【彫刻家 奥村浩之後援会 新宿御苑前支部】奥村浩之新作彫刻作品 ?|否 ! HIROYUKI 氏が飼育している Xoloitzcuintle というらしい|+ Viva la 活版 Viva 美唄の記憶

cd58eb5ef659b1dc2238dab8bea8da38P1140678彫刻家 奥 村 浩 之 Okumura Hiroyuki  プロフィール
1963年    石川県に生まれる。
1986年    金沢美術工芸大学美術学部彫刻科卒業
1988年    金沢美術工芸大学大学院修士課程修了
1989年-   メキシコに渡る。メキシコシティーから 200 km ほどの町、ハラパを拠点に、彫刻に没頭。
現在ベラクルス大学 画廊 アルバ デ ラ カナルにおいて< HIROYUKI OKUMURA 彫刻展『Men, Myth, Journey and Life 展』── 男たち、神話、旅と生きかた ──>が好評開催中。

[詳細:Galeria Ramón Alva de la Canal
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[彫刻家 奥村浩之後援会 新宿御苑前支部]
浩之さんは寡黙ではあるが、心底こころのやさしいひとである。だからなんの役にもたてないが、勝手に[彫刻家 奥村浩之後援会 新宿御苑前支部]を結成して応援をしている。

数年前にやつがれもメキシコシティーにいった。家人が「死者の祭」と、フリーダ・カーロディエゴ・リベラ夫妻(互いに傷つけ、裏切ることが愛のあかしであるように、あやなす修羅をいきたふたりの造形家)に興味があった。
やつがれは建築家 ルイス・バラガン 探訪を加えることを条件に同行した。

その報告はほとんどできていない。なにぶん機中泊を含め四泊五日の慌ただしい旅であり、どれもがあまりに強烈な刺激に満ちており、ただ茫茫、混沌としたまま脳裏に刻まれている。

そのおり、ドローレス・オロメド・パティニョ美術館にいった。故ドローレス夫人は大富豪として知られ、フリーダ・カーロとディエゴ・リベラの作品を大量に購入していた。現在はその豪壮な私邸の一部が予約制の美術館として公開されていた。カーロとリベラの作品は唸るしかないものばかり、それも大量に展示されていた。

その折り、庭園の一隅に見慣れない犬がいた。陽ざしが暑いのか、通路からとおい木陰にかたまって10匹ほどいた。体毛は額のあたりに産毛のようにほんの少し生えているだけでほとんどなく、木陰にうずくまっている姿はなにかの置物のようにみえた。
この犬はふるくからアステカの人〻に愛玩されていたらしい。おとなしく従順な犬なので、時には寝具に抱きこんで湯たんぽがわりにしていたなど、さまざまな記録がのこされている。

スペイン人がメキシコにやってきてからは、もっぱら食用とされたため、絶滅が危惧されるほどにまでなったと案内板にはしるされていた。
犬種は「Xoloitzcuintle-ショロイスクィントリ」という。これは現地語なのかスペイン語なのかは知らないが、現地では単に「ショロ」と呼んでいるらしい。
英語では「Mexican hairless Dog-メキシカン ヘアレス ドッグ」と呼ばれている。この英語名だとわかりやすい。[ウィキペディア:Mexican hairless Dog-メキシカン ヘアレス ドッグ

かつて浩之さんの展覧会カタログに、この犬が一匹作品の後方に写っていた。この「裸犬-とやつがれは呼んでいた」は、パティニョ美術館にいったときは、遠くに固まってうずくまっていただけなので、写真も撮ってこなかった。やつがれ喘息にわるいからとして医者に飼育を禁じられているが、かなりの愛犬家であり、愛猫家でもある。前回の浩之さんからの写真送付はこれも愛犬のシェパードだったので、浩之さんに「裸犬」のリクエスト。

