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朗文堂-好日録022 吉田佳広 水彩画展を観覧

《2012年11月05日 吉田佳広 水彩画展 の観覧に出かけた》
11月05日は月曜日だったが、吉田佳広さんの水彩画個展 のオープニングだった。
もとから出不精のせいもあり、会社にきてからスケジュールを確認した。オープニングのことはうっかり忘れていたし、ひどく寒かったので、ひどい身なりで出社していた。
したがってオープニング・パーティーに出かけるのには、およそふさわしくない不格好だったが、久しぶりに吉田佳広さんにお会いできるならと、失礼を顧みず代代木駅前の会場にかけつけた。

さほど広い会場ではなかったが「風景からの手紙」と題されたように、各地をたずね歩き、その風景を、繊細かつ瀟洒に、愛情をもって描いた水彩画で溢れていた。
会場には主催者の吉田佳広さんをはじめ、多くの先輩・知人がいた。中には数年ぶりにお会いできたタイポグラファもいて、うれしくも、なごやかなパーティであった。

やつがれ、この歳ともなれば、たいていの人や物には驚かないし、怖くはないが、この吉田佳広さんというひとには、ともかく〔ヨワイ〕のである。
いや、もうひとかたいらした……。こちらは吉田市郎さんである。
両吉田さんと、やつがれの 3 人は、ふしぎなことに、皆がひとまわりずつ異なる酉トリ年のうまれである。そのせいか波長は合うが、おふたかたとも大先輩だけに、ともかく〔ヨワイ〕のである。
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◎ 吉田市郎 Yoshida Ichiro   1921年(大正10)酉年うまれ
吉田市郎 さんは、欧文活字の雄とされた「晃文堂株式会社」の創業者。
また時代の変化をいちはやく読み切り、大胆に写真植字機と写植文字板製造に踏みきって「リョービ印刷機販売 → リョービイマジクス」を設立されたひとである。

デジタル時代が到来すると、これまた大胆な取り組みをみせ、自社書体をいちはやくデジタル化したばかりでなく、財団法人日本規格協会文字フォント開発普及センターの委嘱をうけ、平成書体シリーズの中核をなす「平成明朝」をリョービグループを叱咤激励して納期内に製作させた。文字どおり戦後日本のタイポグラフィの開拓者のおひとりであった。

社長 ≒ タイプディレクターとして吉田市郎さんがのこされた書体は、膨大な欧文活字書体をはじめ、故杉本幸治氏を起用して製作した「晃文堂明朝・本明朝シリーズ」、血縁の関係で藤田活版から原字資料の提供を受け、社内スタッフを中心に改刻を加えながら製作した「晃文堂ゴシックシリーズ」、水井正氏・味岡伸太郎氏と、タイプバンクの協力で製作した「ナウ・シーズ」・「味岡伸太郎かなファミリー」など、枚挙にいとまがないほどである。

吉田市郎 1921年(大正10)新潟県柏崎市出身。名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒業。戦時召集解除ののち 1947 年神田鍛冶町に欧文活字の専門店「晃文堂有限会社 → 晃文堂株式会社」を創立。のちにリョービ・グループのいち企業「リョービ印刷機販売株式会社 → リョービイマジクス株式会社」社長となり、同社会長職をもって退任して現在にいたる。酉年うまれ。
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◎ 吉田佳広  Yoshida Yoshihiro   1933年(昭和08)酉年うまれ
長崎県長崎市出身。中央大学法学部卒。高橋正人デザイン研究所修了。1966年吉田佳広デザイン研究室設立、1996年有限会社ヨシダデザインオフィスに改組。ACC殿堂入り。ADC賞、電通賞、ACC賞など受賞。著作『ベストレタリング』など多数。日本グラフィックデザイナー協会所属。

吉田佳広さんは、朗文堂からも 2 冊の著作を発表された。
『文字の絵本 風の又三郎』(吉田佳広、1984年01月、品切れ)
『マップ紀行 おくのほそ道』(吉田佳広、1985年03月、品切れ)

