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【平野富二論攷輯】 01 未解明な歴史を刻んだ 『株式会社東京築地活版製造所紀要』

平野富二論攷輯バーナー01resized
資料/『株式会社東京築地活版製造所紀要』紹介

ふしぎな資料がある。題して『株式会社東京築地活版製造所紀要』である。
題名が平板だし、パラッとみたときは単なる企業紹介誌かとおもって精読はしなかった。しかも流通部数がよほど少なかったのか、ほとんどの論者がとりあげることがなかった資料である。
したがってこの小冊子が、いつ、どこからきて、なぜ筆者の手許にあるのかもわからないでいる。つまり装本だけはやけに丁寧だが、薄っぺらな小冊子である。

B表紙紀要-1024x817[1]『株式会社東京築地活版製造所紀要』(株式会社東京築地活版製造所 昭和4年10月)
紀要二+三1-1024x819[1]本文ページ/四号明朝体 26字詰め 12行  字間五号八分アキ  行間五号全角アキ

冊子の装本仕様は以下のようになっている。
天地184ミリ × 左右127ミリ
大和綴じを模した和装仕上げ
表     紙 : 皺シボのある薄茶厚手紙、活字版墨一色、片面刷り
口  絵  部 : 5葉(裏白片面印刷。塗工紙に石版印刷をしたとみたいが、オフセット平版印刷の可能性あり)
本     文 : 10ページ(生成りの非塗工紙に活字版墨一色両面印刷/活字原版刷りとみたい)
本文組版 : 四号明朝体 26字詰め 12行 字間五号八分アキ 行間五号全角アキ
刊  記 : 無し(本文最終行に 昭和四年十月とある)
──────────
『株式会社東京築地活版製造所紀要』と題されたこの冊子は、刊記こそないものの、収録内容と活字書風からみて、昭和4年10月に、東京築地活版製造所によって、編輯・組版・印刷されたとみることができる。
しかしふつう、「紀要」とは、「大学・研究所などで刊行する、研究論文を収載した定期刊行物」とされる。もちろん「ことば」は時代のなかで変化するが、本冊子を「紀要」題して公刊した意図がみえにくい内容である。つまりこの冊子は、現在ならさしずめ「企業紹介略史」ともいえる内容となっている。

本稿では、この全文を現代通行文として読みくだし、若干の句読点を付した「釈読版」と、原本のままを紹介した「原文版」を掲載した。
時間が許せば、読者はこの両方をお読みいただきたいが、「釈読版」の一部には稿者が私見やほかの資料から引用した項目がある。これらは 〔 亀甲括弧 〕 をもちいて表示した。

当時の社長は第五代松田精一(1875-1937)であった。このひとは松田源五郎の子息であった。まず明治長崎の実業家であり、〝ふうけもん〟としていまだに語りつがれている松田源五郎を紹介したい。

bf68f72db8e94a4692f5bf51ba72e26a[1] cf112724480f737e17aa85e69ea61519[1]1877(明治10)年、松田源五郎・安中半三郎らが提唱して長崎で開催された「内国勧業博覧会」のおりに、中島川河畔の上野彦馬の「上野撮影局」で撮影した松田源五郎、36-37歳のころの写真。
およそ銀行家・衆議院議員・商法(工)会議所会頭といったいかめしい肩書きからは想像ができない〝ふうけもん〟とも評されたこのひとの側面を上野彦馬は撮影に成功している。
この年は西南戦争が勃発しており、緊張下での博覧会の開催だったとされる。上野彦馬は同年西南戦争の戦跡も撮影している。

この写真は1886(明治19)大村活版所として創業された松田源五郎の縁者、大村市の株式会社オムロプリント代表取締役 : 松尾 巌氏蔵。
大村活版所は新町活版所の門下生であった松尾文吾と、その弟:松田敬次郎によって創業され、松田源五郎の外戚で、玄孫にあたる松尾 巌氏が率いる株式会社オムロプリントは130年余の歴史を有する。

上野彦馬(うえの-ひこま、1838-1904、天保9-明治37)
江戸末期から明治初期の写真家。島津藩で日本最初のダゲレオタイプを試みた上野俊之丞の四男として長崎に生まれ、豊後日田の広瀬淡窓の下で学んだ後、長崎でオランダ語と化学を学び、1862(文久2)年堀江鍬次郎と共著の『舎密局必携』を出版して近代的化学を紹介した。
化学と写真術はオランダ政府派遣の海軍医ポンペ van M. から学び、写真機や薬品を自製、1862(文久2)年長崎に日本最初の営業写真館を開設し、コロジオン湿板を使って写真を撮影して好評を博し、坂本竜馬、高杉晋作、伊藤博文ら維新の志士たちも長崎に赴いて肖像を撮影した。
『世界大百科事典』(平凡社、友田 冝忠)

松田源五郎(まつだ-げんごろう 1840−1901)は、天保11年4月8日生まれ。1876(明治9)年第十八国立銀行を創立して支配人、ついで第二代頭取となる。1879(明治12)年長崎商法会議所(現長崎商工会議所)初代会頭。
「長崎新聞」の創刊や商業学校の創立など長崎実業界で指導的役割をはたした。1892(明治25)年衆議院議員。東京築地活版製造所役員を重任し、平野富二の事業を支援して「有限責任石川島造船所」に出資。明治34年3月1日死去。62歳。肥前長崎出身。本姓は鶴野(参考:『日本人名辞典』講談社)。
77c84cec1c5da91102975e4a71f38f6f[1] 14-4-49353[1]平野富二の創建による「石川島(平野)造船所」が、規模の拡大とともに資金需要が増大し、いち個人の事業では経営がなりたたなくなってきた。そこで平野富二は1889(明治22)年、渋沢栄一の助言と支援を得て、渋沢栄一・平野富二・梅浦精一・西園寺公成を設立委員として、「有限責任石川島造船所」(現 IHI )を設立した。
「有限責任石川島造船所」の設立時の資本総額は17万5000円(ひと株100円)で、株主数は17人で総株数は1750株であった。同社創立時の株主名簿は現存しないが、三年目の株主とその持株数が「第三次営業報告」(明治25年)に掲載されている。

主要株主氏名
渋沢  栄一   400株
平野  富二   389株
松田源五郎   270株
田中  永昌   250株
西園寺公成   150株
梅浦  精一   130株

その筆頭株主は第一銀行頭取・渋沢栄一であり、第三位の株主として長崎の十八銀行頭取・松田源五郎が記録に登場するのは、この写真から15年ほどのちのことになる。 松田源五郎立像 戦前 長崎商工会議所 14-4-49353この諏訪公園丸馬場に、戦前は巨大な松田源五郎の立像があった。
この像はならびたっていた「本木昌造座像」とともに戦時供出されたために、いまはいくぶん小ぶりの胸像が設置されている。

松田精一(1875-1937)もまた、東京築地活版製造所の社長であるとともに、長崎の十八銀行頭取(在任1925-1933年1月)で衆議院議員でもあった。
しかし稿者をふくめて、論者の一部は、短期間「社長心得」という聞きなれない職にとどまった、本木昌造の男子・本木小太郎を、実際には就任していない「東京築地活版製造所第二代社長」においたため、それ以降の東京築地活版製造所の消長と、社長の世代紹介に齟齬ソゴをきたしていた。

また近年、国立国会図書館から『株式会社東京築地活版製造所社長 曲田成君略伝』がデジタル公開された。


曲田成 resized 譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈陦ィ1 譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈2 譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈3 譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈螂・莉・『株式会社東京築地活版製造所社長 曲田成君略伝』 PDF 3.62MB

『株式会社東京築地活版製造所社長 曲田成君略伝』の公開によって、ようやく稿者も蒙を啓かれたおもいがした。
したがって本稿につづいて『株式会社東京築地活版製造所社長 曲田成君略伝』にも論及したい。意欲ある読者は PDF版 を添付しておいたので、事前にお目通しをいただきたい。

すなわち『株式会社東京築地活版製造所紀要』は必ずしも同社の事歴を忠実に記録しているわけではなく、設立者にして初代社長の平野富二の紹介がなく、第二代社長:曲田成の功績に触れることなく記述されている。
なによりも『株式会社東京築地活版製造所紀要』を所蔵していながら、稿者も先行文献にしたがって、疑問を抱きつつも本木小太郎を第二代社長として紹介したことがある。ここに不明お詫びするとともに、本稿連載をもって東京築地活版製造所の歴代社長をできるだけ丁寧に紹介したい。

まず、『株式会社東京築地活版製造所紀要』が刊行された昭和4年10月前後において、東京築地活版製造所がどのような状況にあったのかを調べたい。
つまり同社がなぜ、『株式会社東京築地活版製造所紀要』なる小冊子を、相当の経費をかけてまで製作する必要があったのか、そしてこの一見瀟洒な冊子が、なぜほとんど一般には流布することなく終わったのか、本冊子製作の目的を探るためである。

東京築地活版製造所変遷 S4本社

「東京築地活版製造所の歩み」

(『活字発祥の碑』所収 牧 治三郎 編輯・発行 同碑建設委員会 昭和46年6月29日)

◯1923(大正12)年 3月
東京築地活版製造所本社工場、新社屋〔第一期工事〕完成。地下1階地上4階竣成。
◯1923(大正12)年 9月1日午前11時58分

関東大震災襲来。築地本社及び月島分工場の全設備が羅災。
〔この日は階上部に設けられた活字母型収蔵庫・活字鋳造機・活字収納庫などの移設のさなかで、昼食のサイレンと同時に地震が襲ったとされる。建物は頑強で損傷がすくなかったが、活字母型・活字製造ラインが壊滅的な被害を蒙った〕
◯1925(大正14)年 04月

〔東京築地活版製造所第四代社長〕野村宗十郎社長病歿、享年69 正七位叙賜。
◯1925(大正14)年 05月

〔東京築地活版製造所第五大社長〕常務取締役に松田精一社長就任 (長崎十八銀行頭取を兼任) 。
◯1925(
大正14)年 11月
『改刻明朝五号漢字』 総数 9,570 字の活字見本帳発行。
◯1926(
大正15)年 02月
『欧文及び罫輪郭花形見本帳』 を発行(74頁)。
◯1926(昭和01)年 10

『新年用活字及び電気銅版見本帳』 を発行。
◯1928(昭和03)

大礼記念 国産振興東京博覧会 国産優良時事賞。 大礼記念京都大博覧会、国産優良名誉大賞牌。 御大典奉祝名古屋博覧会、名誉賞牌。 東北産業博覧会、名誉賞牌各受賞。
◯1929(昭和04)年 09

『欧文活字見本帳』 を発行 (68頁)。
◯1930(昭和05)年 01

時代に即応し、創業以来の社則を解いて 印刷局へ官報用 活字母型を納品。
◯1930(昭和05)年 06

〔東京築地活版製造所〕五代目社長 野村宗十郎の胸像を、目黒不動滝泉寺境内に建立。
〔滝泉寺山門を入ってすぐ右手に設置されたが、近年門外バス停付近に移設された〕
◯1931(昭和06)年 12

業務縮小のため 小倉市大阪町東京築地活版製造所九州出張所を閉鎖。
◯1932(昭和07)年 05

メートル制活字及び 『号数略式活字見本帳』 を発行。
◯1933(昭和08)年 05

『新細型 9 ポイント明朝体』 8,500 字完成発売。
◯1934(昭和09)年 05月
業祖 本木昌造の銅像が 長崎諏訪公園内に建立。
◯1935(昭和10)年 06

東京築地活版製造所第四代社長:松田精一の辞任に伴い、大道良太専務取締役就任。つづいて吉雄永寿専務取締役を選任。

・昭和10年(1935年) 7月
築地本願寺において 創業以来の物故重役 及び 従業員の慰霊法要を行なう。

・昭和10年(1935年)10月
資本金60万円。

・昭和11年(1936年) 7月
『新刻改正五号明朝体』 (五号格)字母完成活字発売。

・昭和12年(1937年)10月
吉雄専務取締役辞任、 阪東長康を専務取締役に選任。

・昭和13年(1938年) 3月
臨時株主総会において 会社解散を決議。 遂に明治5年以来66年の社歴に幕を閉じた。

これは「東京築地活版製造所の歩み」『活字発祥の碑』のパンフレットに、牧治三郎がのこした記録である。年度順に簡潔に述べてあるが、もうひとつ当時の活字鋳造所、東京築地活版製造所の状況や苦境がわかりにくいかもしれない。つまりこの『株式會社東京築地活版製造所紀要』は、すでに同社が主力銀行/第一銀行、十八銀行の資力だけでは到底支えきれない窮状にあり、別途に主力銀行を選定し、その支援をもとめるために製作されたものだとみられるからである。東京築地活版製造所は創立者・平野富二の時代から、渋澤榮一との縁から第一銀行、そして松田源五郎との縁から長崎の十八銀行とは密接な関係にあったが、それでもなお資金不足に陥ったということであろう。『株式會社東京築地活版製造所紀要』は、東京築地活版製造所の創立から、昭和4年(1929)までの「企業正史」を目論んだとはいえ、創立当時の記録内容は、ほとんど第1次『印刷雑誌』(明治24年・1891)「本木昌造君ノ肖像并行状」、「平野富二君ノ履歴」を一歩もでることがない資料である。

金融関係の資料であるから、明瞭な公開資料は乏しいが、東京築地活版製造所が解散・閉鎖された際の主力銀行は★日本勧業銀行と、第一銀行であったとする資料がのこされている。また株式会社★第一銀行は、かつて存在した日本の都市銀行である。統一金融機関コードは0001、前身の第一国立銀行は国立銀行条例による国立銀行(民間経営)、いわゆるナンバー銀行の第一号、渋澤榮一が第一代頭取で、明治6年(1873)年8月1日に営業を開始した日本初の商業銀行である。1971年に日本勧業銀行と合併して第一勧業銀行となる。現在のみずほ銀行、みずほコーポレート銀行である。

ここで渋澤榮一(1840-1931)に若干触れたい。渋澤は東京築地活版製造所創立者の平野富二とは昵懇であり、これもやはり平野富二の創立にかかる株式会社IHIの主要取引銀行であり、主要株主としてみずほ銀行グループがいまも存在するからである。渋澤は天保11年(1840)武州血洗島村(埼玉県深谷市)の豪農の子。はじめ幕府に仕え、明治維新後、大蔵省に出仕。辞職後、第一国立銀行を経営した。また王子製紙の創立者でもある。ほかにも紡績・保険・運輸・鉄道など多くの企業の設立に関与し、財界の大御所として活躍した。渋澤は長寿をたもち、引退後は社会事業、教育に尽力した。昭和6年(1931)に歿した。すなわち東京築地活版製造所が本当に苦境にあったとき、すでに最大の支援者・渋澤榮一は卒していたのである。

いずれにしても、東京築地活版製造所は『株式會社東京築地活版製造所紀要』発行後まもなくから、主要取引銀行に、第一銀行・十八銀行にかわって、日本勧業銀行が徐々にその中枢を占めるにいたった。もしかすると、東京築地活版製造所中興のひととされる野村宗十郎の積極作戦が、過剰設備投資となり、同社の経営を圧迫したのかもしれない。また新築の本社工場ビルが移転の当日に関東大地震に見舞われるという、大きな被害を回復できないままに終わったのかもしれない。

長崎のナンバー銀行/十八銀行頭取を兼任していた第5代代表・松田精一が昭和10年(1935)6月に辞任後は、同社における伝統ともいえた長崎系の人脈・血脈が途絶えた。したがってこれ以降の経営陣は日本勧業銀行系の人物が主流となったと見なすことが可能であろう。すなわち牧治三郎の記述によると、「もと東京市電気局長」大道良太専務取締役(詳細不詳)が第6代代表として就任した。しかしながら、同年同月には大道に代えて吉雄永寿(詳細不詳)を専務取締役・第7代代表に選任している。当然ながらこの唐突な人事の裏には相当の争い――日本勧業銀行系と、第一銀行、十八銀行による主導権の争奪があったとみることが可能である。もともと吉雄姓は長崎には多く、新街私塾塾生名簿にもたくさん登場する姓であるが、新街私塾塾生名簿は幼名でしるされているため、まだその人物を特定できない。しかしながら、吉雄永寿の専務取締役就任が長崎人脈への経営権の奪還とみなせるので、この時点ではまだ日本興業銀行は主導権を全面的には奪取していなかったとみたい。

昭和12年(1937)11月、吉雄永寿(詳細不詳)専務取締役・第7代代表が辞任した。この後任には「たれが引っ張ってきたのか宮内省関係の――牧治三郎」阪東長康専務取締役・第8代代表が就任した。そして国家権力構造と密接な関係があったとみられる阪東長康がどこかから――筆者は日本興業銀行とみなす以外にはないとおもうが――「派遣」され、その指揮下、就任のわずかに5ヶ月後、昭和13年(1938)3月、東京築地活版製造所は社員の嘆願も空しく、日本商工倶楽部での臨時株主総会において会社解散を決議した。吉雄永寿は栄光の歴史を誇った東京築地活版製造所を売却する使命をおびて「派遣」されたとしかみることができない人事であり、事実である。そしてついに、東京築地活版製造所はここに明治5年(1872)以来の栄光の社歴を閉じることになった。

ここで奇妙な事実がある。業界トップの企業であり、有力な広告主でもあった東京築地活版製造所の動向は、印刷業界紙誌は細大漏らさず記録していた。ところが昭和10年ころから、同社の動向は業界紙誌にほとんど登場することがなくなった。そして、昭和13年3月17日、日本商工倶楽部での臨時株主総会において一挙に会社解散を決議。、従業員150余人の歎願も空しく、一挙に解散廃業を決議して、土地建物は、債権者の勧業銀行から現在の懇話会館に売却され、昭和13年(1938年)3月、 遂に明治5年以来66年の社歴に幕を閉じた。――この間の詳細は記録されないままに終わってきた。

『株式會社東京築地活版製造所紀要』は同社の解散に先立つこと9年5ヶ月前の記録である。そして解散決議後、同社の土地・建物は、債権者の日本勧業銀行から現在の懇話会館にまことにすみやかに売却された。それに際して、当時はたくさんあった印刷・活字業界紙誌は、日頃は各社の業績や消長を丹念に細大漏らさず紹介していたのに、なぜか「東京築地活版製造所解散」の事実を、わずか数行にわたって報道しただけで、一切の媒体が奇妙な沈黙を守っている。どこからか、おおきな圧力があったとしかおもえないし、筆者がもっともふしぎにおもうのはこの事実である。

牧治三郎は、この『活字発祥の碑』パンフレットのほかに、『印刷界』にも当時の東京築地活版製造所のなまなましい記録をのこしているので、再度紹介しよう。

*     *     *

続 旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し

牧 治三郎
『活字界 22号』(編輯・発行 全日本活字工業会  昭和46年7月20日)

8万円の株式会社に改組
明治18年4月、資本金8万円の株式会社東京築地活版製造所と組織を改め、平野富二社長、谷口黙次副社長 [大阪活版製造所社長を兼任] 、曲田成支配人、藤野守一郎副支配人、株主20名、社長以下役員15名、従業員男女175名の大世帯に発展した。その後、数回に亘って土地を買い足し、地番改正で、築地3丁目17番地に変更した頃には、平野富二氏は政府払下げの石川島 [平野]造船所の経営に専念するため曲田成社長と代わった。

築地活版所再度の苦難
時流に乗じて、活字販売は年々順調に延びてきたが、明治25―6年ごろには、経済界の不況で、築地活版は再び会社改元の危機に直面した。 活字は売れず、毎月赤字の経営続きで、重役会では2万円の評価で、身売りを決定したが、それでも売れなかった。

社運挽回のため、とに角、全社員一致の努力により、当面の身売りの危機は切抜けられたが、依然として活字の売行きは悪く、これには曲田成社長と野村支配人も頭を悩ました。

戦争のたびに発展
明治27―8年戦役 [日清戦争] の戦勝により、印刷界の好況に伴い、活字の売行きもようやく増してきた矢先、曲田成社長の急逝で、築地活版の損害は大きかったが、後任の名村泰蔵社長の積極的経営と、野村支配人考案のポイント活字が、各新聞社及び印刷工場に採用されるに至って、築地活版は日の出の勢いの盛況を呈した。

次いで、明治37-8年の日露戦役に続いて、第一次世界大戦後の好況を迎えたときには、野村宗十郎氏が社長となり、前記の如く築地活版所は、資本金27万5千円に増資され、50万円の銀行預金と、同社の土地、建物、機械設備一切のほか、月島分工場の資産が全部浮くという、業界第一の優良会社に更生し、同業各社羨望の的となった。

このとき同社の [活字] 鋳造機は、手廻機 [手廻し式活字鋳造機・ブルース型活字鋳造機] 120台、米国製トムソン自動[活字] 鋳造機5台、仏国製フユーサー自動 [自動] 鋳造機  詳細不明。 調査中] 1台で、フユーサー機は日本 [製の活字] 母型が、そのまま使用出来て重宝していた。

借入金の重荷と業績の衰退
大正14年4月、野村社長は震災後の会社復興の途中、68才で病歿 [した。その]後は、月島分工場の敷地千五百坪を手放したのを始め、更に復興資金の必要から、本社建物と土地を担保に、勧銀から50万円を借入れたが、以来、社運は次第に傾き、特に昭和3年の経済恐慌と印刷業界不況のあおりで、業績は沈滞するばかりであった。 再度の社運挽回の努力も空しく、勧業銀行の利払 [ い ] にも困窮し、街の高利で毎月末を切抜ける不良会社に転落してしまった。

正面入口に裏鬼門
[はなしが] 前後するが、ここで東京築地活版製造所の建物について、余り知られない事柄で [はあるが] 、写真版の社屋でもわかる通り、角の入口が易 [学] でいう鬼門[裏鬼門にあたるの]だそうである。

東洋インキ製造会社の 故小林鎌太郎社長が、野村社長には遠慮して話さなかったが、築地活版 [東京築地活版製造所]の重役で、[印刷機器輸入代理店] 西川求林堂の 故西川忠亮氏に話したところ、これが野村社長に伝わり、野村社長にしても、社屋完成早々の震災で、設備一切を失い、加えて活字の売行き減退で、これを気に病んで死を早めてしまった。

次の松田精一社長のとき、この入口を塞いでしまったが、まもなく松田社長も病歿。そのあと、もと東京市電気局長の大道良太氏を社長に迎えたり、誰れが引張ってきたのか、宮内省関係の阪東長康氏を専務に迎えたときは、裏鬼門のところへ神棚を設け、朝夕灯明をあげて商売繁盛を祈ったが、時既に遅く、重役会は、社屋九百余坪のうち五百坪を42万円で転売して、借金の返済に当て、残る四百坪で、活版再建の計画を樹てたが、これも不調に終り、昭和13年3月17日、日本商工倶楽部 [で] の臨時株主総会で、従業員150余人の歎願も空しく、一挙 [に] 解散廃業を決議して、土地建物は、債権者の勧銀から現在の懇話会館に売却され、こんどの取壊しで、東京築地活版製造所の名残が、すっかり取去られることになるわけである

*      *

株式会社東京築地活版製造所紀要
[釈 読 版]

東京築地活版製造所 昭和4年(1929)10月

◎  活版製造の元祖 ◎

本邦における活字製造の元祖は東京築地活版製造所であるとあえて申しあげさしていただきます。社は明治六年[一八七三]七月、営業所を東京京橋区築地二丁目に設け、爾来ジライ[それより以後]一意改善に向かって進み、ここに五〇有余年[1873-1929年、およそ56年]、経営の堅実、基礎の強固となったことは、つとに世人セジン[世のなかのひと]より認められている所であります。

東京築地活版製造所の建造者は故本木昌造 モトギ-ショウゾウ 翁であります。まずその事績からお話しいたします。

氏は文政七年[一八二四]六月九日、肥前ヒゼン[旧国名、一部はいまの佐賀県、一部はいまの長崎県]長崎に生まれました。本木家は徳川幕府に仕えて、阿蘭陀通詞 オランダ-ツウジの職を執っていましたが、弱冠にして父の職を継ぎました。時あたかも外国船の来航ようやく頻繁となり、鎖港あるいは攘夷など、世論は紛々たるの時にありました。翁は静かに泰西 タイセイ[西洋] 諸国の文物の交流の状態を探り、遂に活字製造のことに着眼しました。勤務の余暇にはいつも泰西の印刷術を見て、その印刷の精巧なることに感嘆して、わが国をして文化の域に至らしめるためには、このように鮮明な活字を製造して、知識の普及を計らなければならないと決意しました。

それ以来これを洋書の中に探ったり、あるいは来航した外国人に質問したりして、常にあらざる苦心をした結果、数年で少々その技術を会得し、嘉永四年[一八五一]ころに至って、はじめて「流し込み活字」[流し込み活字は後出するが、どちらも素朴なハンド・モールドとされる活字鋳造器を用いたとみられる]ができあがりましたので、その活字によって『阿蘭陀通辯書 オランダ-ツウベンショ』と題する一書を印行して、これを蘭国 オランダ に贈りましたところ、おおいに蘭人の賞賛を博しました。これが本邦における活字鋳造の嚆矢 コウシ、ハジマリ であります。[このパラグラフの既述には、ながらく議論があった。すなわち嘉永4年・1851年という年代が早すぎるという説。数年前まで「流し込み活字」の実態が不明だったこと。『阿蘭陀通辯書 オランダ-ツウベンショ』なる書物が現存せず、この既述の真偽を含めて議論が盛んだったが、いまだ定説をみるにいたらない]

しかし翁は、流し込み活字による活字製作の業をもって足りるとせず、益々意を活字鋳造のことに傾けて、文字を桜やツゲの板目に彫ったり、あるいは水牛の角などに彫って、これを鉛に打ちこみ、あるいは鋼鉄に文字を刻して、銅に打ちこんだりと、様々に試みましたが、原料・印刷機械・インキなどのすべてが不完全なために、満足のいく結果をみるにはいたりませんでした。

たまたま明治年間[1868年1月25日より明治元年]にいたって、米国宣教師姜氏[後出するウィリアム・ガンブルの中国での表記は姜別利ガンブルである。すなわち、米国宣教師姜氏と、上海美華書館の活版技師、米人ガンブル氏とは同一人物とみなされる。ながらくこの事実が明らかにならず、混乱を招いた]が上海にあって美華書館 ビ-カ-ショ-カン なるものを運営しており、そこでは「ガラハ電気」で字型[活字母型]をつくり、自在に活字鋳造をしていることを聞き及び、昇天の喜びをもって門人を上海に派遣して研究させようと思いましたが、姜氏らはこれを深く秘して示さなかったので、何回人を派遣しても、むなしく帰国するばかりでした。

しかしながら、事業に熱心なる本木氏は、いささかも屈する所無く、なおも研究を重ね、創造をはやく完成しようと計画していた折り、薩摩藩士・重野厚之丞シゲノ-アツノジョウ氏(維新後政府の修史事業にあたる。文学博士・東京大学教授/重野安繹シゲノ-ヤスツグ 1827-1910)が薩摩藩のために上海より購入した活字(漢洋二種一組宛)、及びワシントン・プレスという、鉄製の手引き印刷機が用を成さずに、空しく倉庫にあることを聞き、早速それらの機器の譲渡を受けて様々に工夫をこらしました。

それでもまだ十分なる功績を挙げることができずにいましたが、当時上海美華書館の活版技師、米人ガンブル氏が、任期が満ちて帰国することの幸いを得て、これを招聘 ショウヘイ して長崎製鉄所の付属施設として、「活版伝習所」を興善寺町の元唐通事会所跡[現在の長崎市立図書館]に設けて、活版鋳造および電気版の製造をはじめました。このようにして活字製造の事業はいささかの進歩をみるにいたりました。

◎ 東京築地活版製造所 ◎

長崎製鉄所の付属施設であった「活版伝習所」にあった者が、のちに二つに分れて、ひとつは長崎新町活版所となって、その後、東京築地活版製造所、および、大阪活版製造所を創始しました。またもうひとつは、長崎製鉄所と共に工部省に属し、明治五年[1872]東京に移って勧工寮活版部となり、のちに左院活版課と合して太政官印刷局となり、さらに大藏省紙幣寮と合して印刷局[現、独立行政法人・国立印刷局]となったのであります。

