月別アーカイブ: 2011年2月

朗文堂-好日録008 正月に咲くノゲシの花

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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元旦の早朝に、はつ花をつけたノゲシ。1月6日既報写真。

空中庭園で次次に花をつける現状のノゲシ

◎吾輩、風邪をこじらせて肺炎になりかかった。ヤレヤレの毎日。
風邪が治りきらない。なんとなくポワ~ンとしている。思考にどうにもまとまりがない。新春早早なさけないことはなはだしい。ヒロオカ奴で血液検査をしたら、白血球の値が異常で、軽度の肺炎と診断された。通院で点滴を受けたり、抗生物質を投与されて、どうやら回復基調になった。ところで、本日は新宿西口、東京イタ~イ病院での3ヶ月毎の定期検診にでかけた。心臓エコーの検査にはまったく問題がないとの報告を受けて安堵したが、「血液検査では白血球の値がすこし高い。どこかに炎症があるはずだ」とのウッシッ師の見立て。風邪をひいてかかりつけ医に通院したことをはなすと、風邪薬、施薬5日分の処方箋がでた。吾輩の主治医ウッシッ師はどうやら名医らしい。ギョロメで、ときおりつまらん洒落 オヤジ-ギャグ をとばすが、いいひとだ。とりあえずは任せるしかないしな。

◎「花こよみ007」での報告は《ノゲシ》というらしい。
正月の朝まだきに初花をつけた艸があった。それを2001年1月6日、本ブログロールに「花こよみ007」として紹介した。「はつ春に 咲くやこの花 名をしらず――よみし ひとを しらず」。新春第1弾のアップとあって、なんにんかのかたから情報をいただいた。この花は「ノゲシ 野芥子、もしくは ハルノゲシ」という野草、ひとによっては雑草であることを知った。ノゲシはなかなか人気があって ウキペディア にも紹介されていた。

(^o^) 吾輩と似たようなブログを書いているひとがいた!

\(◎o◎)/! ノゲシは食べられるらしい!

>^_^< 亀はノゲシが大好物らしい!

∈^0^∋ うさぎやワンコもノゲシが好きらしい!

>^_^< カピバラもノゲシが好きらしい!

ネット・サーフは不得手だが、紹介されたページはみんなのぞいてみた。ペット好きのひとが増えたことはしっていたが、世事に疎い吾輩は、ペット好きとは愛猫家と愛犬家ぐらいしか考えていなかった。ところがじつにさまざまなペットが飼育されていることに驚いた。そしてみなさんがペットにほんとうにやさしい視線をむけており、しかもWebsiteでの写真紹介が巧い。画像は鮮明だし、生き生きと情景をきりとって紹介している。さすがにこれだけは動物園の画像であったが、カピバラ紹介などは、ユーチューブの動画つきで、おおきな鼠というか兎というか、ビーバーにも似た愛らしい小動物として人気のカピバラが、ノゲシにむしゃぶりつく様をみた。こんなWebsiteをつくってみたいが、デジタル弱者のヤツガレでは当分不可能だ。なにせ写真は極めつきにヘタだしね。

空中ではプロペラのような綿毛が、地面ではジャッキのようになる?

空庭園のノゲシは、いまだに黄色の花を次次につけている。そしてときおり、綿毛につつまれた種子を空中に放つ。「ロダンの椅子」で所在なく文庫本を読んでいたところ、誌面にノゲシの種子がポトリと落下 モトイ 落花した。なにせポワ~ンとしているから、種子に視線を移動してじっとみつめる。そのうちに種子は風に吹かれてどこかに飛んでいった。文庫本の上はお気にめさなかったらしい。

