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【字学】 わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*02 〔松本八郎〕 活字の大きさとシステム

昨秋逝去した松本八郎は、朗文堂に公刊書 『 エディトリアルデザイン事始 』 ( A5判 224ページ 1989年09月08日)をのこした。
その第三章に 「 活字の大きさとシステム 」 (p.39-53 ) があった。
この章の初出はふるくて、多川精一氏らによるジャーナル 『 E + D + P 』 (1980年09月第05号、同1981年06月第07号) に連載したものを 加筆修整して、 『 エディトリアルデザイン事始 』 に紹介された。

松本八郎_顔松 本  八 郎 (1942-2014 ) 遺 影
(  大枝 隆司郎氏 提供  )

ジャーナル 『 E + D + P 』 のころから、松本八郎とはこの 「 活字の大きさとシステム 」 では議論をかさねた。 ときには第三者もまじえて激論になったこともあった。
そしていま、 松本八郎 『 エディトリアルデザイン事始 』 第三章 「 活字の大きさとシステム 」を再度紹介して、 わが国の号数制の金属活字が、鯨尺クジラジャクや曲尺カネジャクを基本尺度とした、尺貫法にもとづいた製品であるという 「 神話 」 を再検証してみたい。
9784947613219エディトリアルデザイン事始 』 の刊行はもう四半世紀も前になる。 さほど売れた図書ではない。 だからいまでも30冊ほどの在庫があるほどのものだ。
しかし一九六〇-七〇年代うまれのグラフィックデザイナーのおおくは、本書でエディトリアルデザインを知り、その初歩をまなんだはずである。 図書とはもともとそんな存在である。

松本八郎とは、これも黄泉のひととなった 加藤 美方 ( かとう-よしかた 1921-2000 ) の紹介で知りあった 【 花筏 タイポグラファ群像*001 加藤美方氏 】。
どこで勘違いをしたのか知らないが、筆者は松本と同年うまれだとしばらくはおもいこんでいた。
したがっていまとなれば汗顔のきわみであるが、本人を眼前にしても気軽に 「 ハッちゃん 」 などと呼んでいた。 どこかで勘違いに気づいてお詫びしたが、松本は嫌がるふうもなく、おもしろいつきあいをかさねた。

ともあれ松本八郎は先に逝ってしまったが、遺著にのこされた 「 活字の大きさとシステム 」 をさきがけとして、いくつかの論考や資料を紹介したい。 そこでの論点は <「  活字の大きさとシステム  」 + 活字鋳造機器 > となる。
さいわい、古谷昌二 『 平野富二伝-考察と補遺 』 (朗文堂 2013年11月12日) の刊行をきっかけとして、自発的に参集した有志が、この <「 活字の大きさとシステム 」+活字鋳造機器> をテーマとして、さまざまな資料をもとに研鑽をつづけている。 その研究の進捗と、諸賢の検証をまちながら、本論をすすめていきたい。

わが国における <号数制金属活字が、鯨尺や曲尺による、尺貫法にもとづいた製品であるという 「 神話 」 > は、本木昌造の稿本、仮称 『 本木昌造活字版の記事 』 にその淵源をみるものである。
爾来、この稿本 ( 手書きの原稿本 ) は地元の長崎に埋もれていたが、大阪の印刷業界誌に、「 故本木昌造翁伝 」  『 大阪印刷界第三二 本木号 』 ( 大阪印刷界 明治四五年六月一七日) として、その一部 ( 前文とあわせて全六章のうちの三章 ) がちいさく不鮮明ながらも 影印資料とともに、活字となって紹介された。

阿津坂実氏阿津坂 実氏 (『 ヴィネット〇四 活字をつくる 』 より )
( 元長崎県印刷工業組合専務理事、本木昌造顕彰会相談役 1915年09月12日-)
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本項掲載後に長崎印刷界の重鎮/阿津坂実氏が天寿をまっとうされ逝去されました。
ご冥福を祈るとともに、ここにご報告いたします。
阿津坂 実 1915年09月12日-2015年05月07日 行年99 
20150423164159195_0002

「 故本木昌造翁伝 」  『 大阪印刷界第三二 本木号 』 のなかには、「 本木昌造翁はその活字に関する著述を公にした。 その書名は逸してわからない 」 としているが、それから百年余の歳月をへても、こうした 「 本木昌造の活字に関する公刊書 」 の発見の報告はみない。
またこのオリジナル資料は、どういうわけか長崎から、東京築地活版製造所の手にわたったとされ、
「 それは関東大震災のとき〔1923年09月01日〕に全部烏有に帰した 」 ――  『 活版印刷史 』 ( 川田久長、印刷学会出版部、初版 ・ 昭和24年03月20日、再版 ・ 昭和56年10月05日。 初版は紙やけがひどいので、再版書によった  p.94 ) とされてきた。

ところが、俗称 『 本木昌造活字版の記事 』が焼失することなく、長崎市立博物館の<本木家文書>のひとつとして、畳紙タトウに 『 本木昌造活字版の記事 』の仮題を付された状態で収容されているとの報告が、阿津坂実氏 ( 元長崎県印刷工業組合専務理事、本木昌造顕彰会相談役 1915年09月12日-)によってなされた。

20150423164159195_0002 20150423164159195_0001その報告をうけて、板倉雅宣氏 ( 元東京書籍。 タイポグラフィ学会 ・ 印刷学会会員。 1932-) ならびに筆者が長崎にかけつけて、二〇〇〇年に 「 長崎市立博物館 ( 現在は長崎歴史博物館が所蔵。目下のところ非公開 )」 に、 「 本木家文書 」 として現存していることを報告した。
また、その存在の事実と、巻首ページだけを原寸で、縮小したものの比率を表示して、全ページの影印図版紹介、その平易な読みくだしを 「 本木昌造の活字づくり 」 『 ヴィネット 〇四 』 ( 片塩二朗、朗文堂、二〇〇二年六月六日) に紹介した。
【 関連情報 : 花筏 タイポグラフィあのねのね*005  長音符「ー」は「引」の旁から 『太陽窮理解説』

なにしろ一四〇年余にわたり、本木昌造活字版印刷術創始のことはかたられつづけてきた。そして、わが国における <号数制金属活字が、鯨尺や曲尺による、尺貫法にもとづいた製品であるという 「 神話 」 > は、オリジナル資料が焼失したと訛伝されたまま、「故本木昌造翁伝 」  『 大阪印刷界第三二 本木号 』 からの、さらにその一部だけの引用、引抄がかさねられてきた。

これから、<わが國における号数制金属活字とは、本木昌造がさだめたものであり、鯨尺や曲尺による、尺貫法にもとづいた製品である >  という「神話」の解明にむけて考察を開始する。
まずは、松本八郎が問題提起した、

◯ <なぜ、 「四号」 〔 活字の 〕  下 〔 うしろ 〕 がないのか> の紹介をつうじて、
◯ <なぜ、明治最初期からスタートしたわが国の号数制活字のうち、 「 初号活字、二号活字、五号活字、七号活字 」 のグループは、のちの一八八六年(明治一九)に制定された、アメリカン ・ ポイントシステムとボディサイズが極似ないしは合致しているのか>
◯ <なぜ、わが国の号数制活字は三つのグループに大別され、そのグループ間に共用性がとぼしいのか>
の諸問題の解明を 蟷螂の斧を振りかざしてはかりたい。
筆者は精緻な検証作業には向いていないことを十分に自覚している。 江湖のご支援を期待するゆえんである。

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〔松本八郎〕 エディトリアルデザイン事始
                                活字の大きさとシステム

20150421193950685_0002
なぜ 「四号」 〔 活字の 〕  下 〔 うしろ 〕 がないのか
私はときおり、つまらないことに疑問を持つくせがある。 それでいて実用的で実際的なことがらには何ひとつ疑問を感じないまま やり過ごしてしまって、間のぬけたことをして失敗する。
でも、時にはこのつまらないことで勉強をさせられることもあって、けっこう 「 頭の体操 」 くらいにはなっている。

もはや今日 〔一九八九年〕 となればどうでもいいことなのだが、「 活字 」 のことでどうしても理解できないことがある。
号数活字の大きさのとりきめについてである。
以前はよく講師に行った〔武蔵野美術大学などの〕学校などで、活字について教えなければ先に進まないことがあった。 本木昌造の名を出し、ついでに号数活字を中国より導人したことに掛れ、黒板に、

                           一号活字 ―― 四号活字
  初 号活字 ―― 二号活字 ―― 五号活字 ―― 七号活字
                三号活字 ―― 六号活字 ―― 八号活字

と、わかったような顔をして書き記す。
学生たちは必死でノー卜をとる。「 質問はありませんか?」。 無言である。 ホッと安堵する。
なぜ四号の下でなく 五号の下〔うしろ〕に七号があるのか? なぜ四号の下〔うしろ〕は空いているのか? だれも聞いてこない。 そのあと、

「 五号は鯨尺 クジラジャク の一分にあたり、これが基本となって大きさが決められ、五号の倍数が二号で、そのまた倍数が初号です」
などといっているうちに、なぜかみな 納得したような顔になる。 内心はいつ質問が飛びだすかと、ドキドキしながらおちつかない。
20150421193950685_0003『 エディトリアルデザイン事始 』  p.40 挿図

「 もっともこのごろでは、普通の印刷所 〔 大手の印刷所 〕 は みなポイント活字に切りかわっていて、号数活字などは町の小さな名刺屋さんぐらいでしかお目にかかりません。 ですから活版印刷の歴史の一端として、この表ぐらいは覚えておいてください」
と、なおも追い討ちをかけると、全員まったく素直にうなずいてくれる。
十数年間の教師稼業をしていた後半、こうしたテクニックばかりが冴えわたり、どうにも行きづまってしまった。

学生時代、印刷関係の入門書を何冊も丹念に買い求めた記憶がある。 するとかならずこの号数活字の表がついている。 それなのに、どの本も この四号下 〔 うしろ 〕 の空欄については触れていない。 買い求めた本の数だけ苛立ちが増したことを覚えている。

つい最近出された 〔 タイポグラフィ関連の 〕 本にも、「 三号、四号、五号、六号、七号の大きさの間隔は それぞれ二厘五毛 」 とは書かれているものの、やはり四号下 〔 うしろ 〕 の空きの疑問には答えてくれず、「 三号、二号、一号の間隔はそれぞれ五厘、一号と初号のそれは一分五厘である 」 と終わっていて、なぜそういう間隔をもって 〔 活字が 〕 作られたのか、ということに触れていない。

こういう教科書的なものですら、「 なぜそうなのか 」 ということが往々にして書かれていない。 その成り立ちを解き明かしてこそ、本を新しく出すことの意味があるのではないか?
日本の活字印刷の始まりから百年以上もたっていながら、なお一律にこのていどの記述である。

一、号数活字の基準
一九三三年(昭和八)に出された 『 本木昌造 ・ 平野富二詳伝 』 ( 三谷幸吉編 ) という本がある。 その中に 「 我国最初の日刊新聞社を創立す 」 という項目があり、そこに 「 編者曰、註 」 として、活字の大きさの決定について記された一文が載っている。
『 活版印刷史 』 〔 川田久長、印刷学会出版部、昭和二四年 〕 にもいま少し詳しく、本木昌造の活字規格について記されている。 いずれも本木昌造が自ら著した活字製法によっているが、号数活字の成立を解き明かすには欠かすことのできない記録である。

三谷幸吉氏などは、その 〔 紹介に 〕 あたり得意絶頂のおもむきで、次のような付記まである。
「 されば本木昌造先生が 活字の高さは 西洋(外国)の活字の高さに倣はれたが、大きさは日 本の物差に依られたのであって、外国の活字の大きさに倣って、五号活字を スモールパイカ と パイカの中間等と言ふ 、永い間の歴史は誤伝であったと云ふことが判然したのである ( 編者は此研究のために費やせし時間、労力、苦心は 到底他人の窺ひ知ることの出来ないことであった。 今茲ココに之を発表することを得たのは、本木昌造先生の加護と、編者の苦心の結晶であることを承知ありたし)。」 ( 原文正字。一部句点を加えた )

では、その〔本木昌造の〕自筆稿本の一節を〔「 故本木昌造翁伝 」  『 大阪印刷界第三二 本木号 』 から三谷幸吉が引用したものを 〕再録してみよう。
「 蝋形を取る文字の製法
黄楊ツゲを以て其欲する処の文字の大小に随て、正しく四角の駒を製す。 其長は好に応ずべし。 但し予の製する処のものは 西洋の活字に倣ひ、其長七歩八厘あり、此駒に文字を刻す。 其文字は成べく深く刻するを良とす。 凡二歩五厘角の文字は 其深五厘余、五歩角のものは 其深一歩余にして、左右上下勾配を施し、以て、蝋形を取るに及んで 能く蝋より抜出る様に彫刻するなり。」 ( 原文正字 ・ 句読点引用者 )

ここで 「 二歩五厘角 」 とあるのは 曲尺カネジャクの二分五厘角をさし、「 五歩角 」 とは同じく曲尺の五分角のことである。 前者が二号活字、後者が初号活字にあたる。 これによって本木昌造の号数活字の最初は、二号、初号から作られたと推測される。
その後大小の活字を造るのに際しては、各号の間の差を曲尺の五厘にとるとその差が大きすぎるので、鯨尺クジラジャクの二厘五毛として系列が整えられた。

ちなみに、曲尺の五分と鯨尺の四分は同じ長さである。

『 本木昌造 ・ 平野富二詳伝 』 の三谷幸吉氏の 「 註 」 から、鯨尺と曲尺の寸法を比較した数値表を転記すれば、以下のようである。

初号活字   鯨尺  四分        曲尺  五分
一号活字   鯨尺  二分五厘     曲尺  三分一厘二毛五糸
二号活字   鯨尺  一分五厘     曲尺  二分五厘
三号活字   鯨尺  一分五厘     曲尺  一分八厘七毛五糸
四号活字   鯨尺  一分二厘五毛  曲尺  一分五厘六毛二糸五忽
五号活字   鯨尺  一分        曲尺  一分二厘五毛
六号活字   鯨尺  六厘五毛     曲尺  九厘三厘五毛
七号活字   鯨尺  五厘        曲尺  六厘二厘五毛
(引用者〔松本〕注/鯨尺の六号および、曲尺の六号と七号は誤植?)
〔 以下 略 〕

松本八郎は六号活字、七号活字の一部に誤植の疑念は呈したが、ママとして数値に補整は加えていないが、初号活字から五号活字の寸法例にならって算出した数値を以下に掲げる。
六号活字   鯨尺  七厘五毛     曲尺  九厘三毛七糸五忽
七号活字   鯨尺  五厘        曲尺  六厘二毛五糸 

宋朝体活字の源流:聚珍倣宋版と倣宋体-04 再度中国印刷博物館資料に立ちもどる。

《 2011年09月 北京爽秋のもと、ノー学部がはじめての北京訪問 》
09月下旬-10月中旬ころの北京の気候を、「北京爽秋」という。
喉がひりつくような猛暑がさり、寒風が吹きすさぶながい冬までのあいだ、わずかに、みじかい、北京の爽やかな秋のことである。

杭州 ・ 紹興 ・ 寧波 (ねいは ・ ニンボウ) など、江南の浙江省と、黄河上流から中流域の、西安 ・ 洛陽 ・ 鄭州 ( ていしゅう ・ Zhengzhou、黄河中流南岸。古代王朝商〈殷〉の前半期のみやことされる) ・ 安陽 (甲骨文出土地、文字博物館がある。 古代王朝商〈殷〉後半期のみやこ) など、陝西省と河南省あたりを訪問していたノー学部が、ようやく2011年09月下旬に首都 : 北京を訪問した。

折りしも 「 北京爽秋 」 とされるとき。 大空がはろばろと澄みわたり、涼風がここちよい、もっとも麗しい北京がみれる佳いときであった。
北京爽秋 北海公園DSCN2711DSCN2719DSCN2713DSCN2806 DSCN2805北京印刷学院と併設の印刷博物館。 下部は紙型 ( ステレオタイプ ) 型どり製造装置

《 観光名所をひとめぐり。 そして北京印刷学院と併設の印刷博物館を訪問 》
北京がはじめてというノー学部のために、とりあえず、景山公園、故宮博物院(旧紫金城)、北海公園、明の十三陵、万里の長城などの観光名所をひととおりまわった。
やつがれは北京訪問は 7-8 度目になるが、以前のような観光ガイドつきの旅とちがって、それなりの新鮮さがあった。
それでもそんな観光写真をここにご紹介しても退屈であろう。

このとき、北京訪問を決意したきっかけのひとつは、「 北京印刷学院と、併設の中国印刷博物館 」 への訪問だった。
この施設は1970年代に、写真植字機の開発とその輸出 ・ 移入などで、わが国の関連業界とも接触がみられたが、その後、なぜか情報がほとんど途絶えていた。 その理由を知りたかったし、施設もみたかった。

結果だけをいえば、2011年09月に訪問した 「 北京印刷学院と、併設の中国印刷博物館 」 での収穫はすくなかった。
博物館の規模は宏大で、展示品もとてもすばらしかったが、地下の印刷機器の陳列場をのぞいて撮影禁止であり、図録などは 「 未製作 」 ということで入手できなかった。

また交換プレゼントに小社の図書を相当数用意して、現役の教育者との面会をもとめたが、それも2011年09月の最初の訪問のときは実現しなかった。
【 リンク : 花筏 新 ・ 文字百景*04 】

さらになさけなかったのは、上掲写真のうち、地下展示場の 「 紙型製作機 」 にもちいる巨大なブラシ ( 手づくり ) の未使用品を小社が保有しており、4-5年にわたって壁にぶら下げていた。
もちろん販売だけを目的としたものではなかったが、残念ながらタイポグラファを自称する皆さんでも、ほとんどこれに関心をしめさなかった。 それも当然で、名前を知らず、用途も知らないのだから、簡単な説明だけではただのおおきなブラシとおもわれても仕方なかった。

 ところがこのブラシをみて、奪いさるように強奪 !?  していったのは、パリにアトリエをもつ版画家の某氏であった。
このかたは版画家ではあるが、個人で 「 スタンホープ型手引き活版印刷機 」 を所有されている……、つまりタイポグラファである。 当然このブラシの用途もご存知だった。 その上で、現在の作業環境にあわせての利用を目的とされた。

誤解をおそれずにしるせば、わが国のタイポグラファの多くは、単なる 「 活字キッズ 」 がほとんどで、実技と実践がなく、またシステムとしての印刷と技芸という、本来のタイポグラフィへの関心が乏しいのは物足りないものがある。
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それでもあきらめずにいると運は拓けるもので、下掲写真は翌翌年の2013年11月、友人の紹介をえて、中国印刷博物館に、副館長/張 連章 ( Zhang Lian Zhang ) 老師を訪問したときのものである。
ノー学部にとっては二度目の北京訪問となった。 このとき北京ではすでに「北京爽秋」とはいえず、
11月初旬でも朝夕などはコートが欲しくなるほど冷え込んでいた。
中国印刷博物館正面ロビー中央の銅像は、中国のタイポグラファが 「 活字版印刷術発明者 」 として、きわめておもくみる 「 畢昇 ヒッショウ 像 」 (990-1052) で、下掲写真はその銘板である。
畢昇像畢昇銘板〔 畢昇の発明による活字版 —— 意訳紹介 〕
畢昇像 —— 畢昇(ヒッショウ 990-1052)は 北宋 淮南ワイナン ( 現在の湖北省黄岡市英山県 ) のひと。
ながらく浙江省杭州にあって木版印刷に従事した。 宋王朝仁宗 (趙 禎) の 慶歴5年 (1044)、膠泥コウデイ製の活字による組版をなして、活字版印刷にあたらしい紀元をもたらした。 畢昇は印刷史上 偉大なる発明家である。

〔 筆者補遺 〕
中国印刷博物館では、畢昇の功績はきわめてたかく、500年ほど遅れて、活字版印刷術を大成したグーテンベルクよりも、畢昇のほうを < 発明者 > として数等たかく評価していた。
したがって畢昇に関する研究も相当すすんでいて、館内には大きなスペースをもちいて、畢昇の膠泥活字の製造作業を、ていねいなジオラマ ( 復元模型 ) によって展示 ・ 解説していた。

1990年 ( 平成 2 ) 畢昇の墓誌が発見され、没年が1052年であることがあきらかになったが、生年は970年説、990年説などと異同があ る。
わが国では活字創始者/畢昇のことは、ほとんどおなじ時代の北宋のひと、沈 括 (シン-カツ 1030-94) の 『 夢渓筆談 』 のわずかな記述を出典とするが、そろそろ新資料にまなぶときかもしれない。

ここでいう 「 泥 」 は、わが国の土の軟らかいものとはすこし異なる。 現代中国では 「 水泥 」 としるすとコンクリートになる。 したがって 膠泥 コウデイ とは 膠 ニカワ が溶解してドロドロしたものと理解したい。
この膠泥は、なににもちいるのかは知らないが、現代中国でも容易に入手できるので、一部の好事家は 「 膠泥活字 」 の再現をこころみることがある。
【 リンク : 中国版百度百科 畢昇膠泥活字 図版集 】
【 リンク : 中国版百度百科 畢昇(活字版印刷術発明者) 】

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《美華書館と、後継企業としての華美書館 ・ 商務印書館の消長》
このときは印刷博物館副館長 ( 張 連章 氏 Zhang Lian Zhang 。 印刷博物館館長は共産党幹部であり、張氏が実質的な責任者 ) との同道だったので、館内の撮影もゆるされた。
ところが300枚を優にこえる膨大な数量の写真となった。 しかも広い館内を駆けまわってのシロウト撮影だったから、整理にもう少し時間をいただきたい。

中国では1937-1945年までの日中間の微妙な紛争を 「 抗日戦争 」 と呼ぶ。
わが国ではその前半部分を 「 北支事変 」、「 上海事変 」 などとし、後半部分を 「 大東亜戦争 」 することが多い 【 ウィキペディア : 日中戦争 】。

