平野富二と活字*03 『活字界』牧治三郎二回の連載記事に戦慄、恐懼、狼狽した活字鋳造界の中枢

『活字界』での牧治三郎 二回の連載記事に
戦慄、恐懼、狼狽した活字鋳造界の中枢

牧治三郎の問題提起「旧東京築地活版製造所跡に記念碑を建設する件」をうけて
当時の執行部は、驚愕、戦慄、恐懼、狼狽して「禊ぎと祓い」にはしった。
牧は不気味な口吻をもって、活字鋳造業者に警告を発するとともに
即座に知己の多い「懇話会」への建碑の根回しをはじめていた。
したがって「活字発祥の碑」建立企画から、落成披露までの間の主役は牧であった。
ところがこの2回・8ページにわたった連載記事の掲載から11ヶ月後
すなわち「活字発祥の碑」の除幕式の直後から、牧は急速に業界の信頼をうしなう。
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掲載号2回目と同じ『印刷界 22号』(全日本活字工業会、昭和46年7月20日)には
早速東京活字協同組合理事会での協議をへた「記念碑建設の方向の決定」を
急遽広告欄を割いて、広報部・中村光男氏が囲み記事として以下のように報告している。
その周章狼狽ぶりがよくわかる内容になっている。

旧東京築地活版製造所その後

全日本活字工業会広報部:中村光男

東京活字協同組合では[昭和46年]6月27日開催の理事会で「旧東京築地活版製造所跡に記念碑を建設する件」について協議した。旧東京築地活版製造所跡の記念碑建設については本誌『活字界』に牧治三郎氏が取壊し記事を掲載したことが発端となり、牧氏と、同建物跡に[新ビルを]建設される懇話会館の八十島[耕作]ヤソジマ-コウサク社長との間で話し合いが行なわれ、八十島社長より好意ある返事を受けることができた。

この日の理事会はこうした記念碑建設の動きを背景に協議を重ねた結果、今後は全日本活字工業会および東京活字協同組合が中心となって、印刷業界と歩調を併せ、記念碑建設の方向で具体策を進めていくことを確認。この旨全印工連、日印工、東印工組、東印工へ文書で申し入れることとなった。
『活字界  22号』 (全日本活字工業会  昭和46年7月20日)
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【お断り】 東京築地活版製造所の呼称は時代によって様様であり、しばしば略称や旧社名とも混用されている。本稿ではその混乱を避け、特殊な引用の場合をのぞき、1873(明治6)創立-1938年(昭和13)清算解散までのあいだのすべての期間の社名を「東京築地活版製造所」とし、また法人社格も表記しないことにした。

東京築地活版製造所明治10年版1
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写真上) 『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO  通称:明治10年版東京築地活版製造所活字見本帳』(活版製造所 平野富二、平野ホール所蔵)。

この口絵は東京築地活版製造所の最初期の建築物。木版画を清刷りとして電気版で印刷したとみられる。右側の袖看板には「長崎新塾出張東京活版所」とある。手前に人力車が描かれているが、これはもっぱら平野富二が愛用したもので、現代の運転手つき自家用車にあたるとみてよい。これに関して次女・幾みがのこした記録を紹介するのには、もうすこし時間をいただきたい。

写真中) 『活版見本』(東京築地活版製造所、明治36年)
この口絵は銅販画を清刷りとして電気版で印刷としたものとみられる。画面中央部のちいさな建物は上掲写真の明治7年完成の創業当初からのもので、このころは事務棟とされていた。その手前、築地川に浮かぶ舟艇とその周辺設備は、平野富二との関連で重要な設備と乗り物であるが、その解明は、公文書の発見によってこれをあきらかにした、古谷昌二氏の近刊『平野富二伝』にゆずりたい。

写真下) 記録をのこすことが少なかった東京築地活版製造所最後の本社工場ビル。1923年3-9月にかけて順次設備が完成し、1971年に新築のために取り壊された。
東京築地活版製造所第四代専務、野村宗十郎の発意によって、創業期からの建物を全面撤去して、同地に1923年(大正12)3-9月に竣工。完成直後、本格移転日の前日に関東大地震に見舞われたがビル本体の損傷は少なかった。

1938年(昭和13)東京築地活版製造所清算解散にあたり、精銅業者の団体「懇話会」に売却され、「懇話会館」の名称のもとに継続して使用された。
1971年(昭和46)3月、懇話会が関東大地震、戦災の猛火を良くしのいできたこのビルを、老朽化を名目に取り壊し、あたらしいビルの建築を決定した。現在は新ビルが建ち「コンワビル」として使用されている。
「活字発祥の碑」は、全日本活字界はこの写真の左角・正門(西南)付近に建設を希望したが、所有者の「懇話会」から容れられず、右奥のあたり(東南角)に設けることを許された。
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東京築地活版製造所の創立者に本木昌造におき、本木昌造への過剰な称揚と讃仰が目立つようになるのは、ずっと時代がさがって、第四代・野村宗十郎(1857-1925)の専務時代になってからになる。なお東京築地活版製造所では社長職をおかず、専務が会社を総覧し、支配人がそれをたすけていた。
また長崎系の人脈と、長崎系の資金が枯渇した昭和最初期、この時代に刊行された『株式会社東京築地活版製造所紀要』(東京築地活版製造所、昭和4年10月) にも、そうした本木昌造を過剰に称揚する風潮をあおりたてるような文章が冒頭からつづいている。これもちかぢか紹介し たい資料である。

野村宗十郎は、薩摩藩士でありながら、父親が長崎在勤であったために、本木昌造の新街私塾にまなび、のちに大蔵省の主計官という高級官僚となった。その野村宗十郎を東京築地活版製造所に迎えたとき、どういうわけか平野富二は、倉庫掛の役職を野村に命じた。

