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朗文堂好日録042 【特別展】 紙幣と官報 2 つの書体とその世界/お札と切手の博物館

印刷局明治10年浮世絵「東京名所 常盤橋内 紙幣寮 新建之図」 広重画 御届 : 明治10年(1877年)01月25日
『 大蔵省印刷局百年史 』 ( 第一巻口絵、大蔵省印刷局 昭和46年06月30日 )
印刷局明治10年ころの写真明治10年ころの紙幣寮

『 大蔵省印刷局史 』( 口絵写真 大蔵省印刷局、昭和37年09月26日 )

1876年(明治09)近代的なお札の国産化を実現するため、東京大手町に現在の国立印刷局の工場が建設された。 常盤橋はいまも皇居前、日本銀行との間に現存するが、東日本大震災のときの被害があって補修工事中である。
旧国立印刷局の建物は、西洋式の赤煉瓦づくり。 正面上部には菊花紋章、その上に鳳凰像をいただいた建物は 「 朝陽閣 チョウヨウカク 」 と呼ばれ、その威容は東京の新名所となった。

「 朝陽閣 」は192年(大正12)、関東大震災によって崩壊したが、幸運なことに正面玄関頭頂部に設けられていた鳳凰像は事前に颱風にそなえて取り外されていたために被害を免れた。
その後さまざまな流転があったが、現在は創建時の姿に修復されて、東京都北区滝野川にある印刷局東京工場の玄関脇に設置されているという [ お札と切手の博物館ニュース  Vol. 35  2014年12月01日 ]。
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お札と切手の博物館が、まだ大日本印刷市谷工場の脇 (国立印刷局市谷工場跡) にあったころは、近くもあったのでしばしばこの施設を訪れていた。

それが国立印刷局王子工場の脇に移転してからは、はじめての訪館となった。 ゆったりしたスペースだった市谷時代にくらべると、だいぶ手狭なスペースになっていたが、スタッフの努力で 展示内容はみるべきものがあった。
DSCN8112 こうぞ、みつまた、がんぴ DSCN8096 DSCN8099JR 王子駅からすぐ近くに印刷局王子工場がある。 近年は地下鉄も開通しており便利になった。王子工場の門扉にも「鳳凰」のマークが透かし彫りで入っていた。
工場脇の花壇には、向かって右から順に、雁皮 ガンピ>、< 三椏 ミツマタ >、< 楮 コウゾ > などの製紙材料となる灌木が植えられていた。
これらは虎ノ門工場にも、市谷工場跡にもあったもので、良質の製紙材料となる。
三椏ミツマタは枝分かれするさい必ず三つ叉に文枝するのでその名があり、このときはまだ蕾はかたかったが、早春のころ、櫻の開花に先だって、
沈丁花にも似たつよい薫りを発する。

今回の特別展示(会場二階)は 「 紙幣と官報 ふたつの書体とその世界 」 がテーマであった。

印刷局では紙幣の書体の中心を < 大蔵隷書 > においている。

「 近代的紙幣が発行され、公的書類に使用されていたこの [ 大蔵隷書 ] 書体が用いられてきたのは、この書体が国家の威厳を表すのにふさわしいと考えられたからである。
大蔵隷書は、紙幣に用いつづけられることで、さらなる威厳や信用を付与され、通貨の専用書体として認知されるにいたったのである 」 ―  同展図録より。

また印刷局には 「 官報 」 などにもちいられる、公共性のたかい本文用書体もあり、それを 「 印刷局書体 」 としている。
「 法令は官報の発行をもって効力を発する。 そのため、遅滞なく確実に印刷発行されることが官報の使命であり、安定的に入手できるという利便性が官報の文字にとっての第一義であった。
しかしながら、印刷局書体には公文書で用いられてきた楷書の趣がのこり、大正の書体改造でも正統性を重視していることから、伝統の保持が意識されていたようにおもわれる 」 ―  同展図録より。

《 印刷史研究においても看過されがちだった 印刷局の特異な活字製造 》 ― 同展図録より。
印刷局活版事業の系譜
上掲図は同展図録 「 太政官日誌の活版化 」 より。
明治最初期、印刷局の濫觴が 「 紙幣寮活版局 」 であったことはよく知られるところであるが、既存の、あるいは臨時的な組織が、どのように紙幣寮活版局に、そして印刷局に吸収されていったのかが、今回の特別展パンフレットには図版で紹介があった。
同展パンフレットは引用に厳格な制限がみられたので、p.03 の図版をもとに、整理して新製作図版としてここに掲載した。

またp.07-08 にかけて掲載された 「 活版印刷作業工程 」 には、活字鋳造設備の導入時期に関する紹介が写真図版入りでみられた。

  1. [ 活字 ] 母型製造
    活版印刷事業創世時、電胎法 [ 電鋳法 ] によって切片状の文字部 ( ガラ版 ) をつくり、それを真ちゅう製の角材に取り付け〔かしめた〕ものを [ 活字 ] 母型としていた。
    しかしながら、[ 印刷局は ] 1912年(明治45)にベントン彫刻機を導入し、直接金属片に文字を彫刻して [ 活字 ] 母型をつくる方法に変更した。
     
  2. 活字鋳造
    [ 活字 ] 母型を活字鋳造機の鋳型に密着させて、地金を流し込み、活字を鋳造する。
    活字鋳造機には手回し式と自動式があり、印刷局ではカスチングと呼ばれる手回し式を印書局より引き継いで以降、昭和初年まで使用し、のちに自動式に切り替えた。
     

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上掲二項目は、いわば筆者の備忘録ともいえるものであり、もしも難解だとおもわれたら、当分は読み流していただきたい。

こころを打たれたこと ―― 二階展示室に組版台が置かれてあり、その引き出しに 『 日本国憲法 』 とラベルが貼られた 「 置きゲラ 」 が数枚あった。 わが国の新憲法は1946年11月03日に公布され、翌47年05月03日から施行された。

担当職員にお願いしたら、ゲラケースから半分ほどまでを引き出して見せてくれた。 しっかりと結束され、鉛の鈍い光彩をはなっていた。

すなわちこの 「 日本国憲法の置きゲラ 」 は、すでに70年近くにわたって、独立行政法人 国立印刷局 の職員であり、印刷技芸家であり、タイポグラファによって、たいせつに守りぬかれてきたものである。

