新・文字百景*002 中曽根とは失敬千万!? 曽・曾

新・文字百景*002

中曽根などとは失敬千万 ?! 

── 位階は従六位、勲等は大勲位であらせらるるぞ ── 

このひとの画像は  こちら  から 

《大勲位・中曽根康弘か、はたまた中曾根康弘か》
自民党が野党に転落し、またご本人の高齢化のためか、最近はいくぶんメディアへの登場が減ったようだが、とかく政局がきなくさくなると、もぞもぞと蠢動するのが、この、
── 位階は従六位、勲等は最高位の大勲位 ──
なる人物 ── なかそね やすひろ氏 ── である。
かつては「政局の風見鶏」などと揶揄ヤユされたこともあった。どうにもぬるぬると粘着性がつよそうで、筆者は好感をもてない人物である。ここでは好悪コウオの感情はともかく、「字&文」をかたるのには格好の対象であり、また、あまりにあわれでもある。このひとから紹介しよう。

   なかそね-やすひろ
       1918年(大正7)5月27日、群馬県高崎市うまれ
       戦前は内務省官僚。敗戦時は海軍主計少佐、戦後は政治家。
       衆議院議員20期。運輸大臣などを歴任して、内閣総理大臣を重任。
       位階は従六位。勲等は大勲位。      

位階や勲等には縁もなければ興味もない。勝手に最高位の大勲位をご自慢あれというところ。
その従六位の位階に関していえば、わがタイポグラフィ界の先駆者、本木昌造は従五位下。平野富二はそれよりひとつ上位の従五位であった。吾が先達は、かの大勲位の従六位より、位階ではだいぶ上位だった。
律令制のもとでは、五位以上のものは殿上人テンジョウビトとして、昇殿がゆるされるなど格別の優遇があった。どんなに権勢をほころうとも、このひとのように、位階が従六位では……ネ。
天網恢恢 疎にして洩らさずというところか。 それでも平野家では、ご先祖様の位階などには、ほとんど関心はないからおもしろい。

ところでこのひと、メディアのなかではほとんど《中曽根康弘》と紹介されている。すこし気になったので、校閲部などがあって、用字・文言にうるさい モトイ 厳格?! とされている、新聞・雑誌などの大きなメディアをしばらく注目していたが、ほとんどが《中曽根康弘》と表記してあった。 

だから文&字学はおもしろいぞ!

中  曾  根  と 中  曽  根

   曾             曾            曾

電子辞書『漢字源』         『新漢和辞典』                  『新明解漢和辞典』
主編纂者/藤堂明保   主編纂者/諸橋轍次  主編纂者/長澤規矩也
(楷書)総画:12               (楷書)総画:12              (楷書)総画:12
部首:曰ヒラビ部                  部首:日・曰ヒラビ部            部首:八部(もと曰)
《曽》は異体字                  《曽》は俗字                      《曽》は略字 

《ここはやはり、許愼『説文解字』をみたい》
わが国には、ふるくから『玉扁』、『正字通』、『康熙字典』など、中国語による「字書」が移入されていたが、それを和訳することはすくなく、いわば「漢漢字書」として、原本のままでもちいてきた。そして、それで当時のわが国にあっては十分だった。
中国語の字書が和訳されるようになったのは、わが国において、字の素養とたしなみや、「漢学」がおとろえ、漢語を理解するものがいちじるしく減少した、昭和期にはいってから本格化している。

上記の3冊の「漢和字書」は、藤堂明保 トウドウ-アキヤス、諸橋轍次 モロハシ-テツジ、長澤規矩也 ナガサワ-キクヤといった、著名な中国学者によってしるされている。
ここでは三者ともに「曾」を本字もしくは正体とし、「曽」を「異体字・俗字・略字」としている。
すなわち、教育漢字でも常用漢字でもなく、いちおう人名漢字ではあるが、「ふつうにもちいられている(漢)字──曾のような字」には定まった名称がなく、それ以外の「ふつではない(漢)字──曽のような字」を、「異体字・俗字・略字」とそれぞれが別途に呼んでいる。
換言すれば、前述の碩学三者においては、「異体字・俗字・略字」は同義語であり、さして差異がないことばということになる。アレッ……!?