ところが「鼠のひたい」の地面に着地したノゲシの種子は、ここの地面の湿度や匂いが気にめしたのか、すぐに綿毛を足のようにして踏んばって、もう少少の風では飛ぶことがない。ポワ~ンとしながらそれをじっとみている。吾ながら寒風の吹きつのる朝っぱらから、そんな情景に見入っているとは実に暇な奴だとおもう。でもノゲシの綿毛は、気に入った地面に着地すると、すぐさまボルト&ナットのように、あるいは強力磁石のように、地面に、接着、吸着、着地することに気づいた。肺炎気味の風邪っぴきだというのに、それを飽きもせで1時間ほどじっとみていた。まるで阿呆だな。

ノー学部がまた妙なものを持ちこんだ。今回は鹿児島の土筆 ツクシ だそうである。ひょろっとした根っこを空中庭園に植えろという。土筆はスギナの子だから、狭い庭がスギナだらけになると抵抗したら、土筆とスギナは違うと反論された。とりあえず相手はノー学部出身、一応はそっちが専門だから黙っていたが、土筆はスギナの子ではないのかなぁ。信じられん。そこで作業拒否にでたら、自分でごそごそとコンビニ袋からいろいろ出して、鹿児島の土ごと小鉢に植えた。鹿児島の土壌は白砂 シラス 台地とされ、火山灰のなごりか白っぽい色をしている。桜島火山灰と富士山火山灰の違いかな。まぁ謂っても詮無いことだと放っていたら、土筆がいつのまにか芽をだしている。土筆は本当にスギナの子ではないのかもう少ししたらわかる。それまでは小さな植木鉢の中だ。

★山崎パン

ヤマザキとんかつバーガー 合格祈願つき ¥100

ともかく買い物が苦手である。だから買い物といってもコンビニぐらいしかいかない。ときおり100円ショップにも立ち寄る。たいていは意味のない、使い道のないものを買って帰る。昨年の「活版凸凹フェスタ」で、写真製版会社・真映社さんが「春の版ハンまつり」と銘打って展示してウケていた。ところで先般、吾輩、100円ショップで異な物を発見。「ヤマザキとんかつバーガー 合格祈願」である。吾輩は意外にこういう埒ラチもないものが好きである。

そこで新発見! ヤマザキ版ハン 、モトイ 山崎パンのダルマをよくみると、向かって右側の眼(つまり左目)から墨をいれて願をかけるらしい。そんなことは吾輩は知らんかった。だから既報の高崎ダルマも、川越ダルマも、向かって左(つまり右目)から墨入れをしておった。信心不足だからこうなったのか、はたまた世故にうといのか、いずれかだ。こうなるから縁起物は苦手だ。ところでまだ受験戦争は終わっていない。就職活動シュウカツも一種の試験だ。「フレ~、フレ~、受験生」である。えっ? パンの味? 100円にふさわしい味でしたよ。

本日2月23日[先負センプ]、曇天で寒い日であった。

タイポグラフィあのねのね*003『活字と機械』年賀状用活字

(^O^) いささか時季はずれですが (^O^)
年賀用活字とその名称


『活字と機械』
(株式会社東京築地活版製造所 編集兼発行人・野村宗十郎 大正3年6月)

小冊子『活字と機械』はこれまであまり紹介されなかった資料である。同書はタイポグラフィを、本来の「情報伝達術のための総合システム」としてとらえ、その活字と機械の両側面から、大正初期(大正3年、1914)におけるタイポグラフィを立体的に紹介したものである。造本データは以下のとおりである。

装  本  大和綴じを模した、いわゆる和装本仕立て
表  紙  濃茶の厚手紙 金色インキ、銀色インキほか特色使用。
シーリング・ワックスを模した登録商標「丸もにH」
寸  法 天地226×左右154mm
本 文 頁 ペラ丁合 67丁134頁(裏白頁多し)
活字版印刷、写真網目凸版印刷、石版印刷、木口木版印刷などを併用。

『活字と機械』の魅力は様々にあり、多方面からの研究に資すところがあるが、ここでは2丁4頁にわたって紹介された「年賀用活字」を紹介しよう。外周部には、本書図版ページに共通してもちいられている、いかにも大正初期らしく、アール・ヌーヴォー調の装飾枠が石版印刷(とみられる)特色によって飾られている。