ところで一階の展示には、お札の偽造防止のさまざまが解説されていた。 もともと紙幣の偽造などはまったく考えてもいないから、サラリとみただけである。
また、現在では前述の 「 大蔵隷書 」、「 印刷局書体 」 もデジタル化されているそうである。
それでも紙幣にあっては、「 大蔵隷書 」 をデジタル出力したものを、そのままもちいているわけではない。
モノクロ「 千円札 」 の表面左側の図版を示した。 お手元の千円札でも見くらべていただきたい。
ここには < 日本銀行 > の文字が上下の行にもちいられている。 このふたつの < 日本銀行 > は、すべての字の、字画の一部に、偽造防止のために巧妙に設けられた相異がみられる。 それでありながら < 日本銀行 > である。

< 字 > の玄妙さ、いいつくせぬ魅力とはこんなところにもある。

お札と切手_hyou


特別展示

平成26年度 第 2 回特別展
紙幣と官報 2 つの書体とその世界

書体とは文字の姿のことです。
活字印刷技術の誕生以来、これまでに多くの書体が生み出されてきました。
印刷局でも、独自の書体をつくっています。
印刷局の独自書体
は 2 種類あり、ひとつはかつて活版印刷物用として開発され、官報に用いられたもの、もうひとつはお札などの偽造防止対策が必要な印刷物用につくられたものです。
本展は、これらの書体が、官報が法令を伝えるために、あるいは、お札がお金としての信頼を得るためにどのような役割を担ったのか、その誕生背景などから探ります。

◯ 開 催  日<会期終了>
平成26年12月16日[火]-平成27年03月08日[日]
◯ 開催場所
お札と切手の博物館 2 階展示室

【 展示詳細 : お札と切手の博物館 特別展示
【 展示詳細 : お札と切手の博物館 特別展示 見どころ解説

宋朝体活字の源流:聚珍倣宋版と倣宋体-04 再度中国印刷博物館資料に立ちもどる。

《 2011年09月 北京爽秋のもと、ノー学部がはじめての北京訪問 》
09月下旬-10月中旬ころの北京の気候を、「北京爽秋」という。
喉がひりつくような猛暑がさり、寒風が吹きすさぶながい冬までのあいだ、わずかに、みじかい、北京の爽やかな秋のことである。

杭州 ・ 紹興 ・ 寧波 (ねいは ・ ニンボウ) など、江南の浙江省と、黄河上流から中流域の、西安 ・ 洛陽 ・ 鄭州 ( ていしゅう ・ Zhengzhou、黄河中流南岸。古代王朝商〈殷〉の前半期のみやことされる) ・ 安陽 (甲骨文出土地、文字博物館がある。 古代王朝商〈殷〉後半期のみやこ) など、陝西省と河南省あたりを訪問していたノー学部が、ようやく2011年09月下旬に首都 : 北京を訪問した。

折りしも 「 北京爽秋 」 とされるとき。 大空がはろばろと澄みわたり、涼風がここちよい、もっとも麗しい北京がみれる佳いときであった。
北京爽秋 北海公園DSCN2711DSCN2719DSCN2713DSCN2806 DSCN2805北京印刷学院と併設の印刷博物館。 下部は紙型 ( ステレオタイプ ) 型どり製造装置

《 観光名所をひとめぐり。 そして北京印刷学院と併設の印刷博物館を訪問 》
北京がはじめてというノー学部のために、とりあえず、景山公園、故宮博物院(旧紫金城)、北海公園、明の十三陵、万里の長城などの観光名所をひととおりまわった。
やつがれは北京訪問は 7-8 度目になるが、以前のような観光ガイドつきの旅とちがって、それなりの新鮮さがあった。
それでもそんな観光写真をここにご紹介しても退屈であろう。

このとき、北京訪問を決意したきっかけのひとつは、「 北京印刷学院と、併設の中国印刷博物館 」 への訪問だった。
この施設は1970年代に、写真植字機の開発とその輸出 ・ 移入などで、わが国の関連業界とも接触がみられたが、その後、なぜか情報がほとんど途絶えていた。 その理由を知りたかったし、施設もみたかった。

結果だけをいえば、2011年09月に訪問した 「 北京印刷学院と、併設の中国印刷博物館 」 での収穫はすくなかった。
博物館の規模は宏大で、展示品もとてもすばらしかったが、地下の印刷機器の陳列場をのぞいて撮影禁止であり、図録などは 「 未製作 」 ということで入手できなかった。

また交換プレゼントに小社の図書を相当数用意して、現役の教育者との面会をもとめたが、それも2011年09月の最初の訪問のときは実現しなかった。
【 リンク : 花筏 新 ・ 文字百景*04 】

さらになさけなかったのは、上掲写真のうち、地下展示場の 「 紙型製作機 」 にもちいる巨大なブラシ ( 手づくり ) の未使用品を小社が保有しており、4-5年にわたって壁にぶら下げていた。
もちろん販売だけを目的としたものではなかったが、残念ながらタイポグラファを自称する皆さんでも、ほとんどこれに関心をしめさなかった。 それも当然で、名前を知らず、用途も知らないのだから、簡単な説明だけではただのおおきなブラシとおもわれても仕方なかった。

 ところがこのブラシをみて、奪いさるように強奪 !?  していったのは、パリにアトリエをもつ版画家の某氏であった。
このかたは版画家ではあるが、個人で 「 スタンホープ型手引き活版印刷機 」 を所有されている……、つまりタイポグラファである。 当然このブラシの用途もご存知だった。 その上で、現在の作業環境にあわせての利用を目的とされた。

誤解をおそれずにしるせば、わが国のタイポグラファの多くは、単なる 「 活字キッズ 」 がほとんどで、実技と実践がなく、またシステムとしての印刷と技芸という、本来のタイポグラフィへの関心が乏しいのは物足りないものがある。
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それでもあきらめずにいると運は拓けるもので、下掲写真は翌翌年の2013年11月、友人の紹介をえて、中国印刷博物館に、副館長/張 連章 ( Zhang Lian Zhang ) 老師を訪問したときのものである。
ノー学部にとっては二度目の北京訪問となった。 このとき北京ではすでに「北京爽秋」とはいえず、
11月初旬でも朝夕などはコートが欲しくなるほど冷え込んでいた。
中国印刷博物館正面ロビー中央の銅像は、中国のタイポグラファが 「 活字版印刷術発明者 」 として、きわめておもくみる 「 畢昇 ヒッショウ 像 」 (990-1052) で、下掲写真はその銘板である。
畢昇像畢昇銘板〔 畢昇の発明による活字版 —— 意訳紹介 〕
畢昇像 —— 畢昇(ヒッショウ 990-1052)は 北宋 淮南ワイナン ( 現在の湖北省黄岡市英山県 ) のひと。
ながらく浙江省杭州にあって木版印刷に従事した。 宋王朝仁宗 (趙 禎) の 慶歴5年 (1044)、膠泥コウデイ製の活字による組版をなして、活字版印刷にあたらしい紀元をもたらした。 畢昇は印刷史上 偉大なる発明家である。

