本木昌造の最後

Print
本木昌造02

◎ 本木昌造の肖像写真
この写真は長崎諏訪神社につたわった写真である。これと同一原板によるとみられる写真が、『贈従五位本木昌造先生略傳』(東京築地活版製造所 印刷図書館蔵)にも掲載されているが、これには台紙の裏面を写した写真も紹介されている。裏面には「内田九一製」と印刷されている。

◎ 本木昌造の上京中の肖像写真
本木昌造(1824-75)は、東京に滞在中に内田九一ウチダ-クイチ写真館で記念写真を撮影したらしく、その肖像写真が長崎諏訪神社にのこされている。
この写真には撮影年月日が記されていないが、本木昌造の容貌は、目が落ち窪み、頬がこけて、病み上がりの状態であるように見られる。時期としては最晩年の明治七年(一八七四)に上京したときの可能性が高い。

◎ 本木昌造の終焉 ──── 『本木昌造伝』(島谷政一 朗文堂 p.206-9)
明治八年二八七五)は印刷出版業者にとっては忘れることができない年となった。この年の二月三日上海-横浜間に定期航路が開設されて政府のあつい保護のもとに三菱汽船会社が運航にあたった。このとき政府はその所有汽船のすべてを三菱汽船会社に貸与して海上輸送会社の保護育成をはかった。
この航路が長崎を素通りして横浜から結ばれたことは、ひとり本木昌造だけではなくて長崎市民を失望させた。そもそもこの定期航路の開設は本木昌造が明治六年(一八七三)の台湾報復出兵のさいに、長崎をおとずれた大隈重信侯に献策をかさねたものだった。たとえその業務が因縁あさからぬ三菱汽船会社に委ねられたとはいえ寂寥のおもいはぬぐいがたかったのである。
もはや征韓論の分裂を超克して政府は大久保利通が中心となっていた。また立憲政体樹立の詔書がくだされてその第一歩として三権分立の制度がたてられた。行政、教育、産業などのすべての中心が東京に移動して長崎は遠隔疎遠の地となっていた。

そんな明治八年(一八七五)の春、本木昌造はひどく健康を害して食がすすまなくなった。家族や社員が静養を勧め、ようやく山紫水明の京都で療養することに決心して同年三月二一日長崎を発して京都に上った。
京都の點林堂・山鹿善兵衛は大阪活版製造所の初代谷口黙次と相談して、嵯峨野の落柿舎で十分な静養をしてもらうことにした。そこには下男下女と看護人を付き添わせることにして、付き添いで
きた二人の社員は長崎に帰した。
京都での転地療養をはじめると容態はすこぶる好転した。天気のよい日には洛中を散策して點林堂活版所に立ち寄ったり、あるときは大阪にでかけて、大阪活版製造所の工場を嬉しそうに巡回して健康はすっかり回復したかにみえた。
初代谷口黙次は本木昌造がもっとも愛情をもってみた社員であり、また全幅の信頼を寄せてもいたひとだった。またその夫人は連日献身的に看護したから、この間もしばしば大阪にでかけて谷口家に滞在していた。
こうして一時健康を回復したかにみえたが、五月のはじめに風邪をひいたのがもととなってふたたび病床に呻吟することになった。京都と大阪の社員が交代で落柿舎に泊りこんだし、谷口黙次の
夫人は付きっきりで看護にあたった。
この知らせに驚いた平野富二は、とるものもとりあえず東京からやってきて病床を見舞った。長崎
からも家族が社員にともなわれてやってきて看護に協力したために、いったんは小康をえて一同は愁眉をひらくことができた。
容態は順次良好となって歩行にも困難を感じないほどに回復した。このとき本木昌造は長崎に帰りたいとの意向を漏らした。一同はもうしばらくの静養を勧めたが、帰心はだんだんつのって最早やだれの勧告にも応じないようになった。
そこで一同が協議して、初代谷口黙次が付きそって家族とともに長崎に送ることになって、本木昌造は西に、平野富二は東にたがいに別れをつげた。

