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【展覧会】武蔵野美術大学 美術館・図書館|新島実と卒業生たち ─ そのデザイン思考と実践 1981–2018|9月3日-9月29日

04_LIFE_1994_yellow新島 実 LIFE(日本デザインコミッティー)1994年 オフセット印刷 1030 × 728 mm
01_JAPAN_1988新島 実 JAPAN(JAGDA)1988年 オフセット印刷 1030 × 728 mm

武蔵野美術大学 美術館・図書館
新島実と卒業生たち ── そのデザイン思考と実践 1981–2018

Minoru Niijima and The Graduates
― Thoughts and Practices of Visual Communication Design 1981–2018
会  期  2018年9月3日[月]-9月29日[土]
休  館  日  日曜日、祝日 * 9月17日[月・祝]、24日[月・休]は特別開館

時  間  10:00-18:00(土曜日、特別開館日は17:00閉館)
入  館  料  無 料
会  場  武蔵野美術大学美術館
主  催  武蔵野美術大学 美術館・図書館
協  力  武蔵野美術大学 視覚伝達デザイン学科研究室
監  修  新島実(武蔵野美術大学 視覚伝達デザイン学科教授)
出展作家  新島実+視覚伝達デザイン学科新島実ゼミ卒業生

180626_mau_niijima_release本展ビジュアル(製作:矢後直規)

米イェール大学大学院でいち早くポール・ランド(Paul Rand, 1914-96)のデザイン理論を学んだ新島実は、帰国後グラフィックデザインを中心に、日本においてランドの視覚意味論を先駆的に実践してきた。また1999年に本学視覚伝達デザイン学科に着任して以降デザイン教育にも尽力し、第一線で活躍する人材を多岐にわたって輩出し続けている。

本展では、ポスター、造本、CIなど代表的な新島作品を展示し、考察を重ねながら挑戦し続けてきたグラフィックデザインの足跡をたどる。また同時に多彩な新島ゼミ卒業生の作品を一堂に集め、新島イズムがどのように受け継がれ、あるいはそれを越えて展開しているのか、視覚伝達デザイン学科の一端を紹介する。
※本展は新島実教授の退任記念展として開催します。

Niijima was one of the first designers who studied design theory developed by Paul Rand (1914–96) at Yale University. After returning to Japan, he pioneered the application of Rand’s visual semantics in his work, which focused on graphic design. In 1999 he joined the Department of Visual Communication Design at Musashino Art University and devoted himself to design education, mentoring numerous talented designers at the forefront of various fields. In this exhibition we trace his works and thoughts in graphic design through reexamination of his posters, bookdesign, and corporate image materials. The exhibition also shows a cornucopia of works by some of Niijima’s talented students from the Department of Visual Communication Design, who strove to follow or surpass his principles.

【詳細: 武蔵野美術大学 美術館・図書館 】

<展覧会概要>

日本を代表するデザイナーの一人として、アメリカのイェール大学大学院でいち早くポール・ランド(Paul Rand, 1914-1996)のデザイン理論を学んだ新島実。1983年の帰国後、グラフィックデザインを中心に、日本においてランドの視覚意味論やタイポグラフィを先駆的に実践し、高い評価を得てきました。
その一方で1999年に武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科に着任して以降デザイン教育にも尽力し、第一線で活躍する人材を多岐にわたって輩出し続けてきました。

本展では、イェール大学大学院時代の貴重な課題作品をはじめとする初期作品から現在に至るポスター、造本、ロゴマークなどの代表的な作品を紹介し、新島がどのようにデザインの思考を深めながらそれを実践し続けてきたのか、今日に至る足跡をたどります。
展示では新島作品を起点に時代を追いながら、さらに武蔵野美術大学着任以降活動の中心となるデザイン教育を紹介します。クリエーターとして多岐にわたって活躍する新島実ゼミ卒業生120名以上にのぼる作品を一堂に集め、新島イズムがどのように受け継がれ、あるいはそれを越えて展開しているのかを探っていきます。
※本展は新島実教授の退任記念展として開催します。

<見どころ>

出 展 作 家

新島実のグラフィック作品によるデザイン思考と実践、さらに教育へと結びつき、多くの作品(=卒業生)を生み出した新島イズムとは何か。美術館全体がひとつの新島実1981-2018 年のクロノロジーとなり、そのデザイン活動における「制作」「研究」「教育」の軌跡をたどる展示となります。

◆ 新島実作品 (展示室 2 )

1981 年以降のイェール大学大学院在学中の課題や卒業後のグラフィック作品を起点に、現在に至るまでの作品を紹介します。ポスター、造本、ロゴマークなど代表的作品約100 点を展示し、視覚意味論やタイポグラフィなど、デザインに対する思考とその実践を紹介し、同時代において新たな地平を切り開いていった新島実によるグラフィックデザインの意義をあらためて考えていきます。

◆ 新島実ゼミ卒業生たちによる作品(展示室3,4,5)

視覚伝達デザイン学科新島実ゼミの卒業生約120名が参加する展示を行います。2000年度卒から2017年度卒まで多様な分野で活躍しているクリエーターの仕事を一堂に会して展示します。出展される作品は大学時代の集大成としての卒業制作、現在活躍している仕事、本展に合わせて作られた新作など多岐にわたります。参加者の中にある新島イズムの断片をつなぎ合わせることで、新島実の実像を紡ぎあげます。

〈多彩な出展者たち〉

本展に参加する新島実ゼミ卒業生は、グラフィックデザインに留まらず社会システムの構築、あるいは日常のライフスタイルへと幅広くアプローチし、その活躍は視覚伝達デザイン学科さらには美術大学という枠組みを越えて広範囲に及びます。グラフィックデザイナー、広告アートディレクター、エディトリアルデザイナー、イラストレーター、大手企業広報、絵本作家、漫画家、アーティスト、その他幅広いフィールドで活躍する新島実ゼミ卒業生は、ヴィジュアル・コミュニケーション(=視覚伝達デザイン)教育の可能性を示します。

◆ 展覧会のクリエーション

展覧会のヴィジュアル(複数のチラシ・ポスターデザイン)、展示デザインなどの制作は、各方面で活躍する新島実ゼミ卒業生が参加し、展覧会自体が一つのクリエーションとも呼べるものになります。

〈小杉幸一 × 矢後直規によるアートディレクション〉

約120名の出展者たちの多彩な作品を見せることで、現在に連なる新島実像を掘り起こしていく本展。本展企画を担当する小杉幸一、矢後直規による展覧会イメージでは、展覧会を一つの新島実クロノロジーとし、黒い線を「1年」と見立て、線の連続で新島実が築いてきたものを表現しています。

〈展覧会制作チーム〉

企画:小杉幸一(株式会社博報堂)、矢後直規(SIX INC.)
展示デザイン:山本剛久(凸版印刷株式会社) 、保田卓也(同左) 、飛鳥馬加央里(同左) 、宮本奈緒美(同左)、島田真帆(同左)
チラシ・ポスターデザイン:渡邉 翔、矢入幸一(株式会社サン・アド) 、飛鳥馬加央里、夏江まみ、小杉幸一、矢後直規
図録デザイン:谷田 幸

 ◆ 新島実作品とゼミ卒業生を紹介する2冊の図録を発行

〈新島実による自撰作品図録〉

イェール大学大学院在学時にポール・ランドから称賛された課題作品から、今日に至るまでの新島実の30年以上に及ぶ制作活動を紹介する図録です。また本人書き下ろしのテキストも多数収録し、これまで語られなかった作品解説も含めて、新島実のデザイン理論の核心に触れます。
監修・編集:新島 実/図録デザイン:松谷 剛

〈新島実の教育を紐解くゼミ卒業生図録〉

120名にのぼる多彩な本展出展者を中心に掲載し、3名の論考とともに新島実の視覚伝達デザイン学科での教育を紹介します。多方面で活躍するゼミ卒業生の現在を紹介すると同時に、新島実のデザイン教育について紐解きます。
図録デザイン:谷田 幸

出展者氏名(予定)
明本成未、飛鳥馬加央里、荒井美波、安東英恵、五十嵐瑞恵、伊佐奈月、石川萌絵、泉田尚美、市川千恵、一森加奈子、伊藤佳央、伊藤裕平、伊鍋しのぶ、岩渕真理、岩見梨絵、上原由莉、魚谷 彩、遠藤瑞紀、大川寧々、大嶋奈都子、太田遥香、大髙奈津子、大月綾子、大庭結花、大橋花子、大橋麻耶、大原崇嘉、大曲都市、大三島弘女、岡川恒輝、沖田佳奈、小栗卓巳、小田 恵、小尾真理子、かざまりさ、片山翔平、角 裕美、神山紗織、亀田和菜花、萱島雄太、川嶋明日香、神田さおり、菊野くるみ、木元恵美、窪田実莉、蔵並裕理、藏本秀耶、桑原太矩、黄 黎、小坂夏未、小杉幸一、小林麻美、小林香織、小林彩香、小松利光、近藤 愛、崔 文佳、酒井由紀子、坂川朱音、佐々木 彩、佐藤 圭、島田真帆、正田智子、シライシユウコ、杉本陽次郎、鈴木健一、鈴木壮一、瀬上奈緒、関 亜弥子、徐 慧、平 結、高崎咲耶子、武田夏澄、田中(太田)久美子、谷田 幸、丹治直子、富澤晴加、永井 創、中藤寛子、なかの真実、中林若菜、夏江まみ、西村真由美、にったりえ、朴 志勲、橋詰 宗、平川響子、平野奈央、藤井啓史、藤田彩奈、細野由季恵、保田卓也、堀江美紗、boricco、本多育実、増田啓之、三橋光太郎、南 陽子、峰岸華成子、宮本奈緒美、村田 智、村田孝佑、森 拓馬、矢入幸一、八木 彩、矢後直規、矢野華子、山口 藍、山口さくら、山﨑淳也、和 祐里、山本剛久、山本万純、横瀬真実、脇 有香里、渡瀬実里、渡邉 翔、渡邉由紀、Ray Watanabe、和智 茜
(五十音順)

【詳細: 武蔵野美術大学 美術館・図書館 】

【新宿私塾】朗文堂タイポグラフィスクール 新宿私塾 第33期受講生 募集中

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《新宿私塾第33期生 受講者募集中》
新宿私塾第33期は2018年09月から講座開始。来年03月までの開講が予定されています。
詳細スケジュールは現在のところ未定ですが、基本的に毎週火曜日、午後6時30分から9時40分が講座開設日時となります。

全25回の講座のうち、土曜日に設定されるフィールドワーク、特別講座が 2 回予定されています。
講義内容は現在開講中の第32期とほぼ同様です。カリキュラム、受講料などの詳細は〔 新宿私塾のウェブサイト 〕でご覧いただけます。
──────────
入塾ご希望の方は、下記メールにご連絡をお願いいた します。メール受付順の入塾とさせていただきます。


◯ 朗文堂タイポグラフィスクール 新宿私塾

担当 : 鈴 木  孝  robundo@ops.dti.ne.jp   » send email
件名/新宿私塾 第33期申し込み、お名前(ヨミガナ)、送付物宛先住所、電話(携帯可)。

その後の手続きは、メールをいただいたのちご連絡いたします。そのほかに新宿私塾に関してのご質問などがある方は  電話連絡 (担当:鈴木 03-3352-5070)をしてください。


【 詳細データ : 新宿私塾 】

【艸木風信帖】暑中お見舞い申しあげそうろう 百日紅とあせ知らず

谷中天王寺 日吉洋人撮影連日の暑さが続いています。皆さんご壮健でいらっしゃいますか。

暦のうえでは、あす08月07日は「立秋」。それ以後は「残暑」となる。だからここで皆さまに「暑中お見舞い」を。

迷走・逆走台風12号につづき、今週はノロノロ台風13号が週央あたりに日本列島に接近 乃至は 上陸の予報が発表されている。しかも気象庁の予想進路では、日本列島のうえで、筆順が違うが、ひら仮名の「く」の字を下から描くようにして、北東方向に向かうらしい。
すでに、豪雨があり、猛暑と熱波でさんざんな目にあっているのに、もうご勘弁を、といいたいところだが、自然が相手では如何ともなしがたい。大過なく過ぎることを祈るばかりである。

台風13号進路予想 気象庁

《夏を彩る さるすべり-百日紅 紫薇》
冒頭に紹介した植物は「谷中の天王寺」にある「さるすべり-百日紅 紫薇」である。撮影は 日吉洋人 さん。

徳川幕府の庇護をうけ、宏大な寺域と、幸田露伴『五重塔』にしるされた巨塔を有していた天王寺に関しては、{活版アラカルト}に、【[イベント] メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-05 明治産業人掃苔会訪問予定地 戸塚文海塋域に吉田晩稼の書、三島 毅・石黒忠悳の撰文をみる】としてあらかたしるした。

「谷中の天王寺」は、戊辰戦争に際して、徳川方の彰義隊の営所となって被弾し、太平洋戦争では米軍機による焼夷弾の被害によって、伽藍の大部分を焼失するなど数奇な歴史をへてきた。その次第は、天台宗 東京教区 護国山尊重院 天王寺】に詳しく記録されている。

花のすくないこの季節、淡黄色の大輪の花をつける「トロロアオイ」とならんで、文字どおり三ヶ月、百日ほどのあいだ、紅色 乃至は 白い花をつけている「さるすべり 百日紅」に関しても、しばしば{活版アラカルト}にしるしてきた。
この喬木に「さるすべり → 百日紅」という絶妙な「漢字」を与えたのは、わが国でのことであったかも知れない。つまり中国ではこの喬木を、もっぱら「紫薇 シビ」と呼んでいる。
小社近辺の新宿御苑にそった道にも「さるすべり 百日紅」が植えられ、開花の盛りであるが、まだ植樹から数年ばかりで、樹皮の脱落もさほどみられず、「谷中の天王寺」のそれに及ぶべくも無い。

[参考:『日本大百科全書』小学館]
【 さるすべり [学]Lagerstroemia indica L . 】
ミソハギ科の落葉高木で高さ5-10メートル。中国南部原産で、中国名は紫薇-シビ。樹皮は赤褐色、滑らかで薄くはげ、跡が帯褐白色の雲紋状になる。7-9月、枝先の円錐花序に紅紫色、径3-4センチメートルの6弁の花を開く。花が白色のシロサルスベリ、淡紫色のウスムラサキサルスベリもある。
サルスベリの名は樹皮が滑らかなのでサルも滑り落ちるとの意味〔実際は平気で駆けあがるらしいが〕であり、赤い花が長く咲き続けるのでヒャクジツコウ(百日紅)ともいわれる。日本には江戸時代に入っており、貝原益軒-かいばらえきけん-の『花譜』(元禄7=1694)にはじめて百日紅の名が出てくる。
栽培は陽樹で、土地を選ばず、成長は速い。整枝、剪定に耐え、萌芽力が強く、病害虫も少ない。繁殖は実生、挿木による。庭園、公園、寺院などに植え、並木にもする。

