと。もうひとりは感情を抑制して事実列記につとめたひと p.01-25〕

偉大なる事業とは一世一代にして大成するものではない。まず発明があり、創意工夫があり、継業があり、改良があってのちに、はじめて大成をえるものである。

いにしえより、英雄豪傑の士は時勢の気運に乗じて、その功を一世にしておさめたといえども、やはりふつうは一世一代にして大成するものではない。 いわんや、蒸気機関の開発や電気器機のような、ものごとの大業とされる事業とは、みなこのようである。

わが国の活版事業においても実にこの通則にあるものであった。 まさしく活版事業の創意者は本木昌造君にして、その継業者は平野富二君である。そしてその事業を拡張・改良して、これを大成させたる者は曲田成君であった。これらの三名は皆その年齢が五十歳に達しないまま〔本木昌造は数えて52歳で歿〕はるか遠くにいってしわまわれた〔遠逝〕。

ああ、天はどうしてこの三君にたいして歳をかさねることを惜しんだのだろう。 そして創始者たる本木君の伝は曲田君がこれを世におおやけにした〔 『日本活版製造始祖故本木先生小伝』曲田成編 明治二七年九月〕。継業者たる平野君の伝もまたその稿を脱稿した〔未見〕。ゆえにここに拡張者であり改良者である曲田君の略伝を編輯して、その経営と辛苦の蹟を顕わさんと欲するなり。

君の姓は曲田(はじめ岩木と称す)、名は成(幼名を荘平という)〔まがた-しげり/『日本人名大辞典』(講談社)ほか一部の資料は、まがた-せいとする〕。 弘化三年一〇月一日〔一八四六年一一月一九日〕淡路の国津名郡物部村〔淡路島にある兵庫県洲本市。江戸期は阿波徳島蜂須賀藩領であった〕にうまれた。

父を富太郎と呼ぶ。母は関氏のひと。曲田家は代代徳島〔本藩の〕藩士であった。二歳にして父をうしなって母に養われた。幼くして川端豊吉氏を師として書をまなび俊秀の名があった。やや長ずるにおよび藩学校にはいり漢籍をまなぶ。その進歩の様子は衆を越えていた。

一八六六年〔慶応二年 曲田成数えて二〇歳〕藩主蜂須賀侯〔一三代蜂須賀斉裕-はちすか なりひろ〕が、従来の兵法をあらためて英国式の兵制を布くのにあたって、曲田君は熱心に練兵の法をまなんでおおいに得るところがあった。そのため銃卒一番大隊の小隊司令官に選抜され、刻苦勉励、もっぱら隊伍を訓練することをもって自任していた。

一八七〇年〔明治三〕藩士が稲田家に事件をおこすにあたり〔五月一三日(新暦六月一一日)徳島藩士が、家老稲田氏所管の洲本屋敷(館)を襲撃。稲田騒動、阿波庚午事変とも。別項で紹介〕、曲田君は一方の指揮官となり進退はなはだよろしきをえたが、その挙動〔稲田騒動〕はまったく藩士の私憤に出るのゆえをもって、その職を罷免された。

一八七一年〔明治四〕藩主〔一四代蜂須賀茂韶-はちすか もちあき〕はふたたび兵制をあらため、フランス式練兵法を採用するにあたり、再度その教授役に挙げられた。しかしながら曲田君はおおいに時勢を達観するところがあって、断然その職を辞し、もって自活独立の途をもとめるために、親戚や知人のつよい諫めを聴かず、単身旅したくをととのえて上京の途につけり〔曲田成数えて二五歳の頃〕。

嗚呼たれか安逸を望まざるものがあろうか。嗚呼たれか娯楽を欲せざるものあらんや。そのようなわけで〔然り而して〕、この安逸のために不測の辛酸を嘗め、この娯楽のために惨憺たる悲劇を演じて、ついに失望の域に沈み、落胆の岩に触れ、いまだ彼岸に達せざるに、すでにその身をおくに苦しむものはいずれも〔比比〕皆同様である。
しかるに曲田君が職を辞して、さらにあらたな路に向かって自営の道をもとめ、意を決して東上したことは、ただ気ままに遊び楽しむこと〔目前の逸楽〕は他日の不幸となることを前もって知った〔前知〕ためではなかろうか。

曲田君が征途についたとき、ほんのわずかな資金をふところにし、そまつな笠をかぶり、みずからひと包みの服を背負い、気力をふるいおこして〔慨然〕故郷をさった。道中では幾多の艱苦をなめたが、かろうじて東京に達した。
しかしながら寄るべき朋友は無く、訪問すべき故旧をおとなうこともなく、ひとりぼっちで〔孤影単身〕艱苦は身に迫ってしまった。

江戸名所道外尽 十 外神田佐久間町resized平野富二・曲田成の東京での出発点となった藤堂和泉守上屋敷の門長屋の風景。
江戸期以来、町人地とは異なり武家地と社寺地には町名がなく、この絵士:広景も「外神田佐久間町」として庶民の正月風景を描いているが、佐久間町は画面左手にあたり、ほとんど描かれていない。
実際に描かれたのは現・東京都千代田区和泉町一にあたる、藤堂藩の藩屏たる門長屋の風景である。この藤堂藩三五万石藩邸(上屋敷)の敷地と門長屋はおおきく、平野富二は画面右側の最奥部に仮工場を設置したと見られる。

平野富二がここを本拠地とした期間は一八七二年七月-七三年七月までのほぼ一年間という短い期間であったが、平野と曲田成の膠漆の交わりがはじまったのは、この現・東京都千代田区和泉町一の東南あたりの地であったとみてよい。

ここには東京大学医学部の前身「大学東校 だいがく-とうこう」が開設され、森鷗外もこの門長屋での寄宿生活をすごし、小説『雁』にこの風情をのこしている。
 (平野の会:古谷昌二・平野正一氏同日情報提供 『江戸名所道外尽 神田佐久間町』広景画、辻岡屋、国立国会図書館 請求記号:寄1-9-1-7)

幸いなことに当時東京築地活版製造所の創始のときに際し、平野富二君が神田佐久間町〔藤堂和泉守藩邸内門長屋の一隅・現千代田区和泉町一、和泉公園の神田佐久間町三丁目の右斜め向かい側あたり〕に、長崎出張所〔長崎新塾出張活版製造所〕を開設し、ひろく活版業の需要をはかり、将来にむけて有為の士をもとめていた。

曲田君ははからずも平野君の知遇を得て、今後この事業をともにすることを約した。それからの平野君と曲田君の親密なる交際〔情交〕は、骨肉の兄弟のように一挙一動を共にして一体の観をなした〔平野富二:弘化三年八月一四日うまれ、曲田成:弘化三年一〇月一日うまれ。ふたりは同年のうまれである〕。

平野君が佐久間町〔千代田区和泉町一〕に斯業を創始したのは明治五年七月〔一八七二年六月〕のことで、まだ世間ではおおむね活版とは何であるかを理解するものは無く、顧客、ユーザー〔需用者〕はまたわずかであった。 しかしながら曲田君はひたすら平野君のさしず〔指顧〕にしたがって日夜事業の進展をもとめ、あえてほかを顧みることはしなかった。
まさしく当時の曲田君の心境は、いわゆる南海の一寒生〔貧しい書生・自分の謙称〕にして、平野君の知遇を得たるをもって、ひたすらつとめはげみ〔孜々黽勉 ししびんべん〕、ただそれでも及ばざることを恐れ、そのはじめはみずから活版配達夫となって奔走した。
累進して鋳造係りとなり、翌明治六年八月〔長崎新塾出張活版製造所が〕築地二丁目に移転するにおよび、ますます平野君とともに斯業に勉励した。

長崎新塾出張活版製造所uu[1]

わが国最古級の冊子型活字見本帳の口絵に描かれた東京築地活版製造所社屋の図版は、木口木版を印刷版とし活版印刷機で印刷された/笹井祐子(日本大学藝術学部教授)

平野富二が単身で上京し、東京での市場調査と、携行した活字を販売したのち、本格的に首都東京に進出したのは、まだ改暦前で一八七二年六月(明治五年七月)のことであった。
平野富二がこの上京に際して、上海 → 長崎 → 神戸 → 横浜間の定期貨客船(外国飛脚船)をもちいて、まだ普及していなかった海上損害保険に本木昌造の反対を押しきって加入していたことは記録されている。
このとき活字鋳造器機、活字母型その他の荷物とともに、新妻・こま、品川徳太郎(品川徳多とも、品川藤十郎長男、一八五一-八五)、松野直之助(一八四六-七八 上海にて歿す)、松尾徳太郎、桑原安六(のち東京築地活版製造所支配人)、和田国雄(のち東京築地活版製造所支配人)、相原市兵衛、大塚浅五郎、柘植広蔵らとともに海路上京した。

この旅の詳細は記録されていないが、おそらく横浜で外国船をおりて、小型船を乗り換えながら、品川沖から石川島沖を経由して隅田川に入り、さらに神田川を遡上して和泉橋河岸-かし-あたりで荷物を降ろしたものと想像される。
すなわち、平野富二が当時の呼称、神田佐久間町大学東校表門通り〔和泉藤堂守上屋敷門長屋/現在の千代田区神田和泉町一〕に「長崎新塾出張活版製造所」の看板をかかげて斯業を創始したのは一八七二年六月(明治五年七月)のことであった。

ここには「文部省活版所」の名で、本木昌造の命をうけて先行していた小幡正蔵と営業部員の大坪本左衛門が、どういうわけか「小幡活版所」の看板を掲げていた。
この「文部省活版所」、「小幡活版所」の業容と消長は知るところがすくないが、小幡正蔵は一八七一年(明治三)一〇月本木昌造が「文部省活版御用」を任ぜられ、平野富二が大阪活版製造所の小幡正蔵をともなって上京したと記録されている。したがって小幡正蔵はもともと大阪活版製造所のひとで、短期間の在京で帰阪したものとみられる。
また平野富二一行到着の翌年、大坪本左衛門は平野富二の了解を得て、湯島嬬恋坂下に「大坪活版所」を設けて独立開業して、平野富二の活字取次販売と活版印刷業をはじめた(『本木昌造伝』島屋政一、朗文堂)

この前年、一八七二年四月三日(旧暦では明治五年二月二六日)、「銀座大火」とされる大火災があった。銀座大火は和田倉門内旧会津藩邸から出火、折からの強風にあおられ、、東京の中心地、丸の内、銀座、築地一帯が焼失した。こまかくは、銀座の御堀端から築地までの九五万四百平方メートル(四一町、四千八百七九戸)を焼失した。焼死八人、負傷者六〇人、焼失戸数四千八百七四戸という記録がのこる。

京橋の町人地を一通り焼いた火焔は、ふたたび東隣の旧武家地に侵入、伊達宗徳邸(旧宇和島藩伊達家上屋敷)、亀井茲監邸(旧備中松山藩板倉家中屋敷)、西尾忠篤邸(旧横須賀藩西尾家中屋敷)などを焼いて、築地川(現首都高速都心環状線)を越え、開墾会社・牛馬会社など新興会社が拠点としていた現築地一-三丁目を横断、築地本願寺に到達し、築地本願寺の大伽藍はもちろん、周辺の末寺も焼失した。
この「銀座大火」をきっかけに、明治新政府は寺社と墓地の移転をはかり、銀座周辺を耐火構造の西洋風の街路へと改造することとなった。

平野富二は教育施設となった「大学東校 文部省活版所」内、あるいは隣接地での仮工場は、活字鋳造には不適であると判断し、また森鷗外と同様に居心地がわるかったとみえる。
そこで平野富二が注目したのは、水運に恵まれ、焼亡地となっていた築地二丁目二〇番地の一画一二〇坪余であった。
上京後一年、はやくも一八七三(明治六)年夏には金三千余円をもって購入手続きをすませ、七月某日「長崎新塾出張活版製造所」を築地の仮工場に移転し、同年一二月二五日、自費で建築した耐火性に富んだ煉瓦家屋の引き渡しをうけた。

この築地の土地は、のちに東京築地活版製造所の本社工場敷地、隣接して平野富二邸敷地として周辺が買い増しされていくが、明治六年〔一八七三〕一二月に完成した煉瓦づくりの新社屋の図がのこる。
東京進出からわずか五年後、アメリカ合衆国独立100周年を記念して開催されたフィラデルフィア万国博覧会(一八七六年五月一〇日-一一月一〇日)への出展に際して製作されたとみられる冊子型活字見本帳、通称『活版様式』(一部欠損本、印刷図書館蔵、明治九)の口絵である。
同展には先行したパリ万博・ウィーン万博での中心展示となった漆器・陶磁器・扇子・屏風・浮世絵などに加えて、文明開化の成果としての近代産業の展示が政府からもとめられた(『米国博覧会報告書 日本出品目録第二』米国博覧会事務局、明治九年、国立国会図書館、請求記号:特28-157)。

この際、直接の担当者(官僚)は手島精一で、のちに蔵前の東京高等工業学校校長、現東京工業大学の創立者のひとりとされる人物であった。手島精一はその後も東京築地活版製造所に支援をかさね、『花の栞』巻四、五に序文をしるしている。
この手島精一らの要請をうけて、官営の印刷局とならんで、民間企業の東京築地活版製造所も和田国雄を主任として現地に派遣し、活字類・手引き式印刷機などを出展した。

その翌一八八七年(明治一〇年)、東京上野公園で第一回内国勧業博覧会(政府主催)が開催された。その際に出展したものとみられる東京築地活版製造所『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所平野富二、平野家蔵、明治一〇)も現存している。
この俗称「平野活版所活字見本 明治九年版・明治一〇年版」の二冊の活字見本帳は、それぞれ孤本(明治九年版はほぼ完本で一九八〇年頃にはイギリスの図書館にあったが、現在は所在不明)とされているが、二冊ともに口絵図版の門柱に「長崎新塾出張活版製造所」の縦長看板があり、一八七三年(明治六)年一二月に完成した煉瓦づくりの新社屋の図がのこる。

この版式と印刷方式は不詳だったが、『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所平野富二、平野家蔵、明治一〇)の原本を間近にご覧になった日本大学藝術学部教授(版画コース担当)/笹井祐子氏により、版式は木口木版、印刷方式は活版印刷機使用であると判断された。
従来はわが国における西洋式「木口木版」の開始は、生巧館・合田清のフランス留学からの帰国一八八七(明治二〇)年をもってはじめとするが(『日本印刷技術史』中根勝、八木書店  p.246)、その通説をくつがえす報告である。

当時の〔活字〕鋳造は、いまのような「カスチング」をもちいず、はじめは「流し込み」たりしものにして、「ハンドポンプ」をもちいるようになったのはひとつの進歩というべきほどのことであった。曲田君は日常の談話でよくこのことに触れ、手足や顔に火傷をすることがたびたびであったとかたっていた〔この部分は稿をあらためて解説したい〕。

一八七六年〔明治九〕六月二六日、曲田成は平野富二の奥書を得て、家禄奉還のことを出願した。家禄を奉還して自力で食い扶持を得ようとすることは、実に常人のできることではない。日本帝国中でこのような断りの意思を示した行為は稀有のことであるとして、知事はこれをよしとして、銀盃一個を賞賜した。
その文に曰く、
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乞 家 禄 奉 還 書 (家禄奉還を乞う書)
士族  曲 田  成 謹言す

名東ミョウドウ県令公閣下 維新以来文明は日に進み、開化は月にあらたに、都市もひなびた地方でも〔都鄙〕様相をかえて〔革面〕、旧習をのぞき、善政がおこなわれ農民も商人も食に満ち足りて、生業を楽しんで〔鼓腹〕います。
このような時に際して、士族はほんのすこし〔繊毫〕も役にたつこと〔裨益〕もなくして、家禄をたまわり、空しく日日の食事にありつくこと〔素飱〕に甘んじています。あるいは〔士族の籍を〕奉還して賜金をもとめ、子孫への遺産となしています。これは実にみずからを省みることが無きこと甚だしいものです。
不肖 曲田成がかんがえるに〔以為〕、彼もひとなり、我もひとなり。我ひとり日日の食事にありつくこと〔素飱〕をしていてよいのでしょうか。ですからみずから活路をもとめ、子孫のために策を設け、早急に自由の美郷に奔走しようとする以外ないと〔駆馳〕鋭意奮起して、ついに世間のつよい諫め〔指謗〕を顧みず、こころざしを奮い起こして〔慨然〕、一八七三年〔明治六〕二月出京して、活版製造所社長平野富二なるものに遇い、活版の用法を熟聞しておおいに感得するところがありました。

説に曰く、ひとがこの世にあるときは、おのれの能力に応じて食していくべきである〔人の世に在る各其力に食せざるに可らず〕。而してひとりのために謀るは衆のためにするのにおよばない〔若かず〕。一己のために謀るはひろく天下の利益〔洪益〕を謀るのと同等ではない〔如かず〕。その説深く肝肺に銘ず。
それ天下のことに労するものは、必ず報酬を得て、労なくして報酬をえるのは、いわゆるただ喰い〔素飱〕である。 これにおいて断然平野氏と将来の盛衰を共にせんと約託し、該社に入社(投員)してこの業に従事し、社員と共に夜も日もなくつとめ励んではたらき〔孜々労作〕、忍耐倦まず。まさに時運に応ずる該社の事業は倍増しこんにちの盛大にいたる。

然り而して既往の事跡を追想するに、社長の常にあらざる勉強と、社員のねばりづよい労働〔労耐〕による。そしてここに前掲のようにますます該社は盛大となり、社則も精設して、拙工といえども給与金の三分の一をもって永途就産の資本に予備するの方法〔失業保険制度のこと〕を設け、これにおいて活路すでに確定す。これは勉励によるといえども、そもそもまた、天皇陛下〔天子〕のすぐれた知徳と恩沢〔聖明徳澤〕がもたらしたところである。

よって今回家禄を奉還して平民の戸籍〔民籍〕にはいり、その身のほど〔分〕をまもり、活路にいささかも安んぜずして、ますます素志を拡伸し、確実な資産〔確産〕を子孫にのこす〔遺設〕ことを希望する。

さきに〔曩に〕家禄奉還許可の政令あり。このときにあたって、同属はつぎつぎと〔陸続〕士籍を奉還して、政府から下賜されるお金〔賜金〕を請求した。
不肖 曲田成がおもうには〔以為〕、ここにおいて家禄を拝受するは無駄喰い〔素飱〕なり。賜金を拝受するのもまた素飱なり。素飱をあまんずることは同一である。

不肖 曲田成が家禄を仰ぐことにはもとより希望のものではない。いわんや賜金を貪ることも同様である。然れども、当時はいまだ家禄を辞退することができなかった。これは小生 曲田成の遺憾として切歯するところなり。ここにおいて眼前の小利に営々とせず、また遠大な志を企て、常に活路の方法に着目し、もし事が成就したならば、家禄を奉還せんと日夜願うところただ此れのみ。
しかるにまた一八七五年〔明治八〕七月家禄奉還を中止するとの政令があった。しかれどもいま、なりわい〔活計〕の方法すでに確定す。いまにして家禄を奉還しなければ〔せざれば〕、これは禄を貪っておのれが儲けをためる〔儲蓄〕を欲しいままにすることになる。これはいさぎよさを傷つけること〔傷廉〕、はなはだしきものというべし。

よってまず家禄を奉還し、民籍に編入せんこと懇願す。伏して乞う、この許可を賜らんことを。かつ賜金拝受のごときは天皇陛下の恩恵が親切で手厚いこと〔徳澤の優渥〕に因るといえども、食のために働かない連中を、いさぎよい態度とはおもえないところである。ゆえに特に辞して免除〔辞免〕を蒙らん。 ここにまたあらかじめお願い申しあげます。右陳述するごときであるので、憐れみ、お察しくだされ〔請禹閣下憐察を垂れ〕、そのそそっかしくてくるっていること〔疎狂〕を許して〔寛〕採用あらんことを請う。

もっか〔方今〕県務多端に属す。こまかくてつまらぬ〔区々〕志願をかえりみず、あえて尊厳を干犯す。恐惶のいたりにたまらず伏して明旨を俟つ。

名東県下淡路国津名郡物部村士族 東京築地二丁目四八番地寄留
明治九年六月二六日                曲 田   成(印)
頓首再拝     

前書願い書のとおり、曲田成儀とは四ヵ年前より居食をともにし、兼ねて同人儀も素飱を悔いて日夜勉励し、こころざしを同じくし、すでに活路の見込みも相定まり候のとき〔場合〕に至り、わたくしにおいてもしかと〔聢〕保証いたしますので(仕り候間)、本人の願いどおりご採用くだされたく奥書つかまつり候なり。

        東京築地二丁目二〇番地        平 野 富 二(印)
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名東県令富岡敬明公閣下   ※名東ミョウドウ県は、明治初期に、阿波国・讃岐国・淡路国を範囲とした県。範囲は、当初は現在の徳島県および兵庫県淡路島であったが、長らく香川県の一部も含まれていた。県庁所在地は徳島。一八七一年一二月二六日に設置され、一八七六年八月二一日に廃止された。

※富岡敬明 最後の名東県令。一八七五年(明治八年)九月五日-一八七六年(明治九年)八月二一日:権令・富岡敬明(前山梨県参事、元小城藩士)

一八七九年〔明治一二〕東京築地活版製造所の「四号明朝活字」と、「六号明朝活字」の活版〔活字〕書体の改良のために、曲田君は上海に出張し、翌一三年春に帰朝した。

はじめ東京築地活版製造所が斯業を長崎の地におこすのにあたっては、なにぶん草分け〔草創〕のためもあって、その活字書体・原字書体〔字母書体〕を精選するにいとまがなく、得る〔獲得〕のにしたがって、これを製造し、これを販売してきた。したがってその活字書体は雑駁にして、みやびやかな風情〔雅致〕も、感興をさそうあじわい〔趣味〕も有していなかった。

