朗文堂―好日録012 アダナ・プレス倶楽部 新潟旅行Ⅰ

朗文堂-好日録 012

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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米どころだけではない !
歴史が育んだ、文化のかおりたかい街
アダナ・プレス倶楽部 新潟旅行

 

《アダナ・プレス倶楽部 新潟旅行 2011年10月8―10日》
おりしも秋の行楽シーズンであった。恒例のアダナ・プレス倶楽部 秋の研修旅行に同行。
今回はアダナ・プレス倶楽部新潟支部「山山倶楽部」会員、歯学博士ドクター山崎(現・プラハ在住)と、グラフィックデザイナー山下良子嬢の全面的なバックアップがあって、期待以上のおおきな成果がえられた旅となった。
  なによりもすべての食事が旨いのなんの。写真は食べる方に夢中で、すこしピンボケだが、「妻有」で食した「きのこ汁」の食材。上げ底無し、上から下まできのこの山だった。
新潟会員のご配慮で、この時期、この場所でなければ味わえない、山盛り・天然・自然のきのこだった。左党は名物・越後銘酒にも舌鼓。ご酒は苦手のやつがれは、ひたすら「きのこ汁」。ほんと「きのこ汁」でお腹がいっぱいになるなんて、まさに縄文ひと以上の贅沢? だった。

そもそも造形とは五体・五感をもちいてなす行為である。すなわち、味覚に鈍感なりせば、良い造形などできるわけがなかろうが! やつがれ先般の中国旅行で水にあたって五キロほど痩せたが、それをすっかり取りもどしたほどだ !?  それだけ越後の食の文化はすごかったということ。

というわけで(どんなわけかよくわからないが)、食の文化のあるところには、文字の文化がある。その逆もまた当然真なり …… が持論のやつがれ、新潟旅行を積極提唱。それに賛同者ありて曰く、
「茨城の出身だから、太平洋から昇る朝日はいつもみて
たけど、海に没する夕陽はみたことがない。日本海の大海原に沈む夕陽をみたいなぁ」

〔活版カレッジ・アッパークラス〕ではさっそく、
「いいですねぇ、それではことしはぜひとも新潟に行きましょう」
となったようである。
まずはノー学部がスケジュール骨子を作成。これがまた、なんともはや極めつきに怖ろしいのだ! ノー学部、好奇心はすこぶる旺盛だが、長野県も新潟県も東北地方に分類して平然としているほどの地理オンチ。

ところが好奇心だけはすこぶる旺盛だから、あそこも、ここも行きたい …… 、と喚き立てるが、相互の地理的な位置関係や距離感はまったくないから困ったものだ。
それでも昨年晩夏の近代活字版印刷術伝来の地・長崎旅行につづき、新潟支部の会員と相談して、実りの秋、新潟がもっともはなやいで、にぎわうという、秋の連休を利用しての新潟旅行となった次第。

おおいに心配だったのは、三度の結婚披露宴(結婚式・披露宴は一度、細君の郷里、友人たちと内輪の披露宴の都合三回開催)が、三度ともすべてひどい雨だった …… 、という「雨降り男」のM夫妻が同行すること。
自他共にゆるす雨男のせいで? 行きと帰りの新幹線の車中はひどい雨だったが、まことに奇妙なことに、車中以外は東京も新潟も終始アッパレ日本晴れ。おかげで新潟県中部の寺泊テラドマリ海岸で、待望の日本海に没する雄大な夕陽をみることができた。
写真はノー学部と雨男M氏提供。
                          童 謡  すなやま
うみは あらうみ むこうは さどよ
すずめ なけ なけ もうひは くれた
みんな よべ よべ  おほしさま でたぞ
くれりや すなやま  しおなり ばかり
すずめ ちりぢり  また かぜ あれる
みんな ちりぢり  もうだれも みえぬ
かえろ かえろよ ぐみはら わけて
すずめ さよなら  さよなら あした
うみよ さよなら  さよなら あした