《 むか~し ばなし ── 郷里の祖母による DDT の散布と あせ知らずの塗布 》
ほんとうに昔のはなしである。生家がいなかの開業医で、ながらく土日も無く患者さんが押しかけていた。そのため週末は、兄・妹と三人そろって、田舎のバスにゆられて母の実家に行かされることがおおかった。
そこも開業医であったが、伯父が軍医として招集され、南方戦線で戦歿したため、女医の伯母・叔母がふたりと、もうひとりの叔母・看護婦さん・従姉妹がふたり・祖母と、どういうわけか九人ほどの女性ばかりがいた。
すなわち生家は母が医業事務のほかにすべての家事をとりしきり、通いの看護婦さんがふたりいただけだけで、育児にはなかなか手が回らなかった。それに対して、母の実家には十分な人手(女手)があったことになる。

バスで小一時間(いまなら車で20分ほど)かけて母方の実家に到着すると、祖母か伯母のどちらかが、
「まぁまぁ、みんな頭がシラミだらけ。DDT を噴霧するからね」
と、頭髪に向けてシュパシュパと、頭がまっ白になるまで DDT を散布された。続けて、
「ホラホラ、三人とも躰じゅうあせもだらけ。あせ知らず、あせ知らず」
と、今度は全裸にされて、パタパタとおしろいをたたくように、全身が DDT と「あせ知らず」でまっ白になるまで大騒ぎをしてから入室を許された。こんな光景は格別珍しいものではなく、小・中学校でも全学童に DDT 散布をしばしば実施していた。
つまり戦後まもなく、わが国が貧しかった時代のはなしである。

当時の DDT は占領軍(GHQ)からの援助品 であったが、のちに DDT に発癌性がうたがわれ、環境ホルモン 作用とあわせておおきな話題となった。そのために現在のわが国ではほとんど使われることがないらしい。
これは昭和25-30年ころ、大昔のはなしであるが、こんな過去があって、DDT ともども「あせ知らず」も苦いおもいでとなっていた。
あせ知らずたまたま洗面所に「あせ知らず」が置かれていた。家人によると、アセモ(汗疹)予防に良いし、香りも爽やかだということで、近年の話題アイテムだそうである。そして使用をすすめられた。
この齢になって、湯上がりに「ベビー・パウダー」もどうかな? とおもっていたので、恐る恐る使ってみた。たしかに爽快だし、むかしとおなじようなパッケージで、懐かしい香りがした。

おもえば DDT は随分批判されたが、「てんか粉 あせ知らず」は話題にもならず、ただただ黙って忘れられていたような気がする。
この狂気にみちた夏は、「あせ知らず」で乗りきることにしようとおもった次第。

【展覧会】紙の博物館 ─ 王子  ミニ展示「紙漉重宝記」+新宿餘談

紙の博物館 ── 王子
ミニ展示「紙漉重宝記
会  期  2018年06月16日[土]-2019年03月03日[日]
休  館  日  月曜日(9/17、9/24、10/8、12/24、1/14、2/11は開館)
紙博図版『紙漉重宝記』は、江戸時代後期に石見(現 島根県)の紙問屋、国東治兵衛によって刊行された初の紙漉き解説書です。図絵を用いて分かりやすく説明され、英語、ドイツ語、フランス語などにも翻訳されています。
今回は『紙漉重宝記』の内容を、パネルで分かりやすくご紹介いたします。
* 当展はパネルのみで構成し、現物資料の展示はございません。

【詳細: 紙の博物館 】

{ 新 宿 餘 談 }

「王子の<紙の博物館>が子供のころからの遊び場だった」とされる、原啓志さんによる講演会{朗文堂ちいさな勉強会『紙』講座}が続いている。
また紙の博物館では、7月20日-8月31日「夏休み図書室自由研究フェア」が開催され、また、すこしさびしくはあるが、特別展や企画展ではなく、ミニ展示「紙漉重宝記」がおよそ八ヶ月間の長期にわたって開催されている。こんな時こそ普段は見過ごしている常設展や図書室をじっくり観る機会としてとらえたい。

そこで炎暑をものともせず、国立国会図書館が公開している『紙漉重宝記』(請求番号 特1-3415)を読んでみたくなった。ところがなにぶん例の江戸期通行体「お家流書風」でしるされているために、判読に難航することになり、畏兄の古谷昌二氏に釈読をお願いした。

また事前に、「石見産紙の祖神」とされ地元で尊崇され、『紙漉重宝記』の冒頭部に登場する歌人:柿本人麻呂と柿本神社に関して、手元資料から調査した。
詳細は紙の博物館での紹介にゆずり、ここでは冒頭部の「柿本人麻呂」の歌(二ページ目)と、十一ページ目「とろろ草の種類」を、国立国会図書館蔵書による元版と、古谷昌二氏による釈読挿入版とで紹介し、紙の博物館での観覧の予習として、{朗文堂ちいさな勉強会『紙』講座}受講者に配布し、あわせてその一部をここに紹介したい。

!cid_540FBA32A4D2415B9A2FC7EA3D6710B3@robundoPC『紙漉重宝記』(国立国会図書館 請求番号 特1‐3415)
釈読/「平野富二生誕の地」碑建立有志会代表:古谷昌二氏
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【柿本人麻呂-かきのもとのひとまろ】
生没年未詳。『万葉集』の代表的歌人。人麿とも書く。姓は朝臣-あそみ。奈良朝(710-)以前に活動した。〔『万葉集』成立以前の〕「人麻呂歌集」歌に、「庚辰-こうしん-年」(天武天皇9年=680)作の歌(巻10・2033歌)があるので、天武朝(673-686)にすでに活動していたことが知られる。
また、700年(文武天皇4)作の明日香皇女挽歌-あすかのひめみこばんか-(巻2・196-198歌)が、作歌年時のわかる作品として最後のものになる。このように柿本人麻呂は天武・持統朝を中心に、文武朝にかけて活動したのであるが、主要な作品は持統朝(686-697)に集中している。

人麻呂の活動は天武朝にはじまるが、官人としての地位、足跡の詳細はわからない。石見相聞歌-いわみそうもんか(巻2・131-139歌)によって、石見国〔旧国名、いまの島根県西部〕に赴任したことがあったと認められたり、瀬戸内海旅の歌(巻3・249-256歌、303-304歌)などに官人生活の一端をうかがったりすることができる程度である。

なお、石見国での臨死歌とする「鴨山-かもやま-の岩根しまける我をかも知らにと妹-いも-が待ちつつあるらむ」(巻2・223歌)があることから、晩年に石見に赴任し、石見で死んだとする説が有力だが、石見相聞歌は持統朝前半の作とみるべき特徴を、表現上(枕詞・対句)も様式上(反歌)も備えている。臨死歌は、人麻呂の伝説化のなかで石見に結び付けられたものとおもわれ、石見での死は信じがたい。
[参考:『日本大百科全書』小学館 神野志隆光]

※ 補 遺:ウィキペディア「高津柿本神社」には、上掲紹介とおなじ(巻2・223歌)は、辞世の歌として、「鴨山の磐根し枕(ま)ける吾をかも 知らにと妹が待ちつつあらん」とされている。
歴史
晩年に国司として石見国に赴任した柿本人麿が、和銅年間に「鴨山の磐根し枕(ま)ける吾をかも 知らにと妹が待ちつつあらん」の辞世の歌[『万葉集』巻2所収(223)]を詠んで、益田川河口(旧高津川河口)の鴨島に没したので、神亀年間にその霊を祀るために石見国司が聖武天皇の勅命を受けて鴨島に人丸社を創祀したのに創まるといい、また天平年間には人丸寺も建立したという。

【柿本神社-かきもとじんじや】[現]島根県益田市高津町
高津川左岸、東へ張出した鴨山-かもやま-にあり、主祭神は柿本人麻呂命。旧県社。神亀元年(七二四)柿本人麻呂が没した鴨島に社殿が建立されていたが、万寿三年(一〇二六)の地震による大津波のために島は海中に没したという。このとき神体が松崎に漂着し、この地に社殿を再建。延宝九年(一六八一)津和野藩主により現在地に移転再建された。

霊元上皇〔1654-1732〕の時、和歌において当社をとくに崇敬され、古今伝授にあたり当社に祈祷を命ぜられた。のちに宸筆の御製を奉納された。御製は霊元上皇・桜町天皇・桃園天皇・後桜町天皇・光格天皇・仁孝天皇まで、各時代の御製五〇枚、合計三〇〇枚の短冊が奉納された。
本殿は正徳二年(一七一二)の建造で、正面三間・側面三間、単層の朱塗の入母屋造妻入で、屋根は檜皮葺である。正面に唐破風の向拝を設け、背面を除く三方に高欄付縁をめぐらし、正面一間に縁付木階を置く。殿内は亀井家の四ッ目結び紋をつけた板扉によって内陣と外陣に画され、内陣の須弥壇に等身大の人麻呂神像が安置される。この本殿の形式は県内には類例の少ない建造物で、複雑な地形を効果的に利用した社殿配置と豪華さが特筆される。県指定文化財。

享保八年(一七二三)柿本人麻呂千年祭にあたり、正一位柿本大明神の宣下があり、歌聖人麻呂に和歌を手向けて歌道の上達を祈念する風潮が流行。特別に法楽が行われ、歴代の天皇をはじめ親王や公卿の和歌も短冊に記されて数多く奉納された。

Takatsu_Kakinomoto_Jinja_Torii高津柿本神社 鳥居と社名標(ウィキペディアゟ)

現在の柿本神社の社地一帯は中世の高津城跡であったが、江戸期に亀井茲親が大々的に社殿の造営をおこなったため、城跡としての面影は失われた。出丸鍋島-なべしま-も昭和四七年(一九七二)の切崩しでまったく旧観はない。高津小山-たかつこやま-城ともいう。高津川と沖田-おきた-の間の尾根の先端に築いたもので、北・東・南の三方は急峻で、西方は掘切った独立丘である。
[参考:『日本歴史地名大系』平凡社]
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『紙漉重宝記』(国立国会図書館 請求番号 特1‐3415)
釈読/「平野富二生誕の地」碑建立有志会代表:古谷昌二氏 

〇『紙漉重宝記』 二頁目
是を漉(すか)しめ、彼地(かのち)へ渡(わた)すにより、大に悦び是を賞(しやう)せし事書に伝(つた)へて詳(つまびらか)なり。唐土(もろこし)の製(せい)は今の唐紙(たうし)の類(たぐひ)のみなり。此紙書画(しょぐわ)の類(るい)の外(ほか)用ゆ事稀(まれ)なり。実(じつ)は下品(ひん)と謂(いひ)つべし。
御国のごとき紙の生(しやう)ずる事、異国(いこく)になし。これを扱(あつか)ふ賈人(あきうど)是等(これら)の事をさとり必(かならず)おろそかにする事を傷(いた)むべし。此紙、石州鹿足郡(せきしゅうかのあしこほり)美濃郡(みのこほり)の間(あいだ)に遺跡(いせき)せし事疑(うたが)ひなく、隣郡(りんぐん)浜田御領(はまだごりょう)、土州(としう)豫州(よしう)大洲(おほす)等(とう)各々(をのをの)彼地(かのち)より伝(つた)ふ。訳(わけ)て正一位柿本人麻呂明神是(これ)を製(せい)する御祖神(おんそしん)たれば、これを仰(あを)ぎ、尊敬(そんきゃう)すべし。世人(よのひと)其神慮(そのしんりょ)を知(し)らざるを歎(なげ)きかくふのみ。

 〇『紙漉重宝記』 三頁目
「人麻呂(ひとまろ)の像(ぞう)」
石州美濃郡高角里に鎮座
[古谷昌二 釈読①]── 画像に挿入した釈読は ①
かもやまに/いわねしまける/我(われ)を/かも/知(し)らすと/いもか/待つゝ/あら/なん


[古谷昌二 釈読②]
鴨山に/磐根し枕(ま)ける/我を/かも/知らずと/妹が/待ちつつ/あら/なん

[『日本大百科全書』紹介/人麻呂歌集:巻2・223歌 釈読版]
鴨山-かもやま-の岩根しまける我をかも知らにと妹-いも-が待ちつつあるらむ
[ウィキペディア 高津柿本神社](巻2・223歌)

鴨山の磐根し枕(ま)ける吾をかも 知らにと妹が待ちつつあらん

古歌や古詩には異本がさまざまにあり、このような異同がしばしばみられる。ここでは古谷昌二氏の釈読を紹介した。

【 補 遺 2】
本項アップロード後に、古谷昌二氏より以下のようなメッセージを頂戴した。

人麻呂の歌について、当初は「いわねしまける」の意味がすっきりしないまま、太い根(磐根)を巻く(束ねる)と解釈しましたが、役人として赴任したとされる柿本人麻呂がこのような作業はしないはずですから疑問に思っていました。
改めて古語辞典を確認して、「まける」が「枕ける」と読めることを知りました。
これならば、「トロロアオイの太い根を枕にして寝ている」としてすっきり理解できます。
「いわね」については、「岩の付け根」の意味もあり、山中でもあるので、「岩を枕にして寝る」と解釈するのが一般的かもしれません。
すなわち、当時のひとは、人麻呂 ⇒ 紙 ⇒ トロロアオイの太い根と連想できたのではないでしょうか? [古谷昌二]

!cid_0BD40939-5F2F-46EE-A32A-4723AB5EAA48!cid_83663A8C-A6C2-4CDA-AFD9-F1F6BFB47E5C〇『紙漉重宝記』 十一頁目

「とろゝ草(くさ)の種類(しゅるい)」

大豆(だいづ)小豆(せうづ)を作(つく)る
時候(じこう)等(ひと)し

春(はる)生(しやう)じ、花さく。花の中に
実(み)を生ず。ちいさく六角(かく)為(なり)。
胡麻(ごま)に似(に)たり。虱(しらみ)に似(に)たり。
これを塵(ちり)紙等漉(すく)う
用ゆ其(その)紙いろ赤(あか)くなる
としるべし。

〇『紙漉重宝記』 十二頁目

花しほるゝを引(ひき)ぬき、
五月梅雨(つゆ)の間(あいだ)に干(ほ)し、
かくいふ之根の大きさ
八分位(くらい)長く午房(ごぼう)の
ごとし。石原(いしはら)に出来(でき)る
は尺(たけ)短(みじか)し。

