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本木昌造の最後

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本木昌造02

◎ 本木昌造の肖像写真
この写真は長崎諏訪神社につたわった写真である。これと同一原板によるとみられる写真が、『贈従五位本木昌造先生略傳』(東京築地活版製造所 印刷図書館蔵)にも掲載されているが、これには台紙の裏面を写した写真も紹介されている。裏面には「内田九一製」と印刷されている。

◎ 本木昌造の上京中の肖像写真
本木昌造(1824-75)は、東京に滞在中に内田九一ウチダ-クイチ写真館で記念写真を撮影したらしく、その肖像写真が長崎諏訪神社にのこされている。
この写真には撮影年月日が記されていないが、本木昌造の容貌は、目が落ち窪み、頬がこけて、病み上がりの状態であるように見られる。時期としては最晩年の明治七年(一八七四)に上京したときの可能性が高い。

◎ 本木昌造の終焉 ──── 『本木昌造伝』(島谷政一 朗文堂 p.206-9)
明治八年二八七五)は印刷出版業者にとっては忘れることができない年となった。この年の二月三日上海-横浜間に定期航路が開設されて政府のあつい保護のもとに三菱汽船会社が運航にあたった。このとき政府はその所有汽船のすべてを三菱汽船会社に貸与して海上輸送会社の保護育成をはかった。
この航路が長崎を素通りして横浜から結ばれたことは、ひとり本木昌造だけではなくて長崎市民を失望させた。そもそもこの定期航路の開設は本木昌造が明治六年(一八七三)の台湾報復出兵のさいに、長崎をおとずれた大隈重信侯に献策をかさねたものだった。たとえその業務が因縁あさからぬ三菱汽船会社に委ねられたとはいえ寂寥のおもいはぬぐいがたかったのである。
もはや征韓論の分裂を超克して政府は大久保利通が中心となっていた。また立憲政体樹立の詔書がくだされてその第一歩として三権分立の制度がたてられた。行政、教育、産業などのすべての中心が東京に移動して長崎は遠隔疎遠の地となっていた。

そんな明治八年(一八七五)の春、本木昌造はひどく健康を害して食がすすまなくなった。家族や社員が静養を勧め、ようやく山紫水明の京都で療養することに決心して同年三月二一日長崎を発して京都に上った。
京都の點林堂・山鹿善兵衛は大阪活版製造所の初代谷口黙次と相談して、嵯峨野の落柿舎で十分な静養をしてもらうことにした。そこには下男下女と看護人を付き添わせることにして、付き添いで
きた二人の社員は長崎に帰した。
京都での転地療養をはじめると容態はすこぶる好転した。天気のよい日には洛中を散策して點林堂活版所に立ち寄ったり、あるときは大阪にでかけて、大阪活版製造所の工場を嬉しそうに巡回して健康はすっかり回復したかにみえた。
初代谷口黙次は本木昌造がもっとも愛情をもってみた社員であり、また全幅の信頼を寄せてもいたひとだった。またその夫人は連日献身的に看護したから、この間もしばしば大阪にでかけて谷口家に滞在していた。
こうして一時健康を回復したかにみえたが、五月のはじめに風邪をひいたのがもととなってふたたび病床に呻吟することになった。京都と大阪の社員が交代で落柿舎に泊りこんだし、谷口黙次の
夫人は付きっきりで看護にあたった。
この知らせに驚いた平野富二は、とるものもとりあえず東京からやってきて病床を見舞った。長崎
からも家族が社員にともなわれてやってきて看護に協力したために、いったんは小康をえて一同は愁眉をひらくことができた。
容態は順次良好となって歩行にも困難を感じないほどに回復した。このとき本木昌造は長崎に帰りたいとの意向を漏らした。一同はもうしばらくの静養を勧めたが、帰心はだんだんつのって最早やだれの勧告にも応じないようになった。
そこで一同が協議して、初代谷口黙次が付きそって家族とともに長崎に送ることになって、本木昌造は西に、平野富二は東にたがいに別れをつげた。

ところがやはりこの帰省の長旅の疲労がたたったのか、長崎に帰ったあとの本木昌造の衰弱ははな
はだしかった。またこの年の夏は暑さがきびしかった。
明治八年(一八七五)八月の中旬、本木昌造が重態におちいったとのしらせが門人、門弟、社員に
一斉にしらされた。
まだ交通不便の時代だったが、平野富二は夜を日に継いで長崎に到着した。大阪の初代谷口黙次や京都の山鹿善兵衛も馳せつけた。いずれも枕頭にあって看護に手をつくしたが、もはや症状は日に日に重くなるばかりだった。
こうした切迫した状況から、平野富二は九月一日本木昌造が関係した「活版事業の始末方」を品川
藤十郎をつうじて指図をこうた。
この品川藤十郎とはオランダ通詞の家にうまれて、本木昌造とは長女砒を継嗣小太郎に嫁がせた縁戚関係にあったし、かつてはともに通詞の職にあった。また長崎活版製造会社の創立にあたっては金千両を出資して新街私塾では教鞭をとるなど一門の世話役として存在がおもんじられていた。
品川藤十郎が病床にたって平野富二の言をつたえると、
「活版事業のことはすべて平野君に一任しあるをもって予の容喙を要せず。万事平野君の処置にし
たがうべし」
とのことだった。
臨終にさいしてもこのほかの遺言はなかった。ただ門人、門弟、社員を枕頭に集めてそれまでの協力を謝して今後とも活版印刷術の普及に尽力するように励まして、ついに明治八年(一八七五)九
月三日享年五一歳をもって暝目された。
本木昌造が泉下のひととなったのは明治二年(一八六九)近代活字鋳造創始のときからわずかに七年、あまりにも惜しまれる逝去だった。

「嗚呼本木昌造翁逝いて、いままたいずくにか翁のごとき性行純金の人をもとめん。もし翁をしてその寿をながからしめれば、日本国の利するところさらにおおいなるものありしならんに、まことに惜しむべきかな」
と英国の『ブリテッシュ・プリンター』誌もその逝去を惜しんだ。
九月六日本木家と一門社員によって盛儀をもって葬儀が執行されて、遺骸は本木家の菩提寺長崎今篭町大光寺の墓域に篤く埋葬された。
法名は「故林堂釋永久梧窓善士」だった。
世人はいまさらのように本木昌造の偉大な功績をしのんでその逝去を惜しまぬものはなかった。

 ◎ 本木昌造が療養した「落柿舎」をみる
京都洛外「草庵落柿舎-らくししゃ」は向井去来がいとなんだ草庵である。
向井去来(むかい-きょらい 1651-1704)は江戸時代前期の俳人。
慶安4年生まれ。肥前長崎出身。向井元升-げんしょう-の次男。京都で儒者として親王家などにつかえたが、松尾芭蕉に入門して俳諧に専念した。嵯峨に草庵落柿舎をいとなむ。蕉風の忠実な伝え手で、同門中でもおもんじられた。「猿蓑-さるみの」を野沢凡兆と編集。宝永元年9月10日死去。54歳。名は兼時。字-あざな-は元淵。通称は平次郎。著作に「旅寝論」「去来抄」など。

岩 は な や  こ こ に も ひ と り  月 の 客 「去来抄」

IMG_3719 IMG_3692 IMG_3687 IMG_3683落柿舎の点景 活版小本・杉本昭生氏 2018年3月21日撮影

去来の卒後、落柿舎はしばしば無住のいおりとなっていたようである。
明治四五年(一九一二)本木昌造にたいして従五位を追贈する旨が朝廷より仰せだされた。このとき山鹿善兵衛はすでに點林堂活版所の事業を令息・山鹿粂次郎に譲って「落柿舎栢年-はくねん」と号して落柿舎五代目庵主として嵯峨野にあって自適の余生を愉しんでいたが、
「先師本木先生こたび御贈位の光栄をこうむりたまいしを祝し奉りて 栢年」として、つぎの一句をものして御贈位の光栄をこころから喜んだ。

引 鶴 や  更 に 雲 井 に  羽 の 光     栢年

 

◎ 長崎にうまれ東京で活躍した写真士 : 内田九一
内田九一(1844-75)は、弘化元年(一八四四)長崎に生まれ、松本良順等から湿板写真の手ほどきを受け、上野彦馬に師事した。
最初に大阪で開業し、次いで横浜馬車道に移り、明治二年(一八六九)東京浅草瓦町に洋式写場を開いた。
明治五年(一八七二)と同六年(一八七三)には明治天皇と昭憲皇太后の写真を撮影している。その後、築地にも分店を設けていることから、この本木昌造の写真は築地の写場で撮った可能性もある。内田九一は明治八年(一八七五)に没した。

