月別アーカイブ: 2010年11月

朗文堂-好日録003 秀英体100、正調明朝体B、和字たおやめ

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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大日本印刷 ggg  ギンザ・グラフィック・ギャラリー 「秀英体100」を発表――大日本印刷のgggギャラリーが、第294回企画展「秀英体100」を発表している。会期は2011年1月11日[火]-31日[月]。同社秀英体開発室を中心に、長年にわたって展開してきた「秀英体平成の大改刻」には、小社もお手伝いを重ねてきた。プロジェクト自体はまだ中途であるが、その中間報告として画期的なイベントとなることが期待される。新年のダイアリーには、まずこの予定を書き込んでいただきたい。  【 詳 細

朗文堂タイプコスミイク――《正調明朝体B金陵 Combination 3》、《和字たおやめ Family 7》発売開始。
お待たせしました! いよいよ発売開始です。このふたつのパッケージ書体は、林昆範さん、今田欣一さんとの勉強会「グループ昴スバル」でのいいつくせない思い出がある。あのころは熱かったとおもう。そして、これからも熱くありたいとおもう。

祝祭日――11月23日は「勤労感謝の日」だった。最近の「デザインの効いた」カレンダーの一部には、祝日は刷り色だけを赤などにしてあるものの、どうして会社や学校が休日になるのかわからないものが多い。つまり気がつかないうちに、あまり使われないことばとなって、もはや死語と化しつつあることばが「祝祭日」かもしれない。もともと祝日は「めでたい日、いわいの日、特に国家の定めた祝いの日」であった。いっぽう祭日は「国民の祝日の俗称」ともされるが、本来は「祭りをおこなう日――皇室の祭典をおこなう日、神道で死者の霊を祭る日、物忌みする日」であり、旧制度のもとでは別途のものであった。このふたつをまとめて「祝祭日」としたから、わかりにくくなり、あまりつかわれなくなったことばのようだ。

勤労感謝の日――勤労を尊び、生産を祝い、国民が互いに感謝しあうとする日だそうである。もともとは皇室行事の新嘗祭ニイ-ナメ-サイ。祭日が祝日にかわった一例でもある。ここのところ、チト無理をしてきたので、自分を褒め、勤労感謝! 朝からバスタブにぬるいお湯をいれて長湯をしたら、全身がけだるくなって休日(になってしまった)。新嘗祭とは天皇が天神地祇に新穀をすすめ、また親しくこれを食する日。もちろん天皇は古式ゆかしく正装し、この行事を粛々とこなされたことだろう。顧みてわが身。ただボケーッとして、溜まっていた書物を読みとばし、うたた寝をしただけの休日。たまたま腹がすいたので、コンビニでカレーをチンしてこれが小生の新嘗祭。ついでに100円ショップに寄って、「平成23年版カレンダー」を買う。これにはスケジュールも書き込めるし、祝日がなんの日かはもちろん、旧暦、六曜もでているから便利で昨年も買った。ちなみに、きょう24日は「旧暦10月19日、仏滅一白」だ。だからどうしたというわけではないけど。

A Kaleidoscope Report 003をアップ――東京築地活版製造所の跡地に建立された「活字発祥の碑」の背景を描くシリーズも3回目を迎えた。逡巡はあったが、牧治三郎さんのことを踏み込んで書いた。すこし辛かった。

◉11月24日[水] 本日快晴。日日之好日。

A Kaleidoscope Report 003 活字発祥の碑 活字工業会

多くのドラマを秘めた「活字発祥の碑」

東京・東京築地活版製造所跡に現存する「活字発祥の碑」、その竣工披露にあたって配布されたパンフレット『活字発祥の碑』、その建碑の背景を詳細に記録していた全国活字工業会の機関誌『活字会』の記録を追う旅も3回目を迎えた。

この「活字発祥の碑」の建立がひどく急がれた背景には、活字発祥の地をながく記念するための、たんなる石碑としての役割だけではなく、その背後には、抜けがたく「厄除け・厄払い・鎮魂」の意識があったことは既述してきた。それは当時、あきらかな衰退をみせつつあった活字業界人だけではなく、ひろく印刷界のひとびとの間にも存在していたこともあわせて既述した。

その端緒となったのは、全国活字工業組合の機関誌『活字界』に連載された、牧治三郎によるB5判、都合4ページの短い連載記録、「旧東京築地活版製造所社屋の取り壊し」(『活字界』第21号、昭和44年5月20日)、「続 旧東京築地活版製造所社屋の取り壊し」(『活字界』第22号、昭和44年7月20日)であった。これらの記録は、このブログの「万華鏡アーカイブ、001,002」に詳述されているので参照してほしい。

牧治三郎の連載を受けて、全日本活字工業会はただちに水面下で慌ただしい動きをみせることになった。昭和44年5月22日、全国活字工業会は全日本活字工業会第12回総会を元箱根の「山のホテル」で開催し、その記録は『印刷界』第22号にみることができる。そもそもこの時代の同業者組合の総会とは、多分に懇親会的な面があり、全国活字工業組合においても、各支部の持ち回りで、景勝地や温泉旅館で開催されていた。そこでは参加者全員が、浴衣姿や、どてら姿でくつろいだ集合写真を撮影・記録するのが慣例であった。

たとえばこの「活字発祥の碑」建立問題が提起される前年の『活字界』(第17号、昭和43年8月20日)には、「第11回全日本活字工業会総会、有馬温泉で開催!」と表紙にまで大きく紹介され、どてら姿の集合写真とともに、各種の議題や話題がにぎやかに収録されているが、牧治三郎の連載がはじまった昭和44年の総会記録『活字界』第22号では、「構造改善をテーマに講演会、永年勤続優良従業員を表彰、次期総会は北海道で」との簡潔な報告があるだけで、いつものくつろいだ集合写真はみられず、背広姿のままの写真が掲載されて、地味なページレイアウトになっている。

このときの総会の実態は、全国活字工業会中部地区支部長・津田太郎によって、「活字発祥の碑」建立問題の緊急動議が提出され、かつてないほど熱い議論が交わされていたのである。すなわち、歴史研究にあたっては、記録された結果の検証も大切ではあるが、むしろ記録されなかった事実のほうが、重い意味と、重要性をもつことはしばしばみられる。

有馬温泉「月光園」で開催された「第11回全日本活字工業会総会」の記録。
(『活字界』第18号、昭和43年8月20日)

元箱根「山のホテル」で開催された「第12回全日本活字工業会総会」の記録。
(『活字界』第22号、昭和44年7月20日)。ここでの主要なテーマは、牧治三郎の連載を受けた、津田太郎による緊急動議「活字発祥の碑」建立であったが、ここには一切紹介されていない。ようやく翌23号の報告(リード文)によって、この総会での慌ただしい議論の模様がはじめてわかる。

この「第12回全日本活字工業会総会」においては、長年会長職をつとめていた古賀和佐雄が辞意を表明したが、会議は「活字発祥の碑」建立の議論に集中して、会長職の後任人事を討議することはないまま時間切れとなった。そのため、総会後に臨時理事会を開催して、千代田印刷機製造株式会社・千代田活字有限会社・千代田母型製造所の社主/古賀和佐雄の会長辞任が承認され、後任の全国活字工業会会長には、株式会社津田三省堂社長/津田太郎が就任した。
古賀和佐雄は7年にわたる会長職在任は長すぎるとし、また高齢であることも会長辞任の理由にあげていた。しかし後任の津田太郎は1896年、明治29年1月28日うまれで当時75歳。高齢を理由に辞任した古賀和佐雄は明治31年3月10日うまれで当時73歳であった。すなわち高齢を理由に、若返りをはかって辞任した会長人事が、その意図に反して、73歳から75歳へのより高齢者への継承となったわけである。
津田太郎はそれ以前から全日本活字工業会副会長であったが、やはり高齢を理由として新会長への就任を固辞し、人選は難航をきわめたそうである。しかし、たれもが自社の業績衰退とその対応に追われていたために、多忙を理由として、激務となる会長職への就任を辞退した。そのためよんどころなく津田が、高齢であること、名古屋という遠隔地にあることを理事全員に諒承してもらうという条件付で、新会長への就任を引き受けたのが実態であった。こうした内憂と外患をかかえながら、全国活字工業会による隔月刊の機関誌『印刷界』には、しばらく「活字発祥の碑」建立に向けた記録がほぼ毎号記録されている。そこから主要な記録を追ってみたい。

◎『活字界』(第23号、昭和44年11月15日
特集/東京築地活版製造所記念碑設立顛末記

この東京築地活版製造所記念碑設立顛末記には、無署名ながら、広報委員長・中村光男氏の記述とみられるリード文がある。そのリード文にポロリともらされた「懇願書」としるされた文書が、同一ページに「記念碑設立についてのお願い」として全文紹介されている。この「懇願書、ないしは、記念碑設立についてのお願い」の起草者は、平野富二にはまったく触れず、本木昌造と野村宗十郎の功績を強調するとする文脈からみて、牧治三郎とみられる。ただし牧の文章はときおり粗放となるので、全日本活字工業会で協議のうえ形式を整えたものとみている。

また「記念碑設立についてのお願い」あるいはその「懇願先」となった懇話会館への案内役は、当時67歳を迎え、ごくごく小規模な活版印刷材料商を営んでいた牧治三郎があたっている。ときの印刷界・活字界の重鎮が連れだって「懇願書――記念碑設立についてのお願い」を携え、懇話会館を訪問するために、印刷同業組合のかつての一介の書記であり、小規模な材料商であった牧が、どうして、どのようにその案内役となったのか、そして牧の隠された異才の実態も、間もなく読者も知ることになるはずである。そもそも株式会社懇話会館という、いっぷう変わった名称をもつ企業組織のことは、ほとんど知られていないのが実情であろう。同社のWebsiteから紹介する。

◎ 企業プロフィール

昭和13年(1938年)春 戦時色が濃くなって行く中、政府は戦時物価統制運用のために軍需資材として重要な銅資材の配給統制に着手、銅配給統制協議会を最高機関として、複数の関連各機関が設立されました。

一方その効率的な運用のためには、都内各所に散在していたこれら各機関の事務所を一ヶ所に集中させることが求められ、同年11月に電線会社の出資により株式会社懇和会館が設立され、同時に現在の地に建物を取得し、ここに銅配給統制協議会・日本銅統制組合・電線原料銅配給統制協会・日本故銅統制株式会社・全国電線工業組合連合会などの関連諸団体が入居されその利便に供しました。

その後昭和46年(1971年)に銀座に隣接した交通至便な立地条件に恵まれたオフィースビルとして建物を一新し、コンワビルという名称で広く一般の企業団体にも事務所として賃貸するほか、都内に賃貸用寮も所有し、テナント各位へのビジネスサポートを提供する企業として歩んでおります。

◎ 会社概要

社  名    株式会社 懇話会館
所 在 地     東京都中央区築地一丁目12番22号
設  立       1938年(昭和13年)11月28日
株  主        古川電気工業株式会社
住友電気工業株式会社
株式会社 フジクラ
三菱電線工業株式会社
日立電線株式会社
昭和電線ケーブルシステムズ株式会社
事業内容
1) 不動産の取得
2) 不動産の賃貸
3) 前各号に付帯する一切の業務

ここで筆者はあまり多くをかたりたくはない。ただ『広辞苑』によれば、【統制】とは、「統制のとれたグループ」の用例のように、ひとつにまとめておさめることであり、「言論統制」の用例のように、一定の計画に従って、制限・指導をおこなうこと、とされる。また【統制経済】とは、国家が資本主義的自由経済に干渉したり、計画化すること。雇用統制、賃金統制、軍事的強制労働組織などを含む労働統制、価格統制、配給統制、資材・資金の統制、生産統制などをおこなうとされる。

ここで少しはなしがずれるようだが、広島に無残な姿をさらしている、通称「原爆ドーム」に触れたい。この建物は国家自体がなんらかの薬物中毒にでもかかったように、闇雲に戦争に突入していった、悲しい時代の記念碑的な建物として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。そして、「二度とおなじような悲劇を繰りかえさない」という戒めと、願いを込めて、「負の世界遺産」とも呼ばれている悲しい建造物である。