吉田佳広さんは、かつては日本タイポグラフィ協会に所属し、同協会内にタイポグラフィのユニット「タイポアイ」を結成し「暮らしの中に文字を」を主張して長年にわたって活動をつづけた。また、ここ数年熱心にとり組んでいる「地球はともだち チャリティー・カレンダー展」の中心メンバーとして出展・活動されるほどの壮健さである。
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そしてやつがれが、1945年(昭和20)酉年うまれとなる次第。
吉田佳広さんにお会いするのはほぼ 2 年ぶりだった。この間に吉田さんは少少体調を崩されたが完全復調された。
「いやぁ~、歳くったら髪がうすくなっちゃってさぁ。だから帽子かぶってんだよ。ガハハ」
いつもの調子で笑いとばした。お得な性格である。
隣にいた「タイポアイ」の同志、中島安貴輝  さんは複雑な表情をされていたけど……。

朗文堂-好日録021 日藝 タイポグラフィ セミナー

       

日本大学藝術学部デザイン学科 特別講義

Typography Seminar
Helmut Schmid
Jiro Katashio
Akiteru Nakajima
2012年10月27日[土] 14:00-17:50
展示/デザイン・プレゼンテーションルーム
講演/日本大学藝術学部 江古田校舎 西棟B1
企画・進行/細谷 誠専任講師

                              [告知ポスター Design : 日大藝術学部デザイン学科 細谷 誠専任講師]

《日本大学藝術学部デザイン学科特別講義  Typography Seminar 前夜祭?》
爽やかな秋の毎日がつづいた。この時期は、梨、葡萄、柿とおいしい果物がたわわにみのり、食欲も意欲も増進するまいにちであった。まさしく食欲の秋である。
イベントもかさなり、ふだんからとことん出不精をきめこんでいるやつがれも、いやいやながら、なにかとかり出される季節でもある。
2012年10月27日、日本大学藝術学部デザイン学科特別講義  Typography Seminar が開催された。
第一報として《朗文堂 NEWS》には報告したが、ここでは気軽な内輪ばなしを中心に皆さまにご紹介しよう。

その前日、10月26日[金]には タイポグラフィ学会 月例定例会が夕刻から開催されていた。議題がほぼ終了し、雑談に移りかけていた 22 時ころ、翌日の講演会に備えて、南新宿のホテルに宿泊しているはずのヘルムート・シュミット氏が、突如タイポグラフィ学会定例会の会場に登場した。しかも桑沢デザイン研究所非常勤講師/阿部宏史さんと、その学生さんら数名と一緒の来訪であった。

たちまち狭い部屋は交流・懇親の会場に変貌し、シュミット氏お気に入りの赤ワイン「ラクリマ・クリスティー デル・ヴェスーヴィオ・ロッソ」 は店が閉まっていて買えなかったが、久しぶりの再開を祝して「とりあえずビール」での乾杯!
学生諸君は早めに引きあげたが、部屋の熱気はますばかり。熱いタイポグラフィ議論があちこちで交わされていた。

あ~あ、明日はシュミット氏もやつがれも、日藝講演会での講師だというのになぁ……。
結局皆さんはほぼ終電での帰宅。シュミット氏は酔い覚ましをかねて、新宿南口のホテルまでブラブラ歩きでひきあげられたのは、夜もだいぶ更けてからのことであった。
それにしても、年寄り モトイ 年輩者のほうが元気いっぱいなのはなぜだろう……。ト ふとおもう。


《 2012年10月27日、日大藝術学部デザイン学科特別講義  Typography Seminar 本番》
この日藝 Typography Seminar の企画・展示・進行は、同大の細谷 誠専任講師。
細谷 誠専任講師 は、岐阜県立国際情報科学芸術アカデミー(IAMAS)アートアンド・メディア・ラボ科の学生だったころに、シュミット氏の『バーゼルへの道』(朗文堂、1997年6月初版、品切れ中、増刷予定あり)を購読されて大きな感銘をうけ、デザインの道へ本格的にすすむ決意をされたそうである。

