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【Information Release Ⅱ】明治産業近代化のパイオニア「平野富二 生誕の地」碑 建立 記念祭|11月23[金・祝]・24[土]・25日[日]| 長崎県勤労福祉会館にて開催

!cid_2782B4E1-5FEE-4EB1-9E37-9C6F647CCAFE!cid_7002E204-10F0-44D9-A032-C71F637A9488明治産業近代化のパイオニア「平野富二生誕の地」碑建立記念祭

◯ 会  期
    2018年11月23日[金・祝]、24日[土]、25日[日]──三日間
◯ 時  間

    23日[金・祝]15:00-19:00/24 日[土]10:00-19:00/25 日[日]10:00-17:00
◯ 記念式典

    「平野富二 生誕の地」 碑 除幕式・祝賀会 11月24日[土]11:00より開催
◯ 会  場

    長崎県勤労福祉会館4階(長崎県長崎市桜町9 ― 6)
◯ 入  場 料

    無 料 〈催事の一部には参加費が必要なものもあります〉
    *展示のほかに、講演会、活版ゼミナール、ミニ・活版さるくを開催。詳細は下記webをご参照。

◯ 主  催
    「平野富二 生誕の地」碑建立有志の会
    160-0022東京都新宿区新宿2―4―9 4F 朗文堂内
    Telephone:03-3352-5070 Facsimile:03-3352-5160
    E mail : info@hirano-tomiji.jp  Web : http://hirano-tomji.jp/

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【Information Release Ⅰ】明治産業近代化のパイオニア 「平野富二 生誕の地」碑 建立 記念祭|11月23[金・祝]・24[土]・25[日]日 長崎にて開催

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明治産業近代化のパイオニア
「平野富二 生誕の地」碑 建立 記念祭
開催のお知らせ

「平野富二 生誕の地」碑 建立を記念して、『明治産業近代化のパイオニア「平野富二 生誕の地」碑 建立 記念祭』を長崎県勤労福祉会館を主会場として、11月23日[金・祝]、24日[土]、25日[日]の三日間にわたって開催いたします。
三日間の会期中は、平野富二を顕彰する『記念展示』を行います。

また、洋式造船や活版印刷などの事業を多角的に考察する『記念講演』や、日本のメディアの勃興のきっかけをつくった活版印刷を実際に体験する 『活版ゼミナール』を開催いたします。

そのほかに、近代日本が形成されていった過程で重要な拠点となった、平野富二のゆかりの地を新見知から解説する『江戸・東京 活版さるく 解説』と『崎陽探訪 活版さるく 解説』を開催。最終日には、実際に長崎の地を巡る『ミニ・活版さるく』を開催いたします。

なお11月24日[土]には、記念式典「平野富二 生誕の地」碑 除幕式を挙行いたします。

皆様のご参加、 ご列席を賜りたく、ここにお願い申し上げます。

2018年9月 吉日

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開催概要

名  称:明治産業近代化のパイオニア「平野富二生誕の地」碑建立記念祭
会  期:2018年11月23日[金・祝]、24日[土]、25日[日]
展示時間:
23日[金・祝] 15:00-19:00
24日[土]   10:00-19:00
25日[日]   10:00-17:00

記念式典:
「平野富二生誕の地」碑除幕式 11月24 日[土]11:00 開催

会    場:
長崎県勤労福祉会館「平野富二 生誕の地」(長崎県長崎市桜町9-6)

入  場  料:無 料 * 催事の一部には参加費が必要なものもあります
主     催:「平野富二 生誕の地」碑 建立 有志の会

☆イベント・スケジュール

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【タイポグラファ群像】小池製作所|小 池 林 平 と 活 字 鋳 造|日本の活字史のもうひとつの側面から

小 池 林 平 と 活 字 鋳 造

日本の活字史のもうひとつの側面から

***

活字鋳造法の長い歴史と普遍の技術

ヴィネット04口絵

活 字 鋳 造 師

錫と鉛の秘法をもって
鋳造活字をつくるのがこの儂じゃ
組版は正確きわまりなく
整然と活字がならぶ
ラテン語、ドイツ語
ギリシャの文字でも同じこと
イニシャル、句読点、終止符と揃え
あとはいつでも刷るまでさ

Illustration by Jost Amman
Text by Hans Sachs
1568

★     ★     ★

佐渡鉱山の技術者集団一家出身の小池林平

小池製作所の創立者・小池林平( 1915 – 96 )は、新潟県佐渡郡相川町に生まれた。

小池林平小池林平 1915-1996 写真は1985 年  

小池林平と小池製作所の歴史をたどると、それは明治の開国からの、わが国近代金属活字の鋳造と、その関連機器の開発史をたどることになる。
すなわち小池の師は、大正から昭和初期に活躍した「大岩式自動活字鋳造機」の開発者の大岩久吉であり、その大岩の師は、明治期に国産による「小型活字鋳造機/カスチング」を開発した大川光次につらなる。

それはそのまま、大蔵省印刷局と新聞各社を中心とした、大量に、精度の高い活字を求めた、印刷メディアの歴史とも重なるのである。

主要登場人物と、その業績と製品無題

民間企業である東京築地活版製造所や、秀英舎(現大日本印刷)の活字書体研究に関しては、相当の進捗を見るこんにちであるが、大蔵省紙幣司(1871- 明治 4 年創立)と、正院印書局(1872- 明治 5 年創立)に源流を発する大蔵省印刷局や、こんにちの独立行政法人国立印刷局など、官製の活字書体や、その活字鋳造法は意外に知られていない。

また大手新聞社の活字書体とその活字鋳造法も、資料は豊富に現存しているが、規模が大きいだけに、十分には研究の手がおよんでいないのが現実である。
赤坂・虎の門、工部省近辺工部省勧工寮活字局 跡

所在地:港区虎ノ門2丁目2 (もと佐賀藩松平肥前守中屋敷、維新後に赤坂溜池葵町 旧伊万里県出張邸跡)
標示物:独立行政法人 国立印刷局 虎ノ門工場 跡(国立印刷局 本局)〔港区虎ノ門2丁目2-4〕

概 要:「長崎県立長崎製鉄所新聞局」の活字一課「通称:活版伝習所」が1871年(明治4)4月に工部省に移管され、同年11月、東京の当地に移転して活版製造を開始した。
人員は長崎でウィリアム・ギャンブル(William Gamble 1830-86)から伝習を受けた者たちが中心で、設備も上海美華書館から購入したものが主体をなしていた。
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工部省勧工寮活字局は設立直後から、これも新政府系印刷工場の「左院活版部・正院印書局」からの移管要求にみまわれていた。それに抵抗して1873年(明治6)4月、活字販売広告を出して外部の一般企業にも活字を販売するにいたった。その抗争をみかねて、平野富二はおなじ長崎に源流を発する勧工寮活字局を民間に払い下げて、東京築地活版製造所と合併する案を提案したが実現しなかった。
その後活字局は勧工寮から製作寮に移ったが、結局のところ1874年(明治7)8月に「正院印書局」に併合された。
この地には2014年まで「国立印刷局 虎ノ門工場」があったが、滝野川工場と合併して「国立印刷局 東京工場」(北区西ヶ原2丁目3-15)となり、現在は「国立印刷局 本局」だけが置かれ、宏大な跡地周辺は現在再開発地区とされ工事が進行している。

図の中央左寄りに「工部省」と表記された一画が佐賀藩松平肥前守中屋敷跡で、「地質検査所」と表記された辺り左側に勧工寮活字局があったと見られる。ごく最近まで、ここには「財務省印刷局」の虎ノ門工場があった。 外堀を隔てた北側に「工部大学校」が表示されている。
感覚としてはアメリカ大使館と虎の門病院にはさまれた地区にあたる。(明治16年測量「五千分一東京図」より)

本稿はこうした印刷・活字史研究の間隙となっている、活字鋳造機、インテル・込め物鋳造機、自動活字鋳植機などの開発の歴史に、小池林平と小池製作所に焦点をしぼって記述するものである。したがって物語はすこしく長くなる。

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新潟県佐渡郡相川町は江戸初期に開かれた「佐渡金山」の鉱山町で、この町が活況を呈したのは 1603年(慶長 8 )、江戸初期の金山奉行・大久保長安(ながやす 1545-1613 )がここに陣屋を開設してからである。相川は徳川幕府の天領行政庁の所在地として殷賑をきわめる町となった。

小池林平はこの相川町に、建築設計請負業の父・栄蔵と、母・ハルとの間に、三男一 女の末っ子として、第一次世界大戦最中の 1915(大正 4 )年 9 25 日に誕生した。
父・栄蔵は早稲田工手学校に学び、建築設計技手の資格をえて佐渡に帰り、各町村の学校、庁舎、税務署などの設計に関与し、当時最先端の西洋建築手法によって、佐渡の主要な建築物にはなんらかの形で関与していた。

長男・熊太郎は、東京物理学校(現理科大学)を中退後に帰郷し、三菱鉱業佐渡工業所職員となった。次男・良作も相川中学(旧制)を卒業後、三菱鉱業に入社し、長兄と同じ道をたどったが、心臓病のため、1951(昭和 26 )年死去。長女・トシも三菱鉱業の職員と結婚し、いずれも佐渡鉱山と深い関わりをもった。

さて、この物語の主人公、末っ子の小池林平は、兄たちと同様に中学(旧制・現在の高等学校)に進学したかったが、
 小池の家から人も中学に行くことはない。いずれ中学には入れてやるが、三 年に編入すればよい。それまでは独学せよ」
と栄蔵に命じられて進学を断念し、家業を手伝いながら私塾に通って、中学への編入試験に備えていた。

そんなある日、林平に大きな転機が訪れた。当時の佐渡鉱山では、本の大煙突がアメリカ人技師の手で設けられて話題となっていた。隣家の物知りな主人がいった。
「あれを見よ。あの煙突を建てている米国の技術者は月に 1 万円ももらっているんだ。林平も学校などにいかず、彼のように手に職をつけよ」
ちなみにこの時代、大学卒業の技術者の平均的な月給は 35 円程度であった。

この時代、小規模な工場では小学校の卒業者しか雇わないのが通例であった。それは徴兵令にもとづいて、20 歳に達した男子は徴兵検査の上、強制的に軍隊に徴兵されるため、徒弟的な修業を経て一人前の技術者、すなわち叩き上げの職人や工匠となるためには、小学校卒業程度(12-13歳ほど)の年少者でなければならなかったのである。

林平が技術者への道を目指して上京を決意したのは 17 歳の春秋のときであった。1931年(昭和66月、小池の遠縁の福沢家の出で、東京で「大岩鉄工所」を経営している、大岩久吉の妻・ヤノの縁を頼ってのことであった。
ところが …… 、林平はヤノから一人前の職人になるための修業は相当厳しいと聞いただけで、大岩久吉といういかつい名前の人物も、ましてや「大岩鉄工所」がなにをしている工場かも良くは知らなかったのである。

このとき、昭和恐慌がピークに達し、9 月には満洲事変が勃発し、翌 7 5 月には「五・一五事件」が発生して犬養毅首相( 1855 – 1932 )が暗殺され、本格的な戦争への暗い予感が世相となっていた。
しかし同時に、この頃のわが国は、未曾有の低金利と低為替策(円安)に支えられ、輸出企業は活況を呈し、暗い予感に怖れおののく世相と、空前の利潤に沸き立つ財閥系輸出企業群という、アンバランスな表情をうかべていた。

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手鋳込み・手回し活字鋳造機と大川光二、その弟子・大岩久吉

大岩久吉はもともと煙管(キセル)職人として東京・向島で、兄とともにキセルの雁首などを加工する金属加工職人として生計を営んでいた。のちに最先端の印刷関連機器の「活字鋳造機/カスチング」(活字鋳造機 type casting machine )などと様〻に呼ばれた機器の製造者として手腕を発揮した。
この大岩の師匠は、彦根藩・井伊家の鉄砲鍛冶を祖とする大川光次(1853-1912)であった。

周知のように、鉛合金による鋳造活字を使用する活字版印刷術は、1445 年頃、わが国の室町時代に、ドイツのヨハン・グーテンベルク( Johann Gutenberg 1399 ?-1468 )によって創始された。
グーテンベルクは金属活字をおもな印刷版とする印刷術、すなわち 活字版印刷術 = Typography の開発者たちのうち、あまりにも著名なひとりであるが、また同時に、金属活字を製造するための効率的な活字父型( type punch )・活字母型( type mold )の製造法や、タイプ・キャスティング・ハンド・モールド( type casting hand mold 手鋳込み活字鋳造器・流し込み活字鋳造器)の考案者でもあったとみなされている。

わが国では「手鋳込み・流し込み活字・割り鋳型」などと呼ばれた、一見簡便なタイプ・キャスティング・ハンド・モールドの技術は、鉛合金の注入を、手動で柄杓(ひしゃく)状の器から鋳型に流し込む「流し込みタイプ・キャスティング・ハンド・モールド」であったが、その後はせいぜい流し込みから「ポンプ式タイプ・キャスティング・ハンド・モールド」に改良された程度で、400 年ほどの間、基本的な技術は変わらなかった。

活字父型とタイプ・キャスティング・ハンド・モールド。
手前に見えている金属片は贅片付の活字。Mizuno Printing Museum 所蔵。

Type Casting Hand Mold

   左:ブルース手回し式活字鋳造機   右:トムソン型自動活字鋳造機(小型)

Hand Casting Machine The Thompson Caster

しかし 1838(天保 9 )年、米人のダビット・ブルース( David Bruce Junior 1802-92 )が「手回し式活字鋳造機 pivotal type caster 」の実用化に成功した。

わが国の活字業界では「カスチング/手回し式活字鋳造機/手回し」などと様〻に呼ばれたこの「ブルース活字鋳造機」は、現在もなお、48 ポイント以上の大きなサイズや、スクリプト体などの「張り出し」があるような特殊な活字の鋳造のために、一部の業者が使用しているほど、堅牢かつ利便性の高い機械である。しかしこれがいつ頃、どのようにわが国にもたらされたのかは確証がない。

江戸末期、「流し込み活字」と称して「タイプ・キャスティング・ハンド・モールド(手鋳込み活字鋳造器・流し込み活字鋳造器)」による活字鋳造法によって、良質な活字を安定製造できずに苦吟していた長崎通詞・本木昌造らが、維新直前に松林源藏を上海の美華書館に派遣し、明治最初期に上海経由で入手したものとみられているが、これも確証はない。

「ブルース活字鋳造機」は手動の簡素な機構の機械で、2 個の L 字型の鋳型を組合せ、ポンプ(ピストンともいう)で地金を鋳型に流し込み、手動ハンドルを 1 回転させるごとに、贅片(ぜいへん/活字の尾状のもの)がついたままの活字を機外に排出するものである。これを仕上げ工が贅片を折り取り、カンナで仕上げて完成品とした。
1871(明治 4 )年、工部省勧工寮活字局は、おそらく「ブルース活字鋳造機」とおもわれる「カスチング 1 台」を設置して活字を鋳造し、民間にも活字を供給しようとした。

!cid_704522C0-CBF9-4429-A5F1-353ABD0C6F62「江戸名所道外盡 神田佐久間町」広角画・東京都立中央得図書館
絵師:広角は津藩藤堂和泉守上屋敷の門長屋の正月風景をのこしている。当時25万石の大名:藤堂家のような武家屋敷には町名はなく、「藤堂さまお屋敷」などと呼ばれていた。町人地であった神田佐久間町はほぼこの絵図のままに現存するが、それは家系図画面左手であり、左下にわずかに屋根の一部が描かれているにすぎない。
37-05.『江戸名所道外盡 神田佐久間町』広景画 resized

いっぽう、本木昌造の長崎新町活版製造所の経営を継承した平野富二は、10 名の同志とともに 1872(明治 5 )年、千代田区神田和泉町、旧津藩藤堂和泉守上屋敷の門長屋の一隅(現千代田区立和泉小学校のあたり。多くの記録に-外神田佐久間町三丁目-とされているが、それは町人地で、道路の反対側にあたる)に「崎陽新塾出張活版製造所」を設置した。
このとき使用した「手鋳込み活字鋳造機」と記録されている機械も、製造量と単価の記録から推量すると「タイプ・キャスティング・ハンド・モールド」ではなく、すでに「ポンプ式タイプ・キャスティング・マシーンハンド・モールド」、あるいは「ブルース活字鋳造機」を導入していたとおもわれる。

この平野富二による活字鋳造所は、のちに築地に移転して、東京築地活版製造所となって「東洋一の活字製造工場」(印刷雑誌)として盛名をはせることななる。1881(明治 14 )年に同社は米国から「ダビッド・ブルース型活字鋳造機を購入した」と『印刷製本機械百年史』に記述されている。おそらくこの頃から「ブルース活字鋳造機」が本格的に、あるいは商事会社などによってわが国に輸入されたのであろう。

国産による「小型鋳造機/手回し式活字鋳造機 pivotal type caster 」を最初に開発したのは大川光次であった。代々鉄砲鍛冶として、彦根・井伊藩に仕える家に生まれた大川は、少年時代から家業を手伝っていたが、1920年(明治 5)、赤坂・田町で流し込み活字(タイプ・キャスティング・ハンド・モールドによる活字のことか?)、および鋳型(タイプ・キャスティング・モールドのことか?)の製造・販売を開始した。
1927年(明治 12 )には大蔵省印刷局に招かれて鋳造部伍長となり、やはり同局に入った実弟の大川紀尾蔵とともに、活字鋳造と鋳型の完成に努力した。

1883年(明治 16)に山縣有朋の建議によって官報第 1 号が発行された。
大川兄弟はこの年に大蔵省印刷局を退き、赤坂・田町において鋳型製造業を再開するとともに、国産 1 号機となる活字鋳造機「小型鋳造機/手回し式活字鋳造機/カスチング」を製作した。従来はこの大川光次製の、様〻な名称によって呼ばれていた活字鋳造機の詳細がわからなかったが、『小池製作所の歩み』にわずかに残された不鮮明な石版印刷の図像をみると、大川兄弟が製造した通称「カスチング」とは、「ブルース活字鋳造機」の模倣機といえた。

後述するが、これらの機器は補充部品の供給もままならず、また解体修理を迫られることは今でもしばしばある。当時の通信・交通事情を考慮すると、その依頼を原産国に発注することは事実上不可能であった。したがって大川兄弟は「ブルース活字鋳造機の英国製?の模倣機」に合わせて、日本語活字の鋳型をつくり、また、その修理の経験をへて、独自に模倣機の製造技術を習得したものとおもわれる。

大川光次の製造による国産「小型鋳造機/カスチング」

大川の「小型鋳造機」はそう広範囲に普及したわけではなく、おもに、かつての同僚であった大蔵省紙幣寮や印刷局系の出身者が購入した。その代表は松田敦朝(あつとも 1825-1903 )による「玄々堂印刷会社/東京活字鋳造銅版彫刻製造所」や、神崎正誼(まさよし 1837-91 )の「活版製造所弘道軒」であった。神崎正誼の記録には、縁者のツテを頼って英国から「鋳造機」を輸入したという記述をみる。

「明治 16 年、大川兄弟は揃って印刷局を退き、赤坂田町 4 丁目(TBSのちかく)で鋳型及び鋳造機の製造を開始した。この鋳造機の原体は弘道軒神崎氏の義兄にあたる英国駐在公使が、神崎氏のために送ってきたもので、築地型とは異なり小型であった。それを神崎氏からスケッチさせてもらって、一工夫を加味したのである。これが本邦における小型鋳造機製作の起源となった」(『毎日新聞百年史』)。

活字鋳造機とは、ふつうは活字のサイズは可変型になっている。しかし実際の現場では利便性を重んじ、サイズ毎に鋳造機と鋳型を固定して、複数台数を設置することがほとんどである。したがって「玄々堂印刷会社」や「活版製造所弘道軒」が実際に使っていたのは、大川光次製の「小型鋳造機/カスチング」であったとみられる。
その結果、米国製の活字鋳造機「ブルース活字鋳造機」や「トムソン活字鋳造機」と、その模倣国産機を用いていた東京築地活版製造所と、大川光次の「小型鋳造機/カスチング」を用いた「玄々堂印刷会社」や「活版製造所弘道軒」の活字サイズは、鋳型の寸法や基準尺度の相違から、それぞれが独自のサイズのものとなったとみてよいだろう。

蛇足ながら …… 、大川光次製の「小型鋳造機/カスチング」は、精度と強度に何らかの問題を抱えていたのかもしれない。つまり大川光次製の「小型鋳造機/カスチング」を実見したという報告に接したことはないが、「ブルース活字鋳造機」は相当古いものでも健在で、現在も活字鋳造現場では実用機として用いられている。
のちに大川光次は芝・愛宕町に移り、1912年(明治 45 )、60 歳をもって逝去した。大川光次に関しては『本邦活版開拓者の苦心』「初期の鋳型、鋳造機製作者 …… 大川光次氏」に詳しい。

昭和 9 年に刊行された同書のこの章のサブ・タイトルには「門下の俊才ことごとく第一線で活躍」とあり、文末には「ちなみに大川門下として現在活躍されている俊才は、須藤、大岩、関、國友氏などである」とある。小池林平が師と仰いだ大岩久吉は、まぎれもなく大川光次の門下であった。

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大岩久吉と、昭和初期のトムソン活字鋳造機

東京市芝区金杉橋にあった「大岩鉄工所」は、従業員 8 名ほどの小規模な町工場であった。間口4-5 間、奥行き 14-5 間の木造 2 階建ての建物で、1 階部分を工場とし、2 階は従業員の寮であった。技術者として立つことを夢見て上京した小池林平も、ここに住み込みで働くことになった。

当時の活字の鋳造は、すでに手鋳込み式(流し込み式)のタイプ・キャスティング・ハンド・モールドや、その改良型のポンプ式流し込み活字鋳造機の段階を終えており、「ブルース活字鋳造機/手回し式活字鋳造機」と、その模倣型国産機「小型鋳造機/カスチング」の普及と国産化が進展しており、また「自動活字鋳造機(トムソン活字鋳造機)」導入の端境期にあった。

「トムソン活字鋳造機 Thompson type-caster」はシカゴのトムソン社( Thompson Type Machine Co., 米国)製で、面倒な贅片処理を自動化して 1909 年アメリカ国内特許を所得した自動活字鋳造機であった。トムソン活字鋳造機は鋳型を取り換え、また腹板を厚薄いろいろに変更して、48 ポイントまでの活字と込め物類を完全鋳造した。

ブルース活字鋳造機の国産模倣機が、大川兄弟による「小型鋳造機/カスチング」のほかにめぼしいものがなかったのにたいして、トムソン活字鋳造機は、正規輸入品は少量にとどまり、多くはこれに正方形の日本語活字に適した改良を加えた国産の模倣機が用いられた。わが国の活字界ではこのような類似した型の国産自動活字鋳造機をも「トムソン型活字鋳造機」、あるいは単に「トムソン」と呼んでいる。

大正期後半頃からトムソン活字鋳造機を輸入・販売したのは三井物産であった。販売は順調であったが、当然部品の交換や、様々な補修や修理の必要があった。それをいちいちシカゴ・トムソン社に発注したり、人員派遣の依頼をすることには困難があった。そのために三井物産は、大川光次門下出身で、活字鋳造機に詳しく、練達の技術者でもあった大岩久吉に、交換部品の製造と修理を依頼することになった。

したがって「大岩鉄工所」は小規模な町工場とはいえ、大岩久吉の技量は瞠目に値するものであり、技術者といえば、佐渡相川町の鉱山技術者しか知らなかった林平少年にとって、はじめて知る、めくるめくような先端技術の展開の場でもあった。

とはいえ、このプロジェクトは公式には秘密事項になっており、大岩鉄工所の名前は表にでず、また大岩久吉は弟子や下請企業がやった仕事はまったく信用しなかった。大岩鉄工所の従業員はただ補助的な仕事を担っているに過ぎず、機械の性能・強度・精密度は大岩の仕上げの手腕ひとつにかかっていた。

「小型鋳造機/カスチング」すなわちブルース型活字鋳造機の技術者であった大岩が、トムソン型活字鋳造機でその名声を高めたことの根底には、類い希なる職人気質があったことはいうまでもないが、直接の契機となったのは、大岩がトムソン自動活字鋳造機に、技術者として心底惚れ込み、それを徹底的に学んだことにあった。

「大岩久吉は典型的な名人気質の人であった。(大蔵省)印刷局のトムソン活字鋳造機の修理をしているとき、この機械が一点の妥協も許さないほどの高い精度があることに惚れ込んで、このような活字鋳造機を自製してみたくなり、印刷局の了解を得てこれをスケッチした。このときのスケッチは、微細な傷にいたるまで完全に写しとっていたということである」(『毎日新聞百年史』)。

三井物産から部品製造と修理を委託されたことから、大岩は当時の最優秀機であったトムソン活字鋳造機の製造技術を吸収していた。しかしながら反面では、技術と機械に惚れ込むあまり、また資本力も乏しかったために、「トムソン」すなわち国産自動活字鋳造機の開発に関しては他社に遅れをとることにつながった。

国産化で大岩鉄工所に先行したのは、林栄社と、大手機械メーカーの池貝鉄工所であった。林栄社はトムソン社製の自動活字鋳造機を独自に研究し、1926年(大正 15 )国産機の完成にこぎつけ、「万年自動活字鋳造機」と命名して発売した。池貝鉄工所も追随して 1929年(昭和 4 )から発売した。そのほかにも東京機械製造、須藤製造所なども「トムソン型活字鋳造機」を発売した。これらの企業にはほとんど大川光次門下生がなんらかの形で関係していた。

そもそも輸入品のトムソン活字鋳造機は、欧文活字を効率よく、高速で鋳造するための機械であったから、和文用活字を鋳造すると、活字の脚の周辺部に「鋳バリ」が生じることが難点であった。そのために国内メーカーが模倣機を開発する際には、その仕上げ装置(バリ取り)の性能いかんが最大のポイントであった。『毎日新聞百年史』には次のようにある。

「大岩鉄工所の小池林平氏は東京日日新聞(毎日新聞の前身)に出入りして、トムソン活字鋳造機の仕上げ装置の欠点を改めようとし、独自の仕上げ装置を考案して特許をとった。輸入機の仕上げ装置はその後小池製作所の手に引き継がれ、現在も毎日新聞社のトムソン活字鋳造機につかわれている」

大岩鉄工所もこうした動向と無縁ではなく、他社に販売時期は遅れをとったものの、独自に、あるいは「高圧」という商事会社を通じて「大岩式自動活字鋳造機」を販売した。その製品の優秀性は他社製品を圧倒したが、いかんせん資本力がなく、また輸入機が 1 1 万円ほどだったのにたいして、国産機の一部業者は 1 1,800 円という低額販売を開始したために、池貝鉄工所はこの分野から事実上の撤退をはかり、三井物産も自然にトムソン機の輸入を中止するにいたった。

どういうわけか、「活字」という、言語に関わる「鋳物」を作る鋳造機には、ほかの工業機器にはない独特の製造思想のようなものが要求された。そのために国産機は独創的であろうとするあまり、とかく小手先の細工に陥りやすく、また部品点数がふえすぎて故障を招きがちで、耐久性に劣るという欠陥がみられた。大岩鉄工所がトムソン機の模倣機に、自社開発の活字仕上げ装置を付帯した「大岩式自動活字鋳造機」を発売したのは輸入元であった三井物産への遠慮もあり、他社に遅れて 1933年(昭和 8 )のことであった。
大岩鉄工所にきびすを接して、日本タイプライターも 1934(昭和 9 )年「万能活字鋳造機」を発売した。同機は大きさの異なる活字鋳造が、同一作業中でも可能で、とりわけ邦文モノタイプ用のセクショナル母型盤をそのまま使うことができた。

大岩久吉が作った機器とは、無駄を最大限に省き、それでいて高精度であり、かつまた耐久性を重んじた製品であった。しかしこうした職人魂を誇った大岩久吉も 1937年(昭和 12 )急逝した。
大岩家には、妻・ヤノ、長男・末吉、異母兄・勝太郎がのこされたが、長男末吉は結核によって父の跡を追うように逝去した。そのために継嗣として大岩勝太郎が事業を継承した。しかし実際には、大岩家のたつきともども、あまりに若き小池の肩に、大岩鉄工所の経営はゆだねられた。

ところが大岩ヤノは、夫、長男と相次いで喪って経営意欲をなくし、同郷の建築請負業者・児玉富士太郎を通じて、ダイヤモンド社・石山賢吉社長を訪ねて大岩鉄工所の買収方を要請した。

