月別アーカイブ: 2011年6月

花こよみ 013

詩のこころ無き吾が身なれば、折りに触れ、
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく。

活 字 鋳 造 士

錫 と 鉛 の  秘 法 を も っ て
鋳 造 活 字 を  つ く る の が  こ の 儂ワシ じ ゃ
組 版 は  正 確 き わ ま り な く
整 然 と  活 字 が  な ら ぶ
ラ テ ン 語、 ド イ ツ 語
ギ リ シ ャ の 文 字 で も  同 じ こ と
イ ニ シ ャ ル、 句 読 点、 終 止 符 と 揃 え
あ と は  い つ で も 刷 る ま で さ

Illustration by Jost Amman
Text by Hans Sachs
1568

タイポグラフィあのねのね*011 活字書体判断3原則 判別性・可読性・誘目性

活字書体判断における三原則

1.  判 別 性  Legibility    レジビリティ
活字書体におけるほかの文字との差異判別や、認識の程度。

2. 可 読 性  Readability   リーダビリティ
文章として組まれたときの語や、
文章としての活字書体の読みやすさの程度。
3.誘 目 性  Inducibility     インデューシビリティ
視線を補足して活字書体などの情報に誘うこと。
またはその誘導の程度。

★   ★   ★

これらの外来語由来のタイポグラフィ専門用語は、耳慣れないことばかもしれない。また、本来は活字版印刷術 ≒ タイポグラフィの業界用語であったから、簡易版の英英辞典や英和辞典には掲載されていないものがあるし、紹介があっても混乱しがちである。

したがって、その翻訳語としての紹介(日本語)は混乱の極地にある。なにも外来語をありがたがるわけではないが、近代活字版印刷術 ≒ タイポグラフィが、江戸最末期から明治初期に海外諸国から招来されたため、その基本用語のおおくが外来語になっている。それは現代のパソコン業界用語とされる、 PostScript, PDF, DDCP など、もはや翻訳語すら追いつかなくなった現状に鑑みたら仕方ないことだろう。
そのためもあって、わが国における活字書体の差異判別や特徴をかたることばは混乱しがちであり、あいまいな感覚語をもちいたり、共通基盤を有さない印象論が大手をふるってかたられている。しかしこれらのことばは活字書体の評価や判断にあたってたいせつなことばである。タイポグラファなら、あるいはタイポグラファたらんとする有志の皆さんは、ぜひとも記憶していただき、適切に使用していただきたい。

《 詳 細 解 説 》

《判別性 Legibility レジビリティ》
判別性は、大文字の「B」が、数字の「8」に見えたりするときや、大文字の「I」 アイ、小文字の「l」 エル、アラビア数字の「1」イチがはっきりと区別できなかったり、大文字「O」オーと、数字の「0」ゼロが明確に区別・判別・識別できないときなどにもちいられる。わが国では、漢字の「網」と「綱」、「ー」オンビキ、チョウ- オン-フ と「-」ダッシュの差異判別や、カタ仮名の「ロ」 ロ と、漢字の「口」 クチが見分けられるように、活字を製作したり、それを議論するときなどにもちいられる。Legibility の和訳語はなかなか定着せず、従来は可視性・識別性・視認性などともされてきた。

Legibility は形容詞 legible から派生した名詞で、文字が読みやすいこと、文字の読みやすさ、文字の判別や識別の程度――判別性・識別性などをあらわす。活字版印刷術が創始されてから間もなく、すなわち1679年にその初出がみられる。形容詞の legible は、筆跡や印刷された文字が、看取される、判別可能な-という意味である。そのほかにも、容易に読める、読みやすいという意味で、後者の比較語(confer)としては readable がある。

こうした判別性を、19世紀末から20世紀初頭に活躍した、英国のタイポグラファのエリック・ギルは、
「A は A、B は B である」
というフレーズをしばしば挑発的に口にしたとされる。また著書『エッセイ・オン・タイポグラフィ』にも各所にしるしている。この「A は A、B は B である」とは、たとえば A という文字を成立させている、画線の組合せでしかない図形を、どう書けばもっとも A らしくなるのかということである。逆にいえば、A を構成しているどの線をどう歪め、どうくずせば A ではなくなるのかという、字体(文字の骨格)の限界の追求を、アルファベットのすべてについて試みることであろう。

文字が成立した長い歴史におもいをはせれば、文字誕生の神秘とその洗練の過程には、確たる文字の姿(字体)を獲得するにいたった人間の工夫と、そのために「定まった字型 Type」をもつ活字のはたした役割の重要性に気づくはずである。文字はひとしく万人のものであり、それゆえに公的な存在であり、その最大多数が迷うことなく、ひとしく判別できる字体(文字の姿・骨格)を探し出す努力は、タイポグラフィの実践者や、活字書体設計にたずさわる者にとっては、基本的な問いかけといえよう。

《可読性  Readability   リーダビリティ》
可読性とは、漢語調で、いかにもふるくからあったという語感で納得させられるが、意外にあたらしい活字版印刷界の業界用語である。もとはドイツ語で Lesbarkeit の英訳語の名詞で、読みやすいこと、読めること、可読性という意味と、面白く読める、面白く書いてあることをあらわすのが原義である。

英語での Readability の初出はあたらしく、 1843年にはじめての使用をみる。わが国ではおそらく明治期に、たれかが Readability に「可読性」という、じつにうまい訳語をあたえたものと想像される。『広辞苑』には 「かどく-せい 【可読性】 読み取れる性質・度合い」 とされている。また一部にこれを「速読性」としたいというむきもある。