現在でもいまだにその傾きがみられるが、端物活版印刷業者にとって「年賀用印刷」は、歳末最大の「稼ぎどころ」であった。町角には《年賀状印刷賜ります》のノボリがはためき、歳末風景を華やかにいろどったものである。そのため活字鋳造所はデザインに意を凝らし、さまざまな、おおきなサイズの「年賀用活字」を製造・発売して、その需要に応えた。もちろん「年賀用活字」は、活字鋳造所にとっても重要な歳末商品であった。

年賀用壹號活字

●左頁上段右より左へ順に
ゴチック形(シャデッド色版)
ゴチックシャデッド形
壹號楷書
フワンテール形
ビジヨー形
三分二フワンテール形
●左頁下段右より左へ順に
貳號装飾書體
ゴチツク形
フワンテール形
参號装飾書體
ゴチツク形
フワンテール形

●見開頁右、上段右より左へ順に
フワンテール形
ゴチックシャデッド形
ゴチック形(シャデッド色版)
蔓形
●見開頁右、下段右より左へ順に
矢ノ根形
ゴチツク霞形
唐草形
鶴形
●見開頁左、上段右より左へ順に
松葉形
笹の葉形
梅が枝形
龜形
●見開頁左、下段右より左へ順に
篆書形
やまと形
初號楷書
若葉形

年賀用三十六ポイント活字

●左頁上段右より左へ順に

ゴチック形
フワンテール形
矢の根形
梅が枝形

松葉形・笹の葉形・梅が枝形・龜形などと、和のふんいきをつたえたい――むきへの開発も目立つ。またかにも大正期らしくハイカラな名称とエスプリの効いた形象もみられる。「フアンテール形」は「FANTAIL  キンギョなどの扇型の尾、孔雀鳩」としてよいとみなす。また「ビジヨー形」は「BIJOU  宝石:装飾物」であろうか。これらは名称からして、洋のふんいきをつたえたい――むきなども開発されている。また、「年賀用活字」は書体デザイナーの技倆の見せどころでもあったので、時代の風潮や、歴史的視点から材をとったとみられる活字が多いのも特徴である。

ことしもたくさん年賀状をいただいた。ありがたいことだが、いまだに整理がつかず、年賀状に添えられた「移転通知」「電子アドレス」の変更を転記できないままにいる。そんないま、大正初期、号数制からポイント制への転換と、機械製造をより幅広く展開しようとしていた東京築地活版製造所の記録をみている。筆者の個人的見解では、そろそろわが国のタイポグラフィ研究も、活字見本帳中心主義から脱却する時期かともおもっているが、「松葉形・笹の葉形・梅が枝形・龜形」などの活字をみて、ニヤリとするのもわるくは無いようだ。

A Kaleidoscope Report 006 『印刷製本機械百年史』活字鋳造機の歴史

活字鋳造機の歴史

『印刷製本機械百年史』
(印刷製本機械百年史実行委員会 全日本印刷製本機械工業会 昭和50年3月31日)


グラフィックデザイン全般の不振をささやかれるなかで、どういうわけか、最近タイポグラフィに関心を寄せる若者が増えてきた。まことにうれしいことである。
タイポグラフィ560年余の歴史は、金属活字のなかで誕生し、その揺籃期 ヨウランキ-ユリカゴノ-ジダイ を金属活字のなかですごしてきた。すなわちタイポグラフィとは「工芸 Handiwork」であり、タイポグラファとは「技芸者」であった。