 

内田九一
うちだ-くいち
1844−1875
幕末-明治時代の写真家。
弘化(こうか)元年生まれ。吉雄圭斎の甥(おい)。長崎でポンペに化学を,上野彦馬から写真術をまなぶ。慶応元年大坂で写真館をひらき,のち横浜・東京で開業。明治5年宮内省御用掛として明治天皇の肖像写真を撮影し,有名となった。明治8年2月17日死去。32歳。肥前長崎出身。
©Kodansha

日本人名大辞典

吉雄圭斎
よしお-けいさい
1822−1894
江戸後期-明治時代の医師。
文政5年5月8日生まれ。家業の外科医をつぎ,出島のオランダ商館出入り医師となる。嘉永(かえい)元年オランダの軍医モーニッケに牛痘接種法をまなび,種痘の普及につとめた。熊本病院初代院長。明治27年3月15日死去。73歳。肥前長崎出身。名は種文。
©Kodansha

【彫刻家 奥村浩之後援会 新宿御苑前支部】奥村浩之新作彫刻作品 ?|否 ! HIROYUKI 氏が飼育している Xoloitzcuintle というらしい|+ Viva la 活版 Viva 美唄の記憶

cd58eb5ef659b1dc2238dab8bea8da38P1140678彫刻家 奥 村 浩 之 Okumura Hiroyuki  プロフィール
1963年    石川県に生まれる。
1986年    金沢美術工芸大学美術学部彫刻科卒業
1988年    金沢美術工芸大学大学院修士課程修了
1989年-   メキシコに渡る。メキシコシティーから 200 km ほどの町、ハラパを拠点に、彫刻に没頭。
現在ベラクルス大学 画廊 アルバ デ ラ カナルにおいて< HIROYUKI OKUMURA 彫刻展『Men, Myth, Journey and Life 展』── 男たち、神話、旅と生きかた ──>が好評開催中。

[詳細:Galeria Ramón Alva de la Canal
INVITACIÓN final redes40409989_1903258586646366_6445686390108717056_n──────────────
[彫刻家 奥村浩之後援会 新宿御苑前支部]
浩之さんは寡黙ではあるが、心底こころのやさしいひとである。だからなんの役にもたてないが、勝手に[彫刻家 奥村浩之後援会 新宿御苑前支部]を結成して応援をしている。

数年前にやつがれもメキシコシティーにいった。家人が「死者の祭」と、フリーダ・カーロディエゴ・リベラ夫妻(互いに傷つけ、裏切ることが愛のあかしであるように、あやなす修羅をいきたふたりの造形家)に興味があった。
やつがれは建築家 ルイス・バラガン 探訪を加えることを条件に同行した。

その報告はほとんどできていない。なにぶん機中泊を含め四泊五日の慌ただしい旅であり、どれもがあまりに強烈な刺激に満ちており、ただ茫茫、混沌としたまま脳裏に刻まれている。

そのおり、ドローレス・オロメド・パティニョ美術館にいった。故ドローレス夫人は大富豪として知られ、フリーダ・カーロとディエゴ・リベラの作品を大量に購入していた。現在はその豪壮な私邸の一部が予約制の美術館として公開されていた。カーロとリベラの作品は唸るしかないものばかり、それも大量に展示されていた。

その折り、庭園の一隅に見慣れない犬がいた。陽ざしが暑いのか、通路からとおい木陰にかたまって10匹ほどいた。体毛は額のあたりに産毛のようにほんの少し生えているだけでほとんどなく、木陰にうずくまっている姿はなにかの置物のようにみえた。
この犬はふるくからアステカの人〻に愛玩されていたらしい。おとなしく従順な犬なので、時には寝具に抱きこんで湯たんぽがわりにしていたなど、さまざまな記録がのこされている。

スペイン人がメキシコにやってきてからは、もっぱら食用とされたため、絶滅が危惧されるほどにまでなったと案内板にはしるされていた。
犬種は「Xoloitzcuintle-ショロイスクィントリ」という。これは現地語なのかスペイン語なのかは知らないが、現地では単に「ショロ」と呼んでいるらしい。
英語では「Mexican hairless Dog-メキシカン ヘアレス ドッグ」と呼ばれている。この英語名だとわかりやすい。[ウィキペディア:Mexican hairless Dog-メキシカン ヘアレス ドッグ

かつて浩之さんの展覧会カタログに、この犬が一匹作品の後方に写っていた。この「裸犬-とやつがれは呼んでいた」は、パティニョ美術館にいったときは、遠くに固まってうずくまっていただけなので、写真も撮ってこなかった。やつがれ喘息にわるいからとして医者に飼育を禁じられているが、かなりの愛犬家であり、愛猫家でもある。前回の浩之さんからの写真送付はこれも愛犬のシェパードだったので、浩之さんに「裸犬」のリクエスト。

写真をみたらどうやら三匹も飼っているらしい。
なにせ体毛がない裸の犬である。当然寒がりであり、暑がりでもあるとされる。しかもメキシコシティでも高度が2,000-2,500 m ほどの高地に拡がっている。乾燥しているが、冬は寒く、夏の陽ざしはつよい。だからよほど好きでなければ飼育は困難な犬のようである。
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【詳細:奥村浩之 笹井祐子 奥村浩之 Facebook 】{活版アラカルト 過去ログ }

{ 新 宿 餘 談 }
800px-Diego_Rivera_with_a_xoloitzcuintle_dog_in_the_Blue_House,_Coyoacan_-_Google_Art_Projectフリーダ・カーロ/ディエゴ・リベラはともに「Xoloitzcuintle-ショロイスクィントリ」が好きで、カーロの生家「青い家」に同居していたころは「ショロ」を飼育していたようで、カーロは数点の絵画にのこし、リベラはこのような写真をのこした。「青い家」はガイドブックなどではちいさな家に見えるが、敷地300坪ほど、高い塀に四囲をかこまれたかなりの規模の邸宅である。フリーダ・カーロ-短い晩年の作品2フリーダ・カーロの最晩年の作品「VIVA LA VIDA」。「青い家」のイーゼルには、この連作の描きかけの作品がのこされていた。
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【 Viva la 活版  Viva 美唄の記憶 ── 2013年05月 ──】

《 Viva la 活版 Viva 美唄、イベントの名称を決定 》

あたらしいイベント概略が次第にかたまると、まずその名称の議論が活発にかわされる。
ふるくいう。── 「名は 体タイをあらわす」ト。
ここでの 「体 タイ」は、ものごとの本質ないしは実体の意である。 当然たいせつな議論となる。そのあらましは 『 Viva la 活版 Viva 美唄Ⅰ 開催のお知らせ 』 にしるしてある。

そもそもやつがれは、どういうわけか名称に  “ VIVA ”  を冠することが多い。
“ VIVA ”  とは 「 すばらしき、すばらしい。  あるいは、美しい、麗しい。 ── むしろ驚きを込め、積極的に、讃歌 」 という意をこめてもちいている。
もともとイタリア語やスペイン語の  “ VIVA ”  は 「歓びの声、歓声」 にちかい。
わが国での訳語として馴致している「萬歳、万歳」の漢の字は、和訓音では「ばんざい」 とも「まんざい」 とも読めるから避けたいところだ。

まして めでたく「 バンザーイ( 三唱 )」 ではすこしニュアンスが違うとおもわれるし、用例はふるくからあるようだが 「 万才 」 にいたっては、どうかご勘弁をというところだ。
ついでながら「 漫才-まんざい」は、関西で滑稽なはなしをかわす掛合演芸で、大正中期に舞台で演じられ、昭和初年のころに漢の字表記として「漫才」が定着したものとされる。
本心では「 Viva ── ワォ~」としたいくらいなので、「萬歳、万歳、バンザーイ」 は敬遠している。
フ ゥ~、漢の字がからむと、はなしがまことにややこしくなる。


“ la ”  は 定冠詞で、 “  la  Frida ”  のように、女性の名前の前に置くと「フリーダちゃん」 のようなニュアンスになって、愛情と親しみをあらわす。

