朗文堂-好日録015 五日市ランドスケープ、佐々木承周老師

朗文堂─好日録015

ふしぎなエートスの存する町
五 日 市 イツカイチ
そして、佐佐木承周老師のことども

『風景資本論』刊行にちなんで

《『風景資本論』を鞄にしのばせて、ちいさな旅にでた》
『風景資本論』(廣瀬俊介著、朗文堂)が刊行された。著者の廣瀬俊介氏はこうかたっている。
「地域の資本となりうる風景ランドスケープとは、どのようなものか。風景の読み方、風景のデザインを、本質と事例から考察する」
この新刊書を鞄にしのばせ、やつがれ、つめたい雨のふるいちにち、晩秋の五日市にでかけた。行き帰りの車中で『風景資本論』をあらためて読み、さまざまなことどもを考えさせられた。

そしていま、それぞれの風景をあらためてこころに描き刻みつつ、震災におそわれ、原子力発電所の大事故におかされ、悩み苦しむこの国のこしかた、これからをおもった。
というわけで、今回は東京の西端の町、「五日市の風景」を紹介したい。

《山川の町に育ったせいか、近郊の五日市が好きになった》
雪ふるちいさな町、千曲川に沿った奥信濃の田舎町で育った。そのせいか、山と川のある風景がここちよい。
関東平野の東京に住んではや40年ほどになろうというのに、どうにもこうにも、こんなのっぺらぼうとした風景や風土に馴染めないでいる。東京のどこに立っても、東西南北が明確にわからない。要するに田舎もの。

やつがれの郷里、信州信濃の飯山では、千曲川の上流が南、下流が北、高社山タカヤシロが東、斑尾山マダラオが西と、山川による陸標、ランド・マークがはっきりしていた。
そして冬にはあたり一面丈余の雪にうもれ、春には野面をうめて香りたつ野の花が咲き、夏には灼けるような烈日が地をあつくし、秋には全山燃えたつがごとき紅葉と、四季折折の風情があり、季節にあわせた花卉や農作物がもたらされていた。

ところがやつがれ、格段には地理オンチとおもわないが、神田神保町ジンボウ-チョウの地下鉄道で下車して、迷路のような地下道をめぐりめぐって地上にでると、似たようなビルが立ちならんでいるばかり。こうしたユークリッド幾何的形態? の空間はまったく苦手である。だからいまもって、九段方向がどちらか、一ッ橋方向がどちらかがわからなくてこまる。

地理案内板、サインボードもあるにはあるが、林立するどぎつい色彩の広告看板に押しのけられて頼りない。かといって、東京タワーやスカイツリーのみえる範囲などたかがしれているし、そんなものを陸標ランド・マークとするのもなさけない。
そんなわけで田舎もの、遠出の旅はしんどくなったが、なぜか週末になると、関東平野を脱して、山川サンセンのある風土に身をおくと落ち着くのだ。

エートス Ethos はギリシア語で、エトスとも音される。ご存知のパトス Pathos 感情・激情の対語である。
すなわち簡略に述べると性格・心性であり、ある社会集団にゆきわたっている恒常的な感性・情念であり、ときとして色彩感覚や宗教観や死生観であろうか。

どうやらやつがれ、田舎育ちのゆえに、地霊・山霊・岩霊・艸霊・木霊・水霊のふところに身をゆだねると安堵するエートス──性癖ないしは心性があるらしい。こうした山川の地では、一木一艸がいとおしく、小川のせせらぎ、かすかな瀬音、どうということのない路傍の小石までがこころをなごませる。

      

東京都心から40-50キロほど、東京の西の端に「東京都 あきる野市 五日市」がある。JR五日市線の終点で、新宿から直通電車で800円ほどの電車賃でいける。駅から檜原ヒノハラ街道をたどると、すぐに杣山ソマヤマをぬうように急峻な坂道となり、奥多摩の切り込みのふかい山襞がせまってくる。
このあたりが、樹木を植えつけ材木をとるための「杣山ソマヤマ」として拓けたのはふるかった。また後背地の奥多摩のひろい林や森から伐採された木材・木炭が、五日市にあつめられ、そこから関東平野一円に出荷されたという。