ところが、わが国の近代タイポグラフィは、欧州諸国が産業革命を達成したのちに、近代化を象徴する「産業・工業 Industry」として海外から導入され、それまでの木版刊本技芸者を駆逐して、急速に発展を遂げたことにおおきな特徴がある。
わが国の木版刊本製作術は、おもに板目木版をもちいた版画式の複製術で、その歴史といい、技術水準といい、端倪タンゲイすべからざる勢いがあった。
それでも明治初期に招来された「金属活字を主要な印刷版とする凸版印刷術」が、ひろく、「活版印刷、カッパン」と呼ばれて隆盛をみたあとは、従来技術の木版刊本製作術は急墜した。それにかわって近代日本の複製術の中核の役割は「活版字版印刷術、活版印刷、カッパン」が担ってきた。

本論では詳しく触れないが、木版刊本から活字版印刷へのあまりに急激な変化の背景には「活字」の存在があった。江戸期木版刊本の多くが、徳川幕府制定書体の「御家流字様」と、その亜流――連綿をともなった、やや判別性に劣る字様(木版上の書体)――によって刻字されていたことが、「楷書活字」「清朝活字」「明朝体」に代表される、個々のキャラクターが、個別な、近代活字に圧倒された側面を軽視できない。
ここではその「個々のキャラクター ≒ わが国の近代活字」を「どのように」製造してきたのか、すなわち、活字製造のための機器「活字鋳造器、活字鋳造機」と、その簡単な機能を紹介したい。
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活字は鋳物であった。鉛を主体とし、スズ、アンチモンの三合金による鋳造物、すなわち重量も質量もある物質として確固として存在した。そして衰退を続けているとはいえ、いまだに活字鋳造がなされ、活字を主要な印刷版とする凸版印刷術、タイポグラフィは厳然として存在している。

もっとも素朴な活字鋳造器、活字ハンド・モールド(復元版・伊藤伸一蔵)

1590年(天正8)イエズス会士ヴァリニャーノが、わが国にはじめて西洋式活字版印刷機をもたらした。ヴァリニャーノはわが国に活字版印刷のインフラが未整備なことを知り、のちにその「技術者」を同伴して再来日したとされる。
そして1591年からのおよそ20年の間に、島原・天草・長崎などで「活字版印刷」を実施した。俗称キリシタン版の誕生である。
キリシタン版には、宗教書のほかに、『伊曾保 イソホ 物語』『日葡 ニッポ 辞書』など30種ほどが現存している。そのなかには日本語を組版するための活字、あるいは日本国内で活字原図製作・活字母型製造・活字鋳造を実施したとみられる活字を使用した書物もある。

したがってヴァリニャーノが伴ってきた「技術者」とは、「印刷術」だけでなく、活字父型製造(パンチ)、活字母型製造(マトリクス)・活字鋳造(タイプ・キャスティング)の技術にも長けていたとみることができる。
キリシタン版に関する文献は少なくないが、
「どんな手段で原寸の活字原図を製作し、どんな手段で活字父型・母型を製造し、どんな活字鋳造機器をもちい、どのように和文活字をつくったのか」
こうした角度からの研究はまだ未着手な部分が多い。

16世紀世紀末に伝来したキリシタン版は、1612年幕府直轄領におけるキリスト信教禁止令、1614年高山右近・内藤如安らのキリシタンを国外追放、1630年キリスト教関係の書物の輸入禁止など、一連の徳川幕府によるキリスト教禁止令によって、江戸初期に廃絶された。
すなわち17世紀前半において、イエズス会士ヴァリニャーノらがもたらした、西洋式活字版印刷機と活字製造機器は、半世紀の歴史を刻むことなく失われた。
このヴァリニャーノらがもたらした活字と印刷機による「印刷された書物 ≒ キリシタン版」はわずかに現存するが、その印刷機はもちろん、活字一本でも発見されたという報告は管見に入らない。したがってそうとう徹底した処分がなされたものと想像される。

しかし、幕末から明治初期、わが国近代タイポグラフィの黎明期に導入された「活字鋳造機器」は、16世紀世紀末のキリシタン版の時代と大差がない、きわめて素朴な活字鋳造器としての「ハンド・モールド」であったとみてよいであろう。
しかしキリシタン版と同様に、その伝来の正確な時代、ルートは判明しない。