つまり、『 Viva la 活版 Viva 美唄 』とは、活版印刷という技芸( Art )と、北海道美唄における、丹精をこめて形成された、彫刻 ・ 景観 ・ 自然への讃歌として『 すばらしき 活版、すばらしい 美唄』 のおもいから名づけられた。
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名称決定までには、さまざまな議論があった。 ところが、テーブルにさりげなく置かれた一冊の画集が決定打となった。 議論は即座に収束して『 Viva la 活版 Viva 美唄 』 の名称が決定した。
このたった一枚の絵画が、みんなのこころをおおきく揺りうごかしたのである。

     

のちに知ったことだが、活版カレッジ ・ アッパークラスの「横ちゃん コト 横島大地」さんは、このひとの絵を小学生のときに見て、いまだに忘れられないほど、おおきな衝撃を受けたということであった。
ところが、まことに恥ずかしきかぎりだが、やつがれはこのときまで、いたましくも、はかなく、そして精一杯につよく、みずからの人生をいききった メキシコうまれの画家、フリーダ・カーロ ( Magdalena Carmen Frida Kahlo y Calderón 1907-1954 ) のことはなにも知らなかった。

したがって以下しばらくは、申しわけないが情念系を得意とする !?  大石 薫からの受け売りと、にわか仕込みである。
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フリーダ・カーロ は、 ハンガリー系ユダヤ人移民の職業写真家を父として、1907年メキシコにうまれた。
6 歳のころ 急性灰白髄炎 ( ポリオ ) にかかり、右腿から踝クルブシにかけての成長が止まって痩せ細り、これを隠すために、ズボンやメキシコ民族衣装のロングスカートなどを好んで着用していた。

学業は優秀で、当時ようやく女性にも開放されたメキシコの高度教育機関「国立予科高等学校」へ進学した。 ここで文学や絵画にたいする関心が高まったフリーダは、次第に画家への道を目指すようになった。

1925年、フリーダが18歳のとき、通学に乗っていたバスが路面電車と衝突し、多くの死傷者が発生する事故がおきた。 このときフリーダも 生死の境をさまようほどの重症をおい、その後も事故の後遺症で、背中や右足の痛みに悩まされた。 その痛みと、病院での退屈な入院生活を紛らわせるために、本格的に絵画を描くようになったという。

1929年、フリーダが22歳のとき、21歳年上の画家 ディエゴ ・ リベラと結婚した。
この結婚も、その後の妊娠にも、不幸がかさなった。 病気や事故による躰の障害がもととなって、背骨と胎盤が傷ついていたために、いたましいことに 3 度にわたってフリーダは流産した。
また芸術家肌で奔放な夫・リベラは浮気をかさね、なかでもフリーダの実の妹 クリスティナ と関係をもつなどしたために、フリーダのこころにおおきな影を落とすこととなった。 フリーダもまた、夫 ・ リベラへのあてつけのように、日系アメリカ人/イサム ・ ノグチ  と関係をもつなどの騒動がかさなった。

そんなこともあって、フリーダ ・ カーロとディエゴ ・ リベラは、10年余におよんだ結婚生活に終止符をうって、1939年に離婚が成立した。 フリーダはメキシコの生家である「 青い家」にもどって、ひとりで闘病と創作活動をつづけた。
ところがほぼ一年後に、フリーダは、互いに経済的自立をはかること、互いに不貞をはたらかないことなどの条件を提示して、リベラと復縁して、「 青い家 」 での同居生活にはいった。
こうしてようやくこころの安寧を取りもどしても、間断なくおそう脊髄の傷みはおさまらず、投与された鎮痛剤も効かないほどの苦痛が間断なくおそうようになり、ついに右足切断手術をうけるという闘病生活がつづいた。
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メキシコ人、フリーダ ・ カーロは、200点ほどの作品をのこし、シュルレアリズムの画家とされている。そのほとんどは自画像であり( 画像集リンク )、躰とこころのやまいに苦悩する自分のすがたを、カンバスにそのまま叩きつけたような「痛痛しい作品」が多い。

ところが晩期の作品に、明るい色彩に満ちた静物画をポツンとひとつのこしている。 みずからカンバスにしるして『 VIVA LA VIDA  Frida Kahlo  すばらしき人生 フリーダ ・ カーロ 』である。
もう一度 『 VIVA LA VIDA  Frida Kahlo  すばらしき人生 フリーダ ・ カーロ 』 を紹介したい。

フリーダ ・ カーロは1954年7月13日、47歳にして 幽明 さかいをことにした。
その遺灰は、生家であり、ディエゴ ・ リベラとのおもいでにあふれる 「 青い家 」 にねむっている。いま 「 青い家 」 は、「 フリーダ ・ カーロ記念館 」 として一般公開されている。
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たび重なる不幸と困難に見舞われながら、それでもなお、人生の最後に 『 すばらしき人生 』 といえるだけの、明るく澄みきった心境にいたった フリーダ ・ カーロの短い晩年ををおもう。
彼女の生涯と作品は、「 生きること 」と、「 創ること 」のためには、誠心誠意、真剣に向き合うべきだという問題提起を突きつけられるとともに、それに立ちむかう勇気もあたえられる。

さぁ、こうしてイベントの名称は『 Viva la 活版 Viva 美唄 ── すばらしき 活版、すばらしい 美唄』 に決定した。 こうなれば、あとは一瀉千里、一気呵成である。
『 VIVA LA VIDA  Frida Kahlo  すばらしき人生  フリーダ ・ カーロ 』 の一枚の絵画に感動したのなら ───そう、皆さんご存知の、イギリスのロックバンド、Coldplay のヒット曲『 Viva La Vida 』 ( リンク : Coldplay-Viva La Vida  4:03 YouTube ) を、まことに勝手ながら 『 Viva la 活版  Viva 美唄 』の「 こころのテーマ曲  !? 」に決定とさせていただいた。

この曲は YouTube での視聴回数が 122,100,000 回(一億二千二百十万余  2013年03月16日──2018年09月18日の視聴回数は五億一千回余 510,189,808 回)におよぶ。そのうちのわずか40-50回は、サラマ・プレス会員の再生によるものであろうか。

【 YouTube 音が出ます  Coldplay-Viva La Vida  4:03 】

《 Viva la 活版 Viva 美唄 ―― イベント名称と概略がきまったら…… 》

こうしてイベント名称が『Viva la 活版  Viva 美唄』、「こころのテーマ曲」が『 Viva La Vida 』 に決まった。
『 Viva la 活版  Viva 美唄 』 の会場となる 「 アルテ  ピアッツァ 美唄 」 の概略は、この 『 花筏 Viva la 活版 Viva 美唄Ⅰ 開催のお知らせ 』(2013年03月13日)で紹介した。

彫刻家/安田 侃氏によって形成された 「 アルテ ピアッツァ美唄 」 には、公共施設によくみられる 「 サイン ・ ボード 」 と称するような不粋な案内板はほとんどない。 それどころか、門も塀も仕切りらしきものもない。
したがって入場料の徴収場所もないから、当然入場は無料である。
「アルテ ピアッツァ 美唄」 には、勝手に出入りし、何時間でも観覧したり、芝生や木陰での読書はもちろん、樹木にもたれてウツラウツラと うたた寝までできる。
おまけに 「カフェ アルテ」 の水出し珈琲は、水がおいしいせいなのか、ともかく絶品である ( ただし、ここと、ギャラリー棟の ミュージアム ・ ショップの商品は有料 )。

「 ストゥディオ アルテ 」 の外観。 この左手奥に 「 カフェ  アルテ 」 の入口がある。ギャラリー棟や彫刻広場からは、いくぶん離れており、樹木と傾斜に遮られて相互に見通すことはできない。 右側の森のなかまでつづくテラスには、しばしばリスが顔をだす。
このひろびろと明るい「ストゥディオ アルテ」を拝借して、『 Viva la 活版 Viva  美唄 』の活版ゼミナールと、タイポグラフィ・ゼミナールを開催する予定である。 展覧会は、この坂の下、彫刻広場と水の広場に面したギャラリー棟の 「ギャラリー  アルテ」 で開催する。

だから来場者は、好きな場所から 「 アルテ ピアッツァ 美唄 」 にはいり、好きなところから出てゆくことになる。
そしてあちこちにさりげなく ── 実際は実に巧妙かつ趣向を凝らして ── 置いてある彫刻作品と、偶然のように出会い、発見し、邂逅のよろこびを感ずることになる。