広島県商品陳列所(1921―33頃)から、「原爆ドーム」となった建物。
ウキペディアより。

この現在「原爆ドーム」と呼ばれている建物は、1915年(大正4)に、チェコ人のヤン・レッツェル(Jan Letzel)の設計による、ネオ・バロック風の「物産陳列館」として完成した。その後1921年「広島県立商品陳列所」と改称され、さらに1933年「広島県産業奨励館」となった。この頃には盛んに美術展が開催されて、広島の文化の拠点としても貢献したとされる。

しかしながら、戦争が長びく中で、1944年(昭和19)3月31日にその産業奨励の業務を停止し、かわって、内務省中国四国土木事務所、広島県地方木材株式会社、日本木材株式会社などの、行政機関・統制組合の事務所として使用されていた。つまりここには「土木・木材関係の統制機関」がおかれていたことになる。そしてあまりにも唐突に廃業が決定された東京築地活版製造所の旧社屋には、「銅を中心とする金属関係の統制機関」が入居した。すなわち「統制機関」としては、広島のある時期の「内務省中国四国土木事務所、広島県地方木材株式会社、日本木材株式会社などの行政機関・統制組合の事務所、現在の原爆ドーム」と、戦前のある時期の懇話会館は、「聖戦遂行」のための、国家権力を背景とした「統制機関」としては同質の組織だったことになる。

そして1945年8月6日午前8時15分17秒、広島の空に一瞬の閃光が炸裂して、この歴史のある貴重な建物は、中央のドーム部分をのぞいて崩壊した。ここ広島にも、「統制」による悲しい物語が人知れずのこされている。そして、東京築地活版製造所の新ビルディングは、完工直後の関東大地震、太平洋戦争による空襲のはげしい罹災をへながらも、よく使用にたえた。しかしながらさすがに老朽化が目立つようになって、1971年(昭和46)に取り壊され、あらたなオフィスビルとして建物を一新されて、コンワビルという名称でこんにちにいたっているのである。

以上を踏まえて、株式会社懇話会館の株主構成をみると、いずれの株主も電線製造という、銅を大量に使用する大手企業ばかりであり、その生産・受注にあたっては、熾烈な企業間競争をしている企業がずらりとならんでいる。それらの企業が、戦時統制経済体制下にあったときならともかく、1938年(昭和13)から70年余にわたって、呉越同舟、仲良く、ひとつのビルを共有していることには素朴な疑問を持たざるをえない。

また、その発足時の母体企業となった銅配給統制協議会、なかんずく日本故銅統制株式会社とは、時局下で陰湿に展開された「変体活字廃棄運動」を牽引した、官民一体の統制組織であり、活字界における故銅――すなわち貴重な活字母型を廃棄に追い込んだ組織であったことは、まぎれもない事実としてのこっている(片塩二朗「志茂太郎と変体活字廃棄運動」『活字に憑かれた男たち』)。このわが国活字界における最大の蛮行、「変体活字廃棄運動」に関しては、さらに詳細に、近著「弘道軒清朝活字の製造法並びにその盛衰」『タイポグラフィ学会論文集 04』に記述したので、ぜひご覧いただきたい。

ここで読者は牧治三郎の主著のひとつ、『創業二五周年記念 日本印刷大観』(東京印刷同業組合、昭和13年8月20日)を想起して欲しい。同書はB5判850ページの大冊であるが、その主たる著者であり、同会の書記という肩書きで、もっぱら編輯にあたったのは牧そのものであった。そして懇話会館が設立されたのも「昭和13年春」である。さらに、牧の地元、東京印刷同業組合京橋地区支部長・高橋與作らが「変体活字廃棄運動」を提唱したのも昭和13年の夏からであった。さらに牧がつづった昭和10―13年にかけての東京築地活版製造所の記録には以下のようにある。これだけをみても、1938年(昭和13)とは、東京都中央区(旧京橋区)における牧の周辺のうごきは慌ただしく、解明されていない部分があまりにも多いのである。

・昭和10年(1935年) 6月
松田精一社長の辞任に伴い、大道良太専務取締役就任のあと、吉雄永寿専務取締役を選任。
・昭和10年(1935年) 7月
築地本願寺において 創業以来の物故重役 及び 従業員の慰霊法要を行なう。
・昭和10年(1935年)10月
資本金60万円。
・昭和11年(1936年) 7月
『 新刻改正五号明朝体 』 ( 五号格 ) 字母完成活字発売。
・昭和12年(1937年)10月
吉雄専務取締役辞任、 阪東長康を専務取締役に選任。
・昭和13年(1938年) 3月
臨時株主総会において会社解散を決議。 遂に明治5年以来66年の社歴に幕を閉じた。
牧治三郎「東京築地活版製造所の歩み」『活字発祥の碑』
(編輯発行・同碑建設委員会、昭和46年6月29日)

すなわち、牧は印刷同業組合の目立たない存在の書記ではあったが、1920年(大正9)から1938年(昭和13)の東京築地活版製造所の動向をじっと注目していたのである。そして長年の経験から、だれをどう突けばどういう動きがはじまるか、どこをどう突けばどういうお金が出てくるか、ともかく人とお金を動かすすべを熟知していた。もうおわかりとおもうが、牧は戦前から懇話会館とはきわめて昵懇の仲であり、その意を受けて動くことも多かった人物だったのである。

筆者は「変体活字廃棄運動」という、隠蔽され、歴史に埋もれていた事実を20余年にわたって追ってきた。そしてその背後には、官民合同による統制会社/日本故銅統制株式会社の意をうけ、敏腕ながらそのツメを隠していた牧治三郎の姿が随所にみられた。それだけでなく、戦時下の印刷・活字業界の「企業整備・企業統合――国家の統制下に、諸企業を整理・統合し、再編成すること――『広辞苑』」にも牧治三郎がふかく関与していたことに、驚愕をこえた怖さをおぼえたこともあった。そのわずかばかりの資料を手に、旧印刷図書館のはす向かいにあった喫茶店で、珈琲好きの牧とはなしたこともあった。ともかく記憶が鋭敏で、年代までキッチリ覚えていた牧だったが、このときばかりは「戦争中のことだからな。いろいろあったさ。たいてえは忘れちゃったけどな」とのみかたっていた。そのときの眼光は鈍くなり、またそのときにかぎって視線はうつむきがちであった……。

つまり牧治三郎には懇話会館とのそうした長い交流があったために、懇話会館に印刷・活字界の重鎮を引き連れて案内し、この記念碑建立企画の渉外委員として、ただひとり、なんらの肩書き無しで名をのこしたのである。もしかすると、この活字発祥の地を、銅配給統制協議会とその傘下の日本故銅統制株式会社が使用してきたこと、そしてそこにも出入りを続けてきたことへの贖罪のこころが牧にはあったのかもしれないと(希望としては)おもうことがある。それがして 、牧自筆の記録、「以上が由緒ある東京築地活版製造所社歴の概略である。 叶えられるなら、同社の活字開拓の功績を、棒杭で[も] よいから、懇話会館新ビルの片すみに、記念碑建立を懇請してはどうだろうか これには活字業界ばかりでなく、印刷業界の方々にも運動[への] 参加を願うのもよいと思う 」という発言につらなったとすれば、筆者もわずかながらに救われるおもいがする。

[編集部によるリード文]本誌第21,22号の牧治三郎氏の記事が端緒となって、本年の総会[昭和44年5月22日、元箱根・山のホテルで開催]において津田[太郎]理事から東京築地活版製造所の記念碑設立の緊急動議があり、ご賛同をえました。その後東京活字工業組合の渡辺[初男]理事長は数次にわたり、[古賀和佐雄]会長・[吉田市郎]支部長・津田理事と会談の結果、単に活字業者団体のみで推進すべきことではないので、全日本印刷工業組合連合会、東京印刷工業会、東京都印刷工業組合に協力を要請して快諾を得たので、去る8月13日、古賀和佐雄会長、津田副会長、渡辺理事長、ならびに印刷3団体を代表して井上[計、のちに参議院議員]副理事長が、牧氏の案内で懇話会館・八十島[耕作]社長に面接し、別項の懇願書を持参の上、お願いした。八十島社長も由緒ある東京築地活版製造所に大変好意を寄せられ、全面的に記念碑設立を諒承され、すべてをお引き受けくださった。新懇話会館が建設される明春には記念碑が建つと存じます。⌘

活字発祥記念碑建設趣意書

謹啓 愈々ご清栄の段お慶び申し上げます。
さて、電胎母型を用いての鉛活字鋳造法の発明は、明治3年長崎の人、贈従五位本木昌造先生の苦心によりなされ、本年で満100年、我国文化の興隆に尽した功績は絶大なるものがあります。

先生は鉛活字鋳造法の完成と共に、長崎新塾活版製造所を興し、明治5年7月、東京神田佐久間町に出張所を設け、活字製造販売を開始し、翌6年8月、京橋築地2丁目に工場を新設、これが後の株式会社東京築地活版製造所であります。

爾来歴代社長の撓まぬ努力により、書風の研究改良、ポイント活字の創製実現、企画の統一達成を以て業界発展に貢献してまいりました。

また一方、活版印刷機械の製造にも力を注ぎ、明治、大正時代の有名印刷機械製造業者は、殆ど同社の出身で占められ、その遺業を後進に伝えて今日に至っていることも見のがせない事実であります。

更に同社は時流に先んじて、明治の初期、銅[版印刷]、石版印刷にも従事し、多くの徒弟を養成して、平版印刷業界にも寄与し、印刷業界全般に亘り、指導的立場にありましたことは、ともに銘記すべきであります。

このように着々社業は進展し、大正11年鉄筋新社屋の建築に着工、翌年7月竣工しましたが、間もなく9月1日の大震火災の悲運に遭遇して一切を烏有に帰し、その後鋭意再建の努力の甲斐もなく、業績は年々衰微し、昭和13年3月、遂に廃業の余儀なきに至り、およそ70年の歴史の幕を閉じることとなったのであります。

このように同社は鉛活字の鋳造販売と、印刷機械の製造の外に、活版、平版印刷に於いても、最古の歴史と最高の功績を有するのであります。

ここに活字製造業界は、先賢の偉業を回想し、これを顕彰するため、同社ゆかりの地に「東京における活字文化発祥」の記念碑建設を念願し、同社跡地の継承者、株式会社懇話会館に申し入れましたところ、常ならざるご理解とご好意により、その敷地の一部を提供されることとなりましたので、昭和46年3月竣工を目途に、建設委員会を発足することといたしました。

何卒私共の趣意を諒とせられ、格別のご賛助を賜りたく懇願申し上げる次第であります。    敬 具

昭和45年9月

発起人代表    全日本活字工業会々長   津田太郎
東京活字協同組合理事長  渡辺初男
協    賛    全日本印刷工業組合連合会
東京印刷工業会
東京都印刷工業組合
記念碑建設委員会委員
委員長        津田太郎(全日本活字工業会々長)
委員長補佐     中村光男(広報委員長)
建設委員           主任 吉田市郎(副会長)
宮原義雄、古門正夫(両副会長)
募金委員           主任 野見山芳久(東都支部長)
深宮規代、宮原義雄、岩橋岩次郎、島田栄八(各支部長)
渉外委員          主任 渡辺初男(東京活字協同組合理事長)
渡辺宗助、古賀和佐雄(両工業会顧問)、
後藤 孝(東京活字協同組合専務理事)、牧治三郎

◎『活字界』(第27号、昭和45年11月15日)
特集/活字発祥記念碑来春着工へ、建設委員会で大綱決まる

紹介された「記念碑完成予想図」。
実際には設計変更が求められて、ほぼ現在の姿になった。

旧東京築地活版跡に建立する「活字発祥記念碑」の大綱が、このほど発足した建設委員会で決まり、いよいよ来春着工を目指して建設へのスタートを切った。建設に要する資金250万円は、広く印刷関連業界の協力を求めるが、すでに各方面から基金が寄せられている。