わが国ではかつて「ハンド・モールド」を、中央からふたつに割って、そこから活字を取り出す形態から「割り型、割り鋳型、手鋳込み器」などと称した。そして「ハンド・モールド」からできた活字を、その地金の注入法からとって「流し込み活字」と呼んだ。

「ハンド・モールド」はきわめて簡便な「道具」であったので、「機械」とはされず、ふつう「器」の字があてられるのが特徴である。その「ハンド・モールド」は、キリシタン版の時代を別としても、江戸時代の後期には、すでに、江戸、長崎、鹿児島などに伝来していたとみられ、一部は、東京/国立博物館、長崎/諏訪の杜文学館(移動して長崎歴史博物館に収蔵)、鹿児島/尚古集成館などにその断片が存在している。

文書記録にはこのように紹介されている。
「嘉永4-5年[1851-2]の頃、即ち本木昌造モトギ-ショウゾウ先生の28-9歳の時、俗に所謂イワユル流し込みの活字を鋳成したのである」(『開拓者の苦心 本邦 活版』三谷幸吉 津田三省堂 昭和9年11月25日、以下〔三谷〕)。
三谷幸吉が紹介したこの記録には、昭和10年代から多くの異論があった。すなわちこの「流し込み活字」でつくったとされる『蘭和通辯 ランワ-ツウベン』なる書物が現存しないためであり、また幕府の施設であった「蕃書調所 バンショ-シラベショ」などの諸機関が、地方官である本木昌造らより先行して活字を鋳造したとする、おもに川田久長らが唱えた説との対立であった。

しかしながら、筆者は本木昌造とそのグループが、嘉永年間、すなわち19世紀の中葉に、「割り鋳型をもちいて流し込み活字」をつくったとする説にさほど違和感を覚えない。もちろん稚拙な、「活字ごっこ」にちかいものであり、当然『蘭和通辯』なる書物をつくることもできないほどの、児戯に満ちたものであったとみるべきであるという前提においてである。


明治の開国ののち、長崎の本木昌造とそのグループ、そしてその後継者の平野富二/平野活版所と、工部省勧工寮のふたつのグループの活字鋳造は、「ポンプ式ハンド・モールド」を上海から輸入して鋳造したとする記録を散見する。たとえば三谷幸吉はこのように紹介している。
「蜷川氏は平野富二氏と知己の間柄であったが、活字の製法は工部省で習得した。さて工部省の製造法は手鋳込みポンプ式であった」〔三谷、p108、p133〕。

筆者も平野活版所(のちの東京築地活版製造所)と、工部省勧工寮(現在の国立印刷局)は、その活字の製造量と、両社の価格設定からみると、ハンド・モールドで活字鋳造したとするのには無理があり、おそらく簡便な改造機、「ポンプ式ハンド・モールド」をもちいたものとみる。
ところが、この「ポンプ式ハンド・モールド」の実態がまったくわからないのが実情である。わが国での名称も、記録には「手鋳込みポンプ式、手鋳込み活字鋳造機」とさまざまにしるされている。

おそらく明治最初期に導入された「道具ではない、活字鋳造用の機械」とは、「ポンプ式ハンド・モールド」であったとしてよいとみなすが、これは外国文献でも、管窺に入るかぎり、『Practical Typecasting』(Rehac Theo, Oak Knoll books, 1993)にわずかに写真紹介されているだけである。しかもレハックは、
「この簡便な活字鋳造機は、実機は現在米国に存在しないし、写真もスミソニアン博物館蔵のこの写真一葉だけである」
とする。わが国には実機はもとより、写真も存在しない。

以上を踏まえて、「活字鋳造機の歴史」『印刷製本機械百年史』(印刷製本機械百年史実行委員会 全日本印刷製本機械工業会 昭和50年3月31日 p92-97)を紹介したい。本書は印刷・活字業界の歴史版総合カタログといった趣の書物であり、本文のページ数より、巻末に各社の会社紹介を兼ねた広告ページが多数紹介されている。