1980年代後半、アナログからDTPへの過渡期――技術の継承期――には世界規模での混乱がみられた。そのころ膨大に出版されたアメリカの資料の一部には、レジビリティはフォントを表わし、リーダビリティはファンクションを表す――などという記述も見られた。なにをいっているのか分からなくなる記述が出現し、困ったことに、いまでもそうした資料を引くむきがみられる。

要するにこのことばは、文字の見分けやすさと、文字の読みやすさのこと。つまりタイポグラフィの基本的役割に関わる用語である。したがってタイポグラフィ関連やデザイン関連の洋書に触れると頻出するので、あらためて確認していただきたい。すなわち、あまりこれらのことば自身を難しく考えないで、むしろタイポグラフィの基本的な役割が「文字の見分けやすさと、その読みやすさ」であることを確認したいものである。

《誘目性  Inducibility   インデューシビリティ》
英語の形容詞 「Inducible = 誘致[誘引]できる;誘導できる;帰納できる」の名詞形である。名詞形の Inducibility としての初出はきわめてふるく、印刷術の創始から間もない1643年のこととされる。すなわち「視線を補足して、活字書体などの情報に誘うこと。またはその誘導の程度」をあらわすために、活字版印刷の業界用語として登場したので、簡易版の英英辞書、英和辞書などには未紹介のものが多いようである。

誘目性が重視されるのは、サインデザインや広告の世界が多い。空港や駅頭で、的確な情報を提供し、そこに視線を誘導することは、文字設計者の重要な役割でもある。またポスターやカタログなどの商業広告においても、旺盛な産業資本の要請にこたえて誘目性を重視した書体も開発されてきた。

産業革命以後、この誘目性が活字書体設計に際して「ディスプレー書体」などとして強く意識されるようになり、黒々とした、大きなサイズの活字が誘目性に優れているという誤解も生じた。しかしながら、もともと「Display」は動物の生得的な行動のひとつで、威嚇や求愛などのために、自分を大きく見せたり、目立たせる動作や姿勢のことで、誇示・誇示行動をあらわす。

もちろん、現代では「Display」は、表示・展示・陳列などの意でも用いられるし、コンピューターの表示・出力として、図形・文字などを画面に一時的に表示する装置にも用いられる。ところが原義とは怖ろしいもので、ディスプレー書体の多くは、誘目性を過剰に意識するあまり、あまりに太かったり、奇妙・奇抜なデザインに走って(判別性と可読性に劣ったために)、一過性の流行の中に消滅してしまったものも少なくはない。活字の世界で求められるのは、まず第一義的には、判別性と可読性であり、誘目性はむしろ抑制したほうが無難なようである。

ところが近年、バリア・フリーの考え方が進化して「ユニバーサル・デザイン」が提唱されるにおよんで、電子活字書体の一部が「UDフォント」などと称しはじめた。ここでの文字情報の役割は、判別性とともに、誘目性が重視されるようになった。まだわが国の「UDフォント」は開発の第一段階にあるようだが、ここにあげた《活字書体判断における三原則》に立ち帰り、地に足のついた、真の「UDフォント」の開発をめざして、進化・発展して欲しいものである。

タイポグラファ群像*001 加藤美方氏

加 藤  美 方 (カトウ-ヨシカタ 1921-2000)

印刷人、タイポグラファ。1921年(大正10)うまれ。東京府立工芸学校卒業後、さらに東京高等工芸学校印刷工芸科を卒業。株式会社研究社に入社し、第2次世界大戦中は海軍技術将校として召集された。
のち大日本印刷株式会社に転じて役員などを歴任。同社を退任後に、吉田市郎(旧晃文堂株式会社社長/当時リョービ印刷機販売株式会社社長、現リョービイマジクス株式会社顧問 1921- )に請われて常務取締役に就任。各種の写植活字と写真植字機器開発の指揮にあたるとともに、タイポグラフィ・ジャーナル『アステ』1-9号の編集にあたった。胃がんとの闘病の末、2000年(平成12)12月29日逝去。法名・遇光院釋淨美居士。享年79

加藤美方(1987年 アステNo.5より)

《加藤役員と、最後まで親しく呼ばせていただきました》
「加藤です」というご挨拶のとき、最初の カ にアクセントがある、いくぶんかん高い声が特徴のかただった。
また圭角のないひとがらで、いつも笑顔でひとと接していた。

筆者と加藤との最初の出会いは、某印刷企業の室長であり、面接担当者(雲の上のひと)加藤と、ただ生意気なだけの(汗)タイポグラフィ研究者?  としての筆者の就職面接だった。
加藤の骨折りもあって入社をはたしたが、直属上司と大げんかの末、そこを半年もたたずに退社して加藤の失望をかった。
それでもその後も随分いろいろな分野の先輩を紹介していただいたし、きついお叱りも頂戴した。したがって最初の出会いからしばらくして(お怒りが溶けてから)は、筆者は加藤を最後まで「加藤役員」と呼んでお付き合いをさせていただくことになった。

1998年7月7日、忘れもしない七夕の日、加藤は胃がんの手術をした。小康を得て牛込矢来町の自宅にもどったとき、見舞いに訪れた筆者に加藤はこうかたった。
「タイポグラフィの研究を本気でやろうとしたら、コピー複写資料に頼ってはいけません。それをやっているひとが一部にいますが、所詮はアマチュアですし、いつか大怪我をします。タイポグラフィとは、活字の改刻とは、そんなコピーでわかるほど簡単なものではありません」。

高島義雄→加藤美方をへて譲渡された『TYPE FACES』
研究社印刷 1931年(昭和6)
B5判 160ページ かがり綴じ 上製本
この活字見本帳は、端物用、ページ物用の欧文活字書体の紹介がおもである。
研究社・小酒井英一郎氏によると、管見に入る限り、研究社の冊子型活字見本帳では
これが最古のものであり、またこれが唯一本とみられるとのことである。