お世辞半分としてもうれしいはなしであるが、その反面、版元としては襟を正さなければという責任をひしひしと感じさせられた。
『バーゼルへの道』は第一刷り、第二刷りと版をかさねたが、現在は残念ながら品切れ中である。いずれ機会をみて第三刷りにとりくみたいところである。

特別講義の講師は、中島安貴輝主任教授と、ゲストとして、中島さんと年代がちかく、長年にわたって親好がふかい(悪友 !?)関係だった、ヘルムート・シュミットさん、片塩二朗の 3 名。各講師30 分の持ち時間で講演のあと、トークセッションにはいる。

      

Typography Seminar は、展示会と特別講義・トークセッションで構成されていた。
展示会は、中島安貴輝主任教授の長年にわたるデザイン活動と、デザイン教育を綴り、それを記録・展示し、次代のデザインを背負う学生の皆さんと、あらたな方向性を模索するという、とても意欲に富んだ、内容の濃いテーマであった。

トークセッションでの招聘講師となった、シュミット氏とやつがれは、さしずめ刺身のツマといったところかな……。

『Picto Graphics 1, 2, 3 』(中島安貴輝、朗文堂、1988年11月刊、品切れ)
まだ IT  環境が未整備な1980年代後半には、おもに紙焼きカメラで図版を拡大・縮小して使用していた。そのため片面刷り裏白で複写に備え、ペラ丁合で一冊一冊 3 分冊の図版集をつくった。中島安貴輝氏畢生の大作であり、使用権つきの意欲的なピクトグラム作品集だった(品切れ)。

中島安貴輝主任教授 は、東京オリンピックの準備期間中には、まだ日藝の学生であった。それでもそのころから、勝美勝先生の門下生として「青年将校」のようなかたちで、東京オリンピックの広報部門に関わったという経験を持つ。まだグラフィックデザインの夜明け前であり、それだけにのどかで可能性の大きな時代であった。

その体験をもとに、のちに沖縄海洋博覧会のデザインディレクターとして活躍された。そのことを、別会場で開催されている展示会の作品をもとに丹念に事例報告され、
「デザインも、アソビも、めいっぱい」
と学生諸君を激励されていた。

《2012年10月27日、日藝デザイン学科 Typography Seminar トークセッション》
ヘルムート・シュミットさんは、いったん入学したスイスのバーゼル工藝学校での体験から、本格的なタイポグラファになろうと決意し、欧州各国での活版印刷所で「Compositor 植字工」として、数年、実地体験としての修行をし、ついにふたたび念願のバーゼルで、エミル・ルーダー氏の特別教育を受けるにいたった経緯を詳細に述べられた。
そして定員 3 名だけのちいさなタイポグラフィ夜間私塾、ルーダー氏のタイポグラフィ教育内容を、大量の写真データとともに紹介された。そして長年とり組んでいる「typographic reflection」シリーズの製作意図と、将来展開までをかたられた。
通訳にあたられたのは愛妻・スミさんであった。

写真上) パソコン映像だけでは物足りなくなり、立ち上がって説明するシュミット氏。
写真中) シュミット氏は愛用の「Composing Stick 組版ステッキ」を携え、各地の活版印刷会社で「Compositor 植字工」としての修行をかさね、そこの「Meister 親方」から技術認定の修了証明書にシグネチュア(サイン)をもらってあるくという、厳しい修行の旅であったという。
写真下) 憧れのルーダー氏のもとで学ぶことができた、充実の日日の若きシュミット氏(左)。

《予告!『japan, japanese』 著者講演会》


ここについでながらしるしておきたい。ヘルムート・シュミット氏の『japan japanese』 の著者講演会を、来春 3 月に、朗文堂主催での開催を予定している。その打ち合わせのために、シュミットデザイン事務所と@メールのやりとりが盛んないまでもある。
詳細はあらためて新春にお知らせしたい。
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「Typography Seminar」は、日大藝術学部の授業の一環であったが、外部からの参加も自由ということで、わずかに朗文堂社内に A3 判告知ポスターを出力して掲示しておいた。
そのために、新宿私塾塾生と、修了生がたくさん押しかけて、講義室は溢れんばかりの盛況となった。中島先生、細谷先生にはもろもろご迷惑をおかけすることとなった。ここにお詫びを申しあげたい。