M7,M37社屋それでも活版印刷の需用者は、平野君およびその他の尽力と、社会の進歩の刺激にともなって、都下はもちろん、ひなびた地方〔隦陬〕にまでおよび、その発達を誘導して、活版の利便であることを知ると同時に、その地金の良し悪し〔精錬〕を論じ、活字書体〔字体〕の良否によって活字を選択する傾向があることを察していた。
平野君は社員のなかで、がまん強く、困難に屈しない〔堅忍不撓〕精神を持ち、かつ熱心に事にあたる事業家を採用して活字書体の改良を計ろうとしていた。

そして遂に平野君はこの大任を曲田君に任せることにした。曲田君はこれに応えて、一層の奮発と励精とをもってその任にあたった。幾多の歳月を積みかさね、ようやくにしてこの活字書体の改良を大成することができた。その間活字原字彫刻〔種版彫刻〕の技術に関して得ることができた経験と知識はわずかなもの〔尠少〕ではなかった。

こんにち活字の良品とするもので、まずわが東京築地活版製造所に指を屈するようになったのは、ひとえに曲田君の刻苦勉励がもたらしたものである。そして逝去の一日前にも、旅先の姫路から書簡を社員に寄せて、ますます精進するように命じていた。

これより先、平野君は造船製鉄事業を東京石川島に開き、〔東京築地活版製造所と石川島平野造船所〕の両方の事業がますます繁盛におもむくのをもって、さらに北海道函館港に造船工場を設置せんとして、一八八〇〔明治一三〕九月曲田君を伴って函館に出かけ、その地の有力家渡辺熊四郎氏ほか数名とともに、同所にある海軍省の造船用の器械類の払い下げを請求するのにあたり、曲田君は終始これの斡旋の労をとり、計画に参加してよい結果を得た。

翌一八八一〔明治一四〕東京築地活版製造所支配人の桑原安六氏の退社に際し、函館より帰京して支配人補助となり、一八八五年〔明治一八〕和田國雄氏にかわって支配人となった。

その後社会の文運はますます進歩し、斯業の発達は愈〻迅速になった。東京築地活版製造所は常にその指導者となり、これら斯業者のよき仲間〔夥伴〕となり、活字の改良も益〻あゆみ〔歩武〕を進め、先進者たることの名声を失墜させることがなかった。これらは実に支配人として、事業家として、曲田君の操縦よろしきに因るものあった。

本木 小太郎本木小太郎
本木昌造次男・継嗣
安政4年9月18日-明治43年9月13日 1857. 09. 18-1910.  09. 13

一八九九年〔明治二二〕六月、本木小太郎氏が海外留学七年の星霜を経過して(閲して)帰朝した。そこで平野君は創業者たる本木昌造君の遺志にそって、また自分の日頃からのおもい〔素願 ここでは造船と器械製造〕を遂げるために、東京築地活版製造所社長の職を小太郎氏に譲ることとした〔社長心得〕。
そのとき曲田君は支配人から工務監査の職に転じ、いささかの閑を得たが、止むことなく益〻工事の作業を研究していた。

ところで当時の経済と社会のさわぎ〔波瀾〕はほとんどその極に達し、商工業者はみな衰えて元気をなくして〔萎靡〕振るわなく、沈滞の歎声は国内全体〔海内〕にかまびすしく、朝に起こりて夕に倒れたるもの、指を屈するにいとまがないという惨憺たる状況となった。商工業者は挙げて、まさにおおきな惨禍〔一大旋禍〕のなかにひきこまれようとする危機的状況にあった。

東京築地活版製造所もまたその渦中に巻きこまれようとしたことは数次におよんだ。そのためにしばしば〔屢〻〕株主総会をひらき、将来の営業方針を討議したが、いつも重要な点をつかむ〔要を得ず〕ことができなかった。このときにあたり、このこんがらかった糸のように、まぎれ乱れた〔紛乱せる乱麻〕議論を整理し、こんにちのような盛大な企業にしたるゆえんは、あげて曲田君の力によった。

当時の曲田君はおおいに計画するところがあって、一八八九年〔明治二二〕一二月三〇日、株主総会最終日、すなわち東京築地活版製造所の存廃を決するという日において、七項の条件を委任〔たれから? どんな条件を? 当時の株主は平野富二・初代谷口黙示・松田源五郎・品川藤十郎と島屋政一は記録する〕せられて社長の任につき、翌三一日事務員一同の辞職を聞き届け、各部の職工を解雇した。年をこえて一八九〇年〔明治二三〕一月二日、再度曲田君が信任するものを挙げて事務を分担させ、職工の雇い入れなどをなさしめた。

およそ社会のことは、盛んにもてはやされたり、敗れたり、また、張りつめることもあれば、弛むこともある〔一興一敗一張一弛〕ことは免れざるところにして、またやむを得ないことである。
そしてその歳月〔年所〕を経るにしたがって、まちまちであり、また私情がからんで処置のしにくい事柄〔区々の情実〕がまとわりついて〔纏綿〕、ついに一種の疾病となることは往往みなそのとおりである。 当時の東京築地活版製造所も、実にこのような疾病を得た状態にあった。しかしながら社会の風潮はようやく実業の前途において、その場のがれや、一時的にとりつくろう〔姑息の緶縫〕ことを許さないという状況にいたっていた。

それに加えて不景気の嘆声は東京築地活版製造所の前途の販路を押しこめてふさぎ〔壅塞〕、閉店の杞憂を抱かしめ、早晩の挽回の方法を講じなければいかんとも〔奈何〕なすことができないという状況に瀕していた。
こうした事情があって、株主が一致して曲田君を挙げて、東京築地活版製造所の挽回を一任したのである。

このような時機に際しては、あたかも名医が快刀一下、病疾の宿瘍を切開するように根本的な改革をおこなわなければ、この危機を救済することはできない。曲田君はおおいにそこに覚悟があって、事務員と職工を解雇するという英断を施すにいたったのである。そもそも数年にわたる親密な交際〔情交〕がある者に向かって、いきなり〔一朝〕解雇 の厳命を伝えるのは人情において忍びないところがあるが、曲田君のきっぱりとした決心は、幾多の毀誉を顧みずに、改革の企図のもとその効験を確信しておこなわれた。
んにちふたたびその基礎を確実にして、社運が隆盛にいたったのは、実にこの曲田君の英断と卓識に因ったものであった。

一八九〇年〔明治二三〕一一月東京活版印刷業組合創立に際し、同業の諸氏とともに運動してこれを成立させた。ついで翌一八九一年〔明治二四〕六月東京石版印刷業組合の創立にも曲田君は創立に尽力し、同組合でも事務委員となり、爾後重任を重ねて晩年にいたった。

一八九一〔明治二四〕二月『印刷雑誌』発刊の挙があって、故本木昌造君の偉大なる事業〔鴻業〕の伝記が掲載された。これを全国の同業者知らしめんと欲して、特に数百部を購入して各同業者に配布した。

一八九三年〔明治二六〕製版協会の設立を斡旋し、翌年同会が解散して東京彫工会に合併するのにあたり、その交渉委員に挙げられた。

同年七月印刷物見本交換〔同会発行冊子『花の栞』〕を創定した。これはわが国におけるこの種の〔印刷物交換の〕嚆矢にして、斯業者を益すること尠少ではなかった。翌年第二回を挙行し、その結果をみずして歿す。当初のその一冊を帝国博物館〔館長/手嶋精一 のち『花の栞』四号・五号に序文をしるす。のち現東京工業大学学長に就任〕に納めたところ、官はこれを嘉して木盃を賜った。

一八九三年〔明治二六〕八月東京彫工会製版部長に挙げられ、同二七年東京活版印刷業組合副頭取に挙げられた〔頭取/秀英舎・佐久間貞一〕。

またこれより先、曲田君は播但鉄道株式会社の創立に従事した。曲田君の名望卓識は遂に同社株主をして君を監査役としたため、しばしば〔屢〻〕山陰山陽一帯を遍歴〔跋渉〕していた。

一八九四年〔明治二七〕一〇月もまた、播但鉄道株式会社のために兵庫県姫路に出張していたが、一〇月一五日午後、突然脳充血症をもって姫路の旅宿に歿した。ときに数えて四九歳であった。

急ぎの電報が自邸に達し、驚愕、悲傷のさまはたとえようもなかった。遺族はただちに西下し、遺骸を護って帰ってきた。一〇月二一日東京府白金大崎村に葬った。当日東京活版印刷業組合頭取/秀英舎・佐久間貞一ほか一名が左の弔文を朗読せり。

────────────────────────────────────────
曲田成君ヲ弔フ文

これ、明治二七年十月二一日、築地活版製造所長曲田成君の葬儀を挙行する。東京活版印刷業組合委員等が棺の前に参会し、謹んで〔寅テ〕君の霊に告げる。

即ち、君は本木・平野両氏の後を承けて、ますます活版製造の事業を拡大し、諸種の活字が精確で、花形・片画〔ママ 罫画か装飾罫の可能性〕が斬新なことは、すべて君が熱心に企画した所に関係している。これによって、築地活版製造所の名声は国内・国外に鳴りひびき、欧米の印刷雑誌もこぞって〔嘖嘖〕賞賛するようになった。

感心することには〔嗚呼〕、君のようなひとは、よく草創の事業を継ぎ、先輩の偉業を衰えさせない者ということができる。

今や欧米の印刷術は一変して、精妙で巧緻を競うようになった。君はこれに対して、この風潮に伴って美術的観念を活版製造上にうまく傾注するばかりでなく、また、うまく活版印刷上に用いて、見本交換を発起し、同業者と提携してこの技術の改良・進歩を計画すること、至れり尽くせりであった。ああ、嘆くしかないが〔嗟々〕君が同業社会に功労あるのは、このようにまったく多大である。仮にも君の後継者が十分に君の意思を体してその規模を倍々に拡張したとして、それは君がすでに死んだというけれども、生きていると同じことである。心から希望するに〔庶幾クハ〕君の霊が、また少しく慰め労わるところがあるであろう。

活版印刷業組合を組織されてから、われわれ仲間は君と手を一堂に握り、この技術の進歩を企画すること数回であるが、君は、或る日、われわれ仲間をそのままにして、遠くに逝ってしまった。今後は相談仲間が一人少なくなってしまった。これを思うと涙が止まらない。これ以上ことばがおもいつかない。
東京活版印刷業組合頭取
明治二七年一〇月二一日                  佐久間貞一再拝
────────────────────────────────────────
曲田成氏を追弔する

人の世に暮らしてゆくには、必ず艱難なしにはできない。艱難がなければ、目的を達する気持ちが堅固で確実なものにはなり難い。したがって、艱難に遭遇することがますます多ければ、ますます奮励して不撓不屈の精神により、これを克服することができる。そうでなくても、もしも、途中でその艱難辛苦のために、むなしく目的達成の気持ちが折れ曲がることがあれば、はたして、その年来の志望を達成して美しい花を咲かせることができるだろうか。

昔から洋の東西を問わず、英雄豪傑と称されてその勲功を永く伝え、その名声を百代まで伝える人は、皆、この定められた道を踏まない者はないであろう。

考えてみれば、あのアメリカを発見して世界に他の人のない勇敢者と言われたコロンブスは、自分の身をはるかに巨大な浪に直面させ、技量を茫漠とした海洋で練り、何日も生死の目に遭い、数多くの風雨にさらされて、ついに念願の志望を達成し、絶大な大業を樹立して、世界に冠たる者となったのではないだろうか。

あれこれ多くの人がいうには、人間が人間として大業・偉功によって人を驚かすようになるには、不撓不屈の精神で艱難に立ち向かって全力を尽くし励む力があって、ここに至るというより他に道はない。

いま、曲田氏の来歴のようなものも、また、同様である。活版事業の羅針盤となり、鉄道事業家の指導者と仰がれ、内では多くの人に尊敬され、外では多くの人が従う地位を授けられたのも、これまでになったのは偶然ではない。

もの悲しい風が寂しく吹き、悲しみの涙が雨のように落ち、堅固な精神と断ち切る断腸の思いで、身を置くところもなく、温かい着物もなくて飢えに苦しむという年月も、あるいは、幾星霜のことか。

公〔曲田茂氏〕は、よくこれを実践し、これを耐え忍んだことで、今日、世間の人が尊敬し、功名が朝日のように昇るに伴って、死んでも名前が残る者であるということができる。感心することに、これは尋常で平凡な人ではないと、われ等は声を大きくして憚らない。

そうとはいっても、不老不死の薬を得る者が誰かあるだろうか。生きる者は必ず死し、会う者は必ず別れの時が来る。川はながれ流れて昼夜の別なく変転すること速く、昔の人は今は居ないという格言を免れることはできない。

曲田成君にても、本月一五日、播州姫路の旅館で、錦風蕭颯の声のように突然、
病魔に襲われ、年令四十余りを一期として、急にあの世へと帰らぬ人となった。
これにより肉親・知己の者達は、悲しみの涙が胸中にあふれ、哀悼の情につつまれた。
喪に服すよりも、むしろ、涙してかなしみなさい。嘆き悲しむに情けある人ならばこの人に対して誰か追悼し、惜別の涙を流さない者はあるだろうか。

悲しみに涙することで、人をいきかえらすことができるだろうか。嘆いても声のない帰らざる旅路は、いっそのこと、縁ある導師を招いて、およそ即身成仏の印契を受けるほかないであろう。

よって、導師は、仏号を得芳院慈運明成居士と与え、堂の柱上にある飾り受木は雲上の荘厳をよそおい、読経の梵唄は粛々として内院に導き、焼香の芳薫は馥郁として霊魂を慰める。

行きたまえ、行きたまえ、奥深く荘厳な密厳の園へ。

名園の赤く色づいた樹木は、霜枯れた枝をより良いとは思わない。ひらひらと舞い落ちる木の葉は、落葉の時にその奇妙さを競う。これらを快く思うことに疑いがあるだろうか。

 よって、もし、人が仏の慈悲を求めるならば、菩提心に通達する。

     父母が生む所の身体は、速やかに大いなる悟りの境地を保証する。

時に明治二七年一〇月二一日    密厳の末に資する 栄隆 謹んで申す
────────────────────────────────────────
※上記の後半六行ほどは意味不明のところもありますが、ひとまずこの程度でご容赦を〔弔文釈読/古谷昌二〕。

曲田君の資性は篤実で人情にあつく〔敦厚〕、穏やかで慎み深い〔穆乎〕温容は、ひとをして心服させる。その凛乎たる決心は、ひとをして感動せしむ。君の先見は着々と企図にあたり、君の熱心はいちいちそのおこないにみられる。君の統率は寛厳その良きを得て、君の心のひろさ〔襟度〕は児女もなおこれを慕う。
早くから〔夙に〕本木君の小伝〔『日本活版製造始祖故本木先生小伝』曲田成編 明治二七年九月〕を著してこれを世上に紹介し、『実用印刷術袖珍版』を著して同業者の進歩をはかり、近日また平野君の小伝の稿あり〔未見〕。
惜しいかな、天は命を君に仮さず、この有為のひとをして有為の年に遠逝せしめたり。
君に二女あり。伊藤氏の子を以て長女に配す。 

==========
跋 〔あとがき〕
〔名村泰蔵 Ⅰ-Ⅱ  四号明朝体 20字詰め 08行 字間二分 行間全角〕

噫、胸がつまってため息がでるが、本書は故曲田成君の略伝なり。君の歿後に予〔名村泰蔵〕は推薦せられて東京築地活版製造所社長の重任を承けた。 君の計画していたところを挙行し、君の企図したところを実施し、地下にある君をして遺憾の意をいだくことがないように希望するのにほかならない。

ここに社員に委嘱して君の略伝を作製し、福地先生に閲読、刪正〔文章・字句などをけずり改める〕をお願いした。こうして原稿が完成し、これを印刷し、社友および曲田君を知る諸君に贈呈する。これは社員一同のこころざしなり。
明治二八年一〇月
東京築地活版製造所社長  名村泰蔵しるす

【新WebSite紹介】 明治産業近代化のパイオニア 平野富二 ── 矢次事歴 提供:「平野富二生誕の地」碑建立有志会

明治産業近代化のパイオニア  平野富二生誕170年 
6e6a366ea0b0db7c02ac72eae0043176[1]平野富二トップページ古谷さん肖像[1]

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平野富二伝 考察と補遺
編著者  古谷 昌二
装  本  A4判、ソフトカバー、864ページ 図版多数
定  価  本体12,000円 + 税
ISBN978-4-947613-88-2 C1023

本書は、明治前期の活字版印刷術の黎明期に活躍し、ついで、造船、機械、土木、鉄道、水運、鉱山開発など、 わが国近代産業技術のパイオニアとしておおきな業績をのこした平野富二に関して、 これまで一般にはあまり知られていなかった産業人としての事績を発掘して、その全貌を紹介し再認識してもらうことを目的とする。 同時に、明治前期の工業界をリードした、技術系経営者としての平野富二の事績紹介が、そのままわが国近代の産業技術発達史の一断面をなすものである。
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〔古谷昌二 略歴〕
昭和10年(1935)、東京都に生まれる。
昭和33年(1958)、早稲田大学第一理工学部機械工学科を卒業。
同年、石川島重工業株式会社(現、株式会社IHI)に入社。
製鉄設備を初めとして、産業機械分野の設計、開発、技術管理、新機種営業部門を歴任。
平成7年(1995)、定年退職に際し、その後の一つのテーマとして平野富二の事績調査に取り組み、IHI OBを中心とした社史研究会「平野会」の設立と運営に協力。
日本機械学会正会員。
「平野富二生誕の地」碑建立有志会代表 同会ブログに積極的に執筆中
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古谷昌二のブログ 05月 <「矢次事歴」 : 平野富二の祖先の記録> より一部抜粋
b111290cf961a5fbd02952deeee60c00[1] 3602b5dfee780fb196392065b40fe03e[1]「矢次事歴」は、矢次家初代の関右衛門から九代温威までの事歴を纏めたものである。これは、矢次家直系の子孫矢次めぐみ氏(十三代)に伝承されている。


<平野富二の兄と甥について>
 明治維新により長崎奉行支配の地役人の組織は、名称は変更されたが、基本的にはそのまま新政府に引き継がれた。矢次温威は、正徳3年(1713)から九代にわたって長崎奉行に仕えた最後の町司となった。

矢次温威は、天保14年(1843)10月19日に父豊三郎の長男として生まれ、幼名は和一郎、後に重之助、重平と称し、明治2年(1869)に温威と改名した。
幼名を富次郎と称した平野富二は、3歳下であった。

父の病死により、嘉永1年(1848)10月、数え年6歳で矢次家の家督を継いで、町司役となったが、幼年のため、奉行所の内〻の了解を得て、年令を11歳として届け出た。
『慶応元年 明細分限帳』(越中哲也編、長崎歴史文化協会、昭和60年)によると、「矢次重之助 丑二十八歳」となっている。これは、丑年の慶応1年(1865)に数え年28歳であることを示す。実際は、5歳のサバを読んでいるので23歳となる。
数え年13歳のとき、初めて加役として新仕役掛を勤めている。慶応1年(1865)2月、町司定乗に昇進した。

慶応4年(1868)4月、長崎奉行所に代わって新政府の下で長崎裁判所が設置され、振遠隊第二等兵を命じられる。この時点で、初代から続いた町司の役職は無くなったと見られる。
新政府の下で奥州に兵卒として派遣され、転戦して帰還後、上等兵となった。明治5年(1872)2月、振遠隊は廃止され、代わって少邏卒(月給6両)を命じられたが、同年中に解任された。邏卒は今でいう警察官に相当する。

温威の父豊三郎の時代である天保9年(1836)当時、長崎奉行に仕える町司などの地役人は2,069人で、長崎の町人の13人に1人が地役人という情況だったとされている。この地役人たちが一斉に家禄を失ったことになる。
以後、特定の職を持たない温威一家は、資産を食いつぶし、親類縁者を頼って不安定な生活を送ることになる。

矢次辰三は、矢次家に入籍してから本木昌造の経営する新街私塾に学び、明治16年(1883)頃に温威の長女こうと結婚、一男三女をもうけている。

幕府の崩壊により家禄を失い、不安定な生活を送る中で成人し、どのような職に就いたかは不明である。
しかし、矢次辰三著とする明治27年(1894)9月30日発行の「長崎港新図 全」と題する地図がある。この地図は、東京の三間 ミツマ 石版印刷所の石版、色刷りの地図で、長崎の虎與號 トラヨゴウ 書店から発行されている。

【長崎県印刷工業組合】 Printing Birth Nagasaki ー 『PBながさき』 2016.9 Vol.93 紹介

ながさき93号09月03日は近代活版印刷の祖 本木昌造の命日です。それを記念して、日本印刷産業連合会では09月を「印刷の月」と定め、各種の周知・啓蒙活動を行っています。
長崎県印刷工業組合・本木昌造顕彰会では毎年法要を行っています。

第141回 本木昌造墓参・法要

平成28年9月2日(金)、大光寺において本木昌造先生の墓参・法要が行われました。
午後5時から墓地での焼香を行い、5時30分から本堂において第141回法要が執り行われま

した。
来賓、関連業者、組合員の約40名が参列し、大光寺住職の読経のもと、長崎県印刷工業組合山口善生理事長、本木昌造顕彰会 岩永正人会長、参列者がつぎつぎに焼香を行いました。

山口理事長挨拶、岩永正人会長のあいさつを行った後(要旨は後述)、株式会社朗文堂 片塩二朗氏に今回修復して印刷が可能となったアルビオン型手引き印刷機の価値・重要性についてお話しいただきました。
──────────
◎ 長崎県印刷工業組合 山口善生理事長挨拶
本木昌造顕彰会は昭和60年に発足いたしましたが、本木昌造の顕彰事業は明治20年代頃から当時の商工会などにより本木昌造をたたえる動きがあったようです。