ところがやはりこの帰省の長旅の疲労がたたったのか、長崎に帰ったあとの本木昌造の衰弱ははな
はだしかった。またこの年の夏は暑さがきびしかった。
明治八年(一八七五)八月の中旬、本木昌造が重態におちいったとのしらせが門人、門弟、社員に
一斉にしらされた。
まだ交通不便の時代だったが、平野富二は夜を日に継いで長崎に到着した。大阪の初代谷口黙次や京都の山鹿善兵衛も馳せつけた。いずれも枕頭にあって看護に手をつくしたが、もはや症状は日に日に重くなるばかりだった。
こうした切迫した状況から、平野富二は九月一日本木昌造が関係した「活版事業の始末方」を品川
藤十郎をつうじて指図をこうた。
この品川藤十郎とはオランダ通詞の家にうまれて、本木昌造とは長女砒を継嗣小太郎に嫁がせた縁戚関係にあったし、かつてはともに通詞の職にあった。また長崎活版製造会社の創立にあたっては金千両を出資して新街私塾では教鞭をとるなど一門の世話役として存在がおもんじられていた。
品川藤十郎が病床にたって平野富二の言をつたえると、
「活版事業のことはすべて平野君に一任しあるをもって予の容喙を要せず。万事平野君の処置にし
たがうべし」
とのことだった。
臨終にさいしてもこのほかの遺言はなかった。ただ門人、門弟、社員を枕頭に集めてそれまでの協力を謝して今後とも活版印刷術の普及に尽力するように励まして、ついに明治八年(一八七五)九
月三日享年五一歳をもって暝目された。
本木昌造が泉下のひととなったのは明治二年(一八六九)近代活字鋳造創始のときからわずかに七年、あまりにも惜しまれる逝去だった。

「嗚呼本木昌造翁逝いて、いままたいずくにか翁のごとき性行純金の人をもとめん。もし翁をしてその寿をながからしめれば、日本国の利するところさらにおおいなるものありしならんに、まことに惜しむべきかな」
と英国の『ブリテッシュ・プリンター』誌もその逝去を惜しんだ。
九月六日本木家と一門社員によって盛儀をもって葬儀が執行されて、遺骸は本木家の菩提寺長崎今篭町大光寺の墓域に篤く埋葬された。
法名は「故林堂釋永久梧窓善士」だった。
世人はいまさらのように本木昌造の偉大な功績をしのんでその逝去を惜しまぬものはなかった。

 ◎ 本木昌造が療養した「落柿舎」をみる
京都洛外「草庵落柿舎-らくししゃ」は向井去来がいとなんだ草庵である。
向井去来(むかい-きょらい 1651-1704)は江戸時代前期の俳人。
慶安4年生まれ。肥前長崎出身。向井元升-げんしょう-の次男。京都で儒者として親王家などにつかえたが、松尾芭蕉に入門して俳諧に専念した。嵯峨に草庵落柿舎をいとなむ。蕉風の忠実な伝え手で、同門中でもおもんじられた。「猿蓑-さるみの」を野沢凡兆と編集。宝永元年9月10日死去。54歳。名は兼時。字-あざな-は元淵。通称は平次郎。著作に「旅寝論」「去来抄」など。

岩 は な や  こ こ に も ひ と り  月 の 客 「去来抄」

IMG_3719 IMG_3692 IMG_3687 IMG_3683落柿舎の点景 活版小本・杉本昭生氏 2018年3月21日撮影

去来の卒後、落柿舎はしばしば無住のいおりとなっていたようである。
明治四五年(一九一二)本木昌造にたいして従五位を追贈する旨が朝廷より仰せだされた。このとき山鹿善兵衛はすでに點林堂活版所の事業を令息・山鹿粂次郎に譲って「落柿舎栢年-はくねん」と号して落柿舎五代目庵主として嵯峨野にあって自適の余生を愉しんでいたが、
「先師本木先生こたび御贈位の光栄をこうむりたまいしを祝し奉りて 栢年」として、つぎの一句をものして御贈位の光栄をこころから喜んだ。

引 鶴 や  更 に 雲 井 に  羽 の 光     栢年

 

◎ 長崎にうまれ東京で活躍した写真士 : 内田九一
内田九一(1844-75)は、弘化元年(一八四四)長崎に生まれ、松本良順等から湿板写真の手ほどきを受け、上野彦馬に師事した。
最初に大阪で開業し、次いで横浜馬車道に移り、明治二年(一八六九)東京浅草瓦町に洋式写場を開いた。
明治五年(一八七二)と同六年(一八七三)には明治天皇と昭憲皇太后の写真を撮影している。その後、築地にも分店を設けていることから、この本木昌造の写真は築地の写場で撮った可能性もある。内田九一は明治八年(一八七五)に没した。

 

内田九一
うちだ-くいち
1844−1875
幕末-明治時代の写真家。
弘化(こうか)元年生まれ。吉雄圭斎の甥(おい)。長崎でポンペに化学を,上野彦馬から写真術をまなぶ。慶応元年大坂で写真館をひらき,のち横浜・東京で開業。明治5年宮内省御用掛として明治天皇の肖像写真を撮影し,有名となった。明治8年2月17日死去。32歳。肥前長崎出身。
©Kodansha

日本人名大辞典

吉雄圭斎
よしお-けいさい
1822−1894
江戸後期-明治時代の医師。
文政5年5月8日生まれ。家業の外科医をつぎ,出島のオランダ商館出入り医師となる。嘉永(かえい)元年オランダの軍医モーニッケに牛痘接種法をまなび,種痘の普及につとめた。熊本病院初代院長。明治27年3月15日死去。73歳。肥前長崎出身。名は種文。
©Kodansha