朗文堂―好日録011 吃驚仰天 中国西游記Ⅰ

朗文堂-好日録 011

❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖
朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖

吃 驚 仰 天 !  中 国 西 游 記

《吾輩、13回目の中国行き。されどこれまでの経験則はまったく役立たず》
2011年9月の中旬、ひさしぶりの
中国旅行に出かけた。
やつがれが最初に中国に行ったのは1975年(昭和50)年のこと。まだ毛沢東は健在だったし、日本は
まだ貧しく、中国もまたひどく貧しかった。

そして最後の訪中は、イーストの丸山雄三(ステルス性胃ガンで急逝・故人)元社長をはじめとするコンピュータ・ソフトウェア製造企業の社長連に誘われ、ゾロゾロと6人の団体で、中国東北部(旧満州)ハルビンの黒竜江大学との産学共同による合弁会社「黒竜江イースト」にいった。

いかに社会体制がことなるとはいえ、なぜ国立大学の中に、営利目的のコンピュータ・ソフトウェア製造企業イーストとの合弁会社ができるのか、また黒竜江大学の副学長が合弁会社の副社長でもあるのかわからないまま、デジタル・タイプの製作指導と講演にあたった。産学共同とはいえ、このあたりの事情はいまもってよくわからない。
このハルビンにいったのが2000年(平成12)だった。その後やつがれがしばらく体調を崩したためもあって、10年ぶり、ひさしぶりの中国であった。

当時の中国には、独国ベルリンの東西を隔てる「ベルリンの壁」になぞらえ、「竹のカーテン」なることばがあった。つまり中国の為政者がみせたくないものは、外国人にはみせないということ。
したがって、外国人が所持する通貨はクシャクシャの人民元ではなく、嫌も応もなく「兌換券・兌換元」という名の外国人専用の通貨をもたされ、それが通用する場所以外での行動が規制された。

また監視役? を兼ねた、ガイドの同行がつねにもとめられた。それも旅の最初から最後まで同行する「スルー・ガイド」と、それぞれの現地でつく「現地ガイド」「車輌とドライバー」を引きつれての〈お大名旅行〉であったが、旅行者にとってはなにをするにも不自由があり、まして研究という名に値する行為には困難があった時代のことである。

急に中国行きを決めたのは複数の機関から招かれたのがきっかけ。そこで、どうせ久しぶりに中国にいくなら、おもいきった研究・取材旅行を兼行しようと決めた。ノー学部に主要な取材対象とその所在地だけを伝えて、スケジュール立案を任せた。

かつての〈監視役兼ガイド付きのお大名旅行〉とはことなり、ノー学部は勝手に、中国のホテルや、友人・知人、個人ガイドに@メールを送りつけ、やつがれが不安になるほどの安いホテルを@メールで予約していた。

ところで、ノー学部は中国はまったく初体験。そこで先輩風を吹かせて、
「しっかりガイドブックを見ていかないと、歴史のある中国のことは、なにも理解できないからな……」
といっておいた。
すると、どこにしまい込んでいたのか、ノー学部。やおら20年ほど前の、高校時代の教科書『詳説 世界史』(山川出版 1989)を引っぱり出して一心に読んでいた。海外旅行にいくのに、やたらにググったり、高校時代の世界史の教科書を読みだすことには呆れるしかなかった。
「外国の歴史の概略をつかむのには、この教科書が一番。専門事項は、帰国後に専門書でじっくりと読む」
そうである。なんでもいい、旅ではホテルは安心・安全なところにしてもらい、あとは好きにしてくれの気分。

ところで、やつがれが盆暮れの休暇を利用したりして、しばしば中国にいったのは15年ほど前までのこと。いまだ改革・解放が進展しない時代のことであった。もちろんその後の中国が「北京オリンピック」「上海万博」などのおおきなイベントをなしとげ、各地に新幹線網――大事故のあとだったが、西安―洛陽、洛陽―鄭州テイシュウ, Zheng Zhouへと2度中国版新幹線に乗車した。

日本と異なり、元来広軌鉄道だった中国では、車輌こそ外国から導入した技術による「新幹線」だが、在来線軌道の一部を利用して「新幹線」とし、200―300キロで突っ走る。それなりにスリルのあるものだった――が張りめぐらされるほどの急速な変化を遂げつつあるという情報はもっていた。