また、昨年、業界の皆様、またモリサワ様の絶大な支援をいただき復刻した本木活字を鋳造
し、これを用いた印刷体験を昨年の長崎市立図書館、今年6月福岡での九州印刷情報産業展、また、明日長崎市立図書館において業界また地域への広報に青年部を中心に行っていきます。
また、今年は印刷会館の倉庫に眠っていたアルビオン型手引き印刷機の修復を行い、印刷することが可能となりました。
今後とも、本木昌造の功績を長崎の文化遺産また印刷業界に携わる者の基礎として顕彰してまいりますのでよろしくお願いいたします。
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◎ 本木昌造顕彰会 岩永正人会長――本木昌造を支えた人々
今年は長崎県印刷工業組合、本木昌造顕彰会にとって記念すべき年となりました。

5月6日-8日の3日間、株式会社朗文堂主催で「Viva la 活版 ばってん長崎」というイベントを長崎県印刷会館で催すことができ、非常に有意義なことでした。
全国から活版印刷の愛好者、研究者、制作者等たくさんの方がお見えになりました。今日も朗文堂の片塩さんがお見えですが、本当にありがとうございました。

 〔平野 富二〕
その時に大きな報告をいたしました。本木昌造を支えた多くの方がいますが、その代表格が平野富二だと思います。本木の陰にかくれ長崎ではあまり注目をあびていないが、その生家を特定いたしました。本木昌造交友者マップにあらわしています。
旧町名 引地町、現在の桜町の長崎県勤労福祉会館です。国立公文書館にある長崎諸役所図にある町使長屋図「矢次」とあるが、平野富二の旧姓矢次家の場所です。
本木が大阪活版製造所を作るときに五代友厚から大きな借金をしたが、この借財を完済したのも平野富二である。印刷業界としても忘れてはならない人です。

 〔西 道仙〕
西道仙という人がいます。眼鏡橋の橋名碑の揮毫も西道仙である。明治時代の文化人であり、長崎の文明開化の先駆者である。ジャーナリストであり、政治家でもあります。明治6年長崎新聞を発行している。その他西海新聞も発行している。

 〔松田源五郎〕
松田源五郎は十八銀行の創始者であるが、当時の政財界をリードしている人である。長崎商工会議所を設立し、初代会頭を務めている。また、長崎新聞の創立にも貢献した人である。経済的に本木昌造を支えた人です。
本木昌造の事業はこういう人たちの応援があってなしえたものであり、そのことも改めて記憶しておきたいものです。
本木昌造交友者マップ.pdf

 〔アルビオン型手引き印刷機の修復〕
長崎県印刷工業組合所蔵のアルビオン型手引き印刷機の修復ができましたが、明治時代のものであり、印刷業界にとってきわめて大きなニュースです。本日その印刷機で印刷したものを資料として配布しています。福岡の文林堂の山田さんに修復いただきました。本当に有難うございました。
アルビオン型手引き印刷機について

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◎ 修復したアルビオン型手引き印刷機実演
平成28年9月2日(金)14:00からの理事会冒頭に修復したアルビオン型手引き印刷機の実演を行った。印刷機の操作は修復をお願いした㈲文林堂の山田善之氏にお願いした。実演には芸術工学会の大串誠寿氏(福岡市)、株式会社朗文堂 片塩二朗氏、大石薫氏(東京都)、タイポグラフィ学会 板倉雅宣氏(東京都)もはるばる駆けつけました。
印刷機の由来等について本木昌造顕彰会の岩永正人会長が説明し、同時に山田氏にアルビオン型手引き印刷機の写真を亜鉛版に作成し、印刷してもらいました。

 PBながさき93号(2016.09)

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長崎印刷組合年賀アルビオン上掲の長崎県印刷工業組合『PB ながさき』に紹介された記事は、おおむね <活版 à la carte>2017年01月23日掲載において紹介した。
【Viva la 活版 ばってん 長崎 Report 21】 長崎県印刷工業組合アルビオン型手引き印刷機一号機復旧再稼働成功報告。愈〻研究本格展開

まことに迂闊なことに、既報の<活版 à la carte・花筏>での紹介は、同組合会報誌『PB ながさき』ほかの記録が、URL上にPDFで公開されていることを知らぬまま記述していた。
ここに 長崎県印刷工業組合 執行部ならびに事務局の皆さまにお詫びすると同時に、長崎県印刷工業組合のURLへリンク設定すると同時に、今後は長崎県印刷工業組合の動向の紹介に注力してまいりたい。
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【図書紹介】 『石川島造船所創業者 平野富二の生涯』 髙松 昇著 株式会社IHI発行 2009年8月1日 非売品

20170209174758_00001 20170209174441_00001 故髙松昇受賞式にて: 前列左より 田村氏、髙松氏、石原氏。後列右より 合田氏、弊所山路理事長

2 0 1 0 年1 0 月2 9 日
プレス・リリース(PDF)
2 0 1 0 年度「住田正一海事奨励賞」、「住田正一海事史奨励賞」及び
「住田正一海事技術奨励賞」決定のお知らせ
                       社団法人日本集会海運所
                       住田海事奨励賞管理委員会

住田正一海事奨励賞は、永年海運造船事業に従事するかたわら、海事資料刊行、海軍史の研究を通じて、広く海事文化発展に寄与された故住田正一氏を記念して設置された。
正一氏のご子息、住田正二氏( 元運輸
事務次官、前J R 東日本社長、現J R 東日本相談役) が、1 9 6 9 年に創設して以来、社団法人日本海運集会所に住田海事奨励賞管理委員会を設け、選考決定している。2 0 0 2 年からは、海事史奨励賞、20 0 8 年度から海事技術奨励賞が設けられた。

本年度も 3  賞それぞれに応募作があり、選考の結果以下のように決定した。
・海事奨励賞受賞
作:石原伸志・合田浩之共著『コンテナ物流の理論と実際』(成山堂書店)
・海事史奨励賞受賞作:髙松 昇著『石川島造船所創業者 平
野富二の生涯』(株式会社 IHI )
・海事技術奨励賞受賞作:社団法人日本船舶海洋
工学会海中技術研究委員会編『海洋底掘削の基礎と応用』(成山堂書店)
2010年10 月2 5 日、日本海運集会所において受賞式が行われ、各
受賞者に賞状と賞金が贈呈された。

< 海事史奨励賞受賞理由>
海事史奨励賞の『石川島造船所創業者 平野富二の生涯』は、幕末から明治という激動の時代を47 歳という短命で逝った富二の生涯を、各地に散逸する新たな資料や情報を地道に長期間かけて発掘し、はじめて知られざる実像に迫ったもの。
同造船所を自らの手で創り上げた情熱と行
動力、そして起業家としての生きざまは、日本のものづくりの危機が叫ばれるなか、時代を超えて読者に訴えかけるものがある。
著者の髙松
昇氏は1943年株式会社東京石川島造船所入社、19841 年専務取締役を経て1991年退社。
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平野富二武士装束 平野富二 平野富二と娘たち 「平野富二生誕の地」碑建立有志会趣意書《ことしは平野富二生誕170年祭》
明治産業近代化のパイオニア-平野富二の生誕170祭の記念すべきとしである。
それを期として<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>が結成され、同会専用URL<平野富二:明治産業近代化のパイオニア>も公開された。
平野富二東京築地活版製造所初号明朝体<平 野  富 二>

弘化03年08月14日(新暦 1846年10月04日)、長崎奉行所町使(町司)矢次豊三郎・み祢の二男、長崎引地町ヒキヂマチ(現長崎県勤労福祉会館 長崎市桜町9-6)で出生。幼名富次郎。数えて16歳で長崎製鉄所機関方となり、機械学伝習。

1872年(明治05)数えて27歳 婚姻とともに引地町 ヒキヂマチ をでて 外浦町 ホカウラマチ に平野家を再興。平野富二と改名届出。
同年七月東京に神田佐久間町東校内に「長崎新塾出張所」(現東京都千代田区神田和泉町1)のちの東京築地活版製造所設立。
ついで素志の造船、機械、土木、鉄道、水運、鉱山開発(現IHIほか)などの事業を興し、在京わずか20年で、わが国近代産業技術のパイオニアとして活躍。
1892年(明治25)12月03日逝去 行年47

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《2002年12月1日 平野富二没後110年記念祭 平野富二碑移築除幕式と故髙松 昇さん》
HiranoH1[1] 20170209164033_00003平野富二碑 旧長崎禅林寺建立平野富二
(弘化3年8月14日-明治25年12月3日)
(1846.8.14 - 1892.12.3)

◎平野富二没後110年記念祭 平野富二碑移築除幕式
主 催  平野家一同
日 時  2002年12月1日 正午より(雨天決行)
場 所  平野家墓苑(東京谷中霊園 乙11号14側)
【 朗文堂ニュース過去ログ : 平野富二没後110年記念祭 平野富二碑移築除幕式 】
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デジタル時代の時計はあまりにはやくておどろかされる。
上掲した<海事史奨励賞受賞作:髙松 昇著『石川島造船所創業者 平野富二の生涯』(株式会社 IHI )>などの貴重な情報も、情報過多の渦に巻きこまれ、つい失念してご報告がおおきく遅延してしまうことがある。

髙松 昇氏は、1919(大正8)年12月04日 富山県高岡市の出身。
1941(昭和16)年 旧制富山高等学校卒業、1943(昭和18)年東京帝国大学経済学部卒業、同年株式会社東京石川島造船所(現IHI
)入社、爾来同社に勤続し1981(昭和56)年石川島播磨重工業(現IHI)専務取締役となり、1896(昭和61)同社常任顧問、1991(平成3)6月退社された。
そのころ筆者は髙松氏の謦咳に接する機会をえて、小田急線で世田谷区成城のお住まいを数度訪問したが数年前に逝去されたかたである。
ここにご報告の遅延を故人にお詫びするとともに、遅ればせながら皆さんに 髙松 昇氏の功績を紹介した。
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2002年12月01日、平野家一門の主催で<平野富二没後110年記念祭 平野富二碑移築除幕式>が開催された。
長崎から移築された「平野富二碑」のご披露のためもあって、会場を「東京谷中霊園内 平野家塋域」とした。告知に際して「雨天決行」としたが、折悪しく早朝から冷たい雨がふり、開始時刻前には本格的な降雪となった。

ご列席いただいた皆さんは、予測をはるかに上まわり115名の多くのご参加をいただいた。なかには遠方から、それも高齢のご出席者が多かった。
とりわけ平野富二の生誕地:長崎からは、三菱重工業株式会社長崎造船所(造船所史料館)、長崎県印刷工業組合(阿津坂 實氏)などの参列者がめだった。
あわてて葬祭業者に依頼して、テントをふた張り用意し、石油ストーブも数基設置したが震えあがるほどの寒さはきびしかった。

墓前祭のあと、日暮里駅前の料理屋で平野家主催の小宴がひらかれた。ところが列席者が多くて一度では会場に収容しきれず、若手は降りしきる雪の中で<谷中霊園掃苔会>を急遽開催して、90分遅れで小宴に参加していただいた。
平野富二没後110年記念祭 平野富二碑移築除幕式>関連の広報物のデザインは杉下城司氏が担当されたが、このにわかに設定された<掃苔会>のご案内役も担当していただいた。
また<THE CEREMONY TO COMMEMORATE  TOMIJI HIRANO 1846-1892>が、山本太郎氏によって欧文に翻訳・組版され、列席者に配布された(使用書体 : Adobe Jenson pro,  Adobe Warnock pro)。
ついでながら、このときの公式記録はプロの撮影によるビデオデープでのこされている。
デジタルメディア環境の激変もあり、そろそろほかのメディアに書きかえて皆さんのお役に立ちたいとおもう。

20170209164033_00001 20170209164033_00002[PDF:TOMIJI HIRANO 1846-1892

平野富二の在京20年ばかりの間の活躍分野は、<金属活字製造・活字版印刷・機械製造・造船・航海・海運・土木>といったひろい領域におよんでいる。
それぞれの分野でその関連分野の研究はすすんでいたが、とかく専門分野に特化しがちで、平野富二の全体像の把握は困難な情勢にあった。

おもへらく、2002年12月01日、平野家一門の主催で<平野富二没後110年記念祭 平野富二碑移築除幕式>が開催され、髙松氏をはじめとする「平野会-IHIの事業歴史研究会」の研究実績と、印刷・活字界の研究が突きあわされ、その後のひろい交流の基盤となった功績はきわめておおきかった。

あらためて、髙松 昇著『石川島造船所創業者 平野富二の生涯 下巻』 「あとがき」文中の-協力者御芳名-の記事をみると、先般発足した<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>の会員の名前が列記されていることにおどろく。
なかんずくこの「あとがき」は、「最後に、前記平野会の古谷昌二氏のご協力に感謝致します」として結ばれている。
こうした先達の遺徳にみちびかれて、古谷昌二氏を発起人代表として<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>が設立され、地道な研究と活動がはじまっている。
皆さまのご支援を期待するゆえんである。
古谷昌二さんuu[1] 平野表紙uu

【新資料紹介】 {Viva la 活版 ばってん 長崎}Report 14  ことしは平野富二生誕170周年、生家跡資料発掘・現地訪問。タイポグラフィ学会創立10周年 盛りだくさんのイベント開催

長崎タイトル 平野富二初号
ことしは明治産業近代化のパイオニア ──── 平野富二の生誕170周年{1846年(弘化03)08月14日うまれ-1892年(明治25)12月03日逝去 行年47}である。

ここに、新紹介資料にもとづき、<Viva la 活版 ばってん 長崎>参加者有志の皆さんと {崎陽探訪 活版さるく} で訪問した、平野富二(矢次 ヤツグ 富次郎)生誕地、長崎町使(町司)「矢次家旧在地」(旧引地町 ヒキヂマチ、現 長崎県勤労福祉会館、長崎市桜町9-6)を紹介したい。

Print長崎諸役所絵図0-2 長崎諸役所絵図8 肥州長崎図6国立公文書館蔵『長崎諸役所絵図』(請求番号:184-0288)、『肥州長崎図』(請求番号:177-0735)

<Viva la 活版 ばってん 長崎>では5月7日{崎陽長崎 活版さるく}を開催したが、それに際し平野富二の生家の所在地がピンポイントで確認できたというおおきな成果があった。
これには 日本二十六聖人記念館 :宮田和夫氏と 長崎県印刷工業組合 からのおおきな協力があり、また東京でも「平野富二の会」を中心に、国立公文書館の原資料をもとに、詰めの研究が進行中である。

下掲写真に、新紹介資料にもとづき、 {崎陽探訪 活版さるく} で、<Viva la 活版 ばってん 長崎>参加者有志の皆さんと訪問した、平野富二生誕地、長崎町使(町司)「矢次家旧在地」(旧引地町 ヒキヂマチ、現 長崎県勤労福祉会館、長崎市桜町9-6)を紹介した。
平野富二<平 野  富 二>
弘化03年08月14日(新暦 1846年10月04日)、長崎奉行所町使(町司)矢次豊三郎・み祢の二男、長崎引地町ヒキヂマチ(現長崎県勤労福祉会館 長崎市桜町9-6)で出生。幼名富次郎。16歳で長崎製鉄所機関方となり、機械学伝習。

1872年(明治05)婚姻とともに引地町 ヒキヂマチ をでて 外浦町 ホカウラマチ に平野家を再興。平野富二と改名届出。
同年七月東京に活版製造出張所のちの東京築地活版製造所設立。
ついで素志の造船、機械、土木、鉄道、水運、鉱山開発(現IHIほか)などの事業を興し、在京わずか20年で、わが国近代産業技術のパイオニアとして活躍。
1892年(明治25)12月03日逝去 行年47
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今回の参加者には平野正一氏(アダナ・プレス倶楽部・タイポグラフィ学会会員)がいた。
平野正一氏は平野富二の玄孫(やしゃご)にあたる。容姿が家祖富二にそれとなく似ているので、格好のモデルとしてスマホ撮影隊のモデルにおわれていた。

流し込み活字とされた「活字ハンドモールド」と、最先端鋳造器「ポンプ式ハンドモールド」
そして工部省の命により長崎製鉄所付属活版伝習所の在庫活字と設備のすべてが
東京への移設を命じられた

平野富二はヒシャクで活字地金を流しこむだけの「活字ハンドモールド」だけでなく、当時最先端の、加圧機能が加わった「ポンプ式活字ハンドモールド」を採用した。
これは活字鋳造における「道具から器械の使用への変化」ともいえるできごとで、長崎製鉄所で機械学の基礎をまなんだ平野富二ならではのことであった。
印刷局活版事業の系譜上掲図) 国立印刷局の公開パンフレットを一部補整して紹介した。
【 参考 : 朗文堂好日録042 【特別展】 紙幣と官報 2 つの書体とその世界/お札と切手の博物館

「ポンプ式活字ハンドモールド」は、長崎製鉄所付属活版伝習所に上海経由でもたらされたが、1871年(明治4)1月9日、工部省権大丞 : 山尾庸三の指示によって、在庫の活字は大学南校(東京大学の前身)を経て、大学東校(幕末の医学所が1869年[明治02]大学東校と改称。東京大学医学部の前身)へ移転された。

医学所と大学東校は秋葉原駅至近、千代田区神田和泉町におかれた。長崎からの活字在庫とわずかな印刷設備を入手した大学南校・大学東校は、たまたま上京していた本木昌造に命じて「活版御用掛」(明治4年6月15日)としたが、本木昌造はすでに大阪に派遣していた社員:小幡正蔵を東京に招いた程度で、どれほど活動したかは定かでない。
大学東校内「文部省編集寮活版部」は翌明治05年「太政官正院印書局」に再度移転し、結局紙幣寮活版局に吸収された。

ほとんどの活字鋳造設備と活版印刷関連の器械と、伝習生の一部(職員)は工部省製作寮活字局に移動し、その後太政官正院印書局をへて、紙幣寮活版局(現国立印刷局)につたえられた。
これらの設備のなかには「ポンプ式活字ハンドモールド」はもとより、もしかすると「手回し活字鋳造機=ブルース型手回し式活字鋳造機」もあったとみられる。また活字母型のほとんども移動したとみられ、紙幣寮活版局(現国立印刷局)の活字書体と活字品質はきわめて高品質であったことは意外と知られていない。

しかも当時の紙幣寮活版局は民間にも活字を販売していたので、平野活版製造所(東京築地活版製造所)はいっときは閉鎖を考えるまでに追いこまれた。そのため東京築地活版製造所は上海からあらたに種字をもとめ、良工を招いてその活字書風を向上させたのは明治中期になってからのことである(『ヴィネット04 活字をつくる』片塩二朗、河野三男)。
20160907161252_00001 20160907161252_00002 20160907161252_00003右ページ) 大蔵省紙幣局活版部 明朝体字様、楷書体字様の活字見本(『活版見本』明治10年04月 印刷図書館蔵)
左ページ) 平野活版所 明朝体字様、楷書体字様の活字見本(『活版様式』明治09年 現印刷図書館蔵)

BmotoInk3[1] BmotoInk1[1]したがって1871年(明治4)1月、新政府の命によって長崎製鉄所付属活版伝習所の活字、器械、職員が東京に移転した以後、長崎の本木昌造のもとに、どれだけの活版印刷器械設備と活字鋳造設備があり、技術者がいたのか、きわめて心もとないものがある。
財政状態も窮地にあった本木昌造は、急速に活版製造事業継続への意欲に欠けるようになった。

おなじ年の7月、たまたま長崎製鉄所をはなれていた平野(矢次富次郎)に本木昌造は懇請して、新塾活版所、長崎活版製造所、すなわち活字製造、活字組版、活版印刷、印刷関連機器製造にわたるすべての事業を、巨額の借財とともに(押しつけるように)委譲したのである。
このとき平野富二(まだ矢次富次郎と名乗っていた)、かぞえて26歳の若さであった。
それ以後の本木昌造は、長崎活版製造所より、貧窮にあえぐ子弟の教育のための施設「新町私塾 新街私塾」に注力し、多くの人材を育成した。そして平野富二の活版製造事業に容喙することはなかった。

平野富次郎は7月に新塾活版所に入社からまもなく、9月某日、東京・大阪方面に旅立った。それは市況調査が主目的であり、また携行したわずかな活字を販売すること、アンチモンを帰途に大阪で調達するなどの資材調達のためとされている。

その折り、帰崎の前に、東京で撮影したとみられる写真が平野ホールに現存している。
平野富二の生家:矢次家は、長崎奉行所の現地雇用の町使(町司、現代の警察官にちかい)であり、身分は町人ながら名字帯刀が許されていた。
写真では、まだ髷を結い、大小の両刀を帯びた、冬の旅装束で撮影されている。
平野富二武士装束ついで翌1872年(明治5)、矢次富次郎は長崎丸山町、安田家の長女:古まと結婚、引地町の生家を出て、外浦町に家を購入して移転、平野富二と改名して戸籍届けをなしている。
さらにあわただしいことに、事業継承から一年後の7月11日、東京に活版製造出張所を開設すべく、新妻古まと社員8名を連れて長崎を出立した。
平野富二、まだ春秋にとむ27歳のときのことであった。

この東京進出に際し、平野富二は、六海商社あるいは長崎銅座の旦那衆、五代友厚とも平野家で伝承される(富二嫡孫 : 平野義太郎の記録 ) が、いわゆる「平野富二首証文」を提出した。その内容とは、
「この金を借り、活字製造、活版印刷の事業をおこし、万が一にもこの金を返金できなかったならば、この平野富二の首を差しあげる」
ことを誓約して資金を得たことになる。そしてこの資金をもとに、独自に上海経由で「ポンプ式ハンドモールド」を購入した。まさに身命を賭した、不退転の覚悟での東京進出であった。

