【ちいさな勉強会】研究社・研究社印刷の百余年に及ぶ歴史からまなぶ ── 講師:小酒井英一郎さん

講師/研究社印刷株式会社 社長:小酒井英一郎さん

《朗文堂 ちいさな勉強会 ── 研究社印刷株式会社 社長:小酒井英一郎さん》
去る07月19日[金]、皆さん親しいお仲間ばかりのご参加でしたが、研究社印刷株式会社:小酒井英一郎さんを講師にお招きして、朗文堂/タイポグラフィ学会/サラマ・プレス倶楽部/平野富二の会 ── 合同による「ちいさな勉強会」を開催。
歴史と伝統を誇る研究社/研究社印刷の百余年にわたる歴史をお話しいただきました。

◉ 第一部 研究社百年の歩みを中心に

『 TYPE FACES 』

研究社印刷 1931(昭和6)年版 B 5 判 160 ページ かがり綴じ 上製本
この活字見本帳は、端物用、ページ物用の欧文活字書体の紹介がおもである。高島義雄 → 加藤美方をへて朗文堂に譲渡された。研究社印刷・小酒井英一郎氏によると、研究社の冊子型活字見本帳では、これが最古のものであり、またこれが唯一本とみられるとのことである。

 

 

『 SPECIMENS OF TYPE FACES 』
研究社印刷 1937(昭和12)年 同社蔵) B 5 判 160ページ かがり綴じ 上製本
前掲見本帳から7年後、同社が活字自動鋳植機モノタイプマシンを本格展開した際に製作されたとみられる活字見本帳。研究社とその関連部所に、都合 2 冊が現存する。
ライノタイプ・マシンが中心の1931年(昭和6)版での欧文活字書体は、Century Expanded, Granjon が中心だったが、モノタイプマシン中心の1937年(昭和12)版では Garamond, Aldine Bembo が中心書体に変わっている。いずれの書体も名書体として、いまなお評価が高いものばかりである。

 

『研究社八十五年の歩み』
1992年(平成4)12月15日発行、編者:研究社社史編集室、発行所:株式会社研究社本社、組版印刷:研究社印刷株式会社、製本:黒田製本所、B 5 判 上製本、312ページ ケース函入り

『研究社百年の歩み』
2007年(平成19)11月3日発行、編者:研究社社史編集室、発行所:株式会社研究社、組版印刷:研究社印刷株式会社、製本:株式会社ブロケード、B 5 判 上製本 520ページ ケース函入り

《研究社と研究社印刷》
◉ 研 究 社 は、
1907(明治40)年、小酒井五一郎(当時26歳)が「英語研究社」の名称で麹町区富士見町6丁目10番地に創業以来、一貫して英語関連の出版事業を展開している。1916(大正5)年、社名を「研究社」と改称した。
創業当初から、つねに世界に拓かれた出版をモットーとしてかかげ、現在、辞書・書籍・電子の領域において 最高水準の出版物を刊行するための努力を継続中の企業。現在の住所表記:東京都千代田区富士見 2ー11ー3

◉ 研究社印刷 は、
1919年(大正08年)研究社の印刷所として英文図書刊行に備え九段中坂に組版工場設立
1920年(大正09年)牛込区神楽坂に印刷工場新設
1924年(大正13年)改築の為一時飯田町に移転
1927年(昭和 02年)神楽坂印刷工場完成
1939年(昭和14年)吉祥寺印刷工場設立
1947年(昭和22年)富士整版工場設立
1951年(昭和26年)研究社印刷株式会社として分離独立
1984年(昭和59年)富士整版工場、吉祥寺工場を吸収合併し、新座市野火止に新社屋完成

[ 関連: 研究社 HOME   研究社会社案内  研究社印刷株式会社 ]
[ 参考: NOTES ON TYPOGRAPHY  【かきしるす】タイポグラファ群像*01|加 藤 美 方|かとう よしかた 1921-2000 ]

◉ 第二部 研究社の辞書の刊記(奥付)をみる ── 武信和英大辞典を中心に

『武信和英大辞典』初版刊記(奥付)
武信由太郎編、研究社発行、印刷:東京築地活版製造所

『武信和英大辞典』昭和2年〔1927〕10月1日訂正第五十九版刊記(奥付)
特製総皮製本 武信由太郎編、研究社発行、印刷:研究社印刷所

創業から20年余ののち、小酒井五一郎率いる研究社は画期的な大型辞書に挑戦した。それは武信由太郎編『武信和英大辞典』の刊行であった。当時はまだ英和辞典ですら稚拙なものが多かった時代にあって、いきなり大型の和英辞典の刊行は無謀ともいえた挑戦であった。ところが『武信和英大辞典』は市場で熱狂的な好評を博し、研究社では増刷につぐ増刷を重ねることとなった。

研究社は創業以来、読み物は秀英舎、辞書・辞典類は東京築地活版製造所に組版・印刷を発注することが中心であった。したがって『武信和英大辞典』の当初の印刷担当は「東京市京橋区築地二丁目十七番地 東京築地活版製造所」であった。
印刷者として記録されている「大久保秀次郎」は東京築地活版製造所印刷部門の有能な責任者であったとみられ、岩波書店『漱石全集』の印刷者としてもこの名をみることができる。

研究社は1920年(大正09年)牛込区神楽坂に印刷工場を新設し、1924年(大正13年)改築の為一時飯田町に移転したのち、1927年(昭和 02年)神楽坂印刷工場を完成させている。したがっていつからこれだけの大冊図書を、東京築地活版製造所に代わって組版と印刷をはじめたのかはわからないが、最終図版に紹介した「昭和二年十月一日訂正第五十九版」の印刷所は「東京市麹町区飯田町六丁目一番地 研究社印刷所」となっている。影印からみる限り活字書体は東京築地活版製造所製とみられる。
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昭和15年ころになると、一部に「皇国史観」がみられ、英語は敵性言語とされて排斥される風潮が芽ばえた。また日中戦線が拡大し、太平洋戦争の予感が強まるのにつれて、物資が困窮をきたし、印刷活字界には官制の国民運動「変体活字廃棄運動」が横行した。研究社ももちろんその埒外にあるわけではなく、過酷な移転命令・活字没収・企業合同の荒波に翻弄されることとなった。
残念ながら小酒井英一郎さんによる講演はここで時間切れとなった。戦後の研究社/研究社印刷を中心に、再度の講演を依頼して歓談に移った。

ともあれ、研究社が「英和辞書」にとどまらず、「和英辞書」の刊行に挑んだ功績は大きかった。
また「和英辞書」刊行の功績者として、武信由太郎(たけのぶ よしたろう 1863-1930)の名が知られたことも大きかった。
この辞典は、武信没後の1940年に『新和英大辞典』と改題して刊行され、現在にいたるまで研究社の和英辞典として確固たる名声を得ている。

ここでは同様に、三省堂における「漢和辞書」への挑戦も再度記録しておきたい。
わが国における「漢和辞書」成立の功績者は 三島 毅(みしま-こわし 中洲と号す。文学博士 1830-1919)である。三島は旧幕臣で、老中板倉勝静の家臣だった人物である。
維新後は多くの碑文を撰し、そこには「東宮侍講從四位勲三等文學博士三島毅」と刻されていることが多い。