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全日本活字工業会および東京活字協同組合が中心となり、印刷関係団体の協賛を得て進めてきた、東京における活字発祥記念碑の建設が軌道に乗り出した。同建設については、本年6月北海道で開かれた全国総会で正式に賛同を得て準備に着手、7月20日の理事会において発起人および建設委員を選出、8月21日、東京・芝の機械振興会館で第1回の建設委員会を開催した。

同会では、建設趣意書の大綱と建設・募金・渉外など委員の分担を決め、募金目標額は250万円として、まず岡崎石工団地に実情調査のため委員を派遣することになった。

9月8日、津田[太郎]委員長をはじめ、松田[友良]、中村[光男]、後藤[孝]の各委員が、岡崎石工団地におもむき、記念碑の材料および設計原案などについての打ち合わせを行なった。

ついで、第2回の建設委員会を9月19日、東京の赤坂プリンスホテルで開催、岡崎石工団地における調査の報告および作成した記念碑の予想図などについて説明があり、一応これらの線に沿って建設へ推進することになり、さらに、募金総額250万円についても再確認された。

このあと業界報道紙11社を招いて記者会見を行ない、建設大綱を発表するとともに、募金の推進について紙面を通じてPRを求めたが、各紙とも積極的な協力の態度をしめし、業界あげての募金運動が開始された。

活字発祥記念碑は、旧東京築地活版製造所跡(中央区築地1丁目12-22)に建設されるが、同地には株式会社懇話会館が明年4月にビルを竣工のため工事を進めており、記念碑はビルの完成後同会館の花壇の一隅に建設される。なお、現在記念碑の原案を懇話会館に提出して検討されており、近日中に最終的な設計ができあがることになっている。

◎『活字界』(第28号、昭和46年3月15日)
特集/記念碑の表題は「活字発祥の碑」に


「活字発祥の碑」完成予想図と、碑文の文面並びにレイアウト。

昨年7月以来着々と準備がすすめられていた、旧東京築地活版跡に建設する記念碑が、碑名も「活字発祥の碑」と正式に決まり、碑文、設計図もできあがるとともに、業界の幅広い協力で募金も目標額を達成、いよいよ近く着工することとなった。

建設委員会は懇話会館に、昨年末、記念碑の構想図を提出、同館の設計者である、東大の国方博士によって再検討されていたが、本年1月8日、津田[太郎]建設委員長らとの懇談のさい、最終的設計図がしめされ、同設計に基づいて本格的に建設へ動き出すことになったもので、同碑の建設は懇話会館ビルの一応の完工をまってとりかかる予定である。

碑文については毎日新聞社の古川[恒]氏の協力により、同社田中社長に選択を依頼して決定をみるに至った。

次回のA Kaleidoscope Report 004では、いよいよ「活字発祥の碑」の建立がなり、その除幕式における混乱と、狼狽ぶりをみることになる。すなわち、事実上除幕式を2回にわたっておこなうことになった活字界の悩みは大きかった。そしてついに、牧治三郎は活字界からの信用を失墜して、孤立を深めることになる。

朗文堂-好日録002 電子出版の未来

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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◉爆睡の昨夜――仕事も、依頼原稿もだいぶたまっているのに……。きのうは新宿私塾が西尾彩さんの特別講座だったことをいいことに、隣室でA Kaleidoscope Report 003の執筆。講座は5時に終わったが、メシも喰わず一気呵成に書き終えて擱筆。時計をみたら10時を過ぎていた。帰途にメシをかき込んだら睡魔がおそった。考えたら6月頃から土日をまともに休んだことはない。風呂もなにもなく、そのまま爆睡。

◉早起きは三文の徳――スッキリとした目覚め。早朝7時。新聞を読み終えて、このごろお気に入りのカフェに。中西秀彦著『我、電子書籍の抵抗勢力たらんと欲す』をかかえていく。ここはベローチェでもドトールでもないのだが、名前はまだ知らない。ただ珈琲がそこそこにうまいのと、ともかく空いているので、煙草くさくないのが良い。このごろ肩身の狭い愛煙家でも、やはりケムイのは嫌なのだ。どうせなら、おいしく煙草をくゆらしたいのだ(我が儘を承知で、せめて日曜の朝ぐらいだ)が。

◉中西秀彦さんのこと――中西さんは、京都の老舗印刷所・中西印刷株式会社の経営者で、執筆の主舞台は印刷学会出版部の『印刷雑誌』での連載である。その軽妙洒脱な語り口が好評で、連載も長期にわたっているし、単行本も売れているようだ。ところがその連載の前任者はなんと筆者であった。筆者の連載は18ヶ月であった。それに大幅に加筆して『活字に憑かれた男たち』として発売されたが、売れているとはいいがたい。筆力の差か。

◉中西亮さんのこと――中西印刷の六代目社長、中西亮さんとはふしぎなご縁があった。きっかけは1914年(大正3)うまれ、ただいま96歳のオフクロ。オヤジが亡くなった25年ほど前からしばらく、ようやく身軽となったオフクロは「お父ちゃんが、エジプト、ギリシャ、蒙古、アラスカ……行きたいっていっていたから」とまことに都合のよい理由を見つけて、海外旅行を楽しむようになっていた。もちろん老人のことゆえ、単独行ではなく、添乗員つきの団体旅行がおもだった。気に入りの旅行代理店があったらしい。そこでオフクロとしばしば海外旅行にご一緒したのが中西亮さん。ある日オフクロが「お前と同じで、ホテルでも、レストランでも、メニュー、コースター、マッチまで集めて、どこでも勝手に町の印刷屋さんに飛び込む京都のひとがいる。面白くていいかただから一度お訪ねしてごらん……」という次第で、京都の中西印刷さんを二度ほど訪問したことがあった。おもに京都大学の学術書用の特製活字を見せていただいた。そこには一朝一夕の蓄積ではない、素晴らしい「金属活字」があった。

◉ふたたび中西秀彦さんのこと――かつて『本とコンピュータ』という雑誌があった。創刊から3年ほど筆者も連載記事を執筆していた。編集担当は、いまは怪しげな筆名にかわった河上進さんだった。ある日怪しげさんが「オンデマンド印刷、どうおもわれます?」とやってきた。「あんなもの、ゼロックスのトナー・コピーだろう」。「そうそう、それでいきましょう」。怪しげさん、なにやら嬉しげにひとりで納得。しばらくして大日本印刷のgggギャラリーのビルで「激論! オンデマンド印刷の未来」と題する対談が設定された。そのときの「オンデマンド印刷、バラ色の未来の論客?」としての対談相手が中西秀彦さんだった。筆者は怪しげさんが勝手に設定した「オンデマンド印刷だと? ふざけんな! 派」だったらしい。

◉アンダースローの軟投型の投手――対談は1時間の設定だったが、話題がまったく噛み合わず、3時間は優に超えても終わらなかった。中西さんはときおりアンダースローから巧妙な変化球を投じてくる。筆者はジャイアンツの小笠原よろしく、あたりかまわず(なんの思惑もなく)バットをブンブン振りまわす「試合」に終始した。気の毒だったのはカメラマン。最初に対談風景の写真を撮り終えていたが、帰るに帰れず、カメラを抱いたままウツラウツラしていたのを覚えている。あれから何年経ったのだろう。整理の悪い筆者はその掲載誌も探し出せないでいる。それより皆さん、オンデマンド印刷って知っていますか? 使っていますか? オンデマンド印刷はだいぶ進歩して、筆者はときおり急ぎで少部数の「印刷≒コピー」に使ってます。いまやたれもお先棒は担がないようですけどね。

◉中西秀彦著『我、電子書籍の抵抗勢力たらんと欲す』――カフェで2時間ほどかけて読了。書名のタイトルはチト大袈裟かな? 著者は出版社と印刷所が主従関係にあり、あたかも別途の存在としてかたっているが、もともと印刷所から創業して出版社になった版元は多いし、いまでも出版部と印刷部を併営している企業はたくさんあるしなぁ。だから感想はなし。いまさら電子出版に抵抗するはなしをされても困ったなぁ……、というのが実感。便利で安いものは受け入れられるもの。それでダメだったら見捨てられるだけのはなし。それでも定価1,680円、一読の価値はありそうだ。ただし、今朝の珈琲の味はいつもより苦かった。

◉19日[金]に来社した新宿私塾修了生曰く。「掲示板、ブログ、チャット、ミクシィ、ツィッターってやってきたけど、どれも荒れちゃうんでね。もうツィッターも飽きちゃたし、やめました……」。オイオイ迂生は、みんながツィッターにいってブログが空いたんで、周回遅れを笑われながら、シメタとばかりブロガーになったばかりだぞ!

◉4F-Bでは、はるばる金沢から来社されたご夫婦が、Adana-21J操作指導教室受講中。5時で終わり。日帰り日程。きょうは、きょうのうちに帰ろう。

◉11月21日[日]、本日曇天。日日之好日。

朗文堂-好日録001 西尾綾さん「製本術入門」

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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◉本日の新宿私塾は、西尾彩さんを講師に迎えての特別講座「製本術入門」ワークショップ。西尾さんには開塾以来ずっと新宿私塾の講師をお願いしている。外連味 ケレンミ のない、堅実な製本術の講座である。隣室ではヨスト・アマンの職人絵図さながらの作業がつづいている。道具もこの絵図とさして変わらないものがもちいられている。いつも技芸の伝統、書物の歴史におもいを馳せるワークショップとなる。


◉11月17日、タイプコスミイクが「正調明朝体B Combination 3」、「和字たおやめ Family 7」を発表した。月内での発売開始に向けて、スタッフは最後のチェックに余念がない毎日である。ご予約、発売日のお問い合わせもいただいているようで嬉しいことである。もうほんのしばらくお待ちいただきたい。

◉木版刊本や浮世絵の例をあげるまでもなく、かつての版画はメディアであり、庶民の身近な存在だった。幕末のほぼ同時期に伝来した、銅版画と石版画も同様な歴史を背負って導入された。それがいつから、実用の工芸や技芸としての存在を失って、額縁のなかに鎮座し、ギャラリーの壁展示によって鑑賞するだけの芸術乃至は美術に変わったのだろう。

◉12月4-5日、第35回全国大学版画学会による版画展が町田市立国際美術館で開催される。アダナ・プレス倶楽部は昨年につづいて公開セミナーとワークショップに協力。昨年はとかく忘れられがちだった「リノカット」の魅力を再現することにつとめて反響を呼んだ。ピカソが、ダダイストたちが、そしてエミル・ルーダーが、「リノカット」を自在に駆使して、膨大な作品や書物をのこしていたことは意外に知られていなかったようだ。とりわけルーダーの作品は写真製版の網点だとしかおもっていないようだ。そこで愚考! 「そうだ! ふたたび、みたび、新島さんに、ドットのスタディ」の講習会を依頼しよう。

◉版画展はことしも意欲的なセミナーとするべく、9月から当番校の日本大学藝術学部と協議をはじめた。こころは「版画よ、額縁から脱出せよ!」。11月にはいってからは、4F- Bが空いている日には、ときおり製本担当者を交えて深夜までの準備作業がつづいている。テーマは「版画と活字」。公開制作では「製本した作品をみながらの、版画と活字作品制作のデモンストレーション」である。詳細はアダナ・プレス倶楽部ニュースに紹介されている。昨夜は早朝5時までの作業だった。武井武雄による『地上の祭』の完成を見守る志茂太郎の心境だった(すこし大げさかな?)。それでもチョット凄いものができそうなうれしい予感がした。

◉朗文堂Websiteの一隅に、あたらしいブログ「花筏 はないかだ」を開設。水面 ミナモ におちたひとひらの花弁のように、はかなくアーカイブの大海に沈むのがよい。乞い願わくば、アーカイブをふくめてのご愛読を。

◉本日、快晴。日日之好日。

花こよみ 001

詩のこころ無き身なれば、折りに触れ
古今東西、四季のうた、ご紹介いたしたく
(朗文堂ニュースより移転)