あらためておどろいたが、新宿私塾の塾生には、日大藝術学部のデザイン科だけでなく、写真科、建築科、それに日大農学部などの学生・卒業生もたくさん在籍していた。そんなかれらが、全面改装がなった母校をみることを口実に、大挙して講演会に押しかけたようである。

トークセッションの終了後、長時間の禁煙強制にたまりかねた愛煙家有志?!  3 名が喫煙所の傍らで、携帯灰皿を片手におおわらわで吸煙開始。そこへシュミット氏が通りがかり、
「ミナサン、ナニヲ  シテイル ノ デスカ ?」
ヤレヤレ、中学生でもあるまいし、みっともない姿をパチリとやられてしまったという次第。
[モノクロ調写真提供:木村雅彦氏]

   

朗文堂ー好日録020 故郷忘じ難く候



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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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《唐突に妹から架電 ── 雪の降る前に、ふるさと飯山にいかない……》
11月03日は文化の日で土曜日だった。前日に突然妹から架電があり、
「もうすぐ雪が降るから、あした、おばあちゃん(おふくろ)のお見舞いにいかない?」
昨春に兄貴が長逝し、なんとなく疎遠になっていたふるさとであった。ところが信州・長野の郷里には、100 歳を超えたおふくろが老人施設の世話になっていた。そのもろもろの世話を、血脈からいえば他人ともいえる兄嫁に押しつけていることが心苦しかった。

アニキ、やつがれ、妹は、三人兄弟として、千曲川にそった信州の北西のはずれ、豪雪地帯でなる 北信濃 飯山 でうまれそだった。アニキはいやいやオヤジの跡をついで開業医になったが、昨春にスキルス性胃がんでなくなった。次男坊がらすのやつがれと、薬剤師の妹は、気ままに郷里をはなれて東京にでていた。

ここのところ数年、3月と11月は一年のうちで、もっとも多忙な月である。なにかとイベントがかさなり、年度末対応・新年度対策や、年末年始進行を意識し、年賀状やクリスマス・カードの想を練るのも11月のことである。
だから往復 600 キロほどの長距離ドライブとなるが、日帰りの旅として、妹の亭主が運転する車に乗せてもらった。
旅の同行者は、はじめてやつがれの郷里をみることになったノー学部。
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関東平野から山河の邦・信州にはいる道はさまざまにあるが、妹夫婦は、はじめて飯山をたづねるノー学部のために、風景の単調な高速道路一本やりではなく、この時期ならではの、紅葉のきれいな草津・志賀高原ルートを予定してくれていた。

この道は2級国道292号線で、近年にできた高速道路にくらべると、山坂は急峻でカーブ箇所も多いが、群馬県草津温泉から、コバルトブルーで輝く白根山の火口をみて、長野県北部への直行ルートとなる。
群馬県側ののぼりには、伊香保温泉草津温泉などの名だたる名湯がある。また近年建設の続行が話題となった「八ッ場ダム ヤンバ・ダム」の工事現場も経由する。この工事のおかげで、すでに自然はずいぶん破壊されていたが、道路は格段によくなっていた。むずかしいものだ。
また 志賀高原 をへて信州側へのくだり坂には、高原一帯に大小さまざまな山の湖が点在し、そこに照り映えるナナカマドやダケカンバの紅葉は、たとえようもない見事さのはずであった。────
早朝 6 時半、調布駅前で妹夫婦と合流してそのまま出発。関越自動車道から分岐して、北陸自動車道をほんのすこし走って、渋川・伊香保で高速道路をおりて一般道にはいった。道は次第に狭隘となり、急峻な坂道がつづく。やがて道は軽井沢と草津温泉への分岐点となる。そこを草津温泉側に右におれて、国道292号線、いわゆる志賀・草津ルートにはいる。