三島 毅は 重野 安繹(しげの-やすつぐ 通称:厚之丞、薩摩藩士、昌平黌にまなぶ。維新後政府の修史事業にあたる。東大教授として国史科を設置。1827-1910)らとともに、三省堂編『漢和大字典』の編纂・監修にあたった。

研究社における「和英辞典」の刊行(大正7年9月25日)と同様に、「国語辞書」の成立に較べると、近代「漢和辞書」の成立は大きく遅れている。
すなわち三島 毅らは、急速に木版刊本の雕字工匠が姿を消した明治時代後半期にあって、活字版印刷術、とりわけ異体字・俗字など、ふつうはもちいられない特殊な漢字活字の開発と発展をまってから、ようやく「漢語 ⇄ 和語 漢和辞典」をつくることができるようになった。

一九〇三(明治三六)年、重野安繹・三島 毅・服部宇之吉監修、三省堂編『漢和大字典』は、清の康煕帝の勅命によって一七一一年に成った『佩文韻府』系(はいぶんーいんぷ 詩をつくったり、ことばの出典を調べる際の参考書。一〇六巻 佩文は康煕帝の書斎名による)の辞典で、その後のわが国の一連の「漢和字典・漢和辞典」の形式を創出した。

[ 参考: 花筏 【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-05 明治産業人掃苔会訪問予定地 戸塚文海塋域に吉田晩稼の書、三島 毅・石黒忠悳の撰文をみる ]

【展覧会】東京国立博物館|日中文化交流協定締結40周年記念|特別展「三国志」|7月9日-9月16日

東京国立博物館
日中文化交流協定締結40周年記念特別展「三国志」 
会  期  2019年7月9日[火]-9月16日[月・祝]
会  場  東京国立博物館 平成館(上野公園)
開館時間  9:30-17:00(入館は閉館の30分前まで)
      * ただし、会期中の金曜・土曜は21:00まで開館)
休  館  日  月曜日、7月16日[火]
      * 7月15日[月・祝]、8月12日[月・休]、9月16日[月・祝]は開館
観覧料金  一般1,600円、大学生1,200円、高校生900円、中学生以下無料
主  催  東京国立博物館、中国文物交流中心、 N H K、N H K プロモーション、朝日新聞社──────────────
本展は、「リアル三国志」を合言葉に、漢から三国の時代の文物を最新の成果によって読み解きます。2世紀末、漢王朝の権威がかげりをみせるなか、各地の有力武将が次々に歴史の表舞台へと躍り出ました。そうして魏、蜀、呉の三国が天下を分かち、新時代へと向かう大きなうねりとなりました。近年、三国志をめぐる研究は「曹操高陵-そうそうこうりょう」の発掘など空前の活況を呈しています。それらは実物ならではの説得力と、歴史書や物語をしのぐ迫力があります。

[ 詳細: 東京国立博物館 ]

【かきしるす】淳化閣帖ーじゅんか-かく-じょう|中国北宋王朝|石に刻され伝承された図書

『淳化閣帖』 諸家古法帖巻五 中書令褚遂良書
(宋拓淳化閣帖  中国書店 1988)
『淳化閣帖』 款記 (宋拓淳化閣帖  中国書店 1988)

【 淳化閣帖ーじゅんか-かく-じょう 】
中国宋代の集帖。正式名称は「淳化秘閣法帖」、略して「閣帖」ともする。
宋王朝(北宋)第2代皇帝・太宗(976-997)が淳化3年(992)に 、宮廷の宝物藏(内府)所蔵の、歴代のすぐれた墨跡を、翰林侍書であった王 著(オウチョ ?-990)に命じて、編輯、摹勒(もろく 摸倣によって木石に彫刻)させた拓本による集法帖。10巻。

一般に『淳化閣帖』 と称されるが、これは最後の款記に「淳化三年壬辰歳十一月六日奉旨摹勒上石」 とあることによる。 また完成後にこれを所蔵した場所にちなんで『秘閣帖』、『閣帖』とも称した。
編輯摹勒したのが王著であるとされるのも確証はない。 王著は淳化元年 (990) に歿した記録がのこるので、現代では 王著が中心となって編輯し、その没後に完成したものとみられている。
内容は、拓本集のような趣だが、全10巻中、3巻が王羲之、2巻が王献之で、王家の「二王父子」が別格の扱いになっている。その題を紹介する。

法帖第一  歴代帝王
法帖第二  歴代名臣
法帖第三  歴代名臣
法帖第四  歴代名臣
法帖第五  諸家古法帖
法帖第六  王羲之書一
法帖第七  王羲之書二
法帖第八  王羲之書三
法帖第九  王献之書一
法帖第十  王献之書二

法帖-ほうじょう-とは、先人の筆跡を紙に写し、石に刻み、これを石摺り拓本にした折り本のこと。 ここから派生した製本業界用語が 「法帖仕立て」である。 法帖としては、この宋の『淳化閣帖』、明の『停雲館帖』、清の『余清斎帖』『三希堂法帖』などが著名である。

『淳化閣帖』の用紙は 澄心堂紙 チョウシンドウシ、墨は李廷珪墨 リテイケイボク をもちいて拓本とし、左近衛府、右近衛府の二府に登進する大臣・廷臣に賜った「勅賜の賜本」である。 当然原拓本の数量は少なく、また金王朝による「靖康の変」の影響も甚大で、現代においては原刻・原拓本による全巻揃いの完本はみられない。
わずかに東京都台東区立書道博物館に、虫食いの跡が特徴的な2冊の原拓本『夾雪本 キョウセツホン』と、『最善本』(上海・上海博物館 )だけがわずかな残巻として日中に伝承されているのにすぎない。
[関連:NOTES ON TYPOGRAPHY 【展覧会】山種美術館|広尾開館10周年記念特別展|生誕125年 速 水 御 舟 ── 瘦金体の書をのこして早世した日本画家|6月8日-8月4日

書道博物館所蔵書はきわめて貴重なもので、王羲之の書を収録した第七、第八の2冊である。これは完成直後の初版本(原拓本)とされている。『夾雪本』命名の由来は、虫食いの跡が白紙の裏打ちによって、あたかも雪を夾んだようにみえることから「夾雪本」の名がうまれた。
所蔵印から、顧従義、呉栄光、李鴻章(1823-1901) らの手をへて、1930年代に初代館長・中村不折の手にわたった。

『淳化閣帖』 法帖第七 王羲之書二 夾雪本 (台東区立書道博物館蔵)

『淳化閣帖』法帖第八 王羲之書三 夾雪本(台東区立書道博物館蔵)

「勅賜の賜本」 としての『淳化閣帖』は数量がきわめてすくなく、すでに宋代において、原刻本からふたたび石に刻して帖がつくられた。そのままの形で刻したものを翻刻本 ホンコクボン といい、その内容や順序に編輯を加えたものを類刻本という。