加藤が在職した当時の研究社の本社工場。
同社は1907(明治40)年の創業以来、一貫して英語関連の印刷・
出版事業を展開した。
現在は印刷部門と出版部門は分離したが、千代田区富士見2-11-3に
自社ビルを保有し、辞書・書籍・雑誌の領域における出版企業として著名である。

このころの研究社の活字鋳植機はライノタイプが主力だったが、こののちに、
辞書などの高度組版への対応のため、凸版印刷と交換という形でモノタイプに設備変更した。

ここにみる研究社の和文書体は、第二次世界大戦で罹災して全壊した。
戦後は  晃文堂明朝体  を中心と
した活字母型を購入して、活字自家鋳造にあたった。
そのため現在の研究社の自社専有書体、
とりわけ明朝体は、晃文堂明朝を
自社用にカスタマイズしたものをハウス・フォントとする。

『SPECIMENS OF TYPE FACES』(1937年[昭和12] 研究社印刷 同社蔵)
B5判 160ページ かがり綴じ 上製本
前掲見本帳から7年後、同社が活字自動鋳植機モノタイプを本格展開
した際に製作されたとみられる活字見本帳。
研究社とその関連部署に、都合2冊が現存する。
ライノタイプ中心の1931年版では、Century, Granjon が中心だったが、
モノタイプ中心の1937年版では Garamond, Aldine Bembo が中心書体に変わっている。

『SPECIMENS OF TYPE FACES』(1937年[昭和12] 研究社印刷)
扉ページ

『SPECIMENS OF TYPE FACES』(1937年[昭和12] 研究社印刷)
本文ページ
 

それからしばらくして、加藤は娘さんの嫁ぎ先の近く、多摩市関戸に移転して病後の療養にあたることになった。そこへの移転を控えたある日、ちいさな段ボール箱にいっぱいのタイポグラフィ資料が宅配便で届いた。おもには加藤が研究社に在籍していた時代の貴重な印刷関連機器と活字の資料であった。

加藤はすでに胃がんの進行を自覚していた。そしてそこには自筆で、
「息子が印刷とは無縁の職場にいますので、このタイポグラフィ関連資料と、活字見本帖類を片塩さんにあげます。書誌関係のものは M 八郎 さんにあげました。わたしの印刷人としての人生は幸せでした。わたしは二廻り年下の片塩さんを発見することができました。ぜひこれを役立ててください。わたしの研究社の先輩・高島義雄さんから譲られた資料も入っています。そしてあなたもいつか、二廻りほど年下の若者を発見して、この資料を譲ってあげてください」
とあった。不覚ながら、おもわず涙がにじんだ。加藤美方は1921年(大正10)辛酉カノト-トリのうまれで、筆者はちょうどふた廻り下の1945年(昭和20)乙酉キノト-トリのうまれであった。

《タイポグラファとしての加藤美方の軌跡》
タイポグラフィ・ジャーナル『アステ』は、樹立社から『活字の歴史と技術 1-2』(樹立社 2005年3月10日)によって改題されて復刻をみた。その『アステ』をのぞくと、加藤には意外に公刊書は少なかった。
それでも研究社に在職中に、『The Printing of Mathematics 数学組版規定』(The T.W. Chaundy, P.R. Barrett and Charles Batey, Oxford University Press)を1959年(昭和34)3月1日に訳出して、高度な組版技術を要する数式を活字組版するための指導書として、研究社の技術基盤を築くのに功績が大きかった。
同書の初版は社内文書ともいえる扱いで、造本は A5判 本文32ページ、くるみ表紙、全活字版スミ1色印刷 中綴じのつくりで、簡素ではあったが、後続の類書に与えた影響は大きかった。
またのちに晃文堂・吉田市郎が研究社の承諾をうけて、同じタイトルでひろく印刷業者にむけて1,000部ほど(加藤談)を公刊した。同書の巻頭の「はしがき」に加藤は以下のようにしるしている。

組版ステッキのイラストがあるほうが、研究社版:発行昭和34年3月1日。
本文明朝体は「晃文堂明朝 9pt. 8pt. 」が主体である。
欧文書体は「センチュリー・ファミリー」と「バルマー・ローマン」が主体である。

タイトルがセンター合わせになっているほうが晃文堂版(発行日記載無し)。

『The Printing of Mathematics 数学組版規定』 本文ページ

は し が き

世は正に「科学万能時代」である。出版物にもいわゆる《科学もの》が多くなり、数学ぐらいは必ずでてくるようになった。ところが、現行の理工医学書及び《数学もの》を見るとはなはだ寒心に堪えない。知らぬが仏とはいえ、編集者もコンポジターもあまりにひどすぎる。なにか拠り所があったら……と思っていたら、The Printing of Mathematics が手に入った。

この本は、活字のこと、ランストン・モノタイプのこと、組版のことなどを、印刷需要家[印刷ユーザー]に説明することと、数学書を書こうとし、これを出版しようとする人に対する諸注意で大半のページがさかれていて、最後にオックスフォード大学出版局の「数学組版規定」
Rules for Composition of Mathematics at the University Press, Oxford が収録してある。この小冊子はこの規定を訳出し、注釈を加えたものである。

規定の中には重複と思われる項目もあったが、原著に忠実に羅列しておいた。なお、付録には関連資料を添えて参考に供した。
外国での数学書の組版規定がそのまま日本の《数学もの》にあてはまるとは思わないが、参考になると考えたので印刷物にしてみた。日本数学会の意見も加え、このキーストーンの上に、完ぺきな《数学組版規定》が築きあげられる日の一日も早からんことを願ってやまない。