《新潟県と新潟市……良寛さまと会津八一だけではない、歴史と文化の街》
新潟は、信濃川(やつがれの郷里・信州信濃では、おもに千曲川という)と、阿賀野川がなした沖積層と、海と砂丘と湊町からつくられた街である。
『童謡 すなやま』は、北原白秋(1885-1942)が童謡指導に寄居浜を訪れた際に作詞したものとされるなじみ深い曲である。
どういうわけかやつがれ、暮れなずむ海をみながら、おもわず口をついてでたのがこの懐かしい『童謡 すなやま』であった。
今回は新潟市を中心に、近郊市町村をかけまわる旅となった。  

 『巻菱湖伝』(春名好重、春潮社、2000年10月5日、p.223)によると、
新潟県のひとたちは、新潟県出身の書家で傑出しているひとは、良寛と会津八一とだけであると考えていて、江戸時代に巻菱湖マキ-リョウコ(1777-1843)のようなすぐれた書家がいたことを忘れているのは遺憾である。
と述べている。

灯台もと暗しとはいうが、江戸時代だけでなく、近代・現代においても、作家・文人・書芸家・印刷・出版界に多くの俊才を送り出したのが越後の国・新潟県であり、決して田中角栄先生だけではないのだ !?
ところが今回は、良寛記念館は時間の都合でいけず、巻菱湖史料館は臨時休館ということでいけなかった。それでも十分すぎるほどの収穫の多い旅だった。
新潟市のオフィシャルWebsiteによると、以下のように紹介されている。しかし残念ながら、ここにも越後の国新潟の、歴史と、ひとと、その重厚な文化には触れられていない。  

■ 新潟市の概要
新潟市は古くから「みなとまち」として栄え、明治22年の市制施行以来、近隣市町村との合併によって人口約81万となり、平成19年4月1日には本州日本海側初の政令指定都市となりました。
本市は、整備された高速道路網や上越新幹線により首都圏と直結しているなど、陸上交通網が充実しているほか、国際空港、国際港湾を擁し、国内主要都市と世界を結ぶ本州日本海側最大の拠点都市として、高次の都市機能を備えています。一方で、広大な越後平野は、米のほか、野菜、果物、畜産物、花き類など、農畜産物の一大産地です。また、日本海側に面し、信濃川・阿賀野川の両大河、福島潟、鳥屋野潟、ラムサール条約登録湿地である佐潟といった多くの水辺空間と里山などの自然に恵まれています。 

《越後の国で、旨いラーメンにありついたぞ》
土曜(8日)早朝の上越新幹線「MAXとき」に乗り、燕三条駅で下車。
会員の山崎さんと山下さんが、それぞれの愛車《流星号》と、《銀星号》で笑顔のお出迎え。
ひさしぶりの会員同士の再開を歓ぶ間もなく、まずは昼飯、腹ごしらえ。慌ただしく話題の店という、極旨背脂 ゴクウマ-セアブラ ラーメンの「杭州飯店」に駆けつけて昼食。ところが駐車場はいっぱいで、店の前には長い行列が……。ここも「行列のできる人気店」らしい。

やつがれ、ほんのひと月ほどまえ、本場の「杭州Hang zhou」で、劉昊星さんと中国料理をごいっしょしたが、ここ三条の「杭州飯店」の極太麺と、巨大チャーシューと、背脂の出汁ダシがきいたスープも本場に負けず劣らず旨かった。やつがれおもわず舌鼓をうったが、ン !?  新潟は米どころではなかったのか?