この道は国道の中では日本一標高の高いところを通る道路でもある。国道最高地点の標高は 2,172メートルであり、上野コウズケ-ノ国・上州/群馬県と、信濃シナノ-ノ国・信州/長野県とをへだてる 渋峠 のちかくにある。その場所には「日本国道最高地点」の碑が建てられている。
かつては有料道路で快適なドライブを楽しめる道であったが、最近は無料で解放されている。だから時節柄「もみじ狩り」とおぼしき家族連れの車輌も、前後にたくさん連なっていた。

ところが……、草津温泉街をすぎてしばらくいくと、突然車止めがあって、係員に制止された。
「ここから先は、昨夜の降雪が凍結していて危険です。すべての車輌が通行止めです」
嫌も応もなかった。すべての車はそこからUターンを余儀なくされた。再確認すると、2012年11月03日、まだ降雪には早すぎる、秋分の日のできごとだった。
残暑のきびしいことしだったが、このときは意外にはやく降雪があったようである。いずれにせよ国道292号線は2012年11月15日-2013年4月25日まで本格的な冬期閉鎖期間となっている。

急遽予定を変更して、嬬恋村 ツマゴイムラ から 菅平高原 をへて、信州・須坂におりる一般国道に変更した。こちらには2,000メートルをこえるような高度はないが、菅平高原から須坂への最後の下り坂は急峻で、かなりのベンチャールートとなる。

草津・志賀高原ルートをあきらめ、群馬県側の嬬恋村 ツマゴイムラ をへて、県境の鳥居峠に辿りつく。そこで小休止して長野県側の菅平高原にはいる。最後の下り坂は、かつては山崩れがたびたびあって難所のひとつだったが、随分と道は整備されていた。
ようやく信濃の国、信州飯山市にたどりついたのは、すでに昼下がりのころであった。
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《飯山は、日本のふるさと……》
ところで、南国の四国や九州出身のひとでも「ふるさと」というと、藁屋根に雪がこんこんと降りつもり、あといくつ寝るとお正月になるのかを、炬燵にあたって、ミカンを食べながらかぞえる情景をおもいうかべるらしい。そして春の小川には、どじょっこや、鮒っこが泳ぎまわるらしい……。それはまさに、信州信濃の山奥の、ここ飯山の情景であることをおおくのひとは知らないでいる。

飯山市・信州中野市・木島平村の境ににそびえる休火山「たかやしろ 高社山 コウシャサン、別称・高井富士」。右のうしろがわには溶岩流が流れた美しい山裾がみられる。ここから4キロほど上流の旧飯山町内からは、左側の主峰はかくされて、右端の支峰だけが、まるでシルクハットを伏せたようにみられる。たかやしろは、飯山では東を指ししめす絶好のランドマークとなっている。

信州・いいやまは、日本の ふるさと とされる……。

ノー学部は、こういう阿呆なシロモノをどこにいってもいちはやく発見する。そしてこんな噴飯ものの呆けたおこないが好きである。やつがれはもうやけくそで「ヘソ丸出し、莫迦丸出し」の愚行に加えられる(撮影:鈴木 齊)。
老人施設に100歳超えのおふくろを見舞う。娘時代までの記憶はあるがおおかたの記憶はない。妹(娘)に「お名前は?」と聞かれると「藤巻のり(旧姓)」と応えるおおらかさである。やつがれ同様おふくろの眉毛もぶっといことを再確認した。それでもやつがれより元気なのではないかとおもえる壮健さが救いである。旅の主目的をここに達成。

おぼろ  月  夜

  菜の花畠に 入日薄れ
  見わたす山の端 霞ふかし
  春風そよふく 空を見れば、
  夕月かかりて、にほひ淡し

     二
     里わの火影ホカゲも 森の色も
     田中の小路を たどる人も
     蛙カワズのなくねも かねの音も
     さながら霞める 朧月夜

蛇  足 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
小学唱歌『朧月夜 オボロ-ヅキヨ』 
作詞:高野 辰之 (明治09年4月13日-昭和22年01月25日)
作曲:岡野  貞一 (明治11年2月16日-昭和16年12月29日)
昭和08年(1933年)『新訂尋常小学唱歌 第六学年用』
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《高野辰之タツユキさんのこと と 高野辰之記念館 》
高野辰之さんの生家は、長野県下水内郡豊田村のかなりゆたかな農家であった。
やつがれの生家は、豊田村から秋津村をはさんで、千曲川にそったもうひとつ下流で、東に千曲川、西には新潟県との県境につらなる山山にはさまれた下水内郡飯山町  → 現  飯山市である。