併設の 「 北京印刷学院 」 は、こうした 「 抗日戦争 」 を主要研究テーマのひとつとした 「 愛国教育 」 の拠点校である。 つまり直近の戦争として 「 抗日戦争 」 を取りあげることが多く、どうしても 「 北京印刷学院 」 は、 「 反日的 」 なかたむきがみられることになりがちである。
それを受けて 「 中国印刷博物館 」 では、中国各地の印刷所と図書館を標的とした、旧日本軍による砲撃のなまなましい惨禍を、文書 ( 印刷物 ) や写真として記録 ・ 所有 ・ 展示していた。 これらの資料の閲覧は、かなりつらいものがあった。

その一例として —— 温厚な張 連章氏が、このときばかりは表情もけわしく、詳細に説き、みせてくれた資料がある。
それは 「 上海商務印書館と 付属図書館 」 にたいして、旧日本軍が至近距離から照準をあわせ、砲弾をあびせて、印刷機器、活字鋳造設備、活字在庫などを焼失させた数枚の写真であり、それを掲載した新聞であった。
また付属図書館では、稀覯書をふくむ、蔵書数十万冊が焼失したという詳細な記録資料だった。

わが国では、英米系の宗教印刷所 「 美華書館  The American Presbyterian Mission Press 」 が喧伝されるわりに、この 「 商務印書館と 付属図書館 」 と、これと双璧をなす 「 中華書局 」 に関しては知るところがすくない。
既述したように、上海の 「 商務印書館 」 と 「 中華書局 」 の施設の大半は、わが国の砲撃によって焼失したが、北京の施設が健在で ( いずれ紹介したい )、それを基盤として発展し、両社ともに現在もなお、中国最大級の印刷会社であり、出版社でもある。

1915年(大正04年)美華書館は中国系資本の 「 華美書館 」 と合併した。 この 「 華美書館 」 は1928年(昭和03)に清算された。
それに際して、美華書館に発し、華美書館に継承された設備は、すべて商務印書館に譲り渡された。 また
人員の多くもここに移動したという歴史を有する企業である。

すなわち……、まことにつらいことではあるが、わが国は、「 明朝体活字のふるさと 美華書館 」 の上海での後継企業を、砲撃目標を眼前に置き、至近弾をもって砲撃して、ほとんど壊滅に追いこんでいたのである。
それを言い逃れのゆるされない、大量の資料を眼前にして知ったとき、1990年ころ、上海での印刷人の取材に際して、かれらが一様に示した、つよい反発の因ってきたるところを熟慮しなかったおのれが恥ずかしかった。
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その際 「 宣戦布告無き、激しい戦闘 」 が上海で二度にわたって展開した。
そのためにこの戦闘は 「 上海事変 」 とされるが、実態は、砲爆撃をともなった、まぎれもない中華民国軍と日本軍との戦闘であった。

「 第一次上海事変 」 (1932年 昭和07年 1-3 月 )【 ウィキペディア : 第一次上海事変 】、「 第二次上海事変 」 (1937年 昭和12年8月13日-)【 ウィキペディア : 第二次上海事変 】、この二度にわたって、中華民国軍と日本軍は上海を舞台にはげしく衝突した。

そのときの 「 商務印書館 」 と 「 中華書局 」 への砲撃による 痛痛しい焼損印刷機器が 「 北京印刷博物館 」 に展示されていた。
また砲撃で焼失した図書館の蔵書のなかには、宋版 ・ 元版などの稀覯書はもとより、孤本( 唯一図書 ) も多かったとする写真と文書記録がのこされていた。 言いのがれのできない蛮行であり、文化的損失であった。

かつて、「 失われし、ふるき、よき印刷所-明朝体活字のふるさと 」 として、「 美華書館 」 を称揚し、その現地探訪記として 『 逍遙 本明朝物語 』 ( 1994年03月16日 ) までしるした責任がやつがれにはある。

ふりかえれば取材をかさねていた1980-90年のころ、当時は 「 失われた歴史のロマン 」 として 「 美華書館 」 をとらえ、まことに呑気なことに、「 破壊してしまった 」 その跡地をたずね、さらにノー天気なことに、資料のすくないことを慨嘆していた自分が恥ずかしくもあり、その消長への問題意識にかけていたことをおおいに反省せざるを得ないいまなのである。

写真とはこわいもので、「 中国印刷博物館 」 二度目の訪問でのやつがれの表情は硬い。
【 ウィキペディア : 美華書館】。 【 ウィキペディア : 美華書館画像集 】。 【 中国版百度百科 : 美華書館 】。 【 中国版百度百科 : 美華書館図像集 】

しかしながら、上海事変による美華書館の後継企業たる、「 商務印書館 」 へのはげしい砲撃のことは、やつがれはこのときはじめて知った。 もちろん看過はできないが、いまのところやつがれの手にあまることがらである。
さりながら、小論での提示とはいいながら、その後 「 美華書館 」 をめぐって、広範な影響をあたえ、さまざまな歴史発掘にいたった小論 『 逍遙 本明朝物語 』 のときと同様に、これから 「 商務印書館 」、「 中華書局 」 などを紹介し、こころざしある有識者とともに、タイポグラフィの進化と深化にむけた努力をなすことが、「美華書館」へのあまりに過剰な称揚の先がけをなしたひとりとして、やつがれがわずかながらも責任をとることのひとつとしたいとおもうこの頃である。
2013 11再訪時 畢昇像 印刷博物館再訪写真右より  邢 立 氏 Xing Li 、 張 連章 氏 Zhang Lian Zhang 、やつがれ、ノー学部

《中国 印刷博物館に展示されている、中国における活字原型製造法の概略史》


< 展示パネル 「 銅模 (字模)」 釈 読 >   翻訳協力 : 郝 丽敏

「 銅模 (字模)」 ―― 活字母型
1895年 〔 清朝光緒20年、明治28年 〕、かつて美華書館のアメリカン人 ウィリアム ・ ガンブル〔ギャンブルトモ。 ガンブルの中国音表記 : 姜別利  *01 〕と会合をかさねていた、中国人の印刷技術者が、電鋳法による活字母型を製作し、活字版印刷術の応用をおおいに推進した。

1906年、上海出身の周 松猷は電鋳法による活字母型専門製作所である「菘蘊字所」を開設した。
その後、申報館、世界書局、呉順記、商務印書館、中華書局、芸文印刷局、漢文正楷印書局、北京文嵐籍などの印刷所 ・ 出版社 ・ 活字鋳造所では、書法家、刻書家の、陶 子麟、丁 補之、鄭 午昌、高 去塍、陳 履坦、英 子敬らによって設計された、楷書体や倣宋体〔わが国の宋朝体〕を開発し、その後の定型化された活字書体となった。

1940-50年代になると、活字母型製造業者が一定の規模になっていき、また一定量の機械式活字母型彫刻機を導入して活字母型の生産をおこなった。
──────────
〔筆者補遺〕
◯ タイトルの「 銅模 」 ( 字模 ) は、いずれも活字母型をあらわす。 「 模 」 は、「 模型  真似 写した型 」 とされるように、わが国の 「 ≒  型 」 をあらわす。
「 銅模 」は電鋳法の時代、その固定支持材に銅をもちいたことによる。
「 字模 」は機械式活字母型彫刻機 ( わが国の俗称ベントン彫刻機 ) の時代、その彫刻材料 ( マテリアル、通称 マテ ) が、おもに真鍮となり、電鋳法との差異化のためにもちいられた。

◯ *1  姜別利――ガンブルに漢音をあてたもの。 William Gamble,  ( ? -1886
アメリカのプロテスタント宣教師兼活版印刷技術者。 はじめ寧波(ねいは、ニンボウ)のアメリカ租界にて印刷をおこない、のち上海租界に美華書館を設立、移転。
長崎に居住していた、ギド ・ フリドリン ・ フルベッキの仲介をえて、明治06年06月ころに来日して、長崎製鉄所活版伝習所に技術を伝えたとされる。

ギャンブルは幕末に、すでに俗称ヘボン辞書として知られる、ジェームス・カーティス・ヘボン編 『 和英語林集成 』 ( 1867年 ・ 慶応03年 ) を岸田吟香の援助も得ながら刊行していた。 またその明治05年の再版本も美華書館の印刷によっている。
このように、巷間知られる以上に、上海時代、それも来日以前から、わが国の薩摩藩士、岸田吟香らの知識層との交際はひろく、『 和訳英辞書 』 ( 明治02 )、『 官許大正増補和訳辞林 』 ( 明治04 ) ―― 前記二冊の大型辞書は いわゆる 「 薩摩辞書 」 として知られる。
『 仏和辞典 』 ( 明治04年01月 )、『 和英語彙 』 ( 明治05 )、『 官許独和字典 』 ( 明治06年05月 ) などを、上海美華書館で組版 ・ 印刷 ・ 製本作業を担っていたことはもっと注目されてよい。

◯ 書法家、刻書家の、陶 子麟、丁 補之、鄭 午昌、……らによって設計された、楷書体や倣宋体 〔 わが国の宋朝体 〕 を開発し、その後の定型化された活字書体となった。
もともと 「 書 」 をおもくみる中国では、活字版印刷が隆盛する前に、「 書 」 そのものを転写できる石版印刷がさかんだったという近世印刷史の特徴があった。

丁 補之、丁 善之の兄弟が開発した 「 聚珍倣宋版 」 はすでに一部紹介した。
鄭 午昌は 漢文正楷印書局に、「 正楷書活字 」 をのこし、この二種類の活字書体は、昭和初期に 名古屋 : 津田三省堂によってわが国にもたらされ、「 宋朝体活字 」 「 正楷書活字 」 として、いまなお盛んに使用され、さらにさまざまなバリアントもうんできた。

そのほかには、「 新魏 シンギ」 という名の、魏碑体から範をとったとみられる特徴のある活字書体と、「 小姚 ショウヨウ」 が 「 上海字模一廠 」 から発売されている。
北京文嵐籍の 「 倣宋体活字 」 は、発売直後から 丁 補之、丁 善之兄弟とのあいだで深刻な争いが発生したもので、北京文嵐籍の 「 倣宋体活字 」 は現代の視点でみると 相当問題がある。

最大手の商務印書館は、独自の倣宋体活字を開発しており、これは大阪 : 森川龍文堂から  「 龍宋 」 という商品名でわが国でも発売されたことがある。  おおらかな、やわらかみのある倣宋体 ( 宋朝体 ) といってよい。
「 龍宋 」 はそのご モリサワに譲渡され、写真植字の時代には好評だった書体であるが、いまのところデジタル化はされていないようである。

◯ 書法家、刻書家の、陶 子麟、丁 補之、鄭 午昌、……らによって設計された、楷書体や倣宋体 〔 わが国の宋朝体 〕 を開発し、その後の定型化された活字書体となった。
清朝末期から、民国初期の活字開発をしるしたこのパネルには、うっかりすると看過されがちだが 「 明朝体 宋体 」 の名前がみられない。
わが国の140年の歴史を刻んだ近代活字版印刷においては、終始明朝体がその中核をしめる書体であった。
どういうわけか中国における「明朝体 宋体」への関心は低く、ある種冷淡ともおもえることがある。 これは明朝体以外の書体を分析する作業から、おのずとあきらかになりそうなことがらである。

◯ 1940-50年代になると、活字母型製造業者が一定の規模になっていき、また一定量の機械式活字母型彫刻機を導入して活字母型の生産をおこなった。
このパネルを前にして、中国への機械式活字母型彫刻機-いわゆるベントン彫刻機の導入時期を張 連章 氏にうかがった。
「 清朝末期、それも上海租界地でのことは資料がすくないのですが、機械式活字母型彫刻機は、商務印書館、中華書局などの大手には、清国末期から民国最初期には導入されたとされています。 丁 補之、丁 善之の聚珍倣宋版は、中華書局での機械式活字母型彫刻機をもちいた活字とされています 」
わが国に機械式活字母型彫刻機-いわゆるベントン彫刻機が導入されたのは、1912年(明治45)印刷局への導入がはじめとされてあらそいがない。
清朝最末期をラストエンペラー、宣統帝 溥儀の時代とすると、1908(明治41)-12(明治45・大正元) となる。 地下倉庫でみた機械式活字彫刻機は、ATF 社のものでも、わが国の製造でもなかった。 どうやらほぼおなじころに、機械式活字母型彫刻機が 日中双方に導入されたとみてよいようである。る。
                                                                                                                                                                  
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【 初出 活版 à la carte : はじめての京劇鑑賞*そのⅢ-A 老北京 中国印刷博物館と紫金城を展望する 2014年02月24日 】

【アダナ・プレス倶楽部】 中国 上海の活字製造と活版印刷情報

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《錯綜する中国の活字製造と活版印刷関連情報》
なにしろ広大な国土の中国のことであり、活字製造と活版印刷関連情報とひとくちにいっても、とかく情報が混乱して錯綜していた。
比較的情報がはいりやすい北京とその近郊には、すでに活字製造業者、活版印刷業者
が存在しないことは確実とみられるが、
「中国東北部の吉林省や遼寧省では、まだ活版印刷業者があって、活字も供給されているようだ」
「中国西部の四川省でも、まだ金属活字の製造が継続しているようだ」
といった、伝聞や風評ばかりで、歯がゆいものがあった。

ところで、上海で活躍する版画家:楊 黙さんと畠中 結さんのご夫妻は、2012年の暮れに、朗文堂 アダナ・プレス倶楽部から<小型活版印刷機 Adana-21J >を購入された。
上掲写真のように、 Adana-21J は楊 黙さんのスタジオに設置されて、その造形活動の拡大に貢献している。そんなおふたりから今般上海郊外の活字鋳造所の現況報告と写真をご送付いただいた。

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★ YANG MO  楊 黙
★ エッ、いまごろお正月 !? 上海在住の会員がご来社に。そして「老北京のご紹介」 2014年02月10日
★ <在時間的某処>, Somewhere in time, ある日どこかで。 2014年05月21日
★ 中国 上海の活字製造と活版印刷関連情報 ── 畠中結さんからのご報告

──────
楊 黙  Yang Mo ┊ 1980年中国うまれ
中国上海在住。日常生活のすべてを芸術、デジタル・デザイン、版画製作に捧げているアーティスト。
楊氏は南京芸術大学を卒業し、そののち版画製作の最先端の研究を、ドイツ中央部、芸術と大学都市、カッセル(Kassel)で続行した。同地で日本から留学中の畠中 結さんと知り合って結婚した(中国では夫婦別姓がふつう)。
中国に帰国後、ふたりは上海にアトリエを開設して、中国各地でいくつかの展覧会を開催した。また2012年の東京TDC賞にも選ばれている。
楊氏はおもにデジタル・デザイナーとして活躍しているが、常に彼自身の版画作品をつくって、現代中国では顧みられることの少ない、あたらしい版画芸術を提案し続ける、意欲にあふれる造形家である。
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《上海郊外にある、いまでも実際に稼働している活字鋳造所》
下掲の写真は、おそらくわが国では、はじめて紹介されるものとおもわれる。
撮影は今春に、この活字鋳造所を訪問された楊 黙さんによるものである。
中国では〈活版ルネサンス〉のうごきははじまったばかりであるが、写真でみる限り、この活字鋳造所には10台以上の活字鋳造機があるようにみられる。
また「活字母型タンス」もしっかり管理されているようであり、もう少し中国における〈活版ルネサンス〉の動向が顕著となって、既存の活版印刷業者の奮起と、あたらしい活版造形者が増加すれば、ふたたび活性化することは可能のようにみられる。
──────
西欧諸国からもたらされた近代印刷術に関していえば、わが国では「江戸期通行体 お家流」の可読性と判別性がひくかったために、明治新時代の民衆の旺盛な読書需要にこたえるために、お家流のような連綿形ではなく、一字一字が独立して、また明確な矩形による明朝体活字を中心とした活字版印刷の普及に積極的であった。

それにたいして、清国末期から中華民国初期の時代(明治時代から大正初期)の中国では、まず膨大に存在した古文書の影印本(古文書の文面を、写真術によって複写・製版・印刷した複製本)の製作に熱心で、活版印刷より石版印刷の普及に意欲的だったという非我の相異がみられた。

そんな社会風潮もあって、中国における近代活字版印刷術の開発と普及は遅延した。ところが1940年代の後半からの新中国では、民衆のリテラシーの向上が国是となって、活字製造と活版印刷は急速に普及した。
まず楷書体が注目され、さまざまな企業が開発にあたったが、なかでも上海漢文正楷書書局の開発による製品名「正楷書」活字がおおきな成功をおさめた。

近代中国の活字書風の「楷書体」は、北宋の皇族の末で、清朝の乾隆帝・康煕帝などによってたかく評価された、元朝の書芸家「趙松雪チョウ-ショウセツ(趙子昴チョウ-スゴウ、趙毛頫チョウ-モウフ トモ)の柔軟な書風をもととして、「矩形にまとめられた柔軟な楷書  ≒ 軟字・軟体楷書」を源流とするものが多い。
とりわけ上海漢文正楷書書局の「正楷書」(正楷書は製品名)
活字は、昭和前期に名古屋・津田三省堂などによってわが国にも導入されて、やはり「正楷書活字」と呼ばれて、それまでにわが国にも存在していた「楷書体活字」との競争に互角の勝負をいどみ、いまなお楷書活字の基本となっている。
[この項参考資料:ヴィネット09 『楷書体の源流をさぐる』 林 昆範、朗文堂、p.84-]

また北宋王朝刊本に源流を発する、彫刻の特徴が際立った、工芸書風としての倣宋版活字(倣はならう・まねる ≒ 模倣)が積極的に開発された。
著名なものとしては華豊書局製造の「倣宋版活字」(わが国では森川龍文堂の導入によって龍宋体とされた)、「商務印書館の倣宋体」、「中華書局聚珍倣宋版、倣宋版」(わが国には昭和前期に名古屋:津田三省堂らによって導入されて宋朝体とされた)の開発に集中していたようである。
その反面、わが国では意欲的に開発がすすんだ、「宋体-わが国の明朝体」、「黒体-わが国のゴシック体」の開発には消極的であった。
──────
ともあれ、現代中国でもあたらしい活版造形者が増加するかたむきをみせはじめている。そんな背景もあって、楊 黙さんのスタジオには最近中国メディアからの取材が盛んだとお聞きした。
これを好機として、ここに声を大にして、字の国、漢字の国、中国の活字鋳造所の復活と交流を望みたいところである。 できたらことし中に、上海に楊 黙さん・畠中 結さんをおたずねして、この活字鋳造所を訪問したいものである。
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平野富二と活字*15 掃苔会の記録『苔の雫』Ⅱ 明治初期の偉人たち-1

         

《『平野富二伝』古谷昌二編著 刊行記念 展示・講演会併催 掃苔会の報告 Ⅱ》
2013年11月30日[土]-12月01日[日]の両日、東京都台東区上野桜木2-4-1 日展会館において【『平野富二伝』(古谷昌二編著)刊行記念 展示・講演会】が開催された。
その際、併催されたのが「谷中霊園 掃苔会」(12月01日 10:00-12:00)である。
「掃苔 そうたい」とは、本来、苔を掃ききよめるの意であるが、転じて墓参の意もある。

もともと「掃苔会」は、13年ほど前から、ときおり有志が集まり、谷中霊園を中心に、「書かれた字、彫られた字」の字学研究と、平野富二の遺徳を偲ぶちいさな会であった。
次第に平野富二とおなじく、谷中霊園にねむる、造形者・出版人・新聞人・印刷者・活字製造者・活版印刷者などに範囲がひろがり、さらに古谷昌二氏の参画を得てからは、文字どおり「明治産業近代化のパイオニア諸賢」の記録もくわわり、その範疇はおおきくひろがった。

今回の「掃苔会」は、「平野富二命日 12月03日」を直近にひかえた平野家ご親族の参加があって、きわめて有意義な会となった。その「谷中霊園 掃苔会(2013年12月01日)の記録Ⅱ」を紹介したい。
紹介順は、基本的に「掃苔会」での墓参の順番になるが、平野富二ときわめて関係のふかかった渋沢栄一(社会実業家 1840-1931)の墓所が、現在大規模な修理中であり、ご紹介できないことをあらかじめお断りしたい。
なお掃苔会資料『苔の雫』はコピー版であるが、ご希望の向きには実費程度でおわけしたい。この連続紹介で、碑碣にみられる、刻字のおもしろさと、そのおもさを知っていただけたら幸いである。

[小冊子『苔の雫』(編集・製作:松尾篤史氏、協力:八木孝枝氏)、撮影:岡田邦明氏]

『平野展』ポスターs平野富二伝記念苔掃会 0104

◎ 渋沢 栄一(しぶさわ えいいち 社会実業家 号:青淵 1840-1931) 
乙11号1側  塋域全体が工事中。

◎ 茂木 春太碑(もてぎ はるた 教育者・化学者 1849-81)
乙11号3側  中村正直撰 廣 群鶴刻。
能書家としてもしられた中村正直の楷書がみごとである。