東京大学教授・河田敬義博士、山本建二氏(培風館)にはいろいろご教授を受けた。心から謝意を表明する。
数学の ス の字も知らない私が敢えて訳出したのも ‘メクラ蛇におじず’ [ママ]のたとえ。おおかたのご批判をまつ次第である。

ところで、ほとんどのかたはご存知ないようだが、いわゆる『オックスフォード大学組版ルール』も加藤美方が初訳している。筆者所蔵版はあまりに損傷がひどいので、研究社に依頼して保存版を近々紹介したい。したがって『花筏』ブログロールは、ご面倒でも時々更新操作を加えて閲覧いただけたらうれしい。

また『日本印刷技術史年表 1945-1980』(日本印刷技術史年表編纂委員会編 印刷図書館 昭和59年3月30日)の編集委員として「文字組版」の部を執筆担当した。この巻末に《編集委員の略歴》があるので、余剰をおそれず、「タイポグラファ群像」のスタートとして紹介しよう。
すなわち、筆者はここにみる諸先輩とはわずかに面語を交わしたことはあるが、その詳細はもとより、没年はほとんど知らない。これを機として、読者諸賢からのご教示をまつゆえんである。

『日本印刷技術史年表』 表紙

《編集委員の略歴》
※2011年6月16日、板倉雅宣氏の資料提供を受けて、一部を補整した。

◎ 飯坂義治(いいざか よしはる)
富山県滑川市で1907(明治40年)4月28日うまれ。昭和5年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。共同印刷株式会社専務取締役を経て顧問。1982年(昭和57)以降の消息はみられない。

1982◎ 板倉孝宣(いたくら たかのぶ)
東京市下谷区西町(現東上野)で1915年(大正4)うまれ。昭和13年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。日本光学工業株式会社、株式会社細川活版所取締役を経て日電製版株式会社取締役。1992年(平成4)6月21日卒。法名・泰光院孝道宣真居士。台東区谷中1-2-14天眼禅寺にねむる。行年77

◎ 市川家康(いちかわ いえやす)
1922年(大正11年)うまれ。昭和21年東京大学工学部応用化学科卒業。大蔵省印刷局製造部長を経て小森印刷機械株式会社常務取締役。

◎ 加藤美方(かとう よしかた)
1921年(大正10)うまれ。昭和17年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。株式会社研究社、大日本印刷株式会社取締役を経てリョービ印刷機販売株式会社常務取締役。2000年(平成12)12月29日卒。法名・遇光院釋淨美居士。行年79

◎ 川俣正一(かわまた まさかず)
1922年(大正11)うまれ。昭和17年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。昭和29年東京理科大学理学部化学科卒業。共同印刷株式会社を経て千葉大学工学部画像工学科助教授。工学博士。2007年(平成11)以降の消息はみられない。

◎小柏又三郎(こがしわ またさぶろう)
東京麻布で1924(大正13)うまれ。昭和20年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。凸版印刷株式会社アイデアセンター部長。1989年(平成元)5月1日卒。行年65

◎ 佐藤富士達(さとう ふじたつ)
1911年(明治44)うまれ。昭和11年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。海軍省水路部印刷所長を経て東京工芸大学短期大学部教授。1985年(昭和60)6月卒。行年74

◎ 坪井滋憲(つぼい しげのり)
1914年(大正3)うまれ。昭和10年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。株式会社光村原色版印刷所専務取締役、株式会社スキャナ光村取締役社長。2000年(平成12)10月15日卒。行年86

◎ 松島義昭(まつしま よしあき)
1918年(大正7)うまれ。昭和13年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。同校助教授を経て写真印刷株式会社社長。全日本印刷工業組合連合会会長。1999年(平成11)4月6日卒。行年81

◎ 山口洋一(やまぐち よういち)
1923年(大正12)うまれ。昭和20年東京大学工学部機械工学科卒業。大日本印刷株式会社常務取締役を経て、海外通商株式会社専務取締役。

◎ 山本隆太郎(やまもと りゅうたろう)
1924年(大正13)うまれ。昭和18年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。日本光学工業株式会社を経て株式会社印刷学会出版部代表取締役。2010年(平成22)2月19日卒。行年86

加藤が卒業し、上記編集委員に大勢が名を連ねた、東京府立工芸学校と、東京高等工芸学校印刷工芸科の存在にも簡単に触れておきたい。東京府立工芸学校は3-5年間の履修制の特殊な実業学校で、水道橋のほど近くに設立され、「府立工芸」と通称された。
現在はおなじ場所で3年制の東京都立工芸高等学校になっている。加藤は「府立工芸」を卒業後に、さらに東京高等工芸学校印刷工芸科を卒業している。

同校は正式には新制大学にならなかったほぼ唯一の旧制高等学校とされるが、1949年(昭和24)5月、戦後の学制改革にともなう新制大学として、千葉医科大学、同附属医学専門部、同附属薬学専門部、千葉師範学校、千葉青年師範学校、千葉農業専門学校を包括した「千葉大学」が設立された。そこに旧東京高等工芸学校の教授のおおくが移動して「千葉大学工芸学部」の誕生をみた。そのために、卒業生の多くは「東京高等工芸学校 現 千葉大学出身」としるすことが多い。

しかしながら「千葉大学工芸学部」は、1951年(昭和26)4月1日に改組・改称されて「千葉大学工学部」となった。この改組・改称が一部の教授によって「工芸と工業は根本的に異なる存在である」として反発をかった。また、同校を離れた鎌田弥寿治教授らは、東京写真短期大学に移動した。同校は改組・改称をかさねて現在の「東京工芸大学」となった。
すなわち、工芸と工業と美術といった教育分野が、その目的と定義を巡って激しい論争をかさねた時代であり、この命題はこんにちも完全に消化されたとはいえないようである。この間の記録はあらかた散逸していたが、近年松浦広氏が「印刷教育のはじまりを考える 前編・後編」『印刷雑誌』(Vol.94 2011.4-5 印刷学会出版部)に詳しく論述しているのでぜひともみてほしい。

