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【展覧会】 恩地孝四郎展/東京国立近代美術館 会期末迫る & 恩地家三代公式記録 multirhythm WebSite紹介

国立近美恩地孝四郎展日本における抽象美術の父にして木版画近代化の立役者、そして時代に先駆けたマルチクリエイター恩地孝四郎、過去最大規模の回顧展。
日本で最初の抽象表現《抒情『あかるい時』》はもちろん、海外美術館所蔵の重要作62点を含む約400点を一挙公開します。
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日本における抽象美術の先駆者であり木版画近代化の立役者でもある恩地孝四郎の、20年ぶり3回目、当館では実に40年ぶりとなる回顧展です。

恩地は抽象美術がまだその名を持たなかった頃、心の内側を表現することに生涯をかけた人物です。
彼の創作領域は一般に良く知られ評価の高い木版画のみならず、油彩、水彩・素描、写真、ブックデザイン、果ては詩作に及ぶ広大なもので、まるで現代のマルチクリエイターのような活躍がうかがえます。
本展では恩地の領域横断的な活動を、版画250点を中心に過去最大規模の出品点数約400点でご紹介いたします。

また見逃せないのは、里帰り展示される62点。戦後、特に外国人からの評価が高かった恩地の作品は、その多くが海を渡っていきました。
本展では海外所蔵館(大英博物館・シカゴ美術館・ボストン美術館・ホノルル美術館)の多大な協力のもと、現存作が一点しか確認されていない作品や摺りが最良の作品など恩地の重要作をご覧いただきます。
【 詳細 : 東京国立近代美術館
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この 【展覧会】 恩地孝四郎展 ―― 形はひびき、色はうたう 東京国立近代美術館 に関する情報は、東京国立近代美術館からの情報をもとに、本コーナーには02月08日に紹介した。
その際別途に、恩地孝四郎嫡孫・恩地元子様からも封書で、長文の文書と招待券を頂戴していた。
忙しさに取り紛れて文書をじっくり拝読していなかったことが悔やまれるが、とても貴重な資料をご提供いただいていたことを改めて確認したのでここに皆さまにご紹介したい。

恩地家三代――恩地孝四郎(1891-1955)、恩地邦郎(1920-2001)、恩地元子(現当主)は、いずれも東京藝術大学にまなび、才能と個性と造形力がゆたかなかたばかりであるが、やつがれは荻窪の恩地邸にしばしば押しかけ、恩地邦郎氏とそのご夫人展子様にたいへんお世話になった。

恩地孝四郎は1935年(昭和09)04月創刊の『書窓』(アオイ書房、志茂太郎)の第一号から1944年06月、志茂太郎が官製の国民運動「変体活字廃棄運動」に抵抗したため、強制疎開によって郷里の岡山に帰郷したための終刊号、『書窓』(第17巻第05号、通巻103号 日本愛書会書窓発行所)まで、一貫して編輯・執筆・造形・装本にあたっていた。
つまりやつがれは、わが国における近代版画家、抽象絵画の祖としての恩地孝四郎ではなく、印刷・出版人としての恩地孝四郎像を追っていた。

アオイ書房/志茂太郎と、『花あしび』(堀辰雄、2000年10月06日、朗文堂)の刊行を企画していたころ、堀辰雄関係の知人の紹介を得て、荻窪の恩地邸(遠藤 新 アラタ 設計)をはじめて訪問したのは、恩地邦郎氏が長年にわたった明星学園での教職をはなれた直後のことであり、おそらく1990年ころであったとおもう。
恩地邦郎氏ご夫妻はこころのあたたかなかたで、いつも居間でくつろぎ、展子夫人のピアノ演奏もたのしませていただいた。
やがて当時の「金曜かい」の若手の諸君(いまは50代初頭の中年になっているが)も恩地邸に押しかけるようになり、お庭のアカンサスを愛で、孝四郎氏と邦郎氏の二代にわたるアトリエを拝見させていただいた。

それからは、毎年のように銀座の画廊で個展を開催されたので、そこでお会いしたりしていたが、ご著作『随想 春の雪』(恩地邦郎、1997、ぶんしん出版)を頂戴した。それからまもなく2001年に行年81をもって恩地邦郎氏は逝去された。
近年になり、宇都宮美術館の企画で<恩地孝四郎邸見学会>があり、そのグループの一員として、やつがれと大石とで懐かしい荻窪の恩地邸をおとづれた。
およそ15年ぶりほどの訪問であったが、恩地家第三代・恩地元子様が、故邦郎・展子ご夫妻とほとんど変わらぬ笑顔で恩地邸をご案内されていた。
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前置きがながくなった。恩地家三代 ―― 恩地孝四郎(1891-1955)、恩地邦郎(1920-2001)、恩地元子(現当主)の三人の活動について、お知らせ、報告するWebSiteが開設されている。

URL :  multirhythm

管理・運営は恩地元子氏によるもので、いわば恩地家公式WebSiteといえるものであるが、とても丁寧なつくりこみがなされており、情報も正確でゆたかである。
初代・恩地孝四郎の歿後60年余、二代・恩地邦郎の歿後15年余のときが経過した。ともすると記憶はしだいに鮮明さをうしない、精度を欠くようになる。
このWebSiteの誕生を欣快とし、皆さまにご紹介するゆえんである。

ときのたつのははやいもの。久しぶりに薩摩隼人・薩摩おごじょの皆さんと熱い交流

adana トップページつい最近のこととおもっていたのに、もうあれから一年半ほどのときがたちました。
3日間5,000人ほどのお客さまを迎えた活版礼讃イベント<Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO>開催の地、櫻島を至近にあおぐ鹿児島「尚古集成館・仙巌園」に2月13日[土]-14日[日]の週末に、商用もあって一泊二日の日程でいってきました。