もちろん、藤堂明保 、諸橋轍次、長澤規矩也の諸氏は碩学であり、またそれぞれ個性のつよい人物であったようだが、この「新・文字百景」では、やはり原点にもどって、後漢のひと・許愼『説文解字』にあたってみたい。
許愼『説文解字』では、「曾」は第二上、部首は「八部」に掲載されている。

 

『黄侃コウカン手批 説文解字』(黄侃コウカン批校、中華書局出版、2006年5月)には、5行目最上部に「曾」が紹介されている。黄侃は「八」のかたちの上部を連結して、いわゆる「八屋根 ハチ-ヤネ」とした朱記をいれている。

『文白対照  説文解字』(李翰文訳注、北京・九州出版社、2006年3月)には、現代中国の国字(簡化体)によって「曾」がとかれている。ここでは見出し語としての「曾」も、現代中国国字で表記されているため、わが国の「漢字の曾・曽」はもとより、下部の図版に紹介された、いずれの「曾」とも形象は微妙に異なる。すなわち形象と字画がことなるので、いわゆる「画引き」だと利用しにくくなる。
「文と字」とはこのように変化をかさねてきたし、当然、これからも変化をつづけることが予想される。

『漢字源』(電子辞書、藤堂明保ほか、学研、CASIO EX-word) の「曾」には、《単語家族》の項目があり、
「曾」は、層(幾重にも重なる)・増(重なってふえる)と同系 ── としている。なおこの単語家族という考え方は藤堂明保氏に独特のものである。
また、
《解字》の項目があり、以下のように説明している。
「曾」は象形。「八印(ゆげ)+蒸籠セイロウ+こんろ」をあわせてあり、こんろの上に蒸籠セイロウを置き、穀物をふかす甑コシキの姿を描いたもので、層をなして重ねるの意をふくむ。
甑 jìng, zèng(漢字音:ソウ/ショウ、意読:こしき、シフトJIS 8D99)の原字。
また、曾は、前にその経験が重なっているとの意から、かつて……したことがあるとの意をしめす副詞となった。

《曽 は 曾の 異体字・俗字・略字ときたか! だから字書はおもしろい》
手もとの簡便な「字書」によって、「曾・曽」を調べてみた。
もしかすると一部の読者はおどろかれたかもしれないが、「なかそね」の「そ」の、本字乃至ナイシは正字、印刷標準字体は「曾」である。
すなわち「曾」は、旧字でも、旧漢字でも、旧字体でもない。
いっぽう「曽」は、「字書」によってことなるが、いずれも「異体字・俗字・略字、簡易慣用字体」とされている。
つまり第一義的には「曾」をもちいるようになっている。

また部首も、許愼『説文解字』には「八部」に掲載されたが、わが国の字書では、それぞれ、曰ヒラビ部、日ニチ部、八ハチ部と異なっている。
このシリーズ《新・文字百景*001》にもしるしたが、ここでおもにもちいている「字書」とは簡便なものである。再度掲げておく。
【参考資料】 
『漢字源』(電子辞書、藤堂明保ほか、学研、CASIO EX-word) 
『新漢和辞典』(諸橋轍次ほか、大修館書店、昭和59年3月1日) 
『新明快漢和辞典』(長澤規矩也、三省堂、1982年11月1日) 
『漢語大詞典』(羅竹風ほか、上海辞書出版社、1993) 

パソコンに組み込んだATOKによると、以下のように規定していた。もしかするとATOK──ふるいはなしだが、阿波の国・徳島で製造されたソフトウェア、AWA の TOKUSHIMA をつづめて欧字とし ATOK エイ-トック と名づけられた──のほうが著名な字書より適切かつ明快かもしれない。
   曾 → 印刷標準字体  シフトJIS:915C
   曽 → 簡易慣用字体  シフトJIS:915D 

「曾・曽」は教育漢字でも常用漢字でもない。ただし2004年10月、人名漢字488字が追加された際、「曾」とともに「曽」の字が人名漢字となっている。すなわちわが国の人名にもちいることができる漢字は、常用漢字表に掲げられた1,945字と、人名漢字983字をふくめて、合計2,928字であり、「人名」用としては「曾・曽」のいずれもが2004年10月から使用できることとなっている。

ところが文部科学省は、教育漢字と常用漢字には相応なこだわりをみせるが、どういうわけか(もしかすると戸籍管理にあたる法務省、総務省などの管轄とみなしているのかもしれないが)人名漢字には関心が低いようである。したがって、表現がむずかしいが、いわば文部科学省の管轄においては「曾・曽」の字体の相違の是非などはその埒外にある。

そのわりに、ふるくからわが国でももちいられており、また一国の総理大臣の姓でもあったから少少やっかいなことになった。こうした位置づけがあいまいな字は、まま、曾雲→層雲、曾益→増益のように、ほかの字に置きかえられることもある。