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◎ 岸田 吟香(きしだ ぎんこう 新聞人・実業家・慈善事業家 1833-1905)
乙12号7側 本名:辰太郎 別名・号:銀次、まゝよ、東洋、桜草
1864年(元治元)ジョセフ・ヒコらと日本初の新聞『新聞紙』を創刊。『東京日日新聞』初代主筆。
ヘボンと上海にわたり『和英語林集成』の刊行に助力。水性点眼薬「精錡水セイキスイ」を製造販売。
_MG_0625uu _MG_0628uu _MG_0630uu _MG_0631uu◎ 西園寺 公成(さいおんんじ きみなり 旧名:松田雪江 事業家 1835-1904)
乙12号7側 第一銀行取締 石川島造船所の資金難にあたり、渋沢栄一の指示でそれを援助。
平野富二没後は石川島造船所の株式組織化に尽力し、取締役に就任。
_MG_0637uu _MG_0643uu _MG_0644uu _MG_0646uu◎ 内田 嘉一(うちだ よしかず 文部省役人、書家、かなの くわい幹事 1848-99)
乙13号1側 秀英体の原字の一部を担ったとみられる。福澤諭吉の初期の塾生で、福澤諭吉編『啓蒙手習之文』(木版刊本、内田嘉一版下)にみる「わかりやすい文字」は、その後の活字書体形成におおきな影響をあたえた。
_MG_0691uu _MG_0693uu _MG_0699uu◎ 井関 盛艮(いせき もりとめ 裁判官、官僚、実業家 1833-90)
乙8号11側 あざな:公敦 通称:斎右衛門 神奈川県令のとき、長崎の本木昌造一門の助力で、わが国初の日刊新聞『横浜毎日新聞』(明治5年)を創刊。その後名古屋県令、島根県令をつとめ、印刷術の普及に貢献した。
_MG_0701uu _MG_0704uu _MG_0708uu _MG_0712uu◎ 田口 卯吉(たぐち うきち 経済学者、文明史家、衆議院議員 1855-1905)
乙7号6側 本名:鉉 号:鼎軒 元幕臣。紙幣寮に出仕。沼間守一による櫻鳴社の設立会員。秀英舎役員。『日本開化小史』『大日本人名辞典』などの編纂。『東京経済新聞』の創刊など。_MG_0719uu _MG_0720uu◎ 條野 傳平(じょうの でんぺい 戯作者、新聞人、実業家 1835-1906)
乙7号甲2側 明治元年(1868)福地源一郎、西田傳助らと『江湖新聞』創刊。ついで毎日新聞の前身『東京日日新聞』を自宅を事務所として創刊し、ついで『警察新報』『やまと新聞』などを創刊。
◎ 鏑木 清方(かぶらぎ きよかた 日本画家、随筆家 1848-99)
乙13号左3側 幕末から明治初期きっての粋人・條野傳平の子ながら、長子ではなかったため、墓所は別にある。自著の装幀にみるべきものが多い(ここには鏑木清方関係の写真は省略した)。_MG_0723uu _MG_0725uu _MG_0730uu◎ 楠本 正隆(くすもと まさたか 裁判官、政治家、実業家、新聞人 1838-1902)
乙7号甲1側 備前大村藩士、維新後井上馨、野村宗七とともに長崎判事。新潟県令、東京府知事となって、平野富二の活字製造、造船事業、土木工事に多くの接点をもつ。のち『都新聞』を買収して社長となった。
_MG_0733uu _MG_0734uu _MG_0741uu◎ 藤野 景響碑(電信士、西南戦争で陣没 1857 ?-1877)
甲1号4側  通称「碑文通り」とされる中央通路に、杉の木がもたれかかるという、奇観を呈するこの碑の主人公は、父が紙幣寮に出仕しているとする以外詳細は詳らかにしない。
碑文の撰・書ならびに篆額は池原日南(長崎人、宮内省文学御用掛として明治帝に近侍。香穉とも号す。1830-84)である。池原の和様の書は著名だが、ここでは隷書味のある楷書でしるしている。当時評判の石工・廣 群鶴の石彫もみごとである。
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◎ 渡部 欽一郎君之碑(大蔵省書記官、号:柳圃 1845-86)
甲1号9側 松方正義:篆額、浦春暉:撰、並木時習:書、井亀 泉:刻
明治4-6年(1871-73)ころ、大蔵省権大書記官として井上馨に随伴して大阪造幣寮におもむき、合理的で整然とした西洋式簿記を目にして啓発され、帰京後大蔵省の簿記法を従来の和算から、アラビア数字による横書き・左起こしに改めることを進言し採用された。この碑はその事実を刻し、「このことを知るひとはすくないが、いずれあきらかにされるであろう」としている。
英和辞書などでの左起こし横組みの創始が話題になったことがあるが、簿記での左起こし・横組みは、1871-73年ころの渡部欽一郎が最初である。
篆額を書した松方正義は、ときの大蔵大臣である。なお渡部欽一郎の墓所は浅草・本願寺にあるという。
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_MG_0828uu _MG_0832uu _MG_0838uu_MG_0840uu  《これぞまさに歴史の皮肉か? 谷中霊園甲1号12側にならんで建つライバルの墓標》
谷中霊園甲1号12側の通路にそってあるくと、ちょっと奇妙な景色に遭遇する。中央通路からはいると、手前に福地源一郎の墓標があり、東京都指定史跡に登録されている。その奥、隣りに伊集院兼常の墓域がある。どちらも相当おおきな墓域だが、ふつう通路に向かってたつ墓標が、伊集院家のものだけが、いくぶん変わった向きに建立されていることに気づく。これはぜひとも現地に出むいて確認していただきたい。
1886年(明治19)この両者は熾烈な争いをしたライバルであった。それでもいまや黄泉のひととなった両者は、谷中霊園にならんでねむっている。
────────
1886年(明治19)海軍省から軍艦建造の依頼をうけた平野富二は、管轄官庁の変転で浮きあがっていた兵庫造船局を借用するために願書を提出した。ところが同時に、京橋区築地造船所の川崎正蔵(鹿児島うまれ、1837-1912)からも同様な願書が提出された。
そのため両者はそれぞれ同郷の代理人をたてて借用権を争った。そのときの代理人とは、平野側は福地源一郎、川崎側は伊集院兼常であったのである。ときはまだ旧薩摩藩・旧長州藩の勢力がつよく、伊集院はその旧薩摩閥を背景として貸し下げ競争を展開した。
結局薩摩閥勢力のちからに屈し、貸し下げ競争に敗れた平野富二は、憤激のあまり脳溢血の発作をおこしたと伝えられている。_MG_0847uu◎ 福地 源一郎
(号:櫻痴、吾曹、夢の家主人、星泓。通訳、新聞人、実業家、政治家、劇作家 1841-1906)
甲1号12側 長崎人。語学の才にめぐまれ、幕府直臣となって外遊をかさねる。このときの経験が新聞の必要性と、小屋がけではない、常設劇場「歌舞伎座」の創建につらなった。多芸多才なひとで、毀誉褒貶も多いが、條野傳平らと『江湖新聞』を発行して新政府批判を展開し、投獄され、新聞は版木もろとも焼却されて発行禁止となった。
維新のち大蔵省に出仕するも、まもなく下野して『東京日日新聞』に迎えられて、主筆兼社長となった。常設劇場「歌舞伎座」を開設し、九代目市川團十郎、河竹黙阿弥らと演劇改良運動に尽力し、歌舞伎の新作脚本もたくさんのこした。政財界でも華やかな活動を展開し、伊藤博文・井上馨らの「悪友」と、色里での艶聞も多い。号としてもちい、法名の一部にもなった「櫻痴オウチ」は、遊里吉原の芸子・櫻路サクラジに痴シれたおのれを自嘲したものとされる。
第一次『印刷雑誌』に「本木昌造君の肖像并履歴」、「平野富二君の履歴」などの貴重な記録をのこし、谷中の『平野富二顕彰碑』の揮毫にあたるなど、平野富二とはきわめて昵懇であった。
_MG_0848uu_MG_0862uu ◎ 伊集院 兼常(いじゅういん かねつね 鹿児島人。軍人、実業家、造園家。1836-1909)
甲1号12側 幕末は国事に奔走し、維新後海軍に出仕、海軍省主船局営繕課長をへて実業界に転進した。また伊集院は建築や造園、茶の湯に造詣がふかく、鹿鳴館の庭園造営が知られる。また京都の数寄屋づくりの別荘は、現在臨済宗の寺院「廣誠院」として観光名所になっている。

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◎ 宮城 玄魚(名:喜三郎 号:梅素玄魚、旧キサ、呂成、蝌蚪カト、オタマジャクシ子 1841-1906)
甲4号3側 経師士、庸書家、浮世絵士、戯作者。20歳のころ家業の経師職を継いだ。庸書(実用書芸)のほか、画にも長じ、合巻の袋絵、千社札、火消しの袢纏、商品の紙器などの意匠に独創性を発揮した。
また條野傳平、仮名垣魯文、落合芳幾らの粋人仲間との交流も篤かった。
清水卯三郎(1827-1910)がパリ万博に随行した際、玄魚の版下によってパリで仮名書体活字を鋳造し、その活字母型を持ち帰ったとされる。江戸刊本の字様を継承した玄魚の仮名書風は、東京築地活版製造所の仮名活字の一部に継承されたとみられている。
宮城家塋域はそんな玄魚の心意気を反映して、どことなく小粋で風情のある場所である。
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平野富二と活字*14 【『平野富二伝』刊行 おつかれさま会】の記録

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《【『平野富二伝』刊行 おつかれさま会】(平野家主催、新橋亭シンキョウテイ、2014年02月02日)》
『平野富二伝』(古谷昌二編著 2013年11月22日 朗文堂)が刊行された。
引きつづき、平野富二の命日を直近にひかえた2013年11月30日-12月01日、【『平野富二伝』刊行記念 展示・講演会】が、上野・日展会館で開催された。

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そんな平野家の皆さまに、【『平野富二伝』刊行 おつかれさま会】(平野家主催、新橋亭シンキョウテイ、2014年02月02日)を開催していただいた。
著者の古谷昌二様はともかく、版元としてはこんな晴れがましいことは遠慮させていただきたいとお願いしたが、結局平野家のご要請をうけいれて、いささか晴れがましい機会をつくっていただいた。
壁に貼られたイベントポスターは、平野家がご用意されたものであるが、いささか面はゆい。
あくまでも、著者:古谷昌二様にたいする 【『平野富二伝』刊行 おつかれさま会】 としてご覧いただきたい。

DSCN3223 前列右から) 平野信子様(曾孫長男・故平野義政氏夫人)、やつがれ、著者:古谷昌二様、平野早苗枝様(曾孫四男・平野義和氏夫人)、大石 薫(朗文堂)、平野義和様(曾孫四男)。
後列右から) 松尾篤史様(掃苔会)、鈴木 孝(朗文堂)、平野 徹テツ様(玄孫、曾孫次男・平野克明氏長男)、平野正一様(玄孫、曾孫四男・平野義和氏長男)、平野健二様(玄孫、曾孫四男・平野義和氏次男)────────
平野家は、長崎の矢次ヤツグ家の次男、平野富二(幼名:矢次゙富次郎)が、とおい祖先の大村藩士:平野勘大夫の姓をもって平野家を再興したもので、平野富二(1846-1892)をもって初代とする。
ついで第二代:平野津類(1876-1941)、第三代:平野義太郎(1897-1980)と継承された。

第三代:平野義太郎には、富二の曾孫(ひまご)にあたる一女四男があった。
長女:平野(常磐)絢子(慶應義塾大学名誉教授)、長男:平野義政(平野文庫主宰者 1932-93)、次男:平野克明(静岡大学名誉教授)、三男:平野俊治(出版編集者 1936-93)、四男:平野義和(七福会社社長)の各氏である。

平野家第五代にあたる玄孫(やしゃご)は、各家にあって10名を数え、平野家のいやさかを飾るが、【『平野富二伝』刊行 おつかれさま会】に参加されたのは、平野 徹テツ(平野克明氏長男)、平野正一(平野義和氏長男)、平野健二(平野義和氏次男)の各氏であった。
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【平野富二伝』刊行 おつかれさま会】では、今後とも、平野富二と、平野富二が開発した「日本近代産業」を研究することを確認し、平野家からの新提案をうかがった。そして平野家第五代の30-40代の若手メンバーを中心として、「平野富二会」(平野会はかつて IHI に存在した)を結成することとした。
また、平野信子様(曾孫長男・故平野義政氏夫人)からは、長男家につたわる位牌を中心に、興味ぶかいおはなしを伺うことができた。
著者:古谷昌二氏のご健勝を祈念するとともに、平野家ご一同のご厚意に篤く感謝し、平野家ご一門のいやさかをお祝い申しあげる次第である。

平野富二と活字*13 掃苔会の記録 『苔の雫』Ⅰ 平野家関連

《『平野富二伝』古谷昌二編著 刊行記念 展示・講演会併催 掃苔会の報告》
2013年11月30日[土]-12月01日[日]の両日、東京都台東区上野桜木2-4-1 日展会館において【『平野富二伝』(古谷昌二編著)刊行記念 展示・講演会】が開催された。
その際、併催されたのが「谷中霊園 掃苔会」(12月01日 10:00-12:00)である。
「掃苔 そうたい」とは、本来、苔を掃ききよめるの意であるが、転じて墓参の意もある。

もともと「掃苔会」は、13年ほど前からときおり有志が集まり、谷中霊園を中心に、「書かれた字、彫られた字」の字学研究と、平野富二の遺徳を偲ぶちいさな会であった。
次第に平野富二とおなじく、谷中霊園にねむる、造形者・出版人・印刷者・活字製造者・活版印刷者などに範囲がひろがり、さらに古谷昌二氏の参画を得てからは、文字どおり「明治産業近代化のパイオニア諸賢」の記録もくわわり、その範疇はおおきくひろがった。

今回の「掃苔会」は、「平野富二命日 12月03日」を直近にひかえた平野家ご親族の参加があって、きわめて有意義な会となった。「谷中霊園 掃苔会」(2013年12月01日)の記録を紹介したい。
[小冊子『苔の雫』(編集・製作:松尾篤史氏、協力:八木孝枝氏)、撮影:岡田邦明氏]
平野富二伝記念苔掃会 01
030204『平野展』ポスターs《平野富二顕彰碑 并 嫡孫・平野義太郎顕彰碑》
所在地:谷中霊園 甲一号一側
・平野富二(ひらの とみじ 1846-92)顕彰碑
   篆額:榎本武揚 撰并書:福地源一郎 刻:井亀 泉(酒井八右衛門)
   1904年(明治37)平野富二十三回忌にあたり建碑披露
・平野義太郎(法学者・平和運動家・平野富二嫡孫 1897-1980)顕彰碑
   「題字:平和に生きる権利 書:平野義太郎」
_MG_0771uu _MG_0752uu _MG_0759uu _MG_0763uu _MG_0766uu _MG_0767uu _MG_0768uu _MG_0750uu _MG_0751uu _MG_0773uu _MG_0781uu

《『平野富二伝』(古谷昌二)における、二〇-四 平野富二 十三回忌記念碑建立(明治37年)の紹介》
古谷昌二『平野富二伝』には、「二〇-四 十三回忌記念碑建設(明治37年)」(p.810-818)があり、その記録が詳細にしるされている。

明治三七年(一九〇四)一一月二七日、平野富二の十三回忌に当り、谷中墓地記念碑前に於いて故平野富二氏記念碑建立式が挙行された。 
この石碑の建立は、平野富二の死去の翌年である明治二六年(一八九三)に、石川島造船所の職員・職工の有志がひそかに計画したものであった。 
その後、東京築地活版製造所の職員・職工も加わり、友人・知人等二百六十一名の醵金により、平野富二の墓所のある谷中霊園の桜並木となっている中央園路に面して、霊園事務所の隣り(甲1号1側)に建立された。[『平野富二伝』古谷昌二]

そのなかから、「補遺2 榎本武揚による篆額」の全文と、「補遺3 福地源一郎の撰文と揮毫」の一部を紹介したい。
この「補遺2 榎本武揚による篆額」に関するテーマは、やつがれも『富二奔る』(片塩二朗、p.102)で触れたが、出典が『淮南子エナンジ
』にあることを理解しないままに記述した。ここに読者にお詫びして訂正するとともに、この誤謬をご指摘いただいた古谷昌二氏の文章を紹介したい。
詳しくは、やはり『平野富二伝』(古谷昌二)をお読みいただきたい。
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補遺2 榎本武揚による篆額 
碑の表面上部には榎本武揚による篆額が陽刻されている。これは、一般には馴染みのない篆書体で、しかも、漢字の羅列であるので、その判読と意味するところを理解することが難しい。今までに解読を試みた例もある[やつがれのこと]が、必ずしも納得できるものではなかった。そこで、敢えて筆者なりに納得できる解読を試みた。 

篆額は漢文であるので、横書きの場合、右から左に読むことになる。右から順に第一字、第二字、‥‥‥とする。 
第一字は、「斬」の字の下に「水」を配していることから、「水」を「サンズイ」と見て、「漸」と読む。
第二字は、篆書で類似の字として「平」、「乎」、「印」があるが、上部横棒が右上がりのギリシャ文字「π」に近く、下半分は第六字の左下と同じで、篆書では「十」となることから「乎」と読む。
第三字は、「矩」の下に「木」であるから、「榘」と読む。
第四字は、そのまま「鑿」と読む。
第五字は、「実」の旧字体である「實」と読む。
第六字は、そのまま「幹」と読む。
第七字は、そのままでは類推しにくいが、「心」と読む。
第八字は、「旅」の下に「月」を配した「膂」と読む。

以上を纏めると、次のような句になる。 
「漸 乎 榘 鑿 實 幹 心 膂」
第一字から第四字までの句は、『淮南子エナンジ』の「繆稱訓 ビョウショウクン」にある 「良工漸乎榘鑿之中」と云う句から採ったと見られる。
その意味するところは、「優れた工人は、モノサシ(基準とするもの)と、ノミ(仕事を効率良く行う道具)とを用いる中で習熟するものである」と読み取れる。

参考に記すと、この句に続いて「榘鑿之中、固無物而不周、聖王以治民、造父以治馬、醫駱以治病、同材而各自取焉」とあり、「榘鑿の意味するところは、全てに共通しないものはない。これによって聖王は人民を治め、馬の名人は馬を自由に操り、優れた医者は病気を治す。これは基本とするものは同じで、それぞれに対応させているからである。」と、輸子陽が自分の子に諭したとしている。
なお、「鑿」に代えて左扁を「尋」、右扁を「蒦」とする漢字を充てて「ものさし」を意味するとする注釈本もある。〈『淮南子(中)』〉
第五字から第八字については、その出典は明らかでないが、「幹を實するに心膂たり」と読んで、「基幹となる事業を充実させることに、心も体も全身ありたけの力を注いだ。」と解釈できる。

これを全文纏めて表現すると、次のようになる。 
「優れた工業人であった平野富二君は、その正しい実践の中から習熟し、わが国の基幹となる工業を充実させることに全身・全霊を捧げ尽くした。」
これは、平野富二の生涯を的確に言い現わした漢文句で、平野富二に贈る言葉としてこれ以上のものはないと言える。

 補遺3 福地源一郎の撰文と揮毫
[前略]
この碑文について福地源一郎[櫻痴]は、建碑式に出席し、来賓として自ら述べた祝辞の中で、その動機に触れている。やや長文であるが、次にその文[『平野富二伝』では全文紹介]を紹介する。なお、特別な場合を除き常用漢字に直した。
「 参列諸君閣下
平野富二君ノ碑ハ 今ヤ斯ノ如クニ建設セラレテ 乃スナワチ 本日ヲ以テ諸君閣下ノ参列ヲ忝カタジケナ ウシ 其除幕式ヲ挙行セラレタリ 源一郎 君ガ旧交ノ一友タルヲ以テ 茲ココ ニ発起人総代 及 委員諸君ニ対シテ 斡旋尽力ノ労ヲ敬謝シ 併セテ此建碑ニ関シテ一言セント欲ス[中略]
  明治三十七年十一月二十七日
                                                      福地源一郎敬白 」  

このように、福地源一郎が、平素は碑文の[撰ならびに書の]依頼を断っているが、敢えて平野富二のために応じた理由を述べている。つまり、
「自分は平素から常人のために碑文を作るのを好まない。それは、誰を記念する碑か漠然として知る人もなく、野草の荒れるままにその中に埋もれ、むなしく夕陽と秋風に曝されて立っている碑が多いからだ。
ところが、平野富二君は、このような人ではなく、その功業勤労が偉大であったことの事実を歴史に永く伝えるべき人で、明治工業史中に残る人です。このような歴史的人物のために碑文を記すことは、文士として光栄とするところです。」
としている。

この碑の前に立って、陰刻された碑文を読もうと思っても、変体かなに素養のない者は、最初の行から素直に読めなくなってしまう。読める句だけでも拾い読みをすれば、全体の大意は理解できるが、恐らく全文を読み通す人は殆ど居ないのではないかと思う。

通常、碑文は漢文とするのが正式であるが、敢えてこれを和文とし、当時流布していた「かわら版」に見られるような変体かなを交えた書き方としたのは、福地源一郎の願った趣旨からすると、当時一般に馴染み深く、読み易いことを意識し、広く読んで貰いたいという事では無かったかと推測される。
書に於いても、文に於いても、また、字ひとつ一つに於いても、五歳年少の「旧知の一友」[平野富二]への福地源一郎の想いがこめられている。その意味で、実際に碑を前にして鑑賞するのが一番である。 

《平野富二夫妻墓標 并 平野家塋域エイイキ》
所在地:谷中霊園 甲一一号一四側
・平野富二(ひらの とみじ 1846-92)、平野こま(古ま・コマ・駒子とも 1851-1911)夫妻墓標
   書:吉田晩稼 
   太平洋戦争で焼夷弾が至近に投下されたために焼損があるが貴重な墓標である。
・平野富二碑
   題字并撰:西 道仙 碑文の書:平野富二 三女・幾み
   「平野富二碑」は富二の生母・矢次み袮の発願で、長崎禅林寺の矢次家墓地に建立されたが、
   矢次家・平野家とも上京し、ながらく所在不明となっていた。それを平野義和・正一父子が発見
   して、平野富二没後110年にあたる2002年に、谷中霊園平野家塋域に移築披露された。
・平野津類墓
   平野富二の次女にして、平野家を継承した。
・平野義太郎・嘉智子夫妻の墓
   平野富二嫡孫夫妻
・平野古登墓
   平野富二長女(1873-75)。夭逝したため詳細不詳。
・山下壽衛子刀自墓 (刀自トジは高齢女性に対する尊称)
   法名:貞倫軒本譽壽照信女(大正元年10月16日没  86歳) 詳細不詳
   最下部に古谷昌二氏からの@メール解説を紹介した[2014年03月12日補記]。

・平野富二位階碑
   従五位を1918年(大正7)に追贈叙位されている。平野義太郎建立。

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前列右から) 平野克明氏(平野富二曾孫)、中尾 勲氏(IHI OB、平野会)、小宮山 清氏、やつがれ
後列右から) 平野健二氏(平野富二玄孫)、平野智子氏(克明氏夫人)、平野義和氏(平野富二曾孫)、松尾篤史氏(掃苔会肝煎り)、小酒井英一郎氏(タイポグラフィ学会)

《『平野富二伝』(古谷昌二)における平野家塋域の紹介》
このときの「谷中霊園 掃苔会」は、日展会館における講演会・展示と併催だったために、何人かのかたには、展示解説と接客担当をお願いして、「掃苔会」への参加をあきらめていただいた。
本来なら、ここには古谷昌二さん、平野正一さんらのお姿があるはずであるが、無理をお願いして展示解説の担当をお願いした。