寺社もおどろくほど多い。ふるく、源頼朝の命によって1191年に建立されたとされる真言宗「大悲願寺」は、鎌倉幕府開設──1192 イイクニ つくろう 鎌倉幕府──の前年のことである。この古刹にたつと、この寺に込められた源頼朝の「大悲願」とはなんであったのかを考えさせる寺でもある。

また五日市には、室町幕府の祖・足利尊氏(1305-58)がひらいたとされる臨済宗「光源寺」があり、ともに臨済宗の寺で、江戸初期の創建らしき、清楚なおもむきの「広徳寺」もある。

《五日市町からあきる野市へ──平成の大合併》
ゆたかな秋川渓谷の清流を水運として、ふるくから木材や木炭が五日市にあつめられたという。江戸時代には檜原ヒノハラ街道にそった五日市の町並みに、木材商と木炭商が軒を連ねて殷賑をきわめたそうである。したがって町制を敷いたのはふるく、1889年(明治22)町村制施行と同時に、神奈川県西多摩郡五日市村と、小中野村が合併して「五日市町」が誕生した。

この時代、いまこそ繁華なまちとしてしられる渋谷も八王子もまだ鄙びた村でしかなく、五日市が町として誕生したのはおどろくほどはやかったことになる。
またこのころは、多摩地区一帯は神奈川県に属していたが、上水道用水の大量確保をもくろんだ東京府が、1893年(明治26)、神奈川県から、西多摩郡・南多摩郡・北多摩郡とともに、五日市町も東京府に編入せしめたものである。
林業の衰退とともに、往時の殷賑のおもかげはうすれたが、それだけに、落ち着いた、古き良きものが、さりげなく存在する町でもある。

五日市駅までは新宿から直通電車もあるが、東京駅からだと中央線の立川で乗り換えて拝島線に、さらに拝島で五日市線に乗り換えて終点までのちいさな旅となる。
この五日市鉄道(現在のJR五日市線)の敷設もはやかった。すでに1925年(大正14)には、五日市の木炭商らの出資によって、私鉄五日市鉄道(その後国有鉄道を経てJR)の敷設をみている。すなわち大量の木炭や木材の物資輸送に欠かせなかったのがこの傾斜のある鉄道路線であった。

1995年(平成7)いわゆる平成の大合併のさきがけとして、五日市町は隣接する秋川市と合併して「あきる野市」となった。このあらたな市名の由来は、このあたりがふるくは、「秋留アキル、阿伎留アキル」と呼ばれていたことに発したが、秋川市が主張した「秋留市」と、五日市町が主張した「阿伎留市」で議論が二分して、ひら仮名混じりの「東京都あきる野市」とすることで決着をみたそうである。

《茶房 むべと、高橋敏彦氏》
あきる野市一帯では、ある種のおだやかなデザインの統一がみられて、それがふしぎな「景観」をかもしだしている。たとえば、秋川谷口にある料理屋「黒茶屋」、併設されている「茶房糸屋」の看板や各種の印刷物、あきる野市と第三セクターが開発した「瀬音の湯」のカログラムなど数えきれない。
そこにもちいられている、てらいのない飄逸な書と、ほのぼのとした絵とが、CI とも町おこしともバナキュラともいわず、たくまずしてこのあたりの「景観」を形成していることに驚かされる。

これらの書藝や絵画を精力的に製作しているのは高橋敏彦氏という。1942年(昭和17)うまれ、御年69歳。ごま塩まじりの白髪で、美鬚のデザイナーである。
高橋氏はかつて都心部にデザイン事務所を構えたこともあったが、30年ほど前から、檜原村との境にちかい、見晴らしの良い高台の地に住まい、地元密着のデザインをねばり強く展開してきた。さらに自宅離れを改築して、自作の「ミニ・ギャラリー」と、「茶房 むべ」を開設した。