写真をみたらどうやら三匹も飼っているらしい。
なにせ体毛がない裸の犬である。当然寒がりであり、暑がりでもあるとされる。しかもメキシコシティでも高度が2,000-2,500 m ほどの高地に拡がっている。乾燥しているが、冬は寒く、夏の陽ざしはつよい。だからよほど好きでなければ飼育は困難な犬のようである。
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【詳細:奥村浩之 笹井祐子 奥村浩之 Facebook 】{活版アラカルト 過去ログ }

{ 新 宿 餘 談 }
800px-Diego_Rivera_with_a_xoloitzcuintle_dog_in_the_Blue_House,_Coyoacan_-_Google_Art_Projectフリーダ・カーロ/ディエゴ・リベラはともに「Xoloitzcuintle-ショロイスクィントリ」が好きで、カーロの生家「青い家」に同居していたころは「ショロ」を飼育していたようで、カーロは数点の絵画にのこし、リベラはこのような写真をのこした。「青い家」はガイドブックなどではちいさな家に見えるが、敷地300坪ほど、高い塀に四囲をかこまれたかなりの規模の邸宅である。フリーダ・カーロ-短い晩年の作品2フリーダ・カーロの最晩年の作品「VIVA LA VIDA」。「青い家」のイーゼルには、この連作の描きかけの作品がのこされていた。
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【 Viva la 活版  Viva 美唄の記憶 ── 2013年05月 ──】

《 Viva la 活版 Viva 美唄、イベントの名称を決定 》

あたらしいイベント概略が次第にかたまると、まずその名称の議論が活発にかわされる。
ふるくいう。── 「名は 体タイをあらわす」ト。
ここでの 「体 タイ」は、ものごとの本質ないしは実体の意である。 当然たいせつな議論となる。そのあらましは 『 Viva la 活版 Viva 美唄Ⅰ 開催のお知らせ 』 にしるしてある。

そもそもやつがれは、どういうわけか名称に  “ VIVA ”  を冠することが多い。
“ VIVA ”  とは 「 すばらしき、すばらしい。  あるいは、美しい、麗しい。 ── むしろ驚きを込め、積極的に、讃歌 」 という意をこめてもちいている。
もともとイタリア語やスペイン語の  “ VIVA ”  は 「歓びの声、歓声」 にちかい。
わが国での訳語として馴致している「萬歳、万歳」の漢の字は、和訓音では「ばんざい」 とも「まんざい」 とも読めるから避けたいところだ。

まして めでたく「 バンザーイ( 三唱 )」 ではすこしニュアンスが違うとおもわれるし、用例はふるくからあるようだが 「 万才 」 にいたっては、どうかご勘弁をというところだ。
ついでながら「 漫才-まんざい」は、関西で滑稽なはなしをかわす掛合演芸で、大正中期に舞台で演じられ、昭和初年のころに漢の字表記として「漫才」が定着したものとされる。
本心では「 Viva ── ワォ~」としたいくらいなので、「萬歳、万歳、バンザーイ」 は敬遠している。
フ ゥ~、漢の字がからむと、はなしがまことにややこしくなる。


“ la ”  は 定冠詞で、 “  la  Frida ”  のように、女性の名前の前に置くと「フリーダちゃん」 のようなニュアンスになって、愛情と親しみをあらわす。

つまり、『 Viva la 活版 Viva 美唄 』とは、活版印刷という技芸( Art )と、北海道美唄における、丹精をこめて形成された、彫刻 ・ 景観 ・ 自然への讃歌として『 すばらしき 活版、すばらしい 美唄』 のおもいから名づけられた。
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名称決定までには、さまざまな議論があった。 ところが、テーブルにさりげなく置かれた一冊の画集が決定打となった。 議論は即座に収束して『 Viva la 活版 Viva 美唄 』 の名称が決定した。
このたった一枚の絵画が、みんなのこころをおおきく揺りうごかしたのである。

     

のちに知ったことだが、活版カレッジ ・ アッパークラスの「横ちゃん コト 横島大地」さんは、このひとの絵を小学生のときに見て、いまだに忘れられないほど、おおきな衝撃を受けたということであった。
ところが、まことに恥ずかしきかぎりだが、やつがれはこのときまで、いたましくも、はかなく、そして精一杯につよく、みずからの人生をいききった メキシコうまれの画家、フリーダ・カーロ ( Magdalena Carmen Frida Kahlo y Calderón 1907-1954 ) のことはなにも知らなかった。