売買銀壱匁に
かけ目百廿目
安き時は壱匁に
かけ目五百目

ひげ皮(かわ)をこそげとり、擲(たゝ)く。
其(その)製(せい)とろゝ汁(しる)のごとく
水をさし入るゝなど、やはらか
に成としるべし。猶(なを)、かげん
あるべし

紙漉(すき)一船(ふね)に壹升ほど入と
心得べし
尤(もっとも)、はいのうにてこし、小桶(こをけ)に入
置(おき)、入用程づつつかふ。
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紙漉重宝記-かみすきちょうほうき 参考:寿岳 文章(『国史大辞典』、吉川弘文館)

篤農家、国東治兵衛-くにさき じへい-の著書。一巻。寛政十年(一七九八)刊。
著者の遠祖は豊後国稙田-わさだ-郷(大分市)にいたが、いつのころか同国 国東郡-くにさきぐん-に移って国東を名のり、江戸時代石見国美濃郡遠田村(島根県益田市)に定住した。
治兵衛の生まれたのは元禄の末ごろと思われるが、生没年はつきとめられていない。享保十七年(一七三二)の大飢饉に触発されて、豊後(大分県の大部分)や、備後(広島県の東部)から藺草-いぐさ-をとりよせ、藺筵-いむしろ-の生産を年間六十万枚にのばすなど、殖産家としての業績も多いが、彼の名を後世内外に伝えることとなったのはこの小著。

紙問屋の主人でもあった彼が、名所図絵の画工:丹羽桃渓に挿絵を画かせ、方言もとり入れ、商品となるまでの石見半紙のすべてについて語ったもの。啓蒙的な著述ながら、製紙を図解した最初の書物であり、山村紙すきの苦労も視覚的にしのばれるためか、和紙文献としては最も早く海外に知られ、英・独・仏語による翻訳があとをたたない。本邦でもしばしば翻刻・複製された。『日本科学古典全書』、『製紙印刷研鑽会叢書』などに収められている。
[参考文献]矢富熊一郎『国東治兵衛翁之治蹟』

DSCN8725トロロアオイ/黄蜀葵
アオイ科の一年草。中国原産。草丈は本来2メートル近くになるが、最近は0.5-1メートルの丈の低い品種が多く栽培されている。葉は互生し、葉柄が長く、掌状に深く裂ける。
夏から秋、淡黄色で中心部が濃赤紫色、径15-20センチメートルのおおきな五弁花をつける。花は1日でしぼむが、茎の下位から上位へと順に次〻と開く。植物体全体、とくに根に粘質物を多く含み、これを手漉き紙を漉くときの糊料(ネリ)として利用する。また花を観賞用・食用ともする。糊原料をとるための栽培では、開花・結実させないために、つぼみがついたら先端部を刈り取って根に養分をたくわえる。
[参考:活版アラカルト[艸木風信帖]{朗文堂ちいさな勉強会『紙』講座}受講者のあいだで「フラックス 亜麻」が開花しました]

【WebSite紹介】 明治産業近代化のパイオニア 平野富二 {古谷昌二ブログ18}── 本木昌造の活版事業

6e6a366ea0b0db7c02ac72eae004317611-300x75明治産業近代化のパイオニア  平野富二生誕170年
古谷07月

明治産業近代化のパイオニア  平野富二生誕170年を期して結成された<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>の専用URL{ 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、同会代表/古谷昌二氏が近代活版印刷術発祥の地:長崎と、産業人としての人生を駈けぬけた平野富二関連の情報を意欲的に記述しています。ご訪問をお勧めいたします。
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古谷昌二ブログ ──── 平野富二とその周辺

古谷昌二さんuu[1]◎ 古谷昌二ブログ
[管理人:「平野富二生誕の地」碑建立有志会事務局長 日吉洋人]

① 探索:平野富二の生まれた場所
② 町司長屋の前にあった桜町牢屋
③ 町司長屋に隣接した「三ノ堀」跡
④ 町司長屋の背後を流れる地獄川
⑤ 矢次事歴・平野富二祖先の記録
⑥ 矢次家の始祖関右衛門 ── 平野富二がその別姓を継いだ人
⑦ 長崎の町司について
⑧ 杉山徳三郎、平野富二の朋友
⑨ 長崎の長州藩蔵屋敷
⑩ 海援隊発祥の地・長崎土佐商会
⑪ 幕営時代の長崎製鉄所と平野富二
 官営時代の長崎製鉄所(その1)

⑬ 官営時代の長崎製鉄所(その2)
⑭ ソロバンドックと呼ばれた小菅修船場
⑮ 立神ドックと平野富次郎の執念
 長崎新聞局とギャンブルの伝習
 山尾庸三と長崎製鉄所
⑱ 本木昌造の活版事業

<本木昌造の活版事業 主要内容>
1)活版研究の取り組み
2)事業化の試み
3)活版事業の本格化
4)活版所の設立と中央への展開
5)私塾の経営
6)本木昌造没後の活版事業
〔新街私塾〕、〔新町活版所〕、〔崎陽新塾出張活版所(大阪)⇒ 大阪 活版所⇒ 大阪活版製造所〕、〔京都點林堂〕、〔横浜活版社〕、〔文部省御用活版所〕、〔崎陽新塾出張活版製造所(東京)⇒ 東京築地活版製造所〕

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【字様・紋様】「石畳・霰-あられ」を「 市 松 紋 様 」の名にかえた 歌舞伎役者・佐 野 川 市 松

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「石畳・霰-あられ」を「 市 松 紋 様 」の名にかえた
江戸中期の歌舞伎役者・佐 野 川  市 松-さのがわ いちまつ

日本の紋様〔紋のありさま〕の定番であり、着物や帯だけでなく、千代紙や小物などあらゆるところで目にするものに「市松紋様」がある。おなじみのこの市松紋様、実はさほどふるいものではなく、ひとりの歌舞伎俳優と深い関係があった。

色違いの正方形を、碁盤の目のように組み合わせた紋様が生まれたのは、古墳時代の埴輪の服装や、法隆寺・正倉院の染織品にも見られ、古代より織紋様として存在していた。また公家や武家の礼式・典故・官職などに関する古来のきまり『有職故実-ゆうそくこじつ』では、こうした格子紋様は「石畳・霰-あられ」などと呼ばれ、おもに着物の地紋(織り柄)として使われていたことがわかる。

これが歌舞伎の舞台で鮮やかに観客の前に出現し、一気に注目されることとなったのは、寛保年間(江戸中期 1741-44)のことである。当時の歌舞伎役者が身にまとう紋様は、その役者の感覚や心意気を人〻に伝えるツールであった。
江戸中村座である俳優が「心中万年草-高野山心中」の小姓・粂之助-くめのすけ-に扮した際、白と紺の正方形を交互に配した袴をはいて登場したことからおおいに人気を博した。折しも庶民が紋様を施した着物を楽しむようになった時代でもあり、霰の紋様をあしらった鮮やかな袴は観る人〻の目に衝撃とともに焼きついた。

この衣装を身につけて登場した俳優の名こそ「初代 佐野川市松」であった。ここであまり紹介されてこなかった「初代 佐野川市松」をみてみたい。

佐野川市松(初代 さのがわ-いちまつ 1722-1762)
江戸時代中期の歌舞伎役者。享保7年生まれ。佐野川万菊の門人。若衆方、若女方をかね、荒事にもすぐれた。宝暦12年11月12日死去。41歳。山城(京都府)出身。俳名は盛府。屋号は新万屋・芳屋。

佐野川市松はその後もこの紋様を愛用して、また浮世絵絵士:奥村正信・鳥居清重(1751-77ころ活動 生没年不詳)・石川豊信(1711-85)などがその姿を好んで描いたことから、着物の柄として流行をみた。
市松の愛用したこの紋様は、当初はふるくからの慣わしにしたがって「石畳」と称されたが、のちに「市松紋様」「市松格子」「元禄紋様」などと呼ばれるようになった。
ひとりの歌舞伎役者の美意識によって、古来の呼称「石畳・霰」が、「市松紋様」という名に置きかわったのである。この「佐野川市松」の伝承によって、当時のインパクトがどれほどのものだったのかを偲ぶことができる。

Tokyo_2020_Olympics_logo.svg2020年 夏期オリンピック エンブレム

さらに佐野川市松の時代から175年ほどのち、2020年夏季オリンピック・パラリンピックのエンブレムが若干の紆余曲折をへて決定した。デザインは野老朝雄(ところ-あさお 1969-)で、このデザインは「組市松紋」だと自ら発表している。歌舞伎役者「佐野川市松」好みの紋様が、世界のアスリートが結集する舞台に「組市松紋」として再登場したことになる。

〔参考資料〕
WebSite 歌舞伎美人-かぶきびと-歌舞伎いろは「装い」
WebSite 市松模様 ウィキペディア
「市松模様」『国史大辞典』(吉川弘文館)/「市松模様」『日本史大事典』(平凡社)
「佐野川市松(初代)」『日本人名大辞典』(講談社)

【公演】市川海老蔵 古典への誘い  歌舞伎十八番『蛇柳-じゃやなぎ』 市川海老蔵がついに復活、全国を舞台に初披露 + 新塾餘談

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市川海老蔵 古典への誘い
成田屋伝来の歌舞伎十八番『蛇柳-じゃやなぎ』
市川海老蔵がついに復活、全国を舞台に初披露

企  画  市川海老蔵
制  作  株式会社 3 Top
制作協力  全栄企画株式会社 / 株式会社ちあふる
協  力  松竹株式会社
総合お問い合わせ Zen – A(ゼンエイ) TEL 03-3538-2300 (平日11:00-19:00)
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今年で6年目に突入した「市川海老蔵 古典への誘い-いざない」。様〻な演目をご覧いただく中で、やはり全国の皆様に、成田屋の〝歌舞伎十八番 *01〟をご披露したいという想いがつのり、今回の公演で実現した。
十八番の中で選んだのは、上演が途絶えていた演目を海老蔵が<第一回市川海老蔵自主公演「ABKAI」>で復活させ、大きな話題となった『蛇柳-じゃやなぎ』。歌舞伎特有の「押戻 * 02」という手法を用い、海老蔵が三役を相勤める。古風な中にも新しい感覚を取り入れた舞踊劇にご期待いただきたい。

< 出 演 >
一、和 太 鼓『  』         辻       清
二、『ご 挨 拶』         市川海老蔵
三、上・『子   守』       市川福太郎
  下・『三 社 祭』       市川九團次・大谷廣 松
歌舞伎十八番の内
四、『蛇  柳-じゃやなぎ』        市川海老蔵

< 蛇  柳ーじゃやなぎ >
蛇柳とはかつて高野山奥の院にあった柳の木のこと。
災いを招く蛇が、弘法大師の法力により姿を変えられたものだと伝わります。この柳を題材にした『蛇柳』は、約250年前に初演された『百千鳥大磯流通』の一部で、四世團十郎演じる主人公の男に、安珍清姫伝説で知られる清姫の霊が乗り移り、狂乱の体となるという所作事(舞踊)でした。

海老蔵の手により復活した、新たな『蛇柳』では、この柳に怪異が続くある日のこと、住職らの前に丹波の助太郎が現れ、次第に心を乱し始めます。
後半では蛇柳の精霊が姿を現しますが、金剛丸照忠によって怒りが鎮められます。

ebizo-ichikawa市川海老蔵

朗々と響く声と美しく整った容姿、輝やかしいほどの華を備えた今最も注目される俳優の一人。市川宗家の家の芸である「歌舞伎十八番」の継承と復活、また、歌舞伎という芸能の可能性の追求に並々ならない情熱を注いでいる。

2003年には NHK 大河ドラマ「武蔵 MUSASHI 」の主役を勤め、2011年公開の主演映画「一命」はフランスカンヌ映画祭にノミネートされた。そしてパリ・オペラ座をはじめとする海外での歌舞伎公演にも積極的に取り組み、近年では2014年、2015年シンガポール、2016年2月に UAE 、翌3月、NY 音楽の殿堂である NY カーネギー・ホールでの公演を大成功に導いた。歌舞伎俳優として、さらなる飛躍が期待されている。

【詳細: Zen – A(ゼンエイ)】
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{ 新 塾 餘 談 }

* 01 <歌舞伎十八番-かぶきじゅうはちばん>
歌舞伎劇のうち、成田屋、市川団十郎の「家の芸」18種。天保年間(1830-44)、七世市川団十郎が初世以来家に伝わってきた当り狂言(または当り芸)を制定したもので、『不破-ふわ』『鳴神-なるかみ』『暫-しばらく』『不動-ふどう』『 嫐 -うわなり』『象引-ぞうひき』『勧進帳-かんじんちょう』『助六-すけろく』『押戻-おしもどし』『外郎売-ういろううり』『矢の根』『関羽』『景清-かげきよ』『七つ面』『毛抜-けぬき』『解脱-げだつ』『蛇柳-じゃやなぎ』『鎌髭-かまひげ』がその内容。

いずれも家の芸である「荒事-あらごと」*03 を基本にしているのが特色である。これらのうち、『勧進帳』は初世が演じた題材をもとに、七世が再創造したもの。

また、上演がつづいていた『暫』『矢の根』『助六』『鳴神』『毛抜』のほかは、『外郎売』や『押戻』のように、ほかの作品の一部として伝わったものや、名ばかりで何も残っていなかったものが多かったが、明治以降、二世市川左団次や市川三升-さんしょう(十世団十郎)によって復活されている。
なお、三升屋二三治-みますやにそうじ-の『戯場書留-ぎじょうかきとめ』によれば、七世団十郎が制定した以前に「歌舞伎狂言十八番」ということばがあったが、これは市川家に限らず江戸歌舞伎の当り狂言を選んだものである。
一般に得意芸のことを「十八番」というのは、「歌舞伎十八番」を家の芸、転じて当り狂言と解したことから生まれたといってよい。
[参考:『日本大百科全書』(小学館)]

* 02 <押 戻-おしもどし>
歌舞伎十八番のひとつ。『鳴神』『道成寺』など怨霊のあらわれる狂言で、荒れ狂う怨霊を、花道の中程から舞台へ押して戻す荒事。

籠手-こて-、脛当-すねあて-、腹巻きに大広袖、三本太刀・蓑笠をつけ、太い竹の杖をつく。

*03 <荒  事-あらごと>
歌舞伎で、怪力勇猛の武人や、超人的な鬼神などによる荒〻しく誇張された演出様式。また、その狂言。

初代市川團十郎が創出し、江戸歌舞伎の特色となった。

[参考:『広辞苑』(岩波書店)]

munakata_sig_flyer第36回世界遺産劇場~宗像大社市川海老蔵 特別奉納公演  主催:SAP

【公演】六代目片岡愛之助ほか 第十一回 出石ーいずし 永楽館歌舞伎 10月18日-24日+地域の芝居小屋の再生と歌舞伎役者

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第十一回 出石ーいずし 永楽館歌舞伎
平成30年10月18日[木]-24日[水
    昼の部 午前11時30分ゟ
    夜の部 午後4時ゟ
    * 24日[水]は昼の部のみ 【貸切】19日[金]昼の部
会  場  出石ーいずし 永楽館
料  金  全席指定 12,000円[税込]
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<演目と配役──見どころ>
昼の部・夜の部