〔 筆者補遺 〕
中国印刷博物館では、畢昇の功績はきわめてたかく、500年ほど遅れて、活字版印刷術を大成したグーテンベルクよりも、畢昇のほうを < 発明者 > として数等たかく評価していた。
したがって畢昇に関する研究も相当すすんでいて、館内には大きなスペースをもちいて、畢昇の膠泥活字の製造作業を、ていねいなジオラマ ( 復元模型 ) によって展示 ・ 解説していた。

1990年 ( 平成 2 ) 畢昇の墓誌が発見され、没年が1052年であることがあきらかになったが、生年は970年説、990年説などと異同があ る。
わが国では活字創始者/畢昇のことは、ほとんどおなじ時代の北宋のひと、沈 括 (シン-カツ 1030-94) の 『 夢渓筆談 』 のわずかな記述を出典とするが、そろそろ新資料にまなぶときかもしれない。

ここでいう 「 泥 」 は、わが国の土の軟らかいものとはすこし異なる。 現代中国では 「 水泥 」 としるすとコンクリートになる。 したがって 膠泥 コウデイ とは 膠 ニカワ が溶解してドロドロしたものと理解したい。
この膠泥は、なににもちいるのかは知らないが、現代中国でも容易に入手できるので、一部の好事家は 「 膠泥活字 」 の再現をこころみることがある。
【 リンク : 中国版百度百科 畢昇膠泥活字 図版集 】
【 リンク : 中国版百度百科 畢昇(活字版印刷術発明者) 】

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《美華書館と、後継企業としての華美書館 ・ 商務印書館の消長》
このときは印刷博物館副館長 ( 張 連章 氏 Zhang Lian Zhang 。 印刷博物館館長は共産党幹部であり、張氏が実質的な責任者 ) との同道だったので、館内の撮影もゆるされた。
ところが300枚を優にこえる膨大な数量の写真となった。 しかも広い館内を駆けまわってのシロウト撮影だったから、整理にもう少し時間をいただきたい。

中国では1937-1945年までの日中間の微妙な紛争を 「 抗日戦争 」 と呼ぶ。
わが国ではその前半部分を 「 北支事変 」、「 上海事変 」 などとし、後半部分を 「 大東亜戦争 」 することが多い 【 ウィキペディア : 日中戦争 】。

併設の 「 北京印刷学院 」 は、こうした 「 抗日戦争 」 を主要研究テーマのひとつとした 「 愛国教育 」 の拠点校である。 つまり直近の戦争として 「 抗日戦争 」 を取りあげることが多く、どうしても 「 北京印刷学院 」 は、 「 反日的 」 なかたむきがみられることになりがちである。
それを受けて 「 中国印刷博物館 」 では、中国各地の印刷所と図書館を標的とした、旧日本軍による砲撃のなまなましい惨禍を、文書 ( 印刷物 ) や写真として記録 ・ 所有 ・ 展示していた。 これらの資料の閲覧は、かなりつらいものがあった。

その一例として —— 温厚な張 連章氏が、このときばかりは表情もけわしく、詳細に説き、みせてくれた資料がある。
それは 「 上海商務印書館と 付属図書館 」 にたいして、旧日本軍が至近距離から照準をあわせ、砲弾をあびせて、印刷機器、活字鋳造設備、活字在庫などを焼失させた数枚の写真であり、それを掲載した新聞であった。
また付属図書館では、稀覯書をふくむ、蔵書数十万冊が焼失したという詳細な記録資料だった。

わが国では、英米系の宗教印刷所 「 美華書館  The American Presbyterian Mission Press 」 が喧伝されるわりに、この 「 商務印書館と 付属図書館 」 と、これと双璧をなす 「 中華書局 」 に関しては知るところがすくない。
既述したように、上海の 「 商務印書館 」 と 「 中華書局 」 の施設の大半は、わが国の砲撃によって焼失したが、北京の施設が健在で ( いずれ紹介したい )、それを基盤として発展し、両社ともに現在もなお、中国最大級の印刷会社であり、出版社でもある。

1915年(大正04年)美華書館は中国系資本の 「 華美書館 」 と合併した。 この 「 華美書館 」 は1928年(昭和03)に清算された。
それに際して、美華書館に発し、華美書館に継承された設備は、すべて商務印書館に譲り渡された。 また
人員の多くもここに移動したという歴史を有する企業である。

すなわち……、まことにつらいことではあるが、わが国は、「 明朝体活字のふるさと 美華書館 」 の上海での後継企業を、砲撃目標を眼前に置き、至近弾をもって砲撃して、ほとんど壊滅に追いこんでいたのである。
それを言い逃れのゆるされない、大量の資料を眼前にして知ったとき、1990年ころ、上海での印刷人の取材に際して、かれらが一様に示した、つよい反発の因ってきたるところを熟慮しなかったおのれが恥ずかしかった。
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その際 「 宣戦布告無き、激しい戦闘 」 が上海で二度にわたって展開した。
そのためにこの戦闘は 「 上海事変 」 とされるが、実態は、砲爆撃をともなった、まぎれもない中華民国軍と日本軍との戦闘であった。

「 第一次上海事変 」 (1932年 昭和07年 1-3 月 )【 ウィキペディア : 第一次上海事変 】、「 第二次上海事変 」 (1937年 昭和12年8月13日-)【 ウィキペディア : 第二次上海事変 】、この二度にわたって、中華民国軍と日本軍は上海を舞台にはげしく衝突した。

そのときの 「 商務印書館 」 と 「 中華書局 」 への砲撃による 痛痛しい焼損印刷機器が 「 北京印刷博物館 」 に展示されていた。
また砲撃で焼失した図書館の蔵書のなかには、宋版 ・ 元版などの稀覯書はもとより、孤本( 唯一図書 ) も多かったとする写真と文書記録がのこされていた。 言いのがれのできない蛮行であり、文化的損失であった。

かつて、「 失われし、ふるき、よき印刷所-明朝体活字のふるさと 」 として、「 美華書館 」 を称揚し、その現地探訪記として 『 逍遙 本明朝物語 』 ( 1994年03月16日 ) までしるした責任がやつがれにはある。

ふりかえれば取材をかさねていた1980-90年のころ、当時は 「 失われた歴史のロマン 」 として 「 美華書館 」 をとらえ、まことに呑気なことに、「 破壊してしまった 」 その跡地をたずね、さらにノー天気なことに、資料のすくないことを慨嘆していた自分が恥ずかしくもあり、その消長への問題意識にかけていたことをおおいに反省せざるを得ないいまなのである。