ともあれ加藤美方は東京府立工芸学校と、東京高等工芸学校の両校を卒業し、印刷業界のエリートとして重きをなし、終生その中核を歩んだ。そして、さすがに旧制学校出身者の高齢化は避けられないものの、いまもって関東一円の印刷業界では、この両校の出身者が隠然たる双璧をなしている。
加藤の一生はまさにタイポグラファであり、なかんずく文字活字であった。その軌跡は、株式会社研究社、大日本印刷株式会社、リョービイマジクス株式会社のなど、加藤が歩んだ企業の、金属活字、写植活字、電子活字のなかにみることができる。

《新カテゴリー、タイポグラファ群像開設にあたって》
タイポグラフィ関連の記述に際して、先達の略歴はもちろん、生没年の調査にすら手間取ることが増えた。かつて、著名人なら紳士録があり、業界人でも『日本印刷人名鑑』(日本印刷新聞社)、『印刷人』(印刷同友会)など、業界団体や、業界紙誌があらそって名簿を発表していたので、それらの資料にたすけられることが多かった。
ところが近年は個人情報管理などが過度にかまびすしくなって、肝心の基礎資料すら入手しがたくなった。そこでやつがれがお世話になった先輩・先達の肉声を記録しておくのも意味のあることか、とおもうようになった。

加藤美方氏の奥さまからは、昨年までは年賀状をいただいていた。それが今年は来信がなくて気になっていた。またやつがれが所有している加藤役員のお写真が、パーティでのスナップや、集合写真が多く、御遺影をゆずっていただこうとおもって架電した。ところが矢来町の旧宅も、関戸のマンションも、いずれも「この電話は、現在使われておりません」という機械音声が返るだけだった。

振りかえると、ご逝去の際もあわただしかった。なにしろ師走の29日に逝去されたため、ご親族・ご親戚はお別れができたが、携帯電話の普及以前とあって、「仕事納め」を終えた企業の連絡通信網はまったく機能しなかった。葬儀は四谷にある日蓮宗の古刹寺院でおこなわれたが、かろうじてリョービイマジクスの皆さんと、府立工芸系の学友の皆さんが参集できたのみであった。その末席にあってやつがれは、
「加藤役員は、最後まで企業人だったな」
という一抹の寂寥感のなかに沈んだ。

タイポグラフィあのねのね*010 江川次之進とアルビオン型印刷機

江川活版製造所と江川次之進
タイポグラフィあのねのね*008
その後のおもわぬ展開
Aloha, 江川製 Albion Hand Press

《ハワイから Aloha! の @メールに 吃驚仰天!》
このブログロール「花筏」は、締め切りもなく、また、ほとんどなんの制約もなく、のんびり、ゆっくり書き進めようとおもっていた。しかしながら、なにぶんデジタル弱者ゆえ、ブログの構成はきわめて拙いし、まして、やつがれの拙文では、おおかたの評価はないものとおもっていた。ところが意外に熱心な読者がおられて、「最近、アップの速度が少し落ちていますね。なにぶんわたしは激甚被災地にいますので、書物も読めなくなって、『花筏』を読むことを楽しみにしていますから、もっとアップを!」という東北地方居住のかたからの@メールや、記述の齟齬や遺漏への、建設的かつ率直なご指摘・ご提案を、リアルタイムでいただけるのはうれしいことだ。

とりわけ前掲の「タイポグラフィあのねのね*008」には、「江川活版製造所がなにかと気になっていたのですが、やはり資料は少ないようですね」などと、若い読者からのお便りもたくさん頂戴した。そんな情報のひとつに、Website情報、「書体の覆刻--『日本の活字書体の名作精選』の制作にまつわることなど」(小宮山博史)に、「江川活版三号行書仮名の存在があった。これはかつてどこかで読んだ記憶もあったが、デジタル仮名活字の覆刻(かぶせ彫り)制作の経緯をのべたもので、興味深く読ませてもらった。小宮山氏もやはり文中に、「江川活版製造所の本格的活字見本帳は実見したことがない」ことを述べていた。

やつがれも印刷図書館所蔵の花形活字(オーナメントなど)の小冊子はみているが、やはり文字活字のまとまった資料に接したことはない。むしろ、江川活版製造所の広告資料などと比較しても、関西系の業者の活字見本帳のなかに、あきらかに江川活版製造所の摸倣活字とみられる例をみることのほうが多い。したがって江川活版製造所の資料不足は、一朝一夕には解消しないようだ。しかしながらやつがれの経験上、たれかが問題提起をし、それを根気よく続けていると、必ず、どこからか、資料や情報の提示があるものだ。いまはしばらく、引き続いて江川活版製造所の問題にかかわっていきたい。

ところで、「タイポグラフィあのねのね*008」に、『直系子孫によって発掘された江川活版製造所:江川次之進関連資料』をアップして間もなく、ハワイから一通の@メールを頂戴した。これには腰を抜かすほど吃驚仰天ビックリ-ギョウテンした。またやつがれが、そこで江川活版製造所関連資料の不足を嘆いたために、友人・知人から、資料提供や、資料の所蔵先を紹介いただいた。
そもそも「Websiteとは Interactive インタラクティブ だ」とされる――これはInter とActiveの合成語か? すなわちコンピューター業界用語では「対話方式の」であり、Interactively では、「相互に作用して、互いに影響しあって」の意とされる。ツイッターをやるにはチト恥ずかしいし、まずもって携帯電話を「無用の長物なり」として処分したほどのアナログ派のやつがれには、この程度の軽便なブログロールが「相互に作用して、互いに影響しあって」いて手頃なようだ。

