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朗文堂-好日録015 五日市ランドスケープ、佐々木承周老師

朗文堂─好日録015

ふしぎなエートスの存する町
五 日 市 イツカイチ 
そして、佐佐木承周老師のことども

『風景資本論』刊行にちなんで

《『風景資本論』を鞄にしのばせて、ちいさな旅にでた》
『風景資本論』(廣瀬俊介著、朗文堂)が刊行された。著者の廣瀬俊介氏はこうかたっている。
「地域の資本となりうる風景ランドスケープとは、どのようなものか。風景の読み方、風景のデザインを、本質と事例から考察する」
この新刊書を鞄にしのばせ、やつがれ、つめたい雨のふるいちにち、晩秋の五日市にでかけた。行き帰りの車中で『風景資本論』をあらためて読み、さまざまなことどもを考えさせられた。

そしていま、それぞれの風景をあらためてこころに描き刻みつつ、震災におそわれ、原子力発電所の大事故におかされ、悩み苦しむこの国のこしかた、これからをおもった。
というわけで、今回は東京の西端の町、「五日市の風景」を紹介したい。

 

《山川の町に育ったせいか、近郊の五日市が好きになった》
雪ふるちいさな町、千曲川に沿った奥信濃の田舎町で育った。そのせいか、山と川のある風景がここちよい。
関東平野の東京に住んではや40年ほどになろうというのに、どうにもこうにも、こんなのっぺらぼうとした風景や風土に馴染めないでいる。東京のどこに立っても、東西南北が明確にわからない。要するに田舎もの。

やつがれの郷里、信州信濃の飯山では、千曲川の上流が南、下流が北、高社山タカヤシロが東、斑尾山マダラオが西と、山川による陸標、ランド・マークがはっきりしていた。
そして冬にはあたり一面丈余の雪にうもれ、春には野面をうめて香りたつ野の花が咲き、夏には灼けるような烈日が地をあつくし、秋には全山燃えたつがごとき紅葉と、四季折折の風情があり、季節にあわせた花卉や農作物がもたらされていた。

ところがやつがれ、格段には地理オンチとおもわないが、神田神保町ジンボウ-チョウの地下鉄道で下車して、迷路のような地下道をめぐりめぐって地上にでると、似たようなビルが立ちならんでいるばかり。こうしたユークリッド幾何的形態? の空間はまったく苦手である。だからいまもって、九段方向がどちらか、一ッ橋方向がどちらかがわからなくてこまる。

地理案内板、サインボードもあるにはあるが、林立するどぎつい色彩の広告看板に押しのけられて頼りない。かといって、東京タワーやスカイツリーのみえる範囲などたかがしれているし、そんなものを陸標ランド・マークとするのもなさけない。
そんなわけで田舎もの、遠出の旅はしんどくなったが、なぜか週末になると、関東平野を脱して、山川サンセンのある風土に身をおくと落ち着くのだ。

 

エートス Ethos はギリシア語で、エトスとも音される。ご存知のパトス Pathos 感情・激情の対語である。
すなわち簡略に述べると性格・心性であり、ある社会集団にゆきわたっている恒常的な感性・情念であり、ときとして色彩感覚や宗教観や死生観であろうか。

どうやらやつがれ、田舎育ちのゆえに、地霊・山霊・岩霊・艸霊・木霊・水霊のふところに身をゆだねると安堵するエートス──性癖ないしは心性があるらしい。こうした山川の地では、一木一艸がいとおしく、小川のせせらぎ、かすかな瀬音、どうということのない路傍の小石までがこころをなごませる。

       

東京都心から40-50キロほど、東京の西の端に「東京都 あきる野市 五日市」がある。JR五日市線の終点で、新宿から直通電車で800円ほどの電車賃でいける。駅から檜原ヒノハラ街道をたどると、すぐに杣山ソマヤマをぬうように急峻な坂道となり、奥多摩の切り込みのふかい山襞がせまってくる。
このあたりが、樹木を植えつけ材木をとるための「杣山ソマヤマ」として拓けたのはふるかった。また後背地の奥多摩のひろい林や森から伐採された木材・木炭が、五日市にあつめられ、そこから関東平野一円に出荷されたという。

寺社もおどろくほど多い。ふるく、源頼朝の命によって1191年に建立されたとされる真言宗「大悲願寺」は、鎌倉幕府開設──1192 イイクニ つくろう 鎌倉幕府──の前年のことである。この古刹にたつと、この寺に込められた源頼朝の「大悲願」とはなんであったのかを考えさせる寺でもある。

 

 

また五日市には、室町幕府の祖・足利尊氏(1305-58)がひらいたとされる臨済宗「光源寺」があり、ともに臨済宗の寺で、江戸初期の創建らしき、清楚なおもむきの「広徳寺」もある。

《五日市町からあきる野市へ──平成の大合併》
ゆたかな秋川渓谷の清流を水運として、ふるくから木材や木炭が五日市にあつめられたという。江戸時代には檜原ヒノハラ街道にそった五日市の町並みに、木材商と木炭商が軒を連ねて殷賑をきわめたそうである。したがって町制を敷いたのはふるく、1889年(明治22)町村制施行と同時に、神奈川県西多摩郡五日市村と、小中野村が合併して「五日市町」が誕生した。

この時代、いまこそ繁華なまちとしてしられる渋谷も八王子もまだ鄙びた村でしかなく、五日市が町として誕生したのはおどろくほどはやかったことになる。
またこのころは、多摩地区一帯は神奈川県に属していたが、上水道用水の大量確保をもくろんだ東京府が、1893年(明治26)、神奈川県から、西多摩郡・南多摩郡・北多摩郡とともに、五日市町も東京府に編入せしめたものである。
林業の衰退とともに、往時の殷賑のおもかげはうすれたが、それだけに、落ち着いた、古き良きものが、さりげなく存在する町でもある。

五日市駅までは直通電車もあるが、東京駅からだと中央線の立川で乗り換えて拝島線に、さらに拝島で五日市線に乗り換えて終点までのちいさな旅となる。
この五日市鉄道(現在のJR五日市線)の敷設もはやかった。すでに1925年(大正14)には、五日市の木炭商らの出資によって、私鉄五日市鉄道(その後国有鉄道を経てJR)の敷設をみている。すなわち大量の木炭や木材の物資輸送に欠かせなかったのがこの傾斜のある鉄道路線であった。

1995年(平成7)いわゆる平成の大合併のさきがけとして、五日市町は隣接する秋川市と合併して「あきる野市」となった。このあらたな市名の由来は、このあたりがふるくは、「秋留アキル、阿伎留アキル」と呼ばれていたことに発したが、秋川市が主張した「秋留市」と、五日市町が主張した「阿伎留市」で議論が二分して、ひら仮名混じりの「東京都あきる野市」とすることで決着をみたそうである。