本木昌造伝 野村宗十郎寛永寺墓地。野村宗十郎の墓地。

東京都目黒区、目黒不動尊の仁王門を入ってすぐ右手に、野村宗十郎の胸像がある。
野村宗十郎とその一家の墓所は、東京谷中霊園内上野寛永寺墓地にある。

この大蔵官僚・野村宗十郎を迎えたとき、おそらく平野富二は、活字製造や機械製造に未経験だった野村に、製造業者・現業者としてのはじめを、在庫の管理からまなばせようとしたものとおもわれるが、自負心と上昇意欲がつよく、能力もあった野村は、この待遇にいたく自尊心を傷つけられ、おおきな不満があったとものとみられる。
あるいは、なにかと官僚をきらうふうがあった平野富二とは、単に相性が悪かっただけなのかもしれないとおもうこともある。
牧治三郎はかつてこう述べていた。
「野村先生は平野さんが嫌いでさぁ、平野さんのことになるとムキになっていたなぁ。よっぽど嫌いだったんだろう。平野さんが大蔵省からきた野村先生を、いきなり倉庫係になんかにしたから、恨んでたんだろうな」
それでも野村は東京築地活版製造所でもその才能を発揮して、支配人、専務と昇進をかさねた。

平野富二が1892年(明治25)若くして歿し、後継となった第二代専務・曲田 茂(マガタ-シゲリ 1846-94)をたすけて支配人となったが、まもなく曲田が旅先に客死するにおよび、1894年、当時貴族院議員をつとめていた顕官の名村泰蔵(長崎出身。新街私塾で英語と数学を教授。大審院長。1840-1907)を第三代専務として迎えた。
その名村も歿するにおよび、1907年(明治40)ついにみずからが東京築地活版製造所第四代専務に就任した。
その後野村宗十郎は、東京築地活版製造所の諸記録から、平野富二の存在と、その功績を抹消することに 蒼いほむら を燃やし続けた。

【お断り】
筆者は、一部の先達の例にならい、また小社刊『本木昌造伝』(島屋政一、朗文堂、2001年8月20日)の編輯をも通じて、本木昌造の次男にして継嗣、本木小太郎(1857-1910)をして東京築地活版製造所第二代専務としてきた。

本木小太郎はながらく平野富二の膝下にあった。1889年(明治22)平野は石川島造船所の業務で多忙なこともあり、本木小太郎への事業継承をはかって東京築地活版製造所の専務職を辞した。それに際して本木小太郎を、東京築地活版製造所「専務心得」とし、また曲田茂支配人の後見をうけさせていた。
しかしながら、本木小太郎は病弱で、経営能力にも欠ける面があり、翌1890年(明治23)わずか一年にして本木小太郎の「専務心得」の任をとき、曲田茂をして第二代専務とした。
したがって本木小太郎は東京築地活版製造所代表たる専務職には就任しておらず、これからは第二代専務を曲田茂とし、以降の経営者をひとつづつ繰り上げさせていただくことにした。ここにお詫びするとともに訂正させていただきたい。

《平野富二の移転当時は、大火災の跡地であった築地界隈》
平野富二が買い求め、1873年(明治6)年に移転した、あたらしい東京築地活版製造所の敷地に関して、牧治三郎は次のようにしるしている。

平野富二氏の買求めたこの土地の屋敷跡は、江戸切絵図によれば、秋田淡路守の子、秋田筑前守(五千石)中奥御小姓の住宅跡地で、徳川幕府瓦解のとき、此の邸で、多くの武士が切腹した因縁の地で、主なき門戸は傾き、草ぼうぼうと生い茂って、近所には住宅もなく、西本願寺[築地本願寺]を中心にして、末派の寺と墓地のみで、夜など追剥ぎが出て、1人[ひとり]歩きが出来なかった。
(『活字界 21号』(牧治三郎、全日本活字工業会  昭和46年5月20日)

現在の築地西本願寺。江戸期の寺領の数分の一の規模になっている。築地万年橋からの風景:右・松竹ビル、中・コンワビル(東京築地活版製造所跡)、左・電通関連企業ところが、牧治三郎が 江戸切絵図 で調べたような情景は、1872年(明治5)2月25日までのことである。
いかに該博とはいえ、どうやら牧はこの記録を見落としていたようである。
1872年2月25日、銀座から築地一帯に強風下での大火があって、築地では本願寺の大伽藍はもちろん、あたり一面が焼け野原と化した。
そして新政府は、同年7月13日に、築地本願寺の寺域をおおきく削るとともに、築地本願寺はもとより、東京中心部の墓地を集合移転させる構想のもとに、青山墓地をつくり、あいついで、雑司ヶ谷、染谷、谷中などに巨大な墓地をつくって、市中から墓地の移転をすすめていた。

したがって築地本願寺とその周辺の末寺の墓地は、ねんごろに除霊をすませて、すでに新設墓地へ移転していたのである(『日本全史』講談社 918ページ 1991年3月20日)。
現代でも旧京橋区、銀座から築地一帯が繁華な商住地となり、そこに墓地をみることがすくないのは、こうした背景による。

すなわち活字と印刷機器製造のために、長崎製鉄所出身で「鋳物士 イモジ」の心性を知る平野富二が、牧治三郎が指摘したような場所を選択することは考えられない。
平野富二が選んだ新天地は、火焔によって、また築地本願寺とその末寺の寺僧によって、すっかり除霊が済んでおり、当然移転に際しては神官による「禊ぎと祓い」がなされた土地であったことは注目されて良い。
1873年(明治6)7月、平野富二が本格スタートの地として選び、現在は「活字発祥の碑」が建立されている「築地二丁目万年橋東角二十番地」(現住所:東京都中央区築地1-12-22)とは、こうした場所であった。