『印刷製本機械百年史』の執筆者と、同書に掲載されている主要文献は以下の通りである。
◎執筆者/沢田巳之助(印刷図書館)、本間一郎(元印刷情報社)、山本隆太郎(日本印刷学会)
◎主要文献/PRINTING PRESS(James Moran)、石川県印刷史、活版印刷史(川田久長)、写真製版工業史、大蔵省印刷局史、大蔵省印刷局百年史、印刷術発達史(矢野道也)、佐久間貞一小伝、藍・紺・緑、開拓者の苦心(三谷幸吉)、印刷インキ工業史、印刷機械(中村信夫)、印刷文明史(島屋政一)、明治大正日本印刷技術史(郡山幸夫・馬渡力)、中西虎之助伝

『印刷製本機械百年史』p93

『印刷製本機械百年史』p94

『印刷製本機械百年史』p95

『印刷製本機械百年史』p96

『印刷製本機械百年史』p97

《活字鋳造機》
記録によると、明治4年[1871]工部省勧工寮で手鋳込活字鋳造機[ポンプ式活字ハンド・モールドとみられる]1台を設備したという。また明治5年[1872]平野富二が長崎から上京し、神田佐久間町に、後の東京築地活版製造所を開業したとき、母型、鋳型各1組と、手鋳込鋳造機[ポンプ式活字ハンド・モールドとみられる]3台を持参したという記録がある。さらに明治6年[1873]5月13日発行の『東京日日新聞』に、
  今般私店に於いて泰西より活字鋳造の具、
  並に摺立機械等悉く取寄せたり、
  而して彼の各国の如く製を為す。云々。
  活字鋳造摺立所 蛎殻町3丁目 耕文書院
という広告が載っている。

世界で最初に実用された活字鋳造機は、ダビッド・ブルース(2代)が1838年最初に特許をとり、1843年に完成したものであるから、上記の鋳造機も、恐らくそれであろう。
[ブルース活字鋳造機は明治9年《1876》春、弘道軒・神崎正誼がわが国にはじめて導入した。平野活版所がブルース活字鋳造機を導入したのは、弘道軒に遅れること5年、明治14年《1881》春であり、この紹介には疑問がある(「弘道軒清朝活字の製造法とその盛衰」『タイポグラフィ学会誌』片塩二朗
タイポグラフィ学会2011]。
わが国では一般にカスチング、あるいはなまってカッチングと呼んでいた。

これをはじめて国産化したのは大川光次である。大川は代々伊井家に仕えた鉄砲鍛冶の家に生まれた。明治5年[1872]頃から、赤坂田町で流し込み活字の製造や、活字鋳型の製造販売を業としていたが、明治12年[1879]印刷局に入り、鋳造部長となった。弟の紀尾蔵もともに印刷局に勤めていた。

明治16年[1883]大川兄弟は[印刷局を]退職し、再び[赤坂]田町で鋳型製造を始めたが、同時に鋳造機の製作も開始した[大川公次・紀尾蔵の兄弟が弘道軒のブルース活字鋳造機をモデルとしてブルース型活字鋳造機の製造販売を開始(『秀英舎沿革史』秀英舎 明治40年3月20日)。わが国ではこれを、カスチング、キャスチング、手廻し活字鋳造機などと呼んだ。東京築地活版製造所、秀英舎などがただちにこれを導入した]。
これが日本における活字鋳造機製作の最初である。大川は後に芝の愛宕町に移り、明治45年[1912]60才で死去したが、その門下から国友、須藤、大岩などという人が出て、いずれもキャスチングを製作するようになった[大川光次の門からは大岩製作所がでた。この大岩製作所からは小池製作所がでて、2009年8月31日まで存在した]。

