【良書紹介】 『おにぎり オリーブ 赤いバラ ーー あっという間にギリシャ暮らし40年』 (ノリコ・エルピーダ・モネンヴァシティ著 幻冬舎ルネッサンス)&ギリシャへの旅

20170421152933_00003 20170421152933_00004『おにぎり オリーブ 赤いバラ』 ―― あっという間にギリシャ暮らし40年
著者 : ノリコ・エルピーダ・モネンヴァシティ 
版元 : 幻冬舎ルネッサンス新社
ISBN9784779005091
価格 : 1300円+税
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内容紹介
「いつお発ちになりますか?」航空会社からの電話がきっかけで、ひとりギリシャへ向かったノリコ。空港で彼女を待っていたのは、仕事で一度会っただけの、29歳年上の弁護士ミスター・ジョージだった。
ちょっと行ってくるつもりだったのに、一ヵ月後にプロポーズを受け、帰国することなくジョージと結婚。二人の息子と、ガイドという天職に恵まれて、あっという間に40年が過ぎた。
父の想いと母の教えを胸に、古希を迎えた現在もギリシャ政府公認ガイドとして活躍。
トレードマークの傘を片手に、著名人や企業、団体、学生や一般の観光客などをガイドし、ギリシャの魅力を伝えている。何があっても前向きに明るく生きる著者の人柄とユーモアがあふれ、読んでいるうちに元気になる半生記です。

【 著者紹介
1939年佐賀県生まれ。佐賀県立鹿島高等学校を経て、長崎県の活水女子短期大学英文専攻科を卒業。
1968年単身ギリシャに渡りヨルゴス・モネンヴァシティスと結婚。古澤宣子からノリコ・エルピーダ・モネンヴァシティとなる。
1976年ギリシャ政府公認ガイド免許(ギリシャ語、英語、日本語)を取得し、現在もガイドとして活躍中。ギリシャ・アテネ在住。
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{ 新宿餘談 }
例年年末年始にかけて、連れのノー学部は郷里の母親のもとに帰省する。その間、家事一切、まったくなにもできないやつがれは、なにがどこにあるやら、なにをどうしたらよいのかわからず、ただ途方にくれる。
所在なく書棚をあさり、一番手前にあった連れの愛読書、『おにぎりオリーブ赤いバラ』をなんとなく手にした。そしていつの間にか耽読していた。

おにぎり オリーブ 赤いバラ』は好評のようで、第二版の刊行をみている。
著者のノリコ・エルピーダ・モネンヴァシティさん(旧姓:古澤宣子)は、アテネ大学出身の弁護士であったご主人、ジョージこと、ヨルゴス・モネンヴァシティス氏には先立たれたが、ふたりの息子さんにかこまれてお元気のようである。
ノー学部とはいつの間にか「メル友」になっていて、このごろはしばしば cc 添付でやつがれも@メールを頂戴している。

ご親族に、著名なヴァイオリニスト 古澤 巌氏 がおり、著者はアテネの「ヘロド・アティクス 音楽堂」で演奏会を開くのが「私の夢であり、使命だとおもっている」と同書で述べられている。
この音楽堂は西暦161年アテネの大富豪ヘドロによって建立され、およそ五千人の観客を収容可能だそうである。ここでは毎年六月から九月の夏の夜、ギリシャ悲劇・喜劇をはじめ、音楽会・バレエ公演などが催されるという。
アテネのアクロポリス『世界大百科事典』(小学館)
この「ヘロド・アティクス」は、わが国からも小澤征爾がサイトウ・キネン・オーケストラを伴ってここで指揮をしているし、2004年8月のアテネ・オリンピックの際には、蜷川幸雄演出、野村萬斎主演によるギリシャ悲劇『オイディプス王』が上演されている。
蜷川幸雄 が逝ってまもなく一年になるが、このひとはそれ以前にも、平幹二朗 主演による『王女メディア』を成功させ、日本でもギリシャでもいまだに語りぐさのようである。
一冊の図書、『おにぎりオリーブ赤いバラ』が結んだ奇縁ではあるが、@メールの開始に際しては在京の古澤ご一族にもお世話になった。したがって「のりこさん」の夢の実現のために、万分の一のお手伝いができたらうれしくおもう。
アテネのアクロポリス『世界大百科事典』(小学館)《 長崎のアクロポリス、そして、東京のアクロポリスとは いずこに 》
「のりこさん」は佐賀県の代代の旅館にうまれた。父君は佐賀県庁勤務の建築士、五人兄弟の長女で、妹三人、末っ子に長男がいる。大学はミッション系の 活水女子大学 (2005年短期大学は廃止されている)に通われた。
活水女子大学は長崎の観光コースのひとつ「オランダ坂」をのぼりつめたところにある。この坂ののぼり口のホテルはやつがれのお気に入りのホテルで、何度か宿泊している。ところが、石畳がひかれた急峻なオランダ坂の「景色」はみているが、その勾配におそれをなしてのぼったことはない。
いずれにせよ、「のりこさん」とやつがれとの共通項は、いまのところ世代がちかいことと、「長崎」のまちということになる。