写真とはこわいもので、「 中国印刷博物館 」 二度目の訪問でのやつがれの表情は硬い。
【 ウィキペディア : 美華書館】。 【 ウィキペディア : 美華書館画像集 】。 【 中国版百度百科 : 美華書館 】。 【 中国版百度百科 : 美華書館図像集 】

しかしながら、上海事変による美華書館の後継企業たる、「 商務印書館 」 へのはげしい砲撃のことは、やつがれはこのときはじめて知った。 もちろん看過はできないが、いまのところやつがれの手にあまることがらである。
さりながら、小論での提示とはいいながら、その後 「 美華書館 」 をめぐって、広範な影響をあたえ、さまざまな歴史発掘にいたった小論 『 逍遙 本明朝物語 』 のときと同様に、これから 「 商務印書館 」、「 中華書局 」 などを紹介し、こころざしある有識者とともに、タイポグラフィの進化と深化にむけた努力をなすことが、「美華書館」へのあまりに過剰な称揚の先がけをなしたひとりとして、やつがれがわずかながらも責任をとることのひとつとしたいとおもうこの頃である。
2013 11再訪時 畢昇像 印刷博物館再訪写真右より  邢 立 氏 Xing Li 、 張 連章 氏 Zhang Lian Zhang 、やつがれ、ノー学部

《中国 印刷博物館に展示されている、中国における活字原型製造法の概略史》


< 展示パネル 「 銅模 (字模)」 釈 読 >   翻訳協力 : 郝 丽敏

「 銅模 (字模)」 ―― 活字母型
1895年 〔 清朝光緒20年、明治28年 〕、かつて美華書館のアメリカン人 ウィリアム ・ ガンブル〔ギャンブルトモ。 ガンブルの中国音表記 : 姜別利  *01 〕と会合をかさねていた、中国人の印刷技術者が、電鋳法による活字母型を製作し、活字版印刷術の応用をおおいに推進した。

1906年、上海出身の周 松猷は電鋳法による活字母型専門製作所である「菘蘊字所」を開設した。
その後、申報館、世界書局、呉順記、商務印書館、中華書局、芸文印刷局、漢文正楷印書局、北京文嵐籍などの印刷所 ・ 出版社 ・ 活字鋳造所では、書法家、刻書家の、陶 子麟、丁 補之、鄭 午昌、高 去塍、陳 履坦、英 子敬らによって設計された、楷書体や倣宋体〔わが国の宋朝体〕を開発し、その後の定型化された活字書体となった。

1940-50年代になると、活字母型製造業者が一定の規模になっていき、また一定量の機械式活字母型彫刻機を導入して活字母型の生産をおこなった。
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〔筆者補遺〕
◯ タイトルの「 銅模 」 ( 字模 ) は、いずれも活字母型をあらわす。 「 模 」 は、「 模型  真似 写した型 」 とされるように、わが国の 「 ≒  型 」 をあらわす。
「 銅模 」は電鋳法の時代、その固定支持材に銅をもちいたことによる。
「 字模 」は機械式活字母型彫刻機 ( わが国の俗称ベントン彫刻機 ) の時代、その彫刻材料 ( マテリアル、通称 マテ ) が、おもに真鍮となり、電鋳法との差異化のためにもちいられた。

◯ *1  姜別利――ガンブルに漢音をあてたもの。 William Gamble,  ( ? -1886
アメリカのプロテスタント宣教師兼活版印刷技術者。 はじめ寧波(ねいは、ニンボウ)のアメリカ租界にて印刷をおこない、のち上海租界に美華書館を設立、移転。
長崎に居住していた、ギド ・ フリドリン ・ フルベッキの仲介をえて、明治06年06月ころに来日して、長崎製鉄所活版伝習所に技術を伝えたとされる。

ギャンブルは幕末に、すでに俗称ヘボン辞書として知られる、ジェームス・カーティス・ヘボン編 『 和英語林集成 』 ( 1867年 ・ 慶応03年 ) を岸田吟香の援助も得ながら刊行していた。 またその明治05年の再版本も美華書館の印刷によっている。
このように、巷間知られる以上に、上海時代、それも来日以前から、わが国の薩摩藩士、岸田吟香らの知識層との交際はひろく、『 和訳英辞書 』 ( 明治02 )、『 官許大正増補和訳辞林 』 ( 明治04 ) ―― 前記二冊の大型辞書は いわゆる 「 薩摩辞書 」 として知られる。
『 仏和辞典 』 ( 明治04年01月 )、『 和英語彙 』 ( 明治05 )、『 官許独和字典 』 ( 明治06年05月 ) などを、上海美華書館で組版 ・ 印刷 ・ 製本作業を担っていたことはもっと注目されてよい。

◯ 書法家、刻書家の、陶 子麟、丁 補之、鄭 午昌、……らによって設計された、楷書体や倣宋体 〔 わが国の宋朝体 〕 を開発し、その後の定型化された活字書体となった。
もともと 「 書 」 をおもくみる中国では、活字版印刷が隆盛する前に、「 書 」 そのものを転写できる石版印刷がさかんだったという近世印刷史の特徴があった。

丁 補之、丁 善之の兄弟が開発した 「 聚珍倣宋版 」 はすでに一部紹介した。
鄭 午昌は 漢文正楷印書局に、「 正楷書活字 」 をのこし、この二種類の活字書体は、昭和初期に 名古屋 : 津田三省堂によってわが国にもたらされ、「 宋朝体活字 」 「 正楷書活字 」 として、いまなお盛んに使用され、さらにさまざまなバリアントもうんできた。

そのほかには、「 新魏 シンギ」 という名の、魏碑体から範をとったとみられる特徴のある活字書体と、「 小姚 ショウヨウ」 が 「 上海字模一廠 」 から発売されている。
北京文嵐籍の 「 倣宋体活字 」 は、発売直後から 丁 補之、丁 善之兄弟とのあいだで深刻な争いが発生したもので、北京文嵐籍の 「 倣宋体活字 」 は現代の視点でみると 相当問題がある。

最大手の商務印書館は、独自の倣宋体活字を開発しており、これは大阪 : 森川龍文堂から  「 龍宋 」 という商品名でわが国でも発売されたことがある。  おおらかな、やわらかみのある倣宋体 ( 宋朝体 ) といってよい。
「 龍宋 」 はそのご モリサワに譲渡され、写真植字の時代には好評だった書体であるが、いまのところデジタル化はされていないようである。