宋代の翻刻本では賈似道(カ-ジドウ 1213-75) による『賈刻本-カコクボン』、寥瑩中 リョウエイチュウ による『世綵堂本-せさいどうほん』が著名である。
重刻本としては『大観帖 タイカンジョウ』、『汝帖 ジョジョウ』、『絳帖 コウジョウ』、『鼎帖 テイジョウ』(書道博物館蔵)などがあるが、これらはいわゆるかぶせ彫りの「覆刻本」がおおく、真の姿を伝えているとはいいがたい。

明代になっても多くの翻刻本『淳化閣帖』がつくられた。顧従義 (コ-ジュウギ 1523-88)による『顧氏本、玉泓館本-ぎょくおうかんほん』、潘雲龍 ハン-ウンリュウ による『潘氏本、五石山房本-ごせきさんぼうほん』 などが著名である。

清代における翻刻本に『西安本』がある。これは現在陝西省西安の碑林博物館に展示されている。 重刻本としては清朝第6代皇帝 ・ 乾隆帝(在位1735-95)の勅命による『欽定重刻淳化閣帖』 があるが、これはあらたな編輯をくわえてつくられた、重刻による法帖である。

参考資料/『宋拓淳化閣帖 』  影印本 中国書店 1988年3月
     『書道基本用語詞典』 春名好重 中教書店 平成3年10月1日
     『台東区立書道博物館図録』 書道博物館編 台東区芸術文化財団 平成12年4月1日

【展覧会】山種美術館|広尾開館10周年記念特別展|生誕125年 速 水 御 舟 ── 瘦金体の書をのこして早世した日本画家|6月8日-8月4日

山種美術館 広尾開館10周年記念特別展
生誕125年 速 水  御 舟
会  期  6月8日[土]-8月4日[日]
      * 会期中一部展示替えあり(前期:6/8-7/7、後期:7/9-8/4)
会  場  山種美術館
主  催  山種美術館、日本経済新聞社
開館時間  午前10時-午後5時 (入館は午後4時30分まで)
休  館  日  月曜日
入  館  料  一般 1200円・大高生 900円・中学生以下無料
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本年は、日本画家・速水御舟(はやみ ぎょしゅう 1894-1935)の生誕から125年、そして山種 美術館が現在の渋谷区広尾の地に移転し開館してから10年目にあたります。この節目の年を記念し、当館の「顔」となっている御舟コレクションの全貌を紹介する展覧会を開催いたします。

当館創立者の山崎種二(1893-1983)は御舟とは一つ違いでしたが、御舟が40歳という若さで早世したため、直接交流することがかないませんでした。しかし、御舟の芸術を心から愛した種二は、機会あるごとにその作品を蒐集し、自宅の床の間にかけて楽しんでいました。
一方、御舟は23歳の若さで日本美術院同人に推挙され、横山大観や小林古径らにも高く評価された画家。

「梯子の頂上に登る勇気は貴い、更にそこから降りて来て、再び登り返す勇気を持つ者は更に貴い」
という御舟の言葉どおり、彼は生涯を通じて、短いサイクルで次々と作風を変えながら、画壇に新風を吹き込んでいきました。

御舟は40年という短い生涯に、およそ700余点の作品を残しましたが、その多くが所蔵家に秘蔵されて公開されることが少なかったため、「幻の画家」とも称されていました。1976年、旧安宅産業コレクションの御舟作品105点の一括購入の相談が種二のもとに持ち込まれ、種二は購入の決断をします。その結果、すでに所蔵していた作品とあわせて計120点の御舟作品が山種美術館の所蔵となり、以来当館は「御舟美術館」として親しまれてきました。

本展では、御舟の代表作ともいえる《炎舞》、《名樹散椿》(ともに重要文化財)をはじめとして、《錦木》など初期の作品から《牡丹花(墨牡丹)》など晩年の作品まで、各時代の作品をまとめてご覧いただきます。
当館の御舟コレクション全点公開は2009年の広尾開館以来10年ぶりとなります。この機会に、御舟芸術の真髄をお楽しみください。

[ 詳細: 山種美術館 ]

速水御舟「桃花」1923(大正122)年(山種美術館蔵)
日付と署名に「瘦金体」の書がみられる ── 山種美術館図録並びに市販絵はがきゟ
山種美術館 2016年11月13日のツィターゟ
日付と署名・落款に「瘦金体」の書がみられる。

《 北宋のみやこ 開封における出版事業の隆盛と消滅 》
中国における木版印刷術の創始には諸説あるが、おそらく唐王朝中期、7-8世紀には、枚葉の木版印刷から、木版刊本といわれる、素朴ながらも 図書(書物)製造の状態にまで印刷複製術は発展していたとみられる。
つづく五代といわれる混乱期にも、後梁、後晋、後漢、後周など、現在の開封(カイホウ、  Kāifēng) にみやこをおいた王朝を中心に木版図書製造技術が温存されて、10世紀・北宋(趙氏、九代、960-1127 ) の時代に、宋版図書といわれる中国の古典図書としておおきく開花した。
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北宋のみやこは五代の諸国と同様に、中国河南省中部、黄河の南方平野にある 開封(カイホウ)であった。いまもなお開封は、雄偉な城壁をめぐらす、おおきな城市(まち)である。
この城市がひらけたのは紀元前からとふるく、戦国七雄のひとつ 魏( 晋の六卿のひとり 魏斯が建朝。 前403-前225 ) が、安邑からこの地にみやこを移して「大梁-タイリョウ」 と呼んだ。 魏は山西の南部から陝西の東部および河南の北部を占めたが、のちに勢いをました 秦 によってほろぼされた。

やがて唐王朝の滅亡後、10世紀の初頭、五代 ・ 後梁のみやこ「東都」となり、つづいて後晋・後漢・後周もここにみやこをおいて「東京-トウケイ」 と称した。
すなわち「分裂時代」とされる五代十国時代ではあるが、五代にわたる漢民族王朝のうち、洛陽にみやこをおいた「後唐  923-936」 以外の四つの国は、開封(東都・東京・汴-ベン)をみやことしていたのである。

また十国とされたちいさな王朝でも、蜀の国(現在の四川省)に建朝された「後蜀  934-965」 では、965年ころには、あきらかに、
「蜀地の文化の新展開と、経書の印刷がおこなわれていた 」 (『 標準世界史年表 』 亀井高孝ほか、吉川弘文館、1993年4月1日 )のである。
「 木版印刷の創始は宋代から 」 という説からは、そろそろ卒業したいものである。

そして宋代になってからも、この蜀の地で製造される大判の刊本は 「 蜀大字本 」 とされて、評価がきわめてたかかった。 そのひとつ『周礼-シュライ』がわが国の 静嘉堂文庫(東京都世田ヶ谷区)に伝わり、重要文化財になっている。
それを参考資料として製作されたデジタル・タイプが 「 四川宋朝体  龍爪 」(製作・欣喜堂、販売・朗文堂)である。これがして、稿者が北宋・南宋の両方の宋王朝と、多様で多彩な展開例をのこした宋朝刊本字様 ── 宋朝体 ── に膠泥するゆえんのひとつでもある。