『おにぎりオリーブ赤いバラ』 p.158 – 9
日本に旅行したギリシヤ人グループの皆さんが、東京で「はとバス」観光中、
「ねェねェ、東京のアクロポリスは、一体どこにあんのよ」
と、ガイドさんに質問したとか。彼らにしてみれば、当然な質問ではある。
古代ギリシヤでは、紀元前九世紀頃より、ポリスと呼ばれる都市国家が成立していた。ポリスは大小さまざまで、その頃のアテネは人口約三十万人。それぞれが独立し、独自の政治を行っていた。
アクロポリスの「アクロ(アクロス)」というのは、「突端、先端、はしっこ」という意味。ポリス(都市国家)にある突端、とんがっているところ、つまり小高い丘ということになる。当時のギリシャには数百ものポリスがあり、そこにある小高い丘は全て「アクロポリス」と呼ばれていたわけで、「東京のアクロポリスは?」と質問した彼らの意図するところはよくわかる。

ポリスは通常城壁で囲まれ、その中にある小高い丘、つまりアクロポリスは、守護神を祀る聖域であり、戦争の際には市民を守る要塞でもあった。
アテネのアクロポリス北麓に、当時政治・経済・文化の中心地であったアゴラが広がり、南斜面には、野外音楽堂が位置している。

この音楽堂は、ヘロドーアティクスと呼ばれ、一六一年アテネの大富豪ヘロドによって建てられ、彼は亡き妻レギラに捧げた。アーチ型の大窓を持つ典型的なローマ時代の建築で、約五千人収容可能。ここでは毎年六月から九月の夏の夜、アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスの悲劇をはじめ、アリストファネスの喜劇、音楽会、バレエなどが催される。
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『世界大百科全書』(小学館)

【 アクロポリス  akropolis 】
古代ギリシア都市(ポリス)の中核の丘。自然の丘を防壁で固め、その中に都市の守護神などの神殿を建ててある。非常時には最後の根拠地となるが、全市民を収容するため町全体にも城壁が巡らされるにつれて,軍事的よりも宗教的・精神的な中心となった。
代表的なのはアテナイ〔アテネ〕のもので、周囲から60m余の高さの石灰岩の急こう配の丘。西側だけに登り道があり、頂上の台地(南北150m,東西300mほど)が防壁で囲まれ,守護神アテナの聖地となっていた。
今日では前5世紀後半の状態に可能な限り復元され、プロピュライア(楼門)、ニケ神殿、エレクテイオン、パルテノンが建ち、崇高な景観になっている。
南斜面にはディオニュソス劇場、オデオンなどの文化施設も建てられ、北側の麓の平地のアゴラ(広場)には政庁や市場があった。

アテナイ西隣のメガラのアクロポリスは双生児のように並ぶ二つのなだらかな丘。
コリントスのものは、市の背後にそびえる巨大な丘で、アクロコリントスと呼ばれ、頂上にアフロディテ神殿などがあった。
アルゴスでは大小二つの丘がアクロポリスとして固められ、大きい丘の斜面に劇場、麓にアゴラがあった。
スパルタのものは目だたない低い丘で、上に神殿があり、ヘレニズム時代には南斜面に大劇場がつくられた。
これらは機能的にも美的にもアテナイのものに比すべくもないが、ロドス島のリンドスでは海に臨む断崖を利用して絶景となっていた。