当時の石山賢吉のもとには投資家が頻繁に出入りしており、身売り企業を投資家と結びつける役割を果たしていた。石山は大岩鉄工所を買収の上、軍需下請け会社にしようと考え、1949年(昭和14 )に買収を完了、法人化の上、社名をダイヤモンド機械株式会社とした。
初代社長には某鋳物会社社長が、二代社長にはウェル万年筆社長・西尾信三郎が就任したが、日常業務はほとんど小池林平らに任せきりであった。小池林平は徴兵検査に臨み、陸軍高田第 3 砲兵連隊所属となったが、乙種合格のために兵役をのがれていた。この年、小池林平はまだ 20 歳であったのである。

こんにちの小池製作所も、この「大岩魂」を継承している。小池林平は最後まで、「私がこんにちあるのは、大岩久吉氏の薫陶のおかげである」として、浅草・潮江院の大岩久吉の墓への墓参を欠かさなかったという。

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時局切迫下、活字文化衰退の一途の中で小池製作所の創業

自動活字鋳造機、邦文モノタイプは、正規輸入品と模倣国産機ともども、技術革新は格段に前進し、新聞報道や印刷の迅速化に貢献しつつあった。しかし 1937年(昭和 12  7 月勃発の日中戦争、翌年の国家総動員法の発令を契機として時代は暗転し、印刷文化は窮状に追い込まれていた。

時局緊迫の中で、印刷製本機械工業組合が 1937年(昭和 12 )に創立されたが、すでに印刷を不要不急のものとみなす動きがあり、翌 1938 年には印刷製本機械にたいして、製造禁止令がかけられるにいたった。
それだけではなく、印刷業界は鉄や非鉄金属の物資動員計画の先制的な標的とされ、「印刷工場は金属鉱山」と題する論文までが中央官僚(矢野道也)の筆によって登場するにいたった。
こうした官僚側からの圧力をうけて、やがて官製の国民運動「変体活字廃棄運動」がわが国の活字を襲うことに連なったのである。この、わが国の近代活字を襲った最大の蛮行「変体活字廃棄運動」に関しては、「変体活字廃棄運動と志茂太郎」『活字に憑かれた男たち』(片塩二朗、朗文堂)に詳しい。

いっぽう大手印刷資本や新聞社は新市場をもとめ、軍の展開にあわせて、満洲(現中国東北部)、中国各地、南方諸島などに進出して、現地の印刷所を「接収」して印刷にあたっていた。
そのために国内の印刷関連機器メーカーは、転廃業するか、軍需工場の下請となって生き延びるしかなかった。また企業の統廃合もはじまり、印刷関連業者では 1938年(昭和 13 )に、東京築地活版製造所が清算解散、芳賀印刷機械製造所が廃業し、翌々年には浜田印刷機が製造を中止した。
また 1940年(昭和 15 )頃から印刷用紙などの紙不足が深刻になってきた。翌年には用紙配給機関として「日本和紙統制株式会社」が設立され、出版用紙の割当配給制度がはじまり、活字を含む印刷資材の配給もすべて「日本印刷文化協会」が取り締まることになった。

時局が切迫感をました 1943年(昭和 18 )、軍需省は印刷業の企業整備要項を発表、印刷製本関連の各工場が企業整備(統廃合)されるとともに、地方への(強制)疎開もはじまった。その結果、同要項施行以前に 18,225 社あった印刷業者は、翌年にはわずかに 5,471 社に激減した。

それに際して「印刷工場は金属鉱山」とされた印刷・活字業界から「供出」(没収)された機械や活字の供出量は、公式発表だけでも、鉄 18,520 トン、鉛(活字地金)9,670 トンが「供出」された。すなわち 2 トン車の小型トラックなら、鉄 9,300 台、活字地金 5,000 台近くにもおよぶ鉄と非鉄金属が「聖戦遂行」の美名のもとに奪い去られた。もちろん前述したように、非公式な官製の国民運動「変体活字廃棄運動」も水面下で陰湿に展開していた。

この間、1939年(昭和 14 )に設立されたダイヤモンド機械株式会社と小池林平は、活字鋳造機の分野を縮小して、ほそぼそと中島飛行機発注の戦闘機の部品製造を手がけていた。こうした折り、海軍省から大岩式自動活字鋳造機 10 台の注文があった。電話の呼び出しで小池が横浜駅に到着すると、海軍の車が待っており、海軍監督工場の文寿堂印刷工場へ連れて行かれた。

文寿堂は佐藤繁次郎が経営する民間会社であったが、海軍の監督下で暗号帳を専門に印刷していた。ここにはすでに 7 台の大岩式自動活字鋳造機を納入済みであったが、さらに 10 台を追加発注したいという話しであった。
しかも軍の最高機密である暗号活字を鋳造する機械を、いつ空襲にあうかも知れない町工場で製造させるようなときではなく、小池以下、活字鋳造機の製造担当者は、全員海軍が身柄を含めて預かるということであった。

帰社した小池は、事実上の最高責任者であるダイヤモンド社社長・石山賢吉の了解を得て、田村正、刀根功作、吉田秀夫らとともにダイヤモンド機械株式会社とは分離して、海軍に移ることになった。海軍への移動の直前、小池は大蔵省印刷局と毎日新聞社に納入していた大岩式自動活字鋳造機には、今後とも修理と部品提供に責任を持ちたいとして、軍部からの承認を取りつけていた。

こうして小池林平他 5 名は「海軍横須賀砲術学校印刷部」に所属して、ここで活字鋳造機を造ることになった。これが小池製作所の事実上の創立となった。このとき小池林平 26 歳の夏、1941 年(昭和 16 )のことであった。

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荒廃からの再出発、インテル鋳造機と小池製作所の設立

サイパン島から飛来した B29 による本土空襲などによって、首都東京は甚大な被害をこうむり、荒涼たる瓦礫の街と化した。印刷業者の罹災率は、東京 66%、神奈川 59%、大阪 53%、工場数では全国 4,800 社におよんだ。また新聞各社の工場も同様の惨状を呈していた。

小池林平らがいた海軍横須賀砲術学校では、8 月の深夜になると、機密書類を焼く光景が構内の各所で見られた。ところが日夜地下工場で機械製造にあたっていた小池らはそれを不審にはおもったが、まさか敗戦が間近に迫っているとは気づかずに日常業務にあたっていた。そして、昭和 20 年( 1945 8 15 日の敗戦を迎えた。

ひとびとはいうにいえない空虚感に苛まれた。新聞各紙がペラの 2 ページ版、しかも裏面が白紙という、まるで号外のような新聞を発行せざるをえなかったのは、あながち用紙不足のせいだけではなかった。それはついきのうまで「鬼畜米英・挙国一致・本土決戦・一億玉砕」を叫んだ同一のペンで、180 度の転換をすることに、言論人としての良心がゆるさなかったのであろう。

しかし、途絶していた活字文化は不死鳥のごとく甦ろうとしていた。新聞・印刷の業界は再起にむけて、印刷機械部門の技術者たちに熱い期待の視線を注いだ。そのために離散した技術者を探し出し、焼損した機械の修理や、新規技術開発を依頼し、他社に一歩でも先んじようと競いあった。
佐渡郡相川町に帰郷していた小池林平にも、ある日、毎日新聞東京本社から上京を要請する連絡がはいった。戦争末期、毎日新聞社は八王子市大横町にほとんどの印刷機器を疎開していたが、敗戦直前の 8 12 日の空襲で全焼していたのである。

上京直後から早速、小池は八王子の毎日新聞社の焼損した活字鋳造機の修理にとりかかった。それだけではなく、戦前来各社に納品してきたトムソン活字鋳造機の仕上げ装置や、大岩式自動活字鋳造機の修理と部品供給の任務が、小池の両肩にずしりとかかってきたのである。
こうした要望に応えるために、小池は工場の設置を決意し、退職金がわりに海軍から払い下げを受けた 3 台の活字鋳造機を元手に、目蒲線矢口駅近辺に仮工場を設置し、まもなく大田区鵜ノ木 3 丁目 23 18 号に、土地 100 坪の借地工場を購入して移転した。小池林平は順調な受注を得て自立の意思を固め、1947年(昭和 22 )に戦後社会の活字文化に貢献すべく、合資会社(のちに株式会社に改組)小池製作所を設立したのである。

ところで、毎日新聞東京本社から小池林平が重大な要請を受けたのは、それに先立つ1946年(昭和 21 )年 8 月、小池林平が 31 歳の働き盛りを迎えたころであった。
当時の毎日新聞社技術部長は長谷川勝三郎( 1912-2001 )であった。長谷川は東京高等工芸学校印刷工芸科の出身で、新規設備の導入には人と技術を重んじる毎日新聞の伝統的な社風を体現したひとりであった。

その膝下に古川 恒(ひさし 1910-86 )副部長がいた。古川は昭和初期、およそ 10 年間にわたって活字鋳造課に所属、のちに技術部長となった。また『毎日新聞百年史』の技術編は、ほとんど古川の手によったものである。また東京築地活版製造所跡地に設けられた「活字発祥の地」碑の撰文も古川の手によった。

毎日新聞社技術部の古川副部長と鈴木緑四郎は、まだ矢口渡に工場があったころに小池のもとを訪ねていた。古川はそのときすでに、毎日新聞活版部の命運を左右する機械の開発について、小池製作所に賭ける腹づもりがあった。それが「金属インテル(条片)鋳造機」の製造であった。

既述のとおり、わが国においてはすでに戦前から自動活字鋳造機の普及によって、大手印刷所や新聞各社は自動活字鋳植機を導入し、「自家鋳造による活字の 1 回限り使用」を実現していた。しかし印刷版の行間を構成するインテルや罫線などの条片類には自動化は及ばなかった。これらは徹頭徹尾手作りで、特殊な技術と手間を要する高価なものであった。

そのために、活版印刷の現場では、印刷や紙型取りの終了後、活字はすべてひとまとめに溶解釜に放り込んで再使用していたが、インテルや罫線はひとつひとつ拾い出し、インキを洗い流して再び使用していた。つまりインテル類に関しては旧態依然として、解版、洗浄、返し版、再使用を余儀なくされていたのである。そのため、金属インテルの自動鋳造は、新聞社、印刷会社を問わず、省力化とスピード・アップのための喫緊の課題だった。

古川 恒は 1942年(昭和 17 )にマニラに転勤となった。当時、毎日新聞社は、フィリピン、セレベス島、海南島、台湾、上海の各地に進出し、現地の印刷所を接収して、『マニラ新聞』『セレベス新聞』などの各種の新聞や、軍関係の印刷物を担っていた。主要各紙も同様であった。
古川が勤務したマニラ市では、米国系の、1 年半後に転じたセレベス島マカッサル市では欧州系のインテル鋳造機がすでに使用されていた。古川は技術者の視線で、現地でこれらのインテル鋳造機をつぶさに観察し、その原理を頭に叩き込んで帰国したのである。そしてこれらの機械が、きわめてオーソドックスに作られていることに気づき、日本でこれを開発するならば、大岩鉄工所の流れを汲む小池製作所以外にないだろうとの確信を抱いての訪問であった。

古川恒インテル鋳造機の試作機と古川 恒

「毎日新聞が小池製作所にたいして、条片(インテル)鋳造機を作るように口頭で依頼したのは昭和 21 8 月であった。当時はどこの機械メーカーも焼損機械の修理に追われており、新機械の開発に取りかかれるような状況ではなかった。しかしながら小池林平は昭和 8 年頃(小池林平の記憶では昭和 10 年)条片鋳造機を研究し、特許もとっていたので、喜んで製作を約束してくれた」(『毎日新聞百年史』)。

この要請があった当時の小池製作所は、自動活字鋳造機の製造や修理で従業員はフル稼働していた。また、敗戦の直後から、各地に活字鋳造業者や活字母型製造業者が雨後の筍のように出現していた。しかしこれらは最終的に、林栄社、小池製作所、それに林栄社の工場長だった津田藤吉が移籍した八光活字鋳造機製作所が主力メーカーとして残った。活字鋳造機は量産型の製品ではないために、大手機械メーカーではかえってコスト高となり、専業メーカーに対抗できなかったのである。

「来てください、どんどんインテルが出るようになりました」

小池林平からの弾んだ声の電話を古川恒が受けたのは、1949年(昭和 24 11 月のことであった。依頼から 3 年余の苦闘の日々ののちであった。

「早速有楽町から鵜ノ木の小池製作所に駆けつけてみると、インテルが順調に押し出されている。工場内には従業員の快活な声が行き交っていたが、ふと気づくと、機械から飛散する、熱した油のために、小池社長以下全員が火傷だらけでした。あのときの情景は今も忘れることができません」

と、古川 恒は『毎日新聞百年史』に多くのページを割いて、その苦心談を語り、小池林平を高く評価している。

「インテル鋳造機 strip caster, slug casting machine 」とは、インテルや罫線などを自動的に鋳造する機械である。すなわち活字鋳造機に似て、地金を溶解釜から細い透き間をとおして送り込み、一定の長さに鋳造したインテルの部分を、つぎつぎに融着して、1 本の長いインテルに仕上げるものである。凝固したインテルは引き出し装置によって引っ張られ、指定の長さに切断される。
この種の機械で代表的なひとつがルドロー・ティポグラフ社( Ludlow Typograph Co., 米国)の製品「エルロッド」であるが、同機は厚さ 1 -42 ポイント、長さ 1-24 インチ、鋳造速度は毎時 25 -45 フィート程度であった。

いっぽう、小池製作所が作ったインテル鋳造機は、活字と同一の地金を用い、各号数の全角から 4 分までの厚さが鋳造でき、1 時間あたりの鋳造速度は 130 メートル程度の高性能を誇った。この機械は毎日新聞工務部次長・齊籐雅人によって、製品名「小池式ストリップ・キャスター Koike Strip Caster 」と名づけられて毎日新聞社に即時納入され、その後新聞各社はもとより、印刷会社や活字鋳造所にひろく採用された。また「自動罫インテル鋳造機」として特許が認められた。

小池式ストリップ・キャスター Koike Strip Caster

小池式ストリップ・キャスター

「小池式ストリップ・キャスター」の開発成功は、小池林平に企業体としての小池製作所の発展に自信を与えた。それまでの小池製作所は自動活字鋳造機の主力メーカーとして知られていた。生産・販売台数は、1945 20 台、1946-50 年は毎年 60 台であった。しかしながらこれは大岩式のそれを基本的に継承したものであり、小池製作所の新規開発製品といえるものではなかった。すなわち、あくまでも故・大岩久吉あっての小池製作所であったのである。

さらに「小池式ストリップ・キャスター」の最大の成果は、従業員全員に新製品開発への意欲を喚起させたことであった。それは一流新聞社からの至難と思われた開発要請に応えたという自負だけではなく、競業他社と競いつつ、また自らが試行錯誤しつつ前進していくという、製品開発のプロセスを従業員が共有したことは、小池製作所の基盤を一段と強化した。

「小池式ストリップ・キャスター」はその後、ヨーロッパ諸国をはじめ、韓国・タイ・香港・インド・マレーシア・台湾などに輸出され、外貨不足に悩んでいた戦後のわが国にとって、「輸出貢献企業」としてさまざまな表彰を受けるにいたった。

【YouTube 長瀬欄罫製作所 日本語モノタイプ&インテル鋳造機の稼動の記録 音が出〼 3:40】

 相次ぐ技術開発、そしてついに KMT 全自動モノタイプの開発

小池製作所が自動罫インテル鋳造機の開発に全勢力を注ぎ込んでいたころ、活字業界では「変体活字廃棄運動」の悪夢をぬぐい去り、戦禍からの活字文化の復興を目指していた。そのために大きな役割を果たしたのが、ベントン活字母型(父型)彫刻機の特許切れに伴う国産化の動きであった。

もともと活字父型と活字母型の製造法には、パンチド・マトリクス法、電鋳法(電胎法)、彫刻法があった。このうち彫刻法の技術に、リン・ボイド・ベントン( Linn Boyd Benton 1844-1932 米)による画期的な発明「ベントン活字母型(父型)彫刻機 Benton type matrix ( or punch ) cutting machine 」がもたらされた。

この機械は相似三角形(パントグラフ)の理論を応用したもので、わが国ではおもに活字母型( type matrix )製造のために、特殊なカッターを毎分 8,000-10,000 回の高速回転によって、マテ材の表面に活字原図のパターンを縮小(まれに拡大)して彫刻するものであった。ベントンはこれを 1884 年に完成し、翌年に英米の特許を得た。

戦前のわが国の活字母型製造では、もっぱら種字とよばれた木製の活字原型か、活字そのものを活字父型代わりとする「電鋳法-電胎法とも」が中心であったが、大蔵省印刷局が新機構の「ベントン活字母型彫刻機」を 1912年(明治 45 )に導入し、三省堂と東京築地活版製造所(のちに凸版印刷に譲渡)が 1922年(大正 11 )に導入していた。

戦後、大日本印刷は、損傷と摩滅のめだっていた活字母型を再構築することを目的とし、三省堂の了解と協力を得て、測定機器のメーカーであった津上製作所に同機をスケッチさせて国産機の開発に乗り出した。
津上製作所は 1949年(昭和 24  9月、毎日新聞東京本社で国産機の展示会を催し、大日本印刷と毎日新聞社に続々と納入され、活字鋳造業者からも熱狂的に歓迎された。ついで富山市の「 NACHI 」ブランドで知られる機械メーカーの不二越も、同様にこの分野に進出した。この間の情報は『秀英体研究』(片塩二朗、大日本印刷)に詳しい。

国産メーカーによる「ベントン型活字母型彫刻機」は、電鋳法による活字母型の手作業を大幅に機械化し、敏速で精度の高い活字母型の製造に貢献した。しかし彫刻針で彫った活字母型から鋳造される活字には、表面に独自の出っ張りが生じる欠陥があった。そのために、これにもやはりなんらかの活字仕上げ装置を付帯させなければ、連続鋳造は不可能であった。

この装置を得意分野としていた小池製作所は、後発ではあったが、彫刻母型による活字仕上げ装置の開発に着手した。後発メーカーの宿命として、他社の特許に抵触することを避けたために開発は難渋したが、極めて単純明快な、カッターによる仕上げ装置を 1963(昭和 38 )年に開発するにいたった。先発企業のそれは、刃物でえぐり取るものであったので、その優良性は明白で、この「出張り活字の仕上げ装置」は特許を得て、ベントン型活字母型彫刻機のユーザーにひろく受け入れられていった。

活字鋳造界がベントン型活字母型彫刻機の開発に夢中になっていたころ、新聞社と大手印刷所の大きな関心は、活字組版の機械化と合理化、すなわち活字を 1 本ずつ鋳造しながら、自動的に組版までを作る「自動活字鋳造植字機」ともいうべき「モノタイプ monotype 」の開発に向けられていた。

モノタイプには、欧文用と邦文用がそれぞれ独自に開発され、特許も取得したために、先発したタルバート・ランストン( Talbert Lanston 1844-1913 )が 1887 年に発明、1889 年に試作機を完成し、1897 に商品化された「ランストン・モノタイプ Lanston Monotype 」を「欧文モノタイプ」と呼び、杉本京太( 1882-1972 )によって開発され、1920(大正 9 )年頃からわが国の一部で用いられたものを「邦文モノタイプ」と呼びならわしている。

戦後の復興にあたって、大手新聞社では「邦文モノタイプの開発」が死命を制するとまでされ、朝日新聞は「活版工程機械化」と称し、毎日新聞は「活版工程合理化」とうたうなど、呼び方にも差異を意識するほど熾烈な開発競争となった。

朝日、毎日新聞の両社は、ほとんど時を同じくして、戦前に「 SK モノタイプ」を開発した日本タイプライター(現 Canon Semiconductor Equipment )に製作を依頼したが、戦災からの復旧に手間取っていた同社には余力がなかった。そのため朝日新聞は東京機械製作所に、毎日新聞は工作機械株式会社に発注した。両社はともに 1949(昭和 24 )年 8 月に、「 AT モノタイプ」(朝日)、「 MNK モノタイプ」(毎日)として公開にこぎつけた。

いっぽう、日本タイプライターも 1948 年頃から独自に研究を開始し、1952 年(昭和 27 )年に、戦前の SK 式とは異なった「邦文モノタイプ」を完成させた。この新機種の活字母型庫は円筒型で、鋳型はランストンのモノタイプを踏襲して平型とし、地金釜と鋳口を鋳型の下に持ってきたものであった。同機は「 MT 型モノタイプ」と呼ばれた。この年には、東京機械製作所も「 TK 式モノタイプ」を開発した。

しかしながら、AT 型、MNK 型、MT 型、TK 型のいずれの機種も、和文タイプライターと同様に、文字入力部と活字鋳造部が一体で、欧文モノタイプのように、複数のオペレータが鑽孔テープによって文字入力をすることはできなかった。

小池製作所もこの分野に無関心であったわけではない。朝日、毎日新聞のモノタイプ開発競争を静観していた読売新聞社技術部から 1953年(昭和 28 )、株式相場の自動組版のための数表専用モノタイプの開発依頼をうけ、全自動鑽孔テープを用いた、独自の邦文モノタイプの開発に成功した。

ついで小池製作所は毎日新聞社の古川恒技術部副部長から新たな依頼を受けた。

「マニラに駐在の折り、マニラ・タイムスが見出し活字鋳植機を使用しているのを見て感銘を受け、活字母型の機械的な製造が可能になれば、国産機の開発もさほど困難はないと考えました。そうこうしているうち、毎日新聞は津上製作所製のベントン型活字母型彫刻機型を導入しましたので、いよいよ機は熟したとおもいました。開発依頼先はインテル鋳造機の実績もあることから、小池製作所以外に無いと考えました」(『毎日新聞百年史』)。

このとき古川は、小池林平にいった。

「インテル鋳造機は成功して、小池製作所さんの大きな看板製品になりましたが、見出し活字鋳造機は台数的には 20 台ぐらいしか売れないでしょう。しかし毎日新聞にはどうしても欠かせない物なのです。よろしくお願いします」

ところが古川の予測に反して、新聞社だけでなく、印刷・活字界にあっては、ベントン型活字母型彫刻機の導入によって活字書体とサイズが一挙に増加し、また紙面の多様化(デザイン性の向上)によって各社とも使用頻度の少ない見出し用活字が増大し、活字用の棚やスダレケースを占拠するのが悩みの種であった。そのために「小池式見出し活字鋳造機」は、毎日新聞はもとより、読売新聞、朝日新聞をはじめとする全国の新聞社に導入されただけでなく、中堅印刷所や活字鋳造所にもひろく導入された。

1955年(昭和 30 )、小池製作所は大蔵省印刷局と共同で「自動花罫鋳造機」も開発している。それまでの花罫は専門業者がインテルなどをタガネやバイトで削って製作する高価なものであった。

小池林平と小池製作所が本格的に全自動邦文モノタイプに挑戦をはじめたのは 1960年(昭和 40 )に入ってからになった。1964年(昭和 39 )年の東京オリンピックの報道がその動向に拍車をかけた。
邦文モノタイプは活版印刷の印刷版製造工程の要とされていたが、収容字種が 2,000 字ほどとすくなく、外字への対応が困難であり、入力と出力が一対一であったためにコストも割高で「道楽モノタイプ」と揶揄されるなどその普及は難航していた。

K M T  型 全 自 動 組 版 機

KMT型全自動組版機

1966年(昭和 41  6 22 日、小池製作所は「 K M T   型全自動組版機-小池式モノタイプ・マシーン」の発表展示会を開催し、印刷・新聞・報道各社を多数招いて話題となった。
K M T  型全自動組版機」は先発各社の製品と比べて、小型かつ高性能であり、新聞社はもとより、中堅クラスの印刷所までが競って発注した。「 K M T  型全自動組版機」はその後さらに改良がくわえられたが、最大の成果は、邦文組版だけではなく、欧文組版にも適合するように改良が加えられたことである。それに際して、小池製作所は英国・モノタイプ社との間に「クロス・ライセンス」契約を交わし、のちに小池製作所はモノタイプ社の日本代理店ともなった。

わが国の活字鋳造業界のまっただ中を生きてきた小池林平は 70 代の後半から床に臥せることが増えた。その病床には叩き上げ職人の大工の棟梁や、町工場の社長たちが親しく訪れていた。小池はこれらの職人や工匠を最後まで大切にしていた。

1996年(平成 8 10 21 日、 午前 0 52 分、小池林平は 81 歳をもって長逝した。その最後を看取ったのは後継者として育て上げた家族一同であった。

小池製作所と長瀬欄罫製作所、朗文堂サラマ・プレス倶楽部のおつき合い

「 21世紀になって、はじめての、純国産で、あたらしい活版印刷機を創りたい 」 として、2006年朗文堂 アダナ・プレス倶楽部(のち登録商標にあわせてサラマ・プレス倶楽部と改称)が発足した際、衰退著しかった活版印刷機器製造会社のなかで、その夢のようなはなしに耳を傾け、関心を示してくれる製造所はなかった。

たまたま旧晃文堂系人脈からの紹介で、
「 小池製作所なら、技術水準は高いし、誠実な企業だから ………. 」
との紹介を得た(代表取締役/小池隆雄、常務取締役/小池由郎、小社担当)。
そして、小型活版印刷機 Adana-21J を小池製作所の全面協力を得て、円高を背景に当時の製造業の流行だった、海外部品工場などをつかうことなく、こだわりをもって、純国産方式での設計 ・ 試作機製造 ・ 実機製造がはじまった。

★ 本稿で亜容喙した小池製作所の詳細は 「 アダナ ・プレス倶楽部コラム  小池林平と活字鋳造」 に詳しい。
なお上掲記録は 『 小池製作所の歩み 』 を中核資料としているが、最近の研究の進捗により、ブルース(型)活字鋳造機 ( カスチング、手回し式カスチング、タイプキャスティング ) の導入期などの記述に若干の齟齬がみられるが、初出のままにご紹介したことをお断りしたい。

ようやく小社と小池製作所の波長が合い、 Adana-21J  第二ロットの製造に着手したころ、積年の負債と、主要顧客であった大手新聞各社の急速な業績不振がもととなって、2008年(平成20)08月31日、小池製作所が破産した。しかしながら 破産後まもなく、同社の特許・人員のほとんどを三菱重工業が買収 したために、債権者への打撃はちいさなもので済んだ。
幸い Adana-21J  関連の設計図、主要部品の鋳型、成形品製作所などは、小社の管理下にあったので、Adana-21J の生産は、組立 ・ 調整工場を変更するだけで済んだ。

ところで小池製作所の主力機器 「 KMT 型全自動組版機」 は、発表後もさらに改良がくわえられ、邦文組版だけではなく、欧文組版にも適合するように改良が加えられていた。
それに際して、小池製作所は英国/ランストン ・ モノタイプ社との間に 「 クロス ・ ライセンス 」 契約を交わし、のちに小池製作所はモノタイプ ・ コーポレーションの日本代理店ともなった。

そのためにモノタイプ ・ コーポレーションの閉鎖にともなって、2000年ころからの小池製作所は、東南アジア諸国はもとより、インド半島、アラブ圏の各国、東欧諸国までの、旧モノタイプ ・ コーポレーション製造の欧文自動鋳植機の、部品供給、保守、修理にあたる唯一の企業であった。
またわが国の数十社におよぶ各社が製造した 「 手回し式活字鋳造機、いわゆるブルース型活字鋳造機 」 「 自動式活字鋳造機、いわゆるトムソン型活字鋳造機 」 の部品供給、保守、修理能力をもっていた。

突然破産宣告がなされた2008年8月31日も、社員の一部は工具箱ひとつをもって、インドやイランに出張中であったほど急なことであった。
当然その破綻は、たんに小池製作所製の機器だけでなく、ほかの活字鋳造関連機器の、整備 ・ 点検 ・ 保守 ・ 部品供給にいちじるしい困難をきたすことになって、これらの設備の廃棄が加速化し、関連業者の転廃業が相次いだ。

上) 小池林平肖像写真(1914/大正3うまれ。70歳の時)
中) 小池製作所主要製品(『小池製作所の歩み』東洋経済、昭和60年6月30日)
下) 『 印刷製本機械百年史 』 (同史実行委員会、昭和50年3月31日)

長瀬欄罫製造所の主要機器は小池製作所製造のものがほとんどであった。
これらの機器のほとんどが、存続の危機を迎えているのが、わが国の活字版印刷のいまであることを深刻に捉えねばならない時期にいたっている。