《茶房 むべと、高橋敏彦氏》
あきる野市一帯では、ある種のおだやかなデザインの統一がみられて、それがふしぎな「景観」をかもしだしている。たとえば、秋川谷口にある料理屋「黒茶屋」、併設されている「茶房糸屋」の看板や各種の印刷物、あきる野市と第三セクターが開発した「瀬音の湯」のカログラム、そして野崎酒造の銘酒「しろやま桜」「くろやま桜」のラベルなど数えきれない。
そこにもちいられている、てらいのない飄逸な書と、ほのぼのとした絵とが、CI とも町おこしともバナキュラともいわず、たくまずしてこのあたりの「景観」を形成していることに驚かされる。

これらの書藝や絵画を精力的に製作しているのは高橋敏彦氏という。1942年(昭和17)うまれ、御年69歳。ごま塩まじりの白髪で、美鬚のデザイナーである。
高橋氏はかつて都心部にデザイン事務所を構えたこともあったが、30年ほど前から、檜原村との境にちかい、見晴らしの良い高台の地に住まい、地元密着のデザインをねばり強く展開してきた。さらに自宅離れを改築して、自作の「ミニ・ギャラリー」と、「茶房 むべ」を開設した。

「むべ」とはこのあたりでは「アケビ、木通、通艸」のことである。むべは蔓状をなして山地に自生する。春たけなわのころ、あわい紅紫のちいさな花をつける。晩秋のころ、果実が紫に熟して縦に割れる。果肉は厚く、半透明の白色で、たくさんの黒色の種子を含んでおり、とろりとした甘味で食用になる。蔓は強靱で各種の細工にもちいられる。

やつがれ、五日市に出かける楽しみのひとつが、「茶房 むべ」の香味のつよい珈琲を味わい、高橋翁とのくさぐさのかたらいのひとときである。こんかいは庭先に「むべ アケビ」がブラリとさがっていた。それがなんともいえずよかった。
店内は禁煙なので、いつも(たとえ少少寒くとも)庭先の四阿アズマヤに腰をおろし、清澄な川面をわたる薫風や、山颪ヤマオロシの木の香を愉しむ。そして鳥や蟲の聲、かそけき渓谷の瀬音に耳をかたむけながら、一杯の珈琲を味わい、紫煙をくゆらすのを無上のよろこびとする。

2011年11月19日[土]折からの雨だったが、フトおもいたって五日市にでかけた。雨はきらいではない。むしろ人混みがすくなく、景観が落ちつき、しっとりしていてよいとおもう。町のあちこちに、映画『五日市物語』のポスターが貼られていた。タイトルの書はあきらかに高橋氏の手になるもの。サブタイトルに、
「五日市、それは時が止まったような、東京のふしぎなまち」
とあった。
そのフライヤーを四阿アズマヤでよくみたら、「プロデューサー:高橋敏彦」とあった。もちろん「茶房 むべ」のあるじ、高橋氏のことである。

高橋氏は字も書くし(書藝をまったく誇らないが良い字だ!)、ほっこりした絵も描く。そして陶芸もこなすらしい。つまりひと世代前の、図案屋さんとよんでいたような本物のデザイナーであり、なんでもかんでも造形家であり、技芸家でもある。すなわち誇り高きアルチザンである。
そして、その技倆と、知性が卓越していることが、このひとを特徴づけ、地元・地域の信頼をあつめている。今回は映画『五日市物語』のプロデューサーをつとめている。

主演女優は遠藤久美子であるが、ポスターにもちいた写真では、マグカップを両の手で抱えていた。この写真におもわず視線が釘づけ! これは高橋氏の製作に違いないとおもった。
やつがれ、10年ほど愛用していたお気に入りのマグカップ──軽井沢の車屋で買ったもので、立原道造モデルとして愛着があった──をわってしまって、さびしいおもいをしていた。

遠藤久美子はいかにもいとおしいという手つきで、木肌色のマグカップを両のてのひらに抱えていた。大きさといい、色味といい、質感といい、これは好みだ! もちろん遠藤久美子ではなく、マグカップ。
リンクを貼っておいたので『五日市物語』の公式サイトをぜひみていただきたい。
おもわず奪いとりたくなる逸品ではないか。
ウ~ン、映画鑑賞の前に、まずは高橋氏にこのマグカップをねだらなくてはならないようだ。

《西のほうの古都の名刹におとらない清楚な寺 広徳寺──そうだ! 五日市にいこう!》
晩秋のつめたい雨に濡れながら「広徳寺」をめざす。これまで五日市は何度か訪れたが、いわゆる観光や寺社巡りははじめてだった。
〔どうせ、山寺。たいしたことはなかろう〕
とおもいながら急峻な坂をのぼった。
傾斜がいくぶんなだらかになったとき、いきなり広徳寺の茅葺きの総門があらわれた。いかにも禅寺らしい簡素なたたずまいがよい。おもわず扁額に目を奪われる。コバルト・グリーンのような大胆な色彩で「穐留禅窟」とあった。

   

この扁額を書したのは、江戸後期の出雲松江の藩主・松平不眛公だと傍らの解説板にあった。
調べてみたら松平不昧フマイこと、松平治郷ハルサト(1751-1818)は、茶人としてしられ、号して不眛。茶道につうじて石州流不昧派をおこし、また禅道・書画・和歌にもつうじたひと。不昧公は江戸期の凡庸な譜代大名のなかにあって、傑出したひとであったそうな。

扁額にみる「穐留禅窟」の「穐」は、「秋・穐・龝」と同音同義の字で、いまは市名となったこのあたりの古名「あきる → 穐留」をあらわす。したがって「穐留禅窟」は、「あきる の 禅の 岩屋」ほどの意になろうか。
おおぶりな骨格といい、大胆な色遣いといい、この山の寺にふさわしいよい書であった。

ただし出雲の国の不昧公が、なぜこの山深い五日市の禅寺の扁額を書したのか、解説板にはなにも記述はなかった。それがいかにも自彊ジキョウをおもくみる禅寺らしく、
〔興味があるなら自分で調べよ〕(ムカッ)
といっているようでかえってよかった。だからやつがれ意地になって、不昧公や、「穐留禅窟」を調べたということ。

   

総門をぬけると、つぎに現れたのが、茅葺の屋根を持つ重厚な二層の山門。こぢんまりとしているが、これが江戸期の構築物かと疑いたくなるようなおだやかさがある。遠目にはそれと気づかない二層の屋根のわずかな反り具合と、それを支える肘木ヒヂキの文様が軽やかである。こまやかな肘木の組みあげも、この茅葺きの屋根をかろやかにみせている。
また上層にある唐様のふたつの窓と、そこに貼られた真っ白な手抄き紙が、この古風な山門に、明暗、印影、めりはりをあたえている。

山門からは右手に、鐘撞き堂、左手に経蔵をへだてて本堂が望めるが、そのひろびろとひらけた前庭に、まるで塔宇のように、公孫樹イチョウの大樹がふたつ並んでいる。かなりの雨降りだというのに、この一画では写生会でもあるのか、10数名のご隠居連が雨をさけながらスケッチブックをひろげていた。

 

すっかり色づいた公孫樹がハラハラと葉を舞い落とす。その黄色くくすんだ落ち葉を踏みしめながら本堂に達する。大屋根は苔むしてはいるが檜皮葺きヒワダ-ブキ。贅沢なものだ。
本堂をぐるりとまわりながら、裏手のお廊下と濡れ縁をさりげなくこする。