わが国でも、金属活字時代には「曾」が圧倒的であった。もちろん「曾」は旧字でも旧漢字でもなかった。「曽」もあるにはあったが略字とされていた。この状態はいまの活字鋳造所でもなんら変わりない。
ワープロなどの情報処理の機器に字も登載されるようになると、各社は独自に文字コードを作成して、電子機器に字を登載しはじめた。なにぶん電子機器の開発と普及速度ははやかったので、各社によって異なった字種と字体と字画形象(デザイン処理)が展開して、一部では互換性などに混乱がみられた。

そこで、経済産業省系の日本規格協会では、文と字にたいして、いわゆる「JIS規格」を制定して、独自の文字コードを作成するとともに、ある写真植字機製造会社の明朝体をもって「例示書体」として業界に提示した。
電子機器製造メーカーは経済産業省の管轄下にあったために、唐突ながら「JIS例示書体」として「例示」された、「ある写真植字機製造会社の明朝体」に倣ナラって、大急ぎで自社の書体の字種と字体と字画形象(デザイン処理)の改変をおこなった。
その折りに、もし、「ある写真植字機製造会社の明朝体」が完璧なものであれば問題はなかったかもしれない。ところが悲しいかな、それが完璧はおろか、おおいに問題を内包したものであったことは不幸だった。
そもそも「完璧な書体」などありうべきものではないという認識にたてば、いくぶん衰勢をみせていたとはいえ、新聞社、印刷企業、金属活字開発メーカーなどとも、叩き台としては「ある写真植字機製造会社の明朝体」でもよいから、それを「あくまでもひとつの参考事例」として、十分に協議・検討してから、「JIS例示書体」を提示しても遅くはなかった。
次回に台湾での同種の制定の経緯を紹介するので、関心のあるかたはそちらも見ていただきたい。

この間の混乱と混迷は激しいものがあった。またこの結果として、文部科学省と経済産業省といった、ふたつの中央官庁が「わが国の文と字」に、行政官庁として関与することとなった。こうした縦割り行政のもとでのさまざまな弊害は、こんにちなお解消されたとはいいにくい。
わずか30年ほど前のはなしだが、あわただしいデジタル環境時計のなかにあっては、遠い過去のはなしにおもえるからふしぎだ。

つまり、大勲位・中曾根康弘氏は、本字・正字、印刷標準字体で「中曾根」とされることは少なく、まったくもって大勲位には失礼なことに!?、「異体字・俗字・略字、簡易慣用字体」といった、要するに俗っぽい略字によって「中曽根」としるされることが多いのである。
この頃では「大沢 → 大澤」、「高崎 → 髙﨑」を主張する向きも多いというのに、もっぱら「異体字・俗字・略字、簡易慣用字体」で表記されるとは、大勲位としてはまことにあわれなことで、同情に値する。
筆者は、大勲位・中曽根康弘氏をはじめ、曽根さん、小曽根さん、中曽根さん、大曽根さん、曽根山さん、曽根崎さん、曽根川さん、曽山さん、曽川、曽田さん、小曽田さん、中曽田さん、大曽田さんら、ご一統さまに、こころからご同情もうしあげているのである。

『漢字源』(電子辞書、藤堂明保ほか、学研、CASIO EX-word) の「曾」で
「曾」は、層(幾重にも重なる)・増(重なってふえる)と同系」としている。
曽根さん、小曽根さん、中曽根さん、大曽根さんといった皆さまの近在には、かつて
このような「幾重にも重なりあった根」をもつ巨木があったことが想像される。
上)新潟市・北方博物館の藤の古木。中)新潟市・坂口安吾記念館の松の巨木。
下)滋賀県彦根市、井伊直弼が藩主就任前、鬱勃と居住していた彦根城玄宮園とその庭木。

ただし、かりそめにも大勲位の威権をもって、「中曽根にかえて中曾根」の使用を強制などしてほしくない。どうやらご本人も、かつての選挙活動の折には、(一票がほしくて?)書きやすい字をえらんだのか、はたまた「曾」の字の存在と、その正俗をご存知なかった シツレイ のかしらないが、「中曽根康弘」と表記していたようである……。わが国の文&字は、この程度の寛容さがあってちょうどよい。 