明治四年[1871]夏、本木翁は門人平野富二氏に長崎新町活版所の業を委ねました。命を受けた平野氏は同年十一月、活字の販路を東京に開かんと思いまして、若干の活字を携えて上京しました。当時東京にも同業者はありましたが、何れも「流し込み」と称する[素朴な活字鋳造器、ハンド・モールドによった。いっっぽう平野富二らは、これを改良したポンプ式ハンド・モールドを用いたとされる]不完全な方法でできたものであって、しかもその価格は、五号活字一個につき約四銭であったのを、氏はわずかかに一銭宛で売りさばきましたので、需要者は何れもその廉価であって、また製造の精巧なることに驚嘆しました。同年文部省の命を受け、活版印刷所を神田佐久間町の旧藤堂邸内(現・和泉町)[神田佐久間町は現存する。秋葉原駅前から数分、現和泉小学校、和泉公園の前、旧藤堂藩の藩邸に隣接して、小者・中間などが居住した地域とみられている。現在は神田佐久間町の名前で商住地が並んでいるあたりとみられる]に設けました。

翌明治六年[1873]に至り、いささか販路も拓け工場の狹隘を感じましたので、七月京橋築地二丁目へ金参千円を費やして仮工場を設けました。同七年[1874]には本建築をなして、これを震災前 [関東大地震 大正12年9月1日、1923] 迄事務室として使用していました。同八年(1875)九月、本木氏は病に罹り五十二歳を以て歿くなりました。

明治九年(1876)には更に莫大なる費用を投じて、煉瓦造(仕上工場)を建設して印刷機械類の製作に着手しました。社は率先して(明治十二年[1879])活字改良及その他工業視察のために、社員曲田成[マガタ-シゲリ]を上海に、本木翁の一子、本木小太郎氏を米国および英国に派遣しました。

明治十五年[1882]に至り、政論各地に勃興して、いたるところで新聞・雑誌の発刊を競うようになって、活字および印刷機械の用途はすこぶる活況を呈すようになりました。同時に印刷の需用も盛んになりましたので、同十六年冬に石版[印刷]部を設置し、翌十七年、さらに[活字版]印刷部を設けて、石版・活版の[平版印刷と凸版印刷の]両方とも直営を致すことになり、大いにこの方面にも力を入れるようになりました。

明治十八年[1885]四月、合本会社(株式会社)組織に改組することに決して、平野富二氏を挙げて社長に、谷口默次氏[大坂活版製造所社長を兼任]を副社長に、松田源五郎[長崎・十八銀行頭取]、品川東十郎[本木家後見人格]の二氏が取締役として選任せられました。[ここに挙げられた人物は、すべて長崎出身者である。すなわち東京築地活版製造所は長崎色のつよい企業であった]

明治二十二年[1889]六月、平野氏社長の任を辞しましたので、新帰朝者・本木小太郎氏がかわって社長心得に、松田源五郎、谷口默次の二氏が[お目付役兼任として]取締役として選ばれました。同二十三年一月、本木[小太郎]氏辞任によって、支配人曲田成氏がかわってその社長の任に就きました。[本木小太郎の社長心得期間は半年間。結局小太郎は社長に就任せず、その後は旧新街私塾系の人物のもとを放浪し、その最後は、谷口黙次の次男で、三間家に入り、東京三間ミツマ印刷社長となった三間××の家で逝去した。三間家は現・銀座松屋のあたりとみられている]

明治二十六年[1893]十二月、我国の商法の実施に依りまして、社名を株式会社東京築地活版製造所と改めました。翌二十七年十月曲田社長病歿し、そのために名村泰藏ナムラ-タイゾウ氏が専務取締役社長に推されました。氏は鋭意社業を督励した結果、事業は発展し、明治三十九年六月、資本金を二十萬円としまして、日露戦役[明治37-38 1904-05]後の事業発展の経営に資する所といたしました。四十年九月名村社長病に殪タオれました。よって取締役野村宗十郎氏が選ばれて専務取締役社長となったのであります。

[野村宗十郎]氏は当社中古の一大異彩でありまして、明治二十三年[1890]入社以來献身的な精神をもって事に臨み、剛毅果断ゴウキ-カダン、しかも用意周到で、自ら進んで克くその範を社員に垂れました。社務の余暇にも常に活字の改良に大努力を注ぎ、研究を怠らず、遂に我邦最初のポイントシステムを創定して、活版界に一大美搖をあたえたのであります。そのために官は授くるに藍綬褒賞を以てして、これが功績を表彰せられたのであります。

そのほかにも印刷機械の製作ならびに改良の目的をもって、明治四一年[1908]三月、東京市京橋区月島西仲通に機械製作工場を設けたり[大正十二年九月一日、関東大震災で焼失]、活字販路拡張のために、明治四十年一月大阪市西区土佐堀通り二丁目に大阪出張所を、さらに大正十年[1921]十一月三日、小倉市大阪町九丁目に九州出張所を開設したり、その事蹟は枚擧に遑イトマないほどでありました。

かくして[野村宗十郎]氏の努力は、日に月に報じられてきた時恰トキ-アタカモ、大正十二年九月一日、千古比類のない大震災に遭いまして当社の設備はことごとく烏有ウユウに帰してしまったのであります。[この日、東京築地活版製造所は新社屋が落成し、まさに移転作業の最中に罹災した。幸い新築の新社屋は無事だったが、月島の機械工場は全面罹災し、活字鋳造機、活字母型、その他印刷機もほとんどが焼失した。また焼失を免れ、改造をほどこされた新社屋も、その正面入口が鬼門だとのうわさが絶えず、歴代社長はそのうわさに脅かされることになった]

剛毅に富んだ[野村宗十郎]社長は、毫ゴウも屈せず益益鋭意社業を督して日夜これが復興に盡瘁ジンスイせられた結果、着々曙光を認め大正十三年[1924]七月十九日、鉄筋コンクリート四階建の大建物は竣工し、四隣なお灰燼の裡ウチに、屋上高く社旗を翩翻ヘンポンとさせるにいたりました。その業漸く成らんとするに際し、大正十四[1925]年四月二十三日、享年六十九才をもって逝去されました。

大正十四年[1925]六月、取締役松田精一[長崎・十八銀行頭取を兼任]氏、選ばれて社長に就任せられ、同年九月資本金を倍加して金六拾萬円とし、従業員一同と共に益々業務に努力して居ります。

昭和四年十月

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株式会社東京築地活版製造所紀要
[原 文 版]

東京築地活版製造所 昭和4年(1929)10月

株式会社東京築地活版製造所紀要
活版製造の元祖

本邦に於ける活字製造の元祖は東京築地活版製造所であると敢て申上げさして頂きます。社は明治六年七月榮業所を東京京橋區築地二丁目に設け爾來一意改善に向つて進み、茲に五十有餘年、經榮の堅實、基礎の鞏固となつた事は夙に世人より認めらるる所であります。

東京築地活版製造所の建造者は故本木昌造翁であります。先づ其事蹟から御話致します。

氏は文政七年六月九日肥前長崎に生まれました。本木家は世々幕府に仕えて和蘭陀通詞の職を執つて居ましたが弱冠にして父の職を繼ぎました。時恰も外船の來航漸く繁く鎖港或は攘夷等と世論紛々たるの時に當りまして、靜かに泰西諸文物隆興の狀態を探り遂に活字製造の事に着眼しました。勤務の餘暇常に泰西の印刷術を見て其の印刷の精巧なるに感歎し、我國をして文化の域に至らしめるには此の如く鮮明な活字を造つて智識の普及を圖らなければならないと決意して、以來之を洋書中に探つたり、或は來航外人に質問したりして非常の苦心をした結果數年で稍々會得し、嘉永四年の頃に至つて始めて流込活字が出來上りましたので「和蘭陀通辯書」と題する一書を印行して之を蘭國に送りました所、大いに蘭人の賞賛を博しました。之れ本邦に於ける活字鑄造の嚆矢であります。然て活字製作の業之を以て足れりとせず氏は益々意を鑄造の事に傾けて、或は文字を櫻、黃楊の板目、又は水牛角等に彫つて之を鉛に打込み、或は鋼鐵に刻して銅に打込んで種々試みましたが原料、印刷機械、インキ等總べて不完全な爲めに満足な結果を得るに至りませんでした。

偶々明治年間に至つて米國宣教師、姜氏が上海に在つて美華書院なるものを設立して[ガラハ(電氣)]で字型を造り自在に鑄造をすると聞いて昇天の喜びを以て人を上海に派して研究させ様と思いました所が、彼れは深く秘して示さぬので幾囘行つても失敗して空しく歸國するばかりでした。

然し事業に熱心なる本木氏は聊かも屈する所なく尚も研究を重ね創造を早からしめ樣と計畫の折柄、重野厚之亟(文學博士重野安繹氏)が薩藩の爲め上海より購入した活字(漢洋二種一組宛)及印刷機械(ワシントン・プレス)が用をなさぬと云つて空あしく庫中に藏してあると聞き、早速之を譲受け種々工夫をこらしましたが未だ充分なる功績を上げ得ぬので、當時上海の美華書院活版技師ガンブル氏の滿期歸国を幸い之を傭聘し長崎製鐵所附属として活版傳習所を興善寺町元唐通事會所跡に設けて活版鑄造及電氣版の製造を始めました。かくて活字製造の業稍々進歩を見るに至りました。

東京築地活版製造所
活版伝習所に在った者が後に二つに分れて、一は長崎新町活版所となって其の後、東京築地活版製造所及大阪活版製造所を創始しました。一は製鐵所と共に工部省に属し明治五年東京に移って勧工寮活版部となり後ち左院活版課と合して太政官印刷局となり更に大藏省紙幣寮と合して印刷局となったのであります。

明治四年夏本木翁は門人平野富二氏に長崎新町活版所の業を委ねました。命を受けた平野氏は同年十一月活字の販路を東京に開かんと思いまして若干の活字を携えて上京しました。當時東京にも同業者はありましたが何れも流込と称する不完全な方法で出来たものであって然も其値も五號活字一箇に付約四錢であったのを氏は僅かに壹錢宛で賣捌きましたので需要者は何れも其廉価であって又製造の精巧なるのに驚嘆しました。同年文部省の命を受け活版印刷所を神田佐久間町舊藤堂内(現今和泉町)に設けました。

翌六年に至り稍々販路も拓けまして工場の狹隘を感じましたので七月京橋築地二丁目へ金参阡餘圓を費して假工場を設けました。同七年には本建築をなして之を震災前迄事務室として使用して居ました。同八年九月本木氏は病に罹り五十二歳を以て歿くなりました。明治九年には更に莫大なる費用を投じて煉瓦造(仕上工場)を建設して印刷機械類の製作に着手しました。社は率先して(明治十二年)活字改良及其他工業視察の爲め社員曲田成を上海に、本木翁の一子小太郎氏を米國及英國に派遣しました。明治十五年に至り政論各地に勃興して到る處新聞雑誌の発刊を競う様になって活字及印刷機械の用途は頗る活況を呈す様になりました。同時に印刷の需用も盛んになりましたので同十六年冬に石版部を設置し、翌十七年更に印刷部を設けて石版活版の兩方とも直営を致すことになり、大いにこの方面にも力を入れる様になりました。明治十八年四月合本會社(株式會社)組織の事に決して平野富二氏を擧げて社長に、谷口默次氏を副社長に、松田源五郎、品川東十郎の二氏が取締役として選任せられました。

明治二十二年六月平野氏社長の任を辭しましたので新歸朝者本木小太郎氏代て社長心得に、松田源五郎、谷口默次の二氏取締役として選ばれました。同廿三年一月本木氏辭任に依り支配人曲田成氏代て其任に就きました。

明治廿六年十二月我國商法の實施に依りまして社名を株式會社東京築地活版製造所と改めました。翌廿七年十月曲田社長病歿し爲めに名村泰藏氏専務取締役社長に推されました。氏は鋭意社業督勵の結果事業發展し、明治三十九年六月資本金を弐拾萬圓としまして日露戦役後の事業發展の經營に資する所と致しました。四十年九月名村社長病に殪れました、依て取締役野村宗十郎氏選ばれて専務取締役社長となったのであります。氏は當社中古の一大異彩でありまして、明治廿三年入社以來獻身的精神を以て事に臨み、剛毅果断、而かも用意周到で自ら進んで克く其範を社員に垂れました。社務の餘暇常に活字の改良に大努力を注ぎ、研究を怠らず遂に我邦最初のポイントシステムを創定して活版界に一大美搖を興えたのであります。爲めに官は授くるに藍綬褒賞を以てし之れが功績を表彰せられたのであります。其他印刷機械の製作並に改良の目的を以て明治四一年三月東京市京橋區月島西仲通に機械製作工場を設けたり、活字販路擴張の爲め、明治四十年一月大阪市西區土佐堀通り二丁目に大阪平野富二論攷輯バーナー01resized出張所を更に大正十年十一月三日小倉市大阪町九丁目に九州出張所を開設したり、其事蹟枚擧に遑ない程でありました。斯くして氏の努力日に月に報じられて來た時、恰も大正十二年九月一日千古比類のない大震災に遭いまして當社に富んだ社長は毫も屈せず益々鋭意社業を督して日夜之れが復興に盡瘁せられた結果着々曙光を認め大正十三年七月十九日鐵筋コンクリート四階建の大建物は竣工し四隣尚ほ灰燼の裡に屋上高く社旗を翻するに至りました。其の業漸く成らんとするに際し大正十四年四月二十三日享年六十九才を以て逝去されました。

大正十四年六月取締役松田精一氏選ばれて社長に就任せられ同年九月資本金を倍加して金六拾萬圓とし、従業員一同と共に益々業務に努力して居ります。

昭和四年十月

 

本木昌造の最後

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本木昌造02

◎ 本木昌造の肖像写真
この写真は長崎諏訪神社につたわった写真である。これと同一原板によるとみられる写真が、『贈従五位本木昌造先生略傳』(東京築地活版製造所 印刷図書館蔵)にも掲載されているが、これには台紙の裏面を写した写真も紹介されている。裏面には「内田九一製」と印刷されている。

◎ 本木昌造の上京中の肖像写真
本木昌造(1824-75)は、東京に滞在中に内田九一ウチダ-クイチ写真館で記念写真を撮影したらしく、その肖像写真が長崎諏訪神社にのこされている。
この写真には撮影年月日が記されていないが、本木昌造の容貌は、目が落ち窪み、頬がこけて、病み上がりの状態であるように見られる。時期としては最晩年の明治七年(一八七四)に上京したときの可能性が高い。

◎ 本木昌造の終焉 ──── 『本木昌造伝』(島谷政一 朗文堂 p.206-9)
明治八年二八七五)は印刷出版業者にとっては忘れることができない年となった。この年の二月三日上海-横浜間に定期航路が開設されて政府のあつい保護のもとに三菱汽船会社が運航にあたった。このとき政府はその所有汽船のすべてを三菱汽船会社に貸与して海上輸送会社の保護育成をはかった。
この航路が長崎を素通りして横浜から結ばれたことは、ひとり本木昌造だけではなくて長崎市民を失望させた。そもそもこの定期航路の開設は本木昌造が明治六年(一八七三)の台湾報復出兵のさいに、長崎をおとずれた大隈重信侯に献策をかさねたものだった。たとえその業務が因縁あさからぬ三菱汽船会社に委ねられたとはいえ寂寥のおもいはぬぐいがたかったのである。
もはや征韓論の分裂を超克して政府は大久保利通が中心となっていた。また立憲政体樹立の詔書がくだされてその第一歩として三権分立の制度がたてられた。行政、教育、産業などのすべての中心が東京に移動して長崎は遠隔疎遠の地となっていた。

そんな明治八年(一八七五)の春、本木昌造はひどく健康を害して食がすすまなくなった。家族や社員が静養を勧め、ようやく山紫水明の京都で療養することに決心して同年三月二一日長崎を発して京都に上った。
京都の點林堂・山鹿善兵衛は大阪活版製造所の初代谷口黙次と相談して、嵯峨野の落柿舎で十分な静養をしてもらうことにした。そこには下男下女と看護人を付き添わせることにして、付き添いで
きた二人の社員は長崎に帰した。
京都での転地療養をはじめると容態はすこぶる好転した。天気のよい日には洛中を散策して點林堂活版所に立ち寄ったり、あるときは大阪にでかけて、大阪活版製造所の工場を嬉しそうに巡回して健康はすっかり回復したかにみえた。
初代谷口黙次は本木昌造がもっとも愛情をもってみた社員であり、また全幅の信頼を寄せてもいたひとだった。またその夫人は連日献身的に看護したから、この間もしばしば大阪にでかけて谷口家に滞在していた。
こうして一時健康を回復したかにみえたが、五月のはじめに風邪をひいたのがもととなってふたたび病床に呻吟することになった。京都と大阪の社員が交代で落柿舎に泊りこんだし、谷口黙次の
夫人は付きっきりで看護にあたった。
この知らせに驚いた平野富二は、とるものもとりあえず東京からやってきて病床を見舞った。長崎
からも家族が社員にともなわれてやってきて看護に協力したために、いったんは小康をえて一同は愁眉をひらくことができた。
容態は順次良好となって歩行にも困難を感じないほどに回復した。このとき本木昌造は長崎に帰りたいとの意向を漏らした。一同はもうしばらくの静養を勧めたが、帰心はだんだんつのって最早やだれの勧告にも応じないようになった。
そこで一同が協議して、初代谷口黙次が付きそって家族とともに長崎に送ることになって、本木昌造は西に、平野富二は東にたがいに別れをつげた。

ところがやはりこの帰省の長旅の疲労がたたったのか、長崎に帰ったあとの本木昌造の衰弱ははな
はだしかった。またこの年の夏は暑さがきびしかった。
明治八年(一八七五)八月の中旬、本木昌造が重態におちいったとのしらせが門人、門弟、社員に
一斉にしらされた。
まだ交通不便の時代だったが、平野富二は夜を日に継いで長崎に到着した。大阪の初代谷口黙次や京都の山鹿善兵衛も馳せつけた。いずれも枕頭にあって看護に手をつくしたが、もはや症状は日に日に重くなるばかりだった。
こうした切迫した状況から、平野富二は九月一日本木昌造が関係した「活版事業の始末方」を品川
藤十郎をつうじて指図をこうた。
この品川藤十郎とはオランダ通詞の家にうまれて、本木昌造とは長女砒を継嗣小太郎に嫁がせた縁戚関係にあったし、かつてはともに通詞の職にあった。また長崎活版製造会社の創立にあたっては金千両を出資して新街私塾では教鞭をとるなど一門の世話役として存在がおもんじられていた。
品川藤十郎が病床にたって平野富二の言をつたえると、
「活版事業のことはすべて平野君に一任しあるをもって予の容喙を要せず。万事平野君の処置にし
たがうべし」
とのことだった。
臨終にさいしてもこのほかの遺言はなかった。ただ門人、門弟、社員を枕頭に集めてそれまでの協力を謝して今後とも活版印刷術の普及に尽力するように励まして、ついに明治八年(一八七五)九
月三日享年五一歳をもって暝目された。
本木昌造が泉下のひととなったのは明治二年(一八六九)近代活字鋳造創始のときからわずかに七年、あまりにも惜しまれる逝去だった。

「嗚呼本木昌造翁逝いて、いままたいずくにか翁のごとき性行純金の人をもとめん。もし翁をしてその寿をながからしめれば、日本国の利するところさらにおおいなるものありしならんに、まことに惜しむべきかな」
と英国の『ブリテッシュ・プリンター』誌もその逝去を惜しんだ。
九月六日本木家と一門社員によって盛儀をもって葬儀が執行されて、遺骸は本木家の菩提寺長崎今篭町大光寺の墓域に篤く埋葬された。
法名は「故林堂釋永久梧窓善士」だった。
世人はいまさらのように本木昌造の偉大な功績をしのんでその逝去を惜しまぬものはなかった。

 ◎ 本木昌造が療養した「落柿舎」をみる
京都洛外「草庵落柿舎-らくししゃ」は向井去来がいとなんだ草庵である。
向井去来(むかい-きょらい 1651-1704)は江戸時代前期の俳人。
慶安4年生まれ。肥前長崎出身。向井元升-げんしょう-の次男。京都で儒者として親王家などにつかえたが、松尾芭蕉に入門して俳諧に専念した。嵯峨に草庵落柿舎をいとなむ。蕉風の忠実な伝え手で、同門中でもおもんじられた。「猿蓑-さるみの」を野沢凡兆と編集。宝永元年9月10日死去。54歳。名は兼時。字-あざな-は元淵。通称は平次郎。著作に「旅寝論」「去来抄」など。

岩 は な や  こ こ に も ひ と り  月 の 客 「去来抄」

IMG_3719 IMG_3692 IMG_3687 IMG_3683落柿舎の点景 活版小本・杉本昭生氏 2018年3月21日撮影

去来の卒後、落柿舎はしばしば無住のいおりとなっていたようである。
明治四五年(一九一二)本木昌造にたいして従五位を追贈する旨が朝廷より仰せだされた。このとき山鹿善兵衛はすでに點林堂活版所の事業を令息・山鹿粂次郎に譲って「落柿舎栢年-はくねん」と号して落柿舎五代目庵主として嵯峨野にあって自適の余生を愉しんでいたが、
「先師本木先生こたび御贈位の光栄をこうむりたまいしを祝し奉りて 栢年」として、つぎの一句をものして御贈位の光栄をこころから喜んだ。

引 鶴 や  更 に 雲 井 に  羽 の 光     栢年

 

◎ 長崎にうまれ東京で活躍した写真士 : 内田九一
内田九一(1844-75)は、弘化元年(一八四四)長崎に生まれ、松本良順等から湿板写真の手ほどきを受け、上野彦馬に師事した。
最初に大阪で開業し、次いで横浜馬車道に移り、明治二年(一八六九)東京浅草瓦町に洋式写場を開いた。
明治五年(一八七二)と同六年(一八七三)には明治天皇と昭憲皇太后の写真を撮影している。その後、築地にも分店を設けていることから、この本木昌造の写真は築地の写場で撮った可能性もある。内田九一は明治八年(一八七五)に没した。

 

内田九一
うちだ-くいち
1844−1875
幕末-明治時代の写真家。
弘化(こうか)元年生まれ。吉雄圭斎の甥(おい)。長崎でポンペに化学を,上野彦馬から写真術をまなぶ。慶応元年大坂で写真館をひらき,のち横浜・東京で開業。明治5年宮内省御用掛として明治天皇の肖像写真を撮影し,有名となった。明治8年2月17日死去。32歳。肥前長崎出身。
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日本人名大辞典

吉雄圭斎
よしお-けいさい
1822−1894
江戸後期-明治時代の医師。
文政5年5月8日生まれ。家業の外科医をつぎ,出島のオランダ商館出入り医師となる。嘉永(かえい)元年オランダの軍医モーニッケに牛痘接種法をまなび,種痘の普及につとめた。熊本病院初代院長。明治27年3月15日死去。73歳。肥前長崎出身。名は種文。
©Kodansha

【Pickup】花筏ゟ|タイポグラフィあのねのね|金属活字の主要原料-アンチモンの原料鉱石|輝安鉱の伝承と新資料発見

金属活字の主要原料-アンチモンの原料鉱石
輝安鉱の伝承と新資料発見 

輝安鉱・アンチモン・伊予白目【 独:Antimon,  英:Antimony,  羅:Stibium 】

本木昌造が谷口黙次に依頼して採掘したとされる「肥後国西彼杵郡高原村」の鉱山から
産出した、アンチモンの原料鉱石/輝安鉱 キ-アン-コウ

き-あん-こう【輝安鉱】── 広辞苑
硫化アンチモンから成る鉱物。斜方晶系、柱状または針状で、
縦に条線がありやわらかく脆い。鉛灰色で金属光沢がある。アンチモンの原料鉱石。

《 ともかく鉱物 イシ が好きなもんで…… 》
どんなジャンルにも熱狂的なマニアやコレクターがいるらしい。この輝安鉱の原石を調査・提供されたかたは、重機械製造で著名な企業の、技術本部の有力役員であったが、「趣味のアマチュアですし、社員に知られると笑われるので…… 」とするご本人のつよいご要望で「和田さん」とだけ紹介したい。
和田さんは小社に直接ご来社になり、小社刊『本木昌造伝』(島屋政一著  2001年8月20日刊)をお求めになられた。和田さんは事前に『本木昌造伝』p. 106 に紹介された「伊予白目、アンチモニー、輝安鉱」に関するわずかな記録に着目されており、その記録が三菱金属(現:三菱マテリアル)ほかの文献と一致しないにもかかわらず、印刷・活字業界では追跡調査がないままに放置されていることを遺憾だとされた。これを機にときおり来社され、さまざまな情報交換をすることになった。

¶  ともかく鉱物の 原石 イシ に関心がおありだそうである。全国規模で、同好の士も多いとかたられる。そのため、あちこちの鉱山跡をたずね歩き、すでに廃鉱となった 鉱山 ヤマ でも現地調査をしないと気が済まないとされる。そして、たとえ廃鉱となっていても、その周辺の同好の人士と連絡しあえば、少量の残石程度は入手できるのだそうである。

「蛇 ジャ の道は 蛇 ヘビ ですからね」[蛇足 ── 蛇がとおる道は、仲間の蛇にはよくわかるの意から、同類・同好の仲間のことなら、なんでも、すぐにわかるということ]と笑ってかたられる。
お譲りいただいた輝安鉱の原石はわずかなものだが、ふしぎな光彩を放って存在感十分である。これがアンチモンになる。かつては日本が世界でも有数の輝安鉱の産出国であったそうだが、現在は採掘されることがほとんどなく、多くは中国産になっているそうである。

¶ 和田さんはこと鉱石に関してはまことにご熱心であり、マニアックなかたでもある。もちろんさまざまな原石のコレクションを保有されており、グループの間では展覧会や交換もさかんだそうである。そんな和田さんは、金属活字の主要合金とされるアンチモンに関して、わが国印刷・活字業界に資料がすくなく、当該資料に関しても、明治24年『印刷雑誌』、昭和8年、三谷幸吉『詳伝 本木昌造 平野富二』での紹介以後、文献引用のみが続き、その後ほとんど現地調査がされていないことが、むしろふしぎだと述べられた。

¶ このような異業種のかたからのご指摘は、稿者にとってはまことに痛いところを突かれた感があり、汗顔のきわみであったが、これを機縁として、簡略ながらわが国の近代活字鋳造における「伊予白目、アンチモニイ、アンチモン、アンチモニー、輝安鉱」の資料を、わずかな手許資料から整理してみた。
まだ精査をの終えておらず、長崎関連資料や、牧治三郎、川田久長らの著述も調査しなければならないが、それは追々追記させていただきたい。目下の調査では、本木昌造が採掘させたとするアンチモンの鉱山は、「肥後の天草島なる高浜村、肥後国西彼杵郡高浜村」であるとされていた。
の記述は、福地櫻痴の記述では当時のアンチモンの品質が極端に悪いことを嘆くばかりで、探鉱のことや、産出地の地名などはみられない。本木昌造・谷口黙次による採鉱のことは、出典不明ながら三谷幸吉が最初に述べていた。ふるい順に列挙すると下記のようになる。

    • 〔福地櫻痴〕「本木昌造君ノ肖像并ニ行状」『印刷雑誌』(伝/福地櫻痴 第1次 第1巻 第2号 明治24年2月  p. 6)
    • 〔三谷幸吉〕『詳伝 本木昌造 平野富二』(三谷幸吉 同書頒布会 昭和8年4月20日  p. 61-2)〔三谷幸吉〕「本邦活版術の開祖 本木昌造先生」『開拓者の苦心 本邦 活版』(三谷幸吉 津田三省堂  昭和9年11月25日 p. 21-22)
  • 〔島屋政一〕『本木昌造伝』(島屋政一  朗文堂  2001年8月20日   脱稿は1944年10月  p.102-6、p. 175)

〔福地櫻痴〕「本木昌造君ノ肖像并ニ行状」『印刷雑誌』(伝/福地櫻痴 第1次 第1巻 第2号 明治24年2月  p. 6)ゟ 抜粋
原文はカタ仮名交じり。若干意読を加えた。
安政5年(1858)本木昌造先生が牢舎を出でて謹慎の身となられしころ、もっぱら心を工芸のことにもちいた。(中略)従来わが国にて用いるところの鉛は、その質純粋ならずして、使用に適さざるところあるのみならず、これに混合すべき伊予白目(アンチモニイ)もはなはだ粗製であり、硫黄その他の種々の物質を含有するがゆえに、字面が粗造にて印刷の用に堪えず。アンチモニイ精製の術は、こんにちに至りてもいまだ成功せず。みな舶来のものをもちいる。