【 YouTube Viva la 活版  Viva 美唄 音が出ます 14:39 撮影:川崎孝志会員 】

ときには、傾斜のいくぶん上部にあるために、彫刻広場(アートスペース)など、下からの視界を樹林に遮られている「彫刻ストゥディオ」と「カフェ  アルテ」 の建物に出あわないまま、彫刻広場と、ギャラリー棟の周辺を見ただけで、十分満足して帰るひともいるらしい。
それはそれで良しとするのが、この施設の特徴のようである。

来場者の多くが、ブログロールや短文ブログに、好意的な記録をのこしている。
その多くは 「 アルテ ピアッツァ 美唄 」 周辺の、豊かな樹林や、一面の芝生の鮮やかな緑と、アートスペースの 「 彫刻広場 」 と 「 水の広場 」 を中心とした、純白の大理石による彫刻との鮮やかなコントラストに目を奪われているようである。

この純白の大理石は、イタリア中西部、トスカーナ州の州都 ・ フィレンツェ郊外のピエトラサンタで産出されるものだという。 彫刻家/安田 侃氏は、この白大理石をもとめて、いまもってイタリアのフィレンツェ郊外、ピエトラサンタに主要なアトリエを置いている。

春の雪解けから、晩秋の積雪までのあいだ、すなわち緑が萌えているころに、この大理石の見事なまでの白さを、ほとんどボランティアで維持しているのは「 NPO法人 アルテ ピアッツァ  びばい」 と、「 アルテ市民ポポロ 」 の皆さんである。
「アルテ市民ポポロ」 有志の皆さんは、三ヶ月に一度、この大理石をひとつひとつ丹念に洗って、水垢や汚れを落とす作業を展開するそうである。 小社社員約一名も、どうやら 「 アルテ市民ポポロ 」 になったらしい。

── NPO法人 アルテピアッツァ びばい
アルテピアッツァ 美唄は、自然と彫刻が調和する美しい空間です。 アートを通じて、地域と人、人と人、そして過去と今、未来を結ぶ場として、美唄のまちに新たな 「 時 」 を積み重ねてきました。 このかけがえのない空間を、これまでにも増して確かに支えていくために、「 アルテ市民ポポロ 」 の取り組みがスタートします。

地域の枠を越えて アルテピアッツァ 美唄 を支える思いを共通項としたコミュニティ 「 アルテ市民ポポロ 」 の誕生です。 「 アルテ市民ポポロ 」 に参加される皆さんは、この空間を揺るぎなく次代に伝えていく上で大切な役割を担うコミュニティの主役です。
“ バトンを未来へ ”
新しい絆を結ぶコミュニティの一員としてご参加くださることを心から願っています。

《 テーマ ・ カラーの設定 ―― ルネサンスをうんだまち、シエナの、シェンナ色 》

さて、ここでまた、自称 情念系 ・ 大石  薫 が、
「 今回の 『 Viva la 活版  Viva 美唄 』 テーマ ・ カラーは、バーントシェンナに決まりですね 」
とのたもうた。 そも 「 バーントシェンナ 」 とはなんぞや ?

13世紀の末、イタリア中西部、トスカーナ地方の富裕なまちのいくつかで、ひとつの潮流 「 La  Rinascita 」 が勃興した。
わが国ではそれを明治初期に訳語をあてて 「 文芸復興 ・ 学芸復興 」 としたが、やがてフランス語由来で、それが英米語を経由した 「 Renaissance,  ルネサンス 」 と呼ぶようになった。 イタリア語 「 Rinascita 」、フランス語 「 Renaissance 」 を直訳すると、いずれも 「 再生 」 である 。

北海道美唄市出身の彫刻家/安田 侃氏が、ルネサンス発祥の地のひとつとされる、トスカーナ州フィレンツェ郊外にアトリエを置いていることは前述した。
イタリアにいってフィレンツェをたづねるには、ミラノから、あるいはローマから、電車でフィレンツェに入ることが中心である。

電車がトスカーナ地方に入ると、車窓からみえる風景がかわり、ものなりが豊饒で、市民生活もゆたかにみえる。 それよりなにより、まちの色彩はろばろとひろがって、あかるくなる。 北部のミラノやヴェネツィアとも、また首都のローマとも、まちの色彩がおおきく異なることにおどろく。

つまりほかのまちでみる、くすんだ灰色か、おもい暗褐色の屋根瓦や壁面とは異なって、このあたりの屋根瓦や壁面は 「 シェンナ 」 という名の、明るい朱色というか、明治初期のわが国の煉瓦色を、もうすこしおだやかにしたような、あるいは鉄錆びたような朱色の色調が中心となる。
それがまた、風雨にさらされ、古さびて、独特な軽快さと、明るさとなって、味わいゆたかな景観を形成している。
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イタリア中西部、トスカーナ州 州都 「 フィレンツェ Firenze 」 は、ふるくから地中海貿易と金融業によって財をなした、メディチ家などの富の蓄積があり、13世紀末から次第にルネサンスをもたらしたまちのひとつである。 こんにちでも観光名所として、世界中からの観光客が絶えないまちである。 人口およそ36万人。

州都 フィレンツェの南方 およそ50キロほどのところに 「 シエナ、シエーナ  Siena 」 のまちがある。
現在の人口はおよそ 5 万5000人ほどの中都市であり、中世の姿をとどめる旧市街は 「 シエナ歴史地区 」 として世界遺産に登録されている。 

 シエナは、中世には金融業でさかえた有力都市国家であり、13世紀から14世紀にかけて最盛期をむかえた。 このころのシエナはトスカーナ地方の覇権をフィレンツェと競い、たびたび武力衝突もみた。 またその経済力を背景としてルネサンス期には芸術の中心地のひとつであった。
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ここからはなしがすこしく厄介になる。 まちの名前と、色の名前である。 この、まちの名、顔料の名、色の名前は、似ているだけに混同されやすい。
わかりにくければ、それぞれ Wikipedia にリンクを付与したので、参照していただきたい。

「 シエナ、シエーナ   Siena 」 のまちから産出した岩を砕いて、それを原料とした天然顔料を「 n 」 をひとつ足して 「 シェンナ   Sienna 」 という。
「 シェンナ 」 はまた、天然顔料素材の名であり、その独特の色味から 「 色の名前 」 でもある。

「 シェンナ 」 は、人類がもっともふるくからもちいた天然顔料の一種であり、ふるい洞窟の壁画などにも 「 シェンナ 」 の使用の痕跡をみることができる。
「 シェンナ 」 の名前の由来は、「 シエーナ, シエナ 」 から産出した岩をもちいたことによる。
「 シェンナ 」 は、水和酸化鉄を主成分とし、ケイ酸コロイドと、少量のマンガンを含む、天然の岩を原料とする。 いくぶん黒味を帯びた、黄褐色の顔料である。

天然顔料の 「 シェンナ 」 には、焼結していないものと、焼結したものとがある。
その顔料は 日本工業規格 JIS でも 「 色名 」 として定義され、JIS 慣用色名として 「 マンセル値 」 によって定義されている。

◯ 焼結していないもの ── 「 ローシェンナ row sienna 」。 黄色味のつよい色をしている。
   ローシェンナ ( JIS 慣用色名 )     マンセル値 4YR 5/9
◯ 焼結してあるもの ────「 バーントシェンナ  burnt sienna」。 酸化第二鉄を主成分とした赤褐色の顔料としてもちいられる。
   バーントシェンナ ( JIS 慣用色名 )        マンセル値 10R 4.5/7.5  

さて…… 、彫刻家 ・ 安田 侃氏がもたらした 「 シェンナ 」 は、「 ローシェンナ 」 なのか 「 バーントシェンナ 」 なのか、その記録は 「 アルテ ピアッツァ 美唄 」 の広報物には見あたらない。 どうもその双方を行きつ戻りつしているようにおもえるが確証はない。
安田 侃氏はどうやらやつがれと同年のうまれらしい。 そして7-8月には、しばしば美唄のアトリエ 「 ステゥディオ アルテ 」 にあらわれるようである。 できたらご本人に伺いたいものである。

 [初出:花筏 Viva la 活版 Viva 美唄 Ⅱ 準備着着進行中 !? 2013年03月15日]

