カテゴリー別アーカイブ: 新・文字百景

【字学】 忌み数としての 13 の位置づけ そしてわが国最大の忌み数 四 は ── 嗤ってすませたい迷信 ?

《 旅のつれづれに 忌数 イミカズをみていた 》
「衣食住に関心が無い」と日頃から嘯いているやつがれ、どうやら観光にも向いていないようで、帰国後は「観光写真」の整理どころではなく、たまった業務の消化に当分のあいだおわれることになる。
むしろ旅とは、その地のひとと暮らしをみたり、その地の艸木をみているだけで、うれしい時間であり、収穫の多い体験の蓄積となる。
DSCN3943[1]13resized
昨年六月、北京空港のメーンサインボードにみるローマ大文字の選択を、活字書体の判断における三原則 ── レジビリティ、リーダビリティ、インデユーシビティ : legibility, readability and inducibility という視点から紹介した。
このシリーズは五回連載のつもりでプロットをたてていたが、小社周辺にはおもいのほか「サインデザイン」を主要業務にされているかたがおおく、問題提起はしたものの、むすびないし結論の提示はしていない。
すなわちここでは、ローマ大文字の判別性 Legibility を中心にかたったが、数字(アラビア数字)には触れなかった。意外に知られていないが、数字にももちろん判別性 Legibility の視点から、サインなどでは除外されているものがある。

おりしも東京オリンピックをひかえて大型施設の建設がさかんである。そこではサインシステムに関する熾烈なコンペもひかえており、来社されて相談されたかたには相当レベルまで対応策を提示したが、【北京空港のサインからⅣ】、【北京空港のサインからⅤ】は、当分非公開とさせていただいた。

ということで、今回は旅のつれづれに【忌数 いみかず ── 忌むべき数。「四」(死)、「九(苦)」など】『広辞苑』を見てみよう。
北京01 北京02 北京03◯ 花筏 【北京空港のサインからⅠ】 チェックインカウンター表示 A,B,C,D,E,F,H,J,K,L あれっ! G, I はどこに ?
◯ 花筏 【北京空港のサインからⅡ】 字間調整と、漢字・ローマ大文字の判別性 Legibility, 誘目性 Inducibility をかんがえる
◯ 花筏 【北京空港のサインからⅢ】 巨大競技場施設のゲート表示からはずされている、いくつかのローマ大文字の例をみる

《 ロシアの航空会社 : アエロフロート利用で チェコの首都 プラハへの旅 》
アエロフロート機内座席配置 アエロバスA330アエロフロート 機内座席配置 同社URLより ここには4番の列、13番の列もあった。

DSCN6632 DSCN6639《 トラベル Travel と トラブル Trouble は近接語ないしは類似語かもしれない 》
日常生活とはなれて旅にでると、さまざまなトラブルに遭遇する。そのときは狼狽したり腹がたつこともあるが、ときの経過とともに浄化され、いずれも懐かしいおもいでになるのも旅のおもしろさのひとつかも知れない。

島国日本を脱出して外国への旅となると、よほど時間と資金のゆとりがない限り航空機の利用になる。それもアジアの近隣国ならともかく、欧州やアメリカ大陸への旅となると、どうしても10時間を優にこえる長距離・長時間の旅となるし、直行便でなくトランジットが加わると、もっと時間とストレスが増す。
パスポート、携行品、そして最近はベルトまで外しての身躰チェックなど、さまざまな手続きと検査を終え、ようやく機内のひととなる。

ドアがバタンと閉まると一気に圧迫感が増す。やがて滑走路に向けて地上走行がはじまり、緊急時における対処法について、国際規定にのっとった対処法が乗務員によってなされる。最近はヴィデオ上映の会社もあるが、安全ベルト、酸素マスク、救命胴衣などの器具の装着を実物もちいて説明がなされる。それを見るともなく、聞くともなくしているうちに、次第に離陸に向けた緊張感が機内をおおう。

DSCN5322 DSCN5317 DSCN5331 DSCN6583一昨年、チェコのプラハに行ったときのこと。このときの航空会社はロシアのアエロフロート、機体はエアバスの大型機で、モスクワで中型機に乗り換えてプラハまで往復した。
エアロフロートの機内食はまずいという評判が一部にあるが、成田 → モスクワ間は、成田で積み込んだ日本製の食事となるからまったく気にならなかった。むしろ量が多くて持てあますほどだった。
モスクワで乗り換えて、中型機でプラハへの4時間ほどの飛行中にも食事がでたし、帰途にもでたが、いずれも旨かった。ロシアの堅いパンは、フランスパンと同様に、そういうものだとおもえば旨い。

DSCN5325 DSCN6585ブロガーの投稿に「モスクワ空港にはおおきな喫煙室がある」とあちこちに書かれていた。
トランジットで二時間ほどの時間があったので期待して駆けつけたら、空気清浄機はあれど頑丈な鍵がおろされて閉鎖されていた。どうやら最近突然閉鎖されたらしい。その分男性用トイレはひどいことになっていたが。

JAL や ANA(エイ・エヌ・エーと読んだほうが外国のタクシードライバーにはよく伝わる) といった、わが国の航空会社以外の航空機での旅の楽しみのひとつに、その国の独自言語と独自文字表記による『機内誌』と、無償で配布される新聞の閲覧がある。
そしてやつがれ、かつてニューヨークやサンフランシスコのホテルで「13階が無い」ないしはエレベーターが停止しないホテルに宿泊したことがあり、「忌数-いみかず」をそれとなく気にしてみている。

アエロフロートの機内誌には日本語版もあったが、基本的にロシア文字である。
いわゆるロシア文字とはキリル文字の一派とされ9世紀、ギリシャ人の宣教師キュリロス(Kyrillos。ロシア名キリル)が、ギリシャ文字をもとに福音書などの翻訳のために考案したグラゴール文字をもとにして、10世紀はじめにブルガリアで作成した文字とされる。現在のロシア文字はこれを多少改修したものである。

当然ながらキリル文字を使用する国〻は、ローマンカソリックや、プロテスタントの国〻とは、様〻な面で異なる生活様式や思考・行動がある。この言語と文字表記を背景とした「正教 オーソドックス」は、チェコでもギリシャでもおおいにやつがれの思考を悩ませた。
以下に<正教 Orthodoxy>を『世界文学大事典』(集英社)より紹介する。

【 正教 [英]Orthodoxy,[ロシア]Православие 】
ローマ帝国の東方でギリシャ文化を背景に展開したキリスト教。東方正教、ギリシャ正教という呼称でも知られる。のちに西方のカトリック教会とは袂を分かった。
使徒伝承を忠実に保持していると自認し、原語的には〈オルトス=正しい〉〈ドクサ=神の賛美、教え〉に由来する(ロシア語もそれを表現している)。
ロシアには10世紀ごろから入り、大公ウラジーミル(?-1015)が国教として正式に受容した(988〔989〕)。ロシアはビザンティン帝国の滅亡後、正教世界の中心となった。正教はロシア文化の背景の一つを成す。

《 陽気なロシア人 飛行機の離着陸のたびに ハラショー の大歓声と拍手 》
これも団塊オヤジのブログからの知識だったが、アエロフロートのパイロットは、空軍出身者が多く、飛行経験時間もながいので安全性がたかいとする。それでも乗客は離着陸のたびに「ハラショー khorosho 」と一斉に歓声をあげ、機内は拍手につつまれる、とあった。
ところが国際線だからという遠慮があったのか、成田 → モスクワ、モスクワ → 成田への離着陸の際には歓声も拍手もあがらず静かだった。すこしがっかりした。

それがいちおう国際線ではあったが、乗り換えてヨーロッパ域内線というのか、モスクワ ⇄ プラハへの便ではまるでちがった。
離陸の際はまばらだったが、着陸(に成功)すると、機内から一斉に「ハラショー khorosho 」の大歓声とおおきな拍手がわきあがった。
ハラショーは辞書的には「感動の意を表す語。すばらしい。よい。結構」の意のロシア語であるが、どちらかというと「ヨッシャ~、ヤッタァ~、バンザ~イ」というノリにちかく聞こえ、航空機独特の緊張感は機内から一斉に消える。


アエロフロート機内座席配置 アエロバスA330したがってしばらくの地上走行のあいだ、機内はまことに和気藹藹、大声でのロシア語が飛びかって、和やかかつにぎやかになる。やつがれはエコノミー席の11番の列で、うしろには12, 13番の列もふつうにあった。
乗降デッキが横づけされて重いドアが開くと、談笑を交わしながらのゆっくりとした歩行になったため、たまたまやつがれビジネスクラスの箇所で歩行が停滞した。
その席の列はわが国の一部では忌避される四番であった。

《 Quatar カタール航空で、成田発 ドーハ経由 ギリシャへの旅 》
ことしの五月、この連休となる時期には例年サラマ・プレス倶楽部のイベントが開催されてきたが、ことしはそれが11月に変更されたので、普段の「弾丸旅行 ── 現地泊二泊・機内泊 往復二泊」にかえて、めずらしくゆっくりと旅をした。
目的地はギリシャ、首都アテネとカルデラ環礁のサントリーニ島の二ヵ所。

航空会社は JAL との共同運行によるカタール航空。ギッシリ満員の乗客だったが、日本人客室乗務員もいて、11時間50分の長時間フライトでドーハの巨大ハブ空港、ハマド国際空港カタールに到着した。
出発は日本時間で夜の22時20分だったので、成田空港での待機中にあらかたお腹はいっぱいになっていたが、水平飛行になってまもなく夕食が配られた。
興味ぶかかったのはトレーの敷紙に「ハラール食品」とおおきく表示され、ハラール認証機関名がアラビア文字で表示されていたこと。帰路もおなじ経路だったが、いくぶんスパイシーな味つけだっただけで、「ハラール食品」はやつがれは格段の抵抗はなかった。

【 ハラール [アラビア語] 】
「イスラム法(シャリーア)で認められたこと(もの)」を意味するアラビア語。
おもにイスラム法上で許される食べ物をさす。逆に「許されないもの」として禁止されていること(もの)をハラーム、中間にあたる「疑わしいもの」は、シュブハという。[中略]

イスラム教徒が食べることを許される食品は、規律に沿って屠畜されたウシやヒツジ、ヤギなどの動物、野菜や果物、穀類、海産物、乳製品と卵、水などである。
飲食が禁じられているものは、ナジス(不浄)とされるブタやイヌ、アルコールを含む飲料や食品、牙やかぎ爪で獲物をとるトラ、クマ、タカ、フクロウなどの動物、毒性のある動物や害虫、ノミやシラミ、ナジスを餌とする動物などである。

イスラム圏に輸出される食品や菓子、化学製品などについては、イスラム教徒が摂取できるかどうかの審査(ハラール認証)を行う認証団体が各国にあり、ここで認証されたものは、ハラール食品やハラール製品などとよばれる。
『日本大百科全書』(小学館)

出発前に仕事の片付けにおわれていたので、いくぶん疲労もあって写真を撮らなかったが、ドリンクメニューにもソフトドリンクばかりがならび、少なくともエコノミー席ではアルコール類はなかったようである。
アラビアのイスラム教諸国では「ハラール」の掟は厳格らしい。

カタール航空座席配置カタール航空機内座席配置図 この機種には13番の列はなかった

今回の旅は、相当はやくからスケジュールができていたので、いわゆる「早割」で、料金がやすく、また乗り継ぎ便をふくめて坐席番号もあらかじめ指定されていた。
希望は昇降に便利で、トイレにも行きやすく、機内サービスもゆきとどく、前方の11B・11C(通路側確保)が条件だった。

アエロフロートでの旅と同様機体はすべてエアバスで、ドーハで一度大型機から中型機に乗り換え、五時間ほどのフライトでアテネ新空港に現地時間12時10分についた。
いわゆる南回りでの欧州は久しぶりだったし、カタールという、富裕な産油国であり、イスラム教国の航空会社ははじめてで新鮮だった。

《イスラム教の国も、13を忌避するのか?》
成田からドーハまで11時間50分の長期フライトの間、なんどかトイレにたった。前方の11番から後方のトイレの間に、13番の列が無いことに気づいた。
あれっ、イスラム教徒も13を忌避するのかとふしぎにおもったが、乗り継いだドーハ → アテネの便の機体でも、同様に13の列はなく、11, 12, 14 の順に坐席が配置されていた。
結局往復都合4回、カタール航空の機体を利用したが、13番の列はみなかった。
また、搭乗時にそれとなくみていたが、通常ファーストクラスとビジネスクラスに配される四の列はあたりまえのようにあった。
帰国後カタール航空のURLでしらべたら、機種によっては13番の列もあることを知った。ハラールには厳格であっても、13を忌み数とするふうは少ないようであった。

《旅の最終日、ギリシャ:サントリーニ島からアテネ新空港へ 13忌避の本家本元か》
ギリシャでは、前半をアテネ市内と近郊の観光とし、後半は高速フェリーで八時間ほど、火山噴火の大カルデラ環礁でしられるサントリーニ島でゆっくりした時間をすごした。
最終日、サントリーニ島キララ空港からアテネ新国際空港への45分のフライトとなった。

DSCN2508 DSCN2514 DSCN2512 DSCN2511

ギリシャでは13という数字をきらうふうが随所にみられた。ホテルの部屋番号は11, 12,
14 となるし、劇場などの坐席番号でも13はほとんどみないということであった。
そのためか、サントリーニ島/キララ空港から、アテネ新国際空港までの45分のフライトで利用した「エーゲ航空 Aegean」の坐席番号、荷物入れには急いで撮影したため不鮮明ではあるが13番は無かった。
──────────
《帰国後に【忌み数】で辞書漁りをしてみたところ》
わが国の辞書、辞典類の多くは、積極的にこの語に触れることはなく、どちらかというと、渋〻紹介しているのではないかとおもえるほどであった。
積極的に、豊富な図版資料をもちいて触れていたのは『フリー百科事典ウィキペディア』と、研究社の英語辞典であった。

『日本大百科全書』(小学館)
【忌み数 いみかず】
忌んで使用を避ける数。数について吉凶をいうことはいろいろの事柄について行われている。その多くはことばの音が不吉なことに通じるのを理由にしていわれている。たとえば四は死に通じ、九は苦と同音なので忌まれている。
それについての俗信をあげると、四の日の旅立ちや引っ越しはいけない。四の日に床につくと長患いする。また六についてはろくなことはなし、一〇は溶けるといい、一九は重苦、三三はさんざん、四九は死苦といって忌まれている。いわゆる厄年といわれているものにもこの考えがみられる。19歳、33歳、42歳、49歳などがそれである。

奇数・偶数については、中国では奇数を吉とし、日本では偶数を吉としていたともいわれるが、かならずしもそうとは決まっていない。日本では古来八の数はよいと考えられているが、中国では七を吉としているようである。しかし贈答品については日本でも四、六、八を避け、三、五、七、九をよしとしている。壱岐島では婚姻に四つ違いは死に別れ、七つ違いは泣き別れなどといい、奇数・偶数とは関係ないようである。

13という数を嫌うことは西洋ではキリストの最後の晩餐の陪席者が13人だったことによるという。13は日本でも厄年の一つとされている。
13歳の子女が十三詣(まいり)と称して虚空蔵菩薩に開運出世を祈願する風習が各地にある。また山小屋では13人は悪いとされる。船にも13人乗りを嫌う地方があり、三宅島では藁人形などを一つ加え14にするとよいといっている。

『日本国語大辞典』(小学館)
【いみ‐かず  忌数】
〔名〕忌んで避ける数。四(死)、九(苦)などの類。

『広辞苑』(岩波書店
【忌数 いみかず】
忌むべき数。「四」(死)、「九(苦)」など。

『フリー百科事典 ウィキペディア】
【忌み数】
忌み数(いみかず)とは、不吉であるとして忌避される数である。単なる迷信とされる場合もあるが、社会的に定着すると心理面、文化面で少なくない影響を及ぼす。漢字文化圏では 4 をはじめとして、悪い意味を持つ言葉と同音または類似音の数字が忌み数とされる事が多い。西洋では 13 がよく知られている。〔以下リンク先にて

『フリー百科事典 ウィキペディア』
【13 忌み数】
13 は、西洋において最も忌避される忌み数である。「13恐怖症」を、ギリシャ語からtriskaidekaphobia(tris「3」kai「&」deka「10」phobia「恐怖症」)という。なお、日本においても忌避される忌み数であったとする説がある。〔以下リンク先にて

『医学英和辞典』(研究社)
trìs・kài・dèka・phóbia
n 十三恐怖症《13 の数字を恐れること》.
【Gk treis kai deka three-and-ten 13+-phobia】

『新大英和辞典』(研究社)DSCN3943[1]
13resized

 《経験智と読書智、もっと調査が必要とはいえ、当分は〔精神医学的に〕13忌避はしない》
かつて読売ジャイアンツにクロマティという外野手がいて、ずいぶん話題の多いひとであったが、背番号44番を背負ってジャイアンツファンからは好感を持ってむかえられていた。
やつがれ、もともと鈍感なのか、13番列のエコノミー席に座ったとしてもなんら気にならないとおもうし、四・九もほとんど意識したことがない。
とりあえずは〔精神医学〕用語とは距離をおいて、のんびりしていたいものである。

【資料紹介】 東京大学文書館 重要文化財『文部省往復』 明治期分137簿冊PDF公開開始

東京大学文書館は、東京大学にとって重要な法人文書及び同学の歴史に関する資料等の適正な管理、保存及び利用等を行うことにより、同学の教育研究に寄与することを目的として2014年4月に設置されました。
東京大学文書館は、東京大学百年史編集室および東京大学史史料室で収集した資料及び成果を引き継ぎつつ、新たな役割を担って活動しています。

■ 特定歴史公文書等 文部省往復

『文部省往復』は、東京大学と文部省との間でやりとりされた公文書綴です。
文部省が所蔵した資料は関東大震災などの影響によって失われており、東京大学文書館が所蔵している『文部省往復』は、日本近代高等教育の成立期の稀少な歴史資料です。
これは2013年2月に重要文化財指定を受けており、学術的に重要な資料として評価を得ています。

『文部省往復』は、これまで東京大学文書館の前身である東京大学史史料室で保存・公開されてきましたが、劣化の進行により頻繁な閲覧提供が難しくなっていました。
そのために同館では、旧文部省側には存在しない歴史資料を保存し、広く活用を促進するために、デジタル画像化・メタデータ作成を進めてきました。

20170420174211_00001 20170420174211_00002 20170420174211_00003
先般同館所蔵資料のデジタル画像の公開が開始されました。その第一弾は、『文部省往復』(S0001)です。

『文部省往復』は重要文化財に指定されており、その中の明治期の簿冊〔書類などを綴じて冊子としたもの〕137冊を、科研費プロジェクト「文部省往復を基幹とした近代日本大学史データベース」(代表 : 東京大学大学院 情報学環  教授 吉見俊哉)でデジタル化されました。画像は同館HP上に掲載されている
資料目録 http://www.u-tokyo.ac.jp/history/S0001.html  よりアクセスすることができます。
──────────
{ 新 宿 餘 談 }
先般デジタル公開された『文部省往復』は、『東京大学百年史』(東京大学百年史編集委員会編、全10巻、1984-1987年)をはじめ、『年譜 東京大学1887-1977-1997』(東京大学史史料室編集・構成。創立120周年記念で作成された写真入り年譜、1997年10月)など、多くの記録にもちいられてきた貴重な資料である。
しかも、同館が述べているように<『文部省往復』は、日本近代高等教育の成立期の稀少な歴史資料>にとどまらず、成立期の近代印刷 ≒ タイポグラフィの稀少な歴史資料である。
まずその明治期分137簿冊がデータ化され、公開されたことをおおいに欣快としたい。

東京大学の 沿革 をたどると、明治10年(1868)4月12日、東京大学創設とある。これは同大の主要な前身たる東京開成学校と東京医学校を合併し、旧東京開成学校を改組して、法・理・文の三学部とした。また旧東京医学校を改組し医学部を設置した。また東京大学予備門を付属していた。
さらに上記の施設の淵源をたどると、貞享元年(1684)の徳川幕府の「天文方」をはじめ、昌平坂学問所(昌平黌)、種痘所(西洋医学所)などのさまざまな教育施設が、業容と名称をさまざまにかえながら、漏斗にあつまる液体のように、「第一次東京大学、帝国大学、東京帝国大学、東京大学」へと収斂されてきたことがわかる( 沿革略図 )。
!cid_24E9F9FC-FB87-48D6-B903-1EA9AA128284 !cid_A8095C08-3F5F-40C3-A674-CCDD92543E22 !cid_8A4D6963-3481-4BF9-B05D-34212F3202F7《 『文部省往復』 その一端をみる 》
『文部省往復』明治4年背文字特定歴史公文書等 文部省往復
ID S0001/Mo001  『文部省及諸向往復 附 校内雑記』〔明治四年(甲)東京帝国大学〕
『文部省往復』明治4年版目次p.12 『文部省往復』四〇七丁 『文部省往復』四〇八丁特定歴史公文書等 文部省往復は、草創期の明治4年でも甲乙の二分冊よりなる。
巻頭の目次に表記されているのは丁記であり、データーのファイル番号とはことなる。
◯ S0001/Mo001 『文部省及諸向往復 附校内雑記』 明治四年 (甲)
明治4年1月-明治5年1月、 達之部、准允之部、伺之部、上申之部、届之部、校内雑記を収録 614丁
◯ S0001/Mo002 『文部省及諸向往復』 明治四年 (乙)
明治4年1月- 明治4年12月、 本省往復之部、太政官及諸寮局往復之部、駅逓寮往復、東京府往復之部、諸県往復之部、諸学校往復之部を収録 610丁
──────────
『文部省往復』明治4年版甲・乙二分冊をようやく読みおえた。あいまいだったところが明確になり、脈絡がつかなかった部分が道筋がついてきた。いまはオリジナル資料の威力と凄みをしみじみと味わっている。
あらためてデータ作製と公開にあたられた東京大学文書館とスタッフの皆さんに深甚なる敬意を表したい。