高野さんは、飯山中学(現飯山北高)、長野師範学校(現信州大学教育学部)卒。飯山町で教員生活をしたのち、東京音楽学校(現東京藝術大学)教授となり、在京時代は代代木駅前に居住していた。その代代木の木造の旧居には、3年ほど前まで記念柱があって保存されていた。
老境にいたり、郷里にちかい長野県上高井郡野沢温泉村の湯源の麻釜のちかくに陋屋をもとめ、それを「対雲山荘」と名づけて移住して、ここで老境をすごして永眠された。
現在野沢温泉には、遺著や遺作を収蔵する《おぼろ月夜の館 斑山ハンザン文庫》がのこされている。

高野辰之さんと、やつがれの母方の祖父/藤巻 一二 イチジ、その弟で大叔父/藤巻幸造は、旧制飯山中学の同窓で、よほど昵懇だったらしい。
またオヤジの郷里も長野県下高井郡野沢温泉村大字坪山のちいさな農家であり、また、飯山中学の後輩でもあった。だからしばしば大叔父/藤巻幸造や、父母に連れられて、野沢温泉の高野家隠居所「対雲山荘」を訪問した。昨年逝ったアニキは、高野さんに抱かれたことを覚えており、その写真も実家にある。
やつがれも抱かれたらしいが、なにぶん乳児のころとて記憶にない。わずかに「温泉のおばあちゃん」と呼んでいた高野未亡人に、おおきな温泉風呂にいれてもらったり、氷水やマクワウリをご馳走になったことをおぼろに覚えているくらいである。
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猪瀬直樹『唱歌誕生  ふるさとを創った男』(小学館、2008年08月)がある。
主人公は高野辰之さんと、真宗寺 元住職 井上円光氏。この浄土真宗西本願寺派・安養山 真宗寺の元住職は、1902-14(明治35-大正03)の頃、ここ草深い信州から旅だって「大谷探検隊」の一員として、敦煌莫高窟の調査にあたった奇特なひとである。

この真宗寺はふるく、島崎藤村の小説『破戒』の主人公・瀬川丑松の下宿先として描かれた寺でもある。『破戒』のなかでは真宗寺は蓮華寺とされているが、地元では蓮華寺=真宗寺であることは周知のことである。しかしながら島崎藤村の描写の一部に問題があるとして、真宗寺23世住職・井上寂英は激怒して、高野辰之氏までまきこんで、
「島崎藤村は仏法の敵である。藤村には二度と信州の敷居をまたがせない」
とまで怒ったと伝えられていた。
そこで地元の教育委員会が中心となって、真宗寺と島崎家の和解をはかり、1965年にようやく和解がなり、いまではご本堂右手に《破戒の碑》が建立されている。

真宗寺には、このほかにもおもしろい逸話がたくさんのこっている。
1868年(慶応4)幕末の戊辰戦争に際して、徳川幕府派の越後高田藩士/古屋作左兵衛門ら衝鋒隊 ショウホウタイ 隊士600名余が飯山城下に結集し、この上町 カンマチ(現 南町) 真宗寺を本陣としてたてこもったことがあった。

ときの飯山藩は親幕府派ともいえた存在だったようであるが、なにぶん藩兵150名たらずの小藩でもあり、心底困惑し、城をかたく閉ざして模様みをきめこんだらしい。ところが城下の住民は衝鋒隊に物心ともに助力することが盛んで、真宗寺の本陣に駆けつけて気勢をあげたりしたので、藩名をもって沈静を命じていた。

その鎮圧のため新政府軍として松代藩兵ら2,000余名が、千曲川右岸(東岸)の木島平に布陣し、時間的にはほんの少少の抵抗で、武力におとる幕府派衝鋒隊は鎮圧されたとされている。
その際飯山城下はおもに衝鋒隊による放火で炎上し、中町・肴町・愛宕町・神明町など、城下の山側半分を焼失した。俗にいう「幕末 飯山戦争」である。