したがって以下しばらくは、申しわけないが情念系を得意とする !?  大石 薫からの受け売りと、にわか仕込みである。
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フリーダ・カーロ は、 ハンガリー系ユダヤ人移民の職業写真家を父として、1907年メキシコにうまれた。
6 歳のころ 急性灰白髄炎 ( ポリオ ) にかかり、右腿から踝クルブシにかけての成長が止まって痩せ細り、これを隠すために、ズボンやメキシコ民族衣装のロングスカートなどを好んで着用していた。

学業は優秀で、当時ようやく女性にも開放されたメキシコの高度教育機関「国立予科高等学校」へ進学した。 ここで文学や絵画にたいする関心が高まったフリーダは、次第に画家への道を目指すようになった。

1925年、フリーダが18歳のとき、通学に乗っていたバスが路面電車と衝突し、多くの死傷者が発生する事故がおきた。 このときフリーダも 生死の境をさまようほどの重症をおい、その後も事故の後遺症で、背中や右足の痛みに悩まされた。 その痛みと、病院での退屈な入院生活を紛らわせるために、本格的に絵画を描くようになったという。

1929年、フリーダが22歳のとき、21歳年上の画家 ディエゴ ・ リベラと結婚した。
この結婚も、その後の妊娠にも、不幸がかさなった。 病気や事故による躰の障害がもととなって、背骨と胎盤が傷ついていたために、いたましいことに 3 度にわたってフリーダは流産した。
また芸術家肌で奔放な夫・リベラは浮気をかさね、なかでもフリーダの実の妹 クリスティナ と関係をもつなどしたために、フリーダのこころにおおきな影を落とすこととなった。 フリーダもまた、夫 ・ リベラへのあてつけのように、日系アメリカ人/イサム ・ ノグチ  と関係をもつなどの騒動がかさなった。

そんなこともあって、フリーダ ・ カーロとディエゴ ・ リベラは、10年余におよんだ結婚生活に終止符をうって、1939年に離婚が成立した。 フリーダはメキシコの生家である「 青い家」にもどって、ひとりで闘病と創作活動をつづけた。
ところがほぼ一年後に、フリーダは、互いに経済的自立をはかること、互いに不貞をはたらかないことなどの条件を提示して、リベラと復縁して、「 青い家 」 での同居生活にはいった。
こうしてようやくこころの安寧を取りもどしても、間断なくおそう脊髄の傷みはおさまらず、投与された鎮痛剤も効かないほどの苦痛が間断なくおそうようになり、ついに右足切断手術をうけるという闘病生活がつづいた。
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メキシコ人、フリーダ ・ カーロは、200点ほどの作品をのこし、シュルレアリズムの画家とされている。そのほとんどは自画像であり( 画像集リンク )、躰とこころのやまいに苦悩する自分のすがたを、カンバスにそのまま叩きつけたような「痛痛しい作品」が多い。

ところが晩期の作品に、明るい色彩に満ちた静物画をポツンとひとつのこしている。 みずからカンバスにしるして『 VIVA LA VIDA  Frida Kahlo  すばらしき人生 フリーダ ・ カーロ 』である。
もう一度 『 VIVA LA VIDA  Frida Kahlo  すばらしき人生 フリーダ ・ カーロ 』 を紹介したい。

フリーダ ・ カーロは1954年7月13日、47歳にして 幽明 さかいをことにした。
その遺灰は、生家であり、ディエゴ ・ リベラとのおもいでにあふれる 「 青い家 」 にねむっている。いま 「 青い家 」 は、「 フリーダ ・ カーロ記念館 」 として一般公開されている。
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たび重なる不幸と困難に見舞われながら、それでもなお、人生の最後に 『 すばらしき人生 』 といえるだけの、明るく澄みきった心境にいたった フリーダ ・ カーロの短い晩年ををおもう。
彼女の生涯と作品は、「 生きること 」と、「 創ること 」のためには、誠心誠意、真剣に向き合うべきだという問題提起を突きつけられるとともに、それに立ちむかう勇気もあたえられる。