◯ 書法家、刻書家の、陶 子麟、丁 補之、鄭 午昌、……らによって設計された、楷書体や倣宋体 〔 わが国の宋朝体 〕 を開発し、その後の定型化された活字書体となった。
清朝末期から、民国初期の活字開発をしるしたこのパネルには、うっかりすると看過されがちだが 「 明朝体 宋体 」 の名前がみられない。
わが国の140年の歴史を刻んだ近代活字版印刷においては、終始明朝体がその中核をしめる書体であった。
どういうわけか中国における「明朝体 宋体」への関心は低く、ある種冷淡ともおもえることがある。 これは明朝体以外の書体を分析する作業から、おのずとあきらかになりそうなことがらである。

◯ 1940-50年代になると、活字母型製造業者が一定の規模になっていき、また一定量の機械式活字母型彫刻機を導入して活字母型の生産をおこなった。
このパネルを前にして、中国への機械式活字母型彫刻機-いわゆるベントン彫刻機の導入時期を張 連章 氏にうかがった。
「 清朝末期、それも上海租界地でのことは資料がすくないのですが、機械式活字母型彫刻機は、商務印書館、中華書局などの大手には、清国末期から民国最初期には導入されたとされています。 丁 補之、丁 善之の聚珍倣宋版は、中華書局での機械式活字母型彫刻機をもちいた活字とされています 」
わが国に機械式活字母型彫刻機-いわゆるベントン彫刻機が導入されたのは、1912年(明治45)印刷局への導入がはじめとされてあらそいがない。
清朝最末期をラストエンペラー、宣統帝 溥儀の時代とすると、1908(明治41)-12(明治45・大正元) となる。 地下倉庫でみた機械式活字彫刻機は、ATF 社のものでも、わが国の製造でもなかった。 どうやらほぼおなじころに、機械式活字母型彫刻機が 日中双方に導入されたとみてよいようである。る。
                                                                                                                                                                  
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【 初出 活版 à la carte : はじめての京劇鑑賞*そのⅢ-A 老北京 中国印刷博物館と紫金城を展望する 2014年02月24日 】

朗文堂好日録041 ウーパールーパー/ウパルンとウパラン

 

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《 おどろいた! 中国 ・ 台湾に電子メール年賀状を送っていたら、サーバーから?  こんな送信が 》

恭賀新年
我目前不在回覆 : 恭賀新年
This is an automatic reply of the email system.

We are on Chinese New Year break from February 17 to 23, please expect slow response during the holiday.
Thank you very much and Happy Chinese New Year!
──────────
中国の旧暦の正月、春節の混乱のことはあちこちにしるしてきた。 ともかく郵便、銀行、物流などまで、ほとんどの業務が停止し、公称13億からの民艸がそれぞれの郷里めざして大移動するから、交通機関は阿鼻叫喚の状況を呈することは知っていた。
しかし e – mail までが遅滞するとは、まったくおもいもよらなかった。

ここのところ、「寒い、さむい」とこぼし続けている。 こよみの上では春とはいえ、札幌では雪祭りが開催されているし、オホーツク海に面した海岸には流氷が押しよせているという。
気象庁の < 積雪の一覧 02月17日> をみたら、やつがれの郷里 : 飯山市は160cm,  オヤジの郷里 : 野沢温泉村は221cm,  冨沢みどりさんの住む白馬村は109cm の積雪をみるそうである。
地球温暖化、暖冬などというが、この寒さはなんとしたことだろう。
せめて、たなばたや盂蘭盆会とおなじく、もともとの農耕民らしい太陰暦にしていれば、「こよみの上では春だから……」 という錯誤はなくなるのに、などとやつあたりもしたくなる。
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せっかく 歌舞伎のこと も書いたし、ベランダの 「 わっせクン ・ 才助 」 のこともしるした。
ついでだから、わが家の怪獣/サラマンダーこと ウーパールーパーのその後を< 朗文堂好日録 > にしるさむ。
かくいうのは、どうも飽きっぽいノー学部のことゆえ、最近は二匹のウーパールーパーの面倒をあまりみなくなってきているからである。

わが家のサラマンダー、珍獣ウーパールーパーは、初代のアルビノこそ飼育に失敗したものの、「 ウパルン 」 (色黒のほう)「 ウパラン 」(色白のほう) の二匹とも、アイスクリームのカップに入ってやってきたとはおもえないほどおおきくなったし、元気いっぱいである。
ふだんは海底に潜む潜水艦さながら、水槽の下にへばりついて運動不足が心配されるが、お腹がすくと、水草も蹴倒して餌の催促である。

従順な犬や猫がかわいいのはあたりまえだが、「 火喰い蜥蜴 トカゲ」 ともされるサラマンダーを、ペットとして飼育するのには若干の諧謔趣味が必要かもしれない。 ふつうの感覚なら不気味とされても仕方なかろう。
それでも飼育をつづけると愛着が湧くもので、短文ブログなどでは、毎日のように サラマンダー自慢 をするひともいる。
< ウチの 仔 ?  は イケメン ?  だし、日本でいちばんかわいい ?  ワ、 ネッ !   ?? >
ネッ !   といわれても、ウチの「 ウパルン 」 「 ウパラン 」 と大差なくみえるから困る。
まぁサラマンダーが かわいいものかどうかの判断は、皆さんにお任せしよう。

【 関連情報 : 朗文堂好日録ー037 なにかとあわただしい師走です。【再掲載】 ポストカード postcard と クリスマス Christmas

もともとサラマンダーは、うごきが鈍重で、視力もよわく、なによりもものぐさである。
つまり採餌の努力はほとんどせず、視力がよわいので、底に砂や小石でも敷くと、餌と勘違いして呑みこんでしまう。 だから餌はいつもタナボタで、天からでも降ってくるとおもっているようで、しかもせっかくあたえた餌も、頭にのせたまま平然としているほどのものである。
しかも最近は水草の上に腰をおろしてくつろぐという芸も覚えたようである。

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昨年の暮れに近くの熱帯魚ショップで、ウーパールーパーの餌を補充した。 いつもの固形の餌のほかに、生き餌として、「 アカヒレ 」 という メダカのような小魚20匹と、「 エサキン 」 とされて販売されている ちいさな金魚10匹であった。 それぞれ300円ほどの価格だったろうか。

「 アカヒレ 」 はウーパールーパーの水槽に入れられたが、「 エサキン 」 はやつがれがとりあげて、しばらくはということで、ベランダのプラスチック段ボールを水槽がわりに、そこに水草とともにいれた。
ほぼ隔日で餌をやっているので、「 エサキン 」 はすでに立派な金魚に成長し、声をかけるとよってくるまでになった。
「 アカヒレ 」 のほうは、半分ほどに減ったが、もうウーパールーパーの攻撃にたいする防御をおぼえたようで、最近ではウーパールーパーの鼻面近くを平然と泳ぎまわるまでになった。

ところで、しかもなにごとも鈍重なウーパールーパーだが、ノー学部の声を聞きわけ、敏感に反応するのはおどろきである。 そのために愛着があるのか 感心なことに、糞の始末だけは丁寧かつこまめにやっている。
きがかりなこと。  あまりに寒いせいもあるのか、最近ノー学部が水替えをサボりがちである。
これはわるいサインである。 いずれ水替えの役をやつがれに押しつけようとしているとみた。
やってもいいんだよ。 そのかわり床一面に盛大に水をこぼすけどね。

朗文堂好日録040 【歌舞伎鑑賞】 地球投五郎宇宙荒事 よかったですよ!