長崎県庁脇解説板 長崎 ≒メトロポリス 岬の教会01

『おにぎり オリーブ 赤いバラ』は、序章に「始まりは一本の電話から」がおかれ、
第一章  アテネの道
第二章  ギリシャは魅力がいっぱい
第三章  ギリシャ政府公認ガイドになる
第四章  それからの私
からなる。四六判 並製本 240ページの好著である。
おチビさんだったという娘時代のこと、厳格なミッションスクール活水でのおもいで多い学生生活、のちの夫:ジョージとの出会いなどが、てらいの無い平易な筆致で淡淡と描かれる。キリスト正教(トリニティ)の洗礼や受洗名(ミドルネーム)のことなどを興味深く読み進めた。

ところが第三章に紹介された「アクロポリス」の記述に、「そうだったのか!」と膝をたたくおもいであった。繰りかえしになるが「のりこさん」はこう述べていた。
〔アクロポリスの「アクロ(アクロス)」というのは、「突端、先端、はしっこ」という意味。ポリス(都市国家)にある突端、とんがっているところ、つまり小高い丘ということになる〕

ギリシャもわが国と同様に島嶼国家である。そして真っ先に脳裏に浮かんだのは、「長崎のアクロポリス」の光景であった。
すなわち長崎の地形と、現在の長崎県庁の前の案内板「岬の教会 西役所全景」の絵図と、その下部におかれた「イエズス会本部跡・奉行所西役所跡・長崎海軍伝習所跡」の解説であった。
「ここ長崎県庁は、長崎のアクロポリスだったのではないか」
そして「のりこさん」が学んだ活水女子大学(現:活水東山手キャンパス 長崎市東山手町1)も、もうひとつのアクロポリスだったのではないのか? というおもいであった。

戦国時代、ポルトガル船の来航により開港した長崎は、中島川が堂門川(西山川)と合流する付近まで入り江となっており、中島川右岸(上流からみて右側)の、海に向かって長く突き出た岬の台地上に新しく六ヵ町が造成され、それを基点に発展して都市が形成されたといわれている。
古地図をみると、その後埋め立てによって「出島」がつくられたので紛らわしくなっているが、県庁前庭にたつと、アテネのアクロポリスと同様に、海にむかってなだれ墜ちるような地形がのこる。

長崎 ≒メトロポリス 岬の教会01すなわち現在の長崎県庁所在地のあたりは、戦国時代には「岬上の町」と呼ばれていたようである。ここを中心とする長崎は、天正8年(1580)領主でありキリシタン大名でもあった大村純義によってイエスズ会に寄進されて「岬の教会」が設けられた。
この尖塔をもった建物は、入津してくる南蛮船(ポルトガル船)にとっては格好のランドマーク(陸標)であったろうし、長崎の住民(キリスト教徒)にとっては宗教的・精神的な中心となったとおもわれる。この時代、大村藩(現長崎空港の陸地側一帯)と長崎は、キリスト教一色に染めあげられていた。


その後天正15年(1587)、九州征伐を達成した豊臣秀吉は、長崎を没収して直轄領とし、キリスト教に厳しい姿勢に転じた。

文禄元年(1592)、長崎支配のために岬の上に奉行屋鋪(奉行所)が置かれ、のちに長崎奉行所西役所となり、幕末には長崎海軍伝習所がおかれ、そしていまは長崎県庁がおかれた。すなわち祭祀の地から転じて、軍事的・政治的・そして行政の中心となった。
【 参考URL : 平野富二 古谷昌二ブログ/町司長屋に隣接した「三ノ堀」跡 】

《東京のアクロポリスをもとめて、五月の連休にアテネ弾丸旅行を予定》
正月早〻斯様な次第で、それ以来熱病にうかされたように「東京のアクロポリス」を探索している。手がかりはすでにある。そのためにギリシャに行くことを「承諾」した。
というのは、ノー学部は年に一回、超過密スケジュールで海外旅行を設定している。同行するやつがれの喫煙癖のために、比較的「嫌煙」に喧しくない国を選んでくれているが、ことしはギリシャ旅行を昨年夏には決めていた。