 

さまよいくれば 秋くさの
ひとつのこりて 咲きにけり
おもかげ見えて なつかしく
手折ればくるし 花ちりぬ

                                         ――― 佐藤 春夫

タイポグラフィ あのねのね 002*角 字

【角 字 かく-じ】

10×10のグリッドで構成された工芸の文字

「 伊呂波寄名頭字儘 ―― 此の字尽くしの中に出がたき時は、ヘンあるいはツクリに依って作るべし 」
[ 釈読 : この字種見本に無い字のときは、偏と旁によって作字すべし ]
いわゆる文様帳 『伊呂波引定紋大全』 ( 盛花堂[浅草区左ヱ衛門町一番地] 明治30年頃  雅春文庫蔵)

「 かくじのわり 」 ―― おもに染色士がもちいた工芸の文字として、角字の割り出し技法のほか、各種の 「 地紋 モヨウ 割り 」 として、萬字繋  マンジツナギ、毘沙門 ビシャモン 地紋、亀甲 キッコウ 地紋などが、その製作技法とともに簡潔に紹介されている。
いわゆる文様帳 『 伊呂波引定紋大全 』 ( 盛花堂[浅草区左ヱ衛門町一番地]明治30年頃 雅春文庫蔵)

ブログ版朗文堂ニュース、2010年10 月05日号に、《 紙漉ツアー好評裡に終了しました 》  と題する報告記事がある。
その最後の部分で、五日市にある 「 黒茶屋 」 の暖簾を紹介した。 ここに改めて該当部分を紹介する。

サービスカットはランチョン会場 「 黒茶屋 」 の暖簾です。 レタリング関係の書物ではこうした文字を 「 籠字 」 としたものもありますが、チト疑問。   「 籠字 」 は双鉤字であり、籠写しにした文字です。  関心のあるかたは 『 広辞苑 』 でご確認ください。
それではこうした文字はなんというのか、「 箱字?」……。  かつてはイナセな職人のハッピや、祭りの印し袢纏などでよくみた形象です。  この字の由来についてご存知のかたはご教授ください。


黒茶屋と書いてありました。
*        *        *

しばらくして、《 紙漉ツアー 》 にも同行された、友人の春田さんから、写真画像が添付された以下のような @メールをいただいた。

昨夜、御社ブログの 「 黒茶屋の暖簾 」 の項を拝見いたしました。
先日はうかつにも、わたしはこの文字を 「 箱文字 」 と呼んでいましたが、その後、手元にあった明治30年代発行の 『 伊呂波引定紋大全 』 という、いわゆる文様帳 ( 呉服の文様を確認するために使用していたものらしい ) を調べてみました。 そこには 「 かくじ 」 (目次には角字 ) という言葉が用いられていました。「 かくじのわり 」 とされた文字作成用のマス目も送信致します。

この 『 伊呂波引定紋大全  いろは-びき-じょうもん-たいぜん 』 のような書物は、かつて 「 紺屋 コウヤ、染め屋 」 などと呼ばれていた 「 染色士 」 にむけて、おもに家紋のほとんどを詳細に紹介していたために、俗に 「 定紋帳 ・ 紋帳 ・ 家紋帳 」 などとされていた実用書であった。

その一部には 「 技芸家 ・ 工芸家 」 に向けた 「 文字の構成と書法 」 が説かれたいた。 類書としては印判士に向けたより豊富な字種と書体による実用書もあるが、こうした書物は文字の紹介書として、魅力と示唆に富む好著が多い。

ところが現代では、『 伊呂波引定紋大全 』 のような実用書が刊行されることがすくなく、むしろ 「 芸術書 」 や 「 作品集 」  が氾濫しているために、いつのまにか、こうした工芸 ・ 技芸の文字があったことが忘れられている。
ときおり筆者は 「 現代の文字と活字の風景はさびしいものがある 」 としるすのには、こうした背景もある。
──────────
春田さんのご指摘のとおり、「 黒茶屋 」 の暖簾にしるされていた文字は、レタリング書の解説などにみる 「 籠字 ・ 駕籠字 」 ではなく、あきらかに 「 角字 かくじ 」 であった。
おそらく 「 黒茶屋 」 の暖簾は、現代のレタリングデザイナーや、タイプ ・ デザイナーなどと称するひとの手によるものではないだろう。
なぜなら、こうした人たちは、「 角字 」 を知らないから、書けないのである。 それだけのことである。

ただし、プロであるから、その構成と技法を知れば、書けるようになることはもちろんである。 しかしながら、悲しいことに、ほかの多くの技芸家と同様に、わが国の 「 デザイン 」 とされる分野は、長い欧化思想崇拝の歴史をもち、「 技芸家 」 にかえて 「 芸術家 ・ 美術家 」 であろうとした。 そして、いまだにその埒外にたつことができないでいる。

もちろんかつての染色士たちも、「 角字 」 を 「 紋帖 」 などの資料が無くてはこうした文字を書くことはできなかったはずである。  ただ、かつての染め物士は 「 角字 」 の存在を知っていたし、簡略な実用書をもっていた。  したがって目的と用途にあわせて、自在に文字や文様を書き分けることができた。

「 かくじのわり 」 の写真をみると、この実用書に紹介された 「 伊呂波寄名頭字儘 」 は、10 × 10のグリッド ( 格子 ) によって分割され、構成された文字であることがわかる。 つまり書芸の文字ではなく、工芸の文字である。
換言すると、現代のデジタル ・ タイプの業界用語では、「 ビット ・ マップ 」 が10 × 10 の100 の格子によって構成された文字である。 したがって、ドット ・ フォントやビットマップ ・ フォントと 「 基本理念 」 においてはなんら異なるところがない。
これだけをみても、明治までの町の無名な技芸家たちは、現代のレタラーやタイプデザイナーに負けない、あるいは凌駕するだけの、豊富な知識教養と、すぐれた技倆をゆうしていたことがわかる。

與談ながら……、若くて意欲的なデザイナーが、しばしば 『 グリッド ・ システムズ 』 を教えて欲しいと、勢い込んでやってくることがある。
以前はその原本と関連図書を紹介し、拙訳のコピーを渡したりもしていた。  ところが、説明すればするほど、かれらは次第にガッカリした表情になり、拙訳を渡すと明らかに期待はずれといった表情にかわり、ついには、当初の勢いはどこに消えたのか、肩を丸めてお帰りになることが多かった。

どうやらこうした人たちは、『 グリッド ・ システムズ 』 が、欧州の一部地域における、神話に満ちた秘伝か、なにやら玄妙な秘術であるかのような幻想をいだいてやってくるらしい。  もちろん一部ではそのように紹介する指導者も存在するのだろう。  どうやらそれに応えてあげなかったのがお気に召さなかったらしい。

閑話休題   角字は工芸者が伝えてきた文字であるから、『 書道基本用語詞典 』 ( 春名好重ほか、中教出版、平成03年10月01日) には紹介されていない。
国語辞典としての 『 広辞苑 』 には――かく-じ 【 角字 】 ③  模様 ・ 紋所などに用いる四角な字体。――  として紹介されている。

タイポグラフィ あのねのね 001 *淳化閣帖

じゅん-か-かく-じょう 【 淳 化 閣 帖 】

『淳化閣帖』 諸家古法帖巻五 中書令褚遂良書
(宋拓淳化閣帖  中国書店 1988)

『淳化閣帖』 款記 (宋拓淳化閣帖  中国書店 1988)

じゅん-か-かく-じょう 【 淳化閣帖 】
中国宋王朝第2代皇帝 ・ 太宗(976-997)が淳化3年(992)に 宮廷の宝物藏(内府)所蔵の、歴代のすぐれた墨跡を、翰林侍書であった王著(オウチョ ?―990)に命じて、編輯、摹勒(モロク 摸倣によって木石に彫刻)させた拓本による集法帖。10巻。

内容は、拓本集のような趣だが、全10巻中、3巻が王羲之 オウギシ、2巻が王献之 オウケンシで、二王父子が別格の扱いになっている。その題を紹介する。

法帖第一  歴代帝王
法帖第二  歴代名臣
法帖第三  歴代名臣
法帖第四  歴代名臣
法帖第五  諸家古法帖
法帖第六  王羲之書一
法帖第七  王羲之書二
法帖第八  王羲之書三
法帖第九  王献之書一
法帖第十  王献之書二

法帖 ホウジョウ とは、先人の筆跡を紙に写し、石に刻み、これを石摺り拓本にした折り本のこと。 ここから派生した製本業界用語が 【法帖仕立て】 である。 法帖としては、この宋の『淳化閣帖』、明の『停斎館帖』、清の『余清斎帖』などが著名である。

『淳化閣帖』の用紙は 澄心堂紙 ヨウシンドウシ、墨は李廷珪墨 リテイケイボク をもちいて拓本とし、左近衛府、右近衛府の二府に登進する大臣たちに賜った「勅賜の賜本」である。 当然原拓本の数量は少なく、現代においては原刻 ・ 原拓本による全巻揃いの完本はみられない。 わずかに東京台東区立書道博物館に、虫食いの跡が特徴的な2冊の原拓本『夾雪本 キョウセツボン』がのこされているのにすぎない。

同館所蔵書はきわめて貴重なもので、王羲之の書を収録した第七、第八の2冊である。これは完成直後の初版本(原拓本)とされている。命名の由来は、虫食いの跡が白紙の裏打ちによって、あたかも雪を夾んだようにみえることから「夾雪本」の名がうまれた。所蔵印から、顧従義、呉栄光、李鴻章(1823-1901) らの手をへて、1930年代に初代館長・中村不折の手にわたった。

『淳化閣帖』 法帖第七 王羲之書二 夾雪本 (台東区立書道博物館蔵)

『淳化閣帖』法帖第八 王羲之書三 夾雪本(台東区立書道博物館蔵)

「勅賜の賜本」 としての『淳化閣帖』は数量がきわめてすくなく、すでに宋代において、原刻本からふたたび石に刻して帖がつくられた。そのままの形で刻したものを翻刻本 ホンコクボン といい、その内容や順序に編輯を加えたものを類刻本という。

宋代の翻刻本では賈似道(カジドウ 1213-75) による『賈刻本 カコクボン』、寥瑩中 リョウエイチュウ による『世綵堂本 セサイドウボン』が著名である。
重刻本としては『大観帖 タイカンジョウ』、『汝帖 ジョジョウ』、『絳帖 コウジョウ』、『鼎帖 テイジョウ』(書道博物館蔵)などがあるが、これらはいわゆるかぶせ彫りの「覆刻本」がおおく、真の姿を伝えているとはいいがたい。

明代になっても多くの翻刻本『淳化閣帖』がつくられた。顧従義 (コジュウギ 1523-88)による『顧氏本、玉泓館本 ギョクオウカンボン』、潘雲龍 ハンウンリュウ による『潘氏本、五石山房本 ゴセキサンボウボン』 などが著名である。

清代における翻刻本に『西安本』がある。これは現在陝西省西安の碑林博物館に展示されている。 重刻本としては清朝第6代皇帝 ・ 乾隆帝(在位1735-95)の勅命による『欽定重刻淳化閣帖』 があるが、これはあらたな編輯をくわえてつくられた、重刻による法帖である。

一般に『淳化閣帖』 と称されるが、これは最後の款記に「淳化三年壬辰歳十一月六日奉旨摹勒上石」 とあることによる。 また完成後にこれを所蔵した場所にちなんで『秘閣帖』、『閣帖』とも称した。

編輯摹勒したのが王著であるとされるのも確証はない。 王著は淳化元年 (990) に歿している。 むしろ王著が中心となって編輯し、その没後に完成したものとみられている。

参考資料 / 『宋拓淳化閣帖 』  影印本 中国書店 1988年3月
         『書道基本用語詞典』 春名好重 中教書店 平成3年10月1日
           『台東区立書道博物館図録』 書道博物館編 台東区芸術文化財団 平成12年4月1日