〔三谷幸吉〕『詳伝 本木昌造 平野富二』(三谷幸吉 同書頒布会 昭和8年4月20日  p. 61-2)
若干の句読点を設けた。

明治六年[本木昌造先生](五十歳) 社員某を肥後の天草島なる高濱村に遣はして、専らアンチモニーの採掘に從事せしむ。先生最初活字製造を試みられしに當りて、用ふる所の 伊豫白目 イヨ-シロメ(アンチモニー)は、其質極めて粗惡なるのみならず、産出の高も多からざれば、斯くて數年を經ば、活字を初として、其他種々なる製造に用ふべきアンチモニーは 悉 コトゴト  く皆舶來品を仰ぐに至るべく、一國の損失少からじとて、久しく之を憂へられしに、偶偶 タマタマ 天草に其鑛あることを探知しければ、遂に人を遣はして掘り取らしむるに至れり。さて先生が此事の爲めに費されたる金額も亦甚だ少からざりし由なり。然れども其志を果す能はず、中途にて廢業しとぞ。
〔 編者曰く〕  ←三谷幸吉
註 社員某とあるは先代谷口默次[1844-1900 初代 長崎人・のち大阪活版製造所代表]氏を指したのである。卽ち當時アンチモニーは、上海と大阪にしか無かつたので、平野富二先生が明治四年十一月に、東京で活字を売った金の大部分を、大阪でアンチモニーの買入れに費やした位であるから、谷口默次氏が大阪で一番アンチモニーに經験が深かつた關係上、同氏を天草島高濱村に差向けられたのである。

〔三谷幸吉〕「本邦活版術の開祖 本木昌造先生」『開拓者の苦心 本邦 活版』(三谷幸吉 津田三省堂  昭和9年11月25日 p. 21-22)
若干の句読点を設けた。

(前略)斯カくの如く、わずか両三年を出でずして、其の活版所を設立すること既に数ヶ所に及んで、其の事業も亦漸く世人に認められるようになったが、何がさて、時代が時代だったから、如何に其の便益にして、且つ経済的なることを世間に宣伝はしても、其の需用は極めて乏しく、従って其の収益等はお話にならぬものであった。

而シ かも日毎に消費するところの鉛白目[ママ](アンチモニー)や錫を購入する代金、社員の手当、其他種々の試験等の為に費やす金高は実に莫大で、[本木昌造]先生は、止むなく伝家の宝物什器等 悉 コトゴト く売り払って、これに傾倒されたと云うことである。先生の難苦想うだけでも涙を禁じ得ないのである。

明治六年[1873年]、門弟谷口黙次 タニグチ-モクジ[1844-1900 初代]氏を、肥後国天草島なる高浜村に遣わし、専らアンチモニーの採掘に従事させた。先生が最初に活字の製造を試みられた当時に使用した伊豫白目(アンチモニー)は、其質極めて粗悪で、且つ産出の高も多くなかったから、若しこのまま数年を経過すれば、活字は勿論其他種々な製造に用うべきアンチモニーは、悉 コトゴト く舶来品を仰ぐに至るであろう。斯くては一国の損失が莫大であると憂慮され、種々考究中、偶々タマタマ 天草に其鉱脈のあることを探知したので、早速前記谷口氏を派遣して、これを掘り取ることに努めさせたのであるが、どう云うわけであったか、其の志を果さず中途で廃業された由である。

〔島屋政一〕『本木昌造伝』(島屋政一  朗文堂  2001年8月20日   脱稿は1944年10月  p.102-6、p. 175)
本木昌造は鹿児島に出張中に、上海では「プレスビタリアン活版所」や、「米利堅メリケン印書館」および「上海美華書館」[この3社はいずれも上海・美華書館を指すものとおもわれる 稿者]などと称するところにおいて、漢字の活字父型と、その活字母型をつくっていて、また多くの鋳造活字を製造していることをきいた。そのために長崎に帰ってから、早速門人の酒井三蔵(三造とも)を上海につかわして、活字母型の製造法を伝習せしむることとした。(中略)

上海で日本製の金属活字(崎陽活字)を見せて批評を求めたのにたいしては、活字父型の代用として、木活字の技術を流用することができること。その木活字は、字面が 平 タイラ で、大きさが揃っている必要があることなどを知ることができた。また見本として持参した活字地金の品質に関してはきびしい指摘がなされた。つまり地金に混入するアンチモニーは、もっと純度が高くなければならぬことなどを聞きこんできた。

そのために本木昌造は、伊予[愛媛県]に人を派遣して、当時伊予白目 イヨシロメ と称されたアンチモニーを研究させたが、これも純度を欠いていたので、天草島の高浜村にアンチモニーの良質の鉱脈があることを聞いて、さっそくここにも人を派遣して、調査の上採掘に従事させた。この事業は莫大な費用を要して、しかも得るところは僅少で、やむなく事業を中止することになった。(後略)

明治4年(1871)11月、平野富二は事業の第一着手として、社員2名とともに新鋳造活字2万個をたずさえて東京におもむいた。(中略)帰途には大阪活版製造所に立ち寄って、良質の活字地金用の鉛と、アンチモニーを買い入れて長崎に帰った。

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《 三谷幸吉いわく、肥後の天草島なる高浜村、肥後国西彼杵郡高浜村は、現 熊本県天草市天草 》熊本の同好の士からのプレゼントだとされる「熊本県天草市天草採鉱の輝安鉱」標本を、「これは複数入手できたので差しあげます。若干の毒性がありますから取り扱いには注意して」とのみかたられて、和田さんは飄々とお帰りになった。
標本の採集地は「熊本県天草市天草町」であるが、廃鉱となって久しく、なんの遺構もなかったそうである。そもそも本木昌造らによるアンチモニーの鉱山であったとされる場所は、「肥後の天草島なる高浜村、肥後国西彼杵郡高浜村」と記述にバラツキがみられた。また、現在の市政下では、どこの県、どこの市かもわかりにくかった。また、肥前の国・肥後の国は、現在は存在しない。迷いがあったが熊本県東京出張所から紹介されて、天草市役所観光課に架電した。
その結果、たしかに同市には「高浜地区」があり、その周辺ではいまでも「天草陶石」などが採掘されているそうである。ただ「輝安鉱」の鉱山の存廃、もしくはその廃鉱の時期に関しては記録はないとされた。せめて地元での噂話でもと食い下がったが、「存じません」という回答であった。
彼杵郡は「そのぎ-ぐん、そのき-の-こおり」と訓む。

彼杵郡は、かつて肥前の国の中西部にあった郡であるが、明治11年(1878)の郡区町村法制定にともなって、東彼杵郡と西彼杵郡の1区2郡に分割されたようだ。ウィキペディア にも紹介されているが、書きかけで、少少わかりづらい。

タイポグラファとしては、ここは鉱石標本をみて喜ぶだけではなく、やはり現地調査のため長崎・熊本行きを目論むしかないようである。あるいは「蛇 ジャ の道は 蛇 ヘビ」で、長崎のタイポグラファの友人からの情報提供を待つか。
こうした一見ちいさな事蹟の調査を怠ったために、わが国のタイポグラフィは「書体印象論」を述べあうことがタイポグラファのありようだという誤解を生じさせたような気もする昨今でもある。

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《活字地金とアンチモン》

活字地金各種。刻印は鋳型のメーカー名で、さしたる意味はない。

金属活字の地金(原材料)は、鉛を主成分として、アンチモン、錫スズを配合した三元合金からなっている。
鉛は流動性にすぐれ、低い温度で溶解し、敏速に凝固する性質をもっているため、合金による成形品には良く用いられる金属である。
また、錫は塑性(形成・変形しやすい性質・可塑性)に関わる。
アンチモンは合金の硬度を増す働きがある。
わが国の印刷業界では近代活字版印刷術導入の歴史を背景として、ドイツ・オランダ語系の名称から「アンチモン」と呼称されるが、ほかの業界では英語からアンチモニーとされることがおおい。「アンチモン、アンチモニー」に関しては ウィキペディアに詳しい解説があるので参照してほしい。

文字活字のばあい、その地金の配合率は、鉛 70-80%、錫 1-10%、アンチモン 12-20%とされるが、その配合率は、活字の大小、用途によってそれぞれ異なり、活字地金は業界内では循環して再利用されている。
また企業によって活字地金に独自の工夫を凝らすことがある。「欧文活字の晃文堂」と評された神田晃文堂(リョービ印刷機販売、リョービイマジクスを経てモリサワに経営移譲)は、極細の曲線をもつ「パレススクリプト/日本名 プリンススクリプト」な度の活字の合金配合率を理化学研究所に依頼して研究して対応していた。柏の残存工場を含め、「活字の弘文堂」が閉鎖して久しいが、その活字は今なお現役なのは、こうした配慮が貢献している。

摩耗したり、損傷した活字は「滅 メツ 箱、地獄箱 Hell-Box」などと呼ばれる灯油缶やクワタ箱に溜められたのち、ふたたび融解して成分を再調整し、棒状の活字地金にもどして利用されていた。ここでも活字地金業者が近年、ほぼ壊滅状態に陥り、業界的に対応を迫られる事態となっている。

[ 初 出:朗文堂ブログロール 花筏 2011年3月3日。一部修整して2023年8月  本欄に転載 ]

タイポグラフィあのねのね*008 江川活版製造所、江川次之進資料

直系子孫により発掘された
江川活版製造所:江川次之進関連資料

《きっかけは活字ホルダー》
朗文堂とサラマ・プレス倶楽部(旧称:アダナ・プレス倶楽部)の Website では、数度にわたって《活字ホルダー》を取りあげてきた。当初のころは、この簡便な器具の正式名称すらわからなかった。その後、アメリカ活字鋳造所(ATF)や、フランスのドベルニ&ペイニョ活字鋳造所の、20世紀初頭のふるい活字見本帳に紹介されている《活字ホルダー》の図版を紹介し、その名称と使用法は広く知られるようになった。
またサラマ・プレス倶楽部では、故・志茂太郎氏の遺品から《活字ホルダー》を復元して、あらたな活版ユーザーに向けて製造販売にあたっている人気アイテムのひとつである。

『VIVA!! カッパン♥ 』
(サラマ・プレス倶楽部編  朗文堂  2010年5月21日 p.64)に紹介された《活字ホルダー》

《ご先祖様の遺影と肖像画があるのですが……》
ある日、サラマ・プレス倶楽部の Website をご覧になった、江川活版製造所の創業者・江川次之進の直系のご子孫だという女性から、お電話をいただいた。
「曾祖父の江川次之進の遺影と、掛け軸になった肖像画があるんですが、右手に持っているものがなんなのかわからなくて。これがどういう情景を描いたものかが分からなかったのですが《活字ホルダー》なんですね。おかげで、曾祖父が若い頃に活字の行商をしていたというわが家の伝承がはっきりしました」

この女性は、現在は長野県北安曇郡白馬村でペンションを経営されている。最初にお電話をいただいてから少し時間が経ち、先日、お身内のカメラマンの手による、江川次之進の遺影と肖像画の鮮明なデジタルデータをご送付いただいたのでご紹介しよう。

江川 次之進 [1851-1912]

新資料/江川次之進 活字行商の肖像画

表具を改装して軸装された江川次之進の活字行商時代の肖像画。

肖像画の部分拡大。当時としてはハイカラな洋傘を左手に、右手には活字ホルダーを握りしめている。重い活字を背負っているせいか、小腰をかがめているが、晩年の江川次之進の肖像写真とにた、端正な顔立ちである。右上部後方の背景にひら仮名異体字(変体仮名)で「たばこ」としるされている。江川次之進は当初もっぱら「煙草商と質屋」に活字を販売していたと記録されている。

《圧倒的に資料不足な江川次之進と江川活版製造所の業績》
「江川行書活字」「江川隷書活字」と、活版印刷関連機器の開発でしられる江川活版製造所は、いっときは東京築地活版製造所、秀英舎に次ぐ、活字製造業界第3位の売上げを誇った活字鋳造所とされる。
そうした歴史のある江川次之進と江川活版製造所であるが、その業績をかたる資料や活字見本帳のたぐいは極めて少ない。人物伝としては、わずかに三谷幸吉の『本邦 活版 開拓者の苦心』にその紹介をみる程度である。すこし読みにくい文章だが、これをお読みいただくと、「活字行商」からはじめ、日本有数の活字鋳造所に発展させた、江川次之進の背景がおわかりいただけるはずである。これは句読点を整える程度の修整をして、全文を後半で紹介したい。

また印刷関連の業界誌では、明治24年(1875)『印刷雑誌』に、江川活版製造所ご自慢の新書体「江川行書」による1ページ広告が3号連続で掲載されている。また、江川家一族が経営権を深町貞次郎に譲渡したのち、昭和13年(1938)『日本印刷大観』の差し込み広告として、これも1ページ大の広告が掲載されている。こちらの社長名は深町貞次郎になっている。
この深町時代の江川活版製造所がいつ廃業したかの資料は目下のところ見あたらないが、いずれにしても深町貞次郎の晩年か逝去ののち、良き後継者の無いまま、戦前のある時点において廃業を迎え、戸田活版製造所、藤井活版製造所、辻活版製造所などに継承されたものとみられる。
ただし、江川活版製造所仙台支店もやはりそのころに分離・独立したものとみられるが、同社は「江川活字製造所」の名称で2003年-5年ころまでは、仙台市内(仙台市青葉区一番町1-15-7)で営業を継続して、東北方面一円への活字供給にあたっていた。

『印刷雑誌』(第1次 明治24年10月号-12月号掲載)主要書体は新鋳造の「江川行書」活字。

『日本印刷大観』(東京印刷同業組合 昭和13年8月20日)差し込み広告。
社長名は深町貞次郎になっている。事業内容は平凡で、なんら特色のないものになっている。

さて、肖像画において、江川次之進が右手に持っている《活字ホルダー》であるが、わが国でも相当古くから製造販売されていたとおもわれる。
『活字と機械』(東京築地活版製造所 大正3年6月)の扉ページ「印刷機械及器具」の、外周イラストの下右隅に、あきらかに《活字ホルダー》が存在している。江川次之進はこうした簡便な器具と、重い活字を携行して、煙草屋や質店などに活字販売をして資金を蓄積して、本格的な活字鋳造所を起業したことになる。三谷幸吉が『開拓者の苦心 本邦 活版 』にのこした伝承が、今回の肖像画の発掘によってあらためて証明されたことになった。
「印刷機械及器具」『活字と機械』扉ページ。右下隅に《活字ホルダー》が紹介されている。
ここにみるイラスト図版の器具類は、ほとんど現在も使われている。(下図は部分拡大図)

★    ★    ★

行書体活字の創製者 江川次之進氏
―敏捷奇抜の商才で成功す―

本邦 活版 開拓者の苦心』
(三谷幸吉執筆  津田三省堂  昭和9
年11月25日 p.173-180より全文
[ ]内は筆者の加筆

江川次之進氏[1851-1912]は、福井県坂井郡東十郷村の人、[旦丘-あさおか、旦丘家と江川家は隣接していた村の共に庄屋の家柄。次之進は旦丘家から江川家の養子となりその姓を名乗った。冨沢ミドリ氏資料]由右衛門氏の次男として、嘉永四年[1851]四月二十五日に生れる。

明治十四年[1881]、三十一歳と云う中年で俄かに志を樹てゝ上京、某医師の書生を勤め、又は横浜に出て、運送店の書記に住込む等、此間容易ならぬ難行苦行を重ねたのである。

一日碇泊の汽船に乗組んで作業中、過って船底に墜落して既に一命を抛ナゲウったかと思ったが、幸いにして命拾いをしたので、再び上京、古帽子の色揚げなどで其日を糊して、眞ん底から憂き世の辛酸を嘗めつくしていた。然るに其頃、[銀座]文昌堂におった山口定雄氏の奨めによって、活字の販売に従事することゝなったが、店舗を開く迄の資金が無かったので、活字行商と云う珍思考を案出したのである。氏がこれに着眼した動機が如何にも面白い。

当時は煙草が民営であったから、其の袋に販売店の住所番地が一々筆書されてある。それを今日のゴム印の様に、活字をスタンプに入れて押すと、頗スコぶる便利だと云うことに気付いて、毎日小さな行李コウリに活字とスタンプを入れて、各店舗を廻ったものである。
それに又質屋を訪問して、質札や帳簿に年号なり家名なりを押すことを勧誘したので、何れも其の便利なのに調法がられて、急に流行の寵児となったのだから、氏の慧眼ケイガンには生き馬の眼を抜くと云う江戸ッ子の活字屋も推服したものだそうな。
此時氏の受売りをした活字は、[東京]築地活版所と印刷局と文昌堂[東京築地活版製造所・昭和13年清算解散、印刷局・現独立行政法人国立印刷局、文昌堂・銀座に旧在した活字商]の三ヶ所の製品であった。

斯カくて一年足らずの間に意外に儲け出して、相当の資本も出来た。従って印刷局や築地活版所も、氏を信用すると云う極めて良い條件に恵まれたので、在来の行商式を廃し、両国広小路、上野広小路、浅草広小路、新橋附近などの、人通りの多く、且つ交通便利な場所へ、さゝやかながら店舗を張ることにした。当時既に欧米の文化が急速度に消化され、印刷物の需要が多々益々増大されたので、活版所も勿論これに伴って続設、濫設されて、活字の供給迅速を要求することになった。そこで勢い買入れに便利な活字屋へ顧客が集中したのだから、江川氏の策戦は見事にあたって、店勢日に日に旺盛を極むるにいたったのである。

而して動ヤヤともすれば、印刷局なり、築地活版なりの受け売りだけでは、間に合わぬ場合が生じたり、其他何かと不便を感じたので、将来身を活字販売に委ねる以上、寧ムシろ自家鋳造[活字母型を購入し、自社内で活字鋳造をする]を断行するに如かずと決意することゝなった。

其頃の印刷局の活字は大きさも高さも不統一であったから、大きいのは一々鑢ヤスリで削り、高いのは尻を鉋カンナで削って、築地製品に合わせて販売すると云う、中々面倒な手数が掛かったとのことである。これは築地製は明治十四年[1881]米国から買入れたカスチング[ブルース型手廻し活字鋳造機]で機械的に造ったから、規格が揃っていたのに反し、印刷局製は手鋳込み[手鋳込み式ハンドモールドのこと。ただし東京築地活版製造所と印刷局は創立以来ポンプ式ハンドモールドをもちいたとみられる。またブルース型手廻し式活字鋳造機を東京築地活版製造所が先行して1台は輸入した記録はあるが、本格導入は、東京築地活版製造所、印刷局の両社とも大川光次らによる国産機の開発を待った。その導入はほぼ同時期とされる]で造った関係からではないかと云われている。

明治十六年[1883]総べての準備が整ったので、愈々イヨイヨ活字の自家製造を開始すべく、日本橋区境町四番地に江川活版製造所を創設したのである。工場主任として母型師字母駒ボケイシ-ジボ-コマ(有名な字母吉ジボ-キチの弟)を招聘ショウヘイし、これに当時東京印刷関係職工中の最高級の五拾銭を支給したと云うから、江川氏の意図が奈辺にあったかゞ判るではないか。其頃はアリ(ガラハニーの這入るボテの凹部)切り[電鋳法による活字母型をマテ材に嵌入させる凹部をつくる器具]もなく、皆鑢ヤスリで削り、十本宛仕上げしたとのことである。

明治十八年[1885]、弘道軒で楷書活字を販売[鹿児島人、神崎正誼創設の弘道軒活版製造所。楷書活字の一種、清朝セイチョウ活字の開発で著名]しているのに対抗して、行書活字の創製に着手したが、さてこれが完成する迄の苦慮は狭隘キョウアイの紙面では記述し尽せぬものがある。
当初書体の下書を中村正直[まさなお、洋学者・教育家。号して敬宇。1866年幕命により渡英。明六社を組織して啓蒙思想の普及に努力。東大教授・貴族院議員。訳書『西国立志篇』『自由之理』など。1832-91]先生に[活字原字版下を]依嘱して種字を造ったが、書体が細いのやら、太いのやら、丸いのやら角なのやらが出来て、使用に堪えぬので、遂に中止してしまった。これが為に多大の損害を蒙むったとのことである。
而かも行書体の種字は筆法が太いために、黄楊ツゲに彫っては木目が出て面白くないところから、鉛の彫口を微かい砥石で砥ぎ、それに種字を彫付けてガラハニーとした[いわゆる地金彫り。活字地金などの柔らかい金属、あるいは「焼きなまし」による鉄材などに種字を直刻して種字として、電鋳法により活字母型をつくった]と云うから、其苦心の並々でなかった一端を知ることが出来よう。

翌十九年[1886]、業務拡張の為に、日本橋区長谷川町に引移った。其年著名な書家其頴久永氏[久長其頴 ヒサナガ-キエイ 書家 詳細不詳 乞う情報提供]に、改めて行書種字の揮毫を依頼し、此に初めて現今伝っている様な行書々体が出現することゝなったのである。

斯くて此間三、四年の星霜を費やして、漸く二号行書活字を完成し、次ぎに五号行書活字も完備することゝなったので、明治二十一年[1881]秋頃から、「江川の行書」として市販し出したところ、非常に人気を博し、売行亦頗ぶる良好であったと云う。明治二十五年[1892]十一月十五日引続き三号行書活字を発表した。

然るに昔も今も人心に変りがないと見え、此行書活字が時好に投じ、前途益々有望であることを観取した一派は、窃ヒソカにこれが複刻[いわゆる種字盗り。活字そのものを種字代わりとして、電鋳法によって活字母型を複製して活字鋳造をした]を企画するにいたり、殊に甚だしきは、大阪の梶原某と云う人が、凡ゆる巧妙な手段を弄して、行書活字を買い集め、これを種字となして遂に活字として発売したから、此に物議を醸すことゝなった。即ち江川では予め行書活字の意匠登録を得ていたので、早速梶原氏に厳重な抗議を提起したが、その結果はどうなったか判明しない。

これより前、明治二十二年[1889]に横浜伊勢崎町で、四海辰三外二名のものをして活字販売店を開かしめ、同二十四年[1891]大阪本町二丁目にも、淺岡光[旦丘 光、東京では旦丘-あさおか-が通じにくく、一部文書記録でも浅岡・淺岡をみる]をして活字販売店を開設せしめ、地方進出に多大の関心を持つことゝなった。

明治二十五年[1892]大阪中島機械工揚が、初めて四頁足踏ロール印刷機械を製造したが、大阪でも東京でも購買力が薄く難儀したので、東京での販売を江川氏に依頼した。商売に放胆な江川氏は、売行の如何を考うるまでもなくこれを快諾したそうである。
同二十六年[1893]、長男貫三郎氏の異兄をして福井県三国町[現福井県坂井市三国町地区。九頭竜川が貫流し、東尋坊で著名。三国町は江川家・旦丘家の在地でもあった]に支店を開かしめ、続いて廿七年[1894]山田朝太郎氏に仙台支店を開設せしめた[江川活版製造所仙台支店は江川活字製造所と改組・改称されて、仙台市青葉区一番町1-15-7で2003年頃まで営業を持続して、東北地区一円の需要を担った]。

東京築地活版製造所が製造した「乙菊判四頁掛け足踏み印刷機械」≒ B 3 寸伸び。
江川次之進が製造した活版印刷機も、これに類似したものだったとおもわれる。
『活字と機械』(東京築地活版製造所 大正3年6月)
PS : 掲載後に読者より江川活版製造所による印刷機の写真画像提供を受けた。続編に紹介したい。

尚二十九年[1896]には、隷書活字の創製所たる佐柄木町[さえきちょう、現神田須田町・淡路町周辺]の文昌堂(元印書局の鋳造部技手松藤善勝氏村上氏等が明治十三年[1880]に設立したもの)を買収したる外、松山氏に勇文堂、柴田氏に勇寿堂を開店せしむる等、巨弾又巨弾を放って販路の拡大に努力する有様、他の同業者の心胆を寒からしめた由である。

明治三十三年[1900]築地二丁目十四番地に、江川豊策氏を主任として、且つて築地活版所にいた本林勇吉氏を招聘し、本林機械製作所を開設して、印刷機械の製作にも従事するようになった。

此頃は江川活版製造所の全盛時代で、すること為すこと成功せざるはなしと云う盛運を負っていたのである。然しながら月満つれば欠くの譬タトエの通り、同氏の才気に誤算を生ずるようになってからは、事、志と異う場面が逐次展開されて来た。

明治四十年[1907]この数年以前から、東京の新聞社は、活字を小さくして記事を多く詰める傾向となり、「萬朝報ヨロズ-チョウホウ」の如きは、秀英舎に註文して、既に三十七年二月[1904]から、五号横二分四分の活字(平型)[いわゆる新聞扁平活字]を使用して好評を博したので、氏も亦五号竪二分四分活字[いわゆる江川長体明朝活字]を創製するにいたった。
然し此活字は一般の趣向に合致しなかったものか売行が思わしくなく、加うるに二三の地方新聞に納入した代金が回収不能となったので、断然製造を中止することになった。[江川長体明朝は、国内での販売がおもわしくなく、都活字などの手を経て、当時邦人が進出していたハワイやサンフランシスコの邦字紙などで主にもちいられたとされる。『本邦 活版 開拓者の苦心』津田伊三郎の章にその記録がのこる。また、後年津田伊三郎はあらたに長体明朝の開発をおこなっている]。斯くして此年、営業権を長男貫三郎氏に譲り、悠々自適の境遇に入ったのである。

明治四十二年[1909]、創立当時より在店する某が、隠居江川氏に向い、時の支那公使李慶均の証明書を提出し、当時茗荷谷ミョウガ-ダニにあった支那人経営の新荘街と云う印刷所を弐拾万円の株式会社に組織変更するに就き、運動費の提供を求めた。依って十二月二十八日に壱万円、翌年二月に壱万五千円、同四月に壱万円、五月末に壱万円都合半年間に四万五千円を出資したが、其後有耶無耶になってしまったので、これらが原因となり営業上に一大支障を生ずることゝなった。
そこで親族会議の結果、江川の家名を穢したくないとの理由で、江川活版製造所閉鎖の議が出たが、結局親族宇野三郎氏、加藤喜三郎氏等が経営の任にあたった。然しこうなっては、隠居の恩顧に預った人達も、何んとなく腰が落ち着かず、心平らでないまゝに、誰れ彼れとなくこゝを却シリぞいて、各々自活の道を講ずることになったから、折角の復興策も思うように行かなかった。

ところが、多年扶殖した努力と信用の惰力により、兎に角江川の名は引続き業界に喧伝されていたのである。尤もこれには明治二十六年(九歳)から奉公している甲州出身の深町貞次郎氏が、温厚実直で且つ経営の才があったから、先輩の退散にも滅げず、江川をこゝまで頑張らしめて来たのである。茲ココに於いてか、大正十一年[1922]、親戚一統協議の結果、江川当主を差しおいて、深町氏に一切の営業権を譲渡し、氏をして自由に商才をふるわしむるにいたった。

それはさておき、隠居次之進氏は、明治四十五年[1912]二月八日、淀橋拍木[新宿駅西口近く]で、六十二歳を一期として黄泉の客と化せられたのである。

法名 繹乗誓信士

―― 挿  話 ――

足踏ロールを東京で初めて販売した人は江川氏であるそうな。当時四六判四頁が一台百六拾円であったが、取扱った当初は不振で殆んど売れなかった。然るに、其後二、三年経過してからは、トントン拍子に売れたのだから、そうなると中島氏が高くとまって註文品を送って来ないと云う始末。尤 も其頃中島では発動機に手を出し、其方に資金が膠着したらしいので、江川氏は屡々シバシバ前金を渡して製品を急がせたことがあったそうな。
而して中島氏の曰くには「印刷機械は十貫目拾五円にしかならないが、発動機の方は十貫目四拾五円だから三倍になるからネ」と意味深長な言葉を洩らした由である。これに依って見ると、印刷機械が他の機械に比して廉価であることは、昔からの伝統とも見えるのである。

江川次之進氏は組合役員や其他の名誉職を各方面から持ち込まれたが、無口の方であった為か、一切顔を出さなかった。宗教には深い関心を持ち、本願寺[築地本願寺、浄土真宗本願寺派の寺院]へは毎年千五百円宛寄附され、同寺では中々良い顔立をしていられたとのことである。

現在の江川活版製造所は深町氏によって隆運を続けている。又、戸田活版製造所、藤井活版製造所[初代藤井三太夫、直系の孫が新宿にて営業中]、辻活版製造所等は何づれも江川の出身である。

[ 関連: 活版 à la carte 【寄贈式】 江川活版製造所、江川次之進活字行商の図-武蔵野美術大学美術館・図書館と冨沢ミドリさん
◉ 初掲載:2011年4月26日
◉ 2020年02月14日 図版を拡大し、一部の字句を修整し、当日付で再掲載した。

【朗文堂ブックコスミイク】『平野号 平野富二生誕の地碑建立の記録』|発行:平野富二の会|発売:朗文堂

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『平野号』プリント用 PDF 

平野号 平野富二生誕の地碑建立の記録

B 5 判、408 ページ 図版多数
ソフトカバー
定価:本体 3,500 円+税
ISBN978-4-947613-95-0  C1020

発行日 2019年5月30日 初刷
編 集 「平野富二生誕の地」碑建立有志の会
発 行 平野富二の会
発 売 株式会社朗文堂
    www.robundo.com
    typecosmique@robundo.com

<おもな内容 ── 目次より>
記念式典
平野富二 略伝/平野富二 略伝 英文
平野富二 年譜
明治産業近代化のパイオニア
「平野富二生誕の地」碑建立趣意書
 平野富二生誕の地 確定根拠
長崎 ミニ・活版さるく
平野富二ゆかりの地 長崎と東京
 長崎編
出島、旧長崎県庁周辺、西浜町、興善町、桜町周辺、新地、銅座町、思案橋、油屋町周辺、寺町(男風頭山)近辺、諏訪神社・長崎公園、長崎歴史文化博物館周辺、長崎造船所近辺
 東京編
  平野富二の足跡
  各種教育機関
  官営の活字版印刷技術の伝承と近代化
洋学系/医学系(講義録の印刷)/工部省・
太政官・大蔵省系(布告類・紙幣の印刷)
  平野富二による活字・活版機器製造と印刷事業
  その他、民間の活版関連事業
  勃興期のメディア
 「谷中霊園」近辺、平野富二の墓所および関連の地
「平野富二生誕の地」建碑関連事項詳細
「平野富二生誕の地」碑建立
募金者ならびに支援者・協力者 ご芳名
あとがき

跋にかえて ── ちいさな活字、おおきな船 
『平野号』出発進行、ようそろ!