古谷昌二『平野富二伝』には、「一九-七 平野富二の死去」(p.793-800)があり、その逝去あたっての記録が詳細にしるされている。
そのなかから、「補遺6 勲章受章に関する裏話」、「補遺8 平野富二の墓所」を紹介したい。
これらの記録をあらためて読むと、平野富二は叙勲や位階にはきわめて無頓着であったことがよくわかるし、さらに興味深いのは、現在の平野家一門にも同様のかたむきがみられることである。
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補遺6 勲章受章に関する裏話
平野富二の死去に関連して、次のような裏話が伝えられている。
「平野富二追憶懇談会記録」によると、平野津類の談話として、
「亡くなった時に、三日は喪を秘して置いてくれと、大隈(重信)さんが川村純義さんに奔走してやると云うことでありましたが、位などもともと嫌いな人でありますから、速く葬儀をした方が宜いと云うことで、二日後に執り行いました。」

この談話に関連して、今木七十郎の談話も記録されている。
「(生前にも、ドコビールを紹介してくれた)児玉(少介)さんが、平野さんに、勲章を貰ってやる、それには少し如才なくしろ、と云われたが、平野先生は、(部下の今木八十郎に対して、)『別段、あれは持ち前でございます、と云って置いてくれ。なかなか忙しくもあるし、下さるものなら(頂いても)宜しいが、如才なく振舞うのは嫌だ。』と云って辞めてしまった。」

これと同じ時と見られる今木七十郎の談話が『詳伝』の「述懐片々」の中の第一八「先生の日常の風貌」に次のように記載されている。
「平野先生と、福澤諭吉先生とは、初めから民間で仕事をし、みづから平民を以て、貴ぶべき天爵とされて居ったから、勲章の下附の内意があった際にも、辞された。福澤先生は勲等を辞して五万円貰われたから、其の方が宜しかったかも知れないが、平野先生は、勲等も辞し、金も貰はれなかった。」(今木七十郎氏談) 

これは、平野富二の生前と死亡直後にも周囲の人たちから叙勲の働きかけがあったことを示すものだが、本人は堅苦しいことを嫌って辞退し、家族もそれを配慮して辞退したことが分かる。 
平野富二が追贈叙位されたのは、大正七年(一九一八)になってからの事で、このことは第二〇章の二〇-五で述べる。

補遺8 平野富二の墓所
平野富二の墓は、現在、東京都が管理する谷中霊園の乙一一号一四側にある。墓石の表面には、吉田晩稼の書になる「平野富二之墓」が陰刻されており、向かって右側面に戒名の「修善院廣徳雪江居士」と刻まれている。
背の高い石柱の門を入った参道の右側に石の水盤が置かれており、その先の参道に左右一対の石灯籠がある。
水盤は東京石川島造船所の関係者により捧げられたもので、その左側面に重村直一・島谷道弘・片山新三郎・桑村硯三郎の名前が刻んである。これらの名前は一九─六の補遺1に示した東京石川島造船所の株主名簿に示されており、平野富二から重用された部下であった。

一対の石灯籠は東京築地活版製造所の関係者により捧げられたもので、向って左側の石灯籠の台座裏面に東京築地活版製造所と刻し、続いて曲田成・松田源五郎・谷口黙次・西川忠亮・野村宗十郎など総勢十四名の氏名が列記してある。向って右側の台石裏面には左側に続くかのように十六名の氏名が列記してある。

なお、吉田晩稼(一八三〇-一九〇七)は長崎興善町の生れで、陸軍、海軍に奉職したが、辞して書家となった。大字を得意とし、筆力雄勁にして当時及ぶ者なしと評された。東京九段の靖国神社にある巨大な標柱に刻まれた題字は晩稼の代表作として有名である。本木昌造の歌友とされている。
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上掲写真のうち、平野家塋域に入って左側にある、比較的おおきな墓標、
・山下壽衛子刀自墓 (刀自トジは高齢女性に対する尊称)
   法名:貞倫軒本譽壽照信女(大正元年10月16日没  86歳)
は、ながらく「掃苔会」関係者のあいだでは詳細不詳とされてきた。

それが【『平野富二伝』刊行 おつかれさま会】(平野家主催、新橋亭シンキョウテイ、2014年02月02日)に参集された平野信子氏(平野富二曾孫長男、平野文庫主宰者、故・平野義政氏夫人)からご説明をいただいた。それを記録されていた古谷昌二氏から@メールで情報をお知らせいただいたのでご紹介したい。

「掃苔会」は、多分に「書かれた字、彫られた字」の字学研究からはじまった。そして次第に明治期からの歴史研究にあゆみを進めてきたものである。したがっていまや「掃苔会」会員にとっては、墓地と墓標は、雄弁でありながら、さらにあらたな謎もうむことがしばしばある。
ここに古谷昌二氏からの@メール解説を紹介したい[2014年03月12日補記]。

山下寿衛子刀自の墓標について「詳細不詳」とありますが、先に平野家で開催していただいた「おつかれさま会」で、平野信子様から、この人は平野こまの母親[平野富二の義母]で、[故平野義政家の]仏壇に、[山下家]ご両親の位牌が祀ってある、とのことでした。
没年と年齢から計算すると、山下寿衛子さんは文政10年[1827]の生まれで、25歳のときに、こまさんが生まれたことになります。通説では平野こまは、安田清次・むら夫妻の長女とされていますが、[山下姓の]父母が別にいたことになります。
家紋の調査といい、今回の山下寿衛子刀自の問題にしろ、研究に終わりは無いようです。機会があればお位牌を拝見し、裏面にも表記がないかどうかを含めて調査したいものです。

平野富二と活字*12 平野富二夫妻の一対アルバムにみる妻こまのこと

_MG_0422uu_MG_0421uu修整富二修整古ま夫人アルバム 《あまりに資料がすくない、平野富二の妻・こまのこと》
もともと平野富二に関する資料がまことにすくなかったのだから、その妻・平野こまに関しては、ほんの点描のような記録しかなかった。それを古谷昌二氏が丹念に資料を掘りおこして『平野富二伝』にまとめられた。
平野富二の夫人、こまは、
「長崎丸山町に居住する安田清次・むら夫妻の長女こま(戸籍上は「古末」の変体仮名[ひら仮名異体字]で表記)[古ま・コマ・駒子ともする]で、嘉永五年(一八五二)一一月二二日生れ、富二とは六歳違いであることはわかっているが、結婚した時期については明らかになっていない」
と古谷昌二『平野富二伝』に紹介された。

《平野富二と平野こま夫妻の写真の補整》
これまで平野こま夫人の遺影は、三谷幸吉『本木昌造 平野富二 詳伝』に、ちんまりとした座像として、不鮮明でちいさな写真が紹介されてきただけである。
今般の『平野富二伝』(古谷昌二)刊行記念展示・講演会に際して、平野富二夫妻の遺影が、一対のアルバムにまとめられた写真が披露された。上段のガラスケース奥の列、左から二番目で公開した。

ふるいアルバム台紙には「A Morikawa  TOKYO」とある。
左側の平野富二の遺影は、1890年(明治23)ころにふたりの愛娘と撮影した下掲写真から、上半身だけをトリミングして、加工したものとみられる。
右側のこま夫人は、髪がすっかり白髪になっているが、しっかりとした躰躯で、芯のつよい女性だったとみられる風貌である。また当時もまだ一部で信じられていた、
「写真を撮られると、指先から魂がぬきとられる(魂が指先から抜け出てゆく)」
とする俚言を信じていたものか、たもとに両手をかくして撮影されている。おそらく夫富二の逝去後、明治後半に撮影したものとみられる。
平野富二と娘たち

もともと平野富二もあまり写真は好きではなかったようで、石川島平野造船所における進水式や竣工式での集合写真(当然平野自身は豆粒のようなおおきさでしかない)のほかには、これまで紹介してきた平野家に伝承されてきた三点の写真以外は発見されていない。
『平野富二伝』(古谷昌二)刊行記念展示・講演会では、平野家に継承されてきた貴重な一次資料を公開した。しかしながら明治初期のふるい資料がおおく、また関東大震災の業火に際して、これらの資料のほとんどが土蔵に収蔵されていたために、焼失はまぬがれたものの、資料がムレがひどく、一部資料はガラスケースに収納して展覧した。また、フラッシュ撮影などによる劣化防止のために、残念ながら会場での写真撮影をお断りした。

とりわけ、この平野富二夫妻の写真は、銀塩の経時変化(劣化)がはげしく、このままでは画像としての有効性を失いかねないとみられた。そこで平野家のご意向をうけて、過剰な解釈はしないように注意しながら、適度な補整をくわえたものをここに紹介した。オリジナルプリントはできるだけ空気を遮断して保存することとした。
────────
『平野富二伝』(古谷昌二 朗文堂 p.745)
補遺5 家族との写真
明治二三年(一八九〇)頃に撮ったと見られる平野富二と二人の娘の写真が平野家に残されている。これを図17-17[上掲写真]に示す。 数少ない平野富二の写真の中で、家族と一緒に写した写真はこれが唯一と見られる。

平野富二は、先年発病して病床に就き、その後、事業整理により仕事から暫らく離れて摂生し、漸くこの頃、小康を得た。その記念として娘に宝石を嵌め込んだ指輪を買ってやり、記念写真を撮ったものと見られる。 この[明治二三年(一八九〇)]年に撮ったとすると、平野富二は満四十四歳、上の娘津類は満十五歳、下の娘幾美は満九歳となる。
平野富二は、第一二章に掲載した図12-14[p.532]の肖像写真と比較すると、摂生に努めたためか、頬肉は引締まり、身体も肥満から脱却して上着とズボンがややダブダブに見える。カメラを意識しながら目線をそらしている。半身を少し右にそらしていることから、まだ身体が不自由だったのではないかと見られる。
上の娘津類は髷を結った姿で、やや下に目をそらし、指輪を嵌めた右手を目立つようにして膝のうえに載せている。
下の娘幾美は頭に髪飾りを着け、恐れ気も無くカメラに向って眼を据え、指輪を嵌めた左手をさらし、右手は袖にかくしている。
三人の眼の遣り場が違うのは、それぞれの時代を反映しているものと見られ、興味深い。
後年に撮ったとみられる古ま(駒)夫人の写真を図17-18に示す。白髪ではあるが、いまだ矍鑠として、芯の強い女性であったことをうかがわせる。

 《平野家一門から提示された平野富二夫妻の位牌》
また、今般のイベントを契機に、平野富二嫡曾孫の長男、故平野義政(平野文庫主宰者、1932-93)家に継承されていた、家祖:平野富二夫妻の位牌が関係者に披露された(撮影:平野健二氏)。
この位牌は、平野富二夫妻の逝去後、平野津類によって発願されたものとみられ、黒漆に金泥をほどこした格調のたかいものである。
ところが、ここでまたいくつかの課題が発生した。

まず正面上部の家紋である。これまで平野一門の家紋は、谷中霊園内の平野家塋域エイイキの墓石、水盤などにみる家紋、三谷幸吉『本木昌造 平野富二 詳伝』の装本部にみる図版などにそれぞれ相違がみられて、「丸に違い鷹の羽紋」、「六つ矢車紋」、「丸入り六つ矢車紋」、「出抜き六つ矢車紋」などの諸見解があった。
ところがこの位牌にみる家紋は「丸に違い鷹の羽紋」である。
平野富二は生家の矢次家をでて、平野家を再興して別家をたてたひとである。また平野富二自身は家紋などに頓着しない性格だったかったかもしれないが、この平野家家紋に関しての調査を継続して、古谷昌二氏が中心となっておこなうことをお願いした。
平野富二夫妻位牌表3uu平野富二夫妻位牌裏uu

基本 CMYK 基本 CMYK 三谷幸吉『本木昌造 平野富二 詳伝』の装本部にみる図版。三谷は函、表紙などに上図の家紋を紹介し、表紙の箔押しには、平野家家紋とあわせて、下図のように、本木昌造の私製の家紋とされる、俗称「まる も 」紋を重ね合わせた「デザイン」をもって本木昌造、平野富二の両者を紹介している。
三谷幸吉『本木昌造 平野富二 詳伝』の刊行に際しては、平野鶴類、平野義太郎の両者が物心共に最大の支援をしており、その関連記録として「三谷幸吉関連寄贈先名簿」「図書館寄贈先名簿」などが平野家に現存している。したがって平野津類、義太郎はこれらの図版を見ていたはずで、父祖の位牌にみる「丸に違い鷹の羽紋」との相違にどのような対処をしたのか興味のあるところである。

位牌の表面は、
「 修善院廣徳雪江居士 ── 平野富二法名
興善院明勤貞徳大姉 ── 平野こま法名 」
位牌の裏面は、
「 故平野富二
弘化三年八月十四日生
明治二十五年十二月三日卒
故平野駒子
嘉永五年十一月二二日生
大正元年十二月二一日卒 」
とある。
この記録は、戸籍とも、これまで記録されてきた諸資料とも齟齬はない。ここでのふたりの生年は、和暦(旧暦)で表示されているとおもわれるが、これを西暦(新暦)になおすと、こま夫人の生年月日ですこしく困ることが発生する。
「 故平野富二
一八四六年一〇月〇四日生
一八九二年一二月〇三日卒
故平野駒子
一八五二年〇一月〇一日生
一九一二年一二月二一日卒 」
となる【試験データ: CASIO こよみの計算】。

すなわち嘉永五年とは、ふつうは西暦一八五一年とされる。筆者もこれまでそのように表記してきた。しかし厳密に計算すると、平野こまの生年月日とされてきた「嘉永五年十一月二二日」とは、西暦では年がかわって、それもあらたまの新年元旦の「一八五二年〇一月〇一日うまれ」となる。
この和暦(旧暦)をまたいでいきたひとの記録には、和暦(旧暦)と、西暦(新暦)の混用があったりして悩ましいが、平野こまの記録に関しては、これまでどおり、筆者は「1851年(嘉永5)10月4日うまれ」とさせていただくことにした。

平野こま(古ま・コマ・駒子とも)は1851年(嘉永5)11月22日-1911年(大正元)12月21日をいきた。
────────
『平野富二伝』(古谷昌二 朗文堂 p.144
平野富二の結婚
[平野富二の結婚の]相手は、長崎丸山町に居住する安田清次・むら夫妻の長女こま(戸籍上は「古末」の変体仮名で表記)で、嘉永五年(一八五二)一一月二二日生れ、富二とは六歳違いであることはわかっているが、結婚した時期については明らかになっていない。

しかし、「矢次事歴」[平野富二の生家・矢次ヤツグ家の歴史をつづった記録]の記録によると、明治五年(一八七二)一〇月七日付けで町方に提出した矢次家(温威とその家族)の事歴の中には、平野富二の名前はなく、その後に作成された別の記録に「明治五未年温威弟平野富治外浦町ヘ分家シ平野家ヲ立ル妻おこま」とある。

谷中霊園平野家塋域にある、夭逝した長女・ことの墓。ほぼ正方形のちいさなもので、妙清古登童尼とだけ刻されている。

谷中霊園平野家塋域にある、夭逝した長女・ことの墓。ほぼ正方形のちいさなもので、妙清古登童尼とだけ刻されている。

また、三谷幸吉『本木昌造平野富二詳伝』の【補遺】(一二三ページ)に、長女こと[古登トモ]が明治八年(一八七五)七月に三歳で病死したとあり、このことから、明治五年(一八七二)中に長女が出生していたことが分かる。
なお、長女ことについては[当時は戸籍法がまだ未整備なために]平野富二の戸籍上には記載がないので、出生の月日までは確認できない。

以上のことから、平野富二の結婚は、明治四年(一八七一)の年末から明治五年(一八七二)二月の新戸籍届出までの間と見ることができる。

『平野富二伝』(古谷昌二 朗文堂 p.792
本木昌造と平野こま(古ま)夫人との間の逸話
平野富二夫妻が長崎から東京への移転に際して、本木昌造とこま(駒子)夫人との間の逸話が、三谷幸吉『本木昌造平野富二詳伝』(一二三ページ)に紹介されている。

平野先生が長崎を發足せらるゝに際し、本木先生は平野先生の夫人駒子さんを招かれて、先生御自身が着て居られた縞シマの着物を切り裂いて財布をつくり、當時、本木先生は非常に窮乏して居られたにも拘らず、何所で何う工面せられたか、其の財布に身を裂く如き金貮拾圓を入れて夫人の小遣銭として渡された。
夫人は、本木昌造先生の内情を餘り良く知って居られる関係上、非常に固辞されたのであった。が、しかし夫人は強いて言はれるまゝに、それを受けられたのであったが、其の金は決して小遣銭等に使ふべきものでないと、大切にし、東京に上られてからも肌身を離さぬ位にして居られた。

果せる哉、上京以来、活字製造の資金難が忽ち襲来して、夫人が受けられた餞別金貮拾圓也も其の儘、その資金に放り出して仕舞はざるを得なかった。しかし本木昌造先生より受けられた記念の縞の財布は、これを永らく平野家に保存して置かれて、大正十二年(1923)までいたったが、惜しむらくは、大正十二年の大震災は、この貴重の記念品をも烏有に帰して仕舞ったとのことである。
十五両   浅五郎渡

    五 両   吉田    渡  
以上は平野先生自筆の「金銀銭出納帳」(平野家所蔵)[現在は発見されていない]に明記してある興味ある事柄である。──編者[三谷幸吉]

『平野富二伝』(古谷昌二 朗文堂 p.145)
補遺7 平野(旧姓佐藤)龍亮との出会い

明治二五年(一八九二)の或る時、平野富二は仙台から上京して苦学している佐藤龍亮と知合い、好感の持てる好青年であったので、平野の姓を与えて東京石川島造船所に入社させた。 

平野龍亮は、明治七年(一八七四)七月七日、仙台藩士佐藤文弥の四男として仙台に生れた。明治二三年(一八九〇)、数え年十七歳のとき東京に出て、牛乳配達や新聞配達などをして苦学していたが、明治二五年(一八九二)、平野富二の面識を得、好まれてその養子となり、東京石川島造船所に入社した。平野富二には、後継ぎで二女の津類(当年九月で満十七歳)がいたが、その伴侶にさせる意志があったものと推察される。
しかし、平野富二はその年の一二月に突然死亡してしまった。津類とはどの程度の接触があったか分からないが、翌年、津留は青森県出身でカリフォルニア大学卒業の建築技師堺勇造を入婿として迎えた。 

明治二七年(一八九四)、平野龍亮は東京石川島造船所を離れ、海軍の募集に応じて機関兵となった。その頃、海軍ではイギリスの造船所で建造していた軍艦「富士」の回航員選定が行なわれ、選抜されてイギリスに赴き、一年半ばかりで帰国した。
明治三一年(一八九八)、軍籍満期となり、機械学を研究するためアメリカに渡ったが、間もなく修業のため一船員となって船中労働を経験しようとイギリス行きの貨物船に乗り込んだ。明治三二年(一八九九)、イギリスに到着し、ヴィッカース造船所に入ったが、余りに熱心なため日本の軍事密偵と見誤られて退社した。その後、ヤルロー、テームズ、アームストロング等の各造船所に勤務し、明治三五年(一九〇二)春、帰国した。

[平野龍亮は]同年一一月二七日に東京谷中で行なわれた「平野富二君碑」の建立記念式典に列席している(二〇-四の補遺8を参照)。
明治三八年(一九〇五)六月、京橋区月島東仲通八―二に平野鉄工所を開設し、船舶用諸機械、陸用機械、ボイラー、ポンプなどの製造を開始した。明治三九年(一九〇六)六月、平野富二の妻こまを養母として入家・入籍させ、京橋区新湊町五丁目一番地に分家させた。明治四四年(一九一一)一二月、平野こまの死亡により平野家から廃家され、平野姓のまま独立した。

その後の[平野龍亮の]動向については不明であるが、昭和一五年(一九四〇)に発行された『図説日本蒸汽工業発達史』に、平野龍亮氏所蔵の「石川島造船所製作品写真帳」からとされる、石川島造船所の初期の写真が抜粋掲載されている。
なお、平野龍亮は、富士九合名会社の代表社員である富士田九平の六女と結婚した。〈以上、『日本百工場』、『明治人名辞典』〉

朗文堂好日録-035 王のローマン体活字 ローマン・ドゥ・ロワの紹介

フランス王立印刷所 フランス国立印刷所シンボルロゴ フランス国立印刷所カード フランス国立印刷所 新ロゴ

《火の精霊サラマンダーとフランス国立印刷所》
朗文堂ニュースアダナ・プレス倶楽部ニュースの双方で、「火の精霊サラマンダーとフランス国立印刷所」の奇妙な歴史を紹介してきた。それに際してフランス国立印刷所刊『Étude pour un caractère : Le Grandjean』の画像を YouTube に投稿して紹介してきた。

トラジショナル・ローマン体とされる、「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」に関する資料は、もともとフランス王立印刷所の専用書体であり、それだけに情報がすくなく、わが国ではほとんど紹介されてこなかった。
その「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」を紹介する、書物としての 『Étude pour un caractère : Le Grandjean』 は、おおきなサイズであり、銅版印刷、活字版印刷、箔押しを駆使した限定60部の貴重な資料である。しかしながら周辺資料に乏しく、厄介なフランス語であり、また大きすぎるがゆえにコピーもままならない。
すなわちいささかもてあまし気味である。そのためにできるだけ資料を公開し、もし「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」を研究テーマとされるかたがいらしたら、できるだけ便宜をはかりたいとかんがえている。

【画像紹介:YouTube 3:53  『Étude pour un caractère : Le Grandjean』】

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写真上) フランス国立印刷所では、いまなお活字父型彫刻術を継承しており、『Étude pour un caractère : Le Grandjean』完成披露にあわせて、展示資料として、おおきなサイズで、わかりやすく活字父型、活字母型、活字を紹介した。
写真中) フランス国立印刷所では『Étude pour un caractère : Le Grandjean』の刊行に際し、ジェームズ・モズレー James Mosley 氏に寄稿を依頼し、それを仏語と英語の活字組版によって印刷紹介している。この写真は、その寄稿文の組版の実際である。英語版から河野三男氏が日本訳をされたが、本書製作の裏話が多く、あまり参考にならなかった。日本語版テキストは保存しているのでご希望のかたには提供したい。