ところがやつがれは、先年いったプラハへの三回目の旅を主張していた。
それには一切構わず、ノー学部は勝手にギリシャ神話・ギリシャ案内などの図書をどっさり買いこんでいた。そのうちの一冊が、『おにぎり オリーブ 赤いバラ』 ―― あっという間にギリシャ暮らし40年(著者 : ノリコ・エルピーダ・モネンヴァシティ のりこさん)だったということになる。
訪問地はアテネと{アトランティス大陸伝説の「テラ(サントリーニ)島」}。アトランティスはもちろん当面はノー学部に任せている。

ホテルはさほどの料金ではないが、ともかくアクロポリスの眺望がウリのホテル。しかもテラスからはライトアップされたパルテノン神殿が眼前に展開するという。ネットのホテル情報はあまり信用しないが、多くの外国人ブロガーがそのホテルを絶讃していた。
ところで、五月ついたちは「メイデー」。勤労精神にいささか欠けるギリシャでは、真偽のほどは知らないが、タクシーはおろか、バスや電車などの公共交通機関も停止するとの情報がある。
そこでメールを往復させて、「メイデー」の日に、ホテルのテラスへ「のりこさん」をご招待することにした。
『おにぎりオリーブ赤いバラ』 p.158 – 9
アクロポリスの「アクロ(アクロス)」というのは、「突端、先端、はしっこ」という意味。ポリス(都市国家)にある突端、とんがっているところ、つまり小高い丘ということになる。
当時のギリシャには数百ものポリスがあり、そこにある小高い丘は全て「アクロポリス」と呼ばれていたわけで、「東京のアクロポリスは?」と質問した彼らの意図するところはよくわかる。

『世界大百科全書』(小学館)
【 アクロポリス  akropolis 】
代表的なものはアテナイ〔アテネ〕のもので、周囲から60m余の高さの石灰岩の急こう配の丘。西側だけに登り道があり、頂上の台地(南北150m,東西300mほど)が防壁で囲まれ,守護神アテナの聖地となっていた。
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間もなくギリシャへの旅にでる。「のりこさん」にお会いできる。
ただ日頃「動かざること山のごとし」と嘯き、運動不足の極致にあるやつがれ、「60m余の高さの石灰岩の急こう配の丘」を這い、よじ登ることができるか、いささかの不安がのこる。

【字学】 文化庁 Press release / 常用漢字表の字体・字形に関する指針(報告)について

Print文化庁   平成28年2月29日

常用漢字表の字体・字形に関する指針(報告)について

文化庁では、平成26年度から文化審議会国語分科会漢字小委員会において、「手書き文字の字形」と「印刷文字の字形」に関する指針の作成」に関して検討を進めてきました。
このたび、その検討結果が国語分科会において「常用漢字表の字体・字形に関する指針(報告)」(案)として報告されましたので、
お知らせします。

◎ 経  緯
漢字の字体・字形については、昭和24年の「当用漢字字体表」以来、その文字特有の骨組みが読み取れるのであれば、誤りとはしないという考え方を取っており、平成22年に改定された「常用漢字表」でも、その考え方を継承している。
しかし、近年、手書き文字と印刷文字の表し方に習慣に基づく違いがあることが理解されにくくなっている。また、文字の細部に必要以上の注意が向けられ、正誤が決められる傾向が生じている。
今回の報告では、漢字の字体・字形について詳しく解説するとともに、常用漢字(2,136字)全てについて、印刷文字と手書き文字のバリエーションを分かりやすく例示している。

◎ 資 料  1
「常用漢字表の字体・字形に関する指針(報告)」(文化審議会国語分科会)の概要
PDF  bunkatyou-press release
文化庁01 文化庁02 文化庁03

◎ 資 料 2
常用漢字表の字体・字形に関する指針(報告)(案)
平成28年2 月29日

文化審議会国語分科会
PDF  bunkatyou-press release
文化庁04
上掲 jpeg 画像図版で紹介した<概要>につづいて PDF  bunkatyou-press release で紹介されています。常用漢字2,136字のすべてについて丁寧に記述されていますが、役所文書で238ページあります。
巻末部の204ページからはじまる「参考資料」は興味深い内容です。
なお本報告書(案)の一部は、小社の従来の見解とは異なります。