改めて驚いたが、いまや大都市の周辺は、ドイツの「アウト・バーン」なみの、片側4車線の高速道路があった。かつてくわえ煙草でイライラと警笛を鳴らし続けていたドライバーは、シート・ベルトを着装して、交通法規を遵守し!  ゆったりと走っていた。もちろん車内は禁煙強制が多い。

また都市には地下鉄がとおって、路上を埋めつくしていた自転車とモーター・バイクの洪水は消えていた。あたりかまわず痰をペェッ、鼻水をチ~ンとやる風習も無くなり、男性も洗髪後にリンスを使っているのか、ボサボサ頭は消えていた。
〈いったい、どうしちゃんたんだ……、中国!〉

こうして、短いあいだに7城市(都市)、14県を駈けまわったが、ついに最後までやつがれ、浦島太郎が中国に流れついたような気分は消えず、
〈あの、ふるき良き中国は、どこにいってしまったのだ!〉
という、とまどいと、こんなはずじゃなかった……と、おもいまどうばかりの毎日であった。
────
中国では、かつてやつがれの教え子だった、劉さん、孫さんが、それぞれ修士号、博士号を取得して帰国し、社会的リーダーになっていた。かれらをはじめ、各城市で、倪ゲイさん、王ワンさん、姜キョウさんらの多大な協力をいただいた。
また北京では「移住直後の金田さん」のサポートをいただき、城西地区のとびきりおいしい餃子館――主餐が数種の餃子だが、それまでの10皿ほどの北京料理ですっかり満腹――での晩餐にまでご招待いただいた。ただただ謝謝!である。

そもそもやつがれ、中国とその民艸がすきである。富貴なるもの、傲れるものも、困窮にあえぐもの、飢えに苦しむものも、ひとしく、たくましく生きるのが、昔も今もかわらぬ中国の民艸である。
ひろい大地を悠然と闊歩し、隙あらば足をすくわんとするぬけめないひとと、底抜けにあかるく、こころやさしいひとが混在する、あやかしの国、ふしぎの国 ── 中国。

この国にはかつて、いくつもの民族とその姓氏による王朝(姓氏革命)が樹立され、黄色い皇帝の御旗が都城に翩翻ヘンポンとひるがえった。そしていま、五族協和をあらわす、いつつの星が描かれた紅クレナイの旗「五星紅旗」が北京にひるがえる国、中国。

《なつめ 棗 と トゲ 棘 との奇妙な相関関係》
ひとの墳墓によじ登ったのだから、バチがあたったのかもしれない……。
陝西省西安から、隋王朝(581-619)最末期、中央政府高官の墳墓を皇甫川 コウホ-セン に訪ねた。この日は孫さんは大学出講日。
きょうは旅行会社の社長・倪ゲイさんが、みずからハンドルを握るそうである。最初の打ち合わせでは、いかにも中国の大人タイジンらしく「隣の町ですから……」という調子でも、いざ出発時間を決める段になると「200キロほどありますから、日帰りだと朝9時出発」ということになる。
きょうも朝食は軽くして、遠出であっても倪さんのすすめるおいしい地元料理を昼食にする。

墳墓のある村の名前だけはわかっていたが、なにせ1500年ほど前のひと、随朝初期の高級官僚「皇甫 誕」の墓である。あらかじめ調査を依頼していた倪ゲイさんは自信ありげだったが、やつがれ、本当にそのひとの墳墓が「地上に」「実存している」のか半信半疑で、車中のひととなった。

倪さんはその皇甫川コウホ-センの村に入ってから、何度も村人に墳墓のありかを尋ねていた。もちろん案内板などはまったく無い。
村人の指さす方向にしたがって、車はどんどん辺鄙な農村に入っていった。もはや人家も少なくなり、ただただとてつもなく広大な畠がひろがる。ようやく到達した目的の墳墓は、収穫を終えた広大なトウモロコシ畠のなかにポツンとあった。

なにせ随朝政府の高官とはいえ、1500年ほど前のひとの墳墓である。わが国なら推古天皇の治世下(593―628)で、聖徳太子が摂政にあたったとされる──現代では聖徳太子の存在そのものが歴史学者から疑問視されている──ほとんど伝説の時代であり、地中に埋もれて「古墳」と表記されるようなシロモノである。

ところが「字」の国・中国にあっては、この皇甫誕と唐王朝で活躍した子息・無逸のこと【中国版bai-do】が、国家の正史『唐書』に記載されているため、こうして墳墓を訪ねることも可能である。
これを見てやつがれ、どうやら興奮のきわみに到達したらしい。それからの数十分ほどのことはよく覚えていない。
やおらふらふらと、雨上がりでぬかるんだ畠に踏みこみ、墳墓に登ろうとした。倪ゲイさんは「危ない、危ない」と叫んでいたらしいが、それもよく覚えていない。