花こよみ 003

詩のこころ無きわが身なれば、折りに触れ
古今東西、四季のうた、ご紹介たてまつらん

吾 亦 紅 に 寄 す

夏――   風になびく青い草原は   海のうねりにも似て
渺たる高原のそこここに   たそかれが迫る

とおく はぐれ蝉か ひぐ
らしの聲
ひと叢の ワレモコウが 風に揺れている
ひめやかに 晩夏の気配が  艸叢を覆う

秋――  妍を競って咲き誇った高原の艸草が
慌ただしく  種子の実りを終える
ワレモコウは  仔鹿の脚にも似た か細い茎を艸叢に屹立す

艸叢から  ちいさなつぶやきが
「ねぇ、ねぇ、わたしって、きれい?」

晩秋――  花序のあえかな彩りは くらい赤褐色に色とりをかえ
万葉ひとは なんのゆえありて  かくも 可憐な
「 ワレ  マタ  ベニ  ナリ —— 吾 亦 紅 」の名を与えしか
寥風がつのる   真紅の鮮血ほとばしらせ 慟哭する花  ここにあり
「 ねぇ、ねぇ、わたしって、クレナイの花よ!」

        ―――― よみひと しらす

A Kaleidoscope Report 002

『 活字発祥の碑 』をめぐる諸資料から
機関誌『 印刷界 』と、
パンフレット『 活字発祥の碑 』

『 活字発祥の碑
編纂 ・ 発行 / 活字の碑建設委員会
昭和46年6月29日
B5判  28ページ  針金中綴じ  表紙1 ・ 4をのぞき 活字版原版印刷

活字界
発行 全日本活字工業会 旧在 千代田区三崎町3-4-9 宮崎ビル
創刊01号 昭和39年6月1日終刊80号 昭和59年5月25日
ほぼ隔月刊誌  B5判 8ページ  無綴じ  活字版原版印刷
01号40号 編集長 中村光男、41号56号/編集長 谷塚 実、57号75号 編集長 草間光司、76号80号 編集長 勝村 章。   昭和49年以後、中村光男氏は記録がのこる昭和59年までは、全日本活字工業会の専務理事を務めていた

 

★       ★       ★

レポート第2編は、全日本活字工業会の機関誌 『 印刷界 』 と、同会発行のパンフレット 『 活字発祥の碑 』 のふたつのメディアを往復しながらの記述になる。 主要な登場人物は 「 株式会社中村活字店 ・ 第4代社長 中村光男 」 と、印刷業界の情報の中枢、印刷同業組合の書記を永らく勤めて、当時67歳ほどであったが、すでに印刷 ・ 活字界の生き字引とされていた 牧治三郎 である。

『 印刷界 』 は1964年(昭和39)の創刊である。 編集長は中村活字店第4代社長 ・ 中村光男氏。 この年は池田勇人内閣のもとにあり、経済界は不況ムードが支配していたが、東京オリンピックの開催にむけて、新幹線が東京 ― 大阪間に開業し、首都高速道路が開通し、東京の外環をぐるりと囲む4車線道路、環状七号線が開通した、あわただしい年でもあった。 こんな時代を背景として、大正時代からあった 活字鋳造協会と、戦時体制下の統制時代にあった 活字製造組合 を基盤としながら、全国の活字鋳造業社が集会をかさね、あらたな組織として 全日本活字工業会 に結集して、その機関誌 『 活字界 』 を発行したことになる。

世相はあわただしかったが、活字製造に関していえば、大手印刷所、大手新聞社などのほとんどが活字自家鋳造体制になっていた。 それがさらに機械化と省力化が進展して、活字自動鋳植機 ( 文選 ・ 活字鋳造 ・ 植字組版作業を一括処理した組版機 ) の導入が大手を中心に目立ったころでもあった。 そのため、活字母型製造業者には、瞬間的に膨大な数量の活字母型の需要がみられたものの、導入が一巡したのちは奈落に突き落とされる勢いで需要が激減して、まず活字母型製造業が、業界としての体をなさなくなっていた。 また、新興の写真植字法による文字組版を版下として、そこから写真製版技法によって印刷版をつくる オフセット平版印刷業者が、文字物主体の印刷物にも本格進出をはじめた時代でもあった。 つまり活字鋳造業界あげて、前途に漠然とした不安と、危機感をつのらせていた時代でもあった。 こんな時代背景を 「 欧州を旅して 」 と題して、株式会社晃文堂 ・ 吉田市郎氏が 『 活字界4号 』 (昭和40年2月20日、5頁 )寄稿しているので紹介しよう。

活字地金を材料とした単活字や、モノタイプ、ルドロー、ライノタイプなどの自動鋳植機による活字を [ 鋳造による熱処理作業があるために ] Hot Type と呼び、写植機など [ 光工学と化学技法が中心で 熱処理作業が無い方式 による文字活字を Cold Type といわれるようになったことはご存知のことと思います。 欧州においては、活版印刷の伝統がまだ主流を占めていますが、Cold Type に対する関心は急激に高まりつつあるようでした。[ 中略
こうした状況は、私たち 日本の 活字業界の将来を暗示しているように思われます。 私たちは活字母型製造業界がなめたような苦杯をくりかえしてはなりません。 このあたりで活字業界の現状を冷静に分析 判断して、将来に向けた正しい指針をはっきりと掲げていくべきではないでしょうか。 現在のわが国の活字製造業は幸いにもまだ盛業ですが、その間にこそ、次の手を打たねばなりません。 したがって現在の顧客層の地盤に立って、文字活字を Hot Type 方式だけでなく、Cold Type 方式での供給を可能にすることが、わが活字業界が将来とも発展していく途のひとつではないかと考える次第です。

当時の吉田市郎氏は、全日本活字工業会副会長であり、東京活字協同組合の会長でもあった。 そして吉田氏はこの報告のとおり、1970年代初頭からその立脚点を、晃文堂時代の活字を主要な印刷版とする凸版印刷、すなわち 「 活版印刷 」 から、写真植字機と写植活字を開発し、オフセット平版印刷機までを製造するためにリョービ ・ グループに参入し「 株式会社リョービ印刷機販売 ・ 現リョービイマジクス 」 を設立した。

 この吉田の転進が、こんにちのプリプレスからポストプレスまでの総合印刷システムメーカーとしてのリョービ ・ グループの基礎を築くにいたった。すなわち吉田氏は かたくなに活字を鋳造活字としてだけとらえるのではなく、金属活字から写植活字への時代の趨勢を読みとっていた。 そして1980年代からは、写植活字から電子活字への転換にも大胆に挑む柔軟性をもっていた。 それでも吉田氏は全日本活字工業会の会員として永らくとどまり、金属活字への愛着をのこしていた。

『 活字界 』 には創刊以来、しばしば 「 業界の生き字引き 」 として 牧治三郎 が寄稿を重ねていた。 牧と筆者は15―10年ほど以前に、旧印刷図書館で数度にわたって面談したことがあり、その蔵書拝見のために自宅まで同行したこともある。 当時の牧治三郎はすでに100歳にちかい高齢だったはずだが、頭脳は明晰で、年代などの記憶もおどろくほどたしかだった。 下記で紹介する60代の風貌とは異なり、鶴のような痩躯をソファに沈め、顎を杖にあずけ、度の強い眼鏡の奥から見据えるようにしてはなすひとだった。 そんな牧が印刷図書館にくると、「 あの若ケエノ?! は来てねぇのか……」 という具合で、当時の司書 ・ 佐伯某女史が 「 古老が呼んでいるわよ…… 」 と笑いながら電話をしてくるので、取るものも取り敢えず駆けつけたものだった。

牧治三郎は幼少のころから活版工場で 「 小僧 」 修行をしていたが、「ソロバンが達者で、漢字もよくしっているので、いつのまにか印刷同業組合の書記になった 」 と述べていた。 「 昔は活版屋のオヤジは、ソロバンもできないし、簿記も知らないし……」 とも述べていた。 牧とは、東京築地活版製造所の元社長 ・ 野村宗十郎の評価についてしばしば議論を交わした。 筆者が野村の功績は認めつつ、負の側面を指摘する評価をもっており、また野村がその功績を否定しがちだった東京築地活版製造所設立者、平野富二にこだわるのを 「 そんなことをしていると、ギタサンにぶちあたるぞ。東京築地活版製造所だけにしておけ 」 とたしなめられることが多かった ( 片塩二朗 『 富二奔る 』 )。

ギタサンとは俗称で、平野富二の嫡孫、平野義太郎 ( ヨシタロウ、法学者、1897―1980)のことで、いずれここでも紹介することになる人物である。 なにぶん牧は1916年(大正5)から印刷同業組合の書記をつとめており、まさに業界の生き字引のような存在とされていた。 牧はかつて自身がなんどか会ったことがあるという野村宗十郎を高く評価して 「 野村先生 」と呼んでいた。したがって筆者などは 「 若ケエノ 」 とされても仕方なかったのだが、野村の功罪をめぐって、ときには激しいやりとりがあったことを懐かしくおもいだす。

しかし 「 牧老人が亡くなった……」 と 風の便りが届いたとき、その写真はおろか、略歴を伺う機会もないままに終わったことが悔やまれた。 牧治三郎の蔵書とは、ほとんどが印刷 ・ 活字 ・ 製本関連の機器資料とその歴史関連のもので、書籍だけでなく、カタログやパンフレットのたぐいもよく収蔵していた。その膨大な蔵書は、まさに天井を突き破らんばかりの圧倒的な数量であった。これだけの蔵書を個人が所有すると、どうしても整理が追いつかず、筆者が閲覧を希望した「活版製造所弘道軒」の資料は蔵書の山から見いだせなかった。牧は「オレが死んだらな、そこの京橋図書館に『治三郎文庫』ができる約束だから、そこでみられるさ」と述べていたが、どうやらそれは実現しなかったよで、蔵書は古書市場などに流出しているようである。幸い「牧治三郎氏に聞く―― 大正時代の思い出 」 『 活字界15 』 ( 昭和42年11月15日 ) にインタビュー記事があったので、40年以上前というすこしふるい資料ではあるが、牧治三郎の写真と略歴を紹介したい。

牧  治 三 郎  まき-じさぶろう
67歳当時の写真と蔵書印
1900年( 明治33 ) ―( 2003―5年ころか。 不詳 )。
印刷同業組合の事務局に1916年(大正5)以来長年にわたって勤務し、その間東京活字鋳造協会の事務職も兼務した。1980年ころは、中央区新川で 活版木工品 ・ 罫線 ・ 輪郭など活字版印刷資材の取次業をしていた。
主著 /「 印刷界の功労者並びに組合役員名簿 」 『 日本印刷大観 』 ( 東京印刷同業組合 昭和13年 )、連載 「 活版印刷伝来考 」 『 印刷界 』 ( 東京都印刷工業組合 )、 『 京橋の印刷史 』 ( 東京都印刷工業組合京橋支部 昭和47年11月12日 )。
牧の蔵書印は縦長の特徴のあるもので、「 禁 出門 治三郎文庫 」 とあり、現在も古書店などで、この蔵書印を目にすることがある。

ふしぎなビルディングがあった……。
このビルは、東京築地活版製造所の本社工場として、当時の社長 ・ 野村宗十郎(1857―1925)の発意によって 1923年(大正12)7月 ( 現住所 ・ 東京都中央区築地1-12-22) に竣工をみた。 ビルは地上4階、地下1階、鉄筋コンクリート造りの堅牢なビルで、いかにも大正モダン、アール・ヌーヴォー調の、優雅な曲線が特徴の瀟洒な建物であった。 ところがこのビルは、竣工直後からまことに不幸な歴史を刻むことになった。 下世話なことばでいうと、ケチがついた建物となってしまったのである。