「幕末 飯山戦争」に際して、飯山藩は局外中立をたもったとはいいながら、その大手門付近でも交戦があり、親幕府派のものか、新政府軍派のものかはわからないが、大手門の柱にはいくつもの刀傷や弾痕をのこしていた。
このかつての飯山城大手門はちいさなものではあるが、現在は長野市の信叟寺(長野市大字金箱 禅宗 万松山信叟寺)の山門としてのこされている。

そもそも 飯山藩 なぞ、北信濃4郡を支配した3-5万石そこそこの小大名にすぎず、城というのも哀れなほど、ささやかな小山を根拠地にしたにすぎない。
それでも飯山の住民は、いまでもひそかに、戊辰の戦争に際して、越後・長岡藩や陸奥・会津藩などの雄藩と同様に、小藩ながら孤軍奮闘、中央権力に抵抗したことを誇りとする異風がある。

変わり者、頑固者が多いのが飯山の特長とされる。「〇〇居士」を名乗るほうもたいがいだが、それを墓石に刻むことを許す寺も随分と鷹揚かも知れない。ふつうは整備されているがこのときはケヤキの大木の落葉が積もっていた。右奥の黒い小さな御影石が、やつがれの生家の墓標。

現在の真宗寺の住職は、26世・井上孝雄コウユウ氏である。このひとはやつがれより4-5歳年上で、かつては「孝雄 タカオ ちゃん」と呼ばれて、弟の「孝栄 コウエイ ちゃん」ともども、やつがれらと、大公孫樹イチョウによじのぼったり、ケヤキの大木に足場をこしらえて隠れ家をつくったりと、なかなかのやんちゃであった。

ところで、浄土真宗では、読経のあとに「お説教」という行事がある。これは文字どおり、読経のあいだの正座で、足がしびれて悲鳴ををあげているのに、さらに念入りに仏教行事として「ありがたいお説教をお垂れあそばされる」(ご法話)困った モトイ ありがたいしきたりである。
ところが、オヤジやアニキの法事などでの真宗寺26世・井上孝雄コウユウ住職の「お説教」は、しみじみとこころに沁みるものがあった。さすがである。

ここ、真宗寺は、1953年(昭和28)5月18日に「飯山大火」という、フェーン現象下でのおおきな火災で、飯山町の南側半分117戸とともに焼失した。当時やつがれは小学2年生であった。このときやつがれの生家は飯山駅前にあったが、3件隣で火は鎮火して焼失は免れた。
徴兵から復員後に借家で開業していたオヤジは、こののち、真宗寺の焼失地の一隅を購入して移転した。そのためにお寺と医者が隣接しているという奇妙な光景がうまれることとなった。
ここ、真宗寺に、やつがれのオヤジとアニキは眠っている。
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『おぼろ月夜 ♫ 菜の花畠に 入日薄れ 見わたす山の端 霞ふかし~』
『故郷フルサト ♫ 兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川~』
『春の小川 ♫ 春の小川は さらさら流る 岸のすみれやれんげの花に~』
『春が来た ♫ 春が来た 春が来た どこにきた~』
『紅葉モミジ ♫ 秋の夕陽に 照る山紅葉 濃いも薄いも 数あるなかに~』
以上の小学唱歌の作詞は、すべて高野辰之さんである。

猪瀬直樹氏(実は お~獅子シッシ と呼んでいた、高校の一級後輩)はしるす……。
「ほとんどの日本人は、ふるさとというと、たくまずして、山があり、川が流れ、雪がシンシンと降りつもる、ここ北信州・信濃の飯山周辺の情景をおもう。それは小学唱歌で刷りこまれた幼児時代の記憶であり、その作詞家・高野辰之の心象描写による」
と。お~獅子、エライ!(ここは選挙とは一切関係なし! 為念)。