   

墳丘と、その頭頂部に立つやつがれの大きさを比較して、この墳丘(円墳)のおおきさを想像してほしい。遠目にはちいさくみえたが、この墳墓はとてもおおきかった。
中国でのこの種の構築物は、古来「版築法ハンチクーホウ」という築造法によってつくられている。すなわち、板で枠をつくり、その中に土を盛り、一層ずつ杵キネでかたくつきかためるものである。
したがって下部の5メートルほどは垂直に切り立った、煉瓦のようにかためられた土で、その上に円墳がのっている。

そこで土盛りの崩れたところからよじ登りはじめたが、遠目にはただの灌木にみえたものが、一面の棗ナツメ(ノー学部によると、高木となるのが棗。ここのはイバラないしはサネブトナツメで灌木をなす)の木であり、それがまたナント、棘トゲだらけのブッシュであった。

ところで……、《棗》の字をよくみると、《朿 字音 シ 意読 とげ》が、ご大層なことに、二段重ねになって「トゲ・トゲ」をあらわしている。すなわち盗掘防止のためもあるのだろうか、一面トゲだらけの灌木に墳丘は蔽われていた。
「字」の国・中国は、斯様にして無知蒙昧なやつがれらを「字」で虐めるからイヤになる。

傾斜は写真でみるよりよほどきつく、足が滑るたびにおもわず 棗 ≒ 棘 = トゲトゲ をつかんでしまう。「いてて、イテテ」と、もはや半泣きでよじ登る。
ようやく(もはや意地だったが)写真にみるように頭頂部に登りついたとき、ズボンの裾はあわれなまでにズタズタになり、上着のあちこちはほつれ、手も脚も、そしてどうやら滑ったときに顔(目じりのあたりで、すこしでもずれていたら眼球が危なかった)までが棗のトゲで傷だらけで、おまけにあちこちに棗のちいさなトゲが突き刺さっていた。

この墳墓の主の子息・皇甫 無逸コウホ-ムイツは、のちに唐王朝の貴官・御史大夫(ギョシ-タイフ 副首相格、御史台の長官)となった。そこで亡父・皇甫 誕の顕彰のための墳墓を構築し、唐王朝の初期、もっとも著名な書芸家──欧陽 詢オウヨウ-ジュンという──に墓碑の揮毫を依頼した。
おそらく唐王朝時代には、この墳丘の前には、その巨大な墓碑『皇甫 誕碑』がそびえたっていただけでなく、ひとびろとした稜邑がもうけられ、その一隅には坊楼がそびえたち、堂宇も建ち並び、香華が絶えなかったものとおもわれる。

しかしながら、ときが移り、四季をかさね、王朝とみやこももなんども変遷するうちに、いつしかこの墳墓は顧みられなくなったようである。なにしろ1500年からのときがここで経過したのである。
そして墳墓は畠のなかに孤立し、その墓標は墳墓と切りはなされて、西安碑林のもっとも枢要な収蔵物『皇甫 誕碑』として、世上からたかい評価を集めている。
【詳細画像:中国版図集

西安碑林をはじめ、各地の碑林・碑坊に立ちならぶ著名な碑には、こうした秘められたものがたりが多い。その墳墓を訪ねた記録のひとつを紹介した。
この間ノー学部はのんきにそこらの野面を散策し、ちいさな石ころをふたつ拾っていた。それだけがこの墳墓にいった記念の品になった。

《西安碑林と採拓のいま》
ところで、その西安碑林である。碑林とか碑坊とよばれる施設はあちこちに存在するが、そもそもこの施設はかつて陝西省博物院といった。やつがれ今回が3-4回目の訪問になる──というより、以前は西安まで出かけても、兵馬俑・秦始皇帝陵・華清池・慈恩寺大雁塔などの著名な観光地と、ここ西安碑林、お土産物屋さんぐらいしか案内されなかった。

その西安碑林の中核の収蔵物が、晩唐の開成2年(827)、長安の最高学府たる国子監に設けられた官吏登用試験「科挙の教科書」ともいうべき「開成石経カイセイーセッケイ」で、『石の書物――開成石経』(グループ昴、朗文堂、2003)に紹介した。この開成石経はいまなお碑林の入口、第一室をド~ンと占めている。