この新式活字鋳造機の威力は相当なもので、活字品質と鋳造速度が飛躍的に向上し、東京進出直後から、在京の活字鋳造業者を圧倒した。
【 参考 : 花筏 平野富二と活字*06 嫡孫、平野義太郎がのこした記録「平野富二の首證文」


この「ハンドモールド」と「ポンプ式ハンドモールド」は、<Viva la 活版 ばってん 長崎>の会場で、一部は実演し、さらに双方の器械とその稼動の実際を、1920年に製作された動画をもって紹介した。

federation_ 03 type-_03 ハンドモールド3[1]
長崎製鉄所における先輩の本木昌造と、師弟を任じていた平野富二

<Viva la 活版 ばってん 長崎>の三階主会場には、平野ホールに伝わる「本木昌造自筆短冊」五本が展示され、一階会場には  B 全のおおきな平野富二肖像写真(原画は平野ホール蔵)が、本木昌造(原画は長崎諏訪神社蔵)とならんで掲出された。
本木昌造02
本木昌造短冊本木昌造は池原香穉、和田 半らとともに「長崎歌壇」同人で、おおくの短冊や色紙をのこしたとおもわれるが、長崎に現存するものは管見に入らない。
わずかに明治24年「本木昌造君ノ肖像幷ニ履歴」、「本木昌造君ノ履歴」『印刷雑誌』(明治24年、三回連載、連載一回目に製紙分社による執筆としるされたが、二回目にそれを訂正し取り消している。現在では福地櫻痴筆としてほぼあらそいが無い)に収録された、色紙図版「寄 温泉戀」と、本木昌造四十九日忌に際し「長崎ナル松ノ森ノ千秋亭」で、神霊がわりに掲げられたと記録される短冊「故郷の露」(活字組版 短冊現物未詳)だけがしられる。

いっぽう東京には上掲写真の五本の短冊が平野ホールにあり、またミズノプリンティングミュージアムには軸装された「寄人妻戀」が現存している。
20160523222018610_000120160523222018610_0004最古級の冊子型活字見本帳『 BOOK OF SPECIMENS 』 (活版所 平野富二 推定明治10年 平野ホール蔵)

<Viva la 活版 ばってん 長崎>を期に、長崎でも平野富二研究が大幅に進捗した

ともすると、長崎にうまれ、長崎に歿した本木昌造への賛仰の熱意とくらべると、おなじ長崎がうんだ平野富二は27歳にして東京に本拠をうつしたためか、長崎の印刷・活字業界ではその関心は低かった。
ところが近年、重機械製造、造船、運輸、鉄道敷設などの研究をつうじて、明治産業近代化のパイオニアとしての平野富二の再評価が多方面からなされている。
それを如実に具現化したのが、今回の<Viva la 活版 ばってん 長崎>であった。

DSCN7280 DSCN7282DSCN7388 DSCN7391平野正一氏はアダナ・プレス倶楽部、タイポグラフィ学会両組織のふるくからの会員であるが、きわめて照れ屋で、アダナ・プレス倶楽部特製エプロンを着けることから逃げていた。
今回は家祖の出身地長崎にきて、また家祖が製造に携わったともおもえる「アルビオン型手引き印刷機」の移動に、真田幸治会員の指導をうけながら、はじめてエプロン着用で頑張っておられた。

1030963 松尾愛撮02 resize 松尾愛撮03resize 松尾愛撮01 resize長崎諸役所絵図0-2長崎諸役所絵図0国立公文書館蔵『長崎諸役所絵図』(請求番号:184-0288)
国立公文書館蔵『肥州長崎図』(請求番号:177-0735)

上掲図版は『長崎諸役所絵図』(国立公文書館蔵 請求番号:184:0288)から。
同書は経本折り(じゃばら折り)の手書き資料(写本)だが、その「引地町町使屋敷 総坪数 七百三十五坪」を紹介した。矢次家は長崎奉行所引地町町使屋敷、右から二番目に旧在した。敷地は間口が三間、奥行きが五間のひろさと表記されている。

下掲写真は平野富二生誕地、長崎町使(町司)「矢次家旧在地」(旧引地町、現長崎県勤労福祉会館、長崎市桜町9-6)の現在の状況である。
長崎県勤労福祉会館正面、「貸し会議室」の看板がある場所が、『長崎諸役所絵図』、『肥州長崎図』と現在の地図と照合すると、まさしく矢次富次郎、のちの平野富二の生家であった。

今回のイベントに際して、宮田和夫氏と長崎県印刷会館から同時に新情報発見の報があり、2016年05月07日{崎陽探訪 活版さるく}で参加者の皆さんと訪問した。
この詳細な報告は、もう少し資料整理をさせていただいてからご報告したい。
15-4-49694 12-1-49586平野富二生家跡にて矢次家旧在地 半田カメラ
 <Viva la 活版 ばってん 長崎> 会場点描1030947 1030948 1030949 10309541030958 1030959【 関連情報 : タイポグラフィ学会  花筏

【良書紹介】 渋沢栄一に学ぶ「論語と算盤」の経営+〝ふうけもん〟か十八銀行:松田源五郎

 

20160520212058459_0001渋沢栄一に学ぶ「論語と算盤」の経営
著者名 |水尾順一  田中宏司  蟻生俊夫 編著
判  型    | 四六判   頁数 260ページ
定   価   | 1,944円(本体1,800円+税)
ISBN 9784496051975          第1刷 2016年05月01日

「論語と算盤」にはその理念が次のように述べられている。 「富をなす根源は何かといえば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができぬ」 この理念のもと、ともすれば失われてしまいがちな企業の社会的責任について、現在の経営を根本から見直す。
【 詳細 同友館 OnLine
=================== 
{ 新宿餘談 } 長崎タイトル長崎では印刷界でも機械製造界でも、同市出身の平野富二が語られることはほとんどなく、活版印刷なら本木昌造が、機器製造なら岩崎弥太郎だけだと周囲にお伝えしてきた。
今回<Viva la 活版 ばってん 長崎>に各地から訪崎された皆さんは、その実態を眼前にして、やはり驚かれたようであった。

その逆に、三菱重工業長崎造船所(ながせん)の関係者で、懇親会に参加されたかたは、 「今回のみなさんは、平野富二さんに詳しくて、お好きですね~」 といささか呆れていた。

『渋沢栄一に学ぶ「論語と算盤」の経営』 第11章 「算盤勘定だけでない企業経営/IHI」 の執筆者は、IHI 執行役員の水本伸子氏により、渋沢栄一が手がけた多くの事業の一環として IHI の事績を14ページにわたって、とてもわかりやすく、簡潔にまとめている。 とりわけ注目されたのは、
3. 渋沢栄一の貢献  (2) 最初の株主  であった。 

「有限責任石川島造船所」設立の1889(明治22)年、資本総額は17万5000円(1株100円)株主数は17人で計1750株だった。会社創立時の株主名簿は現存していないが、3年目の株主とその持ち株数が第3次営業報告に載っている(図表11-1)。渋沢、平野、梅浦、西園寺の4名は設立時委員を務めた。

図表11-1 最初の株主と持ち株数 (第3次営業報告書[明治25年]記載)
渋沢  栄一  400株
平野  富二  389株
松田源五郎  270株
田仲  永昌  250株
西園寺公成  150株
梅浦  精一  130株

渋沢栄一はともかく、またのちに同社社長となった梅浦精一のことは若干の知識があったが、ここに第三位の株主として、長崎十八銀行第二代頭取にして「長崎の渋沢といわれた人物」が登場することに興味をひかれた。 松田源五郎M10年 松田源五郎アルバム裏面 上野彦馬撮影たまたま小社に松田源五郎の外戚で、玄孫にあたられるかた(松尾 巌氏)が来社され、明治10年の松田源五郎の肖像写真(撮影:上野彦馬)を提供していただいた。
解像度は低いが一般公開はこれがはじめてとなるようである。

上野彦馬の台紙にみる「明治10年内国勧業博覧会」、このとき松田源五郎36-7歳。
この博覧会は、前年に新設された十八銀行支配人(のち第二代頭取・衆議院議員)松田源五郎が企画したもので、西南戦争の大混乱のさなかに、長崎諏訪公園のいわゆる丸馬場を会場として開催されたものである。

平野富二の創建による「石川島(平野)造船所」が、規模の拡大とともに資金需要がまし、渋沢栄一の助言と支援を得て「有限責任石川島造船所」(現 IHI )となった。
その筆頭株主は第一銀行頭取・渋沢栄一であり、第三位の株主として長崎の十八銀行頭取・松田源五郎が記録に登場するのは、この写真から15年ほどのちのことになる。 松田源五郎立像 戦前 長崎商工会議所 14-4-49353この諏訪公園丸馬場に、戦前は巨大な松田源五郎の立像があった。
この像はならびたっていた「本木昌造座像」とともに戦時供出されたために、いまはいくぶん小ぶりの胸像が設置されている。

この松田源五郎を〝ふうけもん〟と評した人物、長崎新聞に長く勤務した増永 驍がいた。
〝ふうけもん〟とは長崎ことばで、直截には馬鹿を意味する。いずれ詳細を紹介するが、おなじ馬鹿でも、もうすこし愛嬌のある馬鹿のことである。

増永は〝ふうけもん〟の本木昌造・西道仙・松田源五郎を主人公とし、脇役に平野富二・安中半三郎(東来軒・虎與トラヨ書房・素平連スベレン主宰)を配し、同名の小説『ふうけもん』をのこした。
たしかに紹介した写真をみても、冷徹な銀行人というより、長崎人に多い面長で、瞳は好奇心にあふれ、わんぱく坊主がそのまま成長したような風貌にもみえる。

また十八銀行は松田源五郎のころから平野富二の活字版製造(東京築地活版製造所)を終始支援し、同社の取締役にも就任している。
のちにも松田精一(十八銀行第五代頭取、衆議院議員)は、東京築地活版製造所の第五代社長も兼任していたほどの密接な関係にあった。

そのためもあり、すこし松田源五郎と十八銀行にこだわってみたいとおもっていた。そこで昨週末本書を読了した。
読者諸賢に、もっともソロバン勘定の苦手なやつがれが、『渋沢栄一に学ぶ「論語と算盤」の経営』をお勧めするゆえんである。

 

{Viva la 活版 ばってん 長崎}12 ことしは平野富二生誕170周年、タイポグラフィ学会創立10周年 盛りだくさんのイベント開催

長崎タイトル ことしは明治産業近代化のパイオニア ──── 平野富二の生誕170周年{1846年(弘化03)08月14日うまれ-1892年(明治25)12月03日逝去 行年47}である。
平野富二
<平野富二>
弘化03年08月14日(新暦 1846年10月04日)、長崎奉行所町司(町使)矢次豊三郎・み祢の二男、長崎引地町(現長崎県勤労福祉会館 長崎市桜町9-6)で出生。幼名富次郎。
16歳長崎製鉄所機関方となり、機械学伝習。
1872年(明治05)婚姻とともに引地町をでて外浦町に平野家を再興。平野富二と改名届出。同年七月東京に活版製造出張所のちの東京築地活版製造所設立。
ついで素志の造船、機械、土木、鉄道、水運、鉱山開発(現IHIほか)など、在京わずか20年でわが国近代産業技術のパイオニアとして活躍。
1892年(明治25)12月03日逝去 行年47
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今回の参加者には平野正一氏(アダナ・プレス倶楽部・タイポグラフィ学会会員)がいた。
平野正一氏は平野富二の玄孫(やしゃご)にあたる。容姿が家祖富二にそれとなく似ているので、格好のモデルとしてスマホ撮影隊のモデルにおわれていた。

平野富二はヒシャクで活字地金を流しこむだけの「活字ハンドモールド」だけでなく、当時最先端の加圧機能が加わった「ポンプ式活字ハンドモールド」を採用して、活字品質と鋳造速度の向上をはかり、東京進出直後から、在京活字鋳造業者を圧倒した。
federation_ 03 type-_03 ハンドモールド3[1]三階主会場には平野ホールに伝わる「本木昌造自筆短冊」五本が展示され、一階会場には  B 全のおおきな肖像写真(原画は平野ホール蔵)が、本木昌造(原画は長崎諏訪神社蔵)とならんで掲出されていた。
本木昌造02
本木昌造短冊本木昌造は池原香穉、和田 半らとともに「長崎歌壇」同人で、おおくの短冊や色紙をのこしたとおもわれるが、長崎に現存するものは管見に入らない。
わずかに明治24年「本木昌造君ノ肖像幷ニ履歴」、「本木昌造君ノ履歴」『印刷雑誌』(明治24年、三回連載、福地櫻痴筆とされる)に収録された、色紙図版「寄 温泉戀」と、本木昌造四十九日忌に際し「長崎ナル松ノ森ノ千秋亭」で、神霊がわりに掲げられたと記録される短冊「故郷の露」(活字組版)だけがしられる。

いっぽう東京には上掲写真の五本の短冊が平野ホールにあり、またミズノプリンティングミュージアムには軸装された「寄人妻戀」が現存している。

DSCN7280 DSCN7282DSCN7388 DSCN7391また平野正一氏はアダナ・プレス倶楽部、タイポグラフィ学会両組織のふるくからの会員であるが、きわめて照れ屋さんで、アダナ・プレス倶楽部特製エプロンを着けることから逃げていた。今回は家祖の出身地長崎にきて、真田幸治会員の指導をうけながら、はじめてエプロン着用で頑張っておられた。
1030963 松尾愛撮02 resize 松尾愛撮03resize 松尾愛撮01 resize下掲写真は平野富二生誕地、長崎町司「矢次家旧在地」(旧引地町、現長崎県勤労福祉会館、長崎市桜町9-6)である。
{5月7日 崎陽長崎・活版さるく}参加者のみなさんとの記念写真となった。
今回のイベントに際して、宮田和夫氏と長崎県印刷会館から同時に新情報発見の報があり、{活版さるく}で皆さんと訪問した。
この詳細な報告は、もう少し資料整理をさせていただいてからご報告したい。
15-4-49694 12-1-49586平野富二生家跡にて矢次家旧在地 半田カメラ
上写真/懇親会会場入口にて 右) 山本太郎さん 左) 日吉洋人さん  横島大地さん撮影
下写真/受付業務担当日の横島大地さん、松尾愛子さん  ほか日吉洋人さん提供写真
横島撮
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DSCN74231030947 1030948 1030949 10309541030958 1030959【 関連情報 : タイポグラフィ学会

平野富二と活字*14 【『平野富二伝』刊行 おつかれさま会】の記録

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《【『平野富二伝』刊行 おつかれさま会】(平野家主催、新橋亭シンキョウテイ、2014年02月02日)》
『平野富二伝』(古谷昌二編著 2013年11月22日 朗文堂)が刊行された。
引きつづき、平野富二の命日を直近にひかえた2013年11月30日-12月01日、【『平野富二伝』刊行記念 展示・講演会】が、上野・日展会館で開催された。

『平野展』ポスターs

そんな平野家の皆さまに、【『平野富二伝』刊行 おつかれさま会】(平野家主催、新橋亭シンキョウテイ、2014年02月02日)を開催していただいた。
著者の古谷昌二様はともかく、版元としてはこんな晴れがましいことは遠慮させていただきたいとお願いしたが、結局平野家のご要請をうけいれて、いささか晴れがましい機会をつくっていただいた。
壁に貼られたイベントポスターは、平野家がご用意されたものであるが、いささか面はゆい。
あくまでも、著者:古谷昌二様にたいする 【『平野富二伝』刊行 おつかれさま会】 としてご覧いただきたい。

DSCN3223 前列右から) 平野信子様(曾孫長男・故平野義政氏夫人)、やつがれ、著者:古谷昌二様、平野早苗枝様(曾孫四男・平野義和氏夫人)、大石 薫(朗文堂)、平野義和様(曾孫四男)。
後列右から) 松尾篤史様(掃苔会)、鈴木 孝(朗文堂)、平野 徹テツ様(玄孫、曾孫次男・平野克明氏長男)、平野正一様(玄孫、曾孫四男・平野義和氏長男)、平野健二様(玄孫、曾孫四男・平野義和氏次男)────────
平野家は、長崎の矢次ヤツグ家の次男、平野富二(幼名:矢次゙富次郎)が、とおい祖先の大村藩士:平野勘大夫の姓をもって平野家を再興したもので、平野富二(1846-1892)をもって初代とする。
ついで第二代:平野津類(1876-1941)、第三代:平野義太郎(1897-1980)と継承された。

第三代:平野義太郎には、富二の曾孫(ひまご)にあたる一女四男があった。
長女:平野(常磐)絢子(慶應義塾大学名誉教授)、長男:平野義政(平野文庫主宰者 1932-93)、次男:平野克明(静岡大学名誉教授)、三男:平野俊治(出版編集者 1936-93)、四男:平野義和(七福会社社長)の各氏である。

平野家第五代にあたる玄孫(やしゃご)は、各家にあって10名を数え、平野家のいやさかを飾るが、【『平野富二伝』刊行 おつかれさま会】に参加されたのは、平野 徹テツ(平野克明氏長男)、平野正一(平野義和氏長男)、平野健二(平野義和氏次男)の各氏であった。
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【平野富二伝』刊行 おつかれさま会】では、今後とも、平野富二と、平野富二が開発した「日本近代産業」を研究することを確認し、平野家からの新提案をうかがった。そして平野家第五代の30-40代の若手メンバーを中心として、「平野富二会」(平野会はかつて IHI に存在した)を結成することとした。
また、平野信子様(曾孫長男・故平野義政氏夫人)からは、長男家につたわる位牌を中心に、興味ぶかいおはなしを伺うことができた。
著者:古谷昌二氏のご健勝を祈念するとともに、平野家ご一同のご厚意に篤く感謝し、平野家ご一門のいやさかをお祝い申しあげる次第である。

平野富二と活字*13 掃苔会の記録 『苔の雫』Ⅰ 平野家関連

《『平野富二伝』古谷昌二編著 刊行記念 展示・講演会併催 掃苔会の報告》
2013年11月30日[土]-12月01日[日]の両日、東京都台東区上野桜木2-4-1 日展会館において【『平野富二伝』(古谷昌二編著)刊行記念 展示・講演会】が開催された。
その際、併催されたのが「谷中霊園 掃苔会」(12月01日 10:00-12:00)である。
「掃苔 そうたい」とは、本来、苔を掃ききよめるの意であるが、転じて墓参の意もある。

もともと「掃苔会」は、13年ほど前からときおり有志が集まり、谷中霊園を中心に、「書かれた字、彫られた字」の字学研究と、平野富二の遺徳を偲ぶちいさな会であった。
次第に平野富二とおなじく、谷中霊園にねむる、造形者・出版人・印刷者・活字製造者・活版印刷者などに範囲がひろがり、さらに古谷昌二氏の参画を得てからは、文字どおり「明治産業近代化のパイオニア諸賢」の記録もくわわり、その範疇はおおきくひろがった。

今回の「掃苔会」は、「平野富二命日 12月03日」を直近にひかえた平野家ご親族の参加があって、きわめて有意義な会となった。「谷中霊園 掃苔会」(2013年12月01日)の記録を紹介したい。
[小冊子『苔の雫』(編集・製作:松尾篤史氏、協力:八木孝枝氏)、撮影:岡田邦明氏]
平野富二伝記念苔掃会 01
030204『平野展』ポスターs《平野富二顕彰碑 并 嫡孫・平野義太郎顕彰碑》
所在地:谷中霊園 甲一号一側
・平野富二(ひらの とみじ 1846-92)顕彰碑
   篆額:榎本武揚 撰并書:福地源一郎 刻:井亀 泉(酒井八右衛門)
   1904年(明治37)平野富二十三回忌にあたり建碑披露
・平野義太郎(法学者・平和運動家・平野富二嫡孫 1897-1980)顕彰碑
   「題字:平和に生きる権利 書:平野義太郎」
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《『平野富二伝』(古谷昌二)における、二〇-四 平野富二 十三回忌記念碑建立(明治37年)の紹介》
古谷昌二『平野富二伝』には、「二〇-四 十三回忌記念碑建設(明治37年)」(p.810-818)があり、その記録が詳細にしるされている。

明治三七年(一九〇四)一一月二七日、平野富二の十三回忌に当り、谷中墓地記念碑前に於いて故平野富二氏記念碑建立式が挙行された。 
この石碑の建立は、平野富二の死去の翌年である明治二六年(一八九三)に、石川島造船所の職員・職工の有志がひそかに計画したものであった。 
その後、東京築地活版製造所の職員・職工も加わり、友人・知人等二百六十一名の醵金により、平野富二の墓所のある谷中霊園の桜並木となっている中央園路に面して、霊園事務所の隣り(甲1号1側)に建立された。[『平野富二伝』古谷昌二]

そのなかから、「補遺2 榎本武揚による篆額」の全文と、「補遺3 福地源一郎の撰文と揮毫」の一部を紹介したい。
この「補遺2 榎本武揚による篆額」に関するテーマは、やつがれも『富二奔る』(片塩二朗、p.102)で触れたが、出典が『淮南子エナンジ
』にあることを理解しないままに記述した。ここに読者にお詫びして訂正するとともに、この誤謬をご指摘いただいた古谷昌二氏の文章を紹介したい。
詳しくは、やはり『平野富二伝』(古谷昌二)をお読みいただきたい。
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補遺2 榎本武揚による篆額 
碑の表面上部には榎本武揚による篆額が陽刻されている。これは、一般には馴染みのない篆書体で、しかも、漢字の羅列であるので、その判読と意味するところを理解することが難しい。今までに解読を試みた例もある[やつがれのこと]が、必ずしも納得できるものではなかった。そこで、敢えて筆者なりに納得できる解読を試みた。 