【 SAYOUNARA 】 タイポグラファ:ヘルムート・シュミットさんが逝去されました

DSCF5640ヘルムート・シュミット Helmut Schmid
1942年02月01日-2018年07月02日 行年76

タイポグラファのヘルムート・シュミットさんが、去る07月02日早朝午前07時40分、急性心不全のため逝去されました。ここに皆さまに謹んでご報告いたします。
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あまりに突然の訃報であり、また、ご一報をいただいたときから、大げさにしたくないとのご家族のご意向で、近しい友人・知人にもお知らせができないまま、取りいそぎ07月03日[火]、なにはともあれ大阪府吹田市のご自宅に、お別れに駆けつけました。

本当に眠っているように穏やかなお顔でした。
おもえばタイポグラフィの同志として40年余のおつき合いでした。さびしくなります。 合掌

【復活転載】こんな時代だから、金属活字も創っています! コレダ ! カタ仮名専用活字ガ復興シマシタ {アラタ 1209}

こんな時代だから、金属活字も創っています!
コレダ !   カタ仮名専用活字ガ復興シマシタ
アラタ 1209 New Products

本稿は2008年に「朗文堂 type cosmique 」にアップロードされ、いまも存在している記事です。
このたび NECKTIE design office 千星健夫氏による、あたらしい活字母型製造法として、「コンピューター数値制御切り削り加工 ── Computer Numerical Controlled Cutting」(CNC)が一定の成果をあげ、「 NECKTIE design office  Works New Type Matrix 」に報告がなされました。

tsukiji5_02CNC方式活字母型 五号ひら仮名

それを受けて、サラマ・プレス倶楽部/活版アラカルト「【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-17{展示報告 ①}[サラマ・プレス倶楽部会員]千星 健夫{新技法による活字母型の試作と活字鋳造}── ちいさな一歩、おおきな成果」と題して、やはり皆さまにお知らせいたしました。

あわせてサラマ・プレス倶楽部では、長年お世話になった「機械式活字父型・母型彫刻機」、いわゆるベントン彫刻法に関する既発表記事をまとめる作業にあたっています。
その一環として、どういうわけか旧アダナ・プレス倶楽部 → サラマ・プレス倶楽部のウェブサイトに詳細報告がなかった本稿を「朗文堂 type cosmique 」から収録し、若干の補整を加えて、サイト内検索に便利な「活版アラカルト」に掲載いたしました。
どうかこうした意のあるところをおくみとりたまわり、ご愛読のほどお願い申しあげます。

アラタ 1209 天地 12 pt., 左右 9 pt.
サラマ・プレス倶楽部 特製文選箱入フォント・スキームセット
arata1209
アラタ 1209 天地 12 pt., 左右 9 pt.
サラマ・プレス倶楽部 特製文選箱入フォント・スキームセット 29,400 円[税別]
fair-card

サラマ・プレス倶楽部は、活字版印刷術のよきルネサンスを願って、意欲ある活字鋳造所と協力しながら、適切なフォント・スキームにもとづいた新鋳造活字を提供しています。
しかし、書体とサイズ毎に膨大な数量となる漢字活字を揃えるためには、やはりユーザーの高負担となります。また、必要のたびに活字をバラ(単品・1 本売り)で購入すると、1 本あたりの単価は無視できないほどの高額になってしまいます。

金属活字が、ある意味では追いこまれながらも、あらたな意義と役割をもって再興への歩みを進めている現代、若干の窮屈は承知の上で、カナモジ完結書体の金属活字化に着手して、さらに活版ルネサンスを進展させるために、日本語表記をできるだけ効率よく、しかも低予算で組版できる金属活字書体として「アラタ 1209」を開発しました。

カタ仮名とひら仮名の歴史を検証する
カタ仮名は仮名文字のひとつで、ひとまとまりに発音される最小単位の音節(syllable)からなる音節文字(syllabograph, syllabogram)です。阿 → ア、伊 → イ、宇 → ウ、久 → ク、己 → コのように、漢字の一部分(片)をとってつくられた文字記号で、奈良時代から平安時代初期に、漢文読み下しのための「漢文訓点」にもちいられました。
縦組みの漢文の右脇に付与された一種の記号でしたから、多くのキャラクターが左向きなのが片かなの特徴です。当初は流派もあり、さまざまな字体がありましたが、平安末期にはほぼ現行のものにちかい字体となって、こんにちにいたっています。

いっぽう、ひら仮名は、やはり平安初期に漢字の草体の仮名をさらにくずしてつくった音節文字です。おもに女性(おんなで)がもちいたので、女手、草仮名などとよばれ、おおくの異体字がありました。「ひらがな」の称は後世のもので、字音と形象が定まったのも戦後で、文字の歴史からみるとつい最近のことでした。

カタ仮名は、現在ではおもに、外来語の表記や擬音語の表記に多くもちいられていますが、わが国の文字の歴史を振り返り、文字形象をあらためてみると、簡素で、判別性にもすぐれ、独立した音節文字としての長い歴史と体系をもっていることがよくわかります。
katakana

いまから買いそろえると、金属活字はやはり高負担になりがちです。
サラマ・プレス倶楽部は、活字版印刷術のよきルネサンスを願って、意欲のある活字鋳造所と協力しながら、適切なフォント・スキームにもとづいた新鋳造活字を提供しています。しかし、書体とサイズ毎に膨大な数量の漢字活字を揃えるためには、やはりユーザーの高負担となることが避けられません。
また利便性が特徴のパソコン用デジタルタイプをみると、明治以来営々と重ねられてきた、使用頻度の低い漢字使用の抑制や、字体統一への努力が軽視され、異体字を含めて限りない字種の増殖がつづいています。

そんないま、必要のたびに活字をバラ(単品)で購入すると、1 本あたりの単価は無視できないほどの高額になるのも事実です。それではせっかく新芽を吹きだしたわが国のプライヴェート・プレスの進展にとって大きな障害となりかねません。
font-schemeキャラクタ数の少ない欧文活字にくらべ、漢字を中心に圧倒的にキャラクタ数の多い和文活字の新設備は、活版ユーザにとっては高負担になりがちです。

コンピュータの利便性が低かった時代に 最初に採用された日本語活字
I T 時代とよばれ、栄耀栄華をきわめているコンピュータですが、その開発初期はあくまでも演算機能が中心でした。それが次第に機能が拡張され、清打ちタイプライター、あるいは DTP システムの原型ともいうべき IBM72 という、簡便な記憶機能と演算機能を備えたタイプライターが1961 年に発売され、爆発的なヒット商品となりました。

IBM72 にはさまざまな機種が登場し、日本語対応も求められましたが、そこで最初に採用されたのが故 ミキ イサム氏によるカタ仮名活字だったことは画期的でした。ついで旧日本国有鉄道が、新幹線などの指定席用に採用した「日立データタイプライター(通称マルス)」にも、ミキ イサム製作のカタ仮名と、追加文字として、欧文・数字・特定漢字36キャラクターが採用され、長らく「緑の窓口」などで使用されました。

また、かつての高速通信の手段であった電報は、カタ仮名のみの、できるだけ少ないキャラクターで、簡潔に情報を伝える文体が発達していました。「チチキトク ウナ カエレ」のような、「ウナ電」とよばれた至急電報(英語で至急の意を表す urgent のはじめの 2 文字のモールス符号が、仮名の「ウ・ナ」に相当することから名づけられました)や、春の大学入学試験の時期には、正門脇に学生アルバイトによる「電報受付特設コーナー」が設けられて、合格をあらわす「サクラサク」や、不合格をしめす「サクラチル」に、一喜一憂した時代もさほど昔のはなしではありません。
このようにカタ仮名特有のコンパクトで利便性に優れた機能が、かつては多くの用途に利用されていました。森川龍文堂カナモジカイは 1920 年 11 月 1 日、山下芳太郎、伊藤忠兵衛、星野行則らによって「假名文字協会」として大阪市東区に設立されました。その活字鋳造を担ったのは、おもに大阪「モリカワ リョウブンドウ/森川龍文堂」でした。

このパンフレットは故ミキ イサムから直接提供をうけたもので、1935 — 40 年ころの製作とみられます。収録書体は、平尾善治、猿橋福太郎らのカモノジカイ会員の製作によるカタカナと、稲村俊二の「スミレ」、松坂忠則の「ツル」などです。ミキ イサムは「ツル」を高く評価しており、ミキ イサムのカタカナのエレメント、形象には「ツル」からの影響が顕著です。