そして、佐佐木承周老師のことども

佐佐木承周老師(アメリカ版Websiteより)

上)  ロスアンジェルス「臨済寺」にて。1989年12月23日、老師82歳ころ。
下) ご本堂前、老師と当時45歳ほどの筆者。小型カメラに日付表示機能があった20年ほど前。
このとき老師は開口一番「ジロウちゃん、おねしょは治ったかね?」で辟易ヘキエキした。
12月23日にロスにいき翌日のクリスマスイヴ、先方の指定日時にサンフランシスコにいって、
「パソコンの奇才」 と会見した。懐かしい写真が偶然見つかったので、ここにアップした。
この翌日 「パソコンの奇才」と会見写真は撮影のふんいきもなかったので、無い。 

実はやつがれ、ゴ幼少のみぎり、短期間とはいえ禅寺に押し込められたことがある。そのときいちばん辛かったのが、禅寺では東司トウスとよぶ便所の掃除と、ご本堂や庫裏の板敷きのお廊下と濡れ縁の清拭だった。
これらの苦役・雑役モトイ禅寺での作業は「作務サム」とよばれる。ご存知の「作務衣サム-エ」を身につけて、清掃はもとより、東司の汲み取りから農作業までを、仏道修行としておもくみる。

これが禅の修行の最初だと、クソ坊主 モトイ、モトイ! テイセイ-イタシマス 佐佐木承周ジョウ-シュウ老師にいわれた。もとより、あまりにわんぱくで、悪戯がすぎて、オヤジと旧知の佐佐木老師の禅寺に放りこまれただけで、禅僧になろうとは露ともおもわぬやつがれだった。
だから読経や座禅は逃げまくったが、鼻水をたらしながら、修行の最初とされる、拭き掃除、掃き掃除、すなわち作務ばかりをさせられた。その修行の甲斐はご存知のとおり、まったくなかった……が。

この佐佐木承周ジョウ-シュウ老師というひと、お化けだ。いや怪僧というべきか、名僧はたまた傑僧というべきか……。
死んだオヤジと同年の1907年(明治40)うまれだから、もう105歳になるはずだが、いまはアメリカ西海岸の、ボーイ・スカウトのキャンプ地の一部を改装したという、どうひいき目にみてもキリスト教会としかみえない、まことにもって奇妙な白堊の禅寺「臨済寺」の住職として居住している。

かつて、この「臨済寺」に老師をたずねたことがある。その折り、紅毛碧眼コウモウ-ヘキガンひとが、まるめたあたまに菅笠をかぶり、墨染めの衣をつけ、素足に草鞋ワラジをはき、ゾロゾロ連れだって托鉢タクハツにでかけたのでおどろいた。
ロスアンゼルスの町のたれが喜捨に応ずるのかわからなかったし、丈が足りないのか、衣の裾から毛ずねをむきだしにして歩みだした、紅毛碧眼ひとや、アフリカ系アメリカひとの雲水どもを唖然としてみおくった。
鐘楼は軒先にブラリとさがったふしぎなシロモノで、どこかの耶蘇ヤソの寺(教会かな?)からもってきたような珍妙な梵鐘を、大まじめで叩いて モトイ 撞いていた。

佐佐木老師は、やり手モトイ非凡なひとだから、ほかにも西海岸一帯に禅寺をいくつもひらき、105歳のいまもってきわめて壮健らしい。しかも4月1日のうまれだから? 悟りすましたようなことも平然といってのける。
また真偽のほどは保証のかぎりでない(つい先ほどノー学部に教えられたWebsite情報だ)が、映画『スターウォーズ』のヨーダのモデルは、この佐佐木老師だとされている!

書店に「赤いひと囓りのリンゴ」関連書が山積みなので、しばらくは避けたい。それでもいまの高揚期が落ちついたら、「赤いひと囓りのリンゴ」創業者のこととあわせて、本欄でも紹介したい、一代の化けもの モトイ 傑物が佐佐木老師であることだけは間違いない。
アメリカの一部では佐佐木老師をすっかり神格化し、ダライ・ラマ、ローマ法王、Sasaki Roshi  とならべて紹介している  Website  もあった。いくら幼少のときとはいえ、老師のさまざまな行蔵を間近でみてきたやつがれ、いささかウ~ンとうなるしかないアメリカでの過熱ぶりであった。

やつがれこのクソ坊主 モトイ 佐佐木老師には、さんざんゴツンとなぐられ、説教をくったが、寒さとさびしさ? のあまり、ついつい粗相した寝ションベン布団を、なんども干していただいたことがある。ともかく大恩のあるかたであることは間違いない。
もし、こんなことにご興味・関心のある、かわったかた?は、佐々木老師、佐々木承周 で検索してほしい。
やつがれ、五日市で雨宿りのおり、ノー学部に〈禅宗における、臨済宗と曹洞宗の違い〉を述べさせられた。かつて「赤いひと囓りリンゴ」の創業者も、佐佐木老師に関心を寄せたときがあり、おなじような質問を浴びせられたことがあった。
「門前の小僧、経を詠む」というが、禅宗臨済の寺では『観音経』ぐらいしか詠まなかった。そんなやつがれに、深遠な禅のこころなどわかるはずもなく、いずれもしどろもどろで答えた。

ところがそれにものたりず、また、つねづねやつがれが口にしていたクソ坊主、モトイ 佐佐木老師のことをふくめて、ノー学部があれこれと検索して、つい先ほど教えられたこと。ともかく佐佐木老師に関して、Websiteがひどいことモトイあつくなっていた。
やつがれはまったく知らなかった。まさか、かの佐佐木老師さまが、こんな話題のひとになっているとは!
英語版 Sasaki Roushi Joshu Sasaki だと、おどろくほどの数にヒットする!

禅寺、なかんずく戒律がきびしかった臨済宗妙心寺派の寺院では、雲水ウンスイはもとより稚児僧チゴ-ソウなぞは、足袋の着用などもってのほか。早朝の寒い北風のなか、サイズの合う作務衣がなく、ましてフリースなどという便利なものはなかった。だから、薄っぺらな「体育用トレパン」(古)を身につけ、シモヤケとアカギレの手で雑巾を固く絞り、駆けるようにすばやく、広い濡れ縁を駆け巡って清拭する修行はつらいおもいでとしてある。
この「修行」のおかげで、やつがれ、もっとも苦手な作業、モトイ修行乃至ナイシは作務サムが「掃除」となってしまったほどのものである。

ところが雨のせいもあったのか、「広徳寺」では、格別には雲水の姿はみかけなかった。それでも住持がなされているのか、ご本堂裏手の濡れ縁は清拭がゆきとどき、指先にはまったく埃がつかなかった。
これだけでやつがれいたく感嘆。西のかなたの観光寺院では、こんな簡単なテストでいつも失望させられているだけに、ただただ単純に、
〔すげえなぁ〕
とおもってしまう。

《大悲願寺でノー学部 異なもの発見!再訪確実となる》

    