西安碑林の第2室―第4室を占める著名な石碑は、おおむね拓本がとられており、それが拓本や影印複写による書籍の形で販売もされている。今回は銘碑とされる碑が立ちならぶ第1室から第3室までは撮影だけに集中し、世上の評価はないものの、おもに書から活字への転換点となった無名の碑を第4室-第5室で探した。
これらの無名の碑は、研究熱心な書芸家でも見落としていることが多いことに気づいていた。やつがれの眼をとらえたのは金国の石経(セッケイ・石の書物)であった。

黄河流域・開封カイホウ, Kaifeng にあった宋国(北宋 960-1126)は、1126年ツングース系の民族、女真族完顔ワンヤン部の首長・阿骨打アグダが樹立した金Jin国によって滅びた。
1126年「靖康セイコウの難」とよばれる混乱のうちに、帝独自の書風による痩金体『趙佶千字文 チョウキツ-センジモン』をのこした徽宗キソウ上皇と、その実子・欽宗キンソウ帝は捕らえられ、漠北の地に連行されてそこで没した。

宋国の一部は臨安(杭州)に逃れて、南宋(1127ー1279)を樹立した。南宋では出版事業が盛んで、刊本字様・活字書体としての「宋朝体」をのこしたことはひろく知られている。その間、はたして金国では「女真文字」の製作以外にはみるべきものがなかったのか?

金国と南宋は大散関から淮河ワイ-ガ, Huai Heを境界として、南北に並立して南宋(南朝)・金Jin国(北朝)を名乗った。しかしながら、南宋を逐って征服王朝・金国を開封(1153年燕京・現北京に遷都)に樹立したとはいえ、女真族はあくまでも少数民族であり、当然金国の民は漢民族が中心の国家であった。そのため金国にあっての文化も、1176年に中国伝統の官学「府學・女真學」がおかれ、女真族の文化の振興もはかったが、それでも漢民族の伝統が途絶えることはなかった。

たとえば書芸家の趙孟頫(チョウーモウフ あざな・子昂チョウ-スゴウ 1254ー1322)は、その『六体千字文』をはじめ、漢民族伝統書法の継承者として評価がたかい。これから金国時代の石の書物・石経セッケイを研究しその評価を定めたいが、下記の写真の採拓風景とは異なり、石経はともかく文字がちいさく、彫りが浅いので、当初はいかに名人とされる採拓士でも、とても採拓は無理だとされていた。

しかしやつがれらの熱意に押され、また採拓士としての王さんの職人魂が燃えあがって、
「ぜひ、この石経の採拓に挑戦したい」
とするようになった。つまりいままでの手探りとはちがって、これからは西安でも、孫さんはもとより、倪ゲイさんと王ワンさんの心強い支援が期待できるようになった。乞う!ご期待の次第である。

《文≒紋様学、字≒文字学、あわせて文字の研究の旅》
やっかいなことだが、中国ではほとんど「文字」とはいわない。われわれ日本人がもちいる意味での「文字」は、かの国では「字」である。したがって甲骨文・金文・石鼓文は、まだ定まった型 Type を持たないがゆえに「徴号」とされて、《字》としてのまっとうな扱いはうけずに「文」と表記される。

つまり商(殷)・周時代の銅器などに、金文とともにみられる、眼と角を強調した、奇異な獣面文様の「饕餮文トウテツ-モン」などと同様に、字学より、むしろ意匠学や紋様学や記号学の研究分野とされることが多い。すなわちかの国では「文」と「字」は、似て非なるものである。

まして中国では甲骨文――くどいようだが甲骨文字ではない――を大量にのこしたことでしられる《殷》は、本来は《商》と自称した古代国家であった。『史記』の殷本紀によれば、湯王が《夏カ》を滅ぼして、紀元前16世紀ころに商王朝を創始し、30代にわたる王をもった。

商は巨大かつ大量な青銅器を製造し、錆びに弱い銅器が3000年余も腐食しないほどの高度な防錆術(メッキ法。クローム・メッキの一種か?)ももっていた。
また甲骨で占いをなし、その占いの結果を「甲骨文」としてのこした。また馬が牽引する大型戦車も所有していた。ところが紀元前11世紀ころ、殷王・紂(チュウ、辛シンとも)にいたって、周の武王に滅ぼされた。
《殷》とはこの国を滅ぼした《周》が、《商》にかえて意図的に名づけた悪相の字である。また甲骨にのこされた記録は「甲骨文」であって、甲骨文字とはいわない。