もっとも定評ある「アラタ C」をベースに「アラタ 1209」を創りました
このような歴史と現状を踏まえ、さらに活版ルネサンスを進展させるために、日本語表記をできるだけ効率よく、しかも低予算で組版できる金属活字書体としてサラマ・プレス倶楽部が着目したのが、前述したミキ イサムによる「カタ仮名活字 アラタ C」でした。

「カタ仮名活字」は前述のように、長い歴史を有し、多方面の用途を担ってきました。なかでも「アラタ C」は、適度な黒みと、欧文書体のように明確なラインが設定されており、ウエセンから突起したウエエダという突起部をもつことが特徴です。また判別性に優れた書体として評価が高く、さまざまな分野で用いられていました。

arata-c20180409133938_00001金属活字がある意味では追い込まれながらも、あらたな意義と役割をもって再興への歩みを進めている現代、朗文堂 サラマ・プレス倶楽部では、若干の窮屈は承知の上で、カナモジ完結書体の金属活字化に着手いたしました。そしてそのために、まずもっとも定評のあるカナモジ書体である「アラタ C」のライセンスを、朗文堂 サラマ・プレス倶楽部が株式会社モトヤより取得いたしました。

かつてモトヤでは「アラタ・サカエ・アキラ・クレハ・アラタ(ヒラガナ 1962)」などの書体を金属活字で供給していましたが、時代の趨勢によって、金属活字、パターン、活字母型などはすでに処分されていたため、デジタルデーターの支給をうけるという形でした。
それをもとにサラマ・プレス倶楽部で正確な原字版下を作成し、亜鉛凹版による活字パターンの作成を経て、ベントン型彫刻機をもちいて活字母型の彫刻をおこなうという、1950-70年代の金属活字全盛期さながらの技法や、工程そのものを復活・展開させる試みとなりました。

サイズはユーザーの利便性を考慮し、天地 12 ポイント、左右 9 ポイントとして、一部の約物類は既存の 12 ポイントのものを流用できるように配慮しました。

「アラタ 1209」はお求めやすいフォント・スキームでの販売です。
このようにして、21 世紀になってはじめて誕生した本格的な文字セット活字の創造には、それなりの困難と障害がありました。しかしそれらはライセンス供与社の株式会社モトヤをはじめ、協力企業各社の支援を受けながら、ひとつひとつ乗り越えていきました。

そしてここに「アラタ 1209」と名づけられたあらたな金属活字が誕生しました。「アラタ1209」は朗文堂 サラマ・プレス倶楽部の専売品で、使用頻度の高い「ア・イ・カ・ノ」などの字種は多く、「ヰ・ヱ・ヴ・ヮ」などは少ない字種配当表を作成し、1 フォントが文選箱 1 箱に納まるように構成した、独自の「カタ仮名フォント・スキーム」を採用しています。

懐かしいのに新しい、最新の金属活字書体「アラタ 1209」を、皆さまぜひともご愛用ください。
「アラタ 1209」12 ポイント 全キャラクター
character_arata1209miki-isamuありし日のミキ イサムさん
1971 年(昭和 46 年 3 月 10 日)カナ ノ ユウベ ニテ

原字製作者プロフィール:ミキ イサム 1904 — 1985 年
明治 37 年 — 昭和 60 年。旧制和歌山中学校卒。東京美術学校(現東京藝術大学)彫刻科卒。研究科修了。この間財団法人カナモジカイに入会。彫刻家の道を歩みながら、視覚障害者対象のカナ・タイプライターの研究開発に従事する。

第二次世界大戦終結後、凸版印刷株式会社に入社。板橋工場ベントン彫刻部に 1959 年(昭和 34)定年退職時まで在職。その後モトヤの古門正夫前社長の委嘱により、1949 年にご子息の名前を冠した「アラタ(カタカナ)」を発表。同社には「アラタ・サカエ・アキラ・クレハ・アラタ(ヒラガナ 1962)」などの金属活字書体をのこした。

1967 年(昭和 42)に写真植字機研究所(現:株式会社写研)の依頼を受けて「アラタ・ホシ・クレハ・サカエ」などの書体を写植文字盤書体とした。

その間、財団法人カナモジカイ理事、美術部長を歴任した。それ以降も IBM72 用カナ書体、国鉄乗車券用に日立データタイプライター書体などの開発に従事した。
なお、カナモジカイの精神に則り、ご本人はその使用を避けられていたが、本名の漢字表記は「三木凱歌」であった。

ライセンス供与・監修/株式会社モトヤ 原字製作/ミキ イサム 資料協力/ミキ アラタ
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【「平野富二生誕の地」碑建立有志会】愈〻建碑に向けて募金活動を開始 皆〻さまのご芳志をたまわりますよう

df829f0c4237ed2ec9832e2c5b3207cf-825x510──────────

「平野富二生誕の地」碑 建立 募金ご支援のお願い

建設予定地の地権者である長崎市と長崎県による慎重なご調査・ご検討により、予定地の「長崎県勤労福祉会館(下写真)に当碑を建立することについてのご了解が得られました。

* アイキャッチ画像:明治36年版東京築地活版製造所『活版見本』電気版ゟ採取

長崎県勤労福祉会館(長崎県長崎市桜町9-6)

今年は明治150年にあたり、洋式造船と活版印刷に代表される明治産業近代化のパイオニアである平野富二を記念する石碑を建立できることは意義あることと存じます。
由緒のある地に石碑を建立し、『「平野富二生誕の地」碑 建立記念祭』を行うべく準備を進めており、皆様から募金をお願いする段階になりました。
皆様のご芳志を賜りたく、ここにお願い申し上げます。

建碑にいたる経緯はこちらよりご確認いただけます
               → 「平野富二生誕の地」碑建立 趣意書
    → 「平野富二 生誕の地」確定根拠

!cid_A314365F-9172-4F25-8364-B164845894BF!cid_E50C4FFE-0BCA-4846-B1E8-D44846E82CE8【プリント用 PDF データ】(別タブにて開きます)
「平野富二生誕の地」碑 建立 募金ご支援のお願い
「平野富二生誕の地」碑 建立のための募金要領

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{源氏物語絵巻をめぐって} 五島美術館所蔵 国宝「源氏物語絵巻」+モリサワ2018カレンダー+二千円紙幣

☆ 本稿は2018年4月30日{活版アラカルト}に掲載した。{活版アラカルト}は更新があわただしく、また五島美術館の会期が終了したため、5月07日に{花筏}に収録した。
五島美術館

20180510211832_00007 20180510211832_00008五島美術館
[館蔵]春の優品展 ── 詩歌と物語のかたち  ──展示期間終了しました   
期  間   2018年3月31日[土]─ 5月6日[日]
休  館  日   毎月曜日(4月30日は開館)、5月1日[火]
開館時間   午前10時─午後5時(入館は午後4時30分まで)
入  館  料   一般1000円/高・大学生700円/中学生以下無料
──────────
館蔵品の中から、詩歌や物語を題材とした書画の名品約五十点を選び展示(会期中一部展示替あり)。
名歌を書した平安時代の古筆、歌人の代表歌と姿を描いた歌仙絵のほか、物語絵、琳派作品など、絵画と書そして言葉がもつイメージが響きあう美の世界を展観します。

* 特別展示予定/国宝「源氏物語絵巻」
4月28日[土]─ 5月6日[日](5月1日[火]は休館)
【 特設サイト:五島美術館コレクション 源氏物語絵巻 】
画像をクリックすると解説画面に移動します。

【詳細情報: 五島美術館 】
{既発表関連記事:【展覧会】五島美術館 館蔵春の優品展 ── 詩歌と物語のかたち 3月31日[土]─ 5月6日[日]}2018年3月20日

☆     ☆     ☆

モリサワカレンダー二〇一八「かな語り」

国宝「源氏物語絵巻」(五島美術館)より
企画・発行 ───────────  株式会社モリサワ
制作 ─────────────── 株式会社 DNP アートコミュニケーションズ
監修・解説 ─────────── 名児耶 明
アートディレクション ──── 勝井三雄
企画協力 ────────────  四辻秀紀・西岡康宏 