いつのまにかやつがれ、撮影担当から追放された? そもそも写真を撮るつもりが動画画像になっていたり、ときおり撮影データをそっくり消去してしまうので、はたの信頼を失った。決定的だったのは、集合写真を撮った際。
「はい、チーズ!」
ト、責任と緊張に打ち震えながらも、自信満萬をよそおいつつ、至極にこやかに撮ったが、不幸なことにみんなの首から上が、フレームからはみでて、ちょん切れていた。別に悪意はない。至極真面目だった。

もとから極めつきの機械オンチであるから、臨場感のあるファインダーを覘くのならともかく、あのいろいろな情報が涌いてくる薄気味わるいガラス板を避け、被写体の皆さんをみつめながら、
「はい、チーズ!」 ── パチリ!
とやっただけ。

以前なら現像しないとわからなかった〔バレなかった〕ことだ。ときどき〔まれにかな?〕素晴らしい写真をとったこともあるほどだ。ところがどんな操作をするのかしらないが、最近のカメラは現像・停止・定着もしないで、直後に撮影結果がみれるようになっている。
そこで〔どうも吾輩の腕前を疑っていたらしい〕みんなが、やつがれからカメラをとりあげて、
「どれ ドレ?」
とのぞき込んだところ、(案の定)みんなの首から上がギロチンでサッパリと、斬首の刑のあとのように無かったという次第。やつがれまったく他意は無いのに、一斉につめたい視線をあび、侮蔑されるにいたった。
たかがスナップ写真の巧拙だけで、人格を云云ウンヌンするほどでもあるまいに……、ト、やつがれ悔しまぎれにおもうのだが、いつのまにか、さして使用していない新品同様のデジタル式ナイコンカメラを、《使う資格無し》としてとりあげられた。そして撮影担当から放逐された。

閑話休題 トコロデ── 撮影係のノー学部。やつがれの指示する撮影箇所を無視して、そこらの野艸ばかりを撮っている。はるか昔は昆虫少年だったから、トンボやチョウにはいささか詳しいが、艸木には疎い。だから「山茶花サザンカ と 枸橘カラタチ と 椿ツバキ」などを取り違えることもある。
そうするとノー学部出身をかさにきて、
「あれは山茶花です。椿じゃありません!」
ト、居丈高になるのは感心しないなぁ。
スミレもタンポポも、花をつければ、なべて、やつがれの大好きな「艸花」だ。

「大悲願寺」は、「広徳寺」とは秋川をはさんで対岸にある。真言宗の古刹である。寺伝によると、源頼朝の命によって1191年に建立されたとされる。
また、江戸時代初期、仙台藩主・伊達政宗(1567-1636)が鮎漁に秋川をおとずれ、庶弟が住持をつとめていたこの寺を訪れ、いっぷくの茶を服したという。その折り、庭に咲いていた白萩があまりに見事だったので、仙台にもどったのちに、この寺の白萩を所望したと伝える。その伊達政宗の書状も寺に保存されている。

その白萩は花のときを終え、こうべを垂れてつめたい雨にぬれていた。だから参拝者も観光客もたれひとり「大悲願寺」にはいなかった。それでもやつがれ、真言の寺は、その荘厳の大仰さと、さまざまないわくありげな象形のゆえに、いささか苦手とする。だから雨足がつよまったのを口実に、早早に「大悲願寺」を退散して雨宿り。

《そこでやつがれ、紫煙をくゆらせ夢想した……。》
五日市から檜原ヒノハラ村にかけては、ふるくは山塞だったとされる場所が多い。ちいさな石積みのうえに、山塁跡とおもえる平坦地があったりする。檜原村のひとなど、いまも「杣人 ソマウド」とよんだほうがよいほど、荒ぶる形相のひともいる。

かつて源頼朝が天下取りのいくさをはじめたとき、その呼びかけに応え、このあたりの屈強な杣うどどもが、一所懸命とばかり、鍬クワと鎌カマをなげだし、鉞マサカリと斧オノをほおり捨て、鎌倉街道をいっさんに頼朝のもとに駈け参じたのではないか……。

杣うどどもは、野馬にあわただしく鞍をのせ、野鍛冶がうった頑丈な大刀を帯び、むき身の大鎗をひっさげて、
「いざ、いざ、いかなむ、鎌倉へ!」
と、頼朝の陣へ、形相もすさましく、押し合いへし合いしながらはせ参じたのではないかと……。
そのために幕府開設前年の1191年、頼朝は屈強な兵士団をもたらすこの山間の地に、「おおきな悲願」をこめて真言の寺を設けたのではないのかと……。

とすると──、映画『五日市物語』のサブタイトル、
「五日市、それは時が止まったような、東京のふしぎなまち」
には、僭越ながら少少異論がある。

ここ五日市の時は決してとまっていない。耳を澄ませばとおいときの聲が、なんのまどいもなく聞こえる──。
いななく野馬の鳴き声。喚オめくがごときもののふの野太い雄叫び。くびきを接し、地響きたててひたはしる駒のひづめの音。そして空中に高鳴る鞭の音……。
大木をうち倒す斧の硬い金属音。白煙をあげる炭焼き小屋からは、薪にするノコギリの規則正しい往復音。野面にわく童ワラベどもの歓声……。

やつがれにとっての五日市とは、そんなふしぎなエートスが、大地の深くにまで刻みこまれた町である。源平の昔からの、心性や感性が刻みこまれた風土があり、それがいまの五日市の景観をなしている。すなわち五日市とは、古い時代の、いきざま、情念のごときエートスをふところふかく秘めた、時代とともにいきる町である。

そしてこの地のエートスは、一朝一夕に浸蝕され、消滅するはずはない。それはいまもこの地の山川に、そこにいきるひとびとのあいだに、脈脈と鼓動し、浸出し、おりにふれて噴出するはずのものである。
その刻みこまれたエートスのほんの少しを、さりげなく掘りおこしているのが、「茶房 むべ」のあるじにして、アルチザン、「高橋敏彦氏」ということになろうか。
五日市は、これからもいきつづける、ふしぎの町、あやかしの町、エートスを実感させる町として存在している。

ところでノー学部。まだ雨の降りしきる「大悲願寺」の庭をウロウロ。煙草をふかし、すっかり夢想にふけっていたやつがれをふいに呼び、庭の片隅にほとんどうち捨てられている、ふるぼけた掲示板をみろという。
驚いた。正直驚いた!──。まさしく新発見だった。
その報告はもうすこし調査を重ねてからにしたい。すなわち、五日市再訪は近いということになった。

◎ 本日11月23日 勤労感謝の日で休業。六白 先勝 みずのえ うま。
   ET展 Embed Technogy がらみで来客多し。 おもしろき話題少なし。

新・文字百景*001 爿・片 許愼『説文解字』

 爿ショウ と 片ヘン,かた
その《字》の形成過程をみる

 