篆額は漢文であるので、横書きの場合、右から左に読むことになる。右から順に第一字、第二字、‥‥‥とする。 
第一字は、「斬」の字の下に「水」を配していることから、「水」を「サンズイ」と見て、「漸」と読む。
第二字は、篆書で類似の字として「平」、「乎」、「印」があるが、上部横棒が右上がりのギリシャ文字「π」に近く、下半分は第六字の左下と同じで、篆書では「十」となることから「乎」と読む。
第三字は、「矩」の下に「木」であるから、「榘」と読む。
第四字は、そのまま「鑿」と読む。
第五字は、「実」の旧字体である「實」と読む。
第六字は、そのまま「幹」と読む。
第七字は、そのままでは類推しにくいが、「心」と読む。
第八字は、「旅」の下に「月」を配した「膂」と読む。

以上を纏めると、次のような句になる。 
「漸 乎 榘 鑿 實 幹 心 膂」
第一字から第四字までの句は、『淮南子エナンジ』の「繆稱訓 ビョウショウクン」にある 「良工漸乎榘鑿之中」と云う句から採ったと見られる。
その意味するところは、「優れた工人は、モノサシ(基準とするもの)と、ノミ(仕事を効率良く行う道具)とを用いる中で習熟するものである」と読み取れる。

参考に記すと、この句に続いて「榘鑿之中、固無物而不周、聖王以治民、造父以治馬、醫駱以治病、同材而各自取焉」とあり、「榘鑿の意味するところは、全てに共通しないものはない。これによって聖王は人民を治め、馬の名人は馬を自由に操り、優れた医者は病気を治す。これは基本とするものは同じで、それぞれに対応させているからである。」と、輸子陽が自分の子に諭したとしている。
なお、「鑿」に代えて左扁を「尋」、右扁を「蒦」とする漢字を充てて「ものさし」を意味するとする注釈本もある。〈『淮南子(中)』〉
第五字から第八字については、その出典は明らかでないが、「幹を實するに心膂たり」と読んで、「基幹となる事業を充実させることに、心も体も全身ありたけの力を注いだ。」と解釈できる。

これを全文纏めて表現すると、次のようになる。 
「優れた工業人であった平野富二君は、その正しい実践の中から習熟し、わが国の基幹となる工業を充実させることに全身・全霊を捧げ尽くした。」
これは、平野富二の生涯を的確に言い現わした漢文句で、平野富二に贈る言葉としてこれ以上のものはないと言える。

 補遺3 福地源一郎の撰文と揮毫
[前略]
この碑文について福地源一郎[櫻痴]は、建碑式に出席し、来賓として自ら述べた祝辞の中で、その動機に触れている。やや長文であるが、次にその文[『平野富二伝』では全文紹介]を紹介する。なお、特別な場合を除き常用漢字に直した。
「 参列諸君閣下
平野富二君ノ碑ハ 今ヤ斯ノ如クニ建設セラレテ 乃スナワチ 本日ヲ以テ諸君閣下ノ参列ヲ忝カタジケナ ウシ 其除幕式ヲ挙行セラレタリ 源一郎 君ガ旧交ノ一友タルヲ以テ 茲ココ ニ発起人総代 及 委員諸君ニ対シテ 斡旋尽力ノ労ヲ敬謝シ 併セテ此建碑ニ関シテ一言セント欲ス[中略]
  明治三十七年十一月二十七日
                                                      福地源一郎敬白 」  

このように、福地源一郎が、平素は碑文の[撰ならびに書の]依頼を断っているが、敢えて平野富二のために応じた理由を述べている。つまり、
「自分は平素から常人のために碑文を作るのを好まない。それは、誰を記念する碑か漠然として知る人もなく、野草の荒れるままにその中に埋もれ、むなしく夕陽と秋風に曝されて立っている碑が多いからだ。
ところが、平野富二君は、このような人ではなく、その功業勤労が偉大であったことの事実を歴史に永く伝えるべき人で、明治工業史中に残る人です。このような歴史的人物のために碑文を記すことは、文士として光栄とするところです。」
としている。

この碑の前に立って、陰刻された碑文を読もうと思っても、変体かなに素養のない者は、最初の行から素直に読めなくなってしまう。読める句だけでも拾い読みをすれば、全体の大意は理解できるが、恐らく全文を読み通す人は殆ど居ないのではないかと思う。

通常、碑文は漢文とするのが正式であるが、敢えてこれを和文とし、当時流布していた「かわら版」に見られるような変体かなを交えた書き方としたのは、福地源一郎の願った趣旨からすると、当時一般に馴染み深く、読み易いことを意識し、広く読んで貰いたいという事では無かったかと推測される。
書に於いても、文に於いても、また、字ひとつ一つに於いても、五歳年少の「旧知の一友」[平野富二]への福地源一郎の想いがこめられている。その意味で、実際に碑を前にして鑑賞するのが一番である。 

《平野富二夫妻墓標 并 平野家塋域エイイキ》
所在地:谷中霊園 甲一一号一四側
・平野富二(ひらの とみじ 1846-92)、平野こま(古ま・コマ・駒子とも 1851-1911)夫妻墓標
   書:吉田晩稼 
   太平洋戦争で焼夷弾が至近に投下されたために焼損があるが貴重な墓標である。
・平野富二碑
   題字并撰:西 道仙 碑文の書:平野富二 三女・幾み
   「平野富二碑」は富二の生母・矢次み袮の発願で、長崎禅林寺の矢次家墓地に建立されたが、
   矢次家・平野家とも上京し、ながらく所在不明となっていた。それを平野義和・正一父子が発見
   して、平野富二没後110年にあたる2002年に、谷中霊園平野家塋域に移築披露された。
・平野津類墓
   平野富二の次女にして、平野家を継承した。
・平野義太郎・嘉智子夫妻の墓
   平野富二嫡孫夫妻
・平野古登墓
   平野富二長女(1873-75)。夭逝したため詳細不詳。
・山下壽衛子刀自墓 (刀自トジは高齢女性に対する尊称)
   法名:貞倫軒本譽壽照信女(大正元年10月16日没  86歳) 詳細不詳
   最下部に古谷昌二氏からの@メール解説を紹介した[2014年03月12日補記]。

・平野富二位階碑
   従五位を1918年(大正7)に追贈叙位されている。平野義太郎建立。

_MG_0664uu _MG_0652uu _MG_0666uu _MG_0665uu _MG_0654uu _MG_0675uu _MG_0681uu _MG_0680uu _MG_0656uu _MG_0658uu _MG_0684uu _MG_0689uu平野家塋域にて
前列右から) 平野克明氏(平野富二曾孫)、中尾 勲氏(IHI OB、平野会)、小宮山 清氏、やつがれ
後列右から) 平野健二氏(平野富二玄孫)、平野智子氏(克明氏夫人)、平野義和氏(平野富二曾孫)、松尾篤史氏(掃苔会肝煎り)、小酒井英一郎氏(タイポグラフィ学会)

《『平野富二伝』(古谷昌二)における平野家塋域の紹介》
このときの「谷中霊園 掃苔会」は、日展会館における講演会・展示と併催だったために、何人かのかたには、展示解説と接客担当をお願いして、「掃苔会」への参加をあきらめていただいた。
本来なら、ここには古谷昌二さん、平野正一さんらのお姿があるはずであるが、無理をお願いして展示解説の担当をお願いした。

古谷昌二『平野富二伝』には、「一九-七 平野富二の死去」(p.793-800)があり、その逝去あたっての記録が詳細にしるされている。
そのなかから、「補遺6 勲章受章に関する裏話」、「補遺8 平野富二の墓所」を紹介したい。
これらの記録をあらためて読むと、平野富二は叙勲や位階にはきわめて無頓着であったことがよくわかるし、さらに興味深いのは、現在の平野家一門にも同様のかたむきがみられることである。
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補遺6 勲章受章に関する裏話
平野富二の死去に関連して、次のような裏話が伝えられている。
「平野富二追憶懇談会記録」によると、平野津類の談話として、
「亡くなった時に、三日は喪を秘して置いてくれと、大隈(重信)さんが川村純義さんに奔走してやると云うことでありましたが、位などもともと嫌いな人でありますから、速く葬儀をした方が宜いと云うことで、二日後に執り行いました。」

この談話に関連して、今木七十郎の談話も記録されている。
「(生前にも、ドコビールを紹介してくれた)児玉(少介)さんが、平野さんに、勲章を貰ってやる、それには少し如才なくしろ、と云われたが、平野先生は、(部下の今木八十郎に対して、)『別段、あれは持ち前でございます、と云って置いてくれ。なかなか忙しくもあるし、下さるものなら(頂いても)宜しいが、如才なく振舞うのは嫌だ。』と云って辞めてしまった。」

これと同じ時と見られる今木七十郎の談話が『詳伝』の「述懐片々」の中の第一八「先生の日常の風貌」に次のように記載されている。
「平野先生と、福澤諭吉先生とは、初めから民間で仕事をし、みづから平民を以て、貴ぶべき天爵とされて居ったから、勲章の下附の内意があった際にも、辞された。福澤先生は勲等を辞して五万円貰われたから、其の方が宜しかったかも知れないが、平野先生は、勲等も辞し、金も貰はれなかった。」(今木七十郎氏談) 

これは、平野富二の生前と死亡直後にも周囲の人たちから叙勲の働きかけがあったことを示すものだが、本人は堅苦しいことを嫌って辞退し、家族もそれを配慮して辞退したことが分かる。 
平野富二が追贈叙位されたのは、大正七年(一九一八)になってからの事で、このことは第二〇章の二〇-五で述べる。

補遺8 平野富二の墓所
平野富二の墓は、現在、東京都が管理する谷中霊園の乙一一号一四側にある。墓石の表面には、吉田晩稼の書になる「平野富二之墓」が陰刻されており、向かって右側面に戒名の「修善院廣徳雪江居士」と刻まれている。
背の高い石柱の門を入った参道の右側に石の水盤が置かれており、その先の参道に左右一対の石灯籠がある。
水盤は東京石川島造船所の関係者により捧げられたもので、その左側面に重村直一・島谷道弘・片山新三郎・桑村硯三郎の名前が刻んである。これらの名前は一九─六の補遺1に示した東京石川島造船所の株主名簿に示されており、平野富二から重用された部下であった。

一対の石灯籠は東京築地活版製造所の関係者により捧げられたもので、向って左側の石灯籠の台座裏面に東京築地活版製造所と刻し、続いて曲田成・松田源五郎・谷口黙次・西川忠亮・野村宗十郎など総勢十四名の氏名が列記してある。向って右側の台石裏面には左側に続くかのように十六名の氏名が列記してある。

なお、吉田晩稼(一八三〇-一九〇七)は長崎興善町の生れで、陸軍、海軍に奉職したが、辞して書家となった。大字を得意とし、筆力雄勁にして当時及ぶ者なしと評された。東京九段の靖国神社にある巨大な標柱に刻まれた題字は晩稼の代表作として有名である。本木昌造の歌友とされている。
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上掲写真のうち、平野家塋域に入って左側にある、比較的おおきな墓標、
・山下壽衛子刀自墓 (刀自トジは高齢女性に対する尊称)
   法名:貞倫軒本譽壽照信女(大正元年10月16日没  86歳)
は、ながらく「掃苔会」関係者のあいだでは詳細不詳とされてきた。

それが【『平野富二伝』刊行 おつかれさま会】(平野家主催、新橋亭シンキョウテイ、2014年02月02日)に参集された平野信子氏(平野富二曾孫長男、平野文庫主宰者、故・平野義政氏夫人)からご説明をいただいた。それを記録されていた古谷昌二氏から@メールで情報をお知らせいただいたのでご紹介したい。

「掃苔会」は、多分に「書かれた字、彫られた字」の字学研究からはじまった。そして次第に明治期からの歴史研究にあゆみを進めてきたものである。したがっていまや「掃苔会」会員にとっては、墓地と墓標は、雄弁でありながら、さらにあらたな謎もうむことがしばしばある。
ここに古谷昌二氏からの@メール解説を紹介したい[2014年03月12日補記]。

山下寿衛子刀自の墓標について「詳細不詳」とありますが、先に平野家で開催していただいた「おつかれさま会」で、平野信子様から、この人は平野こまの母親[平野富二の義母]で、[故平野義政家の]仏壇に、[山下家]ご両親の位牌が祀ってある、とのことでした。
没年と年齢から計算すると、山下寿衛子さんは文政10年[1827]の生まれで、25歳のときに、こまさんが生まれたことになります。通説では平野こまは、安田清次・むら夫妻の長女とされていますが、[山下姓の]父母が別にいたことになります。
家紋の調査といい、今回の山下寿衛子刀自の問題にしろ、研究に終わりは無いようです。機会があればお位牌を拝見し、裏面にも表記がないかどうかを含めて調査したいものです。

平野富二と活字*12 平野富二夫妻の一対アルバムにみる妻こまのこと

_MG_0422uu_MG_0421uu修整富二修整古ま夫人アルバム 《あまりに資料がすくない、平野富二の妻・こまのこと》
もともと平野富二に関する資料がまことにすくなかったのだから、その妻・平野こまに関しては、ほんの点描のような記録しかなかった。それを古谷昌二氏が丹念に資料を掘りおこして『平野富二伝』にまとめられた。
平野富二の夫人、こまは、
「長崎丸山町に居住する安田清次・むら夫妻の長女こま(戸籍上は「古末」の変体仮名[ひら仮名異体字]で表記)[古ま・コマ・駒子ともする]で、嘉永五年(一八五二)一一月二二日生れ、富二とは六歳違いであることはわかっているが、結婚した時期については明らかになっていない」
と古谷昌二『平野富二伝』に紹介された。

《平野富二と平野こま夫妻の写真の補整》
これまで平野こま夫人の遺影は、三谷幸吉『本木昌造 平野富二 詳伝』に、ちんまりとした座像として、不鮮明でちいさな写真が紹介されてきただけである。
今般の『平野富二伝』(古谷昌二)刊行記念展示・講演会に際して、平野富二夫妻の遺影が、一対のアルバムにまとめられた写真が披露された。上段のガラスケース奥の列、左から二番目で公開した。

ふるいアルバム台紙には「A Morikawa  TOKYO」とある。
左側の平野富二の遺影は、1890年(明治23)ころにふたりの愛娘と撮影した下掲写真から、上半身だけをトリミングして、加工したものとみられる。
右側のこま夫人は、髪がすっかり白髪になっているが、しっかりとした躰躯で、芯のつよい女性だったとみられる風貌である。また当時もまだ一部で信じられていた、
「写真を撮られると、指先から魂がぬきとられる(魂が指先から抜け出てゆく)」
とする俚言を信じていたものか、たもとに両手をかくして撮影されている。おそらく夫富二の逝去後、明治後半に撮影したものとみられる。
平野富二と娘たち

もともと平野富二もあまり写真は好きではなかったようで、石川島平野造船所における進水式や竣工式での集合写真(当然平野自身は豆粒のようなおおきさでしかない)のほかには、これまで紹介してきた平野家に伝承されてきた三点の写真以外は発見されていない。
『平野富二伝』(古谷昌二)刊行記念展示・講演会では、平野家に継承されてきた貴重な一次資料を公開した。しかしながら明治初期のふるい資料がおおく、また関東大震災の業火に際して、これらの資料のほとんどが土蔵に収蔵されていたために、焼失はまぬがれたものの、資料がムレがひどく、一部資料はガラスケースに収納して展覧した。また、フラッシュ撮影などによる劣化防止のために、残念ながら会場での写真撮影をお断りした。

とりわけ、この平野富二夫妻の写真は、銀塩の経時変化(劣化)がはげしく、このままでは画像としての有効性を失いかねないとみられた。そこで平野家のご意向をうけて、過剰な解釈はしないように注意しながら、適度な補整をくわえたものをここに紹介した。オリジナルプリントはできるだけ空気を遮断して保存することとした。
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『平野富二伝』(古谷昌二 朗文堂 p.745)
補遺5 家族との写真
明治二三年(一八九〇)頃に撮ったと見られる平野富二と二人の娘の写真が平野家に残されている。これを図17-17[上掲写真]に示す。 数少ない平野富二の写真の中で、家族と一緒に写した写真はこれが唯一と見られる。

平野富二は、先年発病して病床に就き、その後、事業整理により仕事から暫らく離れて摂生し、漸くこの頃、小康を得た。その記念として娘に宝石を嵌め込んだ指輪を買ってやり、記念写真を撮ったものと見られる。 この[明治二三年(一八九〇)]年に撮ったとすると、平野富二は満四十四歳、上の娘津類は満十五歳、下の娘幾美は満九歳となる。
平野富二は、第一二章に掲載した図12-14[p.532]の肖像写真と比較すると、摂生に努めたためか、頬肉は引締まり、身体も肥満から脱却して上着とズボンがややダブダブに見える。カメラを意識しながら目線をそらしている。半身を少し右にそらしていることから、まだ身体が不自由だったのではないかと見られる。
上の娘津類は髷を結った姿で、やや下に目をそらし、指輪を嵌めた右手を目立つようにして膝のうえに載せている。
下の娘幾美は頭に髪飾りを着け、恐れ気も無くカメラに向って眼を据え、指輪を嵌めた左手をさらし、右手は袖にかくしている。
三人の眼の遣り場が違うのは、それぞれの時代を反映しているものと見られ、興味深い。
後年に撮ったとみられる古ま(駒)夫人の写真を図17-18に示す。白髪ではあるが、いまだ矍鑠として、芯の強い女性であったことをうかがわせる。

 《平野家一門から提示された平野富二夫妻の位牌》
また、今般のイベントを契機に、平野富二嫡曾孫の長男、故平野義政(平野文庫主宰者、1932-93)家に継承されていた、家祖:平野富二夫妻の位牌が関係者に披露された(撮影:平野健二氏)。
この位牌は、平野富二夫妻の逝去後、平野津類によって発願されたものとみられ、黒漆に金泥をほどこした格調のたかいものである。
ところが、ここでまたいくつかの課題が発生した。

まず正面上部の家紋である。これまで平野一門の家紋は、谷中霊園内の平野家塋域エイイキの墓石、水盤などにみる家紋、三谷幸吉『本木昌造 平野富二 詳伝』の装本部にみる図版などにそれぞれ相違がみられて、「丸に違い鷹の羽紋」、「六つ矢車紋」、「丸入り六つ矢車紋」、「出抜き六つ矢車紋」などの諸見解があった。
ところがこの位牌にみる家紋は「丸に違い鷹の羽紋」である。
平野富二は生家の矢次家をでて、平野家を再興して別家をたてたひとである。また平野富二自身は家紋などに頓着しない性格だったかったかもしれないが、この平野家家紋に関しての調査を継続して、古谷昌二氏が中心となっておこなうことをお願いした。
平野富二夫妻位牌表3uu平野富二夫妻位牌裏uu

基本 CMYK 基本 CMYK 三谷幸吉『本木昌造 平野富二 詳伝』の装本部にみる図版。三谷は函、表紙などに上図の家紋を紹介し、表紙の箔押しには、平野家家紋とあわせて、下図のように、本木昌造の私製の家紋とされる、俗称「まる も 」紋を重ね合わせた「デザイン」をもって本木昌造、平野富二の両者を紹介している。
三谷幸吉『本木昌造 平野富二 詳伝』の刊行に際しては、平野鶴類、平野義太郎の両者が物心共に最大の支援をしており、その関連記録として「三谷幸吉関連寄贈先名簿」「図書館寄贈先名簿」などが平野家に現存している。したがって平野津類、義太郎はこれらの図版を見ていたはずで、父祖の位牌にみる「丸に違い鷹の羽紋」との相違にどのような対処をしたのか興味のあるところである。

位牌の表面は、
「 修善院廣徳雪江居士 ── 平野富二法名
興善院明勤貞徳大姉 ── 平野こま法名 」
位牌の裏面は、
「 故平野富二
弘化三年八月十四日生
明治二十五年十二月三日卒
故平野駒子
嘉永五年十一月二二日生
大正元年十二月二一日卒 」
とある。
この記録は、戸籍とも、これまで記録されてきた諸資料とも齟齬はない。ここでのふたりの生年は、和暦(旧暦)で表示されているとおもわれるが、これを西暦(新暦)になおすと、こま夫人の生年月日ですこしく困ることが発生する。
「 故平野富二
一八四六年一〇月〇四日生
一八九二年一二月〇三日卒
故平野駒子
一八五二年〇一月〇一日生
一九一二年一二月二一日卒 」
となる【試験データ: CASIO こよみの計算】。

すなわち嘉永五年とは、ふつうは西暦一八五一年とされる。筆者もこれまでそのように表記してきた。しかし厳密に計算すると、平野こまの生年月日とされてきた「嘉永五年十一月二二日」とは、西暦では年がかわって、それもあらたまの新年元旦の「一八五二年〇一月〇一日うまれ」となる。
この和暦(旧暦)をまたいでいきたひとの記録には、和暦(旧暦)と、西暦(新暦)の混用があったりして悩ましいが、平野こまの記録に関しては、これまでどおり、筆者は「1851年(嘉永5)10月4日うまれ」とさせていただくことにした。

平野こま(古ま・コマ・駒子とも)は1851年(嘉永5)11月22日-1911年(大正元)12月21日をいきた。
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『平野富二伝』(古谷昌二 朗文堂 p.144
平野富二の結婚
[平野富二の結婚の]相手は、長崎丸山町に居住する安田清次・むら夫妻の長女こま(戸籍上は「古末」の変体仮名で表記)で、嘉永五年(一八五二)一一月二二日生れ、富二とは六歳違いであることはわかっているが、結婚した時期については明らかになっていない。