《築地川から石川島へ、そして大海原へ。水利にめぐまれた創業の地-古今東西を問わず、活字版印刷は水運の良い場所で創始した》
筆者はかつて、東京築地活版製造所、石川島造船を創業した平野富二が、どのように水利・水運を意識してこの地を選んだのかに興味をもったことがある。
それは陸上輸送が不便で、自動車などの登場するはるか以前、560年ほど前から活版印刷ははじまっていた。
河川・運河沿いに発展した印刷工房マインンツ グーテンベルク工房それらの工房の発祥地をみると、ライン川沿い、マインツで創業したヨハン・グーテンベルク、ヴェネツィアの運河群に面して創業したアルダス・マヌティウス、パリのセーヌ川のほとり、ヴィスコンティ通りに開設されたオノレ・バルザックのちいさな印刷所は、のちにドベルニ&ペイニョ活字鋳造所として盛名を馳せた。
また19世紀世紀末にテムズ河畔に結集した、ダヴス・プレス、ケルムスコット・プレスなどのプライベート・プレスの工房など、歴史に名をのこした活版印刷工房のおおかたが、川や運河に面した地で創業している。
つまり20世紀までの活版印刷士(タイポグラファ)は、重量のある活版印刷機、金属活字、印刷用紙、書籍の運搬のために、水運をもちいていたからである。
まして平野富二は、いずれは造船業への進出の夢を抱いての創業であった。

そうした関心から、1872年(明治5)7月、平野富二が最初に神田佐久間町三丁目門長屋に設けた「長崎新塾出張東京活版所」の仮工場(現在も町名とふるい家並みがそのままのこる。秋葉原駅から徒歩五分ほど。泉公園・泉小学校前のあたり)の場所から、移転先の「築地二丁目万年橋東角二十番地」(現住所:東京都中央区築地1-12-22)までのあいだを、「江戸切絵図」を手にしながら実際に歩いたことがある。
築地川は現在は埋め立てられ、首都高速道路の一部になっているが、すくなくとも昭和初期までは、喫水の浅い船でなら、神田川、堀割、築地川の水利をもちいて、相当の物資の輸送も可能ではないかとおもわれた。
同様の試みは日吉洋人氏(武蔵野美術大学基礎デザイン学科助手。活版カレッジ修了)もおこなった。

驚いたことに、秋葉原和泉町公園前、神田佐久間町三丁目のスタート地点から、終始神田川のゆたかな水量にめぐまれ、暗渠になっている部分もあったが、ほぼ「江戸切絵図」に描かれた河川や堀割跡にそって、築地万年橋跡、中央区築地1-12-22まであるくことができた。

もちろん、天然の良港長崎にうまれ、すでに幕末から艦船に搭乗・操艦していて、船にはおおいに親しんでいた平野富二である。
しだがって本章冒頭で紹介した『活版見本』(東京築地活版製造所、明治36)の口絵に、ゆたかな水量の築地川が描かれ、そこに小型の舟艇が繋留されているのは決して偶然ではないのである。
平野富二にあっては、河川は道と同様の存在であり、この水利にめぐまれた築地の地をえらんだ背景には、いずれは大道たる大海への足と道、すなわち造船業の創始と、航路開発・港湾開発へ進出の夢を、あつく抱いてこの地を選んだものとおもわれた。

1853年(嘉永6)水戸藩が開設した石川島造船所跡に、1876年(明治9)みずからの造船所(石川島平野造船所)を開設して造船事業をはじめた平野富二は、水運の有効性を十分に知っていた。また終生、船での旅をいとうことなく繰りかえしたひとでもあった。このことは近刊『平野富二伝』(古谷昌二)に詳述されている。
したがって築地の本格創業にむけた新天地の選択には、ゆたかな水量の築地川と、そこから石川島をへて、渺渺とひろがる東京湾から太平洋につらなる「水運の利便性」という視点から、この地が選択された可能性がおおきいとみられた。
與談ながら……、石川島造船所(現 IHI )が本2013年をもって「創業160年」としているのは、1853年(嘉永6)水戸藩が開設した石川島造船所の開設をもってその起点としているようである。

江戸切り絵図から

江戸切絵図
数寄屋橋から晴海通りにそって、改修工事がなった歌舞伎座のあたり、采女ヶ原 ウネメガハラ の馬場を過ぎ、万年橋を渡ると永井飛騨守屋敷(現松竹ビル)、隣接して秋田筑後守屋敷跡が東京築地活版製造所(現コンワビル)となった。いまは電通テックビルとなっているあたり、青山主水邸の一部が平野家、松平根津守邸の一部が薩摩藩出身・英国公使/上野景範カゲノリ家で、義弟とみられる弘道軒・神﨑正誼マサヨシが、この上野の長屋に寄留して楷書体活字のひとつ「弘道軒清朝活字」を創製した。神崎正誼の弘道軒活版製造所は、本格創業の地としてここから徒歩5分ほど、銀座御幸通り(現ユニクロ銀座旗艦店の裏手)に開設したが、活字製造者やタイポグラファにとっては まさにゆかりの地である。

《大火のあと、煉瓦建築が推奨された ── 火災を怖れた東京築地活版製造所の社風の一端》
東京築地活版製造所の建物が、創業直後から煉瓦づくりであった……、とする記録に関心をむけた論者は少ないようである。
もともとわが国の煉瓦建築の歴史は幕末からはじまり、地震にたいする意外なほどの脆弱さをみせて、普及が頓挫した関東大地震のあいだまで、ほんの65年ほどという短い期間でしかなかった。