 楷書4画、一部で爿ショウ部  部首偏とする。
『説文解字』が部首としなかったために一部で混乱はみられるが
『康煕字典』『現代漢語詞典』などでは「爿」を部首として扱っている。
シフトJIS: E0AB
嘯奬妝將漿瀟爿牀牆獎簫莊蕭裝墏娤嶈彇
戕槳潚焋蔣螿蠨蹡醬摪斨梉橚熽牄蘠鱂
          総数37 
                               

 楷書3画、常用漢字でもちいる爿の字画の「部首丬しょう偏」

Unicode:U+4E2C
奨将蒋醤状寝壮荘装
             総数9 
                              

楷書4画、片ヘン,カタヘン部
教育漢字6年配当、常用漢字
シフトJIS:95D0
牒牌版淵片嘯瀟牋牘簫肅蕭奫婣彇沜潚牎牏牐牓牕牖
繡蠨鏽驌魸鱐鷫扸棩橚熽牉牊牑牔牗璛蜵蝂裫覑鼘
           総数45 
                           

★   ★   ★ 

《字体と字種には触れないと決めていたが……》
30年ほどまえのはなしだが、辞書の編纂に関わっている人物の知遇を得たことがある。会うたびに、まことに博覧強記、碩学セキガクだなぁと感心する反面、
〔コイツと付きあっていると、こっちまでおかしくなるぞ……〕
とおもって、敬して遠ざかった。
           

20年ほどまえのはなしだが、ある編集者が、いわゆる「83JIS字体」の施行によって、混乱がみられた「漢字の字体と字種」にいたく立腹され、それに関する執筆を依頼された。たまたま別の版元の雑誌に連載記事を書いていたので、そのなかで、さる編集者への回答を兼ねて、「字体と字種には、小生は触れたくない」としるしたことがあった。          

その理由は、「文と字」は、所詮ひとがつくったもの。したがって、ひとによって異なり、時代・地域によって異なり、筆記具によって異なるのはあたりまえだとおもっていたから。
すなわち「文と字」は、いま現在において「混乱・混迷」したのではなく、その成立以来、創造と消滅、誕生と寂滅、混乱と混迷を極めながら変化してきた。それがまた至極あたりまえだとおもっているからであった。
         

もちろん「文と字」の公共性を考えれば、教育と公文書などには一定の統一は必要だとおもう。
しかし、わが国のこれまでのように、明確な方向性、指針、根拠を示すことなく、かの地ではさして評価されない『康煕字典』を典拠としたり、唐突にただ既成の活字書体を例示書体として提示して、「これにしたがえ」では混乱を助長するだけである。
   

そもそも康煕55年(1716)、清朝の大学士張玉書、陳廷敬らが康煕帝の勅命により撰した字書が『康煕字典』である。たしかに『康煕字典』は部首別、画引きで編纂されているので、わが国の関係者にとって利便性にすぐれているのかもしれない。しかし『康煕字典』はすでに290年余の以前の木版刊本であり、それだけに字様(刊本上の字)には混乱もすくなくない。   

また、張玉書らは『字彙』『正字通』にもとづき、それを増補したとその巻頭に述べている。やはり公共の「文と字」を論じるのなら、その原点となった『字彙』『正字通』も参照するべきであり、『康煕字典』を金科玉条として、安易に〈康煕字典体〉?などと唱導することなく、やはり最低でも以下の資料ぐらいは(せめて役所だけでも)揃えてから論じていただきたいものである。 
このおもいはいまもかわらない。

 『中文大辭典』      中国文化研究所        49,905字収容
 『國民學校常用字』   國立編譯館(台湾)        3,861字収容
 『教育部常用漢字表』  教育部(台湾)           3,451字収容
 『甲骨文集釋』       中央研究院             1,607字収容
 『金文正續編』      聯貫出版社           1,382字収容
 『辭 源』          商務印書館          11,033字収容 
 『辭 海』         中華書局            11,769字収容
 『辭 彙』         文化図書公司          9,766字収容 
 『國語辭典』       商務印書館            9,286字収容
 

 だから「文と字」はおもしろくもあるのだが、「文と字」を綯ナい交ぜにして「文字」と呼んでいるこの国にあっては、さきの辞書の編纂者のように、ある種の偏執狂モノマニアのような執着心がなければ、書いてはいけないテーマだとおもっていた。生来杜撰なわが身を省みても、精緻な論考がもとめられる漢字字体に論及することはつつしみたかった。つまり なまかじり はしたくなかった。        

 いま、その禁をみずから破ろうとしている。しかも、いかに慎重を期しても、いわゆるウケのない分野であることは承知しながらである。そして反論・異論だけでなく、どういうわけか明治期以来、「字学」についてかたり、著述をのこしたひとにたいしては、その発言者の品位・品格を疑わざるをえないうような、流言飛語や誹謗中傷までが頻出する分野である。その地雷原のような危険な分野に、徒手空拳、なまかじりのままで歩みだそうとしている……。           

やつがれ、いつも出所はまったく同じ、こうしたたぐいの根拠のない流言飛語や誹謗中傷にはすっかり慣れているし、そんな単純な扇動に附和雷同するような、愚昧のやからを相手にしたくないから、いまさら頓着しない。
まして、いまさら功名心や使命感でもない、まして衒学趣味もない。春の野辺のツクシのように、ポコポコと、自由気ままに、
「こんなにおもしろい、文と字のことども」
をしるしたかっただけのことである。
        
 

ただただ、一部の同学のともがらとともに、「文と字の大海」を揺蕩タユタフがごとく彷徨し、あちこち揺れ漂う旅に出てみたかった。
したがって、読者諸賢からの反論・異論・誤謬のご指摘は大歓迎である。
いずれにしても、本欄《新・文字百景》は近い将来、別のコーナーに移転の予定である。それまでポチポチといきますか。
 
──── 以上、冒頭駄言。 
                     

 《『説文解字』で部首とされなかった爿ショウ、そもそも『説文解字』とは》
「字 ≒ 文字」のなりたちを説いていて、現代中国でももっとも基本的な書物とされるのが許愼『説文解字』である。
これまで「許愼」あるいは『説文解字』という図書の名はしられても、その人物像をおもいうかべることはできなかった。
そこで冒頭に、新設なった「中国河南省安陽市・中国文字博物館」に展示されていた「許愼胸像」を紹介した。           

また下記に『文白対照 説文解字』(李翰文訳注、北京九州出版社、2006 年 3 月)の口絵に「許愼肖像画」が掲載されていたので、それもあわせて紹介した。もちろん写真術などは影も形もない1900 年ほど前のひとであるから、どこまで許愼のふんいきや風貌を伝えているのかはわからない。                              

           

許愼キョ-シンは後漢(東漢とも 25-220年)の学者で、あざな(字、男子が成年後に実名のほかに名乗った別名)は叔重シュク-ジュウ。中国河南省汝南ジョナン県召陵ショウリョウのひと。
その撰による『説文解字』15巻は、中国文字学の基本とされる。        