「むべ」とはこのあたりでは「アケビ、木通、通艸」のことである。むべは蔓状をなして山地に自生する。春たけなわのころ、あわい紅紫のちいさな花をつける。晩秋のころ、果実が紫に熟して縦に割れる。果肉は厚く、半透明の白色で、たくさんの黒色の種子を含んでおり、とろりとした甘味で食用になる。蔓は強靱で各種の細工にもちいられる。

やつがれ、五日市に出かける楽しみのひとつが、「茶房 むべ」の香味のつよい珈琲を味わい、高橋翁とのくさぐさのかたらいのひとときである。こんかいは庭先に「むべ アケビ」がブラリとさがっていた。それがなんともいえずよかった。
店内は禁煙なので、いつも(たとえ少少寒くとも)庭先の四阿アズマヤに腰をおろし、清澄な川面をわたる薫風や、山颪ヤマオロシの木の香を愉しむ。そして鳥や蟲の聲、かそけき渓谷の瀬音に耳をかたむけながら、一杯の珈琲を味わい、紫煙をくゆらすのを無上のよろこびとする。

2011年11月19日[土]折からの雨だったが、フトおもいたって五日市にでかけた。雨はきらいではない。むしろ人混みがすくなく、景観が落ちつき、しっとりしていてよいとおもう。町のあちこちに、映画『五日市物語』のポスターが貼られていた。タイトルの書はあきらかに高橋氏の手になるもの。サブタイトルに、
「五日市、それは時が止まったような、東京のふしぎなまち」
とあった。
そのフライヤーを四阿アズマヤでよくみたら、「プロデューサー:高橋敏彦」とあった。もちろん「茶房 むべ」のあるじ、高橋氏のことである。

高橋氏は字も書くし(書藝をまったく誇らないが良い字だ!)、ほっこりした絵も描く。そして陶芸もこなすらしい。つまりひと世代前の、図案屋さんとよんでいたような本物のデザイナーであり、なんでもかんでも造形家であり、技芸家でもある。すなわち誇り高きアルチザンである。
そして、その技倆と、知性が卓越していることが、このひとを特徴づけ、地元・地域の信頼をあつめている。今回は映画『五日市物語』のプロデューサーをつとめている。

主演女優は遠藤久美子であるが、ポスターにもちいた写真では、マグカップを両の手で抱えていた。この写真におもわず視線が釘づけ! これは高橋氏の製作に違いないとおもった。
やつがれ、10年ほど愛用していたお気に入りのマグカップ──軽井沢の車屋で買ったもので、立原道造モデルとして愛着があった──をわってしまって、さびしいおもいをしていた。

遠藤久美子はいかにもいとおしいという手つきで、木肌色のマグカップを両のてのひらに抱えていた。大きさといい、色味といい、質感といい、これは好みだ! もちろん遠藤久美子ではなく、マグカップ。
リンクを貼っておいたので『五日市物語』の公式サイトをぜひみていただきたい。
おもわず奪いとりたくなる逸品ではないか。
ウ~ン、映画鑑賞の前に、まずは高橋氏にこのマグカップをねだらなくてはならないようだ。

《西のほうの古都の名刹におとらない清楚な寺 広徳寺──そうだ! 五日市にいこう!》
晩秋のつめたい雨に濡れながら「広徳寺」をめざす。これまで五日市は何度か訪れたが、いわゆる観光や寺社巡りははじめてだった。
〔どうせ、山寺。たいしたことはなかろう〕
とおもいながら急峻な坂をのぼった。
傾斜がいくぶんなだらかになったとき、いきなり広徳寺の茅葺きの総門があらわれた。いかにも禅寺らしい簡素なたたずまいがよい。おもわず扁額に目を奪われる。コバルト・グリーンのような大胆な色彩で「穐留禅窟」とあった。

 

この扁額を書したのは、江戸後期の出雲松江の藩主・松平不眛公だと傍らの解説板にあった。
調べてみたら松平不昧フマイこと、松平治郷ハルサト(1751-1818)は、茶人としてしられ、号して不眛。茶道につうじて石州流不昧派をおこし、また禅道・書画・和歌にもつうじたひと。不昧公は江戸期の凡庸な譜代大名のなかにあって、傑出したひとであったそうな。