【 詳細 : 文化庁 常用漢字表の字体・字形に関する指針(報告)について 】

【展覧会】 線 リニエ 形 フォルム 響 クラング-クルト・ハウエルト展 プリントギャラリー東京特別展

20170227142018_00004designed by helmut schmid

リニエ  フォルム  クラング
線 形 響:
クルト・ハウエルト

プリントギャラリー 特別展
2017年3月17日[金]- 4月2日[日]
入場無料

13:30 から 20:00   土日祝
15:00 から 20:00   月金
火水木  休廊

 print gallery Tokyo, next exhibition
2017.3.17 Saturday to 2017.4.2 Sunday
Kurt Hauert
exhibition by helmut schmid design, osaka
in collaboration with kurt hauert, basel
and print gallery tokyo
supported by idea magazine and
the embassy of switzerland in japan

グラフィックデザイナー・教育者・アーティストであるクルト・ハウエルト。
1924年にスイス北部のアーラウに生まれ、クラフィックデザイナーとしてポスターや
図録、展覧会のデザインを手がけた。1940年代後半にバーゼルにある
工芸専門学校(Allgemeine Gewerbeschule Basel, AGS)で学んだ
ハウエルトは、1950年代初頭より同校で教育に
携わるようになる。
エミール・ルーダーやアーミン・ホフマン等とともにAGSに於ける

 デザイン教育の中心人物として、幅広い探究心を学生と分かち合いながら、
 〈見る目〉を養う教育を続けた。1988年にAGSを退任した後もドローイングの
〈探索〉を楽しんで続けている。

 本展はかつてクルト・ハウエルトに学び、現在では友人として交流の続く
 タイポグラファ、ヘルムート・シュミットが中心となり企画。1956年制作の
鉛活字によるタイポグラフィ作品〈5つの正方形の冒険〉、過去に手がけた
 ポスターや図録類、加えて現在でも継続して挑戦している、PCによる
 ドローイングの習作を展示する。
クルト・ハウエルト
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プリントギャラリー 東京 の開廊日は不定期です。

リンク先にて開廊日時を確認の上お出かけください。
108-0072 東京都港区白金1-8-6
03-6873-4545
printgallerytokyo.com

20170303173617_00001Gestaltung :Kurt Hauert   1967

【 関連情報 1 : Thinking Kurt Hauert. 07 19 1924 | THINKINGFORM 】
【 関連情報 2 : Design Summit | baseldesign 】

 

【長崎県印刷工業組合】 Printing Birth Nagasaki ー 『PBながさき』 2016.9 Vol.93 紹介

ながさき93号09月03日は近代活版印刷の祖 本木昌造の命日です。それを記念して、日本印刷産業連合会では09月を「印刷の月」と定め、各種の周知・啓蒙活動を行っています。
長崎県印刷工業組合・本木昌造顕彰会では毎年法要を行っています。

第141回 本木昌造墓参・法要

平成28年9月2日(金)、大光寺において本木昌造先生の墓参・法要が行われました。
午後5時から墓地での焼香を行い、5時30分から本堂において第141回法要が執り行われま

した。
来賓、関連業者、組合員の約40名が参列し、大光寺住職の読経のもと、長崎県印刷工業組合山口善生理事長、本木昌造顕彰会 岩永正人会長、参列者がつぎつぎに焼香を行いました。

山口理事長挨拶、岩永正人会長のあいさつを行った後(要旨は後述)、株式会社朗文堂 片塩二朗氏に今回修復して印刷が可能となったアルビオン型手引き印刷機の価値・重要性についてお話しいただきました。
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◎ 長崎県印刷工業組合 山口善生理事長挨拶
本木昌造顕彰会は昭和60年に発足いたしましたが、本木昌造の顕彰事業は明治20年代頃から当時の商工会などにより本木昌造をたたえる動きがあったようです。

また、昨年、業界の皆様、またモリサワ様の絶大な支援をいただき復刻した本木活字を鋳造
し、これを用いた印刷体験を昨年の長崎市立図書館、今年6月福岡での九州印刷情報産業展、また、明日長崎市立図書館において業界また地域への広報に青年部を中心に行っていきます。
また、今年は印刷会館の倉庫に眠っていたアルビオン型手引き印刷機の修復を行い、印刷することが可能となりました。
今後とも、本木昌造の功績を長崎の文化遺産また印刷業界に携わる者の基礎として顕彰してまいりますのでよろしくお願いいたします。
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◎ 本木昌造顕彰会 岩永正人会長――本木昌造を支えた人々
今年は長崎県印刷工業組合、本木昌造顕彰会にとって記念すべき年となりました。