◯ S0001/Mo001 『文部省及諸向往復 附校内雑記』 明治四年 (甲)の巻頭、目次ページ四〇七丁に意外な記録をみつけた。

四〇七丁  長崎縣活字版ノ儀当校へ可受取約定ノ処仝縣ヨリ工部省ヘ渡シタル件

昨2016年05月朗文堂サラマ・プレス倶楽部主催<Viva la 活版 ばってん 長崎>が開催された。その際地元長崎での研究と、東京での研究がつきあわせられ、平野富二の生家の地が特定されるなどのおおきな成果があった。
その後「「平野富二生誕の地」碑建立有志会」(代表:古谷昌二)が結成され、全国規模の会員の運動となって、生誕地に記念碑を建立すべく活動がはじまっている。

あわせて、工部権大丞山尾庸三の命により、長崎から東京への移動を命ぜられた活字版印刷器機と、活字と活字鋳造機が、どこへ、どのように持ち去られ、そしていまはどのようになっているのか・・・・・・というテーマで積極的な調査がはじまっている。

────────
「平野富二生誕の地」碑建立有志会 URL より
明治4年から明治5年の平野富二の動向[古谷昌二執筆]

新政府直轄の長崎府による経営となった長崎製鉄所の新組織で、頭取本木昌造の下、機関方として製鉄所職員に登用され、1869年1月(明治元年12月)、第一等機関方となる。
同年4月(明治2年3月)、イギリス商人トーマス・グラバーから買取った小菅修船場の技術担当所長に任命される。その結果、船舶の新造・修理設備がなく経営に行き詰まっていた長崎製鉄所に大きな収益をもたらす。
さらに、立神ドックの築造を建言してドック取建掛に任命され、大規模土木工事を推進、多くの人夫を雇うことによって長崎市中に溢れる失業者の救済にも貢献。

その間、元締役助、元締役へと長崎製鉄所の役職昇進を果たし、1870年12月(明治3年閏10月)、長崎県の官位である権大属に任命され、長崎製鉄所の事実上の経営責任者となる。その時、数えで25歳。
折しも長崎製鉄所が長崎県から工部省に移管されることになり、工部権大丞山尾庸三が経営移管準備として長崎を訪れ、帳簿調査などで誠実な対応振りを高く評価される。

長崎製鉄所の工部省移管により、1871年5月(明治4年3月)、長崎製鉄所を退職。造船事業こそ自分の進むべき道と心に決めていたことから、工事途中の立神ドック完成とその後の運営を願い出るが果たせなかった。
1871年8月(明治4年7月)、活版事業で窮地に追い込まれていた本木昌造から活版製造部門の経営を委嘱され、経営方針の見直しと生産体制の抜本改革を断行、短期間で成果を出す。需要調査のため上京、活字販売の見通しを得る。

1872年2月(明治5年)になって、安田古まと結婚し、新居を長崎外浦町に求める。近代戸籍の編成に際して平野富二と改名して届出。
同年8月(和暦7月)、新妻と従業員8人を引き連れ、東京神田和泉町に活版製造所を開設、長崎新塾出張とする。活字販売と共に活版印刷機の国産化を果たし、木版印刷が大勢を占める中、苦労しならが活版印刷の普及に努める。

政府、府県の布告類や新聞の活版印刷採用によって活字の需要が急速に伸張したため、1873(明治6)年7月、東京築地に移転。翌年、鉄工部を設けて活版印刷機の本格的製造を開始。平野活版製造所または築地活版製造所と称する。

 『文部省及諸向往復 附校内雑記』 明治四年 (甲)の目次「四〇七丁 長崎縣活字版ノ儀当校へ可受取約定ノ処仝縣ヨリ工部省ヘ渡シタル件」から、本文四〇七丁をみた。
長崎にあった活字版印刷器機と活字鋳造機は、当時の最先端設備であった。そのため断片的な記録ながら、これらの設備の獲得のために、「工部省と文部省(大学)とのあいだで紛争があった」という記録は印刷史の記録にもわずかにのこっていた。

四〇七丁の記事は、大学南校(のちに東京開成学校から東大へ)の用箋にしるされ、湯島にあった大学にむけて、
<長崎縣活字版ノ儀当校へ可受取約定ノ処仝縣ヨリ工部省ヘ渡シタル件――大意:長崎県にあった活字版印刷設備は当校〔大学南校〕がうけとる約束だったのに、長崎県から工部省に渡された件>と題して、「当校には断りもなく工部省に横取りされた。約定違反であり、不条理である」と憤懣やるかたないといった勢いでしるされている。

この記録からみても、大学南校、大学東校には長崎県活版伝習所関連の設備の大半は到着しなかったとみられる。また両校の最初期の教科書類を瞥見した限りでは、長崎由来の活字を使用した形跡はみられない。

ただし大学南校においてはオランダ政府から徳川幕府に献上された「スタンホープ手引き式乾板印刷機」をもちいていたとする記録はのこっている。
そして長崎から移管を命じられた活字版印刷器機・活字鋳造器械・活字などは大半が工部省勧工寮に到着したが、それにかえて新進気鋭の平野富二が、新妻とスタッフを連れて、再購入した新鋭機とともに東京に乗りこんできたのである。

1872年2月(明治5年)になって、富次郎は安田古まと結婚し、新居を長崎外浦町に求める。近代戸籍の編成に際して平野富二と改名して届出。
同年8月(和暦7月)、新妻と従業員8人を引き連れ、東京神田和泉町に活版製造所を開設、長崎新塾出張とする。活字販売と共に活版印刷機の国産化を果たし、木版印刷が大勢を占める中、苦労しならが活版印刷の普及に努める。

すなわち、『文部省往復』と、「平野富二生誕の地」碑建立有志会での研究成果を照らしあわせると、平野富二の東京への初進出の場所「神田和泉町」とは、大学東校(のちに東京医学校から東大医学部へ)の敷地内そのものであった。
これらのことどもは、先行した印刷史研究関連資料からは容易に引き出せなかったが、東大医学部の前身・大学東校の記録も『文部省往復』には満載されている。

そしてこの神田和泉町時代の大学東校内のおなじ建物に、時期こそ違ったが寄宿し、ここでまなんだ、医師・軍医・文学者/森鷗外と、やはりここで寄宿し、それを指導した石黒忠悳らの記録も次〻と精査されはじめている。

本年は明治産業近代化のパイオニア-平野富二生誕一七〇周年である。

その研究成果の展示・発表と、平野富二の東京での足跡をたどるバスツアーが企画されていると仄聞する。当然神田和泉町も築地二丁目と同様に、重要な訪問地として設定されている。ここから近代医学教育と治療が本格的にはじまり、本格的な近代活字版印刷術 ≒ タイポグラフィも、ここで呱呱の産声を揚げたことになる。

【 詳細 : 東京大学 東京大学文書館 特定歴史公文書等 文部省往復 】

【良書紹介】 『おにぎり オリーブ 赤いバラ ーー あっという間にギリシャ暮らし40年』 (ノリコ・エルピーダ・モネンヴァシティ著 幻冬舎ルネッサンス新社)&ギリシャへの旅

 

20170421152933_00003 20170421152933_00004『おにぎり オリーブ 赤いバラ』 ―― あっという間にギリシャ暮らし40年
著者 : ノリコ・エルピーダ・モネンヴァシティ 
版元 : 幻冬舎ルネッサンス新社
ISBN9784779005091
価格 : 1300円+税
──────────
内容紹介
「いつお発ちになりますか?」航空会社からの電話がきっかけで、ひとりギリシャへ向かったノリコ。空港で彼女を待っていたのは、仕事で一度会っただけの、29歳年上の弁護士ミスター・ジョージだった。
ちょっと行ってくるつもりだったのに、一ヵ月後にプロポーズを受け、帰国することなくジョージと結婚。二人の息子と、ガイドという天職に恵まれて、あっという間に40年が過ぎた。
父の想いと母の教えを胸に、古希を迎えた現在もギリシャ政府公認ガイドとして活躍。
トレードマークの傘を片手に、著名人や企業、団体、学生や一般の観光客などをガイドし、ギリシャの魅力を伝えている。何があっても前向きに明るく生きる著者の人柄とユーモアがあふれ、読んでいるうちに元気になる半生記です。

【 著者紹介
1939年佐賀県生まれ。佐賀県立鹿島高等学校を経て、長崎県の活水女子短期大学英文専攻科を卒業。
1968年単身ギリシャに渡りヨルゴス・モネンヴァシティスと結婚。古澤宣子からノリコ・エルピーダ・モネンヴァシティとなる。
1976年ギリシャ政府公認ガイド免許(ギリシャ語、英語、日本語)を取得し、現在もガイドとして活躍中。ギリシャ・アテネ在住。
──────────
{ 新宿餘談 }
例年年末年始にかけて、連れのノー学部は郷里の母親のもとに帰省する。その間、家事一切、まったくなにもできないやつがれは、なにがどこにあるやら、なにをどうしたらよいのかわからず、ただ途方にくれる。
所在なく書棚をあさり、一番手前にあった連れの愛読書、『おにぎりオリーブ赤いバラ』をなんとなく手にした。そしていつの間にか耽読していた。

おにぎり オリーブ 赤いバラ』は好評のようで、第二版の刊行をみている。
著者のノリコ・エルピーダ・モネンヴァシティさん(旧姓:古澤宣子)は、アテネ大学出身の弁護士であったご主人、ジョージこと、ヨルゴス・モネンヴァシティス氏には先立たれたが、ふたりの息子さんにかこまれてお元気のようである。
ノー学部とはいつの間にか「メル友」になっていて、このごろはしばしば cc 添付でやつがれも@メールを頂戴している。

ご親族に、著名なヴァイオリニスト 古澤 巌氏 がおり、著者はアテネの「ヘロド・アティクス 音楽堂」で演奏会を開くのが「私の夢であり、使命だとおもっている」と同書で述べられている。
この音楽堂は西暦161年アテネの大富豪ヘドロによって建立され、およそ五千人の観客を収容可能だそうである。ここでは毎年六月から九月の夏の夜、ギリシャ悲劇・喜劇をはじめ、音楽会・バレエ公演などが催されるという。
アテネのアクロポリス『世界大百科事典』(小学館)この「ヘロド・アティクス」は、わが国からも小澤征爾がサイトウ・キネン・オーケストラを伴って指揮をしているし、2004年8月のアテネ・オリンピックの際には、蜷川幸雄演出、野村萬斎主演によるギリシャ悲劇『オイディプス王』が上演されている。
蜷川幸雄 が逝ってまもなく一年になるが、このひとはそれ以前にも、平幹二朗 主演による『王女メディア』を成功させ、日本でもギリシャでもいまだに語りぐさのようである。


一冊の図書、『おにぎり オリーブ 赤いバラ』が結んだ奇縁ではあるが、@メールの開始に際しては在京の古澤ご一族にもお世話になった。したがって「のりこさん」の夢の実現のために、万分の一のお手伝いができたらうれしくおもう。

アテネのアクロポリス『世界大百科事典』(小学館)《 長崎のアクロポリス、そして、東京のアクロポリスとは いずこに 》
「のりこさん」は佐賀県の代代の旅館にうまれた。父君は佐賀県庁勤務の建築技術士、五人兄弟の次女で、四姉妹で、末っ子に長男がいる。大学はミッション系の 活水女子大学 (2005年短期大学は廃止されている)に通われた。
活水女子大学は長崎の観光コースのひとつ「オランダ坂」をのぼりつめたところにある。この坂ののぼり口のホテルはやつがれのお気に入りのホテルで、何度か宿泊している。ところが、石畳がしかれた急峻なオランダ坂の「景色」はみているが、その勾配におそれをなしてのぼったことはない。
いずれにせよ、「のりこさん」とやつがれとの共通項は、いまのところ世代がちかいことと、「長崎」のまちということになる。

『おにぎりオリーブ赤いバラ』 p.158 – 9
日本に旅行したギリシヤ人グループの皆さんが、東京で「はとバス」観光中、
「ねェねェ、東京のアクロポリスは、一体どこにあんのよ」
と、ガイドさんに質問したとか。彼らにしてみれば、当然な質問ではある。
古代ギリシヤでは、紀元前九世紀頃より、ポリスと呼ばれる都市国家が成立していた。ポリスは大小さまざまで、その頃のアテネは人口約三十万人。それぞれが独立し、独自の政治を行っていた。
アクロポリスの「アクロ(アクロス)」というのは、「突端、先端、はしっこ」という意味。ポリス(都市国家)にある突端、とんがっているところ、つまり小高い丘ということになる。当時のギリシャには数百ものポリスがあり、そこにある小高い丘は全て「アクロポリス」と呼ばれていたわけで、「東京のアクロポリスは?」と質問した彼らの意図するところはよくわかる。

ポリスは通常城壁で囲まれ、その中にある小高い丘、つまりアクロポリスは、守護神を祀る聖域であり、戦争の際には市民を守る要塞でもあった。
アテネのアクロポリス北麓に、当時政治・経済・文化の中心地であったアゴラが広がり、南斜面には、野外音楽堂が位置している。

この音楽堂は、ヘロドーアティクスと呼ばれ、一六一年アテネの大富豪ヘロドによって建てられ、彼は亡き妻レギラに捧げた。アーチ型の大窓を持つ典型的なローマ時代の建築で、約五千人収容可能。ここでは毎年六月から九月の夏の夜、アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスの悲劇をはじめ、アリストファネスの喜劇、音楽会、バレエなどが催される。
──────────
『世界大百科全書』(小学館)

【 アクロポリス  akropolis 】
古代ギリシア都市(ポリス)の中核の丘。自然の丘を防壁で固め、その中に都市の守護神などの神殿を建ててある。非常時には最後の根拠地となるが、全市民を収容するため町全体にも城壁が巡らされるにつれて,軍事的よりも宗教的・精神的な中心となった。
代表的なのはアテナイ〔アテネ〕のもので、周囲から60m余の高さの石灰岩の急こう配の丘。西側だけに登り道があり、頂上の台地(南北150m,東西300mほど)が防壁で囲まれ,守護神アテナの聖地となっていた。
今日では前5世紀後半の状態に可能な限り復元され、プロピュライア(楼門)、ニケ神殿、エレクテイオン、パルテノンが建ち、崇高な景観になっている。
南斜面にはディオニュソス劇場、オデオンなどの文化施設も建てられ、北側の麓の平地のアゴラ(広場)には政庁や市場があった。

アテナイ西隣のメガラのアクロポリスは双生児のように並ぶ二つのなだらかな丘。
コリントスのものは、市の背後にそびえる巨大な丘で、アクロコリントスと呼ばれ、頂上にアフロディテ神殿などがあった。
アルゴスでは大小二つの丘がアクロポリスとして固められ、大きい丘の斜面に劇場、麓にアゴラがあった。
スパルタのものは目だたない低い丘で、上に神殿があり、ヘレニズム時代には南斜面に大劇場がつくられた。
これらは機能的にも美的にもアテナイのものに比すべくもないが、ロドス島のリンドスでは海に臨む断崖を利用して絶景となっていた。

長崎県庁脇解説板 長崎 ≒メトロポリス 岬の教会01

『おにぎり オリーブ 赤いバラ』は、序章に「始まりは一本の電話から」がおかれ、
第一章  アテネの道
第二章  ギリシャは魅力がいっぱい
第三章  ギリシャ政府公認ガイドになる
第四章  それからの私
からなる。四六判 並製本 240ページの好著である。
おチビさんだったという娘時代のこと、厳格なミッションスクール活水でのおもいで多い学生生活、のちの夫:ジョージとの出会いなどが、てらいの無い平易な筆致で淡淡と描かれる。キリスト正教(トリニティ)の洗礼や受洗名(ミドルネーム)のことなどを興味深く読み進めた。

ところが第三章に紹介された「アクロポリス」の記述に、「そうだったのか!」と膝をたたくおもいであった。繰りかえしになるが「のりこさん」はこう述べていた。
〔アクロポリスの「アクロ(アクロス)」というのは、「突端、先端、はしっこ」という意味。ポリス(都市国家)にある突端、とんがっているところ、つまり小高い丘ということになる〕

ギリシャもわが国と同様に島嶼国家である。そして真っ先に脳裏に浮かんだのは、「長崎のアクロポリス」の光景であった。
すなわち長崎の地形と、現在の長崎県庁の前の案内板「岬の教会 西役所全景」の絵図と、その下部におかれた「イエズス会本部跡・奉行所西役所跡・長崎海軍伝習所跡」の解説であった。
「ここ長崎県庁は、長崎のアクロポリスだったのではないか」
そして「のりこさん」が学んだ活水女子大学(現:活水東山手キャンパス 長崎市東山手町1)も、もうひとつのアクロポリスだったのではないのか? というおもいであった。

戦国時代、ポルトガル船の来航により開港した長崎は、中島川が堂門川(西山川)と合流する付近まで入り江となっており、中島川右岸(上流からみて右側)の、海に向かって長く突き出た岬の台地上に新しく六ヵ町が造成され、それを基点に発展して都市が形成されたといわれている。
古地図をみると、その後埋め立てによって「出島」がつくられたので紛らわしくなっているが、県庁前庭にたつと、アテネのアクロポリスと同様に、海にむかってなだれ墜ちるような地形がのこる。

長崎 ≒メトロポリス 岬の教会01すなわち現在の長崎県庁所在地のあたりは、戦国時代には「岬上の町」と呼ばれていたようである。ここを中心とする長崎は、天正8年(1580)領主でありキリシタン大名でもあった大村純義によってイエスズ会に寄進されて「岬の教会」が設けられた。
この尖塔をもった建物は、入津してくる南蛮船(ポルトガル船)にとっては格好のランドマーク(陸標)であったろうし、長崎の住民(キリスト教徒)にとっては宗教的・精神的な中心となったとおもわれる。この時代、大村藩(現長崎空港の陸地側一帯)と長崎は、キリスト教一色に染めあげられていた。


その後天正15年(1587)、九州征伐を達成した豊臣秀吉は、長崎を没収して直轄領とし、キリスト教に厳しい姿勢に転じた。

文禄元年(1592)、長崎支配のために岬の上に奉行屋鋪(奉行所)が置かれ、のちに長崎奉行所西役所となり、幕末には長崎海軍伝習所がおかれた。そしていまは長崎県庁がおかれている。すなわち祭祀の地から転じて、軍事的・政治的・そして行政の中心となった。
【 参考URL : 平野富二 古谷昌二ブログ/町司長屋に隣接した「三ノ堀」跡 】

《東京のアクロポリスをもとめて、五月の連休にアテネ弾丸旅行を予定》
正月早〻斯様な次第で、それ以来熱病にうかされたように「東京のアクロポリス」を探索している。手がかりはすでにある。そのためにギリシャに行くことを「承諾」した。
というのは、ノー学部は年に一回、超過密スケジュールで海外旅行を設定している。同行するやつがれの喫煙癖のために、比較的「嫌煙」に喧しくない国を選んでくれているが、ことしはギリシャ旅行を昨年夏には決めていた。

ところがやつがれは、先年いったプラハへの三回目の旅を主張していた。
それには一切構わず、ノー学部は勝手にギリシャ神話・ギリシャ案内などの図書をどっさり買いこんでいた。そのうちのお気に入りの一冊が、『おにぎり オリーブ 赤いバラ』 ―― あっという間にギリシャ暮らし40年(著者 : ノリコ・エルピーダ・モネンヴァシティ のりこさん)だったということになる。
訪問地はアテネと{アトランティス大陸伝説の「テラ(サントリーニ)島」}。アトランティスはもちろん当面はノー学部に任せている。
やつがれは希臘アテネのホテルのテラスで、煙草をくゆらせ、グリーク珈琲をたのしむだけでよい。

ホテルはさほどの料金ではないが、ともかくアクロポリスの眺望がウリのホテル。しかもテラスからはライトアップされたパルテノン神殿が眼前に展開するという。ネットのホテル情報はあまり信用しないが、多くの外国人ブロガーがそのホテルを絶讃していた。
ところで、五月ついたちは「メイデー」。勤労精神にいささか欠けるギリシャでは、真偽のほどはふたしかだが、タクシーはおろか、バスや電車などの公共交通機関も停止するとの情報がある。
そこでメールを往復させて、「メイデー」の日に、ホテルのテラスへ「のりこさん」をご招待することにした。
『おにぎりオリーブ赤いバラ』 p.158 – 9
アクロポリスの「アクロ(アクロス)」というのは、「突端、先端、はしっこ」という意味。ポリス(都市国家)にある突端、とんがっているところ、つまり小高い丘ということになる。
当時のギリシャには数百ものポリスがあり、そこにある小高い丘は全て「アクロポリス」と呼ばれていたわけで、「東京のアクロポリスは?」と質問した彼らの意図するところはよくわかる。

『世界大百科全書』(小学館)
【 アクロポリス  akropolis 】
代表的なものはアテナイ〔アテネ〕のもので、周囲から60m余の高さの石灰岩の急こう配の丘。西側だけに登り道があり、頂上の台地(南北150m,東西300mほど)が防壁で囲まれ,守護神アテナの聖地となっていた。
──────────
間もなくギリシャへの旅にでる。「のりこさん」にお会いできる。

ただ日頃「動かざること山のごとし」と嘯き、運動不足の極致にあるやつがれ、「60m余の高さの石灰岩の急こう配の丘」を這いあがり、よじ登ることができるか、いささかの不安がのこる。

 

【字学】 文化庁 Press release / 常用漢字表の字体・字形に関する指針(報告)について

Print文化庁   平成28年2月29日

常用漢字表の字体・字形に関する指針(報告)について

文化庁では、平成26年度から文化審議会国語分科会漢字小委員会において、「手書き文字の字形」と「印刷文字の字形」に関する指針の作成」に関して検討を進めてきました。
このたび、その検討結果が国語分科会において「常用漢字表の字体・字形に関する指針(報告)」(案)として報告されましたので、
お知らせします。