このように活版印刷関連機器の、製造 ・ 点検 ・ 部品供給 ・ 保守基盤という、足下が崩壊しつつある深刻な事態を迎え、すっかりちいさくなってしまったのが業務としての活版印刷業界の現状である。 したがって、いまはちいさくなったとはいえ、業界をあげ、一致団結して、この危機を乗りこえていきたいものである。
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【 インテル鋳造機 Slug casting machine, Strip caster 】
金属製インテルを自動的に鋳造する機械。活字鋳造機に類似するが、( いくぶん軟らかめの ) 活字地金をもちい、地金溶解釜から細い隙間をとおして地金を鋳型に送り込み、一定の長さに鋳造されたインテルの部片をつぎつぎに融着させて、一本の長いインテルに仕上げる装置。

米国ルドロー社 ( Ludlow Typograph ) 製が知られるが、長瀬欄罫製作所が使用していた国産機は、昭和21年毎日新聞技術部副部長 ・ 古川恒ヒサシの依頼をうけ、小池製作所 ・ 小池林平が昭和24年11月に 3 年がかりで完成させたもの。

 【 罫線鋳造機 Rule casting machine 】
罫線 Rule は活字と組み込んで線を印刷するための金属の薄片。わが国では五号八分-二分、または 1pt.-5pt. の厚さが一般的。
材質は主に活字地金をもちい、亜鉛 ・ 真鍮 ・ アルミニウム製などがある。
その形状によって、普通罫と飾り罫にわける。普通罫には単柱罫 ( 細い辺をオモテ罫、太い辺をウラ罫として使い分ける ) ・ 無双罫 ・ 双柱罫 ・ 子持ち罫などがある。
飾り罫 ( 装飾罫 ) はあまりに種類が多くて列挙しがたい。

罫線鋳造機はこの罫線を活字地金でつくるための機械で、自動式と流し込み式がある。長瀬欄罫製作所の同機は、八光活字鋳造機製作所製造の自動式で、インテル鋳造機と類似した構造で、上掲写真の各種の「罫線用鋳型」を取りつけ、融着させながら長い罫線をつくった。

<主要資料>
『活字文化の礎を担う-小池製作所の歩み』(東洋経済印刷 小池製作所 昭和 60 6 30 日)
『毎日新聞百年史』(毎日新聞百年史刊行委員会 毎日新聞社 昭和 47 2 21 日)

『本邦活版開拓者の苦心』(津田伊三郎 津田三省堂 昭和 9 11 25 日)
『本木昌造伝』(島屋政一 朗文堂 2001 8 20 日)
Practical Typecasting 』( Terry Belanger Oak Knoll Books 1992
『活字に憑かれた男たち』(片塩二朗 朗文堂 1999 11 2 日)
『活字をつくる Vignette 04 』(河野三男他 朗文堂 2002 6 6 日)
『秀英体研究』(片塩二朗 大日本印刷 2004 12 12 日)
『 VIVA!! カッパン 』   ( サラマ・プレス倶楽部/大石 薫、朗文堂、2010年5月21日)
『 印刷製本機械百年史 』 ( 昭和50年3月31日、印刷製本機械百年史実行委員会 )

タイポグラファ群像*005 長瀬欄罫製作所を記録する

活字鋳造と罫線製造 長瀬欄罫製作所半世紀の歴史

 初代 長瀬利雄/二代 長瀬慶雄

【 初掲載 : 2013年07月08日 動画 ・ 画像を加えた改訂版 : 2013年07月25日 】
【 二代 長瀬慶雄氏の逝去をもって、2015年11月10日 再掲載 】
【長瀬慶雄氏の三回忌に際して再編集】
長瀬欄罫製作所 第二代代表 長瀬慶雄
1942年(昭和17)08月08日-2015年(平成27)08月20日 享年73

2006年、アダナ ・ プレス倶楽部(現サラマ・プレス倶楽部)の設立以来、とてもお世話になってきた長瀬欄罫製作所が、工場兼住居の建て替えを契機に、2011年いっぱいをもって閉鎖された。
また先般、第二代代表 長瀬慶雄氏が73歳をもって卒した。
長瀬欄罫製作所、二代、60年余の歴史をここに記録しておきたい。

さいわい、サラマ・プレス倶楽部では長瀬欄罫製作所の繁忙期のもよう、設備の概略をビデオで撮影してある。
その記録はイベントや講演会 ・ 活版ゼミナールなどのたびにご覧いただいてきたが、2013年07月25日 YouTube に動画を公開した ( 担当 : 北 美和子さん)。 ご関心のあるかたは動画もご覧いただきたい。

【YouTube 長瀬欄罫製作所 日本語モノタイプ&インテル鋳造機の稼動の記録 音が出〼 3:40】

また同社の機械設備のほとんどを供給し、その保守点検にもあたっていた「 小池製作所 」 は、2008年08月31日に破産いたった、この小池製作所に関しても、ここにあらためて記録したい。
★小池製作所の詳細は 「 花筏 小池製作所|小 池 林 平 と 活 字 鋳 造|日本の活字史のもうひとつの側面から 」に詳しい。

★      ★      ★      ★

◎ 創業者(初代)    長瀬 利雄 ナガセ―トシオ

    • 大正03年(1914)10月27日 東京うまれ。
    • 伊藤欄罫製作所( 新宿区榎町53番地、大願寺の裏手に旧存した ) で技術修行。
    • 社名にみる 「 欄罫 」 の名称の由来は、おもに関西で輪郭のことを 「 欄 」 と称したために、輪郭と罫線の製造業者を、ふるくは 「 欄罫業者 」 と呼んだことによる。
      大阪には現在も 「 日本欄罫工業株式会社 」 などがあるが、すでにオフセット平版印刷材料商に転じている。
    • 終戦後まもなく、昭和20年から大日本印刷市谷工場活版部に13年ほど勤務。 おもに輪郭罫と罫線の製造を担当した。
    • 昭和33年(1958)01月、長瀬欄罫製作所を現在地 ( 文京区関口 ) にて創業。
    • 昭和59年(1984)70歳にて逝去。

 ◎ 第二代事業主  長瀬 慶雄 ナガセ-ヨシオ

  •  昭和17年(1942)08月08日 東京うまれ
  • 学業修了後に父の事業を援け、長瀬欄罫製作所に勤務。
  • 父 ・ 長瀬利雄は職人技を重んじ、装飾罫線などはおもに手技による直接彫刻法によったが、長瀬慶雄は積極的に自動化された機器を導入して、能率と精度の向上を計った。
  • 1970年代初頭が生産のピークで、インテル鋳造機4台、罫線鋳造機1台、罫線仕上げ機1台とその関連設備を保有し、次弟 ・ 長瀬律雄 (ナガセ―リツオ  昭和23年うまれ) とともに、一家を挙げて多忙を極めた。
    金属インテルだけでも、大日本印刷に毎日 1 トン以上の納入がふつうだった。
  • 1970年のころ有限会社に改組して、有限会社長瀬欄罫製作所とした。
  • 昭和48年(1973)第一次  オイル ・ ショック  の際して、すべての資材の供給が困難となったため、大日本印刷が企業力をもって資材の円滑な供給をはかった。
    その際金属インテル鋳造は、大日本印刷内部での内製化を計ったために、次弟 ・ 律雄が大日本印刷市谷工場に出向というかたちで勤務してインテル鋳造にあたり、のちに自動活字鋳植機の担当も兼務した。
    長瀬欄罫製作所では、罫線、装飾罫線の鋳造が中心となった。
  • 1970年代の後半となると、写真植字の自動化と、文字 ・ 組版精度が急激に向上して、金属活字の競合相手となってきたが、長瀬欄罫製作所では金属活字への愛着があって、近在の同業者の転業に際し、「 KMT 型 全自動活字組版機 ( 小池式モノタイプ ・ マシン )」 3 台を購入して、自動活字鋳植機によるページ物組版 (おもに 8pt. 9pt. 10pt.  明朝体)を担当した。
    同社での高い技倆と精度のために、活版印刷ページ物印刷業者からの信頼を集めて業績は順調だった。それでもふたたび襲った1979-80年の第二次石油ショックの影響は軽微とはいえなかった。
  • 1980年代に入ると、金属活字を主要な印刷版とする活字版印刷業界は、顕著に衰退のかたむきがみられた。活版印刷業者のおおくがオフセット平版印刷業などに転廃業し、活字鋳造機器の製造業者や、資材業者もこれにならったため、機材の保守、資材の確保などに困難をみた。
  • 2003年(平成15)03月31日、長年の主要顧客の大日本印刷が、金属活字組版と、金属活字版印刷部門を閉鎖した。
    活版印刷機の一部は残存したが、使途は、型抜き機、ナンバーリング押し機、平ミシン罫打ち抜き機などに転用された。
  • 2008年(平成20)08月31日、「 KMT 型 全自動 活字組版機 」 の製造企業、小池製作所が破産 ( のち同社の特許 ・ 人員のほとんどを三菱重工業が買収した) するにおよび、KMTほかの活字鋳造機器の整備 ・ 保守に困難をきたした。
  • 長瀬欄罫では 「 KMT 型 全自動 活字組版機 」 文字入力システムの 「 6 単位鑽孔テープ 」 を特注によって確保するなどして、最後まで自動活字鋳植機によって8-10pt. の本文用活字 ( 活字母型は岩田母型製造所によった ) を供給して事業の維持に努めた。
  • 2011年(平成23 )07月、長瀬欄罫製作所は、後継者不在と従業員の高齢化を理由に、年内いっぱいをもって廃業の意向を関係者に通知。あわせて、現存している製造機器の無償譲渡を表明して、各所の活字鋳造所と交渉におよんだが、はかばかしい進展はなかった。
  • 2011年(平成23)12月24-25日、年末ギリギリに 台湾 ・ 日星鋳字行が来日して、罫線鋳造機、インテル鋳造機の譲渡希望を表明。「 乙仲業者 」 が当該機器を輸出梱包のため集荷。
  • 2011年(平成23)12月28日、66年の歴史をもって長瀬欄罫製作所が閉鎖された。
  • 2012年(平成24)01月18日、台湾 ・ 日星鋳字行に向けて、罫線鋳造機、インテル鋳造機とその関連機器が 「 乙仲業者 」 によって船積みされた。
  • 2012年(平成24)01月31日、「 KMT 型 全自動 活字組版機 」 をはじめ、残存機器のすべての整理が終わる。その際真鍮製で売却 ・ 換金を予定していた 「 KMT 活字母型庫、通称 : フライパン 」 などを、アダナ ・ プレス倶楽部が有償譲渡を受けた。
  • 2013年(平成25)02月、長瀬欄罫工場跡に、二世帯居住用住居が完成。
  • 2015年(平成27)08月20日 享年73をもって逝去。
  • 長瀬欄罫 資料PDF

《小池製作所と長瀬欄罫製作所、そしてサラマ・プレス倶楽部の奇妙なおつき合い》
「 21世紀になって、はじめての、純国産で、あたらしい活版印刷機を創りたい 」 として、朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部が発足した際、衰退著しかった活版印刷機器製造会社のなかで、その夢のようなはなしに耳を傾け、関心を示してくれる製造所はなかった。

たまたま旧晃文堂系人脈からの紹介で、
「 小池製作所なら、技術水準は高いし、誠実な企業だから ………. 」
との紹介を得た(代表取締役/小池隆雄、常務取締役/小池吉郎、小社担当)。
そして、小型活版印刷機 Adana-21J を小池製作所の全面協力を得て、円高を背景に、当時の製造業の流行だった、海外部品工場などをつかうことなく、こだわりをもって、純国産方式での設計 ・ 試作機製造 ・ 実機製造がはじまった。

★ 小池製作所の詳細は 「 花筏 小池製作所|小 池 林 平 と 活 字 鋳 造|日本の活字史のもうひとつの側面から 」 に詳しい。
なお上掲記録は 『 小池製作所の歩み 』 を中核資料としているが、最近の研究の進捗により、ブルース(型)活字鋳造機 ( カスチング、手回し式カスチング、タイプキャスティング ) の導入期などの記述に若干の齟齬がみられることをお断りしたい。
『 小池林平と活字鋳造 』 に関しては、あらためて本欄 『 花筏 』 に別項を得たい。

ようやく Adana-21J  第二ロットの製造に着手したころ、積年の負債と、主要顧客であった大手新聞各社の急速な業績不振がもととなって、2008年(平成20)08月31日、小池製作所が破産 (破産後まもなく同社の特許 ・ 人員のほとんどを三菱重工業が買収 ) した。
幸い Adana-21J  関連の設計図、主要部品の鋳型、成形品製作所などは、小社の管理下にあったので、Adana-21J の生産は、組立 ・ 調整工場を変更するだけで済んだ。

ところで小池製作所の主力機器 「 KMT 型全自動組版機」 は、その後さらに改良がくわえられ、邦文組版だけではなく、欧文組版にも適合するように改良が加えられていた。
それに際して、小池製作所は英国/ランストン ・ モノタイプ社との間に 「 クロス ・ ライセンス 」 契約を交わし、のちに小池製作所はモノタイプ ・ コーポレーションの日本代理店ともなった。

そのためにモノタイプ ・ コーポレーションの閉鎖にともなって、2000年ころからの小池製作所は、東南アジア諸国はもとより、インド半島、アラブ圏の各国、東欧諸国までの、旧モノタイプ ・ コーポレーション製造の欧文自動鋳植機の、部品供給、保守、修理にあたる唯一の企業であった。
またわが国の数十社におよぶ各社が製造した 「 手回し式活字鋳造機、いわゆるブルース型活字鋳造機 」 「 自動式活字鋳造機、いわゆるトムソン型活字鋳造機 」 の部品供給、保守、修理能力をもっていた。

突然破産宣告がなされた2008年8月31日も、社員の一部は工具箱ひとつをもって、インドやイランに出張中であったほど急なことであった。
当然その破綻は、たんに小池製作所製の機器だけでなく、ほかの活字鋳造関連機器の、整備 ・ 点検 ・ 保守 ・ 部品供給にいちじるしい困難をきたすことになって、これらの設備の廃棄が加速化し、関連業者の転廃業が相次いだ。

上) 小池林平肖像写真(1914/大正3うまれ。70歳の時)
中) 小池製作所主要製品(『小池製作所の歩み』東洋経済、昭和60年6月30日)
下) 『 印刷製本機械百年史 』 (同史実行委員会、昭和50年3月31日)

長瀬欄罫製造所の主要機器は小池製作所製造のものがほとんどであった。
これらの機器のほとんどが、存続の危機を迎えているのが、わが国の活版印刷のいまであることを深刻に捉えねばならない時期にいたっている。

このように活版印刷関連機器の、製造 ・ 点検 ・ 部品供給 ・ 保守基盤という、足下が崩壊しつつある深刻な事態を迎え、すっかりちいさくなってしまったのが業務としての活字版印刷業界の現状である。 したがって、いまはちいさくなったとはいえ、業界をあげ、一致団結して、この危機を乗りこえていきたいものである。
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【 インテル鋳造機 Slug casting machine, Strip caster 】
金属製インテルを自動的に鋳造する機械。活字鋳造機に類似するが、( いくぶん軟らかめの ) 活字地金をもちい、地金溶解釜から細い隙間をとおして地金を鋳型に送り込み、一定の長さに鋳造されたインテルの部片をつぎつぎに融着させて、一本の長いインテルに仕上げる装置。

米国ルドロー社 ( Ludlow Typograph ) 製が知られるが、長瀬欄罫製作所が使用していた国産機は、昭和21年毎日新聞技術部副部長 ・ 古川恒ヒサシの依頼をうけ、小池製作所 ・ 小池林平が昭和24年11月に 3 年がかりで完成させたもの。

 【 罫線鋳造機 Rule casting machine 】
罫線 Rule は活字と組み込んで線を印刷するための金属の薄片。わが国では五号八分-二分、または 1pt.-5pt. の厚さが一般的。
材質は主に活字地金をもちい、亜鉛 ・ 真鍮 ・ アルミニウム製などがある。

その形状によって、普通罫と飾り罫にわける。普通罫には単柱罫 ( 細い辺をオモテ罫、太い辺をウラ罫として使い分ける ) ・ 無双罫 ・ 双柱罫 ・ 子持ち罫などがある。
飾り罫 ( 装飾罫 ) はあまりに種類が多くて列挙しがたい。

罫線鋳造機はこの罫線を活字地金でつくるための機械で、自動式と流し込み式がある。長瀬欄罫製作所の同機は、八光活字鋳造機製作所製造の自動式で、インテル鋳造機と類似した構造で、上掲写真の各種の「罫線用鋳型」を取りつけ、融着させながら長い罫線をつくった。

 【 参考資料 】
『 VIVA!! カッパン 』  母型盤、母型庫 ( アダナプレス倶楽部/大石 薫、朗文堂、2010年5月21日)  
『 印刷製本機械百年史 』 ( 昭和50年3月31日、印刷製本機械百年史実行委員会 )

【展覧会】武蔵野美術大学 美術館・図書館|和語表記による和様刊本の源流|11月1日-12月18日

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武蔵野美術大学 美術館・図書館
和語表記による和様刊本の源流
2018年11月1日[木]-12月18日[火]
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この度、武蔵野美術大学美術館・図書館では、展覧会「和語表記による和様刊本の源流」を開催いたします。
武蔵野美術大学造形研究センター研究プロジェクト「日本近世における文字印刷文化の総合的研究」は、2014年度に文部科学省より「私立大学戦略的研究基盤形成支援事業」の採択を受け、本年はその完成年度を迎えます。
本研究プロジェクトは5年間にわたり、わが国の文字印刷文化の歴史を見つめ直すために、様々な研究を進めてきました。本展では、その成果を広く公開し、近世日本の木版印刷による書物の数々を紹介します。

近世日本の刊本は、これまで書誌学的方法を中心に研究されてきました。本研究プロジェクトでは、それらを造形的視点から捉え直すことにより、日本の造本デザイン史に「和様刊本」の美を位置づけることを目的としています。明治以降、西洋から金属による近代活版印刷術がもたらされるまで、わが国における印刷物の多くは木材を使用した古活字版と木版整版本が主流でした。これまで、近世の刊本が造本デザインの視点から紹介される機会は限られていましたが、そこには、木版印刷による柔らかな印圧を基調とした多様な美のかたちが存在していました。

本展では、漢字、平仮名、片仮名の字形と表記の関係を検証するとともに、料紙、印刷、製本等、書物を構成する各要素の考察を通して、和語表記による「和様刊本」の美の世界を紹介します。
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会  期  2018年11月1日[木]-12月18日[火]
時  間  10:00-18-00(土曜日、特別開館日は17:00閉館
休  館  日  日曜日、祝日
* 11月3日[土・祝]、4日[日]、23日[金・祝]は特別開館

入  館  料  無  料
会     場  武蔵野美術大学美術館 展示室 3
主  催  武蔵野美術大学 美術館・図書館
武蔵野美術大学 造形研究センター

共  催  野上記念法政大学能楽研究所

【 詳細: 武蔵野美術大学 美術館・図書館  特設サイト 】 [フライヤー PDF ]

【展覧会】板東孝明|デザインギャラリー|懐中時計礼讃 The Shape of Timelessness 展|10月10日-11月5日

20181017124947_0000220181017124947_00003デザインギャラリー
第749回デザインギャリー1953企画展
「懐中時計礼讃 The Shape of Timelessness」展

会  期  2018年10月10日[水]-11月5日[月] * 最終日午後5時閉場・入場無料
会  場  松屋銀座7階・デザインギャラリー1953
主  催  日本デザインコミッティー
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この度、日本デザインコミッティーでは、第749回デザインギャラリー1953企画展といたしまして、「懐中時計礼讃  The Shape of Timelessness」展を開催いたします。
板東孝明氏はブックデザイン、CI、ポスターなどグラフィックデザインの仕事で評価の高いグラフィックデザイナーですが、アンティークの懐中時計コレクターとして、世界中を旅されてきました。
今回のデザインギャラリーでは、歴史的観点においても大変貴重な懐中時計を展示いたします。懐中時計に秘められる深淵なる魅力を板東氏のコレクションを通じて、深く体感していただければ幸いです。
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企画趣旨 ── 企画  板東孝明
アンティーク懐中時計はただひたすら美しい。手の平にのる「時の結晶」といっても過言ではない。かつてこんなに精妙で、優雅な絡繰-からくり-細工が生み出されたことにかしこまってしまう。

現行の腕時計にみられない、たおやかな丸み、掌にほどよく沈み込む心地よい重み、なによりも造形に心血を注いだ時計師たちの、質への礼節、時への敬意が感じられる。端正な文字盤、書体のエッジ、針、精密に絡み合った歯車、機械を包みこむケースのシェープ、すべての手作業が時の精度に挑み、人の手に愛でられることにのみ収斂されている。
時計は歴史を刻み、人類とともに歩んできた。欧州において、大航海時代、激動の市民革命を乗り越え、やがては産業革命の担い手として、また文化的記憶として人〻の生活の中を支えてきた。
展示では、アンティーク懐中時計がもつ魔力ともいえる美とその意味を読み解きながら、コチコチやカチカチという、かそけき時の鼓動にふれ、しばし時がたつのを忘れていただける場としたい。

展覧会紹介 ── 展覧会担当  原 研哉
板東孝明は、高度なデザイン力を備えつつも営利のためのデザインを好まず、熱血の大学教師として生徒に向き合いながら、密かにデザインへの思いをたぎらせている雌伏のグラフィックデザイナーである。
氏が懐中時計を愛するのは、自分と同じものをそこに見ているからであろう。グラフィズムの静かなる爆発をこの展覧会に期待したい。

【 詳細: 日本デザインコミッティー 】

【展示】日本美術刀剣と押形展|長崎歴史文化博物館企画展示室|日本美術刀剣保存協会長崎県支部|本木昌造の佩刀が展示されました

DSC_1192DSC_118920181003144508_00001本木昌造、諱:永久-ながひさ-がもちいていた佩刀が長崎歴史文化博物館で展示され、長崎会員からスマホ写真を頂戴いたしましたので紹介いたします。本木家・平野家はともに長崎の地役人で、明治維新以後のいっときは「卒族」とされていましたが、苗字帯刀をゆるされていました。

日本美術刀剣と押形展
会 場  長崎歴史文化博物館企画展示室
期 間  2018年9月13日-24日 会期終了
主 催  日本美術刀剣保存協会長崎県支部
平野富二武士装束uu平野富二(富次郎)が長崎製鉄所を退職し、造船事業への進出の夢を一旦先送りして、活版印刷の市場調査と、携行した若干の活字販売のために上京した、1871年(明治4)26歳のときの撮影と推定される。知られる限りもっともふるい平野富二像。旅姿で、丁髷に大刀小刀を帯びた士装として撮影されている。
廃刀令太政官布告は1876年(明治9)に出されているが、平野富二がいつまで丁髷を結い、帯刀していたのかは不明である(平野ホール所蔵)。
[関連:花筏 平野富二と活字*09 巨大ドックをつくり船舶をつくりたい-平野富二24歳の夢の実現まで
日本鋳造活字始祖大阪四天王寺境内にある「本木氏昌造翁紀念碑」。ここにみる本木昌造の銅像と碑域は明治30年に建立されたが、昭和20年金属供出令で銅像をうしなった。昭和60年の再建にあたっては、本木昌造が士装した資料がなかったため、絵画をよくした森川龍文堂:森川健市が戦前の写真をもとに絵画をおこし、それにもとづいて像造したとされる。

(『本木昌造先生銅像復元記念誌』大印工本木先生銅像復元委員会 昭和60年9月)
[関連:【講演録】文字と活字の夢街道 ]

【彫刻家 奥村浩之後援会 新宿御苑前支部】奥村浩之新作彫刻作品 ?|否 ! HIROYUKI 氏が飼育している Xoloitzcuintle というらしい|+ Viva la 活版 Viva 美唄の記憶

cd58eb5ef659b1dc2238dab8bea8da38P1140678彫刻家 奥 村 浩 之 Okumura Hiroyuki  プロフィール
1963年    石川県に生まれる。
1986年    金沢美術工芸大学美術学部彫刻科卒業
1988年    金沢美術工芸大学大学院修士課程修了
1989年-   メキシコに渡る。メキシコシティーから 200 km ほどの町、ハラパを拠点に、彫刻に没頭。
現在ベラクルス大学 画廊 アルバ デ ラ カナルにおいて< HIROYUKI OKUMURA 彫刻展『Men, Myth, Journey and Life 展』── 男たち、神話、旅と生きかた ──>が好評開催中。

[詳細:Galeria Ramón Alva de la Canal
INVITACIÓN final redes40409989_1903258586646366_6445686390108717056_n──────────────
[彫刻家 奥村浩之後援会 新宿御苑前支部]
浩之さんは寡黙ではあるが、心底こころのやさしいひとである。だからなんの役にもたてないが、勝手に[彫刻家 奥村浩之後援会 新宿御苑前支部]を結成して応援をしている。

数年前にやつがれもメキシコシティーにいった。家人が「死者の祭」と、フリーダ・カーロディエゴ・リベラ夫妻(互いに傷つけ、裏切ることが愛のあかしであるように、あやなす修羅をいきたふたりの造形家)に興味があった。
やつがれは建築家 ルイス・バラガン 探訪を加えることを条件に同行した。

その報告はほとんどできていない。なにぶん機中泊を含め四泊五日の慌ただしい旅であり、どれもがあまりに強烈な刺激に満ちており、ただ茫茫、混沌としたまま脳裏に刻まれている。

そのおり、ドローレス・オロメド・パティニョ美術館にいった。故ドローレス夫人は大富豪として知られ、フリーダ・カーロとディエゴ・リベラの作品を大量に購入していた。現在はその豪壮な私邸の一部が予約制の美術館として公開されていた。カーロとリベラの作品は唸るしかないものばかり、それも大量に展示されていた。

その折り、庭園の一隅に見慣れない犬がいた。陽ざしが暑いのか、通路からとおい木陰にかたまって10匹ほどいた。体毛は額のあたりに産毛のようにほんの少し生えているだけでほとんどなく、木陰にうずくまっている姿はなにかの置物のようにみえた。
この犬はふるくからアステカの人〻に愛玩されていたらしい。おとなしく従順な犬なので、時には寝具に抱きこんで湯たんぽがわりにしていたなど、さまざまな記録がのこされている。

スペイン人がメキシコにやってきてからは、もっぱら食用とされたため、絶滅が危惧されるほどにまでなったと案内板にはしるされていた。
犬種は「Xoloitzcuintle-ショロイスクィントリ」という。これは現地語なのかスペイン語なのかは知らないが、現地では単に「ショロ」と呼んでいるらしい。
英語では「Mexican hairless Dog-メキシカン ヘアレス ドッグ」と呼ばれている。この英語名だとわかりやすい。[ウィキペディア:Mexican hairless Dog-メキシカン ヘアレス ドッグ

かつて浩之さんの展覧会カタログに、この犬が一匹作品の後方に写っていた。この「裸犬-とやつがれは呼んでいた」は、パティニョ美術館にいったときは、遠くに固まってうずくまっていただけなので、写真も撮ってこなかった。やつがれ喘息にわるいからとして医者に飼育を禁じられているが、かなりの愛犬家であり、愛猫家でもある。前回の浩之さんからの写真送付はこれも愛犬のシェパードだったので、浩之さんに「裸犬」のリクエスト。

写真をみたらどうやら三匹も飼っているらしい。
なにせ体毛がない裸の犬である。当然寒がりであり、暑がりでもあるとされる。しかもメキシコシティでも高度が2,000-2,500 m ほどの高地に拡がっている。乾燥しているが、冬は寒く、夏の陽ざしはつよい。だからよほど好きでなければ飼育は困難な犬のようである。
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【詳細:奥村浩之 笹井祐子 奥村浩之 Facebook 】{活版アラカルト 過去ログ }

{ 新 宿 餘 談 }
800px-Diego_Rivera_with_a_xoloitzcuintle_dog_in_the_Blue_House,_Coyoacan_-_Google_Art_Projectフリーダ・カーロ/ディエゴ・リベラはともに「Xoloitzcuintle-ショロイスクィントリ」が好きで、カーロの生家「青い家」に同居していたころは「ショロ」を飼育していたようで、カーロは数点の絵画にのこし、リベラはこのような写真をのこした。「青い家」はガイドブックなどではちいさな家に見えるが、敷地300坪ほど、高い塀に四囲をかこまれたかなりの規模の邸宅である。フリーダ・カーロ-短い晩年の作品2フリーダ・カーロの最晩年の作品「VIVA LA VIDA」。「青い家」のイーゼルには、この連作の描きかけの作品がのこされていた。
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【 Viva la 活版  Viva 美唄の記憶 ── 2013年05月 ──】

《 Viva la 活版 Viva 美唄、イベントの名称を決定 》

あたらしいイベント概略が次第にかたまると、まずその名称の議論が活発にかわされる。
ふるくいう。── 「名は 体タイをあらわす」ト。
ここでの 「体 タイ」は、ものごとの本質ないしは実体の意である。 当然たいせつな議論となる。そのあらましは 『 Viva la 活版 Viva 美唄Ⅰ 開催のお知らせ 』 にしるしてある。