5月6日-8日の3日間、株式会社朗文堂主催で「Viva la 活版 ばってん長崎」というイベントを長崎県印刷会館で催すことができ、非常に有意義なことでした。
全国から活版印刷の愛好者、研究者、制作者等たくさんの方がお見えになりました。今日も朗文堂の片塩さんがお見えですが、本当にありがとうございました。

 〔平野 富二〕
その時に大きな報告をいたしました。本木昌造を支えた多くの方がいますが、その代表格が平野富二だと思います。本木の陰にかくれ長崎ではあまり注目をあびていないが、その生家を特定いたしました。本木昌造交友者マップにあらわしています。
旧町名 引地町、現在の桜町の長崎県勤労福祉会館です。国立公文書館にある長崎諸役所図にある町使長屋図「矢次」とあるが、平野富二の旧姓矢次家の場所です。
本木が大阪活版製造所を作るときに五代友厚から大きな借金をしたが、この借財を完済したのも平野富二である。印刷業界としても忘れてはならない人です。

 〔西 道仙〕
西道仙という人がいます。眼鏡橋の橋名碑の揮毫も西道仙である。明治時代の文化人であり、長崎の文明開化の先駆者である。ジャーナリストであり、政治家でもあります。明治6年長崎新聞を発行している。その他西海新聞も発行している。

 〔松田源五郎〕
松田源五郎は十八銀行の創始者であるが、当時の政財界をリードしている人である。長崎商工会議所を設立し、初代会頭を務めている。また、長崎新聞の創立にも貢献した人である。経済的に本木昌造を支えた人です。
本木昌造の事業はこういう人たちの応援があってなしえたものであり、そのことも改めて記憶しておきたいものです。
本木昌造交友者マップ.pdf

 〔アルビオン型手引き印刷機の修復〕
長崎県印刷工業組合所蔵のアルビオン型手引き印刷機の修復ができましたが、明治時代のものであり、印刷業界にとってきわめて大きなニュースです。本日その印刷機で印刷したものを資料として配布しています。福岡の文林堂の山田さんに修復いただきました。本当に有難うございました。
アルビオン型手引き印刷機について

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◎ 修復したアルビオン型手引き印刷機実演
平成28年9月2日(金)14:00からの理事会冒頭に修復したアルビオン型手引き印刷機の実演を行った。印刷機の操作は修復をお願いした㈲文林堂の山田善之氏にお願いした。実演には芸術工学会の大串誠寿氏(福岡市)、株式会社朗文堂 片塩二朗氏、大石薫氏(東京都)、タイポグラフィ学会 板倉雅宣氏(東京都)もはるばる駆けつけました。
印刷機の由来等について本木昌造顕彰会の岩永正人会長が説明し、同時に山田氏にアルビオン型手引き印刷機の写真を亜鉛版に作成し、印刷してもらいました。

 PBながさき93号(2016.09)

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長崎印刷組合年賀アルビオン上掲の長崎県印刷工業組合『PB ながさき』に紹介された記事は、おおむね <活版 à la carte>2017年01月23日掲載において紹介した。
【Viva la 活版 ばってん 長崎 Report 21】 長崎県印刷工業組合アルビオン型手引き印刷機一号機復旧再稼働成功報告。愈〻研究本格展開

まことに迂闊なことに、既報の<活版 à la carte・花筏>での紹介は、同組合会報誌『PB ながさき』ほかの記録が、URL上にPDFで公開されていることを知らぬまま記述していた。
ここに 長崎県印刷工業組合 執行部ならびに事務局の皆さまにお詫びすると同時に、長崎県印刷工業組合のURLへリンク設定すると同時に、今後は長崎県印刷工業組合の動向の紹介に注力してまいりたい。
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【図書紹介】 『石川島造船所創業者 平野富二の生涯』 髙松 昇著 株式会社IHI発行 2009年8月1日 非売品

20170209174758_00001 20170209174441_00001 故髙松昇受賞式にて: 前列左より 田村氏、髙松氏、石原氏。後列右より 合田氏、弊所山路理事長