もともと明治初期の活字鋳造所や活字版印刷業者は、ほかの鋳物業者などと同様に、蒸気ボイラーなどに裸火をもちいていた。 そこでは風琴に似た構造の 「 鞴 フイゴ」 をもちいて風をつよく送り、火勢を強めて地金を溶解して 「 イモノ 」 をつくっていた。 ふつうの家庭では 「 火吹き竹 」 にあたるが、それよりずっと大型で機能もすぐれていた。 そのために鋳造所ではしばしば出火騒ぎをおこすことがおおく、硬い金属を溶解させ、さまざまな成形品をつくるための火を 玄妙な存在としてあがめつつ、火を怖れること はなはだしかった。 ちなみに、大型の足踏み式のフイゴは 「 踏鞴 タタラ 」と呼ばれる。このことばは現代でも、勢いあまって、空足を踏むことを 「 蹈鞴 タタラ を踏む 」 としてのこっている。

この蹈鞴 タタラ という名詞語は、ふるく用明天皇 ( 聖徳太子の父、在位585-87 ) の 『 職人鑑 』 に、 「 蹈鞴 タタラ 吹く 鍛冶屋のてこの衆 」 としるされるほどで、とてもながい歴史がある。 つまり高温の火勢をもとめて鋳物士 ( 俗にイモジ ) がもちいてきた用具である。 そのために近年まではどこの活字鋳造所でも、火伏せの祭神として、金屋子 カナヤコ 神、稲荷神、秋葉神などを勧請 カンジョウ して、朝夕に灯明を欠かさなかった。 また太陽の高度がさがり、昼がもっとも短い冬至の日には、ほかの鍛冶屋や鋳物士などと同様に、活字鋳造所でも 「 鞴 フイゴ 祭、蹈鞴 タタラ 祭 」 を催し、一陽来復を祈念することが常だった。 すなわちわずか20―30年ほど前までの活字鋳造業者とは、、火を神としてあがめ、不浄を忌み、火の厄災を恐れ、火伏せの神を信仰する 、異能な心性をもった、きわめて特殊な職人集団であったことを理解しないと、「 活字発祥の碑 」 建立までの経緯がわかりにくい。

それだけでなく、明治初期に勃興した近代活字鋳造業者は、どこも重量のある製品の運搬の便に配慮して 市街地中央に位置したために 類焼にあうこともおおく、火災にたいしては異常なまでの恐れをいだくふうがみられた。 ところで……、東京築地活版製造所の新社屋が巻き込まれた厄災とは、 関東大地震 による、まさに 《 火災 》 であった。

1923年(大正12)9月1日、午前11時53分に発生した関東大地震による被害は、死者9万9千人、行方不明4万3千人、負傷者10万人を越えた。 被害世帯も69万戸におよび、京浜地帯は壊滅的な打撃をうけた。 このときに際して、東京築地活版製造所では、なんと、新社屋への移転を翌日に控えて テンヤワンヤの騒ぎの最中であった……。

130年余の歴史を有する わが国の活字鋳造所が、火災 ・ 震災 ・ 戦災で、どれほどの被害を被ってきたのか、津田三省堂 ・ 第2代社長、津田太郎 ( 全日本活字会会長などを歴任。 1896 ― 不詳 )が 「 活版印刷の歴史 ―― 名古屋を中心として 」 と題して 『 活字界4号 』 ( 昭和40年2月20日 ) に報告しているので 該当個所を抜粋してみてみたい。最終部に 「 物資統制令 ・ 故鉛 」 ということばが出ている。 これを記憶しておいてほしい。

・明治42年12月、津田伊三郎が名古屋で活字 [ 取次販売 ] 業を開始する。 最初は [ それまでの名古屋の活字は大阪から導入していたが、津田伊三郎は東京の ] 江川活版製造所の活字を取次いだ[。ところ]が、たまたま同製造所がその前年に火災を罹り、水火を浴びた 熱変形を生じた不良の 活字母型を使用したため [ ] 、活字 [ の仕上がりが ] 不良で評判 [ ] 悪く、翌43年2月から、東京築地活版製作所の代理店として再出発した。

・明治42年、現在の鶴舞公園で共進会が開催せられ、印刷業は多忙を極めた。この頃の印刷界は [ 動力が ] 手廻しか、足踏式の機械が多く、動力 石油発動機、瓦斯機関 が稀にあった程度で [ あった。] 8頁 [ B4サイズほど ] の機械になると、紙差し、紙取り、人間動力=予備員という構成で 現代の人にこの意味が判るでしょうか あったが、この頃から漸次電力時代に移ってきた。

・活字界も太田誠貫堂が堂々 [ とブルース型 ] 手廻し鋳造機5台を擁し、燃料は石炭を使用していた。 その他には前述の盛功社が盛業中で、そこへ津田三省堂が開業した。 もっとも当時は市内だけでなく中部、北陸地区 [ を含めた商圏 ] が市場であり、後年に至り 津田三省堂は、津田伊三郎がアメリカ仕込み? の経営 コンナ言葉はなかったと思う で、通信販売を始め、特殊なものを全国的に拡販した。 五号活字が1個1厘8毛、初号 [ 活字 ] が4銭の記憶である。

・取引きも掛売りが多く、「 活字御通帳 をブラ下げて、インキに汚れた小僧さんが活字を買いに来た。 営業は夜10時迄が通常で、年末の多忙時は12時になることは常時で、現在から考えると文字通り想い出ばかりである。 活字屋風景として夜 [ になって ] 文撰をする時、太田誠貫堂は蔓のついたランプ 説明しても現代っ子には通じないことです )をヒョイと片手に、さらにその手で文撰箱を持って文字を拾う。

・盛功社は進歩的で、瓦斯の裸火 これは夜店のアセチレン瓦斯の燃えるのを想像して下さい をボウボウ燃やして、その下で [ 作業をし ]、また津田三省堂は 蝋燭を使用 燭台は回転式で蠟が散らない工夫をしたもの )、間もなく今度は吊り下げ式の瓦斯ランプに代えたが、コレはマントル 説明を省く [Gas Mantle  ガス-マントルのこと。ガス灯の点火口にかぶせて灼熱発光を生じさせる網状の筒。白熱套とも]をよく破り、後漸く電灯になった。 当時は10燭光 タングステン球 であったが、暗いので16燭光に取り代えて贅沢だ! と叱られた記憶すらある。

・当時の一店の売上げは最高で20円位、あとは10円未満が多かった。 もっとも日刊新聞社で月額100円位であったと思う。 当時の 新愛知 名古屋新聞社 共に [ ブルース型 ] 手廻し鋳造機が2―3台あり五号 活字 位を鋳造していた )。

・大正元年 大阪の啓文社が支店を設け [ たために、地元名古屋勢は ] 大恐慌を来したが、2―3年で [ 大阪に ] 引き揚げられた。またこのあと活字社が創業したが、暫く経て機械専門に移られた。当時は着物前垂れ掛で 小僧 と呼ばれ、畳敷きに駒寄せと称する仕切りの中で、旦那様や番頭さんといっても1人か2人で店を切り廻し、ご用聞きも配達もなく至ってのんびりとしたものである。

・大正3年、津田三省堂が9ポイント 活字 を売り出した。 名古屋印刷組合が設立せられ、組合員が68軒、従業員が551人、組合費収入1ヶ月37円26銭とある。 7年は全国的に米騒動が勃発した。 この頃岐阜に博進社、三重県津市に波田活字店が開業した。

・大正11年、盛功社 が取次だけでなく 活字鋳造を開始。 国語審議会では当用漢字2,113字に制限 [ することを ] 発表したが、当時の東京築地活版製造所社長野村宗十郎が大反対運動を起している。

・大正12年9月、東京大震災があり、新社屋を新築してその移転前日の東京築地活版製造所は、一物[]残さず灰燼に帰した。その為に津田三省堂も供給杜絶となり遂に殉難して休業のやむなきにいたった。

・大正14年秋、津田三省堂は鋳造機 手廻し [ ブルース型活字鋳造機 ] 6台 )を設置 [ して ] 再起した。 活字界の元老 野村宗十郎の長逝も本年である。

・大正15年、硝子活字 初号のみ )、硬質活字等が発表されたが、普及しなかった。

・昭和3年、津田三省堂西魚町より鶴重町に移転。 鉛版活字 仮活字 を売り出す。 また当時の欧文活字の系列が不統一を嘆じ、英、仏、独、露、米より原字を輸入して100余種を発表した。

・昭和5年1月、特急つばめが開通、東京―大阪所要時間8時間20分で、昭和39年10月の超特急は4時間、ここにも時代の変遷の激しさが覗われる。

・昭和5年、津田三省堂は林栄社の [ トムソン型 ] 自動 活字 鋳造機2台を新設、[ ブルース型 ] 手廻し鋳造機も動力機に改造し12台をフルに運転した。

・昭和6年、津田三省堂で宋朝活字を発売した。

・昭和8年、津田三省堂が本木翁の 陶製 胸像3000余体を全国の祖先崇拝者に無償提供の壮挙をしたのはこの年のことである。

・昭和10年、満州国教科書に使用せられた正楷書を津田三省堂が発売した。 当時の名古屋市の人口105万、全国で第3位となる。

・昭和12年5月、汎太平洋博覧会開催を契機として、全国活字業者大会が津田伊三郎、渡辺宗七、三谷幸吉( いずれも故人 ) の努力で、名古屋市で2日間に亘り開催、活字の高さ 0.923吋 と決定するという歴史的一頁を作った。

・昭和12年 7月7日、北支芦溝橋の一発の銃声は、遂に大東亜戦争に拡大し、10余年の永きに亘り国民は予想だにしなかった塗炭の苦しみを味わうに至った。 物資統制令の発令 [によって] 活字の原材料から故鉛に至るまで その対象物となり、業界は一大混乱をきたした。 受配給等のため活字組合を結成し、中部は長野、新潟の業者を結集して、中部活字製造組合を組織して終戦時まで努力を続けた。

・次第に空襲熾烈となり、昭和20年3月、名古屋市内の太田誠貫堂、盛功社、津田三省堂、平手活字、伊藤一心堂、井上盛文堂、小菅共進堂は全部被災して、名古屋の活字は烏有に帰した。

 津田太郎の報告にみるように、関東大地震のため、東京築地活版製造所は不幸なことに 「 新社屋を新築して その移転前日の東京築地活版製造所は、一物も残さず灰燼に帰した 」のである。 活字鋳造機はもちろん、関連機器、活字在庫も烏有に帰したが、不幸中の幸いで、重い活字などの在庫に備えて堅牢に建てられたビル本体は、軽微な損傷で済んだ。 野村宗十郎はさっそく再建の陣頭指揮にあたり、兄弟企業であった大阪活版製造所からの支援をうけて再興にとりかかった。

ところが……、本来なら、あるいは設立者の平野富二なら、笑い飛ばすであろう程度のささいなことながら、震災を契機として、ひそかにではあったが、この場所のいまわしい過去と、新築ビルの易学からみた、わるい風評がじわじわとひろがり、それがついに野村宗十郎の耳に入るにいたったのである。 こんな複雑な背景もあって、この瀟洒なビルはほとんど写真記録をのこすことなく消えた。 不鮮明ながら、ここにわずかにのこった写真図版を 『 活字発祥の碑 』 から紹介しよう。
1921年(大正10)ころ、取り壊される前の東京築地活版製造所。

1923年(大正12)竣工なった東京築地活版製造所。
正門がある角度からの写真は珍しい

平野富二の首証文
東京築地活版製造所の前身、平野富二がここに仮社屋を建てて、長崎新塾出張活版製造所、通称 ・ 平野活版所の看板を掲げたのは1873年 ( 明治6 ) で、赤煉瓦の工場が完成したのは翌1874年のことであった。 長崎からの進出に際し、平野富二は ―― 長崎の伝承では 六海社 ( 現 ・ 長崎十八銀行の源流のひとつ ) に、平野家の伝承では薩摩藩出身の豪商 ・ 五代友厚 ( 大阪で造船 ・ 紡績 ・ 鉱山 ・ 製銅などの業を興し、大阪株式取引所、現大阪商工会議所などの創立に尽力。1835―85 ) 宛に―― 「 首証文 」 を提出して、資金援助を仰いでいた。 現代では理解しがたいことではあるが、明治最初期の篤志家や資産家は まだ侠気があって、平野のような意欲と才能のある若者の起業に際して、積極的な投資をするだけの胆力をもっていた。 筆者は、長崎の伝承と平野家の伝承も、ともに真実を伝えるものであり、平野はこの両社に 「 首証文 」 を提出して資金を得たとみているが、何分確たる資料はのこっていない。