◎ 経  緯
漢字の字体・字形については、昭和24年の「当用漢字字体表」以来、その文字特有の骨組みが読み取れるのであれば、誤りとはしないという考え方を取っており、平成22年に改定された「常用漢字表」でも、その考え方を継承している。
しかし、近年、手書き文字と印刷文字の表し方に習慣に基づく違いがあることが理解されにくくなっている。また、文字の細部に必要以上の注意が向けられ、正誤が決められる傾向が生じている。
今回の報告では、漢字の字体・字形について詳しく解説するとともに、常用漢字(2,136字)全てについて、印刷文字と手書き文字のバリエーションを分かりやすく例示している。

◎ 資 料  1
「常用漢字表の字体・字形に関する指針(報告)」(文化審議会国語分科会)の概要
PDF  bunkatyou-press release
文化庁01 文化庁02 文化庁03

◎ 資 料 2
常用漢字表の字体・字形に関する指針(報告)(案)
平成28年2 月29日

文化審議会国語分科会
PDF  bunkatyou-press release
文化庁04
上掲 jpeg 画像図版で紹介した<概要>につづいて PDF  bunkatyou-press release で紹介されています。常用漢字2,136字のすべてについて丁寧に記述されていますが、役所文書で238ページあります。
巻末部の204ページからはじまる「参考資料」は興味深い内容です。
なお本報告書(案)の一部は、小社の従来の見解とは異なります。

【 詳細 : 文化庁 常用漢字表の字体・字形に関する指針(報告)について 】

「年年歳歳花相似─歳歳年年人不同」 唐・劉廷芝 {々 二の字点・カンクリ}の乱用を脱し脱し{〻 二の字点・ピリピリ}再考

24ad0c1081293947302de5927ad06284-692x1024[1]使用デジタルタイプ:「杉明朝体」、「弘道軒清朝体 復刻版75100e35e8f939573414c2327ca6af3a[1]《厄介な記号:漢数字のゼロ 〇 と、大きな丸印・白丸 ◯ 》
漢の字(漢字)とは、定まった字音(よみ)・字画(かたち)・字義(いみ)を必要とする。
このうちいづれかが欠けているばあいは「記号」ないしは「文 ≒ 紋」とされる。
いわゆる「漢数字のゼロ 〇」は、「一〇 ジュウ、一〇〇 ヒャク」となり、字音と字義が変動する。したがって「漢数字のゼロ 〇」は狭義の「字[漢字]」ではない。

また漢字分類法の部首はなく、ほとんどの漢和辞典や中国語辞典には掲載されていない。 電子機器では「〇 漢数字ゼロ、Ideographic number zero、JIS:213B」に配当されている。
Ideographic とは{表意文字[記号]}の意であり、JIS:2130番代の「0-F まで」の16項目に隣接して掲載されているのは「 ^  ̄ _ ヽ ヾ ゝ ゞ 〃 仝 々 〆 〇 ー ― ‐ /  」で ある。
上掲図版で紹介したが、変換ソフト ATOK ではこれらを「準仮名、準漢字」としている。

すなわち「漢数字の〇」は漢字ではなく、それに準ずる記号的な存在として扱われている。
ここで注意したいのが「〇 漢数字ゼロ、Ideographic number zero、JIS:213B」と、「丸印、白丸 White circle JIS:217B」と、「◯ 大きな丸 Large Cercle  JIS:227E」との混用ないしは誤用である。
JIS:2170番代の「0-F まで」の16項目に隣接して掲載されているのは「 $¢£%#&*@ § ☆ ★ ○ ● ◎ ◇ 」で ある。またポツンと離れて「 ◯ 大きな丸 Large Cercle  JIS:227E」がある。
──────────

◎ ご面倒でも電話口の向こうの知人に、電話番号、ビル名などをつたえるつもりで、ゆっくり丁寧によんでください

{文字壹凜} 2016年01月06日

ゼロと◯電話番号やビル名など、数字が所〻に混じった文を、口頭でひとに伝えるのは面倒なもの。
上掲の短文を、声にだして、ゆっくりおよみください。
もしかすると「0 → ゼ、ロ、 ま、る、」とまじってよみませんでしたか。

渋谷のランドマークのひとつ、 {渋谷109}は「渋谷 イチ マル キュウ」、イマドキの若者は「マルキュウ」がふつう。
これを「 縦、組、み、前、提、」でデジタル機器に入力すると、数字はテンキー使用だとばかりもいっていられない意外な事故が発生中。その危険性は{ 他人事 }とともにいずれ解明しましょう。
漢数字ゼロw[1]75100e35e8f939573414c2327ca6af3a[1]この「漢数字のゼロ」と、「大きな丸」はパソコンやスマホなどに搭載されている汎用性のある書体では、一見すると判別が困難である。
したがって、「 〇 漢数字ゼロ、Ideographic number zero、JIS:213B」と、「 ◯ 大きな丸 Large Cercle  JIS:227E」とが、混用ないしは誤用されたテキストが印刷所に持ちこまれることがしばしばみられる。

ところが縦組みで使用したテキストを、そのまま横組みに転用したときなどに、おおきな問題が発生する。
その対策として良心的な公版書籍印刷所などでは、事故防止のために独自の検索ソフトを作成して、「 〇 漢数字ゼロ、Ideographic number zero、JIS:213B」と、「 ◯ 大きな丸 Large Cercle  JIS:227E」とを判別し、正しいつかいわけをしている現状がある。 ──────────
《乱用がめだつ{
カンクリ 々} と、衰退した「ピリピリ 〻 」の見直しにむけて》
ほかにもいくつかの「漢字とおもわれている記号」がある。
◎ 「〃 JIS:2137  Ditto mark  同じく記号 印刷業界用語:おなじくチョンチョン」
◎ 「仝 JIS:2138 音読み:トウズ、 同上記号」
◎ 「々 JIS:2139 Ideographic iteration Mark  繰りかえし記号、印刷業界用語 カンクリ、最近の若者用語 ノマ」
◎ 「〻 Vertical ideographic iteration mark  画句点 1-02-22 二の字点・ゆすり点、印刷業界用語 ピリピリ」

電子機器の文字入力にあっては、「〃・々」は、「おなじ・どう」から変換ができる。
ただし「仝 JIS2138」は本来「同」とおなじ「字[漢字]」であり、また中唐の詩人:蘆仝ロドウ や、梁山泊の豪傑のひとり:朱仝 シュドウ にみるように中国では姓や名にもちいられている。
記号としての文字変換は「おなじ」からなされるばあいがほとんどで、どういうわけか「どう」からは変換されないことが多い。

やっかいなのは「々 と 〻」のつかいわけである。
古来はもとより、現代中国でも「々 カンクリ・ノマ」は、略記号という認識があるため、日常生活ではもちいるが、正式文書や詩歌ではほとんどもちいない。

わが国では漢字を漢字音でよみ、また和訓音でもよむ。
すなわち「日日」には、「日〻 にちにち」とし、「日々 ヒビ」とする要があり、この両音を区別するために、いつのころか「〻 ピリピリ」がうまれた。
当然和訓音がない中国ではまったくもちいられない記号である。

「〻」は英語表記では Vertical Ideographic Iteration Mark(垂直表意文字-縦組み漢字-の繰り返し記号)とされ、漢字水準では「〻 画句点:1-02-22」といった相当下位におかれている。
国際的には「〻 Unicode : U+303B」にある。
そのために汎用性の低い一部のデジタルタイプでは「〻」を欠くこともしばしばみられる。

7548d53fb5b74d13849da1aaf8c76092[1]5.0.2 JP P1こんにちの『毎日新聞』の源流をなす『東京日日新聞』は、1872年(明治5年)2月21日、条野伝平、西田伝助、落合幾次郎らが創刊した東京最初の日刊紙として呱呱の声をあげた。
ここでの紙名「東京日日」は、「とうきょう-にちにち」であり、略称や俗称として「にちにち」、「とうにち」などと呼ばれた。

当初は浅草茅町(現在の浅草橋駅近辺)の条野の居宅から発刊したが、二年後に銀座(銀座四丁目三愛ビル直近、現ユニクロ店舗)に社屋を建てて進出。雑報入りの「新聞錦絵」が東京土産として話題を呼んだ。

1873年(明治6年)、岸田吟香が入社し、平易な口語体の雑報欄が受け大衆紙として定着した。ついで1874年(明治7年)入社と共に主筆に就任した福地源一郎(櫻痴)が社説欄を創設してからは紙面を一新し、政府擁護の論陣を張る御用新聞となり、自由民権派の政論新聞と対抗した。

『東京日日新聞』は、創刊からしばらくは「日日 日〻」などと表記したが、まもなくみずから崩れた。
すなわち「日々 ヒビ」としるして「日日 にちにち」と(勝手に)読者によませるようになった。

「々 JIS:2139 Ideographic iteration Mark  繰りかえし記号、印刷業界用語 カンクリ、最近の若者用語 ノマ」がすっかり定着し、「〻 Vertical ideographic iteration mark  画句点 1-02-22 二の字点・ゆすり点、印刷業界用語 ピリピリ」は、形象が横組み表記ではもちいずらかったのか、あまりに「々」の乱用が目立つ昨今である。 ことしは「々 〻」にこだわってみたいとおもうゆえんである。

【新・文字百景】004 願真卿生誕1300年祭|真筆が伝承しない王羲之の書

顔 真卿 生誕1300年にちなんで
その人物像に迫る 【Ⅰ】


上下とも伝 顔 真卿肖像 709-85年 中国版Websiteより

《顔 真卿生誕1300年にあたって──王羲之の影響と初唐の三大家》
途中をはしょって、率意 ── 憤怒・激昂のおもむくままにしるした、顔 真卿の行草書による尺牘セキトクの下書き『祭姪文稿-さいてつぶんこう』を紹介しながら、顔 真卿のひととなりを記述しようとあれこれ苦吟していた。それはやはり、無謀な試みであることを痛感させられた1ヶ月ほどだった。

この苦衷の最中、画像処理が苦手なやつがれが救援をもとめたひとで「無為庵乃書窓」主人という得難い先達の知遇を得ることができた。同氏からは「無為庵乃書窓」画像へのリンクの許諾とともに、さまざまなご教示もいただいた。そのことがこの1ヶ月間の最大の成果であり、うれしいできごとであった。
それでも結局、本稿は2分割され、ここにみる顔 真卿像は序論に価することになった。

* 「無為庵乃書窓」主人こと、川崎市のMさんとはしばしばお会いして書藝のおはなしをうかがっていた。Mさんはさる大手通信会社の副社長だった方であるが、書藝は専門外でもあるので匿名を貫かれて記述されていた。2002-平成二年時点で八〇代のかたで、二-三年前からブログは休止状態にあり、最近リンクが外れたのは淋しいかぎりである。復活を祈念してリンク設定はそのままにしてあることをお断りしたい。

顔 真卿『祭姪文稿』部分、台北・故宮博物院蔵

顔 真卿の後半生、なかんずく『祭姪文稿』に集中しての記述をあきらめると、どうしても先行類書 ── 書法書の記述法と似てしまうが、やはり東晋4世紀のひと、王羲之(307?-365?)を経過し、初唐6-7世紀の書法家たちをある程度記述してからでないと、とても8世紀後半のひと、顔 真卿は語れないという結論に達した。すなわち「文と字」は、ひとの営み、歴史とともにある。
また本稿をふくむ「文と字」に関する歴史と将来展望は、いまもさまざまな試行と追加取材をかさねている。いずれまとまった書籍のかたちでご覧いただけるようにしたい。
その序論のひとつとして本稿をご覧いただけたら幸せである。

★     ★     ★

西晋以来ながくつづいた魏晋南北朝(220-589)の混乱した時代を、北周の武将だった揚堅(ヨウ-ケン、581-604)が、みやこを大興(のちの長安)とし、中央集権的帝国「随」を建朝して、ようやく中国の再統一をみた(589年)。
ところが2代皇帝煬帝(ヨウダイ、揚広、604-617)が臣下に弑され、つづく恭帝(617-618)もたおれて、わずかに3世37年をかぞえただけで随朝は滅んだ。
─────────────────
つづく唐王朝の実質的な建朝者・二代皇帝太宗(李 世明、598-649・在位627-649)が貞観元年(627)に即位し、また賢臣をもちいて、唐王朝とそのみやこ・長安を空前の繁栄に導いた。その治世を「貞観ジョウガンの治」という。
太宗はみずからもすぐれた書芸家であった。その作は、西安 碑林博物館正面入口「碑亭」に置かれている隷書碑『石台孝教』(天寶4年・745、後述)にあきらかなであるが、また王羲之(オウ-ギシ、東晋の書家、307?-365? )の書を愛好し、その書200余を宮中にあつめた。

『蘭亭序』張金界奴本 虞世南臨本部分 北京・故宮博物院蔵 

 

『蘭亭序』褚遂良臨摸、絹本部分、台北・故宮博物院蔵
(『随唐文化』学林出版社、1990年11月)

それでも太宗・李 世明は王羲之の書作のうち、もっとも著名な『蘭亭序』の入手になやんでいた。すなわち漢の時代には陵墓の築造が重んじられ、また嘉功頌徳碑や墓碑など、さまざまな碑の建立がさかんだった。
それが三国時代を迎え、魏の始祖・曹操(あざなは孟徳。衰亡した東漢を支えて魏王となる。155-220年。その子・曹丕ソウヒ220-226年が帝を称して三国のひとつ・魏朝を建てた)が、陵墓や立碑の築造が経済をいちじるしく圧迫しているとして、建碑を禁止し、陵墓の造営と葬礼の簡素化をおしすすめた。

この曹操の命もあって、魏晋南北朝における南朝では碑はあまり建てられなかった。それを反映して、王羲之には、碑のための書は一作も知られていない。
したがって、王羲之の書とは「尺牘セキトク、書簡・てがみの類」などのちいさなものが多く、いかに皇帝であろうと、収集は困難をきわめたのである。

ところが太宗は、『真草千字文』を書したひとで、王羲之七世の孫とされ、越州呉興の永欣寺住持・智永(チエイ、生没年不詳)が、『蘭亭序』の真筆をひそかに所持していることを知った。
太宗は智永が没したのち、後任の住持・弁才から、さまざまな苦心のすえ、待望の真筆『蘭亭序』を入手したとつたえる。太宗の『蘭亭序』(中国版図版集)への執着のさまをよく伝える説話である。
上に中国版『蘭亭序』図版集へのリンクを貼っておいた。現代中国における『蘭亭序』への人気と関心のほどがよくわかる。

浙江省紹興の蘭亭の一隅で、砂の書板に書する少女。

伝・王羲之肖像 あざなは逸少。東晋の書法家。右軍将軍・会稽内史。楷書・草書において古今に冠絶した存在とされる。その子・王献之とともに「二王」と呼ばれる。『蘭亭序』『楽毅論』『十七帖』などの書作がある。307?-365?年。

苦心のすえ『蘭亭序』を入手した太宗は、さっそく、趙模チョウ-モ、韓道成カン-ドウセイ、馮承素フウ-ショウソ、諸葛貞ショカツ-テイらに模本をとらせた。またそれにとどまらず、書法家として「初唐の三大家」とまで讃えられた、欧陽詢、虞世南、褚遂良らにも臨模(見て写しとること)を命じた。

◎欧陽 詢(オウヨウ-ジュン あざなは信本シンホン、557-641年)
『皇甫誕碑』(詳細図版:中国版)、『九成宮冷醴銘』(詳細図版:無為庵乃書窓)、『藝文類聚』。

◎虞 世南(グ-セイナン あざなは伯施ハクシ、557-641年)
『孔子堂碑』(詳細図版:無為庵乃書窓)、『北堂書鈔』。

◎褚 遂良(チョ-スイリョウ あざなは登善トウゼン、596-658年)
宰相(≒首相)の重職にあったが、武氏[則天武后]の皇后冊立に反対して、愛州[いまのベトナム]に左遷され同地で没した。『雁塔聖教序』(詳細図版:無為庵乃書窓

欧陽 詢『皇甫誕碑』拓本、原碑は西安 碑林博物館蔵
『西安碑林銘碑Ⅰ』陝西省博物館、1996年11月 


昨秋訪れた、欧陽詢の書『皇甫誕碑』がかつて置かれていた皇甫誕の墓。いまは広大な農地のまっただなかにひっそりと存在している。地元では幼童もこの小丘が「皇甫誕の墓地」であることをしっていたが、ガイドブックなどには触れられていない。
唐代のこの規模の墓には、ふつう、ここにいたる神道(参道)があって、左右に楼塔や石の門としての「闕ケツ」があり、墓の直前には墓標が屹立して荘厳をきわめていた。
西安郊外にのこるいまの皇甫誕の墓地は、畠にかこまれ、神道・楼塔・闕は消滅して無い。そしてここの墓の直前にあった『皇甫誕碑』(詳細画像:中国版)が、いまは西安 碑林博物館に移築されていることになる。(関連記事:朗文堂-好日録011 吃驚仰天中国西游記

それでも王羲之と『蘭亭序』への愛着さめやらぬ太宗は、ついにみずからの柩に『蘭亭序』はもちろん、生涯をつうじて収集した王羲之の書幅のすべてを副葬させるにいたった。
太宗の陵墓は西安市郊外、九嵕山キュウソウサンにある「昭陵 ショウリョウ」である。
この陵墓は五代、後梁のとき(10世紀初頭)、盗賊あがりの武将・温韜オントウが墓室をあばいたとする説もあるが、真偽のほどは定かでなく、未盗掘とされている。したがっていまなお、この巨大な山塊のいずれかに、太宗の遺がいとともに、『蘭亭序』をはじめとする王羲之の書幅も眠っているとみられている。

太宗・李世明の陵墓。西安市郊外九嵕山にある「昭陵」。近年になって李世明の巨大な立像が建てられ、観光地として整備されつつあるが、ここにいたるためには狭隘な山道(車で走行できるがチョット怖い)がつづき、道中には案内板もなく、訪れるひとは少ないようだ。

昭陵『玄武門』跡地にて。番犬のつもりでいるのか、一匹のちいさな犬がつきまとって離れなかった。やつがれは、ただ[李 世明は、こんな山中に、なぜこれほどまでに巨大な陵墓をきづいたのか……]という感慨にとらわれていた。また太宗・李 世明の墓碑はアメリカにあるともきいた。9月中旬、山稜を吹き抜ける風は爽やかだった。

ちなみに王羲之七世の孫とされる僧・智永は、真書(楷書)と草書をならべて書き分けた『真草千字文』(詳細画像:中国版)を800作書いて、南朝の諸寺に寄進したとされる。
しかしながら中国では『真草千字文』の真筆はすべて失われ、宋代にこれを石刻したものが「関中本」とされて西安 碑林博物館に伝わるだけである。
さいわいなことに、日本には『真草千字文 小川本』とされる真筆の一作が、ほぼ完全な状態で伝わっており、国宝に指定されている。 

《出尽くした感のある顔 真卿の書芸論》
顔 真卿の書に接するものは、たれもがつよい衝撃をうけ、それだけに好悪の感情が明確にわかれるようだ。また中国でも顔 真卿の書に関心がもたれるようになったのは、没後300年ほどをへた北宋の時代からであった。

その最初は宋朝第四代・仁宋皇帝(趙 禎、1022-1063)の信任が厚く、詔勅の起草などを担当する「翰林学士カンリン-ガクシ」であった蔡襄(サイジョウ、あざな・君謨クンボ、1012-1067)が、顔 真卿の書、なかんづく『祭姪文稿』などにみる行書に傾倒して、平正秀逸な風格を継承した書を発表した。代表作に『蔡襄 尺犢 サイジョウ-セキトク 、扈従帖 コジュウジョウ』がある。「尺牘セキトク」とは、てがみ、書状、文書のことである。

蔡襄 尺牘 『扈従帖』

この蔡襄は、欧陽脩(オウヨウ-シュウ 1007-72)の名前とともに記憶にとどめたい。
わが国ではさらに遅れて、ひろくはようやく昭和になってから関心がもたれたようである。

《文治の宋王朝と淳化閣帖 ── 複製術の普及》
ここで足をとめて、なぜ宋代になって蔡襄や欧陽脩らが、顔 真卿の書をたかく評価するにいたったのかを考えてみたい。
唐王朝末期、複製術としての印刷の技法が発生し、それが盛んにおこなわれるようになったのは、小国に分立した五代(後梁、後唐、後晋、後漢、後周)の時代をへて、ふたたび登場した統一王朝・宋の時代であった。

宋(960-1279)は趙氏の国で、太祖・趙 匡胤(960-976)が建朝した。宋の太祖が帝位につくと、地方に軍閥が蟠踞した唐の失敗にこりて、地方の精鋭軍を中央にあつめ、また軍閥の力をそいで、皇帝が直接軍を統帥することとした。また文官優位を明確にして、その権限を著しくつよめていった。重文軽武(シビリアン・コントール !? )をとなえた太祖の時代は17年間におよんだ。

宋・太祖の没後、弟の趙 匡義が帝位を継承して太宗・匡 義(976-997)となった。太宗は歴史書の編纂や仏典の翻訳などを奨励し、随朝にはじまった科挙の制度を強化した。
すなわち科挙の最終試験に帝みずからが臨席して「殿試デンシ」を実施し、その登第者(及第者)を進士と呼んだ。その進士のうち、首席を状元、次席を榜眼、三席を探花と称した。このあらたな科挙の制度は清朝末期までつづいた。

また太宗は施策の中心に、漢王朝・唐王朝といった漢民族正統王朝への復古主義をうちだした。とりわけ書においては、五代十国の時代に各地に散逸した古今の名跡を、ふたたび宮中にあつめることにつとめた。
さらに太宗は、その集積された名跡を侍書(ジショ、皇帝に侍する文書官)の王著オウチョに命じて審定・編輯させ、これを模刻して拓本に摺り、名跡集の作成を命じた。

歴史上初の書法全集ともいえる名跡集『淳化閣帖 ジュンカ-カクジョウ』全10巻は、王著の没後、淳化3年(992)に完成した。各巻の内容は以下のとおりである。
・第1巻        歴代帝王
・第2-4巻       歴代名臣法帖
・第5巻          諸家古法帖
・第6-8巻       王羲之法帖
・第9-10巻       王献之法帖  