一、御所桜堀川夜討-ごしょざくらほりかわようち
弁慶上使-べんけいじょうし

                        武蔵坊弁慶  片岡 愛之助
                          おわさ  中村 壱太郎
                    卿の君/腰元しのぶ  上村 吉太朗
                          花の井  上村  吉弥
                         侍従太郎  大谷  桂三
☆ みどころ
豪傑、武蔵坊弁慶が生涯一度だけ恋をし、
大泣きしたという伝説を描いた時代物の傑作
懐妊のため静養中の源義経の正室、卿の君のもとを、源頼朝の上司として武蔵坊弁慶が訪れます。弁慶は源頼朝より反逆人の平時忠の娘である卿の君の首を討つようにと命を受けていたのです。侍従太郎は、妻の花の井とともに、卿の君に瓜二つの腰元しのぶを身替りに立てようとしますが、しのぶの母おわさは、18年前に一度だけ契った、しのぶの父にあたる男に娘を会わせるまでは死なせるわけにはいかないと、頑なに拒みます。
実は弁慶こそがしのぶの父親。弁慶は自分が親だと名のり出たい気持ちを抑え、卿の君の身替りとしてしのぶの首を刎ねるのでした。歌舞伎の様式美あふれるなか、夫婦、親子の情愛、そして忠義を尽くす武士の姿を描いた名作をご堪能ください。

二、お目見得 口上-こうじょう
                              幹部俳優出演
☆ みどころ

出演する幹部俳優がご挨拶を申し上げます。歌舞伎を身近に感じていただきたいという出演者の意気込みが伝わる口上は、小さな芝居小屋「出石永楽館」ならではの恒例の一幕です。

人気投票によりアンコール上演決定!
水口一夫 作・演出
三、神の鳥-こうのとり

              狂言師右近実はこうのとり(男)  片岡 愛之助
                      山中鹿之介幸盛  片岡 愛之助
              狂言師左近実はこうのとり(女)  中村 壱太郎
                     こうのとり(子)  片岡 愛三朗
                         傾城柏木  上村  吉弥
                         赤松満祐  大谷  桂三
☆ みどころ

幸せを運ぶという霊鳥コウノトリを題材にした新作舞踊劇
時は室町時代。播磨を拠点に勢力を拡大していた守護大名の赤松満祐は、将軍足利義教を討ち果たし、今や飛ぶ鳥落とす権勢を誇っていました。
出石神社の社頭では、満祐の天下掌握を祈願する宴が開かれようとしています。ひと際目を引くのは大きな鳥籠。中には神の使いとされる“こうのとり”が捕らえられています。その肉を食べると長寿を得るという伝説に従い、家臣が満祐に献上した生贄だったのでした。
まだ幼い子どもの“こうのとり”を殺して料理しようと、家臣たちが鳥籠をとり囲むと、突然辺りが真っ暗となり、狂言師の二人連れが現れます。二人は満祐の前で奉納の舞を披露しますが、やがて鳥籠に近づいたかと思うと ……。
但馬の霊長 “ こうのとり” を題材に新たに書き下ろされた、ご当地但馬地方が舞台の舞踊劇です。これまで永楽館で上演した18演目のなかからお客様に「もう一度見たい」演目を公募で選んでいただき、待望の再演が決まりました。錦絵を見るような歌舞伎らしい華やかな舞台にどうかご期待ください。

※昼の部/夜の部 同一演目にて上演します。
【詳細:歌舞伎座 出石 永楽館 】

{六代目片岡 愛之助と、出石-いずし 永楽館 兵庫県豊岡市出石町柳17ー2}

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東京木挽町 歌舞伎座の変遷と地方芝居小屋の盛衰

ph_transition_1第一期歌舞伎座:明治22年11月-明治44年7月

初代の歌舞伎座は、演劇改良運動の熱心な唱導者であった福地源一郎(櫻痴)が、自分たちの理想を実現すべき日本一の大劇場を目指して造られたもので、明治22年11月21日に開場しました。

外観は洋風でしたが、内部は日本風の3階建て檜造り、客席定員1824人、間口十三間(23.63m)の舞台を持つ大劇場で、今も歌舞伎座の座紋である鳳凰丸は、この時から用いられています。
明治44年7月に施設の老朽化と帝国劇場の出現を受けて改造されることとなります。

ph_transition_2第二期歌舞伎座:明治44年10月-大正10年10月

第二期の歌舞伎座は、第一期の建物の土台、骨組を残し、純日本式の宮殿風に大改築が施され、明治44年10月に竣工しました。
正面車寄せは唐破風造りで、銅葺きの釣庇に左右の平家も破風造り、また、内部の正面大玄関は格の鏡天井、観客席は高欄付きの総檜造りで、二重折上げの金張り格天井でした。
大正2年に、松竹創業者の大谷竹次郎が当時の歌舞伎座の経営に携わるようになりましたが、大正10年10月、漏電により焼失してしまいます。

ph_transition_2第三期歌舞伎座:大正13年12月-昭和20年5月

第二期歌舞伎座建物の焼失を受け、直ちに劇場再建工事が開始されましたが、大正12年9月1日の関東大震災の被災で工事は一時中断、翌13年3月に工事が再開され、同年12月に第三期の大殿堂が竣工しました。

奈良朝の典雅壮麗に桃山時代の豪宕妍爛の様式を伴わせた意匠で、鉄筋コンクリートを使用した耐震耐火の日本式大建築でした。
正面大屋根の高さは100尺(約30m)に達し、全椅子席に冷暖房完備、舞台間口は15間で廻り舞台の直径60尺(約18m)、照明設備はアメリカとドイツから取り寄せるなど、内容外形ともに日本一を誇る大劇場でしたが、昭和20年5月に空襲を受け、外郭を残して焼失しました。
(設計:岡田信一郎)

ph_transition_4第四期歌舞伎座:昭和25年12月-平成22年4月

昭和24年11月歌舞伎座再建のため、当社(株式会社歌舞伎座)が設立され、戦禍を受けた第三期の建物の基礎や側壁の一部を利用して改修、昭和25年12月に第四期の歌舞伎座が竣工しました。
外観は戦前の歌舞伎座を踏襲し、奈良及び桃山の優雅な趣はほぼ再現され、同時に近代的な設備が取り入れられました。

客席数は、桟敷、一幕見を含めて約2000席、舞台間口15間(約27.6m)、廻り舞台の直径60尺(約18m)、大小合わせて4ヵ所のセリがあり、平成14年2月14日「登録有形文化財」に登録されました。建物の老朽化により、平成22年4月の興行をもって惜しまれながら60年の歴史の幕を閉じ、建替えのために休館しました。
(設計:吉田五十八)

ph_transition_5第五期歌舞伎座:平成25年4月-

第五期歌舞伎座は、第三期からの意匠の流れを踏襲、第四期の劇場外観を極力再現し平成25年2月に竣工しました。破風屋根の飾り金物や舞台のプロセニアムアーチなどの部材を再利用する一方、建物構造や舞台機構で最新技術が取り入れられ、文化施設また高層のオフィスタワーも併設した建物として生まれ変わりました。
座席数は1,808席(幕見席96席を除く)、どの席からも花道が見られ、また舞台寸法は第四期と全く変わらないものの、新たに大ゼリを追加、劇場内部にもエスカレーターやエレベーターが設置されました。
(設計:三菱地所設計、隈研吾建築都市設計事務所による共同設計)

【 参考資料: 歌舞伎座資料館 歌舞伎座の変遷 】

文化財として現存する、地方における芝居小屋と
これらの芝居小屋を復旧させた功労者たち

◯ 旧金毘羅大芝居-通称 金丸座
1835年(天保6)築。香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮・門前町にある。現存する日本最古の芝居小屋。別名、金丸座-かなまるざ-とも呼ばれ、国の重要文化財の指定を受けている。香川県仲多度郡琴平町字川西乙1241番地
◯ 旧広瀬座 
1887年(明治20)築(推定)。1994年に福島県伊達郡梁川町から移築修復。1998年重要文化財指定。福島市民家園
◯ 呉服座
1892年(明治25)築。大阪府池田市にあったものを移築。1984年重要文化財指定。博物館明治村(愛知県犬山市)
◯ 永楽館
1901年(明治34)築。近畿地区に現存する芝居小屋としては最古の劇場。豊岡市指定文化財。(兵庫県豊岡市出石-いずし)
◯ 八千代座
1901年(明治34)築。以前の地に、平成の修復が行われた。1988年重要文化財指定。熊本県山鹿市
◯ 康楽館
1910年(明治43年)築。和洋折衷の明治時代に建てられた現役の木造芝居小屋。2002年重要文化財指定。秋田県鹿角郡小坂町

◯ 内子座
1915年(大正4)に歌舞伎劇場として建てられた。昭和60年代に修復。2015年重要文化財指定。愛媛県喜多郡内子町
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これらの芝居小屋のうち、「呉服座」は、1892年(明治25)築造と歴史はふるく、重要文化財指定をうけていても、 現在は博物館明治村(愛知県犬山市)に保存されている。こうした建築は、歴史的遺産としては貴重ではあるが、どうしてもいまひとつ物足りない。

2香川県観光協会公式サイト  旧金毘羅大芝居-通称 金丸座 うどん県ネットゟ

いっぽう現在も芝居小屋としてひろく利用され、また演目が無い日には、施設が有料で一般公開されている芝居小屋もある。

これらの施設の筆頭は、やはり「旧金毘羅大芝居-通称 金丸座」であろう。
金丸座は復興直後から、二代目中村吉右衛門(重要無形文化財保持者〔人間国宝〕)、十八代目中村勘三郎(五代目中村勘九郎、故人。現在は長男:六代目中村勘九郎、次男:中村七之助が活躍中)らが応援を惜しまずに公演を重ね、現在では毎春「四国こんぴら歌舞伎大芝居」の番組が組まれ、すでにこの「四国こんぴら歌舞伎大芝居」は34回の公演をかぞえている。

四国こんぴら歌舞伎第34回「四国こんぴら歌舞伎」フライヤー 平成30年4月 終了企画

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八千代座(熊本県山鹿市山鹿1499番地)は明治43年(1910)に建設された芝居小屋で、開業以来様〻な興行をおこなって山鹿に賑わいをもたらしてきたが、昭和の時代には映画館になり、それもテレビの普及により客足が減って閉館となっていた。人がいなくなった芝居小屋は荒れ果て、屋根には穴が …… 。

もはや不要といわれた八千代座を救うために立ち上がったのが、地元の老人と若者たちであった。彼らは30年を超える復興活動を実施して、自治体と国に粘り強く働きかけて、昭和63年(1988年)国の重要文化財指定を受けて実施された「平成の大修理」を経て、平成13年から八千代座は現代の芝居小屋として活き続けている。

それを側面から支えたのは、優れたプロモーター(主唱者・興行主)としての 松竹株式会社 であり、五代目 坂東玉三郎(1950年(昭和25)- 。重要無形文化財保持者〔人間国宝〕)であった。
平成の大修理の実施前、1990年(平成2)に八千代座で舞台公演をおこなった坂東玉三郎は、そのころはまだ楽屋は十分でなく、またエアコンの設備もなかったと述べている。それでも坂東玉三郎は八千代座の舞台に立ちつづけ、ことしも11月30日初日、11月4日千穐楽の予定で、熊本県山鹿市の八千代座の舞台に立つ。

チケットの発売はまだ開始直後だが、九州各地はもとより、西日本全域から、あるいは都市部の大劇場では味わえない、歌舞伎の醍醐味をもとめて、関東からも駆けつけるひとが多いと聞いた。そのため福岡空港と博多天神から山鹿までの臨時直行送迎バスが運行されるのが近年の恒例だそうである。

73bc42adb95414431ab190b761eac264坂東玉三郎 映像×舞踊公演 平成30年11月30日初日、11月4日千穐楽
[関連:活版アラカルト 国指定重要文化財 八千代座 坂東玉三郎 映像 × 舞踊公演

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八千代座「坂東玉三郎 映像×舞踊公演」への思い

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都市部の大劇場に安住することなく、歌舞伎界の大看板、二代目中村吉右衛門、五代目中村勘九郎(故人)らが「旧金毘羅大芝居-通称 金丸座」の復興に貢献し、五代目 坂東玉三郎が「八千代座」の復興に献身的に尽力してきたことを紹介した。
そうなれば、新妻:藤原紀香を迎えたばかりの片岡 愛之助はどうなのか …….。
0001-1 (1)出石-いずし 永楽館
出石を彩る近畿最古の芝居小屋

明治期に建設された近畿地方に現存する最古の芝居小屋
出石永楽館は、1901年(明治34)に開館し、歌舞伎をはじめ新派劇や寄席などが上演され、但馬の大衆文化の中心として栄えました。時代と共に映画上映が中心となり、やがてテレビの普及や娯楽の多様化などにより昭和39年に閉館しました。
その後、時は流れ、往時の永楽館を懐かしむ声があがるようになり、約20年の復元に向けた活動により、2008年(平成20)に大改修がなされ、44年の時を経て永楽館は蘇りました。
現在は一般公開(有料)されています。

2008年7月31日、座頭:片岡愛之助「出石 永楽館 杮落大歌舞伎」公演に先立ち、
お練りを行いました!
「出石 永楽館」柿落-こけらおとし-大歌舞伎に先がけて、お練りを行いました。当日は午後6時半から市役所前の広場での餅まきの後に、座頭の片岡愛之助さんをはじめ、片岡秀太郎さん、中村壱太郎さんら出演者が人力車に乗って、出石の城下町を練り歩きました。当日は三番叟をあしらった手作りの神輿も登場! 出石の町にも幟旗がはためき、たくさんの人々が沿道をうめました。

出石 永楽館 永楽館の歴史」の公式サイトには、廃館になってからのさびしさとともに、上掲のように、2008年の柿落-こけらおとし-の模様が、たくさんの画像記録とともにのこされている。
すなわち片岡 愛之助は、永楽館の再生のときから座頭として大歌舞伎をうち、その後もなんども永楽館の舞台を踏んだ。そのため地元の実行委員会製作のフライヤーは、