 

20150213145417033_0003 roppongi_ff[1]EXシアター六本木   六本木歌舞伎   平成27年02月03日[火]-18日[水]

地球投五郎宇宙荒事

ちきゅう なげごろう うちゅうの あらごと
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< 制作発表記者会見 より>
幕が上がるのは国際都市 ・ 六本木にある 「 EXシアター 六本木 」 である。
歌舞伎ファンならずとも、多くの人に親しんでもらえるような歌舞伎をつくってみたいという。
脚本は、現今売り出し/宮藤官九郎。 演出は、歌舞伎はまったく初挑戦の映画監督/三池崇史。
とことん歌舞伎様式にこだわり、生身の人間の、歌舞伎役者にしかできないことをやるというのがこの物語の面白さだという。 はたして、最後に地球はどう持ち上がるのか?
市川海老蔵、中村獅童、宮藤官九郎、三池崇史 ??  この強烈すぎる 4 人により、とんでもない化学反応的が起こりそうな予感だ。
さて、どうなることやら…。  しかし、これはなんとしても見逃すわけにはいかない !!!
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家の芸を大切に、古典を掘り起こしながらも、次々とチャレンジを重ねてきた市川海老蔵と、歌舞伎役者として舞台映えする 古風さと迫力、そして時代の最先端を駆け抜ける 幅広い魅力の中村獅童が、2015年2月、宇宙規模の新作 六本木歌舞伎 「 地球投五郎宇宙荒事 」  にチャレンジする !

< 惹 句-あらすじ >
時は元禄。 浅草 ・ 浅草寺の空中に円筒形の宇宙船が現れた。 その船から降り立ったのは悪の親玉 ・ 駄足米太夫、衛利庵(えいりあん)である。
その妖気に怯えた江戸の庶民は 上を下への大騒ぎ。 すでに度重なる宇宙生命体の襲来により、江戸幕府はその機能を失っており、パニックを避けるためには、宇宙人の存在を隠蔽する必要があった。

法漢和尚は機転を利かせて、庶民に 「 これは歌舞伎だ! 芝居だ! 」 とごまかし、混乱を沈めた。 そこに花魁道中が通りかかる。 米太夫は地球侵略の手始めにと、吉原一の花魁 ・ 高窓を人質にとらえる。 正義の味方、五郎に扮した團九郎が登場するも、いとも簡単に高窓を連れ去られてしまい……。
團九郎と米太夫の 悲しくも数奇な運命、 團九郎と米太夫の決闘はいかに……。
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いやぁ、よかったですよ。
02月11日[水 ・ 祝]、六本木での成田屋と萬屋の大激突、波瀾万丈の舞台でした。
歌舞伎座が改修工事にはいり、こけら落としののちも、切符が入手難で、ここのところ歌舞伎鑑賞から遠ざかっていた。
たまたま悪友に 三代目松本錦吾(高麗屋) がいて、改修前の歌舞伎座にはしばしば通った。 松本錦吾は若手育成の担当などもしていたので、市川海老蔵も、中村獅童も、浅草公会堂や国立劇場で、子役のころからみてきた。
またこういう通ぶったいいかたはいやらしいが、先代の松本幸四郎(白鸚)、先代の市川團十郎もみてきた。

やつがれ、弱小のみぎり、戯作者 : 福地櫻痴、眞山青果らにあこがれた恥ずかしい過去がある。 これは非才をきつく指摘されてわりとあっさり断念した。
したがっていささか口惜しくもあるが、新作歌舞伎の戯作者として、宮藤官九郎という、あふれんばかりの才をゆうした人材と、時代をともにすることをとてもうれしくおもう。

また成田屋 : 市川海老蔵は お家の流儀、荒事を背負ってじゅうぶんであり、萬屋 : 中村獅童も 梨園の中核を担うにふさわしい熱演であった。
それにしても、やつがれの若き時代の一ページを飾った新劇は不振である。 そして梨園に次次と多彩なエンタテナーが登場するのが羨ましくおもわれるこのごろである。
なによりも、やつがれ、馬齢をかさねてきたことをただただ痛感させられた。

【 関連情報 :EX シアター六本木 地球投五郎宇宙荒事 】 08月に名古屋 ・ 大阪公演があります。

朗文堂好日録039-春を待つ日日。わっせクン、才助とかわす朝の挨拶

朗文堂 タイポグラフィ ・ ブログロール 花筏 > には、さまざまなカテゴリーをもうけているが、そのひとつに、「 朗文堂好日録 」 のカテゴリーがある。 このコーナーは、いつの間にか39回の掲載をみた。

もともと <花 筏> には、日日のよしなしごとを、気軽にしるしてきた。
なかんずく、「 朗文堂好日録 」 には、もろもろのことを、おもいつくままにしるしてきた。
それが良かったのか 悪かったのかしらないが、おもいのほか ( わがままきわまる ) 固定読者がいて、すこしでも掲載をおこたると、「 躰の具合でもわるいのか 」 と心配(のフリ)をしてお便りを頂戴したり、ときには 「 サボるな!」 とメールで叱責されたりする。
花筏 京都・哲学の道【 花筏 : タイポグラフィ ・ ブログロール 花筏での花筏 2013年12月28日
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あちこちに、なんどかしるしてきたが、ノー学部がベランダいっぱいに煉瓦を積みあげ(それ以降は放置
)、さまざまな艸艸を植え、たいせつにしてきた(やつがれ) 「 空中花壇 」 を、昨年、マンションの補修工事のために、ロダンの椅子 ( 100円ショップで購入のバケツを裏返したものダケド ) もろとも、完全に撤去されてしまった。

万事にしまりが無く、だらしないやつがれではあるが、唯一自慢できるのは、こよなく喫煙を愛するがゆえに、布団にはいっての 「 寝たばこ 」 をしないことである。
この誇るべき、うるわしき習慣は、まだ田舎の中学生のみぎり、布団をひっかぶって 「 かくれたばこ 」 を吸っているうちに、ついつい心地よくなってうたた寝をし、布団を焦がし、火傷を負ったあげく、オヤジに張りとばされたことによる。
したがってそれ以来、寝室というより自宅内では喫煙はしないし、もちろん灰皿もおいていない。 ただし、ばんやむを得ず、日中はきりなく喫煙するので、最近は威勢の良い、嫌煙家の諸君 ・ 諸嬢からはきらわれることはなはだしい昨今の窮状である。