さぁ、こうしてイベントの名称は『 Viva la 活版 Viva 美唄 ── すばらしき 活版、すばらしい 美唄』 に決定した。 こうなれば、あとは一瀉千里、一気呵成である。
『 VIVA LA VIDA  Frida Kahlo  すばらしき人生  フリーダ ・ カーロ 』 の一枚の絵画に感動したのなら ───そう、皆さんご存知の、イギリスのロックバンド、Coldplay のヒット曲『 Viva La Vida 』 ( リンク : Coldplay-Viva La Vida  4:03 YouTube ) を、まことに勝手ながら 『 Viva la 活版  Viva 美唄 』の「 こころのテーマ曲  !? 」に決定とさせていただいた。

この曲は YouTube での視聴回数が 122,100,000 回(一億二千二百十万余  2013年03月16日──2018年09月18日の視聴回数は五億一千回余 510,189,808 回)におよぶ。そのうちのわずか40-50回は、サラマ・プレス会員の再生によるものであろうか。

【 YouTube 音が出ます  Coldplay-Viva La Vida  4:03 】

《 Viva la 活版 Viva 美唄 ―― イベント名称と概略がきまったら…… 》

こうしてイベント名称が『Viva la 活版  Viva 美唄』、「こころのテーマ曲」が『 Viva La Vida 』 に決まった。
『 Viva la 活版  Viva 美唄 』 の会場となる 「 アルテ  ピアッツァ 美唄 」 の概略は、この 『 花筏 Viva la 活版 Viva 美唄Ⅰ 開催のお知らせ 』(2013年03月13日)で紹介した。

彫刻家/安田 侃氏によって形成された 「 アルテ ピアッツァ美唄 」 には、公共施設によくみられる 「 サイン ・ ボード 」 と称するような不粋な案内板はほとんどない。 それどころか、門も塀も仕切りらしきものもない。
したがって入場料の徴収場所もないから、当然入場は無料である。
「アルテ ピアッツァ 美唄」 には、勝手に出入りし、何時間でも観覧したり、芝生や木陰での読書はもちろん、樹木にもたれてウツラウツラと うたた寝までできる。
おまけに 「カフェ アルテ」 の水出し珈琲は、水がおいしいせいなのか、ともかく絶品である ( ただし、ここと、ギャラリー棟の ミュージアム ・ ショップの商品は有料 )。

「 ストゥディオ アルテ 」 の外観。 この左手奥に 「 カフェ  アルテ 」 の入口がある。ギャラリー棟や彫刻広場からは、いくぶん離れており、樹木と傾斜に遮られて相互に見通すことはできない。 右側の森のなかまでつづくテラスには、しばしばリスが顔をだす。
このひろびろと明るい「ストゥディオ アルテ」を拝借して、『 Viva la 活版 Viva  美唄 』の活版ゼミナールと、タイポグラフィ・ゼミナールを開催する予定である。 展覧会は、この坂の下、彫刻広場と水の広場に面したギャラリー棟の 「ギャラリー  アルテ」 で開催する。

だから来場者は、好きな場所から 「 アルテ ピアッツァ 美唄 」 にはいり、好きなところから出てゆくことになる。
そしてあちこちにさりげなく ── 実際は実に巧妙かつ趣向を凝らして ── 置いてある彫刻作品と、偶然のように出会い、発見し、邂逅のよろこびを感ずることになる。

【 YouTube Viva la 活版  Viva 美唄 音が出ます 14:39 撮影:川崎孝志会員 】

ときには、傾斜のいくぶん上部にあるために、彫刻広場(アートスペース)など、下からの視界を樹林に遮られている「彫刻ストゥディオ」と「カフェ  アルテ」 の建物に出あわないまま、彫刻広場と、ギャラリー棟の周辺を見ただけで、十分満足して帰るひともいるらしい。
それはそれで良しとするのが、この施設の特徴のようである。