《曾根崎心中か、曽根崎警察か……、大阪はやっぱりおもしろい!》
大阪の駅舎は、地元では「キタのターミナル」とひとくくりにしているようだが、よそ者にとっては「ここは大阪駅か、はたまた梅田駅か、さっぱりわからん」といった具合で、まことに混乱をまねく地区である。
なにしろJR西日本旅客鉄道の「大阪駅」と、阪急電鉄の「梅田駅」、阪神電鉄の「梅田駅」がほぼ同居しており、それに地下鉄道の東梅田駅と西梅田駅が複雑にからみあい、まして私鉄企業のデパートの位置と駅舎がはなれていたりするので、地下通路、地下商店街などは、まるで迷路の様相を呈している。
 

キタのターミナルには、阪急ビル梅田店の地下に 「紀伊国屋書店梅田店」があり、いっときは大阪一の売り場面積を誇っていた。このターミナルの一角に  旭屋書店本店 もあり、なんどか新刊案内の営業にうかがったことがある。住所は、大阪府大阪市北区曽根崎2-12-6と表記されている。

そのすぐ脇に  曽根崎警察署  がある。同署のWebsiteによると、住所は、大阪府大阪市北区曽根崎2丁目16番14号と表記されている。ところで同じページにこの警察署の管轄区域が紹介されているが、そこには 曾根崎一丁目、曾根崎二丁目がある。
すなわち「曽根崎警察署は、曾根崎二丁目にある」。
グーグル・マップを確認したら、厳格に「曽根崎警察署と、曾根崎一丁目・曾根崎二丁目」をつかいわけていた。偉い! なにが? 
もちろん警察署も官庁であるから、文言や表記には厳格さを要求するとおもえるのだが、いったいどうなっているのだろう。

大型2書店の訪問を終え、このあたりに、近松門左衛門『曾根崎心中』の舞台となった 露天神社 ツユノテン-ジンシャ ──通称・お初天神があったなとおもい、それをみてから昼食でもと脇道にはいった。
探すほどでも無く露天神社 ツユノテン-ジンシャ はみつかったが、その地名板表示の住所は、大阪市北区曾根崎二丁目5-4であった。

空腹をかんじ、ちかくのふるびた喫茶店に飛びこんで珈琲とカレーを注文した。店主らしきオカミさんが暇そうにしていたので、
「このあたりは、曾根崎ですか、曽根崎ですか」
ト、ペーパーナプキンに字を書いて聞いてみた。 オカミさん、得たり賢しとばかり、
「まったくねぇ、警察署はコッチの曽なのに、住所はコッチの曾。おかげでね、市役所や保健所など、役所の書類なんかは面倒ったらないの」
ト、訛りのつよい大阪弁でまくしたてた。

《木曾路の旅籠は旧漢字?!》
ある年の早春、白い辛夷コブシの花が咲くところをみたくて、堀辰雄『大和路・信濃路』(1943)を鞄にしのばせて中央線に乗り、木曾路経由で大和ヤマトをめざした。その気軽な旅をつづった文章をある雑誌に発表した。「木曾・木曾路・木曾路の旅籠ハタゴ」などをしるした原稿をわたしたら、すべて「木曽・木曽路・木曽路の旅篭」に置きかえられていた。

ゲラ(校正紙)を持参した某編集嬢いわく、
「この木曾の部分が旧漢字?! になっていたので、新漢字に直しておきました」
ト、きっぱり。
唖然とするだけだったが、「字書」のコピーを添付して原稿どおりになおしてもらった。
唖唖!ついに「曾」を旧漢字・旧字体にされてしまった。かりそめにも編集者にしてこれだから、「曾と曽」で困惑しているのは大勲位・中曾根康弘氏だけではないということか。

次回に、中国唐代の字の「正体・俗体・通体」をさだめた、顔元孫撰・顔真卿書『干禄字書 カンロク-ジショ』の紹介と、日中における「異体字・俗字・略字」の解釈の相違点を紹介したい。そしてわが国ではほとんど無視されている、字における「或体 ワクタイ」の存在も紹介もしたい。

また、わが国の近代漢字の字書をつくった、藤堂明保 トウドウ-アキヤス、諸橋轍次 モロハシ-テツジ、長澤規矩也 ナガサワ-キクヤといった、個性豊かな人物を紹介したい。
つまり、一見、堅牢かつ威厳をもって存在するかのごとき「字書」も、ひとかわ剥けば、文&字と同様に、ひとがつくったもの。だから「曾」の部首がそれぞれ異なっていたり、「曽」をそれぞれが「異体字・俗字・略字」として別途の名称をもって紹介したりもする。
 
そこでいたずらに批判をすることなく、その製作者の人物像にせまったら、「字書」にたいするあらたな愛着がわいてくるというものだ。──年越しの宿題をみずからかかえ込んでしまったかな。