《やつがれの方向感覚とランドマーク》

たかやしろこの山河の邦・飯山で中学時代までをすごした。ここはまた地勢的には飯山盆地とされる。
高校生になって30キロほど千曲川の上流で、すこし平野部のひろい善光寺平の長野にでた。
そのとき……、体内磁石というか、方向感覚が狂ったおもいがした。すなわち土地の目印というか、陸標というのか、ランドマークを喪失したおもいがした。

やつがれにとっての基準点とは、いまもって、あくまでも飯山町である。
そこでの東とは、まるでシルクハットのようにみえる、たかやしろ(高社山 コウシャサン、別称・高井富士)であった。それがすべてであり、西とは、まだらお(斑尾山 マダラオサン)であり、南とは、千曲川(新潟県では信濃川トモ)の上流で、北とは、千曲川の下流であった。
だから長野でも、その後あちこち移動して、東京にでてからでも40余年になるが、いまもって方向の認識は、いったん飯山の情景に置換してからになる。

山河がとぼしく、平野部が広大な関東平野や北海道出身のかたの体内磁石はどうなっているのだろう。太陽がでている昼間ならともかく、曇天や夜などは、どのように方角や方向を認識しているのか良くわからないままでいる。
関東平野のど真ん中、埼玉県の平野部出身の某氏にそれを聞いた。
「エ~と、駅の北口とか、西口とかあるじゃないですか。それが目印です」
やはり、そうか……、というおもいであった。認識と目印は違うんだけどな、というおもいで聞いていた。息子にも聞いたが、北とか東とかに、そんな興味はないという素っ気ない返答であった。

のっぺらぼうの東京、それも交通が便利なだけに移動圏がひろがり、ビルの乱立している近代東京では、富士山を望遠することも稀になった。したがってただの棒か点でしかない、東京タワーも、スカイツリーも、ランドマーク(地標)とはいいがたいものがある。
娘も息子も東京で生まれ育ったが、おそらくやつがれとは、方角の認識にたいする執着度がことなるのであろうか……。

《平成の大合併のもたらしたもの……》
ところで、北アルプスに源流を発する梓川と、中央アルプスに源流を発する千曲川は、長野市のあたりで合流して、新潟県にはいると信濃川となる。上流からみて、その左岸はふるくから、上水内カミミノチ郡、下水内シモミノチ郡、右岸は、上高井カミタカイ郡、下高井シモタカイ郡と呼ばれてきた。
このように千曲川に沿った地域では、川上・川下にたいする意識がつよく、それをつづめて「カミ、シモ」などともする。

千曲川をはさんだだけというのに、あまり橋もおおくなかったこの時代、これらの各郡はともに競合し、たがいになにかとライバル視する仲でもあった。もちろんそれは、県会議員の選挙区区割りや、通学圏、通婚圏や、ふしぎなことに文化圏や言語圏などにもその影響はおよんでいた。

高野辰之さんの郷里と、やつがれの郷里は、かつてはともに下水内郡であり、道路が整備されたいまでは車なら10分ほどの距離であり、実家の片塩医院の通院・往診範囲内であった。
ところがなんと、豊田村は2005年04月01日、いわゆる平成の大合併で、川向こうの旧下高井郡信州中野市と合併した。
したがって、かつて飯山市が中心となって設立した 高野辰之記念館 は、信州中野市の施設となっている。 

豊田村の合併にやぶれた飯山市は逆襲にでて、これもやはり川向こうの下高井郡にてをだして、野沢温泉村を合併しようとしたが、住民投票の結果合併は否定され、野沢温泉村は勇気ある孤立のみちを選んだ。
すなわちわがふるさと・飯山市は、豊田村を川向こうの中野市にうばわれ、ならば仕返しとばかり、川向こうの野沢温泉村に合併をしかけて袖にされた。豪雪の地、過疎の町・飯山は、あまりにあわれである。

オヤジが元気なころ、盆暮れには子供をつれてそんな飯山にたびたび帰省していた。オヤジが去って、アニキの代になると、次第に足が遠のいた。
まして昨年アニキが逝くと、ひとがいいとはいえ、兄嫁さんと甥・姪の家では、もうふるさととはいいがたいものがある。
てまえ自慢と同様に、いなか自慢はみっともないとされる。
されど、故郷  忘じ難く候!