60年ほどつづいた五代にかわり、ふたたび統一王朝 ・ 宋を建朝したのは、後周の将軍であった 趙 匡胤(チョウ-キョウイン、宋の太祖、在位 960-976) である。宋は五代の王朝のみやこを継承して、その名を「汴-ベン、 東京開封府-トウケイカイホウフ」 とした。
宋は軍閥の蟠踞をふせぐために、重文軽武(文官優位の治世、シビリア ン・ コントロール)につとめ、文治主義による官僚政治を樹立したが、外には 契丹-キッタン-族の遼、チベット系タングート族の 西夏-セイカ-の侵略に悩まされ、内には財政の窮迫に苦しんでいた。

1127年、中国東北部にあって急激に勢力をました満州族の金(女真族 完顔部  ジョシンゾク-カンガンブ、阿骨打-アグダ-の建てた国 ) が、会寧府(吉林省阿城県)、燕京(エンケイ-現ベイジン、北京 )を占拠して、遼、内モンゴルにつづいて、二次にわたる大攻勢の結果「汴-ベン、東京開封府」 を占拠して、宋 (北宋)を滅ぼした。
この北宋の滅亡に際しては 「 靖康-セイコウーの変 」 とされる悲劇が伝えられる。

北宋の風流皇帝と呼ばれた 徽宗 -キソウ(趙 佶 チョウ-キツ、在位1100-25 ) の書。「 楷書千字文 」「 牡丹詩帖 」「 穠芳詩巻 」。 徽宗帝 趙佶は書画にすぐれ、みずからの書風を「痩金体- ソウキンタイ」と名づけた。

趙佶は初唐の書家・薛曜(セツ-ヨウ  生没年不詳 ) から学ぶところがあったとされる。 影印資料ではたしかに両者に類似性もみられるが つまびらかにしない。
「 楷書千字文 」 の原本は、いまは上海博物館の所蔵で、ここでは真筆をみて、C D R 版を含む、できのよい複製版を購入することができる。『宋徽宗書法全集』(王 平川、北京・ 朝華出版社、2002年1月)

北宋の靖康2年(1127)、金軍が前年の攻城戦と和睦に続いて、再度南下して大規模な侵攻をおこなって、ついにみやこ「 汴 ・ 東京開封府」を陥れた。 ここに宋(北宋)は九代をもって滅亡した。
その際、風流皇帝と呼ばれた先帝、上皇・徽宗(趙 佶、在位1100-25 )、皇帝・ 欽宗(趙 桓、在位 1125-27) をはじめ、廷臣 3,000 余人を虜囚として 北辺の僻地につれさって、主要な虜囚は極寒の地、五国城(現黒竜江省)に幽閉した。これが「靖康の変」とされる事件である。

風流皇帝とされ、芸術に惑溺していた徽宗の在位は25年におよんだが、為政者としての評価はきわめてひくい。そのため汴の陥落直前に 趙桓(欽宗)に帝位を譲って上皇となったが、「靖康の変」に際しては上皇・ 皇帝ともに金国の虜囚となって、北辺の地で没した。 遺骸は満州族の風習にしたがって火葬に付されたのち、遺骨が南宋に送還された。
そのために趙佶は追尊されて徽宗帝とされ、その陵墓「永祐陵」は、旧南宋領内のみやこ・ 臨安のちかく、紹興城市の東南18キロほどのところにあるという(未見)。

《 版木ともども消滅した北宋刊本 》
[本項は 『大観  宋版図書特展』  台北・故宮博物院、2007年12月を主要資料とした]
北宋のみやこ、開封でさかんだった刊刻事業(図書出版)であるが、この時代( 10-12世紀 )の木版刊本の書物「北宋刊本 ・ 北宋図書」 は、ほとんど中国や台湾には現存しない。
たとえ刊記がなくても、字様(木版刊本のうえにあらわれた字の形姿)や装本状態からみて、北宋時代のものと推定されるものをかぞえても 十指におよばず、ほんのわずかしかない。
その点においては、15世紀欧州の初期活字版印刷物「インキュナブラ」の稀覯性などとはとても比較の対象とならない。

図書や法帖の製作は、国子監だけでなく宮殿内でもおこなわれていた。
宋王朝第 2 代皇帝 ・ 太宗(976-997) が、淳化3年(992)に 宮廷の宝物藏(内府)所蔵の歴代のすぐれた墨跡を、翰林侍書-カンリン-ジショ-であった王 著 (オウチョ  ?―990 ) に命じて、編輯、摹勒(もろく-摸倣によって木石に彫刻)させ、拓本とした集法帖10巻がある。
名づけて『淳化閣帖   ジュンカ-カクジョウ』である。

『淳化閣帖』は、完成後にこれを所蔵した場所にちなんで『秘閣帖』、『閣帖』とも称した。
同書は左右の近衛府に登進する大臣たちに賜った「勅賜の賜本」であった。 当然原拓本の数量は少なく、現代においては原刻・原拓本による全巻揃いの完本はみられないが、以下の 「夾雪本」( 東京・書道博物館 )と、「最善本」(上海・上海博物館 )だけがわずかな残巻として日中に伝承されている。
【 参考資料 : 花筏 タイポグラフィ あのねのね 001*淳化閣帖 】
【 参考図版 : 無為庵乃書窓  淳化閣帖 】

ところが1127年の靖康の変で、金が東京開封府を陥れたさい、金軍は上皇・徽宗帝、皇帝・欽宗はもとより、金銀財宝や人材だけでなく、宮殿の宝物蔵「内府」や、国子監などにおかれていた、すぐれた漢民族の文化資産も接収した。 この国(民族)はのちに女真文字(満州文字)をつくるが、おそらくはそのための文化基盤も欲しかったのであろう。

この女真-ジョシン-文字の形成に成功した満州族の一部族、「愛新覚羅-アイシンカクラ・アイシンギョロ」のヌルハチがのちに勃興して、1616年帝位(太祖)について、国号を「後金-ゴキン」と称して奉天(現瀋陽)にみやこした。その子ホンタイジ(太宗)は1636年に国号を「清 qīng」とあらため、孫の世祖のときに長城を越えて中国に入って北京をみやことした。「清 qīng」は12代の皇帝の治世をみたが、孫文らによる辛亥革命によって1912年に滅亡した。
したがってその城地:北京紫禁城(現故宮博物院)の外朝はともかく、皇帝をはじめ皇族が居住していた内廷では、いまなお扁額などに満州文字がおおくみられる。
また稿者の知人のほとんどは、「清 qīng」とは呼ばずに「後金-ゴキン」と呼ぶ。

清王朝(1616-1912)の存在はそんなにふるい時代のはなしではない。
わが国でいうと徳川家康が江戸幕府をひらき、その基礎をかためて将軍職を秀忠にゆずり、駿府に隠居して大御所とされ、逝去した年がわが国の元号でいうと、元和元年-1616年のことである。また清王朝が崩壊した1912年は明治から大正への改元のときでもあった。
すなわち「清王朝」とわが国の歴史は、江戸時代初期から明治・大正期の歴史と重なる。

紫禁城-しきんじょう (北京)故宮博物院 概略図

[関連:NOTES ON TYPOGRAPHY  【ことのは】北京紫禁城|故宮博物院|高級官僚執務所としての武英殿と皇帝図書館の文華殿・文淵閣

つまり金軍は『淳化閣帖』などの法帖や、北宋版本はもとより、その複製原版としての、版石・版木のほとんどすべてと、その工匠までも、根こそぎ、燕京、会寧府など、満州族の北のみやこにもちさり、つれさったものとみられている。
したがって、このとき失われたとされる『淳化閣帖』の複製原版が、石刻だったのか、梓 や 棗 材などへの木刻だったのかは、さまざまな議論はあるものの判明していない。