アルビオン型手引き印刷機を紹介した『VIVA!! カッパン♥』
(アダナ・プレス倶楽部 2010年5月21日 朗文堂)
1875年英国の活字鋳造所フィギンズ社製造。写真のマシンはLiugua Florence 所蔵。
まずここで、アルビオン型手
引き印刷機の概略と歴史を知っていただきたい。

2011年5月16日、ハワイで個人印刷工房マノア・プレスを主宰されている、ジェームス・ランフォード(Manoa Press, James Rumford)氏から@メールが到着した。
Dear Robundo,
I am sorry that my Japanese is not very good.  I only can read a little bit.
I wanted to tell you about my printing press, an Albion, made by Egawa around the year 1900. It came to Hawaii before World War II, and so survived the war.

どうして日本語だけの本稿を、ジェームス氏が読み解いたのかわからぬまま、やつがれも、まもなく返事をジェームス氏に送った。向こうが母語たる英語でしるしてきたから、こちらも最初の2行を別にして、すべてやつがれの母語たる日本語でしるした。
Dear James,
I am sorry that my English is not very good.  I only can read a little bit.
あなたからのお便りにとても驚き、嬉しくおもいました。江川活版製造所がアルビオン型活字版印刷機をつくっていたという記録はみたことがなく、まして1900年(明治33)ころに製造されたとする、江川活版製造所のアルビオン型手引き印刷機が、はるばるとハワイにわたり、第二次世界大戦の被害もなく、いまも大切に保存・使用されていることを知って、ほんとうに嬉しくおもいます。

マノア・プレスの 江川活版製造所製アルビオン型手引き印刷機
正面 江川の文字と商標 がみられる。

マノア・プレスの 江川活版製造所製アルビオン型手引き印刷機
背面 旧日本海軍艦隊旗がみられる

マノア・プレスの 江川活版製造所製アルビオン型手引き印刷機 側面
頭頂部にバネを内蔵した突起がみられるのが、アルビオン型手引印刷機の特徴。

木製とおもわれる部材に刻印された、江川の商標 と社名。マノア・プレス蔵。

その後 マノア・プレス のランフォード氏との@メールのやりとりが続いている。かれは1900年(明治33)ころに、江川活版製造所がつくった アルビオン型手引き印刷機 を所蔵 しているという。 なぜだかしらないが、ランフォード氏は語学がやたらと巧みで、アラビア語や中国語を相当読みこなせるらしい。しかも日本語でも漢字を拾い読みして、大方は理解できるらしい。したがってやつがれが苦手とする「漢文調?」の文章で日本語をしるすと、理解しやすいそうである。――日本語の根底には漢文がドテッと居座っているからか……。
それでも理解できない部分は、ハワイ在住の日系人に翻訳してもらっているとのことである。またランフォード氏は、ちょうど日本語の習得につとめていたので、「花筏」をテキスト代わりとして、日本語学習のテキストとして読みすすめているそうである。やつがれの拙文がテキストではチョイと困ってしまうけど。

また、マノア・プレスのWebsiteには、米国映画『HAWAII』の動画サイトYou-Tubeへのリンクがある。『HAWAII』は、『サウンド・オブ・ミュージック』のエーデル・ワイスの曲でお馴染みの女優/ジュリー・アンドリュースと、『偉大な生涯の物語』のマックス・フォン・シドーが主演しているが、現在では人種問題の扱いなどに問題があって、あまり上映されない映画のようである。その分You-Tubeにはたくさん紹介されているが、『HAWAII-Part 10』 の開始からしばらく、5-6分ころにかけて、なんと、くだんの江川型アルビオン型印刷機が画面に登場する。
映画のなかでの印刷作業の手つきは、手引きというより、手押しになっていて怪しい。(そういえば、渥美清の寅さんの映画でも、裏のタコオヤジのアオリ型円圧活字版印刷機の操作が怪しくて辟易ヘキエキしたが……)。ジェームス氏にもまだ十分に確認していないが、ともかくここに登場する、まぎれもないアルビオン型印刷機は、わが国の江川活版製造所が製造したものとされているのには驚いた。

しかもである。ジェームス氏は小社のWebsiteから、例年5月のGウィークに開催されていた「活版凸凹フェスタ」のことを知ったらしい。そして、今年は東日本大震災の被害者をおもんぱかり、また、活版実践者の精神的衝撃が深刻で、製作に集中しがたい状況を考慮して、苦渋の検討を重ねた結果、開催中止を決断したことを知ったという。
そして、被害者の皆さんの一刻も早い災害からの復興を望むとともに、日本での活版実践者とそのファンとの交流のために、来年5月開催予定の「活版凸凹フェスタ」に、「ハワイに渡った江川活版製造所製のアルビオン型手引き印刷機」を持って来日したいのだという。江川アルビオンはおよそ500パウンド、250キロ。すなわちハワイ出身の巨漢力士だった小錦ふたり分ほどの重量だそうである。ジェームス氏、ともかくすごい熱のいれようだ。

《調査不足を猛省! 明確な記述があった江川手引き印刷機》

『印刷雑誌』(第1次 明治24年10月号-12月号掲載)
社名の前の行に「●改良手引ハンド(八ページ・四ページ)製造販売」とある。
これは江川活版製造所が手引き式印刷機―アルビオン型?を
製造・販売をしていたことを想像させる記録であった