<永楽館歌舞伎 ことしも片岡 愛之助さんが出演 ! ! >

と親しみを込めて紹介している。歌舞伎役者が地域住民と良き交流を重ねてきた結果であろう。
歌舞伎が古典芸能という名称と、都市部の大劇場に安逸せず、長老も若手もそろって積極果敢な挑戦をつづけている姿勢を、おなじ技藝にいきるもののひとりとして、羨望し、また鞭打たれるおもいで受けとめている。

【詳細: 歌舞伎座 歌舞伎美人 旧金毘羅大芝居-通称 金丸座 八千代座 出石永楽館 】

【古谷昌二 新ブログ スタート】 東京築地活版製造所 歴代社長略歴 ── 初代社長 平 野 富 二

社長略史01【古谷昌二 新ブログ スタート】
東京築地活版製造所

歴代社長略歴

初代社長 平 野  富 二

(1)初代社長就任とその実績
(2)築地活版製造所の前史
     〔本木昌造の活字製造事業を受託〕
     〔活版製造事業の改革〕
     〔事業責任者として大阪・東京に出張〕
     〔事業所の東京移転〕
(3)平野富二の貢献

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古谷昌二さんuu[1]平野富二生誕の地碑建立有志の会の< WebSite 平野富二──明治産業近代化のパイオニア >において、精力的に「平野富二」に関する最新研究成果を<古谷昌二ブログ>に連続発表されている古谷昌二氏。その蓄積は2017年01月-2018年06月にわたり、都合18回の連載をかさねています。

平野富二は長崎から上京後、わずか20年ほどのあいだに、明治産業近代化のパイオニアとしてさまざまな事業を手がけました。そのひとつが活字製造と活字版印刷関連機器の開発で、東京築地活版製造所の名称でひろく知られます。ところが同社が昭和初期に解散したために、企業史の側面からの研究は十分とはいえない状況にありました。

近年、長崎と東京で「活版さるく」をはじめとするさまざまなイベントが開催され、東京築地活版製造所関連資料があらたに発掘され、周辺では共同研究も盛んになってきました。
これらの成果の一端として、<古谷昌二 新ブログ 東京築地活版製造所歴代社長略歴>は、明治18年(1885)6月16日に設立され、昭和13年(1938)3月17日、臨時株主総会の決議によって解散を迎えるまでの東京築地活版製造所の消長を、個性ある歴代の社長の姿を追うことで明らかにしようとするものです。ご愛読をたまわりたく存じます。

[平野富二生誕の地碑建立有志の会 事務局長:日吉洋人]
平野富二03ea964d3f22efbbfc3e02f6c3213aee727888b699973808e40cc8ca99d760c07448e9df747f3cf40629d5bdf0b3b66c55ebe9892c555028e236a51c24cad9c0『印刷雑誌』第1巻第8号1891.09m24 部分拡大

【 SAYOUNARA 】 タイポグラファ:ヘルムート・シュミットさんが逝去されました

DSCF5640ヘルムート・シュミット Helmut Schmid
1942年02月01日-2018年07月02日 行年76

タイポグラファのヘルムート・シュミットさんが、去る07月02日早朝午前07時40分、急性心不全のため逝去されました。ここに皆さまに謹んでご報告いたします。
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ご家族のおはなしでは、前日まではまったく平常で、夕食は江坂駅前の馴染みのレストランでスミ夫人とふつうに召しあがり、帰宅後はテレビでサッカー観戦をしていたそうです。スミ夫人は先に就寝されましたが、ヘルムートはサッカー中継を愉しんでいたようです。

朝方物音がしたので、スミ夫人が居間の様子をみにいくと、すでにヘルムートの呼吸がなく、緊急搬送となりましたが、そのまま、苦しむことなく、穏やかに黄泉に旅だったとされます。
かねてからの本人の意思にしたがって、通夜・葬儀はおこなわず、ご遺骨はスミ夫人の郷里に埋葬の予定だそうです。

あまりに突然の訃報であり、また、ご一報をいただいたときから、大げさにしたくないとのご家族のつよいご意向で、近しい友人・知人にもお知らせができないまま、取りいそぎ07月03日[火]、なにはともあれ大阪府吹田市のご自宅に、お別れに駆けつけました。
本当に眠っているように穏やかなお顔でした。
おもえばタイポグラフィの同志として40年余のおつき合いでした。さびしくなります。合掌

【活字と機械論攷】教育者にして多才な事業家、山本覚馬と梅津パピールファブリック製紙場跡

PrintUmezuSeishiJyo_1 UmezuSeishiJyo_3 UmezuSeishiJyo_2梅津パピールファブリック製紙場跡 記念碑銘板を読みとる
京都市右京区梅津大縄場町所在

 梅津パピールファブリック製紙場跡

梅津パピールファブリックは、京都府が東京遷都による産業衰退を懸念した明治天皇の御下賜金をもとに、この地に明治5年10月ドイツ人レーマン兄弟の指導により建設に着手し、明治9年1月ドイツ式抄紙機を用いて、操業を開始した我が国初の*01  洋紙製造工場であります。桂川の水力を動力源として、京都の産業活性化のために大いに活躍しました。
明治13年8月、磯野小右衛門に払い下げられ民営になりました。大正7年〔1918〕11月、表門と門衛所、一部の赤レンガを残して全工場を焼失しました。翌大正8年5月には再建され、その後大正13年に富士製紙(株)梅津工場に、昭和8年5月に王子製紙(株)梅津工場に、昭和18年に日本擬革製造(株)にそれぞれ移行し、幾多の変遷を経て昭和25年4月以降は日本加工紙(株)京都工場になりましたが、昭和46年〔1971〕に工場は閉鎖となり、操業以来95年*02  にわたるそのながい歴史をとじました。

この地はまさに明治初期我が国の洋紙製造発祥の記念すべき遺跡地であります。
なお[PAPIRE・FABRIC]と彫られた門扉、[明治天皇御幸所製紙場]の碑、[土橋嘉右衛門顕彰]の碑、京都府によって立てられた[梅津パピールファブリック製紙場跡]の高札など貴重な資料が東京王子飛鳥山公園内の「紙の博物館」の記念碑コーナーに保管、陳列されています。

    平成15年 10月吉日  設立
             有 志  林 忠治・太田 忠志・大西 賢市
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*01  本石碑正面には「日本最古の洋紙製紙場跡」と彫りこまれているが、下掲の資料で紹介する「紙の博物館」では、同社を「わが国の洋紙製造黎明期の三工場の一つ」とする。
ウィキペディア「パピール・ファブリック」の項では、── 1876年(明治9年)京都梅津の桂川の畔で開業した製紙会社。日本の製紙業黎明期の6社の一つ ── とする。同項では「日本で最初に開業した製紙会社は1874年(明治7年)開業の有恒社であり、蓬莱社や抄紙会社(王子製紙)もパピールファブリックより先に開業している。ただし、動力に水力を使う、官営である、ドイツ製機械を使うなど日本の製紙業黎明期の6社の中では特異な存在ではある」と述べている。
また注釈1)では、─── 日本で最初の製紙会社は、有恒社、および抄紙会社(王子製紙)、蓬莱社、三田製紙所、神戸製紙所と、パピール・ファブリック。日本の製紙黎明期にはこの 6 社に加えて大蔵省印刷局も製紙機械を導入して紙を抄いている ─── とさらに詳細にしるしている。
*02  操業以来95年 ── とあるが「創業」の誤りか。

紙の博物館URL資料
『紙博だより』第40号(解説ボランティア  小杉睦裕さん   平成21年10月1日発行)所収

ひっそりと昔を語る『パピールファブリックの門扉』
パピールファブリック

kamihaku明治10年、明治天皇が工場へ行幸された。
紙の博物館の 1 階図書室前に、わが国の洋紙製造黎明期の三工場の一つ、『パピールファブリック』の門扉が古色蒼然と立っています。これは木製で、お洒落なことに、欄間の透かし彫りの様に、ドイツ語で『 PAPIER FABRIK 』の文字が記されています。他の二つの工場が東京に建設されたイギリス式なのに対し、こちらは京都嵐山の近くに、京都府が政府からの勧業基立金15万円で建設したドイツ式の製紙工場でした。

明治 7 年〔1874〕11月にこの門や守衛室等が建てられ、明治 9 年に操業を始めます。その後、経営は 磯野製紙所 → 富士製紙 → 王子製紙 → 日本加工製紙 と変わるのですが、大正 7 年〔1918〕11月、この門と守衛室・赤煉瓦室を残して工場はほぼ全焼しました。

その後工場は再建されます。場所は渡月橋の一つ下の松尾橋の東詰南にありましたが、京都市民には戦前の「王子製紙」の名が浸透して、タクシーでは「王子製紙へ行ってくれ」と言ったものです。門はその中央、桂川の反対側の正門にあり、戦後新調されました。歴史の証人の様な創業当時の門扉は、昭和30年〔1955〕に日本加工製紙から、紙の博物館に移譲されたのです。

さて、この工場は驚いた事に、地下水だけで紙を抄いていました。近くに松尾大社・梅宮神社といった醸造や酒造の神社がある位ですから、綺麗で豊富な水脈があったのです。ひと頃、琵琶湖から引いている市の水が「カビ臭い」ことがありました。当時工場では、異臭を嫌う煙草の外装紙を製造していましたが、地下水のおかげで苦情を起こさずに済みました。
明治・大正・昭和と、長年洋紙を作り続けた工場でしたが、都市化の波には勝てず昭和46年に閉鎖しました。その跡地にはマンションが建っていますが、その東端に往時を偲んで小さな石碑が立っています。

青山霞村著『山本覚馬』(同志社 1928/ 国会図書館蔵  請求記号 289-Y317ウ)

※ 同書、一三四-一四三ページ を現代通用文に書きかえてみた。
※ 〔 亀甲括弧 〕内は稿者の補遺である。また WebSite 環境に配慮して、行頭字下げはせず、改段を増やしたことをお断りしたい。
20180611154147_00001※ 読みくだし終了後に新装複刻版、『山本覚馬伝』(原著:青山霞村、校閲:住谷悦治、編集:田村敬男、宮帯出版社)を入手した。工場写真は宮帯出版社版から紹介した。
失明した山本覚馬の肖像写真はウィキペディア「山本覚馬」から紹介した(PD データ)。

Kakuma_Yamamoto_(1828-1892)山本 覚馬(山本 覺馬、やまもと かくま)
文政11年1月11日(1828年2月25日)-明治25年(1892年)12月28日)

幕末の会津藩士、砲術家、明治時代の地方官吏、政治家。京都府顧問、府議会議員(初代議長)として初期の京都府政を指導した。また同志社英学校(現同志社大学)の創立者・新島襄の協力者として、現在の同志社大学今出川校地の敷地を譲った人物としても知られている。号は相応斎。
両親は父:山本権八(会津藩砲術師範。会津戦争で討死)、母:山本佐久。この夫婦は3男3女をあげたが、1男2女を幼児期に失う。妹・八重:慶応元年(1865年)は、川崎尚之助と結婚。会津戦争では家族と共に鶴ヶ城に篭城。戦後に尚之助と離別し、明治9年(1876年)に新島襄と再婚して新島八重。弟・山本三郎は鳥羽・伏見の戦いで戦死。
維新後に失明してから展開された兄:山本覚馬と、妹:新島八重による活版印刷事業に関しては、同書にも記載されているが、若干の混乱がみられるので整理して後述したい。

◇    ◇    ◇    ◇

伏 見 製 作 所

観月橋四條大小橋の鉄材を供給

伏見製作所は時代の需要に応じ、土木建築の鉄材や鉄の機械を製作するため明治六年十月新設された模範鉄工場である。水車に依って水力を利用するため、伏見向島、豊後橋(観月橋)の下手に工場が建てられ、大熔鉄炉、送風器、鋳床、錐盤、円転機、削平盤、その他精巧なる舶来の鉄工機械を金に飽かせて備付け、〔京都〕府下は勿論近府県の注文に応じて盛に鉄工業を営み、その頃板橋が鉄橋に架けられて、珍らしがられた。四條の大橋小橋も観月橋の鉄材も同所が供給したものである。鉄管、喞筒、その他の機械製作から伸銅などもこの工場で行われ、その能力と信用と大阪造幣局長の仲介で韓国政府の造幣機械一切の注文を受けたことによって明かである。

梅津製紙場 一名パピールファブリック

    大工事 独楽のように横に廻る水車 詩人廣瀬青村が府の官員 塾
    生に洋学を勧める 下河邊独語学校から製紙場へ 技師の後を慕っ
    てきた独逸の恋人 原料は洛中洛外の襤褸〔ボロ〕 市中の間屋に
    販売を命じた 西郷戦争で新聞売上げ激増

梅津製紙場も時代の要求を察し、洋紙を製するために設立せられたもので、一名パピールファブリックといったのは、独逸の機械技師によって創めたから、記念のためにそう名づけたのである。梅津は桂川左岸〔上流からみて左側〕、平家物語の横笛が瀧口入道を慕ってゆく叙事に「梅津の里の春風によその匂もなつかはしく」とあるその梅津である。紙漉きは多量の清水を要し、且つ機械の動力は当時水力によらねばならなかったのに、京都の加茂川では水車を作る十分の落差がなかったから、桂川沿岸の地を卜した〔定めた〕のである。

!cid_6B958BD1-C8DB-428D-8F3F-895E0512532D明治9年1月ドイツから製紙機械を買入れ製紙工場を梅津につくり、洋紙製造販売にあたった。

明治五年〔京都〕府は山本顧問と親しかった独逸商人ハルトマン、レーマンを通じて、独逸に新式の製紙機械一台を注文したが、輸送の途中に故障〔事故〕があって、三年後の明治八年に工場に掘付けられた。この工場建築は中〻の大工事であった。石垣などの石材は別項記載の童仙房から献上するといって、石は無代であったが、毎日牛車四台五台が重い石を挽いてくるので、道路や橋梁を破損し、その修繕費なども中〻かかり、普通四、五万円の工事が二十万円もかかったそうである。併し資源〔しかしながら資金〕は藝娼妓の莫大な賦金〔芸妓に課税した〕が勝手に使えたので心配はなかったのである。

工場の鬼瓦には牛の頭がつけてあった。多分牛肉、牛皮、牛乳等から、文明開化の象徴としてつけられたのであらう。此処の動力用の水車は日本のではなく西洋式で、丁度独楽が廻るように横に廻り、縦に廻るよりはその力が優って居った。そして工場は一般に参観させた。
日本人の誰も知らない洋紙製造だから、その技師として独逸人エキスネルを月給金貨二百円で雇入れ、通弁〔通訳〕には後に医家へ養子にいって、その姓と医業を継いだ馬杉氏を雇った。