DSCN7669DSCN7663◎モリサワカレンダー二〇一八 睦月・一月
 「源氏物語絵巻」五十四帖のうち「鈴虫 一」の詞書き第一紙
  この詞書きは監修者と企画協力者のお名前をみると空恐ろしくなるが、
  蛮勇をふるって{続きを読む}に稿者による釈読をしるした。
◎モリサワカレンダー二〇一八 卯月・四月
 「源氏物語絵巻」五十四帖のうち「鈴虫 一」の詞書き第三紙左側の詞書きは、
 「おほかたの秋をはうしとしりにしを ふりすてかたきすゝむしのこゑ」
  と詠んでみた。もとより自信はない。
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◎モリサワカレンダー二〇一八 睦月・一月 部分
アートディレクションにあたられた勝井三雄氏は「の」にこだわりがあるのかも知れない。
既刊書『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』でも、装本部に「の」を効果的に用いていた。
万葉仮名では左から順に「能 → の」、「乃 → の」、「農 → の」とあらわされた。
万葉仮名が「変体仮名」という奇妙な名称で呼ばれるようになって久しいものがある。
稿者はできるだけ「ひら仮名異体字」とあらわすようにしている。そして、できるだけ万葉仮名の釈読の労をいとわぬつもりでいるが …… 。

【詳細: 株式会社 モリサワ 】

☆     ☆     ☆

二千円紙幣にみる『源氏物語絵巻』
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二千円紙幣
二千円紙幣は、現在も流通している日本銀行券のひとつであるが、印刷製造は中断している。
第26回主要国首脳会議(沖縄サミット)と、西暦2000年(ミレニアム)をきっかけとして、1999年(平成11)当時の小渕恵三内閣総理大臣の発案によるが、同氏の急逝のため、2000年(平成12年)7月19日に森内閣の元で発行された。

二千円紙幣が発行されていた期間のうち、2000年(平成12年)から2004年(平成16年)の間に、製造元が「大蔵省印刷局」から「財務省印刷局」になり、さらに「独立行政法人 国立印刷局」に変わっているが、二千円紙幣は大蔵省時代にだけ製造されたため「大蔵省印刷局製造」のものしか存在しない。

二千円紙幣の表面には、沖縄の守礼門が描かれ、裏面には『源氏物語絵巻』第38帖「鈴虫」の絵図と詞書、および作者の紫式部の肖像、光源氏、冷泉院が描かれている。
紙幣の偽造防止の見地からみると、二千円紙幣は深い彫りこみのある凹版印刷で、紙幣に転写されたインキを触って凹凸が分かるほど分厚くインキが盛り上げられている、凹版印刷の傑作である。
詞書の読みくだしをふくめ、ウィキペディア 「二千円紙幣」に丁寧な解説がある。そちらをご参照たまわりたい。

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【上映】チェコセンター プログラム 映画『 イカリエ-XB1 』(5月19日より全国順次公開)+ S T O R Y

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チェコセンター プログラム
映画『 イカリエ-XB1 』(5月19日より全国順次公開)
1963年にチェコスロヴァキアではじめてつくられた本格的SF映画『 イカリエ-XB1 』(インドゥジヒ・ポラーク監督)のデジタル・リマスター版が5月より全国で順次公開予定です。

────────────────
『 イカリエ-XB1 』デジタル・リマスター版
2018年5月19日(土)新宿シネマカリテ ほか全国順次公開予定
最新情報は公式ウェブサイトをご確認ください。
http://ikarie-jp.com/
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【展覧会】 東京大学総合研究博物館 特別展示「赤門」— 溶姫御殿から東京大学へ+新宿餘談

東大総研赤門展東京大学総合研究博物館
特別展示 「赤門」— 溶姫御殿から東京大学へ」
2017年3月18日-5月28日[日]
入館無料  お問い合わせ:ハローダイヤル 03-5777-8600
──────────
東京大学本郷キャンパスの大半は加賀百万石、前田家本郷邸跡地と重なっている。
したがって、数〻の加賀前田家ゆかりの歴史的遺構が本郷キャンパスの景観をいろどっている。中でも最も著名なのは旧加賀屋敷御守殿門、すなわち赤門であろう。

現在ある赤門は文政10年(1827)、徳川家斉の息女溶姫が前田家13代藩主、斉泰へ輿入れするにあたって建立された。以来、190年、本郷邸の歴史の半分近くもの間、赤門は、江戸の終焉から東京大学の創設、発展の歴史を見守ってきた。
加えて、2017年は本郷邸開設400年の節目の年にあたり、かつ、東京大学設立140周年の節目の年にあたる。これらを機に、赤門という国指定重要文化財が語る本郷邸の歴史を提示するのが本展である。

近年著しく進展した本郷キャンパス埋蔵文化財の発掘、歴史文書の集成、そして本学施設部記録の調査。それらの成果をあわせ、赤門の由来を本郷邸開設にまでさかのぼって知る機会としたい。

【 詳細 : 東京大学総合研究博物館

{ 新宿餘談 }
800px-University_of_Tokyo_Tetsumon東京大学には正門・赤門などのほかにも、いくつかの著名な門がある。森鷗外や夏目漱石の時代、帝国大学(現:東京大学)の正門は<鉄門>であった。
この門は同大の源流のひとつ、神田和泉町「種痘所・西洋医学所・医学所」の遺構を移築したのであった。
(「医学部付属病院〔鉄門〕再見記念式典」
『東大病院だより No.54』 PDF 1.50 MB)。

東大医学部は安政5年(1858年)に、長崎や大阪でオランダ医学を学んだ伊東玄朴を中心とする82名の者の寄附金で設立された〝お玉ヶ池種痘所〟をルーツとする(中略)。すでに種痘は全国で実施されていたが、江戸では江戸城の将軍の御典医の漢方学派の多紀グループが反対したためにそれまで実施できなかった。

これはジェンナーの種痘のことで、日本中に猛威を振るった天然痘の予防ワクチンのことである。伊東玄朴らは拒否され続けた種痘所が遂に設立が認められた年である。しかし〔お玉ヶ池種痘所は設立後〕たった6ヶ月で火事で類焼した。
佐倉の豪商の援助で、すぐに現在の三井記念病院のある下谷の和泉橋通りに再建され、〝西洋医学所〔種痘所・医学所〕〟と名称を変えた。医学所は教育・診療をかねた医学校の前身であった。医学所には鉄の門扉が取り付けられていたので、江戸町民はこの医学所そのものを鉄門と呼んだ。

明治10年に東京大学が10万坪もある加賀藩のお屋敷跡に設立された。しかしすべての学部が同時に出来たのではない。一番目にやってきたのが医学部である。
大学構内の南側に医学部本館、病院、教室が置かれた。無縁坂寄りに第4通用門があって、ここから入ると富山藩の御殿があった。この門は明治12年医学部の開業式が行われたときには表門と呼ばれた。この表門は鉄製の美しいデザインで鉄門と呼ばれるようになった。
(上掲『東大病院だより No.54』より抜粋。同資料は豊富な図版も掲載されている)

したがって鷗外や漱石がのこした作品には、しばしば無縁坂とあわせて<鉄門>が登場する。現在は改装されて昔日の面影は少ないが、不忍池から上野へとくだる無縁坂にそって、東大医学部中央診料棟 2 の前にある。
「赤門展」とあわせて、ぜひおたずねいただきたいものである。

活版凸凹フェスタ*レポート08

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本情報のオフィシャルサイトは アダナ・プレス倶楽部ニュース です。
ここ、タイポグラフィ・ブログロール《花筏》では、肩の力をぬいて、
タイポグラフィのおもしろさ、ダイナミズムなどを綴れたらとおもいます。
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5月の連休は活版三昧
作家展示:25コーナー
学校法人:5大学
企業団体展示:11企業・団体
特別企画展示 

5月3日[木・祝]-6日[日]まで全力投球 !
ご来場日が決まったら 活版ゼミナールへのご予約を !!

★毎日開催 

◆特別企画展示◆
活字版印刷術の知と技と美をご紹介いたします。
    活字版印刷術の知と技と美をご紹介いたします。
  ◎ 江川活版製造所、ハワイ MānoaPress:江川次之進関連資料の展示。
  ◎ アルビオン型手引き印刷機とアーツ&クラフツ運動
                     ──身体性をともなった造形の歓びとは
  ◎ 朗文堂 ブック・コスミイク──話題の新刊書、活版印刷実践者の定番書籍
  ◎ 朗文堂 タイプ・コスミイク──欣喜堂シリーズ、杉明朝体のデジタルタイプも                         
              樹脂凸版印刷を使用すると ─アレッ  思わぬ効果が!   

