朗文堂-好日録 010 ひこにゃん、彦根城、羽原肅郎氏、細谷敏治翁

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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ここのところ野暮用に追われまくりの毎日
されど[カラ]元気で、オイチニ、オイチニ !

¶ あの日、そう、あの03月11日以来、ここ新宿邨周辺では、大通りを闊歩していた紅毛碧眼人コウモウ-ヘキガン-ジンがめっきり減った。また、中国のひとの「ニイハオ! 謝謝」も、韓国のひとの「アンニョイハシュムニカ、カムサハンムニダ」のおおきな声もめったに聞かれなくなった。
新宿邑では、たれもが心もちうつむき加減で歩き、夜の街は、ここが繁華街のただなかであることを忘れさせるほど、すっかり暗い街になった。お江戸の空も空気が澄んで、夜空に星がまたたくのがみえるようになった。計画停電や節電が叫ばれ、余震におびえる、地震冷えの寒い毎日であった。

¶ 03―04月は、震災前から決まっていた年度末・年度はじめの作業に追われたが、ふり返ってみると、どことなく気が抜け、なんとはなしに腰が抜け、まとまりを欠いた日日だった。
それが5月の連休明けから、それまでの2ヶ月分の反動のように、俄然慌ただしくなった。それも従来の企画や行事を惰性のように反復するのではなく、ゼロ基盤から立ち上げる作業が多く、気がつけば、06―07月の両月は、ほぼ休日無しでの仕事がつづいた。

¶ アダナ・プレス倶楽部〔現サラマ・プレス倶楽部〕では、5月の連休恒例の〈活版凸凹フェスタ〉の開催を、震災後の諸事情を考慮して中止した。それでも会報誌『Adana Press Club NewsLetter Vol.13 Spring 2001』に、被災地の復興・再建の夢と、活版印刷ルネサンスの希望をのせて、会員の皆さんに、トロロアオイの種子を数粒ずつ同封して配送した。

まもなく仙台市青葉区在住の女性、Oさんから、「トロロアオイの種子が元気よく発芽しました」との写真添付メールが送られてきた。Oさんは毎年〈活版凸凹フェスタ〉に、はるばる仙台から駆けつけてくださる熱心な活版ファンである。
やつがれも5月初旬に、「空中庭園」の植木鉢に3株を植えたが、現在は腰ほどの高さにまで成長し、ちいさく花芽もつけている。この草は、アオイ書房の志茂太郎が愛した花として知られ、晩夏から初秋のころ、たった1日だけ美しい花をつける(はずだ)。

¶ おそらく秋が深まったころ、アダナ・プレス倶楽部の有志諸嬢と諸君は、このトロロアオイの根っこを持参し、恒例の〈手漉き紙体験会〉に賑やかにくりだすはずだ。ところがなんと――つい最近詳細を知ったが――、なにかと催事が好きなアダナ・プレス倶楽部は、10月の3連休を利用して、〈活版カレッジ修了生新潟支部――実存するのだ!〉のY嬢と、Y博士の肝煎りで、新潟漫遊 モトイ 新潟研修旅行を計画しているらしい……。そのあとで、もっと水が冷たくなる11月下旬ころに〈手漉き紙体験会〉となるスケジュールだそうである……。

  やつがれにとって、都下あきる野市行きとは、手漉き紙体験も楽しみだが、それよりも、近在の「喫茶 むべ」――アケビの別称――の珈琲が楽しみだ。水のせいかとおもうが、ともかくここの珈琲は絶品である。そこでは造形者だった老店主との会話が弾む。また「喫茶むべ」の近くには、湯の香もゆたかな天然温泉もあるという、おまけたっぷりの東京都下への旅となる。そして今年は、会員みずからが育てたトロロアオイの根っこが、ネリとして、コウゾの繊維とともに手漉き紙用の「舟」にいれられそうだ。 

¶ 07月某日、関西方面出張。タイポグラフィゼミナール、活版ゼミナールを兼ねての強行軍での出張。たまたまほぼ同じ時期でのおはなしだったので、スケジュールを集約調整して、大阪3ヶ所、京都2ヶ所、滋賀1ヶ所を駈けまわるという強行スケジュール。なにはともあれ交通の便だと、京都駅前のタワーホテル(オノボリサン丸出しもいいところ。のちほど京都育ちのHさんに、古都の景観を損傷した京都タワービルには入ったこともない …… と呆れられた)をベース・キャンプにして仕事に集中。

連日、大阪・京都・大津といったりきたり。それなりの成果もあったし、充実感もあった。されど、ここで仕事のはなしをするのは野暮というもの。なにせノー学部といっしょだったから、忙中に閑あり。やってくれました! なんともまぁ、唖唖、こんなこと !!