2 0 1 0 年1 0 月2 9 日
プレス・リリース(PDF)
2 0 1 0 年度「住田正一海事奨励賞」、「住田正一海事史奨励賞」及び
「住田正一海事技術奨励賞」決定のお知らせ
                       社団法人日本集会海運所
                       住田海事奨励賞管理委員会

住田正一海事奨励賞は、永年海運造船事業に従事するかたわら、海事資料刊行、海軍史の研究を通じて、広く海事文化発展に寄与された故住田正一氏を記念して設置された。
正一氏のご子息、住田正二氏( 元運輸
事務次官、前J R 東日本社長、現J R 東日本相談役) が、1 9 6 9 年に創設して以来、社団法人日本海運集会所に住田海事奨励賞管理委員会を設け、選考決定している。2 0 0 2 年からは、海事史奨励賞、20 0 8 年度から海事技術奨励賞が設けられた。

本年度も 3  賞それぞれに応募作があり、選考の結果以下のように決定した。
・海事奨励賞受賞
作:石原伸志・合田浩之共著『コンテナ物流の理論と実際』(成山堂書店)
・海事史奨励賞受賞作:髙松 昇著『石川島造船所創業者 平
野富二の生涯』(株式会社 IHI )
・海事技術奨励賞受賞作:社団法人日本船舶海洋
工学会海中技術研究委員会編『海洋底掘削の基礎と応用』(成山堂書店)
2010年10 月2 5 日、日本海運集会所において受賞式が行われ、各
受賞者に賞状と賞金が贈呈された。

< 海事史奨励賞受賞理由>
海事史奨励賞の『石川島造船所創業者 平野富二の生涯』は、幕末から明治という激動の時代を47 歳という短命で逝った富二の生涯を、各地に散逸する新たな資料や情報を地道に長期間かけて発掘し、はじめて知られざる実像に迫ったもの。
同造船所を自らの手で創り上げた情熱と行
動力、そして起業家としての生きざまは、日本のものづくりの危機が叫ばれるなか、時代を超えて読者に訴えかけるものがある。
著者の髙松
昇氏は1943年株式会社東京石川島造船所入社、19841 年専務取締役を経て1991年退社。
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平野富二武士装束 平野富二 平野富二と娘たち 「平野富二生誕の地」碑建立有志会趣意書《ことしは平野富二生誕170年祭》
明治産業近代化のパイオニア-平野富二の生誕170祭の記念すべきとしである。
それを期として<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>が結成され、同会専用URL<平野富二:明治産業近代化のパイオニア>も公開された。
平野富二東京築地活版製造所初号明朝体<平 野  富 二>

弘化03年08月14日(新暦 1846年10月04日)、長崎奉行所町使(町司)矢次豊三郎・み祢の二男、長崎引地町ヒキヂマチ(現長崎県勤労福祉会館 長崎市桜町9-6)で出生。幼名富次郎。数えて16歳で長崎製鉄所機関方となり、機械学伝習。

1872年(明治05)数えて27歳 婚姻とともに引地町 ヒキヂマチ をでて 外浦町 ホカウラマチ に平野家を再興。平野富二と改名届出。
同年七月東京に神田佐久間町東校内に「長崎新塾出張所」(現東京都千代田区神田和泉町1)のちの東京築地活版製造所設立。
ついで素志の造船、機械、土木、鉄道、水運、鉱山開発(現IHIほか)などの事業を興し、在京わずか20年で、わが国近代産業技術のパイオニアとして活躍。
1892年(明治25)12月03日逝去 行年47

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《2002年12月1日 平野富二没後110年記念祭 平野富二碑移築除幕式と故髙松 昇さん》
HiranoH1[1] 20170209164033_00003平野富二碑 旧長崎禅林寺建立平野富二
(弘化3年8月14日-明治25年12月3日)
(1846.8.14 - 1892.12.3)

◎平野富二没後110年記念祭 平野富二碑移築除幕式
主 催  平野家一同
日 時  2002年12月1日 正午より(雨天決行)
場 所  平野家墓苑(東京谷中霊園 乙11号14側)
【 朗文堂ニュース過去ログ : 平野富二没後110年記念祭 平野富二碑移築除幕式 】
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デジタル時代の時計はあまりにはやくておどろかされる。
上掲した<海事史奨励賞受賞作:髙松 昇著『石川島造船所創業者 平野富二の生涯』(株式会社 IHI )>などの貴重な情報も、情報過多の渦に巻きこまれ、つい失念してご報告がおおきく遅延してしまうことがある。