そもそもやつがれは、どういうわけか名称に  “ VIVA ”  を冠することが多い。
“ VIVA ”  とは 「 すばらしき、すばらしい。  あるいは、美しい、麗しい。 ── むしろ驚きを込め、積極的に、讃歌 」 という意をこめてもちいている。
もともとイタリア語やスペイン語の  “ VIVA ”  は 「歓びの声、歓声」 にちかい。
わが国での訳語として馴致している「萬歳、万歳」の漢の字は、和訓音では「ばんざい」 とも「まんざい」 とも読めるから避けたいところだ。

まして めでたく「 バンザーイ( 三唱 )」 ではすこしニュアンスが違うとおもわれるし、用例はふるくからあるようだが 「 万才 」 にいたっては、どうかご勘弁をというところだ。
ついでながら「 漫才-まんざい」は、関西で滑稽なはなしをかわす掛合演芸で、大正中期に舞台で演じられ、昭和初年のころに漢の字表記として「漫才」が定着したものとされる。
本心では「 Viva ── ワォ~」としたいくらいなので、「萬歳、万歳、バンザーイ」 は敬遠している。
フ ゥ~、漢の字がからむと、はなしがまことにややこしくなる。


“ la ”  は 定冠詞で、 “  la  Frida ”  のように、女性の名前の前に置くと「フリーダちゃん」 のようなニュアンスになって、愛情と親しみをあらわす。

つまり、『 Viva la 活版 Viva 美唄 』とは、活版印刷という技芸( Art )と、北海道美唄における、丹精をこめて形成された、彫刻 ・ 景観 ・ 自然への讃歌として『 すばらしき 活版、すばらしい 美唄』 のおもいから名づけられた。
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名称決定までには、さまざまな議論があった。 ところが、テーブルにさりげなく置かれた一冊の画集が決定打となった。 議論は即座に収束して『 Viva la 活版 Viva 美唄 』 の名称が決定した。
このたった一枚の絵画が、みんなのこころをおおきく揺りうごかしたのである。

     

のちに知ったことだが、活版カレッジ ・ アッパークラスの「横ちゃん コト 横島大地」さんは、このひとの絵を小学生のときに見て、いまだに忘れられないほど、おおきな衝撃を受けたということであった。
ところが、まことに恥ずかしきかぎりだが、やつがれはこのときまで、いたましくも、はかなく、そして精一杯につよく、みずからの人生をいききった メキシコうまれの画家、フリーダ・カーロ ( Magdalena Carmen Frida Kahlo y Calderón 1907-1954 ) のことはなにも知らなかった。

したがって以下しばらくは、申しわけないが情念系を得意とする !?  大石 薫からの受け売りと、にわか仕込みである。
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フリーダ・カーロ は、 ハンガリー系ユダヤ人移民の職業写真家を父として、1907年メキシコにうまれた。
6 歳のころ 急性灰白髄炎 ( ポリオ ) にかかり、右腿から踝クルブシにかけての成長が止まって痩せ細り、これを隠すために、ズボンやメキシコ民族衣装のロングスカートなどを好んで着用していた。

学業は優秀で、当時ようやく女性にも開放されたメキシコの高度教育機関「国立予科高等学校」へ進学した。 ここで文学や絵画にたいする関心が高まったフリーダは、次第に画家への道を目指すようになった。

1925年、フリーダが18歳のとき、通学に乗っていたバスが路面電車と衝突し、多くの死傷者が発生する事故がおきた。 このときフリーダも 生死の境をさまようほどの重症をおい、その後も事故の後遺症で、背中や右足の痛みに悩まされた。 その痛みと、病院での退屈な入院生活を紛らわせるために、本格的に絵画を描くようになったという。

1929年、フリーダが22歳のとき、21歳年上の画家 ディエゴ ・ リベラと結婚した。
この結婚も、その後の妊娠にも、不幸がかさなった。 病気や事故による躰の障害がもととなって、背骨と胎盤が傷ついていたために、いたましいことに 3 度にわたってフリーダは流産した。
また芸術家肌で奔放な夫・リベラは浮気をかさね、なかでもフリーダの実の妹 クリスティナ と関係をもつなどしたために、フリーダのこころにおおきな影を落とすこととなった。 フリーダもまた、夫 ・ リベラへのあてつけのように、日系アメリカ人/イサム ・ ノグチ  と関係をもつなどの騒動がかさなった。

そんなこともあって、フリーダ ・ カーロとディエゴ ・ リベラは、10年余におよんだ結婚生活に終止符をうって、1939年に離婚が成立した。 フリーダはメキシコの生家である「 青い家」にもどって、ひとりで闘病と創作活動をつづけた。
ところがほぼ一年後に、フリーダは、互いに経済的自立をはかること、互いに不貞をはたらかないことなどの条件を提示して、リベラと復縁して、「 青い家 」 での同居生活にはいった。
こうしてようやくこころの安寧を取りもどしても、間断なくおそう脊髄の傷みはおさまらず、投与された鎮痛剤も効かないほどの苦痛が間断なくおそうようになり、ついに右足切断手術をうけるという闘病生活がつづいた。
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メキシコ人、フリーダ ・ カーロは、200点ほどの作品をのこし、シュルレアリズムの画家とされている。そのほとんどは自画像であり( 画像集リンク )、躰とこころのやまいに苦悩する自分のすがたを、カンバスにそのまま叩きつけたような「痛痛しい作品」が多い。

ところが晩期の作品に、明るい色彩に満ちた静物画をポツンとひとつのこしている。 みずからカンバスにしるして『 VIVA LA VIDA  Frida Kahlo  すばらしき人生 フリーダ ・ カーロ 』である。
もう一度 『 VIVA LA VIDA  Frida Kahlo  すばらしき人生 フリーダ ・ カーロ 』 を紹介したい。

フリーダ ・ カーロは1954年7月13日、47歳にして 幽明 さかいをことにした。
その遺灰は、生家であり、ディエゴ ・ リベラとのおもいでにあふれる 「 青い家 」 にねむっている。いま 「 青い家 」 は、「 フリーダ ・ カーロ記念館 」 として一般公開されている。
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たび重なる不幸と困難に見舞われながら、それでもなお、人生の最後に 『 すばらしき人生 』 といえるだけの、明るく澄みきった心境にいたった フリーダ ・ カーロの短い晩年ををおもう。
彼女の生涯と作品は、「 生きること 」と、「 創ること 」のためには、誠心誠意、真剣に向き合うべきだという問題提起を突きつけられるとともに、それに立ちむかう勇気もあたえられる。

さぁ、こうしてイベントの名称は『 Viva la 活版 Viva 美唄 ── すばらしき 活版、すばらしい 美唄』 に決定した。 こうなれば、あとは一瀉千里、一気呵成である。
『 VIVA LA VIDA  Frida Kahlo  すばらしき人生  フリーダ ・ カーロ 』 の一枚の絵画に感動したのなら ───そう、皆さんご存知の、イギリスのロックバンド、Coldplay のヒット曲『 Viva La Vida 』 ( リンク : Coldplay-Viva La Vida  4:03 YouTube ) を、まことに勝手ながら 『 Viva la 活版  Viva 美唄 』の「 こころのテーマ曲  !? 」に決定とさせていただいた。

この曲は YouTube での視聴回数が 122,100,000 回(一億二千二百十万余  2013年03月16日──2018年09月18日の視聴回数は五億一千回余 510,189,808 回)におよぶ。そのうちのわずか40-50回は、サラマ・プレス会員の再生によるものであろうか。

【 YouTube 音が出ます  Coldplay-Viva La Vida  4:03 】

《 Viva la 活版 Viva 美唄 ―― イベント名称と概略がきまったら…… 》

こうしてイベント名称が『Viva la 活版  Viva 美唄』、「こころのテーマ曲」が『 Viva La Vida 』 に決まった。
『 Viva la 活版  Viva 美唄 』 の会場となる 「 アルテ  ピアッツァ 美唄 」 の概略は、この 『 花筏 Viva la 活版 Viva 美唄Ⅰ 開催のお知らせ 』(2013年03月13日)で紹介した。

彫刻家/安田 侃氏によって形成された 「 アルテ ピアッツァ美唄 」 には、公共施設によくみられる 「 サイン ・ ボード 」 と称するような不粋な案内板はほとんどない。 それどころか、門も塀も仕切りらしきものもない。
したがって入場料の徴収場所もないから、当然入場は無料である。
「アルテ ピアッツァ 美唄」 には、勝手に出入りし、何時間でも観覧したり、芝生や木陰での読書はもちろん、樹木にもたれてウツラウツラと うたた寝までできる。
おまけに 「カフェ アルテ」 の水出し珈琲は、水がおいしいせいなのか、ともかく絶品である ( ただし、ここと、ギャラリー棟の ミュージアム ・ ショップの商品は有料 )。

「 ストゥディオ アルテ 」 の外観。 この左手奥に 「 カフェ  アルテ 」 の入口がある。ギャラリー棟や彫刻広場からは、いくぶん離れており、樹木と傾斜に遮られて相互に見通すことはできない。 右側の森のなかまでつづくテラスには、しばしばリスが顔をだす。
このひろびろと明るい「ストゥディオ アルテ」を拝借して、『 Viva la 活版 Viva  美唄 』の活版ゼミナールと、タイポグラフィ・ゼミナールを開催する予定である。 展覧会は、この坂の下、彫刻広場と水の広場に面したギャラリー棟の 「ギャラリー  アルテ」 で開催する。

だから来場者は、好きな場所から 「 アルテ ピアッツァ 美唄 」 にはいり、好きなところから出てゆくことになる。
そしてあちこちにさりげなく ── 実際は実に巧妙かつ趣向を凝らして ── 置いてある彫刻作品と、偶然のように出会い、発見し、邂逅のよろこびを感ずることになる。

【 YouTube Viva la 活版  Viva 美唄 音が出ます 14:39 撮影:川崎孝志会員 】

ときには、傾斜のいくぶん上部にあるために、彫刻広場(アートスペース)など、下からの視界を樹林に遮られている「彫刻ストゥディオ」と「カフェ  アルテ」 の建物に出あわないまま、彫刻広場と、ギャラリー棟の周辺を見ただけで、十分満足して帰るひともいるらしい。
それはそれで良しとするのが、この施設の特徴のようである。

来場者の多くが、ブログロールや短文ブログに、好意的な記録をのこしている。
その多くは 「 アルテ ピアッツァ 美唄 」 周辺の、豊かな樹林や、一面の芝生の鮮やかな緑と、アートスペースの 「 彫刻広場 」 と 「 水の広場 」 を中心とした、純白の大理石による彫刻との鮮やかなコントラストに目を奪われているようである。

この純白の大理石は、イタリア中西部、トスカーナ州の州都 ・ フィレンツェ郊外のピエトラサンタで産出されるものだという。 彫刻家/安田 侃氏は、この白大理石をもとめて、いまもってイタリアのフィレンツェ郊外、ピエトラサンタに主要なアトリエを置いている。

春の雪解けから、晩秋の積雪までのあいだ、すなわち緑が萌えているころに、この大理石の見事なまでの白さを、ほとんどボランティアで維持しているのは「 NPO法人 アルテ ピアッツァ  びばい」 と、「 アルテ市民ポポロ 」 の皆さんである。
「アルテ市民ポポロ」 有志の皆さんは、三ヶ月に一度、この大理石をひとつひとつ丹念に洗って、水垢や汚れを落とす作業を展開するそうである。 小社社員約一名も、どうやら 「 アルテ市民ポポロ 」 になったらしい。

── NPO法人 アルテピアッツァ びばい
アルテピアッツァ 美唄は、自然と彫刻が調和する美しい空間です。 アートを通じて、地域と人、人と人、そして過去と今、未来を結ぶ場として、美唄のまちに新たな 「 時 」 を積み重ねてきました。 このかけがえのない空間を、これまでにも増して確かに支えていくために、「 アルテ市民ポポロ 」 の取り組みがスタートします。

地域の枠を越えて アルテピアッツァ 美唄 を支える思いを共通項としたコミュニティ 「 アルテ市民ポポロ 」 の誕生です。 「 アルテ市民ポポロ 」 に参加される皆さんは、この空間を揺るぎなく次代に伝えていく上で大切な役割を担うコミュニティの主役です。
“ バトンを未来へ ”
新しい絆を結ぶコミュニティの一員としてご参加くださることを心から願っています。

《 テーマ ・ カラーの設定 ―― ルネサンスをうんだまち、シエナの、シェンナ色 》

さて、ここでまた、自称 情念系 ・ 大石  薫 が、
「 今回の 『 Viva la 活版  Viva 美唄 』 テーマ ・ カラーは、バーントシェンナに決まりですね 」
とのたもうた。 そも 「 バーントシェンナ 」 とはなんぞや ?

13世紀の末、イタリア中西部、トスカーナ地方の富裕なまちのいくつかで、ひとつの潮流 「 La  Rinascita 」 が勃興した。
わが国ではそれを明治初期に訳語をあてて 「 文芸復興 ・ 学芸復興 」 としたが、やがてフランス語由来で、それが英米語を経由した 「 Renaissance,  ルネサンス 」 と呼ぶようになった。 イタリア語 「 Rinascita 」、フランス語 「 Renaissance 」 を直訳すると、いずれも 「 再生 」 である 。

北海道美唄市出身の彫刻家/安田 侃氏が、ルネサンス発祥の地のひとつとされる、トスカーナ州フィレンツェ郊外にアトリエを置いていることは前述した。
イタリアにいってフィレンツェをたづねるには、ミラノから、あるいはローマから、電車でフィレンツェに入ることが中心である。

電車がトスカーナ地方に入ると、車窓からみえる風景がかわり、ものなりが豊饒で、市民生活もゆたかにみえる。 それよりなにより、まちの色彩はろばろとひろがって、あかるくなる。 北部のミラノやヴェネツィアとも、また首都のローマとも、まちの色彩がおおきく異なることにおどろく。

つまりほかのまちでみる、くすんだ灰色か、おもい暗褐色の屋根瓦や壁面とは異なって、このあたりの屋根瓦や壁面は 「 シェンナ 」 という名の、明るい朱色というか、明治初期のわが国の煉瓦色を、もうすこしおだやかにしたような、あるいは鉄錆びたような朱色の色調が中心となる。
それがまた、風雨にさらされ、古さびて、独特な軽快さと、明るさとなって、味わいゆたかな景観を形成している。
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イタリア中西部、トスカーナ州 州都 「 フィレンツェ Firenze 」 は、ふるくから地中海貿易と金融業によって財をなした、メディチ家などの富の蓄積があり、13世紀末から次第にルネサンスをもたらしたまちのひとつである。 こんにちでも観光名所として、世界中からの観光客が絶えないまちである。 人口およそ36万人。

州都 フィレンツェの南方 およそ50キロほどのところに 「 シエナ、シエーナ  Siena 」 のまちがある。
現在の人口はおよそ 5 万5000人ほどの中都市であり、中世の姿をとどめる旧市街は 「 シエナ歴史地区 」 として世界遺産に登録されている。 

 シエナは、中世には金融業でさかえた有力都市国家であり、13世紀から14世紀にかけて最盛期をむかえた。 このころのシエナはトスカーナ地方の覇権をフィレンツェと競い、たびたび武力衝突もみた。 またその経済力を背景としてルネサンス期には芸術の中心地のひとつであった。
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ここからはなしがすこしく厄介になる。 まちの名前と、色の名前である。 この、まちの名、顔料の名、色の名前は、似ているだけに混同されやすい。
わかりにくければ、それぞれ Wikipedia にリンクを付与したので、参照していただきたい。

「 シエナ、シエーナ   Siena 」 のまちから産出した岩を砕いて、それを原料とした天然顔料を「 n 」 をひとつ足して 「 シェンナ   Sienna 」 という。
「 シェンナ 」 はまた、天然顔料素材の名であり、その独特の色味から 「 色の名前 」 でもある。

「 シェンナ 」 は、人類がもっともふるくからもちいた天然顔料の一種であり、ふるい洞窟の壁画などにも 「 シェンナ 」 の使用の痕跡をみることができる。
「 シェンナ 」 の名前の由来は、「 シエーナ, シエナ 」 から産出した岩をもちいたことによる。
「 シェンナ 」 は、水和酸化鉄を主成分とし、ケイ酸コロイドと、少量のマンガンを含む、天然の岩を原料とする。 いくぶん黒味を帯びた、黄褐色の顔料である。

天然顔料の 「 シェンナ 」 には、焼結していないものと、焼結したものとがある。
その顔料は 日本工業規格 JIS でも 「 色名 」 として定義され、JIS 慣用色名として 「 マンセル値 」 によって定義されている。

◯ 焼結していないもの ── 「 ローシェンナ row sienna 」。 黄色味のつよい色をしている。
   ローシェンナ ( JIS 慣用色名 )     マンセル値 4YR 5/9
◯ 焼結してあるもの ────「 バーントシェンナ  burnt sienna」。 酸化第二鉄を主成分とした赤褐色の顔料としてもちいられる。
   バーントシェンナ ( JIS 慣用色名 )        マンセル値 10R 4.5/7.5  

さて…… 、彫刻家 ・ 安田 侃氏がもたらした 「 シェンナ 」 は、「 ローシェンナ 」 なのか 「 バーントシェンナ 」 なのか、その記録は 「 アルテ ピアッツァ 美唄 」 の広報物には見あたらない。 どうもその双方を行きつ戻りつしているようにおもえるが確証はない。
安田 侃氏はどうやらやつがれと同年のうまれらしい。 そして7-8月には、しばしば美唄のアトリエ 「 ステゥディオ アルテ 」 にあらわれるようである。 できたらご本人に伺いたいものである。

 [初出:花筏 Viva la 活版 Viva 美唄 Ⅱ 準備着着進行中 !? 2013年03月15日]

【展覧会】武蔵野美術大学 美術館・図書館|新島実と卒業生たち ─ そのデザイン思考と実践 1981–2018|9月3日-9月29日

niijima-120180827140607_00002武蔵野美術大学 美術館・図書館
新島実と卒業生たち ── そのデザイン思考と実践 1981–2018
Minoru Niijima and The Graduates
― Thoughts and Practices of Visual Communication Design 1981–2018
会  期  2018年9月3日[月]-9月29日[土]
休  館  日  日曜日、祝日 * 9月17日[月・祝]、24日[月・休]は特別開館

時  間  10:00-18:00(土曜日、特別開館日は17:00閉館)
入  館  料  無 料
会  場  武蔵野美術大学美術館
主  催  武蔵野美術大学 美術館・図書館
協  力  武蔵野美術大学 視覚伝達デザイン学科研究室

04_LIFE_1994_yellow新島 実 LIFE(日本デザインコミッティー)1994年 オフセット印刷 1030 × 728 mm
01_JAPAN_1988新島 実 JAPAN(JAGDA)1988年 オフセット印刷 1030 × 728 mm

米イェール大学大学院でいち早くポール・ランド(Paul Rand, 1914-96)のデザイン理論を学んだ新島実は、帰国後グラフィックデザインを中心に、日本においてランドの視覚意味論を先駆的に実践してきた。また1999年に本学視覚伝達デザイン学科に着任して以降デザイン教育にも尽力し、第一線で活躍する人材を多岐にわたって輩出し続けている。

本展では、ポスター、造本、CIなど代表的な新島作品を展示し、考察を重ねながら挑戦し続けてきたグラフィックデザインの足跡をたどる。また同時に多彩な新島ゼミ卒業生の作品を一堂に集め、新島イズムがどのように受け継がれ、あるいはそれを越えて展開しているのか、視覚伝達デザイン学科の一端を紹介する。
※本展は新島実教授の退任記念展として開催します。

Niijima was one of the first designers who studied design theory developed by Paul Rand (1914–96) at Yale University. After returning to Japan, he pioneered the application of Rand’s visual semantics in his work, which focused on graphic design. In 1999 he joined the Department of Visual Communication Design at Musashino Art University and devoted himself to design education, mentoring numerous talented designers at the forefront of various fields. In this exhibition we trace his works and thoughts in graphic design through reexamination of his posters, bookdesign, and corporate image materials. The exhibition also shows a cornucopia of works by some of Niijima’s talented students from the Department of Visual Communication Design, who strove to follow or surpass his principles.

【詳細: 武蔵野美術大学 美術館・図書館 】

【偲ぶ会】ヘルムート・シュミットを偲ぶ会+展示|プリントギャラリー|9月1・2日

HS01HS02

ヘルムート・シュミットを偲ぶ会
1942 02 01
2018 07 02

ヘルムート・シュミットを偲ぶ会+展示
2018年9月1日[土]、 2日[日]
13:00 から 18:00 
参加費:500円

ご都合の良い時間にお越しください。 
会場にドリンク、軽食のご用意があります。 
献花、ご香典は勝手ながら固く辞退申し上げます。

展示のみ
2018年9月3日[月]、7日[金]、8日[土]
13:00 から 18:00 
入場無料

会 場:プリントギャラリー
東京都港区白金1-8-6, 1F
地図 / アクセス

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今年7月2日に急逝したタイポグラファ、ヘルムート・シュミットを偲ぶ集いを
プリントギャラリーにて2日間にわたって開催いたします。
代表的な制作物や著作を展示し、その事績や思い出を語り合う機会にしたく存じます。
どなたでもお気軽にご来場ください。また、シュミット家の皆さんも
2日間にわたって在廊する予定です。
なお、展示は9月3日[月]、7日[金]、8日[土]まで引き続き観覧可能です。

1942年にオーストリアに生まれたシュミットは、スイスのバーゼル工芸専門学校で
エミール・ルーダーのもとにタイポグラフィを学びました。
1960年代より欧米各地および日本で活動し、

1981年以降は大阪を拠点にして活動を続けました。大塚製薬「ポカリスエット」や資生堂「MAQuillAGE」、IPSAをはじめ、日本人には馴染み深い仕事も数多く残しています。
その一方で、シュミットは長年にわたって執筆、出版、教育にも精力的にかかわってきました。
著書『タイポグラフィ・トゥデイ』はデザイン書の古典として広く知られるほか、
『TM』『アイデア』などへの継続的な寄稿は東西のデザイン・コミュニティを接続する役割を担ってきました。
また、国内外での教育活動や講演を通じて、デザイナーが持つべき姿勢や精神について
メッセージを発し続けてきました。近年も東アジア圏での教育活動や、数々のデザイン・プロジェクト、出版企画にかかわり、急逝する直前まで仕事を続けていました。
ヘルムート・シュミットを偲びつつ、彼が私たちに手渡したもの、残したものについて、
あらためて考える機会になれば幸いです。

発起人・主催(50音順)
阿部宏史(プリントギャラリー)、ニコール・シュミット(ヘルムートシュミットデザイン)、室賀清徳(「アイデア」誌前編集長)

【詳細:プリントギャラリー ヘルムートシュミット デザイン 】

【艸木風信帖】暑中お見舞い申しあげそうろう 百日紅とあせ知らず

谷中天王寺 日吉洋人撮影連日の暑さが続いています。皆さんご壮健でいらっしゃいますか。

暦のうえでは、あす08月07日は「立秋」。それ以後は「残暑」となる。だからここで皆さまに「暑中お見舞い」を。

迷走・逆走台風12号につづき、今週はノロノロ台風13号が週央あたりに日本列島に接近 乃至は 上陸の予報が発表されている。しかも気象庁の予想進路では、日本列島のうえで、筆順が違うが、ひら仮名の「く」の字を下から描くようにして、北東方向に向かうらしい。
すでに、豪雨があり、猛暑と熱波でさんざんな目にあっているのに、もうご勘弁を、といいたいところだが、自然が相手では如何ともなしがたい。大過なく過ぎることを祈るばかりである。

台風13号進路予想 気象庁

《夏を彩る さるすべり-百日紅 紫薇》
冒頭に紹介した植物は「谷中の天王寺」にある「さるすべり-百日紅 紫薇」である。撮影は 日吉洋人 さん。

徳川幕府の庇護をうけ、宏大な寺域と、幸田露伴『五重塔』にしるされた巨塔を有していた天王寺に関しては、{活版アラカルト}に、【[イベント] メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-05 明治産業人掃苔会訪問予定地 戸塚文海塋域に吉田晩稼の書、三島 毅・石黒忠悳の撰文をみる】としてあらかたしるした。

「谷中の天王寺」は、戊辰戦争に際して、徳川方の彰義隊の営所となって被弾し、太平洋戦争では米軍機による焼夷弾の被害によって、伽藍の大部分を焼失するなど数奇な歴史をへてきた。その次第は、天台宗 東京教区 護国山尊重院 天王寺】に詳しく記録されている。

花のすくないこの季節、淡黄色の大輪の花をつける「トロロアオイ」とならんで、文字どおり三ヶ月、百日ほどのあいだ、紅色 乃至は 白い花をつけている「さるすべり 百日紅」に関しても、しばしば{活版アラカルト}にしるしてきた。
この喬木に「さるすべり → 百日紅」という絶妙な「漢字」を与えたのは、わが国でのことであったかも知れない。つまり中国ではこの喬木を、もっぱら「紫薇 シビ」と呼んでいる。
小社近辺の新宿御苑にそった道にも「さるすべり 百日紅」が植えられ、開花の盛りであるが、まだ植樹から数年ばかりで、樹皮の脱落もさほどみられず、「谷中の天王寺」のそれに及ぶべくも無い。

[参考:『日本大百科全書』小学館]
【 さるすべり [学]Lagerstroemia indica L . 】
ミソハギ科の落葉高木で高さ5-10メートル。中国南部原産で、中国名は紫薇-シビ。樹皮は赤褐色、滑らかで薄くはげ、跡が帯褐白色の雲紋状になる。7-9月、枝先の円錐花序に紅紫色、径3-4センチメートルの6弁の花を開く。花が白色のシロサルスベリ、淡紫色のウスムラサキサルスベリもある。
サルスベリの名は樹皮が滑らかなのでサルも滑り落ちるとの意味〔実際は平気で駆けあがるらしいが〕であり、赤い花が長く咲き続けるのでヒャクジツコウ(百日紅)ともいわれる。日本には江戸時代に入っており、貝原益軒-かいばらえきけん-の『花譜』(元禄7=1694)にはじめて百日紅の名が出てくる。
栽培は陽樹で、土地を選ばず、成長は速い。整枝、剪定に耐え、萌芽力が強く、病害虫も少ない。繁殖は実生、挿木による。庭園、公園、寺院などに植え、並木にもする。

《 むか~し ばなし ── 郷里の祖母による DDT の散布と あせ知らずの塗布 》
ほんとうに昔のはなしである。生家がいなかの開業医で、ながらく土日も無く患者さんが押しかけていた。そのため週末は、兄・妹と三人そろって、田舎のバスにゆられて母の実家に行かされることがおおかった。
そこも開業医であったが、伯父が軍医として招集され、南方戦線で戦歿したため、女医の伯母・叔母がふたりと、もうひとりの叔母・看護婦さん・従姉妹がふたり・祖母と、どういうわけか九人ほどの女性ばかりがいた。
すなわち生家は母が医業事務のほかにすべての家事をとりしきり、通いの看護婦さんがふたりいただけだけで、育児にはなかなか手が回らなかった。それに対して、母の実家には十分な人手(女手)があったことになる。

バスで小一時間(いまなら車で20分ほど)かけて母方の実家に到着すると、祖母か伯母のどちらかが、
「まぁまぁ、みんな頭がシラミだらけ。DDT を噴霧するからね」
と、頭髪に向けてシュパシュパと、頭がまっ白になるまで DDT を散布された。続けて、
「ホラホラ、三人とも躰じゅうあせもだらけ。あせ知らず、あせ知らず」
と、今度は全裸にされて、パタパタとおしろいをたたくように、全身が DDT と「あせ知らず」でまっ白になるまで大騒ぎをしてから入室を許された。こんな光景は格別珍しいものではなく、小・中学校でも全学童に DDT 散布をしばしば実施していた。
つまり戦後まもなく、わが国が貧しかった時代のはなしである。

当時の DDT は占領軍(GHQ)からの援助品 であったが、のちに DDT に発癌性がうたがわれ、環境ホルモン 作用とあわせておおきな話題となった。そのために現在のわが国ではほとんど使われることがないらしい。
これは昭和25-30年ころ、大昔のはなしであるが、こんな過去があって、DDT ともども「あせ知らず」も苦いおもいでとなっていた。
あせ知らずたまたま洗面所に「あせ知らず」が置かれていた。家人によると、アセモ(汗疹)予防に良いし、香りも爽やかだということで、近年の話題アイテムだそうである。そして使用をすすめられた。
この齢になって、湯上がりに「ベビー・パウダー」もどうかな? とおもっていたので、恐る恐る使ってみた。たしかに爽快だし、むかしとおなじようなパッケージで、懐かしい香りがした。