こうして、印刷術をおおきく開花させた宋( 北宋 )の版本のほとんどは 「汴、東京開封府」 から消え去った。 わずかにのこった北宋刊本も、後継王朝の南宋で「覆刻術-かぶせ彫り-のために費消」され、さらにその後も相次いだ戦禍と、中国歴代王朝、なかんずく清朝における「 文字獄 」によってほとんどが失われた。
そしてわずかに十指にあまる程度とはいえ、なぜか、とおい日本に 「北宋刊本」 がのこったのである。

すなわち、わが国では「 文字獄」はおこなわれなかったし、その勢いはおよばなかった。
また 「 文字獄 」 が中国歴代王朝、なかんずく清王朝初期の皇帝らによって、いかに苛烈におこなわれ、どれだけ貴重な図書が失われていったのか、このテーマに関心のあるかたは 【 中国版  文字獄 】 をご覧いただきたい。驚愕されるデーターである。

こうした過酷な時代を乗りこえて、みかどの書 ── 瘦金体は原本が相当数のこっている。またわが国へも江戸の後期にはなんらかの手本がもたらされたとみられ、あちこちの金石のうえに瘦金体の書をみることができる。
速水御舟は良い意味での好奇心のつよい画家であったとみられている。したがってそうした宋朝の文人画にあこがれ、書藝の瘦金体の手本をどこからか入手していたのであろう。

【古谷昌二 新ブログ】 東京築地活版製造所 歴代社長略歴|第六代専務取締役社長 松田精一

東京築地活版製造所 第六代社長 松田精一

(1)第六代社長として松田精一が就任
(2)松田精一の前歴
(3)東京築地活版製造所との関わり
(4)第6代社長松田精一による経営
      1.増資・借入金と各期の決算結果
      2.役員の改選
      3.博覧会への出品
      4.活字鋳造設備の縮小
      5.月島分工場の廃止と九州出張所の閉鎖
      6.その他
(5)東京築地活版製造所の社長辞任とその後
ま と め
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ま と め ゟ

松田精一は、明治34年(1901)4月から大正14年(1925)4月までの24年間、東京築地活版製造所の取締役として第4代社長名村泰蔵と第5代野村宗十郎の下で取締役をつとめた。
野村社長の病死により、大正14年(1925)4月に第6代社長に就任してから昭和10年(1935)4月に病気で退任するまで10年間社長職をつとめた。その後も相談役をつとめたが、2ヶ月後の同年6月に辞任した。
このように34年余りの長い年月にわたって、松田精一は東京築地活版製造所の経営に関わって来たことになる。

この間、わが国の経済情勢は、明治34年(1901)の銀行恐慌、大正12年(1923)の関東大震災による震災恐慌、そして昭和2年(1927)の金融恐慌、さらには昭和4年(1929)にはじまる世界大恐慌下の昭和恐慌にいたる、まさに、わが国の経済情勢は「恐慌から恐慌へ」と揺れ動く動乱の時代だった。

前々代の名村社長による積極経営と、前代の野村社長によるポイント活字販売によって、東京築地活版製造所は順調に経営の拡大がなされてきた。しかし、大正12年(1923)9月に発生した関東大震災で罹災し、新築したばかりの本社ビルは鉄筋コンクリートの建物が焼け残っただけで、月島分工場を含めてほとんど壊滅状態になった。

前代野村社長の陣頭指揮の下で震災復興がおこなわれ、翌13年7月には本社ビルの補修と増築工事が完成して活字製造を開始した。それに続いて月島分工場も復旧工事が完成した。
復興事業はその後も続いたが、本社ビルの完成から1年後の大正14年(1925)4月23日になって、野村社長は復興計画未完成のまま入院して間もなく病死した。

あとを引き継いで社長となった松田精一は、野村前社長の未完成の計画を引き継ぎ、震災から3年後に活字製造設備を中心とした製造諸設備を完成させた。
その復興資金は、日本勧業銀行からの融資と資本金の増資によってまかなわれた。日本勧業銀行からは大正13年度に30万円、大正15年度と昭和2年度にそれぞれ10万円、合計50万円の融資をうけた。大正14年(1925)に30万円の倍額増資を行い、資本金60万円となった。

しかし、震災後の復興需要が一巡すると、活字の需要は減退し、月島分工場で製造する従来型の活版印刷機もその需要は低迷した。そのため、銀行融資の利払いが負担となり、株主への配当ができない状態に陥ってしまった。
原因は、野村社長の復興計画が、印刷業界の趨勢を無視して、復興の重点を活字製造事業に置き過ぎたこと、自動化、省力化の最新型製造設備への転換が疎かにされたことであったと見られる。
明治初期からの中小企業的な体質をそのままの形で大企業化をはかったため、もはや、後戻りして体質改善をおこなう余裕すらない状態に追い込まれていた。

この間、社長として経営を任された松田精一は、前社長の野村宗十郎の復興投資の後始末に追われて、活字鋳造設備を半減処分し、月島分工場を閉鎖するなどで経営上の負担を軽減させたが、時代に適合した方向への軌道修正ができないまま、病気により退陣を余儀なくされた。
また、社長に代わって強力なジーダ―シップを発揮し、社内を新しい方向へ引っ張って行く人材が育成されていなかったことも苦境からの離脱ができない要因の一つであった。

松田精一は、父の松田源五郎が本事業の開祖本木昌造と業祖平野富二に、終始側面から協力した結果として設立された東京築地活版製造所の第6代社長として経営を任されたが、長崎の十八銀行頭取などの本務がある制約から、経営改善の筋道をつけることができないまま、激務による病気で引退することになった。

その後は、長男の松田一郎が取締役として経営に参画することになるが、時代の趨勢は厳しくなる一方であった。
伝統ある東京築地活版製造所の最後の幕引きは、松田一郎が倒産でなく、解散という形で締めくくる役目を負った。そのことについては次回のブログで紹介する。

【かきしるす】タイポグラファ群像*02|国立国会図書館所蔵|東京築地活版製造所第三代社長『曲田成君略伝』|附:東京築地活版製造所第二代社長(心得)本木小太郎|WebSite 改定・増補版

平野富二平 野  富 二
長崎新塾出張東京活版製造所/株式会社東京築地活版製造所 創設者
石川島平野造船所/株式会社石川島造船所(現 I H I) 創設者
明治産業近代化のパイオニア 生誕170年
弘化03年08月14日-明治25年12月03日 1846. 08. 14-1892. 12.03 享年47
本木 小太郎本木小太郎
本木昌造次男・継嗣  株式会社東京築地活版製造所第二代社長(心得)
安政4年9月18日-明治43年9月13日 1857. 09. 18-1910.  09. 13 享年53