写真下) ジェームズ・モズレーの寄稿文を、活字版印刷機に組みつけた状態の写真。
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王のローマン体〔ローマン・ドゥ・ロワ Romains du Roi 1702〕と

活字父型彫刻士 フィリプ・グランジャン〔Phillippe GRANJEAN  1666-1714〕
                      〔取材・撮影・仏語翻訳協力:磯田敏雄氏〕

王のローマン体、「ローマン・ドゥ・ロワ  Romains du Roi ロァとも」と呼ばれる活字書体は、産業革命にわずかに先がけ、それまでの活字父型彫刻士という特殊技能士による視覚と手技だけに頼るのではなく、活字における「数値化」と、幾何学的構成による「規格化」をめざしてフランスで製作された。
それは後世、オールド・ローマン体からモダン・ローマン体へと移行する時期の活字、すなわち「過渡期の活字書体  トラジショナル・ローマン体 Transitional typeface, Transitional roman」とされた。

ローマン・ドゥ・ロワの誕生には、16-18世紀フランスの複雑な社会構造が背景にあった。1517年、マルティン・ルターによる『95箇条論題 独: 95 Thesen』に端を発した宗教改革の嵐は、またたくまに16世紀の全欧州にひろがった。やがてカソリック勢力からは、新興勢力のプロテスタントを押さえ込もうとする巻きかえしがはじまった。
フランスでも拡張するプロテスタント勢力を排除・抑圧するためのさまざまな対策が講じられた。そのはじめは、フランス王ルイ13世(Louis XIII、1601-43)の治世下で、枢機卿リシュリュー公爵(Armand Jean du Plessis, cardinal et duc de Richelieu, 1585-1642)が、1640年ルーブル宮殿内にフランス王立印刷所Imprimerie Ryyal を創設したことである。
その目的は、国家の栄光を讃え、カトリック教をひろめ、文芸を発展させることにあった。一方でリシュリューは文化政策にも力を注ぎ、1635年に「フランス語の純化」を目標とする「アカデミー・フランセーズ l’Académie française」を創設した。

アカデミー・フランセーズの主要な任務として、フランス語の規範を提示するための国語辞典『アカデミー・フランセーゼ(フランス語辞典) Dictionnaire de l’Académie française』の編集・発行があった。その初版はアカデミーの発足後60年の歳月を費やして完成し、1694年、次代のフランス国王ルイ14世に献じられた。同書は初版以後もしばしば改訂され、現在は1986年からはじまる第9版の編纂作業中にあるとされる。

ルイ13世の継承者フランス王ルイ14世(Louis XIV、1638-1715)はブルボン朝第3代のフランス国王(在位:1643-1715)で、ブルボン朝最盛期の王として、またフランス史上でも最長の72年におよぶ治世から「太陽王Roi-Soleil」とも呼ばれた。
1692年、ルイ14世はアカデミー・フランセーズに、「フランス王立印刷所 Imprimerie Ryyal」の独占的な活字資産として、あたらしい活字書体の製作を命じた。アカデミー・フランセーゼはただちに小委員会を結成してあたらしい活字書体の検討に着手した。
ジェームズ・モズレーによるとこの委員会の構成員は、ジル・フィユ・デ・ビレ(Gilles Filleau des Billettes  59歳の科学者)、セバスチャン・トルシェ(Sebastien Truchet  37歳の数学者)、ジャック・ジョージョン(Jacques Jaugeon  38歳の神父にして数学教育者)、ジャンポール・ビニヨン(Jean-Paul Bignon  32歳の教育者)であった。

メンバーは学識はゆたかだったが、必ずしも印刷と活字の専門家とはいえなかった。かれらは手分けして、
「われわれはすべての事柄を保存する必要がある。まず技芸からはじめる。すなわち印刷術の保存である」(『王立アカデミーの歴史 Historie de l’Academie royale des Sciences』)として、印刷所・活字鋳造所・活字父型彫刻士・製紙業者・製本業者などの工場をおとづれて、取材をかさねたり、わずかな印刷と活字製造関連の既刊書を読んでいた。数学教育者のジャック・ジョージョンは、
「消え失せた言語と、生きている言語など、あらゆる言語のキャラクターを集めた。また天文学・科学・代数学・音楽など、ある種の知識にだけ必要な、特殊キャラクターを集めていた」

結局アカデミー・フランセーズは、小委員会のほかにニコラ・ジョージョン Nicolas Jaugeon を中心に、あらたな技術委員会を結成して、現実的な活字書体の研究に着手することとなった。ジョージョンの意図はアカデミーの意向を受けて、活字における徹底した「数値化」と、幾何学的構成による「規格化」にあるとした。
ジョージョンを中心とした技術委員の3名は、視覚と経験にもとづく彫刻刀にかえて、定規とコンパスをもちいて、精緻な活字原図を書きおこした。そしてその活字原図は、アカデミーのたれもが理解できるように、大きなサイズの銅版に彫刻され、少部数が銅版印刷された。銅版彫刻師はルイ・シモノーであった。
このあたらしい活字書体は、この段階で「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」の名称をあたえられた。
しかしこの銅版印刷物からは、書体の「鑑賞と観察」はできても、実際の活字として完成するまでには、もう少しの、そしておおきな努力が必要だった。
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フィリップ・グランジャン(Philippe Grandjean 1666–1714)は、若い頃から活字鋳造と活版印刷に関心をいだいて、パリにでてきていた。
ルイ14世にグランジャンの活字父型彫刻士としての能力を推薦したのはルイ・ポンチャートレイン(Louis Pontchartarain  1643-1727)とされる。その卓越した技倆は「フランス王立印刷所 Imprimerie Ryyal」のディレクター、ジャン・アニゾン Jean Anisson も認めるところとなった。

グランジャンはアカデミーの命をうけて「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」の活字父型彫刻に、1694-1702年の8年余にわたって集中した。最終的には「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」は、21のサイズの、アップライト・ローマン体とイタリック体が完成した。
しかしながらその事業はグランジャン一代で終わることはなく、アシスタントだったジャン・アレキサンダー Jean Alexandre と、さらに後継者のルイス・ルース Louis Luce に継承されて完成をみた。

グランジャンをはじめとする活字父型彫刻士は、アカデミーから提示された「王のローマン体 ローマン・デュ・ロワ」の原図を「参考」にはした。したがっていくつかのキャラクターのフォルムは、たしかに原図にもとづいているし、セリフは細身で、水平線がめだつという特徴は維持されている。
またイタリックの傾斜角度は均一に揃っていて、それまでのオールドスタイルのイタリックとは組版表情を異とする。

あらためて『Étude pour un caractère : Le Grandjean』に再現された、銅版印刷による原図をみると、ヘアライン(極細の線)や、ブラケットの無い細いセリフ──それだけに脆弱であった──は、当時の印刷法や紙の性質(この時代の用紙は当然手漉き紙であり、堅くて厚さが均一でなく、また印刷にあたっては十分に濡らしてから印刷していた)や、手引き印刷機によるよわい印圧、インキの練度では紙面上に再現できないとして、活字父型彫刻士としての矜持をもって、随所に「解釈」を加えていた。

「ローマン・ドゥ・ロワ」は、きたるべき産業革命時代を前にして、グランジョンらは、すぐれて人と関わりのふかい活字のすべてを、科学という人智をもって制御するより、視覚に馴致したみずからの経験と、ながらく継承されてきた技芸を優先させていたことがわかる活字書体である。
すなわちモダン・ローマン体と呼ばれる一連の活字書風が誕生するためには、まだ印刷術および周辺技術そのものが未成熟であった。それがして「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」は、「過渡期の活字書体、過渡期のローマン体  Transitional typeface, Transitional roman」とされたのである。

「王のローマン体 ローマン・デュ・ロワ」には、フランス国王ルイ14世と「フランス王立印刷所 Imprimerie Ryyal」の権威を保証するメルクマール(サイン)が付与されている。それはフランス王ルイ14世 Louis XIVのイニシャル、小文字の「l エル」の左側面のちいさな突起である。この突起の有無が、真正「ローマン・ドゥ・ロワ」の品格を保証した。

「王のローマン体 ローマン・デュ・ロワ」は法による保護のもとに、フランス王立印刷所、そして現代ではフランス国立印刷所における、誇るべき占有書体としての地位をゆるぎなく保持している。
それでも18世紀から、このあたらしい活字書体は、「l エル」の突起部の有無をふくめて、多くの影響と同時に、摸倣書体をうんできた。なかんずく ピエール・シモン・フルニエ P.S.Fournier と、フランコ・アンンブロース・ディド P.F.Didot  らのフランスの活字鋳造者であった。
かれらの活字書体は、ひろく民衆のあいだに流布して「過渡期のローマン体 Transitional roman」と呼ばれている。時代はやがてモダン・ローマン体の開花をみることとなった。

そして、活字設計にあたって、数値化と規格化をもとめて、キャラクターを48×48の格子枠に分割する ── すなわち 2,304  のグリッドをもうけて書体設計をするという「ローマン・ドゥ・ロワ」の基本構想は、良かれ悪しかれ、モダーン・ローマンの開発はもとより、こんにちの電子活字(デジタルタイプ)の設計にまでおおきな影響をおよぼしている。

◎ 参考資料:

Type designers : a biographical deirectory,  Ron Eason, Sarema Press, 1991  
Studies for a Type,  James Mosley ── 本書の解説文:翻訳協力/河野三男氏

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平野富二と活字*11 『平野富二伝』刊行記念 展示・講演会-平野富二没後120年、平野活版製造所(東京築地活版製造所)設立140年、石川島造船所創業160年

平野表紙uu 明治産業近代化のパイオニア
『平野富二伝 考察と補遺』
古谷昌二 編著
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発行:朗 文 堂
A4判 ソフトカバー 864ページ
図版多数
定価:12,000円[税別]
発売:2013年11月22日
ISBN978-4-947613-88-2 C1023 

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『平野展』ポスターs明治産業近代化のパイオニア
『平野富二伝』 考察と補遺  古谷昌二編著
刊行記念 展示・講演会
─────────
日 時 : 2013年11月30日[土]-12月01日[日]
      11月30日[土] 展示 観覧  10:00-16:30
                    著者講演会 14:00-16:00
             12月01日[日] 展示 観覧    10:00-15:00
                    掃 苔 会       10:00-12:00
      編著者・古谷昌二氏を囲んでの懇話会、サイン会は、会期中随時開催
会 場 : 日展会館
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主 催 : 平 野 家
協 力 : 朗 文 堂
後 援 : 理想社/タイポグラフィ学会/アダナ・プレス倶楽部

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明治産業近代化のパイオニア 平野富二  遺影三点紹介平野富二 東京築地活版製造所初号明朝体
1846年(弘化3)8月14日-1892年(明治24)12月3日 行年47
「平野富二」の名は、東京築地活版製造所 明朝体初号活字をもとに書きおこした 

平野富二武士装束 平野富二 平野富二と娘たち


《『平野富二伝』刊行記念 展示・講演会に際し、主催者/平野家ご挨拶 および 親族の紹介》
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 2013年11月30日[土]、古谷昌二氏の講演に先だって、主催者/平野家を代表して、平野富二曾孫・平野義和氏よりご挨拶があった。つづいて平野富二玄孫・平野正一氏より、ご一族と、ご親族の紹介があった。おりしも数日後の12月03日には、「平野富二没後121年」の記念の日を迎えるときであった。
10年前に開催した《平野富二 没後110年祭 》のおりは、あいにくの小雪まじりの寒い日であったが、今回は晴天に恵まれ、多くのご親族と、聴衆の皆さまをお迎えして、会場ははなやいだ雰囲気につつまれた。

写真は上より
◎ 平野家代表  平野義和氏(平野富二曾孫四男:七福会社社長) ご挨拶
◎ 平野家代表  平野正一氏(平野富二玄孫長男) ご挨拶ならびにご親族紹介
◎ 平野家代表  平野克明氏(平野富二曾孫次男:静岡大学名誉教授)
◎ 平野家代表  平野健二氏(平野富二玄孫次男)と、平野家一族のご夫人とお子様たち
◎ 山口家代表  山口景通氏およびご親族(平野家外戚。平野富二の三女:山口幾み様のご後継者)
◎ 矢次家代表  矢次めぐみ氏およびそのご家族(平野富二の生家:矢次重平様のご後継者)

 《古谷昌二氏 『平野富二伝』  刊行記念講演会》
いよいよ『平野富二伝』の編著者:古谷昌二氏による記念講演がはじまった。
講演は途中休憩をはさんで2時間におよぶ長時間であったが、明治産業の近代化と、それをなした先駆者のひとり、平野富二に関して、平易に、諄諄と説かれ、意義深い講演であった。
四半世紀ほどにおよぶ古谷昌二氏のねばりづよいご研鑽によっって、ようやく霧のかなたに霞み、歴史に埋没するおそれすらあった平野富二の実像が、ここに現出したおもいがした。


今回は、日展会館二階全室のすべてを拝借して、ゆったりとした記念展示をこころがけた。
展示品はおもに、一般にははじめて公開される、平野家に継承された貴重な一次資料であった。それらのすべては『平野富二伝』に詳細に紹介されているので、ぜひご購読をいただきたい。

また後援にあたられた「タイポグラフィ学会」では、平野富二賞をもうけて、すぐれた功績をのこしたタイポグラファを顕彰している。
その関連資料と、これまでの受賞者:吉田市郎氏、森澤嘉昭氏、大日本印刷株式会社秀英体開発室の関連資料なども展示された。

「タイポグラフィ学会 ───── 平野富二賞は、タイポグラフィの普及発展に著しく功績のあった個人及び団体に対するもので、その対象者は社会へのタイポグラフィの認識を高める行動及び啓蒙などにおいて、その事績が本学会にとどまらず、広く社会に貢献していると認められるものです」

アダナ・プレス倶楽部は、池原奞・池原香穉による、いわゆる「和様三号活字」をもちいて、平野富二の短歌を組版し、ご来場者ご自身での印刷体験をしていただき、ご来場記念品とした。
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記念講演終了後も、会場は熱い熱気につつまれて、あちこちで議論と情報交換と談笑の輪ができていた。
今回は主会場:日展会館でのイベントを、写真資料をもってご紹介した。
展示資料のほとんどは『平野富二伝』に紹介されているが、今回の催事にあたって、あらたに発見された資料もある。
谷中霊園での「掃苔会」の模様をふくめて、さらに本タイポグラフィ・ブルグロール花筏でご紹介したい。

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活字:『BOOK OF SPECIMENS』 活版製造所 平野富二 明治10年版(平野ホール所蔵)復元活字
「世の中を 空吹く風に 任せおき  事を成す身は 國と身のため」

_MG_0495uu _MG_0490uu _MG_0489uu 『平野富二伝』著者・古谷昌二氏と実兄・古谷圭一氏 DSCN1499uu

平野富二と活字*10 渺渺たる大海原へ-長崎港と平野富二の夢、そして注目してほしい出版人・安中半三郎のこと

新タイトル1
平野富二ボート用吊り装置平野富二ボート吊築造願
《平野富二自筆文書幷概念図——ボート釣築造願》 

    古谷昌二『平野富二伝』第10章-7 明治16年(1883)におけるその他の事績 p.440-441
上図) ボート釣装置概念図
本図は、下掲の平野富二自筆文書「ボート釣築造願」に添付されたボート釣装置の概念図である。 築地川の石段から二十間離れた岩壁に、長さ五尺のアーム二本を三間の間隔で川に向かって延ばし、小形ボートを吊り上げるもので、船上でのボート吊下装置を応用したものであることが分る。

下図) 平野富二所有のボート用釣装置設置願書
1883年(明治16)2月8日、平野富二は、築地活版製造所の前を流れる築地川の河岸石垣に、自分所有のボート用として、釣装置を設置する願書を同日付で東京府に提出した。
平野富二は、自宅と、活字製造部門と活版印刷関連機器製造部門「東京築地活版製造所」のある築地から、築地川を下って、石川島までの間を、ボートを利用して往復していたことが伺われる資料である。本文書は、東京都公文書館に所蔵されている平野富二自筆の願書である。  

「   ボート釣築造願
                   京橋區築地弐丁目
                     拾四番地平民
                                                            平野富二
右奉願候私所有之ボート壱艘同所拾七番地前川岸江繋留仕度就テハ別紙圖面之通 ボート釣河岸ヨリ突出製造仕度奉存候間何卒御許可被成下度尤右場所御入用之節何時モ取除元之如ク私費ヲ以取繕可申候此  段圖面相添奉願候也  但川中ヘ五尺出張リ候事
                                                 右
   明治十六年二月十八日         平野富二 印
   東京府知事芳川顕正殿  前書出願ニ付奥印候也
                                    東京府京橋區長池田徳潤印           」
 東京府は、警視庁に照会の上、撤去の際には元形の通り修復することを条件として許可している。

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明治36年版『活版見本』(東京築地活版製造所)口絵にみる銅版画を原版とした社屋一覧。
平野家はこの1903年(明治36)のとき、すでにあるじ富二を失っていたが、長女・津類ツルを中心に、この図向かって左手奥にあった平野家に、関東大震災で罹災するまで居住していた。
手前の築地川は水量がゆたかで、そこに下掲写真では小舟を移動して撮影したものと想像されるが、この銅版画には象徴的に、一隻の小舟が繋留されて描かれている。しかしすでに平野富二は逝去しており、吊り上げ装置らしきものはみられない。

M7,M37社屋

平野富二はまた、1879年(明治12)5月22日この築地川の川端に、アカシアの苗木を自費で植え付けの願い書を東京府知事宛に出している。
『株式会社東京築地活版製造所紀要』(東京築地活版製造所、昭和4年10月)の口絵には、「明治37年ノ当社」とする写真があり、そこには前掲の銅版画では省略されたのかもしれないが、河岸にアカシア並木らしきものがみられる(『平野富二伝』古谷昌二、p.311-2)。銅版画に描かれた小舟は、手前の河岸にはみられるが、対岸には一隻もみられない。
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《港湾都市長崎でうまれた平野富二の原風景 —— 移動はもっぱら小型舟のサンパンだった》
ふるくいう —— 「三つ子の魂  百までも」。
平野富二(1846年(弘化3)8月14日-1892年(明治24)12月3日 行年47)は、三方を急峻な山なみで囲まれ、生いしげるあかるい照葉樹林の照り返しで、金波銀波が鮮やかに海面を彩る、長崎港湾にうまれた。
やがて長崎製鉄所に属し、船舶の機関士として学習と航海をかさね、渺渺ビョウビョウたる大海原オオウナバラに進出した。
平野富二は、この大海原につらなる、ふるさと長崎へのこだわりが、ひときわつよいひとであったとおもわれる。
そして、船をつくり、みずから操船し、あるいは乗船して、大海原での航海を好んでいたひとであったとおもうことがおおい。

この平野のおもいは終生かわることなく、ふるさと長崎をつねに意識していたのではないかとおもわせることがおおい。すなわち平野富二の記録に接するたびに、随所に長崎とのつよい関係がみられ、ハッとさせられることがしばしばある。
──────
平野富二数えて38歳、1883年(明治16)2月8日、ようやくその事業が一定の順調さをみたとき、自宅と、活字・活版印刷関連機器製造工場たる「東京、築地での、活版製造所」、すなわち「東京築地活版製造所」と、造船・重機械製造工場「石川島平野造船所」への往来に、ふるさと長崎で縦横に乗りまわしていたサンパン(舢板。小舟やはしけの中国風の呼び名)と同様な、小型舟艇(ボート)をもちいたかったのであろう。

その小型舟艇の繋留のために、みずからしたためた「許可申請書」が、上掲の図版と文書である。添付図版は、河岸の石積まで丁寧に描いたもので、技術者らしい、簡潔にして要を得た概念図である。
その原風景は、長崎港湾にひろがる、小菅修船所、飽の浦アクノウラの長崎製鉄所、立神船渠センンキョ、ドックを、縦横にサンパンで往来していた平野富二16-25歳のころとなにもかわらなかった。
古谷昌二『平野富二伝』からみてみよう。

    古谷昌二『平野富二伝』第1章 誕生から平野家再興まで p.2-5
1-1 少年時代
平野富二は、幼名を富次郎といい、長崎の出身。町司チョウジ矢次豊三郎ヤツグトヨサブロウの二男。母は旧姓を神邊カンベ、名前を美禰ミネと称した。1846年8月14日、長崎引地町ヒキヂマチにおいて生れた。
数え年三歳の時、病がちであった父を亡くして、三歳違いの兄和一郎(後に重之助、重平、温威と改名)と、父の死後に生れた妹ていと共に母の手で養育された。
数え年八歳の時から長崎在住の太田寿吉に就いて書道を習い、西原良介と仁木田豊蔵の二人から書読を学んだ。
1857年(安政4)10月、数え年12歳で長崎奉行所の隠密方御用所番オンミツガタ-ゴヨウショバンに任命され、一日おきに出勤した。休日は西原・仁木田の二人の師匠に就いて「論語」「孟子」「大学」「中庸」の四書と、「詩」「書」「易」「春秋」の四経、ならびに「日本外史」数巻の読文指導を受けた。 これが平野富二の学んだ基礎学問の概要である。
長崎古地図

◎ 嘉永三年当時の長崎市街図
   古谷昌二『平野富二伝』第1章 誕生から平野家再興まで p.5
本図は、長崎文錦堂から刊行された『肥前長崎図』(嘉永三年再板)の市街中心部分を示す。平野富二数えて5歳のころの幼年時代の長崎市街を示すものである。

図の中央右寄りの折目に沿って、石垣と濠に挟まれた縦に細長い道筋が、平野富二(矢次富次郎)の生地「引地町」と表示されている。それに平行して左隣りに「さくら町」(桜町)と「新町」があり、「さくら町」の「引地町」寄りに「牢や」(牢屋)がある。「新町」の「引地町」寄りに「長門」(長州)と「小くら」(小倉)と表示された一画が示されている。

図の下方にある扇形の島は「出島」で、その上部の石垣で囲まれた岬の先端部分に長崎奉行所西役所がある。そこから三本の道路が上方に通じており、右側二本が「ほか浦町」(外浦町)と二行で表示されている。外浦町は平野富二が結婚し、矢次家をでて別家平野家を再興した1872年(明治5)に居住していた。 