来場者の多くが、ブログロールや短文ブログに、好意的な記録をのこしている。
その多くは 「 アルテ ピアッツァ 美唄 」 周辺の、豊かな樹林や、一面の芝生の鮮やかな緑と、アートスペースの 「 彫刻広場 」 と 「 水の広場 」 を中心とした、純白の大理石による彫刻との鮮やかなコントラストに目を奪われているようである。

この純白の大理石は、イタリア中西部、トスカーナ州の州都 ・ フィレンツェ郊外のピエトラサンタで産出されるものだという。 彫刻家/安田 侃氏は、この白大理石をもとめて、いまもってイタリアのフィレンツェ郊外、ピエトラサンタに主要なアトリエを置いている。

春の雪解けから、晩秋の積雪までのあいだ、すなわち緑が萌えているころに、この大理石の見事なまでの白さを、ほとんどボランティアで維持しているのは「 NPO法人 アルテ ピアッツァ  びばい」 と、「 アルテ市民ポポロ 」 の皆さんである。
「アルテ市民ポポロ」 有志の皆さんは、三ヶ月に一度、この大理石をひとつひとつ丹念に洗って、水垢や汚れを落とす作業を展開するそうである。 小社社員約一名も、どうやら 「 アルテ市民ポポロ 」 になったらしい。

── NPO法人 アルテピアッツァ びばい
アルテピアッツァ 美唄は、自然と彫刻が調和する美しい空間です。 アートを通じて、地域と人、人と人、そして過去と今、未来を結ぶ場として、美唄のまちに新たな 「 時 」 を積み重ねてきました。 このかけがえのない空間を、これまでにも増して確かに支えていくために、「 アルテ市民ポポロ 」 の取り組みがスタートします。

地域の枠を越えて アルテピアッツァ 美唄 を支える思いを共通項としたコミュニティ 「 アルテ市民ポポロ 」 の誕生です。 「 アルテ市民ポポロ 」 に参加される皆さんは、この空間を揺るぎなく次代に伝えていく上で大切な役割を担うコミュニティの主役です。
“ バトンを未来へ ”
新しい絆を結ぶコミュニティの一員としてご参加くださることを心から願っています。

《 テーマ ・ カラーの設定 ―― ルネサンスをうんだまち、シエナの、シェンナ色 》

さて、ここでまた、自称 情念系 ・ 大石  薫 が、
「 今回の 『 Viva la 活版  Viva 美唄 』 テーマ ・ カラーは、バーントシェンナに決まりですね 」
とのたもうた。 そも 「 バーントシェンナ 」 とはなんぞや ?

13世紀の末、イタリア中西部、トスカーナ地方の富裕なまちのいくつかで、ひとつの潮流 「 La  Rinascita 」 が勃興した。
わが国ではそれを明治初期に訳語をあてて 「 文芸復興 ・ 学芸復興 」 としたが、やがてフランス語由来で、それが英米語を経由した 「 Renaissance,  ルネサンス 」 と呼ぶようになった。 イタリア語 「 Rinascita 」、フランス語 「 Renaissance 」 を直訳すると、いずれも 「 再生 」 である 。

北海道美唄市出身の彫刻家/安田 侃氏が、ルネサンス発祥の地のひとつとされる、トスカーナ州フィレンツェ郊外にアトリエを置いていることは前述した。
イタリアにいってフィレンツェをたづねるには、ミラノから、あるいはローマから、電車でフィレンツェに入ることが中心である。

電車がトスカーナ地方に入ると、車窓からみえる風景がかわり、ものなりが豊饒で、市民生活もゆたかにみえる。 それよりなにより、まちの色彩はろばろとひろがって、あかるくなる。 北部のミラノやヴェネツィアとも、また首都のローマとも、まちの色彩がおおきく異なることにおどろく。