髙松 昇氏は、1919(大正8)年12月04日 富山県高岡市の出身。
1941(昭和16)年 旧制富山高等学校卒業、1943(昭和18)年東京帝国大学経済学部卒業、同年株式会社東京石川島造船所(現IHI
)入社、爾来同社に勤続し1981(昭和56)年石川島播磨重工業(現IHI)専務取締役となり、1896(昭和61)同社常任顧問、1991(平成3)6月退社された。
そのころ筆者は髙松氏の謦咳に接する機会をえて、小田急線で世田谷区成城のお住まいを数度訪問したが数年前に逝去されたかたである。
ここにご報告の遅延を故人にお詫びするとともに、遅ればせながら皆さんに 髙松 昇氏の功績を紹介した。
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2002年12月01日、平野家一門の主催で<平野富二没後110年記念祭 平野富二碑移築除幕式>が開催された。
長崎から移築された「平野富二碑」のご披露のためもあって、会場を「東京谷中霊園内 平野家塋域」とした。告知に際して「雨天決行」としたが、折悪しく早朝から冷たい雨がふり、開始時刻前には本格的な降雪となった。

ご列席いただいた皆さんは、予測をはるかに上まわり115名の多くのご参加をいただいた。なかには遠方から、それも高齢のご出席者が多かった。
とりわけ平野富二の生誕地:長崎からは、三菱重工業株式会社長崎造船所(造船所史料館)、長崎県印刷工業組合(阿津坂 實氏)などの参列者がめだった。
あわてて葬祭業者に依頼して、テントをふた張り用意し、石油ストーブも数基設置したが震えあがるほどの寒さはきびしかった。

墓前祭のあと、日暮里駅前の料理屋で平野家主催の小宴がひらかれた。ところが列席者が多くて一度では会場に収容しきれず、若手は降りしきる雪の中で<谷中霊園掃苔会>を急遽開催して、90分遅れで小宴に参加していただいた。
平野富二没後110年記念祭 平野富二碑移築除幕式>関連の広報物のデザインは杉下城司氏が担当されたが、このにわかに設定された<掃苔会>のご案内役も担当していただいた。
また<THE CEREMONY TO COMMEMORATE  TOMIJI HIRANO 1846-1892>が、山本太郎氏によって欧文に翻訳・組版され、列席者に配布された(使用書体 : Adobe Jenson pro,  Adobe Warnock pro)。
ついでながら、このときの公式記録はプロの撮影によるビデオデープでのこされている。
デジタルメディア環境の激変もあり、そろそろほかのメディアに書きかえて皆さんのお役に立ちたいとおもう。

20170209164033_00001 20170209164033_00002[PDF:TOMIJI HIRANO 1846-1892

平野富二の在京20年ばかりの間の活躍分野は、<金属活字製造・活字版印刷・機械製造・造船・航海・海運・土木>といったひろい領域におよんでいる。
それぞれの分野でその関連分野の研究はすすんでいたが、とかく専門分野に特化しがちで、平野富二の全体像の把握は困難な情勢にあった。

おもへらく、2002年12月01日、平野家一門の主催で<平野富二没後110年記念祭 平野富二碑移築除幕式>が開催され、髙松氏をはじめとする「平野会-IHIの事業歴史研究会」の研究実績と、印刷・活字界の研究が突きあわされ、その後のひろい交流の基盤となった功績はきわめておおきかった。

あらためて、髙松 昇著『石川島造船所創業者 平野富二の生涯 下巻』 「あとがき」文中の-協力者御芳名-の記事をみると、先般発足した<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>の会員の名前が列記されていることにおどろく。
なかんずくこの「あとがき」は、「最後に、前記平野会の古谷昌二氏のご協力に感謝致します」として結ばれている。
こうした先達の遺徳にみちびかれて、古谷昌二氏を発起人代表として<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>が設立され、地道な研究と活動がはじまっている。
皆さまのご支援を期待するゆえんである。
古谷昌二さんuu[1] 平野表紙uu