【ことのは】北京紫禁城|故宮博物院|高級官僚執務所としての武英殿と皇帝図書館の文華殿・文淵閣

紫禁城-故宮博物院を北側の神武門の裏山、景山山頂からみる

景山は中国の首都・北京のほぼ中央、紫禁城の北の一郭を占める景勝地。標高43メートルの人工の丘であるが、かなり急峻な坂道をのぼる。
金代(前金)に離宮を造営した際、現在の北海を掘った土を堆積してつくられた。
元代には宮廷の庭園とされ、明の永楽年間に紫禁城を囲む筒子河-とうしが-をさらって五つの峰をつくり、清朝(後金)乾隆帝がその峰の上に万春亭をはじめ、壽皇-じゅこう-殿、観徳-かんとく-殿などの山亭や宮殿、花園を設けた。

紫禁城にはさらに周囲をおおきくかこむ堅固な外壁があったが、現在では楼閣の一部を除いて撤去されて幹線道路となっている。この外壁の内側(旧内城地区。旧市街)では景観保存のために、紫禁城の正殿、外朝の「大和殿」より高い建造物は禁止されており、上掲写真では靄っているが、高層ビル群の建築はかなり遠方の旧外城地区(新市街)でなされている。

紫禁城-しきんじょう (北京)故宮博物院 概略図

上掲写真とは異なり、南側から紫禁城を概観した。よく知られる天安門・端門はこの図版よりもっと南(下側)に位置する。
紫禁城は中国、明・清(後金)時代の北京の宮城であった。紫禁とは、天帝の宮城とみなされていた星座の紫微垣-しびえん-からでた語で、皇帝の居所を意味する。

はじめ明の永楽帝-えいらくてい-が国都を南京から北京に移すのに際し、元の大都の宮城址付近を利用して造営し、十数年を費やして1420年に完成した。
その後、明・清時代を通じて宮殿や門はたびたび改築修補され、それらの名称も変更されている。現在の建物は、ほとんどが明代の様式をおおむね継承して、清(後金)時代に建てられたものである。

紫禁城は北京の旧内城の中央南部寄りに位置する、東西約750メートル、南北約960メートルの城壁に囲まれた約72万平方メートルの区画で、その外側に濠(筒子河-とうしが)を巡らしている。
城壁の四周にそれぞれ一門があり、南から天安門・端門を経ていたる午門-ごもん-が正門としてとくに雄大で、北に神武門、東に東華門、西に西華門が開き、四隅に角楼-かくろう-がある。
現在は混雑防止の見地から、南の午門から入場し、北の神武門から退場する一方通行とされていて逆行はできない。また東華門、西華門は関係者のみが使用している。

城内は南と北の二区画に大別され、南は公的な場所の「外朝」で、午門から北へ太和門、太和殿、中和殿、保和殿が中軸線上に一列に並び、その東西に文華殿、武英殿などの殿閣が配置されている。なかでも中和殿、保和殿とともに、三層の白色大理石の基壇上に建つ太和殿は、東西約60メートル、南北約33メートルの堂々たる建物で、紫禁城の正殿として重要な儀式に使用された。

外朝の北は皇帝の私的生活の場所の「内廷」で、保和殿の北の乾清-けんせい-門から、乾清宮、交泰殿、坤寧-こんねい-宮などが中軸線上に一列に並び、その左右に后妃らが住んだ東西の六宮をはじめ多くの建物がある。
皇帝の日常の起居はもっぱら内廷の「養心殿」でなされ、その南西の隅には、しばしば温室とあらわされる「三希堂」があり、皇帝の学問所であった。内廷と外朝を連結するのは、外朝の北端で、養心殿と隣接する「軍機処」でほとんどがなされた。

このように紫禁城には大小無数の建物と、紅殻色の牆壁-しょうへき-や門が整然と配置され、黄瑠璃瓦-こうるりがわら-や朱塗りの柱とあいまって集団美をなしている。
そしてこの豪華な大宮殿は、明・清時代の皇帝権力の強大さをよく表すものである。1925年以来、故宮博物院として一般に公開され、中国文化財の一大殿堂となっている。
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中国での改革開放政策が滲透し、またわが国からは中国へビザ無し渡航ができるようになったこともあり、多くの友人・知人が訪中するようになった。ところが造形者の一部のかたが訪中して、

「長年の念願だった武英殿をぜひともみたい」
とされて、紫禁城-故宮博物院を訪問したところ、門(武英門)とその扉が固く閉ざされ、武英殿の写真は一枚も撮れなかったと嘆かれるかたが増えてきた。

武英殿は午門を入ってすぐ左側にあるが、地図では見えない障壁が幾重にも通路に立ちはだかる。かくいう稿者も1970年代の末からこの門扉の前に空しく五度ほど立った。
その折り、なんとかのぞくだけでもと思ったが、名刺一枚も挟めぬ(悔しいが実際にやった)ほど固く閉ざされた門扉に撃退された。
その扉がようやく開いたのは、長年にわたった武英殿の改修がなって、しかも北京オリンピックが終わってから暫くしてからのことである。

現在の武英殿の本殿は「書画館」と名づけられて美術館・博物館として利用されているが、一度の会期が半年から一年と長く、次回展までの間の閉鎖が数か月に及ぶことも珍しくない。したがって上掲の造形者は、休館中に訪問されたことになり、運が悪かったとしかいいようがない。
のちに知ることになったが、人口一億二千万ほどのわが国では、国立博物館などでも三ヶ月ほどの会期が設定されている。ところが人口十四億余の中国では、