本書は『淳化秘閣法帖』ともいう。法帖ホウジョウとは、書跡を石、煉瓦の一種の「磚セン・甎セン」、板目木版などに刻した名跡集で、書法の手本の意味をなし、権威の象徴としても理解される。
宋・太宗も王羲之・王献之の二王の書を愛好していたため、『淳化閣帖』(詳細図版:中国版)は全10巻のうち、王羲之・王献之父子の書が半数の5巻を占め、これによって「二王」の書の位置が、国家の書法の基盤として強固なものとなった。

ところが……、宋代初期の『淳化閣帖』には、やはり !  というか、なぜ ?  というか、顔 真卿の書作は「歴代名臣法帖」にも「諸家古法帖」にもまっったく紹介されていない。これがある意味では、顔 真卿の書と、そのひととなりを理解するための、ひとつの起点となるできごとである。

この『淳化閣帖』のもたらした影響はおおきかった。まず模刻が法帖製作の主流となり、法帖をつくるばあいに模刻を用いることが一般的となった。
また『淳化閣帖』の拓本は、宋・太祖から家臣への下賜品として、きわめて少数制作されたとみられ、宋の時代でも『淳化閣帖』自体の模刻が頻繁におこなわれた。また『淳化閣帖』を増補したり一部を修整した法帖も編纂された。

この『淳化閣帖』の原版(原板)は早くに失われた。またこんにち伝存して、原拓として確認されているのは、東京・書道博物館所蔵、宋代の拓本とされる『夾雪本』(詳細画像:書道博物館)と、上海博物館の『最善本』(詳細画像:無為庵乃書窓)のみである。したがって一般にこんにちに伝わるのはみな、後世に複刻されたものばかりである。

そのため『淳化閣帖』の原本の製造技術が、石刻であったか、あるいは巷間よくいわれるように棗ナツメの木をもちいた木刻であったかなど、不明なところが多い。また五代の南唐で、これに先んじた別の法帖が複数存在したとする説もある。
編輯面でも多くの齟齬がみられ、編輯にあたった王著にたいしては厳しい批判がなされている。

いずれにしても、それまでは真筆を鑑賞するか、おおきな碑の拓本でみるだけという限定された書法界に、書を模して、閲覧しやすいおおきさに木石に刻して、その拓本をとるなどの技術によって、「複製術」が敷衍したのは宋の時代であった。
もしかしたら(希望的観測ながら)、これらの技法によって、顔 真卿の書も複製されていたとみなすことも可能な気がするがいかがであろう。

【本稿アップ後に、無為庵乃書窓主人より新情報をいただいた。 顔 真卿の法帖とみられる ── 影印からみるかぎり真跡から碑刻したというより、集字したものとみられるが ── ものが、宋代に存在したことがあきらかになった。ここに紹介したい。2012.07.10追記 】

顔 真卿『忠義堂帖』(詳細画像:無為庵乃書窓)は、宋・嘉定八年(1215年) 劉元剛が顔 真卿の書を集めて石に刻し、顔 真卿の祠堂に設けたもの。原石は現存するといわれるが未見。清代になってから、種種の摸本がみられる。
内容は、もともとは碑や題名なども含まれていたが、現在のものは尺牘セキトク(手紙)が大部分を占めるようになった。無為庵乃書窓主人としては『忠義堂帖』の「裴将軍詩」に惹かれております。
これが本物なのか、否か、また行書なのか草書なのか、また顔 真卿の書の中でどのような位置にあるものなのか、不明のまま現在に至っております。

────────────────
また北宋・南宋の時代を通じて、活字版印刷術も登場し、文治主義・宋の文化の普及におおきな貢献をなしたことが推量されるのである。
以下にこのブログロール 花筏 《タイポグラフィ あのねのね*020》に紹介した事柄に、若干の補筆をくわえて、宋からそれにつづいた元代の印刷術の振興をみてみたい。
────────────────
現代の中国では、北京印刷学院付属 中国印刷博物館(北京市・内部撮影不可)と、下記に図版紹介した、中国文字博物館(河南省安陽市。同館は開設からまもなく、図録などはきわめて未整備の段階)に、宋代の「膠泥活字・陶活字」「木活字」などを復元したレプリカが展示されている。知る限りでは印刷実験までなされた形跡はない。

 中国/北京市。北京印刷学院に付帯する「中国印刷博物館」。 地上3階・地下1階の大型施設であるが、印刷関連大型機器展示場の地階以外は撮影禁止で、 案内パンフレット、図録集なども無かった。併設の「北京印刷学院」ともどもわが国で知ることが少ないが、展示物は質量とも群をぬくすばらしさである。2011年9月

* 北京にあらたな友人ができ、北京印刷学院副校長を紹介いただき、また中国印刷博物館の内部撮影も許可いただいた。友人の妻は北京印刷学院教授でもある。

 2010年10月に新設された「中国文字博物館」。甲骨文発見の地、河南省安陽市の駅前に巨大な外観を誇る。同館は必ずしも交通至便とはいえず、河南省省都・鄭州(テイシュウ  Zhengzhou)から電車でいく。
さらに、甲骨文出土地として知られる、いわゆる安陽市小屯村 ── 中国商代後期(前1300頃-前1046)の都城「殷墟」までは、さらに駅前のターミナルから、バスかタクシーを乗り継いでいく必要がある。宿泊施設も未整備だとの報告もみる。したがって当面は鄭州からタクシーをチャーターして、日帰りされるほうが無難である。2011年9月

 《チョット寄り道。中国のふるい活字製造法とその消長》


畢昇の膠泥活字(陶活字) レプリカ(『中国文字博物館』文物出版社 2010年10月)
左:右手に「膠泥活字」、左手に「膠泥活字植字盆」(10文字が入っている)を手にする畢昇銅像。右端上部は「膠泥活字の大小のレプリカ」。右端下部はネッキもある金属活字で、どうしてここに近代の活字が紹介されているのか不明。
『中国文字博物館』は、規模は壮大で、甲骨文に代表される収蔵物には目を瞠るものもあるが、まだコンテンツや解説は未整理な段階にあった。

上図:農器図譜集 巻20「造活字印書法」『農書』(元・王楨著、明・嘉靖年間刊)
          (『図解和漢印刷史』長澤規矩也、汲古書院、昭和63年1月) 
下図  :中国安陽市「文字博物館」展示の「活字板韻輪盆」復元品
中国・元の時代の「活字ケース」ともいえる「活字板韻輪盆」の復元品。基本的に中国の音韻順に木活字が収納されているが、助詞などで使用頻度の高いキャラクターは「大出張 オオシュッチョウ」などと同様に、別扱いで中央部に収納されていた。      

 中国宋時代の古典書物『夢渓筆談 ムケイ-ヒツダン』に、北宋・慶暦年間(1041-48頃)に畢昇ヒッショウが「膠泥コウデイ活字」を発明したとする記述がある。
ここにみる「泥」が、わが国では「水気があって、ねちねちとくっつく土 ≒ 土の状態」に重きをおくので、「膠泥活字」の名称をさけて、むしろ「陶活字・陶板活字」などとされることが多い。

ところが「泥」は、その扁が土扁ではなく、氵サンズイであるように、「金泥≒金粉をとかした塗料」「棗泥ソウデイ≒ナツメの実をつぶしたあんこ」「水泥≒現代中国ではコンクリート」など、むしろ「どろどろしたモノ」にあたることが多い。

昨年の秋、中国河南省安陽市に新設された「中国文字博物館」を訪れた。そこでみた畢昇の銅像と、手にしている「畢昇泥活字」は、展示用のレプリカとはいえ、ひと文字が5センチ平方ほどもある大きな「活字」で、あまりに大きくて驚いた。
またガラスケース越しではあったが、素材は溶かした膠ニカワを型取りして固形化させたか、よく中国でつくられる煉瓦の一種の「磚セン・甎セン」と同様の手法で、粘土を型取りして焼いたものとみられた。詳細な説明はなかった。

 つづいて元の時代の古典書物『農書 造活字印書法』に、元朝大徳2年(1298)王禎オウテイが木活字で『旌徳県志 セイトク-ケンシ』という書物を印刷したことがしるされている。
残念ながら畢昇の「膠泥活字」も、王禎の「木活字」も現存しないし、この木活字をもちいたとする書物『旌徳県志』も現存しないので、レプリカをみても推測の域をでない。

────────────────
宋朝第二代太宗と『淳化閣帖』では評価されなかった顔 真卿であるが、第四代仁宋・禎(1022-1063)の礼部尚書で、詩人・書芸家の蘇軾(ソショク、蘇東坡 ソトウバ,トモ、1036-1101)は、以下のように述べている(この項は、おもに『書の宇宙13 顔真卿』石川九楊、二玄社、1998年4月30日によった)。

「顔魯公(真卿)の書は、なみはずれて力強く、古来の法を一変した」
「顔公、法を変じて新意を出し、細筋、骨に入りて秋鷹シュウヨウの如し」
さらに蘇軾はことばをかさねて、こうもしるしている。
「顔 真卿の書を見ると、いつも彼の風采が思い浮かぶ。その人となりが思い浮かぶだけではなくて、盧杞ロキをなじり、李希烈リ-キレツを叱りとばす姿をまざまざと見るような思いがするのは、なぜだろうか」

ところが、蘇軾、黄庭堅(コウ-テイケン 1045-1105)とならぶ北宋時代の三大家のひとり、米芾(ベイフツ、1051-1107)は、顔 真卿の書を以下のようにまで書いたそうである。
「顔 真卿と柳公権の跳踢チョウテキの法は、後世の醜怪悪札の祖となった」
石川九楊氏はさらに筆をついで(同書p.8)、つぎのようにしるしている。

この、顔 真卿の書が、醜悪、俗書であるという評価は、中国書論史上、なんども繰り返されている。「書は人なり」という人口に膾炙した説を思い出させる「風采が思い浮かぶ書」という評価と、一見まったく反するかのような「醜怪悪札の祖」という評が、顔 真卿の書には同居している。これは相反するふたつの評価ではなくて、この両者を含んだ評価が、蘇軾のいう「新意」であると解するべきであろう。

《一碑一面貌、蚕頭燕尾と評される顔 真卿の楷書》
顔 真卿の楷書のほとんどは、石碑に刻まれたもの、あるいはその拓本をみることになるが、「一碑一面貌」とされるほど、石碑ごとに表現がおおきく異なるのが顔 真卿の楷書による石碑の特徴である。

また、顔 真卿の楷書、なかんずく後期の楷書に特徴的な書法は「起筆に筆の穂先をあらわさない≒蔵鋒ゾウホウ」であり、「蚕頭燕尾サントウ-エンビ≒ 起筆が丸く、蚕の頭のようで、右払いの収筆が燕の尾のように二つに分かれているところからそう呼ばれている」とされる。この書法は「顔法」とも呼ばれて、唐代初期の様式化された楷書に、あたらしい地平を開いたとされている。

このようなこまごまとした書芸論や書法論は、余人に任せたい。あるいはもはや語りつくされているかもしれない。
ここではむしろ、のこされたわずかな書から想起して、後世に描かれたであろう、顔 真卿の肖像画ふたつを中心に、わずかな楷書拓本を紹介し、自書・肉筆であることがあきらかな『祭姪文稿』の記載内容を理解し、その激情が紙面いっぱいにほとばしったような書をみながら、いまから1300年余以前の「漢 オトコ」顔 真卿の生きように迫ってみたい。

すなわち蘇軾(蘇東坡)がのこした述懐、
「顔 真卿の書を見ると、いつも彼の風采が思い浮かぶ。その人となりが思い浮かぶだけではなくて、盧杞ロキをなじり、李希烈リ-キレツを叱りとばす姿をまざまざと見るような思いがするのは、なぜだろうか」
という未解決の疑問に、盧杞、李希烈とはなにものか……。なぜ顔 真卿は、かれらをなじり、叱りとばしたのか……からはじめ、顔 真卿の心情の解析に、蟷螂トウロウの斧をふりかざして迫ってみたいのである。 

★      ★      ★

《顔 真卿の碑文との再会 ── 西安 碑林博物館》

中国 西安 碑林博物館。展示館入口「碑亭」の前で。2011年09月
かつては来訪者が絶えなかった日本人の団体客はおおきく減少していたが、現在は平日でも中国各地からバスをつらねてやってくる団体の参観者で大混雑を呈していた。
おりしも西安市では「世界花の博覧会」が開催されていて、イメージ・キャラクターの「柘榴 ザクロ」(陝西省名産の果実。花博?)が正面入口を占拠して、ドーンといすわっていた。

このごろの西安 碑林博物館は、平日でも日中はほとんどこの写真のような(あるいはよりいっそう)大混雑をきたしているそうである。まして「顔 真卿生誕1300年祭」とあって、顔 真卿の碑銘の周辺は押すな押すなの混雑であった。そのために早朝の参観でなければ、碑面をゆっくり見ることはできなかった。 


顔 真卿生誕1300年(2009年イベント開始)を期し、早朝から賑わう西安 碑林博物館
顔 真卿関連の石碑が集中する西安 碑林博物館の碑石展示室は、日中は中国人の団体客が押しよせていて、あまりの混雑でほとんど碑面の閲覧もできない状態だった。たまたまホテルが至近距離にあったのを幸い、早朝に再度参観に訪れた。
このとき(2011年09月)もまだ、ご覧のように顔真卿生誕1300年記念の赤い垂れ幕が掲出されていた。

────────────────
文化大革命のころの「四旧追放運動」からしばらく、義務教育から書法(書藝とも)の授業が廃されることなどがあった中国書法界だが、改革開放の時代をへて、近年の書法教育の普及には熱が入っており、書法家の意気も軒昂たるものがある。
また顔 真卿生誕1300年を迎え、多くの収蔵物を有する西安 碑林博物館は平日でも多くの参観者で混雑をきわめていた。

西安 碑林博物館第1室『開成石経』とその部分拡大  

《隔世の感、浦島太郎現象の連続 ── 15度目の中国の旅》
いささか旧聞に属するが、昨2011年9月に、中国からの留学生で、すでに中国各地に帰国して活躍している諸君に慫慂されて、ノー学部と同道して久しぶりの中国にでかけた。
9年ほど前に体調を崩したこともあって、しばらく中国に出かけなかった。気がついたらパスポートの有効期限が切れていた。ついでに古いパスポートも引っぱり出してみたら、過去に14回中国に出かけていたことがわかった。

1978年が最初で、ほとんどの旅は1980年代に集中していた。そのころの中国には「竹のカーテン」と揶揄されたバイアスがあって、どこへ行くのにもガイドの同行を求められ、通貨は「兌換券・兌換元」という外国人専用の奇妙な紙片をもたされた。
したがって「兌換元」が通用する、情報・環境が整備された場所にしかいけなかった。この兌換券は1993年まで使用された。
すなわち過去の旅は「観光旅行」にとどまり、過去の中国旅行の経験や知見が、まったく役立たないことを痛感させられる旅となった。
────────────────
《開成石経をもとに開設された、西安 碑林博物館》

「西安 碑林博物館」は、明代に(盛唐時代の1/4ほどの規模となって)築造された城壁に囲まれた、西安城の南門(明徳門)から、城壁にそって700メートルほどいった三学街の端にある。
「西安 碑林博物館」のメーンの展示物は、晩唐・開成2年(837)、中央官僚養成のために、長安の「大学タイガク、のちに改組・改称されて国子監コクシカン」に建立された「石の書物」ともいうべき『開成石経 カイセイ-セッケイ』114石、両面あわせて228面、都合65万252字の石碑群が、おもい存在の石碑群として碑林第1室を占めている。
この西安 碑林と『開成石経』に関しては『ヴィネット10号 石の書物 ── 開成石経』(グループ昴、朗文堂、品切れ、2003年6月12日)に詳しい。

展示館のまえに、ちいさな亭があって「碑亭」とされている。ここには唐・玄宗皇帝の豊艶な隷書による『石台孝教』(天寶4年・745)が収容されている。この『石台孝教』の隷書は、漢代の硬質な隷書とことなり、豊潤な八分隷によって、大胆かつあでやかに書丹されている。
この隷書の碑はまこともって艶冶エンヤとするしかことばをもたない。それを四方からみるだけで、時間はどんどん過ぎていく(詳細図版:無為庵乃書窓)。

蛮勇をふるって(『石台孝教』にふけるのをあきらめ)、碑亭から展示第1室にはいると、114石におよぶ巨大な『開成石経』が圧倒的な迫力で迫ってくる。この『開成石経』と『石台孝教』の収蔵と展示をもとに、西安 碑林博物館は 「歴史展示室」「石刻芸術陳列室」と、全国各地からあつめられた巨大な銘碑・石碑が陳列されている「碑林」の三部門からなっている。


盛唐時代のみやこ  長安城復元図(『随唐文化』陝西省博物館、中華書局、1990年11月)
現在の西安の城壁は明代に造築されたもの。上図盛唐時代の長安城の1/4ほどの規模になった。盛唐時代の長安城は、大雁塔のある慈恩寺も城内にあった。慈恩寺の境内は広大で、右から3ブロック目、下から2-3ブロック目の「晋昌街・通善街」を占めていた。

「西安 碑林博物館」は、唐の開成2年(837)に刻された『開成石経』と、碑亭内の『石台孝教』(天寶4年・745)とともに、当時の国立大学ともいえた「国子監」の敷地にあったが、唐代末期に長安城が縮小されて、ほぼいまの西安城の規模となったとき、「国子監」は城外にとりのこされ、『開成石経』などの石碑群は野ざらしの状態になっていたとされる。

それを憂い、開平3年(909)に石碑群は城内に移転され、さらに北宋の元祐2年(1087)「府学の北」の地に移されたとされている。
おおくの資料はこのとき「開平3年(909)」をもって西安 碑林博物館の発祥としている。しかしながら、「北宋の府学」は崇寧2年(1103)に「府城の東南隅」に移されたため、この「崇寧2年(1103)」をもって西安 碑林博物館発祥の年とする説もある。

────────────────
 《顔 真卿 生誕1300年祭と、顔家歴代の著名人》
顔 真卿(ガン-シンケイ 709-85)の生誕から1300年を迎え(正確には2009年が生誕1300年)、いまなお中国各地では顔 真卿がおおきな話題となり、顔 真卿関連の書法展と、その巡回展が盛んに開催され、また顔 真卿書法書の刊行もきわめて盛んである。

わが国でも《顔 真卿とその周辺》(東京国立博物館、2009年4月28日-6月7日)が開催されて話題を呼んだ。
また中国における《顔 真卿生誕1300年記念──第1回顔 真卿顕彰書法展、第2回顔 真卿顕彰書法展》には、日本人の書法家の活躍もめだったようで、とてもよろこばしいことである。
  ◎ 矢部澄翔氏
      顔 真卿『自書告身帖』の臨書作品を出品し、「西安碑林館長賞」(最高賞)を受賞。

  ◎ HILOKI 氏
      第2回 顔 真卿 生誕1300年記念書展  グランプリ受賞

西安市雁塔路の噴水公園に建つ、武将姿の顔 真卿石像。西安城内中央通りの開放路・和平路を縦貫し、玄奘三蔵ゲンジョウ-サンゾウゆかりの慈恩寺大雁塔ジオンジ-ダイガントウにいたる広い道幅の縦貫道「雁塔路 ガントウ-ロ」には、唐の太宗(李世民  在位626-649)の盛大な巡幸行列の再現彫刻をはじめ、唐王朝時代の政治家・文人・書法家などの巨大な石像が列をなしている。夜は噴水とともにライトアップされ、古都・長安(西安)のあたらしい観光名所となっている。
────

《わが国にもある、顔 真卿関連の諸資料》
根岸の里で著名なJR鶯谷駅から至近の一画に、画家にして書芸家の中村不折(ナカウムラ-フセツ 1866-1943)が蒐集した膨大なコレクションを収蔵する「書道博物館」がある。中村不折は新聞『小日本』の挿絵を担当し、それを通じて正岡子規と親しく、その自邸も路地をはさんだ斜め前と近接していた。

また島崎藤村の『若菜集』『一葉集』『落梅集』の装本・挿絵を担当し、夏目漱石『吾輩は猫である』『漾虚集』、伊藤左千夫『野菊の花』などの挿絵を描き、ブック・デザイナーの先駆けとしても知られるひとである。また森鴎外は遺言で墓標の書家に中村不折を指名し、ただ「森林太郎」とだけしるさせている。

JR鶯谷から書道博物館にいたるあいだのわずかな路地は、残念ながら風俗店がひしめき、少しの辛抱が必要である。そこを経て書道博物館にいたる。同館の斜め前には、正岡子規が居住していた「子規庵」がある。裏庭では四季折折の艸花が美しい。建物は第2次世界大戦で焼失したが、子弟が協力してほぼ当時の姿に復元されている。

書家としての中村不折は、北朝の彫刻風の際だった楷書に惹かれ、コレクションの中心は北朝系の書蹟が多い。当然北魏派の影響がつよかった顔 真卿にもこだわりがあったようである。
その研鑽から得られた書『龍眠帖』は、当時の南朝様式のもとで停滞していたわが国の書芸界に衝撃を与えた。
また、そのデザイン性の高さと親しみやすさから、店名や商品名の揮毫を依頼されることも多く、現在でも「新宿中村屋」の看板文字、清酒「真澄」や「日本盛」のラベル、「神州一味噌」「筆匠平安堂」のブランディングなどに中村不折の作品がのこっている。 

書道博物館はそんな中村不折のコレクションをもとに開設され、現在は台東区が維持・管理にあたっている。
書道博物館はまた、顔 真卿の作品の所蔵が多い。本館ロビー左手の主展示室には、たいてい顔 真卿『多寶塔碑』の巨大な拓本が掲出されている(詳細画像:無為庵乃書窓)。