上記の図版は「 タイポグラフィあのねのね*008」にも紹介したものである。その際、キャプションとして、
「『印刷雑誌』(第1次 明治24年10月号-12月号掲載)。主要書体は、新鋳造の「江川行書」活字である」
とだけ紹介した。ここでのやつがれは、ついつい江川行書のインパクトに引きずられて、活字印象だけをかたっていた。すなわち江川行書活字は、明治初期のひとびとのあいだに、まだ、篆書・隷書・行書・草書・楷書などの読み書きの素養があった時代に誕生した、きわめて勁烈な筆運びの活字書体である。すべからく、活字書体や書風とは、時代の風や空気を背景として誕生する。その見本のような活字書体が江川行書活字であった。したがって現代の視点では、むしろその勁烈さゆえに、あまりに強すぎる活字書体とみられていた。

しかもそれを実際にテキストとして読もうとすると、行書活字はともかく、それに組み合わされた仮名書体、なかんずくひら仮名異体字(変形仮名)の読み取りに苦労することになり、活字印象派の諸君のように、活字の影印印象だけをかたって、その記述内容の紹介は誤謬をおそれておろそかにした。そこで今回は引用図版から、誤謬をおそれず、ひら仮名交じりの現代文に直しながら全文を紹介しよう。

諸賢のますますのご清適を賀し奉りそうろう。さて、拙者製造の行書活字は、発売以来ことのほかご好評をこうむり、需要日に増加し、業務繁栄におもむき千万センバン、ありがたく謝し奉りそうろう。そもそも右行書活字の義は、筆力遒勁シュウ-ケイ、トテモ-ツヨイ、おのずから雅致あるをもって、これまではおもに名刺に用いられ、大いに江湖コウコ、セケンの喝采を博し、石版[印刷]よりも尚鮮美なりとの高評を辱ふせられそうろうところ、右は独り名刺のみならず、書籍そのほか広告文などに御用いになられることそうらはば、更に美妙に之あるべくそうろう間、多少を論ぜず陸続倍旧ご注文仰せ付けくださるよう希望奉りそうろう              敬 白

追白 右行書活字の義は、拙者種々シュジュの困苦を嘗め、経験を積み、莫大の資本を費やし、明治20年の頃より活字母型製造に着手し、ようやく発売の運びに至りそうろう処、昨今大坂地方にて右に類似の活字を製造販売致し居りそうろう者之有り趣オモムキにそうらえども、右はみずから巧拙、良否の区別之有り。拙者製造のものとは、大いに相違致しおりそうろうあいだ、御購求の際は呉々もご注意然るべしと存じ奉りそうろう也
●改良手引ハンド(八ページ/四ページ)製造発売
東京日本橋区長谷川町
江  川  活  版  製  造  所
大坂東区本町二丁目堺筋
東 京 江 川 支 店 朝 日 堂

やつがれは恥ずかしいことに、この江川活版製造所の広告を何度も見ていながら、そこに、
「●改良手引ハンド(八ページ/四ページ)製造発売」
とある、重要な記録を見落としていた。すなわちタイポグラフィを総合技芸として把握する努力を怠っていたことを猛省させられた。もしかするとこの手引ハンドとは、ハワイのマノア・プレスに現存する「江川アルビオン型活字版印刷機ハンドプレス」のことであることも想像された。

また手引きハンドプレスのチェース、すなわち印刷版の収納サイズをあらわす、八ページはB3判ほど、四ページはB4判ほど、とおもってよいだろう。ここでの手引き印刷機とは、現代の事務用コピー複写機程度のちいさな印刷機だったとみてよい。
ただし、後述する『開拓者の苦心 本邦 活版』(三谷幸吉執筆 津田三省堂 昭和9年11月25日 p173-180)に紹介された、江川活版製造所における活版印刷機関連の記述をみると、同所は明治24年(1891)には、まだ活版印刷機を製造する態勢を築いていたとはおもえない内容である。推測ではあるが、活字の供給と同様に、すでに同型機を製造・販売していたことが、さまざまな資料から類推される、東京築地活版製造所から、現在のOEMのような状態で供給を得た可能性のほうが大きいとみたい。

明治二十五年[1892]大阪中島機械工揚が、初めて四頁足踏ロール印刷機械を製造したが、大阪でも東京でも購買力が薄く難儀したので、東京の販売を江川氏に依頼した。

また、マノア・プレスのジェームス・ランフォード氏は、ハワイの同型機を1900年ころの製造としている。そうすると三谷幸吉の紹介する本林機械製作所の製造によるものである可能性があることになる。

明治三十三年[1900]築地二丁目十四番地に、江川豊策氏を主任として、且つて築地活版所にいた本林勇吉氏を招聘し、本林機械製作所を開設して、印刷機械の製作にも従事するようになった。

『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』
(平野富二 推定明治10年 平野ホール藏)
本書は平野富二の旧蔵書で、ところどころに自筆の鉛筆の書き込みがみられる。
関東大地震で消火の水をかぶったが、なんとか修復してある。
管窺に入る限り、本邦唯一本である。

同書口絵ページ、板目木版印刷
看板の商号は「長崎新塾出張 活版製造所」であり、同社には最初から最末期まで
長崎の「新街私塾から出張ってきた活版製造所」との意識があった。

同書小扉ページ 金属活字を円弧に組版するのは、昔も今も相当の技倆を必要とする。
MOTOGI & HIRANO 両氏の名前を強調している。住所は Tsukiji Tokio. Japan である。

同書本扉ページ 活字版多色刷り印刷。
平野富二の東京進出から6年ほどだが、19世紀のタイポグラフィに特有の
一行ごとに書体と刷り色をかえるなど、
高度な組版・印刷技術である。