★毎日開催 

◆活版ゼミナール◆
会期中は、毎日、各種の楽しい活版ゼミナールを開催いたします。
一部に予約が必要なゼミナールもございます。ご予約のうえ、ご来場ください。
また「日展会館」は時間管理に厳格な施設ですので、定刻終了にご協力ください。

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【アルビオン型手引き活版印刷機による印刷実演】
会期中連日 適宜開催
事前予約不要 
参加費:印刷体験希望者は  1回1,800円(税込)。
見学はご自由にどうぞ。

19世紀に、英国で製造された鉄製の「アルビオン型手引き印刷機」を会場に搬入し、
写真の印刷機をもちいて、欧文大型活字(Albertus を予定)による印刷実演をおこないます。
印刷された作品はお持ち帰りいただきます。


英国/フィギンズ社、1875年製造「アルビオン型手引き印刷機」
「手引き印刷機 Hand press 」は手動で操作する印刷機の総称で、一般にはグーテンベルクらがもちいた印刷機のかたちを継承して、水平に置いた印刷版面に、上から平らな圧盤を押しつけて印刷する「平圧式」の活版印刷機です。

アルビオン型印刷機は、重い圧盤を引き上げるための、バネを内蔵した突起を頭頂部に有することが特徴で、すでに動力機が主流となった19世紀世紀末にも、ウィリアム・モリス工房や、エリック・ギルらのプライベート・プレス運動家が、五感を駆使した造形にこだわりがあって、この「アルビオン型手引き印刷機」をもちいたことが知られます。

わが国でも、東京築地活版製造所・平野富二らが、明治7年頃からこのタイプの国産印刷機を製造していたことが明らかなっています。秀英舎(現:大日本印刷)創業時の印刷機も、残存写真資料から「アルビオン型印刷機」であったことがわかります。
また、明治中期に江川活版製造所が製造した類似機を、ハワイ/Mānoa Press が所有していて、今回の《活版凸凹フェスタ》に図版参加が決まっています。

 ★ 5月3日[木・祝]開催──要予約!

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 【印刷人掃苔会(そうたいかい)ツアー2012】 
5月3日(木・祝) 13 : 00(展示会場に10分前に集合)―
15 : 00  雨天決行
定員:15名(予約制) 参加費:2,000円(税込)
「掃苔会の栞」付き


谷中霊園、通称碑文通りにある巨碑。現在もおこなわれている「左起こしの横書き」のはじまりが、大蔵官僚だった渡部欽一郎によって洋式帳簿のなかではじめれらたことを、時の大蔵大臣が碑文に撰しています。
ご案内は、タイポグラフィ学会事務局長/松尾篤史さんです。

 

 テクテク歩いて、よ~く見て、ハイ ご苦労さま!
印刷人掃苔会 参加証。熊さん活字はアメリカ製。

掃苔ソウタイとは、墓石の苔コケを掃くことで、転じて清掃・墓参りを意味します。《活版凸凹フェスタ2012》の会場「日展会館」のまわりには、印刷人が多く眠る「谷中霊園」や、お寺、印刷関連の石碑も豊富な「上野公園」などがあります。
本来の掃苔会は、勝手にどんどん不定期開催ですが、外部の皆さんをお誘いするかたちでの開催には、あまりにマニアックだとして異論がありました。ところが前回は満員御礼の盛況でした。そこで今回も「5人くらいお集まりいただければ……」と気軽にかまえています。
タイポグラフィ学会事務局長の松尾篤史さんの解説とともに、「日展会館」周辺の印刷人ゆかりの地をめぐる、とてもマニアックで、充実したツアーです。
皆さんもごいっしょに、わが国の印刷の発展に尽力した先達を偲び、石碑に刻まれた書体の秘密を解明してみませんか。

お申し込みしめきり日:4月25日(水)
〈ただし、先着順受付により定員に達ししだい、しめきりとさせていただきます〉

*参加ご希望の方は、e-mail もしくは、ファクシミリ03-3352-5160で、「活版凸凹フェスタ 掃苔会(そうたいかい) 参加希望」と明記の上、住所・氏名・年齢・当日連絡が可能な電話番号・e-mailアドレスもしくはファクシミリ番号をご連絡ください。
(お教えいただいた個人情報は朗文堂/アダナ・プレス倶楽部のみの使用といたします)。

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【花型活字を使ってオリジナルレターセットをつくろう!】
5月3日(木・祝) 
① 10 : 00―12 : 00 
② 14 : 00―16 : 00
定員:各回4名(予約制) 参加費:3,000円(税込)


花型活字と欧文活字を使って、お名前入りの素敵なオリジナルレターセットをつくりましょう。
お申し込みしめきり日:4月25日(水)
〈ただし、先着順受付により定員に達ししだい、しめきりとさせていただきます〉

*参加ご希望の方は、e-mail もしくは、ファクシミリ03-3352-5160で、「活版凸凹フェスタ 花型活字レターセット 参加希望」と明記の上、住所・氏名・年齢・当日連絡が可能な電話番号・e-mailアドレスもしくはファクシミリ番号をご連絡ください。
(お教えいただいた個人情報は朗文堂/アダナ・プレス倶楽部のみの使用といたします)。

★ 5月4日(金・祝)開催──要予約!

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 【2種類のハンドモールドで活字をつくろう!】
5月4日(金・祝)
① 13 : 00―14 : 30
② 15 : 00―16 : 30
定員:各回6名(予約制) 参加費:5,000円(税込) テキスト2種付

ハンドモールド(手鋳込みの活字鋳造器)を用いて活字鋳造の体験をおこないます。今回は、初期の活字鋳型の研究をされている元三省堂印刷の伊藤伸一さんと、タイポグラフィ学会会員の渡辺 優スグルさんのご協力のもと、2種類のハンドモールドをもちいて、活字鋳造体験を予定しています。
ひとつは、15世紀半ばに西洋式活字版印刷術を開発した、ドイツのグーテンベルクがもちいたとされる「手鋳込み式活字鋳造器」の想定図をもとに、渡辺優さんが復元したものです。

もうひとつは、伊藤進一さん所有のハンドモールドで、スミソニアン・国立アメリカ歴史博物館の学芸員で、初期活字鋳型の世界的な研究者である、スタン・ネルソンさんによって復元されたものです。できあがった活字を使って、小型活版印刷機 Adana-21J で記念カードの印刷もおこないます。

お申し込みしめきり日:4月25日(水)
〈ただし、先着順受付により定員に達ししだい、しめきりとさせていただきます〉

*参加ご希望の方は、e-mail もしくは、ファクシミリ03-3352-5160で、「活版凸凹フェスタ ハンドモールド 参加希望」と明記の上、住所・氏名・年齢・当日連絡が可能な電話番号・e-mailアドレスもしくはファクシミリ番号をご連絡ください。
(お教えいただいた個人情報は朗文堂/アダナ・プレス倶楽部のみの使用といたします)。

★ 5月5日(土・祝)開催──要予約!

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【印刷の四大版式の違いを学ぼう!】
5月5日(土・祝) 13 : 00―16 : 00
定員:8名(予約制) 参加費:5,000円(税込)
★定員に達しましたので応募締め切りとなりました。

凸版印刷の一種である「活版印刷」をより深く理解していただくためには、ほかの版式や技法に接することも重要です。
「版画工房  フジグラフィックス」の楚山俊雄さんのご協力のもと、印刷の四大版式「凸版・凹版・平版・孔版」すべての印刷体験を通して、その違いや特性を学ぶゼミナールです。

             
株式会社フジグラフィックスWebsiteより。リトグラフの作業風景。写真は楚山俊雄さん。

お申し込みしめきり日:4 月25日(水)
〈ただし、先着順受付により定員に達ししだい、しめきりとさせていただきます〉

*参加ご希望の方は、e-mail もしくは、ファクシミリ03-3352-5160で、「活版凸凹フェスタ 印刷の四大版式 参加希望」と明記の上、住所・氏名・年齢・当日連絡が可能な電話番号・e-mailアドレスもしくはファクシミリ番号をご連絡ください。
(お教えいただいた個人情報は朗文堂/アダナ・プレス倶楽部のみの使用といたします)。

★ 5月6日(日)──予約不要 

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【記念カードを印刷しよう!】
5月6日(日)11 : 00―12 : 00、13 : 00―14 : 00 内の随時
事前予約不要 参加費:無料
活字版印刷機 Adana-21J を使って記念カードの印刷を体験していただきます。
この日は最終日につき、15:00で閉場となります。ご注意ください。