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【タイポグラファ群像】小池製作所|小 池 林 平 と 活 字 鋳 造|日本の活字史のもうひとつの側面から

小 池 林 平 と 活 字 鋳 造

日本の活字史のもうひとつの側面から

***

活字鋳造法の長い歴史と普遍の技術

ヴィネット04口絵

活 字 鋳 造 師

錫と鉛の秘法をもって
鋳造活字をつくるのがこの儂じゃ
組版は正確きわまりなく
整然と活字がならぶ
ラテン語、ドイツ語
ギリシャの文字でも同じこと
イニシャル、句読点、終止符と揃え
あとはいつでも刷るまでさ

Illustration by Jost Amman
Text by Hans Sachs
1568

★     ★     ★

佐渡鉱山の技術者集団一家出身の小池林平

小池製作所の創立者・小池林平( 1915 – 96 )は、新潟県佐渡郡相川町に生まれた。

小池林平小池林平 1915-1996 写真は1985 年  

小池林平と小池製作所の歴史をたどると、それは明治の開国からの、わが国近代金属活字の鋳造と、その関連機器の開発史をたどることになる。
すなわち小池の師は、大正から昭和初期に活躍した「大岩式自動活字鋳造機」の開発者の大岩久吉であり、その大岩の師は、明治期に国産によるはじめての「小型活字鋳造機/カスチング」を開発した大川光次につらなる。

それはそのまま、大蔵省印刷局[現 独立行政法人 国立印刷所]と新聞各社を中心とした、大量に、精度の高い活字を求めた、印刷メディアの歴史とも重なるのである。

主要登場人物と、その業績と製品無題

民間企業である東京築地活版製造所や、秀英舎(現大日本印刷)の活字書体研究に関しては、相当の進捗を見るこんにちであるが、大蔵省紙幣司(1871- 明治 4 年創立)と、正院印書局(1872- 明治 5 年創立)に源流を発する大蔵省印刷局や、こんにちの独立行政法人国立印刷局など、官製の活字書体や、その活字鋳造法は意外に知られていない。

また大手新聞社の活字書体とその活字鋳造法も、資料は豊富に現存しているが、規模が大きいだけに、十分には研究の手がおよんでいないのが現実である。
赤坂・虎の門、工部省近辺工部省勧工寮活字局 跡

所在地:港区虎ノ門2丁目2 (もと佐賀藩松平肥前守中屋敷、維新後に赤坂溜池葵町 旧伊万里県出張邸跡)
標示物:独立行政法人 国立印刷局 虎ノ門工場 跡(国立印刷局 本局)〔港区虎ノ門2丁目2-4〕

概 要:「長崎県立長崎製鉄所新聞局」の活字一課「通称:活版伝習所」が1871年(明治4)4月に工部省に移管され、同年11月、東京の当地に移転して活版製造を開始した。
人員は長崎でウィリアム・ギャンブル(William Gamble 1830-86)から伝習を受けた者たちが中心で、設備も上海美華書館を経由して、アメリカから購入したものが主体をなしていた。
────────────────

工部省勧工寮活字局は設立直後から、これも新政府系印刷工場の「左院活版部・正院印書局」からの再々にわたる移管要求にみまわれていた。それに抵抗して工部省勧工寮活字局は1873年(明治6)4月、活字販売広告を出して外部の一般企業にも活字を販売するにいたった。その抗争をみかねて、平野富二はおなじ長崎に源流を発する勧工寮活字局を民間に払い下げて、東京築地活版製造所と合併する案を提案したが実現しなかった。
その後活字局は勧工寮から製作寮に移ったが、結局のところ1874年(明治7)8月に「正院印書局」に併合された。
この地には2014年まで「国立印刷局 虎ノ門工場」があったが、滝野川工場と合併して「国立印刷局 東京工場」(北区西ヶ原2丁目3-15)となり、現在は「国立印刷局 本局」だけが近隣のビル内に置かれ、宏大な跡地周辺は現在再開発地区とされ工事が進行している。

図の中央左寄りに「工部省」と表記された一画が「佐賀藩松平肥前守中屋敷跡」で、「地質検査所」と表記された辺り左側に勧工寮活字局があったと見られる。ごく最近まで、ここには「財務省印刷局」の虎ノ門工場があった。 外堀を隔てた北側に「工部大学校」が表示されている。
感覚としてはアメリカ大使館と虎の門病院にはさまれた地区にあたる。(明治16年測量「五千分一東京図」より)

本稿はこうした印刷・活字史研究の間隙となっている、活字鋳造機、インテル・込め物鋳造機、自動活字鋳植機などの開発の歴史に、小池林平と小池製作所に焦点をしぼって記述するものである。したがって物語はすこしく長くなる。

★     ★     ★

新潟県佐渡郡相川町は江戸初期に開かれた「佐渡金山」の鉱山町で、この町が活況を呈したのは 1603年(慶長 8 )、江戸初期の金山奉行・大久保長安(ながやす 1545-1613 )がここに陣屋を開設してからである。相川は徳川幕府の天領行政庁の所在地として殷賑をきわめる町となった。

小池林平はこの相川町に、建築設計請負業の父・栄蔵と、母・ハルとの間に、三男一 女の末っ子として、第一次世界大戦最中の 1915(大正 4 )年 9 25 日に誕生した。
父・栄蔵は早稲田工手学校に学び、建築設計技手の資格をえて佐渡に帰り、各町村の学校、庁舎、税務署などの設計に関与し、当時最先端の西洋建築手法によって、佐渡の主要な建築物のほとんどになんらかの形で関与していた。

長男・熊太郎は、東京物理学校(現理科大学)を中退後に帰郷し、三菱鉱業佐渡工業所職員となった。次男・良作も相川中学(旧制)を卒業後、三菱鉱業に入社し、長兄と同じ道をたどったが、心臓病のため、1951(昭和 26 )年死去。長女・トシも三菱鉱業の職員と結婚し、いずれも佐渡鉱山と深い関わりをもった。

さて、この物語の主人公、末っ子の小池林平は、兄たちと同様に中学(旧制・現在の高等学校)に進学したかったが、
 小池の家から人も中学に行くことはない。いずれ中学には入れてやるが、三 年に編入すればよい。それまでは独学せよ」
と栄蔵に命じられて進学を断念し、家業を手伝いながら私塾に通って、中学への編入試験に備えていた。

そんなある日、林平に大きな転機が訪れた。当時の佐渡鉱山では、本の大煙突がアメリカ人技師の手で設けられて話題となっていた。隣家の物知りな主人がいった。
「あれを見よ。あの煙突を建てている米国の技術者は月に 1 万円ももらっているんだ。林平も学校などにいかず、彼のように手に職をつけよ」
ちなみにこの時代、大学卒業の技術者の平均的な月給は 35 円程度であったという。

この時代、小規模な工場では小学校の卒業者しか雇わないのが通例であった。それは徴兵令にもとづいて、20 歳に達した男子は徴兵検査の上、強制的に軍隊に徴兵されるため、徒弟的な修業を経て一人前の技術者、すなわち叩き上げの職人や工匠となるためには、尋常小学校か高等小学校卒業程度(12-16歳ほど)の年少者でなければならなかったのである。

林平が技術者への道を目指して上京を決意したのは 17 歳の春秋のときであった。1931年(昭和66月、小池の遠縁の福沢家の出で、東京で「大岩鉄工所」を経営している、大岩久吉の妻・ヤノの縁を頼ってのことであった。
ところが …… 、林平はヤノから一人前の職人になるための修業は相当厳しいと聞いただけで、大岩久吉といういかつい名前の人物も、ましてや「大岩鉄工所」がなにをしている工場かも良くは知らなかったのである。

このとき、昭和恐慌がピークに達し、9 月には満洲事変が勃発し、翌 7 5 月には「五・一五事件」が発生して犬養毅首相( 1855ー1932 )が暗殺され、本格的な戦争への暗い予感が世相となっていた。
しかし同時に、この頃のわが国は、未曾有の低金利と低為替策(円安)に支えられ、輸出企業は活況を呈し、暗い予感に怖れおののく世相と、空前の利潤に沸き立つ財閥系輸出企業群という、アンバランスな表情をうかべていた。

★     ★     ★

手鋳込み・手回し活字鋳造機と大川光二、その弟子・大岩久吉

大岩久吉はもともと煙管(キセル)職人として東京・向島で、兄とともにキセルの雁首などを加工する金属加工職人として生計を営んでいた。のちに最先端の印刷関連機器の「活字鋳造機/カスチング」(活字鋳造機 type casting machine )などと様〻に呼ばれた機器の製造者として手腕を発揮した。
この大岩の師匠は、彦根藩・井伊家の鉄砲鍛冶を祖とする大川光次(1853-1912)であった。

周知のように、鉛合金による鋳造活字を使用する活字版印刷術は、1445 年頃、わが国の室町時代に、ドイツのヨハン・グーテンベルク( Johann Gutenberg 1399 ?-1468 )によって創始された。
グーテンベルクは金属活字をおもな印刷版とする印刷術、すなわち 活字版印刷術 = Typography の開発者たちのうち、あまりにも著名なひとりであるが、また同時に、金属活字を製造するための効率的な活字父型( type punch )・活字母型( type mold )の製造法や、タイプ・キャスティング・ハンド・モールド( type casting hand mold 手鋳込み活字鋳造器・流し込み活字鋳造器)の考案者でもあったとみなされている。

わが国では「手鋳込み・流し込み活字・割り鋳型」などと呼ばれた、一見簡便なタイプ・キャスティング・ハンド・モールドの技術は、鉛合金の注入を、手動で柄杓(ひしゃく)状の器から鋳型に流し込む「流し込みタイプ・キャスティング・ハンド・モールド」であったが、その後はせいぜい流し込みから「ポンプ式タイプ・キャスティング・ハンド・モールド」に改良された程度で、400 年ほどの間、基本的な技術は変わらなかった。

活字父型とタイプ・キャスティング・ハンド・モールド
手前に見えている金属片は贅片付の活字。Mizuno Printing Museum 所蔵。

Type Casting Hand Mold

   左:ブルース手回し式活字鋳造機   右:トムソン型自動活字鋳造機(小型)

Hand Casting Machine The Thompson Caster

しかし 1838(天保 9 )年、米人のダビット・ブルース( David Bruce Junior 1802-92 )が「手回し式活字鋳造機 pivotal type caster 」の実用化に成功した。

わが国の活字業界では「カスチング/手回し式活字鋳造機/手回し」などと様〻に呼ばれたこの「ブルース活字鋳造機」は、現在もなお、48 ポイント以上の大きなサイズや、スクリプト体などの「張り出し」があるような特殊な活字の鋳造のために、一部の業者が使用しているほど、堅牢かつ利便性の高い機械である。しかしこれがいつ頃、どのようにわが国にもたらされたのかは確たる資料はない。

江戸末期、「流し込み活字」と称して「タイプ・キャスティング・ハンド・モールド(手鋳込み活字鋳造器・流し込み活字鋳造器)」による活字鋳造法によって、良質な活字を安定製造できずに苦吟していた長崎通詞・本木昌造らが、維新直前に松林源藏を上海の美華書館に派遣し、明治最初期に上海経由で入手したものとみられているが、これも確証はない。

「ブルース活字鋳造機」は手動の簡素な機構の機械で、2 個の L 字型の鋳型を組合せ、ポンプ(ピストンともいう)で地金を鋳型に流し込み、手動ハンドルを 1 回転させるごとに、贅片(ぜいへん/活字の尾状のもの)がついたままの活字を機外に排出するものである。これを仕上げ工が贅片を折り取り、カンナで仕上げて完成品とした。
1871(明治 4 )年、工部省勧工寮活字局は、おそらく「ブルース活字鋳造機」とおもわれる「カスチング 1 台」を設置して活字を鋳造し、民間にも活字を供給・販売しようとした。

!cid_704522C0-CBF9-4429-A5F1-353ABD0C6F62「江戸名所道外盡 神田佐久間町」広角画・東京都立中央得図書館
絵師:広角は津藩藤堂和泉守上屋敷の門長屋の正月風景をのこしている。当時25万石の大名:藤堂家のような武家屋敷には町名はなく、もっぱら「藤堂さまお屋敷」などと呼ばれていた。ちなみに「藩邸」は明治期以降のことば。町人地であった神田佐久間町はほぼこの絵図のままに現存するが、それは下掲図画面の左手であり、左下にわずかに屋根の一部が描かれているにすぎない。
37-05.『江戸名所道外盡 神田佐久間町』広景画 resized

いっぽう、本木昌造の長崎新町活版製造所の経営を継承した平野富二は、10 名の同志とともに 1872(明治 5 )年、千代田区神田和泉町一、旧津藩藤堂和泉守上屋敷の門長屋の一隅(現千代田区立和泉小学校のあたり。多くの記録に-外神田佐久間町三丁目-とされているが、それは町人地で、道路の反対側にあたる)に「崎陽新塾出張活版製造所」を設置した。
このとき使用した「手鋳込み活字鋳造機」と記録されている機械も、製造量と単価の記録から推量すると「タイプ・キャスティング・ハンド・モールド」ではなく、すでに「ポンプ式タイプ・キャスティング・マシーン」、あるいは「ブルース活字鋳造機」を導入していたとおもわれる。

この平野富二による活字鋳造所は、わずか一年後ののちに築地に移転して、東京築地活版製造所となって「東洋一の活字製造工場」(印刷雑誌)として盛名をはせることななる。
1881(明治 14 )年に同社は、米国から「ダビッド・ブルース型活字鋳造機を購入した」と『印刷製本機械百年史』に記述されている。おそらくこの頃から「ブルース活字鋳造機」が本格的に、あるいは商事会社などによってわが国に輸入されたのであろう。

国産による「小型鋳造機/手回し式活字鋳造機 pivotal type caster 」を最初に開発したのは大川光次であった。代々鉄砲鍛冶として、彦根・井伊藩に仕える家に生まれた大川は、少年時代から家業を手伝っていたが、1920年(明治 5)、赤坂・田町で流し込み活字(タイプ・キャスティング・ハンド・モールドによる活字のことか?)、および鋳型(タイプ・キャスティング・モールドのことか?)の製造・販売を開始した。
1927年(明治 12 )には大蔵省印刷局に招かれて鋳造部伍長となり、やはり同局に入った実弟の大川紀尾蔵とともに、活字鋳造と鋳型の完成に努力した。

1883年(明治 16)に山縣有朋の建議によって官報第 1 号が発行された。
大川兄弟はこの年に大蔵省印刷局を退き、赤坂・田町において鋳型製造業を再開するとともに、国産 1 号機となる活字鋳造機「小型鋳造機/手回し式活字鋳造機/カスチング」を製作した。従来はこの大川光次製の、様〻な名称によって呼ばれていた活字鋳造機の詳細がわからなかったが、『小池製作所の歩み』にわずかに残された不鮮明な石版印刷の図像をみると、大川兄弟が製造した通称「カスチング」とは、「ブルース活字鋳造機」の模倣機といえた。

後述するが、これらの機器は補充部品の供給もままならず、また解体修理を迫られることは今でもしばしばある。当時の通信・交通事情を考慮すると、その依頼を原産国たるアメリカに発注することは事実上不可能であった。したがって大川兄弟は「ブルース活字鋳造機の英国製?の模倣機」に合わせて、日本語活字の鋳型をつくり、また、その修理の経験をへて、独自に模倣機の製造技術を習得したものとおもわれる。

大川光次の製造による国産「小型鋳造機/カスチング」

大川の「小型鋳造機」はそう広範囲に普及したわけではなく、おもに、かつての同僚であった大蔵省紙幣寮や印刷局系の出身者が購入した。その代表は松田敦朝(あつとも 1825-1903 )による「玄々堂印刷会社/東京活字鋳造銅版彫刻製造所」や、神崎正誼(まさよし 1837-91 )の「活版製造所弘道軒」であった。神崎正誼の記録には、縁者のツテを頼って英国から「鋳造機」を輸入したという記述をみる。

「明治 16 年、大川兄弟は揃って印刷局を退き、赤坂田町 4 丁目(TBSのちかく)で鋳型及び鋳造機の製造を開始した。この鋳造機の原体は弘道軒神崎氏の義兄にあたる英国駐在公使が、神崎氏のために送ってきたもので、築地型とは異なり小型であった。それを神崎氏からスケッチさせてもらって、一工夫を加味したのである。これが本邦における小型鋳造機製作の起源となった」(『毎日新聞百年史』)。

活字鋳造機とは、ふつうは活字のサイズは可変型になっている。しかし実際の現場では利便性を重んじ、サイズ毎に鋳造機と鋳型を固定して、複数台数を設置することがほとんどである。したがって「玄々堂印刷会社」や「活版製造所弘道軒」が実際に使っていたのは、大川光次製の「小型鋳造機/カスチング」であったとみられる。
その結果、米国製の活字鋳造機「ブルース活字鋳造機」や「トムソン活字鋳造機」と、その模倣国産機を用いていた東京築地活版製造所と、大川光次の「小型鋳造機/カスチング」を用いた「玄々堂印刷会社」や「活版製造所弘道軒」の活字サイズは、鋳型の寸法や基準尺度の相違から、それぞれが独自のサイズのものとなったとみてよいだろう。

蛇足ながら …… 、大川光次製の「小型鋳造機/カスチング」は、精度と強度に何らかの問題を抱えていたのかもしれない。つまり大川光次製の「小型鋳造機/カスチング」を実見したという報告に接したことはないが、「ブルース活字鋳造機」は相当古いものでも健在で、現在も活字鋳造現場では実用機として用いられている。
のちに大川光次は芝・愛宕町に移り、1912年(明治 45 )、60 歳をもって逝去した。大川光次に関しては『本邦活版開拓者の苦心』「初期の鋳型、鋳造機製作者 …… 大川光次氏」に詳しい。

昭和 9 年に刊行された同書のこの章のサブ・タイトルには「門下の俊才ことごとく第一線で活躍」とあり、文末には「ちなみに大川門下として現在活躍されている俊才は、須藤、大岩、関、國友氏などである」とある。小池林平が師と仰いだ大岩久吉は、まぎれもなく大川光次の門下であった。

★     ★     ★

大岩久吉と、昭和初期のトムソン活字鋳造機

東京市芝区金杉橋にあった「大岩鉄工所」は、従業員 8 名ほどの小規模な町工場であった。間口4-5 間、奥行き 14-5 間の木造 2 階建ての建物で、1 階部分を工場とし、2 階は従業員の寮であった。技術者として立つことを夢見て上京した小池林平も、ここに住み込みで働くことになった。

当時の活字の鋳造は、すでに手鋳込み式(流し込み式)のタイプ・キャスティング・ハンド・モールドや、その改良型のポンプ式流し込み活字鋳造機の段階を終えており、「ブルース活字鋳造機/手回し式活字鋳造機」と、その模倣型国産機「小型鋳造機/カスチング」の普及と国産化が進展しており、また「自動活字鋳造機(トムソン活字鋳造機)」導入の端境期にあった。

「トムソン活字鋳造機 Thompson type-caster」はシカゴのトムソン社( Thompson Type Machine Co., 米国)製で、面倒な贅片処理を自動化して 1909 年アメリカ国内特許を所得した自動活字鋳造機であった。トムソン活字鋳造機は鋳型を取り換え、また腹板を厚薄いろいろに変更して、48 ポイントまでの活字と込め物類を完全鋳造した。

ブルース活字鋳造機の国産模倣機が、大川兄弟による「小型鋳造機/カスチング」のほかにめぼしいものがなかったのにたいして、トムソン活字鋳造機は、正規輸入品は少量にとどまり、多くはこれに正方形の日本語活字に適した改良を加えた国産の模倣機が用いられた。わが国の活字界ではこのような類似した型の国産自動活字鋳造機をも「トムソン型活字鋳造機」、あるいは単に「トムソン」と呼んでいる。

大正期後半頃からトムソン活字鋳造機を輸入・販売したのは三井物産であった。販売は順調であったが、当然部品の交換や、様々な補修や修理の必要があった。それをいちいちシカゴ・トムソン社に発注したり、人員派遣の依頼をすることには困難があった。そのために三井物産は、大川光次門下出身で、活字鋳造機に詳しく、練達の技術者でもあった大岩久吉に、交換部品の製造と修理を依頼することになった。

したがって「大岩鉄工所」は小規模な町工場とはいえ、大岩久吉の技量は瞠目に値するものであり、技術者といえば、佐渡相川町の鉱山技術者しか知らなかった林平少年にとって、はじめて知る、めくるめくような先端技術の展開の場でもあった。

とはいえ、このプロジェクトは公式には秘密事項になっており、大岩鉄工所の名前は表にでず、また大岩久吉は弟子や下請企業がやった仕事はまったく信用しなかった。大岩鉄工所の従業員はただ補助的な仕事を担っているに過ぎず、機械の性能・強度・精密度は大岩の仕上げの手腕ひとつにかかっていた。

「小型鋳造機/カスチング」すなわちブルース型活字鋳造機の技術者であった大岩が、トムソン型活字鋳造機でその名声を高めたことの根底には、類い希なる職人気質があったことはいうまでもないが、直接の契機となったのは、大岩がトムソン自動活字鋳造機に、技術者として心底惚れ込み、それを徹底的に学んだことにあった。

「大岩久吉は典型的な名人気質の人であった。(大蔵省)印刷局のトムソン活字鋳造機の修理をしているとき、この機械が一点の妥協も許さないほどの高い精度があることに惚れ込んで、このような活字鋳造機を自製してみたくなり、印刷局の了解を得てこれをスケッチした。このときのスケッチは、微細な傷にいたるまで完全に写しとっていたということである」(『毎日新聞百年史』)。

三井物産から部品製造と修理を委託されたことから、大岩は当時の最優秀機であったトムソン活字鋳造機の製造技術を吸収していた。しかしながら反面では、技術と機械に惚れ込むあまり、また資本力も乏しかったために、「トムソン」すなわち国産自動活字鋳造機の開発に関しては他社に遅れをとることにつながった。

国産化で大岩鉄工所に先行したのは、林栄社と、大手機械メーカーの池貝鉄工所であった。林栄社はトムソン社製の自動活字鋳造機を独自に研究し、1926年(大正 15 )国産機の完成にこぎつけ、「万年自動活字鋳造機」と命名して発売した。池貝鉄工所も追随して 1929年(昭和 4 )から発売した。そのほかにも東京機械製造、須藤製造所なども「トムソン型活字鋳造機」を発売した。これらの企業にはほとんど大川光次門下生がなんらかの形で関係していた。

そもそも輸入品のトムソン活字鋳造機は、欧文活字を効率よく、高速で鋳造するための機械であったから、和文用活字を鋳造すると、活字の脚の周辺部に「鋳バリ」が生じることが難点であった。そのために国内メーカーが模倣機を開発する際には、その仕上げ装置(バリ取り)の性能いかんが最大のポイントであった。『毎日新聞百年史』には次のようにある。

「大岩鉄工所の小池林平氏は東京日日新聞(毎日新聞の前身)に出入りして、トムソン活字鋳造機の仕上げ装置の欠点を改めようとし、独自の仕上げ装置を考案して特許をとった。輸入機の仕上げ装置はその後小池製作所の手に引き継がれ、現在も毎日新聞社のトムソン活字鋳造機につかわれている」

大岩鉄工所もこうした動向と無縁ではなく、他社に販売時期は遅れをとったものの、独自に、あるいは「高圧」という商事会社を通じて「大岩式自動活字鋳造機」を販売した。その製品の優秀性は他社製品を圧倒したが、いかんせん資本力がなく、また輸入機が 1 1 万円ほどだったのにたいして、国産機の一部業者は 1 1,800 円という低額販売を開始したために、池貝鉄工所はこの分野から事実上の撤退をはかり、三井物産も自然にトムソン機の輸入を中止するにいたった。

どういうわけか、「活字」という、言語に関わる「鋳物」を作る鋳造機には、ほかの工業機器にはない独特の製造思想のようなものが要求された。そのために国産機は独創的であろうとするあまり、とかく小手先の細工に陥りやすく、また部品点数がふえすぎて故障を招きがちで、耐久性に劣るという欠陥がみられた。大岩鉄工所がトムソン機の模倣機に、自社開発の活字仕上げ装置を付帯した「大岩式自動活字鋳造機」を発売したのは輸入元であった三井物産への遠慮もあり、他社に遅れて 1933年(昭和 8 )のことであった。
大岩鉄工所にきびすを接して、日本タイプライターも 1934(昭和 9 )年「万能活字鋳造機」を発売した。同機は大きさの異なる活字鋳造が、同一作業中でも可能で、とりわけ邦文モノタイプ用のセクショナル母型盤をそのまま使うことができた。

大岩久吉が作った機器とは、無駄を最大限に省き、それでいて高精度であり、かつまた耐久性を重んじた製品であった。しかしこうした職人魂を誇った大岩久吉も 1937年(昭和 12 )急逝した。
大岩家には、妻・ヤノ、長男・末吉、異母兄・勝太郎がのこされたが、長男末吉は結核によって父の跡を追うように逝去した。そのために継嗣として大岩勝太郎が事業を継承した。しかし実際には、大岩家のたつきともども、あまりに若き小池の肩に、大岩鉄工所の経営はゆだねられた。

ところが大岩ヤノは、夫、長男と相次いで喪って経営意欲をなくし、同郷の建築請負業者・児玉富士太郎を通じて、ダイヤモンド社・石山賢吉社長を訪ねて大岩鉄工所の買収方を要請した。

当時の石山賢吉のもとには投資家が頻繁に出入りしており、身売り企業を投資家と結びつける役割を果たしていた。石山は大岩鉄工所を買収の上、軍需下請け会社にしようと考え、1949年(昭和14 )に買収を完了、法人化の上、社名をダイヤモンド機械株式会社とした。
初代社長には某鋳物会社社長が、二代社長にはウェル万年筆社長・西尾信三郎が就任したが、日常業務はほとんど小池林平らに任せきりであった。小池林平は徴兵検査に臨み、陸軍高田第 3 砲兵連隊所属となったが、乙種合格のために兵役をのがれていた。この年、小池林平はまだ 20 歳であったのである。

こんにちの小池製作所も、この「大岩魂」を継承している。小池林平は最後まで、「私がこんにちあるのは、大岩久吉氏の薫陶のおかげである」として、浅草・潮江院の大岩久吉の墓への墓参を欠かさなかったという。

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時局切迫下、活字文化衰退の一途の中で小池製作所の創業

自動活字鋳造機、邦文モノタイプは、正規輸入品と模倣国産機ともども、技術革新は格段に前進し、新聞報道や印刷の迅速化に貢献しつつあった。しかし 1937年(昭和 12  7 月勃発の日中戦争、翌年の国家総動員法の発令を契機として時代は暗転し、印刷文化は窮状に追い込まれていた。