すなわち平野富二は 「 この金を借りて、活字製造、活版印刷の事業をおこし、万が一にもこの金を返金できなかったならば、この平野富二の首を差しあげる 」 ( 平野義太郎 『 印刷界31 4P  昭和46年11月5日』 ) という、悲愴なまでの覚悟と、退路を断っての東京進出であった。ときに平野富二26歳。

この 「 平野富二首証文 」 の事実は意外と知られず、長崎新塾活版製造所が、すなわち本木昌造が東京築地活版製造所を創立したとするかたむきがある。 しかしながら、平野の東京進出に際して、本木昌造は新街私塾の人脈を紹介して支援はしているが、資金提供はしていないし、借入金の保証人になることもなかった。 それでも平野は可憐なまでに、本木を 「 翁 」 としてたて、その凡庸で病弱な後継者 ・ 本木小太郎に仕えた。

東京築地活版製造所の創立者を 本木昌造におくのはずっと時代がさがって、野村宗十郎の社長時代に刊行された 『 東京築地活版製造所紀要 』 にもとづいている。 これもちかじか紹介し たい資料である。 薩摩藩士でありながら、本木昌造の新街私塾にまなび、大蔵省の高級官僚だった野村宗十郎を同社に迎えたとき、どういうわけか平野富二は倉庫掛の役職を野村に振った。 おそらく活字製造に未経験だった野村に、まず在庫の管理からまなばせようとしたものとおもわれるが、自負心と上昇意欲がつよく、能力もあった野村は どうやらこの待遇に不満があったとみられる。 しがたって野村が昇進をかさね、社長就任をみてからは、東京築地活版製造所の記録から、平野の功績を抹消することに 蒼いほむら を燃やし続けた。

移転当時は大火災の跡地であった築地界隈
東京築地活版製造所の敷地に関して、牧治三郎は次のようにしるしている。―― 「 平野富二氏の買求めたこの土地の屋敷跡は、江戸切絵図によれば、秋田淡路守の子、秋田筑前守 ( 五千石 ) 中奥御小姓の跡地で、徳川幕府瓦解のとき、此の邸で、多くの武士が切腹した因縁の地で、主なき門戸は傾き、草ぼうぼうと生い茂って、近所には住宅もなく、西本願寺を中心にして、末派の寺と墓地のみで、夜など追剥ぎが出て、1人歩きが出来なかった」。

ところが、牧治三郎が江戸切絵図で調べたような情景は、1872年(明治5)2月25日までのことである。 どうやら牧はこの記録を見落としたようだが、この日、銀座から築地一帯に強風のなかでの大火があって、築地では西本願寺の大伽藍はもちろん、あたり一帯が焼け野原と化した。 そして新政府は、同年7月13日に東京中心部の墓地を移転させる構想のもとに、青山墓地をつくり、あいついで 雑司ヶ谷、染谷、谷中などに巨大墓地をつくって市中から墓地の移転をすすめていた。 したがって築地西本願寺の墓地は、ねんごろに除霊をすませて、これらの新設墓地へ移転していたのである ( 『 日本全史 』 講談社 918ページ 1991年3月20日 )。

江戸切絵図
数寄屋橋から晴海通りにそって、改修工事中の歌舞伎座のあたり、采女ヶ原の馬場を過ぎ、万年橋を渡ると永井飛騨守屋敷 現松竹ビル )、隣接して秋田筑後守屋敷跡が東京築地活版製造所 現懇話ビル となった。 いまは電通テックビルとなっているあたり、青山主水邸の一部が平野家、松平根津守邸の一部が上野景範家で、弘道軒 神﨑正誼がこの上野の長屋に寄留して 清朝活字 を創製した。 活字製造者やタイポグラファにとっては まさにゆかりの地である。


大火のあとの煉瓦建築
創業時からの東京築地活版製造所の建物が煉瓦造りであった……、とする記録に関心をむけた論者はいないようである。 もともとわが国の煉瓦建築の歴史は 幕末からはじまり、地震にたいする脆弱さをみせて普及が頓挫した関東大地震までのあいだまで、ほんの65年ほどという、意外と短い期間でしかなかった。 わが国で最初の建築用煉瓦がつくられたのは1857年 ( 安政4 ) 長崎の溶鉄所事務所棟のためだったとされる。 その後幕末から明治初期にかけて、イギリスやフランスの お雇い外国人 の技術指導を受けて、溶鉱炉などにもちいた白い耐火煉瓦と、近代ビルにもちいた赤い建築用の国産煉瓦がつくられた。 それが一気に普及したのは、前述した1872年 ( 明治5 ) 2月25日におきた 銀座から築地一帯をおそった大火のためである。

築地は西本願寺の大伽藍をはじめとして 一帯が全焼し、茫茫たる焼け野原となった。 その復興に際して、明治新政府は、新築の大型建築物は煉瓦建築によることを決定した。 また、この時代のひとびとにとっては、重い赤色の煉瓦建築は、まさしく文明開化を象徴する近代建築のようにもみえた。 そのために東京築地活版製造所は 、社史などに わざわざ 煉瓦建築で建造したと、しばしば、あちこちにしるしていたのである。 さらに平野富二にとっては、水運に恵まれ、工場敷地として適当な広大な敷地を、焼亡して、除霊までなされた適度な広さの武家屋敷跡を、わずかに1,000円という、おそらく当時の物価からみて低額で獲得することができたのである。 その事実を購入価格まで開示して、出資者などにたいし、けっして無駄なな投資をしたのではないことを表示していていたものとみたい。すなわち、牧治三郎が述べた 「 幕末切腹事件 」 などは、青雲の志を抱いて郷関をでた平野富二にとって、笑止千万、聞く耳もなかったこととおもわれる。

新ビルの正門は裏鬼門に設けられた
「寝た子をおこすな」という俚諺がある。 牧治三郎が短い連載記事で述べたのは、もしかすると、あまりにも甚大な被害をもたらした関東大地震の記憶とともに、歴史の風化に任せてもよかったかもしれないとおもったことがある。 このおもいを牧に直接ぶつけたことがあった。 [ 西川さんが指摘されるまで、東京築地活版製造所の従業員は、正門が裏鬼門にあることを意識してなかったのですか? ]。 「 もちろんみんな知ってたさ。 とくにイモジ [ 活字鋳造工 ] の連中なんて、活字鋳造機の位置、火口 ヒグチ の向きまで気にするような験 ゲン 担ぎの連中だった。 だから裏鬼門の正門からなんてイモジはだれも出りしなかった。 オレだって建築中からアレレっておもった。 大工なら鬼門も裏鬼門もしってるし、あんなとこに正門はつくらねぇな。 知らなかったのは、帝大出のハイカラ気取りの建築家と、野村先生だけだったかな 」。 [ それで、野村宗十郎は笑い飛ばさなかったのですか? ]。 「 野村先生は、頭は良かったが、気がちいせえひとだったからなぁ。 震災からこっち、ストはおきるし、金は詰まるしで、それを気に病んでポックリ亡くなった 」。

東京築地活版製造所の新ビルの正門は、家相盤「家相八方吉凶一覧」でいう、裏鬼門に設けられた。

家相八方位吉凶からみた裏鬼門
宅地や敷地の相の吉凶を気にするひとがいる。 ふるくは易学として ひとつの学問体系をなしていた。 あらためてしるすと、このビルは1938年(昭和13)東京築地活版製造所の解散にともなって「 懇話会 」 に売却され、1971年 ( 昭和46 ) まで懇話会が一部を改修して使用していたが、さすがに老朽化が目立って取り壊され、その跡地には引き続いてあたらしい懇話会館ビルが新築されてこんにちにいたっている。 取り壊し前の東京築地活版製造所の新ビルの正門は、西南の角、すなわち易学ではもっとも忌まれる死門、坤 に設けられていた。 現代ではこうした事柄は迷信とされて一笑に付されるが、ひとからそれをいわれればおおかたは気分の良いものではない。 牧治三郎は取り壊しが決定したビルの こうした歴史を暴きたてたのである。 まさしく 「 寝た子をおこした 」 のである。

これからその牧の連載を紹介したい。 ここには東京築地活版製造所が、必ずしも平坦な道を歩んだ企業ではなく、むしろ官業からの圧迫に苦闘し、景気の浮沈のはざまでもだき、あえぎ、そして長崎人脈が絶えたとき、官僚出身の代表を迎えて、解散にいたるまでの歴史が丹念につづられている。 これについで、次回には 当時の印刷人や活字人が、牧の指摘をうけて、どのように周章狼狽、対処したのかを紹介することになる。

*      *

旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し

牧 治三郎
『活字界 21号』(編集 ・ 発行  全日本活字工業会  昭和46年5月20日)

東京築地活版製造所の本社工場の新ビルディングは、大正12年 1923 3月に竣工した。 地下1階地上4階の堂々たるコンクリート造りで、活字や印刷機器の重量に耐える堅牢な建物であった。 ところが竣工から間もなく、同年9月1日午前11時58分に襲来した関東大地震によって、東京築地活版製造所の新ビルは 焼失は免れたものの、設備の一切は火災によって焼失した。 また隣接して存在していた、同社設立者の平野家も、土蔵を除いて焼失した。 焼失を免れたこのビルは1971年(昭和46)まで懇話会館が使用していたが老朽化が目立って、全面新築されることになったことをきっかけとして牧治三郎による連載記事が掲載された。

活字発祥の歴史閉じる
旧東京築地活版製造所の建物が、新ビルに改築のため、去る3月から、所有者の懇話会館によって取壊されることになった。 この建物は、東京築地活版製造所が、資本金27万5千円の大正時代に、積立金40万円 ( 現在の金で4億円 ) を投じて建築したもので、建てられてから僅かに50年で、騒ぎたてるほどの建物ではない。 ただし活字発祥一世紀のかけがえのない歴史の幕が、ここに閉じられて、全くその姿を消すことである。

大正12年に竣成
[ 東京築地活版製造所の旧社屋は ] 大正11年、野村宗十郎社長の構想で、地下1階、地上4階、天井の高いどっしりとした建物だった。 特に各階とも一坪当り3噸 トン の重量に耐えるよう設計が施されていた。

同12年7月竣成後、9月1日の関東大震災では、地震にはビクともしなかったが、火災では、本社ばかりか、平野活版所当時の古建材で建てた 月島分工場も灰燼に帰した。 罹災による被害の残した大きな爪跡は永く尾を引き、遂に築地活版製造所解散の原因ともなったのである。

幸い、大阪出張所 [ 大阪活版製造所 ] の字母 [ 活字母型 ] が健在だったので、1週間後には活字販売を開始、[ した ]。 いまの東京活字 [ 協同 ] 組合の前身、東京活字製造組合の罹災 [ した ] 組合員も、種字 [ 活字複製原型。 ここでは電鋳法母型か 種字代用の活字そのもの ] の供給を受けて復興が出来たのは、野村社長の厚意によるものである。
平野富二が最初に東京の拠点を設けた場所として 外神田佐久間町3丁目旧藤堂邸内 [ 門前とも ] の長屋 としばしばしるされるが、正確な場所の特定はあまり試みられていない。 東都下谷絵圖 1862 を手にしてJR秋葉原駅から5分ほどの現地を歩いてみると、神田佐久間町3丁目は地図左端、神田川に沿って現存しており、現状の町並みも小規模な印刷所が多くてさほど大きな変化はない。 すなわち藤堂和泉守屋敷は、台東区立和泉小学校となり、その路地を挟んで佐竹右京太夫邸との間の、細長い民家の家並みが 長屋 」跡とみられ 、その神田佐久間町三丁目の一部が、平野の最初の拠点であったとみられる。 尾張屋静七判『 江戸切絵図 人文社 1995年4月20日 )