扁額にみる「穐留禅窟」の「穐」は、「秋・穐・龝」と同音同義の字で、いまは市名となったこのあたりの古名「あきる → 穐留」をあらわす。したがって「穐留禅窟」は、「あきる の 禅の 岩屋」ほどの意になろうか。
おおぶりな骨格といい、大胆な色遣いといい、この山の寺にふさわしいよい書であった。

ただし出雲の国の不昧公が、なぜこの山深い五日市の禅寺の扁額を書したのか、解説板にはなにも記述はなかった。それがいかにも自彊ジキョウをおもくみる禅寺らしく、
〔興味があるなら自分で調べよ〕(ムカッ)
といっているようでかえってよかった。だからやつがれ意地になって、不昧公や、「穐留禅窟」を調べたということ。

   
総門をぬけると、つぎに現れたのが、茅葺の屋根を持つ重厚な二層の山門。こぢんまりとしているが、これが江戸期の構築物かと疑いたくなるようなおだやかさがある。遠目にはそれと気づかない二層の屋根のわずかな反り具合と、それを支える肘木ヒヂキの文様が軽やかである。こまやかな肘木の組みあげも、この茅葺きの屋根をかろやかにみせている。

また上層にある唐様のふたつの窓と、そこに貼られた真っ白な手抄き紙が、この古風な山門に、明暗、印影、めりはりをあたえている。

山門からは右手に、鐘撞き堂、左手に経蔵をへだてて本堂が望めるが、そのひろびろとひらけた前庭に、まるで塔宇のように、公孫樹イチョウの大樹がふたつ並んでいる。かなりの雨降りだというのに、この一画では写生会でもあるのか、10数名のご隠居連が雨をさけながらスケッチブックをひろげていた。

 

すっかり色づいた公孫樹がハラハラと葉を舞い落とす。その黄色くくすんだ落ち葉を踏みしめながら本堂に達する。大屋根は苔むしてはいるが檜皮葺きヒワダ-ブキ。贅沢なものだ。
本堂をぐるりとまわりながら、裏手のお廊下と濡れ縁をさりげなくこする。

そして、佐佐木承周老師のことども

佐佐木承周老師(アメリカ版Websiteより)

上)  ロスアンジェルス「臨済寺」にて。1989年12月23日、老師82歳ころ。
下) ご本堂前、老師と当時45歳ほどの筆者。小型カメラに日付表示機能があった20年ほど前。
このとき老師は開口一番「ジロウちゃん、おねしょは治ったかね?」で辟易ヘキエキした。
12月23日にロスにいき翌日のクリスマスイヴ、先方の指定日時にサンフランシスコにいって、
「パソコンの奇才」 と会見した。懐かしい写真が偶然見つかったので、ここにアップした。
この翌日 「パソコンの奇才」と会見写真は撮影のふんいきもなかったので、無い。

実はやつがれ、ゴ幼少のみぎり、短期間とはいえ禅寺に押し込められたことがある。そのときいちばん辛かったのが、禅寺では東司トウスとよぶ便所の掃除と、ご本堂や庫裏の板敷きのお廊下と濡れ縁の清拭だった。
これらの苦役・雑役モトイ禅寺での作業は「作務サム」とよばれる。ご存知の「作務衣サム-エ」を身につけて、清掃はもとより、東司の汲み取りから農作業までを、仏道修行としておもくみる。

これが禅の修行の最初だと、クソ坊主 モトイ、モトイ! テイセイ-イタシマス 佐佐木承周ジョウ-シュウ老師にいわれた。もとより、あまりにわんぱくで、悪戯がすぎて、オヤジと旧知の佐佐木老師の禅寺に放りこまれただけで、禅僧になろうとは露ともおもわぬやつがれだった。
だから読経や座禅は逃げまくったが、鼻水をたらしながら、修行の最初とされる、拭き掃除、掃き掃除、すなわち作務ばかりをさせられた。その修行の甲斐はご存知のとおり、まったくなかった……が。