許愼の人物紹介は、わずかに『後漢書』列伝に簡潔にしるされただけである。
したがってその生没年には諸説あって、西暦30-124年『広辞苑』、?-c.121年『新漢和辞典』、c.50-121年『標準世界史年表』、c.58-c.147年[李翰文]と、かなりの振幅がみられる。
許愼がいきた後漢の時代とは、わが国はまだ弥生時代中期とされる未明のときであった。『標準世界史年表』(亀井高孝ほか、吉川弘文館)では、『説文解字』がなったのは推定西暦100年ころとしている。        

『文白対照 説文解字』(李翰文訳注、北京九州出版社、2006 年 3 月)によると、『説文解字』には正文9,353字、重文(合分、Compound sentence)1,163字、合計10,516字が掲載され、その全書の総字数は133,441字におよぶとされている。
また『説文解字』には540の部首が設けられ、その部首ごとに編纂をすすめるという方法がとられた。                

                         

許愼がしるした『説文解字』は、見出し字(親字)に篆文(小篆)をもちい、本文は隷書であったとされる。
後漢の時代には、まだ楷書(当初は今隷、のち正書・正体とも)が登場していないので、隷書で本文をしるしたことは当然とおもえるが、現存する最古の『説文解字』は、500年余ののち、唐代(618―907)写本のわずかな残巻でしかなく、本文はすでに唐代に登場した楷書でしるされている。つまり許愼『説文解字』の正確な形姿は想像するしかない。           

まだ複製術 ≒ 印刷術が創始されるはるか以前、いまから1900年余以前の、後漢のひと許愼は、当然のことながら『説文解字』を「手書きの書物 稿本」として、15巻におよぶ大著をのこしたとみてよいだろう。
その後書写本がいくつか製作されたとみられるが、写し間違いや、訛伝、ときには潤色もみられたことは当然予測可能である。        

そして許愼の時代から千年ほどのちの10-11世紀ころ、北宋の時代に木版印刷術などの諸技術が飛躍的な発展をみて、『説文解字』はいわゆる北宋刊本(板目木版印刷術による複製本)として相当量の刊行をみたとみられる。
しかし北宋刊本は、その後女真族による金国の誕生・支配にともなう混乱や、蒙古族の元王朝の誕生など、異民族支配があいつぎ、その戦乱と混迷のなかにそのほとんどが忘失した。                    

           

現代によく伝承されている許愼『説文解字』は、わずかに200年ほど前の刊本で、清朝嘉慶14年(1809)孫 星衍ソン-セイエンが、宋朝時代の刊本を覆刻(かぶせ彫り)した『仿北宋小字本 説文解字』(仿は倣と同音・同義)と呼ばれるものである。
しかしこの『仿北宋小字本 説文解字』ですら、容易には入手・閲覧できないために、清朝同治12年(1873)陳昌治チン-ショウジによる新刻刊本『説文解字』がもちいられることも多い。                

しかしながら木版刊本によった前掲 2 書でも、到底厖大な知識層の需要をまかなうことはできなかった。また近代中国では解釈できない文や、注釈が必要な部分が多かったため、しかるべき識者・碩学が「訳文」と「注釈」を原本(木版刊本)に朱筆でしるしたものを「批注本」と呼んで珍重した。
それらの「批注本 説文解字」を、清朝末期に導入された大量複製術の石版印刷によって、スミと朱色による套印(トウイン、多色刷り。現代のオフセット平版印刷多色刷りに相当)をもちいて書物にすることがみられた。           

筆者が所有する『説文解字』は、『説文真本』(和刻本 1826)などの和本が数種類あるが、まったく物足りなかった。このごろもっぱら愛用しているのは、「批注本 説文解字」の一種で、『黄侃コウカン手批 説文解字』(黄侃コウカン批校、中華書局出版、2006 年 5 月)と、現代中国の簡化字活字による『文白対照  説文解字』(李翰文訳注、北京・九州出版社、2006 年 3 月)である。                      

もちろん手元の「漢和辞典」のたぐいも総動員しているが、それぞれ一長一短あって、コレとは決めかねている。それでも長年にわたって『新漢和辞典』(諸橋轍次・渡辺末吾・鎌田正・米山寅太郎、大修館、昭和 59 年 3 月 1 日)を愛用している。これは諸橋轍次一門が、いわゆる諸橋『大漢和』の要約版として編んだもので、机上において邪魔にならない。       

それより、もっとも愛用している「漢和辞典」は、電子辞書版『漢字源』(原本:『漢字源』藤堂明保・松本昭・竹田晃・加納喜光、学研)である。それとパソコンに組み込んだ「ATOK文字パレット」も、電子メディア表示字種の確認のために捨てがたい。 要するにたいした資料は無いということである。                          

《順序が逆向き?! だが、まず 片 からみる》
【片】は教育漢字で、小学校6年(配当)で学ぶ。常用漢字でもある。
つまり、あたりまえの漢字であるが、おおきな矛盾もはらんでいる。
総画数は楷書 4 画で、漢字部首「片 ヘン, カタヘン部」をなす。
漢字音は「ヘン piàn, piān」、常読は「ヘン/かた」、意読は「きれ/ひら/かけ/かた/ペンス penceの音訳」など。
わが国での名づけは「かた」である。
したがって筆者の姓は「片塩」であるから、「かたしお」とよんでいただくことになる。                 

むかしのこと。某 FUJI 銀行の窓口で、
「ヘンエンさ~ん」
と呼ばれて、最初は〔誰のことじゃい〕とおもって聞き流し、そこらにあった週刊誌をながめていた。再度、
「ヘンエンさん、ヘンエンさ~ん、いらっしゃいませんか~」
と大声をだされて、
「あぁ、オレを呼んでいるのか」
とわかるまでに少し時間が必要だった。       

たしかに漢字のよみがわからないときは、奈良朝のいにしえより、漢字音(漢音読みとも)でよむならわし ── はじめは太政官符だったらしいが ── がある。それでもわが国の「片の名づけは 古来 かた」であるので、片桐・片岡・片倉・片山さんなどとともに、たとえ少少変かもしれないが、お願いだから、「片塩 ヘンエン」とはよまないでいただきたいのだ。                         

図版『黄侃コウカン手批 説文解字』にみる「凡片之属皆从片」は、「およそ片に属する字は、みな片にしたがう」という意であり、「片」は漢字部首「片 ヘン piàn, piān」として成立している。           

〔新漢和辞典 解字〕によれば以下のようになる。
指事。木の字をふたつに割って爿と片にした右の半分を示し、かたいっぽうの意を表す。        
その楷書字画 4 画には、諸説、諸例があって混乱がみられるが、ここではひとまず触れないでおく。        

「片」の字画をその部首あるいはその字画の一部に有する字のうち、ふつうのパソコンに登載され、表示できる字には、
「牒・牌・版・淵・片・嘯・瀟・牋・牘・簫・肅・蕭・奫・婣・彇・沜・潚・牎・牏・牐・牓・牕・牖・繡・蠨・鏽・驌・魸・鱐・鷫・扸・棩・橚・熽・牉・牊・牑・牔・牗・璛・蜵・蝂・裫・覑・鼘」
などがあり、その総数は 45 字におよぶ。                          