考察5 出生地
平野富二(富次郎)は、矢次ヤツグ家が代々居住していた長崎引地町ヒキヂマチで出生したと見られる。
平野家にある過去帳や、平野富二の京橋区除籍謄本には、出生地として外浦町ホカウラマチと記されているが、これは富二が東京に戸籍を移す直前に住んでいた住所を示したものと見られる。
「矢次事歴」によると、1872(明治5)に平野富二が分家し、妻を帯同して外浦町ホカウラマチに移転したとしている。引地町は、桜町サクラマチと新町シンマチの東側にある、石垣と濠ホリの間にある細長い町で、『長崎市史』地誌編 名勝舊蹟部によると、もとは桜町から東南に向って傾斜した荒蕪地コウブチで、戦国時代に桜町に濠を掘って貯水し、敵軍の襲来に備えたが、後に人口が増大して市街地を拡張する必要が生じたため、濠の一部を埋立て、土地を造成して住宅地とした。このことから引地町と名付けられたという。

桜町の造成された土地に牢屋ロウヤが置かれ、それと隣接する引地町に長崎奉行所付の町使チョウジ(町使は今の警官に相当するもので、帯刀を許されていた)の長屋があって、町使役14人が居住していた。なお、町使は、後に町司チョウジと表記されるようになった。
この引地町という町名は、現在、長崎市の町名から消えてしまっている。現在の町名では、興善町コウゼンマチと桜町の一部となっており、両町の東側(厳密には東南側)の細長い一帯が引地町であった。
明治初期には、桜町と新町(現在は興善町の一部)が小高い台地の上にあり、その台地の外縁に築かれた石垣に沿って道路があり、その道路に面して引地町の家並があった。家並の背後には濠が残され、俗称地獄川と呼ばれていた。この濠は、現在、その一部が埋立てられて道路となっている。

当時の町割りは、道路を中心とし、それに面した地区に町名が付けられた。 1871年(明治4)四年4月、新政府によって戸籍法が発令され、これに伴ない町村制の改革が行なわれて、全国的に大区・小区の制度が採用された。
『明治六年の「長崎新聞」』によると、長崎では1872年(明治5)2年2月から戸籍調査がはじめられた。
その時に定められた矢次家の住居表示は、「矢次事歴」によると、1874年(明治7)4月の時点で、第一大区四ノ小区引地町五十番地であった。1873年(明治6)11月、大区・小区の大幅な整理統合が順次行なわれ、その結果、1878年(明治11)9月の時点では、第一大区二ノ小区引地町二百十五番に表示が変更されている。
1878年(明治11)10月には、町村編成法が公布され、大区・小区制が廃止されて、長崎市街地一円は長崎区となった。
矢次家の住所地は、明治4年の町村制改変史料があれば、これに表示されていると見られる。調査すれば平野富二の出生地を現在の位置で確定できるかも知れない。

考察10  隠密方御用所番
この役職は、長崎奉行が直轄する番方バンガタに属し、今でいう警察の機能を持った部門で、町司に関連する職場であった。矢次家は初代から長崎の町司を勤めていたので、その関連業務に従事することになったものと見られる。
三谷幸吉『本木昌造 平野富二 詳伝』では、「隠密方オンミツカタ」という言葉を憚はばかってか、単に「御用所番」としているが、「隠密方」は忍者やスパイとして連想されるものとは違う。
長崎奉行所の隠密方は、長崎奉行から内命を受けて、不正の摘発や内密な調査を行い、上司に報告する役割で、平野富二の師である本木昌造も、一時期この役割を担っていた。
番方は、平時に長崎港内の水上警察業務や密貿易防止のための巡視などの海上保安業務を行っていた。役割業務からすると本来は武士が行うものであるが、長崎では奉行所で働く地役人が行った。番方の身分は町人であるが名字帯刀を許されていた。
富次郎の奉行所出勤の様子について、母美禰が富二の二女・津類ツルに語ったという口伝クデンが三谷幸吉『本木昌造 平野富二 詳伝』に紹介されている。

「奉行所への出勤は、用人清水国松に連れられて出役した。兄重之助も奉行所に出役していたが、その出役ぶりが悪く、何くれと言い訳をして出役しないことが多かった。ある日、富次郎が一人で急いで朝食をしていると、兄重之助が後からノソノソと起きてきて、弟でありながら漬物鉢の菜を先に箸をつけたと怒り、漬物鉢を庭に放り投げ、駄々をこねて奉行所を休んだことがある。弟の富次郎は、兄のその様な素振りには一向お構いなく、用人国松を供に連れて奉行所にさっさと出勤したという。当時、矢次家に居た三人の祖母は、その様な兄弟の日常の素振りを見て、矢次家の家禄は弟の富次郎が継ぐことになるだろう、と口癖の様に云って富次郎を誉めていた。しかし富次郎はこれを心好く思わず、僅かばかりの家禄など望まない、と言って、もっと大きな将来の望みを抱いていた」

この時、富次郎は数え年一二歳であったが、兄重之助は数え年二〇歳で町司抱入の役にあった。矢次家に居た三人の祖母とは、祖父茂三郎の妻のほかに、曽祖父和三郎の妻と、富次郎の母実禰の三人と見られる。この逸話は後年になって平野富二の娘・津類ツルによって語られたと見られ、津類にとっては富次郎の母も「おばあさま」であった。

長船よもやま話 ジャケット

三菱長崎造船所サンパン

『長船ナガセンよもやま話-創業150周年記念』
(長船150年史編纂委員会、三菱重工業株式会社長崎造船所 平成19年10月 p.88-89)

《長崎港とサンパンの歴史——『長船よもやま話』より》 
40  サンパンで飽の浦-立神を5分

      明治時代の所内交通はもっぱら舟でした。
1906年(明治39)1月に稲佐橋(木橋)が開通するまで、対岸方面への往来は小舟に頼るほかありませんでした。また、長崎港には内外の船の出入りが多かったので、碇泊した船と岸を結ぶため、多くの小舟が待機しており、なかでも大浦下り松(松ヶ枝町マツガエマチ)海岸はとくに多かったそうです。

このほか大波止オオハト、浪の平、浦上川などを合わせると、千隻セキ近い小舟が長崎港にあったそうです。
中国語では小舟やはしけをサンパン[舢板]と呼びますが、長崎でも通い舟のことをサンパンと呼んでいました[中略]。
このころ当所[三菱長崎造船所]の飽の浦-立神間の交通は舟でした。幹部社員などがいつでも乗れるように、海岸石段には常に何隻ものサンパンが待機していました。櫓を漕ぐ船夫も、明治30年代には100人以上が在籍して、交通係の指令が下ると、二丁櫓で、部長以上などは三丁櫓で飛ばし、立神まで4-5分もかからない速さでした[中略]。

1904年(明治37)に向島第一トンネルが開通し、立神まで歩いていけるようになり、さらに1914年(大正3)には飽の浦-立神間に定期貨物列車が運行、大正7年になると列車に客車が連結され、海上では自動艇5隻が配置されるなどで、構内のサンパンは姿を消したのです。

Nagasaki_vue_du_Mont_Inasa.jpg (7890×1012)写真) 稲佐山イナサヤマ展望台から眺めた長崎市の様子。 【ウィキペディア:長崎市より】
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平野富二は26歳までの多くをこの長崎の地で過ごした。1869年(明治2)明治新政府民部省の認可のもと、若き富次郎が総指揮にあたって掘削した「立神タテガミ造船所」をはじめ、隣接する「飽の浦アクノウラ製鉄所、長崎製鉄所」、対岸の「小菅船渠コスゲセンキョ、小菅修船所」なども描かれている。
長崎市街は、まちの北東部から注ぐ中島川と、北部から南下して長崎湾に注ぐ浦上川に沿ったほんの一部だけが平坦地で、三方の後背地は急峻な山にかこまれている。
東京に出てきてからも、気軽に築地と石川島を小型舟艇で往来していた、平野富二の生い立ちが偲ばれる地図である。
長崎

長崎◎  長崎縣内務部第二課編纂 『仮称:長崎港湾地図』(明治32年 西暦1899年2月)
長崎の版元/安中書店・安中半三郎が刊行した長崎市街地と港湾部の詳細な地図。
東京築地活版製造所(印刷者名:野村宗十郎)が銅版印刷した。上掲図はクリックすると拡大します。

長崎地名考 扉長崎地名考 付録
長崎地名考 刊記

《安中書店、虎與號商店、虎與號書店 —— 安中半三郎のこと》
安中書店・安中半三郎(やすなか-はんさぶろう いみな:東来 1853-1921 別屋号:虎與號トラヨゴウ商店、虎與號トラヨゴウ書店。旧在:長崎市酒屋町四十四番戸)は、版元:安中書店と虎與號を経営するかたわら、香月薫平、西道仙らとともに「長崎古文書出版会」を結成し、その成果が『長崎叢書』となって、やがて長崎県立図書館(長崎市立山1丁目1-51)の設立につらなった【リンク:長崎県立図書館沿革】。
また「長崎慈善会」を結成して「長崎盲唖院」を設け、この生徒13人から出発した授産教育機関は、いまは長崎県立盲学校【リンク:長崎県立盲学校沿革】として存在している。

ここには、長崎縣内務部第二課編纂 発行者 安中半三郎 『仮称:長崎港湾地図』(明治32年 西暦1899年2月)、『長崎地名考』(香月薫平著、発行者 安中半三郎、 安中書店蔵版、発行所 虎與號商店、明治26年11月11日)を紹介したが、ほかの刊行書もたくさんある。
いち民間人、それも出版人の動向によってつくられた施設が、公的な施設となって持続されることなどは、ありそうでないことである。またそれがながく語りつがれ、公式記録にも掲載されていることに驚く。
ようやく長崎学の関係者のあいだで、この注目すべき安中半三郎に関する研究が進捗しつつようである。おおいに期待して、その発表をまちたい。

それでもまだ安中半三郎に関する資料は乏しいようである。安中半三郎がもちいていた屋号「虎與號」は、現代表記では「虎与号」となる。また厄介だが、湯桶ユトウ読みで、「とらよごう TORAYO-GO」と呼んでいたことが、いくぶん不鮮明ではあるが、『長崎地名考』刊記に添付された出版社標からもわかる。
下にその拡大図を掲げた。

ORAYO-GO

安中半三郎は平野富二より6歳ほど年下であったとみられ、その交流はいまはわからない。それでも明治中期から末期にかけて、長崎出身の平野富二の後継者、東京築地活版製造所に依頼して、活字版印刷、銅版印刷、石版印刷などの先端印刷技術をもちいて、積極的に図書や地図や詩画集などを刊行していた。
『長崎地名考』の印刷は東京築地活版製造所で、平野の没後まもなくであるが、富二の没後も東京築地活版製造所は長崎との関係が深く、専務社長/曲田 茂が印刷者として刊記にしるされている。

平野富二と活字*09 巨大ドックをつくり船舶をつくりたい-平野富二24歳の夢の実現まで 

Web長崎立神ドック
長船よもやま話 ジャケット
長船よもやま話 本文

『長船ナガセンよもやま話-創業150周年記念』
(長船150年史編纂委員会、三菱重工業株式会社長崎造船所 平成19年10月)

三菱重工業株式会社長崎造船所、いかにも長い名前である。地元長崎では愛着をこめて、もっぱら同社を「長船ナガセン」と呼んでいるし、同社社内報のタイトルも『長船ニュース』である。本稿では「三菱長崎造船所」と呼ばせていただく。
「三菱長崎造船所」の淵源はふるく、1857年(安政4)10月10日をもって創業の日としている。その創業150周年記念として刊行されたのが『長船よもやま話』(2007年、平成19年)である。

「お堅い150年史も必要だけど、社員や家族も気軽に読める、絵本のような150年史はできないものか……」(同書編集後記より)とされて、三菱長崎造船所の「長船よもやま話編纂事務局」の皆さんの訪問をうけたのは2006年(平成18年)のことであった。
当時の筆者は「三菱長崎造船所」の創業とは、官営の造船所から施設を借用というかたちで、経営主体が郵便汽船三菱会社・岩崎弥太郎に移った1884年(明治17)のときと考えていたので、「創業150周年」のことには少少面喰らったが、どこの名門企業も、創業のときをできるだけ遠くにおきたいようで、それはそれで納得した。

三菱長崎造船所 史料館三菱長崎造船所 史料館全景。「長崎造船所史料館」(長崎市飽の浦町1-1。JR長崎駅からタクシーで15分ほど。観覧は無料だが予約が必要)。同館Websiteより。
この赤煉瓦の建物は1898年(明治31)7月、三菱合資会社三菱造船所に併設の「木型場」として建設されたもので、三菱重工業株式会社 (本社:東京都港区港南2-16-5)発祥の地、長崎造船所に現存する、もっとも古い建物である。
1945年(昭和20)8月の空襲における至近弾や、原子爆弾の爆風にも耐えて、100年余の風雪に磨かれた赤煉瓦は、わが国の近代工業の黎明期の歴史を偲ばせるのに十分な風格がある。

「長船よもやま話編纂事務局」の皆さんは、拙著『富二奔る』を精読されており、筆者も 長崎造船所史料館  をたずねたことがあったので話がはずんだ。それにあわせて『大阪印刷界 第32号 本木号』(大阪印刷界社 明治45年)、『本木昌造伝』(島屋政一)、明治24年『印刷雑誌 1-4号』などを前にして、本木昌造と平野富二の業績に関しての話がおおいにはずんだ。何点かの持ちあわせていた画像資料は、一部を平野家のご了承をいただいて提供した。

『長船ナガセンよもやま話-創業150周年記念』は、ふつうの社史とは幾分異なり、創業150周年にあわせて見開きページで完結する150章をもうけて、フルカラー印刷による。ページ構成は、軽妙なイラストと、多くの写真資料で、わかりやすく三菱長崎造船所の長い歴史が説かれている。
すなわち、「三菱長崎造船所」では、創業のことを、徳川幕府の艦船修理工場「長崎鎔鐵所ヨウテツショ」の建設着手のときとして、オランダ海軍機関士官ハルデスらによって、長崎飽の浦アクノウラに建設が開始された1857年(安政4)10月10日をもって創業記念日としている。

1 辛抱強かったハルデスさん
  150年前、飽の浦の沼地に、日本初の洋式工場を建設
1855年(安政2)現在の長崎県庁の位置に開設された長崎海軍伝習所では、オランダから贈られた練習艦「観光丸」で訓練していましたが、そのうち、船や機関に小さな故障が出はじめました。
そこで江戸幕府に艦船修理場の設置を願い出ましたが、とても対応がスローモー。そこで永井伝習所取締は、独断でオランダ側に工場建設のための技術者や、資材の手配を申し入れました。

1857年(安政4)オランダ政府は長崎海軍伝習所第2次教師団長カッテンディーケ以下、教官と技術者37名を派遣して、資材や機械類も長崎に到着しました。
カッテンディーケは主任技師のオランダ海軍機関士官ハルデスと工場建設地を探し、飽の浦アクノウラを適地に決めました。

奉行所の認可を得て、わが国最初の洋式工場建設に着工したのは、この1857年(安政4)10月10日でした。それは今を去ること150年前で、この日が当所の創業記念日であり、日本における重工業発祥の日でもあります。[中略]
ハルデスの努力により、工場はおよそ3年半後の1861年(文久元)3月に落成し、任務を終えたハルデスらは帰国しました。[後略]
『長船ナガセンよもやま話-創業150周年記念』(p.10-11)

立神ドック建碑1uu

立神ドック建碑2uu

写真) 三菱重工業株式会社長崎造船所 史料館提供

《三菱重工業長崎造船所にある立神ドック建碑由来の説明板》
現在の三菱長崎造船所は、飽の浦アクノウラと立神タテガミ地区を包摂した本工場、香焼コウヤギ工場、幸町サイワイマチ工場、諫早イサハヤ工場の4工場をおもな拠点として活動を展開している。
三菱長崎造船所本工場は、飽の浦地区に本社機能や病院がおかれているほかに、おもにタービン工場や機械工場として使用され、史料館もこの地区にある。

いっぽう、三菱長崎造船所本工場立神タテガミ地区は、平野富二による開削時代には、飽の浦地区とは、岬というか、山ひだ一枚を隔てて離れていた。
それは直線距離ではわずかとはいえ、山越えの道はきわめて不便で、もっぱら海路での往来しかできなかった。それを三菱長崎造船所がトンネルを掘り、拡幅して道路として、現在は飽の浦地区と直結されている。
立神には第1-第3ドックを備えた巨大な造船工場があり、ここでは30万トン級の巨大な船舶の建造も可能とされる[長崎造船所の沿革]。

平野が開削に着手した立神ドックは、拡張されて、いまなお立神第2ドックの首部をなして健在であり、そこに写真で紹介した『建碑由来』がはめ込まれている。
立神に本格的な洋式造船所が設けられた歴史はこのようにふるく、時局下にあっては対岸から見えないように巧妙に遮蔽物を置くなどして、秘密裡に戦艦武蔵が建造された。また最近では2002年に艤装中の豪華大型客船「ダイヤモンド・プリンセス」が火災をおこしたことなどでも知られている。

上掲写真は、三菱重工業長崎造船所本工場の、立神タテガミ通路の壁面に設置されている『建碑由来』説明板の写真である。この説明板の中央右寄りに「立神ドック略歴」とあり、それに続いて平野富二の事績がしるされている。
なお写真右上部に「明治十年竣功(工)」とあるが、一部に不具合があって、実際の竣工は下部の「立神ドック略歴」に記録されたとおり明治12年となった。

「立神ドック略歴  明治三年(一八七〇)長崎製鉄所長平野富二乾ドック築工を民部省に建議、許可となり着工。同四年(一八七一)一時工事中止。明治七年(一八七四)フランス人ワンサンフロランを雇入れ築工工事再開。 明治一二年(一八七九)工事完成。(長さ一四〇米、巾三一米、深さ一〇米 当時東洋一)   (後略)  昭和四三年(一九六八)三月   三菱重工業株式会社長崎造船所」

これに補足すると、
「慶応元年(1865)7月に立神軍艦打建所として用地造成が完了しましたが、当地における軍艦建造が取止めとなり、そのまま放置されていました。 明治2年(1869)になって、平野富二が民部省にドックの開設を建議し、民部省の認可がおりました。同年11月20日、平野富二が「ドック取建掛」に任命され、直ちに着工しました。しかし明治4年(1871)4月、長崎製鉄所が工部省の所轄となるに及んで、平野富二は長崎製鉄所を退職し、工事は中止されました」[『平野富二伝』古谷昌二]

平野富二(1846-91)は長崎出身で、活字と活版印刷関連機器製造「東京築地活版製造所」と、造船と重機械製造「石川島平野造船所」を設立したひとである。
残念ながら、東京築地活版製造所はよき後継者を得ずに、1938年(昭和13)に解散にいたったが、造船・機械製造「石川島平野造船所」は隆盛をみて、「石川島播磨重工業株式会社」となり、こんにちでは「株式会社 IHI」 として知られている。
株式会社 IHI と、三菱重工業とは、ともに官営造船所の払い下げからスタートした民間企業という歴史をもち、なおかつ、さまざまな分野で競合関係にある巨大企業である。

すなわち株式会社 IHI では、創業を水戸藩徳川斉昭が幕命によって、江戸・石川島の地に造船所を創設した1853年(嘉永6)年12月5日としており、同社はことし創業160周年を迎えている。
また設立の年はすこし複雑で、1876年(明治9)平野富二による「石川島平野造船所」の設立と、のちに渋澤榮一らの参加をえて、1889年(明治22)に会社法人「有限責任 石川島造船所」が設立された日の双方を設立の時としている。ただし公的には、同社が法人格を得た1889年(明治22)を設立の日としている。
IHI 会社概要 最下部] [IHI 沿革・あゆみ
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ここで、長崎の地におおきな造船所がつくられた歴史を簡略にしるしてみたい。
1857年(安政4年)  江戸幕府直営「長崎鎔鉄所」の建設着手。
1860年(万延元年)  「長崎製鉄所」と改称。
1861年(文久元年)  江戸幕府直営「長崎鎔鉄所」が完成。
1868年(明治元年)  明治政府による官営「長崎製鉄所」となる。
1869年(明治02年) 平野富二が民部省に立神にドックの開設を建議し、民部省の認可が下りた。
1869年(明治02年) 11月20日、平野富二が「ドック取建掛」に任命され、直ちに工事に着工した。
1871年(明治04年)  長崎製鉄所が工部省所管「長崎造船局」と改称[このとき平野富二は退職]。
1876年(明治09年)  平野富二、東京石川島に「石川島平野造船所」を設立。
1879年(明治12年)  官営「立神第一ドック」完成。
1884年(明治17年)  官営「長崎製鉄所」が払い下げにより三菱の経営となる。「長崎造船所」と改称。

あわせて平野富二(富次郎 1846-91)のこの時代の行蔵を簡略にしるしてみよう。
長崎にうまれた平野富二は、この三菱長崎造船所の前身、長崎製鉄所とは16歳のときから関係をもった。
まず1861年(文久元)長崎製鉄所機関方見習いに任命され、教育の一環として機械学の伝習を受けていた。このころは飽の浦に建設された長崎製鉄所の第一期工事が完成して間もないころであった。
ここでいう「製鉄所」とは、溶鉱炉を備えた製鉄所という意味の現代用語とは幾分異なり、「大規模な鉄工所」(古谷昌二氏談)とみたほうがわかりやすい。

1869年(明治2)平野富二が民部省[1869年(明治2)に設置された中央官庁。土木・駅逓・鉱山・通商など民政関係の事務を取り扱った。1871年廃止されて大蔵省に吸収された]に立神にドックの開設を建議し、民部省の認可がおりた。同年11月20日、「ドック取建掛」に任命され、直ちに工事に着工した。
このとき平野富二は24歳、春秋に富んだときであった。
しかしながら1871年(明治4)4月長崎製鉄所が 工部省 の所轄となるにおよんで、平野富二は退職し、工事は中止となった。