この佐佐木承周ジョウ-シュウ老師というひと、お化けだ。いや怪僧というべきか、名僧はたまた傑僧というべきか……。
死んだオヤジと同年の1907年(明治40)うまれだから、もう105歳になるはずだが、いまはアメリカ西海岸の、ボーイ・スカウトのキャンプ地の一部を改装したという、どうひいき目にみてもキリスト教会としかみえない、まことにもって奇妙な白堊の禅寺「臨済寺」の住職として居住している。

かつて、この「臨済寺」に老師をたずねたことがある。その折り、紅毛碧眼コウモウ-ヘキガンひとが、まるめたあたまに菅笠をかぶり、墨染めの衣をつけ、素足に草鞋ワラジをはき、ゾロゾロ連れだって托鉢タクハツにでかけたのでおどろいた。
ロスアンゼルスの町のたれが喜捨に応ずるのかわからなかったし、丈が足りないのか、衣の裾から毛ずねをむきだしにして歩みだした、紅毛碧眼ひとや、アフリカ系アメリカひとの雲水どもを唖然としてみおくった。
鐘楼は軒先にブラリとさがったふしぎなシロモノで、どこかの耶蘇ヤソの寺(教会かな?)からもってきたような珍妙な梵鐘を、大まじめで叩いて モトイ 撞いていた。

佐佐木老師は、やり手モトイ非凡なひとだから、ほかにも西海岸一帯に禅寺をいくつもひらき、105歳のいまもってきわめて壮健らしい。しかも4月1日のうまれだから? 悟りすましたようなことも平然といってのける。
また真偽のほどは保証のかぎりでない(つい先ほどノー学部に教えられたWebsite情報だ)が、映画『スターウォーズ』のヨーダのモデルは、この佐佐木老師だとされている!

書店に「赤いひと囓りのリンゴ」関連書が山積みなので、しばらくは避けたい。それでもいまの高揚期が落ちついたら、「赤いひと囓りのリンゴ」創業者のこととあわせて、本欄でも紹介したい、一代の化けもの モトイ 傑物が佐佐木老師であることだけは間違いない。
アメリカの一部では佐佐木老師をすっかり神格化し、ダライ・ラマ、ローマ法王、Sasaki Roshi  とならべて紹介している  Website  もあった。いくら幼少のときとはいえ、老師のさまざまな行蔵を間近でみてきたやつがれ、いささかウ~ンとうなるしかないアメリカでの過熱ぶりであった。

やつがれこのクソ坊主 モトイ 佐佐木老師には、さんざんゴツンとなぐられ、説教をくったが、寒さとさびしさ? のあまり、ついつい粗相した寝ションベン布団を、なんども干していただいたことがある。ともかく大恩のあるかたであることは間違いない。
もし、こんなことにご興味・関心のある、かわったかた?は、佐々木老師、佐々木承周 で検索してほしい。
やつがれ、五日市で雨宿りのおり、ノー学部に〈禅宗における、臨済宗と曹洞宗の違い〉を述べさせられた。かつて「赤いひと囓りリンゴ」の創業者も、佐佐木老師に関心を寄せたときがあり、おなじような質問を浴びせられたことがあった。
「門前の小僧、経を詠む」というが、禅宗臨済の寺では『観音経』ぐらいしか詠まなかった。そんなやつがれに、深遠な禅のこころなどわかるはずもなく、いずれもしどろもどろで答えた。

ところがそれにものたりず、また、つねづねやつがれが口にしていたクソ坊主、モトイ 佐佐木老師のことをふくめて、ノー学部があれこれと検索して、つい先ほど教えられたこと。ともかく佐佐木老師に関して、Websiteがひどいことモトイあつくなっていた。
やつがれはまったく知らなかった。まさか、かの佐佐木老師さまが、こんな話題のひとになっているとは!
英語版 Sasaki Roushi Joshu Sasaki だと、おどろくほどの数にヒットする!