「一部の民衆に展観していただくだけでも、最低半年、ほとんど一年間の会期設定が必要です。それに紫禁城内外の各所に埋もれている展示品を整理し、清拭し、修理・修繕し、資料整備などを考慮すると、次回展の準備にも数ヶ月の時間が必要です」
とのことであった。

修理と蔵書の再収集が続く 皇帝図書館の文華殿・文淵閣

武英殿と中心軸をはさんで正対する御殿が文華殿である。ここは中華皇帝が臨席する図書館(閲覧室)であり、その背後にある文淵閣は宮廷の蔵書蔵である。既述のように紫禁城の屋根は黄瑠璃瓦であるが、文華門・文華殿・文淵閣などの一画だけは、図書の保護のためとされる深い緑色の瓦が葺かれている。

武英殿は長年の修理ののちようやく公開されたが、文華殿一円はおおきくフェンスで囲われ、いまだに非公開の一画となっている。2013年の訪中の折り、紫禁城図書館のご好意でこの宮殿にはいることができた。
文華殿は皇帝の臨席に備えた豪勢なつくりで、建物の各所に図書にまつわる絵画や彫刻がほどこされていた。その背後の文淵閣にはいったときに、おもわず息を呑んだ。文淵閣にあったはずの『四庫全書』をはじめとする万巻の図書はまったくなく、そこには広大な空間だけが拡がっていた。
「ここの蔵書は、すべて台湾に持ちさられました」


中国史上最後の王朝「清」(1616-1912)は、満洲の女直族・女真族によって建朝された。姓は愛新覚羅-アイシンギョロ、あいしんかくら。始祖ヌルハチが女直族を統一し、1616年奉天(現瀋陽)で即位して国号を「後金」と号した。
その子のホンタイジ(太宗)が1636年「清」と改称、第三代順冶帝の1644年、明王朝の滅亡に際して、山海関を越えて中国にはいり北京に遷都した。康煕帝・雍正帝・乾隆帝のころ全盛。孫文らによる辛亥革命によって12世で滅亡した。

清王朝の存在はそんなにふるい時代のはなしではない。
わが国でいうと徳川家康が江戸幕府をひらき、その基礎をかためて将軍職を秀忠にゆずり、駿府に隠居して大御所とされ、逝去した年が元和元年-1616年のことである。また清王朝が崩壊した1912年は明治から大正への改元のときでもあった。
すなわち「清王朝」とわが国の歴史は、江戸時代初期から明治期の歴史と重なる。

こうした清王朝における図書の収集・簒奪・国家事業としての図書刊行と、民間での図書刊行事業への熾烈な弾圧 ── 文字獄に関して、昨年の晩秋に武蔵野美術大学で開催された『和語表記による和様刊本の源流』展の図録と、記念講演会において「漢字文化の受容と刊本字様・活字書体の変遷 ── 片塩二朗」と題して紹介した。
読者諸賢はぜひとも同書をご一読たまわりたくおもう。

修復なった紫禁城(故宮)武英殿前で。(2013年11月)
左から:邢 立(Xing Li)氏、故宮博物院紫禁城図書館館長:翁 連渓氏、やつがれ、朱 有福氏

北京の友人:邢 立氏のご好意で、中国目録学の権威で紫禁城図書館館長:翁 連渓氏のご案内で、ふつうはあまり展観できない紫禁城の内部を長時間にわたってご案内いただき、そののち毛沢東がしばしば利用していたレストラン「沢園酒家」で食事までご馳走になった。通訳には新潟大学工学部で博士課程を修了された企業人:朱 福氏にお願いした。
この三人とも「清-gīng」ではなく「後金-ゴキン」と王朝名を呼ぶのが興味ぶかかった。そしてわが国での「武英殿」へのおおきな誤解と、文華殿への無関心を、やんわりと、ときに厳しく指摘された。その内容を端的にしるすと以下のようになる。

  • かつての紫禁城は聖域であった。
  • 武英殿の諸堂宇は御殿であり、工匠が出入りできる場所ではなく、皇族・貴族・高級官僚・宮廷使用人としての宦官だけが出入りできた。
  • 書写人や工匠は城外に設けられた工房で、下級官吏の指示と監督のもとで作業をしていた。もちろん「刻書処」などは城外に設けられていた。
  • 文淵閣と同様な皇帝図書館蔵書は、古都奉天(瀋陽)をはじめ都合七館設けられており、いずれそれらの蔵書を移転して文淵閣を再開する。
  • 武英殿の管轄下にあった図書製造所(工房)は現中央政府の管理下にあって保存されている。
    相当先のことになるが、いずれ公開される予定である。
  • なんとか工房跡を拝見したいとの稿者の懇願に対して ── 民衆に公開したい文物があまりに大量にあり、優先順位は相当低い。また相当散乱しており整理に手間取ることが予想され、翁氏の在任中には開示は不可能と予測される。

【武英殿-ぶえいでん】── わが国の代表的な国語辞典第五版ゟ
北京の紫禁城の南西隅にある宮殿。清の乾隆(1736-96)年間ここに設けられた刻書処から出版された書籍は殿版と呼ばれ、木活字を用いて印刷された(「武英殿聚珍版全書」など)。
【文華殿-ぶんかでん】── わが国の代表的な国語辞典第五版には紹介をみない
【文淵閣ーぶんえんかく】── わが国の代表的な国語辞典第五版には紹介をみない 

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