わが国で最初の建築用煉瓦がつくられたのは1857年(安政4)、長崎の溶鉄所事務所棟のためだったとされる。その後幕末から明治初期にかけて、イギリスやフランスのお雇い外国人の技術指導を受けて、溶鉱炉などにもちいた白い耐火煉瓦と、近代ビルにもちいた赤い建築用の国産煉瓦がつくられた。
それが一気に普及したのは、前述した1872年(明治5)2月25日におきた、銀座から築地一帯をおそった大火のためである。

築地は築地本願寺の大伽藍をはじめとして、あたり一面が全焼し、茫茫たる焼け野原となった。 その復興に際し、明治新政府は、新築の大型建築物は煉瓦建築によることを決定した。 また、この時代のひとびとにとっては、重い赤色の煉瓦建築は、まさしく文明開化を象徴する近代建築のようにもみえた。

そのために東京築地活版製造所は、その社屋をさまざまな資料などに わざわざ「煉瓦建築で建造」したと、しばしば、そしてあちこちにしるしていたのである。
さらに平野富二にとっては、水運に恵まれ、工場敷地として適当な広大な敷地を、しかも焼亡して、除霊までなされた適度な広さの武家屋敷跡を、わずかに1,000円(米価1俵60kg基準で、現代との価格差を2,000倍とすると、2千万円見当)という、おそらく当時の物価からみても低額で取得することができたのである。

その事実を、平野富二は複数の出資者にたいして、購入価格を開示して、けっして無駄な投資をしたのではないことを表明したために記録にのこったものとみたい。
平野富二は官業をきらい民間企業、民業にこだわったために、のちに渋澤榮一の助言をえて、株式会社に改組するまでは「複数の個人出資者」の存在はおもかった。このことは、嫡孫・平野義太郎があかした「平野富二首證文」をつうじてまもなく紹介したい。
すなわち、牧治三郎が述べた「幕末切腹事件」などは、青雲の志を抱いて郷関をでた平野富二にとって、笑止千万、聞く耳もなかったこととおもわれる。

《野村宗十郎専務時代の東京築地活版製造所新ビルディングの西南角の正門は、裏鬼門に設けられていた》
「寝た子をおこすな」という俚諺がある。
牧治三郎が活字鋳造業者の機関誌『活字界 22号』の連載記事で述べた、
「大正12年に新築された東京築地活版製造所のあたらしいビルの正門は、裏鬼門とされる場所に設けられた」
とする記述は、もしかすると、あまりにも甚大な被害をもたらした関東大地震と、戦災の記憶とともに、歴史の風化に任せてもよいのかもしれないとおもったことがある。
このおもいを牧に直接ぶつけたことがあった。

東洋インキ製造会社の故小林鎌太郎社長が、野村宗十郎社長[専務]には遠慮して[直接には]話さなかったが、当時の築地活版 [東京築地活版製造所]の重役で、 [印刷機器輸入代理店]西川求林堂の故西川忠亮氏に『新ビルの正門は裏鬼門だ』と話したところ、これが野村社長に伝わり、野村社長にしても、社屋完成早々の震災で設備一切を失い、加えて活字の売行き減退で、これを気に病んで死を早めてしまった。
『活字界  22号』 (牧治三郎、全日本活字工業会  昭和46年7月20日)

「西川求林堂の西川忠亮さんから指摘されるまで、東京築地活版製造所の従業員は、自社の新ビルの正門が裏鬼門、それももっとも忌まれる死門の方角にあたることを知らなかったのですか」

「もちろんみんな知ってたさ。 とくにイモジ[活字鋳造工]の連中なんて、活字鋳造機の位置、火口 ヒグチ の向きまで気にするような験 ゲン 担ぎの連中だった。 だから裏鬼門の正門からなんてイモジはだれも出入しなかった。
オレや組合[印刷同業会]の連中だって建築中からアレレっておもった。 大工なら鬼門も裏鬼門もしってるし、あんな裏鬼門で、しかも死門とされるとこには正門はつくらねぇな。 知らなかったのは、帝大出のハイカラ気取りの建築家と、野村先生だけだったかな」

「それで、野村宗十郎は笑い飛ばさなかったのですか」

「野村先生は、頭は良かったが、気がちいせえひとだったからなぁ。 震災からこっち、ストはおきるし、金は詰まるしで、それを気に病んでポックリ亡くなった」


家相八方位吉凶一覧(平成26年神宮寳暦』)東京築地活版製造所の新ビルの正門は、家相盤あるいは風水羅針盤とされる
「家相八方吉凶一覧」でいう、裏鬼門に設けられた。

『平成二十六年神宮寳暦』(高島易断所本部、東京神宮館蔵版、208p. 2013)

《家相八方位吉凶一覧からみた裏鬼門、そして死門とは》
宅地や敷地の相の吉凶を気にするひとがいる。 ふるくは易学として ひとつの学問体系をなしていた。
またこの時期(10月-翌年1月中)なら、書店のレジの近くに各種の『和暦』が山のようにつまれ、そこにはほとんど上掲のような「吉凶図」をみることができる。