¶ なにかおかしいぞ……、と、嫌な予感はした。
「京都から大津にいって、彦根にいくって、たいへんですか」
「直線距離ならたいしたことはないけど、なにせ琵琶湖の縁をこうグルッとまわってだね …… 、結構面倒かな」
「彦根城には、いったことはあるんでしょう」
「水戸天狗党の藤田小四郎を調べていたころ、井伊大老の居城ということでいった」
「じゃぁ、日曜日が空いているから、京都観光巡りじゃなくて、彦根城にいきましょう」
やつがれ、なにを隠そう、じつはちいさいながらも城下町で育ったせいか、彦根のふるい家並みの街が好きである。ここには大坂夏の陣で破れた忠義の武将、木村重成公の墓(首塚)もあるし、お馴染みの「徳本トクホン行者 六字名号碑 南無阿弥陀仏」もある。それよりなにより、近江牛のステーキは垂涎ものなのだ!

¶ 雨中の江州路をゆく……。こうしるせば、ふみのかおりたかいのだが、実相は違った。ハレ男を自認しているやつがれにしては、この日はめずらしくひどい雨がふっていた。
「並んで、並んで。ハイハイ並んでくださ~い」。
やつがれ、駅からタクシーで彦根城にきて、いきなりわけもわからず行列に並ばされた。2-300人はいようかという大勢の行列である。みんな「ひこにゃん」なるものを見るのだそうである。きょうは雨なので、お城に付属した資料館のようなところに「ひこにゃん」なるものは登場するらしい。行列に並びながら、やつがれ「ほこにゃんとは、そも、なんぞい」とまだおもっていた。
ところがナント、まことにもって不覚なことながら、やつがれ、(順番の都合で偶然とはいえ)、最前列に陣どって、ともかく嗤いころげて「ヒコニャン」をみてしまったのだ。要するにかぶり物のキャラクターだったが、ちいさな仕草がにくいほどあいらしかった。
あとはもうやけくそ! 字余り、破調、季語ぬけおかまいなしで、一首たてまつらん。

      

エッ、この人力車に乗ったかですか。乗るわけないでしょうが、いいおとなが。――ところがやつがれ、こういうキッチュなモノが意外と好き。ハイハイ正直に告白、「ひこにゃん」も見ましたし、この人力車にも乗りましたですよハイ。チト恥ずかしかったケド、しっかりとネ。
ともかく急峻な坂道を天守閣までのぼり、さらに内堀にそってずっと歩いたために、足が棒になるほど疲れていた(言い訳ながら)。実際は、なによりも旨い近江牛をはやく食しに、このド派手な人力車に乗って、車中堂堂胸をはって(すこし小さくなっていたような気もする)いった。ステーキはプチ贅沢、されど旨かった。

雨中に彦根城を訪ねる   よみしひとをしらず
    ヒコニャンに  嗤いころげて  城けわし
青葉越し  天守の甍に  しぶき撥ね
湖ウミけぶり  白鷺舞いて  雨しげく

木邑重成公の墓に詣る  よみしひとをしらず
    むざんやな 苔むす首塚 花いちりん

   

        

   

¶ 8月某日、爆睡ののち、おもいたっての外出。

¶ それにしても、ことしの夏は暑い毎日であり、猛暑 → 酷暑 → 劇暑 → 烈暑 → 殺暑 …… 南無~~ といった具合に暑かった。そのせいかどうか知らぬが、新宿邑の街路樹として、近年の夏を彩る「サルスベリ 百日紅」の開花がおそく、蝉どももなかなか鳴かなかった。それが一度涼しい日が数日つづいたあと、百日紅が一斉に深紅の花をつけ、蝉がにぎやかに鳴きはじめた。