つまりほかのまちでみる、くすんだ灰色か、おもい暗褐色の屋根瓦や壁面とは異なって、このあたりの屋根瓦や壁面は 「 シェンナ 」 という名の、明るい朱色というか、明治初期のわが国の煉瓦色を、もうすこしおだやかにしたような、あるいは鉄錆びたような朱色の色調が中心となる。
それがまた、風雨にさらされ、古さびて、独特な軽快さと、明るさとなって、味わいゆたかな景観を形成している。
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イタリア中西部、トスカーナ州 州都 「 フィレンツェ Firenze 」 は、ふるくから地中海貿易と金融業によって財をなした、メディチ家などの富の蓄積があり、13世紀末から次第にルネサンスをもたらしたまちのひとつである。 こんにちでも観光名所として、世界中からの観光客が絶えないまちである。 人口およそ36万人。

州都 フィレンツェの南方 およそ50キロほどのところに 「 シエナ、シエーナ  Siena 」 のまちがある。
現在の人口はおよそ 5 万5000人ほどの中都市であり、中世の姿をとどめる旧市街は 「 シエナ歴史地区 」 として世界遺産に登録されている。 

 シエナは、中世には金融業でさかえた有力都市国家であり、13世紀から14世紀にかけて最盛期をむかえた。 このころのシエナはトスカーナ地方の覇権をフィレンツェと競い、たびたび武力衝突もみた。 またその経済力を背景としてルネサンス期には芸術の中心地のひとつであった。
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ここからはなしがすこしく厄介になる。 まちの名前と、色の名前である。 この、まちの名、顔料の名、色の名前は、似ているだけに混同されやすい。
わかりにくければ、それぞれ Wikipedia にリンクを付与したので、参照していただきたい。

「 シエナ、シエーナ   Siena 」 のまちから産出した岩を砕いて、それを原料とした天然顔料を「 n 」 をひとつ足して 「 シェンナ   Sienna 」 という。
「 シェンナ 」 はまた、天然顔料素材の名であり、その独特の色味から 「 色の名前 」 でもある。

「 シェンナ 」 は、人類がもっともふるくからもちいた天然顔料の一種であり、ふるい洞窟の壁画などにも 「 シェンナ 」 の使用の痕跡をみることができる。
「 シェンナ 」 の名前の由来は、「 シエーナ, シエナ 」 から産出した岩をもちいたことによる。
「 シェンナ 」 は、水和酸化鉄を主成分とし、ケイ酸コロイドと、少量のマンガンを含む、天然の岩を原料とする。 いくぶん黒味を帯びた、黄褐色の顔料である。

天然顔料の 「 シェンナ 」 には、焼結していないものと、焼結したものとがある。
その顔料は 日本工業規格 JIS でも 「 色名 」 として定義され、JIS 慣用色名として 「 マンセル値 」 によって定義されている。

◯ 焼結していないもの ── 「 ローシェンナ row sienna 」。 黄色味のつよい色をしている。
   ローシェンナ ( JIS 慣用色名 )     マンセル値 4YR 5/9
◯ 焼結してあるもの ────「 バーントシェンナ  burnt sienna」。 酸化第二鉄を主成分とした赤褐色の顔料としてもちいられる。
   バーントシェンナ ( JIS 慣用色名 )        マンセル値 10R 4.5/7.5  

さて…… 、彫刻家 ・ 安田 侃氏がもたらした 「 シェンナ 」 は、「 ローシェンナ 」 なのか 「 バーントシェンナ 」 なのか、その記録は 「 アルテ ピアッツァ 美唄 」 の広報物には見あたらない。 どうもその双方を行きつ戻りつしているようにおもえるが確証はない。
安田 侃氏はどうやらやつがれと同年のうまれらしい。 そして7-8月には、しばしば美唄のアトリエ 「 ステゥディオ アルテ 」 にあらわれるようである。 できたらご本人に伺いたいものである。

 [初出:花筏 Viva la 活版 Viva 美唄 Ⅱ 準備着着進行中 !? 2013年03月15日]