平野富二は、長崎製鉄所を退職したのち、1872年(明治5)7月から、長崎製鉄所の先輩だった本木昌造の再再の懇請により、経営に行きづまっていた「崎陽新塾活字製造所」を継承した。
平野は翌年、既述した「平野富二首證文」などによって資金を得るとともに、東京に出て、1873年(明治6)から活字製造と活版印刷機器の製造所、「長崎新塾出張活版所」、のちの「東京築地活版製造所」で成功して、あらたな資金をつくった。

あわせて幕末に水戸藩が設けた「石川島修船所」の敷地を借りるかたちで、念願の造船業「石川島平野造船所」の事業に1876年(明治9)に進出した。

すなわち巨大なドックをつくり、おおきな船舶をつくりたいという、平野富二24歳のときの夢は、長崎での工事は中断されて自身の手では完成をみなかった。
それでもこの立神の地に、巨大ドックを開設するという事業に着眼した平野富二は慧眼といえ、やがて工部省所管の官営造船所「長崎造船局」によって、1879年(明治12年) 立神第一ドックが完成し、その後三菱長崎造船所の主力工場となった。
それでも平野はあきらめることなく、巨大ドックをつくるという24歳のときの夢を抱きつづけ、その7年後、水戸藩徳川斉昭が、幕命によって江戸・石川島の地に造船所を創設したまま、放置されようとしていた施設を借りる(のち買収)かたちで、東京石川島の地で実現した。
このとき平野富二、31歳の男ざかりであった。

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造船業者や船乗りは「板子一枚下は地獄」とされ、きわめて危険な職業であることの自覚があるようである。したがってライバル企業「石川島平野造船所」、現在の IHI の設立者「平野富二」の名を、自社の主力ドックである立神ドックに、その名を刻した、三菱重工業長崎造船所の皆さんの意気にこころをうたれる。

上掲写真は、2001年「平野富二没後110年祭」に際して、列席された長崎造船所史料館のスタッフからいただいたものである。ここは三菱長崎造船所本工場の最奥部にあって危険があり、また情報管理の面からも、一般人の見学はゆるされていない。したがってこの写真が公開されたことはあまりないようである。

同社はまた『創業150周年記念  長船ナガセンよもやま話』(三菱重工業長崎造船所 平成19年10月 p.22-23)の見開きページで、
「立神に巨大ドックを 壮大な夢を抱いた平野富二、工事現場での大ゲンカ仲裁も」
として、イラストと写真入りで立神ドック建造中の姿を紹介している。

このとき平野富二は25歳という若さで、おそらくまだ髷を結い、帯刀して、3-4,000人のあらくれ労働者の指揮にあたっていたとみられる。

平野富二武士装束uu

平野富二(富次郎)が長崎製鉄所を退職し、造船事業への夢を一旦先送りして、活版印刷の市場調査と、携行した若干の活字販売のために上京した1871年(明治4)26歳のときの撮影と推定される。
知られる限りもっともふるい平野富二像。旅姿で、丁髷に大刀小刀を帯びた士装として撮影されている。
廃刀令太政官布告は1876年(明治9)に出されているが、平野富二がいつまで丁髷を結い、帯刀していたのかは不明である(平野ホール所蔵)。

建設中の立神ドッグ

開鑿中の立神ドック
本図は、横浜で発行された英字新聞『ザ・ファー・イースト』(1870年10月1日)に掲載された写真である。 和暦では明治3年9月7日となり、平野富二(富次郎)の指揮下で開始されたドック掘削開始から、ほぼ 9 ヶ月目に当たる状態を示す。
この写真は、長崎湾を前面にした掘削中のドライドックの背後にある丘の上から眺めたもので、中央右寄りにほぼ底面まで掘削されたドックが写されている[『平野富二伝』古谷昌二]。

考察13 開鑿ニ着手 明治二年(一八六九)一一月二〇日、製鉄所頭取青木休七郎、元締役助平野富次郎、第二等機関方戸瀬昇平は、「ドック取建掛」に任命され、続いて頭取助品川藤十郎と小菅掛堺賢助も要員に加えられた。 この中で筆頭の製鉄所頭取青木休七郎は名ばかりで、実質的な責任者は平野富次郎であった。 この時の製鉄所辞令が平野家に残されている。 
「平野富次郎  右ドック取建掛  申付候」  [『平野富二伝』古谷昌二]。 

任命状

  平野富次郎  右ドック取建掛  申付候図 ドック取建掛の辞令
本図は、平野家に保管されている平野富次郎に宛てた長崎製鉄所の辞令である。この辞令の用紙サイズは、高さ174㎜、幅337㎜で、ここに書かれている巳十一月とは明治2年(1869)11月(和暦)であることを示している[『平野富二伝』古谷昌二]。

長崎縣権大属任免状uu 

平野富次郎の長崎縣権大属任免状 
本図は、平野家に保管されている平野富次郎に宛てた長崎縣の任免状である。 この任免状の用紙サイズは、高さ187㎜、幅519㎜である。 最終行の「長崎縣」と書いた上部に小さく、「庚午 閏十月十六日」と記されており、明治3年(1870)閏10月16日[旧暦]の日付であることが分かる[『平野富二伝』古谷昌二]。
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三菱長崎造船所『創業150周年記念  長船ナガセンよもやま話』(三菱重工業長崎造船所 平成19年10月 p.22-23)には、以下のように平野富二、24歳のときの夢が記録されている。

7  立神に巨大なドックを
   壮大な夢を抱いた 平野富二  工事現場での大ゲンカの仲裁も
当所の立神タテガミドックは、仏人技師ワンサン・フロラン総指揮のもとに開削されたと一般には知られていますが、それ以前、このドックを開削した長崎人がいました。平野富二です。
富二は長崎うまれ、12歳で奉行所番となり、長崎製鐵所と関わりを持ったのは16歳のときでした。製鐵所では機関手見習いを仰せつけられています。

この後、機関手の実務勉強や実績を経て、製鐵所機関伝習方元締役と、小菅修船場長を兼務し、小菅修船場から海を隔てた対岸の立神に、一大ドック建設の夢をいだき、24歳のとき建白書を書き上げました。
建白書は、
「小菅修船所船渠で得た純益金1万8000円を資金として、立神に巨大なドックを開削し、おおいに造船の業を起こし、内外の航路と諸船舶修復の権利を掌握、加えて長崎港の繁栄を」
というものでした。この建白書は民部省で審議され、民部大丞井上馨から、「直ちに着手せよ」との許可がおりました。

1870年(明治3)9月、富二は立神ドックの開削に着手しました。しかし、この工事はなかなか簡単には進みませんでした。使用者は3千人から4千人と増え、なかには浮浪無頼のやからもおり、ケンカや酒狂、窃盗、博打、仕事もせずに惰眠をむさぼるなど、その取締りも困難でした。当時の富二はほかにも、製鐵所機関伝習方元締役、小菅修船場長の役職があり、その公務は多忙を極めていました。
加えて彼には持病があり、立神ドック開削現場で起こった二派に分かれての大ゲンカを、戸板に乗って運ばれて取り静めたこともありました。

しかし、こうした富二の苦労も報われませんでした。1871年(明治4)4月、長崎製鐵所が民部省から工部省の所管となり、小菅ドックや開削中の立神ドックなど、一切の財産帳簿類を整理し、工部省に引き渡して職を辞しています。
完成に至らなかった立神ドック開削に、それまで要した金額は2万1500円と記録に残されています。

平野富二と活字*08 天下泰平國家安全 新塾餘談初編 一、二 にみる活字見本(価格付き)

基本 CMYK
長崎港のいま
長崎港のいま。本木昌造、平野富二関連資料にしばしば登場する「崎陽 キヨウ」とは、長崎の美称ないしは中国風の雅称である。ふるい市街地は写真右手奥にひろがる。

新塾餘談 初編一 新塾餘談 初編一 口上 新塾餘談 初編一 活字見本 新塾餘談 初編一 売弘所 新塾餘談 初編二 新塾餘談 初編二 口上 新塾餘談 初編二 活字見本 新塾餘談 初編二 売弘所『 崎陽 新塾餘談 初編一、初編二 』  ともに壬申二月 ( 明治05年02月) 牧治三郎旧蔵

『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 は、「 緒言-明治壬申二月 本木笑三ママ 」、「 燈火の強弱を試る法 図版01点 」、「 燈油を精製する法 」、「 雷除の法  図版02点 」、「 假漆油を製する法 」、「 亜鉛を鍍する法 」、「 琥珀を以て假漆油を製する法 」、「 口上-壬申二月 崎陽 新塾活字製造所 」が収録されている。

また図版として計03点が銅メッキ法による 「 電気版 」 としてもちいられている。
『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 は第1丁-10丁までが丁記を付せられてあるが、11丁からは急遽追加したためか、あるいは売り広め ( 広告 ) という意識があったのかはわからないが、丁記が無く、そこに 「 口上 」 がしるされている。
製本売弘所は、「 崎陽 引地町 鹽(塩)屋常次郎 」、「 同 新町 城野友三郎 」 の名がある。

『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 壬申二月  明治05年02月 牧 治三郎旧蔵
『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 は、筆者手許資料は第01-9丁までを欠く。 10-20丁からの記述内容は、もっぱら電気鍍金法メッキの解説書である。 「口上-壬申二月 崎陽 新塾活字製造所 」 は21丁にあるが、ここからは丁記は無い。
「 口上 」 の記載内容は 『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 と同一で、発行もおなじ壬申二月 ( 明治05年02月 ) であるが、製本売弘所は、「 崎陽 引地町 鹽屋常次郎 」、「 同 新町 城野友三郎 」 のほかに、「 東京 外神田佐久間町三丁目 活版所 」、「 大坂 大手筋折屋町 活版所 」 のふたつの名が追加されている。
銅メッキ法による 「 電気版 」 は19丁に、電解槽とおぼしき図版が印刷されている。

また最終丁には、長丸印判によって 「 定價永三十六文 」 と捺印されている。
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新町活版所跡碑部分上掲図版は、長崎の新街私塾 ( 新町活版所 ) から刊行された 『 崎陽 新塾餘談 初編一、初編二 』 ( ともに壬申二月  明治05年02月 平野富二このとき26歳 ) の巻末に掲載された 「 崎陽 新塾活字製造所 」 の活字見本 ( 価格付き ) である。
この図版は、これまではしばしば本木昌造の企画として紹介され、文例から 「 天下泰平國家安全 」 の、本木昌造による活字見本として知られてきたものである ( 小生もそのように紹介してきた。 ここに不明をお詫び申しあげたい )。

武士装束の平野富二。明治4年市場調査に上京した折りに撮影したとみられる。推定24歳ころ。平野富二 ( 富次郎 ) が、市場調査と、携行した若干の活字販売のために上京した1871年 ( 明治04 ) 秋、26歳のときの撮影と推定される。 知られる限りもっともふるい平野富二像。

旅姿で、月代 サカヤキ をそらない丁髷に、大刀小刀を帯びた士装として撮影されている。 撮影年月はないが、台紙に印字された刻印は 「 A. Morikawa TOKYO 」 である。

廃刀令太政官布告は1876年(明治09)に出されたが、早早に士籍を捨て、平然と 「 平民 」 と名乗っていた平野富二が、いつまで丁髷を結い、帯刀していたのかは不明である。
平野富二の眉はふとくて長い。 目元はすずやかに切れ長で、明眸でもある。 唇はあつく、きりりと引き締まっている ( 平野ホール蔵 )。

本木昌造は、このころすでに活字製造事業に行きづまっており、1871年(明治04)06-07月にわたり、長崎製鉄所を辞職したばかりの平野富二 ( 富次郎 ) に、「 崎陽 新塾活字製造所、長崎新塾活字鋳造所 」 への入所を再再懇請して、ついに同年07月10日ころ、平野はその懇請を入れて同所に入所した。
これ以後、すなわち1871年 ( 明治04) 07月以降は、本木は活字鋳造に関する権限のすべてを平野に譲渡していた。

また本木はもともと、活字と活字版印刷術を、ひろく一般に解放する意志はなく、「 新街私塾 」 一門のあいだにのみ伝授して、一般には秘匿する意図をもっていた。 そのことは、『 大阪印刷界 第32号  本木号 』 ( 大阪印刷界社 明治45年 )、 『 本木昌造伝 』( 島屋政一 朗文堂 2001年 ) などの諸記録にみるところである。
長崎活版製造会社之印長崎港新町活版所印新街私塾

『 本木昌造伝 』 ( 島屋政一 朗文堂 2001年08月20日 ) 口絵より。 元出典資料は 『 大阪印刷界 第32号 本木号 』 ( 大阪印刷界社 明治45年 ) であり、『 本木昌造伝 』 刊行時に画像修整を加えてある。 上から 「 長崎活版製造会社之印 」、「 長崎港新町活版所印 」、「 新街私塾 」 の印章である。
長崎の産学共同教育施設は、会社登記法などの諸法令が未整備の時代のものが多く、「 新街私塾 」 「 新町私塾 」 「 長崎新塾 」 としたり、その活字製造所、印刷所なども様様な名前で呼ばれ、みずからも名乗っていたことが、明治後期までのこされたこれらの印章からもわかる。

苦難にあえでいた 「 崎陽 新塾活字製造所、長崎新塾活字鋳造所 」 の経営を継承した平野は、従来の本木時代の経営を、大幅かつ急速に刷新した。
またこの前年、1871年(明治04)の秋の上京に際して、東京を中心とする関東での市場調査と、携行した若干の活字販売をしているが、その際平野は販売に際して、カタログないしは見本帳の必要性を痛感したものとみられる。
それが 「 活字見本 ( 価格付き )」 『 崎陽 新塾餘談 初編一、初編二 』 ( 壬申二月  明治05年02月)につらなったとの指摘が、諸資料を十分検討したうえで 『 平野富二伝 』 で古谷昌二氏よりなされた。

長崎に戻った平野は、それまでの本木の方針による 「 活字を一手に占有 」 することをやめて、ひろく活字を製造販売し、あわせて活字版印刷関連機器を製造し、その技術を公開することとした。
本木の行蔵には、どこか偏狭で、暗い面がみられ、高踏的な文章もたくさんのこしている。
ところが、その事業を継承した平野は、どこかわらべにも似て、一途な面が顕著にみられ、伸びやかかつおおらかで、なにごともあけっぴろげで明るかった。

1871年 ( 明治04 ) 07月10日ころ、「 崎陽 新塾活字製造所、長崎新塾活字鋳造所 」 へ入所した平野は、早速市場調査と、活字の販売をかねて09-10月に上京した。 この旅から平野が長崎にもどったのは11月01日(旧暦)とみられている。
そのとき、長崎ではまだのんびりと 『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 の活字組版が進行していたとおもわれる。 また 『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 の緒言に、本木は 「 本木笑三 」 という戯号をもちいて、なんらの緊張感もない序文をしるしていた。

長崎にもどった平野は、本木とその協力者 ( 既存の出資者 ) に 「 活字見本 ( 価格表付き )」、すなわち販売用カタログを緊急に製作する必要性を説き、その承諾をえて、『 崎陽新塾餘談 初編一 』  『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 (壬申 二月  明治05年02月)の両冊子の巻末に、急遽 「 販売を目的とする価格付きの活字見本 」 を印刷させ、まずは活字を、ついで活版印刷機器を、ひろく需用者に販売することにしたものとみられる。
長崎港のいま 新町活版所跡の碑 活版伝習所跡碑 本木昌造塋域 大光寺 本木昌造銅像 長崎諏訪公園このような活字を製造し、販売するという平野富二の最初の行動が、この活字見本 ( 価格付き ) であったことの指摘が、『 平野富二伝 』 ( 古谷昌二編著 朗文堂 p.136-7 ) でなされた。 これはタイポグラファとしてはまことに刮目すべき指摘といえよう。

掲載誌が、新街私塾の 『 崎陽 新塾餘談 初編一 』、『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 であり、販売所として、初編一では長崎 ( 崎陽 ) の 「 崎陽 引地町 鹽屋常次郎 」、「 同 新町 城野友三郎 」 であり、初編二には前記二社のほかに、「 東京 外神田佐久間町三丁目 活版所 」、「 大坂 大手筋折屋町 活版所 」 の名が追加されている。
これらの販売所はすべて本木関連の企業であり、当然その効果は限定的だったとみられるが、これが平野のその後の事業展開の最大のモデルとなったとみられ、貴重な資料であることの再評価がもとめられるにいたった。

補遺4 活字の販売 
明治5年(1892)2月に新街私塾から刊行された小冊子 『 新塾餘談 初編一 』 の巻末に、
「  口上
此節雛形の通活字成就いたし片仮名平仮名とも大小數種有之候間  御望の御方へハ相拂可申右の外字體大小等御好の通製造出申候
   壬申 二月          崎陽 新塾活字製造所 」
という記事があり、続いて、初号から五号までの明朝体と楷書体活字を用いた印刷見本と、その代価が掲載されている。

この広告文は、活字を一手占有するという本木昌造の従来の方針を改め、世間一般に販売することにした平野富次郎による経営改革活動の一環と見ることができる。 東京で活字販売の成功と事業化の見通しを得たことが、本木昌造と協力者の方針を変更させ、このような活字販売の広告を出すに至ったものと見られる。              ( 『 平野富二伝 』 古谷昌二 p.136-7 )

壬申、1872年(明治05)、平野富二はたかだかと口上をのべた。このとき平野数えて27歳。
「 口上  ――  [ 意訳 ] このたび見本のとおり活字ができました。 カタ仮名活字、ひら仮名活字も、活字サイズも大小数種類あります。 ご希望のお客さまには販売いたします。 そのほかにも外字やサイズなど、お好みに合わせて製造いたします。
明治五年二月  崎陽 新塾活字製造所 」
以上をのべて、本格的な活字製造販売事業を開始し、あいついで活版印刷機器製造事業をはじめた。

この 「 口上 」 という一種のご挨拶は、本木の高踏的な姿勢からは発せられるとは考えにくく、おそらく平野によってしるされた 「 口上 」 であろう。
同時に平野は、東京への進出に備えて、あらかじめ1872年(明治05)8月14日付け 『 横浜毎日新聞 』 に、陽其二 ヨウ-ソノジ、ミナミ-ソノジ らによる、長崎系同根企業の 「 横浜活版社 」 を通じて、同種の広告を出していた。

同年10月、平野は既述した 「 平野富二首證文 」 を担保として、上京のための資金 「 正金壱千円 」 余を調達した。 その調達先には、長崎六海商社と、元薩摩藩士で関西経済界の雄とされる五代友厚の名前があがっているが後述したい。
そして、退路を断った東京進出への決意を胸に秘めて、新妻 ・ 古ま ほか社員08名 ( のち02名が合流 ) をともなって上京した。

上京後の平野は、ただちに同年10月発行の 『 新聞雑誌 』 ( 第66號 本体は木版印刷 ) に、同種の 「 天下泰平國家安全 」 の活字目録を、活字版印刷による附録とし、活字の販売拡大に努めている。
このときの 『 新聞雑誌 』 の発行部数は不明だが、購読者たる明治の教養ひとにとっては、木版印刷の本紙の付録として添付された、活字版による印刷広告の鮮明な影印は、新鮮な驚きがあったであろうし、まさしく文明開化が具現化したおもいがしたのではなかろうか。

この 「 壬申 二月 」、1872年(明治05)02月とは、わが国の活字と活版印刷術が、平野富二の手によって、はじめて、おおらかに、あかるく、ひろく公開され、製造販売が開始された記念すべき年であったことが、本資料の再評価からあきらかになった。
これからは時間軸を整理し、視点を変えて、再検討と再評価をすべき貴重な資料といえる。

平野富二と活字*06 嫡孫、平野義太郎がのこした記録「平野富二の首證文」

この金を借り、活字製造、活版印刷の事業をおこし
万が一にもこの金を返金できなかったならば
この平野富二の首を差しあげる

(平野義太郎 『活字界 31号』 p.4 昭和46年11月5日)

武士装束の平野富二。明治4年市場調査に上京した折りに撮影したとみられる。推定24歳ころ。

平野富二使用の印鑑(平野ホール藏)

平野富二使用の印鑑2(平野ホール藏)
平野富二が使用した印鑑二点(平野富二ホール藏)。左)楕円判、右)四角判平野富二がもちいた印鑑二点(平野ホール所蔵)。
左) 平野富二長丸型柄付き印鑑
楕円判のT. J. HIRANO は「富二 平野  Tomiji Hirano」の「富 Tomi  二 Ji」
から T. J. としたものか。初期の東京築地活版製造所では、東京を TOKIO と
あらわしたものが多い。この印判の使用例は見ていない。
右) 平野富二角型琥珀製四角平型印鑑、朱肉ケースつき
四角判の「平野富二」は、朱肉入りケースともよく保存されている。使用に際しては
柄がないために使いにくかったとおもわれる。 

東京築地活版製造所明治10年版2 東京築地活版製造所明治10年版3 東京築地活版製造所明治10年版4 東京築地活版製造所明治10年版5 東京築地活版製造所明治10年版6

平野義太郎氏の写真平野義太郎(1897年3月5日-1980年2月8日)

── ついにあかされた《平野富二首證文》 ──

「平野富二の事蹟=平野義太郎」

『活字界 31号』(全日本活字工業会 昭和46年11月5日)

平野義太郎
平野富二嫡孫、法学者として著名 1897-1980年

★平野富二の事蹟=平野義太郎

平野富二が明治初年に長崎から上京し(当年26歳)、平野活版所(明治5年)、やがて東京築地活版製造所(明治14年)と改称、つづいて曲田成マガタシゲリ氏、野村宗十郎氏が活字改良に尽瘁ジンスイされました。このことを、このたび日本の印刷文化の源泉として建碑して下さったことを、歴史上まことに意義あるものとして、深甚の感謝を捧げます。