!cid_FA28DD5F-A875-48B8-B55B-8AF0E7B4BB23梅 津 製 紙 工 場

これより数年前中学校の歐学舍のできた時、府庁の典事に青村廣瀬範治という儒者があった。詩を以て海内に鳴らした淡窓の義子で「火船烟散海濛々 破浪双輪去向集」など汽船を新題にして作った人であった。同じ淡窓の咸宜園の塾頭をして居って、漢法書で京都に老いた櫻井桂村が明治十一、二年のコレラ病を古詩に作ったなど何れも固陋な人ではなかった。
この廣瀬が自宅で四、五名の少年に読書の世話をして、塾とはいえない程の事をもして居ったが、ある日府庁から帰り、槇村大参事が今後大いに洋学をやらねばならぬからといって、歐学舎を起こされ、独逸人の教師が来るから、お前等も洋学の稽古をせよといった。
少年に下河邊光行という者があった。帰って父に相談すると父もその気になり、それでは英仏独語何れを学ぶがよいかとなると、勧めた青村先生も分らない、教師は独英語を兼ねるが独逸人だから独逸がよかろうと、下河邊は独逸語学校へ入った。
梅津の製紙場設立に就いては何時までも高給の外人を雇っておけない、速くその技術を習得せねばならぬ。それも京都繁榮のためだから京都人にという所から、当時独逸学校に居った下河邊を通訳兼見習のために製紙場へ入れた。

その頃品川彌二郎の世話で、独逸へ留学して居った山崎喜都眞という人が帰朝した。製紙術を学んできたが、中央攻府でもまだその技術を要する処までいって居らぬので、品川が同藩〔長州藩〕の槇村に梅津の製紙場へ使ってやってくれと頼みこんだ。槇村は否ともいえず、月給四十円を与えてこれをも技師に雇った。
この山崎には独逸で契り交わした女があった。この女は山崎の帰朝後一人の母親を振棄て、恋人の後を慕って遙遙日本へ渡ってきた。所帯道具一式を携へて来たので、山崎はその女と早速西洋風の所謂〔いわゆる〕愛の巣を営んだ。この細君は賢い女で何もかも日本に同化しようと力〔つと〕めたけれども、何分彼我生活の程度が違ったから、山崎は四十円では暮しがつかず、品川に泣きついたが、暫く辛抱せよといわれ、後三、四年すると品川の農商務省の方へ使われた。エキスネルは契約期限が満ちると解雇し、それまでに下河邊は相当意に覚えこんだから、その後は日本人のこの技師二人で技術方面を担当しておったのである。

製紙の原料は主として木綿襤褸〔ボロ〕を用いたのである。それまで紙屑屋が最早古着屋の顧みない、破れ着物、破れ足袋、その他の木綿ボロを洛中洛外で買集めた分量は莫大なものであったが、それからは染料の藍を抜きとるばかりで、ボロその物は用途がなく、空しく捨てたものであった。
そのボロの廃物を利用して紙にすいたのである。その製せられた紙は今の新聞紙用のザラ紙の上等の物であった*03。のちに藁をも原料に用いて、これはボール紙に製造せられた。その外色紙半切半紙なども製せられた。製造能力は毎日二千ポンド〔≒ 907 kg〕で常時の価ポンド十錢、金額二百円程の物であった。

販売方については、府は京の紙問屋中井三郎兵衛、大森治郎兵衛その他初田など都合五人を府庁へ呼出して販売を命じ、その店へ名誉ある京都府御用達の看板を掛けさせた。〔ところが〕紙屋が製紙場へ行くと、幅六尺長さ無制限という〔巻き取り、ロール〕紙なので、日本紙を扱って居った人達は驚いて居る有様、使う道がない、製品は堆積するばかり。それで紙屋の請求に応じて、半紙版や美濃版〔半紙判や美濃判〕に切ってやって売らせた。府は損益をあまり眼中におかなかったから、その収支は苦しい計算であった。
然るに梅津製紙場に息をつかせたのは西南戦争であった。山木覺馬先生は江藤新平の乱で桑苗が売れなくなり損をされたが、梅津製紙場は西郷戦争で大いに儲けた。それまで洋紙は大抵舶来品で、新聞用紙には和製の駿河半紙や唐紙を用いて居った。西郷が戦争を始めた、新聞がそれを報道する、熊本の籠城、田原坂の激戦、桐野利秋がどう、篠原國幹がどうしたのと、人々が新聞を引っ張り合って読むようになって、新聞の売れ高が激増した。そしてその新聞用紙が梅津でどしどし出来たのである。
引続いて地券の用紙を一手で製造して大儲けした。全国の土地所有者に地券を交付〔地租改正にともない1872年・明治05年以後、政府が土地所有者に交付した証券。この地券記載の地価にもとづいて地租が賦課された。土地台帳の整備にともない1889年廃止。地券状〕するのに東京でもその紙がなかった。それで梅津で一手に引受けたのである。この製紙場は更にまた印刷機械を据えつけて、当時益々需要の増加しゆく、諸官署や銀行会社の帳簿を調製して、東京その他諸方面へ売り込んだ。

梅津製紙場はこんな風に成功の途を濶歩して居ったのに、府の事業整理のために。大阪の相場師磯野小右衛門に払い下げられ、磯野は松原烏丸に店を開いて製品を売り捌いた。払い下げ金は三万円と残金は有名無実の年賦といふことである。この工場は、今は富士製紙株式会社の工場になって居る。

数年前英国の雑誌「評論の評論」誌上に紹介せられた医術公営の可否論と、府立療病院設立の社会政策であった事とを比較し、この官業梅津製紙場と露西亜の産業官営主義などを思い合わせて見ると、明治初年京都の行った府政の治績は今もなお経世家に何かの暗示と例とを与えて居るのでなかろうか。
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*03  わが国の手漉き紙(いわゆる和紙)は、コウゾ・ミツマタ・ガンピなどの灌木の靱皮繊維を主原料としてもちいたが、明治最初期の洋紙製造では、お雇い外国人の指導もあって、原料は襤褸(綿ボロ・木綿の古布)が良いとされた。

そのため製紙会社各社はいずれも襤褸(いわゆる綿ボロ)を入手しやすい大都市周辺に工場を設けていた。木材パルプが洋紙の原料になり、豊富な水源と、港湾輸送に便利な沿岸部に製紙工場が移転するのは明治20年代(1887-1896年)以降である。

原資料提供:春田ゆかりさん 〔この項つづく〕

【復活転載】こんな時代だから、金属活字も創っています! コレダ ! カタ仮名専用活字ガ復興シマシタ {アラタ 1209}

こんな時代だから、金属活字も創っています!
コレダ !   カタ仮名専用活字ガ復興シマシタ
アラタ 1209 New Products

本稿は2008年に「朗文堂 type cosmique 」にアップロードされ、いまも存在している記事です。
このたび NECKTIE design office 千星健夫氏による、あたらしい活字母型製造法として、「コンピューター数値制御切り削り加工 ── Computer Numerical Controlled Cutting」(CNC)が一定の成果をあげ、「 NECKTIE design office  Works New Type Matrix 」に報告がなされました。

tsukiji5_02CNC方式活字母型 五号ひら仮名

それを受けて、サラマ・プレス倶楽部/活版アラカルト「【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-17{展示報告 ①}[サラマ・プレス倶楽部会員]千星 健夫{新技法による活字母型の試作と活字鋳造}── ちいさな一歩、おおきな成果」と題して、やはり皆さまにお知らせいたしました。

あわせてサラマ・プレス倶楽部では、長年お世話になった「機械式活字父型・母型彫刻機」、いわゆるベントン彫刻法に関する既発表記事をまとめる作業にあたっています。
その一環として、どういうわけか旧アダナ・プレス倶楽部 → サラマ・プレス倶楽部のウェブサイトに詳細報告がなかった本稿を「朗文堂 type cosmique 」から収録し、若干の補整を加えて、サイト内検索に便利な「活版アラカルト」に掲載いたしました。
どうかこうした意のあるところをおくみとりたまわり、ご愛読のほどお願い申しあげます。

アラタ 1209 天地 12 pt., 左右 9 pt.
サラマ・プレス倶楽部 特製文選箱入フォント・スキームセット
arata1209
アラタ 1209 天地 12 pt., 左右 9 pt.
サラマ・プレス倶楽部 特製文選箱入フォント・スキームセット 29,400 円[税別]
fair-card

サラマ・プレス倶楽部は、活字版印刷術のよきルネサンスを願って、意欲ある活字鋳造所と協力しながら、適切なフォント・スキームにもとづいた新鋳造活字を提供しています。
しかし、書体とサイズ毎に膨大な数量となる漢字活字を揃えるためには、やはりユーザーの高負担となります。また、必要のたびに活字をバラ(単品・1 本売り)で購入すると、1 本あたりの単価は無視できないほどの高額になってしまいます。

金属活字が、ある意味では追いこまれながらも、あらたな意義と役割をもって再興への歩みを進めている現代、若干の窮屈は承知の上で、カナモジ完結書体の金属活字化に着手して、さらに活版ルネサンスを進展させるために、日本語表記をできるだけ効率よく、しかも低予算で組版できる金属活字書体として「アラタ 1209」を開発しました。

カタ仮名とひら仮名の歴史を検証する
カタ仮名は仮名文字のひとつで、ひとまとまりに発音される最小単位の音節(syllable)からなる音節文字(syllabograph, syllabogram)です。阿 → ア、伊 → イ、宇 → ウ、久 → ク、己 → コのように、漢字の一部分(片)をとってつくられた文字記号で、奈良時代から平安時代初期に、漢文読み下しのための「漢文訓点」にもちいられました。
縦組みの漢文の右脇に付与された一種の記号でしたから、多くのキャラクターが左向きなのが片かなの特徴です。当初は流派もあり、さまざまな字体がありましたが、平安末期にはほぼ現行のものにちかい字体となって、こんにちにいたっています。

いっぽう、ひら仮名は、やはり平安初期に漢字の草体の仮名をさらにくずしてつくった音節文字です。おもに女性(おんなで)がもちいたので、女手、草仮名などとよばれ、おおくの異体字がありました。「ひらがな」の称は後世のもので、字音と形象が定まったのも戦後で、文字の歴史からみるとつい最近のことでした。

カタ仮名は、現在ではおもに、外来語の表記や擬音語の表記に多くもちいられていますが、わが国の文字の歴史を振り返り、文字形象をあらためてみると、簡素で、判別性にもすぐれ、独立した音節文字としての長い歴史と体系をもっていることがよくわかります。
katakana

いまから買いそろえると、金属活字はやはり高負担になりがちです。
サラマ・プレス倶楽部は、活字版印刷術のよきルネサンスを願って、意欲のある活字鋳造所と協力しながら、適切なフォント・スキームにもとづいた新鋳造活字を提供しています。しかし、書体とサイズ毎に膨大な数量の漢字活字を揃えるためには、やはりユーザーの高負担となることが避けられません。
また利便性が特徴のパソコン用デジタルタイプをみると、明治以来営々と重ねられてきた、使用頻度の低い漢字使用の抑制や、字体統一への努力が軽視され、異体字を含めて限りない字種の増殖がつづいています。

そんないま、必要のたびに活字をバラ(単品)で購入すると、1 本あたりの単価は無視できないほどの高額になるのも事実です。それではせっかく新芽を吹きだしたわが国のプライヴェート・プレスの進展にとって大きな障害となりかねません。
font-schemeキャラクタ数の少ない欧文活字にくらべ、漢字を中心に圧倒的にキャラクタ数の多い和文活字の新設備は、活版ユーザにとっては高負担になりがちです。

コンピュータの利便性が低かった時代に 最初に採用された日本語活字
I T 時代とよばれ、栄耀栄華をきわめているコンピュータですが、その開発初期はあくまでも演算機能が中心でした。それが次第に機能が拡張され、清打ちタイプライター、あるいは DTP システムの原型ともいうべき IBM72 という、簡便な記憶機能と演算機能を備えたタイプライターが1961 年に発売され、爆発的なヒット商品となりました。

IBM72 にはさまざまな機種が登場し、日本語対応も求められましたが、そこで最初に採用されたのが故 ミキ イサム氏によるカタ仮名活字だったことは画期的でした。ついで旧日本国有鉄道が、新幹線などの指定席用に採用した「日立データタイプライター(通称マルス)」にも、ミキ イサム製作のカタ仮名と、追加文字として、欧文・数字・特定漢字36キャラクターが採用され、長らく「緑の窓口」などで使用されました。

また、かつての高速通信の手段であった電報は、カタ仮名のみの、できるだけ少ないキャラクターで、簡潔に情報を伝える文体が発達していました。「チチキトク ウナ カエレ」のような、「ウナ電」とよばれた至急電報(英語で至急の意を表す urgent のはじめの 2 文字のモールス符号が、仮名の「ウ・ナ」に相当することから名づけられました)や、春の大学入学試験の時期には、正門脇に学生アルバイトによる「電報受付特設コーナー」が設けられて、合格をあらわす「サクラサク」や、不合格をしめす「サクラチル」に、一喜一憂した時代もさほど昔のはなしではありません。
このようにカタ仮名特有のコンパクトで利便性に優れた機能が、かつては多くの用途に利用されていました。森川龍文堂カナモジカイは 1920 年 11 月 1 日、山下芳太郎、伊藤忠兵衛、星野行則らによって「假名文字協会」として大阪市東区に設立されました。その活字鋳造を担ったのは、おもに大阪「モリカワ リョウブンドウ/森川龍文堂」でした。

このパンフレットは故ミキ イサムから直接提供をうけたもので、1935 — 40 年ころの製作とみられます。収録書体は、平尾善治、猿橋福太郎らのカモノジカイ会員の製作によるカタカナと、稲村俊二の「スミレ」、松坂忠則の「ツル」などです。ミキ イサムは「ツル」を高く評価しており、ミキ イサムのカタカナのエレメント、形象には「ツル」からの影響が顕著です。

もっとも定評ある「アラタ C」をベースに「アラタ 1209」を創りました
このような歴史と現状を踏まえ、さらに活版ルネサンスを進展させるために、日本語表記をできるだけ効率よく、しかも低予算で組版できる金属活字書体としてサラマ・プレス倶楽部が着目したのが、前述したミキ イサムによる「カタ仮名活字 アラタ C」でした。