時局緊迫の中で、印刷製本機械工業組合が 1937年(昭和 12 )に創立されたが、すでに印刷を不要不急のものとみなす動きがあり、翌 1938 年には印刷製本機械にたいして、製造禁止令がかけられるにいたった。
それだけではなく、印刷業界は鉄や非鉄金属の物資動員計画の先制的な標的とされ、「印刷工場は金属鉱山」と題する論文までが中央官僚(矢野道也)の筆によって登場するにいたった。
こうした官僚側からの圧力をうけて、やがて官製の国民運動「変体活字廃棄運動」がわが国の活字を襲うことに連なったのである。この、わが国の近代活字を襲った最大の蛮行「変体活字廃棄運動」に関しては、「変体活字廃棄運動と志茂太郎」『活字に憑かれた男たち』(片塩二朗、朗文堂)に詳しい。

いっぽう大手印刷資本や新聞社は新市場をもとめ、軍の展開にあわせて、満洲(現中国東北部)、中国各地、南方諸島などに進出して、現地の印刷所を「接収」して印刷にあたっていた。
そのために国内の印刷関連機器メーカーは、転廃業するか、軍需工場の下請となって生き延びるしかなかった。また企業の統廃合もはじまり、印刷関連業者では 1938年(昭和 13 )に、東京築地活版製造所が清算解散、芳賀印刷機械製造所が廃業し、翌々年には浜田印刷機が製造を中止した。
また 1940年(昭和 15 )頃から印刷用紙などの紙不足が深刻になってきた。翌年には用紙配給機関として「日本和紙統制株式会社」が設立され、出版用紙の割当配給制度がはじまり、活字を含む印刷資材の配給もすべて「日本印刷文化協会」が取り締まることになった。

時局が切迫感をました 1943年(昭和 18 )、軍需省は印刷業の企業整備要項を発表、印刷製本関連の各工場が企業整備(統廃合)されるとともに、地方への(強制)疎開もはじまった。その結果、同要項施行以前に 18,225 社あった印刷業者は、翌年にはわずかに 5,471 社に激減した。

それに際して「印刷工場は金属鉱山」とされた印刷・活字業界から「供出」(没収)された機械や活字の供出量は、公式発表だけでも、鉄 18,520 トン、鉛(活字地金)9,670 トンが「供出」された。すなわち 2 トン車の小型トラックなら、鉄 9,300 台、活字地金 5,000 台近くにもおよぶ鉄と非鉄金属が「聖戦遂行」の美名のもとに奪い去られた。もちろん前述したように、非公式な官製の国民運動「変体活字廃棄運動」も水面下で陰湿に展開していた。

この間、1939年(昭和 14 )に設立されたダイヤモンド機械株式会社と小池林平は、活字鋳造機の分野を縮小して、ほそぼそと中島飛行機発注の戦闘機の部品製造を手がけていた。こうした折り、海軍省から大岩式自動活字鋳造機 10 台の注文があった。電話の呼び出しで小池が横浜駅に到着すると、海軍の車が待っており、海軍監督工場の文寿堂印刷工場へ連れて行かれた。

文寿堂は佐藤繁次郎が経営する民間会社であったが、海軍の監督下で暗号帳を専門に印刷していた。ここにはすでに 7 台の大岩式自動活字鋳造機を納入済みであったが、さらに 10 台を追加発注したいという話しであった。
しかも軍の最高機密である暗号活字を鋳造する機械を、いつ空襲にあうかも知れない町工場で製造させるようなときではなく、小池以下、活字鋳造機の製造担当者は、全員海軍が身柄を含めて預かるということであった。

帰社した小池は、事実上の最高責任者であるダイヤモンド社社長・石山賢吉の了解を得て、田村正、刀根功作、吉田秀夫らとともにダイヤモンド機械株式会社とは分離して、海軍に移ることになった。海軍への移動の直前、小池は大蔵省印刷局と毎日新聞社に納入していた大岩式自動活字鋳造機には、今後とも修理と部品提供に責任を持ちたいとして、軍部からの承認を取りつけていた。

こうして小池林平他 5 名は「海軍横須賀砲術学校印刷部」に所属して、ここで活字鋳造機を造ることになった。これが小池製作所の事実上の創立となった。このとき小池林平 26 歳の夏、1941 年(昭和 16 )のことであった。

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荒廃からの再出発、インテル鋳造機と小池製作所の設立

サイパン島から飛来した B29 による本土空襲などによって、首都東京は甚大な被害をこうむり、荒涼たる瓦礫の街と化した。印刷業者の罹災率は、東京 66%、神奈川 59%、大阪 53%、工場数では全国 4,800 社におよんだ。また新聞各社の工場も同様の惨状を呈していた。

小池林平らがいた海軍横須賀砲術学校では、8 月の深夜になると、機密書類を焼く光景が構内の各所で見られた。ところが日夜地下工場で機械製造にあたっていた小池らはそれを不審にはおもったが、まさか敗戦が間近に迫っているとは気づかずに日常業務にあたっていた。そして、昭和 20 年( 1945 8 15 日の敗戦を迎えた。

ひとびとはいうにいえない空虚感に苛まれた。新聞各紙がペラの 2 ページ版、しかも裏面が白紙という、まるで号外のような新聞を発行せざるをえなかったのは、あながち用紙不足のせいだけではなかった。それはついきのうまで「鬼畜米英・挙国一致・本土決戦・一億玉砕」を叫んだ同一のペンで、180 度の転換をすることに、言論人としての良心がゆるさなかったのであろう。

しかし、途絶していた活字文化は不死鳥のごとく甦ろうとしていた。新聞・印刷の業界は再起にむけて、印刷機械部門の技術者たちに熱い期待の視線を注いだ。そのために離散した技術者を探し出し、焼損した機械の修理や、新規技術開発を依頼し、他社に一歩でも先んじようと競いあった。
佐渡郡相川町に帰郷していた小池林平にも、ある日、毎日新聞東京本社から上京を要請する連絡がはいった。戦争末期、毎日新聞社は八王子市大横町にほとんどの印刷機器を疎開していたが、敗戦直前の 8 12 日の空襲で全焼していたのである。

上京直後から早速、小池は八王子の毎日新聞社の焼損した活字鋳造機の修理にとりかかった。それだけではなく、戦前来各社に納品してきたトムソン活字鋳造機の仕上げ装置や、大岩式自動活字鋳造機の修理と部品供給の任務が、小池の両肩にずしりとかかってきたのである。
こうした要望に応えるために、小池は工場の設置を決意し、退職金がわりに海軍から払い下げを受けた 3 台の活字鋳造機を元手に、目蒲線矢口駅近辺に仮工場を設置し、まもなく大田区鵜ノ木 3 丁目 23 18 号に、土地 100 坪の借地工場を購入して移転した。小池林平は順調な受注を得て自立の意思を固め、1947年(昭和 22 )に戦後社会の活字文化に貢献すべく、合資会社(のちに株式会社に改組)小池製作所を設立したのである。

ところで、毎日新聞東京本社から小池林平が重大な要請を受けたのは、それに先立つ1946年(昭和 21 )年 8 月、小池林平が 31 歳の働き盛りを迎えたころであった。
当時の毎日新聞社技術部長は長谷川勝三郎( 1912-2001 )であった。長谷川は東京高等工芸学校印刷工芸科の出身で、新規設備の導入には人と技術を重んじる毎日新聞の伝統的な社風を体現したひとりであった。

その膝下に古川 恒(ひさし 1910-86 )副部長がいた。古川は昭和初期、およそ 10 年間にわたって活字鋳造課に所属、のちに技術部長となった。また『毎日新聞百年史』の技術編は、ほとんど古川の手によったものである。また東京築地活版製造所跡地に設けられた「活字発祥の地」碑の撰文も古川の手によった。

毎日新聞社技術部の古川副部長と鈴木緑四郎は、まだ矢口渡に工場があったころに小池のもとを訪ねていた。古川はそのときすでに、毎日新聞活版部の命運を左右する機械の開発について、小池製作所に賭ける腹づもりがあった。それが「金属インテル(条片)鋳造機」の製造であった。

既述のとおり、わが国においてはすでに戦前から自動活字鋳造機の普及によって、大手印刷所や新聞各社は自動活字鋳植機を導入し、「自家鋳造による活字の 1 回限り使用」を実現していた。しかし印刷版の行間を構成するインテルや罫線などの条片類には自動化は及ばなかった。これらは徹頭徹尾手作りで、特殊な技術と手間を要する高価なものであった。

そのために、活版印刷の現場では、印刷や紙型取りの終了後、活字はすべてひとまとめに溶解釜に放り込んで再使用していたが、インテルや罫線はひとつひとつ拾い出し、インキを洗い流して再び使用していた。つまりインテル類に関しては旧態依然として、解版、洗浄、返し版、再使用を余儀なくされていたのである。そのため、金属インテルの自動鋳造は、新聞社、印刷会社を問わず、省力化とスピード・アップのための喫緊の課題だった。

古川 恒は 1942年(昭和 17 )にマニラに転勤となった。当時、毎日新聞社は、フィリピン、セレベス島、海南島、台湾、上海の各地に進出し、現地の印刷所を接収して、『マニラ新聞』『セレベス新聞』などの各種の新聞や、軍関係の印刷物を担っていた。主要各紙も同様であった。
古川が勤務したマニラ市では、米国系の、1 年半後に転じたセレベス島マカッサル市では欧州系のインテル鋳造機がすでに使用されていた。古川は技術者の視線で、現地でこれらのインテル鋳造機をつぶさに観察し、その原理を頭に叩き込んで帰国したのである。そしてこれらの機械が、きわめてオーソドックスに作られていることに気づき、日本でこれを開発するならば、大岩鉄工所の流れを汲む小池製作所以外にないだろうとの確信を抱いての訪問であった。

古川恒インテル鋳造機の試作機と古川 恒

「毎日新聞が小池製作所にたいして、条片(インテル)鋳造機を作るように口頭で依頼したのは昭和 21 8 月であった。当時はどこの機械メーカーも焼損機械の修理に追われており、新機械の開発に取りかかれるような状況ではなかった。しかしながら小池林平は昭和 8 年頃(小池林平の記憶では昭和 10 年)条片鋳造機を研究し、特許もとっていたので、喜んで製作を約束してくれた」(『毎日新聞百年史』)。

この要請があった当時の小池製作所は、自動活字鋳造機の製造や修理で従業員はフル稼働していた。また、敗戦の直後から、各地に活字鋳造業者や活字母型製造業者が雨後の筍のように出現していた。しかしこれらは最終的に、林栄社、小池製作所、それに林栄社の工場長だった津田藤吉が移籍した八光活字鋳造機製作所が主力メーカーとして残った。活字鋳造機は量産型の製品ではないために、大手機械メーカーではかえってコスト高となり、専業メーカーに対抗できなかったのである。

「来てください、どんどんインテルが出るようになりました」

小池林平からの弾んだ声の電話を古川恒が受けたのは、1949年(昭和 24 11 月のことであった。依頼から 3 年余の苦闘の日々ののちであった。

「早速有楽町から鵜ノ木の小池製作所に駆けつけてみると、インテルが順調に押し出されている。工場内には従業員の快活な声が行き交っていたが、ふと気づくと、機械から飛散する、熱した油のために、小池社長以下全員が火傷だらけでした。あのときの情景は今も忘れることができません」

と、古川 恒は『毎日新聞百年史』に多くのページを割いて、その苦心談を語り、小池林平を高く評価している。

「インテル鋳造機 strip caster, slug casting machine 」とは、インテルや罫線などを自動的に鋳造する機械である。すなわち活字鋳造機に似て、地金を溶解釜から細い透き間をとおして送り込み、一定の長さに鋳造したインテルの部分を、つぎつぎに融着して、1 本の長いインテルに仕上げるものである。凝固したインテルは引き出し装置によって引っ張られ、指定の長さに切断される。
この種の機械で代表的なひとつがルドロー・ティポグラフ社( Ludlow Typograph Co., 米国)の製品「エルロッド」であるが、同機は厚さ 1 -42 ポイント、長さ 1-24 インチ、鋳造速度は毎時 25 -45 フィート程度であった。

いっぽう、小池製作所が作ったインテル鋳造機は、活字と同一の地金を用い、各号数の全角から 4 分までの厚さが鋳造でき、1 時間あたりの鋳造速度は 130 メートル程度の高性能を誇った。この機械は毎日新聞工務部次長・齊籐雅人によって、製品名「小池式ストリップ・キャスター Koike Strip Caster 」と名づけられて毎日新聞社に即時納入され、その後新聞各社はもとより、印刷会社や活字鋳造所にひろく採用された。また「自動罫インテル鋳造機」として特許が認められた。

小池式ストリップ・キャスター Koike Strip Caster

小池式ストリップ・キャスター

「小池式ストリップ・キャスター」の開発成功は、小池林平に企業体としての小池製作所の発展に自信を与えた。それまでの小池製作所は自動活字鋳造機の主力メーカーとして知られていた。生産・販売台数は、1945 20 台、1946-50 年は毎年 60 台であった。しかしながらこれは大岩式のそれを基本的に継承したものであり、小池製作所の新規開発製品といえるものではなかった。すなわち、あくまでも故・大岩久吉あっての小池製作所であったのである。

さらに「小池式ストリップ・キャスター」の最大の成果は、従業員全員に新製品開発への意欲を喚起させたことであった。それは一流新聞社からの至難と思われた開発要請に応えたという自負だけではなく、競業他社と競いつつ、また自らが試行錯誤しつつ前進していくという、製品開発のプロセスを従業員が共有したことは、小池製作所の基盤を一段と強化した。

「小池式ストリップ・キャスター」はその後、ヨーロッパ諸国をはじめ、韓国・タイ・香港・インド・マレーシア・台湾などに輸出され、外貨不足に悩んでいた戦後のわが国にとって、「輸出貢献企業」としてさまざまな表彰を受けるにいたった。

【YouTube 長瀬欄罫製作所 日本語モノタイプ&インテル鋳造機の稼動の記録 音が出〼 3:40】

 相次ぐ技術開発、そしてついに KMT 全自動モノタイプの開発

小池製作所が自動罫インテル鋳造機の開発に全勢力を注ぎ込んでいたころ、活字業界では「変体活字廃棄運動」の悪夢をぬぐい去り、戦禍からの活字文化の復興を目指していた。そのために大きな役割を果たしたのが、ベントン活字母型(父型)彫刻機の特許切れに伴う国産化の動きであった。

もともと活字父型と活字母型の製造法には、パンチド・マトリクス法、電鋳法(電胎法)、彫刻法があった。このうち彫刻法の技術に、リン・ボイド・ベントン( Linn Boyd Benton 1844-1932 米)による画期的な発明「ベントン活字母型(父型)彫刻機 Benton type matrix ( or punch ) cutting machine 」がもたらされた。

この機械は相似三角形(パントグラフ)の理論を応用したもので、わが国ではおもに活字母型( type matrix )製造のために、特殊なカッターを毎分 8,000-10,000 回の高速回転によって、マテ材の表面に活字原図のパターンを縮小(まれに拡大)して彫刻するものであった。ベントンはこれを 1884 年に完成し、翌年に英米の特許を得た。

戦前のわが国の活字母型製造では、もっぱら種字とよばれた木製の活字原型か、活字そのものを活字父型代わりとする「電鋳法-電胎法とも」が中心であったが、大蔵省印刷局が新機構の「ベントン活字母型彫刻機」を 1912年(明治 45 )に導入し、三省堂と東京築地活版製造所(のちに凸版印刷に譲渡)が 1922年(大正 11 )に導入していた。

戦後、大日本印刷は、損傷と摩滅のめだっていた活字母型を再構築することを目的とし、三省堂の了解と協力を得て、測定機器のメーカーであった津上製作所に同機をスケッチさせて国産機の開発に乗り出した。
津上製作所は 1949年(昭和 24  9月、毎日新聞東京本社で国産機の展示会を催し、大日本印刷と毎日新聞社に続々と納入され、活字鋳造業者からも熱狂的に歓迎された。ついで富山市の「 NACHI 」ブランドで知られる機械メーカーの不二越も、同様にこの分野に進出した。この間の情報は『秀英体研究』(片塩二朗、大日本印刷)に詳しい。

国産メーカーによる「ベントン型活字母型彫刻機」は、電鋳法による活字母型の手作業を大幅に機械化し、敏速で精度の高い活字母型の製造に貢献した。しかし彫刻針で彫った活字母型から鋳造される活字には、表面に独自の出っ張りが生じる欠陥があった。そのために、これにもやはりなんらかの活字仕上げ装置を付帯させなければ、連続鋳造は不可能であった。

この装置を得意分野としていた小池製作所は、後発ではあったが、彫刻母型による活字仕上げ装置の開発に着手した。後発メーカーの宿命として、他社の特許に抵触することを避けたために開発は難渋したが、極めて単純明快な、カッターによる仕上げ装置を 1963(昭和 38 )年に開発するにいたった。先発企業のそれは、刃物でえぐり取るものであったので、その優良性は明白で、この「出張り活字の仕上げ装置」は特許を得て、ベントン型活字母型彫刻機のユーザーにひろく受け入れられていった。

活字鋳造界がベントン型活字母型彫刻機の開発に夢中になっていたころ、新聞社と大手印刷所の大きな関心は、活字組版の機械化と合理化、すなわち活字を 1 本ずつ鋳造しながら、自動的に組版までを作る「自動活字鋳造植字機」ともいうべき「モノタイプ monotype 」の開発に向けられていた。

モノタイプには、欧文用と邦文用がそれぞれ独自に開発され、特許も取得したために、先発したタルバート・ランストン( Talbert Lanston 1844-1913 )が 1887 年に発明、1889 年に試作機を完成し、1897 に商品化された「ランストン・モノタイプ Lanston Monotype 」を「欧文モノタイプ」と呼び、杉本京太( 1882-1972 )によって開発され、1920(大正 9 )年頃からわが国の一部で用いられたものを「邦文モノタイプ」と呼びならわしている。

戦後の復興にあたって、大手新聞社では「邦文モノタイプの開発」が死命を制するとまでされ、朝日新聞は「活版工程機械化」と称し、毎日新聞は「活版工程合理化」とうたうなど、呼び方にも差異を意識するほど熾烈な開発競争となった。

朝日、毎日新聞の両社は、ほとんど時を同じくして、戦前に「 SK モノタイプ」を開発した日本タイプライター(現 Canon Semiconductor Equipment )に製作を依頼したが、戦災からの復旧に手間取っていた同社には余力がなかった。そのため朝日新聞は東京機械製作所に、毎日新聞は工作機械株式会社に発注した。両社はともに 1949(昭和 24 )年 8 月に、「 AT モノタイプ」(朝日)、「 MNK モノタイプ」(毎日)として公開にこぎつけた。

いっぽう、日本タイプライターも 1948 年頃から独自に研究を開始し、1952 年(昭和 27 )年に、戦前の SK 式とは異なった「邦文モノタイプ」を完成させた。この新機種の活字母型庫は円筒型で、鋳型はランストンのモノタイプを踏襲して平型とし、地金釜と鋳口を鋳型の下に持ってきたものであった。同機は「 MT 型モノタイプ」と呼ばれた。この年には、東京機械製作所も「 TK 式モノタイプ」を開発した。

しかしながら、AT 型、MNK 型、MT 型、TK 型のいずれの機種も、和文タイプライターと同様に、文字入力部と活字鋳造部が一体で、欧文モノタイプのように、複数のオペレータが鑽孔テープによって文字入力をすることはできなかった。

小池製作所もこの分野に無関心であったわけではない。朝日、毎日新聞のモノタイプ開発競争を静観していた読売新聞社技術部から 1953年(昭和 28 )、株式相場の自動組版のための数表専用モノタイプの開発依頼をうけ、全自動鑽孔テープを用いた、独自の邦文モノタイプの開発に成功した。

ついで小池製作所は毎日新聞社の古川恒技術部副部長から新たな依頼を受けた。

「マニラに駐在の折り、マニラ・タイムスが見出し活字鋳植機を使用しているのを見て感銘を受け、活字母型の機械的な製造が可能になれば、国産機の開発もさほど困難はないと考えました。そうこうしているうち、毎日新聞は津上製作所製のベントン型活字母型彫刻機型を導入しましたので、いよいよ機は熟したとおもいました。開発依頼先はインテル鋳造機の実績もあることから、小池製作所以外に無いと考えました」(『毎日新聞百年史』)。

このとき古川は、小池林平にいった。

「インテル鋳造機は成功して、小池製作所さんの大きな看板製品になりましたが、見出し活字鋳造機は台数的には 20 台ぐらいしか売れないでしょう。しかし毎日新聞にはどうしても欠かせない物なのです。よろしくお願いします」

ところが古川の予測に反して、新聞社だけでなく、印刷・活字界にあっては、ベントン型活字母型彫刻機の導入によって活字書体とサイズが一挙に増加し、また紙面の多様化(デザイン性の向上)によって各社とも使用頻度の少ない見出し用活字が増大し、活字用の棚やスダレケースを占拠するのが悩みの種であった。そのために「小池式見出し活字鋳造機」は、毎日新聞はもとより、読売新聞、朝日新聞をはじめとする全国の新聞社に導入されただけでなく、中堅印刷所や活字鋳造所にもひろく導入された。

1955年(昭和 30 )、小池製作所は大蔵省印刷局と共同で「自動花罫鋳造機」も開発している。それまでの花罫は専門業者がインテルなどをタガネやバイトで削って製作する高価なものであった。

小池林平と小池製作所が本格的に全自動邦文モノタイプに挑戦をはじめたのは 1960年(昭和 40 )に入ってからになった。1964年(昭和 39 )年の東京オリンピックの報道がその動向に拍車をかけた。
邦文モノタイプは活版印刷の印刷版製造工程の要とされていたが、収容字種が 2,000 字ほどとすくなく、外字への対応が困難であり、入力と出力が一対一であったためにコストも割高で「道楽モノタイプ」と揶揄されるなどその普及は難航していた。

K M T  型 全 自 動 組 版 機

KMT型全自動組版機

1966年(昭和 41  6 22 日、小池製作所は「 K M T   型全自動組版機-小池式モノタイプ・マシーン」の発表展示会を開催し、印刷・新聞・報道各社を多数招いて話題となった。
K M T  型全自動組版機」は先発各社の製品と比べて、小型かつ高性能であり、新聞社はもとより、中堅クラスの印刷所までが競って発注した。「 K M T  型全自動組版機」はその後さらに改良がくわえられたが、最大の成果は、邦文組版だけではなく、欧文組版にも適合するように改良が加えられたことである。それに際して、小池製作所は英国・モノタイプ社との間に「クロス・ライセンス」契約を交わし、のちに小池製作所はモノタイプ社の日本代理店ともなった。

わが国の活字鋳造業界のまっただ中を生きてきた小池林平は 70 代の後半から床に臥せることが増えた。その病床には叩き上げ職人の大工の棟梁や、町工場の社長たちが親しく訪れていた。小池はこれらの職人や工匠を最後まで大切にしていた。

1996年(平成 8 10 21 日、 午前 0 52 分、小池林平は 81 歳をもって長逝した。その最後を看取ったのは後継者として育て上げた家族一同であった。

小池製作所と長瀬欄罫製作所、朗文堂サラマ・プレス倶楽部のおつき合い

「 21世紀になって、はじめての、純国産で、あたらしい活版印刷機を創りたい 」 として、2006年朗文堂 アダナ・プレス倶楽部(のち登録商標にあわせてサラマ・プレス倶楽部と改称)が発足した際、衰退著しかった活版印刷機器製造会社のなかで、その夢のようなはなしに耳を傾け、関心を示してくれる製造所はなかった。

たまたま旧晃文堂系人脈からの紹介で、
「 小池製作所なら、技術水準は高いし、誠実な企業だから ………. 」
との紹介を得た(代表取締役/小池隆雄、常務取締役/小池由郎、小社担当)。
そして、小型活版印刷機 Adana-21J を小池製作所の全面協力を得て、円高を背景に当時の製造業の流行だった、海外部品工場などをつかうことなく、こだわりをもって、純国産方式での設計 ・ 試作機製造 ・ 実機製造がはじまった。

★ 本稿で亜容喙した小池製作所の詳細は 「 アダナ ・プレス倶楽部コラム  小池林平と活字鋳造」 に詳しい。
なお上掲記録は 『 小池製作所の歩み 』 を中核資料としているが、最近の研究の進捗により、ブルース(型)活字鋳造機 ( カスチング、手回し式カスチング、タイプキャスティング ) の導入期などの記述に若干の齟齬がみられるが、初出のままにご紹介したことをお断りしたい。

ようやく小社と小池製作所の波長が合い、 Adana-21J  第二ロットの製造に着手したころ、積年の負債と、主要顧客であった大手新聞各社の急速な業績不振がもととなって、2008年(平成20)08月31日、小池製作所が破産した。しかしながら 破産後まもなく、同社の特許・人員のほとんどを三菱重工業が買収 したために、債権者への打撃はちいさなもので済んだ。
幸い Adana-21J  関連の設計図、主要部品の鋳型、成形品製作所などは、小社の管理下にあったので、Adana-21J の生産は、組立 ・ 調整工場を変更するだけで済んだ。

ところで小池製作所の主力機器 「 KMT 型全自動組版機」 は、発表後もさらに改良がくわえられ、邦文組版だけではなく、欧文組版にも適合するように改良が加えられていた。
それに際して、小池製作所は英国/ランストン ・ モノタイプ社との間に 「 クロス ・ ライセンス 」 契約を交わし、のちに小池製作所はモノタイプ ・ コーポレーションの日本代理店ともなった。

そのためにモノタイプ ・ コーポレーションの閉鎖にともなって、2000年ころからの小池製作所は、東南アジア諸国はもとより、インド半島、アラブ圏の各国、東欧諸国までの、旧モノタイプ ・ コーポレーション製造の欧文自動鋳植機の、部品供給、保守、修理にあたる唯一の企業であった。
またわが国の数十社におよぶ各社が製造した 「 手回し式活字鋳造機、いわゆるブルース型活字鋳造機 」 「 自動式活字鋳造機、いわゆるトムソン型活字鋳造機 」 の部品供給、保守、修理能力をもっていた。

突然破産宣告がなされた2008年8月31日も、社員の一部は工具箱ひとつをもって、インドやイランに出張中であったほど急なことであった。
当然その破綻は、たんに小池製作所製の機器だけでなく、ほかの活字鋳造関連機器の、整備 ・ 点検 ・ 保守 ・ 部品供給にいちじるしい困難をきたすことになって、これらの設備の廃棄が加速化し、関連業者の転廃業が相次いだ。

上) 小池林平肖像写真(1914/大正3うまれ。70歳の時)
中) 小池製作所主要製品(『小池製作所の歩み』東洋経済、昭和60年6月30日)
下) 『 印刷製本機械百年史 』 (同史実行委員会、昭和50年3月31日)

長瀬欄罫製造所の主要機器は小池製作所製造のものがほとんどであった。
これらの機器のほとんどが、存続の危機を迎えているのが、わが国の活字版印刷のいまであることを深刻に捉えねばならない時期にいたっている。

このように活版印刷関連機器の、製造 ・ 点検 ・ 部品供給 ・ 保守基盤という、足下が崩壊しつつある深刻な事態を迎え、すっかりちいさくなってしまったのが業務としての活版印刷業界の現状である。 したがって、いまはちいさくなったとはいえ、業界をあげ、一致団結して、この危機を乗りこえていきたいものである。
───────────
【 インテル鋳造機 Slug casting machine, Strip caster 】
金属製インテルを自動的に鋳造する機械。活字鋳造機に類似するが、( いくぶん軟らかめの ) 活字地金をもちい、地金溶解釜から細い隙間をとおして地金を鋳型に送り込み、一定の長さに鋳造されたインテルの部片をつぎつぎに融着させて、一本の長いインテルに仕上げる装置。

米国ルドロー社 ( Ludlow Typograph ) 製が知られるが、長瀬欄罫製作所が使用していた国産機は、昭和21年毎日新聞技術部副部長 ・ 古川恒ヒサシの依頼をうけ、小池製作所 ・ 小池林平が昭和24年11月に 3 年がかりで完成させたもの。

 【 罫線鋳造機 Rule casting machine 】
罫線 Rule は活字と組み込んで線を印刷するための金属の薄片。わが国では五号八分-二分、または 1pt.-5pt. の厚さが一般的。
材質は主に活字地金をもちい、亜鉛 ・ 真鍮 ・ アルミニウム製などがある。
その形状によって、普通罫と飾り罫にわける。普通罫には単柱罫 ( 細い辺をオモテ罫、太い辺をウラ罫として使い分ける ) ・ 無双罫 ・ 双柱罫 ・ 子持ち罫などがある。
飾り罫 ( 装飾罫 ) はあまりに種類が多くて列挙しがたい。

罫線鋳造機はこの罫線を活字地金でつくるための機械で、自動式と流し込み式がある。長瀬欄罫製作所の同機は、八光活字鋳造機製作所製造の自動式で、インテル鋳造機と類似した構造で、上掲写真の各種の「罫線用鋳型」を取りつけ、融着させながら長い罫線をつくった。