禅寺、なかんずく戒律がきびしかった臨済宗妙心寺派の寺院では、雲水ウンスイはもとより稚児僧チゴ-ソウなぞは、足袋の着用などもってのほか。早朝の寒い北風のなか、サイズの合う作務衣がなく、ましてフリースなどという便利なものはなかった。だから、薄っぺらな「体育用トレパン」(古)を身につけ、シモヤケとアカギレの手で雑巾を固く絞り、駆けるようにすばやく、広い濡れ縁を駆け巡って清拭する修行はつらいおもいでとしてある。
この「修行」のおかげで、やつがれ、もっとも苦手な作業、モトイ修行乃至ナイシは作務サムが「掃除」となってしまったほどのものである。

ところが雨のせいもあったのか、「広徳寺」では、格別には雲水の姿はみかけなかった。それでも住持がなされているのか、ご本堂裏手の濡れ縁は清拭がゆきとどき、指先にはまったく埃がつかなかった。
これだけでやつがれいたく感嘆。西のかなたの観光寺院では、こんな簡単なテストでいつも失望させられているだけに、ただただ単純に、
〔すげえなぁ〕
とおもってしまう。

《大悲願寺でノー学部 異なもの発見!再訪確実となる》

    

いつのまにかやつがれ、撮影担当から追放された? そもそも写真を撮るつもりが動画画像になっていたり、ときおり撮影データをそっくり消去してしまうので、はたの信頼を失った。決定的だったのは、集合写真を撮った際。
「はい、チーズ!」
ト、責任と緊張に打ち震えながらも、自信満萬をよそおいつつ、至極にこやかに撮ったが、不幸なことにみんなの首から上が、フレームからはみでて、ちょん切れていた。別に悪意はない。至極真面目だった。

もとから極めつきの機械オンチであるから、臨場感のあるファインダーを覘くのならともかく、あのいろいろな情報が涌いてくる薄気味わるいガラス板を避け、被写体の皆さんをみつめながら、
「はい、チーズ!」 ── パチリ!
とやっただけ。

以前なら現像しないとわからなかった〔バレなかった〕ことだ。ときどき〔まれにかな?〕素晴らしい写真をとったこともあるほどだ。ところがどんな操作をするのかしらないが、最近のカメラは現像・停止・定着もしないで、直後に撮影結果がみれるようになっている。
そこで〔どうも吾輩の腕前を疑っていたらしい〕みんなが、やつがれからカメラをとりあげて、
「どれ ドレ?」
とのぞき込んだところ、(案の定)みんなの首から上がギロチンでサッパリと、斬首の刑のあとのように無かったという次第。やつがれまったく他意は無いのに、一斉につめたい視線をあび、侮蔑されるにいたった。
たかがスナップ写真の巧拙だけで、人格を云云ウンヌンするほどでもあるまいに……、ト、やつがれ悔しまぎれにおもうのだが、いつのまにか、さして使用していない新品同様のデジタル式ナイコンカメラを、《使う資格無し》としてとりあげられた。そして撮影担当から放逐された。

閑話休題 トコロデ── 撮影係のノー学部。やつがれの指示する撮影箇所を無視して、そこらの野艸ばかりを撮っている。はるか昔は昆虫少年だったから、トンボやチョウにはいささか詳しいが、艸木には疎い。だから「山茶花サザンカ と 枸橘カラタチ と 椿ツバキ」などを取り違えることもある。
そうするとノー学部出身をかさにきて、
「あれは山茶花です。椿じゃありません!」
ト、居丈高になるのは感心しないなぁ。
スミレもタンポポも、花をつければ、なべて、やつがれの大好きな「艸花」だ。

「大悲願寺」は、「広徳寺」とは秋川をはさんで対岸にある。真言宗の古刹である。寺伝によると、源頼朝の命によって1191年に建立されたとされる。
また、江戸時代初期、仙台藩主・伊達政宗(1567-1636)が鮎漁に秋川をおとずれ、庶弟が住持をつとめていたこの寺を訪れ、いっぷくの茶を服したという。その折り、庭に咲いていた白萩があまりに見事だったので、仙台にもどったのちに、この寺の白萩を所望したと伝える。その伊達政宗の書状も寺に保存されている。