DSCN7958 DSCN7987 DSCN7990 DSCN7989 DSCN7994 DSCN7977というわけで、寝起きのたばこは、寒かろうが、暑かろうが、ベランダで吸う。
これがまた、ことのほか美味いのである。 思索に耽る ?!  ための 「 ロダンの椅子 」はまだ復元していないし、もちろん 「 空中庭園 」 は、姿、形とも無い。

それでもベランダには徐徐に植物が増えてきた。 鉢植えの、花屋で買ってきたようなものだが、この冬は 「 ナデシコ 」 の寄せ植えが色とりどりの花をつけ、目を楽しませてくれた。
昨年の11月に鹿児島で買ったイチゴ(品種はわすれた)は、寒さにふるえながらも、けなげに花をつけ、実になろうとしているようだ。

ところで、ベランダを占拠している異物が < わっせクン > である。 < わっせクン > はバレンタイン モトイ ハロウィンのときに ノ ー学部がなにかのついでに100円ショップで買ってきた。
価格は安いが、ソーラーパワー ( 太陽電池 ) がどこかに内蔵されているらしく、陽射しがつよい日には 「 わっせ、わっせ 」 と左右に躰をはげしく振動させる。
ただそれだけのものだが、目覚めの一服のさなかは、たったひとりの朋輩であり、見飽きることがない。 だからベランダにでると、まず、勝手に名づけた < わっせクン > と挨拶、顔合わせをつづけている。

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< 才助 > は、鹿児島市長田町の五代友厚生誕地をたずねたとき、石垣の割れ目にチンマリと張りついていたちいさな野艸を、三株、たばこの空き箱にいれて持ち帰ったものである。
かにかくに、五代友厚 ( 1836-85  幼名 : 徳助、通称 : 才助 ) は、そのうちに各方面であらたな震撼をあたえるとおもわれるが、いまのところは静かにしておこう。 【 ウィキペディア : 五代友厚

鹿児島からもちかえったこの艸に、油かすの肥料をたっぷりあたえ、鉢植えにした。 残念なことに移植の直後に一株はカラスにもちさられたが、冬だというのにみるみる成長した。 石垣の割れ目では、いかんせん気の毒な感じがしたものだ。
この艸の名前はいまだにわからない。 名前がないのもなにかと不便だから < 才助 > と名づけて成長をみまもっているが、どうもたんなるデージーのような気がしないでもない。
それならそれでも良い。 やつがれ、五代才助こと、五代友厚の 稚気にみちた才覚が好きであるから……。
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2013年清明節に咲いた菜の花。
DSCN9993上掲02点の写真は、上が菜の花、下が野沢菜である。
菜の花はかつて 「 空中庭園 」 での栽培で、昨年年末にアダナ ・ プレス倶楽部忘年会に供した 「 野沢菜 」 は、ベランダでの鉢植えで育てた。

やつがれのふるさと、信州最北部では、菜の花よりも野沢菜の開花をたのしむふうがあった。
ことしは菜の花のふりをした野沢菜の開花をみるために、正月元旦に(ひまだったから)鉢いっぱいにレンゲ草とまぜまぜにして播種した。 いまはようやくフタバをつけたところである。
やつがれ、雪国うまれではあるが、関東平野のこの乾燥した寒さは苦手である。
春をまつこころ、切なるものがあるこのごろである。

春を待つこころ ー 早春賦の碑

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唱歌 『 早春賦 』(そうしゅんふ)は、1913年(大正02年)に発表されたもので、吉丸一昌作詞、中田章作曲の日本の唱歌。
この時代の唱歌によくみられるように、モーツァルト作曲の歌曲 『 春への憧れ 』 K.596 との曲想の類似性が指摘されている。

この歌碑は、春の訪れがおそい、長野県安曇野市穂高の穂高川の岸辺に建っている。
その脇には、北アルプスの湧水をもちいた「わさび田」がひろがっている。
如月、二月、このあたりは丈余の雪にうもれている。 春をまつこころ、せつなるものがある。
[ 2014年11月23日 撮影 ]
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【 YouTube : 早春賦   由紀さおり & 安田祥子
【 関連情報 : 早春賦の碑

朗文堂好日録038-喫煙ボヘミアン、プラハへゆく-01 プロローグ

プラハ

   01  プロローグ 

01 02 03 04プラハで市販の 長尺観光絵はがき より

やつがれは、信州信濃の山奥からでてきた暢気な次男坊カラスである。
もともとバックひとつをぶら下げ、ふらりとお江戸にでてきたから、ものごと、金銭、身分、地位にこだわりはすくない。
むしろお江戸に倦んだら、またべつのところ ― 帰郷するか、天国か地獄 -にでも、まぁどこにでも往けばよいとおもう。
往って、そこで生きる ―― 往生か。 それもいいなぁとおもう。

つまり、おおかたの長男坊のように、家や門地にとらわれ、しがらみや守るべきものがないから、ものごとに拘泥するのは好きではない。 さらなる悪癖は、世間様の常識とされるものや、きまりごとには、むしろ反発することのほうがおおい(損な性分でもある)。

それより、たれにも、なににも、縛られることなくいきていたいとおもう。 等身大の自由人としてすくっと立っていたい。 また本気で 「 やつがれは、衣食住には関心がない 」 といってあきれられることのほうが多い。
こうした阿呆な次男坊カラスのことを、長男坊、有名人好き、権威好き、上昇志向が旺盛なひとは、
「 まるでボヘミヤの住人のようだ ―― という意で―― ボヘミアン Bohemian 」
と呼んで軽視もしくは蔑視するふうがある。

ボヘミアンとはもともとボヘミア地方の住人のことで、その中心都市はチェコのプラハである。
ボヘミアン ― チェコのひとは、欧州の中心に位置しているという自負がある。 ただしその地勢的な位置関係から、避けがたく、絶えず隣国の脅威にさらされ、それと闘い、ときには流浪し、堪え忍んできたという歴史もある。

また鉄鋼業を中心に産業もさかんであり、古来地味はゆたかで、ジャガイモ、テンサイ、ホップなどの農産物がおおく、チェコのビールは格段の味わいらしい。
下戸のやつがれはつまびらかにしないが、わが国でよく語られるほど、ドイツではビールを飲まないし、むしろワイン、それも白ワインを自慢するふうがあった。
ところがプラハでは、街のいたるところにビアレストランがあって、夕まぐれから深夜にかけて、おおきなジョッキを傾ける光景をしばしばみかけた。 またガラス工芸、機械工業も盛んな地である。