 明治5年外神田で営業開始
東京築地活版製造所の前身は周知の通り、本木昌造先生の門弟、平野富二氏が、長崎新塾出張活版製造所の看板を、外神田佐久間町3丁目旧藤堂邸内の長屋に出して、ポンプ式手廻鋳造機 [ このアメリカ製のポンプ式ハンドモールド活字鋳造機は、平野活版所と紙幣寮が導入していたとされる。わが国には実機はもとより、写真も存在しない ] 2台、上海渡りの8頁ロール 人力車廻し [ B4判ほどの、インキ着肉部がローラー式であり、大型ハンドルを手で回転させた印刷機 ] 1台、ハンドプレス [ 平圧式手引き活版印刷機 ] 1台で、東京に根を下ろしたのが、太陰暦より太陽暦に改暦の明治5年だった。

新塾活版開業の噂は、忽ち全市の印刷業者に伝わり、更らにその評判は近県へもひろがって、明治初期の印刷業者を大いに啓蒙した。

 明治6年現在地に工場に建築
翌6年8月、多くの印刷業者が軒を並べていた銀座八丁をはさんで、釆女が原 ウネメガハラ から、木挽町 コビキチョウ を過ぎ、万年橋を渡った京橋築地2丁目20番地の角地、120余坪を千円で買入れ、ここに仮工場を設けて、移転と同時に、東京日日新聞の8月15日号から6回に亘って、次の移転広告を出した。

是迄外神田佐久間町3丁目において活版並エレキトルタイプ銅版鎔製摺機附属器共製造致し来り候処、今般築地2丁目20番地に引移猶盛大に製造廉価に差上可申候間不相変御用向之諸君賑々舗御来臨のほど奉希望候也 明治6年酉8月 東京築地2丁目万年橋東角20番地
長崎新塾出張活版製造所 平野富二

移転当時の築地界隈
平野富二氏の買求めたこの土地の屋敷跡は、江戸切絵図によれば、秋田淡路守の子、秋田筑前守 五千石 中奥御小姓の跡地で、徳川幕府瓦解のとき、此の邸で、多くの武士が切腹した因縁の地で、主なき門戸は傾き、草ぼうぼうと生い茂って、近所には住宅もなく、西本願寺の中心にして、末派の寺と墓地のみで、夜など追剥ぎが出て、1人歩きが出来なかった。

煉瓦造工場完成
新塾活版 [ 長崎新塾出張活版製造所 ] の築地移転によって、喜んだのは銀座界隈の印刷業者で、 神田佐久間町まで半日がかりで活字買い [ に出かける ] の時間が大いに省けた。 商売熱心な平野氏の努力で、翌7年には本建築が完成して、鉄工部を設け、印刷機械の製造も始めた。

勧工寮と販売合戦
新塾活版 [ 長崎新塾出張活版製造所 ] の活字販売は、もとより独占というわけにはいかなかった。銀座の真ん中南鍋町には、平野氏出店の前から流込活字 [ 活字ハンドモールドを用いて製造した活字 ] で売出していた 志貴和助や大関某 [ ともに詳細不詳 ] などの業者にまじって、赤坂溜池葵町の工部省所属、勧工寮活版所も活字販売を行っていた。同9年には、更らに資金を投じて、工場設備の拡張を図り、煉瓦造り工場が完成した。

勧工寮は、本木系と同一系統の長崎製鉄所活版伝習所の分派で、主として太政官日誌印刷 [ を担当していた ] の正院印書局のほか、各省庁及府県営印刷工場へ活字を供給していたが、平野氏の進出によって、脅威を受けた勧工寮は、商魂たくましくも、民間印刷工場にまで活字販売網を拡げ、事毎に新塾活版 [ 長崎新塾出張活版製造所 ] を目の敵にして、永い間、原価無視の安売広告で対抗し、勧工寮から印書局に移っても、新塾活版 [ 長崎新塾出張活版製造所 ]の手強い競争相手だった。

活字割引販売制度
この競争で、平野氏が考え出した活字定価とは別に、割引制度を設けたのが慣習となって、こんどの戦争 [ 太平洋戦争 ] の前まで、どこの活字製造所でも行っていた割引販売の方法は、もとを質だせば、平野活版所と勧工寮との競争で生れた制度を踏襲した [ もの ] に外ならない。 勧工寮との激烈な競争の結果、一時は、平野活版所 [ 長崎新塾出張活版製造所 ]の身売り説が出たくらいで、まもなく官営の活字販売が廃止され、平野活版所 [ 長崎新塾出張活版製造所 ]も漸やく、いきを吹き返す事が出来た。

西南戦争以後の発展と母型改刻
西南戦争 [ 1877/明治10年 ] を最後に、自由民権運動の活発化とともに、出版物の増加で、平野活版所 [ 長崎新塾出張活版製造所 ]は順調な経営をつづけ、そのころ第1回の明朝体 [ 活字 ] 母型の改刻を行い、その見本帳が明治12年6月発行された [ 印刷図書館蔵 ]

次いで、同14年には、活版所の地続き13番地に煉瓦造り棟を新築し、この費用3千円を要した。 残念なことに、その写真をどこへしまい忘れたか見当らないが、同18年頃の、銅版摺り築地活版所の煉瓦建の隣りに建てられていた木造工場が、下の挿図である。 この木造工場は、明治23年には、2階建煉瓦造りに改築され、最近まで、その煉瓦建が平家で残されていたからご承知の方もおられると思う。

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続 旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し

牧 治三郎
『活字界 22号』 ( 編集 ・ 発行  全日本活字工業会  昭和46年7月20日 )

8万円の株式会社に改組
明治18年4月、資本金8万円の株式会社東京築地活版製造所と組織を改め、平野富二社長、谷口黙次副社長 [ 大阪活版製造所社長を兼任 ]
、曲田成支配人、藤野守一郎副支配人、株主20名、社長以下役員15名、従業員男女175名の大世帯に発展した。
その後、数回に亘って土地を買い足し、地番改正で、築地3丁目17番地に変更した頃には、平野富二氏は政府払下げの石川島 [ 平野 ] 造船所の経営に専念するため曲田成社長と代わった。

 築地活版所再度の苦難
時流に乗じて、活字販売は年々順調に延びてきたが、明治256年ごろには、経済界の不況で、築地活版は再び会社改元の危機に直面した。 活字は売れず、毎月赤字の経営続きで、重役会では2万円の評価で、身売りを決定したが、それでも売れなかった。

社運挽回のため、とに角、全社員一致の努力により、当面の身売りの危機は切抜けられたが、依然として活字の売行きは悪く、これには曲田成社長と野村支配人も頭を悩ました。

戦争のたびに発展
明治278年戦役 [ 日清戦争 ] の戦勝により、印刷界の好況に伴い、活字の売行きもようやく増してきた矢先、曲田成社長の急逝で、築地活版の損害は大きかったが、後任の名村泰蔵社長の積極的経営と、野村支配人考案のポイント活字が、各新聞社及び印刷工場に採用されるに至って、築地活版は日の出の勢いの盛況を呈した。

次いで、明治37-8年の日露戦役に続いて、第一次世界大戦後の好況を迎えたときには、野村宗十郎氏が社長となり、前記の如く築地活版所は、資本金27万5千円に増資され、50万円の銀行預金と、同社の土地、建物、機械設備一切のほか、月島分工場の資産が全部浮くという、業界第一の優良会社に更生し、同業各社羨望の的となった。

このとき同社の [ 活字 ] 鋳造機は、手廻機 [ 手廻し式活字鋳造機 ブルース型活字鋳造機 ] 120台、米国製トムソン自動 [ 活字 ] 鋳造機5台、仏国製フユーサー自動 [ 自動 ] 鋳造機 [ 詳細不明。 調査中 ] 1台で、フユーサー機は日本 [ 製の ] 母型が、そのまま使用出来て重宝していた。

借入金の重荷と業績の衰退
大正14年4月、野村社長は震災後の会社復興の途中、68才で病歿 [ した。 その ]後は、月島分工場の敷地千五百坪を手放したのを始め、更に復興資金の必要から、本社建物と土地を担保に、勧銀から50万円を借入れたが、以来、社運は次第に傾き、特に昭和3年の経済恐慌と印刷業界不況のあおりで、業績は沈滞するばかりであった。 再度の社運挽回の努力も空しく、勧業銀行の利払 [ ] にも困窮し、街の高利で毎月末を切抜ける不良会社に転落してしまった。

正面入口に裏鬼門
[ はなしが ] 前後するが、ここで東京築地活版製造所の建物について、余り知られない事柄で [ はあるが ] 、写真版の社屋でもわかる通り、角の入口が易 [ ] でいう鬼門[裏鬼門にあたるの]だそうである。

東洋インキ製造会社の 故小林鎌太郎社長が、野村社長には遠慮して話さなかったが、築地活版 [ 東京築地活版製造所 ]の重役で、 [ 印刷機器輸入代理店 ] 西川求林堂の 故西川忠亮氏に話したところ、これが野村社長に伝わり、野村社長にしても、社屋完成早々の震災で、設備一切を失い、加えて活字の売行き減退で、これを気に病んで死を早めてしまった。

次の松田精一社長のとき、この入口を塞いでしまったが、まもなく松田社長も病歿。そのあと、もと東京市電気局長の大道良太氏を社長に迎えたり、誰れが引張ってきたのか、宮内省関係の阪東長康氏を専務に迎えたときは、裏鬼門のところへ神棚を設け、朝夕灯明をあげて商売繁盛を祈ったが、時既に遅く、重役会は、社屋九百余坪のうち五百坪を42万円で転売して、借金の返済に当て、残る四百坪で、活版再建の計画を樹てたが、これも不調に終り、昭和13年3月17日、日本商工倶楽部 [ ] の臨時株主総会で、従業員150余人の歎願も空しく、一挙 [ ] 解散廃業を決議して、土地建物は、債権者の勧銀から現在の懇話会館に売却され、こんどの取壊しで、東京築地活版製造所の名残が、すっかり取去られることになるわけである。

以上が由緒ある東京築地活版製造所社歴の概略である。 叶えられるなら、同社の活字開拓の功績を、棒杭でよいから、懇話会館新ビルの片すみに、記念碑建立を懇請してはどうだろうか。 これには活字業界ばかりでなく、印刷業界の方々にも運動参加を願うのもよいと思う。

旧東京築地活版製造所その後

全日本活字工業会 広報部 中村光男
( 『 印刷界22号 』 囲み記事として広告欄に掲載された )

東京活字協同組合では6月27日開催の理事会で 旧東京築地活版製造所跡に記念碑を建設する件 について協議した。 旧東京築地活版製造所跡の記念碑建設については本誌 活字界 に牧治三郎氏が取壊し記事を掲載したことが発端となり、牧氏と 同建物跡に建設される 懇話会館の八十島 [ 耕作 ] 社長との間で話し合いが行なわれ、八十島社長より好意ある返事を受けることができた。

この日の理事会は こうした記念碑建設の動きを背景に協議を重ねた結果、今後は全日本活字工業会および東京活字協同組合が中心となって、印刷業界と歩調を併せ、記念碑建設の方向で具体策を進めていくことを確認。 この旨全印工連、日印工、東印工組、東印工へ文書で申し入れることとなった。

花こよみ 002

初   恋

詩のこころ、無き身なば
古今東西、四季折々のうた、ご紹介奉らん。

まだあげ初 ソ めし前髪の
林檎 リンゴ のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思いけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたえしは
薄紅 ウスクレナイ の秋の実に
人こい初 ソ めしはじめなり

わがこころなきためいきの
その髪の毛にかかるとき
たのしき恋の盃を
君が情 ナサケ けに酌みしかな

林檎畑の樹 コ の下に
おのずからなる細道は
誰 タ が踏みそめしかたみとぞ
問いたもうこそこいしけれ

                                                      ――――― 島崎藤村 ( 1872―1943 )