自動鋳造機がわが国に始めて入ったのは明治42年[1909]である。この年、三井物産がトムソン自動鋳造機を輸入、東京築地活版製造所に納入した。次で44年[明治44年、1911]には国立印刷局にも設備された。トムソン鋳造機はシカゴのThompson Type Machine Co.が製作したもので、1909年特許になっている。しかし、これはそのままでは和文活字には不適当だったので、築地活版では大正7年[1918]これを改造して、和文活字を鋳造した。

大正4年[1915]、杉本京大が邦文タイプライターを発明し、日本タイプライター会社(桜井兵五郎)が創立された。これに使用する硬質活字を鋳造するため、特別な鋳造機が作られた。それは大正6年[1917]ごろであるが、この鋳造機が後に国産の独特な活字鋳造機を生む基となったといえる。

日本タイプライターの元取締役だった林栄三が印刷用としての硬質活字を研究、大正13年[1924]林研究所を創立し、この硬質活字を「万年活字」と名付けて時事新報社に納入した。彼はこの硬質活字を鋳造するために、技師長・物部延太郎の協力を得て自動活字鋳造機を設計し、「万年活字鋳造機」と命名した。

大正15年[1926]、林研究所は[林栄三の名前から]林栄社と改称した。万年活字は結局いろいろな欠点があることがわかって、使われなくなったが、翌年万年鋳造機各6台が大阪毎日新聞と共同印刷に納入され、普通の活字の鋳造に使われて好成績を収めた。機械の価格は1台2,500円であった。当時トムソン鋳造機は1万2,000円であったのである。

『印刷製本機械百年史』掲載の林栄社

これとほとんど時を同じくして、日本タイプライター会社でも、一般活字用の自動鋳造機を完成、万能鋳造機と名付けて発売した。これは普通の単母型の他、トムソン鋳造機用の平母型や同社で製作する集合母型を使用できるのが特徴であった。

これも同じころ、須藤製造所から須藤式自動鋳造機が発売された。これは鋳造速度の早いことを特徴としており、毎分5号活字で100本、6号なら120本鋳造できた。

この他に池貝鉄工所が昭和2年[1927]トムソン型の鋳造機を作ったが、永続しなかった。また東京機械製作所でも作ったというが、その年代は明らかでない。これは鋳込まれた活字が他の機械と逆に右側に出るのが特徴だった。

昭和6年[1931]ごろ、林栄社社長・林栄三が、活字1回限り使用、すなわち、返字の作業を廃止し、活字はすべて新鋳のものを用いて組版した方が鮮明な印刷が得られ、採算上も有利であるという説を発表した。
[この時代まで、活字は繰り返し、反復して使用されていた。印刷を終えた活字版は、解版されて、活字と込め物などに分類され、活字はもとの活字ケースに戻して(返し・返字)再使用されていた。林栄社の提案を受けて、中規模程度の活版印刷所でも、おおくは本文活字の活字母型を購入し、活字鋳造機を導入して自社内で活字鋳造を実施する企業が増大した。そのため活字鋳造所は本文用サイズ以外の活字や特殊活字の販売が中心となった]。
これが普及するに伴って、活版印刷業界に自家鋳造が盛んになり、鋳造機の需要も増えたので、昭和10年[1935]前後から、鋳造機のメーカーが著しく増加し、大岩式、谷口式、干代田式などの各種の自動鋳造機が市場に出た。

大岩式は大岩鉄工所社長、大岩久吉がトムソン鋳造機を範とし、和文活字に適するよう改造して、昭和8年[1933]発売したものである。大岩の死後、製作権はダイヤモンド機械製作所に移り、現在では小池製作所(小池林平社長)によって継承されている。

『印刷製本機械百年史』巻末に掲載された小池製作所

谷口式は谷口鉄工所の製作で、印刷所における自家鋳造に便利なようにできるだけ機構を簡素化し、価格を低廉にしたのが特徴だった。千代田式は千代田印刷機製造株式会社(古賀和佐雄社長)が昭和11年[1936]ごろ発売した自動鋳造機である。