ここで東京築地活版製造所の本社工場のことをあらためてしるすと、1873年(明治6)7月、平野富二らがこの地に煉瓦建てのちいさな建物をもうけた。そして斯業の発展とともに増改築をくりかえした。そして1923(大正12)全面改築がなされて、上掲写真のような姿になっていた。
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このビルは堅牢なつくりであった。不幸なことに完成直後に関東大地震に見舞われ、太平洋戦争でも空襲の猛火に包まれた歴史をもっていた。
東京築地活版製造所の本社工場の新ビルディングは、1923年(大正12)3-9月に竣工した。
地下1階地上4階の堂堂たるコンクリート造りで、活字や印刷機器の重量に耐える堅牢な建物であった。ところが竣工から間もなく、同年9月1日午前11時58分に襲来した関東大地震によって、東京築地活版製造所の新ビルは、焼失は免れたものの、設備の一切は火災によって焼失した。
またこのとき隣接して存在していた、同社設立者の平野家も、土蔵を除いてすべてを焼失し、印刷関連機器の製造工場「月島分工場」も火焔に没した。

関東大地震でも焼失を免れたこのビルは、東京築地活版製造所が清算解散した1938年(昭和13)に精銅・銅線業者による「懇話会」に売却され、一部を改装して継続使用された。そののち戦災の猛火にもあったが、それにもよく耐えて、1971年(昭和46)まで「懇話会館」の名称で使用されていた。
さすがに老朽化が目立って、1971年(昭和46)3月「懇話会」によって、全面取り壊し、新築ビルが建設されることになったことをきっかけとして、牧治三郎による『活字界』での二回の連載記事が掲載された。
この場所にはあたらしい「コンワビル」が新築されてこんにちにいたっている。

取り壊し前の東京築地活版製造所の新ビルの正門は、西南の角、すなわち易学の「家相八方位」ではもっとも忌まれる死門、坤(コン、ひつじさる)の方角に設けられていた。
現代ではこうした事柄は、おおかたからは迷信とされて一笑に付されるが、それでもひとからそれをいわれれば気分の良いものではない。
また戯れにひいた神社のお神籤で「凶」などをひくと、なにか不快になるものだ。迷信とはそんなものかもしれない。つまりソッとしておくことである。
ところが牧治三郎は、取り壊しが決定した元東京築地活版製造所ビルの、こうした「幕末の忌まわしい事件による不浄の地 ── これは事実と反することは既述した」と、「正門が忌むべき裏鬼門にあった」ことの歴史を暴きたてたのである。 まさしく 「寝た子をおこした」 のである。

     

牧  治 三 郎  まき-じさぶう
67歳当時の写真と、蔵書印「禁 出門 治三郎文庫」
1900年(明治33)―2003年(平成15)歿。

これからその牧の当時の写真を再度紹介するとともに、B5判2ページ、2回、都合4ページにわたった活字鋳造業界の機関誌『活字界』の連載を紹介したい。
ここには東京築地活版製造所が、必ずしも平坦な道を歩んだ企業ではなく、むしろ官営企業からの圧迫に苦闘し、景気の浮沈のはざまでもだき、あえぎ、そして長崎人脈が絶えたとき、官僚出身の代表を迎えて、解散にいたるまでの貴重な歴史が丹念につづられている。

この『活字界』の連載での牧治三郎指摘を受けて、当時の印刷人や活字人が、どれほど驚愕し、戦慄し、周章狼狽して、急遽「禊ぎと祓い」のために対処したのかを紹介することになる。
その心性の背後には、不浄を忌み、火を怖れうやまうという、「鋳物師 イモジ」の風習と伝統があったことは、ここまで読みすすまれた読者なら、もうおわかりであろう。
なお、牧治三郎の文章はときおり粗放になることがある。また『活字界』という、いわば身内の業界機関誌でのみじかい連載でもあったので、校正なども粗略に終えたかも知れない。そのため[ ]をもちいて筆者が補筆した部分がある。

牧治三郎の連載は、以下の二冊の小冊子に発表された。そしてその提唱をうけた業界の対応は、なんとも素早く連載二回目と同様の『活字界 22号』に掲載されている。
◎ 旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し
                    『活字界 21号』(全日本活字工業会、昭和46年5月)
◎ 続・旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し
                    『活字界 22号』(全日本活字工業会、昭和46年7月)

この『活字界 21号』と『活字界 22号』の発行のあいだ、わずか2ヶ月のあいだに、全日本活字工業会の下部組織、東京活字協同組合は、はやばやと、6月27日開催の理事会で「旧東京築地活版製造所跡に記念碑を建設する件」について協議をしている。
そして同理事会の協議の結果、連載二回目掲載誌の『活字界 22号』(全日本活字工業会、昭和46年7月)に、同時に、
「東京活字協同組合が中心となって、印刷業界と歩調を併せ、記念碑建設の方向で具体策を進めていくことを確認。この旨全印工連、日印工、東印工組、東印工へ文書で申し入れることとなった」
として、本来は広告のスペースを無理やり潰して、以下の方向性を打ちだすことになった。

旧東京築地活版製造所その後

全日本活字工業会広報部:中村光男
(牧治三郎の問題提起2回目と同じ『印刷界22号』に 、囲み記事として広告欄に掲載された)

東京活字協同組合では6月27日開催の理事会で「旧東京築地活版製造所跡に記念碑を建設する件」について協議した。旧東京築地活版製造所跡の記念碑建設については本誌『活字界』に牧治三郎氏が取壊し記事を掲載したことが発端となり、牧氏と同建物跡に建設される懇話会館の八十島[耕作]ヤソジマ-コウサク社長との間で話し合いが行なわれ、八十島社長より好意ある返事を受けることができた。

この日の理事会はこうした記念碑建設の動きを背景に協議を重ねた結果、今後は全日本活字工業会および東京活字協同組合が中心となって、印刷業界と歩調を併せ、記念碑建設の方向で具体策を進めていくことを確認。この旨全印工連、日印工、東印工組、東印工へ文書で申し入れることとなった。