本木小太郎に関する資料は極めて少ない。東京築地活版製造所の役員であり、後見人:平野富二、岳父:品川藤十郎、本木昌造の高弟:谷口黙次、最大の支援者:松田源五郎らも、ついに小太郎に匙をなげるにいたった原因は、断片情報からおおむね解ってはいたものの、ここにようやく公開された『曲田 成略伝』をお読みいただけるとわかるようになった。

しかしながら曲田成以外の役員はすべて長崎出身者であり、たれもが故人となった本木昌造に対する「惻隠の情」のなせるところがあり、本書でも明確には伝えられていない。そのため本書の記述の「行間」を注意ふかく読みとっていただくことになる。
本木小太郎の最後は、現在の銀座松屋近辺の三間 ミツマ 印刷(大阪活版所:谷口黙次次男、三間隆次宅)で、墓地は長崎大光寺本木家塋域に、知られるひともすくないままにひっそりとある。

曲田成 resized曲田 成(まがた-しげり)
東京築地活版製造所第三代社長
弘化03年10月01日-明治27年10月15日 1846. 11.19-1894. 10. 15  享年49
菩提寺・墓所・親類縁者はいまだに判明していない。なお幼名は岩本壮平とされる

《東京谷中霊園 平野家墓地に石に刻されてのこっていた曲田 成の名前》

IMG_1914IMG_1915谷中霊園甲十一号十四側、平野家墓地の背の高い石柱の門を入った参道の右側に、石の水盤が置かれている。
この水盤は東京石川島造船所の関係者によって捧げられたもので、その左側面に、重村直一・島谷道弘・片山新三郎・桑村硯三郎の名前が刻んである。
これらの名前は東京石川島造船所の株主名簿に示されており、平野富二から重用された部下であった(『平野富二伝 考察と補遺』古谷昌二、朗文堂)。

IMG_1885IMG_1888

MG_0689uu[1]その先の参道に左右一対の石灯籠がある〔掃苔会 案内人:松尾篤史氏、撮影:時盛淳氏〕。
上掲写真「掃苔会」のおりの集合写真では、向かって左側の石灯籠をみることができる。
三段重ねの基壇があり、そのうえに台座がしつらえられており、軽やかで瀟洒なものである。
平野富二の墓標と同様に、太平洋戦争に際して上野駅周辺に投下された焼夷弾の油煙をあびているが、火袋を交換修復しただけで創建時の状態をよく保っている。

この一対の石灯籠は東京築地活版製造所の関係者によって捧げられたものである。
向って左側の石灯籠の台座裏面に「東京築地活版製造所」と刻し、続いて、曲田 成、松田源五郎、谷口黙次、西川忠亮、野村宗十郎、竹口芳五郎、谷田鍋太郎、松尾篤三、湯浅文平、古橋米吉、高木麟太郎、浅井義秀、太原金朔、仁科 衛など役員・幹部社員とみられる総勢十四名の氏名が列記してある。

向って右側の台座裏面には、左側に続くかのように以下の十六名の氏名が列記してある。
秋山雅長、奥井徹郎、横井清三郎、広瀬己巳郎、上原定次郎、益子芳之介、西成□政、若林由三郎、倉岡寿平次、永井卯三郎、片寄利吉、岡崎 努、栄朝重、伊藤義人、三野又一、岡 洵。
しかしながら、ここには本木昌造次男・継嗣  株式会社東京築地活版製造所第二代社長(心得)にして明治43年9月まで存命していた本木小太郎の名はみられない。
このころの小太郎はおもに関西方面にあって、旧長崎新町私塾の門下生をたずね歩いては、あまり好ましくない足跡を断片記録として残している。

本稿では、おもに平野富二の創設による東京築地活版製造所の第三代社長:曲田 成を取りあげる。
これまで曲田成に関する資料は、業界紙誌の断片的な記録をのぞくと、『日本人名大辞典』(講談社)の以下のようなわずかな紹介をみるだけであった。

【曲田 成 まがた-せい 1846−1894】
明治時代の実業家。弘化三年生まれ。もと阿波徳島藩士。維新後実業界にはいり、明治一六年平野富二の東京築地活版製造所をついで所長となった。明治二七年一〇月一五日死去。四九歳。幼名は岩本壮平。

ほかにもこの献灯台座に名を刻した何人かが登場してくる。そしてなぜか、この献灯台座には、東京築地活版製造所の象徴的な創立者とされ、平野富二が礼を尽くしていた本木昌造の継嗣・本木小太郎(いっとき東京築地活版製造所第二代社長-心得-に就任 一八五七-一九一〇)の名はみられない。(『本木昌造伝』島屋政一、朗文堂)。
本木小太郎は一八八九年(明治二二)の暮れも押しつまった一二月三〇日に東京築地活版製造所に社長心得の辞職届けを提出したものとみられるが、年明け早早の一月二日にはほどんどの職員・職工は再任・再雇用されたものの、そこにはすでに本木小太郎の名はなかったのである。
このことに関しては『曲田成君略伝』の編著者も論及には及び腰であり、読者にはその「行間」に込められた真意を読みとっていただくしか無い。
かくいう稿者も惻隠の情はある。したがって「口ごもらざるを得ない」状況にある。

株式会社東京築地活版製造所社長 『曲田 成君略伝』ゟ
当時の曲田君はおおいに計画するところがあって、一八八九年〔明治二二〕一二月三〇日、株主総会最終日、すなわち東京築地活版製造所の存廃を決するという日において、七項の条件を委任〔たれから? どんな条件を? 当時の株主は平野富二・初代谷口黙示・松田源五郎・品川藤十郎と島屋政一は記録する〕せられて社長の任につき、翌三一日事務員一同の辞職を聞き届け、各部の職工を解雇した。年をこえて一八九〇年〔明治二三〕一月二日、再度曲田君が信任するものを挙げて事務を分担させ、職工の雇い入れなどをなさしめた。

およそ社会のことは、盛んにもてはやされたり、敗れたり、また、張りつめることもあれば、弛むこともある〔一興一敗一張一弛〕ことは免れざるところにして、またやむを得ないことである。
そしてその歳月〔年所〕を経るにしたがって、まちまちであり、また私情がからんで処置のしにくい事柄〔区々の情実〕がまとわりついて〔纏綿〕、ついに一種の疾病となることは往往みなそのとおりである。 当時の東京築地活版製造所も、実にこのような疾病を得た状態にあった。しかしながら社会の風潮はようやく実業の前途において、その場のがれや、一時的にとりつくろう〔姑息の緶縫〕ことを許さないという状況にいたっていた。

それに加えて不景気の嘆声は東京築地活版製造所の前途の販路を押しこめてふさぎ〔壅塞〕、閉店の杞憂を抱かしめ、早晩の挽回の方法を講じなければいかんとも〔奈何〕なすことができないという状況に瀕していた。
こうした事情があって、株主が一致して曲田君を挙げて、東京築地活版製造所の挽回を一任したのである。

このような時機に際しては、あたかも名医が快刀一下、病疾の宿瘍を切開するように根本的な改革をおこなわなければ、この危機を救済することはできない。曲田君はおおいにそこに覚悟があって、事務員と職工を解雇するという英断を施すにいたったのである。
そもそも数年にわたる親密な交際〔情交〕がある者に向かって、いきなり〔一朝〕解雇 の厳命を伝えるのは人情において忍びないところがあるが、曲田君のきっぱりとした決心は、幾多の毀誉を顧みずに、改革の企図のもと、その効験を確信しておこなわれた。
こんにちふたたびその基礎を確実にして、社運が隆盛にいたったのは、実にこの曲田君の英断と卓識に因ったものであった。