しかし、「矢次事歴」[平野富二の生家・矢次ヤツグ家の歴史をつづった記録]の記録によると、明治五年(一八七二)一〇月七日付けで町方に提出した矢次家(温威とその家族)の事歴の中には、平野富二の名前はなく、その後に作成された別の記録に「明治五未年温威弟平野富治外浦町ヘ分家シ平野家ヲ立ル妻おこま」とある。

谷中霊園平野家塋域にある、夭逝した長女・ことの墓。ほぼ正方形のちいさなもので、妙清古登童尼とだけ刻されている。

谷中霊園平野家塋域にある、夭逝した長女・ことの墓。ほぼ正方形のちいさなもので、妙清古登童尼とだけ刻されている。

また、三谷幸吉『本木昌造平野富二詳伝』の【補遺】(一二三ページ)に、長女こと[古登トモ]が明治八年(一八七五)七月に三歳で病死したとあり、このことから、明治五年(一八七二)中に長女が出生していたことが分かる。
なお、長女ことについては[当時は戸籍法がまだ未整備なために]平野富二の戸籍上には記載がないので、出生の月日までは確認できない。

以上のことから、平野富二の結婚は、明治四年(一八七一)の年末から明治五年(一八七二)二月の新戸籍届出までの間と見ることができる。

『平野富二伝』(古谷昌二 朗文堂 p.792
本木昌造と平野こま(古ま)夫人との間の逸話
平野富二夫妻が長崎から東京への移転に際して、本木昌造とこま(駒子)夫人との間の逸話が、三谷幸吉『本木昌造平野富二詳伝』(一二三ページ)に紹介されている。

平野先生が長崎を發足せらるゝに際し、本木先生は平野先生の夫人駒子さんを招かれて、先生御自身が着て居られた縞シマの着物を切り裂いて財布をつくり、當時、本木先生は非常に窮乏して居られたにも拘らず、何所で何う工面せられたか、其の財布に身を裂く如き金貮拾圓を入れて夫人の小遣銭として渡された。
夫人は、本木昌造先生の内情を餘り良く知って居られる関係上、非常に固辞されたのであった。が、しかし夫人は強いて言はれるまゝに、それを受けられたのであったが、其の金は決して小遣銭等に使ふべきものでないと、大切にし、東京に上られてからも肌身を離さぬ位にして居られた。

果せる哉、上京以来、活字製造の資金難が忽ち襲来して、夫人が受けられた餞別金貮拾圓也も其の儘、その資金に放り出して仕舞はざるを得なかった。しかし本木昌造先生より受けられた記念の縞の財布は、これを永らく平野家に保存して置かれて、大正十二年(1923)までいたったが、惜しむらくは、大正十二年の大震災は、この貴重の記念品をも烏有に帰して仕舞ったとのことである。
十五両   浅五郎渡

    五 両   吉田    渡  
以上は平野先生自筆の「金銀銭出納帳」(平野家所蔵)[現在は発見されていない]に明記してある興味ある事柄である。──編者[三谷幸吉]

『平野富二伝』(古谷昌二 朗文堂 p.145)
補遺7 平野(旧姓佐藤)龍亮との出会い

明治二五年(一八九二)の或る時、平野富二は仙台から上京して苦学している佐藤龍亮と知合い、好感の持てる好青年であったので、平野の姓を与えて東京石川島造船所に入社させた。 

平野龍亮は、明治七年(一八七四)七月七日、仙台藩士佐藤文弥の四男として仙台に生れた。明治二三年(一八九〇)、数え年十七歳のとき東京に出て、牛乳配達や新聞配達などをして苦学していたが、明治二五年(一八九二)、平野富二の面識を得、好まれてその養子となり、東京石川島造船所に入社した。平野富二には、後継ぎで二女の津類(当年九月で満十七歳)がいたが、その伴侶にさせる意志があったものと推察される。
しかし、平野富二はその年の一二月に突然死亡してしまった。津類とはどの程度の接触があったか分からないが、翌年、津留は青森県出身でカリフォルニア大学卒業の建築技師堺勇造を入婿として迎えた。 

明治二七年(一八九四)、平野龍亮は東京石川島造船所を離れ、海軍の募集に応じて機関兵となった。その頃、海軍ではイギリスの造船所で建造していた軍艦「富士」の回航員選定が行なわれ、選抜されてイギリスに赴き、一年半ばかりで帰国した。
明治三一年(一八九八)、軍籍満期となり、機械学を研究するためアメリカに渡ったが、間もなく修業のため一船員となって船中労働を経験しようとイギリス行きの貨物船に乗り込んだ。明治三二年(一八九九)、イギリスに到着し、ヴィッカース造船所に入ったが、余りに熱心なため日本の軍事密偵と見誤られて退社した。その後、ヤルロー、テームズ、アームストロング等の各造船所に勤務し、明治三五年(一九〇二)春、帰国した。

[平野龍亮は]同年一一月二七日に東京谷中で行なわれた「平野富二君碑」の建立記念式典に列席している(二〇-四の補遺8を参照)。
明治三八年(一九〇五)六月、京橋区月島東仲通八―二に平野鉄工所を開設し、船舶用諸機械、陸用機械、ボイラー、ポンプなどの製造を開始した。明治三九年(一九〇六)六月、平野富二の妻こまを養母として入家・入籍させ、京橋区新湊町五丁目一番地に分家させた。明治四四年(一九一一)一二月、平野こまの死亡により平野家から廃家され、平野姓のまま独立した。

その後の[平野龍亮の]動向については不明であるが、昭和一五年(一九四〇)に発行された『図説日本蒸汽工業発達史』に、平野龍亮氏所蔵の「石川島造船所製作品写真帳」からとされる、石川島造船所の初期の写真が抜粋掲載されている。
なお、平野龍亮は、富士九合名会社の代表社員である富士田九平の六女と結婚した。〈以上、『日本百工場』、『明治人名辞典』〉

平野富二と活字*11 『平野富二伝』刊行記念 展示・講演会-平野富二没後120年、平野活版製造所(東京築地活版製造所)設立140年、石川島造船所創業160年

平野表紙uu 明治産業近代化のパイオニア
『平野富二伝 考察と補遺』
古谷昌二 編著
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発行:朗 文 堂
A4判 ソフトカバー 864ページ
図版多数
定価:12,000円[税別]
発売:2013年11月22日
ISBN978-4-947613-88-2 C1023 

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『平野展』ポスターs明治産業近代化のパイオニア
『平野富二伝』 考察と補遺  古谷昌二編著
刊行記念 展示・講演会
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日 時 : 2013年11月30日[土]-12月01日[日]
      11月30日[土] 展示 観覧  10:00-16:30
                    著者講演会 14:00-16:00
             12月01日[日] 展示 観覧    10:00-15:00
                    掃 苔 会       10:00-12:00
      編著者・古谷昌二氏を囲んでの懇話会、サイン会は、会期中随時開催
会 場 : 日展会館
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主 催 : 平 野 家
協 力 : 朗 文 堂
後 援 : 理想社/タイポグラフィ学会/アダナ・プレス倶楽部

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明治産業近代化のパイオニア 平野富二  遺影三点紹介平野富二 東京築地活版製造所初号明朝体
1846年(弘化3)8月14日-1892年(明治24)12月3日 行年47
「平野富二」の名は、東京築地活版製造所 明朝体初号活字をもとに書きおこした 

平野富二武士装束 平野富二 平野富二と娘たち


《『平野富二伝』刊行記念 展示・講演会に際し、主催者/平野家ご挨拶 および 親族の紹介》
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 2013年11月30日[土]、古谷昌二氏の講演に先だって、主催者/平野家を代表して、平野富二曾孫・平野義和氏よりご挨拶があった。つづいて平野富二玄孫・平野正一氏より、ご一族と、ご親族の紹介があった。おりしも数日後の12月03日には、「平野富二没後121年」の記念の日を迎えるときであった。
10年前に開催した《平野富二 没後110年祭 》のおりは、あいにくの小雪まじりの寒い日であったが、今回は晴天に恵まれ、多くのご親族と、聴衆の皆さまをお迎えして、会場ははなやいだ雰囲気につつまれた。

写真は上より
◎ 平野家代表  平野義和氏(平野富二曾孫四男:七福会社社長) ご挨拶
◎ 平野家代表  平野正一氏(平野富二玄孫長男) ご挨拶ならびにご親族紹介
◎ 平野家代表  平野克明氏(平野富二曾孫次男:静岡大学名誉教授)
◎ 平野家代表  平野健二氏(平野富二玄孫次男)と、平野家一族のご夫人とお子様たち
◎ 山口家代表  山口景通氏およびご親族(平野家外戚。平野富二の三女:山口幾み様のご後継者)
◎ 矢次家代表  矢次めぐみ氏およびそのご家族(平野富二の生家:矢次重平様のご後継者)

 《古谷昌二氏 『平野富二伝』  刊行記念講演会》
いよいよ『平野富二伝』の編著者:古谷昌二氏による記念講演がはじまった。
講演は途中休憩をはさんで2時間におよぶ長時間であったが、明治産業の近代化と、それをなした先駆者のひとり、平野富二に関して、平易に、諄諄と説かれ、意義深い講演であった。
四半世紀ほどにおよぶ古谷昌二氏のねばりづよいご研鑽によっって、ようやく霧のかなたに霞み、歴史に埋没するおそれすらあった平野富二の実像が、ここに現出したおもいがした。


今回は、日展会館二階全室のすべてを拝借して、ゆったりとした記念展示をこころがけた。
展示品はおもに、一般にははじめて公開される、平野家に継承された貴重な一次資料であった。それらのすべては『平野富二伝』に詳細に紹介されているので、ぜひご購読をいただきたい。

また後援にあたられた「タイポグラフィ学会」では、平野富二賞をもうけて、すぐれた功績をのこしたタイポグラファを顕彰している。
その関連資料と、これまでの受賞者:吉田市郎氏、森澤嘉昭氏、大日本印刷株式会社秀英体開発室の関連資料なども展示された。

「タイポグラフィ学会 ───── 平野富二賞は、タイポグラフィの普及発展に著しく功績のあった個人及び団体に対するもので、その対象者は社会へのタイポグラフィの認識を高める行動及び啓蒙などにおいて、その事績が本学会にとどまらず、広く社会に貢献していると認められるものです」

アダナ・プレス倶楽部は、池原奞・池原香穉による、いわゆる「和様三号活字」をもちいて、平野富二の短歌を組版し、ご来場者ご自身での印刷体験をしていただき、ご来場記念品とした。
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記念講演終了後も、会場は熱い熱気につつまれて、あちこちで議論と情報交換と談笑の輪ができていた。
今回は主会場:日展会館でのイベントを、写真資料をもってご紹介した。
展示資料のほとんどは『平野富二伝』に紹介されているが、今回の催事にあたって、あらたに発見された資料もある。
谷中霊園での「掃苔会」の模様をふくめて、さらに本タイポグラフィ・ブルグロール花筏でご紹介したい。

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活字:『BOOK OF SPECIMENS』 活版製造所 平野富二 明治10年版(平野ホール所蔵)復元活字
「世の中を 空吹く風に 任せおき  事を成す身は 國と身のため」

_MG_0495uu _MG_0490uu _MG_0489uu 『平野富二伝』著者・古谷昌二氏と実兄・古谷圭一氏 DSCN1499uu

タイポグラフィ・ブログロール花筏での花筏

花筏 京都・哲学の道こういう写真はテレがあってあまり得意ではない。おそらく4-5年前、やつがれの体調がすぐれなかったころの写真だとおもう。

京都市左京区の南禅寺から、銀閣寺 ( 慈照寺 ) にかけて、琵琶湖疎水にそった小径を、「 思索のこみち 」、あるいは 「 哲学の道 」 などと呼ぶ。
むかしは閑静な小径だったが、いまはすっかり観光地になって、思索も哲学もあらばこそ、騒騒しい通りになっている。

この側溝の右手には、琵琶湖疎水のゆたかな流れがあり、このときもみなもが見えないほど、櫻花が散りしく 「 花筏 」 であった。
この小径の櫻はよく知られているが、同時に疎水にそって 「 ミツマタ(三椏)」 がたくさん植えられており、櫻に先だって淡い黄色の花をつける。

ミツマタは、その枝が必ず三叉、すなわち三つに分岐する特徴があるため、この名があり、三枝、三又とも書く。中国ではこの灌木の花のかおりのよさから 「結香 」 ( ジェシァン ) と呼ばれている。
ご存知のように手漉き紙の材料として 「 ガンピ(雁皮) 」 や、「 コウゾ(楮) 」とともに主要な原料となる。

この琵琶湖疎水と蹴上発電所の開発に際しては、平野富二ともおおいに関係がある。
古谷昌二 『 平野富二伝 』 (第17章 明治23年の事績 琵琶湖疎水工事視察とペルトン水車受注 p.714-23)。

その資料を探していたところ、こんな恥ずかしい写真がでてきた。
2013年の歳末にふさわしいかどうかは疑問だが、ご紹介した。

平野富二と活字*10 渺渺たる大海原へ-長崎港と平野富二の夢、そして注目してほしい出版人・安中半三郎のこと

新タイトル1
平野富二ボート用吊り装置平野富二ボート吊築造願
《平野富二自筆文書幷概念図——ボート釣築造願》 

    古谷昌二『平野富二伝』第10章-7 明治16年(1883)におけるその他の事績 p.440-441
上図) ボート釣装置概念図
本図は、下掲の平野富二自筆文書「ボート釣築造願」に添付されたボート釣装置の概念図である。 築地川の石段から二十間離れた岩壁に、長さ五尺のアーム二本を三間の間隔で川に向かって延ばし、小形ボートを吊り上げるもので、船上でのボート吊下装置を応用したものであることが分る。

下図) 平野富二所有のボート用釣装置設置願書
1883年(明治16)2月8日、平野富二は、築地活版製造所の前を流れる築地川の河岸石垣に、自分所有のボート用として、釣装置を設置する願書を同日付で東京府に提出した。
平野富二は、自宅と、活字製造部門と活版印刷関連機器製造部門「東京築地活版製造所」のある築地から、築地川を下って、石川島までの間を、ボートを利用して往復していたことが伺われる資料である。本文書は、東京都公文書館に所蔵されている平野富二自筆の願書である。  

「   ボート釣築造願
                   京橋區築地弐丁目
                     拾四番地平民
                                                            平野富二
右奉願候私所有之ボート壱艘同所拾七番地前川岸江繋留仕度就テハ別紙圖面之通 ボート釣河岸ヨリ突出製造仕度奉存候間何卒御許可被成下度尤右場所御入用之節何時モ取除元之如ク私費ヲ以取繕可申候此  段圖面相添奉願候也  但川中ヘ五尺出張リ候事
                                                 右
   明治十六年二月十八日         平野富二 印
   東京府知事芳川顕正殿  前書出願ニ付奥印候也
                                    東京府京橋區長池田徳潤印           」
 東京府は、警視庁に照会の上、撤去の際には元形の通り修復することを条件として許可している。

20131014180912139_0001

明治36年版『活版見本』(東京築地活版製造所)口絵にみる銅版画を原版とした社屋一覧。
平野家はこの1903年(明治36)のとき、すでにあるじ富二を失っていたが、長女・津類ツルを中心に、この図向かって左手奥にあった平野家に、関東大震災で罹災するまで居住していた。
手前の築地川は水量がゆたかで、そこに下掲写真では小舟を移動して撮影したものと想像されるが、この銅版画には象徴的に、一隻の小舟が繋留されて描かれている。しかしすでに平野富二は逝去しており、吊り上げ装置らしきものはみられない。

M7,M37社屋

平野富二はまた、1879年(明治12)5月22日この築地川の川端に、アカシアの苗木を自費で植え付けの願い書を東京府知事宛に出している。
『株式会社東京築地活版製造所紀要』(東京築地活版製造所、昭和4年10月)の口絵には、「明治37年ノ当社」とする写真があり、そこには前掲の銅版画では省略されたのかもしれないが、河岸にアカシア並木らしきものがみられる(『平野富二伝』古谷昌二、p.311-2)。銅版画に描かれた小舟は、手前の河岸にはみられるが、対岸には一隻もみられない。
───────
《港湾都市長崎でうまれた平野富二の原風景 —— 移動はもっぱら小型舟のサンパンだった》
ふるくいう —— 「三つ子の魂  百までも」。
平野富二(1846年(弘化3)8月14日-1892年(明治24)12月3日 行年47)は、三方を急峻な山なみで囲まれ、生いしげるあかるい照葉樹林の照り返しで、金波銀波が鮮やかに海面を彩る、長崎港湾にうまれた。
やがて長崎製鉄所に属し、船舶の機関士として学習と航海をかさね、渺渺ビョウビョウたる大海原オオウナバラに進出した。
平野富二は、この大海原につらなる、ふるさと長崎へのこだわりが、ひときわつよいひとであったとおもわれる。
そして、船をつくり、みずから操船し、あるいは乗船して、大海原での航海を好んでいたひとであったとおもうことがおおい。

この平野のおもいは終生かわることなく、ふるさと長崎をつねに意識していたのではないかとおもわせることがおおい。すなわち平野富二の記録に接するたびに、随所に長崎とのつよい関係がみられ、ハッとさせられることがしばしばある。
──────
平野富二数えて38歳、1883年(明治16)2月8日、ようやくその事業が一定の順調さをみたとき、自宅と、活字・活版印刷関連機器製造工場たる「東京、築地での、活版製造所」、すなわち「東京築地活版製造所」と、造船・重機械製造工場「石川島平野造船所」への往来に、ふるさと長崎で縦横に乗りまわしていたサンパン(舢板。小舟やはしけの中国風の呼び名)と同様な、小型舟艇(ボート)をもちいたかったのであろう。

その小型舟艇の繋留のために、みずからしたためた「許可申請書」が、上掲の図版と文書である。添付図版は、河岸の石積まで丁寧に描いたもので、技術者らしい、簡潔にして要を得た概念図である。
その原風景は、長崎港湾にひろがる、小菅修船所、飽の浦アクノウラの長崎製鉄所、立神船渠センンキョ、ドックを、縦横にサンパンで往来していた平野富二16-25歳のころとなにもかわらなかった。
古谷昌二『平野富二伝』からみてみよう。

    古谷昌二『平野富二伝』第1章 誕生から平野家再興まで p.2-5
1-1 少年時代
平野富二は、幼名を富次郎といい、長崎の出身。町司チョウジ矢次豊三郎ヤツグトヨサブロウの二男。母は旧姓を神邊カンベ、名前を美禰ミネと称した。1846年8月14日、長崎引地町ヒキヂマチにおいて生れた。
数え年三歳の時、病がちであった父を亡くして、三歳違いの兄和一郎(後に重之助、重平、温威と改名)と、父の死後に生れた妹ていと共に母の手で養育された。
数え年八歳の時から長崎在住の太田寿吉に就いて書道を習い、西原良介と仁木田豊蔵の二人から書読を学んだ。
1857年(安政4)10月、数え年12歳で長崎奉行所の隠密方御用所番オンミツガタ-ゴヨウショバンに任命され、一日おきに出勤した。休日は西原・仁木田の二人の師匠に就いて「論語」「孟子」「大学」「中庸」の四書と、「詩」「書」「易」「春秋」の四経、ならびに「日本外史」数巻の読文指導を受けた。 これが平野富二の学んだ基礎学問の概要である。
長崎古地図

◎ 嘉永三年当時の長崎市街図
   古谷昌二『平野富二伝』第1章 誕生から平野家再興まで p.5
本図は、長崎文錦堂から刊行された『肥前長崎図』(嘉永三年再板)の市街中心部分を示す。平野富二数えて5歳のころの幼年時代の長崎市街を示すものである。

図の中央右寄りの折目に沿って、石垣と濠に挟まれた縦に細長い道筋が、平野富二(矢次富次郎)の生地「引地町」と表示されている。それに平行して左隣りに「さくら町」(桜町)と「新町」があり、「さくら町」の「引地町」寄りに「牢や」(牢屋)がある。「新町」の「引地町」寄りに「長門」(長州)と「小くら」(小倉)と表示された一画が示されている。

図の下方にある扇形の島は「出島」で、その上部の石垣で囲まれた岬の先端部分に長崎奉行所西役所がある。そこから三本の道路が上方に通じており、右側二本が「ほか浦町」(外浦町)と二行で表示されている。外浦町は平野富二が結婚し、矢次家をでて別家平野家を再興した1872年(明治5)に居住していた。 

考察5 出生地
平野富二(富次郎)は、矢次ヤツグ家が代々居住していた長崎引地町ヒキヂマチで出生したと見られる。
平野家にある過去帳や、平野富二の京橋区除籍謄本には、出生地として外浦町ホカウラマチと記されているが、これは富二が東京に戸籍を移す直前に住んでいた住所を示したものと見られる。
「矢次事歴」によると、1872(明治5)に平野富二が分家し、妻を帯同して外浦町ホカウラマチに移転したとしている。引地町は、桜町サクラマチと新町シンマチの東側にある、石垣と濠ホリの間にある細長い町で、『長崎市史』地誌編 名勝舊蹟部によると、もとは桜町から東南に向って傾斜した荒蕪地コウブチで、戦国時代に桜町に濠を掘って貯水し、敵軍の襲来に備えたが、後に人口が増大して市街地を拡張する必要が生じたため、濠の一部を埋立て、土地を造成して住宅地とした。このことから引地町と名付けられたという。

桜町の造成された土地に牢屋ロウヤが置かれ、それと隣接する引地町に長崎奉行所付の町使チョウジ(町使は今の警官に相当するもので、帯刀を許されていた)の長屋があって、町使役14人が居住していた。なお、町使は、後に町司チョウジと表記されるようになった。
この引地町という町名は、現在、長崎市の町名から消えてしまっている。現在の町名では、興善町コウゼンマチと桜町の一部となっており、両町の東側(厳密には東南側)の細長い一帯が引地町であった。
明治初期には、桜町と新町(現在は興善町の一部)が小高い台地の上にあり、その台地の外縁に築かれた石垣に沿って道路があり、その道路に面して引地町の家並があった。家並の背後には濠が残され、俗称地獄川と呼ばれていた。この濠は、現在、その一部が埋立てられて道路となっている。