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旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し

牧 治三郎 『活字界 21号』(全日本活字工業会  昭和46年5月20日)

『活字界 21号』「旧東京築地活版製造所社屋の取り壊し」(昭和44年5月20日)

《活字発祥の[舞台、]歴史[の幕を]閉じる》
旧東京築地活版製造所の建物が、新ビルに改築のため、去る[昭和46年]3月から、所有者の懇話会館によって取壊されることになった。
この建物は、東京築地活版製造所が、資本金27万5千円の大正時代に、積立金40万円(現在の金で4億円)を投じて建築したもので、建てられてから僅かに50年で、騒ぎたてるほどの建物ではない。 ただし活字発祥一世紀のかけがえのない歴史の幕がここに閉じられて、全くその姿を消すことである。

《大正12年に竣成》
[東京築地活版製造所の最後の]この社屋は、大正11年野村宗十郎社長[専務]の構想で、地下1階、地上4階、天井の高いどっしりとした建物だった。特に各階とも一坪当り3噸 トン の重量に耐えるよう設計が施されていた。

同12年7月竣成後、9月1日の関東大震災では、地震にはビクともしなかったが、火災では、本社ばかりか、平野活版所当時の古建材で建てた月島分工場も灰燼に帰した。罹災による被害の残した大きな爪跡は永く尾を引き、遂に築地活版製造所解散の原因ともなったのである。

幸い、大阪出張所[大阪活版製造所]の字母[活字母型]が健在だった[大阪活版製造所の閉鎖時期については資料が少ない。大正12年に存在していたとは考えにくいが、同社系の企業が谷口印刷所などとして存在していた時代であり、そこからの提供を指すものか?]ので、1週間後には活字販売を開始[した]。 いまの東京活字[協同]組合の前身、東京活字製造組合の罹災[した]組合員も、種字[活字複製原型。 ここでは電鋳法による活字母型か、種字代用の活字そのものか?]の供給を受けて復興が出来たのは、野村社長の厚意によるものである。

大阪活版製造所跡の碑文と景観「大阪活版所跡」碑(所在地:大阪市東区大手通二丁目。写真:雅春文庫提供)
大阪活版所、大阪活版製造所に関しては、その設立の経緯、消長とあわせ、まだ十分には印刷史研究の手がおよんでいない。この「大阪活版所跡」碑の側面の碑文にはこのようにある。
「明治三年三月 五代友厚の懇望を受けた本木昌造の設計により この地に活版所が創設された 大阪の近代印刷は ここに始まり文化の向上に大きな役割を果たした」

この「五代友厚の懇望を受けた本木昌造の設計により この地に活版所が創設された」の部分がわかりづらい。すなわち平野富二は、五代友厚(1836-85)に、のちに巨額の「返済」をしているからである。これは近近「平野富二首證文」のなかで考察したい。

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なお大阪商工会議所ビル,、鹿児島商工会議所ビルの前には、いずれも五代友厚の立像が建つ。また鹿児島中央駅前には「若き薩摩の群像」のおおきな彫刻があり、その中央には英国留学中の五代友厚が前方を指さす勇壮な姿で刻されている。

ところで、『五代友厚伝』をはじめ、ほとんどの大阪・鹿児島発の情報には「五代友厚が大阪活版所を開設した」と記録されている。
ウキペディアの五代友厚にも「明治2年(1869年)の退官後、本木昌造の協力により英和辞書を刊行」とある。
これは通称『薩摩辞書』のことを指すとおもわれるが、『薩摩辞書』は本木昌造一門の当時の力量では組版・印刷がおもうにまかせず、ついに断念して、上海で印刷されたと一部に記録されるものである。
本木昌造、平野富二の両氏に資金を提供したとみられる五代友厚であるが、印刷史研究の手はまだおよんでいないようにみえる。有志の皆さんの奮起を期待するゆえんである。

平野富二が最初に東京の拠点を設けた場所として 「外神田佐久間町三丁目旧藤堂邸内[門前とも]の長屋」としばしばしるされるが、正確な場所の特定はあまり試みられていない。
『東都下谷絵圖』(1862)を手にしてJR秋葉原駅から5分ほどの現地を歩いてみると、神田佐久間町三丁目は地図左端、神田川に沿って現存しており、現状の町並みも小規模な印刷所が多く、街並みにもさほど大きな変化はない。すなわち藤堂和泉守屋敷は、台東区立和泉小学校、泉公園となり、その路地を挟んで、佐竹右京太夫邸との間の、細長い民家の家並みが「長屋」跡とみられる。その神田佐久間町三丁目の一部が、平野富二の最初の拠点であったとみられる。(尾張屋静七判『江戸切絵図』人文社、1995年4月20日)

 《明治5年外神田で営業開始》
東京築地活版製造所の前身は周知の通り、本木昌造先生の門弟、平野富二氏が、長崎新塾出張活版製造所の看板を、外神田佐久間町三丁目旧藤堂邸内[前?]の長屋に出して、ポンプ式手廻鋳造機[このアメリカ製のポンプ式ハンドモールド活字鋳造機は、平野活版所と紙幣寮が導入していたとされる。わが国には実機はもとより、写真も存在しない]2台、上海渡りの8頁ロール(人力車廻し)[B4判ほどの、インキ着肉部がローラー式であり、大型ハンドルを手で回転させた活版印刷機] 1台、ハンドプレス[平圧式手引き活版印刷機]1台で、東京に根を下ろしたのが、太陰暦より太陽暦に改暦の明治5年だった。
[東京築地活版製造所は、資料『東京築地活版製造所紀要』などでも、創業を築地移転後の明治6年としている。またこの項目の機械設備紹介はあまり先行事例をみず、牧治三郎独自の貴重な調査・紹介記録とおもわれる]。