  1. 風雲急な明治維新の真只中における、祖父・平野富二の畢生ヒッセイの事業は、恩師である学者、本木昌造先生の頼みを受け、誰よりも早く貧乏士族の帯刀をかなぐり棄てて、一介の平民となって、長崎新塾活版所の経営を担当したことでした。
    そのときすでに販売に適する明朝活字、初号から五号までを完成していました[サイズのおおきな初号、一号活字は、冷却時の熱変形(ヒケ)が大きく、しばらくは木活字を代用とした。鋳造活字としての初号の完成は明治15年ころとされる]。しかも平野は他の同業者に比し、わずか4分の1の1銭で五号活字を売り捌いたということは、製造工程の生産性がいかに高かったかを示すものでした。
  2. さて印刷文化の新天地を東京にもとめ、長崎から東京にたずさえてきた(明治5年7月 当時富二27歳)のは、五号・二号の字母[活字母型。五号と二号は相関性があり、五号の四倍角が二号となる]および、鋳型[活字ハンドモールドのことか]各1組、活字鋳込機械3台[平野活版所には創業時から「ポンプ式活字ハンドモールド」があったとされるが、これを3台を所有していたとは考えにくい。詳細不詳]、ほかに正金壱千円の移転費だけでありました。
    四号の字母[活字母型]は、そのあと別送したものです[四号の四倍角は一号であり、前述の五号・二号との併用には不都合があった]。
    平野は長崎で仕込んだ青年職工・桑原安六以下10名を引きつれて上京、ついに京橋区築地2丁目万年橋際に新工場を建てました(明治6年7月)。そこはいま碑の建てられた場所です。この正金壱千円の大金を、平野はどのようにして調達したのでしょうか。
  3. この正金壱千円の移転費を、長崎の金融機関であった六海社(平野家の伝説では薩摩の豪商、五代友厚)から、首證文という担保の、異例な(シャイロック型の)[Shylock  シェークスピアの喜劇『ヴェニスの商人』に登場する、強欲な金融業者に六海商社を義太郎は擬ナゾラえている]借金をしたのでした。
  4. すなわち、
    「この金を借りて、活字鋳造、活版印刷の事業をおこし、万が一にもこの金を返金することができなかったならば、この平野富二の首を差し上げる」
    という首證文を担保にした借金だったのである。
  5. 平野活版所は、莫大な費用を投じ、煉瓦建工場を建設(明治7年5月)、つづいて阿州[阿波藩・現徳島県]藩士、曲田成 マガタ シゲリ を社員に任用し、清国上海に派し、あまねく良工をさがしもとめ、活字の種板を彫刻させた ── これが活字改良の第一歩であった。
  6. 曲田成氏という人は、平野富二について、つねに片腕になって活動された人であって、しかも特筆すべきことは明朝活字の改良は、曲田氏の手によってなしとげられたといって[も]過言ではないことである。
  7. 明治14年3月(1881)、築地活版所は[長崎新塾出張活版製造所から改組・改称し]東京築地活版製造所と呼称した。平野は従来の投資になる活版製造所の一切の所有権を、恩師・本木昌造先生の長子、[本木]小太郎社長に譲渡した[平野富二と活字*03【お断り】参照。本木小太郎を専務心得として曲田茂支配人の後見をつけた。本木小太郎は東京築地活版製造所代表としての専務職には就任していない]。
    それで平野は本木先生の信頼にたいして恩義に報いたのであり、また自分は生涯の念願である造船業に全エネルギーを注ぎ込んだ(石川島平野造船所の建設)。

    曲田 茂 マガタ  シゲリ
    阿波徳島の士族出身、幼名岩木壮平、平野富二と同年うまれ
    平野富二が1892年に逝去し、右腕と頼んだ曲田茂もあいついで1894年に客死した。これにより東京築地活版製造所はよき後継者を失い、ほとんどが野村宗十郎の意を受けた官僚出身者が代表者となることが多く、1938年に解散を迎える遠因のひとつとなった。
    弘化3年10月1日-明治27年10月11日(1846-94)

ちなみに、曲田成氏は明治26年、東京築地活版製造所の社長[専務]となり、わずか1ヶ年余の活動ののち、明治27年に死去された。
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この平野義太郎の寄稿のうち、きわめて特徴的かつ注目したい文章が、冒頭と終末部にある。

平野富二が明治初年に長崎から上京し(当年26歳)、平野活版所(明治5年)、やがて東京築地活版製造所(明治14年)と改称、つづいて曲田成マガタシゲリ氏、野村宗十郎氏が活字改良に尽瘁ジンスイされました。このことを、このたび日本の印刷文化の源泉として建碑して下さったことを、歴史上まことに意義あるものとして、深甚の感謝を捧げます。

ちなみに、曲田成氏は明治26年、東京築地活版製造所の社長[専務]となり、わずか1ヶ年余の活動ののち、明治27年に死去された。

ここで平野義太郎は、冒頭と終末部に曲田茂を取りあげ、しかも曲田茂の死去をもってその寄稿文を終えている。
東京帝国大学法学部助教授時代、平野義太郎の婚儀(1923年・大正12年7月20日)には、東京築地活版製造所を代表して野村宗十郎が列席し、その写真記録も『平野嘉智子を偲ぶ』(平野義太郎 1974年12月20日)にのこされている。それでも義太郎は長年にわたって、支配人、専務として、ながらく東京築地活版製造所を専断した野村宗十郎には、好感はいだかなっかったであろうことは容易に察しがつく。

そのために、冒頭に「曲田成マガタシゲリ氏、野村宗十郎氏が活字改良に尽瘁ジンスイされました」と述べたものの、文中では、
「平野活版所は、莫大な費用を投じ、煉瓦建工場を建設(明治7年5月)、つづいて阿州[阿波藩・現徳島県]藩士、曲田成 マガタ シゲリ を社員に任用し、清国上海に派し、あまねく良工をさがしもとめ、活字の種板を彫刻させた ── これが活字改良の第一歩であった」
「曲田成氏という人は、平野富二について、つねに片腕になって活動された人であって、しかも特筆すべきことは明朝活字の改良は、曲田氏の手によってなしとげられたといって[も]過言ではないことである」
として、冒頭の一句をのぞき、それ以後野村宗十郎の名をあげることはなかった。また曲田茂が客死したあとに、支配人・野村宗十郎が迎えた名村泰蔵専務(社長格)らの名をあげることもなかった。
そして終末に曲田茂の死去をもって唐突に文章を終えている。

すなわち鋭敏な義太郎は、東京築地活版製造所に隣接した平野家から、東京築地活版製造所、支配人、専務としての野村宗十郎の専断を苦苦しいおもいでみていたのではないかと想像している。したがって祖父:平野富二による活版印刷関連機器の製造販売は、嫡孫:義太郎にとっては、曲田茂が旅先に客死した1846年(明治27)をもって終わりとみなしていたのではなかろうか。

碑前祭厳粛に挙行 活字発祥記念碑竣工から1年

『活字界 34号』(全日本活字工業会 昭和47年8月20日)

「活字発祥の碑」の建碑がなり、その除幕式を記録した『活字界 30号』(昭和46年8月15日)の記録は、B5判わずかに2ページであった。そこにはおおきな戸惑いと困惑がみられたことは、前回の《平野富二と活字*05》で報告した。

それでも除幕式を終えてからも『活字界』、とりわけ編集長であった中村光男氏は積極的に取材を重ね、周辺情報と、人脈を掘りおこしていた。
なかでも毎日新聞技術部の古川恒の紹介をえて、平野富二の嫡孫・平野義太郎の知遇を得たことが、中村光男氏にとっては、井戸のなかから大海にでたおもいがしたようである。

驚くかもしれないが、そもそも平野富二の嫡孫であり、また元東大法学部助教授の俊才として名を馳せた、高名な法学者・平野義太郎が、東京都内に現住していることは、当時の活字業界人は知らなかった。
その次第はあらかた『富二奔る ―― 近代日本を創ったひと・平野富二』(片塩二朗 朗文堂 2002年12月3日)にしるした。そのもととなったのは、端的にいえば、天下の悪法・治安維持法のためであった。

ここに登場した平野義太郎には膨大な著作があるが、義太郎の詳細な評伝も刊行されている。
東大時代の教え子たちによってあまれた『平野義太郎 人と学問』(同誌編集委員会 大月書店 1981年2月2日)は微に入り細をつくものであり、恩師にたいする敬愛の情にあふれている。
また広田重道編著による『稿本 平野義太郎評伝 上』(1974年9月30日)もある。
この広田重道というひとは詳らかにしないが、おそらく平野義太郎の教え子のひとりとみられ、物心ともに平野家の支援をうけての本格刊行準備だったとおもわれる。


『稿本 平野義太郎評伝 上』は、「稿本」とはいえ、当時の和文タイプライターの印字物を版下とした「軽印刷」方式により、B5判192ページにおよぶ印刷物としてのこされた。いまなお平野ホールにはこの「稿本」が20冊以上包装状態のままのこされているが、下巻はみていない。
一応【ウキペディア:平野義太郎】にリンクをもうけたが、平野義太郎にご関心のあるかたは、できるだけ前出の書物をご参照願いたい。
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この一連の投稿のうち《平野富二と活字*01》で、牧治三郎が筆者に述べたことばを紹介した。

牧治三郎とは、東京築地活版製造所の第四代社長・野村宗十郎(1857-1925)の評価についてしばしば議論を交わした。
筆者が野村の功績は認めつつも、負の側面を指摘する評価をもっており、また野村がその功績を否定しがちだった東京築地活版製造所設立者、平野富二にこだわるのを、
「そんなことをしていると、ギタサンにぶちあたるぞ。東京築地活版製造所だけにしておけ」
とたしなめられることが多かった(『富二奔る』片塩二朗)。

ギタサンとは俗称で、ようやくここに登場した平野富二の嫡孫、平野義太郎(ヨシタロウ、法学者、1897-1980)のことである。
ここでは初出にあわせて「たしなめられる」としたが、その実際は、度のつよいメガネ越しに、眼光鋭く、ねめつけるように、執拗に繰りかえしたことばである。

つらい指摘ではあるが、牧治三郎は筆者に向けてばかりでなく、少なくとも印刷・活字業界において、平野富二研究に手がおよぶことを避けさせるために、活字版印刷術の始祖として本木昌造を過剰に称揚し、中興の祖として野村宗十郎の資料を集中して発表していた。
また、ときとひとを選んで、相当の金額で、それら平野富二関連以外の資料の販売もしていたのである。そのひとりに、物故した平野富二の曾孫のおひとりがあり、その関連書簡は平野ホールに現存している。その発表の是非は、平野家のご判断をまつしかない。
牧治三郎の蔵書印「禁 出門 治三郎文庫」とはそういうものであったことを辛いおもいで振りかえる。前章の最後に「重い気分でいる」としたのは、牧治三郎のこうした知られざる一面をしるすことになるからである。
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すなわち牧治三郎は、平野義太郎を赤化した人物とみていた。昭和10-30年ころまでは、それは一部からは危険人物とほぼ同義語としてもちいられていた。
そしてその祖父、平野富二はあまりにその存在がおもくておおきく、その業績の偉大さが理解できないあまり、これも危険人物とみなしていたのが牧治三郎であった。
     

牧  治 三 郎  まき-じさぶう
67歳当時の写真と、蔵書印「禁 出門 治三郎文庫」
1900年(明治33)―2003年(平成15)歿。

1900年(明治33)5月 新潟県新発田市にうまれる。
1916年(大正5)7月 東京印刷同業組合書記採用。
1923年(大正12)7月 日本大学専門部商科卒業。
以来、印刷倶楽部、印刷協和会、印刷同志会、東京印刷連盟会、大日本印刷業組合連合会、東京印刷協和会、東京洋紙帳簿協会、東京活字鋳造協会などの嘱託書記を経て、昭和13年7月退職。
京橋区[中央区湊三丁目3-8-7]で印刷材料商を自営していた。

そんな赤化をおそれる社会風潮を利用して、
 「そんなこと── 平野富二研究 ── をしていると、ギタサンにぶちあたるぞ。東京築地活版製造所だけにしておけ」
と、炯炯とした眼光で相手をにらみつけ、牧治三郎は平野富二の研究者にたいして、始祖としての本木昌造を過剰に評価し、中興の祖として野村宗十郎を称揚することによって、その前に巧妙に立ちふさがって存在していたのである。

もちろん当時50代になっていた筆者は、唯唯諾諾としたがうことはなく、こう牧治三郎に反論した。
「わたしは平野義太郎さんが、社会主義者であろうが、共産主義者であろうが、一向に驚きませんし、前から「講座派」の中心人物として、お名前とお顔くらいは知っていました。それに、たとえ孫の義太郎さんがそういう思想をもち、悪法だったことがあきらかな、治安維持法による逮捕歴をもっていたとしても、祖父たる平野富二の評価にはまったく関係ありません」
牧治三郎は、吐きすてるように答えた。
「おまえは、甘いんだ。ギタサンはアカなんだぞ。どうなっても知らねぇぞ」

このときは牧治三郎の荒涼たる精神風景の一端をみるおもいだった。
ここで一気に牧治三郎の果たした隠された役割 ── 昭和13-20年にわたり、変体活字廃棄運動と印刷企業整備令においてなした牧治三郎の役割を分析したいおもいがあるが、もうすこし醸成させたい面もあるし、変体活字廃棄運動の取材でおたずねした90翁がご健在で、その再取材も待ちたいところである。

暗い井戸をのぞくようなきもちになるが、その役割をきわめて簡略にしるすと、牧治三郎にとっては、本木昌造はすでに神話化した存在であり危険性は無かった。野村宗十郎は官僚出身で、印刷業界には関心が乏しく、ほとんど業界事情に無知であることを見抜いていた。
したがって東京築地活版製造所創業者の平野富二の多方面にわたる業績さえ封印すれば、東京築地活版製造所そのものが、たんなる活字製造業者として矮小化されて評価されることになる。そうすれば牧治三郎にとっての東京築地活版製造所とは、みずからが扱いやすい、卑小な存在になることを見抜いていた。

そうすることによって、平野富二がなしとげた、石川島造船所の創立、港湾・土木・鉄道敷設・航路開発など、わが国の近代化にはたした大きな役割もかすむことになり、それがひいては、変体活字廃棄運動や、印刷企業整備令にもとづいて行動した、この時期のみずからの行蔵を封印することをはかっていたのであろうか……。

 「印刷界の功労者並びに組合役員名簿」『日本印刷大観』
(東京印刷同業組合 昭和13年8月20日)
四六倍判 本文848ページ 凸版・凹版・平版・孔版など各種印刷版式使用 上製本
印刷同業者組合の内部文書などは別として、牧治三郎がはじめて本格的な著述をのこしたのは『日本印刷大観』である。同書には広告や差し込みページが多いが、その本文848ページのうち、「印刷の起源及び発達」239ページ、28%ほどを庄司浅水が記述し、のこりの590ページ、69%ほどを「印刷界の功労者並びに組合役員名簿」として牧治三郎が記述している。
牧は『日本印刷大観』刊行の直前に、東京印刷同業組合の職をはなれた。

この『京橋の印刷史』が牧治三郎の主著といえば主著といえるのかもしれない。しかしながら本書はおよそ印刷同業組合の一支部がつくるような資料とはいえないほどの、広汎な内容とボリュームをもつ。また背文字・表紙・スリップケースに著者名も発行者名も無く、ただ書名の『京橋の印刷史』だけがポツンとしるされた書物である。その異常といえば異常な書物が『京橋の印刷史』である。

東京都印刷工業組合京橋支部というちいさな組織があった。その創立50周年記念事業として『京橋の印刷史』(東京都印刷工業組合京橋支部 五十周年記念事業委員会 昭和47年11月12日 p.799)がのこされている。最終ページ、刊記と同一ページにある「あとがき」に、同誌編集委員の萩野義博氏(文中では 「萩」)がこうしるしている。

この印刷史を刊行する話があったのは昨年[昭和46]早春の部長会であった。四月の定例会に諮り、満場一致の賛成を得、直ちに印刷史実に造詣の深い牧治三郎氏にすべてお願いすることにした。
その後牧氏の資料の中に、京橋支部が昭和六年に創立十周年式典を行っているから、今年は丁度五十周年になるとの話があった。そこで支部の五十周年事業について、支部の元老・長老にご出馬を願い、高橋元老を会長として五十周年記念事業委員会を結成、発足することになった。

『京橋の印刷史』はB5判上製本、活字原版刷り、800ページにおよぶ大著である。それを機関決定からわずかに20ヶ月、きわめて短時日で刊行した、乃至はさせられた、「東京都印刷工業組合京橋支部」の執行部のおもいとは、奈辺にあったのだろう、とおもう。

同書刊記(奥付)には「発行者 高橋与作」とある。萩野義博氏のいう「高橋元老を会長とし」として紹介された高橋与作(與作)とは、昭和13年「変体活字廃棄運動」の提唱者として『印刷雑誌』に登場し、愛書家、活字狂を自認していたアオイ書房・志茂太郎と激しく衝突した人物である。
また筆者も『活字に憑かれた男たち』のなかなどでもしばしば触れている人物である。
ありし日の志茂太郎志茂太郎肖像写真(1900-80)

平野富二と活字*05 ついに驟雨のなかに迎えた『活字発祥の碑』除幕式 

『活字発祥の碑』 除幕式挙行、なぜか剣呑なふんいきがおおった除幕式の会場、そしてついに、周旋役の座を追われた牧治三郎

同書「あとがき」と、刊記にのみ「著者 牧治三郎」とある。こういう書物には珍しいことであるが、表紙・扉・スリップケースなどには、一切「著者 牧治三郎」の名前は登場しない。
牧は新潟から幼少のときに上京して、終生京橋(現・東京都中央区)に居住していた。また圭角がめだち、自己主張のつよい人物であったが、つねに韜晦のふうもみられた。
そしてまた、高橋与作も京橋に居住して「変体活字廃棄運動」を主唱した人物である。

このことを牧治三郎に直接ただしたことがあった。返答はひとことだった。鮮明に記憶し、記録している。
「そりゃ、京橋の印刷屋には、活字の没収や企業整備令でずいぶん手加減してやったからな。あのくらいやってもらっても、あたりまえだ」
しばしのご猶予をいただきたいとするゆえんである。
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『活字界 34号』(昭和47年8月20日)は、落成・除幕式の折の陰鬱な記録『活字界 30号』(昭和46年8月15日)2ページとはまったく様相を異とし、── 「活字発祥の碑」建碑・序幕から1年、碑前祭の記録 ―― が、全8ページのうち、表紙1, 4をのぞく6ページをもちいて、中村光男氏の弾み立つような文章に溢れている。

また平野義太郎は、主賓としてこの会にまねかれ、先に紹介した寄稿記事「平野富二の事蹟=平野義太郎」『活字界 31号』(全日本活字工業会 昭和46年11月5日)から、「平野富二首證文」のはなしを、平野家につたわる伝承として、列席者のまえで「平野富二のエピソード」として開陳した。

《碑前祭厳粛に挙行 活字発祥の碑竣工から1年、碑前祭の記録》

[昭和47年]6月29日午後3時から、東京・築地懇話会館前の「活字発祥記念碑」の前に関係者など多数が出席して碑前祭が行われた。
[全日本活字]工業会では昨年6月29日、各界の協力を得て旧築地活版所[東京築地活版製造所]跡に「活字発祥記念碑」を建立した。この日はそれからちょうど1周年の記念日に当たる。

碑前祭には、全印工連[全国印刷工業組合連合会]新村[長次郎]会長、日印工[日本印刷工業会]佐田専務、東印工組[東京印刷工業協同組合]伊坂理事長、全印工連[全国印刷工業組合]井上[計]専務、懇話会館・山崎[善雄]社長、同坂井支配人、同八十島[耕平]顧問、全印機工[全日本印刷機製造工業会]安藤会長はじめ、毎日新聞・古川恒氏、平野義太郎氏(平野富二翁令孫)、牧治三郎氏(印刷史評論家)など来賓多数も列席、盛大な碑前祭となった。

碑前祭は厳粛に行われ、神主が祝詞をあげ、渡辺[宗助、全国活字工業会]会長を先頭に新村会長、伊坂理事長とつぎつぎに玉串を捧げた。

懇話会館入口では出席者全員に神主から御神酒が配られ、この後は同会館の13階のスヱヒロで記念パーティが行われた。渡辺[宗助全日本活字工業会]会長はパーティに先立って挨拶し、その中で
「ホットとコールド[金属活字と写植活字]は全く異質なものであり、われわれは今後とも[金属]活字を守り、勇気をもって努力していきたい」
と語った。つづいて挨拶に立った全印工連新村[長次郎]会長は、
「活字があったればこそ、今日の[印刷業の]繁栄があるのであり、始祖を尊ぶ精神と、活字が果たしてきた日本文化の中の役割を、子孫に伝えなければならない」
と活字を讃えた。

また、和やかな交歓が続くなかで、日本の活字発祥の頃に想いをはせ、回顧談や史実が話された。毎日新聞社史編集室の古川[恒]氏は、グーテンベルグ[ママ]博物館の話を、平野義太郎氏はそのご子息と一緒に出席、祖父について同家に伝わるエピソードを披露した。牧治三郎氏からは本木昌造翁、平野富二翁、ポイント制を導入して日本字のポイント活字を鋳造・販売し、その体系を確立した野村宗十郎翁などを中心に、旧築地活版所の歴史を回顧する話があった。

活字をめぐる情勢は決して良いとはいえないが、こうして活字業界の精神的な柱ともいうべき碑ができ上がったことの意義が、建立から1年を経たいま、確かな重さで活字業界に浸透していることをこの碑前祭は示していたようだ。

平野義太郎氏挨拶――生命賭した青雲の志

私はここで[晴海通り側からみて、懇話会館ビル奥のあたりが平野家であった]生まれましたが、平野富二はここで死に、その妻、つまり私の祖母[古ま・駒 1852-1911]もここで死んでおります。その地に碑を建てられ、今日またここにお集まりいただいた活字工業会の方々をはじめみなさまに、まず御礼を申し上げます。

エピソードをなにか披露しろということですので、平野富二が開国直後の明治5年に東京へ出てくる時の話をご紹介します。この時、門弟を4-5人連れて長崎から上京したのであるが、資本がないし、だいたい上京の費用がない。
そこで当時の薩摩の豪商[五代友厚を意識しての発言とみられる]に、
「もし返さなかったらこの首をさし上げる」
といって借金をした[という]話が、私の家に伝わっております。それくらいに一大決意で[活字版印刷術製造の事業を]はじめたということがいえましょう。本木昌造先生の門弟としてその委嘱を受けて上京、ここではじめて仕事を始めたということです。     [この項つづく]