《爿に触れる前に、かなりやっかいな字 从 をみる》
図版『黄侃コウカン手批 説文解字』にみる「从」は、『説文解字』に掲載された字であるから、おそくとも後漢の時代からつかわれていた字である。
「从」は楷書 4 画で、漢字部首「人部」にある。
この字は《从 → 從 → 従》と変化したが、現在の中国常用国字(簡体・簡化字)は、「從 でも 従 でもなくて 从」である。
しかもほかの字の字画の一部になるときにも、この「从」が応用されるので、けっこう厄介な字である。           

すなわち、《従、從、从》は同音同義の字である。
常読では「ジュウ/ジュ/ジョウ/したが……う/したが……える」であるが、和訓音として「したがって、それだから」がある。
漢字音は時代差と地域差がおおきく、「ショウ/ジュ/ショウ cóng/ジュウ/ショウ zóng/シュ/シュ cōng」などとさまざまに音される。         

現代のわが国では「从」を異体字としてひどく冷遇? している。
すなわち《従、從、从》を以下のように扱っている。〔電子辞書版 漢字源〕
【従】  教育漢字6年配当。常用漢字。
          楷書画数10画、部首彳部、シフトJIS:8F5D
【從】   旧 字、楷書画数11画、部首彳部、シフトJIS:9C6E
【从】  異体字、楷書画数04画、部首人部、シフトJIS:98B8

〔新漢和辞典 解字〕によれば以下のようになる。
会意兼形声。从ジュウは前のひとのあとに、うしろのひとがつきしたがうさま。從は「止アシ+彳イク+音符从」で、つきしたがうこと。A のあとに B がしたがえば、長い縦列となるので、長く縦に伸びる意となった。従は当用[常用]漢字字体。                

 《さて、問題の爿ショウである……》
「爿」の字画をその一部に有する字のうち、ふつうのパソコンに登載され、表示できる字は、
「嘯・奬・妝・將・漿・瀟・爿・牀・牆・獎・簫・莊・蕭・裝・墏・娤・嶈・彇・戕・槳・潚・焋・蔣・螿・蠨・蹡・醬・摪・斨・梉・橚・熽・牄・蘠・鱂」
などがあり、その総数は 37 字におよぶ。さきに紹介した「片」の総数 45 字にくらべてもさして遜色ない。           

しかも、爿と片は元がおなじ「木」をまっふたつに割った字とされるから、元の「木」にもどろうとしているのか、字画が混み合うのをいとわずに、
「嘯・瀟・簫・蕭彇・潚・蠨」
「淵・嘯・瀟・簫・肅・蕭・奫・婣・彇・潚・繡・蠨・鏽・驌・鱐」
のように、「片と爿」が向きあった字画もすくなくない。                      

そしてわが国の字書の一部には(楷書・総画数)4 画とされることがあるが、よくみると「片・爿」では楷書としての運筆上に矛盾を生ずることもままみられる。つまりなにかと書きづらい字でもある。
すなわち現代中国でも台湾でも「正体としての 片」は 4 画として国家が定めている。しかしこれはあくまでも楷書字画のことであり、その余の書体 ── 行書や草書などの字画におよぶものではない。        

すなわち、中国ではふるくから「正体・俗体・通体」があった。公文書や教育用には正体がもちいられるが、生活人は「俗体・通体(通行体)」をあたりまえのごとくもちいている。ついでながら、ふつう中国で「異体字」とは、異民族が漢土にのこしていった字のことを指すことが多い。         

したがって筆者(片塩)は、「片」の下の横線を上の直線と同様に長く書き、最終画の 5 画目を縦の直線として、ながらく楷書 5 画で「書いてきたし、書き続けている」。つまり俗体であり通体でしるしている。
しかも筆者のオヤジなどは、2 画目は釘の頭のような短い縦棒ではなく、ドンと点をうち、5 画目の最終画をグイと右に曲げてから撥ねていた。こうすると木の切れっ端という印象はうすれて、安定感がいや増し、結構勇壮な「片」であったのだ?!
このことがらは、項をあらためて触れたい。                  

 しかもこの「肅・淵」のような字画を有する字のばあい、ときとして「肅 → 粛」、「淵 → 渕・渊」などとあらわされることもある。
これらの例は同音・同義であるが〔電子辞書版 漢字源〕では、
【粛】       常用漢字・楷書11画・聿フデ-ヅクリ部
【肅】       旧字・楷書字画13画・聿フデ-ヅクリ部
が通用している。                       

ところが、似たような字画を有する「淵」になると、ふしぎなことに以下のようになる。
【淵】     楷書11画・水部
【渕】   楷書11画・水部・異体字(A)
【渊】      楷書11画・水部・異体字(B)
                           

これらの通用字をよくみると、「肅」の字の一部の字画が「米」に置きかえられ、「粛」が常用漢字となり、「肅」は旧字とされて「格下げ」されている。しかし「肅」で「米」の字画に置きかえられた「淵」の字画は、常用漢字への採用がなかったために、いまもって「淵」が常用字であり、「渊」は異体字 B として「ひどく格下げ」されるという、ある種の矛盾が発生している。           

これらの当用漢字や常用漢字に採用された字画を、ほかの字の偏や旁やその一部になるときにも採用して、「字体」の乱れ(混乱)を調整しようという動向がかつてあった。
たとえば「肅が常用漢字となって→粛」となるならば、同種の字画を有する「淵を → 渊」とするようなことであった。それは「拡張新字体」として一部の活字業者にも採用されたが、現在ではあまり注目されないようだ。                      

さらに先に紹介した『説文解字』の説明とは、爿と片の左右の位置関係が逆におかれている。
許愼『説文解字』(第七上)によれば「判木也。从半木。凡片之属皆从片」とある。
すなわち、「片」は、指事であり、「木」をまっふたつにしたうちの右の半分である。つまり楷書や行書ではなく、冒頭に掲げた図版のように、甲骨文や小篆にみるような「木」の字をふたつに割って、左半分を「爿ショウ」とし、右半分を「片ヘン」にしたもので、ともにかた一方の意をあらわすとされてきた。
したがって「爿」は左に、「片」は右にありそうだが、実際の字画はその逆になっている。
「爿」「片」は、どうやらやっかいな字であることをおわかりいただけたであろうか?                            