新塾活版開業の噂は、忽ち全市の印刷業者に伝わり、更らにその評判は近県へもひろがって、明治初期の印刷業者を大いに啓蒙した。

《明治6年現在地に工場に建築》
翌6年8月、多くの印刷業者が軒を並べていた銀座八丁[銀座・京橋自慢の牧は、この呼び名を好んで口にした]をはさんで、釆女が原ウネメガハラから、木挽町コビキチョウを過ぎ、万年橋を渡った京橋築地2丁目20番地の角地、120余坪を千円で買入れ、ここに仮工場を設けて、移転と同時に、東京日日新聞の[明治6年]8月15日号から6回に亘って、次の移転広告を出した。

是迄外神田佐久間町3丁目において活版並エレキトルタイプ銅版鎔製摺機附属器共製造致し来り候処、今般築地2丁目20番地に引移猶盛大に製造廉価に差上可申候間不相変御用向之諸君賑々舗御来臨のほど奉希望候也 明治6年酉8月 東京築地2丁目万年橋東角20番地
長崎新塾出張活版製造所 平野富二

《移転当時の築地界隈》
平野富二氏の買求めたこの土地の屋敷跡は、江戸切絵図によれば、秋田淡路守の子、秋田筑前守(五千石)中奥御小姓の跡地で、徳川幕府瓦解のとき、此の邸で、多くの武士が切腹した因縁の地で、主なき門戸は傾き、草ぼうぼうと生い茂って、近所には住宅もなく、西本願寺[築地本願寺]の中心にして、末派の寺と墓地のみで、夜など追剥ぎが出て、1人歩きが出来なかった。

《煉瓦造工場完成》
新塾活版[長崎新塾出張活版製造所]の築地移転によって、喜んだのは銀座界隈の印刷業者で、神田佐久間町まで半日がかりで活字買い[に出かけるための]の時間が大いに省けた。商売熱心な平野氏の努力で、翌7年には本建築が完成して、鉄工部を設け、印刷機械の製造も始めた。

《勧工寮と販売合戦》
新塾活版[長崎新塾出張活版製造所]の活字販売は、もとより独占というわけにはいかなかった。銀座の真ん中南鍋町には、平野氏出店の前から流込活字[活字ハンドモールドを用いて製造した活字]で売出していた志貴和助や大関某[ともに詳細不詳]などの業者にまじって、赤坂溜池葵町の工部省所属、勧工寮活版所も活字販売を行っていた。同9年には、更らに資金を投じて、工場設備の拡張を図り、煉瓦造り工場が完成した。

勧工寮は、本木系[の平野富二らと]と同一系統の長崎製鉄所活版伝習所の分派で、主として太政官日誌印刷[を担当していた]の正院印書局のほか、各省庁及府県営印刷工場へ活字を供給していたが、平野氏の進出によって、脅威を受けた勧工寮は、商魂たくましくも、民間印刷工場にまで活字販売網を拡げ、事毎に新塾活版[長崎新塾出張活版製造所]を目の敵にして、永い間、原価無視の安売広告で対抗し、勧工寮から印書局に移っても、新塾活版[長崎新塾出張活版製造所]の手強い競争相手だった。

《活字割引販売制度》
この競争で、平野氏が考え出した活字定価とは別に、割引制度を設けたのが慣習となって、こんどの戦争[第二次世界大戦]の前まで、どこの活字製造所でも行っていた割引販売の方法は、もとを質だせば、平野活版所と勧工寮との競争で生れた制度を踏襲した[もの]に外ならない。勧工寮との激烈な競争の結果、一時は、平野活版所[長崎新塾出張活版製造所]の身売り説が出たくらいで、まもなく官営の活字販売が廃止され、平野活版所[長崎新塾出張活版製造所]も漸やく、いきを吹き返す事が出来た。

《西南戦争以後の発展と母型改刻》
西南戦争[1877年/明治10]を最後に、自由民権運動の活発化とともに、出版物の増加で、平野活版所[長崎新塾出張活版製造所]は順調な経営をつづけ、そのころ第1回の明朝体[活字]母型の改刻を行い、その見本帳が明治12年6月発行された。
[牧治三郎はこの明治12年版東京築地活版製造所の見本帳を所有しており、しばしば有料貸し出しに応じていた。東京築地活版製造所では明治9年にすでに冊子型見本帳を発行しており、一冊は英国セント&ブライド博物館が所蔵していたが、10年ほど前から所在不明。もう一冊は印刷図書館蔵であるが、表紙などを欠く。ついで明治10年版があり、これは平野富二旧蔵書で関東大地震の消化水をかぶっているが原姿をたもって平野ホール藏。その俗称明治10年版の「改訂版」としるされたのが明治12年版、牧治三郎ご自慢の品であった] 。

次いで、同12年には、活版所の地続き13番地に煉瓦造り棟を新築し、この費用3千円を要した。残念なことに、その写真をどこへしまい忘れたか見当らないが、同18年頃の、銅版摺り築地活版所の煉瓦建の隣りに建てられていた木造工場が、下の挿図である。この木造工場は、明治23年には、2階建煉瓦造りに改築され、最近まで、その煉瓦建が平家で残されていたからご承知の方もおられると思う。

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続 旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し

牧 治三郎 『活字界 22号』 (全日本活字工業会  昭和46年7月20日)

『活字界 22号』「続 東京築地活版製造所社屋の取り壊し」(昭和44年7月20日)