平野富二──明治産業近代化のパイオニア 古谷昌二ブログ}
東京築地活版製造所歴代社長略歴 第三代社長 曲田 成 ゟ
明治22年(1889)12月30日、曲田 成は、東京築地活版製造所の臨時株主総会において 経営改善 7 ヶ条の条件を委任されて社長に就任した。翌31日、事務員一同に辞職届を提出させ、各部の職工を解雇した。
年明け早々の明治23年(1890)1月2日、経営改革に協力する事務員を再雇用し、その中から信任の度合いに応じて事務を分担させた。また、職工の再雇用などを行わせた。
なお、明治22年と同23年の職工数を見ると、男性214人が5人減、女性30人が21人増となっており、男性に代えて女性を増やしたと見られるが、大幅な変動はない。

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あらかじめお断りしておくが、平野富二の逝去後まもなく一八九三(明治二六)年に商法が実施された。したがって商法の実施以後に、長崎新塾出張東京活版製造所/有限責任東京築地活版製造所は、株式会社東京築地活版製造所となる。
また石川島平野造船所/有限責任石川島造船所も、株式会社東京石川島造船所となり、幾多の増資・合併と変遷をへて現 I H I につらなっている。
商法の実施後の両社の商号に、ともに「東京」の名前が冠されていることは、ここではひとまず注目しておいていただきたい。


本稿では煩瑣をさけ引用資料紹介などをのぞき、これ以降年代区分をすることなく、両社を一貫して「東京築地活版製造所/東京石川島造船所」と表記させていただく。
平野富二が手がけた多くの事業のうち、残念ながら、活字版製造と印刷関連器機製造を主業務とした東京築地活版製造所は、一九三八(昭和一三)三月に清算解散が決議され、多くの記録がうしなわれ、一部は神話化されて伝承されてきた。

平野富二生誕一七〇年にあたり、平野家墓地の献灯台座に、東京築地活版製造所関連者の筆頭に刻まれていた「曲田 成」に関して、近年国立国会図書館によって 公開紹介された新資料「株式会社東京築地活版製造所社長『曲田 成君略伝』」から見ていきたい。

 曲田成 resized曲田 成(まがた-しげり、一部資料にまがた-せい)
東京築地活版製造所第三代社長
弘化03年10月01日-明治27年10月15日 1846. 11.19-1894. 10. 15  享年49譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈陦ィ1譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈2譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈3譖イ逕ー謌仙菅逡・莨拈螂・莉・ダウンロード用 PDF  『曲田 茂 君略伝』 3.62MB

株式会社東京築地活版製造所社長 『曲田 成君略伝』

明治二八年一〇月一六日発行  (非売品)
編輯兼発行者   松尾 篤三         東京市京橋区築地一丁目七番地
印  刷   者    野村宗十郎         東京市京橋区築地一丁目二十番地
印  刷   所    東京築地活版製造所           東京市京橋区築地二丁目十七番地
【 国会図書館資料 請求記号:特29-644 】

《知られざる人物だった 『曲田 成君略伝』について》

東京築地活版製造所の基礎を築いた創業期のふたりの社長をあらためて並べてみた。
◯ 平野 富二

東京築地活版製造所創設者/初代社長  
弘化三年八月一四日-明治二五年一二月 三日 1846. 08. 14-1892. 12.03 享年47
◯ 曲 田  成
東京築地活版製造所第三代社長
弘化三年一〇月一日-明治二七年一〇月一五日 1846. 11. 19-1894. 10. 15  享年49

このふたりは弘化三年(一八四六)という同年のうまれである。わずかに一ヶ月半ほど平野富二が先に誕生している。
またふたりとも仕事人間で、平野富二は講演中に倒れ、そのまま卒した。曲田 成は出張先の 姫路の旅舎で倒れ、看取るものもなく卒した。
わずかな違いは、曲田成が二年ほど長命だっただけで、それでもふたりとも五〇歳を迎えることなく卒している。

稿者にとっては長らくの疑問があった。
それは、東京築地活版製造所を語るとき、象徴的な創業者である本木昌造ばかりが異様なまでに熱心に語られ、創設者の平野富二はわずかに触れられるだけで、本木昌造の継嗣にして二代社長(心得)/本木小太郎にはほとんど触れられず、三代社長/曲田 成、四代社長/名村泰蔵に関しては 黙殺にちかい状況にありながら、なぜか、ポンと飛んで第五代社長/野村宗十郎だけが喧伝される事実であった。

本書『東京築地活版製造所社長 曲田 成君略伝』は、東京築地活版製造所第三代社長/曲田 成(まがた-しげり)の略伝である。知られる限り唯一本であり、管見ながらこれまで本書から引用された論考をみたことは無い。
序文は校閲〔刪正〕にあたった福地源一郎(櫻痴 三号明朝 字間 四分アキ)がしるしている。
本文は氏名不詳のふたりの人物がしるし、(五号明朝 字間 四分アキ)で組まれている。

本文後半に弔文「曲田成君ヲ弔フ文」(東京活版印刷業組合頭取 佐久間貞一)、「曲田成氏ヲ追弔ス」(密嚴末資榮隆  不詳)がある。
最後に「跋」がおかれ、東京築地活版製造所社長の名で名村泰蔵(三号明朝 字間 四分アキ)がしるしている。

刊記(奥付)には、発行日として「明治二八年一〇月一六日」とあり、おそらく曲田成の一周忌に際して刊行されたものとみられる。
編集兼発行者は松尾篤三(東京市京橋区築地一丁目七番地)である。この松尾篤三に関して知るところは少ないが、谷中霊園の平野富二墓前の対の石灯籠の向かって左側の台座、東京築地活版製造所関連の名前の列挙 八番目にその名をみることができる。 また長崎の宮田和夫氏からは、長崎師範学校に在籍していたとする記録をいただいた。
印刷者として、支配人・野村宗十郎(東京市京橋区築地一丁目二〇番地)がある。
印刷所として、東京築地活版製造所(東京市京橋区築地二丁目一七番地)がある。

『東京築地活版製造所社長 曲田成君略伝』によって、今後本木昌造、平野富二関連文書の行間を大幅に補填することが可能となった。
すなわち従来は平野富二・本木小太郎(本木昌造の継嗣)・曲田 成・名村泰蔵に言及するところがきわめて少なく、両者のであい、東京築地活版製造所創設当初の器械設備、活字改良の次第などは暗中模索の状態にあった。