<主要資料>
『活字文化の礎を担う-小池製作所の歩み』(東洋経済印刷 小池製作所 昭和 60 6 30 日)
『毎日新聞百年史』(毎日新聞百年史刊行委員会 毎日新聞社 昭和 47 2 21 日)

『本邦活版開拓者の苦心』(津田伊三郎 津田三省堂 昭和 9 11 25 日)
『本木昌造伝』(島屋政一 朗文堂 2001 8 20 日)
Practical Typecasting 』( Terry Belanger Oak Knoll Books 1992
『活字に憑かれた男たち』(片塩二朗 朗文堂 1999 11 2 日)
『活字をつくる Vignette 04 』(河野三男他 朗文堂 2002 6 6 日)
『秀英体研究』(片塩二朗 大日本印刷 2004 12 12 日)
『 VIVA!! カッパン 』   ( サラマ・プレス倶楽部/大石 薫、朗文堂、2010年5月21日)
『 印刷製本機械百年史 』 ( 昭和50年3月31日、印刷製本機械百年史実行委員会 )

タイポグラファ群像*005 長瀬欄罫製作所を記録する

活字鋳造と罫線製造 長瀬欄罫製作所半世紀の歴史

 初代 長瀬利雄/二代 長瀬慶雄

【 初掲載 : 2013年07月08日 動画 ・ 画像を加えた改訂版 : 2013年07月25日 】
【 二代 長瀬慶雄氏の逝去をもって、2015年11月10日 再掲載 】
【長瀬慶雄氏の三回忌に際して再編集】
長瀬欄罫製作所 第二代代表 長瀬慶雄
1942年(昭和17)08月08日-2015年(平成27)08月20日 享年73

2006年、アダナ ・ プレス倶楽部(現サラマ・プレス倶楽部)の設立以来、とてもお世話になってきた長瀬欄罫製作所が、工場兼住居の建て替えを契機に、2011年いっぱいをもって閉鎖された。
また先般、第二代代表 長瀬慶雄氏が73歳をもって卒した。
長瀬欄罫製作所、二代、60年余の歴史をここに記録しておきたい。

さいわい、サラマ・プレス倶楽部では長瀬欄罫製作所の繁忙期のもよう、設備の概略をビデオで撮影してある。
その記録はイベントや講演会 ・ 活版ゼミナールなどのたびにご覧いただいてきたが、2013年07月25日 YouTube に動画を公開した ( 担当 : 北 美和子さん)。 ご関心のあるかたは動画もご覧いただきたい。

【YouTube 長瀬欄罫製作所 日本語モノタイプ&インテル鋳造機の稼動の記録 音が出〼 3:40】

また同社の機械設備のほとんどを供給し、その保守点検にもあたっていた「 小池製作所 」 は、2008年08月31日に破産いたった、この小池製作所に関しても、ここにあらためて記録したい。
★小池製作所の詳細は 「 花筏 小池製作所|小 池 林 平 と 活 字 鋳 造|日本の活字史のもうひとつの側面から 」に詳しい。

★      ★      ★      ★

◎ 創業者(初代)    長瀬 利雄 ナガセ―トシオ

    • 大正03年(1914)10月27日 東京うまれ。
    • 伊藤欄罫製作所( 新宿区榎町53番地、大願寺の裏手に旧存した ) で技術修行。
    • 社名にみる 「 欄罫 」 の名称の由来は、おもに関西で輪郭のことを 「 欄 」 と称したために、輪郭と罫線の製造業者を、ふるくは 「 欄罫業者 」 と呼んだことによる。
      大阪には現在も 「 日本欄罫工業株式会社 」 などがあるが、すでにオフセット平版印刷材料商に転じている。
    • 終戦後まもなく、昭和20年から大日本印刷市谷工場活版部に13年ほど勤務。 おもに輪郭罫と罫線の製造を担当した。
    • 昭和33年(1958)01月、長瀬欄罫製作所を現在地 ( 文京区関口 ) にて創業。
    • 昭和59年(1984)70歳にて逝去。

 ◎ 第二代事業主  長瀬 慶雄 ナガセ-ヨシオ

  •  昭和17年(1942)08月08日 東京うまれ
  • 学業修了後に父の事業を援け、長瀬欄罫製作所に勤務。
  • 父 ・ 長瀬利雄は職人技を重んじ、装飾罫線などはおもに手技による直接彫刻法によったが、長瀬慶雄は積極的に自動化された機器を導入して、能率と精度の向上を計った。
  • 1970年代初頭が生産のピークで、インテル鋳造機4台、罫線鋳造機1台、罫線仕上げ機1台とその関連設備を保有し、次弟 ・ 長瀬律雄 (ナガセ―リツオ  昭和23年うまれ) とともに、一家を挙げて多忙を極めた。
    金属インテルだけでも、大日本印刷に毎日 1 トン以上の納入がふつうだった。
  • 1970年のころ有限会社に改組して、有限会社長瀬欄罫製作所とした。
  • 昭和48年(1973)第一次  オイル ・ ショック  の際して、すべての資材の供給が困難となったため、大日本印刷が企業力をもって資材の円滑な供給をはかった。
    その際金属インテル鋳造は、大日本印刷内部での内製化を計ったために、次弟 ・ 律雄が大日本印刷市谷工場に出向というかたちで勤務してインテル鋳造にあたり、のちに自動活字鋳植機の担当も兼務した。
    長瀬欄罫製作所では、罫線、装飾罫線の鋳造が中心となった。
  • 1970年代の後半となると、写真植字の自動化と、文字 ・ 組版精度が急激に向上して、金属活字の競合相手となってきたが、長瀬欄罫製作所では金属活字への愛着があって、近在の同業者の転業に際し、「 KMT 型 全自動活字組版機 ( 小池式モノタイプ ・ マシン )」 3 台を購入して、自動活字鋳植機によるページ物組版 (おもに 8pt. 9pt. 10pt.  明朝体)を担当した。
    同社での高い技倆と精度のために、活版印刷ページ物印刷業者からの信頼を集めて業績は順調だった。それでもふたたび襲った1979-80年の第二次石油ショックの影響は軽微とはいえなかった。
  • 1980年代に入ると、金属活字を主要な印刷版とする活字版印刷業界は、顕著に衰退のかたむきがみられた。活版印刷業者のおおくがオフセット平版印刷業などに転廃業し、活字鋳造機器の製造業者や、資材業者もこれにならったため、機材の保守、資材の確保などに困難をみた。
  • 2003年(平成15)03月31日、長年の主要顧客の大日本印刷が、金属活字組版と、金属活字版印刷部門を閉鎖した。
    活版印刷機の一部は残存したが、使途は、型抜き機、ナンバーリング押し機、平ミシン罫打ち抜き機などに転用された。
  • 2008年(平成20)08月31日、「 KMT 型 全自動 活字組版機 」 の製造企業、小池製作所が破産 ( のち同社の特許 ・ 人員のほとんどを三菱重工業が買収した) するにおよび、KMTほかの活字鋳造機器の整備 ・ 保守に困難をきたした。
  • 長瀬欄罫では 「 KMT 型 全自動 活字組版機 」 文字入力システムの 「 6 単位鑽孔テープ 」 を特注によって確保するなどして、最後まで自動活字鋳植機によって8-10pt. の本文用活字 ( 活字母型は岩田母型製造所によった ) を供給して事業の維持に努めた。
  • 2011年(平成23 )07月、長瀬欄罫製作所は、後継者不在と従業員の高齢化を理由に、年内いっぱいをもって廃業の意向を関係者に通知。あわせて、現存している製造機器の無償譲渡を表明して、各所の活字鋳造所と交渉におよんだが、はかばかしい進展はなかった。
  • 2011年(平成23)12月24-25日、年末ギリギリに 台湾 ・ 日星鋳字行が来日して、罫線鋳造機、インテル鋳造機の譲渡希望を表明。「 乙仲業者 」 が当該機器を輸出梱包のため集荷。
  • 2011年(平成23)12月28日、66年の歴史をもって長瀬欄罫製作所が閉鎖された。
  • 2012年(平成24)01月18日、台湾 ・ 日星鋳字行に向けて、罫線鋳造機、インテル鋳造機とその関連機器が 「 乙仲業者 」 によって船積みされた。
  • 2012年(平成24)01月31日、「 KMT 型 全自動 活字組版機 」 をはじめ、残存機器のすべての整理が終わる。その際真鍮製で売却 ・ 換金を予定していた 「 KMT 活字母型庫、通称 : フライパン 」 などを、アダナ ・ プレス倶楽部が有償譲渡を受けた。
  • 2013年(平成25)02月、長瀬欄罫工場跡に、二世帯居住用住居が完成。
  • 2015年(平成27)08月20日 享年73をもって逝去。
  • 長瀬欄罫 資料PDF

《小池製作所と長瀬欄罫製作所、そしてサラマ・プレス倶楽部の奇妙なおつき合い》
「 21世紀になって、はじめての、純国産で、あたらしい活版印刷機を創りたい 」 として、朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部が発足した際、衰退著しかった活版印刷機器製造会社のなかで、その夢のようなはなしに耳を傾け、関心を示してくれる製造所はなかった。

たまたま旧晃文堂系人脈からの紹介で、
「 小池製作所なら、技術水準は高いし、誠実な企業だから ………. 」
との紹介を得た(代表取締役/小池隆雄、常務取締役/小池吉郎、小社担当)。
そして、小型活版印刷機 Adana-21J を小池製作所の全面協力を得て、円高を背景に、当時の製造業の流行だった、海外部品工場などをつかうことなく、こだわりをもって、純国産方式での設計 ・ 試作機製造 ・ 実機製造がはじまった。

★ 小池製作所の詳細は 「 花筏 小池製作所|小 池 林 平 と 活 字 鋳 造|日本の活字史のもうひとつの側面から 」 に詳しい。
なお上掲記録は 『 小池製作所の歩み 』 を中核資料としているが、最近の研究の進捗により、ブルース(型)活字鋳造機 ( カスチング、手回し式カスチング、タイプキャスティング ) の導入期などの記述に若干の齟齬がみられることをお断りしたい。
『 小池林平と活字鋳造 』 に関しては、あらためて本欄 『 花筏 』 に別項を得たい。

ようやく Adana-21J  第二ロットの製造に着手したころ、積年の負債と、主要顧客であった大手新聞各社の急速な業績不振がもととなって、2008年(平成20)08月31日、小池製作所が破産 (破産後まもなく同社の特許 ・ 人員のほとんどを三菱重工業が買収 ) した。
幸い Adana-21J  関連の設計図、主要部品の鋳型、成形品製作所などは、小社の管理下にあったので、Adana-21J の生産は、組立 ・ 調整工場を変更するだけで済んだ。

ところで小池製作所の主力機器 「 KMT 型全自動組版機」 は、その後さらに改良がくわえられ、邦文組版だけではなく、欧文組版にも適合するように改良が加えられていた。
それに際して、小池製作所は英国/ランストン ・ モノタイプ社との間に 「 クロス ・ ライセンス 」 契約を交わし、のちに小池製作所はモノタイプ ・ コーポレーションの日本代理店ともなった。

そのためにモノタイプ ・ コーポレーションの閉鎖にともなって、2000年ころからの小池製作所は、東南アジア諸国はもとより、インド半島、アラブ圏の各国、東欧諸国までの、旧モノタイプ ・ コーポレーション製造の欧文自動鋳植機の、部品供給、保守、修理にあたる唯一の企業であった。
またわが国の数十社におよぶ各社が製造した 「 手回し式活字鋳造機、いわゆるブルース型活字鋳造機 」 「 自動式活字鋳造機、いわゆるトムソン型活字鋳造機 」 の部品供給、保守、修理能力をもっていた。

突然破産宣告がなされた2008年8月31日も、社員の一部は工具箱ひとつをもって、インドやイランに出張中であったほど急なことであった。
当然その破綻は、たんに小池製作所製の機器だけでなく、ほかの活字鋳造関連機器の、整備 ・ 点検 ・ 保守 ・ 部品供給にいちじるしい困難をきたすことになって、これらの設備の廃棄が加速化し、関連業者の転廃業が相次いだ。

上) 小池林平肖像写真(1914/大正3うまれ。70歳の時)
中) 小池製作所主要製品(『小池製作所の歩み』東洋経済、昭和60年6月30日)
下) 『 印刷製本機械百年史 』 (同史実行委員会、昭和50年3月31日)

長瀬欄罫製造所の主要機器は小池製作所製造のものがほとんどであった。
これらの機器のほとんどが、存続の危機を迎えているのが、わが国の活版印刷のいまであることを深刻に捉えねばならない時期にいたっている。

このように活版印刷関連機器の、製造 ・ 点検 ・ 部品供給 ・ 保守基盤という、足下が崩壊しつつある深刻な事態を迎え、すっかりちいさくなってしまったのが業務としての活字版印刷業界の現状である。 したがって、いまはちいさくなったとはいえ、業界をあげ、一致団結して、この危機を乗りこえていきたいものである。
───────────
【 インテル鋳造機 Slug casting machine, Strip caster 】
金属製インテルを自動的に鋳造する機械。活字鋳造機に類似するが、( いくぶん軟らかめの ) 活字地金をもちい、地金溶解釜から細い隙間をとおして地金を鋳型に送り込み、一定の長さに鋳造されたインテルの部片をつぎつぎに融着させて、一本の長いインテルに仕上げる装置。

米国ルドロー社 ( Ludlow Typograph ) 製が知られるが、長瀬欄罫製作所が使用していた国産機は、昭和21年毎日新聞技術部副部長 ・ 古川恒ヒサシの依頼をうけ、小池製作所 ・ 小池林平が昭和24年11月に 3 年がかりで完成させたもの。

 【 罫線鋳造機 Rule casting machine 】
罫線 Rule は活字と組み込んで線を印刷するための金属の薄片。わが国では五号八分-二分、または 1pt.-5pt. の厚さが一般的。
材質は主に活字地金をもちい、亜鉛 ・ 真鍮 ・ アルミニウム製などがある。

その形状によって、普通罫と飾り罫にわける。普通罫には単柱罫 ( 細い辺をオモテ罫、太い辺をウラ罫として使い分ける ) ・ 無双罫 ・ 双柱罫 ・ 子持ち罫などがある。
飾り罫 ( 装飾罫 ) はあまりに種類が多くて列挙しがたい。

罫線鋳造機はこの罫線を活字地金でつくるための機械で、自動式と流し込み式がある。長瀬欄罫製作所の同機は、八光活字鋳造機製作所製造の自動式で、インテル鋳造機と類似した構造で、上掲写真の各種の「罫線用鋳型」を取りつけ、融着させながら長い罫線をつくった。

 【 参考資料 】
『 VIVA!! カッパン 』  母型盤、母型庫 ( アダナプレス倶楽部/大石 薫、朗文堂、2010年5月21日)  
『 印刷製本機械百年史 』 ( 昭和50年3月31日、印刷製本機械百年史実行委員会 )

【Information Release Ⅱ】明治産業近代化のパイオニア「平野富二 生誕の地」碑 建立 記念祭|11月23[金・祝]・24[土]・25日[日]| 長崎県勤労福祉会館にて開催

!cid_2782B4E1-5FEE-4EB1-9E37-9C6F647CCAFE!cid_7002E204-10F0-44D9-A032-C71F637A9488明治産業近代化のパイオニア「平野富二生誕の地」碑建立記念祭

◯ 会  期
    2018年11月23日[金・祝]、24日[土]、25日[日]──三日間
◯ 時  間

    23日[金・祝]15:00-19:00/24 日[土]10:00-19:00/25 日[日]10:00-17:00
◯ 記念式典

    「平野富二 生誕の地」 碑 除幕式・祝賀会 11月24日[土]11:00より開催
◯ 会  場

    長崎県勤労福祉会館4階(長崎県長崎市桜町9 ― 6)
◯ 入  場 料

    無 料 〈催事の一部には参加費が必要なものもあります〉
    *展示のほかに、講演会、活版ゼミナール、ミニ・活版さるくを開催。詳細は下記webをご参照。

◯ 主  催
    「平野富二 生誕の地」碑建立有志の会
    160-0022東京都新宿区新宿2―4―9 4F 朗文堂内
    Telephone:03-3352-5070 Facsimile:03-3352-5160
    E mail : info@hirano-tomiji.jp  Web : http://hirano-tomji.jp/

【展覧会】武蔵野美術大学 美術館・図書館|和語表記による和様刊本の源流|11月1日-12月18日

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武蔵野美術大学 美術館・図書館
和語表記による和様刊本の源流
2018年11月1日[木]-12月18日[火]
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この度、武蔵野美術大学美術館・図書館では、展覧会「和語表記による和様刊本の源流」を開催いたします。
武蔵野美術大学造形研究センター研究プロジェクト「日本近世における文字印刷文化の総合的研究」は、2014年度に文部科学省より「私立大学戦略的研究基盤形成支援事業」の採択を受け、本年はその完成年度を迎えます。
本研究プロジェクトは5年間にわたり、わが国の文字印刷文化の歴史を見つめ直すために、様々な研究を進めてきました。本展では、その成果を広く公開し、近世日本の木版印刷による書物の数々を紹介します。

近世日本の刊本は、これまで書誌学的方法を中心に研究されてきました。本研究プロジェクトでは、それらを造形的視点から捉え直すことにより、日本の造本デザイン史に「和様刊本」の美を位置づけることを目的としています。明治以降、西洋から金属による近代活版印刷術がもたらされるまで、わが国における印刷物の多くは木材を使用した古活字版と木版整版本が主流でした。これまで、近世の刊本が造本デザインの視点から紹介される機会は限られていましたが、そこには、木版印刷による柔らかな印圧を基調とした多様な美のかたちが存在していました。

本展では、漢字、平仮名、片仮名の字形と表記の関係を検証するとともに、料紙、印刷、製本等、書物を構成する各要素の考察を通して、和語表記による「和様刊本」の美の世界を紹介します。
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会  期  2018年11月1日[木]-12月18日[火]
時  間  10:00-18-00(土曜日、特別開館日は17:00閉館
休  館  日  日曜日、祝日
* 11月3日[土・祝]、4日[日]、23日[金・祝]は特別開館

入  館  料  無  料
会     場  武蔵野美術大学美術館 展示室 3
主  催  武蔵野美術大学 美術館・図書館
武蔵野美術大学 造形研究センター

共  催  野上記念法政大学能楽研究所

【 詳細: 武蔵野美術大学 美術館・図書館  特設サイト 】 [フライヤー PDF ]

【展覧会】板東孝明|デザインギャラリー|懐中時計礼讃 The Shape of Timelessness 展|10月10日-11月5日

20181017124947_0000220181017124947_00003デザインギャラリー
第749回デザインギャリー1953企画展
「懐中時計礼讃 The Shape of Timelessness」展

会  期  2018年10月10日[水]-11月5日[月] * 最終日午後5時閉場・入場無料
会  場  松屋銀座7階・デザインギャラリー1953
主  催  日本デザインコミッティー
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この度、日本デザインコミッティーでは、第749回デザインギャラリー1953企画展といたしまして、「懐中時計礼讃  The Shape of Timelessness」展を開催いたします。
板東孝明氏はブックデザイン、CI、ポスターなどグラフィックデザインの仕事で評価の高いグラフィックデザイナーですが、アンティークの懐中時計コレクターとして、世界中を旅されてきました。
今回のデザインギャラリーでは、歴史的観点においても大変貴重な懐中時計を展示いたします。懐中時計に秘められる深淵なる魅力を板東氏のコレクションを通じて、深く体感していただければ幸いです。
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企画趣旨 ── 企画  板東孝明
アンティーク懐中時計はただひたすら美しい。手の平にのる「時の結晶」といっても過言ではない。かつてこんなに精妙で、優雅な絡繰-からくり-細工が生み出されたことにかしこまってしまう。

現行の腕時計にみられない、たおやかな丸み、掌にほどよく沈み込む心地よい重み、なによりも造形に心血を注いだ時計師たちの、質への礼節、時への敬意が感じられる。端正な文字盤、書体のエッジ、針、精密に絡み合った歯車、機械を包みこむケースのシェープ、すべての手作業が時の精度に挑み、人の手に愛でられることにのみ収斂されている。
時計は歴史を刻み、人類とともに歩んできた。欧州において、大航海時代、激動の市民革命を乗り越え、やがては産業革命の担い手として、また文化的記憶として人〻の生活の中を支えてきた。
展示では、アンティーク懐中時計がもつ魔力ともいえる美とその意味を読み解きながら、コチコチやカチカチという、かそけき時の鼓動にふれ、しばし時がたつのを忘れていただける場としたい。

展覧会紹介 ── 展覧会担当  原 研哉
板東孝明は、高度なデザイン力を備えつつも営利のためのデザインを好まず、熱血の大学教師として生徒に向き合いながら、密かにデザインへの思いをたぎらせている雌伏のグラフィックデザイナーである。
氏が懐中時計を愛するのは、自分と同じものをそこに見ているからであろう。グラフィズムの静かなる爆発をこの展覧会に期待したい。

【 詳細: 日本デザインコミッティー 】

【展示】日本美術刀剣と押形展|長崎歴史文化博物館企画展示室|日本美術刀剣保存協会長崎県支部|本木昌造の佩刀が展示されました

DSC_1192DSC_118920181003144508_00001本木昌造、諱:永久-ながひさ-がもちいていた佩刀が長崎歴史文化博物館で展示され、長崎会員からスマホ写真を頂戴いたしましたので紹介いたします。本木家・平野家はともに長崎の地役人で、明治維新以後のいっときは「卒族」とされていましたが、苗字帯刀をゆるされていました。

日本美術刀剣と押形展
会 場  長崎歴史文化博物館企画展示室
期 間  2018年9月13日-24日 会期終了
主 催  日本美術刀剣保存協会長崎県支部
平野富二武士装束uu平野富二(富次郎)が長崎製鉄所を退職し、造船事業への進出の夢を一旦先送りして、活版印刷の市場調査と、携行した若干の活字販売のために上京した、1871年(明治4)26歳のときの撮影と推定される。知られる限りもっともふるい平野富二像。旅姿で、丁髷に大刀小刀を帯びた士装として撮影されている。
廃刀令太政官布告は1876年(明治9)に出されているが、平野富二がいつまで丁髷を結い、帯刀していたのかは不明である(平野ホール所蔵)。
[関連:花筏 平野富二と活字*09 巨大ドックをつくり船舶をつくりたい-平野富二24歳の夢の実現まで
日本鋳造活字始祖大阪四天王寺境内にある「本木氏昌造翁紀念碑」。ここにみる本木昌造の銅像と碑域は明治30年に建立されたが、昭和20年金属供出令で銅像をうしなった。昭和60年の再建にあたっては、本木昌造が士装した資料がなかったため、絵画をよくした森川龍文堂:森川健市が戦前の写真をもとに絵画をおこし、それにもとづいて像造したとされる。

(『本木昌造先生銅像復元記念誌』大印工本木先生銅像復元委員会 昭和60年9月)
[関連:【講演録】文字と活字の夢街道 ]

【Information Release Ⅰ】明治産業近代化のパイオニア 「平野富二 生誕の地」碑 建立 記念祭|11月23[金・祝]・24[土]・25[日]日 長崎にて開催

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明治産業近代化のパイオニア
「平野富二 生誕の地」碑 建立 記念祭
開催のお知らせ

「平野富二 生誕の地」碑 建立を記念して、『明治産業近代化のパイオニア「平野富二 生誕の地」碑 建立 記念祭』を長崎県勤労福祉会館を主会場として、11月23日[金・祝]、24日[土]、25日[日]の三日間にわたって開催いたします。
三日間の会期中は、平野富二を顕彰する『記念展示』を行います。

また、洋式造船や活版印刷などの事業を多角的に考察する『記念講演』や、日本のメディアの勃興のきっかけをつくった活版印刷を実際に体験する 『活版ゼミナール』を開催いたします。

そのほかに、近代日本が形成されていった過程で重要な拠点となった、平野富二のゆかりの地を新見知から解説する『江戸・東京 活版さるく 解説』と『崎陽探訪 活版さるく 解説』を開催。最終日には、実際に長崎の地を巡る『ミニ・活版さるく』を開催いたします。

なお11月24日[土]には、記念式典「平野富二 生誕の地」碑 除幕式を挙行いたします。

皆様のご参加、 ご列席を賜りたく、ここにお願い申し上げます。

2018年9月 吉日

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開催概要

名  称:明治産業近代化のパイオニア「平野富二生誕の地」碑建立記念祭
会  期:2018年11月23日[金・祝]、24日[土]、25日[日]
展示時間:
23日[金・祝] 15:00-19:00
24日[土]   10:00-19:00
25日[日]   10:00-17:00

記念式典:
「平野富二生誕の地」碑除幕式 11月24 日[土]11:00 開催

会    場:
長崎県勤労福祉会館「平野富二 生誕の地」(長崎県長崎市桜町9-6)

入  場  料:無 料 * 催事の一部には参加費が必要なものもあります
主     催:「平野富二 生誕の地」碑 建立 有志の会

☆イベント・スケジュール

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【彫刻家 奥村浩之後援会 新宿御苑前支部】奥村浩之新作彫刻作品 ?|否 ! HIROYUKI 氏が飼育している Xoloitzcuintle というらしい|+ Viva la 活版 Viva 美唄の記憶

cd58eb5ef659b1dc2238dab8bea8da38P1140678彫刻家 奥 村 浩 之 Okumura Hiroyuki  プロフィール
1963年    石川県に生まれる。
1986年    金沢美術工芸大学美術学部彫刻科卒業
1988年    金沢美術工芸大学大学院修士課程修了
1989年-   メキシコに渡る。メキシコシティーから 200 km ほどの町、ハラパを拠点に、彫刻に没頭。
現在ベラクルス大学 画廊 アルバ デ ラ カナルにおいて< HIROYUKI OKUMURA 彫刻展『Men, Myth, Journey and Life 展』── 男たち、神話、旅と生きかた ──>が好評開催中。

[詳細:Galeria Ramón Alva de la Canal
INVITACIÓN final redes40409989_1903258586646366_6445686390108717056_n──────────────
[彫刻家 奥村浩之後援会 新宿御苑前支部]
浩之さんは寡黙ではあるが、心底こころのやさしいひとである。だからなんの役にもたてないが、勝手に[彫刻家 奥村浩之後援会 新宿御苑前支部]を結成して応援をしている。

数年前にやつがれもメキシコシティーにいった。家人が「死者の祭」と、フリーダ・カーロディエゴ・リベラ夫妻(互いに傷つけ、裏切ることが愛のあかしであるように、あやなす修羅をいきたふたりの造形家)に興味があった。
やつがれは建築家 ルイス・バラガン 探訪を加えることを条件に同行した。

その報告はほとんどできていない。なにぶん機中泊を含め四泊五日の慌ただしい旅であり、どれもがあまりに強烈な刺激に満ちており、ただ茫茫、混沌としたまま脳裏に刻まれている。

そのおり、ドローレス・オロメド・パティニョ美術館にいった。故ドローレス夫人は大富豪として知られ、フリーダ・カーロとディエゴ・リベラの作品を大量に購入していた。現在はその豪壮な私邸の一部が予約制の美術館として公開されていた。カーロとリベラの作品は唸るしかないものばかり、それも大量に展示されていた。

その折り、庭園の一隅に見慣れない犬がいた。陽ざしが暑いのか、通路からとおい木陰にかたまって10匹ほどいた。体毛は額のあたりに産毛のようにほんの少し生えているだけでほとんどなく、木陰にうずくまっている姿はなにかの置物のようにみえた。
この犬はふるくからアステカの人〻に愛玩されていたらしい。おとなしく従順な犬なので、時には寝具に抱きこんで湯たんぽがわりにしていたなど、さまざまな記録がのこされている。

スペイン人がメキシコにやってきてからは、もっぱら食用とされたため、絶滅が危惧されるほどにまでなったと案内板にはしるされていた。
犬種は「Xoloitzcuintle-ショロイスクィントリ」という。これは現地語なのかスペイン語なのかは知らないが、現地では単に「ショロ」と呼んでいるらしい。
英語では「Mexican hairless Dog-メキシカン ヘアレス ドッグ」と呼ばれている。この英語名だとわかりやすい。[ウィキペディア:Mexican hairless Dog-メキシカン ヘアレス ドッグ