《8万円の株式会社に改組》
明治18年4月、資本金8万円の株式会社東京築地活版製造所と組織を改め、平野富二社長、谷口黙次副社長、曲田成支配人、藤野守一郎副支配人、株主20名、社長以下役員15名、従業員男女175名の大世帯に発展した。その後、数回に亘って土地を買い足し、地番改正で、築地3丁目17番地に変更した頃には、平野富二氏は政府払下げの石川島[平野]造船所の経営に専念するため曲田成社長と代わった。

《築地活版所再度の苦難》
時流に乗じて、活字販売は年々順調に延びてきたが、明治25-6年ごろには、経済界の不況で、築地活版は再び会社改元の危機に直面した。活字は売れず、毎月赤字の経営続きで、重役会では2万円の評価で、身売りを決定したが、それでも売れなかった。

社運挽回のため、とに角、全社員一致の努力により、当面の身売りの危機は切抜けられたが、依然として活字の売行きは悪く、これには曲田成社長[専務]と野村支配人も頭を悩ました。

《戦争のたびに発展》
明治27-8年戦役[日清戦争]の戦勝により、印刷界の好況に伴い、活字の売行きもようやく増してきた矢先、曲田成社長[専務]の急逝で、東京築地活版製造所の損害は大きかったが、後任の名村泰蔵社長[専務]の積極的経営と、野村支配人考案のポイント活字が、各新聞社及び印刷工場に採用されるに至って、東京築地活版製造所は日の出の勢いの盛況を呈した。

次いで、明治37-8年の日露戦役に続いて、第一次世界大戦後の好況を迎えたときには、野村宗十郎氏が社長[専務]となり、前記の如く東京築地活版製造所は、資本金27万5千円に増資され、50万円の銀行預金と、同社の土地、建物、機械設備一切のほか、月島分工場の資産が全部浮くという、業界第一の優良会社に更生し、同業各社羨望の的となった。

このとき同社の[活字]鋳造機は、手廻機[手廻し式活字鋳造機・ブルース型活字鋳造機]120台、米国製トムソン自動[活字]鋳造機5台、仏国製フユーサー自動鋳造機[詳細不明。調査中]1台で、フユーサー機は日本[製の活字]母型が、そのまま使用出来て重宝していた。

《借入金の重荷と業績の衰退》
大正14年4月、野村社長は震災後の会社復興の途中、68才で病歿[した。その]後は、月島分工場の敷地千五百坪を手放したのを始め、更に[関東大地震の]復興資金の必要から、本社建物と土地を担保に、勧銀から50万円を借入れたが、以来、社運は次第に傾き、特に昭和3年の経済恐慌と印刷業界不況のあおりで、業績は沈滞するばかりであった。再度の社運挽回の努力も空しく、勧業銀行の利払にも困窮し、街の高利で毎月末を切抜ける不良会社に転落してしまった。

《正面入口に裏鬼門》
[はなしが]前後するが、ここで東京築地活版製造所の建物について、余り知られない事柄で[はあるが]、写真版の社屋でもわかる通り、角の入口が易[学]でいう鬼門[裏鬼門]にあたるのだそうである。

東洋インキ製造会社の故小林鎌太郎社長が、野村社長には遠慮して話さなかったが、東京築地活版製造所築地活版の重役で、[印刷機器輸入代理店]西川求林堂の故西川忠亮氏に話したところ、これが野村社長に伝わり、野村社長にしても、社屋完成早々の震災で、設備一切を失い、加えて活字の売行き減退で、これを気に病んで死を早めてしまった。

次の松田精一社長[第5代専務、長崎十八銀行頭取を兼任]のとき、この入口を塞いでしまったが、まもなく松田社長も病歿。そのあと、もと東京市電気局長の大道良太氏を社長に迎えたり、誰れが引張ってきたのか、宮内省関係の阪東長康氏を専務に迎えたときは、裏鬼門のところへ神棚を設け、朝夕灯明をあげて商売繁盛を祈った。

ところが、時既に遅く、重役会は、社屋九百余坪のうち五百坪を42万円で転売して、借金の返済に当て、残る四百坪で、活版再建の計画を樹てたが、これも不調に終り、昭和13年3月17日、日本商工倶楽部[で]の臨時株主総会で、従業員150余人の歎願も空しく、一挙[に]解散廃業を決議して、土地建物は、債権者の勧銀から現在の懇話会館に売却され、こんどの取壊しで、東京築地活版製造所の名残が、すっかり取去られることになるわけである。

以上が由緒ある東京築地活版製造所社歴の概略である。叶えられるなら、同社の活字開拓の功績を、棒杭でよいから、懇話会館新ビルの片すみに、記念碑建立を懇請してはどうだろうか。これには活字業界ばかりでなく、印刷業界の方々にも運動参加を願うのもよいと思う。

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旧東京築地活版製造所その後

全日本活字工業会広報部:中村光男
(牧治三郎の問題提起と同じ『印刷界 22号』に、囲み記事として急遽広告欄に掲載された)

東京活字協同組合では6月27日開催の理事会で「旧東京築地活版製造所跡に記念碑を建設する件」について協議した。旧東京築地活版製造所跡の記念碑建設については本誌『活字界』に牧治三郎氏が取壊し記事を掲載したことが発端となり、牧氏と同建物跡に建設される懇話会館の八十島[耕作]社長との間で話し合いが行なわれ、八十島社長より好意ある返事を受けることができた。

この日の理事会はこうした記念碑建設の動きを背景に協議を重ねた結果、今後は全日本活字工業会および東京活字協同組合が中心となって、印刷業界と歩調を併せ、記念碑建設の方向で具体策を進めていくことを確認。この旨全印工連、日印工、東印工組、東印工へ文書で申し入れることとなった。