《常用漢字爿部首? 丬の字を検証する》
さらに、まことにやっかいなはなしだが、わが国では「爿」の字画を「部首」に有する字が、常用漢字になると、「丬」の字画となって、にわかに「新部首 丬」になったりする。
しかしここに電子辞書版『漢字源』(学研)から検証したように、「丬」をもちいても、すべての字が「爿」の字画を「旧字」「異体字」などとして、いまだに温存しているのはなぜだろう。ふしぎな字画(部首?)が「爿」である。
                      

【奨】   常用漢字・楷書13画・大部
【奬】
   旧   字・楷書14画・大部
【獎】   異 体  字・楷書15画・犬部
【将】   常用漢字・教育漢字6年配当・楷書10画・寸部
【將】   旧   字・楷書11画・寸部
醤】          楷書17画・酉サケノトリ,ヒヨミノトリ部
【醬】   異 体  字・楷書18画・酉サケノトリ,ヒヨミノトリ部・Unicode:U91AC
【状】   常用漢字・教育漢字5年配当・楷書7画・犬部
【狀】   異 体  字・楷書画数8画・Unicode:U+72C0
【寝】   常用漢字・楷書13画・宀部
【寢】   旧   字・楷書13画・宀部
【壮】   常用漢字・楷書6画・士部
【壯】   旧   字・楷書7画・士部
【荘】   常用漢字・楷書9画・艸部
【莊】   旧   字・楷書10画・艸部
【装】   常用漢字・教育漢字・楷書12画・衣部
【裝】   旧   字・楷書13画・衣部
                          

《部首になりきれなかった爿・丬》
前掲資料のように、電子辞書版『漢字源』(藤堂明保ほか、学研)は、「爿」を部首としてはまったく扱っていない。
あるいは中国伝統の部首配列にもとづくとされる ── 俗に康煕字典配列とされる ── 活字版印刷の活字ケース(スダレとも)での配列は、「将・將」→ 寸の部(業界用語でチョット寸 → 3 画)に配される。同様に「状・狀」→犬の部(業界用語でケモノ → 4 画)、「壮・壯」 → 士(業界用語サムライ → 3 画)の部である。
        

すなわち『康煕字典』には「爿」の部首があることはすでに紹介した。したがって、「将・將」→ 寸の部、「状・狀」→ 犬の部、「壮・壯」→ 士の部の例だけをみても、── わが国の活字ケースは康煕字典配列にもとづく ── とされる「俗説・通説」には疑問が発生することになる。
ましてこのごろでは、わが国の漢字字体の典拠として「康煕字典体」などということばも散見する。まことにもってふしぎなはなしだとおもうが、いかがなものか。
       

 ところで、このくらいで驚いてはいけない。わが国の活字版印刷の分野では、いまもって、「しんにゅう 辶は 7 画」である。すなわちここでは許愼のむかしとかわりなく、「しんにゅうは、そのふるい字画  辵 」であり、7 画であるとしているのである。              

これをして、時代錯誤としようが、固陋頑迷としようが勝手だが、字 ≒ 文字は、ほぼ漢王朝のころに完成をみたために「漢字」とされた。それを明確かつ体系化した字書が『説文解字』であった。
そして「漢土→中国本土、漢文→中国の文書、漢方→中国の薬・医学、漢族→中国の主要民族」として、いまもって「漢」の字は、民族意識をもってもちいられている。
       

いま、我我は隋・唐のむかしと同様に、ふたたび隣国中国との接触をつよめている。つまるところ、そこでは、その中国の国字たる「字 漢字」をどのように理解し、わが国で馴致した「日本式漢字」をどのように理解し、双方で誤解なくもちいればよいかの判断がもとめられはじめただけのことであろう。  なにもめくじらをたてるほどのことではない。たいしたことではないのである。                   

 そこで「爿」を部首としている簡便な「漢和辞書」2 冊をみてみたい。
『新漢和辞典』(諸橋轍次・渡辺末吾・鎌田正・米山寅太郎、大修館、昭和 59 年 3 月 1 日)p.564 には、【爿(丬)部】がある。
すなわち 4 画の部首として扱われている。
ここには 6 字が紹介されている。簡略に紹介する。
                           

    【爿(丬)部】 しょうへん(丬は3画)
【爿】 ショウ(シャウ)、ゾウ(ザウ)qiáng
      ①きぎれ。木をふたつに割った左半分。
〔解字〕 指事。木の字をふたつに割って爿と片とした左半分を示す。当用(常用)漢字では丬の形に書く。

【壮】 → 士部 3 画。
【牀】 ソウ(サウ)・ジョウ(ジャウ)慣用:ショウ(シャウ) chuáng
①寝台
【牂】 ショウ(シャウ)・ソウ(サウ) zāng
①めひつじ
【将】 ショウ→ 寸部7画。
【牆】 ショウ(シャウ)・ゾウ(ザウ)
①かき。かきね。
                           

拍子抜けするほどあっけないものである。しかも当用(常用)漢字となった【壮】は、「新部首?丬」が置かれないために、士部 3 画をみよ、であり、【将】も寸部7画をみよ、となっている。
すなわち諸橋轍次とその一門は、「爿」は部首としているが、常用漢字に採用された「丬」は部首としては扱っていないことが判明する。
                             

もうひとつ「爿」を部首とした『新明解漢和辞典 第二版』(長澤規矩也、三省堂、1982 年 11 月1日)をより簡略にみてみよう。
ここでは常用漢字となった「将・壮・装」などは、そのふるい字体「將・壯・裝」も紹介しないほどの割り切りかたである。
もちろんそれぞれの書物には編集意図があり、それに異をとなえるものではないが、かなり大胆な割り切りかたである。
  

    【爿 部】 新字体は丬
【爿】 漢音:ショウ(シャウ)、呉音:ゾウ(ザウ)
①木を両分した左の半分。→片(右の半分)
〔字源〕 象形。木の左半分の形にかたどる。
【妝】・【牀】・【戕】・【斨】・【牁】・【牂】・【娤】・【漿】・【奬】・【牆】・【螿】・【醬】             

   

ただし、ここできわめて興味深いのは、諸橋轍次ほか『新漢和辞典』がその〔解字〕において、
「爿」を「漢字六書の指事」とし、
長澤規矩也『新明解漢和辞典 第二版』はその〔字源〕において、
「爿」を「漢字六書の象形」としていることである。
この「漢字六書の法」も許愼が定めたものであるが、こうした基本的な事柄におけるふたりの碩学の相違にかんして述べるには、いまは筆者の学問がたりない。しかしこれを看過していては、「字学」の歩みを止めてしまうことになろう。非才の身ながら精進したいものである。
                         

  

 
 
 

 

《常用漢字  将(旧字 將)と、状(旧字 狀)を『説文解字』にみる》
将(旧字 將)
『説文解字』第三下 寸部  5 行目 寺 の下にある。
師也。从寸、醬省聲。即諒切。(jiàng)
〔電子辞書 漢字源 解字〕
会意兼形声。爿ショウは長い台をたてに描いた字で、長い意を含む。將は「肉+寸(て)+音符爿」。

状(旧字 狀)
『説文解字』第十二下 犬部 上部にある。
犬形也。从犬、爿聲。盈亮切。(zhuàng)
〔電子辞書 漢字源 解字〕
会意兼形声。爿ショウは細長い寝台の形をたてに描いた象形文字。
狀は「犬+音符爿」で、細長い犬の姿。細長いの意を含むが、ひろく事物のすがたの意に拡大した。
                                 

《結論は急がないで欲しい。いっしょに漢和辞典でも引きましょうや》  
ここまでみてくると、許愼はどうやら「爿」を字音をあらわすための「音符」としてみていたのではないかとおもわれる。だから部首にはしなかったのかと……。
すなわちこの「爿・片」だけを取りあげても、もっと学問が必要ですな。
そんなわけで、ぜいぜいヒイヒイいいながら『説文解字』をひき、漢和辞典と照らしあわせているいまなのである。
───〔この項つづく〕