かつて浩之さんの展覧会カタログに、この犬が一匹作品の後方に写っていた。この「裸犬-とやつがれは呼んでいた」は、パティニョ美術館にいったときは、遠くに固まってうずくまっていただけなので、写真も撮ってこなかった。やつがれ喘息にわるいからとして医者に飼育を禁じられているが、かなりの愛犬家であり、愛猫家でもある。前回の浩之さんからの写真送付はこれも愛犬のシェパードだったので、浩之さんに「裸犬」のリクエスト。

写真をみたらどうやら三匹も飼っているらしい。
なにせ体毛がない裸の犬である。当然寒がりであり、暑がりでもあるとされる。しかもメキシコシティでも高度が2,000-2,500 m ほどの高地に拡がっている。乾燥しているが、冬は寒く、夏の陽ざしはつよい。だからよほど好きでなければ飼育は困難な犬のようである。
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【詳細:奥村浩之 笹井祐子 奥村浩之 Facebook 】{活版アラカルト 過去ログ }

{ 新 宿 餘 談 }
800px-Diego_Rivera_with_a_xoloitzcuintle_dog_in_the_Blue_House,_Coyoacan_-_Google_Art_Projectフリーダ・カーロ/ディエゴ・リベラはともに「Xoloitzcuintle-ショロイスクィントリ」が好きで、カーロの生家「青い家」に同居していたころは「ショロ」を飼育していたようで、カーロは数点の絵画にのこし、リベラはこのような写真をのこした。「青い家」はガイドブックなどではちいさな家に見えるが、敷地300坪ほど、高い塀に四囲をかこまれたかなりの規模の邸宅である。フリーダ・カーロ-短い晩年の作品2フリーダ・カーロの最晩年の作品「VIVA LA VIDA」。「青い家」のイーゼルには、この連作の描きかけの作品がのこされていた。
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【 Viva la 活版  Viva 美唄の記憶 ── 2013年05月 ──】

《 Viva la 活版 Viva 美唄、イベントの名称を決定 》

あたらしいイベント概略が次第にかたまると、まずその名称の議論が活発にかわされる。
ふるくいう。── 「名は 体タイをあらわす」ト。
ここでの 「体 タイ」は、ものごとの本質ないしは実体の意である。 当然たいせつな議論となる。そのあらましは 『 Viva la 活版 Viva 美唄Ⅰ 開催のお知らせ 』 にしるしてある。

そもそもやつがれは、どういうわけか名称に  “ VIVA ”  を冠することが多い。
“ VIVA ”  とは 「 すばらしき、すばらしい。  あるいは、美しい、麗しい。 ── むしろ驚きを込め、積極的に、讃歌 」 という意をこめてもちいている。
もともとイタリア語やスペイン語の  “ VIVA ”  は 「歓びの声、歓声」 にちかい。
わが国での訳語として馴致している「萬歳、万歳」の漢の字は、和訓音では「ばんざい」 とも「まんざい」 とも読めるから避けたいところだ。

まして めでたく「 バンザーイ( 三唱 )」 ではすこしニュアンスが違うとおもわれるし、用例はふるくからあるようだが 「 万才 」 にいたっては、どうかご勘弁をというところだ。
ついでながら「 漫才-まんざい」は、関西で滑稽なはなしをかわす掛合演芸で、大正中期に舞台で演じられ、昭和初年のころに漢の字表記として「漫才」が定着したものとされる。
本心では「 Viva ── ワォ~」としたいくらいなので、「萬歳、万歳、バンザーイ」 は敬遠している。
フ ゥ~、漢の字がからむと、はなしがまことにややこしくなる。


“ la ”  は 定冠詞で、 “  la  Frida ”  のように、女性の名前の前に置くと「フリーダちゃん」 のようなニュアンスになって、愛情と親しみをあらわす。

つまり、『 Viva la 活版 Viva 美唄 』とは、活版印刷という技芸( Art )と、北海道美唄における、丹精をこめて形成された、彫刻 ・ 景観 ・ 自然への讃歌として『 すばらしき 活版、すばらしい 美唄』 のおもいから名づけられた。
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名称決定までには、さまざまな議論があった。 ところが、テーブルにさりげなく置かれた一冊の画集が決定打となった。 議論は即座に収束して『 Viva la 活版 Viva 美唄 』 の名称が決定した。
このたった一枚の絵画が、みんなのこころをおおきく揺りうごかしたのである。

     

のちに知ったことだが、活版カレッジ ・ アッパークラスの「横ちゃん コト 横島大地」さんは、このひとの絵を小学生のときに見て、いまだに忘れられないほど、おおきな衝撃を受けたということであった。
ところが、まことに恥ずかしきかぎりだが、やつがれはこのときまで、いたましくも、はかなく、そして精一杯につよく、みずからの人生をいききった メキシコうまれの画家、フリーダ・カーロ ( Magdalena Carmen Frida Kahlo y Calderón 1907-1954 ) のことはなにも知らなかった。

したがって以下しばらくは、申しわけないが情念系を得意とする !?  大石 薫からの受け売りと、にわか仕込みである。
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フリーダ・カーロ は、 ハンガリー系ユダヤ人移民の職業写真家を父として、1907年メキシコにうまれた。
6 歳のころ 急性灰白髄炎 ( ポリオ ) にかかり、右腿から踝クルブシにかけての成長が止まって痩せ細り、これを隠すために、ズボンやメキシコ民族衣装のロングスカートなどを好んで着用していた。

学業は優秀で、当時ようやく女性にも開放されたメキシコの高度教育機関「国立予科高等学校」へ進学した。 ここで文学や絵画にたいする関心が高まったフリーダは、次第に画家への道を目指すようになった。

1925年、フリーダが18歳のとき、通学に乗っていたバスが路面電車と衝突し、多くの死傷者が発生する事故がおきた。 このときフリーダも 生死の境をさまようほどの重症をおい、その後も事故の後遺症で、背中や右足の痛みに悩まされた。 その痛みと、病院での退屈な入院生活を紛らわせるために、本格的に絵画を描くようになったという。

1929年、フリーダが22歳のとき、21歳年上の画家 ディエゴ ・ リベラと結婚した。
この結婚も、その後の妊娠にも、不幸がかさなった。 病気や事故による躰の障害がもととなって、背骨と胎盤が傷ついていたために、いたましいことに 3 度にわたってフリーダは流産した。
また芸術家肌で奔放な夫・リベラは浮気をかさね、なかでもフリーダの実の妹 クリスティナ と関係をもつなどしたために、フリーダのこころにおおきな影を落とすこととなった。 フリーダもまた、夫 ・ リベラへのあてつけのように、日系アメリカ人/イサム ・ ノグチ  と関係をもつなどの騒動がかさなった。

そんなこともあって、フリーダ ・ カーロとディエゴ ・ リベラは、10年余におよんだ結婚生活に終止符をうって、1939年に離婚が成立した。 フリーダはメキシコの生家である「 青い家」にもどって、ひとりで闘病と創作活動をつづけた。
ところがほぼ一年後に、フリーダは、互いに経済的自立をはかること、互いに不貞をはたらかないことなどの条件を提示して、リベラと復縁して、「 青い家 」 での同居生活にはいった。
こうしてようやくこころの安寧を取りもどしても、間断なくおそう脊髄の傷みはおさまらず、投与された鎮痛剤も効かないほどの苦痛が間断なくおそうようになり、ついに右足切断手術をうけるという闘病生活がつづいた。
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メキシコ人、フリーダ ・ カーロは、200点ほどの作品をのこし、シュルレアリズムの画家とされている。そのほとんどは自画像であり( 画像集リンク )、躰とこころのやまいに苦悩する自分のすがたを、カンバスにそのまま叩きつけたような「痛痛しい作品」が多い。

ところが晩期の作品に、明るい色彩に満ちた静物画をポツンとひとつのこしている。 みずからカンバスにしるして『 VIVA LA VIDA  Frida Kahlo  すばらしき人生 フリーダ ・ カーロ 』である。
もう一度 『 VIVA LA VIDA  Frida Kahlo  すばらしき人生 フリーダ ・ カーロ 』 を紹介したい。

フリーダ ・ カーロは1954年7月13日、47歳にして 幽明 さかいをことにした。
その遺灰は、生家であり、ディエゴ ・ リベラとのおもいでにあふれる 「 青い家 」 にねむっている。いま 「 青い家 」 は、「 フリーダ ・ カーロ記念館 」 として一般公開されている。
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たび重なる不幸と困難に見舞われながら、それでもなお、人生の最後に 『 すばらしき人生 』 といえるだけの、明るく澄みきった心境にいたった フリーダ ・ カーロの短い晩年ををおもう。
彼女の生涯と作品は、「 生きること 」と、「 創ること 」のためには、誠心誠意、真剣に向き合うべきだという問題提起を突きつけられるとともに、それに立ちむかう勇気もあたえられる。

さぁ、こうしてイベントの名称は『 Viva la 活版 Viva 美唄 ── すばらしき 活版、すばらしい 美唄』 に決定した。 こうなれば、あとは一瀉千里、一気呵成である。
『 VIVA LA VIDA  Frida Kahlo  すばらしき人生  フリーダ ・ カーロ 』 の一枚の絵画に感動したのなら ───そう、皆さんご存知の、イギリスのロックバンド、Coldplay のヒット曲『 Viva La Vida 』 ( リンク : Coldplay-Viva La Vida  4:03 YouTube ) を、まことに勝手ながら 『 Viva la 活版  Viva 美唄 』の「 こころのテーマ曲  !? 」に決定とさせていただいた。

この曲は YouTube での視聴回数が 122,100,000 回(一億二千二百十万余  2013年03月16日──2018年09月18日の視聴回数は五億一千回余 510,189,808 回)におよぶ。そのうちのわずか40-50回は、サラマ・プレス会員の再生によるものであろうか。

【 YouTube 音が出ます  Coldplay-Viva La Vida  4:03 】

《 Viva la 活版 Viva 美唄 ―― イベント名称と概略がきまったら…… 》

こうしてイベント名称が『Viva la 活版  Viva 美唄』、「こころのテーマ曲」が『 Viva La Vida 』 に決まった。
『 Viva la 活版  Viva 美唄 』 の会場となる 「 アルテ  ピアッツァ 美唄 」 の概略は、この 『 花筏 Viva la 活版 Viva 美唄Ⅰ 開催のお知らせ 』(2013年03月13日)で紹介した。

彫刻家/安田 侃氏によって形成された 「 アルテ ピアッツァ美唄 」 には、公共施設によくみられる 「 サイン ・ ボード 」 と称するような不粋な案内板はほとんどない。 それどころか、門も塀も仕切りらしきものもない。
したがって入場料の徴収場所もないから、当然入場は無料である。
「アルテ ピアッツァ 美唄」 には、勝手に出入りし、何時間でも観覧したり、芝生や木陰での読書はもちろん、樹木にもたれてウツラウツラと うたた寝までできる。
おまけに 「カフェ アルテ」 の水出し珈琲は、水がおいしいせいなのか、ともかく絶品である ( ただし、ここと、ギャラリー棟の ミュージアム ・ ショップの商品は有料 )。

「 ストゥディオ アルテ 」 の外観。 この左手奥に 「 カフェ  アルテ 」 の入口がある。ギャラリー棟や彫刻広場からは、いくぶん離れており、樹木と傾斜に遮られて相互に見通すことはできない。 右側の森のなかまでつづくテラスには、しばしばリスが顔をだす。
このひろびろと明るい「ストゥディオ アルテ」を拝借して、『 Viva la 活版 Viva  美唄 』の活版ゼミナールと、タイポグラフィ・ゼミナールを開催する予定である。 展覧会は、この坂の下、彫刻広場と水の広場に面したギャラリー棟の 「ギャラリー  アルテ」 で開催する。

だから来場者は、好きな場所から 「 アルテ ピアッツァ 美唄 」 にはいり、好きなところから出てゆくことになる。
そしてあちこちにさりげなく ── 実際は実に巧妙かつ趣向を凝らして ── 置いてある彫刻作品と、偶然のように出会い、発見し、邂逅のよろこびを感ずることになる。

【 YouTube Viva la 活版  Viva 美唄 音が出ます 14:39 撮影:川崎孝志会員 】

ときには、傾斜のいくぶん上部にあるために、彫刻広場(アートスペース)など、下からの視界を樹林に遮られている「彫刻ストゥディオ」と「カフェ  アルテ」 の建物に出あわないまま、彫刻広場と、ギャラリー棟の周辺を見ただけで、十分満足して帰るひともいるらしい。
それはそれで良しとするのが、この施設の特徴のようである。

来場者の多くが、ブログロールや短文ブログに、好意的な記録をのこしている。
その多くは 「 アルテ ピアッツァ 美唄 」 周辺の、豊かな樹林や、一面の芝生の鮮やかな緑と、アートスペースの 「 彫刻広場 」 と 「 水の広場 」 を中心とした、純白の大理石による彫刻との鮮やかなコントラストに目を奪われているようである。

この純白の大理石は、イタリア中西部、トスカーナ州の州都 ・ フィレンツェ郊外のピエトラサンタで産出されるものだという。 彫刻家/安田 侃氏は、この白大理石をもとめて、いまもってイタリアのフィレンツェ郊外、ピエトラサンタに主要なアトリエを置いている。

春の雪解けから、晩秋の積雪までのあいだ、すなわち緑が萌えているころに、この大理石の見事なまでの白さを、ほとんどボランティアで維持しているのは「 NPO法人 アルテ ピアッツァ  びばい」 と、「 アルテ市民ポポロ 」 の皆さんである。
「アルテ市民ポポロ」 有志の皆さんは、三ヶ月に一度、この大理石をひとつひとつ丹念に洗って、水垢や汚れを落とす作業を展開するそうである。 小社社員約一名も、どうやら 「 アルテ市民ポポロ 」 になったらしい。

── NPO法人 アルテピアッツァ びばい
アルテピアッツァ 美唄は、自然と彫刻が調和する美しい空間です。 アートを通じて、地域と人、人と人、そして過去と今、未来を結ぶ場として、美唄のまちに新たな 「 時 」 を積み重ねてきました。 このかけがえのない空間を、これまでにも増して確かに支えていくために、「 アルテ市民ポポロ 」 の取り組みがスタートします。

地域の枠を越えて アルテピアッツァ 美唄 を支える思いを共通項としたコミュニティ 「 アルテ市民ポポロ 」 の誕生です。 「 アルテ市民ポポロ 」 に参加される皆さんは、この空間を揺るぎなく次代に伝えていく上で大切な役割を担うコミュニティの主役です。
“ バトンを未来へ ”
新しい絆を結ぶコミュニティの一員としてご参加くださることを心から願っています。

《 テーマ ・ カラーの設定 ―― ルネサンスをうんだまち、シエナの、シェンナ色 》

さて、ここでまた、自称 情念系 ・ 大石  薫 が、
「 今回の 『 Viva la 活版  Viva 美唄 』 テーマ ・ カラーは、バーントシェンナに決まりですね 」
とのたもうた。 そも 「 バーントシェンナ 」 とはなんぞや ?

13世紀の末、イタリア中西部、トスカーナ地方の富裕なまちのいくつかで、ひとつの潮流 「 La  Rinascita 」 が勃興した。
わが国ではそれを明治初期に訳語をあてて 「 文芸復興 ・ 学芸復興 」 としたが、やがてフランス語由来で、それが英米語を経由した 「 Renaissance,  ルネサンス 」 と呼ぶようになった。 イタリア語 「 Rinascita 」、フランス語 「 Renaissance 」 を直訳すると、いずれも 「 再生 」 である 。

北海道美唄市出身の彫刻家/安田 侃氏が、ルネサンス発祥の地のひとつとされる、トスカーナ州フィレンツェ郊外にアトリエを置いていることは前述した。
イタリアにいってフィレンツェをたづねるには、ミラノから、あるいはローマから、電車でフィレンツェに入ることが中心である。

電車がトスカーナ地方に入ると、車窓からみえる風景がかわり、ものなりが豊饒で、市民生活もゆたかにみえる。 それよりなにより、まちの色彩はろばろとひろがって、あかるくなる。 北部のミラノやヴェネツィアとも、また首都のローマとも、まちの色彩がおおきく異なることにおどろく。

つまりほかのまちでみる、くすんだ灰色か、おもい暗褐色の屋根瓦や壁面とは異なって、このあたりの屋根瓦や壁面は 「 シェンナ 」 という名の、明るい朱色というか、明治初期のわが国の煉瓦色を、もうすこしおだやかにしたような、あるいは鉄錆びたような朱色の色調が中心となる。
それがまた、風雨にさらされ、古さびて、独特な軽快さと、明るさとなって、味わいゆたかな景観を形成している。
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イタリア中西部、トスカーナ州 州都 「 フィレンツェ Firenze 」 は、ふるくから地中海貿易と金融業によって財をなした、メディチ家などの富の蓄積があり、13世紀末から次第にルネサンスをもたらしたまちのひとつである。 こんにちでも観光名所として、世界中からの観光客が絶えないまちである。 人口およそ36万人。

州都 フィレンツェの南方 およそ50キロほどのところに 「 シエナ、シエーナ  Siena 」 のまちがある。
現在の人口はおよそ 5 万5000人ほどの中都市であり、中世の姿をとどめる旧市街は 「 シエナ歴史地区 」 として世界遺産に登録されている。 

 シエナは、中世には金融業でさかえた有力都市国家であり、13世紀から14世紀にかけて最盛期をむかえた。 このころのシエナはトスカーナ地方の覇権をフィレンツェと競い、たびたび武力衝突もみた。 またその経済力を背景としてルネサンス期には芸術の中心地のひとつであった。
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ここからはなしがすこしく厄介になる。 まちの名前と、色の名前である。 この、まちの名、顔料の名、色の名前は、似ているだけに混同されやすい。
わかりにくければ、それぞれ Wikipedia にリンクを付与したので、参照していただきたい。

「 シエナ、シエーナ   Siena 」 のまちから産出した岩を砕いて、それを原料とした天然顔料を「 n 」 をひとつ足して 「 シェンナ   Sienna 」 という。
「 シェンナ 」 はまた、天然顔料素材の名であり、その独特の色味から 「 色の名前 」 でもある。

「 シェンナ 」 は、人類がもっともふるくからもちいた天然顔料の一種であり、ふるい洞窟の壁画などにも 「 シェンナ 」 の使用の痕跡をみることができる。
「 シェンナ 」 の名前の由来は、「 シエーナ, シエナ 」 から産出した岩をもちいたことによる。
「 シェンナ 」 は、水和酸化鉄を主成分とし、ケイ酸コロイドと、少量のマンガンを含む、天然の岩を原料とする。 いくぶん黒味を帯びた、黄褐色の顔料である。

天然顔料の 「 シェンナ 」 には、焼結していないものと、焼結したものとがある。
その顔料は 日本工業規格 JIS でも 「 色名 」 として定義され、JIS 慣用色名として 「 マンセル値 」 によって定義されている。

◯ 焼結していないもの ── 「 ローシェンナ row sienna 」。 黄色味のつよい色をしている。
   ローシェンナ ( JIS 慣用色名 )     マンセル値 4YR 5/9
◯ 焼結してあるもの ────「 バーントシェンナ  burnt sienna」。 酸化第二鉄を主成分とした赤褐色の顔料としてもちいられる。
   バーントシェンナ ( JIS 慣用色名 )        マンセル値 10R 4.5/7.5  

さて…… 、彫刻家 ・ 安田 侃氏がもたらした 「 シェンナ 」 は、「 ローシェンナ 」 なのか 「 バーントシェンナ 」 なのか、その記録は 「 アルテ ピアッツァ 美唄 」 の広報物には見あたらない。 どうもその双方を行きつ戻りつしているようにおもえるが確証はない。
安田 侃氏はどうやらやつがれと同年のうまれらしい。 そして7-8月には、しばしば美唄のアトリエ 「 ステゥディオ アルテ 」 にあらわれるようである。 できたらご本人に伺いたいものである。

 [初出:花筏 Viva la 活版 Viva 美唄 Ⅱ 準備着着進行中 !? 2013年03月15日]

【展覧会】武蔵野美術大学 美術館・図書館|新島実と卒業生たち ─ そのデザイン思考と実践 1981–2018|9月3日-9月29日

niijima-120180827140607_00002武蔵野美術大学 美術館・図書館
新島実と卒業生たち ── そのデザイン思考と実践 1981–2018
Minoru Niijima and The Graduates
― Thoughts and Practices of Visual Communication Design 1981–2018
会  期  2018年9月3日[月]-9月29日[土]
休  館  日  日曜日、祝日 * 9月17日[月・祝]、24日[月・休]は特別開館

時  間  10:00-18:00(土曜日、特別開館日は17:00閉館)
入  館  料  無 料
会  場  武蔵野美術大学美術館
主  催  武蔵野美術大学 美術館・図書館
協  力  武蔵野美術大学 視覚伝達デザイン学科研究室

04_LIFE_1994_yellow新島 実 LIFE(日本デザインコミッティー)1994年 オフセット印刷 1030 × 728 mm
01_JAPAN_1988新島 実 JAPAN(JAGDA)1988年 オフセット印刷 1030 × 728 mm

米イェール大学大学院でいち早くポール・ランド(Paul Rand, 1914-96)のデザイン理論を学んだ新島実は、帰国後グラフィックデザインを中心に、日本においてランドの視覚意味論を先駆的に実践してきた。また1999年に本学視覚伝達デザイン学科に着任して以降デザイン教育にも尽力し、第一線で活躍する人材を多岐にわたって輩出し続けている。

本展では、ポスター、造本、CIなど代表的な新島作品を展示し、考察を重ねながら挑戦し続けてきたグラフィックデザインの足跡をたどる。また同時に多彩な新島ゼミ卒業生の作品を一堂に集め、新島イズムがどのように受け継がれ、あるいはそれを越えて展開しているのか、視覚伝達デザイン学科の一端を紹介する。
※本展は新島実教授の退任記念展として開催します。

Niijima was one of the first designers who studied design theory developed by Paul Rand (1914–96) at Yale University. After returning to Japan, he pioneered the application of Rand’s visual semantics in his work, which focused on graphic design. In 1999 he joined the Department of Visual Communication Design at Musashino Art University and devoted himself to design education, mentoring numerous talented designers at the forefront of various fields. In this exhibition we trace his works and thoughts in graphic design through reexamination of his posters, bookdesign, and corporate image materials. The exhibition also shows a cornucopia of works by some of Niijima’s talented students from the Department of Visual Communication Design, who strove to follow or surpass his principles.

【詳細: 武蔵野美術大学 美術館・図書館 】

【偲ぶ会】ヘルムート・シュミットを偲ぶ会+展示|プリントギャラリー|9月1・2日

HS01HS02

ヘルムート・シュミットを偲ぶ会
1942 02 01
2018 07 02

ヘルムート・シュミットを偲ぶ会+展示
2018年9月1日[土]、 2日[日]
13:00 から 18:00 
参加費:500円

ご都合の良い時間にお越しください。 
会場にドリンク、軽食のご用意があります。 
献花、ご香典は勝手ながら固く辞退申し上げます。

展示のみ
2018年9月3日[月]、7日[金]、8日[土]
13:00 から 18:00 
入場無料

会 場:プリントギャラリー
東京都港区白金1-8-6, 1F
地図 / アクセス

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今年7月2日に急逝したタイポグラファ、ヘルムート・シュミットを偲ぶ集いを
プリントギャラリーにて2日間にわたって開催いたします。
代表的な制作物や著作を展示し、その事績や思い出を語り合う機会にしたく存じます。
どなたでもお気軽にご来場ください。また、シュミット家の皆さんも
2日間にわたって在廊する予定です。
なお、展示は9月3日[月]、7日[金]、8日[土]まで引き続き観覧可能です。

1942年にオーストリアに生まれたシュミットは、スイスのバーゼル工芸専門学校で
エミール・ルーダーのもとにタイポグラフィを学びました。
1960年代より欧米各地および日本で活動し、

1981年以降は大阪を拠点にして活動を続けました。大塚製薬「ポカリスエット」や資生堂「MAQuillAGE」、IPSAをはじめ、日本人には馴染み深い仕事も数多く残しています。
その一方で、シュミットは長年にわたって執筆、出版、教育にも精力的にかかわってきました。
著書『タイポグラフィ・トゥデイ』はデザイン書の古典として広く知られるほか、
『TM』『アイデア』などへの継続的な寄稿は東西のデザイン・コミュニティを接続する役割を担ってきました。
また、国内外での教育活動や講演を通じて、デザイナーが持つべき姿勢や精神について
メッセージを発し続けてきました。近年も東アジア圏での教育活動や、数々のデザイン・プロジェクト、出版企画にかかわり、急逝する直前まで仕事を続けていました。
ヘルムート・シュミットを偲びつつ、彼が私たちに手渡したもの、残したものについて、
あらためて考える機会になれば幸いです。

発起人・主催(50音順)
阿部宏史(プリントギャラリー)、ニコール・シュミット(ヘルムートシュミットデザイン)、室賀清徳(「アイデア」誌前編集長)

【詳細:プリントギャラリー ヘルムートシュミット デザイン 】

【艸木風信帖】暑中お見舞い申しあげそうろう 百日紅とあせ知らず

谷中天王寺 日吉洋人撮影連日の暑さが続いています。皆さんご壮健でいらっしゃいますか。

暦のうえでは、あす08月07日は「立秋」。それ以後は「残暑」となる。だからここで皆さまに「暑中お見舞い」を。

迷走・逆走台風12号につづき、今週はノロノロ台風13号が週央あたりに日本列島に接近 乃至は 上陸の予報が発表されている。しかも気象庁の予想進路では、日本列島のうえで、筆順が違うが、ひら仮名の「く」の字を下から描くようにして、北東方向に向かうらしい。
すでに、豪雨があり、猛暑と熱波でさんざんな目にあっているのに、もうご勘弁を、といいたいところだが、自然が相手では如何ともなしがたい。大過なく過ぎることを祈るばかりである。

台風13号進路予想 気象庁

《夏を彩る さるすべり-百日紅 紫薇》
冒頭に紹介した植物は「谷中の天王寺」にある「さるすべり-百日紅 紫薇」である。撮影は 日吉洋人 さん。

徳川幕府の庇護をうけ、宏大な寺域と、幸田露伴『五重塔』にしるされた巨塔を有していた天王寺に関しては、{活版アラカルト}に、【[イベント] メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-05 明治産業人掃苔会訪問予定地 戸塚文海塋域に吉田晩稼の書、三島 毅・石黒忠悳の撰文をみる】としてあらかたしるした。

「谷中の天王寺」は、戊辰戦争に際して、徳川方の彰義隊の営所となって被弾し、太平洋戦争では米軍機による焼夷弾の被害によって、伽藍の大部分を焼失するなど数奇な歴史をへてきた。その次第は、天台宗 東京教区 護国山尊重院 天王寺】に詳しく記録されている。

花のすくないこの季節、淡黄色の大輪の花をつける「トロロアオイ」とならんで、文字どおり三ヶ月、百日ほどのあいだ、紅色 乃至は 白い花をつけている「さるすべり 百日紅」に関しても、しばしば{活版アラカルト}にしるしてきた。
この喬木に「さるすべり → 百日紅」という絶妙な「漢字」を与えたのは、わが国でのことであったかも知れない。つまり中国ではこの喬木を、もっぱら「紫薇 シビ」と呼んでいる。
小社近辺の新宿御苑にそった道にも「さるすべり 百日紅」が植えられ、開花の盛りであるが、まだ植樹から数年ばかりで、樹皮の脱落もさほどみられず、「谷中の天王寺」のそれに及ぶべくも無い。

[参考:『日本大百科全書』小学館]
【 さるすべり [学]Lagerstroemia indica L . 】
ミソハギ科の落葉高木で高さ5-10メートル。中国南部原産で、中国名は紫薇-シビ。樹皮は赤褐色、滑らかで薄くはげ、跡が帯褐白色の雲紋状になる。7-9月、枝先の円錐花序に紅紫色、径3-4センチメートルの6弁の花を開く。花が白色のシロサルスベリ、淡紫色のウスムラサキサルスベリもある。
サルスベリの名は樹皮が滑らかなのでサルも滑り落ちるとの意味〔実際は平気で駆けあがるらしいが〕であり、赤い花が長く咲き続けるのでヒャクジツコウ(百日紅)ともいわれる。日本には江戸時代に入っており、貝原益軒-かいばらえきけん-の『花譜』(元禄7=1694)にはじめて百日紅の名が出てくる。
栽培は陽樹で、土地を選ばず、成長は速い。整枝、剪定に耐え、萌芽力が強く、病害虫も少ない。繁殖は実生、挿木による。庭園、公園、寺院などに植え、並木にもする。

