【ことのは】キリスト教イエズス会宣教師|フランシスコ・ザビエル(1506-52)来日470年|

1549年8月15日(和旧暦 天文18年7月22日)、フランシスコ・ザビエルが来日した。
1534年のモンマルトルの誓いにより、イエズス会が創立。同会は当初から世界宣教をテーマとしていて、ザビエルはポルトガル領であったインドの西海岸ゴアへ派遣され、ここを拠点としてインド各地へ布教。のちにマラッカ海峡を通り、モルッカ諸島(スパイス諸島)へ、その帰り道、鹿児島出身のヤジロウと出会い、日本布教の重要性を悟ったとのこと。

ザビエル一行は1549年8月15日(和旧暦 天文18年7月22日)、現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した。その三年ほどのち、1552年12月2日に中国の広東省にて布教中に病死。1622年に列聖され、遺骸はインド、ゴアのボム・ジーザス教会に安置。今でも10年に一度公開されているとのことである。
[ 参考:「日本の古本屋」メールマガジン ]

鹿児島市祇園之洲町に現存する、明治時代に建造され、戦災で焼失した聖堂を記念する遺構
Viva la 活版  薩摩 dé GOANDO 2014年11月1-3日 写真:サラマ・プレス倶楽部の皆さん

左)ヤジロウ Angero  中)ザヴィエル st Xavier    右)ベルナルド Bernardo

ヤジロウは人をあやめて海外に逃れていたとも、また難破漂流した鹿児島出身の漁民ともされている。そんなヤジロウ像は意外なことに「図書」を手にしている。ヤジロウは何語による、どんな複製方法による「図書」を手にしていたのだろう。
ザビエルの来日から30年後、おなじイエズス会の宣教師:アレッサンドロ・ヴァリニャーノらによって近世初期(16世紀末-17世紀初め)に日本を中心に刊行されたローマ字、あるいは漢字・仮名による印刷物「キリシタン版」は盛んに話題となるが、大航海時代にあって、イエズス会の創立者のひとりであったザビエルが、インド、日本、中国でなした伝道の詳細は詳らかにされていない。
[ 参考: 活版アラカルト Viva la 活版  薩摩 dé GOANDO まとめ

イエズス会とフランシスコ・ザビエル

【イエズス会】(Societas Jesu)
16世紀にイグナティウス・デ・ロヨラによって創立された、カトリック教会に属する男子修道会。ジェスイット教団、耶蘇(ヤソ)会ともいう。

◎ イエズス会の成立と根本精神
イグナティウス・デ・ロヨラはもと勇敢な騎士であったが、パンプロナの戦いで負傷し、その病床で回心してキリストに仕える騎士になる決意をした。マンレーサの洞窟での一年間に及ぶ祈りと苦行によって、彼は神の豊かな恵みを受け、その霊的体験をもとにして『霊操』を著した。
彼はこの小冊子によって人々を指導したが、「キリストの国」のために働こうとするフランシスコ・ザビエルら六人の同志と、1534年にイエズス会を結成し、1540年に教皇によって認可された。

イエズス会に入会する者は、まず『霊操』によって修行し、イエス・キリストの如く生き、働き、「より大いなる光栄のために」Ad maiorem Dei gloriam 神と人類に奉仕し、献身する者となる。
イエズス会という名も、「イエスの如く」生きる人の集まりという意味である。

それまで修道生活に不可欠とされていた修道制服、共同で唱える聖務日課、定住制などを廃止し、時代の要請に即応できる生活様式が採用された。清貧、貞潔、従順の三誓願をたてるが、衣服や食事その他では普通の教区司祭と同様に、土地の風習に適合させる。
全人類の救済のためにどんな仕事でも、どんな所にでもすぐ赴いて行ける即応性を重んじた。ことに、教会の最高指導者であるローマ教皇の命令であれば、どんな不便な所でも布教に赴くことを示すため、正式会員は特別な誓願をたてる。ザビエルもローマ教皇の命令によって、東洋の布教に従事し、1534年のイエズス会の結成からわずかに15年ほどのち、1549年(天文18)ついに日本にまで伝道にきたのである。