おもえば DDT は随分批判されたが、「てんか粉 あせ知らず」は話題にもならず、ただただ黙って忘れられていたような気がする。
この狂気にみちた夏は、「あせ知らず」で乗りきることにしようとおもった次第。

【展覧会】紙の博物館 ─ 王子  ミニ展示「紙漉重宝記」+新宿餘談

紙の博物館 ── 王子
ミニ展示「紙漉重宝記
会  期  2018年06月16日[土]-2019年03月03日[日]
休  館  日  月曜日(9/17、9/24、10/8、12/24、1/14、2/11は開館)
紙博図版『紙漉重宝記』は、江戸時代後期に石見(現 島根県)の紙問屋、国東治兵衛によって刊行された初の紙漉き解説書です。図絵を用いて分かりやすく説明され、英語、ドイツ語、フランス語などにも翻訳されています。
今回は『紙漉重宝記』の内容を、パネルで分かりやすくご紹介いたします。
* 当展はパネルのみで構成し、現物資料の展示はございません。

【詳細: 紙の博物館 】

{ 新 宿 餘 談 }

「王子の<紙の博物館>が子供のころからの遊び場だった」とされる、原啓志さんによる講演会{朗文堂ちいさな勉強会『紙』講座}が続いている。
また紙の博物館では、7月20日-8月31日「夏休み図書室自由研究フェア」が開催され、また、すこしさびしくはあるが、特別展や企画展ではなく、ミニ展示「紙漉重宝記」がおよそ八ヶ月間の長期にわたって開催されている。こんな時こそ普段は見過ごしている常設展や図書室をじっくり観る機会としてとらえたい。

そこで炎暑をものともせず、国立国会図書館が公開している『紙漉重宝記』(請求番号 特1-3415)を読んでみたくなった。ところがなにぶん例の江戸期通行体「お家流書風」でしるされているために、判読に難航することになり、畏兄の古谷昌二氏に釈読をお願いした。

また事前に、「石見産紙の祖神」とされ地元で尊崇され、『紙漉重宝記』の冒頭部に登場する歌人:柿本人麻呂と柿本神社に関して、手元資料から調査した。
詳細は紙の博物館での紹介にゆずり、ここでは冒頭部の「柿本人麻呂」の歌(二ページ目)と、十一ページ目「とろろ草の種類」を、国立国会図書館蔵書による元版と、古谷昌二氏による釈読挿入版とで紹介し、紙の博物館での観覧の予習として、{朗文堂ちいさな勉強会『紙』講座}受講者に配布し、あわせてその一部をここに紹介したい。

!cid_540FBA32A4D2415B9A2FC7EA3D6710B3@robundoPC『紙漉重宝記』(国立国会図書館 請求番号 特1‐3415)
釈読/「平野富二生誕の地」碑建立有志会代表:古谷昌二氏
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【柿本人麻呂-かきのもとのひとまろ】
生没年未詳。『万葉集』の代表的歌人。人麿とも書く。姓は朝臣-あそみ。奈良朝(710-)以前に活動した。〔『万葉集』成立以前の〕「人麻呂歌集」歌に、「庚辰-こうしん-年」(天武天皇9年=680)作の歌(巻10・2033歌)があるので、天武朝(673-686)にすでに活動していたことが知られる。
また、700年(文武天皇4)作の明日香皇女挽歌-あすかのひめみこばんか-(巻2・196-198歌)が、作歌年時のわかる作品として最後のものになる。このように柿本人麻呂は天武・持統朝を中心に、文武朝にかけて活動したのであるが、主要な作品は持統朝(686-697)に集中している。

人麻呂の活動は天武朝にはじまるが、官人としての地位、足跡の詳細はわからない。石見相聞歌-いわみそうもんか(巻2・131-139歌)によって、石見国〔旧国名、いまの島根県西部〕に赴任したことがあったと認められたり、瀬戸内海旅の歌(巻3・249-256歌、303-304歌)などに官人生活の一端をうかがったりすることができる程度である。

なお、石見国での臨死歌とする「鴨山-かもやま-の岩根しまける我をかも知らにと妹-いも-が待ちつつあるらむ」(巻2・223歌)があることから、晩年に石見に赴任し、石見で死んだとする説が有力だが、石見相聞歌は持統朝前半の作とみるべき特徴を、表現上(枕詞・対句)も様式上(反歌)も備えている。臨死歌は、人麻呂の伝説化のなかで石見に結び付けられたものとおもわれ、石見での死は信じがたい。
[参考:『日本大百科全書』小学館 神野志隆光]

※ 補 遺:ウィキペディア「高津柿本神社」には、上掲紹介とおなじ(巻2・223歌)は、辞世の歌として、「鴨山の磐根し枕(ま)ける吾をかも 知らにと妹が待ちつつあらん」とされている。
歴史
晩年に国司として石見国に赴任した柿本人麿が、和銅年間に「鴨山の磐根し枕(ま)ける吾をかも 知らにと妹が待ちつつあらん」の辞世の歌[『万葉集』巻2所収(223)]を詠んで、益田川河口(旧高津川河口)の鴨島に没したので、神亀年間にその霊を祀るために石見国司が聖武天皇の勅命を受けて鴨島に人丸社を創祀したのに創まるといい、また天平年間には人丸寺も建立したという。

【柿本神社-かきもとじんじや】[現]島根県益田市高津町
高津川左岸、東へ張出した鴨山-かもやま-にあり、主祭神は柿本人麻呂命。旧県社。神亀元年(七二四)柿本人麻呂が没した鴨島に社殿が建立されていたが、万寿三年(一〇二六)の地震による大津波のために島は海中に没したという。このとき神体が松崎に漂着し、この地に社殿を再建。延宝九年(一六八一)津和野藩主により現在地に移転再建された。

霊元上皇〔1654-1732〕の時、和歌において当社をとくに崇敬され、古今伝授にあたり当社に祈祷を命ぜられた。のちに宸筆の御製を奉納された。御製は霊元上皇・桜町天皇・桃園天皇・後桜町天皇・光格天皇・仁孝天皇まで、各時代の御製五〇枚、合計三〇〇枚の短冊が奉納された。
本殿は正徳二年(一七一二)の建造で、正面三間・側面三間、単層の朱塗の入母屋造妻入で、屋根は檜皮葺である。正面に唐破風の向拝を設け、背面を除く三方に高欄付縁をめぐらし、正面一間に縁付木階を置く。殿内は亀井家の四ッ目結び紋をつけた板扉によって内陣と外陣に画され、内陣の須弥壇に等身大の人麻呂神像が安置される。この本殿の形式は県内には類例の少ない建造物で、複雑な地形を効果的に利用した社殿配置と豪華さが特筆される。県指定文化財。

享保八年(一七二三)柿本人麻呂千年祭にあたり、正一位柿本大明神の宣下があり、歌聖人麻呂に和歌を手向けて歌道の上達を祈念する風潮が流行。特別に法楽が行われ、歴代の天皇をはじめ親王や公卿の和歌も短冊に記されて数多く奉納された。

Takatsu_Kakinomoto_Jinja_Torii高津柿本神社 鳥居と社名標(ウィキペディアゟ)

現在の柿本神社の社地一帯は中世の高津城跡であったが、江戸期に亀井茲親が大々的に社殿の造営をおこなったため、城跡としての面影は失われた。出丸鍋島-なべしま-も昭和四七年(一九七二)の切崩しでまったく旧観はない。高津小山-たかつこやま-城ともいう。高津川と沖田-おきた-の間の尾根の先端に築いたもので、北・東・南の三方は急峻で、西方は掘切った独立丘である。
[参考:『日本歴史地名大系』平凡社]
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『紙漉重宝記』(国立国会図書館 請求番号 特1‐3415)
釈読/「平野富二生誕の地」碑建立有志会代表:古谷昌二氏 

〇『紙漉重宝記』 二頁目
是を漉(すか)しめ、彼地(かのち)へ渡(わた)すにより、大に悦び是を賞(しやう)せし事書に伝(つた)へて詳(つまびらか)なり。唐土(もろこし)の製(せい)は今の唐紙(たうし)の類(たぐひ)のみなり。此紙書画(しょぐわ)の類(るい)の外(ほか)用ゆ事稀(まれ)なり。実(じつ)は下品(ひん)と謂(いひ)つべし。
御国のごとき紙の生(しやう)ずる事、異国(いこく)になし。これを扱(あつか)ふ賈人(あきうど)是等(これら)の事をさとり必(かならず)おろそかにする事を傷(いた)むべし。此紙、石州鹿足郡(せきしゅうかのあしこほり)美濃郡(みのこほり)の間(あいだ)に遺跡(いせき)せし事疑(うたが)ひなく、隣郡(りんぐん)浜田御領(はまだごりょう)、土州(としう)豫州(よしう)大洲(おほす)等(とう)各々(をのをの)彼地(かのち)より伝(つた)ふ。訳(わけ)て正一位柿本人麻呂明神是(これ)を製(せい)する御祖神(おんそしん)たれば、これを仰(あを)ぎ、尊敬(そんきゃう)すべし。世人(よのひと)其神慮(そのしんりょ)を知(し)らざるを歎(なげ)きかくふのみ。

 〇『紙漉重宝記』 三頁目
「人麻呂(ひとまろ)の像(ぞう)」
石州美濃郡高角里に鎮座
[古谷昌二 釈読①]── 画像に挿入した釈読は ①
かもやまに/いわねしまける/我(われ)を/かも/知(し)らすと/いもか/待つゝ/あら/なん


[古谷昌二 釈読②]
鴨山に/磐根し枕(ま)ける/我を/かも/知らずと/妹が/待ちつつ/あら/なん

[『日本大百科全書』紹介/人麻呂歌集:巻2・223歌 釈読版]
鴨山-かもやま-の岩根しまける我をかも知らにと妹-いも-が待ちつつあるらむ
[ウィキペディア 高津柿本神社](巻2・223歌)

鴨山の磐根し枕(ま)ける吾をかも 知らにと妹が待ちつつあらん

古歌や古詩には異本がさまざまにあり、このような異同がしばしばみられる。ここでは古谷昌二氏の釈読を紹介した。

【 補 遺 2】
本項アップロード後に、古谷昌二氏より以下のようなメッセージを頂戴した。

人麻呂の歌について、当初は「いわねしまける」の意味がすっきりしないまま、太い根(磐根)を巻く(束ねる)と解釈しましたが、役人として赴任したとされる柿本人麻呂がこのような作業はしないはずですから疑問に思っていました。
改めて古語辞典を確認して、「まける」が「枕ける」と読めることを知りました。
これならば、「トロロアオイの太い根を枕にして寝ている」としてすっきり理解できます。
「いわね」については、「岩の付け根」の意味もあり、山中でもあるので、「岩を枕にして寝る」と解釈するのが一般的かもしれません。
すなわち、当時のひとは、人麻呂 ⇒ 紙 ⇒ トロロアオイの太い根と連想できたのではないでしょうか? [古谷昌二]

!cid_0BD40939-5F2F-46EE-A32A-4723AB5EAA48!cid_83663A8C-A6C2-4CDA-AFD9-F1F6BFB47E5C〇『紙漉重宝記』 十一頁目

「とろゝ草(くさ)の種類(しゅるい)」

大豆(だいづ)小豆(せうづ)を作(つく)る
時候(じこう)等(ひと)し

春(はる)生(しやう)じ、花さく。花の中に
実(み)を生ず。ちいさく六角(かく)為(なり)。
胡麻(ごま)に似(に)たり。虱(しらみ)に似(に)たり。
これを塵(ちり)紙等漉(すく)う
用ゆ其(その)紙いろ赤(あか)くなる
としるべし。

〇『紙漉重宝記』 十二頁目

花しほるゝを引(ひき)ぬき、
五月梅雨(つゆ)の間(あいだ)に干(ほ)し、
かくいふ之根の大きさ
八分位(くらい)長く午房(ごぼう)の
ごとし。石原(いしはら)に出来(でき)る
は尺(たけ)短(みじか)し。

売買銀壱匁に
かけ目百廿目
安き時は壱匁に
かけ目五百目

ひげ皮(かわ)をこそげとり、擲(たゝ)く。
其(その)製(せい)とろゝ汁(しる)のごとく
水をさし入るゝなど、やはらか
に成としるべし。猶(なを)、かげん
あるべし

紙漉(すき)一船(ふね)に壹升ほど入と
心得べし
尤(もっとも)、はいのうにてこし、小桶(こをけ)に入
置(おき)、入用程づつつかふ。
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紙漉重宝記-かみすきちょうほうき 参考:寿岳 文章(『国史大辞典』、吉川弘文館)

篤農家、国東治兵衛-くにさき じへい-の著書。一巻。寛政十年(一七九八)刊。
著者の遠祖は豊後国稙田-わさだ-郷(大分市)にいたが、いつのころか同国 国東郡-くにさきぐん-に移って国東を名のり、江戸時代石見国美濃郡遠田村(島根県益田市)に定住した。
治兵衛の生まれたのは元禄の末ごろと思われるが、生没年はつきとめられていない。享保十七年(一七三二)の大飢饉に触発されて、豊後(大分県の大部分)や、備後(広島県の東部)から藺草-いぐさ-をとりよせ、藺筵-いむしろ-の生産を年間六十万枚にのばすなど、殖産家としての業績も多いが、彼の名を後世内外に伝えることとなったのはこの小著。

紙問屋の主人でもあった彼が、名所図絵の画工:丹羽桃渓に挿絵を画かせ、方言もとり入れ、商品となるまでの石見半紙のすべてについて語ったもの。啓蒙的な著述ながら、製紙を図解した最初の書物であり、山村紙すきの苦労も視覚的にしのばれるためか、和紙文献としては最も早く海外に知られ、英・独・仏語による翻訳があとをたたない。本邦でもしばしば翻刻・複製された。『日本科学古典全書』、『製紙印刷研鑽会叢書』などに収められている。
[参考文献]矢富熊一郎『国東治兵衛翁之治蹟』

DSCN8725トロロアオイ/黄蜀葵
アオイ科の一年草。中国原産。草丈は本来2メートル近くになるが、最近は0.5-1メートルの丈の低い品種が多く栽培されている。葉は互生し、葉柄が長く、掌状に深く裂ける。
夏から秋、淡黄色で中心部が濃赤紫色、径15-20センチメートルのおおきな五弁花をつける。花は1日でしぼむが、茎の下位から上位へと順に次〻と開く。植物体全体、とくに根に粘質物を多く含み、これを手漉き紙を漉くときの糊料(ネリ)として利用する。また花を観賞用・食用ともする。糊原料をとるための栽培では、開花・結実させないために、つぼみがついたら先端部を刈り取って根に養分をたくわえる。
[参考:活版アラカルト[艸木風信帖]{朗文堂ちいさな勉強会『紙』講座}受講者のあいだで「フラックス 亜麻」が開花しました]

【WebSite紹介】 明治産業近代化のパイオニア 平野富二 {古谷昌二ブログ18}── 本木昌造の活版事業

6e6a366ea0b0db7c02ac72eae004317611-300x75明治産業近代化のパイオニア  平野富二生誕170年
古谷07月

明治産業近代化のパイオニア  平野富二生誕170年を期して結成された<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>の専用URL{ 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、同会代表/古谷昌二氏が近代活版印刷術発祥の地:長崎と、産業人としての人生を駈けぬけた平野富二関連の情報を意欲的に記述しています。ご訪問をお勧めいたします。
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古谷昌二ブログ ──── 平野富二とその周辺

古谷昌二さんuu[1]◎ 古谷昌二ブログ
[管理人:「平野富二生誕の地」碑建立有志会事務局長 日吉洋人]

① 探索:平野富二の生まれた場所
② 町司長屋の前にあった桜町牢屋
③ 町司長屋に隣接した「三ノ堀」跡
④ 町司長屋の背後を流れる地獄川
⑤ 矢次事歴・平野富二祖先の記録
⑥ 矢次家の始祖関右衛門 ── 平野富二がその別姓を継いだ人
⑦ 長崎の町司について
⑧ 杉山徳三郎、平野富二の朋友
⑨ 長崎の長州藩蔵屋敷
⑩ 海援隊発祥の地・長崎土佐商会
⑪ 幕営時代の長崎製鉄所と平野富二
 官営時代の長崎製鉄所(その1)

⑬ 官営時代の長崎製鉄所(その2)
⑭ ソロバンドックと呼ばれた小菅修船場
⑮ 立神ドックと平野富次郎の執念
 長崎新聞局とギャンブルの伝習
 山尾庸三と長崎製鉄所
⑱ 本木昌造の活版事業

<本木昌造の活版事業 主要内容>
1)活版研究の取り組み
2)事業化の試み
3)活版事業の本格化
4)活版所の設立と中央への展開
5)私塾の経営
6)本木昌造没後の活版事業
〔新街私塾〕、〔新町活版所〕、〔崎陽新塾出張活版所(大阪)⇒ 大阪 活版所⇒ 大阪活版製造所〕、〔京都點林堂〕、〔横浜活版社〕、〔文部省御用活版所〕、〔崎陽新塾出張活版製造所(東京)⇒ 東京築地活版製造所〕

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【字様・紋様】「石畳・霰-あられ」を「 市 松 紋 様 」の名にかえた 歌舞伎役者・佐 野 川 市 松

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「石畳・霰-あられ」を「 市 松 紋 様 」の名にかえた
江戸中期の歌舞伎役者・佐 野 川  市 松-さのがわ いちまつ

日本の紋様〔紋のありさま〕の定番であり、着物や帯だけでなく、千代紙や小物などあらゆるところで目にするものに「市松紋様」がある。おなじみのこの市松紋様、実はさほどふるいものではなく、ひとりの歌舞伎俳優と深い関係があった。

色違いの正方形を、碁盤の目のように組み合わせた紋様が生まれたのは、古墳時代の埴輪の服装や、法隆寺・正倉院の染織品にも見られ、古代より織紋様として存在していた。また公家や武家の礼式・典故・官職などに関する古来のきまり『有職故実-ゆうそくこじつ』では、こうした格子紋様は「石畳・霰-あられ」などと呼ばれ、おもに着物の地紋(織り柄)として使われていたことがわかる。

これが歌舞伎の舞台で鮮やかに観客の前に出現し、一気に注目されることとなったのは、寛保年間(江戸中期 1741-44)のことである。当時の歌舞伎役者が身にまとう紋様は、その役者の感覚や心意気を人〻に伝えるツールであった。
江戸中村座である俳優が「心中万年草-高野山心中」の小姓・粂之助-くめのすけ-に扮した際、白と紺の正方形を交互に配した袴をはいて登場したことからおおいに人気を博した。折しも庶民が紋様を施した着物を楽しむようになった時代でもあり、霰の紋様をあしらった鮮やかな袴は観る人〻の目に衝撃とともに焼きついた。

この衣装を身につけて登場した俳優の名こそ「初代 佐野川市松」であった。ここであまり紹介されてこなかった「初代 佐野川市松」をみてみたい。

佐野川市松(初代 さのがわ-いちまつ 1722-1762)
江戸時代中期の歌舞伎役者。享保7年生まれ。佐野川万菊の門人。若衆方、若女方をかね、荒事にもすぐれた。宝暦12年11月12日死去。41歳。山城(京都府)出身。俳名は盛府。屋号は新万屋・芳屋。

佐野川市松はその後もこの紋様を愛用して、また浮世絵絵士:奥村正信・鳥居清重(1751-77ころ活動 生没年不詳)・石川豊信(1711-85)などがその姿を好んで描いたことから、着物の柄として流行をみた。
市松の愛用したこの紋様は、当初はふるくからの慣わしにしたがって「石畳」と称されたが、のちに「市松紋様」「市松格子」「元禄紋様」などと呼ばれるようになった。
ひとりの歌舞伎役者の美意識によって、古来の呼称「石畳・霰」が、「市松紋様」という名に置きかわったのである。この「佐野川市松」の伝承によって、当時のインパクトがどれほどのものだったのかを偲ぶことができる。

Tokyo_2020_Olympics_logo.svg2020年 夏期オリンピック エンブレム

さらに佐野川市松の時代から175年ほどのち、2020年夏季オリンピック・パラリンピックのエンブレムが若干の紆余曲折をへて決定した。デザインは野老朝雄(ところ-あさお 1969-)で、このデザインは「組市松紋」だと自ら発表している。歌舞伎役者「佐野川市松」好みの紋様が、世界のアスリートが結集する舞台に「組市松紋」として再登場したことになる。

〔参考資料〕
WebSite 歌舞伎美人-かぶきびと-歌舞伎いろは「装い」
WebSite 市松模様 ウィキペディア
「市松模様」『国史大辞典』(吉川弘文館)/「市松模様」『日本史大事典』(平凡社)
「佐野川市松(初代)」『日本人名大辞典』(講談社)

【公演】市川海老蔵 古典への誘い  歌舞伎十八番『蛇柳-じゃやなぎ』 市川海老蔵がついに復活、全国を舞台に初披露 + 新塾餘談

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市川海老蔵 古典への誘い
成田屋伝来の歌舞伎十八番『蛇柳-じゃやなぎ』
市川海老蔵がついに復活、全国を舞台に初披露

企  画  市川海老蔵
制  作  株式会社 3 Top
制作協力  全栄企画株式会社 / 株式会社ちあふる
協  力  松竹株式会社
総合お問い合わせ Zen – A(ゼンエイ) TEL 03-3538-2300 (平日11:00-19:00)
────────────
今年で6年目に突入した「市川海老蔵 古典への誘い-いざない」。様〻な演目をご覧いただく中で、やはり全国の皆様に、成田屋の〝歌舞伎十八番 *01〟をご披露したいという想いがつのり、今回の公演で実現した。
十八番の中で選んだのは、上演が途絶えていた演目を海老蔵が<第一回市川海老蔵自主公演「ABKAI」>で復活させ、大きな話題となった『蛇柳-じゃやなぎ』。歌舞伎特有の「押戻 * 02」という手法を用い、海老蔵が三役を相勤める。古風な中にも新しい感覚を取り入れた舞踊劇にご期待いただきたい。

< 出 演 >
一、和 太 鼓『  』         辻       清
二、『ご 挨 拶』         市川海老蔵
三、上・『子   守』       市川福太郎
  下・『三 社 祭』       市川九團次・大谷廣 松
歌舞伎十八番の内
四、『蛇  柳-じゃやなぎ』        市川海老蔵

< 蛇  柳ーじゃやなぎ >
蛇柳とはかつて高野山奥の院にあった柳の木のこと。
災いを招く蛇が、弘法大師の法力により姿を変えられたものだと伝わります。この柳を題材にした『蛇柳』は、約250年前に初演された『百千鳥大磯流通』の一部で、四世團十郎演じる主人公の男に、安珍清姫伝説で知られる清姫の霊が乗り移り、狂乱の体となるという所作事(舞踊)でした。

海老蔵の手により復活した、新たな『蛇柳』では、この柳に怪異が続くある日のこと、住職らの前に丹波の助太郎が現れ、次第に心を乱し始めます。
後半では蛇柳の精霊が姿を現しますが、金剛丸照忠によって怒りが鎮められます。

ebizo-ichikawa市川海老蔵

朗々と響く声と美しく整った容姿、輝やかしいほどの華を備えた今最も注目される俳優の一人。市川宗家の家の芸である「歌舞伎十八番」の継承と復活、また、歌舞伎という芸能の可能性の追求に並々ならない情熱を注いでいる。

2003年には NHK 大河ドラマ「武蔵 MUSASHI 」の主役を勤め、2011年公開の主演映画「一命」はフランスカンヌ映画祭にノミネートされた。そしてパリ・オペラ座をはじめとする海外での歌舞伎公演にも積極的に取り組み、近年では2014年、2015年シンガポール、2016年2月に UAE 、翌3月、NY 音楽の殿堂である NY カーネギー・ホールでの公演を大成功に導いた。歌舞伎俳優として、さらなる飛躍が期待されている。

【詳細: Zen – A(ゼンエイ)】
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{ 新 塾 餘 談 }

* 01 <歌舞伎十八番-かぶきじゅうはちばん>
歌舞伎劇のうち、成田屋、市川団十郎の「家の芸」18種。天保年間(1830-44)、七世市川団十郎が初世以来家に伝わってきた当り狂言(または当り芸)を制定したもので、『不破-ふわ』『鳴神-なるかみ』『暫-しばらく』『不動-ふどう』『 嫐 -うわなり』『象引-ぞうひき』『勧進帳-かんじんちょう』『助六-すけろく』『押戻-おしもどし』『外郎売-ういろううり』『矢の根』『関羽』『景清-かげきよ』『七つ面』『毛抜-けぬき』『解脱-げだつ』『蛇柳-じゃやなぎ』『鎌髭-かまひげ』がその内容。

いずれも家の芸である「荒事-あらごと」*03 を基本にしているのが特色である。これらのうち、『勧進帳』は初世が演じた題材をもとに、七世が再創造したもの。

また、上演がつづいていた『暫』『矢の根』『助六』『鳴神』『毛抜』のほかは、『外郎売』や『押戻』のように、ほかの作品の一部として伝わったものや、名ばかりで何も残っていなかったものが多かったが、明治以降、二世市川左団次や市川三升-さんしょう(十世団十郎)によって復活されている。
なお、三升屋二三治-みますやにそうじ-の『戯場書留-ぎじょうかきとめ』によれば、七世団十郎が制定した以前に「歌舞伎狂言十八番」ということばがあったが、これは市川家に限らず江戸歌舞伎の当り狂言を選んだものである。
一般に得意芸のことを「十八番」というのは、「歌舞伎十八番」を家の芸、転じて当り狂言と解したことから生まれたといってよい。
[参考:『日本大百科全書』(小学館)]

* 02 <押 戻-おしもどし>
歌舞伎十八番のひとつ。『鳴神』『道成寺』など怨霊のあらわれる狂言で、荒れ狂う怨霊を、花道の中程から舞台へ押して戻す荒事。

籠手-こて-、脛当-すねあて-、腹巻きに大広袖、三本太刀・蓑笠をつけ、太い竹の杖をつく。

*03 <荒  事-あらごと>
歌舞伎で、怪力勇猛の武人や、超人的な鬼神などによる荒〻しく誇張された演出様式。また、その狂言。

初代市川團十郎が創出し、江戸歌舞伎の特色となった。

[参考:『広辞苑』(岩波書店)]

munakata_sig_flyer第36回世界遺産劇場~宗像大社市川海老蔵 特別奉納公演  主催:SAP

【公演】六代目片岡愛之助ほか 第十一回 出石ーいずし 永楽館歌舞伎 10月18日-24日+地域の芝居小屋の再生と歌舞伎役者

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第十一回 出石ーいずし 永楽館歌舞伎
平成30年10月18日[木]-24日[水
    昼の部 午前11時30分ゟ
    夜の部 午後4時ゟ
    * 24日[水]は昼の部のみ 【貸切】19日[金]昼の部
会  場  出石ーいずし 永楽館
料  金  全席指定 12,000円[税込]
────────────
<演目と配役──見どころ>
昼の部・夜の部

一、御所桜堀川夜討-ごしょざくらほりかわようち
弁慶上使-べんけいじょうし

                        武蔵坊弁慶  片岡 愛之助
                          おわさ  中村 壱太郎
                    卿の君/腰元しのぶ  上村 吉太朗
                          花の井  上村  吉弥
                         侍従太郎  大谷  桂三
☆ みどころ
豪傑、武蔵坊弁慶が生涯一度だけ恋をし、
大泣きしたという伝説を描いた時代物の傑作
懐妊のため静養中の源義経の正室、卿の君のもとを、源頼朝の上司として武蔵坊弁慶が訪れます。弁慶は源頼朝より反逆人の平時忠の娘である卿の君の首を討つようにと命を受けていたのです。侍従太郎は、妻の花の井とともに、卿の君に瓜二つの腰元しのぶを身替りに立てようとしますが、しのぶの母おわさは、18年前に一度だけ契った、しのぶの父にあたる男に娘を会わせるまでは死なせるわけにはいかないと、頑なに拒みます。
実は弁慶こそがしのぶの父親。弁慶は自分が親だと名のり出たい気持ちを抑え、卿の君の身替りとしてしのぶの首を刎ねるのでした。歌舞伎の様式美あふれるなか、夫婦、親子の情愛、そして忠義を尽くす武士の姿を描いた名作をご堪能ください。

二、お目見得 口上-こうじょう
                              幹部俳優出演
☆ みどころ

出演する幹部俳優がご挨拶を申し上げます。歌舞伎を身近に感じていただきたいという出演者の意気込みが伝わる口上は、小さな芝居小屋「出石永楽館」ならではの恒例の一幕です。