「カタ仮名活字」は前述のように、長い歴史を有し、多方面の用途を担ってきました。なかでも「アラタ C」は、適度な黒みと、欧文書体のように明確なラインが設定されており、ウエセンから突起したウエエダという突起部をもつことが特徴です。また判別性に優れた書体として評価が高く、さまざまな分野で用いられていました。

arata-c20180409133938_00001金属活字がある意味では追い込まれながらも、あらたな意義と役割をもって再興への歩みを進めている現代、朗文堂 サラマ・プレス倶楽部では、若干の窮屈は承知の上で、カナモジ完結書体の金属活字化に着手いたしました。そしてそのために、まずもっとも定評のあるカナモジ書体である「アラタ C」のライセンスを、朗文堂 サラマ・プレス倶楽部が株式会社モトヤより取得いたしました。

かつてモトヤでは「アラタ・サカエ・アキラ・クレハ・アラタ(ヒラガナ 1962)」などの書体を金属活字で供給していましたが、時代の趨勢によって、金属活字、パターン、活字母型などはすでに処分されていたため、デジタルデーターの支給をうけるという形でした。
それをもとにサラマ・プレス倶楽部で正確な原字版下を作成し、亜鉛凹版による活字パターンの作成を経て、ベントン型彫刻機をもちいて活字母型の彫刻をおこなうという、1950-70年代の金属活字全盛期さながらの技法や、工程そのものを復活・展開させる試みとなりました。

サイズはユーザーの利便性を考慮し、天地 12 ポイント、左右 9 ポイントとして、一部の約物類は既存の 12 ポイントのものを流用できるように配慮しました。

「アラタ 1209」はお求めやすいフォント・スキームでの販売です。
このようにして、21 世紀になってはじめて誕生した本格的な文字セット活字の創造には、それなりの困難と障害がありました。しかしそれらはライセンス供与社の株式会社モトヤをはじめ、協力企業各社の支援を受けながら、ひとつひとつ乗り越えていきました。

そしてここに「アラタ 1209」と名づけられたあらたな金属活字が誕生しました。「アラタ1209」は朗文堂 サラマ・プレス倶楽部の専売品で、使用頻度の高い「ア・イ・カ・ノ」などの字種は多く、「ヰ・ヱ・ヴ・ヮ」などは少ない字種配当表を作成し、1 フォントが文選箱 1 箱に納まるように構成した、独自の「カタ仮名フォント・スキーム」を採用しています。

懐かしいのに新しい、最新の金属活字書体「アラタ 1209」を、皆さまぜひともご愛用ください。
「アラタ 1209」12 ポイント 全キャラクター
character_arata1209miki-isamuありし日のミキ イサムさん
1971 年(昭和 46 年 3 月 10 日)カナ ノ ユウベ ニテ

原字製作者プロフィール:ミキ イサム 1904 — 1985 年
明治 37 年 — 昭和 60 年。旧制和歌山中学校卒。東京美術学校(現東京藝術大学)彫刻科卒。研究科修了。この間財団法人カナモジカイに入会。彫刻家の道を歩みながら、視覚障害者対象のカナ・タイプライターの研究開発に従事する。

第二次世界大戦終結後、凸版印刷株式会社に入社。板橋工場ベントン彫刻部に 1959 年(昭和 34)定年退職時まで在職。その後モトヤの古門正夫前社長の委嘱により、1949 年にご子息の名前を冠した「アラタ(カタカナ)」を発表。同社には「アラタ・サカエ・アキラ・クレハ・アラタ(ヒラガナ 1962)」などの金属活字書体をのこした。

1967 年(昭和 42)に写真植字機研究所(現:株式会社写研)の依頼を受けて「アラタ・ホシ・クレハ・サカエ」などの書体を写植文字盤書体とした。

その間、財団法人カナモジカイ理事、美術部長を歴任した。それ以降も IBM72 用カナ書体、国鉄乗車券用に日立データタイプライター書体などの開発に従事した。
なお、カナモジカイの精神に則り、ご本人はその使用を避けられていたが、本名の漢字表記は「三木凱歌」であった。

ライセンス供与・監修/株式会社モトヤ 原字製作/ミキ イサム 資料協力/ミキ アラタ
プリント用 PDF (1MB 別ウインドウが開きます

アラタ1209 ────────── ご注文・お問い合わせ
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【会員情報】「丸ノ内ホテル」館内サインのリニューアル・デザイン GKグラフィックス:木村雅彦さん

gk01gk08世界のお客様へ わが家のおもてなしを
大切なゲストをお招きするように、
温もりあるサービスとあふれる笑顔でおもてなし。
ゆったりとした大人の時間が、ここにあります。
── 丸の内ホテル ──

mitografico 美登英利 さん と G K グラフィックス のコラボレーションによる「丸ノ内ホテル」の館内サインのリニューアル・デザインが完成しました。
この計画では、経営者やスタッフとともに、100年近くにも及ぶホテルの歴史を再構築し、これからに繋げる試みをおこなっています。

サインのデザインは、スタッフの方々が自ら季節に合わせてアートワークを取り替えることで、お客さまをお迎えする気持ちや姿勢をあらためることを目的として設計しましたが、思いのほか、館内の空気が大きく変わることに驚かされました。

そろそろアートワークは、夏のしつらえになっていると思われます。
東京駅前の利便性と、見事な夜景を楽しめる客室はお薦めです。8 階のフレンチレストラン <ポム・ダダン>ではお茶もできますので是非! [ 木村 雅彦 ]

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東京駅の目前に位置する丸ノ内ホテルのブランド戦略の一環として、館内サインのリニューアルを手がけました。丸ノ内ホテルは1924年に開業した、都内でも有数の老舗ホテルです。
GKグラフィックスは、ホテルの経営者やスタッフとともに、歴史的資産を再構築し「季節の変化を共有する ── 日本の迎賓 ──」というコンセプトを設定しました。

館内のサインパネルの一部にアートワークを組み込み、季節ごとにそのアートワークを差し替えることで、ホテル空間の表情を変えていきます。それは四季の変化を先取りして来訪者をもてなす日本古来の文化に習ったものであり、1960年代に新館新築に関わったインテリアデザイナー、パトリシア・ケラー女史が試みた「日本らしさの昇華」を現代に繋げたものでもあります。

私たちは、丸の内ホテル側のスタッフとデザイン意識の共有をはかりながら、シンボルマークやロゴタイプのリファインをはじめとした総合的な取り組みによって、お客様すべての体験価値の向上を支援しています。[ GK グラフィックス 木村・富田・渡邊 ]
──────────
クライアント:丸ノ内ホテル
施 工:フロムトゥ
アートワーク:mitografico
撮 影:梅田正明

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【詳細: GK グラフィックス  facebook 木村 雅彦 】

〔 歌舞伎美人-かぶきびと-メルマガ602号 〕 「六月博多座大歌舞伎」船乗り込み 6月2日初日となります

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〔 歌舞伎美人-かぶきびと-NEWS 〕
「六月博多座大歌舞伎」船乗り込み

今年の「六月博多座大歌舞伎」は、二代目 松本白鸚、 十代目 松本幸四郎の襲名披露です。博多の初夏の風物詩としてすっかりお馴染みとなっている船乗り込み、今年は5月30日[水]の開催となりました。

funanorikomi_a0530襲名披露する白鸚、幸四郎ほか、出演者がそろってご当地の皆さんに顔を見せ、博多川をゆっくりと舟で進んで博多座へと乗り込みます。
式典の行われるキャナルシティ、博多リバレインでは出演者挨拶も行われ、川端ぜんざい広場前では、狂言名題を読み上げる「口上」もあります。
お近くへお越しの際はぜひ、声援をお送りください。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
松本幸四郎改め 二代目 松本白 鸚
                 襲名披露
市川染五郎改め 十代目 松本幸四郎
「六月博多座大歌舞伎」船乗り込み
━━━━━━━━━━━━━━━━━━
日  時  2018年5月30日[水]
◯ 当日のスケジュール
13:00 乗船式典(キャナルシティ博多 地下1階サンプラザステージ)
13:25 乗船・出発(清流公園)
13:45 口 上(川端ぜんざい広場)
14:00 下 船(博多リバレイン)
14:05 参 拝(鏡天満宮)
14:15 式 典(博多リバレイン フェスタスクエア)
14:40 終了予定       * 時間は目安です。

◯ お問い合わせ
博 多 座 092-263-5858

5月30日[水]、博多座「六月博多座大歌舞伎」の開幕を前に「船乗り込み」が行われ、襲名披露の松本白鸚、松本幸四郎をはじめ出演者が博多の皆さんに挨拶しました。
出演者と歌舞伎ファンの熱気が、曇りの予報を覆し、まぶしい初夏の光が降り注いだ出発地のキャナルシティ博多。「六月博多座大歌舞伎」の船乗り込みは出発前からおおいに賑わいました。

「梅雨の中休みと申しますか、日差しがたいへん強うございます。この暑さの中を川風に乗って、さわやかにまいりたいと思います。私が名前を変えまして初めて博多にうかがったのは、昭和49(1974)年の10月でございました。博多座さんには平成23(2011)年6月以来、7年ぶりのお目見得でございます」
と切り出したのは白鸚。

幸四郎は十代目の名のりをあげ、
「この博多座におきまして諸先輩にご出演いただき、大歌舞伎興行を父とともにさせていただきますこと、本当にありがたく存じます。母は博多出身、私の体には博多の血が入っている、しかし、父の体には入っておりません、誰よりも私にご声援のほどよろしくお願い申し上げます」
とユーモアたっぷりの挨拶に、会場が和やかな笑いに包まれました。

funanorikomi_a0530乗船式を終え、清流公園から賑やかな囃子の船、白鸚と幸四郎が乗り込んだ船に続き、次〻と博多川に俳優を乗せた船が漕ぎ出して、今度は沿岸や橋の上から絶え間なく降り注ぐ紙吹雪が、俳優たちを包み込みました。幟の立った船が近づくにつれ、屋号のかけ声も増えていきます。「高麗屋!」「二代目!」「十代目!」の声もたくさんかけられ、その声にこたえて船上に立ち上がって手を振る白鸚へ、さらに大きな声援が送られました。

白鸚、幸四郎らが「船乗り込み」で博多座へ

funanorikomi_b0530前列左より 市川高麗蔵、坂東彌十郎、大谷友右衛門、中村梅玉、松本幸四郎、松本白鸚、片岡仁左衛門、中村魁春、中村鴈治郎、片岡孝太郎
後列左より 上村吉弥、片岡松之助、市川笑三郎、市川笑也、市川猿弥、中村亀鶴、中村壱太郎、大谷廣太郎、中村寿治郎、澤村宗之助、松本錦吾 ── やつがれの知人、高麗屋 松本錦吾 は 後列右端です

一時間近くをかけ、ようやく博多座隣の式典会場に到着した一行は、暑さを忘れさせるような爽やかな挨拶でお集まりの皆さんを沸かせました。白鸚は再び、
「ただ一心不乱に襲名披露の舞台に励みます。博多座でお待ちしております。どうぞ、皆様お誘い合わせのうえおいでください」
と呼びかけました。

最後に幸四郎が、「一所懸命すべてを出し切って勤めさせていただきますので、この高麗屋、父との襲名披露興行、我々の第一歩の生き証人になっていただきたく、ぜひとも、劇場の方へ足をお運びください」とお願いし、めでたく博多手一本にて船乗り込みを終えました。
二代目白鸚、十代目幸四郎として初めての博多座、二人が何を見せてくれるのか、おおいに期待される六月。博多座「六月博多座大歌舞伎」は6月2日[土]-26日[火]までの公演。チケットは博多座のオンラインチケット、電話予約センター、劇場窓口ほかで販売中です。

【「平野富二生誕の地」碑建立有志会】愈〻建碑に向けて募金活動を開始 皆〻さまのご芳志をたまわりますよう

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「平野富二生誕の地」碑 建立 募金ご支援のお願い

建設予定地の地権者である長崎市と長崎県による慎重なご調査・ご検討により、予定地の「長崎県勤労福祉会館(下写真)に当碑を建立することについてのご了解が得られました。

* アイキャッチ画像:明治36年版東京築地活版製造所『活版見本』電気版ゟ採取

長崎県勤労福祉会館(長崎県長崎市桜町9-6)

今年は明治150年にあたり、洋式造船と活版印刷に代表される明治産業近代化のパイオニアである平野富二を記念する石碑を建立できることは意義あることと存じます。
由緒のある地に石碑を建立し、『「平野富二生誕の地」碑 建立記念祭』を行うべく準備を進めており、皆様から募金をお願いする段階になりました。
皆様のご芳志を賜りたく、ここにお願い申し上げます。

建碑にいたる経緯はこちらよりご確認いただけます
               → 「平野富二生誕の地」碑建立 趣意書
    → 「平野富二 生誕の地」確定根拠

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「平野富二生誕の地」碑 建立 募金ご支援のお願い
「平野富二生誕の地」碑 建立のための募金要領

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{源氏物語絵巻をめぐって} 五島美術館所蔵 国宝「源氏物語絵巻」+モリサワ2018カレンダー+二千円紙幣

☆ 本稿は2018年4月30日{活版アラカルト}に掲載した。{活版アラカルト}は更新があわただしく、また五島美術館の会期が終了したため、5月07日に{花筏}に収録した。
五島美術館

20180510211832_00007 20180510211832_00008五島美術館
[館蔵]春の優品展 ── 詩歌と物語のかたち  ──展示期間終了しました   
期  間   2018年3月31日[土]─ 5月6日[日]
休  館  日   毎月曜日(4月30日は開館)、5月1日[火]
開館時間   午前10時─午後5時(入館は午後4時30分まで)
入  館  料   一般1000円/高・大学生700円/中学生以下無料
──────────
館蔵品の中から、詩歌や物語を題材とした書画の名品約五十点を選び展示(会期中一部展示替あり)。
名歌を書した平安時代の古筆、歌人の代表歌と姿を描いた歌仙絵のほか、物語絵、琳派作品など、絵画と書そして言葉がもつイメージが響きあう美の世界を展観します。

* 特別展示予定/国宝「源氏物語絵巻」
4月28日[土]─ 5月6日[日](5月1日[火]は休館)
【 特設サイト:五島美術館コレクション 源氏物語絵巻 】
画像をクリックすると解説画面に移動します。

【詳細情報: 五島美術館 】
{既発表関連記事:【展覧会】五島美術館 館蔵春の優品展 ── 詩歌と物語のかたち 3月31日[土]─ 5月6日[日]}2018年3月20日

☆     ☆     ☆

モリサワカレンダー二〇一八「かな語り」

国宝「源氏物語絵巻」(五島美術館)より
企画・発行 ───────────  株式会社モリサワ
制作 ─────────────── 株式会社 DNP アートコミュニケーションズ
監修・解説 ─────────── 名児耶 明
アートディレクション ──── 勝井三雄
企画協力 ────────────  四辻秀紀・西岡康宏 