『多寶塔碑』は天宝11年(752)の建立で、みやこ長安の千福寺に僧・楚金(698-759)が舎利塔を建立するにいたった経過について、勅命をもって、岑勛シンクンが文章をつくり(撰)、当時44歳の若き顔 真卿が筆をとり、史華シカが石刻したものである。
勅命をうけて碑の書写にあたるのは、すでに書法家としての顔 真卿には相当の評価があったとみられるが、顔 真卿後半期の楷書碑とくらべると、おだやかで整正な楷書といってよい。

このような顔 真卿による楷書の石碑は、ほとんどが西安 碑林博物館にある。「一碑一面貌」、いずれも個性に富んだ、魅力ある碑文ばかりである。年代順に整理して紹介しよう。
なお画像は筆者がIT弱者ゆえ、「無為庵乃書窓」主人にお許しをいただいて、おもにはそちらで閲覧していただけるようにした。

◎『多寶塔碑』[タホウ-トウヒ、天宝11年・752、顔 真卿44歳の書]  (詳細画像:無為庵乃書窓)

◎『麻胡仙壇記』
[マコ-センダンキ、暦6年・771、顔 真卿63歳の書](詳細画像:無為庵乃書窓) 

◎『顔勤礼碑』

[ガンキン-レイヒ、乾元2年・759、大暦14年・779の両説ある。顔 真卿70歳のころ、曾祖父・顔礼の墓碑を撰ならびに書したもの](詳細画像:無為庵乃書窓)

◎『顔氏家廟碑』[ガンシ-カビョウヒ、『顔惟貞ガン-イテイ廟碑』とも。顔 真卿が72歳のとき、父・惟貞のために廟をつくり、碑をたてて顔家の由来をみずから述べしるしたもの](詳細画像:無為庵乃書窓)

などがしられる。



顔 真卿『自身告身帖』より部分。書道博物館蔵。
『台東区立書道博物館図録』(平成19年10月1日)より部分紹介

また「書道博物館」の新館2階「特別展示室」は、ほぼ顔 真卿の作品で埋めつくされている。なかでも目を惹くのは『自身告身帖』である。この書巻は、顔 真卿の自筆楷書として唯一現存するものとされている。
『自身告身帖』は顔 真卿の晩年77歳の書である。顔 真卿の高齢化にともなって、名誉職ともいえた皇子の教育係に転任するように命じられた辞令を、自らに宛てて書いたものである。
おそらく顔 真卿はこの「棚上げ」ともみられる任命には不満があったとみえて、送筆にいくぶん遅滞がみられる。それでも77歳にして、これだけの楷書をのこすとは、躰はもとより、精神もそうとう頑健な人物であったとみたい。

『自身告身帖』にも、後半期の顔 真卿の楷書に独特な「向勢」の書風はのこされており、縦画の送筆部分をもっともふとくすることで迫力と豊満さをあらわしている。向勢で変化しているのはおもに線の外側であり、内側の線を直線にすることで、文字空間の美しさをたもっている。
さすがに特別展でもないかぎり『自身告身帖』の現物は展示されないが、「特別展示室」にはほぼ常時、できのよい原寸複製書が展示されている。またこの複製書はギャラリー・ショップで販売もされているからうれしい。

《顔氏一族における[漢字楷書]字体の標準確立への執念》
ここでふたたび舞台を中国に移そう。顔 真卿という異才をうんだ、顔氏の一族をみよう。

中国で、魏・呉・蜀の三国が分立した220年ころから、南朝の陳が滅亡する589年までのおよそ360年間を「魏晋南北朝」という。この魏晋南北朝の末期から、顔家は「古訓学──字や文章の古典に通じ、故人の訓誡を説く」に通じた名家として歴史に名をのこしている。
また顔氏の遠祖はきわめてふるく、孔子の高弟であった「顔  回」(ガン-カイ、春秋末期の魯の賢人で、孔子門下十哲のひとり。前514-前483)だともされている。

顔家の本貫の地は、いまの中国山東省、ふるくは瑯邪 臨沂ロウヤ-リンギと呼ばれていた地方だが、顔 真卿(ガン-シンケイ 709-785)のうまれは、父の勤務地であった長安だったともされる。あざなは清臣セイシン。
父の名は顔 惟貞ガン-イテイ、母は殷氏のひとであった。13人兄弟の7番目の子供としてうまれた。
また平原太守ヘイゲン-タイシュをつとめたことから「顔 平原」とも呼ばれ、魯郡開国公 ログン-カイコク-コウに封ぜられたことから「顔 魯公ガン-ロコウ」とも呼ばれている。

中唐の玄宗皇帝治世下の734年(開元22)に、26歳で科挙の進士に登第(及第)して中央官僚となり、唐王朝中期の玄宗・肅宗・代宗・徳宗の4人の皇帝に仕えた。
その唐王朝朝廷へのまったき忠勤ぶりは、わが国幕末の思想書に紹介され、尊皇攘夷を掲げて維新をめざした若者に多大な影響をあたえた『靖献遺言』(セイケン-イゲン、浅見絅斎アサミ-ケイサイ、1684-87)によって知られることになった。すなわち顔  真卿は唐王朝を正統とみなして忠義をつくし、その王朝の敵対者には徹底的に抵抗した。

こうした、かたくなまでに儒学的忠義をつらぬき、さらには名書家として名をのこした顔 真卿を理解するために、すこし歴史をさかのぼって顔氏歴代をみてみよう。 
────


顔 之推(ガン-シスイ  531-602頃、あざなは介。中国の南北朝時代末期の学者)
顔氏の家は魏晋南北朝(220-589)の末ころから、瑯邪臨沂ロウヤ-リンギ(山東省)をおもな本拠地として、代代「訓詁クンコ学──字や文章の古典に通じ、故人の訓誡を説く」に通じた、文武の名家として名をのこしている。
よく知られる人物では、遠祖とされる顔 回はともかく、顔 之推(ガン-シスイ  531-602頃)がいる。顔 之推は儒学者として、 梁・北斉・北周・隋などの南北朝末期の諸王朝につかえ、また子孫への訓誡をしるした書物『顔氏家訓』(7巻 2巻本も存在)をのこした。この顔 之推は、顔 真卿の五世の祖とされている。

顔 師古 (ガン-シコ 581-645。中国初唐の学者)
初唐の学者にして、顔 之推の孫にあたるのが顔 師古(ガン-シコ 581-645)である。師古はあざなで、名は籀チュウであった。やはり訓詁の学に通じ、唐の高祖(唐王朝初代皇帝、李 淵)のとき中書舎人になったため、高祖の詔書は顔 師古の手によったとされる。
また貞観の治でしられ、自身も能書家であった太宗(唐王朝第2代皇帝、李 世明、在位626-649、598-649)のとき、中書侍郎(チュウショ-ジロウ 中書・門下両省の実質上の長官。また六部リクブの次官)となり、また勅命をうけて、孔 穎達コウ-エイタツとともに『五経正義  ゴキョウ、ゴケイ-セイギ』(180巻 638年) を撰した。

この『五経正義』は『顔氏字様』にもとづく楷書正体(正書)字体で書かれ、儒教でおもくみられる五種の経典、すなわち『易』『書』『詩』『礼 ライ』『春秋』の経典解釈のうち、ひろく諸家の説から適当と認められる解釈をまとめたもので、科挙(官吏登用試験)の受験者、および五経の訓詁をまなぶものの必読書とされた。
この顔 師古は、後述する顔 玄孫の祖父の兄(大伯父)にあたる人物とされている。顔 師古の手になったとされる『顔氏字様』は、顔 玄孫『干禄字書』のさきがけとなった字書であるが、散逸して現存しない。
しかしながら、顔 玄孫『干禄字書』は、祖先・顔 師古の労作が参考とされており、またその記述内容だけでなく、「字様 ≒ 刊本の上にあらわれた書風」としての「顔氏字様」も、良かれ悪しかれ唐代の知識層におおきな影響をあたえた。

◎ 顔  玄孫 (ガン-ゲンソン 生没年不詳)
 顔 師古の四世の孫であり、顔 真卿の伯父とされるのが顔 元孫(ガン-ゲンソン 生没年不詳)である。顔 元孫は祖先の顔 師古がのこした『顔氏字様』を整理して、『干禄字書』(カンロク-ジショ 1巻)をのこした。
『干禄字書』は800余字(の漢字)を音韻別に配列して、その「楷書字体の正・俗・通」を弁じたものである。顔 元孫の定義によれば、『干禄字書』で正字として分類されている字体が、確実な根拠を持つ由緒正しい字体であり、朝廷の公布文書のような公的な文書や、科挙の答案などにはこれを用いるべきであるとする。

いっぽう、通字は正字に準ずるものとして扱われ、長年習慣的に通用してきた字体であり、通常の業務あるいは私信などで使用する分には差し支えないとした。俗字は、民間で使用されてきた字体で、日常的・私的な使用は良いが、公的な文書では用いるべきではないとした。
『干禄字書』は後世の字体の正訛を論ずる際の典拠にながらくもちいられた。


『干禄字書』(柳心堂リュウシンドウ 明治13年12月 国立国会図書館蔵)

顔 玄孫は名はよくしられるが、生没年に関する記録はない。またその著作の『干禄字書』は、官版(政府刊行書)ではなく、いわば顔家の私家版の書物であるが、わが国にも相当ふるくからもたらされたとみられ、書写本や江戸期刊本などが現存している。また国立国会図書館のデジタル化資料には  『干禄字書』(柳心堂、明治13年12月)が紹介されている。
このように顔氏一族に伝承されてきた『顔氏字様』を『中国の古典書物』(林昆範、朗文堂、2002年03月25日 p.97)では以下のように紹介している。

唐の時代には写本とともに、書法芸術が盛んになって、楷書の形態も定着した。その主要な原因のひとつとしては、太宗皇帝[唐朝第2代皇帝、李 世明、在位626-649]自身が能書家であり、儒教の国定教科書として『五経正義 ゴキョウ-セイギ』を編集させたことにある。そこで使用する書体を、編集協力者の顔 師古ガン-シコによる正体(正書・楷書)、すなわち「顔氏字様」をもちいたことが挙げられる。
「顔氏字様」はのちに顔 師古の子孫、顔 元孫ガン-ゲンソンが整理して『干禄字書 カンロク-ジショ』にもちいられた。この顔 元孫は、顔 真卿の伯父にあたる。
このように顔家一族から顔 真卿に伝承された「顔氏字様」は、まるで唐王朝における国定書体といってもよい存在で、初期の刊本書体として活躍していた。 

『多宝塔碑』(原碑は西安 碑林博物館蔵)
拓本は東京国立博物館所蔵のもので、北宋時代の精度のたかい拓本とされている。現在は繰り返された採拓による劣化と、風化がすすみ、ここまでの鮮明さで碑面をみることはできない。

繰りかえしになるが、顔 真卿の楷書のほとんどは石碑に刻まれたもの、あるいはその拓本をみることになるが、「一碑一面貌」とされるほど、石碑ごとに表現がおおきく異なるのが顔 真卿の楷書による石碑の特徴である。
『多宝塔碑』は、長安の千福寺に僧・楚金ソキン(698―759)が舎利塔を建てた経緯を勅命によってしるしたもので、もともと千福寺に建てられ、明代に西安の府学に移され、現在は西安 碑林博物館で展示されている。顔 真卿44歳の若い時代の書作で、後世の楷書碑の書風より穏やかな表情をみせている。 
なお、顔 真卿の自筆楷書作品とされるのは、わが国の書道博物館が所蔵する、最晩年(780年、建中元年)の書作『自書告身帖 ジショ-コクシン-ジョウ』だけである。
────────────────
まもなく、蘇軾が活躍し、多くの木版刊本「宋版」をうんだ臨安(現・杭州)を訪問する。
蘇軾こと蘇東坡の詩でよく知られるのは、つぎの『春  夜』であろうか。

   『春  夜』    蘇 軾
春 宵 一 刻 直 千 金
花 有 清 香 月 有 陰
花 管 楼 台 声 細 細
鞦 韆 院 落 夜 沈 沈

今回の短い旅では、春の宵を愛で、月光に照り映えるお花畑のブランコ(一説にポルトガル語から。ふるい中国では鞦韆シュウセン)に游ぶ少女の姿をみることはできないだろうが……。

蘇軾はまた、中国史上きってのグルメとしても知られる。
豚のバラ肉をとことん煮詰めた料理「東坡肉 トンポーロウ」は蘇軾が発案したそうである。旅の同行者ノー学部は困ったことに、ここのところもっぱら「東坡肉」の研究に余念がない。
やつがれは衣食住にほとんど興味・関心がない。でも内緒で「東坡肉」を食べてみたいとおもう。
旅を終えたら新資料をもって顔 真卿のその後をしるしたい。
【この項つづく】

新・文字百景*003 いろいろ困っています「片」の字

 「文と字」はおもしろい……、けれど

いろいろ困っています「片」の字で!
その実例を紹介 

《爿と片を『部首がわかる字源事典』からみたい》
新・文字百景では、「字と文」の入門編としての学習が、「爿ショウ と 片ヘン」をめぐってつづいている。
このブログロール『花筏 ハナイカダ』は、無料配信ソフトのためか、はたまた筆者の技倆不足のせいか(おそらく後者)、どうもアーカイブへの収納がうまく機能しない。そしてひと囓り
リンゴ型のパソコンでは、やたらに重く、動作がのろいし、データが壊れたりもする。読者諸賢にあっては、なにとぞご海容を。

それでも本コーナーをはじめてご覧になるかたは、ご面倒でも、アーカイブからデータを引きだして、「新・文字百景*001-002 」をひととおりご覧になってから本章をお読みいただきたい。
そうでないと、筆者が我田引水、自らの姓をもって苦情を申したてているようにとられかねない。
筆者は、大勲位・中曽根康弘氏をはじめ、曽根さん、小曽根さん、中曽根さん、大曽根さん、曽根山さん、曽根崎さん、曽根川さん、曽山さん、曽川、曽田さん、小曽田さん、中曽田さん、大曽田さんらのご一統さまにも、こころからご同
情もうしあげているのである。

  ◎新・文字百景*001  後漢のひと許愼胸像と、その編著『説文解字』を紹介し、
                   「文と字」のなり立ちを「爿・片」を通じて紹介。
  ◎新・文字百景*002  中曽根・曾根崎の「そ」は、「曾か曽か」を実例をもって検証。
                   
意外に頼りないゾ、わが国の「漢和字書」。
  ◎新・文字百景*003  いろいろ困っています「片」の字で!
                   その「片」のさまざまな実例を紹介。 

最初に掲げた図版はすべてが参考図といった位置づけで、『部首がわかる字源事典』(新井重良、木耳社)に紹介された「版築法」の図版と、『康煕字典』の「爿ショウ部の 爿」にみる、『六書略』から、
「爿は同書註詳上にみるように、ふるくは古文(中国古代の文 ≒ 中国古代の字、図版紹介)があった」
から、「爿の古文」をふたつ、それぞれあらたに書きおこして紹介した。
そして、「爿の古文」から「片の古文」を想定して描いてみた。

もとより「片」は、許愼『説文解字』でも部首としており、「片の古文」が上図ような字体であったとするものではない。どんな字書にもしるされるように、
「小篆などの木の字を半分にして、爿と片をつくった」
とする説にしたがうと、こういう字画の「片の古文」があってもよいかな、という実験である。

『部首がわかる字源事典』(新井重良、木耳社)では、中国におけるふるくからの土壁や土壇の築造法で、板で枠をつくり、その中に土を盛り、一層ずつ杵でつきかためる「版築法」を紹介し、その左側の杭と板の形象から「爿」がつくられ、右側の杭と板の形象から「片」がつくられたとする。すなわち「爿」「片」とも象形であるとする。
ここであらためて、新・文字百景*001に紹介した「木 → 爿・片」の図版を紹介しよう。
新井氏の版築法にもとづく象形という説と、許愼『説文解字』との違いが明確になりそうだ。

ところがここに掲げたふたつの図版をみただけでも、また、圧倒的に右利きのひとが多い現状に鑑みても、爿の形象は、運筆上、きわめて書きにくい形象であったことがわかる。そこであらためて下図にしめしたような「古文 爿」が別に存在していたか、あるいは(むしろ)「爿」の「文 ≒ 字」が成立したのちにつくられたとおもわれたので、片の古文も「爿」の古文から想定でつくってみた次第。
これが、なかなか好ハオ! ではないか。 

字源が木の半分とされ、どこかグラグラと安定感がなく、頼りない「爿・片」よりも、古文「爿と、想定古文 片」の造形にみる、頑固一徹、有無をいわさぬ剛健さがおもしろい。
特製デジタルタイプのデータをつくって私的な場などでつかったら……、やはり顰蹙ヒンシュクをかうだろうなぁ。

蛇  足  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 

◎ 予  告  編 ◎

 臼  □(キョク,キク) 鼠  鼡     

   この「新 文字百景*003」は元旦の2時間ほど前にアップした。それにか
        ねて気になっていた上記の4字を、正月のあいだに「蛇足ながら」として追
       
記したところ、本稿のデータがすべてクラッシュして仰天。幸いHTMLデー
        ターから復元できたが、数度のトライのあいだに、どうやらクラッシュの原
   因が「□  部首:臼部、漢字音:キョク、和訓音:無し、文字コード:U+26951」
   の使用にあることが判明。

   1983年JIS漢字表の改訂にともなう混乱は、それはひどいものだった。
   この1980年代中葉の、俗に「83JIS問題」とされた大混乱をしる年齢層
   は、いつのまにか50代後半以上のかたになってしまったようだ。その混
   乱のひとつの原因が「臼部」とされたいくつかの字であった。
   ちなみに「興味」の「興」も臼部である。上図「② キョク、キク」は「古文」として
   紹介される。それを「臼の部首の字」としたためにおきた混乱であった。

   本稿では、できるだけ「文字」の使用をさけている。その理由を軽軽に記
   述することは困難であるが、「文」にはわが国の「紋、記号」に近い字義で
   もちいられることが多く、人口に膾炙したとはいえ、「文と字をあわせる →
   文字」をもちいると、ここでは混乱をまねくことが予想されるからである。
    
   
前述の□(キョク、キク  文字ソースは入っていません)は、現在では「手扁」を
   つけて
「掬う、すくう」の(中国では同音・同義の)別字、あるいは「菊 キク」
   から「艹冠」を取りさった字画である。
   すなわち、
   「手扁の無い掬」の古文「□ 部首:臼部、漢字音:キョク、和訓音:無し、文
   字コード:U+26951」を、わが国のかつての漢和辞典のほとんどが臼
   部の字としために起こった混乱でもあった。
   換言すると、「古文 爿」は無視したが、「古文 □キョク、キク」を本字扱いにし
   たことによった。そこで、問題のユニコードのキャラクターをアウトライン
   化して、おもに「臼」に関して、そして「中曽根」さんと同様の悩みをかか
   える「ネズミ」に関しても近日アップ予定! 乞う、ご期待。

   それにしてもWebsiteってユニコード・キャラクターを拒否するのかな?
   それともITオンチの筆者の技倆のせい?  冗談ではなく、正月まっ盛
   りに、いっとき、《ダズゲデグレー !!! 》状態におちいった。

   
ITにくわしいかたで、ご関心のあるかたは、□キョク、キク  文字コード:U
        +26951、□ キョク、キク  文字コー
ド:U+26951で実験し、ぜひともご
   指導願いたい。 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

このような不自然な運筆をしいられることがして、常用漢字などでは「爿」の部首の形象をかえて「爿→ 丬」とした一因ともおもえるが、それでもいまなお「爿」は、部首のようなかたちでも、音符(声符)のようなかたちでも、しぶとくいきのこっていることも「新・文字百景*001」で紹介した。
しかしながら、「爿」は新部首「丬」をつくったもらえただけ幸せなのかもしれない。おかげで「武將 → 武将」として、チョイといかめしさは無くなったが、字義も字音もかわることなく、字画だけがかわっていきのこることができた。
だから篆書の「木」からつくられ、同根とされる「片」にも、新部首をつくって欲しいときがある。 

 《台湾の國字としての爿と片をみる》
わが国の文部科学省にあたる、台湾教育部が発行した『國字標準字體宋體母稿』(教育部編印、民国87年2月・1998)は、中華民国(台湾)独自の字種規定、「大五碼(BIG-5と通称)」、あるいはわが国のJIS規格文字コード表と同様に、電子機器搭載の字に関するコード表「CNS 11643」とも連関する基礎資料で、わが国における「漢字」、すなわち台湾における「國字」を明瞭に定めた書物である。

台湾では、まず楷書が母稿として定められ、ついで宋体(ほぼわが国の明朝体)、方体(ほぼわが国のゴシック体)、隷書などが規定されている。
『國字標準字體宋體母稿』には以下の分類にもとづいて、18,369キャラクターが例示されている。
  ◎ 常用字                4,808字
  ◎ 次常用字               6,343字
  ◎ 罕用字(罕カンは まれに の意)  3,986字
  ◎ 異體字                2,820字
  ◎ 附録字                  412字
               合 計      18,369字 

『國字標準字體宋體母稿』が、わが国の類書と決定的に異なるのは、明確な文言が存在していることである。わが国のそれは、「既成書体による例示」はあるが、その制定の経緯、根拠に関してはほとんど説明が無い。
『國字標準字體宋體母稿』では、50 ページにわたって、詳細をきわめた論述の存在がある。
それは、制定までの経緯、制定にあたって検討した項目と資料書目一覧、その資料利用頻度表、そして字體構成の原則と細則が規定され、最後に実例の字(キャラクター)の明示が続く。  
  ◎ 標準字體的研訂簡史
  ◎ 標準字體的研訂宗旨
  ◎ 標準字體的研訂原則與實例
         甲 : 通則  乙 : 分則    

上にかかげた図版は、その「標準字體的研訂 原則與實例 乙:分則(p27)に掲載されている、「片」「爿」の規則である。
この分則では、篆文としるされた記述は許愼『説文解字』によることなどがあらかじめ明示されている。
そして基本的な字體構成の説明、画数とその筆順が簡潔に説かれている。
すなわち現代台湾においても、字の規格制定にあたって、もっとも重視される文献は、西暦100年ころに許愼によってしるされた『説文解字』であることに、あらためて驚かされる。