人気投票によりアンコール上演決定!
水口一夫 作・演出
三、神の鳥-こうのとり

              狂言師右近実はこうのとり(男)  片岡 愛之助
                      山中鹿之介幸盛  片岡 愛之助
              狂言師左近実はこうのとり(女)  中村 壱太郎
                     こうのとり(子)  片岡 愛三朗
                         傾城柏木  上村  吉弥
                         赤松満祐  大谷  桂三
☆ みどころ

幸せを運ぶという霊鳥コウノトリを題材にした新作舞踊劇
時は室町時代。播磨を拠点に勢力を拡大していた守護大名の赤松満祐は、将軍足利義教を討ち果たし、今や飛ぶ鳥落とす権勢を誇っていました。
出石神社の社頭では、満祐の天下掌握を祈願する宴が開かれようとしています。ひと際目を引くのは大きな鳥籠。中には神の使いとされる“こうのとり”が捕らえられています。その肉を食べると長寿を得るという伝説に従い、家臣が満祐に献上した生贄だったのでした。
まだ幼い子どもの“こうのとり”を殺して料理しようと、家臣たちが鳥籠をとり囲むと、突然辺りが真っ暗となり、狂言師の二人連れが現れます。二人は満祐の前で奉納の舞を披露しますが、やがて鳥籠に近づいたかと思うと ……。
但馬の霊長 “ こうのとり” を題材に新たに書き下ろされた、ご当地但馬地方が舞台の舞踊劇です。これまで永楽館で上演した18演目のなかからお客様に「もう一度見たい」演目を公募で選んでいただき、待望の再演が決まりました。錦絵を見るような歌舞伎らしい華やかな舞台にどうかご期待ください。

※昼の部/夜の部 同一演目にて上演します。
【詳細:歌舞伎座 出石 永楽館 】

{六代目片岡 愛之助と、出石-いずし 永楽館 兵庫県豊岡市出石町柳17ー2}

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東京木挽町 歌舞伎座の変遷と地方芝居小屋の盛衰

ph_transition_1第一期歌舞伎座:明治22年11月-明治44年7月

初代の歌舞伎座は、演劇改良運動の熱心な唱導者であった福地源一郎(櫻痴)が、自分たちの理想を実現すべき日本一の大劇場を目指して造られたもので、明治22年11月21日に開場しました。

外観は洋風でしたが、内部は日本風の3階建て檜造り、客席定員1824人、間口十三間(23.63m)の舞台を持つ大劇場で、今も歌舞伎座の座紋である鳳凰丸は、この時から用いられています。
明治44年7月に施設の老朽化と帝国劇場の出現を受けて改造されることとなります。

ph_transition_2第二期歌舞伎座:明治44年10月-大正10年10月

第二期の歌舞伎座は、第一期の建物の土台、骨組を残し、純日本式の宮殿風に大改築が施され、明治44年10月に竣工しました。
正面車寄せは唐破風造りで、銅葺きの釣庇に左右の平家も破風造り、また、内部の正面大玄関は格の鏡天井、観客席は高欄付きの総檜造りで、二重折上げの金張り格天井でした。
大正2年に、松竹創業者の大谷竹次郎が当時の歌舞伎座の経営に携わるようになりましたが、大正10年10月、漏電により焼失してしまいます。

ph_transition_2第三期歌舞伎座:大正13年12月-昭和20年5月

第二期歌舞伎座建物の焼失を受け、直ちに劇場再建工事が開始されましたが、大正12年9月1日の関東大震災の被災で工事は一時中断、翌13年3月に工事が再開され、同年12月に第三期の大殿堂が竣工しました。

奈良朝の典雅壮麗に桃山時代の豪宕妍爛の様式を伴わせた意匠で、鉄筋コンクリートを使用した耐震耐火の日本式大建築でした。
正面大屋根の高さは100尺(約30m)に達し、全椅子席に冷暖房完備、舞台間口は15間で廻り舞台の直径60尺(約18m)、照明設備はアメリカとドイツから取り寄せるなど、内容外形ともに日本一を誇る大劇場でしたが、昭和20年5月に空襲を受け、外郭を残して焼失しました。
(設計:岡田信一郎)

ph_transition_4第四期歌舞伎座:昭和25年12月-平成22年4月

昭和24年11月歌舞伎座再建のため、当社(株式会社歌舞伎座)が設立され、戦禍を受けた第三期の建物の基礎や側壁の一部を利用して改修、昭和25年12月に第四期の歌舞伎座が竣工しました。
外観は戦前の歌舞伎座を踏襲し、奈良及び桃山の優雅な趣はほぼ再現され、同時に近代的な設備が取り入れられました。

客席数は、桟敷、一幕見を含めて約2000席、舞台間口15間(約27.6m)、廻り舞台の直径60尺(約18m)、大小合わせて4ヵ所のセリがあり、平成14年2月14日「登録有形文化財」に登録されました。建物の老朽化により、平成22年4月の興行をもって惜しまれながら60年の歴史の幕を閉じ、建替えのために休館しました。
(設計:吉田五十八)

ph_transition_5第五期歌舞伎座:平成25年4月-

第五期歌舞伎座は、第三期からの意匠の流れを踏襲、第四期の劇場外観を極力再現し平成25年2月に竣工しました。破風屋根の飾り金物や舞台のプロセニアムアーチなどの部材を再利用する一方、建物構造や舞台機構で最新技術が取り入れられ、文化施設また高層のオフィスタワーも併設した建物として生まれ変わりました。
座席数は1,808席(幕見席96席を除く)、どの席からも花道が見られ、また舞台寸法は第四期と全く変わらないものの、新たに大ゼリを追加、劇場内部にもエスカレーターやエレベーターが設置されました。
(設計:三菱地所設計、隈研吾建築都市設計事務所による共同設計)

【 参考資料: 歌舞伎座資料館 歌舞伎座の変遷 】

文化財として現存する、地方における芝居小屋と
これらの芝居小屋を復旧させた功労者たち

◯ 旧金毘羅大芝居-通称 金丸座
1835年(天保6)築。香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮・門前町にある。現存する日本最古の芝居小屋。別名、金丸座-かなまるざ-とも呼ばれ、国の重要文化財の指定を受けている。香川県仲多度郡琴平町字川西乙1241番地
◯ 旧広瀬座 
1887年(明治20)築(推定)。1994年に福島県伊達郡梁川町から移築修復。1998年重要文化財指定。福島市民家園
◯ 呉服座
1892年(明治25)築。大阪府池田市にあったものを移築。1984年重要文化財指定。博物館明治村(愛知県犬山市)
◯ 永楽館
1901年(明治34)築。近畿地区に現存する芝居小屋としては最古の劇場。豊岡市指定文化財。(兵庫県豊岡市出石-いずし)
◯ 八千代座
1901年(明治34)築。以前の地に、平成の修復が行われた。1988年重要文化財指定。熊本県山鹿市
◯ 康楽館
1910年(明治43年)築。和洋折衷の明治時代に建てられた現役の木造芝居小屋。2002年重要文化財指定。秋田県鹿角郡小坂町

◯ 内子座
1915年(大正4)に歌舞伎劇場として建てられた。昭和60年代に修復。2015年重要文化財指定。愛媛県喜多郡内子町
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これらの芝居小屋のうち、「呉服座」は、1892年(明治25)築造と歴史はふるく、重要文化財指定をうけていても、 現在は博物館明治村(愛知県犬山市)に保存されている。こうした建築は、歴史的遺産としては貴重ではあるが、どうしてもいまひとつ物足りない。

2香川県観光協会公式サイト  旧金毘羅大芝居-通称 金丸座 うどん県ネットゟ

いっぽう現在も芝居小屋としてひろく利用され、また演目が無い日には、施設が有料で一般公開されている芝居小屋もある。

これらの施設の筆頭は、やはり「旧金毘羅大芝居-通称 金丸座」であろう。
金丸座は復興直後から、二代目中村吉右衛門(重要無形文化財保持者〔人間国宝〕)、十八代目中村勘三郎(五代目中村勘九郎、故人。現在は長男:六代目中村勘九郎、次男:中村七之助が活躍中)らが応援を惜しまずに公演を重ね、現在では毎春「四国こんぴら歌舞伎大芝居」の番組が組まれ、すでにこの「四国こんぴら歌舞伎大芝居」は34回の公演をかぞえている。

四国こんぴら歌舞伎第34回「四国こんぴら歌舞伎」フライヤー 平成30年4月 終了企画

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八千代座(熊本県山鹿市山鹿1499番地)は明治43年(1910)に建設された芝居小屋で、開業以来様〻な興行をおこなって山鹿に賑わいをもたらしてきたが、昭和の時代には映画館になり、それもテレビの普及により客足が減って閉館となっていた。人がいなくなった芝居小屋は荒れ果て、屋根には穴が …… 。

もはや不要といわれた八千代座を救うために立ち上がったのが、地元の老人と若者たちであった。彼らは30年を超える復興活動を実施して、自治体と国に粘り強く働きかけて、昭和63年(1988年)国の重要文化財指定を受けて実施された「平成の大修理」を経て、平成13年から八千代座は現代の芝居小屋として活き続けている。

それを側面から支えたのは、優れたプロモーター(主唱者・興行主)としての 松竹株式会社 であり、五代目 坂東玉三郎(1950年(昭和25)- 。重要無形文化財保持者〔人間国宝〕)であった。
平成の大修理の実施前、1990年(平成2)に八千代座で舞台公演をおこなった坂東玉三郎は、そのころはまだ楽屋は十分でなく、またエアコンの設備もなかったと述べている。それでも坂東玉三郎は八千代座の舞台に立ちつづけ、ことしも11月30日初日、11月4日千穐楽の予定で、熊本県山鹿市の八千代座の舞台に立つ。

チケットの発売はまだ開始直後だが、九州各地はもとより、西日本全域から、あるいは都市部の大劇場では味わえない、歌舞伎の醍醐味をもとめて、関東からも駆けつけるひとが多いと聞いた。そのため福岡空港と博多天神から山鹿までの臨時直行送迎バスが運行されるのが近年の恒例だそうである。

73bc42adb95414431ab190b761eac264坂東玉三郎 映像×舞踊公演 平成30年11月30日初日、11月4日千穐楽
[関連:活版アラカルト 国指定重要文化財 八千代座 坂東玉三郎 映像 × 舞踊公演

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八千代座「坂東玉三郎 映像×舞踊公演」への思い

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都市部の大劇場に安住することなく、歌舞伎界の大看板、二代目中村吉右衛門、五代目中村勘九郎(故人)らが「旧金毘羅大芝居-通称 金丸座」の復興に貢献し、五代目 坂東玉三郎が「八千代座」の復興に献身的に尽力してきたことを紹介した。
そうなれば、新妻:藤原紀香を迎えたばかりの片岡 愛之助はどうなのか …….。
0001-1 (1)出石-いずし 永楽館
出石を彩る近畿最古の芝居小屋

明治期に建設された近畿地方に現存する最古の芝居小屋
出石永楽館は、1901年(明治34)に開館し、歌舞伎をはじめ新派劇や寄席などが上演され、但馬の大衆文化の中心として栄えました。時代と共に映画上映が中心となり、やがてテレビの普及や娯楽の多様化などにより昭和39年に閉館しました。
その後、時は流れ、往時の永楽館を懐かしむ声があがるようになり、約20年の復元に向けた活動により、2008年(平成20)に大改修がなされ、44年の時を経て永楽館は蘇りました。
現在は一般公開(有料)されています。

2008年7月31日、座頭:片岡愛之助「出石 永楽館 杮落大歌舞伎」公演に先立ち、
お練りを行いました!
「出石 永楽館」柿落-こけらおとし-大歌舞伎に先がけて、お練りを行いました。当日は午後6時半から市役所前の広場での餅まきの後に、座頭の片岡愛之助さんをはじめ、片岡秀太郎さん、中村壱太郎さんら出演者が人力車に乗って、出石の城下町を練り歩きました。当日は三番叟をあしらった手作りの神輿も登場! 出石の町にも幟旗がはためき、たくさんの人々が沿道をうめました。

出石 永楽館 永楽館の歴史」の公式サイトには、廃館になってからのさびしさとともに、上掲のように、2008年の柿落-こけらおとし-の模様が、たくさんの画像記録とともにのこされている。
すなわち片岡 愛之助は、永楽館の再生のときから座頭として大歌舞伎をうち、その後もなんども永楽館の舞台を踏んだ。そのため地元の実行委員会製作のフライヤーは、

<永楽館歌舞伎 ことしも片岡 愛之助さんが出演 ! ! >

と親しみを込めて紹介している。歌舞伎役者が地域住民と良き交流を重ねてきた結果であろう。
歌舞伎が古典芸能という名称と、都市部の大劇場に安逸せず、長老も若手もそろって積極果敢な挑戦をつづけている姿勢を、おなじ技藝にいきるもののひとりとして、羨望し、また鞭打たれるおもいで受けとめている。

【詳細: 歌舞伎座 歌舞伎美人 旧金毘羅大芝居-通称 金丸座 八千代座 出石永楽館 】

【古谷昌二 新ブログ スタート】 東京築地活版製造所 歴代社長略歴 ── 初代社長 平 野 富 二

社長略史01【古谷昌二 新ブログ スタート】
東京築地活版製造所

歴代社長略歴

初代社長 平 野  富 二

(1)初代社長就任とその実績
(2)築地活版製造所の前史
     〔本木昌造の活字製造事業を受託〕
     〔活版製造事業の改革〕
     〔事業責任者として大阪・東京に出張〕
     〔事業所の東京移転〕
(3)平野富二の貢献

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古谷昌二さんuu[1]平野富二生誕の地碑建立有志の会の< WebSite 平野富二──明治産業近代化のパイオニア >において、精力的に「平野富二」に関する最新研究成果を<古谷昌二ブログ>に連続発表されている古谷昌二氏。その蓄積は2017年01月-2018年06月にわたり、都合18回の連載をかさねています。

平野富二は長崎から上京後、わずか20年ほどのあいだに、明治産業近代化のパイオニアとしてさまざまな事業を手がけました。そのひとつが活字製造と活字版印刷関連機器の開発で、東京築地活版製造所の名称でひろく知られます。ところが同社が昭和初期に解散したために、企業史の側面からの研究は十分とはいえない状況にありました。

近年、長崎と東京で「活版さるく」をはじめとするさまざまなイベントが開催され、東京築地活版製造所関連資料があらたに発掘され、周辺では共同研究も盛んになってきました。
これらの成果の一端として、<古谷昌二 新ブログ 東京築地活版製造所歴代社長略歴>は、明治18年(1885)6月16日に設立され、昭和13年(1938)3月17日、臨時株主総会の決議によって解散を迎えるまでの東京築地活版製造所の消長を、個性ある歴代の社長の姿を追うことで明らかにしようとするものです。ご愛読をたまわりたく存じます。

[平野富二生誕の地碑建立有志の会 事務局長:日吉洋人]
平野富二03ea964d3f22efbbfc3e02f6c3213aee727888b699973808e40cc8ca99d760c07448e9df747f3cf40629d5bdf0b3b66c55ebe9892c555028e236a51c24cad9c0『印刷雑誌』第1巻第8号1891.09m24 部分拡大

【 SAYOUNARA 】 タイポグラファ:ヘルムート・シュミットさんが逝去されました

DSCF5640ヘルムート・シュミット Helmut Schmid
1942年02月01日-2018年07月02日 行年76

タイポグラファのヘルムート・シュミットさんが、去る07月02日早朝午前07時40分、急性心不全のため逝去されました。ここに皆さまに謹んでご報告いたします。
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ご家族のおはなしでは、前日まではまったく平常で、夕食は江坂駅前の馴染みのレストランでスミ夫人とふつうに召しあがり、帰宅後はテレビでサッカー観戦をしていたそうです。スミ夫人は先に就寝されましたが、ヘルムートはサッカー中継を愉しんでいたようです。

朝方物音がしたので、スミ夫人が居間の様子をみにいくと、すでにヘルムートの呼吸がなく、緊急搬送となりましたが、そのまま、苦しむことなく、穏やかに黄泉に旅だったとされます。
かねてからの本人の意思にしたがって、通夜・葬儀はおこなわず、ご遺骨はスミ夫人の郷里に埋葬の予定だそうです。

あまりに突然の訃報であり、また、ご一報をいただいたときから、大げさにしたくないとのご家族のつよいご意向で、近しい友人・知人にもお知らせができないまま、取りいそぎ07月03日[火]、なにはともあれ大阪府吹田市のご自宅に、お別れに駆けつけました。
本当に眠っているように穏やかなお顔でした。
おもえばタイポグラフィの同志として40年余のおつき合いでした。さびしくなります。合掌

【活字と機械論攷】教育者にして多才な事業家、山本覚馬|梅津パピールファブリック製紙場|その跡地に建立された記念碑を巡る考察

PrintUmezuSeishiJyo_1 UmezuSeishiJyo_3 UmezuSeishiJyo_2梅津パピールファブリック製紙場跡 記念碑銘板を読みとる
京都市右京区梅津大縄場町所在

 梅津パピールファブリック製紙場跡

梅津パピールファブリックは、京都府が東京遷都による産業衰退を懸念した明治天皇の御下賜金をもとに、この地に明治5年10月ドイツ人レーマン兄弟の指導により建設に着手し、明治9年1月ドイツ式抄紙機を用いて、操業を開始した我が国初の*01  洋紙製造工場であります。桂川の水力を動力源として、京都の産業活性化のために大いに活躍しました。
明治13年8月、磯野小右衛門に払い下げられ民営になりました。大正7年〔1918〕11月、表門と門衛所、一部の赤レンガを残して全工場を焼失しました。翌大正8年5月には再建され、その後大正13年に富士製紙(株)梅津工場に、昭和8年5月に王子製紙(株)梅津工場に、昭和18年に日本擬革製造(株)にそれぞれ移行し、幾多の変遷を経て昭和25年4月以降は日本加工紙(株)京都工場になりましたが、昭和46年〔1971〕に工場は閉鎖となり、操業以来95年*02  にわたるそのながい歴史をとじました。

この地はまさに明治初期我が国の洋紙製造発祥の記念すべき遺跡地であります。
なお[PAPIRE・FABRIC]と彫られた門扉、[明治天皇御幸所製紙場]の碑、[土橋嘉右衛門顕彰]の碑、京都府によって立てられた[梅津パピールファブリック製紙場跡]の高札など貴重な資料が東京王子飛鳥山公園内の「紙の博物館」の記念碑コーナーに保管、陳列されています。

    平成15年 10月吉日  設立
             有 志  林 忠治・太田 忠志・大西 賢市
──────────
*01  本石碑正面には「日本最古の洋紙製紙場跡」と彫りこまれているが、下掲の資料で紹介する「紙の博物館」では、同社を「わが国の洋紙製造黎明期の三工場の一つ」とする。
ウィキペディア「パピール・ファブリック」の項では、── 1876年(明治9年)京都梅津の桂川の畔で開業した製紙会社。日本の製紙業黎明期の6社の一つ ── とする。同項では「日本で最初に開業した製紙会社は1874年(明治7年)開業の有恒社であり、蓬莱社や抄紙会社(王子製紙)もパピールファブリックより先に開業している。ただし、動力に水力を使う、官営である、ドイツ製機械を使うなど日本の製紙業黎明期の6社の中では特異な存在ではある」と述べている。
また注釈1)では、─── 日本で最初の製紙会社は、有恒社、および抄紙会社(王子製紙)、蓬莱社、三田製紙所、神戸製紙所と、パピール・ファブリック。日本の製紙黎明期にはこの 6 社に加えて大蔵省印刷局も製紙機械を導入して紙を抄いている ─── とさらに詳細にしるしている。
*02  操業以来95年 ── とあるが「創業」の誤りか。

紙の博物館URL資料
『紙博だより』第40号(解説ボランティア  小杉睦裕さん   平成21年10月1日発行)所収

ひっそりと昔を語る『パピールファブリックの門扉』
パピールファブリック

kamihaku明治10年、明治天皇が工場へ行幸された。
紙の博物館の 1 階図書室前に、わが国の洋紙製造黎明期の三工場の一つ、『パピールファブリック』の門扉が古色蒼然と立っています。これは木製で、お洒落なことに、欄間の透かし彫りの様に、ドイツ語で『 PAPIER FABRIK 』の文字が記されています。他の二つの工場が東京に建設されたイギリス式なのに対し、こちらは京都嵐山の近くに、京都府が政府からの勧業基立金15万円で建設したドイツ式の製紙工場でした。

明治 7 年〔1874〕11月にこの門や守衛室等が建てられ、明治 9 年に操業を始めます。その後、経営は 磯野製紙所 → 富士製紙 → 王子製紙 → 日本加工製紙 と変わるのですが、大正 7 年〔1918〕11月、この門と守衛室・赤煉瓦室を残して工場はほぼ全焼しました。

その後工場は再建されます。場所は渡月橋の一つ下の松尾橋の東詰南にありましたが、京都市民には戦前の「王子製紙」の名が浸透して、タクシーでは「王子製紙へ行ってくれ」と言ったものです。門はその中央、桂川の反対側の正門にあり、戦後新調されました。歴史の証人の様な創業当時の門扉は、昭和30年〔1955〕に日本加工製紙から、紙の博物館に移譲されたのです。

さて、この工場は驚いた事に、地下水だけで紙を抄いていました。近くに松尾大社・梅宮神社といった醸造や酒造の神社がある位ですから、綺麗で豊富な水脈があったのです。ひと頃、琵琶湖から引いている市の水が「カビ臭い」ことがありました。当時工場では、異臭を嫌う煙草の外装紙を製造していましたが、地下水のおかげで苦情を起こさずに済みました。
明治・大正・昭和と、長年洋紙を作り続けた工場でしたが、都市化の波には勝てず昭和46年に閉鎖しました。その跡地にはマンションが建っていますが、その東端に往時を偲んで小さな石碑が立っています。

青山霞村著『山本覚馬』(同志社 1928/ 国会図書館蔵  請求記号 289-Y317ウ)

※ 同書、一三四-一四三ページ を現代通用文に書きかえてみた。
※ 〔 亀甲括弧 〕内は稿者の補遺である。また WebSite 環境に配慮して、行頭字下げはせず、改段を増やしたことをお断りしたい。
20180611154147_00001※ 読みくだし終了後に新装複刻版、『山本覚馬伝』(原著:青山霞村、校閲:住谷悦治、編集:田村敬男、宮帯出版社)を入手した。工場写真は宮帯出版社版から紹介した。
失明した山本覚馬の肖像写真はウィキペディア「山本覚馬」から紹介した(PD データ)。

Kakuma_Yamamoto_(1828-1892)山本 覚馬(山本 覺馬、やまもと かくま)
文政11年1月11日(1828年2月25日)-明治25年(1892年)12月28日)

幕末の会津藩士、砲術家、明治時代の地方官吏、政治家。京都府顧問、府議会議員(初代議長)として初期の京都府政を指導した。また同志社英学校(現同志社大学)の創立者・新島襄の協力者として、現在の同志社大学今出川校地の敷地を譲った人物としても知られている。号は相応斎。
両親は父:山本権八(会津藩砲術師範。会津戦争で討死)、母:山本佐久。この夫婦は3男3女をあげたが、1男2女を幼児期に失う。妹・八重:慶応元年(1865年)は、川崎尚之助と結婚。会津戦争では家族と共に鶴ヶ城に篭城。戦後に尚之助と離別し、明治9年(1876年)に新島襄と再婚して新島八重。弟・山本三郎は鳥羽・伏見の戦いで戦死。
維新後に失明してから展開された兄:山本覚馬と、妹:新島八重による活版印刷事業に関しては、同書にも記載されているが、若干の混乱がみられるので整理して後述したい。

◇    ◇    ◇    ◇

伏 見 製 作 所

観月橋四條大小橋の鉄材を供給

伏見製作所は時代の需要に応じ、土木建築の鉄材や鉄の機械を製作するため明治六年十月新設された模範鉄工場である。水車に依って水力を利用するため、伏見向島、豊後橋(観月橋)の下手に工場が建てられ、大熔鉄炉、送風器、鋳床、錐盤、円転機、削平盤、その他精巧なる舶来の鉄工機械を金に飽かせて備付け、〔京都〕府下は勿論近府県の注文に応じて盛に鉄工業を営み、その頃板橋が鉄橋に架けられて、珍らしがられた。四條の大橋小橋も観月橋の鉄材も同所が供給したものである。鉄管、喞筒、その他の機械製作から伸銅などもこの工場で行われ、その能力と信用と大阪造幣局長の仲介で韓国政府の造幣機械一切の注文を受けたことによって明かである。

梅津製紙場 一名パピールファブリック

    大工事 独楽のように横に廻る水車 詩人廣瀬青村が府の官員 塾
    生に洋学を勧める 下河邊独語学校から製紙場へ 技師の後を慕っ
    てきた独逸の恋人 原料は洛中洛外の襤褸〔ボロ〕 市中の間屋に
    販売を命じた 西郷戦争で新聞売上げ激増

梅津製紙場も時代の要求を察し、洋紙を製するために設立せられたもので、一名パピールファブリックといったのは、独逸の機械技師によって創めたから、記念のためにそう名づけたのである。梅津は桂川左岸〔上流からみて左側〕、平家物語の横笛が瀧口入道を慕ってゆく叙事に「梅津の里の春風によその匂もなつかはしく」とあるその梅津である。紙漉きは多量の清水を要し、且つ機械の動力は当時水力によらねばならなかったのに、京都の加茂川では水車を作る十分の落差がなかったから、桂川沿岸の地を卜した〔定めた〕のである。

!cid_6B958BD1-C8DB-428D-8F3F-895E0512532D明治9年1月ドイツから製紙機械を買入れ製紙工場を梅津につくり、洋紙製造販売にあたった。

明治五年〔京都〕府は山本顧問と親しかった独逸商人ハルトマン、レーマンを通じて、独逸に新式の製紙機械一台を注文したが、輸送の途中に故障〔事故〕があって、三年後の明治八年に工場に掘付けられた。この工場建築は中〻の大工事であった。石垣などの石材は別項記載の童仙房から献上するといって、石は無代であったが、毎日牛車四台五台が重い石を挽いてくるので、道路や橋梁を破損し、その修繕費なども中〻かかり、普通四、五万円の工事が二十万円もかかったそうである。併し資源〔しかしながら資金〕は藝娼妓の莫大な賦金〔芸妓に課税した〕が勝手に使えたので心配はなかったのである。

工場の鬼瓦には牛の頭がつけてあった。多分牛肉、牛皮、牛乳等から、文明開化の象徴としてつけられたのであらう。此処の動力用の水車は日本のではなく西洋式で、丁度独楽が廻るように横に廻り、縦に廻るよりはその力が優って居った。そして工場は一般に参観させた。
日本人の誰も知らない洋紙製造だから、その技師として独逸人エキスネルを月給金貨二百円で雇入れ、通弁〔通訳〕には後に医家へ養子にいって、その姓と医業を継いだ馬杉氏を雇った。

!cid_FA28DD5F-A875-48B8-B55B-8AF0E7B4BB23梅 津 製 紙 工 場

これより数年前中学校の歐学舍のできた時、府庁の典事に青村廣瀬範治という儒者があった。詩を以て海内に鳴らした淡窓の義子で「火船烟散海濛々 破浪双輪去向集」など汽船を新題にして作った人であった。同じ淡窓の咸宜園の塾頭をして居って、漢法書で京都に老いた櫻井桂村が明治十一、二年のコレラ病を古詩に作ったなど何れも固陋な人ではなかった。
この廣瀬が自宅で四、五名の少年に読書の世話をして、塾とはいえない程の事をもして居ったが、ある日府庁から帰り、槇村大参事が今後大いに洋学をやらねばならぬからといって、歐学舎を起こされ、独逸人の教師が来るから、お前等も洋学の稽古をせよといった。
少年に下河邊光行という者があった。帰って父に相談すると父もその気になり、それでは英仏独語何れを学ぶがよいかとなると、勧めた青村先生も分らない、教師は独英語を兼ねるが独逸人だから独逸がよかろうと、下河邊は独逸語学校へ入った。
梅津の製紙場設立に就いては何時までも高給の外人を雇っておけない、速くその技術を習得せねばならぬ。それも京都繁榮のためだから京都人にという所から、当時独逸学校に居った下河邊を通訳兼見習のために製紙場へ入れた。