《燕市産業資料館で金属加工産業の学習。フイゴの実物を紹介》
燕・三条駅で集合したのは、おもに燕市産業史料館(燕市大曲4330-1)と、諸橋轍次記念館にいくため。燕市産業史料館は燕市の産業の変遷を展示している本館と――この建物が広場や池をはさんだ最奥部にあるので、まず最奥部からの見学をおすすめ――。

燕市の産業は江戸時代のはじめより、和釘・やすり・銅器・煙管などを中心として発達してきました。
この地方では近世に至るまで、和釘(舟釘)は野鍛冶がその必要な需要を充たす程度でしたが、徳川幕府・元和から元禄(1615-1704)に至るまでの[徳川幕府の]直轄時代に、江戸市中を見舞った幾多の地震や火災などの災害復旧のため、当時の代官が、毎年繰り返される大川の洪水で疲弊する農民の救済を目的に、大いに和釘の生産を奨励しました。
それ以降、和釘(家釘)の需要が増大し、近郷を合わせて「釘鍛冶千人」とまでいわれるほどに繁盛をきわめ、燕は東日本の和釘生産の本場となりました。

1700年頃には自家用鋸ノコギリの目立て道具としてヤスりの製造もはじまりました。さらに、元禄年間に開かれた間瀬銅山の銅を用いて、燕では銅器の生産が行われるようになり、明和年間(1764ー)には、会津地方から鎚起の技術を用いた、新しい銅器の製造法が導入され、併せて煙管キセルなども製造されるようになりました。これら燕の金属加工技術は、飾り物などの彫金技術と一体化して、家内工業生産の支柱として農村との密接な関連性を保持しながら発展してきました。    

 しかし明治維新以降、和釘は洋釘に、煙管は紙巻タバコに、矢立は万年筆に、銅器はアルミニウムの普及に加え、1914年の第一次世界大戦勃発により鋼が高騰するなど、これらの産業は衰退の一途をたどりました。
幸いにして[第1次世界]大戦のさなかに、外国からスプーン・フォークの見本が持ち込まれ、試作に成功しました。このことは長い間つちかった金属加工技術をもとに、金属洋食器の製造という活路を開くこととなりました。当初は手造りというエ程も、新しい機械技術やステンレス鋼などの導入によって生産量の増大・品質の向上などを図り、燕の金属洋食器は輸出が急速に発展しました。

第二次世界大戦後は、ステンレス加工技術を活かした「金属ハウスウエア製品」の生産も活発化し、金属洋食器と共に、国内はもちろん、世界百数十ケ国に輪出されています。現在では、これらの伝統産業を大切に保存しながらも画期的な創造力で、先端の加工技術を取入れ、新分野への業種転換及び多角化が行われています。

燕市産業史料館本館で、写真中央と右手最奥部に、やつがれ異なもの〔フイゴ〕を発見。
この風琴にも似た構造の送風器〔鞴フイゴとフイゴ祭〕のことは、東京築地活版製造所跡地に建立された「活字発祥の碑」に関して、本ブログロール『花筏』「A Kaleidoscope 002」に紹介したことがある。関心のあるかたは、面倒でもアーカイブから引きだして「A Kaleidoscope 002」の全文をごらんいただきたい。

わが国において近代活字鋳造がはじまった明治初期、活字鋳造工のおおくはふるくからの技能士、鋳物士(俗にイモジ)から転じたものがおおかった。かれら鋳物士は、火を神としてあがめ、不浄を忌み、火の厄災を恐れ、火伏せの神を信仰する、異能な心性をもった、きわめて特殊な職人集団であった。      

「A Kaleidoscope 002」より部分紹介―――
もともと明治初期の活字鋳造所や活字版印刷業者は、ほかの鋳物業者などと同様に、蒸気ボイラーなどにも裸火をもちいていた。 そこでは風琴に似た構造の 「鞴 フイゴ」 をもちいて風をつよく送り、火勢を強めて地金を溶解して 「イモノ」 をつくっていた。ふつうの家庭では 「火吹き竹」 にあたるが、それよりずっと大型で機能もすぐれていた。
そのために活字鋳造所ではしばしば出火騒ぎをおこすことがおおく、硬い金属を溶解させ、さまざまな金属成形品をつくるための火を 玄妙な存在としてあがめつつ、火を怖れること はなはだしかった。
ちなみに、大型の足踏み式のフイゴは 「踏鞴 タタラ」と呼ばれる。このことばは現代でも、勢いあまって、空足を踏むことを 「蹈鞴 タタラ を踏む」 としてのこっている。
       