すなわち 「 ボヘミアン、おおいに結構じゃないか 」 とおもい、一度はプラハにいきたかった。
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ところでノー学部。 オカルトだい好きのノー学部の本棚には、やつがれがアンタッチャブルな一隅がある。
趣向が異なるやつがれには詳しいことは不明だが、そこには不気味な書籍がずらりと並んでいることは知っていた ( のちにその多くに、ヤン ・ シュヴァンクマイエル などの、チェコとゆかりの深い資料が含まれていることを知ることになる )。

そしてはなしの端端から、ノー学部も長年チェコ行きの機会をうかがっていたことも気がついていた。
ただしやつがれが10年ほど前に からだを壊したことと、飛行場や航空機が禁煙となり、愛煙家として大陸横断の長距離フライトを敬遠したために、最近は国外旅行といえば、もっぱら近場の中国や台湾が主流となっていた。

しかし一昨年2013年の年末、ノー学部がいつものごとく、やつがれにはなんの相談もなく、唐突に、
「 来年の秋に、チェコに行くチケットを予約したからね 」

とのたまわった。
そんなわけで、2014年の晩夏に03泊04日の弾丸旅行でプラハにいった。
報告がおそくなったがここ < 花筏 > に何度かにわけて報告したい。

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プラハ到着の翌日、時差のせいもあって、早朝から起床してホテルの近くを散策した。
市民会館前の広場に面して ちいさな教会があり、その石彫の文字がおもしろかった。 聖書の一節らしかったが読めなかった。
それでも こういう素朴な教会には似合いの石刻文字であり、「ローマ大文字 I 」 が長くのばして書かれている 「イ ・ ロンガ、アイ ・ ロング 」 も印象的
だった。

協会中庭の壁面に 数枚の木製の長板があった。 わが国の 「 千社札 」 のように、ここに礼拝した記念にのこすのであろうか、金属製のプレートに名前や祈祷の句を、刻印やシルク印刷にしたプレートが、たくさん木製の板に打ちつけてあった。
この習慣は合理的で、長尺の木板がプレートでいっぱいになると、教会内部の一隅に一定期間保存されるらしい。  これならば、ところ構わず、薄汚れた 「 千社札 」 がベタベタと貼りつけられた わが国の神社仏閣よりは、よほど清潔でよい。

《 プラハは様式のまちとされる ―― ロトンダとゴシックの建築と活字書体 》

LETTERS OF LATIN ORIJIN
ローマを起源とする文字
Roman Letter   なめらかな文字 : ローマン体
Blackletter   折れた文字 : ブラックレター

◯ Blackletter  = Round Gothic,  Rotunda -ラウンド・ ゴシック、ロトンダ  since 1486
i , n , m の上部のセリフが、鋭い尖りではないが折れている。カロリング朝の小文字のようなまるみを持つ。
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◯ Blackletter  = Textur - テクストゥール since 1455
小文字のストロークがほとんど折れている。
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                     参照資料 ―― ヤン ・ チヒョルト  『 書物と活字』  ( 朗文堂、p.24)  DSCN5855 DSCN5851rotunda_01rotunda_02ロトンダ系の活字書体組版の追試(デジタルタイプ)

プラハのもっともふるい地域、ヴィシェフラド丘に現存するロトンダ様式の教会。
1100年ごろに建てられた聖マルティン教会のロトンダで、現存する建物の中ではプラハ最古の建築物とされる。 

このころの石積みは素朴で、ロマネスク様式の特徴である平天井を支えるために、石壁は粗削りで、分厚く、入り口や窓はちいさく開けられていることが特徴である。
この正面入り口は後世に改造されたとみられるが、壁と採光のための窓は創建時の素朴さをたもっていた。
この教会には、活字書体 < ロトンダ > が似合いだとおもった。 しばらくベンチや芝生に腰をおろしてながめていたが飽きなかった。
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DSCN5489 DSCN5618 DSCN5503 DSCN5513liturgisch_01 liturgisch_02テクストゥール系の活字書体組版の追試(デジタルタイプ)

プラハ観光の最大の中心地、プラハ城には、ゴシック、ロマネスク、ルネサンス、アールヌーヴォなどの様様な様式の建築物があるが、なんといっても、天を突く尖塔がシンボルのゴシック様式による 「 聖ヴィート大聖堂 」 が観光客をあつめていた。

09月なかば、この晩夏の時期は、欧州では 「 アフター ・ バカンス 」 とされる。 バカンスの期間は混雑を避けて旅行を控えていた高齢者と、バカンス期間にアルバイトをして、懐があたたかくなった若者たちが、オフシーズンで安くなったチケット利用しての旅行者が多くみられた。
この建物は F ・ キセラの設計によるもので、内側からみると、画家/アルフォンス ・ ムハ ( わが国では ムシャ ) らによるステンドグラスが美しい ( らしい。 やつがれ、混雑につかれて内部には入らなかったゆえに失敗した )。

「 聖ヴィート大聖堂 」 のファサード上部に、いわゆるブラックレターの掲示板があった。
この系統の書体は、活字界では 「 テクストゥール 」 とよばれる。 ゴシック様式の尖塔によく似た、鋭角的で、ゴツゴツとした突起の目立つ形象の活字書体である。
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明け方は閑散としていたホテル近くの市民会館広場だったが、しば
らくすると露天がたくさんでていた。チェコのものなりの豊穣さを感じさせる店がおおく、チマチマとプラスチックのケースやビニール袋などに入れず、おおきな箱にはいって、ドカンドカンと陳列され、地元客と観光客とであふれていた。

その一画に 「 鍛冶屋 」 が出店していた。 コークスが赫く燃え、鞴フイゴこそ足踏みにかえてモーターを用いていたが、ふるくからあった村の鍛冶屋のふんいきがよかったし、オヤジの頑固そうな風采も気に入った。

だいぶ長いことアホ面をさらして「 鍛冶屋 」をみていたので、脇の店舗でテヘッとした表情の「蜘蛛」の細工物を買った。 オヤジが気になったのかのぞいて、塗料がはげているから直す……、という素振りをみせたが、このテヘッとした表情には、かえって塗料がはげかかったそれがよかった。

プラハは職人と工匠のまちでもあった。
あの「千社札」のようなプレートも、こうした工匠がいてこそ製作される。 わが祖国よ、日本よ、いつのまにか、ものづくりの匠のこころと、技芸家、アルチザンの精神をうしなってはいないだろうか……。

おそい夕陽がさすころ急に冷気がしのびよせた。
広場の片隅で、珈琲をのみながらそんなおもいに沈んだ。
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