DSCN7669DSCN7663◎モリサワカレンダー二〇一八 睦月・一月
 「源氏物語絵巻」五十四帖のうち「鈴虫 一」の詞書き第一紙
  この詞書きは監修者と企画協力者のお名前をみると空恐ろしくなるが、
  蛮勇をふるって{続きを読む}に稿者による釈読をしるした。
◎モリサワカレンダー二〇一八 卯月・四月
 「源氏物語絵巻」五十四帖のうち「鈴虫 一」の詞書き第三紙左側の詞書きは、
 「おほかたの秋をはうしとしりにしを ふりすてかたきすゝむしのこゑ」
  と詠んでみた。もとより自信はない。
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◎モリサワカレンダー二〇一八 睦月・一月 部分
アートディレクションにあたられた勝井三雄氏は「の」にこだわりがあるのかも知れない。
既刊書『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』でも、装本部に「の」を効果的に用いていた。
万葉仮名では左から順に「能 → の」、「乃 → の」、「農 → の」とあらわされた。
万葉仮名が「変体仮名」という奇妙な名称で呼ばれるようになって久しいものがある。
稿者はできるだけ「ひら仮名異体字」とあらわすようにしている。そして、できるだけ万葉仮名の釈読の労をいとわぬつもりでいるが …… 。

【詳細: 株式会社 モリサワ 】

☆     ☆     ☆

二千円紙幣にみる『源氏物語絵巻』
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二千円紙幣
二千円紙幣は、現在も流通している日本銀行券のひとつであるが、印刷製造は中断している。
第26回主要国首脳会議(沖縄サミット)と、西暦2000年(ミレニアム)をきっかけとして、1999年(平成11)当時の小渕恵三内閣総理大臣の発案によるが、同氏の急逝のため、2000年(平成12年)7月19日に森内閣の元で発行された。

二千円紙幣が発行されていた期間のうち、2000年(平成12年)から2004年(平成16年)の間に、製造元が「大蔵省印刷局」から「財務省印刷局」になり、さらに「独立行政法人 国立印刷局」に変わっているが、二千円紙幣は大蔵省時代にだけ製造されたため「大蔵省印刷局製造」のものしか存在しない。

二千円紙幣の表面には、沖縄の守礼門が描かれ、裏面には『源氏物語絵巻』第38帖「鈴虫」の絵図と詞書、および作者の紫式部の肖像、光源氏、冷泉院が描かれている。
紙幣の偽造防止の見地からみると、二千円紙幣は深い彫りこみのある凹版印刷で、紙幣に転写されたインキを触って凹凸が分かるほど分厚くインキが盛り上げられている、凹版印刷の傑作である。
詞書の読みくだしをふくめ、ウィキペディア 「二千円紙幣」に丁寧な解説がある。そちらをご参照たまわりたい。

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【展示】I H I の歴史と技術をたどる ─── i – muse リニューアルオープン

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I H I の歴史と技術をたどる ──── i – muse リニューアルオープン

i – muse(アイミューズ)
〒135-8710 東京都江東区 豊洲3丁目1-1(豊洲 I H I ビル 1 階)
TEL 03-6204-7032  FAX 03-6204-8614
開館時間 9:30-17:30
休  館  日 毎週土曜日・日曜日、年末年始、ゴールデンウィーク、夏季連休
入  場  料 無 料
──────────
i – muse は、豊洲本社ビルにある I H I グループの歴史と技術のミュージアムです。
I H I の創造と技術の歴史を、お客さまや地域の皆さま、次世代を担う若い世代に知っていただくため、2006年に開館し、2018年4月24日にリニューアルオープンしました。

I H I は浦賀沖に黒船が来航した1853(嘉永6)年、近代日本の夜明とともに創業しました。それ以来、I H I は造船、陸上機械から航空・宇宙までのさまざまな分野に事業をひろげ、あたらしい時代を切り拓いてまいりました。
創業からいつの時代にも、最先端を挑みつづけてきた I H I のものづくりにかけた情熱の軌跡にふれてみてください。

【詳細:株式会社 I H I  i – muse ご利用案内 】

【公演】博 多 座 三谷文楽『其礼成心中-それなりしんじゅう-』 8月17日・19日

博多座三谷01 博多座三谷02博 多 座
三谷文楽『其礼成心中-それなりしんじゅう-』
8月17日[金]・19日[日]
三谷幸喜が愛を込めて描いた大阪・曾根崎を舞台にふつうの人々の笑いと涙の人情物語
──────────
舞台は元禄十六年。
大坂では近松門左衛門が実際の心中事件を元に書いた『曾根崎心中-そねざきしんじゅう-』が大ヒット。その舞台となった天神の森は、悲恋の末に心中を遂げようとする男女の心中のメッカとなっていた。
その森の入り口にある、饅頭屋の夫婦と、心中にやってくる男女の物語を三谷幸喜が書き下ろしました。三谷幸喜の真骨頂、曾根崎に暮らす市井の人々のは笑いと涙に溢れた人情物語。『曾根崎心中』の裏版『其礼成心中-それなりしんじゅうー』です。

「ワインをデキャンティングして美酒にするように、僕があらたな器になります」と自ら宣言、三谷幸喜が創りだし、大好評を得た三谷文楽『其礼成心中』。
文楽の伝統と技芸に敬意を評しながら、三谷幸喜がその魅力を彼の筆と演出で自由に創作した庶民の喜劇『其礼成心中』は文楽ファンはもとより、文楽ビギナーズへも文楽の魅力を最大限に伝えました。中でも人形たちの水中シーンは絶品です。
文楽の可能性を最大限に引き出した三谷幸喜の超・古典エンタテイメントです。

ph01三谷 幸喜(みたに・こうき)/作・演出

1961年、東京生まれ。日大芸術学部在学中の83年に劇団「東京サンシャインボーイズ」を結成。劇団は94年度の公演から30年間の充電期間に入っている。以降、脚本家として数多くのTVドラマを執筆、近年は映画監督も手掛け、精力的に活躍。代表作に「ラヂオの時間」「コンフィダント・絆」など。芸術選奨文部科学大臣賞、紫綬褒章。

三谷幸喜が描いた、決して日本史に出てこない普通の人々の人情物語。 
劇場で大いに笑い、泣きしてください!
そして、あらたな文楽の「古典」を目指して!
どうぞご期待ください。

作・演出:三谷幸喜
出演者:竹本千歳太夫・鶴澤清介・吉田一輔ほか
作 曲:鶴澤清介  美術:堀尾幸男 照明:服部基 音響:井上正弘 舞台監督:加藤高
協 力:国立文楽劇場  文楽協会
製 作:井上肇  プロデューサー:毛利美咲 企画製作/株式会社パルコ

* 電話予約・WEB発売開始:6月9日[土]博多座

あ ら す じ

舞台は元禄十六年四月七日、大坂の曾根崎天神の森で醤油屋の手代徳兵衛と北新地の遊女屋天満屋のおかかえ女であるお初が心中死をとげた。
この心中事件を題材に近松門左衛門が書いた物語が『曾根崎心中』。この近松が書いた『曾根崎心中』は大ヒット。その後、なぜかこの天神の森は、第二、第三のお初と徳兵衛と言わんばかりに心中のメッカとなっていた。

その天神の森の入り口にある饅頭屋。夫婦が営むこの饅頭屋だが、自分の家の目の前でここまで心中を繰り返され、店から客は縁起がわるいと遠のき、饅頭屋はかたむきかけていた。

ある夜、毎度のように若い男女が饅頭屋の前を通りかかった。我慢できなくなった饅頭屋の親父は、とにかく自分の家の前でここまで心中を繰り返されることが嫌な一心で、この男女に「ここで死ぬな」と説得する。
思い至った二人は死ぬことを思いとどまり、帰って行った。饅頭屋の親父はほっとする。しかし、またある日には別の男女が …… 。同じように「ここで死ぬな」と説得、思いとどまらせ、あげくのはては腹がすいている二人に饅頭を食わせてやった。

こんな日々を繰り返しているうちに、なぜか饅頭屋が流行りだす。しかし、なぜか皆親父に身の上話をし、饅頭を買って帰る。どうやら巷では「人生相談所」としての評判がたっていた。これを商売にしない手はないと饅頭屋の妻は「曾根崎饅頭」と銘打って名物饅頭を売り出した。これがまた評判を呼び、饅頭屋は大流行り。一度は傾きかけた店は富を蓄え、そして大金持ちとなった。

あれから、17年。金持ちになった饅頭屋はその富におぼれ、散財し贅沢な暮らしをしていた。しかし、そんないいことは長くは続かない。最近、心中にくる男女もめっきりこなくなり、饅頭屋も閑古鳥。
実は近松門左衛門があらたな心中もの『心中天網島-しんじゅうてんのあみじま-』を発表し、これが大ヒットで、心中のメッカは曾根崎から網島が「心中のメッカ」として、ブームになっていた。
なんとその網島には天ぷらやがあり、自分たちと同じように「かきあげ天網島」という名物天丼で大繁盛のようだ。この状況に怒った饅頭屋の主人は近松門左衛門に直談判へ行く。どうか天神森で起こるあらたな心中ものを書いてほしいと。
しかし、近松は、自分が書きたいものしか書かないと親父を追い出すが、この状況をなんとかしたい親父は食い下がる。あまりにもしつこい親父に困り果てた近松は「それならば、お初、徳兵衛のようにドラマチックな本当の心中話があれば、それを題材に書いてもよい」と言う。饅頭屋は、「ではドラマチックな心中をつくろうじゃないか」と帰る。

饅頭屋には一人娘があった。実は網島の天ぷら屋の一人息子と恋に落ちていた。しかし、家族は敵対、二人は一生一緒になることができないとロミジュリよろしく悲恋物語のヒロイン。そこで饅頭屋の親父はこの二人はおそらくほっておくと心中するかもしれない、そうすればこの題材を元に近松門左衛門にあらたな心中ものを書いてもらえるかもと悪魔のような考えが浮かぶ。
しかし、富を得るために、まさか自分の娘に心中をさせるわけにはいかないと思いとどまり、娘を天ぷら屋の息子の元へ行かせてしまった。

もう八方ふさがりの饅頭屋の夫婦、店は傾き、もう打つ手はない。生きていく力をなくし、夫婦は自らの天神森で命をたとうとするが …… 。

【詳細: 博 多 座 】

【上映】チェコセンター プログラム 映画『 イカリエ-XB1 』(5月19日より全国順次公開)+ S T O R Y

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チェコセンター プログラム
映画『 イカリエ-XB1 』(5月19日より全国順次公開)
1963年にチェコスロヴァキアではじめてつくられた本格的SF映画『 イカリエ-XB1 』(インドゥジヒ・ポラーク監督)のデジタル・リマスター版が5月より全国で順次公開予定です。

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『 イカリエ-XB1 』デジタル・リマスター版
2018年5月19日(土)新宿シネマカリテ ほか全国順次公開予定
最新情報は公式ウェブサイトをご確認ください。
http://ikarie-jp.com/
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【公演】国立劇場 小劇場主催公演 六月雅楽公演「雅楽器の魅力」+解説添付 6月9日

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国立劇場 小劇場主催公演
六月雅楽公演「雅楽器の魅力」
公演期間 2018年6月9日[土]
開演時間 午後2時開演(午後4時終演予定)
* 開場時間は、開演の30分前の予定です。

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演 目・出 演
雅楽器の魅力
 笙  黄鐘調調子(おうしきちょうのちょうし)

篳 篥 八仙急(はっせんのきゅう)
龍 笛 蘇莫者破(そまくしゃのは)
琵 琶 秘曲 揚真操(ようしんそう)
 箏  太食調掻合(たいしきちょうかきあわせ)/抜頭(ばとう)
神楽歌 朝倉(あさくら)
管 絃 散手序(さんじゅのじょ)
芝祐靖=作曲・編曲
管 絃 雉門松濤楽(ちもんしょうとうらく)
    悠聲(ゆうせい)/泰鳴(たいめい)/玉手輪説(ぎょくしゅりんぜつ)/雉聲(ちせい)

<解説> フライヤーより転載
シルクロードにより伝わった異国の歌舞と、日本古来の歌舞とが結びつき、平安王朝文化の中で大成した雅楽。現在もなお多くの人を魅了するその響きは、多様な雅楽器のアンサンブルにより作り出されます。

主に和音で演奏される「笙-しょう」、主旋律を担う「篳篥-ひちりき」、旋律を彩る「龍笛-りゅうてき」、リズムを明確にする「楽琵琶-がくびわ」、琵琶とともに合奏全体のリズムを作る「箏-そう」。
このほか、打ち物といわれる「鞨鼓-かっこ・太鼓-たいこ・鉦鼓-しょうこ」など、雅楽器の独自の響きに惹かれるのでしょう。

そこで今回は雅楽器に着目し、前半では楽器単体での演奏をお聴きいただきます。
笙「黄鐘調調子-おうしきちょうのちょうし」、篳篥「八仙急-はっせんのきゅう」、龍笛「蘇莫者破-そまくしゃのは」、琵琶「秘曲 楊真操-ひきょく ようしんそう」、箏「太食調掻合-たいしきちょうかきあわせ/抜頭-ばとう」という、それぞれの楽器の魅力を最大限に引き出す演奏は、合奏では味わうことのなかった新たな雅楽の魅力を示します。

続く「朝倉-あさくら」は、神楽歌の中でも名曲中の名曲といわれ、神楽笛、篳篥、和琴の独奏、そして歌の独唱と、技巧だけでなく音楽性や声量も求められる非常に難易度の高い曲です。

それぞれの楽器の響きを味わった後、後半は、合奏をお聴きいただきます。
古典曲「散手序」は、管絃ではあまり演奏されませんが、今回は笙・篳篥・龍笛の三管による音頭の演奏に、助奏が同じ旋律を追いかける退吹-おめりぶき-による演奏をお楽しみいただきます。

そして最後は、芝祐靖作曲の「雉門松濤楽-ちもんしょうとうらく」をお聴きいただきます。
この曲は「国立劇場開場五十周年を寿ぎ、そして雅楽のこれからの千年に捧げる」をテーマに作られました。
今回は笙・篳篥・笛・琵琶・箏の響きがより際立つよう編曲しての上演となります。

雅やか、かつ悠久な雅楽の響きは、他の音楽では味わうことができません。その響きを生み出す雅楽器を知ることで、より深く雅楽の魅力を味わっていただければ幸いです。

出演=豊 英秋、安齋省吾、大窪永夫、池邊五郎、東儀季祥、大窪康夫、大窪貞夫、豊 靖秋
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前売開始 電話・インターネット予約開始=4月11日(水)午前10時ゟ
窓口販売開始=4月12日(木)ゟ

【詳細: 国立劇場 】