◎ 組織と会憲
イグナティウス・デ・ロヨラは、当時の個人主義に対してキリスト教的共同体を強調し、プロテスタント的主観主義に対しては、神の国の客観的秩序をたいせつにしたので、それらを支える精神として従順を重視した。そこで、『霊操』の精神を社会的組織にまで具体化するために、『イエズス会会憲』を書いた。
会の運営にあたっては、総会長または代理、顧問、管区長、各管区代表を構成員とする総会議が最高の権威をもち、総会長を選ぶ。その総会長が全会員を指導するが、世界を数地域に分け、その地域をまた数管区に分け、管区長を置き、管区の統括を行わせる。管区は事業や場所によって多くの修院に分け、そのおのおのは院長によって指導される。各会員は長い養成期間をかけて、学問的にも霊的にも徹底的な教育を受けるので、多くの点で自主的判断に任せられる。

イエズス会はプロテスタンティズムに反対するために創立されたのではなかったが、その当時おこったルターの宗教改革に対して、同会はカトリック復興運動のために、教会の最前線で闘った。このため、16、17世紀のヨーロッパの大部分がカトリック信仰にとどまることになった。
また、大航海時代とされていた当時、新しく発見された東洋やアメリカ大陸にもキリスト教を布教するために貢献した。18世紀後半にイエズス会はブルボン王家の絶対主義との抗争で、教皇によって解散させられたが、約40年後には復興されて、今日にいたっている。
イエズス会はまた教育政策の面で歴史的に大きな役割を果たしている。創立当時でも数百の中学校、大学を経営し、同会独自の学事規定 Ratio studiorum は、その後のヨーロッパの高等教育の基礎となった。同時に地理学や民俗学、言語学、天文学、物理学などにおける学問的研究でも、貴重な業績をあげた。

1983年時点の会員数は2万7000人(ヨーロッパに約1万、北米に6500、中南米に4000、アフリカに1000、アジアに4500など。日本には366)。教育に従事する会員が多く、たとえばアメリカでは会員の3分の2を占め、49の高校と、フォーダム、ジョージタウン、セントルイス、マーケットなど28の大学を経営している。日本では東京に上智大学、神奈川に上智短大、広島にエリザベト音楽大学があるほか、神奈川に栄光学園、兵庫に六甲学院、広島に広島学院の中・高等学校などを経営している。

【ザビエル】(Francisco de Xavier フランシスコ・ザビエル 1506-1552)
キリスト教宣教師。「東洋の使徒」とよばれる。イエズス会創立期の司祭で、東洋に派遣され、日本に初めてキリシタン宗門を伝えた。

1506年4月7日、ナバラ王国(スペイン北部の地方)の貴族の家に生まれる。幼少時に同国は隣国のカスティーリャに敗北して滅びるが、ザビエルはパリ大学に留学。
27歳のときに優れた指導者イグナティウス・デ・ロヨラの感化を受け、1534年、同志とともにパリのモンマルトルの丘に集い誓約するところがあり、1540年、ロヨラを初代総長とするイエズス会が公認される。
これより先、ポルトガル国王は東インドにイエズス会の優れた人材を派遣することを望んだので、ザビエルが選ばれ、1541年、彼はリスボンを離れ、モザンビーク島を経、インドのゴアに至った。

ローマ法王の使節、イエズス会の東インド管区長の資格をもって、彼はコモリン岬をはじめインド各地を巡り、さらに1545年から1547年にかけて、マラッカからモルッカ諸島まで布教に従事した。その間、マラッカの教会で最初の日本人として鹿児島出身のヤジロウ(アンジロウ)らに会い、彼らの母国・日本にキリシタン宗門を広める大いなる熱意を抱いた。

1549年(天文18)8月15日にザビエルは鹿児島に第一歩を印した。薩摩(鹿児島県)、平戸(ひらど 長崎県)を経、周防山口(すおう 山口県)でも、同僚フェルナンデス修道士らと伝道したのち、1551年の初めに堺(さかい)に達し、ついで京都に赴いたが、戦乱のために天皇も〔足利〕将軍にも権威がないことを悟る。
落胆のうちに西下した彼は、周防の大内義隆(おおうちよしたか)を再度訪れ、数々の珍奇な品を献上してその好意のもとに山口で布教した。ついで豊後(ぶんご 大分県)にポルトガル船が入港したとの知らせでその地に移り、大友宗麟(おおともそうりん 義鎮-よししげ)に謁したのち、1551年ひとまず離日してインドに帰った。
翌1552年中国布教を志してゴアから旅立ったが、広東(カントン)沖のサンショアン島で病死した。ときに1552年12月2日(3日説は誤り)。遺骸は現在ゴアのボン・ジェズ教会にあり、右腕だけはローマのジェズ教会に安置されている。1622年、聖人の位に列せられた。

[参考:日本大百科全書(小学館)]