ここに拙訳ながら、この上記2項目の記述を紹介したい。
33  「片」は『説文解字』によると「木を半分にしたもの」。第 2 画と第 3 画は相接するが頭はでない。末筆(終画)は一本の線を横に折る(転折・転筆)。宋体の画数は 4 画である。「片」「版」などの字がある。
34  「爿」は『説文解字』によると「片を反対にしたもの」。最終画の左払いと 3 画目の横線は相接する。「爿」と「片」は相対する。「壯」「牆」などの字がある。

《わが国にファンの多い『康煕字典』をみる》
どういうわけか、わが国においては「漢字字書」として『康煕字典』(康熙55, 1716 年)の「ファン」があまりにも多い。たしかに『康熙字典』は比較的近世の木版印刷による刊本であり、その字様は楷書の工芸字様ともいうべき明朝体である。
また部種別配列であることも、「文と字 ≒ 漢字」への親近性においておとるわが国の関係者には、好都合な「字書」だったかもしれない。
明朝体は中国・台湾では職業人は「宋体」とするが、ふつうの生活人は「印刷体」とすることが多い。すなわちわが国の「明朝体の風景」とは異なり、あまり重くみているわけではなく、生活人は「そこに、印刷のために、あたりまえに存在している字」とすることが多い。

しかしながら『康煕字典』の肝心の帝の名前である「こうき」が、表紙・扉ページなど、いわゆる装丁とされる部分だけでも、「康熙・康煕・康熈」など、三例の使用例があって、「字書」としてはまことに頼りない。
そのためにわが国の文字コードでは、ほとんどこの用例のためだけに、「康熙 シフトJIS EAA4」「康煕 シフトJIS E086」「康熈 シフトJIS E087」の、みっつものキャラクターを用意しているほどである。これをもってしても、いまだにわが国の一部で「康熙字典体」などと崇め奉っているむきがあるのはいかがであろう。

また中国では古来、字に関して記述した書物は「字書」であり、「字典」というおもい名称をあたえたことはなかった。「典」は「典型」に通じ、書物としては、儒教・道教・仏教などの経典などの書物にはもちいられてきたが、ともかくおもい字義、字の意味をもった「字」であった。
したがって清王朝第四代皇帝・康熙帝が、勅命によって、「字書」にかえて「字典」としたことに、ときの中国の知識層は震撼し、ある意味では支配民族の増長、ないしは知識・教養不足のなせることしてとらえた。

またその治世が62年とながかった康熙帝(1654-1722, 在位1661-1722)は、紫金城内武英殿を摺印場(印刷所)として、いわゆる武英殿版ブエイデン-バン ないしは殿版デンパンとされる、多くの書物をのこした。
そのかたわら、康熙帝は文書弾圧として、いわゆる「文字獄 モジゴク」をしばしば発令して、すこしでも漢族の優位を説いたり、夷族(非漢族)をそしった書物を没収・焼却し、その著者と刊行者はもとより、縁族までも重罪としたひとでもあった。
この清王朝前・中期にしばしば発令された「文字獄 モジゴク」は、巷間しばしばかたられる 秦の始皇帝による「焚書坑儒」(前213)より、その規模と頻度といい、全土におよぶ徹底ぶりといい、到底比較にならないほど激甚をきわめたものであった。
そこにはまた「文と字」を産み育ててきたという自負心を内蔵している漢族と、ときの支配民族としての満州族(女真族)との、微妙な民族感情の軋轢の痕跡がみられたことを知らねばならない。

ちなみに、上掲『國字標準字體宋體母稿』(教育部編印、民国87年2月・1998 p.03-08)に「標準字體的研訂宗旨」があり、そこには制定にあたって参考にした書目、49種が列挙されている。上位から10位までを順に挙げよう。
   1.中文大辭典         2.中華大辭典          3.辭海
   4.辭源              5.辭通              6.康熙字典
   7.説文解字詁林         8.正中形音義綜合大字典   9.佩文ハイブン韻符
   10.駢文ヘンブン類編

ついで、「選字歩驟 センジ-ホシュウ  如下 シタノ-ゴトシ」があって、「総字表」の制定にあたって使用した15種の書目が列挙されている。ここで別格にあつかわれ、主要参考書目とされたのは『中文大辭典』(中國文化研究所、49,905字)である。
おどろくことに、ここには第2位に『日本基本漢字』(三省堂、3000字)、第6位に『角川常用漢字字源』(角川書店、1967字)といった、わが国の書目が上位にあげられている。
そして、かの『康熙字典』は、「標準字體的研訂宗旨」では第6位に挙げられていたが、「選字歩驟如下」15種にはまったく無い。
また「標準字體的研訂宗旨」、「選字歩驟如下」の双方に、わが国で最近刊行された漢字字書と類字の名前があるが、それに関して筆者は触れたくない。     

『康熙字典』の「巳集中」に、「爿部」と「片部」がおかれている。
「爿」の説文解字の項をみると、「牀」を例としてあげて、
「牀从木爿聲 ≒ 牀は木の部首にしたがう。爿は聲」
としている。
ここでいう聲・声は漢字音のことである。すなわち『康熙字典』では部首として「爿部」を設けているが、許愼『説文解字』では部首としての「爿部」はないために、「牀」は「木部」になるとしている。
新・文字百景*001で、「爿 ショウ」は音符・声符の性格がつよいとしたのはこのためである。

また新・文字百景*001で「从・從・従」は同音・同義の字であり、現代中国ではもっぱら「从」をもちいていることを紹介し、「したがうの意」として紹介した。
これが間違いだったわけではないが、わが国ではむしろ「従属」とするか、むしろおもいきって「属する」としたほうが理解しやすいようなので、これからの記述にあたり「从 → 属する」ともすることをお断りしたい。

或  体 ワクタイの代表例
牀 と 床 は「同字」とされる 

『康熙字典』での「爿部」最初の実例としてあげられた「牀」を、藤堂明保・電子辞書『漢字源』からみたい。
【牀】  (楷書)総画8画、シフトJIS E0AC、部首 爿部
     字音:ショウ/ソウ/ジョウ  chuáng 
     意読:ゆか
     解字:会意兼形声。
         爿は、ほそ長い寝台を縦に描いた象形。
         牀は「木+音符爿」で、木を加えて爿の原義を明示した字。
         ⊿床は、もと、その俗字。

【床】  常用漢字
     (楷書)総画7画、シフトJIS 8FB0、部首 广 マダレ部
     字音: ショウ/ソウ/ジョウ  chuáng 
     常読:ショウ/とこ/ゆか
     意読:とこ/ゆか/ゆかしい(ゆかし) 
     解字:会意。
         「广(いえ、部首:まだれ)+木」で、木製の家の台や家具をあらわす。
         もと細長い板を並べて張ったベッドや細長い板の台のこと。
         牀(ショウ)とまったく同じ。

ここで明確になったのは、「爿」の原義を明示する重要な字が「牀」であることである。
こうした字を或体ワクタイという。熟語としての或体の説明はほとんどの「漢和字書」に紹介されているが、「国語辞書」にみることは少ない。
「或体は、許愼『説文解字』で、見出しとした小篆と、同音・同義の字として示されている字体」
と藤堂明保・電子辞書『漢字源』では説明しているが、いささか文意がとおらず心許ない。

おそらく許愼は、小篆から「爿」の字を発見できなく、その原義を説明することがなかったが、それにかえて「牀」を掲げて、
牀は「木+音符爿」で、木を加えて爿の原義を明示した字。
としている。このような部首にはならなかったが、「或る字画を精細に説いた」例が『説文解字』にはたくさんみられる。これらの一連の字を「或体 ワクタイ」としたものである。

ついでながら、「或」は、國や地域の「域」の原字となった字であり、そうとう重い字義を有する。
楷書字画:8画、部首:戈ホコ部、シフトJIS 88BD
漢字音:ワク、コク、huò、意読:ある、あるいは、あるひと、まどう(まどふ)。
《漢字源 解字》
六書の会意。「戈ホコ+囗印の地区」から成る。また囗印を四方から線で区切って囲んだ形を含む。それで、ある領域を区切り、それを武器(戈)で守ることを示し、域や國(コク)(=国)の原字である。
ただし、[わが国の]一般では「有」にあて、ある者、ある場合などの意にもちいる。或の原義は、のちに域の字であらわすようになった。

また、常用漢字「床」は、「牀」と字義、字音がおなじであるので、藤堂明保は「牀」の項で、
「床は、もと、その(牀の)俗字」
とし、「床」の項では、
床と牀(ショウ)とまったく同じ」
としている。
このように、字義 ≒ 字の意味、字音 ≒ 字の発音がおなじ字が、ながい歴史のなかで変化し、かつて俗字・略字とされた字が、わが国の常用漢字になったり、中国の簡化体になったりする事例もみられるのである。

それにしても、「爿」のあわれさはかくのごとくである。
牀は「木+音符爿」で、木を加えて爿の原義を明示した字。
とされながら、いつのまにか「牀」は
「床は、もと、その(牀の)俗字」
「床と牀(ショウ)とまったく同じ」
とされ、「床」が生きのこって、「爿」の原義をあらわす「牀」は見捨てられつつあるようだ。
それは「牀」の書きにくさのゆえか、はたまた許愼の呪いか……ともおもわぬでもない。

 《悲喜劇もろもろ、現代の「片」の字のいま》
オヤジは字画にうるさかった。日中戦争さなかに医学部を卒業し、陸軍軍医として召集されて都合14年間をすごした。とはいえ、
一応モダンを気取る、開明派の多い慶應義塾の出身だったから、保守的なひとではなかったが、字画にはなにかとうるさかった。
筆者が「明朝体のお稽古」をしていたころ、
「この釘がポキポキ曲がったような書体が明朝体か。この書体の〈片〉の字はイヤだな。とくに2画目の点が、壊れた釘の頭みたいで品が無い。こうやって、ドンと点をうつと、よい字になる……」

ことの善し悪しは別として、オヤジは終生下図のような、2画目がドンとした点で、最終画を「曲げ撥ね」とした「片」を書いていた。
もちろん字画は5画である。
こんな字画をもとにして、オヤジは召集解除となってから田舎で開業医となり、ちいさな「片塩醫院」の看板を掲げていた。
兄貴もずぼらなせいか、オヤジが残した看板をそのまま使って、2011年夏に没した。甥がいやいや三代目を継いで、診療科目が増えたので看板を作りかえたらしいが、まだみていない。

許愼『説文解字』も、『康熙字典』も、楷書字画は4画とされていることは紹介してきた。
下図の認め印は、その昔、はじめてハンコやさんで筆者が「認め印」をつくったときのものである。
あまりほかにない姓なので、いわゆる既製品の三文判はなくて特製だったが、ハンコをもつことがなにかひとり前になったような気がして、嬉しかった記憶がある。
ツゲ材らしいが、だいぶ傷んできたのでもうつかっていない。これも最終画はオヤジの筆法を真似て「曲げ撥ね」で依頼したが、「曲げ止め」になっていた。改めてみると、よくできた認め印だったなとおもった。 

最後の図版は、目下使用中の筆者の運転免許証である。「片」の最終画は「曲げ止め」で、5画である。
これがしばしば問題をひき起こす。
筆者は錦糸町の運転免許試験場で更新手続きをしたが、支給された免許証の「片」は、ご覧のように5画の「最終画を曲げ止めとした 片」である。
息子はゴールド免許で、地元の警察署で更新したという。みせてもらったら地元警察署の「片」は4画。図版提供をもとめたら、
「やだよ、そんなの、みっともない」
ト 断られた。
たしかに運転免許証の写真とは、ほとんどたれもが、凶悪犯人そのもののようにみえるからイヤになる。筆者もこの写真ほど悪相ではないとおもっているのだが……。

新・文字百景*002で、「大阪の曽根崎警察署は、曾根崎二丁目にある」とする例を紹介した。
どうやら警察署は漢字の字画に鷹揚なようだが、駐車違反の罰金など、国庫収納金となる書類の作成や、まして税務署ではまったく違う。ここでは異常としかおもえないほど字画に厳格である。

官公庁専用書体として「電子政府書体」なるものが存在していることは、意外と知られていないようだ。「電子政府書体」はリョービイマジクス(現:モリサワMR事業部)が主体となって受注製作したもので、味も素っ気もない、いかにも役所好みの明朝体の一種である。だから、中国における「印刷体」と同様に、たれも興味関心をいだかないようだ。

ところが、いっとき賛否両論で大騒ぎになった「住民基本台帳 略して住基カード」が導入されて、かつての手書き式の戸籍にかえ、デジタル化された戸籍が作成されている。このときもちいられたのが「電子政府書体」である。

電子政府書体には、「片」の字には4画と5画があるが、筆者の「住基カード」の「片」は5画になっていた。たれが手書きからデジタル文書としたか、たれがデジタル書体の5画「片」としたかは知らない。
大勲位・中曽根康弘氏も、住基カードの姓は「中曽根なのか、はたまた中曾根なのか」、ぜひともうかがいたいものである。
────
年になんどか「消費税」の納付を銀行振り込みでおこなってきた。それを数年前から「電子納税システム」に変更した。この「電子納税システム」に切りかえた際のことであった。納付を済ませてヤレヤレと安堵していたところ、所轄の四谷税務署から電話があった。

警察と税務署からの電話など(別に悪いことなどしていなくとも)なんとなく薄気味わるいものだ。
ところがやたら詳細かつ丁寧に、
「昨日、株式会社朗文堂、代表取締役・片塩二朗さまから納付いただいた消費税は、現在受領されておりません。片塩二朗さまというかたが、世田谷区の戸籍にみあたらず、納付手続きが完了しておりませんので」

おもわず絶句した。オイオイ、筆者の本籍地は東京都世田谷区。その世田谷区の戸籍に見あたらないということは……、無国籍になるではないか!
「片という字が5画になっていまして、お名前を機械(OCRのこと?)で読みとれない状況です。至急戸籍管理者に所用の手続きをして、4画の片に直してください」

税吏は決して威圧的だったわけではないが、筆者の抗弁もむなしく、「5画の片を、4画の片へ、すみやかなる変更」を繰りかえした。そして最後に、きっぱりと、
「恐縮ですが、納付期限が明後日××日ですので、それまでに手続きを完了しないと、延滞料として年利14%の延滞金の加算となりますのでよろしくお願いいたします」

よろしくもなにもない。延滞料の年利14%とは、悪評高かったころの「サラ金」なみの暴利である。
しかも支払いは完了しているが、受領していないという。それでは手許の「領収書」とはなんなのだ!

ところが筆者は、中途半端に「電子政府書体」の存在と、OCRとの関連をしっていたのがまずかった。
「住民基本台帳 略して住基カード」の導入には、個人情報管理の面から反対がつよかった。そこでときの政府はデータ流出防止とその悪用防止のために、全面的にOCR(Optical Character Recognition, 光学式文字読みとり装置トモ)の採用を決めた。
すなわちいくら税務署といえども、OCRをつうじてでなければ、筆者の戸籍にアクセスできない仕組みになっているはずである。その読みとりに際して、もっとも重視されるのが「漢字字画」である。詳細は知らぬが電話番号や住所からは入れない仕組みらしい。

翌朝、住基カードの手続きをおこなった「世田谷区北沢総合支所」をたずねたら、変更は「世田谷区役所」でなければできないといわれ、タクシーで逆戻りして、国士館大学のとなりの区役所戸籍課にかけつけた。
ところが、先客がいた! それがまた、すっかりぶちぎれていた……。
「テメエラじゃ駄目だ、区長を呼んでこい! 区長をだせ! だれだ! 勝手にこんな戸籍をつくったのは」
カウンターを叩くは、そこらの椅子を蹴飛ばすは、飲食店の店主らしい先客は完全にブチギレ状態。

仕方なく遠巻きにしてしばらく観察していたが、このひと「片桐」さんというらしい。つまり筆者とおなじ状況で、戸籍原簿の訂正手続きを強いられて、その対応になんらかの手違いがあってブチギレのようだった。
「片桐」さんが、上席者らしき初老の職員に連れられて「個室」にはいったあと、ようやく筆者の手続き開始。

「あぁ、お客さまも片がらみですか。5画片を4画片に変更ですね」
ト、戸籍課の職員はうんざりした顔になった。
「そうです。急いでおねがいします」
「誠に恐縮ですが、原簿の変更には2-3時間ほどかかりますので、よろしくお願いいたします」
結局10時に下北沢に動きはじめて、区役所で手続きが終わったのは午後2時。その間、ひとのよさそうな職員は、ペットボトルのお茶までだしてくれた。

「あの片桐さん以外にも、変更はあるんですか?」
「片桐さん、片山さん、片岡さん、片倉さんなど大勢いらっしゃいます。でも片塩さんは珍しいですね」
「これは入力ミスということですか?」
「電子戸籍にしたときは慎重を期しましたが、ともかく大勢で手分けして取り組みましたので、《片》のように意外とあたりまえの字で、入力者によってバラバラになるという事故があります。会社員のかたなどは、ふつう[住基カード]や戸籍謄本をあまりお取りになられないので、ご家族が亡くなられ、火葬許可願いではじめて問題になったりもします」
片桐さん、片山さん、片岡さん、片倉さんなど、ご一統さまは、くれぐれもご注意あれかし。
そして、《曽・曾》や「4画片・5画片」だけでなく、意外なほど
この「住基カード字画問題」は深刻なのだ。

唖唖! そしてついに警察署まできたぞ !!》
「電子納税騒動」とほぼ同時期のことである。会社の前にチョット置いた車が駐車違反でレッカー移動された。
近くの交番にいき、四谷三丁目の四谷警察にいくことを命じられる。そこでいわゆる「チュウキン青切符」をきられて、署名と拇印による捺印。別に頼んだわけではないが、ご丁寧にも保管のためのレッカー移動費を署内で支払い、保管場所の委託駐車場の地図と、「反則金納付書 ≒ 罰金支払い命令書」をわたされてようやく解放。ぶっきらぼうであったが、むかしのようにお説教などはなく、事務的で淡々としたものだ。

ところが翌日、外出中に制服の巡査がきたという。そして××時に再訪するという。社員一同 なにかやらかしたのか? と不安そう。なにも心当たりはないが、正直なところあまり警察官に真っ昼間から来社して欲しくはない。
それでも約束の時間ピッタリに警官襲来?! 
昨日のチュウキン処理にあたったお巡りさんだった。それも、てのひらをかえしたように、腰が低いこと、低いこと。

「きのうのチュウキンの切符ですが、申しわけありませんが、署名が具合悪くて。もう一度、きのうの書類に署名・捺印願いませんでしょうか」
「はぁ。結構ですけど……」
「必要事項は書いてきましたので、確認して頂き、《片》という字をこのように4画で書いてください」

もうお分かりかとおもうが、筆者はいつもの癖で、署名は5画で書いた。それでレッカー移動費も、駐車場代の支払いにも問題はなかった。ところが、国庫納付金となる反則金はおそらくOCRによる読みとりだから、「電子政府書体」の画数にあわせて4画でないと台帳に入れないということであろう。
もちろん筆者は、はじめて警察官とジョークを交えながら談笑、そして4画の〈片〉で署名・捺印。
そしておもった。
「中曽根だけじゃないぞ。この《片》の字の混乱は、水面下では当分つづくな……」

《2011年 最後の與談!》
警察署で署名しろというから、筆者はいつものとおり5画〈片〉で署名した。
「署名」は本来中国語であり、「文書に、自分の姓名を書きしるすこと」。
これをなした。もちろん悪意はなかったが、チョイとした騒動をまねいた。

「署名」にかえて「サイン」ともいう。これはチト問題がある。
著名人や芸人に「サイン」をねだる向きもあるが、これは間違い。
サインは英米語の略称で sig. 正式には Signature である。むしろ「調印」とおもったらいい。
だから有名人の著作に「調印」をもとめたり、芸人が色紙に「調印」をしたら、まことにヘンなことになる。

May I have your autograph. → 自筆・肉筆でお名前を書いていただけますか?
こうした場面ではサインとはいわず、オートグラフとするのが好ましいこと。
著名人や芸人に「サインをください」はやめたほうがよい トおもうが 。

というわけで、わが国は、かつては漢語 ≒ 中国語を借り、このごろは米語を借りることが多い。
つまりどちらも、所詮は借り物だから、ときどきこうした齟齬ソゴ,イキチガイを生ずることになる。
正しく、美しい、母語を育てる努力をしたいものだ。
2011年、いろいろつらいことがあった年である。
あと2時間ほどで2012年になる。まぁ、いつものように、来年の正月までポチポチやりますかネ。

新・文字百景*002 中曽根とは失敬千万!? 曽・曾

新・文字百景*002

中曽根などとは失敬千万 ?! 

── 位階は従六位、勲等は大勲位であらせらるるぞ ── 

このひとの画像は  こちら  から 

《大勲位・中曽根康弘か、はたまた中曾根康弘か》
自民党が野党に転落し、またご本人の高齢化のためか、最近はいくぶんメディアへの登場が減ったようだが、とかく政局がきなくさくなると、もぞもぞと蠢動するのが、この、
── 位階は従六位、勲等は最高位の大勲位 ──
なる人物 ── なかそね やすひろ氏 ── である。
かつては「政局の風見鶏」などと揶揄ヤユされたこともあった。どうにもぬるぬると粘着性がつよそうで、筆者は好感をもてない人物である。ここでは好悪コウオの感情はともかく、「字&文」をかたるのには格好の対象であり、また、あまりにあわれでもある。このひとから紹介しよう。

   なかそね-やすひろ
       1918年(大正7)5月27日、群馬県高崎市うまれ
       戦前は内務省官僚。敗戦時は海軍主計少佐、戦後は政治家。
       衆議院議員20期。運輸大臣などを歴任して、内閣総理大臣を重任。
       位階は従六位。勲等は大勲位。      

位階や勲等には縁もなければ興味もない。勝手に最高位の大勲位をご自慢あれというところ。
その従六位の位階に関していえば、わがタイポグラフィ界の先駆者、本木昌造は従五位下。平野富二はそれよりひとつ上位の従五位であった。吾が先達は、かの大勲位の従六位より、位階ではだいぶ上位だった。
律令制のもとでは、五位以上のものは殿上人テンジョウビトとして、昇殿がゆるされるなど格別の優遇があった。どんなに権勢をほころうとも、このひとのように、位階が従六位では……ネ。
天網恢恢 疎にして洩らさずというところか。 それでも平野家では、ご先祖様の位階などには、ほとんど関心はないからおもしろい。

ところでこのひと、メディアのなかではほとんど《中曽根康弘》と紹介されている。すこし気になったので、校閲部などがあって、用字・文言にうるさい モトイ 厳格?! とされている、新聞・雑誌などの大きなメディアをしばらく注目していたが、ほとんどが《中曽根康弘》と表記してあった。 

だから文&字学はおもしろいぞ!