その頃品川彌二郎の世話で、独逸へ留学して居った山崎喜都眞という人が帰朝した。製紙術を学んできたが、中央攻府でもまだその技術を要する処までいって居らぬので、品川が同藩〔長州藩〕の槇村に梅津の製紙場へ使ってやってくれと頼みこんだ。槇村は否ともいえず、月給四十円を与えてこれをも技師に雇った。
この山崎には独逸で契り交わした女があった。この女は山崎の帰朝後一人の母親を振棄て、恋人の後を慕って遙遙日本へ渡ってきた。所帯道具一式を携へて来たので、山崎はその女と早速西洋風の所謂〔いわゆる〕愛の巣を営んだ。この細君は賢い女で何もかも日本に同化しようと力〔つと〕めたけれども、何分彼我生活の程度が違ったから、山崎は四十円では暮しがつかず、品川に泣きついたが、暫く辛抱せよといわれ、後三、四年すると品川の農商務省の方へ使われた。エキスネルは契約期限が満ちると解雇し、それまでに下河邊は相当意に覚えこんだから、その後は日本人のこの技師二人で技術方面を担当しておったのである。

製紙の原料は主として木綿襤褸〔ボロ〕を用いたのである。それまで紙屑屋が最早古着屋の顧みない、破れ着物、破れ足袋、その他の木綿ボロを洛中洛外で買集めた分量は莫大なものであったが、それからは染料の藍を抜きとるばかりで、ボロその物は用途がなく、空しく捨てたものであった。
そのボロの廃物を利用して紙にすいたのである。その製せられた紙は今の新聞紙用のザラ紙の上等の物であった*03。のちに藁をも原料に用いて、これはボール紙に製造せられた。その外色紙半切半紙なども製せられた。製造能力は毎日二千ポンド〔≒ 907 kg〕で常時の価ポンド十錢、金額二百円程の物であった。

販売方については、府は京の紙問屋中井三郎兵衛、大森治郎兵衛その他初田など都合五人を府庁へ呼出して販売を命じ、その店へ名誉ある京都府御用達の看板を掛けさせた。〔ところが〕紙屋が製紙場へ行くと、幅六尺長さ無制限という〔巻き取り、ロール〕紙なので、日本紙を扱って居った人達は驚いて居る有様、使う道がない、製品は堆積するばかり。それで紙屋の請求に応じて、半紙版や美濃版〔半紙判や美濃判〕に切ってやって売らせた。府は損益をあまり眼中におかなかったから、その収支は苦しい計算であった。
然るに梅津製紙場に息をつかせたのは西南戦争であった。山木覺馬先生は江藤新平の乱で桑苗が売れなくなり損をされたが、梅津製紙場は西郷戦争で大いに儲けた。それまで洋紙は大抵舶来品で、新聞用紙には和製の駿河半紙や唐紙を用いて居った。西郷が戦争を始めた、新聞がそれを報道する、熊本の籠城、田原坂の激戦、桐野利秋がどう、篠原國幹がどうしたのと、人々が新聞を引っ張り合って読むようになって、新聞の売れ高が激増した。そしてその新聞用紙が梅津でどしどし出来たのである。
引続いて地券の用紙を一手で製造して大儲けした。全国の土地所有者に地券を交付〔地租改正にともない1872年・明治05年以後、政府が土地所有者に交付した証券。この地券記載の地価にもとづいて地租が賦課された。土地台帳の整備にともない1889年廃止。地券状〕するのに東京でもその紙がなかった。それで梅津で一手に引受けたのである。この製紙場は更にまた印刷機械を据えつけて、当時益々需要の増加しゆく、諸官署や銀行会社の帳簿を調製して、東京その他諸方面へ売り込んだ。

梅津製紙場はこんな風に成功の途を濶歩して居ったのに、府の事業整理のために。大阪の相場師磯野小右衛門に払い下げられ、磯野は松原烏丸に店を開いて製品を売り捌いた。払い下げ金は三万円と残金は有名無実の年賦といふことである。この工場は、今は富士製紙株式会社の工場になって居る。

数年前英国の雑誌「評論の評論」誌上に紹介せられた医術公営の可否論と、府立療病院設立の社会政策であった事とを比較し、この官業梅津製紙場と露西亜の産業官営主義などを思い合わせて見ると、明治初年京都の行った府政の治績は今もなお経世家に何かの暗示と例とを与えて居るのでなかろうか。
──────────
*03  わが国の手漉き紙(いわゆる和紙)は、コウゾ・ミツマタ・ガンピなどの灌木の靱皮繊維を主原料としてもちいたが、明治最初期の洋紙製造では、お雇い外国人の指導もあって、原料は襤褸(綿ボロ・木綿の古布)が良いとされた。

そのため製紙会社各社はいずれも襤褸(いわゆる綿ボロ)を入手しやすい大都市周辺に工場を設けていた。木材パルプが洋紙の原料になり、豊富な水源と、港湾輸送に便利な沿岸部に製紙工場が移転するのは明治20年代(1887-1896年)以降である。

原資料提供:春田ゆかりさん 〔この項つづく〕

【復活転載】こんな時代だから、金属活字も創っています! コレダ ! カタ仮名専用活字ガ復興シマシタ {アラタ 1209}

こんな時代だから、金属活字も創っています!
コレダ !   カタ仮名専用活字ガ復興シマシタ
アラタ 1209 New Products

本稿は2008年に「朗文堂 type cosmique 」にアップロードされ、いまも存在している記事です。
このたび NECKTIE design office 千星健夫氏による、あたらしい活字母型製造法として、「コンピューター数値制御切り削り加工 ── Computer Numerical Controlled Cutting」(CNC)が一定の成果をあげ、「 NECKTIE design office  Works New Type Matrix 」に報告がなされました。

tsukiji5_02CNC方式活字母型 五号ひら仮名

それを受けて、サラマ・プレス倶楽部/活版アラカルト「【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-17{展示報告 ①}[サラマ・プレス倶楽部会員]千星 健夫{新技法による活字母型の試作と活字鋳造}── ちいさな一歩、おおきな成果」と題して、やはり皆さまにお知らせいたしました。

あわせてサラマ・プレス倶楽部では、長年お世話になった「機械式活字父型・母型彫刻機」、いわゆるベントン彫刻法に関する既発表記事をまとめる作業にあたっています。
その一環として、どういうわけか旧アダナ・プレス倶楽部 → サラマ・プレス倶楽部のウェブサイトに詳細報告がなかった本稿を「朗文堂 type cosmique 」から収録し、若干の補整を加えて、サイト内検索に便利な「活版アラカルト」に掲載いたしました。
どうかこうした意のあるところをおくみとりたまわり、ご愛読のほどお願い申しあげます。

アラタ 1209 天地 12 pt., 左右 9 pt.
サラマ・プレス倶楽部 特製文選箱入フォント・スキームセット
arata1209
アラタ 1209 天地 12 pt., 左右 9 pt.
サラマ・プレス倶楽部 特製文選箱入フォント・スキームセット 29,400 円[税別]
fair-card

サラマ・プレス倶楽部は、活字版印刷術のよきルネサンスを願って、意欲ある活字鋳造所と協力しながら、適切なフォント・スキームにもとづいた新鋳造活字を提供しています。
しかし、書体とサイズ毎に膨大な数量となる漢字活字を揃えるためには、やはりユーザーの高負担となります。また、必要のたびに活字をバラ(単品・1 本売り)で購入すると、1 本あたりの単価は無視できないほどの高額になってしまいます。

金属活字が、ある意味では追いこまれながらも、あらたな意義と役割をもって再興への歩みを進めている現代、若干の窮屈は承知の上で、カナモジ完結書体の金属活字化に着手して、さらに活版ルネサンスを進展させるために、日本語表記をできるだけ効率よく、しかも低予算で組版できる金属活字書体として「アラタ 1209」を開発しました。

カタ仮名とひら仮名の歴史を検証する
カタ仮名は仮名文字のひとつで、ひとまとまりに発音される最小単位の音節(syllable)からなる音節文字(syllabograph, syllabogram)です。阿 → ア、伊 → イ、宇 → ウ、久 → ク、己 → コのように、漢字の一部分(片)をとってつくられた文字記号で、奈良時代から平安時代初期に、漢文読み下しのための「漢文訓点」にもちいられました。
縦組みの漢文の右脇に付与された一種の記号でしたから、多くのキャラクターが左向きなのが片かなの特徴です。当初は流派もあり、さまざまな字体がありましたが、平安末期にはほぼ現行のものにちかい字体となって、こんにちにいたっています。

いっぽう、ひら仮名は、やはり平安初期に漢字の草体の仮名をさらにくずしてつくった音節文字です。おもに女性(おんなで)がもちいたので、女手、草仮名などとよばれ、おおくの異体字がありました。「ひらがな」の称は後世のもので、字音と形象が定まったのも戦後で、文字の歴史からみるとつい最近のことでした。

カタ仮名は、現在ではおもに、外来語の表記や擬音語の表記に多くもちいられていますが、わが国の文字の歴史を振り返り、文字形象をあらためてみると、簡素で、判別性にもすぐれ、独立した音節文字としての長い歴史と体系をもっていることがよくわかります。
katakana

いまから買いそろえると、金属活字はやはり高負担になりがちです。
サラマ・プレス倶楽部は、活字版印刷術のよきルネサンスを願って、意欲のある活字鋳造所と協力しながら、適切なフォント・スキームにもとづいた新鋳造活字を提供しています。しかし、書体とサイズ毎に膨大な数量の漢字活字を揃えるためには、やはりユーザーの高負担となることが避けられません。
また利便性が特徴のパソコン用デジタルタイプをみると、明治以来営々と重ねられてきた、使用頻度の低い漢字使用の抑制や、字体統一への努力が軽視され、異体字を含めて限りない字種の増殖がつづいています。

そんないま、必要のたびに活字をバラ(単品)で購入すると、1 本あたりの単価は無視できないほどの高額になるのも事実です。それではせっかく新芽を吹きだしたわが国のプライヴェート・プレスの進展にとって大きな障害となりかねません。
font-schemeキャラクタ数の少ない欧文活字にくらべ、漢字を中心に圧倒的にキャラクタ数の多い和文活字の新設備は、活版ユーザにとっては高負担になりがちです。

コンピュータの利便性が低かった時代に 最初に採用された日本語活字
I T 時代とよばれ、栄耀栄華をきわめているコンピュータですが、その開発初期はあくまでも演算機能が中心でした。それが次第に機能が拡張され、清打ちタイプライター、あるいは DTP システムの原型ともいうべき IBM72 という、簡便な記憶機能と演算機能を備えたタイプライターが1961 年に発売され、爆発的なヒット商品となりました。

IBM72 にはさまざまな機種が登場し、日本語対応も求められましたが、そこで最初に採用されたのが故 ミキ イサム氏によるカタ仮名活字だったことは画期的でした。ついで旧日本国有鉄道が、新幹線などの指定席用に採用した「日立データタイプライター(通称マルス)」にも、ミキ イサム製作のカタ仮名と、追加文字として、欧文・数字・特定漢字36キャラクターが採用され、長らく「緑の窓口」などで使用されました。

また、かつての高速通信の手段であった電報は、カタ仮名のみの、できるだけ少ないキャラクターで、簡潔に情報を伝える文体が発達していました。「チチキトク ウナ カエレ」のような、「ウナ電」とよばれた至急電報(英語で至急の意を表す urgent のはじめの 2 文字のモールス符号が、仮名の「ウ・ナ」に相当することから名づけられました)や、春の大学入学試験の時期には、正門脇に学生アルバイトによる「電報受付特設コーナー」が設けられて、合格をあらわす「サクラサク」や、不合格をしめす「サクラチル」に、一喜一憂した時代もさほど昔のはなしではありません。
このようにカタ仮名特有のコンパクトで利便性に優れた機能が、かつては多くの用途に利用されていました。森川龍文堂カナモジカイは 1920 年 11 月 1 日、山下芳太郎、伊藤忠兵衛、星野行則らによって「假名文字協会」として大阪市東区に設立されました。その活字鋳造を担ったのは、おもに大阪「モリカワ リョウブンドウ/森川龍文堂」でした。

このパンフレットは故ミキ イサムから直接提供をうけたもので、1935 — 40 年ころの製作とみられます。収録書体は、平尾善治、猿橋福太郎らのカモノジカイ会員の製作によるカタカナと、稲村俊二の「スミレ」、松坂忠則の「ツル」などです。ミキ イサムは「ツル」を高く評価しており、ミキ イサムのカタカナのエレメント、形象には「ツル」からの影響が顕著です。

もっとも定評ある「アラタ C」をベースに「アラタ 1209」を創りました
このような歴史と現状を踏まえ、さらに活版ルネサンスを進展させるために、日本語表記をできるだけ効率よく、しかも低予算で組版できる金属活字書体としてサラマ・プレス倶楽部が着目したのが、前述したミキ イサムによる「カタ仮名活字 アラタ C」でした。

「カタ仮名活字」は前述のように、長い歴史を有し、多方面の用途を担ってきました。なかでも「アラタ C」は、適度な黒みと、欧文書体のように明確なラインが設定されており、ウエセンから突起したウエエダという突起部をもつことが特徴です。また判別性に優れた書体として評価が高く、さまざまな分野で用いられていました。

arata-c20180409133938_00001金属活字がある意味では追い込まれながらも、あらたな意義と役割をもって再興への歩みを進めている現代、朗文堂 サラマ・プレス倶楽部では、若干の窮屈は承知の上で、カナモジ完結書体の金属活字化に着手いたしました。そしてそのために、まずもっとも定評のあるカナモジ書体である「アラタ C」のライセンスを、朗文堂 サラマ・プレス倶楽部が株式会社モトヤより取得いたしました。

かつてモトヤでは「アラタ・サカエ・アキラ・クレハ・アラタ(ヒラガナ 1962)」などの書体を金属活字で供給していましたが、時代の趨勢によって、金属活字、パターン、活字母型などはすでに処分されていたため、デジタルデーターの支給をうけるという形でした。
それをもとにサラマ・プレス倶楽部で正確な原字版下を作成し、亜鉛凹版による活字パターンの作成を経て、ベントン型彫刻機をもちいて活字母型の彫刻をおこなうという、1950-70年代の金属活字全盛期さながらの技法や、工程そのものを復活・展開させる試みとなりました。

サイズはユーザーの利便性を考慮し、天地 12 ポイント、左右 9 ポイントとして、一部の約物類は既存の 12 ポイントのものを流用できるように配慮しました。

「アラタ 1209」はお求めやすいフォント・スキームでの販売です。
このようにして、21 世紀になってはじめて誕生した本格的な文字セット活字の創造には、それなりの困難と障害がありました。しかしそれらはライセンス供与社の株式会社モトヤをはじめ、協力企業各社の支援を受けながら、ひとつひとつ乗り越えていきました。

そしてここに「アラタ 1209」と名づけられたあらたな金属活字が誕生しました。「アラタ1209」は朗文堂 サラマ・プレス倶楽部の専売品で、使用頻度の高い「ア・イ・カ・ノ」などの字種は多く、「ヰ・ヱ・ヴ・ヮ」などは少ない字種配当表を作成し、1 フォントが文選箱 1 箱に納まるように構成した、独自の「カタ仮名フォント・スキーム」を採用しています。

懐かしいのに新しい、最新の金属活字書体「アラタ 1209」を、皆さまぜひともご愛用ください。
「アラタ 1209」12 ポイント 全キャラクター
character_arata1209miki-isamuありし日のミキ イサムさん
1971 年(昭和 46 年 3 月 10 日)カナ ノ ユウベ ニテ

原字製作者プロフィール:ミキ イサム 1904 — 1985 年
明治 37 年 — 昭和 60 年。旧制和歌山中学校卒。東京美術学校(現東京藝術大学)彫刻科卒。研究科修了。この間財団法人カナモジカイに入会。彫刻家の道を歩みながら、視覚障害者対象のカナ・タイプライターの研究開発に従事する。

第二次世界大戦終結後、凸版印刷株式会社に入社。板橋工場ベントン彫刻部に 1959 年(昭和 34)定年退職時まで在職。その後モトヤの古門正夫前社長の委嘱により、1949 年にご子息の名前を冠した「アラタ(カタカナ)」を発表。同社には「アラタ・サカエ・アキラ・クレハ・アラタ(ヒラガナ 1962)」などの金属活字書体をのこした。

1967 年(昭和 42)に写真植字機研究所(現:株式会社写研)の依頼を受けて「アラタ・ホシ・クレハ・サカエ」などの書体を写植文字盤書体とした。

その間、財団法人カナモジカイ理事、美術部長を歴任した。それ以降も IBM72 用カナ書体、国鉄乗車券用に日立データタイプライター書体などの開発に従事した。
なお、カナモジカイの精神に則り、ご本人はその使用を避けられていたが、本名の漢字表記は「三木凱歌」であった。

ライセンス供与・監修/株式会社モトヤ 原字製作/ミキ イサム 資料協力/ミキ アラタ
プリント用 PDF (1MB 別ウインドウが開きます

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【会員情報】「丸ノ内ホテル」館内サインのリニューアル・デザイン GKグラフィックス:木村雅彦さん

gk01gk08世界のお客様へ わが家のおもてなしを
大切なゲストをお招きするように、
温もりあるサービスとあふれる笑顔でおもてなし。
ゆったりとした大人の時間が、ここにあります。
── 丸の内ホテル ──

mitografico 美登英利 さん と G K グラフィックス のコラボレーションによる「丸ノ内ホテル」の館内サインのリニューアル・デザインが完成しました。
この計画では、経営者やスタッフとともに、100年近くにも及ぶホテルの歴史を再構築し、これからに繋げる試みをおこなっています。

サインのデザインは、スタッフの方々が自ら季節に合わせてアートワークを取り替えることで、お客さまをお迎えする気持ちや姿勢をあらためることを目的として設計しましたが、思いのほか、館内の空気が大きく変わることに驚かされました。

そろそろアートワークは、夏のしつらえになっていると思われます。
東京駅前の利便性と、見事な夜景を楽しめる客室はお薦めです。8 階のフレンチレストラン <ポム・ダダン>ではお茶もできますので是非! [ 木村 雅彦 ]

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東京駅の目前に位置する丸ノ内ホテルのブランド戦略の一環として、館内サインのリニューアルを手がけました。丸ノ内ホテルは1924年に開業した、都内でも有数の老舗ホテルです。
GKグラフィックスは、ホテルの経営者やスタッフとともに、歴史的資産を再構築し「季節の変化を共有する ── 日本の迎賓 ──」というコンセプトを設定しました。

館内のサインパネルの一部にアートワークを組み込み、季節ごとにそのアートワークを差し替えることで、ホテル空間の表情を変えていきます。それは四季の変化を先取りして来訪者をもてなす日本古来の文化に習ったものであり、1960年代に新館新築に関わったインテリアデザイナー、パトリシア・ケラー女史が試みた「日本らしさの昇華」を現代に繋げたものでもあります。

私たちは、丸の内ホテル側のスタッフとデザイン意識の共有をはかりながら、シンボルマークやロゴタイプのリファインをはじめとした総合的な取り組みによって、お客様すべての体験価値の向上を支援しています。[ GK グラフィックス 木村・富田・渡邊 ]
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クライアント:丸ノ内ホテル
施 工:フロムトゥ
アートワーク:mitografico
撮 影:梅田正明

masahiko kimura photo2-thumb-120xauto-13木 村  雅 彦   Masahiko Kimura

【詳細: GK グラフィックス  facebook 木村 雅彦 】

〔 歌舞伎美人-かぶきびと-メルマガ602号 〕 「六月博多座大歌舞伎」船乗り込み 6月2日初日となります

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〔 歌舞伎美人-かぶきびと-NEWS 〕
「六月博多座大歌舞伎」船乗り込み

今年の「六月博多座大歌舞伎」は、二代目 松本白鸚、 十代目 松本幸四郎の襲名披露です。博多の初夏の風物詩としてすっかりお馴染みとなっている船乗り込み、今年は5月30日[水]の開催となりました。

funanorikomi_a0530襲名披露する白鸚、幸四郎ほか、出演者がそろってご当地の皆さんに顔を見せ、博多川をゆっくりと舟で進んで博多座へと乗り込みます。
式典の行われるキャナルシティ、博多リバレインでは出演者挨拶も行われ、川端ぜんざい広場前では、狂言名題を読み上げる「口上」もあります。
お近くへお越しの際はぜひ、声援をお送りください。
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松本幸四郎改め 二代目 松本白 鸚
                 襲名披露
市川染五郎改め 十代目 松本幸四郎
「六月博多座大歌舞伎」船乗り込み
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日  時  2018年5月30日[水]
◯ 当日のスケジュール
13:00 乗船式典(キャナルシティ博多 地下1階サンプラザステージ)
13:25 乗船・出発(清流公園)
13:45 口 上(川端ぜんざい広場)
14:00 下 船(博多リバレイン)
14:05 参 拝(鏡天満宮)
14:15 式 典(博多リバレイン フェスタスクエア)
14:40 終了予定       * 時間は目安です。

◯ お問い合わせ
博 多 座 092-263-5858

5月30日[水]、博多座「六月博多座大歌舞伎」の開幕を前に「船乗り込み」が行われ、襲名披露の松本白鸚、松本幸四郎をはじめ出演者が博多の皆さんに挨拶しました。
出演者と歌舞伎ファンの熱気が、曇りの予報を覆し、まぶしい初夏の光が降り注いだ出発地のキャナルシティ博多。「六月博多座大歌舞伎」の船乗り込みは出発前からおおいに賑わいました。

「梅雨の中休みと申しますか、日差しがたいへん強うございます。この暑さの中を川風に乗って、さわやかにまいりたいと思います。私が名前を変えまして初めて博多にうかがったのは、昭和49(1974)年の10月でございました。博多座さんには平成23(2011)年6月以来、7年ぶりのお目見得でございます」
と切り出したのは白鸚。

幸四郎は十代目の名のりをあげ、
「この博多座におきまして諸先輩にご出演いただき、大歌舞伎興行を父とともにさせていただきますこと、本当にありがたく存じます。母は博多出身、私の体には博多の血が入っている、しかし、父の体には入っておりません、誰よりも私にご声援のほどよろしくお願い申し上げます」
とユーモアたっぷりの挨拶に、会場が和やかな笑いに包まれました。

funanorikomi_a0530乗船式を終え、清流公園から賑やかな囃子の船、白鸚と幸四郎が乗り込んだ船に続き、次〻と博多川に俳優を乗せた船が漕ぎ出して、今度は沿岸や橋の上から絶え間なく降り注ぐ紙吹雪が、俳優たちを包み込みました。幟の立った船が近づくにつれ、屋号のかけ声も増えていきます。「高麗屋!」「二代目!」「十代目!」の声もたくさんかけられ、その声にこたえて船上に立ち上がって手を振る白鸚へ、さらに大きな声援が送られました。

白鸚、幸四郎らが「船乗り込み」で博多座へ

funanorikomi_b0530前列左より 市川高麗蔵、坂東彌十郎、大谷友右衛門、中村梅玉、松本幸四郎、松本白鸚、片岡仁左衛門、中村魁春、中村鴈治郎、片岡孝太郎
後列左より 上村吉弥、片岡松之助、市川笑三郎、市川笑也、市川猿弥、中村亀鶴、中村壱太郎、大谷廣太郎、中村寿治郎、澤村宗之助、松本錦吾 ── やつがれの知人、高麗屋 松本錦吾 は 後列右端です

一時間近くをかけ、ようやく博多座隣の式典会場に到着した一行は、暑さを忘れさせるような爽やかな挨拶でお集まりの皆さんを沸かせました。白鸚は再び、
「ただ一心不乱に襲名披露の舞台に励みます。博多座でお待ちしております。どうぞ、皆様お誘い合わせのうえおいでください」
と呼びかけました。

最後に幸四郎が、「一所懸命すべてを出し切って勤めさせていただきますので、この高麗屋、父との襲名披露興行、我々の第一歩の生き証人になっていただきたく、ぜひとも、劇場の方へ足をお運びください」とお願いし、めでたく博多手一本にて船乗り込みを終えました。
二代目白鸚、十代目幸四郎として初めての博多座、二人が何を見せてくれるのか、おおいに期待される六月。博多座「六月博多座大歌舞伎」は6月2日[土]-26日[火]までの公演。チケットは博多座のオンラインチケット、電話予約センター、劇場窓口ほかで販売中です。

【「平野富二生誕の地」碑建立有志会】愈〻建碑に向けて募金活動を開始 皆〻さまのご芳志をたまわりますよう

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「平野富二生誕の地」碑 建立 募金ご支援のお願い

建設予定地の地権者である長崎市と長崎県による慎重なご調査・ご検討により、予定地の「長崎県勤労福祉会館(下写真)に当碑を建立することについてのご了解が得られました。

* アイキャッチ画像:明治36年版東京築地活版製造所『活版見本』電気版ゟ採取

長崎県勤労福祉会館(長崎県長崎市桜町9-6)

今年は明治150年にあたり、洋式造船と活版印刷に代表される明治産業近代化のパイオニアである平野富二を記念する石碑を建立できることは意義あることと存じます。
由緒のある地に石碑を建立し、『「平野富二生誕の地」碑 建立記念祭』を行うべく準備を進めており、皆様から募金をお願いする段階になりました。
皆様のご芳志を賜りたく、ここにお願い申し上げます。

建碑にいたる経緯はこちらよりご確認いただけます
               → 「平野富二生誕の地」碑建立 趣意書
    → 「平野富二 生誕の地」確定根拠

!cid_A314365F-9172-4F25-8364-B164845894BF!cid_E50C4FFE-0BCA-4846-B1E8-D44846E82CE8【プリント用 PDF データ】(別タブにて開きます)
「平野富二生誕の地」碑 建立 募金ご支援のお願い
「平野富二生誕の地」碑 建立のための募金要領

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{源氏物語絵巻をめぐって} 五島美術館所蔵 国宝「源氏物語絵巻」+モリサワ2018カレンダー+二千円紙幣

☆ 本稿は2018年4月30日{活版アラカルト}に掲載した。{活版アラカルト}は更新があわただしく、また五島美術館の会期が終了したため、5月07日に{花筏}に収録した。
五島美術館

20180510211832_00007 20180510211832_00008五島美術館
[館蔵]春の優品展 ── 詩歌と物語のかたち  ──展示期間終了しました   
期  間   2018年3月31日[土]─ 5月6日[日]
休  館  日   毎月曜日(4月30日は開館)、5月1日[火]
開館時間   午前10時─午後5時(入館は午後4時30分まで)
入  館  料   一般1000円/高・大学生700円/中学生以下無料
──────────
館蔵品の中から、詩歌や物語を題材とした書画の名品約五十点を選び展示(会期中一部展示替あり)。
名歌を書した平安時代の古筆、歌人の代表歌と姿を描いた歌仙絵のほか、物語絵、琳派作品など、絵画と書そして言葉がもつイメージが響きあう美の世界を展観します。

* 特別展示予定/国宝「源氏物語絵巻」
4月28日[土]─ 5月6日[日](5月1日[火]は休館)
【 特設サイト:五島美術館コレクション 源氏物語絵巻 】
画像をクリックすると解説画面に移動します。

【詳細情報: 五島美術館 】
{既発表関連記事:【展覧会】五島美術館 館蔵春の優品展 ── 詩歌と物語のかたち 3月31日[土]─ 5月6日[日]}2018年3月20日

☆     ☆     ☆

モリサワカレンダー二〇一八「かな語り」

国宝「源氏物語絵巻」(五島美術館)より
企画・発行 ───────────  株式会社モリサワ
制作 ─────────────── 株式会社 DNP アートコミュニケーションズ
監修・解説 ─────────── 名児耶 明
アートディレクション ──── 勝井三雄
企画協力 ────────────  四辻秀紀・西岡康宏 

DSCN7669DSCN7663◎モリサワカレンダー二〇一八 睦月・一月
 「源氏物語絵巻」五十四帖のうち「鈴虫 一」の詞書き第一紙
  この詞書きは監修者と企画協力者のお名前をみると空恐ろしくなるが、
  蛮勇をふるって{続きを読む}に稿者による釈読をしるした。
◎モリサワカレンダー二〇一八 卯月・四月
 「源氏物語絵巻」五十四帖のうち「鈴虫 一」の詞書き第三紙左側の詞書きは、
 「おほかたの秋をはうしとしりにしを ふりすてかたきすゝむしのこゑ」
  と詠んでみた。もとより自信はない。
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◎モリサワカレンダー二〇一八 睦月・一月 部分
アートディレクションにあたられた勝井三雄氏は「の」にこだわりがあるのかも知れない。
既刊書『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』でも、装本部に「の」を効果的に用いていた。
万葉仮名では左から順に「能 → の」、「乃 → の」、「農 → の」とあらわされた。
万葉仮名が「変体仮名」という奇妙な名称で呼ばれるようになって久しいものがある。
稿者はできるだけ「ひら仮名異体字」とあらわすようにしている。そして、できるだけ万葉仮名の釈読の労をいとわぬつもりでいるが …… 。