その白萩は花のときを終え、こうべを垂れてつめたい雨にぬれていた。だから参拝者も観光客もたれひとり「大悲願寺」にはいなかった。それでもやつがれ、真言の寺は、その荘厳の大仰さと、さまざまないわくありげな象形のゆえに、いささか苦手とする。だから雨足がつよまったのを口実に、早早に「大悲願寺」を退散して雨宿り。

《そこでやつがれ、紫煙をくゆらせ夢想した……。》
五日市から檜原ヒノハラ村にかけては、ふるくは山塞だったとされる場所が多い。ちいさな石積みのうえに、山塁跡とおもえる平坦地があったりする。檜原村のひとなど、いまも「杣人 ソマウド」とよんだほうがよいほど、荒ぶる形相のひともいる。

かつて源頼朝が天下取りのいくさをはじめたとき、その呼びかけに応え、このあたりの屈強な杣うどどもが、一所懸命とばかり、鍬クワと鎌カマをなげだし、鉞マサカリと斧オノをほおり捨て、鎌倉街道をいっさんに頼朝のもとに駈け参じたのではないか……。

杣うどどもは、野馬にあわただしく鞍をのせ、野鍛冶がうった頑丈な大刀を帯び、むき身の大鎗をひっさげて、
「いざ、いざ、いかなむ、鎌倉へ!」
と、頼朝の陣へ、形相もすさましく、押し合いへし合いしながらはせ参じたのではないかと……。
そのために幕府開設前年の1191年、頼朝は屈強な兵士団をもたらすこの山間の地に、「おおきな悲願」をこめて真言の寺を設けたのではないのかと……。

とすると──、映画『五日市物語』のサブタイトル、
「五日市、それは時が止まったような、東京のふしぎなまち」
には、僭越ながら少少異論がある。

ここ五日市の時は決してとまっていない。耳を澄ませばとおいときの聲が、なんのまどいもなく聞こえる──。
いななく野馬の鳴き声。喚オめくがごときもののふの野太い雄叫び。くびきを接し、地響きたててひたはしる駒のひづめの音。そして空中に高鳴る鞭の音……。
大木をうち倒す斧の硬い金属音。白煙をあげる炭焼き小屋からは、薪にするノコギリの規則正しい往復音。野面にわく童ワラベどもの歓声……。

やつがれにとっての五日市とは、そんなふしぎなエートスが、大地の深くにまで刻みこまれた町である。源平の昔からの、心性や感性が刻みこまれた風土があり、それがいまの五日市の景観をなしている。すなわち五日市とは、古い時代の、いきざま、情念のごときエートスをふところふかく秘めた、時代とともにいきる町である。

そしてこの地のエートスは、一朝一夕に浸蝕され、消滅するはずはない。それはいまもこの地の山川に、そこにいきるひとびとのあいだに、脈脈と鼓動し、浸出し、おりにふれて噴出するはずのものである。
その刻みこまれたエートスのほんの少しを、さりげなく掘りおこしているのが、「茶房 むべ」のあるじにして、アルチザン、「高橋敏彦氏」ということになろうか。
五日市は、これからもいきつづける、ふしぎの町、あやかしの町、エートスを実感させる町として存在している。

ところでノー学部。まだ雨の降りしきる「大悲願寺」の庭をウロウロ。煙草をふかし、すっかり夢想にふけっていたやつがれをふいに呼び、庭の片隅にほとんどうち捨てられている、ふるぼけた掲示板をみろという。
驚いた。正直驚いた!──。まさしく新発見だった。
その報告はもうすこし調査を重ねてからにしたい。すなわち、五日市再訪は近いということになった。

◎ 本日11月23日 勤労感謝の日で休業。六白 先勝 みずのえ うま。
ET展 Embed Technogy がらみで来客多し。 おもしろき話題少なし。