当時の町割りは、道路を中心とし、それに面した地区に町名が付けられた。 1871年(明治4)四年4月、新政府によって戸籍法が発令され、これに伴ない町村制の改革が行なわれて、全国的に大区・小区の制度が採用された。
『明治六年の「長崎新聞」』によると、長崎では1872年(明治5)2年2月から戸籍調査がはじめられた。
その時に定められた矢次家の住居表示は、「矢次事歴」によると、1874年(明治7)4月の時点で、第一大区四ノ小区引地町五十番地であった。1873年(明治6)11月、大区・小区の大幅な整理統合が順次行なわれ、その結果、1878年(明治11)9月の時点では、第一大区二ノ小区引地町二百十五番に表示が変更されている。
1878年(明治11)10月には、町村編成法が公布され、大区・小区制が廃止されて、長崎市街地一円は長崎区となった。
矢次家の住所地は、明治4年の町村制改変史料があれば、これに表示されていると見られる。調査すれば平野富二の出生地を現在の位置で確定できるかも知れない。

考察10  隠密方御用所番
この役職は、長崎奉行が直轄する番方バンガタに属し、今でいう警察の機能を持った部門で、町司に関連する職場であった。矢次家は初代から長崎の町司を勤めていたので、その関連業務に従事することになったものと見られる。
三谷幸吉『本木昌造 平野富二 詳伝』では、「隠密方オンミツカタ」という言葉を憚はばかってか、単に「御用所番」としているが、「隠密方」は忍者やスパイとして連想されるものとは違う。
長崎奉行所の隠密方は、長崎奉行から内命を受けて、不正の摘発や内密な調査を行い、上司に報告する役割で、平野富二の師である本木昌造も、一時期この役割を担っていた。
番方は、平時に長崎港内の水上警察業務や密貿易防止のための巡視などの海上保安業務を行っていた。役割業務からすると本来は武士が行うものであるが、長崎では奉行所で働く地役人が行った。番方の身分は町人であるが名字帯刀を許されていた。
富次郎の奉行所出勤の様子について、母美禰が富二の二女・津類ツルに語ったという口伝クデンが三谷幸吉『本木昌造 平野富二 詳伝』に紹介されている。

「奉行所への出勤は、用人清水国松に連れられて出役した。兄重之助も奉行所に出役していたが、その出役ぶりが悪く、何くれと言い訳をして出役しないことが多かった。ある日、富次郎が一人で急いで朝食をしていると、兄重之助が後からノソノソと起きてきて、弟でありながら漬物鉢の菜を先に箸をつけたと怒り、漬物鉢を庭に放り投げ、駄々をこねて奉行所を休んだことがある。弟の富次郎は、兄のその様な素振りには一向お構いなく、用人国松を供に連れて奉行所にさっさと出勤したという。当時、矢次家に居た三人の祖母は、その様な兄弟の日常の素振りを見て、矢次家の家禄は弟の富次郎が継ぐことになるだろう、と口癖の様に云って富次郎を誉めていた。しかし富次郎はこれを心好く思わず、僅かばかりの家禄など望まない、と言って、もっと大きな将来の望みを抱いていた」

この時、富次郎は数え年一二歳であったが、兄重之助は数え年二〇歳で町司抱入の役にあった。矢次家に居た三人の祖母とは、祖父茂三郎の妻のほかに、曽祖父和三郎の妻と、富次郎の母実禰の三人と見られる。この逸話は後年になって平野富二の娘・津類ツルによって語られたと見られ、津類にとっては富次郎の母も「おばあさま」であった。

長船よもやま話 ジャケット

三菱長崎造船所サンパン

『長船ナガセンよもやま話-創業150周年記念』
(長船150年史編纂委員会、三菱重工業株式会社長崎造船所 平成19年10月 p.88-89)

《長崎港とサンパンの歴史——『長船よもやま話』より》 
40  サンパンで飽の浦-立神を5分

      明治時代の所内交通はもっぱら舟でした。
1906年(明治39)1月に稲佐橋(木橋)が開通するまで、対岸方面への往来は小舟に頼るほかありませんでした。また、長崎港には内外の船の出入りが多かったので、碇泊した船と岸を結ぶため、多くの小舟が待機しており、なかでも大浦下り松(松ヶ枝町マツガエマチ)海岸はとくに多かったそうです。

このほか大波止オオハト、浪の平、浦上川などを合わせると、千隻セキ近い小舟が長崎港にあったそうです。
中国語では小舟やはしけをサンパン[舢板]と呼びますが、長崎でも通い舟のことをサンパンと呼んでいました[中略]。
このころ当所[三菱長崎造船所]の飽の浦-立神間の交通は舟でした。幹部社員などがいつでも乗れるように、海岸石段には常に何隻ものサンパンが待機していました。櫓を漕ぐ船夫も、明治30年代には100人以上が在籍して、交通係の指令が下ると、二丁櫓で、部長以上などは三丁櫓で飛ばし、立神まで4-5分もかからない速さでした[中略]。

1904年(明治37)に向島第一トンネルが開通し、立神まで歩いていけるようになり、さらに1914年(大正3)には飽の浦-立神間に定期貨物列車が運行、大正7年になると列車に客車が連結され、海上では自動艇5隻が配置されるなどで、構内のサンパンは姿を消したのです。

Nagasaki_vue_du_Mont_Inasa.jpg (7890×1012)写真) 稲佐山イナサヤマ展望台から眺めた長崎市の様子。 【ウィキペディア:長崎市より】
─────────
平野富二は26歳までの多くをこの長崎の地で過ごした。1869年(明治2)明治新政府民部省の認可のもと、若き富次郎が総指揮にあたって掘削した「立神タテガミ造船所」をはじめ、隣接する「飽の浦アクノウラ製鉄所、長崎製鉄所」、対岸の「小菅船渠コスゲセンキョ、小菅修船所」なども描かれている。
長崎市街は、まちの北東部から注ぐ中島川と、北部から南下して長崎湾に注ぐ浦上川に沿ったほんの一部だけが平坦地で、三方の後背地は急峻な山にかこまれている。
東京に出てきてからも、気軽に築地と石川島を小型舟艇で往来していた、平野富二の生い立ちが偲ばれる地図である。
長崎

長崎◎  長崎縣内務部第二課編纂 『仮称:長崎港湾地図』(明治32年 西暦1899年2月)
長崎の版元/安中書店・安中半三郎が刊行した長崎市街地と港湾部の詳細な地図。
東京築地活版製造所(印刷者名:野村宗十郎)が銅版印刷した。上掲図はクリックすると拡大します。

長崎地名考 扉長崎地名考 付録
長崎地名考 刊記

《安中書店、虎與號商店、虎與號書店 —— 安中半三郎のこと》
安中書店・安中半三郎(やすなか-はんさぶろう いみな:東来 1853-1921 別屋号:虎與號トラヨゴウ商店、虎與號トラヨゴウ書店。旧在:長崎市酒屋町四十四番戸)は、版元:安中書店と虎與號を経営するかたわら、香月薫平、西道仙らとともに「長崎古文書出版会」を結成し、その成果が『長崎叢書』となって、やがて長崎県立図書館(長崎市立山1丁目1-51)の設立につらなった【リンク:長崎県立図書館沿革】。
また「長崎慈善会」を結成して「長崎盲唖院」を設け、この生徒13人から出発した授産教育機関は、いまは長崎県立盲学校【リンク:長崎県立盲学校沿革】として存在している。

ここには、長崎縣内務部第二課編纂 発行者 安中半三郎 『仮称:長崎港湾地図』(明治32年 西暦1899年2月)、『長崎地名考』(香月薫平著、発行者 安中半三郎、 安中書店蔵版、発行所 虎與號商店、明治26年11月11日)を紹介したが、ほかの刊行書もたくさんある。
いち民間人、それも出版人の動向によってつくられた施設が、公的な施設となって持続されることなどは、ありそうでないことである。またそれがながく語りつがれ、公式記録にも掲載されていることに驚く。
ようやく長崎学の関係者のあいだで、この注目すべき安中半三郎に関する研究が進捗しつつようである。おおいに期待して、その発表をまちたい。

それでもまだ安中半三郎に関する資料は乏しいようである。安中半三郎がもちいていた屋号「虎與號」は、現代表記では「虎与号」となる。また厄介だが、湯桶ユトウ読みで、「とらよごう TORAYO-GO」と呼んでいたことが、いくぶん不鮮明ではあるが、『長崎地名考』刊記に添付された出版社標からもわかる。
下にその拡大図を掲げた。

ORAYO-GO

安中半三郎は平野富二より6歳ほど年下であったとみられ、その交流はいまはわからない。それでも明治中期から末期にかけて、長崎出身の平野富二の後継者、東京築地活版製造所に依頼して、活字版印刷、銅版印刷、石版印刷などの先端印刷技術をもちいて、積極的に図書や地図や詩画集などを刊行していた。
『長崎地名考』の印刷は東京築地活版製造所で、平野の没後まもなくであるが、富二の没後も東京築地活版製造所は長崎との関係が深く、専務社長/曲田 茂が印刷者として刊記にしるされている。

平野富二と活字*09 巨大ドックをつくり船舶をつくりたい-平野富二24歳の夢の実現まで 

Web長崎立神ドック
長船よもやま話 ジャケット
長船よもやま話 本文

『長船ナガセンよもやま話-創業150周年記念』
(長船150年史編纂委員会、三菱重工業株式会社長崎造船所 平成19年10月)

三菱重工業株式会社長崎造船所、いかにも長い名前である。地元長崎では愛着をこめて、もっぱら同社を「長船ナガセン」と呼んでいるし、同社社内報のタイトルも『長船ニュース』である。本稿では「三菱長崎造船所」と呼ばせていただく。
「三菱長崎造船所」の淵源はふるく、1857年(安政4)10月10日をもって創業の日としている。その創業150周年記念として刊行されたのが『長船よもやま話』(2007年、平成19年)である。

「お堅い150年史も必要だけど、社員や家族も気軽に読める、絵本のような150年史はできないものか……」(同書編集後記より)とされて、三菱長崎造船所の「長船よもやま話編纂事務局」の皆さんの訪問をうけたのは2006年(平成18年)のことであった。
当時の筆者は「三菱長崎造船所」の創業とは、官営の造船所から施設を借用というかたちで、経営主体が郵便汽船三菱会社・岩崎弥太郎に移った1884年(明治17)のときと考えていたので、「創業150周年」のことには少少面喰らったが、どこの名門企業も、創業のときをできるだけ遠くにおきたいようで、それはそれで納得した。

三菱長崎造船所 史料館三菱長崎造船所 史料館全景。「長崎造船所史料館」(長崎市飽の浦町1-1。JR長崎駅からタクシーで15分ほど。観覧は無料だが予約が必要)。同館Websiteより。
この赤煉瓦の建物は1898年(明治31)7月、三菱合資会社三菱造船所に併設の「木型場」として建設されたもので、三菱重工業株式会社 (本社:東京都港区港南2-16-5)発祥の地、長崎造船所に現存する、もっとも古い建物である。
1945年(昭和20)8月の空襲における至近弾や、原子爆弾の爆風にも耐えて、100年余の風雪に磨かれた赤煉瓦は、わが国の近代工業の黎明期の歴史を偲ばせるのに十分な風格がある。

「長船よもやま話編纂事務局」の皆さんは、拙著『富二奔る』を精読されており、筆者も 長崎造船所史料館  をたずねたことがあったので話がはずんだ。それにあわせて『大阪印刷界 第32号 本木号』(大阪印刷界社 明治45年)、『本木昌造伝』(島屋政一)、明治24年『印刷雑誌 1-4号』などを前にして、本木昌造と平野富二の業績に関しての話がおおいにはずんだ。何点かの持ちあわせていた画像資料は、一部を平野家のご了承をいただいて提供した。

『長船ナガセンよもやま話-創業150周年記念』は、ふつうの社史とは幾分異なり、創業150周年にあわせて見開きページで完結する150章をもうけて、フルカラー印刷による。ページ構成は、軽妙なイラストと、多くの写真資料で、わかりやすく三菱長崎造船所の長い歴史が説かれている。
すなわち、「三菱長崎造船所」では、創業のことを、徳川幕府の艦船修理工場「長崎鎔鐵所ヨウテツショ」の建設着手のときとして、オランダ海軍機関士官ハルデスらによって、長崎飽の浦アクノウラに建設が開始された1857年(安政4)10月10日をもって創業記念日としている。

1 辛抱強かったハルデスさん
  150年前、飽の浦の沼地に、日本初の洋式工場を建設
1855年(安政2)現在の長崎県庁の位置に開設された長崎海軍伝習所では、オランダから贈られた練習艦「観光丸」で訓練していましたが、そのうち、船や機関に小さな故障が出はじめました。
そこで江戸幕府に艦船修理場の設置を願い出ましたが、とても対応がスローモー。そこで永井伝習所取締は、独断でオランダ側に工場建設のための技術者や、資材の手配を申し入れました。

1857年(安政4)オランダ政府は長崎海軍伝習所第2次教師団長カッテンディーケ以下、教官と技術者37名を派遣して、資材や機械類も長崎に到着しました。
カッテンディーケは主任技師のオランダ海軍機関士官ハルデスと工場建設地を探し、飽の浦アクノウラを適地に決めました。

奉行所の認可を得て、わが国最初の洋式工場建設に着工したのは、この1857年(安政4)10月10日でした。それは今を去ること150年前で、この日が当所の創業記念日であり、日本における重工業発祥の日でもあります。[中略]
ハルデスの努力により、工場はおよそ3年半後の1861年(文久元)3月に落成し、任務を終えたハルデスらは帰国しました。[後略]
『長船ナガセンよもやま話-創業150周年記念』(p.10-11)

立神ドック建碑1uu

立神ドック建碑2uu

写真) 三菱重工業株式会社長崎造船所 史料館提供

《三菱重工業長崎造船所にある立神ドック建碑由来の説明板》
現在の三菱長崎造船所は、飽の浦アクノウラと立神タテガミ地区を包摂した本工場、香焼コウヤギ工場、幸町サイワイマチ工場、諫早イサハヤ工場の4工場をおもな拠点として活動を展開している。
三菱長崎造船所本工場は、飽の浦地区に本社機能や病院がおかれているほかに、おもにタービン工場や機械工場として使用され、史料館もこの地区にある。

いっぽう、三菱長崎造船所本工場立神タテガミ地区は、平野富二による開削時代には、飽の浦地区とは、岬というか、山ひだ一枚を隔てて離れていた。
それは直線距離ではわずかとはいえ、山越えの道はきわめて不便で、もっぱら海路での往来しかできなかった。それを三菱長崎造船所がトンネルを掘り、拡幅して道路として、現在は飽の浦地区と直結されている。
立神には第1-第3ドックを備えた巨大な造船工場があり、ここでは30万トン級の巨大な船舶の建造も可能とされる[長崎造船所の沿革]。

平野が開削に着手した立神ドックは、拡張されて、いまなお立神第2ドックの首部をなして健在であり、そこに写真で紹介した『建碑由来』がはめ込まれている。
立神に本格的な洋式造船所が設けられた歴史はこのようにふるく、時局下にあっては対岸から見えないように巧妙に遮蔽物を置くなどして、秘密裡に戦艦武蔵が建造された。また最近では2002年に艤装中の豪華大型客船「ダイヤモンド・プリンセス」が火災をおこしたことなどでも知られている。

上掲写真は、三菱重工業長崎造船所本工場の、立神タテガミ通路の壁面に設置されている『建碑由来』説明板の写真である。この説明板の中央右寄りに「立神ドック略歴」とあり、それに続いて平野富二の事績がしるされている。
なお写真右上部に「明治十年竣功(工)」とあるが、一部に不具合があって、実際の竣工は下部の「立神ドック略歴」に記録されたとおり明治12年となった。

「立神ドック略歴  明治三年(一八七〇)長崎製鉄所長平野富二乾ドック築工を民部省に建議、許可となり着工。同四年(一八七一)一時工事中止。明治七年(一八七四)フランス人ワンサンフロランを雇入れ築工工事再開。 明治一二年(一八七九)工事完成。(長さ一四〇米、巾三一米、深さ一〇米 当時東洋一)   (後略)  昭和四三年(一九六八)三月   三菱重工業株式会社長崎造船所」

これに補足すると、
「慶応元年(1865)7月に立神軍艦打建所として用地造成が完了しましたが、当地における軍艦建造が取止めとなり、そのまま放置されていました。 明治2年(1869)になって、平野富二が民部省にドックの開設を建議し、民部省の認可がおりました。同年11月20日、平野富二が「ドック取建掛」に任命され、直ちに着工しました。しかし明治4年(1871)4月、長崎製鉄所が工部省の所轄となるに及んで、平野富二は長崎製鉄所を退職し、工事は中止されました」[『平野富二伝』古谷昌二]

平野富二(1846-91)は長崎出身で、活字と活版印刷関連機器製造「東京築地活版製造所」と、造船と重機械製造「石川島平野造船所」を設立したひとである。
残念ながら、東京築地活版製造所はよき後継者を得ずに、1938年(昭和13)に解散にいたったが、造船・機械製造「石川島平野造船所」は隆盛をみて、「石川島播磨重工業株式会社」となり、こんにちでは「株式会社 IHI」 として知られている。
株式会社 IHI と、三菱重工業とは、ともに官営造船所の払い下げからスタートした民間企業という歴史をもち、なおかつ、さまざまな分野で競合関係にある巨大企業である。

すなわち株式会社 IHI では、創業を水戸藩徳川斉昭が幕命によって、江戸・石川島の地に造船所を創設した1853年(嘉永6)年12月5日としており、同社はことし創業160周年を迎えている。
また設立の年はすこし複雑で、1876年(明治9)平野富二による「石川島平野造船所」の設立と、のちに渋澤榮一らの参加をえて、1889年(明治22)に会社法人「有限責任 石川島造船所」が設立された日の双方を設立の時としている。ただし公的には、同社が法人格を得た1889年(明治22)を設立の日としている。
IHI 会社概要 最下部] [IHI 沿革・あゆみ
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ここで、長崎の地におおきな造船所がつくられた歴史を簡略にしるしてみたい。
1857年(安政4年)  江戸幕府直営「長崎鎔鉄所」の建設着手。
1860年(万延元年)  「長崎製鉄所」と改称。
1861年(文久元年)  江戸幕府直営「長崎鎔鉄所」が完成。
1868年(明治元年)  明治政府による官営「長崎製鉄所」となる。
1869年(明治02年) 平野富二が民部省に立神にドックの開設を建議し、民部省の認可が下りた。
1869年(明治02年) 11月20日、平野富二が「ドック取建掛」に任命され、直ちに工事に着工した。
1871年(明治04年)  長崎製鉄所が工部省所管「長崎造船局」と改称[このとき平野富二は退職]。
1876年(明治09年)  平野富二、東京石川島に「石川島平野造船所」を設立。
1879年(明治12年)  官営「立神第一ドック」完成。
1884年(明治17年)  官営「長崎製鉄所」が払い下げにより三菱の経営となる。「長崎造船所」と改称。

あわせて平野富二(富次郎 1846-91)のこの時代の行蔵を簡略にしるしてみよう。
長崎にうまれた平野富二は、この三菱長崎造船所の前身、長崎製鉄所とは16歳のときから関係をもった。
まず1861年(文久元)長崎製鉄所機関方見習いに任命され、教育の一環として機械学の伝習を受けていた。このころは飽の浦に建設された長崎製鉄所の第一期工事が完成して間もないころであった。
ここでいう「製鉄所」とは、溶鉱炉を備えた製鉄所という意味の現代用語とは幾分異なり、「大規模な鉄工所」(古谷昌二氏談)とみたほうがわかりやすい。

1869年(明治2)平野富二が民部省[1869年(明治2)に設置された中央官庁。土木・駅逓・鉱山・通商など民政関係の事務を取り扱った。1871年廃止されて大蔵省に吸収された]に立神にドックの開設を建議し、民部省の認可がおりた。同年11月20日、「ドック取建掛」に任命され、直ちに工事に着工した。
このとき平野富二は24歳、春秋に富んだときであった。
しかしながら1871年(明治4)4月長崎製鉄所が 工部省 の所轄となるにおよんで、平野富二は退職し、工事は中止となった。

平野富二は、長崎製鉄所を退職したのち、1872年(明治5)7月から、長崎製鉄所の先輩だった本木昌造の再再の懇請により、経営に行きづまっていた「崎陽新塾活字製造所」を継承した。
平野は翌年、既述した「平野富二首證文」などによって資金を得るとともに、東京に出て、1873年(明治6)から活字製造と活版印刷機器の製造所、「長崎新塾出張活版所」、のちの「東京築地活版製造所」で成功して、あらたな資金をつくった。

あわせて幕末に水戸藩が設けた「石川島修船所」の敷地を借りるかたちで、念願の造船業「石川島平野造船所」の事業に1876年(明治9)に進出した。

すなわち巨大なドックをつくり、おおきな船舶をつくりたいという、平野富二24歳のときの夢は、長崎での工事は中断されて自身の手では完成をみなかった。
それでもこの立神の地に、巨大ドックを開設するという事業に着眼した平野富二は慧眼といえ、やがて工部省所管の官営造船所「長崎造船局」によって、1879年(明治12年) 立神第一ドックが完成し、その後三菱長崎造船所の主力工場となった。
それでも平野はあきらめることなく、巨大ドックをつくるという24歳のときの夢を抱きつづけ、その7年後、水戸藩徳川斉昭が、幕命によって江戸・石川島の地に造船所を創設したまま、放置されようとしていた施設を借りる(のち買収)かたちで、東京石川島の地で実現した。
このとき平野富二、31歳の男ざかりであった。