中  曾  根  と 中  曽  根

   曾             曾            曾

電子辞書『漢字源』         『新漢和辞典』                  『新明解漢和辞典』
主編纂者/藤堂明保   主編纂者/諸橋轍次  主編纂者/長澤規矩也
(楷書)総画:12               (楷書)総画:12              (楷書)総画:12
部首:曰ヒラビ部                  部首:日・曰ヒラビ部            部首:八部(もと曰)
《曽》は異体字                  《曽》は俗字                      《曽》は略字 

《ここはやはり、許愼『説文解字』をみたい》
わが国には、ふるくから『玉扁』、『正字通』、『康熙字典』など、中国語による「字書」が移入されていたが、それを和訳することはすくなく、いわば「漢漢字書」として、原本のままでもちいてきた。そして、それで当時のわが国にあっては十分だった。
中国語の字書が和訳されるようになったのは、わが国において、字の素養とたしなみや、「漢学」がおとろえ、漢語を理解するものがいちじるしく減少した、昭和期にはいってから本格化している。

上記の3冊の「漢和字書」は、藤堂明保 トウドウ-アキヤス、諸橋轍次 モロハシ-テツジ、長澤規矩也 ナガサワ-キクヤといった、著名な中国学者によってしるされている。
ここでは三者ともに「曾」を本字もしくは正体とし、「曽」を「異体字・俗字・略字」としている。
すなわち、教育漢字でも常用漢字でもなく、いちおう人名漢字ではあるが、「ふつうにもちいられている(漢)字──曾のような字」には定まった名称がなく、それ以外の「ふつではない(漢)字──曽のような字」を、「異体字・俗字・略字」とそれぞれが別途に呼んでいる。
換言すれば、前述の碩学三者においては、「異体字・俗字・略字」は同義語であり、さして差異がないことばということになる。アレッ……!?

もちろん、藤堂明保 、諸橋轍次、長澤規矩也の諸氏は碩学であり、またそれぞれ個性のつよい人物であったようだが、この「新・文字百景」では、やはり原点にもどって、後漢のひと・許愼『説文解字』にあたってみたい。
許愼『説文解字』では、「曾」は第二上、部首は「八部」に掲載されている。

 

『黄侃コウカン手批 説文解字』(黄侃コウカン批校、中華書局出版、2006年5月)には、5行目最上部に「曾」が紹介されている。黄侃は「八」のかたちの上部を連結して、いわゆる「八屋根 ハチ-ヤネ」とした朱記をいれている。

『文白対照  説文解字』(李翰文訳注、北京・九州出版社、2006年3月)には、現代中国の国字(簡化体)によって「曾」がとかれている。ここでは見出し語としての「曾」も、現代中国国字で表記されているため、わが国の「漢字の曾・曽」はもとより、下部の図版に紹介された、いずれの「曾」とも形象は微妙に異なる。すなわち形象と字画がことなるので、いわゆる「画引き」だと利用しにくくなる。
「文と字」とはこのように変化をかさねてきたし、当然、これからも変化をつづけることが予想される。

『漢字源』(電子辞書、藤堂明保ほか、学研、CASIO EX-word) の「曾」には、《単語家族》の項目があり、
「曾」は、層(幾重にも重なる)・増(重なってふえる)と同系 ── としている。なおこの単語家族という考え方は藤堂明保氏に独特のものである。
また、
《解字》の項目があり、以下のように説明している。
「曾」は象形。「八印(ゆげ)+蒸籠セイロウ+こんろ」をあわせてあり、こんろの上に蒸籠セイロウを置き、穀物をふかす甑コシキの姿を描いたもので、層をなして重ねるの意をふくむ。
甑 jìng, zèng(漢字音:ソウ/ショウ、意読:こしき、シフトJIS 8D99)の原字。
また、曾は、前にその経験が重なっているとの意から、かつて……したことがあるとの意をしめす副詞となった。

《曽 は 曾の 異体字・俗字・略字ときたか! だから字書はおもしろい》
手もとの簡便な「字書」によって、「曾・曽」を調べてみた。
もしかすると一部の読者はおどろかれたかもしれないが、「なかそね」の「そ」の、本字乃至ナイシは正字、印刷標準字体は「曾」である。
すなわち「曾」は、旧字でも、旧漢字でも、旧字体でもない。
いっぽう「曽」は、「字書」によってことなるが、いずれも「異体字・俗字・略字、簡易慣用字体」とされている。
つまり第一義的には「曾」をもちいるようになっている。

また部首も、許愼『説文解字』には「八部」に掲載されたが、わが国の字書では、それぞれ、曰ヒラビ部、日ニチ部、八ハチ部と異なっている。
このシリーズ《新・文字百景*001》にもしるしたが、ここでおもにもちいている「字書」とは簡便なものである。再度掲げておく。
【参考資料】 
『漢字源』(電子辞書、藤堂明保ほか、学研、CASIO EX-word) 
『新漢和辞典』(諸橋轍次ほか、大修館書店、昭和59年3月1日) 
『新明快漢和辞典』(長澤規矩也、三省堂、1982年11月1日) 
『漢語大詞典』(羅竹風ほか、上海辞書出版社、1993) 

パソコンに組み込んだATOKによると、以下のように規定していた。もしかするとATOK──ふるいはなしだが、阿波の国・徳島で製造されたソフトウェア、AWA の TOKUSHIMA をつづめて欧字とし ATOK エイ-トック と名づけられた──のほうが著名な字書より適切かつ明快かもしれない。
   曾 → 印刷標準字体  シフトJIS:915C
   曽 → 簡易慣用字体  シフトJIS:915D 

「曾・曽」は教育漢字でも常用漢字でもない。ただし2004年10月、人名漢字488字が追加された際、「曾」とともに「曽」の字が人名漢字となっている。すなわちわが国の人名にもちいることができる漢字は、常用漢字表に掲げられた1,945字と、人名漢字983字をふくめて、合計2,928字であり、「人名」用としては「曾・曽」のいずれもが2004年10月から使用できることとなっている。

ところが文部科学省は、教育漢字と常用漢字には相応なこだわりをみせるが、どういうわけか(もしかすると戸籍管理にあたる法務省、総務省などの管轄とみなしているのかもしれないが)人名漢字には関心が低いようである。したがって、表現がむずかしいが、いわば文部科学省の管轄においては「曾・曽」の字体の相違の是非などはその埒外にある。

そのわりに、ふるくからわが国でももちいられており、また一国の総理大臣の姓でもあったから少少やっかいなことになった。こうした位置づけがあいまいな字は、まま、曾雲→層雲、曾益→増益のように、ほかの字に置きかえられることもある。

わが国でも、金属活字時代には「曾」が圧倒的であった。もちろん「曾」は旧字でも旧漢字でもなかった。「曽」もあるにはあったが略字とされていた。この状態はいまの活字鋳造所でもなんら変わりない。
ワープロなどの情報処理の機器に字も登載されるようになると、各社は独自に文字コードを作成して、電子機器に字を登載しはじめた。なにぶん電子機器の開発と普及速度ははやかったので、各社によって異なった字種と字体と字画形象(デザイン処理)が展開して、一部では互換性などに混乱がみられた。

そこで、経済産業省系の日本規格協会では、文と字にたいして、いわゆる「JIS規格」を制定して、独自の文字コードを作成するとともに、ある写真植字機製造会社の明朝体をもって「例示書体」として業界に提示した。
電子機器製造メーカーは経済産業省の管轄下にあったために、唐突ながら「JIS例示書体」として「例示」された、「ある写真植字機製造会社の明朝体」に倣ナラって、大急ぎで自社の書体の字種と字体と字画形象(デザイン処理)の改変をおこなった。
その折りに、もし、「ある写真植字機製造会社の明朝体」が完璧なものであれば問題はなかったかもしれない。ところが悲しいかな、それが完璧はおろか、おおいに問題を内包したものであったことは不幸だった。
そもそも「完璧な書体」などありうべきものではないという認識にたてば、いくぶん衰勢をみせていたとはいえ、新聞社、印刷企業、金属活字開発メーカーなどとも、叩き台としては「ある写真植字機製造会社の明朝体」でもよいから、それを「あくまでもひとつの参考事例」として、十分に協議・検討してから、「JIS例示書体」を提示しても遅くはなかった。
次回に台湾での同種の制定の経緯を紹介するので、関心のあるかたはそちらも見ていただきたい。

この間の混乱と混迷は激しいものがあった。またこの結果として、文部科学省と経済産業省といった、ふたつの中央官庁が「わが国の文と字」に、行政官庁として関与することとなった。こうした縦割り行政のもとでのさまざまな弊害は、こんにちなお解消されたとはいいにくい。
わずか30年ほど前のはなしだが、あわただしいデジタル環境時計のなかにあっては、遠い過去のはなしにおもえるからふしぎだ。

つまり、大勲位・中曾根康弘氏は、本字・正字、印刷標準字体で「中曾根」とされることは少なく、まったくもって大勲位には失礼なことに!?、「異体字・俗字・略字、簡易慣用字体」といった、要するに俗っぽい略字によって「中曽根」としるされることが多いのである。
この頃では「大沢 → 大澤」、「高崎 → 髙﨑」を主張する向きも多いというのに、もっぱら「異体字・俗字・略字、簡易慣用字体」で表記されるとは、大勲位としてはまことにあわれなことで、同情に値する。
筆者は、大勲位・中曽根康弘氏をはじめ、曽根さん、小曽根さん、中曽根さん、大曽根さん、曽根山さん、曽根崎さん、曽根川さん、曽山さん、曽川、曽田さん、小曽田さん、中曽田さん、大曽田さんら、ご一統さまに、こころからご同情もうしあげているのである。

『漢字源』(電子辞書、藤堂明保ほか、学研、CASIO EX-word) の「曾」で
「曾」は、層(幾重にも重なる)・増(重なってふえる)と同系」としている。
曽根さん、小曽根さん、中曽根さん、大曽根さんといった皆さまの近在には、かつて
このような「幾重にも重なりあった根」をもつ巨木があったことが想像される。
上)新潟市・北方博物館の藤の古木。中)新潟市・坂口安吾記念館の松の巨木。
下)滋賀県彦根市、井伊直弼が藩主就任前、鬱勃と居住していた彦根城玄宮園とその庭木。

ただし、かりそめにも大勲位の威権をもって、「中曽根にかえて中曾根」の使用を強制などしてほしくない。どうやらご本人も、かつての選挙活動の折には、(一票がほしくて?)書きやすい字をえらんだのか、はたまた「曾」の字の存在と、その正俗をご存知なかった シツレイ のかしらないが、「中曽根康弘」と表記していたようである……。わが国の文&字は、この程度の寛容さがあってちょうどよい。 

《曾根崎心中か、曽根崎警察か……、大阪はやっぱりおもしろい!》
大阪の駅舎は、地元では「キタのターミナル」とひとくくりにしているようだが、よそ者にとっては「ここは大阪駅か、はたまた梅田駅か、さっぱりわからん」といった具合で、まことに混乱をまねく地区である。
なにしろJR西日本旅客鉄道の「大阪駅」と、阪急電鉄の「梅田駅」、阪神電鉄の「梅田駅」がほぼ同居しており、それに地下鉄道の東梅田駅と西梅田駅が複雑にからみあい、まして私鉄企業のデパートの位置と駅舎がはなれていたりするので、地下通路、地下商店街などは、まるで迷路の様相を呈している。
 

キタのターミナルには、阪急ビル梅田店の地下に 「紀伊国屋書店梅田店」があり、いっときは大阪一の売り場面積を誇っていた。このターミナルの一角に  旭屋書店本店 もあり、なんどか新刊案内の営業にうかがったことがある。住所は、大阪府大阪市北区曽根崎2-12-6と表記されている。

そのすぐ脇に  曽根崎警察署  がある。同署のWebsiteによると、住所は、大阪府大阪市北区曽根崎2丁目16番14号と表記されている。ところで同じページにこの警察署の管轄区域が紹介されているが、そこには 曾根崎一丁目、曾根崎二丁目がある。
すなわち「曽根崎警察署は、曾根崎二丁目にある」。
グーグル・マップを確認したら、厳格に「曽根崎警察署と、曾根崎一丁目・曾根崎二丁目」をつかいわけていた。偉い! なにが? 
もちろん警察署も官庁であるから、文言や表記には厳格さを要求するとおもえるのだが、いったいどうなっているのだろう。

大型2書店の訪問を終え、このあたりに、近松門左衛門『曾根崎心中』の舞台となった 露天神社 ツユノテン-ジンシャ ──通称・お初天神があったなとおもい、それをみてから昼食でもと脇道にはいった。
探すほどでも無く露天神社 ツユノテン-ジンシャ はみつかったが、その地名板表示の住所は、大阪市北区曾根崎二丁目5-4であった。

空腹をかんじ、ちかくのふるびた喫茶店に飛びこんで珈琲とカレーを注文した。店主らしきオカミさんが暇そうにしていたので、
「このあたりは、曾根崎ですか、曽根崎ですか」
ト、ペーパーナプキンに字を書いて聞いてみた。 オカミさん、得たり賢しとばかり、
「まったくねぇ、警察署はコッチの曽なのに、住所はコッチの曾。おかげでね、市役所や保健所など、役所の書類なんかは面倒ったらないの」
ト、訛りのつよい大阪弁でまくしたてた。

《木曾路の旅籠は旧漢字?!》
ある年の早春、白い辛夷コブシの花が咲くところをみたくて、堀辰雄『大和路・信濃路』(1943)を鞄にしのばせて中央線に乗り、木曾路経由で大和ヤマトをめざした。その気軽な旅をつづった文章をある雑誌に発表した。「木曾・木曾路・木曾路の旅籠ハタゴ」などをしるした原稿をわたしたら、すべて「木曽・木曽路・木曽路の旅篭」に置きかえられていた。

ゲラ(校正紙)を持参した某編集嬢いわく、
「この木曾の部分が旧漢字?! になっていたので、新漢字に直しておきました」
ト、きっぱり。
唖然とするだけだったが、「字書」のコピーを添付して原稿どおりになおしてもらった。
唖唖!ついに「曾」を旧漢字・旧字体にされてしまった。かりそめにも編集者にしてこれだから、「曾と曽」で困惑しているのは大勲位・中曾根康弘氏だけではないということか。

次回に、中国唐代の字の「正体・俗体・通体」をさだめた、顔元孫撰・顔真卿書『干禄字書 カンロク-ジショ』の紹介と、日中における「異体字・俗字・略字」の解釈の相違点を紹介したい。そしてわが国ではほとんど無視されている、字における「或体 ワクタイ」の存在も紹介もしたい。

また、わが国の近代漢字の字書をつくった、藤堂明保 トウドウ-アキヤス、諸橋轍次 モロハシ-テツジ、長澤規矩也 ナガサワ-キクヤといった、個性豊かな人物を紹介したい。
つまり、一見、堅牢かつ威厳をもって存在するかのごとき「字書」も、ひとかわ剥けば、文&字と同様に、ひとがつくったもの。だから「曾」の部首がそれぞれ異なっていたり、「曽」をそれぞれが「異体字・俗字・略字」として別途の名称をもって紹介したりもする。
 
そこでいたずらに批判をすることなく、その製作者の人物像にせまったら、「字書」にたいするあらたな愛着がわいてくるというものだ。──年越しの宿題をみずからかかえ込んでしまったかな。

新・文字百景*001 爿・片 許愼『説文解字』

 爿ショウ と 片ヘン,かた
その《字》の形成過程をみる

 

 楷書4画、一部で爿ショウ部  部首偏とする。
『説文解字』が部首としなかったために一部で混乱はみられるが
『康煕字典』『現代漢語詞典』などでは「爿」を部首として扱っている。
シフトJIS: E0AB
嘯奬妝將漿瀟爿牀牆獎簫莊蕭裝墏娤嶈彇
戕槳潚焋蔣螿蠨蹡醬摪斨梉橚熽牄蘠鱂
          総数37 
                               

 楷書3画、常用漢字でもちいる爿の字画の「部首丬しょう偏」

Unicode:U+4E2C
奨将蒋醤状寝壮荘装
             総数9 
                              

楷書4画、片ヘン,カタヘン部
教育漢字6年配当、常用漢字
シフトJIS:95D0
牒牌版淵片嘯瀟牋牘簫肅蕭奫婣彇沜潚牎牏牐牓牕牖
繡蠨鏽驌魸鱐鷫扸棩橚熽牉牊牑牔牗璛蜵蝂裫覑鼘
           総数45 
                           

★   ★   ★ 

《字体と字種には触れないと決めていたが……》
30年ほどまえのはなしだが、辞書の編纂に関わっている人物の知遇を得たことがある。会うたびに、まことに博覧強記、碩学セキガクだなぁと感心する反面、
〔コイツと付きあっていると、こっちまでおかしくなるぞ……〕
とおもって、敬して遠ざかった。
           

20年ほどまえのはなしだが、ある編集者が、いわゆる「83JIS字体」の施行によって、混乱がみられた「漢字の字体と字種」にいたく立腹され、それに関する執筆を依頼された。たまたま別の版元の雑誌に連載記事を書いていたので、そのなかで、さる編集者への回答を兼ねて、「字体と字種には、小生は触れたくない」としるしたことがあった。          

その理由は、「文と字」は、所詮ひとがつくったもの。したがって、ひとによって異なり、時代・地域によって異なり、筆記具によって異なるのはあたりまえだとおもっていたから。
すなわち「文と字」は、いま現在において「混乱・混迷」したのではなく、その成立以来、創造と消滅、誕生と寂滅、混乱と混迷を極めながら変化してきた。それがまた至極あたりまえだとおもっているからであった。
         

もちろん「文と字」の公共性を考えれば、教育と公文書などには一定の統一は必要だとおもう。
しかし、わが国のこれまでのように、明確な方向性、指針、根拠を示すことなく、かの地ではさして評価されない『康煕字典』を典拠としたり、唐突にただ既成の活字書体を例示書体として提示して、「これにしたがえ」では混乱を助長するだけである。
   

そもそも康煕55年(1716)、清朝の大学士張玉書、陳廷敬らが康煕帝の勅命により撰した字書が『康煕字典』である。たしかに『康煕字典』は部首別、画引きで編纂されているので、わが国の関係者にとって利便性にすぐれているのかもしれない。しかし『康煕字典』はすでに290年余の以前の木版刊本であり、それだけに字様(刊本上の字)には混乱もすくなくない。   

また、張玉書らは『字彙』『正字通』にもとづき、それを増補したとその巻頭に述べている。やはり公共の「文と字」を論じるのなら、その原点となった『字彙』『正字通』も参照するべきであり、『康煕字典』を金科玉条として、安易に〈康煕字典体〉?などと唱導することなく、やはり最低でも以下の資料ぐらいは(せめて役所だけでも)揃えてから論じていただきたいものである。 
このおもいはいまもかわらない。

 『中文大辭典』      中国文化研究所        49,905字収容
 『國民學校常用字』   國立編譯館(台湾)        3,861字収容
 『教育部常用漢字表』  教育部(台湾)           3,451字収容
 『甲骨文集釋』       中央研究院             1,607字収容
 『金文正續編』      聯貫出版社           1,382字収容
 『辭 源』          商務印書館          11,033字収容 
 『辭 海』         中華書局            11,769字収容
 『辭 彙』         文化図書公司          9,766字収容 
 『國語辭典』       商務印書館            9,286字収容
 

 だから「文と字」はおもしろくもあるのだが、「文と字」を綯ナい交ぜにして「文字」と呼んでいるこの国にあっては、さきの辞書の編纂者のように、ある種の偏執狂モノマニアのような執着心がなければ、書いてはいけないテーマだとおもっていた。生来杜撰なわが身を省みても、精緻な論考がもとめられる漢字字体に論及することはつつしみたかった。つまり なまかじり はしたくなかった。        

 いま、その禁をみずから破ろうとしている。しかも、いかに慎重を期しても、いわゆるウケのない分野であることは承知しながらである。そして反論・異論だけでなく、どういうわけか明治期以来、「字学」についてかたり、著述をのこしたひとにたいしては、その発言者の品位・品格を疑わざるをえないうような、流言飛語や誹謗中傷までが頻出する分野である。その地雷原のような危険な分野に、徒手空拳、なまかじりのままで歩みだそうとしている……。           

やつがれ、いつも出所はまったく同じ、こうしたたぐいの根拠のない流言飛語や誹謗中傷にはすっかり慣れているし、そんな単純な扇動に附和雷同するような、愚昧のやからを相手にしたくないから、いまさら頓着しない。
まして、いまさら功名心や使命感でもない、まして衒学趣味もない。春の野辺のツクシのように、ポコポコと、自由気ままに、
「こんなにおもしろい、文と字のことども」
をしるしたかっただけのことである。
        
 

ただただ、一部の同学のともがらとともに、「文と字の大海」を揺蕩タユタフがごとく彷徨し、あちこち揺れ漂う旅に出てみたかった。
したがって、読者諸賢からの反論・異論・誤謬のご指摘は大歓迎である。
いずれにしても、本欄《新・文字百景》は近い将来、別のコーナーに移転の予定である。それまでポチポチといきますか。
 