同書「第初號」とされた、木活字による初号明朝体。
まだ鋳造技術が未熟で、大型活字のツラに「ヒケ、オチョコ」の発生を防げず、
初号・一号は木活字を使用していた。

巻末部に紹介された活版印刷関連器機。
これらの器機は現在でもほとんどが使用されている。

巻末部に紹介された活版印刷関連器機。
これらの器機は現在でもほとんどが使用されている。

平野富二と東京築地活版製造所が明治10年ころから
アルビオン型手引き印刷機を意識し、
それを摸倣して製造? していたことをうかがわせる図版。
この図版とほぼ同一の、同社製のアルビオン型手引き印刷機は、現在でも
長崎印刷工業組合、水野プリテック、府中歴史博物館などに現存する。

欧文活字収納用ケース

木製部材と金属を併用したプレス機。

《江川活版製造所の印刷機械製造の記録》
ここでふたたび『開拓者の苦心 本邦 活版』(三谷幸吉執筆 津田三省堂 昭和9年11月25日 p173-180)「行書体活字の創製者 江川次之進氏――敏捷奇抜の商才で成功す――」から、活字鋳造と、大坂方面における「種字盗り」の記録、印刷機の製造・販売に関する記録の部分を紹介しよう。

明治十九年[1886]、業務拡張の為に、日本橋区長谷川町に引移った。其年著名な書家其頴久永氏[久長其頴 ヒサナガ-キエイ 書家 詳細不詳 乞! 情報提供]に改めて行書種字の揮毫を依頼し、此に初めて現今伝わっている様な行書々体が出現することゝなったのである。

斯くて此間三、四年の星霜を費やして、漸く二号行書活字を完成し、次ぎに五号行書活字も完備することゝなったので、明治二十一年[1881]秋頃から、「江川の行書」として市販し出したところ、非常に人気を博し、売行亦頗ぶる良好であったと云う。明治二十五年[1892 ]十一月十五日引続き三号行書活字を発表した。

然るに昔も今も人心に変りがないと見え、此行書活字が時好に投じ、前途益々有望であることを観取した一派は、窃ヒソカにこれが複刻[いわゆる種字盗り]を企画するにいたり、殊に甚だしきは、大阪の梶原某と云う人が、凡ゆる巧妙な手段を弄して、行書活字を買い集め、これを種字となして遂に活字として発売したから、此に物議を醸すことゝなった。即ち江川では予め行書活字の意匠登録を得ていたので、早速梶原氏に厳重な抗議を提起したが、その結果はどうなったか判明しない。

これより前、明治二十二年[1889]に横浜伊勢崎町で、四海辰三外二名のものをして活字販売店を開かしめ、同二十四年[1891]、大阪本町二丁目にも、淺岡光をして活字販売店を開設せしめ、地方進出に多大の関心を持つことゝなった。

明治二十五年[1892]大阪中島機械工揚が、初めて四頁足踏ロール印刷機械を製造したが、大阪でも東京でも購買力が薄く難儀したので、東京の販売を江川氏に依頼した。商売に放胆な江川氏は、売行の如何を考うるまでもなくこれを快諾したそうである。同二十六年[1893]、長男貫三郎氏の異兄をして福井県三国町に支店を開かしめ、続いて廿七年[1894]山田朝太郎氏に仙台支店を開設せしめた[江川活版製造所仙台支店は江川活字製造所と改組・改称されて、仙台市青葉区一番町1-15-7で2003年頃まで営業を持続して、東北地区一円の需要を担った]。

尚二十九年[1896]には、隷書活字の創製所たる佐柄木町の文昌堂(元印書局の鋳造部技手松藤善勝氏村上氏等が明治十三年[1880]に設立したもの)を買収したる外、松山氏に勇文堂、柴田氏に勇寿堂を開店せしむる等、巨弾又巨弾を放って販路の拡大に努力する有様、他の同業者の心胆を寒からしめた由である。

明治三十三年[1900]築地二丁目十四番地に、江川豊策氏を主任として、且つて築地活版所にいた本林勇吉氏を招聘し、本林機械製作所を開設して、印刷機械の製作にも従事するようになった。

ここで、真田幸文堂から提供いただいた、江川活版製造所の印刷機に関する新資料を紹介したい。この記録は明治の末、上野池之端で大々的に開催された「東京博覧会」の記録である。ここには江川活版製造所の活版印刷機の写真が、不鮮明ながら石版印刷で紹介されている。
また江川長体明朝の数少ない資料として『印刷世界』から、活字広告を紹介しよう。このような埋もれていた記録が、これからも陸続と紹介できそうで楽しみなことである。また、板倉雅宣氏は2003年ころより手引き印刷機の所蔵先の調査をされている。この本格的な発表もまたれるいまである。

「江川の印刷機械と國華社の美術木版」『東京博覧会大画報』
(第6巻第3号 冨山房 明治40年 真田幸文堂蔵)

江川印刷機械所主・江川次之進氏は、明治16年斯業シギョウを創立し、独立独行幾多の困厄と奮闘して、爾来ジライ20有余年。この間幾多の改良を加え、以て製造に注意せる結果、今や江湖の信用最も厚く、内地は勿論、支邦、朝鮮などにまで分工場を起こし、業務日に月に益々隆盛に趣きつつあり。上図はすなわち出品の機械類なるが、上は足踏みロール印刷機械、下は新型のロール印刷機械なり。(以下國華社分 紹介略)

The Yegawa Type Foundry の雑誌広告 江川長体明朝の管窺にいるかぎり唯一の資料。
『印刷世界』(第2巻第1号 明治44年1月0日 佐藤タイポグラフィ研究所蔵)
「各種活字 印刷機械 附属品一式」――二号江川行書 行間二分
「本文:弊所は明治十六年の創業~」――五号江川長体明朝 行間二分