一部では「暑苦しい花」として不評らしいが、やつがれ、この暑い盛りに深紅の花を、それこそ百日ほどにわたってつける「サルスベリ 百日紅」が好きである。それより、雪深い田舎町出身のわりに、暑い夏は嫌いではない。むしろ、寒い冬は、炬燵に潜りこんで厳冬をやりすごした癖がぬけないのか、愚図ぐずと、なにをする気力もなくなり、惰眠をむさぼるふうがある。

 ¶ わが「空中庭園」にも、蝶や蜂がしばしば訪れるようになったのは、08月の中旬、甲子園野球が決勝戦を迎えようかというころだっった。お盆の4日だけの休暇でノー学部が帰郷したので、高校野球の観戦もせず、08月14日[日]だけ、爆睡、また爆睡を決め込んだ。時折目覚めてカフェに行き、珈琲一杯とサンドイッチを食してまた爆睡。
そしたら疲労がいっきに回復して、かねて気にしていた、大先輩の訪問をおもいたって、相手の迷惑もかんがえず、勝手に08月15日[月]に押しかけた。

¶ 九段下で乗り換えて多摩プラーザに「活字界の最長老・細谷敏治翁」を訪ねる。細谷翁は90を過ぎてなお車の運転をして周囲をハラハラさせたが、現在御歳98歳、やつがれとの年齢差33歳。車の運転こそやめたが、耳は難聴を患ったやつがれよりはるかに確かだし、視力も相当なもの。しかもシャカシャカと歩いて元気そのものなのである。くどいようだが98歳!

細谷敏治氏――東京高等工芸学校印刷科卒。戦前の三省堂に入社し、機械式活字父型・母型彫刻機の研究に没頭し、敗戦後のわが国の金属活字の復興にはたした功績は語りつくせない。
三省堂退社後に、日本マトリックス株式会社を設立し、焼結法による活字父型を製造し、それを打ち込み法によって大量の活字母型の製造を可能としたために、新聞社や大手印刷所が使用していた、損耗の激しい活字自動鋳植機(いわゆる日本語モノタイプ)の活字母型には必須の技術となった。また実用新案「組み合わせ[活字]父型 昭和30年11月1日」、特許「[邦文]モノタイプ用の[活字]母型製造法 昭和52年1月20日」を取得している。

また、新聞各社の活字サイズの拡大に際しては、国際母型株式会社を設立して、新聞社の保有していた活字の一斉切りかえにはたした貢献も無視できない。
今回は、その細谷翁直々の「特別個人講義」を受講した。資料もきっちり整理が行き届いており、「やはり本物はちがうな」という印象をいだいて渋谷に直行。

 ¶ 車中あらためておもう。
「戦前の工芸教育と、戦後教育下における、工業(工業大学・工学部)と、藝術・美術(藝術大学・美術大学・造形大学)に分離してしまった造形界の現状」を……。すなわちほぼ唯美主義が支配している、現状の「藝術・美術・造形」教育体制のままで、わが国の造形人、なかんずくこれから羽ばたき、造形界に参入しようとする若いひとたちを、これからもまだ市民社会が受け容れるほど寛容なのか、という素朴な疑問である。

¶ 渋谷から山の手線に乗り換えて大崎駅下車。小社刊『本へ』の著者、羽原肅郎氏を訪問。最近少し体調を崩されたと聞いていたのでチョイと心配していたが、写真のようにまったくお元気で安堵・安心。
羽原さんはともかく無類のモダン好き。だからつい最近まで、ヘアーカットは「ウルマー・カット」(ウルム造形大学生のかつての流行ヘアー・スタイル)、そして眼鏡はマックス・ビル風のまん丸い「ビル・メガネ」という凝りようだった。この万年青年のように純粋なひととかたっていると、やつがれも若者のような心もちになるからふしぎだ。
夕陽をあびて、帰途は大崎駅まで送っていただいた。写真のピントがあっていないのは、デジタル音痴のやつがれのせいで、ナイコンのせいではないことはあきらかである。

¶ 立秋を迎え、夏休みも終わりだ。残暑も収まりつつある佳き日のきょう。8月26日[金] 五黄先負癸丑ミズノト-ウシ。