この蹈鞴 タタラ という名詞語は、ふるく用明天皇 (聖徳太子の父、在位585-87) の 『職人鑑』 に、 「蹈鞴 タタラ 吹く 鍛冶屋のてこの衆」 としるされるほどで、とてもながい歴史がある。つまり高温の火勢をもとめて鋳物士(俗にイモジ)がもちいてきた用具である。

そのために近年まではどこの活字鋳造所でも、火伏せの祭神として、金屋子 カナヤコ 神、稲荷神、秋葉神などを勧請 カンジョウ して、朝夕に灯明を欠かさなかった。また太陽の高度がさがり、昼の時間がもっとも短い冬至の日には、ほかの鍛冶屋や鋳物士などと同様に、各所の活字鋳造所でも 「鞴 フイゴ 祭、蹈鞴 タタラ 祭」 を催して、「一陽来復」を祈念することが常だった。

すなわちわずか20―30年ほど前までの活字鋳造業者とは、火を神としてあがめ、不浄を忌み、火の厄災を恐れ、火伏せの神を信仰する、異能な心性をもった、きわめて特殊な職人集団であったことを理解しないと「活字発祥の碑」 建立までの経緯がわかりにくい。          

移動中、雨男M氏が富農の家の軒瓦に興味を示していた。こういったたぐいの、ある種の意味性をもった造形物を、中国では「文」という。わが国では、まれに「紋」という。
興味のあるかたは、前ページの『朗文堂ー好日録 011』をご参照ありたし。

越後平野は米どころ。それだけに富農や豪農がおおく、家の構えも、瓦屋根も立派なものが多い。写真にみる棟の両端におかれた装飾瓦は、よく知られる《鬼瓦》とおなじ目的のもので、こうした棟瓦の一種は《獅子口》という。最上部の円筒形の部分は経典を模したもので「経の巻」といい、山形をなす部分を「綾筋」という〔以上、おもに『広辞苑』より〕。
神社や宮殿や資産家の邸宅にしばしばみられるが、越後平野では、あたりまえにみることができた。すなわち越後の民艸は裕福であるということ。           

《度肝をぬかれた各地の記念館、なかんずく、北方文化博物館》           
それからの2泊3日、まことに慌ただしく各地を駆け巡った。
印象にのこった施設が、まず蕗谷虹児記念館。蕗谷虹児(フキヤ-コウジ 1898-1979)は新潟県新発田市出身の画家であり、詩人でもあった。

蕗谷は最初に「待てどくらせど来ぬ人を、宵待草のやるせなさ……」とうたった先輩の竹久夢二にあこがれ、やがて、その勢いは満天下の人気を竹久夢二とともに二分した。とりわけ短い生涯だった母を思慕して詠んだ『花嫁人形』は現在も愛唱されている。

        童 謡  花嫁人形
金 襴 緞 子 の  帯 し め な が ら
花 嫁 御 寮 は   な ぜ 泣 く の だ ろ
文 金 島 田 に   髪 結 い な が ら
花 嫁 御 寮 は   な ぜ 泣 く の だ ろ
あ ね さ ん ご っ こ の   花 嫁 人 形 は
赤 い 鹿 の 子 の   振 り 袖 着 て る

     