この他に国友兄弟鉄工所が動力掛けのキャスチングを発売した。当時のキャスチングは鋳型の冷却装置がなく、鋳造中時々ぬれ雑布で[鋳型を]冷さなければならなかったが、この機械では鋳型に水を通して冷却するようなっていた。

戦争中は活字鋳造機も他の印刷製本機械と同様、製造を制限されていたが、終戦と同時に新しいメーカーが続出した。

まず池貝鉄工所がトムソン型を作ったが、昭和30年[1935]以降は生産を中止した。昭和22-23年頃三鷹にあった太陽機械製作所から太陽鋳造機というのが売出され、4-5年つづいた。また同じころ小石川の岩橋機械から岩橋式鋳造機が売出されたが長く続かなかった。
田辺製作所からも簡易鋳造機という名で構造を簡単にし、価格を下げた製品が出た。これは自家鋳造用として相当歓迎され、後にいずみ製作所が製作するようになり、昭和36年[1961]同社が社長の死去により閉鎖されるまで継続した。

昭和20年[1945]9月、大岩鉄工所の出身である小池林平は小池鋳造機製作所(現在の株式会社小池製作所)を創立、大岩式を基とした自動鋳造機の製造を始めた[2008年8月31日破産、のちに特許と従業員のおおくは三菱重工業が吸収した]。昭和21年[1946]には児玉機械製作所が設立され、やはり大岩式鋳造機を製造したが、これは33年[昭和33年、1958]に廃業した。

京都の島津製作所も、アクメという商品名で活字鋳造機を発売した。これは戦前の東京機械のものと同様、活字が右側へ出るのが特徴で、22-23年頃から30年頃[1947-1955]までの間相当台数が市場に出た。その他にも小さいメーカーが、2-3社あったようだが、明らかでない。

昭和21年[1946]12月、長野県埴科ハニシナ郡戸倉トグラ町の坂井修一は、林栄杜の元工場長で、当時長野県に疎開し八光ハッコウ電機製作所の工場長をしていた津田藤吉と相談して、八光活字鋳造機製作所を創立した。
最初のうちは被災鋳造機の修理及び鋳型の製作が仕事であったが、昭和23年[1948]3月、1本仕上げ装置を完成、標準型八光鋳造機の量産を開始した。従来の鋳造機では鋳込んだ活字の上下にカンナをかけて鋳張りを除き、次にこれを90度回転して左右を仕上げる方式であったが、この1本仕上げと呼ばれるのは、まず1本ずつ左右にカンナをかけ、ついで上下を仕上げる方式である。
次で、25年[1950]新聞社の要望に応え、単能高速度鋳造機を発表した。これは従来の標準8ポイントで毎分120本という鋳造速度を50%アップしたものである。

『印刷製本機械百年史』掲載の八光活字鋳造機製作所

[昭和]30年代に入ると、数多かった鋳造機メーカーも次第に減り、林栄社、八光、小池の3社となったが、それと同時にこの3社の激しい技術開発競争により、多くの改良が加えられ、活字鋳造機は面目を一新するに至った。すなわち、函収装置、温度自動調節装置、母型自動交換装置、地金供給装置、ぜい片回収装置などが次々と開発され、文字通り世界に類のない全自動鋳造機が生まれたのである。

一般活字以外の特殊な鋳造機としては、昭和24年[1949]頃、小池製作所でインテル及び罫の連続鋳造機を発表した。それまでわが国では罫、インテルは1本ずつ手鋳込みだったのである。これと同じような機械は他社でも作られたが、小池式の方が能率が上ったので間もなく中止され、小池のストリップ・キャスターだけとなった。小池製作所ではそれにつづいて、見出し鋳造機および花罫鋳造機を製作した。

ブルース型活字鋳造機とトムソン型活字鋳造機の国産化とその資料
Catalogue of Printing Machine』(Morikawa Ryobundo, Osaka, 1935