【詳細: 株式会社 モリサワ 】

☆     ☆     ☆

二千円紙幣にみる『源氏物語絵巻』
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二千円紙幣
二千円紙幣は、現在も流通している日本銀行券のひとつであるが、印刷製造は中断している。
第26回主要国首脳会議(沖縄サミット)と、西暦2000年(ミレニアム)をきっかけとして、1999年(平成11)当時の小渕恵三内閣総理大臣の発案によるが、同氏の急逝のため、2000年(平成12年)7月19日に森内閣の元で発行された。

二千円紙幣が発行されていた期間のうち、2000年(平成12年)から2004年(平成16年)の間に、製造元が「大蔵省印刷局」から「財務省印刷局」になり、さらに「独立行政法人 国立印刷局」に変わっているが、二千円紙幣は大蔵省時代にだけ製造されたため「大蔵省印刷局製造」のものしか存在しない。

二千円紙幣の表面には、沖縄の守礼門が描かれ、裏面には『源氏物語絵巻』第38帖「鈴虫」の絵図と詞書、および作者の紫式部の肖像、光源氏、冷泉院が描かれている。
紙幣の偽造防止の見地からみると、二千円紙幣は深い彫りこみのある凹版印刷で、紙幣に転写されたインキを触って凹凸が分かるほど分厚くインキが盛り上げられている、凹版印刷の傑作である。
詞書の読みくだしをふくめ、ウィキペディア 「二千円紙幣」に丁寧な解説がある。そちらをご参照たまわりたい。

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【展示】I H I の歴史と技術をたどる ─── i – muse リニューアルオープン

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I H I の歴史と技術をたどる ──── i – muse リニューアルオープン

i – muse(アイミューズ)
〒135-8710 東京都江東区 豊洲3丁目1-1(豊洲 I H I ビル 1 階)
TEL 03-6204-7032  FAX 03-6204-8614
開館時間 9:30-17:30
休  館  日 毎週土曜日・日曜日、年末年始、ゴールデンウィーク、夏季連休
入  場  料 無 料
──────────
i – muse は、豊洲本社ビルにある I H I グループの歴史と技術のミュージアムです。
I H I の創造と技術の歴史を、お客さまや地域の皆さま、次世代を担う若い世代に知っていただくため、2006年に開館し、2018年4月24日にリニューアルオープンしました。

I H I は浦賀沖に黒船が来航した1853(嘉永6)年、近代日本の夜明とともに創業しました。それ以来、I H I は造船、陸上機械から航空・宇宙までのさまざまな分野に事業をひろげ、あたらしい時代を切り拓いてまいりました。
創業からいつの時代にも、最先端を挑みつづけてきた I H I のものづくりにかけた情熱の軌跡にふれてみてください。

【詳細:株式会社 I H I  i – muse ご利用案内 】

【公演】博 多 座 三谷文楽『其礼成心中-それなりしんじゅう-』 8月17日・19日

博多座三谷01 博多座三谷02博 多 座
三谷文楽『其礼成心中-それなりしんじゅう-』
8月17日[金]・19日[日]
三谷幸喜が愛を込めて描いた大阪・曾根崎を舞台にふつうの人々の笑いと涙の人情物語
──────────
舞台は元禄十六年。
大坂では近松門左衛門が実際の心中事件を元に書いた『曾根崎心中-そねざきしんじゅう-』が大ヒット。その舞台となった天神の森は、悲恋の末に心中を遂げようとする男女の心中のメッカとなっていた。
その森の入り口にある、饅頭屋の夫婦と、心中にやってくる男女の物語を三谷幸喜が書き下ろしました。三谷幸喜の真骨頂、曾根崎に暮らす市井の人々のは笑いと涙に溢れた人情物語。『曾根崎心中』の裏版『其礼成心中-それなりしんじゅうー』です。

「ワインをデキャンティングして美酒にするように、僕があらたな器になります」と自ら宣言、三谷幸喜が創りだし、大好評を得た三谷文楽『其礼成心中』。
文楽の伝統と技芸に敬意を評しながら、三谷幸喜がその魅力を彼の筆と演出で自由に創作した庶民の喜劇『其礼成心中』は文楽ファンはもとより、文楽ビギナーズへも文楽の魅力を最大限に伝えました。中でも人形たちの水中シーンは絶品です。
文楽の可能性を最大限に引き出した三谷幸喜の超・古典エンタテイメントです。

ph01三谷 幸喜(みたに・こうき)/作・演出

1961年、東京生まれ。日大芸術学部在学中の83年に劇団「東京サンシャインボーイズ」を結成。劇団は94年度の公演から30年間の充電期間に入っている。以降、脚本家として数多くのTVドラマを執筆、近年は映画監督も手掛け、精力的に活躍。代表作に「ラヂオの時間」「コンフィダント・絆」など。芸術選奨文部科学大臣賞、紫綬褒章。

三谷幸喜が描いた、決して日本史に出てこない普通の人々の人情物語。 
劇場で大いに笑い、泣きしてください!
そして、あらたな文楽の「古典」を目指して!
どうぞご期待ください。

作・演出:三谷幸喜
出演者:竹本千歳太夫・鶴澤清介・吉田一輔ほか
作 曲:鶴澤清介  美術:堀尾幸男 照明:服部基 音響:井上正弘 舞台監督:加藤高
協 力:国立文楽劇場  文楽協会
製 作:井上肇  プロデューサー:毛利美咲 企画製作/株式会社パルコ

* 電話予約・WEB発売開始:6月9日[土]博多座

あ ら す じ

舞台は元禄十六年四月七日、大坂の曾根崎天神の森で醤油屋の手代徳兵衛と北新地の遊女屋天満屋のおかかえ女であるお初が心中死をとげた。
この心中事件を題材に近松門左衛門が書いた物語が『曾根崎心中』。この近松が書いた『曾根崎心中』は大ヒット。その後、なぜかこの天神の森は、第二、第三のお初と徳兵衛と言わんばかりに心中のメッカとなっていた。

その天神の森の入り口にある饅頭屋。夫婦が営むこの饅頭屋だが、自分の家の目の前でここまで心中を繰り返され、店から客は縁起がわるいと遠のき、饅頭屋はかたむきかけていた。

ある夜、毎度のように若い男女が饅頭屋の前を通りかかった。我慢できなくなった饅頭屋の親父は、とにかく自分の家の前でここまで心中を繰り返されることが嫌な一心で、この男女に「ここで死ぬな」と説得する。
思い至った二人は死ぬことを思いとどまり、帰って行った。饅頭屋の親父はほっとする。しかし、またある日には別の男女が …… 。同じように「ここで死ぬな」と説得、思いとどまらせ、あげくのはては腹がすいている二人に饅頭を食わせてやった。

こんな日々を繰り返しているうちに、なぜか饅頭屋が流行りだす。しかし、なぜか皆親父に身の上話をし、饅頭を買って帰る。どうやら巷では「人生相談所」としての評判がたっていた。これを商売にしない手はないと饅頭屋の妻は「曾根崎饅頭」と銘打って名物饅頭を売り出した。これがまた評判を呼び、饅頭屋は大流行り。一度は傾きかけた店は富を蓄え、そして大金持ちとなった。

あれから、17年。金持ちになった饅頭屋はその富におぼれ、散財し贅沢な暮らしをしていた。しかし、そんないいことは長くは続かない。最近、心中にくる男女もめっきりこなくなり、饅頭屋も閑古鳥。
実は近松門左衛門があらたな心中もの『心中天網島-しんじゅうてんのあみじま-』を発表し、これが大ヒットで、心中のメッカは曾根崎から網島が「心中のメッカ」として、ブームになっていた。
なんとその網島には天ぷらやがあり、自分たちと同じように「かきあげ天網島」という名物天丼で大繁盛のようだ。この状況に怒った饅頭屋の主人は近松門左衛門に直談判へ行く。どうか天神森で起こるあらたな心中ものを書いてほしいと。
しかし、近松は、自分が書きたいものしか書かないと親父を追い出すが、この状況をなんとかしたい親父は食い下がる。あまりにもしつこい親父に困り果てた近松は「それならば、お初、徳兵衛のようにドラマチックな本当の心中話があれば、それを題材に書いてもよい」と言う。饅頭屋は、「ではドラマチックな心中をつくろうじゃないか」と帰る。

饅頭屋には一人娘があった。実は網島の天ぷら屋の一人息子と恋に落ちていた。しかし、家族は敵対、二人は一生一緒になることができないとロミジュリよろしく悲恋物語のヒロイン。そこで饅頭屋の親父はこの二人はおそらくほっておくと心中するかもしれない、そうすればこの題材を元に近松門左衛門にあらたな心中ものを書いてもらえるかもと悪魔のような考えが浮かぶ。
しかし、富を得るために、まさか自分の娘に心中をさせるわけにはいかないと思いとどまり、娘を天ぷら屋の息子の元へ行かせてしまった。

もう八方ふさがりの饅頭屋の夫婦、店は傾き、もう打つ手はない。生きていく力をなくし、夫婦は自らの天神森で命をたとうとするが …… 。

【詳細: 博 多 座 】

【上映】チェコセンター プログラム 映画『 イカリエ-XB1 』(5月19日より全国順次公開)+ S T O R Y

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チェコセンター プログラム
映画『 イカリエ-XB1 』(5月19日より全国順次公開)
1963年にチェコスロヴァキアではじめてつくられた本格的SF映画『 イカリエ-XB1 』(インドゥジヒ・ポラーク監督)のデジタル・リマスター版が5月より全国で順次公開予定です。

────────────────
『 イカリエ-XB1 』デジタル・リマスター版
2018年5月19日(土)新宿シネマカリテ ほか全国順次公開予定
最新情報は公式ウェブサイトをご確認ください。
http://ikarie-jp.com/
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【公演】国立劇場 小劇場主催公演 六月雅楽公演「雅楽器の魅力」+解説添付 6月9日

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国立劇場 小劇場主催公演
六月雅楽公演「雅楽器の魅力」
公演期間 2018年6月9日[土]
開演時間 午後2時開演(午後4時終演予定)
* 開場時間は、開演の30分前の予定です。

───────────────
演 目・出 演
雅楽器の魅力
 笙  黄鐘調調子(おうしきちょうのちょうし)

篳 篥 八仙急(はっせんのきゅう)
龍 笛 蘇莫者破(そまくしゃのは)
琵 琶 秘曲 揚真操(ようしんそう)
 箏  太食調掻合(たいしきちょうかきあわせ)/抜頭(ばとう)
神楽歌 朝倉(あさくら)
管 絃 散手序(さんじゅのじょ)
芝祐靖=作曲・編曲
管 絃 雉門松濤楽(ちもんしょうとうらく)
    悠聲(ゆうせい)/泰鳴(たいめい)/玉手輪説(ぎょくしゅりんぜつ)/雉聲(ちせい)

<解説> フライヤーより転載
シルクロードにより伝わった異国の歌舞と、日本古来の歌舞とが結びつき、平安王朝文化の中で大成した雅楽。現在もなお多くの人を魅了するその響きは、多様な雅楽器のアンサンブルにより作り出されます。

主に和音で演奏される「笙-しょう」、主旋律を担う「篳篥-ひちりき」、旋律を彩る「龍笛-りゅうてき」、リズムを明確にする「楽琵琶-がくびわ」、琵琶とともに合奏全体のリズムを作る「箏-そう」。
このほか、打ち物といわれる「鞨鼓-かっこ・太鼓-たいこ・鉦鼓-しょうこ」など、雅楽器の独自の響きに惹かれるのでしょう。

そこで今回は雅楽器に着目し、前半では楽器単体での演奏をお聴きいただきます。
笙「黄鐘調調子-おうしきちょうのちょうし」、篳篥「八仙急-はっせんのきゅう」、龍笛「蘇莫者破-そまくしゃのは」、琵琶「秘曲 楊真操-ひきょく ようしんそう」、箏「太食調掻合-たいしきちょうかきあわせ/抜頭-ばとう」という、それぞれの楽器の魅力を最大限に引き出す演奏は、合奏では味わうことのなかった新たな雅楽の魅力を示します。

続く「朝倉-あさくら」は、神楽歌の中でも名曲中の名曲といわれ、神楽笛、篳篥、和琴の独奏、そして歌の独唱と、技巧だけでなく音楽性や声量も求められる非常に難易度の高い曲です。

それぞれの楽器の響きを味わった後、後半は、合奏をお聴きいただきます。
古典曲「散手序」は、管絃ではあまり演奏されませんが、今回は笙・篳篥・龍笛の三管による音頭の演奏に、助奏が同じ旋律を追いかける退吹-おめりぶき-による演奏をお楽しみいただきます。

そして最後は、芝祐靖作曲の「雉門松濤楽-ちもんしょうとうらく」をお聴きいただきます。
この曲は「国立劇場開場五十周年を寿ぎ、そして雅楽のこれからの千年に捧げる」をテーマに作られました。
今回は笙・篳篥・笛・琵琶・箏の響きがより際立つよう編曲しての上演となります。

雅やか、かつ悠久な雅楽の響きは、他の音楽では味わうことができません。その響きを生み出す雅楽器を知ることで、より深く雅楽の魅力を味わっていただければ幸いです。

出演=豊 英秋、安齋省吾、大窪永夫、池邊五郎、東儀季祥、大窪康夫、大窪貞夫、豊 靖秋
──────────
前売開始 電話・インターネット予約開始=4月11日(水)午前10時ゟ
窓口販売開始=4月12日(木)ゟ

【詳細: 国立劇場 】

【公演】六月博多座大歌舞伎 二代目松本白鸚 十代目松本幸四郎 襲名披露+{新宿餘談}

六月博多座博多座_02博多座
六月博多座大歌舞伎
  松本幸四郎改め 二代目 松本白 鸚
                   襲名披露
  市川染五郎改め 十代目 松本幸四郎
6月2日[土]初日-26日[火]千穐楽

☆ 4月14日午前10時から電話予約・インターネット発売開始
【詳細: 博多座

──────────
!cid_DA9F429A-EB89-44EF-B883-53DD44E57AFA昭和17年8月生まれ。初代松本白鸚(八代目松本幸四郎)の長男。
21年5月東京劇場『助六曲輪江戸桜』外郎売の伜で二代目松本金太郎を名のり初舞台。24年9月東京劇場『逆櫓』の遠見の樋口で六代目市川染五郎を襲名。56年10、11月歌舞伎座『勧進帳』の弁慶、『熊谷陣屋』の熊谷直実ほかで九代目松本幸四郎を襲名した。

父方の松本幸四郎家の芸と、母方の祖父初代中村吉右衛門の芸を継承し、独自の芸風を確立している。特に『勧進帳』の弁慶は全国47都道府県で上演し、1100回を超える偉業を達成。このほかの当たり役として『仮名手本忠臣蔵』の大星由良之助、『菅原伝授手習鑑』の松王丸など時代物の大役のほか、近年は『筆屋幸兵衛』の幸兵衛など黙阿弥の世話物も手掛け、芸域を広げている。

また、日本のミュージカル俳優の草分『ラ・マンチヤの男』のセルバンテスとドン・キホーテは1200回以上演じたほか、現代劇でも『アマデウス』のサリエリなど数々の当たり役を持ち、歌舞伎のみにとどまらず様々な分野で活躍している。平成17年紫綬褒章、日本藝術院会員、文化功労者。

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昭和48年1月生まれ。二代目松本白鸚(九代目松本幸四郎)の長男。
54年3月歌舞伎座『侠客春雨傘』の金太郎で三代目松本金太郎を名のり初舞台。56年10、11月歌舞伎座『仮名手本忠臣蔵』七段目の大星力弥、『助六曲輪江戸桜』の福山かつぎで七代目市川染五郎を襲名。

古典の二枚目や女方など幅広い役柄を演じ、近年では『勧進帳』の弁慶、熊谷陣屋』の熊谷直実など父祖の当たり役である線の太い役柄にも挑戦して好評を得た。また、家の芸系にはない『恋飛脚大和往来』の忠兵衛などの上方歌舞伎の和事や復活狂言にも積極的に取り組んでいる。

歌舞伎以外の舞台では、劇団☆新感線による『阿修羅城の瞳』、『アテルイ』などに主演、これらの舞台は歌舞伎NEXT『阿弓流為(アテルイ)」として進化を遂げ、歌舞伎に新しい世界を切り開いた。近年ではラスベガスで行った公演での『獅子王』で伝統の技と最新のテクノロジーを融合させた意欲作を成功させるなど精力的に活動している。平成11年紀伊国屋演劇賞個人賞、平成15年芸術選奨新人賞。
──────────
{新宿餘談}

ゆえあって歌舞伎 ─ 高麗屋ファン、また戯作者にして歌舞伎座創建者:福地櫻痴(源一郎)と眞山青果の心酔者

やつがれ弱小のみぎり、オヤジの書棚にあった『眞山青果全集』に触れ、「ト書き」などで状況設定や構成の妙がわかる戯曲の、小説とはちがうおもしろさにひかれた。のちにこの全集を古書店から購入して読みふけった。記憶では亀倉雄策氏の装幀で重厚な装本であったが、繰りかえした引っ越しのなかに没した。
そんなこともあって、戯作者 : 眞山青果、ついで福地櫻痴らにあこがれ、脚本家をめざした恥ずかしい過去がある。 これは斯界の大先輩に非才をきつく指摘され、わりとあっさり断念した。それでも突然の難聴におそわれるまでは、映画やテレビよりも、ライブでの芝居が好きだった。

たまたま娘が日舞松本流師匠のもとに稽古にかよった。その師匠の亭主が 三代目松本錦吾(高麗屋)で、 家も年齢も近かったので「家庭麻雀」を中心に家族ぐるみのつきあいをしたし、改築前の歌舞伎座にはしばしば通った。 
当時の錦吾さんは若手育成担当をしていたので、先代市川染五郎(現松本幸四郎)、市川海老蔵、中村獅童も、浅草公会堂や国立劇場などで子役のころからみてきた。また、こういう通ぶったいいかたはいやらしいが、先々代の松本幸四郎(初代白鸚・高麗屋)、先代の市川團十郎(成田屋)、尾上松綠(二代目・音羽屋)もみてきた。

20180412184923_00001『週刊朝日』2018年1月26日号 表紙
新松本幸四郎が自らを「歌舞伎職人」と述べているのが印象的であった

歌舞伎界では「高麗屋三代同時襲名披露」が話題になっている。この三代同時での襲名披露は37年ぶりの快挙だとしておおいに人気をあつめている。
ところがやつがれ、この37年前の「高麗屋三代同時襲名披露」公演に、記憶にあるかぎり三度は歌舞伎座に通った。錦吾さんと現二代目白鸚はおなじ年のうまれで、どちらも矍鑠としているが、先代の初代白鸚は、襲名のとき、すなわち37年前には、すでに老化がめだち、襲名披露公演のときもセリフも所作も弱〻しかった。そのため先代白鸚の「部屋子」としてながらく修行してきた錦吾さんが、白鸚の出番のすべてに「黒子-くろご・歌舞伎では存在しない役者なのがきまりごと」の衣裳をつけて、白鸚にピッタリと寄りそって介添えしていた。

大仕掛けの歌舞伎の観劇料はけっして安くはないが、時折錦吾さんがキャンセルになった指定席を紹介してくれたし、歌舞伎座独特の「幕見席」があって、映画なみの気軽さでみることもできる。
この「幕見席」は高所恐怖症のかたにはおすすめできないが、意外に知られていないようなので、ここに紹介する。

一幕見席について
好きな幕だけをお気軽にご鑑賞いただけるのが、一幕見席。 幾度もお運びになるお客様や、歌舞伎を初めてご覧になるお客様のための、歌舞伎座ならではの人気席です。 一幕見席は歌舞伎座4階に位置しております。 全てが自由席となっており、通常公演では椅子席約90名、立見約60名、合わせて約150名の定員でございます。

「幕見席」なら、ひと幕だけを見ることもできるが、錦吾さんからの突然の招集で「最終ひと幕」を見るときは、車を萬年橋東・松竹の駐車場に入れ、公演がはねたあと、近くの船宿から役者仲間といしょに東京湾に夜釣りに行くことが多かった。
同行者のなかにはとんでもない大看板役者もいたが、釣り船というより屋形船を仕立てての釣行だった。釣りはいちおう穴子ねらいであったが、釣果を気にしないにぎやかな五目釣りで、釣れたはしから船頭さんがどんどん刺身や天麩羅にして酒の肴となっていた。

たしかに眼をおおきく剥いての荒事芝居のあと、すぐに、
「さぁ、終演です。明日に備えて帰りましょう」
では辛かろうし、贔屓筋からの招待の席も疲労を招くようであった。なによりも人気稼業の役者のことゆえ、ひと目をきにせず、東京湾にのんびり浮かぶ釣り船は、気楽さが一番だったようだった。つまり、こういうとき下戸のやつがれは錦吾さんらの帰宅の運転を引きうけることになった …… 。
それにしても、あれから37年とはまったくもって烏兎匆匆のおもいである。

歌舞伎座の創建と福地櫻痴(源一郎)
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歌舞伎座資料館
── 歌舞伎座の変遷

第一期:明治22年11月-明治44年7月

初代の歌舞伎座は、演劇改良運動の熱心な唱導者であった福地源一郎(櫻痴)が、自分たちの理想を実現すべき日本一の大劇場を目指し造られたもので、明治22年11月21日に開場しました。

外観は洋風でしたが、内部は日本風の三階建て檜造り、客席定員1824人、間口十三間(23.63m)の舞台を持つ大劇場で、今も歌舞伎座の座紋である鳳凰丸〔登録商標〕は、この時から用いられています。
明治44年7月に施設の老朽化と帝国劇場の出現を受けて改造されることとなりました。
──────────
《四月大歌舞伎では眞山青果作品が、六月博多座では福地櫻痴作品が上演される》
ときおりメールマガジン「歌舞伎美人-かぶきびと-」が送られてくる。おおかたのメルマガはスルーだが、この情報は楽しみにしている。
一月・二月歌舞伎座「高麗屋三代同時襲名披露」の切符争奪戦 ── よい席で観たい ── は熾烈だったようである。二代目白鸚が元気なので、白鸚と同年うまれの錦吾さんは37年前とはちがって、昼の部・夜の部双方で大奮闘されていた。
高麗屋一門は、昨年末の浅草仲店での「襲名お練り」からはじまり、一月・二月の歌舞伎座での襲名披露公演があり、三月からは名古屋・京都とつづいて六月は博多座での公演が発表された。
ここに松本金太郎改め八代目市川染五郎が登場しないのは、まだ12歳の中学生でもあり、さすがに地方公演では参加を見送っているらしい。

4-21-491104-19-49107長崎市崇福寺通りに「福地櫻痴生誕の地」碑がある。福地櫻痴は毀誉褒貶のおおい人物だが、毎日新聞の前身『東京日〻新聞』主筆兼社長、衆議院議員・東京府府議会議員(議長)・初代歌舞伎座の創設・戯作家・文筆家など多方面で活躍した明治ならではの怪物ではある。やつがれ、訪崎に際しては寸暇をぬすんでこの碑の前にたつことが多い。

四月大歌舞伎・昼の部で、眞山青果作「江戸城総攻」から「西郷と勝」が上演される。明治百五十年ということもあるのだろうか、眞山作品のひさしぶりの上演である。

ところで博多座、夜の部に福地櫻痴作「新歌舞伎十八番の内 春興鏡獅子」が上演されるらしい。
櫻痴の戯作にはおなじ「新歌舞伎十八番の内 素襖落 すおうおとし」や、「春日局」など、意外に地味な作品もあるが、この「新歌舞伎十八番の内 春興鏡獅子」は、長唄囃子連中が舞台せましと居ならび、あかるく艶やか、賑やかで愉快なこと、まさに明治一の粋人といわれた福地櫻痴の面目躍如たるものがある。福岡博多座までいってでも高麗屋の「春興鏡獅子」をみたいものである。

【詳細: 歌舞伎座  博多座 】

【公演】国立能楽堂 2018年五月公演案内 & 解説/水掛聟-みずかけむこ-、放下僧-ほうかぞう-  

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国立能楽堂
2018年五月
◯ 5月9日の定例公演は、能「放下僧」です。

父の敵を狙う兄弟は放下(僧姿の芸人)に扮して敵に近づき、禅問答や歌舞を見せて隙を狙い、復讐を遂げます。
曲舞(くせまい)・羯鼓(かっこ)など様々な中世の芸能も見所です。

◯ 5月12日の普及公演は、能「俊寛」です。
平清盛失脚を狙う陰謀が発覚し、鬼界島に流された俊寛僧都たちのもとに赦免状が届けられます。
しかし、そこには俊寛の名だけがありません。
一人残される俊寛の、壮絶な絶望と孤独が描かれます。

◯ 5月18日の定例公演は、能「杜若」です。
在原業平が詠んだ和歌で知られる杜若の名所・三河国(現在の愛知県)八橋。
旅の僧の前に杜若の精が現れ、『伊勢物語』の世界を語り、業平や二条后の形見を身に付けて舞を舞います。

◯ 5月25日の狂言の会は、「家・世代を越えて」がテーマです。
狂言は、家ごとの出演者での上演が中心ですが、他の家の出演者との共演で普段とは異なる魅力をお楽しみいただきます。
重鎮に中堅・若手が挑む配役にもご注目ください。

Discover_N&K_P1-4_1030+Discover_N&K_P2-3_1030◯ 5月30日は、外国人のための能楽鑑賞教室 Discover NOH & KYOGEN です。
外国の方が能・狂言に触れる絶好の機会です。
冒頭に英語による解説が付き、狂言「盆山」と、能「船弁慶」を上演します。
座席の字幕表示システムは、英語・中国語・韓国語・日本語の4チャンネル。
また、英語・中国語・韓国語・スペイン語・フランス語・日本語による無料解説書もあります。
皆さまお誘い合わせのうえお越しください。
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◆5月公演 4月9日(月)より前売開始!

【詳細: 国立能楽堂 】 

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国立能楽堂 【千駄ヶ谷だより】より
親子の争いと兄弟の敵討ち(5月9日定例公演)

新年度を迎えて東京の桜はあっという間に散ってしまいました。来る5月は田植えの季節、水をいっぱいに湛えた田を見るのは本当に清々しいものです。

[水掛聟-みずかけむこ-]
さて、狂言には農業を扱った作品がいくつかあります。その代表作が今回上演する「水掛聟」です。この狂言には親子が登場します。親子といっても聟(むこ)と舅、義理の親子です。
この二人、それぞれ隣り合った別の田を耕作していて、日照り続きの頃、自分の田に水があるかどうか心配で見回りをします。すると隣の田には水があって自分の田に水がない。どうもお互い土を盛って「我田引水」、水を独り占めしているようです。
鉢合わせした二人は論争になり、ついには水の掛け合い、泥の塗り合いとなります。この騒動を聞きつけた妻(娘)が飛び出すものの、夫と親との板挟み、さてどちらの味方になるでしょうか。
実際こんなこともあっただろうという水論争、生活が掛かっていますから本当は深刻なはずですが、狂言ではあくまで明るく楽しい親子喧嘩、結末の後味も良く理屈抜きに誰もが楽しめる名作となっています。

国立能楽堂五月「能之図」(国立能楽堂蔵)より「放下僧」

[放下僧-ほうかぞう-]
一方、同時上演の能「放下僧」は、まさしく命が掛かった敵討ちを描いた作品です。
口論の末に父の左衛門を利根信俊に殺された牧野小次郎は、ともに敵討ちをしようと禅門に出家していた兄を訪ねます。弟の説得によって兄も敵討ちを決意し、禅を好む利根に近づこうと二人は「放下」という芸能者(兄は僧形、弟は俗体)に変装します。
近頃夢見が悪い利根は瀬戸の三島(現在の神奈川県の瀬戸神社)に参詣すると、そこで二人の放下に出会います。この二人こそ小次郎とその兄、二人は利根の好む禅問答で機会を窺いますが果たせず、次いで曲舞、羯鼓、小歌節と芸尽しによって利根の油断を誘います。ついに利根の隙に乗じて敵を討つことに成功、二人は名を末代に残します。
問答形式による緊迫感溢れる言葉の応酬、敵を狙いつつ舞う芸能の数々、見どころいっぱいの能です。シテの兄のみならずツレの小次郎、ワキの利根信俊、アイの従者、登場人物それぞれが大活躍する物語が能のイメージをきっと変えてくれるでしょう。

親と子の争い、兄と弟の苦難の敵討ち、家族をめぐる能と狂言を是非ご覧ください。