諸橋轍次記念館(新潟県三条市庭月434番地)も、タイポグラファならぜひとも一度は訪れていただきたい場所である。
正直いって、やつがれ初日にいったこの記念館――というより、この地の異形な景観に衝撃を受けて、それからの2日間は、どうにもこうにもフワフワと夢心地。
すなわちここに日本風の民家や杉林がなければ、八木ケ鼻を中心とした景観は、中国の浙江省あたりの景観とそっくりだった。そもそもこのあたりは「漢学の里」と、いつのころからか呼ばれているそうである。
諸橋轍次(1883―1982)のことはくどくは書かない。いわゆる『諸橋大漢和辞典』(大修館)を編纂し、静嘉堂文庫館長・東京文理科大学教授を歴任。また文化勲章受章者である。100歳の春秋をもって1982年逝去。

それよりやつがれ、庭園につくられたほほ笑ましい「西遊記の像」と、その直近に現存する諸橋轍次の生家にみとれていた。玄奘三蔵、三蔵法師(600―64、一説に602―64)は唐代の僧で、もちろん実在の人物である。
玄奘三蔵は629年に長安を出発し、天山南路からインド・天竺にはいって、ナーランダ寺の戒賢らにまなび、645年帰国。『大唐西域記』はその旅行記である。
帰国後に『大般若経』『倶舎グシャ論』『成唯識論』などの多数のサンスクリット仏典を漢訳した。また勅命によって652年慈恩寺を長安に建立し、経典保存蔵として「大雁塔」を設け、それらは西安に現存している。その歴史の現場に、やつがれつい先日たっていた、というより、高所きらいのため避けていた「大雁塔」にはじめて昇っていた。

大雁塔には初唐の政治家にして、楷書・隷書の書芸家としても著名な褚遂良(596―658)が、唐の太宗・李世明の命によってのこした『雁塔聖教序碑』がある。書はけっしてうまいとはいえないが、格調のあるすばらしい碑文である。つまりやつがれの好きな書のひとつが褚遂良の『雁塔聖教序碑』である。 。
褚遂良は博学でしられ、太宗につかえて諫議大夫兼起居郞にすすみ、高宗のとき尚書右僕射となった。しかしながら血の気もおおかったようで(それが書にもあらわれている……)、武氏(則天武后)の皇后冊立に反対して、愛州(いまのベトナム北部)に左遷され、そこで没した。

ところで諸橋轍次記念館の「西遊記の像」である。玄奘三蔵の『大唐西域記』と『西遊記』とはまったく異なる文書である。
『西遊記』は『大唐西域記』にみなもとを発してはいるが、明代の呉承恩作の長編小説であり、中国四大希書のひとつとされる。
『西遊記』においては、唐僧・玄奘三蔵が、孫悟空、猪八戒、沙悟浄とともに、さまざまな妖魔の障碍を排して天竺(インド)にいたり、大乗経典を得て中国にかえるというのが粗筋になっている。
孫悟空ソンゴクウは快猿で、七十二般変化の術と、キントウン――ひと飛びで10万8千里をいくという――の法を修得して天空を騒がせたが、のち玄奘三蔵に随伴して大小八十一難をしのいで天竺にいたり、三蔵法師は経典5048巻を授けられるのをたすけたとされる。その孫悟空はここ諸橋轍次記念館でも、やはりキントウンにのっていた。
『大漢和辞典』というもっとも厳格さが要求される分野で名をなした諸橋轍次も、いまや黄泉にあそぶひととなったが、どんなおもいで記念館の庭園にもうけられた「西遊記の像」をみているのだろうかと、ほほ笑ましいおもいであった。   

《次回に紹介したい、北方文化博物館》

  

今回の旅(取材)でもっとも衝撃的だったのは、北方文化博物館 である。写真は北方博物館館長、第八代・伊藤文吉氏(1927年うまれ)。北方博物館は中央メディアでの露出がすくないようだが、それはどうもその存在意義の解析が困難をともなうからのようである。
やつがれ、それなりに資料収集につとめたので、次回に北方博物館と、やはり伊藤家が戦後に住居を提供するなど、なにかと面倒をみた会津八一のこと、それに新潟がうんだ奇才・坂口安吾のこともあわせて紹介したい。