【 関連情報 : Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO - Report 15  いまも続く薩摩隼人, 薩摩おごじょとの協働作業 DSCN6311 DSCN6293 DSCN6311 DSCN6293 DSCN6291 DSCN6318 DSCN6320 DSCN6325 DSCN6328 DSCN6329DSCN6333仙巌園の菜の花2014年11月開催の<Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO>以後、おおきな変化は2015年(平成27)7月5日に、尚古集成館(旧集成館・旧集成館機械工場を含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が世界文化遺産に登録)が世界遺産に登録されたことでしょうか。

そのために「尚古集成館」「仙巌園」ともどもサインや施設の一部に変更がみられました。
また二月の初旬に数十年ぶりにみた降雪のため、「尚古集成館」も特別休館を余儀なくされ、植栽にも被害があったそうですが、二月中旬のこのとき、館内庭園には避寒櫻が花をつけ、名をしらぬ大きな鳥が憩っていました。

<Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO>で併催された、尚古集成館 館長 : 田村 省三氏による特別講演会 < 尚古集成館所蔵/重要文化財 『 木村嘉平活字 』 と 薩摩藩集成事業について >で薩摩藩(鹿児島)の、そして長崎の活版印刷事業の嚆矢となった俗称『薩摩辞書』と五代友厚に関しては、NHK 連続ドラマ『朝がきた』が話題となったことで、すっかり著名な存在となっていて、田村館長ともどもすこし笑いました。
【 関連情報 : Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO - Report 11  講演会 : 田村省三館長、 展示紹介 : 加久本真美さん、渡辺 絵弥子さん
DSCN7916 DSCN7912 DSCN7914 DSCN7918 DSCN7926DSCN7927《鹿児島の夜はいつものところで、いつものメンバーとご一緒しました》
鹿児島にはアダナ・プレス倶楽部の会員がたくさんいらっしゃいます。
今回も六花窯:横山博さんの肝煎りで、鹿児島市役所ちかくの「いつものところ-店主のご意向で店名はご容赦を」で、松山先生、前田さんご夫妻、早川さん、稲留さん、橋口さんらの様様な造形者の皆さんとの熱い交流。

お料理いっぱい、薩摩焼酎どっさりのせまい会場では、地元の皆さんでも数年ぶりという再会があったり、前田夫人の詩吟もとびだして、鹿児島の夜はしんしんと更けていきました。
いずれにしても、各所で活版印刷が始動しています。
鹿児島にも一粒の種子がちいさな芽をだしました。こんどまた鹿児島を訪問するのはそう遠くはないようです。 DSCN6286 DSCN6277 DSCN6276

【会員投稿】 掃苔会新会員/時盛 淳さん、平野家塋域 単独代参参上の記録

DSC_1010東京谷中霊園中央園路に面して建立されているおおきな石碑が、平野富二の十三回忌に際して、株式会社東京築地活版製造所有志、株式会社東京石川島造船所有志の拠金による「平野富二君之碑」(甲01号01側)である。
篆額の揮毫は榎本武揚、碑文の撰幷書は福地源一郎(福地櫻痴)による。
この項の詳細は古谷昌二『平野富二伝』(p.810 – 18)を参照願いたい。

DSC_1012 DSC_1013 DSC_1014平野家塋域は東京都谷中霊園の東北部、乙11号14側にある。
中央の平野富二の墓石の表面には、吉田晩稼の筆になる「平野富二之墓」が陰刻され、向かって右側面には、法名の「修善院廣徳雪江居士」が刻まれている。
吉田晩稼(1830-1907)は長崎興善町うまれ。陸軍・海軍に奉職したのち辞して書芸をもっぱらとした。大楷書を得意とし、筆力雄勁にして並ぶものなしと評された。また本木昌造とは歌友であり、東京九段の靖国神社の標柱、大阪四天王寺の本木昌造像の台座の書も晩稼による。
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{新塾餘談}
「平野富二墓」は太平洋戦争の際、上野駅周辺に無数に投下された焼夷弾をあびており、焼損が見られるのは残念である。平野家一門には再建の議論もあったが、この墓石は本来浅草雷門再建のために切りだされた房州の小松石をもちいた由緒あるものであり、また吉田晩稼の書の典型例としてやつがれは再建には反対してきた。
それでも近年碑面にも剥落がみられるようになり危惧をいだいている。なにかよい保存法があればご提案いただけたら幸甚である。
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DSC_1036 DSC_1024 DSC_1025平野家塋域はいってすぐ左脇に法名「妙清古登童尼」と陰刻されたちいさな墓標がある。
裏面には「平野富二長女 古登子 享年三歳 明治八年七月七日歿 大正二年三月再建」とある。
明治05-08年という、もっとも平野富二が多忙をきわめた時期にうまれ、そして夭逝した「長女 古登子 琴 コト」の墓である。戸籍が未整備な時代だったため、明治五年の何月のうまれかは記録にない。

塋域右奥には「平野鶴類墓」がある。のちに平野家を継承した平野津類は長女古登の逝去から三ヶ月後の1875年(明治08)09月30日に誕生した。明治12年ころに編成された京橋区戸籍記録には長女:古登の記録はなく、二女津類が「長女」として記録されている。
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平野津類は青森県出身の勇造(旧姓境、のち離別)と結婚して、嫡孫:平野義太郎が1897年(明治30)03月05日に誕生して、平野家第三代を継承した。
平野義太郎は高名な法学者であったが、その妻:嘉智子とともに、塋域右奥にねむる。

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【 参考資料 : 花筏  平野富二と活字*13 掃苔会の記録 『苔の雫』Ⅰ 平野家関連 】