《 むか~し ばなし ── 郷里の祖母による DDT の散布と あせ知らずの塗布 》
ほんとうに昔のはなしである。生家がいなかの開業医で、ながらく土日も無く患者さんが押しかけていた。そのため週末は、兄・妹と三人そろって、田舎のバスにゆられて母の実家に行かされることがおおかった。
そこも開業医であったが、伯父が軍医として招集され、南方戦線で戦歿したため、女医の伯母・叔母がふたりと、もうひとりの叔母・看護婦さん・従姉妹がふたり・祖母と、どういうわけか九人ほどの女性ばかりがいた。
すなわち生家は母が医業事務のほかにすべての家事をとりしきり、通いの看護婦さんがふたりいただけだけで、育児にはなかなか手が回らなかった。それに対して、母の実家には十分な人手(女手)があったことになる。

バスで小一時間(いまなら車で20分ほど)かけて母方の実家に到着すると、祖母か伯母のどちらかが、
「まぁまぁ、みんな頭がシラミだらけ。DDT を噴霧するからね」
と、頭髪に向けてシュパシュパと、頭がまっ白になるまで DDT を散布された。続けて、
「ホラホラ、三人とも躰じゅうあせもだらけ。あせ知らず、あせ知らず」
と、今度は全裸にされて、パタパタとおしろいをたたくように、全身が DDT と「あせ知らず」でまっ白になるまで大騒ぎをしてから入室を許された。こんな光景は格別珍しいものではなく、小・中学校でも全学童に DDT 散布をしばしば実施していた。
つまり戦後まもなく、わが国が貧しかった時代のはなしである。

当時の DDT は占領軍(GHQ)からの援助品 であったが、のちに DDT に発癌性がうたがわれ、環境ホルモン 作用とあわせておおきな話題となった。そのために現在のわが国ではほとんど使われることがないらしい。
これは昭和25-30年ころ、大昔のはなしであるが、こんな過去があって、DDT ともども「あせ知らず」も苦いおもいでとなっていた。
あせ知らずたまたま洗面所に「あせ知らず」が置かれていた。家人によると、アセモ(汗疹)予防に良いし、香りも爽やかだということで、近年の話題アイテムだそうである。そして使用をすすめられた。
この齢になって、湯上がりに「ベビー・パウダー」もどうかな? とおもっていたので、恐る恐る使ってみた。たしかに爽快だし、むかしとおなじようなパッケージで、懐かしい香りがした。

おもえば DDT は随分批判されたが、「てんか粉 あせ知らず」は話題にもならず、ただただ黙って忘れられていたような気がする。
この狂気にみちた夏は、「あせ知らず」で乗りきることにしようとおもった次第。

【展覧会】紙の博物館 ─ 王子  ミニ展示「紙漉重宝記」+新宿餘談

紙の博物館 ── 王子
ミニ展示「紙漉重宝記
会  期  2018年06月16日[土]-2019年03月03日[日]
休  館  日  月曜日(9/17、9/24、10/8、12/24、1/14、2/11は開館)
紙博図版『紙漉重宝記』は、江戸時代後期に石見(現 島根県)の紙問屋、国東治兵衛によって刊行された初の紙漉き解説書です。図絵を用いて分かりやすく説明され、英語、ドイツ語、フランス語などにも翻訳されています。
今回は『紙漉重宝記』の内容を、パネルで分かりやすくご紹介いたします。
* 当展はパネルのみで構成し、現物資料の展示はございません。

【詳細: 紙の博物館 】

{ 新 宿 餘 談 }

「王子の<紙の博物館>が子供のころからの遊び場だった」とされる、原啓志さんによる講演会{朗文堂ちいさな勉強会『紙』講座}が続いている。
また紙の博物館では、7月20日-8月31日「夏休み図書室自由研究フェア」が開催され、また、すこしさびしくはあるが、特別展や企画展ではなく、ミニ展示「紙漉重宝記」がおよそ八ヶ月間の長期にわたって開催されている。こんな時こそ普段は見過ごしている常設展や図書室をじっくり観る機会としてとらえたい。

そこで炎暑をものともせず、国立国会図書館が公開している『紙漉重宝記』(請求番号 特1-3415)を読んでみたくなった。ところがなにぶん例の江戸期通行体「お家流書風」でしるされているために、判読に難航することになり、畏兄の古谷昌二氏に釈読をお願いした。

また事前に、「石見産紙の祖神」とされ地元で尊崇され、『紙漉重宝記』の冒頭部に登場する歌人:柿本人麻呂と柿本神社に関して、手元資料から調査した。
詳細は紙の博物館での紹介にゆずり、ここでは冒頭部の「柿本人麻呂」の歌(二ページ目)と、十一ページ目「とろろ草の種類」を、国立国会図書館蔵書による元版と、古谷昌二氏による釈読挿入版とで紹介し、紙の博物館での観覧の予習として、{朗文堂ちいさな勉強会『紙』講座}受講者に配布し、あわせてその一部をここに紹介したい。

!cid_540FBA32A4D2415B9A2FC7EA3D6710B3@robundoPC『紙漉重宝記』(国立国会図書館 請求番号 特1‐3415)
釈読/「平野富二生誕の地」碑建立有志会代表:古谷昌二氏
!cid_83663A8C-A6C2-4CDA-AFD9-F1F6BFB47E5C

【柿本人麻呂-かきのもとのひとまろ】
生没年未詳。『万葉集』の代表的歌人。人麿とも書く。姓は朝臣-あそみ。奈良朝(710-)以前に活動した。〔『万葉集』成立以前の〕「人麻呂歌集」歌に、「庚辰-こうしん-年」(天武天皇9年=680)作の歌(巻10・2033歌)があるので、天武朝(673-686)にすでに活動していたことが知られる。
また、700年(文武天皇4)作の明日香皇女挽歌-あすかのひめみこばんか-(巻2・196-198歌)が、作歌年時のわかる作品として最後のものになる。このように柿本人麻呂は天武・持統朝を中心に、文武朝にかけて活動したのであるが、主要な作品は持統朝(686-697)に集中している。

人麻呂の活動は天武朝にはじまるが、官人としての地位、足跡の詳細はわからない。石見相聞歌-いわみそうもんか(巻2・131-139歌)によって、石見国〔旧国名、いまの島根県西部〕に赴任したことがあったと認められたり、瀬戸内海旅の歌(巻3・249-256歌、303-304歌)などに官人生活の一端をうかがったりすることができる程度である。

なお、石見国での臨死歌とする「鴨山-かもやま-の岩根しまける我をかも知らにと妹-いも-が待ちつつあるらむ」(巻2・223歌)があることから、晩年に石見に赴任し、石見で死んだとする説が有力だが、石見相聞歌は持統朝前半の作とみるべき特徴を、表現上(枕詞・対句)も様式上(反歌)も備えている。臨死歌は、人麻呂の伝説化のなかで石見に結び付けられたものとおもわれ、石見での死は信じがたい。
[参考:『日本大百科全書』小学館 神野志隆光]

※ 補 遺:ウィキペディア「高津柿本神社」には、上掲紹介とおなじ(巻2・223歌)は、辞世の歌として、「鴨山の磐根し枕(ま)ける吾をかも 知らにと妹が待ちつつあらん」とされている。
歴史
晩年に国司として石見国に赴任した柿本人麿が、和銅年間に「鴨山の磐根し枕(ま)ける吾をかも 知らにと妹が待ちつつあらん」の辞世の歌[『万葉集』巻2所収(223)]を詠んで、益田川河口(旧高津川河口)の鴨島に没したので、神亀年間にその霊を祀るために石見国司が聖武天皇の勅命を受けて鴨島に人丸社を創祀したのに創まるといい、また天平年間には人丸寺も建立したという。

【柿本神社-かきもとじんじや】[現]島根県益田市高津町
高津川左岸、東へ張出した鴨山-かもやま-にあり、主祭神は柿本人麻呂命。旧県社。神亀元年(七二四)柿本人麻呂が没した鴨島に社殿が建立されていたが、万寿三年(一〇二六)の地震による大津波のために島は海中に没したという。このとき神体が松崎に漂着し、この地に社殿を再建。延宝九年(一六八一)津和野藩主により現在地に移転再建された。

霊元上皇〔1654-1732〕の時、和歌において当社をとくに崇敬され、古今伝授にあたり当社に祈祷を命ぜられた。のちに宸筆の御製を奉納された。御製は霊元上皇・桜町天皇・桃園天皇・後桜町天皇・光格天皇・仁孝天皇まで、各時代の御製五〇枚、合計三〇〇枚の短冊が奉納された。
本殿は正徳二年(一七一二)の建造で、正面三間・側面三間、単層の朱塗の入母屋造妻入で、屋根は檜皮葺である。正面に唐破風の向拝を設け、背面を除く三方に高欄付縁をめぐらし、正面一間に縁付木階を置く。殿内は亀井家の四ッ目結び紋をつけた板扉によって内陣と外陣に画され、内陣の須弥壇に等身大の人麻呂神像が安置される。この本殿の形式は県内には類例の少ない建造物で、複雑な地形を効果的に利用した社殿配置と豪華さが特筆される。県指定文化財。

享保八年(一七二三)柿本人麻呂千年祭にあたり、正一位柿本大明神の宣下があり、歌聖人麻呂に和歌を手向けて歌道の上達を祈念する風潮が流行。特別に法楽が行われ、歴代の天皇をはじめ親王や公卿の和歌も短冊に記されて数多く奉納された。

Takatsu_Kakinomoto_Jinja_Torii高津柿本神社 鳥居と社名標(ウィキペディアゟ)

現在の柿本神社の社地一帯は中世の高津城跡であったが、江戸期に亀井茲親が大々的に社殿の造営をおこなったため、城跡としての面影は失われた。出丸鍋島-なべしま-も昭和四七年(一九七二)の切崩しでまったく旧観はない。高津小山-たかつこやま-城ともいう。高津川と沖田-おきた-の間の尾根の先端に築いたもので、北・東・南の三方は急峻で、西方は掘切った独立丘である。
[参考:『日本歴史地名大系』平凡社]
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『紙漉重宝記』(国立国会図書館 請求番号 特1‐3415)
釈読/「平野富二生誕の地」碑建立有志会代表:古谷昌二氏 

〇『紙漉重宝記』 二頁目
是を漉(すか)しめ、彼地(かのち)へ渡(わた)すにより、大に悦び是を賞(しやう)せし事書に伝(つた)へて詳(つまびらか)なり。唐土(もろこし)の製(せい)は今の唐紙(たうし)の類(たぐひ)のみなり。此紙書画(しょぐわ)の類(るい)の外(ほか)用ゆ事稀(まれ)なり。実(じつ)は下品(ひん)と謂(いひ)つべし。
御国のごとき紙の生(しやう)ずる事、異国(いこく)になし。これを扱(あつか)ふ賈人(あきうど)是等(これら)の事をさとり必(かならず)おろそかにする事を傷(いた)むべし。此紙、石州鹿足郡(せきしゅうかのあしこほり)美濃郡(みのこほり)の間(あいだ)に遺跡(いせき)せし事疑(うたが)ひなく、隣郡(りんぐん)浜田御領(はまだごりょう)、土州(としう)豫州(よしう)大洲(おほす)等(とう)各々(をのをの)彼地(かのち)より伝(つた)ふ。訳(わけ)て正一位柿本人麻呂明神是(これ)を製(せい)する御祖神(おんそしん)たれば、これを仰(あを)ぎ、尊敬(そんきゃう)すべし。世人(よのひと)其神慮(そのしんりょ)を知(し)らざるを歎(なげ)きかくふのみ。

 〇『紙漉重宝記』 三頁目
「人麻呂(ひとまろ)の像(ぞう)」
石州美濃郡高角里に鎮座
[古谷昌二 釈読①]── 画像に挿入した釈読は ①
かもやまに/いわねしまける/我(われ)を/かも/知(し)らすと/いもか/待つゝ/あら/なん


[古谷昌二 釈読②]
鴨山に/磐根し枕(ま)ける/我を/かも/知らずと/妹が/待ちつつ/あら/なん

[『日本大百科全書』紹介/人麻呂歌集:巻2・223歌 釈読版]
鴨山-かもやま-の岩根しまける我をかも知らにと妹-いも-が待ちつつあるらむ
[ウィキペディア 高津柿本神社](巻2・223歌)

鴨山の磐根し枕(ま)ける吾をかも 知らにと妹が待ちつつあらん

古歌や古詩には異本がさまざまにあり、このような異同がしばしばみられる。ここでは古谷昌二氏の釈読を紹介した。

【 補 遺 2】
本項アップロード後に、古谷昌二氏より以下のようなメッセージを頂戴した。

人麻呂の歌について、当初は「いわねしまける」の意味がすっきりしないまま、太い根(磐根)を巻く(束ねる)と解釈しましたが、役人として赴任したとされる柿本人麻呂がこのような作業はしないはずですから疑問に思っていました。
改めて古語辞典を確認して、「まける」が「枕ける」と読めることを知りました。
これならば、「トロロアオイの太い根を枕にして寝ている」としてすっきり理解できます。
「いわね」については、「岩の付け根」の意味もあり、山中でもあるので、「岩を枕にして寝る」と解釈するのが一般的かもしれません。
すなわち、当時のひとは、人麻呂 ⇒ 紙 ⇒ トロロアオイの太い根と連想できたのではないでしょうか? [古谷昌二]

!cid_0BD40939-5F2F-46EE-A32A-4723AB5EAA48!cid_83663A8C-A6C2-4CDA-AFD9-F1F6BFB47E5C〇『紙漉重宝記』 十一頁目

「とろゝ草(くさ)の種類(しゅるい)」

大豆(だいづ)小豆(せうづ)を作(つく)る
時候(じこう)等(ひと)し

春(はる)生(しやう)じ、花さく。花の中に
実(み)を生ず。ちいさく六角(かく)為(なり)。
胡麻(ごま)に似(に)たり。虱(しらみ)に似(に)たり。
これを塵(ちり)紙等漉(すく)う
用ゆ其(その)紙いろ赤(あか)くなる
としるべし。

〇『紙漉重宝記』 十二頁目

花しほるゝを引(ひき)ぬき、
五月梅雨(つゆ)の間(あいだ)に干(ほ)し、
かくいふ之根の大きさ
八分位(くらい)長く午房(ごぼう)の
ごとし。石原(いしはら)に出来(でき)る
は尺(たけ)短(みじか)し。

売買銀壱匁に
かけ目百廿目
安き時は壱匁に
かけ目五百目

ひげ皮(かわ)をこそげとり、擲(たゝ)く。
其(その)製(せい)とろゝ汁(しる)のごとく
水をさし入るゝなど、やはらか
に成としるべし。猶(なを)、かげん
あるべし

紙漉(すき)一船(ふね)に壹升ほど入と
心得べし
尤(もっとも)、はいのうにてこし、小桶(こをけ)に入
置(おき)、入用程づつつかふ。
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紙漉重宝記-かみすきちょうほうき 参考:寿岳 文章(『国史大辞典』、吉川弘文館)

篤農家、国東治兵衛-くにさき じへい-の著書。一巻。寛政十年(一七九八)刊。
著者の遠祖は豊後国稙田-わさだ-郷(大分市)にいたが、いつのころか同国 国東郡-くにさきぐん-に移って国東を名のり、江戸時代石見国美濃郡遠田村(島根県益田市)に定住した。
治兵衛の生まれたのは元禄の末ごろと思われるが、生没年はつきとめられていない。享保十七年(一七三二)の大飢饉に触発されて、豊後(大分県の大部分)や、備後(広島県の東部)から藺草-いぐさ-をとりよせ、藺筵-いむしろ-の生産を年間六十万枚にのばすなど、殖産家としての業績も多いが、彼の名を後世内外に伝えることとなったのはこの小著。

紙問屋の主人でもあった彼が、名所図絵の画工:丹羽桃渓に挿絵を画かせ、方言もとり入れ、商品となるまでの石見半紙のすべてについて語ったもの。啓蒙的な著述ながら、製紙を図解した最初の書物であり、山村紙すきの苦労も視覚的にしのばれるためか、和紙文献としては最も早く海外に知られ、英・独・仏語による翻訳があとをたたない。本邦でもしばしば翻刻・複製された。『日本科学古典全書』、『製紙印刷研鑽会叢書』などに収められている。
[参考文献]矢富熊一郎『国東治兵衛翁之治蹟』

DSCN8725トロロアオイ/黄蜀葵
アオイ科の一年草。中国原産。草丈は本来2メートル近くになるが、最近は0.5-1メートルの丈の低い品種が多く栽培されている。葉は互生し、葉柄が長く、掌状に深く裂ける。
夏から秋、淡黄色で中心部が濃赤紫色、径15-20センチメートルのおおきな五弁花をつける。花は1日でしぼむが、茎の下位から上位へと順に次〻と開く。植物体全体、とくに根に粘質物を多く含み、これを手漉き紙を漉くときの糊料(ネリ)として利用する。また花を観賞用・食用ともする。糊原料をとるための栽培では、開花・結実させないために、つぼみがついたら先端部を刈り取って根に養分をたくわえる。
[参考:活版アラカルト[艸木風信帖]{朗文堂ちいさな勉強会『紙』講座}受講者のあいだで「フラックス 亜麻」が開花しました]

【WebSite紹介】 明治産業近代化のパイオニア 平野富二 {古谷昌二ブログ18}── 本木昌造の活版事業

6e6a366ea0b0db7c02ac72eae004317611-300x75明治産業近代化のパイオニア  平野富二生誕170年
古谷07月

明治産業近代化のパイオニア  平野富二生誕170年を期して結成された<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>の専用URL{ 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、同会代表/古谷昌二氏が近代活版印刷術発祥の地:長崎と、産業人としての人生を駈けぬけた平野富二関連の情報を意欲的に記述しています。ご訪問をお勧めいたします。
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古谷昌二ブログ ──── 平野富二とその周辺

古谷昌二さんuu[1]◎ 古谷昌二ブログ
[管理人:「平野富二生誕の地」碑建立有志会事務局長 日吉洋人]

① 探索:平野富二の生まれた場所
② 町司長屋の前にあった桜町牢屋
③ 町司長屋に隣接した「三ノ堀」跡
④ 町司長屋の背後を流れる地獄川
⑤ 矢次事歴・平野富二祖先の記録
⑥ 矢次家の始祖関右衛門 ── 平野富二がその別姓を継いだ人
⑦ 長崎の町司について
⑧ 杉山徳三郎、平野富二の朋友
⑨ 長崎の長州藩蔵屋敷
⑩ 海援隊発祥の地・長崎土佐商会
⑪ 幕営時代の長崎製鉄所と平野富二
 官営時代の長崎製鉄所(その1)

⑬ 官営時代の長崎製鉄所(その2)
⑭ ソロバンドックと呼ばれた小菅修船場
⑮ 立神ドックと平野富次郎の執念
 長崎新聞局とギャンブルの伝習
 山尾庸三と長崎製鉄所
⑱ 本木昌造の活版事業

<本木昌造の活版事業 主要内容>
1)活版研究の取り組み
2)事業化の試み
3)活版事業の本格化
4)活版所の設立と中央への展開
5)私塾の経営
6)本木昌造没後の活版事業
〔新街私塾〕、〔新町活版所〕、〔崎陽新塾出張活版所(大阪)⇒ 大阪 活版所⇒ 大阪活版製造所〕、〔京都點林堂〕、〔横浜活版社〕、〔文部省御用活版所〕、〔崎陽新塾出張活版製造所(東京)⇒ 東京築地活版製造所〕

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【字様・紋様】「石畳・霰-あられ」を「 市 松 紋 様 」の名にかえた 歌舞伎役者・佐 野 川 市 松

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「石畳・霰-あられ」を「 市 松 紋 様 」の名にかえた
江戸中期の歌舞伎役者・佐 野 川  市 松-さのがわ いちまつ

日本の紋様〔紋のありさま〕の定番であり、着物や帯だけでなく、千代紙や小物などあらゆるところで目にするものに「市松紋様」がある。おなじみのこの市松紋様、実はさほどふるいものではなく、ひとりの歌舞伎俳優と深い関係があった。

色違いの正方形を、碁盤の目のように組み合わせた紋様が生まれたのは、古墳時代の埴輪の服装や、法隆寺・正倉院の染織品にも見られ、古代より織紋様として存在していた。また公家や武家の礼式・典故・官職などに関する古来のきまり『有職故実-ゆうそくこじつ』では、こうした格子紋様は「石畳・霰-あられ」などと呼ばれ、おもに着物の地紋(織り柄)として使われていたことがわかる。

これが歌舞伎の舞台で鮮やかに観客の前に出現し、一気に注目されることとなったのは、寛保年間(江戸中期 1741-44)のことである。当時の歌舞伎役者が身にまとう紋様は、その役者の感覚や心意気を人〻に伝えるツールであった。
江戸中村座である俳優が「心中万年草-高野山心中」の小姓・粂之助-くめのすけ-に扮した際、白と紺の正方形を交互に配した袴をはいて登場したことからおおいに人気を博した。折しも庶民が紋様を施した着物を楽しむようになった時代でもあり、霰の紋様をあしらった鮮やかな袴は観る人〻の目に衝撃とともに焼きついた。

この衣装を身につけて登場した俳優の名こそ「初代 佐野川市松」であった。ここであまり紹介されてこなかった「初代 佐野川市松」をみてみたい。

佐野川市松(初代 さのがわ-いちまつ 1722-1762)
江戸時代中期の歌舞伎役者。享保7年生まれ。佐野川万菊の門人。若衆方、若女方をかね、荒事にもすぐれた。宝暦12年11月12日死去。41歳。山城(京都府)出身。俳名は盛府。屋号は新万屋・芳屋。

佐野川市松はその後もこの紋様を愛用して、また浮世絵絵士:奥村正信・鳥居清重(1751-77ころ活動 生没年不詳)・石川豊信(1711-85)などがその姿を好んで描いたことから、着物の柄として流行をみた。
市松の愛用したこの紋様は、当初はふるくからの慣わしにしたがって「石畳」と称されたが、のちに「市松紋様」「市松格子」「元禄紋様」などと呼ばれるようになった。
ひとりの歌舞伎役者の美意識によって、古来の呼称「石畳・霰」が、「市松紋様」という名に置きかわったのである。この「佐野川市松」の伝承によって、当時のインパクトがどれほどのものだったのかを偲ぶことができる。

Tokyo_2020_Olympics_logo.svg2020年 夏期オリンピック エンブレム

さらに佐野川市松の時代から175年ほどのち、2020年夏季オリンピック・パラリンピックのエンブレムが若干の紆余曲折をへて決定した。デザインは野老朝雄(ところ-あさお 1969-)で、このデザインは「組市松紋」だと自ら発表している。歌舞伎役者「佐野川市松」好みの紋様が、世界のアスリートが結集する舞台に「組市松紋」として再登場したことになる。

〔参考資料〕
WebSite 歌舞伎美人-かぶきびと-歌舞伎いろは「装い」
WebSite 市松模様 ウィキペディア
「市松模様」『国史大辞典』(吉川弘文館)/「市松模様」『日本史大事典』(平凡社)
「佐野川市松(初代)」『日本人名大辞典』(講談社)

【公演】市川海老蔵 古典への誘い  歌舞伎十八番『蛇柳-じゃやなぎ』 市川海老蔵がついに復活、全国を舞台に初披露 + 新塾餘談

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市川海老蔵 古典への誘い
成田屋伝来の歌舞伎十八番『蛇柳-じゃやなぎ』
市川海老蔵がついに復活、全国を舞台に初披露

企  画  市川海老蔵
制  作  株式会社 3 Top
制作協力  全栄企画株式会社 / 株式会社ちあふる
協  力  松竹株式会社
総合お問い合わせ Zen – A(ゼンエイ) TEL 03-3538-2300 (平日11:00-19:00)
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今年で6年目に突入した「市川海老蔵 古典への誘い-いざない」。様〻な演目をご覧いただく中で、やはり全国の皆様に、成田屋の〝歌舞伎十八番 *01〟をご披露したいという想いがつのり、今回の公演で実現した。
十八番の中で選んだのは、上演が途絶えていた演目を海老蔵が<第一回市川海老蔵自主公演「ABKAI」>で復活させ、大きな話題となった『蛇柳-じゃやなぎ』。歌舞伎特有の「押戻 * 02」という手法を用い、海老蔵が三役を相勤める。古風な中にも新しい感覚を取り入れた舞踊劇にご期待いただきたい。

< 出 演 >
一、和 太 鼓『  』         辻       清
二、『ご 挨 拶』         市川海老蔵
三、上・『子   守』       市川福太郎
  下・『三 社 祭』       市川九團次・大谷廣 松
歌舞伎十八番の内
四、『蛇  柳-じゃやなぎ』        市川海老蔵

< 蛇  柳ーじゃやなぎ >
蛇柳とはかつて高野山奥の院にあった柳の木のこと。
災いを招く蛇が、弘法大師の法力により姿を変えられたものだと伝わります。この柳を題材にした『蛇柳』は、約250年前に初演された『百千鳥大磯流通』の一部で、四世團十郎演じる主人公の男に、安珍清姫伝説で知られる清姫の霊が乗り移り、狂乱の体となるという所作事(舞踊)でした。

海老蔵の手により復活した、新たな『蛇柳』では、この柳に怪異が続くある日のこと、住職らの前に丹波の助太郎が現れ、次第に心を乱し始めます。
後半では蛇柳の精霊が姿を現しますが、金剛丸照忠によって怒りが鎮められます。

ebizo-ichikawa市川海老蔵

朗々と響く声と美しく整った容姿、輝やかしいほどの華を備えた今最も注目される俳優の一人。市川宗家の家の芸である「歌舞伎十八番」の継承と復活、また、歌舞伎という芸能の可能性の追求に並々ならない情熱を注いでいる。

2003年には NHK 大河ドラマ「武蔵 MUSASHI 」の主役を勤め、2011年公開の主演映画「一命」はフランスカンヌ映画祭にノミネートされた。そしてパリ・オペラ座をはじめとする海外での歌舞伎公演にも積極的に取り組み、近年では2014年、2015年シンガポール、2016年2月に UAE 、翌3月、NY 音楽の殿堂である NY カーネギー・ホールでの公演を大成功に導いた。歌舞伎俳優として、さらなる飛躍が期待されている。

【詳細: Zen – A(ゼンエイ)】
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{ 新 塾 餘 談 }

* 01 <歌舞伎十八番-かぶきじゅうはちばん>
歌舞伎劇のうち、成田屋、市川団十郎の「家の芸」18種。天保年間(1830-44)、七世市川団十郎が初世以来家に伝わってきた当り狂言(または当り芸)を制定したもので、『不破-ふわ』『鳴神-なるかみ』『暫-しばらく』『不動-ふどう』『 嫐 -うわなり』『象引-ぞうひき』『勧進帳-かんじんちょう』『助六-すけろく』『押戻-おしもどし』『外郎売-ういろううり』『矢の根』『関羽』『景清-かげきよ』『七つ面』『毛抜-けぬき』『解脱-げだつ』『蛇柳-じゃやなぎ』『鎌髭-かまひげ』がその内容。

いずれも家の芸である「荒事-あらごと」*03 を基本にしているのが特色である。これらのうち、『勧進帳』は初世が演じた題材をもとに、七世が再創造したもの。

また、上演がつづいていた『暫』『矢の根』『助六』『鳴神』『毛抜』のほかは、『外郎売』や『押戻』のように、ほかの作品の一部として伝わったものや、名ばかりで何も残っていなかったものが多かったが、明治以降、二世市川左団次や市川三升-さんしょう(十世団十郎)によって復活されている。
なお、三升屋二三治-みますやにそうじ-の『戯場書留-ぎじょうかきとめ』によれば、七世団十郎が制定した以前に「歌舞伎狂言十八番」ということばがあったが、これは市川家に限らず江戸歌舞伎の当り狂言を選んだものである。
一般に得意芸のことを「十八番」というのは、「歌舞伎十八番」を家の芸、転じて当り狂言と解したことから生まれたといってよい。
[参考:『日本大百科全書』(小学館)]

* 02 <押 戻-おしもどし>
歌舞伎十八番のひとつ。『鳴神』『道成寺』など怨霊のあらわれる狂言で、荒れ狂う怨霊を、花道の中程から舞台へ押して戻す荒事。

籠手-こて-、脛当-すねあて-、腹巻きに大広袖、三本太刀・蓑笠をつけ、太い竹の杖をつく。

*03 <荒  事-あらごと>
歌舞伎で、怪力勇猛の武人や、超人的な鬼神などによる荒〻しく誇張された演出様式。また、その狂言。

初代市川團十郎が創出し、江戸歌舞伎の特色となった。

[参考:『広辞苑』(岩波書店)]

munakata_sig_flyer第36回世界遺産劇場~宗像大社市川海老蔵 特別奉納公演  主催:SAP