 

殳――シュ、ほこづくり・ほこ・るまた
許慎『説文解字』によれば、「殷」は会意で、字の左の部分(扁とはいわない)は「身」の字の逆形である。「殷」の旁ツクリには「殳シュ」がみられる。
殳とはもともと武器を持つ形を象どったもので、『部首がわかる字源字典』(新井重良、2007、木耳社)をみても、この殳を旁にもつ字には、「殺・殴・殻」など、あまり良相とはいえない字がならぶ。殷もそのひとつの例としてあげられる。

 

 
こうしてやつがれ、結局のところ「文+字の旅」となったが、いままで報告されなかったり、ほとんど報告がなかった各地の碑林・碑坊、字発祥の地、墓所、博物館などを訪ねることができた。
河南省の省都「鄭州 Zheng Zhou」では、前期商(殷)の遺跡を訪ねあるいた。やつがれこの鄭州城市は2度目だが、ともかくこの街はわかりにくいとしかいえない。それにここでは、つくづく「文」と「字」の違いをおもいしらされる。

すなわちこの城市は黄河の南岸にあり、あいついだ黄河の氾濫のために分厚い土中に埋もれているが、城市自体が紀元前3500年ころの遺蹟のうえにあり、前期の商(殷)もここを都とした。
すなわち鄭州城市の地上のあちこちに、いまでもかつての城壁の土塁がみえるが、それは全体の高さの1/3-1/4ほどでしかなく、峨峨たる巨大な城壁のほとんどは地中に埋もれている。
そしてこの街のあちこちから、饕餮文トウテツ-モンを中心とする、「文」をともなった青銅器や陶器が発掘されている。しかしながら「字」は、この前商時代の鄭州の遺蹟からはほとんど発見されない。

河南省北部の安陽 Anyangは、前述の鄭州から近く、その北西郊外に紀元前14-11世紀に商(後商・後殷)が都をおいた。ここでは甲骨文発見地たる王城域、歴代の王の墓域-王陵域、そして安陽駅に隣接して新設成った《文字博物館》を訪ねた。
繰りかえすが、ここは《文≒紋学、字≒字学、あわせて、文字の博物館》である。
活字キッズやモジモジ狂は、はじき飛ばされること必定の施設であった。

《取材はいちおう完了した。あとはどうまとめるか!》
かつての新中国では「四旧追放」として、ふるき良きものをふり返らない風があった。そのために初等教育から筆をもつ書芸の授業が消え、墨や硯の製造業者が存亡の危機におちいった時期もあった。

余裕ができたのだろうか……。いまの中国は、国をあげて「民族の伝統、ふるき良きもの」を見なおしていた。したがって全土からバスを連ねてやってくる団体客によって、名所・旧跡・観光地・博物館などには人が溢れかえっていた。
まして王羲之の書で知られる浙江省紹興の「蘭亭」などは、大型バスで中国か土からやってくる観光客でまったく人の切れ間が無く、撮影に苦慮するほどの混雑ぶりだった。

著名な『蘭亭の序碑』の前では、どこかの田舎から出てきたとおもえた団体バスのオッチャンやオバチャンが、子供ともども一斉に声を張りあげて、朗朗と『蘭亭の序』を朗読する姿には感動した。そして、それを即座に読みくだせないやつがれは「かなわないなぁ……」とおもわせられることたびたびであった。

さらに、ノー学部のスケジュールには、なにかと病み上がりを自称するやつがれへの配慮などは皆無で、まったく余裕がなく、過酷なものだった(怒)。ともかくやつがれ、ビジュアル・ショック(視覚的衝撃)の連続と、足腰の痛みで、心身ともにヘトヘトになった。

とりわけ陝西省・河南省などの内陸部は、まだ開発が遅れ気味で、旅行者には必ずしも楽な旅とはいえず、北京にでてホッとひと息ついた。そこで真っ先に駈け込んだのがマックとケンタッキーだったのが悲しかったが……。

しかしそこでも報告の少ない印刷大学、印刷博物館を訪問し、改装なった紫禁城(故宮博物院)武英殿も、来訪4度目にいたってようやく取材することができた。また非公開だった紫禁城北宮が「珍宝館」として公開され、秦代石鼓の主要なコレクションや、未紹介のタイポグラフィ資料を多数発見できた。
これから何カ所かの追加取材もありそうだが、なんとか中国文字の旅をまとめたいとおもうこのごろである。