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造船業者や船乗りは「板子一枚下は地獄」とされ、きわめて危険な職業であることの自覚があるようである。したがってライバル企業「石川島平野造船所」、現在の IHI の設立者「平野富二」の名を、自社の主力ドックである立神ドックに、その名を刻した、三菱重工業長崎造船所の皆さんの意気にこころをうたれる。

上掲写真は、2001年「平野富二没後110年祭」に際して、列席された長崎造船所史料館のスタッフからいただいたものである。ここは三菱長崎造船所本工場の最奥部にあって危険があり、また情報管理の面からも、一般人の見学はゆるされていない。したがってこの写真が公開されたことはあまりないようである。

同社はまた『創業150周年記念  長船ナガセンよもやま話』(三菱重工業長崎造船所 平成19年10月 p.22-23)の見開きページで、
「立神に巨大ドックを 壮大な夢を抱いた平野富二、工事現場での大ゲンカ仲裁も」
として、イラストと写真入りで立神ドック建造中の姿を紹介している。

このとき平野富二は25歳という若さで、おそらくまだ髷を結い、帯刀して、3-4,000人のあらくれ労働者の指揮にあたっていたとみられる。

平野富二武士装束uu

平野富二(富次郎)が長崎製鉄所を退職し、造船事業への夢を一旦先送りして、活版印刷の市場調査と、携行した若干の活字販売のために上京した1871年(明治4)26歳のときの撮影と推定される。
知られる限りもっともふるい平野富二像。旅姿で、丁髷に大刀小刀を帯びた士装として撮影されている。
廃刀令太政官布告は1876年(明治9)に出されているが、平野富二がいつまで丁髷を結い、帯刀していたのかは不明である(平野ホール所蔵)。

建設中の立神ドッグ

開鑿中の立神ドック
本図は、横浜で発行された英字新聞『ザ・ファー・イースト』(1870年10月1日)に掲載された写真である。 和暦では明治3年9月7日となり、平野富二(富次郎)の指揮下で開始されたドック掘削開始から、ほぼ 9 ヶ月目に当たる状態を示す。
この写真は、長崎湾を前面にした掘削中のドライドックの背後にある丘の上から眺めたもので、中央右寄りにほぼ底面まで掘削されたドックが写されている[『平野富二伝』古谷昌二]。

考察13 開鑿ニ着手 明治二年(一八六九)一一月二〇日、製鉄所頭取青木休七郎、元締役助平野富次郎、第二等機関方戸瀬昇平は、「ドック取建掛」に任命され、続いて頭取助品川藤十郎と小菅掛堺賢助も要員に加えられた。 この中で筆頭の製鉄所頭取青木休七郎は名ばかりで、実質的な責任者は平野富次郎であった。 この時の製鉄所辞令が平野家に残されている。 
「平野富次郎  右ドック取建掛  申付候」  [『平野富二伝』古谷昌二]。 

任命状

  平野富次郎  右ドック取建掛  申付候図 ドック取建掛の辞令
本図は、平野家に保管されている平野富次郎に宛てた長崎製鉄所の辞令である。この辞令の用紙サイズは、高さ174㎜、幅337㎜で、ここに書かれている巳十一月とは明治2年(1869)11月(和暦)であることを示している[『平野富二伝』古谷昌二]。

長崎縣権大属任免状uu 

平野富次郎の長崎縣権大属任免状 
本図は、平野家に保管されている平野富次郎に宛てた長崎縣の任免状である。 この任免状の用紙サイズは、高さ187㎜、幅519㎜である。 最終行の「長崎縣」と書いた上部に小さく、「庚午 閏十月十六日」と記されており、明治3年(1870)閏10月16日[旧暦]の日付であることが分かる[『平野富二伝』古谷昌二]。
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三菱長崎造船所『創業150周年記念  長船ナガセンよもやま話』(三菱重工業長崎造船所 平成19年10月 p.22-23)には、以下のように平野富二、24歳のときの夢が記録されている。

7  立神に巨大なドックを
   壮大な夢を抱いた 平野富二  工事現場での大ゲンカの仲裁も
当所の立神タテガミドックは、仏人技師ワンサン・フロラン総指揮のもとに開削されたと一般には知られていますが、それ以前、このドックを開削した長崎人がいました。平野富二です。
富二は長崎うまれ、12歳で奉行所番となり、長崎製鐵所と関わりを持ったのは16歳のときでした。製鐵所では機関手見習いを仰せつけられています。

この後、機関手の実務勉強や実績を経て、製鐵所機関伝習方元締役と、小菅修船場長を兼務し、小菅修船場から海を隔てた対岸の立神に、一大ドック建設の夢をいだき、24歳のとき建白書を書き上げました。
建白書は、
「小菅修船所船渠で得た純益金1万8000円を資金として、立神に巨大なドックを開削し、おおいに造船の業を起こし、内外の航路と諸船舶修復の権利を掌握、加えて長崎港の繁栄を」
というものでした。この建白書は民部省で審議され、民部大丞井上馨から、「直ちに着手せよ」との許可がおりました。

1870年(明治3)9月、富二は立神ドックの開削に着手しました。しかし、この工事はなかなか簡単には進みませんでした。使用者は3千人から4千人と増え、なかには浮浪無頼のやからもおり、ケンカや酒狂、窃盗、博打、仕事もせずに惰眠をむさぼるなど、その取締りも困難でした。当時の富二はほかにも、製鐵所機関伝習方元締役、小菅修船場長の役職があり、その公務は多忙を極めていました。
加えて彼には持病があり、立神ドック開削現場で起こった二派に分かれての大ゲンカを、戸板に乗って運ばれて取り静めたこともありました。

しかし、こうした富二の苦労も報われませんでした。1871年(明治4)4月、長崎製鐵所が民部省から工部省の所管となり、小菅ドックや開削中の立神ドックなど、一切の財産帳簿類を整理し、工部省に引き渡して職を辞しています。
完成に至らなかった立神ドック開削に、それまで要した金額は2万1500円と記録に残されています。

平野富二と活字*08 天下泰平國家安全 新塾餘談初編 一、二 にみる活字見本(価格付き)

基本 CMYK
長崎港のいま
長崎港のいま。本木昌造、平野富二関連資料にしばしば登場する「崎陽 キヨウ」とは、長崎の美称ないしは中国風の雅称である。ふるい市街地は写真右手奥にひろがる。

新塾餘談 初編一 新塾餘談 初編一 口上 新塾餘談 初編一 活字見本 新塾餘談 初編一 売弘所 新塾餘談 初編二 新塾餘談 初編二 口上 新塾餘談 初編二 活字見本 新塾餘談 初編二 売弘所『 崎陽 新塾餘談 初編一、初編二 』  ともに壬申二月 ( 明治05年02月) 牧治三郎旧蔵

『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 は、「 緒言-明治壬申二月 本木笑三ママ 」、「 燈火の強弱を試る法 図版01点 」、「 燈油を精製する法 」、「 雷除の法  図版02点 」、「 假漆油を製する法 」、「 亜鉛を鍍する法 」、「 琥珀を以て假漆油を製する法 」、「 口上-壬申二月 崎陽 新塾活字製造所 」が収録されている。

また図版として計03点が銅メッキ法による 「 電気版 」 としてもちいられている。
『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 は第1丁-10丁までが丁記を付せられてあるが、11丁からは急遽追加したためか、あるいは売り広め ( 広告 ) という意識があったのかはわからないが、丁記が無く、そこに 「 口上 」 がしるされている。
製本売弘所は、「 崎陽 引地町 鹽(塩)屋常次郎 」、「 同 新町 城野友三郎 」 の名がある。

『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 壬申二月  明治05年02月 牧 治三郎旧蔵
『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 は、筆者手許資料は第01-9丁までを欠く。 10-20丁からの記述内容は、もっぱら電気鍍金法メッキの解説書である。 「口上-壬申二月 崎陽 新塾活字製造所 」 は21丁にあるが、ここからは丁記は無い。
「 口上 」 の記載内容は 『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 と同一で、発行もおなじ壬申二月 ( 明治05年02月 ) であるが、製本売弘所は、「 崎陽 引地町 鹽屋常次郎 」、「 同 新町 城野友三郎 」 のほかに、「 東京 外神田佐久間町三丁目 活版所 」、「 大坂 大手筋折屋町 活版所 」 のふたつの名が追加されている。
銅メッキ法による 「 電気版 」 は19丁に、電解槽とおぼしき図版が印刷されている。

また最終丁には、長丸印判によって 「 定價永三十六文 」 と捺印されている。
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新町活版所跡碑部分上掲図版は、長崎の新街私塾 ( 新町活版所 ) から刊行された 『 崎陽 新塾餘談 初編一、初編二 』 ( ともに壬申二月  明治05年02月 平野富二このとき26歳 ) の巻末に掲載された 「 崎陽 新塾活字製造所 」 の活字見本 ( 価格付き ) である。
この図版は、これまではしばしば本木昌造の企画として紹介され、文例から 「 天下泰平國家安全 」 の、本木昌造による活字見本として知られてきたものである ( 小生もそのように紹介してきた。 ここに不明をお詫び申しあげたい )。

武士装束の平野富二。明治4年市場調査に上京した折りに撮影したとみられる。推定24歳ころ。平野富二 ( 富次郎 ) が、市場調査と、携行した若干の活字販売のために上京した1871年 ( 明治04 ) 秋、26歳のときの撮影と推定される。 知られる限りもっともふるい平野富二像。

旅姿で、月代 サカヤキ をそらない丁髷に、大刀小刀を帯びた士装として撮影されている。 撮影年月はないが、台紙に印字された刻印は 「 A. Morikawa TOKYO 」 である。

廃刀令太政官布告は1876年(明治09)に出されたが、早早に士籍を捨て、平然と 「 平民 」 と名乗っていた平野富二が、いつまで丁髷を結い、帯刀していたのかは不明である。
平野富二の眉はふとくて長い。 目元はすずやかに切れ長で、明眸でもある。 唇はあつく、きりりと引き締まっている ( 平野ホール蔵 )。

本木昌造は、このころすでに活字製造事業に行きづまっており、1871年(明治04)06-07月にわたり、長崎製鉄所を辞職したばかりの平野富二 ( 富次郎 ) に、「 崎陽 新塾活字製造所、長崎新塾活字鋳造所 」 への入所を再再懇請して、ついに同年07月10日ころ、平野はその懇請を入れて同所に入所した。
これ以後、すなわち1871年 ( 明治04) 07月以降は、本木は活字鋳造に関する権限のすべてを平野に譲渡していた。

また本木はもともと、活字と活字版印刷術を、ひろく一般に解放する意志はなく、「 新街私塾 」 一門のあいだにのみ伝授して、一般には秘匿する意図をもっていた。 そのことは、『 大阪印刷界 第32号  本木号 』 ( 大阪印刷界社 明治45年 )、 『 本木昌造伝 』( 島屋政一 朗文堂 2001年 ) などの諸記録にみるところである。
長崎活版製造会社之印長崎港新町活版所印新街私塾

『 本木昌造伝 』 ( 島屋政一 朗文堂 2001年08月20日 ) 口絵より。 元出典資料は 『 大阪印刷界 第32号 本木号 』 ( 大阪印刷界社 明治45年 ) であり、『 本木昌造伝 』 刊行時に画像修整を加えてある。 上から 「 長崎活版製造会社之印 」、「 長崎港新町活版所印 」、「 新街私塾 」 の印章である。
長崎の産学共同教育施設は、会社登記法などの諸法令が未整備の時代のものが多く、「 新街私塾 」 「 新町私塾 」 「 長崎新塾 」 としたり、その活字製造所、印刷所なども様様な名前で呼ばれ、みずからも名乗っていたことが、明治後期までのこされたこれらの印章からもわかる。

苦難にあえでいた 「 崎陽 新塾活字製造所、長崎新塾活字鋳造所 」 の経営を継承した平野は、従来の本木時代の経営を、大幅かつ急速に刷新した。
またこの前年、1871年(明治04)の秋の上京に際して、東京を中心とする関東での市場調査と、携行した若干の活字販売をしているが、その際平野は販売に際して、カタログないしは見本帳の必要性を痛感したものとみられる。
それが 「 活字見本 ( 価格付き )」 『 崎陽 新塾餘談 初編一、初編二 』 ( 壬申二月  明治05年02月)につらなったとの指摘が、諸資料を十分検討したうえで 『 平野富二伝 』 で古谷昌二氏よりなされた。

長崎に戻った平野は、それまでの本木の方針による 「 活字を一手に占有 」 することをやめて、ひろく活字を製造販売し、あわせて活字版印刷関連機器を製造し、その技術を公開することとした。
本木の行蔵には、どこか偏狭で、暗い面がみられ、高踏的な文章もたくさんのこしている。
ところが、その事業を継承した平野は、どこかわらべにも似て、一途な面が顕著にみられ、伸びやかかつおおらかで、なにごともあけっぴろげで明るかった。

1871年 ( 明治04 ) 07月10日ころ、「 崎陽 新塾活字製造所、長崎新塾活字鋳造所 」 へ入所した平野は、早速市場調査と、活字の販売をかねて09-10月に上京した。 この旅から平野が長崎にもどったのは11月01日(旧暦)とみられている。
そのとき、長崎ではまだのんびりと 『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 の活字組版が進行していたとおもわれる。 また 『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 の緒言に、本木は 「 本木笑三 」 という戯号をもちいて、なんらの緊張感もない序文をしるしていた。

長崎にもどった平野は、本木とその協力者 ( 既存の出資者 ) に 「 活字見本 ( 価格表付き )」、すなわち販売用カタログを緊急に製作する必要性を説き、その承諾をえて、『 崎陽新塾餘談 初編一 』  『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 (壬申 二月  明治05年02月)の両冊子の巻末に、急遽 「 販売を目的とする価格付きの活字見本 」 を印刷させ、まずは活字を、ついで活版印刷機器を、ひろく需用者に販売することにしたものとみられる。
長崎港のいま 新町活版所跡の碑 活版伝習所跡碑 本木昌造塋域 大光寺 本木昌造銅像 長崎諏訪公園このような活字を製造し、販売するという平野富二の最初の行動が、この活字見本 ( 価格付き ) であったことの指摘が、『 平野富二伝 』 ( 古谷昌二編著 朗文堂 p.136-7 ) でなされた。 これはタイポグラファとしてはまことに刮目すべき指摘といえよう。

掲載誌が、新街私塾の 『 崎陽 新塾餘談 初編一 』、『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 であり、販売所として、初編一では長崎 ( 崎陽 ) の 「 崎陽 引地町 鹽屋常次郎 」、「 同 新町 城野友三郎 」 であり、初編二には前記二社のほかに、「 東京 外神田佐久間町三丁目 活版所 」、「 大坂 大手筋折屋町 活版所 」 の名が追加されている。
これらの販売所はすべて本木関連の企業であり、当然その効果は限定的だったとみられるが、これが平野のその後の事業展開の最大のモデルとなったとみられ、貴重な資料であることの再評価がもとめられるにいたった。

補遺4 活字の販売 
明治5年(1892)2月に新街私塾から刊行された小冊子 『 新塾餘談 初編一 』 の巻末に、
「  口上
此節雛形の通活字成就いたし片仮名平仮名とも大小數種有之候間  御望の御方へハ相拂可申右の外字體大小等御好の通製造出申候
   壬申 二月          崎陽 新塾活字製造所 」
という記事があり、続いて、初号から五号までの明朝体と楷書体活字を用いた印刷見本と、その代価が掲載されている。

この広告文は、活字を一手占有するという本木昌造の従来の方針を改め、世間一般に販売することにした平野富次郎による経営改革活動の一環と見ることができる。 東京で活字販売の成功と事業化の見通しを得たことが、本木昌造と協力者の方針を変更させ、このような活字販売の広告を出すに至ったものと見られる。              ( 『 平野富二伝 』 古谷昌二 p.136-7 )

壬申、1872年(明治05)、平野富二はたかだかと口上をのべた。このとき平野数えて27歳。
「 口上  ――  [ 意訳 ] このたび見本のとおり活字ができました。 カタ仮名活字、ひら仮名活字も、活字サイズも大小数種類あります。 ご希望のお客さまには販売いたします。 そのほかにも外字やサイズなど、お好みに合わせて製造いたします。
明治五年二月  崎陽 新塾活字製造所 」
以上をのべて、本格的な活字製造販売事業を開始し、あいついで活版印刷機器製造事業をはじめた。

この 「 口上 」 という一種のご挨拶は、本木の高踏的な姿勢からは発せられるとは考えにくく、おそらく平野によってしるされた 「 口上 」 であろう。
同時に平野は、東京への進出に備えて、あらかじめ1872年(明治05)8月14日付け 『 横浜毎日新聞 』 に、陽其二 ヨウ-ソノジ、ミナミ-ソノジ らによる、長崎系同根企業の 「 横浜活版社 」 を通じて、同種の広告を出していた。

同年10月、平野は既述した 「 平野富二首證文 」 を担保として、上京のための資金 「 正金壱千円 」 余を調達した。 その調達先には、長崎六海商社と、元薩摩藩士で関西経済界の雄とされる五代友厚の名前があがっているが後述したい。
そして、退路を断った東京進出への決意を胸に秘めて、新妻 ・ 古ま ほか社員08名 ( のち02名が合流 ) をともなって上京した。

上京後の平野は、ただちに同年10月発行の 『 新聞雑誌 』 ( 第66號 本体は木版印刷 ) に、同種の 「 天下泰平國家安全 」 の活字目録を、活字版印刷による附録とし、活字の販売拡大に努めている。
このときの 『 新聞雑誌 』 の発行部数は不明だが、購読者たる明治の教養ひとにとっては、木版印刷の本紙の付録として添付された、活字版による印刷広告の鮮明な影印は、新鮮な驚きがあったであろうし、まさしく文明開化が具現化したおもいがしたのではなかろうか。

この 「 壬申 二月 」、1872年(明治05)02月とは、わが国の活字と活版印刷術が、平野富二の手によって、はじめて、おおらかに、あかるく、ひろく公開され、製造販売が開始された記念すべき年であったことが、本資料の再評価からあきらかになった。
これからは時間軸を整理し、視点を変えて、再検討と再評価をすべき貴重な資料といえる。

平野富二と活字*07 12月03日、きょうは平野富二の命日です。

 平野富二 東京築地活版製造所初号明朝体
1846年(弘化3)8月14日-1892年(明治24)12月3日 行年47

武士装束の平野富二。明治4年市場調査に上京した折りに撮影したとみられる。推定24歳ころ。

平野富二肖像写真(平野ホール藏)
平野富二と娘たちuu

写真上) 平野富次郎 丁髷士装の写真
平野富二が「平野富次郎」と名乗っていた26歳ころの写真。知られる限り最も古い写真。月代サカヤキを剃らずに丁髷を結い、大刀小刀を帯びた旅姿の士装として撮影されている。撮影年月はないが、台紙に印字された刻印は「A. Morikawa TOKYO」である。
1871年(明治4)夏、本木昌造は巨額の債務にあえいでいた長崎新町活版所の事業のすべてを平野富二(富次郎)にゆだね、その委嘱を受けた平野は同年9月、将来の事業展開を東京に開かんとして、市場調査のために、若干の活字を携えて上京。持参した活字のほとんどを販売し、その記念として長崎に帰る直前に撮影したものとみられる。
推定1871年秋(明治4 富二26歳) 平野ホール蔵

写真中) 平野富二肖像写真
1885年(明治18)3月、平野富二は海軍省から一等砲艦を受注して、長年の夢であった軍艦の建造を実現した。また4月には東京築地活版製造所を本木家から独立させて株式組織とした。これらを記念して撮影したものとみられる。

平野富二肖像写真 台紙裏台紙の裏面には一対の鳳凰を配し、上部に「東京印刷局写真」、下部に「PHOTOGRAPH BY INSETUKIOKU」としるした装飾紋が、薄紫紅色で印刷されている。印刷局では1886年(明治19)まで写真館を営業していた。
推定1885年(明治18 富二40歳) 平野ホール蔵

写真下) 平野富二と 指輪が自慢な愛娘との写真
平野富二には、夭逝した琴(コト、古登とも)、家督を相続した津類(左:ツルとも、1870-1941)、漢学者の山口正一郎に嫁した幾み(右:キミとも、1881-1937)の三女があった。
高血圧のため減量中の富二はズボンがだぶついているが、愛娘の間にあって、照れたようにあらぬ方に視線を向けている。娘たちはおめかしをして、指輪が自慢だったようで、てのひらをひろげて指輪をみせている。この写真は病に倒れる前の、愛情溢れる平野富二一家の記念となった。
推定1890年(明治23 富二45歳) 平野ホール蔵

《平野富二がもちいた社章など》
商標01uu

商標02uu

上左) 『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所 平野富二、推定明治10年)にみられる築地活版所の社標で、本木昌造の個人紋章「丸も」のなかに、ブラックレターのHがみられる。ながらくもちいられ、明治17年の新聞広告にも掲載されている。

上右) 東京築地活版製造所の登録商標で、明治19年の新聞広告からみられる。

下左) 平野富二と稲木嘉助の所有船痛快丸の旗章で、装飾文字のHをもちいて、明治11年に届け出ている。

下右) 明治18年石川島平野造船所は商標を制定し、登録した。この商標は『中外物価新報』(日経新聞の前身 明治18年7月7日)に掲載した広告にはじめて示されている。イギリス人御雇技師(アーチボルト・キングか)の発案とされ、「丸も」のなかにカッパープレート系のふとい HT が組み合わされている。