──── 以上、冒頭駄言。 
                     

 《『説文解字』で部首とされなかった爿ショウ、そもそも『説文解字』とは》
「字 ≒ 文字」のなりたちを説いていて、現代中国でももっとも基本的な書物とされるのが許愼『説文解字』である。
これまで「許愼」あるいは『説文解字』という図書の名はしられても、その人物像をおもいうかべることはできなかった。
そこで冒頭に、新設なった「中国河南省安陽市・中国文字博物館」に展示されていた「許愼胸像」を紹介した。           

また下記に『文白対照 説文解字』(李翰文訳注、北京九州出版社、2006 年 3 月)の口絵に「許愼肖像画」が掲載されていたので、それもあわせて紹介した。もちろん写真術などは影も形もない1900 年ほど前のひとであるから、どこまで許愼のふんいきや風貌を伝えているのかはわからない。                              

           

許愼キョ-シンは後漢(東漢とも 25-220年)の学者で、あざな(字、男子が成年後に実名のほかに名乗った別名)は叔重シュク-ジュウ。中国河南省汝南ジョナン県召陵ショウリョウのひと。
その撰による『説文解字』15巻は、中国文字学の基本とされる。        

許愼の人物紹介は、わずかに『後漢書』列伝に簡潔にしるされただけである。
したがってその生没年には諸説あって、西暦30-124年『広辞苑』、?-c.121年『新漢和辞典』、c.50-121年『標準世界史年表』、c.58-c.147年[李翰文]と、かなりの振幅がみられる。
許愼がいきた後漢の時代とは、わが国はまだ弥生時代中期とされる未明のときであった。『標準世界史年表』(亀井高孝ほか、吉川弘文館)では、『説文解字』がなったのは推定西暦100年ころとしている。        

『文白対照 説文解字』(李翰文訳注、北京九州出版社、2006 年 3 月)によると、『説文解字』には正文9,353字、重文(合分、Compound sentence)1,163字、合計10,516字が掲載され、その全書の総字数は133,441字におよぶとされている。
また『説文解字』には540の部首が設けられ、その部首ごとに編纂をすすめるという方法がとられた。                

                         

許愼がしるした『説文解字』は、見出し字(親字)に篆文(小篆)をもちい、本文は隷書であったとされる。
後漢の時代には、まだ楷書(当初は今隷、のち正書・正体とも)が登場していないので、隷書で本文をしるしたことは当然とおもえるが、現存する最古の『説文解字』は、500年余ののち、唐代(618―907)写本のわずかな残巻でしかなく、本文はすでに唐代に登場した楷書でしるされている。つまり許愼『説文解字』の正確な形姿は想像するしかない。           

まだ複製術 ≒ 印刷術が創始されるはるか以前、いまから1900年余以前の、後漢のひと許愼は、当然のことながら『説文解字』を「手書きの書物 稿本」として、15巻におよぶ大著をのこしたとみてよいだろう。
その後書写本がいくつか製作されたとみられるが、写し間違いや、訛伝、ときには潤色もみられたことは当然予測可能である。        

そして許愼の時代から千年ほどのちの10-11世紀ころ、北宋の時代に木版印刷術などの諸技術が飛躍的な発展をみて、『説文解字』はいわゆる北宋刊本(板目木版印刷術による複製本)として相当量の刊行をみたとみられる。
しかし北宋刊本は、その後女真族による金国の誕生・支配にともなう混乱や、蒙古族の元王朝の誕生など、異民族支配があいつぎ、その戦乱と混迷のなかにそのほとんどが忘失した。                    

           

現代によく伝承されている許愼『説文解字』は、わずかに200年ほど前の刊本で、清朝嘉慶14年(1809)孫 星衍ソン-セイエンが、宋朝時代の刊本を覆刻(かぶせ彫り)した『仿北宋小字本 説文解字』(仿は倣と同音・同義)と呼ばれるものである。
しかしこの『仿北宋小字本 説文解字』ですら、容易には入手・閲覧できないために、清朝同治12年(1873)陳昌治チン-ショウジによる新刻刊本『説文解字』がもちいられることも多い。                

しかしながら木版刊本によった前掲 2 書でも、到底厖大な知識層の需要をまかなうことはできなかった。また近代中国では解釈できない文や、注釈が必要な部分が多かったため、しかるべき識者・碩学が「訳文」と「注釈」を原本(木版刊本)に朱筆でしるしたものを「批注本」と呼んで珍重した。
それらの「批注本 説文解字」を、清朝末期に導入された大量複製術の石版印刷によって、スミと朱色による套印(トウイン、多色刷り。現代のオフセット平版印刷多色刷りに相当)をもちいて書物にすることがみられた。           

筆者が所有する『説文解字』は、『説文真本』(和刻本 1826)などの和本が数種類あるが、まったく物足りなかった。このごろもっぱら愛用しているのは、「批注本 説文解字」の一種で、『黄侃コウカン手批 説文解字』(黄侃コウカン批校、中華書局出版、2006 年 5 月)と、現代中国の簡化字活字による『文白対照  説文解字』(李翰文訳注、北京・九州出版社、2006 年 3 月)である。                      

もちろん手元の「漢和辞典」のたぐいも総動員しているが、それぞれ一長一短あって、コレとは決めかねている。それでも長年にわたって『新漢和辞典』(諸橋轍次・渡辺末吾・鎌田正・米山寅太郎、大修館、昭和 59 年 3 月 1 日)を愛用している。これは諸橋轍次一門が、いわゆる諸橋『大漢和』の要約版として編んだもので、机上において邪魔にならない。       

それより、もっとも愛用している「漢和辞典」は、電子辞書版『漢字源』(原本:『漢字源』藤堂明保・松本昭・竹田晃・加納喜光、学研)である。それとパソコンに組み込んだ「ATOK文字パレット」も、電子メディア表示字種の確認のために捨てがたい。 要するにたいした資料は無いということである。                          

《順序が逆向き?! だが、まず 片 からみる》
【片】は教育漢字で、小学校6年(配当)で学ぶ。常用漢字でもある。
つまり、あたりまえの漢字であるが、おおきな矛盾もはらんでいる。
総画数は楷書 4 画で、漢字部首「片 ヘン, カタヘン部」をなす。
漢字音は「ヘン piàn, piān」、常読は「ヘン/かた」、意読は「きれ/ひら/かけ/かた/ペンス penceの音訳」など。
わが国での名づけは「かた」である。
したがって筆者の姓は「片塩」であるから、「かたしお」とよんでいただくことになる。                 

むかしのこと。某 FUJI 銀行の窓口で、
「ヘンエンさ~ん」
と呼ばれて、最初は〔誰のことじゃい〕とおもって聞き流し、そこらにあった週刊誌をながめていた。再度、
「ヘンエンさん、ヘンエンさ~ん、いらっしゃいませんか~」
と大声をだされて、
「あぁ、オレを呼んでいるのか」
とわかるまでに少し時間が必要だった。       

たしかに漢字のよみがわからないときは、奈良朝のいにしえより、漢字音(漢音読みとも)でよむならわし ── はじめは太政官符だったらしいが ── がある。それでもわが国の「片の名づけは 古来 かた」であるので、片桐・片岡・片倉・片山さんなどとともに、たとえ少少変かもしれないが、お願いだから、「片塩 ヘンエン」とはよまないでいただきたいのだ。                         

図版『黄侃コウカン手批 説文解字』にみる「凡片之属皆从片」は、「およそ片に属する字は、みな片にしたがう」という意であり、「片」は漢字部首「片 ヘン piàn, piān」として成立している。           

〔新漢和辞典 解字〕によれば以下のようになる。
指事。木の字をふたつに割って爿と片にした右の半分を示し、かたいっぽうの意を表す。        
その楷書字画 4 画には、諸説、諸例があって混乱がみられるが、ここではひとまず触れないでおく。        

「片」の字画をその部首あるいはその字画の一部に有する字のうち、ふつうのパソコンに登載され、表示できる字には、
「牒・牌・版・淵・片・嘯・瀟・牋・牘・簫・肅・蕭・奫・婣・彇・沜・潚・牎・牏・牐・牓・牕・牖・繡・蠨・鏽・驌・魸・鱐・鷫・扸・棩・橚・熽・牉・牊・牑・牔・牗・璛・蜵・蝂・裫・覑・鼘」
などがあり、その総数は 45 字におよぶ。                          

《爿に触れる前に、かなりやっかいな字 从 をみる》
図版『黄侃コウカン手批 説文解字』にみる「从」は、『説文解字』に掲載された字であるから、おそくとも後漢の時代からつかわれていた字である。
「从」は楷書 4 画で、漢字部首「人部」にある。
この字は《从 → 從 → 従》と変化したが、現在の中国常用国字(簡体・簡化字)は、「從 でも 従 でもなくて 从」である。
しかもほかの字の字画の一部になるときにも、この「从」が応用されるので、けっこう厄介な字である。           

すなわち、《従、從、从》は同音同義の字である。
常読では「ジュウ/ジュ/ジョウ/したが……う/したが……える」であるが、和訓音として「したがって、それだから」がある。
漢字音は時代差と地域差がおおきく、「ショウ/ジュ/ショウ cóng/ジュウ/ショウ zóng/シュ/シュ cōng」などとさまざまに音される。         

現代のわが国では「从」を異体字としてひどく冷遇? している。
すなわち《従、從、从》を以下のように扱っている。〔電子辞書版 漢字源〕
【従】  教育漢字6年配当。常用漢字。
          楷書画数10画、部首彳部、シフトJIS:8F5D
【從】   旧 字、楷書画数11画、部首彳部、シフトJIS:9C6E
【从】  異体字、楷書画数04画、部首人部、シフトJIS:98B8

〔新漢和辞典 解字〕によれば以下のようになる。
会意兼形声。从ジュウは前のひとのあとに、うしろのひとがつきしたがうさま。從は「止アシ+彳イク+音符从」で、つきしたがうこと。A のあとに B がしたがえば、長い縦列となるので、長く縦に伸びる意となった。従は当用[常用]漢字字体。                

 《さて、問題の爿ショウである……》
「爿」の字画をその一部に有する字のうち、ふつうのパソコンに登載され、表示できる字は、
「嘯・奬・妝・將・漿・瀟・爿・牀・牆・獎・簫・莊・蕭・裝・墏・娤・嶈・彇・戕・槳・潚・焋・蔣・螿・蠨・蹡・醬・摪・斨・梉・橚・熽・牄・蘠・鱂」
などがあり、その総数は 37 字におよぶ。さきに紹介した「片」の総数 45 字にくらべてもさして遜色ない。           

しかも、爿と片は元がおなじ「木」をまっふたつに割った字とされるから、元の「木」にもどろうとしているのか、字画が混み合うのをいとわずに、
「嘯・瀟・簫・蕭彇・潚・蠨」
「淵・嘯・瀟・簫・肅・蕭・奫・婣・彇・潚・繡・蠨・鏽・驌・鱐」
のように、「片と爿」が向きあった字画もすくなくない。                      

そしてわが国の字書の一部には(楷書・総画数)4 画とされることがあるが、よくみると「片・爿」では楷書としての運筆上に矛盾を生ずることもままみられる。つまりなにかと書きづらい字でもある。
すなわち現代中国でも台湾でも「正体としての 片」は 4 画として国家が定めている。しかしこれはあくまでも楷書字画のことであり、その余の書体 ── 行書や草書などの字画におよぶものではない。        

すなわち、中国ではふるくから「正体・俗体・通体」があった。公文書や教育用には正体がもちいられるが、生活人は「俗体・通体(通行体)」をあたりまえのごとくもちいている。ついでながら、ふつう中国で「異体字」とは、異民族が漢土にのこしていった字のことを指すことが多い。         

したがって筆者(片塩)は、「片」の下の横線を上の直線と同様に長く書き、最終画の 5 画目を縦の直線として、ながらく楷書 5 画で「書いてきたし、書き続けている」。つまり俗体であり通体でしるしている。
しかも筆者のオヤジなどは、2 画目は釘の頭のような短い縦棒ではなく、ドンと点をうち、5 画目の最終画をグイと右に曲げてから撥ねていた。こうすると木の切れっ端という印象はうすれて、安定感がいや増し、結構勇壮な「片」であったのだ?!
このことがらは、項をあらためて触れたい。                  

 しかもこの「肅・淵」のような字画を有する字のばあい、ときとして「肅 → 粛」、「淵 → 渕・渊」などとあらわされることもある。
これらの例は同音・同義であるが〔電子辞書版 漢字源〕では、
【粛】       常用漢字・楷書11画・聿フデ-ヅクリ部
【肅】       旧字・楷書字画13画・聿フデ-ヅクリ部
が通用している。                       

ところが、似たような字画を有する「淵」になると、ふしぎなことに以下のようになる。
【淵】     楷書11画・水部
【渕】   楷書11画・水部・異体字(A)
【渊】      楷書11画・水部・異体字(B)
                           

これらの通用字をよくみると、「肅」の字の一部の字画が「米」に置きかえられ、「粛」が常用漢字となり、「肅」は旧字とされて「格下げ」されている。しかし「肅」で「米」の字画に置きかえられた「淵」の字画は、常用漢字への採用がなかったために、いまもって「淵」が常用字であり、「渊」は異体字 B として「ひどく格下げ」されるという、ある種の矛盾が発生している。           

これらの当用漢字や常用漢字に採用された字画を、ほかの字の偏や旁やその一部になるときにも採用して、「字体」の乱れ(混乱)を調整しようという動向がかつてあった。
たとえば「肅が常用漢字となって→粛」となるならば、同種の字画を有する「淵を → 渊」とするようなことであった。それは「拡張新字体」として一部の活字業者にも採用されたが、現在ではあまり注目されないようだ。                      

さらに先に紹介した『説文解字』の説明とは、爿と片の左右の位置関係が逆におかれている。
許愼『説文解字』(第七上)によれば「判木也。从半木。凡片之属皆从片」とある。
すなわち、「片」は、指事であり、「木」をまっふたつにしたうちの右の半分である。つまり楷書や行書ではなく、冒頭に掲げた図版のように、甲骨文や小篆にみるような「木」の字をふたつに割って、左半分を「爿ショウ」とし、右半分を「片ヘン」にしたもので、ともにかた一方の意をあらわすとされてきた。
したがって「爿」は左に、「片」は右にありそうだが、実際の字画はその逆になっている。
「爿」「片」は、どうやらやっかいな字であることをおわかりいただけたであろうか?                            

《常用漢字爿部首? 丬の字を検証する》
さらに、まことにやっかいなはなしだが、わが国では「爿」の字画を「部首」に有する字が、常用漢字になると、「丬」の字画となって、にわかに「新部首 丬」になったりする。
しかしここに電子辞書版『漢字源』(学研)から検証したように、「丬」をもちいても、すべての字が「爿」の字画を「旧字」「異体字」などとして、いまだに温存しているのはなぜだろう。ふしぎな字画(部首?)が「爿」である。
                      

【奨】   常用漢字・楷書13画・大部
【奬】
   旧   字・楷書14画・大部
【獎】   異 体  字・楷書15画・犬部
【将】   常用漢字・教育漢字6年配当・楷書10画・寸部
【將】   旧   字・楷書11画・寸部
醤】          楷書17画・酉サケノトリ,ヒヨミノトリ部
【醬】   異 体  字・楷書18画・酉サケノトリ,ヒヨミノトリ部・Unicode:U91AC
【状】   常用漢字・教育漢字5年配当・楷書7画・犬部
【狀】   異 体  字・楷書画数8画・Unicode:U+72C0
【寝】   常用漢字・楷書13画・宀部
【寢】   旧   字・楷書13画・宀部
【壮】   常用漢字・楷書6画・士部
【壯】   旧   字・楷書7画・士部
【荘】   常用漢字・楷書9画・艸部
【莊】   旧   字・楷書10画・艸部
【装】   常用漢字・教育漢字・楷書12画・衣部
【裝】   旧   字・楷書13画・衣部
                          

《部首になりきれなかった爿・丬》
前掲資料のように、電子辞書版『漢字源』(藤堂明保ほか、学研)は、「爿」を部首としてはまったく扱っていない。
あるいは中国伝統の部首配列にもとづくとされる ── 俗に康煕字典配列とされる ── 活字版印刷の活字ケース(スダレとも)での配列は、「将・將」→ 寸の部(業界用語でチョット寸 → 3 画)に配される。同様に「状・狀」→犬の部(業界用語でケモノ → 4 画)、「壮・壯」 → 士(業界用語サムライ → 3 画)の部である。
        

すなわち『康煕字典』には「爿」の部首があることはすでに紹介した。したがって、「将・將」→ 寸の部、「状・狀」→ 犬の部、「壮・壯」→ 士の部の例だけをみても、── わが国の活字ケースは康煕字典配列にもとづく ── とされる「俗説・通説」には疑問が発生することになる。
ましてこのごろでは、わが国の漢字字体の典拠として「康煕字典体」などということばも散見する。まことにもってふしぎなはなしだとおもうが、いかがなものか。
       

 ところで、このくらいで驚いてはいけない。わが国の活字版印刷の分野では、いまもって、「しんにゅう 辶は 7 画」である。すなわちここでは許愼のむかしとかわりなく、「しんにゅうは、そのふるい字画  辵 」であり、7 画であるとしているのである。              

これをして、時代錯誤としようが、固陋頑迷としようが勝手だが、字 ≒ 文字は、ほぼ漢王朝のころに完成をみたために「漢字」とされた。それを明確かつ体系化した字書が『説文解字』であった。
そして「漢土→中国本土、漢文→中国の文書、漢方→中国の薬・医学、漢族→中国の主要民族」として、いまもって「漢」の字は、民族意識をもってもちいられている。
       

いま、我我は隋・唐のむかしと同様に、ふたたび隣国中国との接触をつよめている。つまるところ、そこでは、その中国の国字たる「字 漢字」をどのように理解し、わが国で馴致した「日本式漢字」をどのように理解し、双方で誤解なくもちいればよいかの判断がもとめられはじめただけのことであろう。  なにもめくじらをたてるほどのことではない。たいしたことではないのである。                   

 そこで「爿」を部首としている簡便な「漢和辞書」2 冊をみてみたい。
『新漢和辞典』(諸橋轍次・渡辺末吾・鎌田正・米山寅太郎、大修館、昭和 59 年 3 月 1 日)p.564 には、【爿(丬)部】がある。
すなわち 4 画の部首として扱われている。
ここには 6 字が紹介されている。簡略に紹介する。
                           

    【爿(丬)部】 しょうへん(丬は3画)
【爿】 ショウ(シャウ)、ゾウ(ザウ)qiáng
      ①きぎれ。木をふたつに割った左半分。
〔解字〕 指事。木の字をふたつに割って爿と片とした左半分を示す。当用(常用)漢字では丬の形に書く。

【壮】 → 士部 3 画。
【牀】 ソウ(サウ)・ジョウ(ジャウ)慣用:ショウ(シャウ) chuáng
①寝台
【牂】 ショウ(シャウ)・ソウ(サウ) zāng
①めひつじ
【将】 ショウ→ 寸部7画。
【牆】 ショウ(シャウ)・ゾウ(ザウ)
①かき。かきね。
                           

拍子抜けするほどあっけないものである。しかも当用(常用)漢字となった【壮】は、「新部首?丬」が置かれないために、士部 3 画をみよ、であり、【将】も寸部7画をみよ、となっている。
すなわち諸橋轍次とその一門は、「爿」は部首としているが、常用漢字に採用された「丬」は部首としては扱っていないことが判明する。
                             

もうひとつ「爿」を部首とした『新明解漢和辞典 第二版』(長澤規矩也、三省堂、1982 年 11 月1日)をより簡略にみてみよう。
ここでは常用漢字となった「将・壮・装」などは、そのふるい字体「將・壯・裝」も紹介しないほどの割り切りかたである。
もちろんそれぞれの書物には編集意図があり、それに異をとなえるものではないが、かなり大胆な割り切りかたである。
  

    【爿 部】 新字体は丬
【爿】 漢音:ショウ(シャウ)、呉音:ゾウ(ザウ)
①木を両分した左の半分。→片(右の半分)
〔字源〕 象形。木の左半分の形にかたどる。
【妝】・【牀】・【戕】・【斨】・【牁】・【牂】・【娤】・【漿】・【奬】・【牆】・【螿】・【醬】             

   

ただし、ここできわめて興味深いのは、諸橋轍次ほか『新漢和辞典』がその〔解字〕において、
「爿」を「漢字六書の指事」とし、
長澤規矩也『新明解漢和辞典 第二版』はその〔字源〕において、
「爿」を「漢字六書の象形」としていることである。
この「漢字六書の法」も許愼が定めたものであるが、こうした基本的な事柄におけるふたりの碩学の相違にかんして述べるには、いまは筆者の学問がたりない。しかしこれを看過していては、「字学」の歩みを止めてしまうことになろう。非才の身ながら精進したいものである。
                         

  

 
 
 

 

《常用漢字  将(旧字 將)と、状(旧字 狀)を『説文解字』にみる》
将(旧字 將)
『説文解字』第三下 寸部  5 行目 寺 の下にある。
師也。从寸、醬省聲。即諒切。(jiàng)
〔電子辞書 漢字源 解字〕
会意兼形声。爿ショウは長い台をたてに描いた字で、長い意を含む。將は「肉+寸(て)+音符爿」。

状(旧字 狀)
『説文解字』第十二下 犬部 上部にある。
犬形也。从犬、爿聲。盈亮切。(zhuàng)
〔電子辞書 漢字源 解字〕
会意兼形声。爿ショウは細長い寝台の形をたてに描いた象形文字。
狀は「犬+音符爿」で、細長い犬の姿。細長いの意を含むが、ひろく事物のすがたの意に拡大した。
                                 

《結論は急がないで欲しい。いっしょに漢和辞典でも引きましょうや》  
ここまでみてくると、許愼はどうやら「爿」を字音をあらわすための「音符」としてみていたのではないかとおもわれる。だから部首にはしなかったのかと……。
すなわちこの「爿・片」だけを取りあげても、もっと学問が必要ですな。
そんなわけで、ぜいぜいヒイヒイいいながら『説文解字』をひき、漢和辞典と照らしあわせているいまなのである。
───〔この項つづく〕