野村宗十郎建立概要_表紙さらにことばをかさねれば、原稿が完成していながら、東京築地活版製造所から『平野富二伝』が発行されるにいたらなかった次第は、本書と、こののちに紹介する「故野村宗十郎翁略伝」『野村宗十郎翁胸像建立概要』(昭和五年八月)の中であきらかになってくる。
ここに(2016年09月23日{活版 à la carte}{文字壹凜})読者諸賢に『東京築地活版製造所社長 曲田成君略伝』の存在をお知らせし、ともに本書をタイポグラフィ研究に資することを期待したい。
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このように、ほぼ三年前に諸賢に『東京築地活版製造所社長 曲田成君略伝』公開の情報をお知らせした。それ以来多くの方が国立国会図書館のデーターをダウンロードされ、ともに研究をすすめてきた。
したがって本稿はまだ読了されていない諸賢に、再度データーの存在をお知らせするとともに、まず旧漢字片かなまじりで明治文語体の、いささか読みにくい本文を、常用漢字におきかえ、あわせて文意を損なわない程度に現代通行文にした記録である。
原文との参照には、国立国会図書館の PDF データをご覧いただきたい。

この間、古谷昌二氏をはじめ、宮田和夫氏、板倉雅宣氏、桜井孝三氏(故人)、平野正一氏、春田ゆかり氏、松尾篤史氏、日吉洋人氏、大石 薫らとの論考会を何度かもった。そこで解消した疑問も多いが、あらたに発生した疑問も多数ある。

株式会社東京築地活版製造所社長 『曲田成君略伝』

曲田成略伝序
〔福地源一郎 Ⅰ-Ⅳ  四号明朝体 20字詰め 08行 字間二分 行間全角〕
東京築地活版製造所の社長、名村泰蔵君が一小冊子を懐にして来たりて余〔福地源一郎・櫻痴〕に告げて曰く、これはわが社の故社長 : 曲田成の略伝なり。曲田の没後、予〔名村〕はその空席〔乞〕を継いで職を続けています。所務を統纜するのに際して、いつも曲田の、ものごとをきちんとやり遂げる能力と、勉励を追憶して忘れることはありません。

わが東京築地活版製造所にこんにちある者は、曲田の功績は実に多大であったとしています。福地先生は曲田を識るひとです。願わくば先生がこの略伝を閲覧たまわり、あえてお願いいたしますが、文章・字句などの悪いところをけずり改める〔刪正〕加工をしてくださいと。

余はたしかに曲田君を知る。名村君にいたっては竹馬の同窓であり旧友である。したがって病後の衰労を理由としてこの要請を辞退することは忍びない。そこで要請をうけてこれを閲読し、余分なところを削り、その欠けたるところを補い、事歴をつまびらかにすることに及んで、益〻曲田君がおおいに当時のひととして卓越したひとであったことを知るなり。

そもそも創意をこらしたり、起業をなすことが困難なことはひとの認めるところである。ところがそれを継承し改良することが困難なことは、ときとして創意起業の困難より至難なことを、往々にしてこれを認めることができないのは世間にありがちなことである。
而して曲田君はこの至難な継業に任じて、能く所務の隆盛をはかるひとである。名村君が曲田君を追憶して止まないのはまことにもっともなことである。

まさしくひとが世にあるときは、赫々の功名はいっとき喧伝されるが、その死後となると、ぼんやりとしてしまって、尋ねるための跡も無いものである。滔々と世の流れていくさまとはみなこのようである。

曲田君のような人物は、その生前のときを知らなければ、一見もって中庸のひととする。しかるに歿後にいたり、ひとをして敬慕と哀惜の念を増さしめる斯くのごときものは、実際に本当の功績が存在することに感銘するがゆえにあらずや。

余はここにおいて、曲田君の生前に君を敬い、重くみることが少なかったことを愧じるのみである。
嗚呼余は先に平野富二君を追悼してまだ数年にもならないのに、また曲田君の伝記を校閲した。筆を擱いて涙がはらはらと落ちるばかり〔泫然〕。
明治二八年〔一八九五〕一〇月               福地源一郎 しるす

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曲 田 成 君 略伝
〔氏名無記名の筆者がふたり。五号明朝体 30字詰め 10行 字間四分アキ 行間五号全角と二分  ひとりは二字下げでリード分をしるしたひと。もうひとりは感情を抑制して事実列記につとめたひと p.01-25〕

偉大なる事業とは一世一代にして大成するものではない。まず発明があり、創意工夫があり、継業があり、改良があってのちに、はじめて大成をえるものである。

いにしえより、英雄豪傑の士は時勢の気運に乗じて、その功を一世にしておさめたといえども、やはりふつうは一世一代にして大成するものではない。 いわんや、蒸気機関の開発や電気器機のような、ものごとの大業とされる事業とは、みなこのようである。

わが国の活版事業においても実にこの通則にあるものであった。 まさしく活版事業の創意者は本木昌造君にして、その継業者は平野富二君である。そしてその事業を拡張・改良して、これを大成させたる者は曲田成君であった。これらの三名は皆その年齢が五十歳に達しないまま〔本木昌造は数えて52歳で歿〕はるか遠くにいってしわまわれた〔遠逝〕。

ああ、天はどうしてこの三君にたいして歳をかさねることを惜しんだのだろう。 そして創始者たる本木君の伝は曲田君がこれを世におおやけにした〔 『日本活版製造始祖故本木先生小伝』曲田成編 明治二七年九月〕。継業者たる平野君の伝もまたその稿を脱稿した〔未見〕。ゆえにここに拡張者であり改良者である曲田君の略伝を編輯して、その経営と辛苦の蹟を顕わさんと欲するなり。

君の姓は曲田(はじめ岩木と称す)、名は成(幼名を荘平という)〔まがた-しげり/『日本人名大辞典』(講談社)ほか一部の資料は、まがた-せいとする〕。 弘化三年一〇月一日〔一八四六年一一月一九日〕淡路の国津名郡物部村〔淡路島にある兵庫県洲本市。江戸期は阿波徳島蜂須賀藩領であった〕にうまれた。

父を富太郎と呼ぶ。母は関氏のひと。曲田家は代代徳島〔本藩の〕藩士であった。二歳にして父をうしなって母に養われた。幼くして川端豊吉氏を師として書をまなび俊秀の名があった。やや長ずるにおよび藩学校にはいり漢籍をまなぶ。その進歩の様子は衆を越えていた。

一八六六年〔慶応二年 曲田成数えて二〇歳〕藩主蜂須賀侯〔一三代蜂須賀斉裕-はちすか なりひろ〕が、従来の兵法をあらためて英国式の兵制を布くのにあたって、曲田君は熱心に練兵の法をまなんでおおいに得るところがあった。そのため銃卒一番大隊の小隊司令官に選抜され、刻苦勉励、もっぱら隊伍を訓練することをもって自任していた。

一八七〇年〔明治三〕藩士が稲田家に事件をおこすにあたり〔五月一三日(新暦六月一一日)徳島藩士が、家老稲田氏所管の洲本屋敷(館)を襲撃。稲田騒動、阿波庚午事変とも。別項で紹介〕、曲田君は一方の指揮官となり進退はなはだよろしきをえたが、その挙動〔稲田騒動〕はまったく藩士の私憤に出るのゆえをもって、その職を罷免された。

一八七一年〔明治四〕藩主〔一四代蜂須賀茂韶-はちすか もちあき〕はふたたび兵制をあらため、フランス式練兵法を採用するにあたり、再度その教授役に挙げられた。しかしながら曲田君はおおいに時勢を達観するところがあって、断然その職を辞し、もって自活独立の途をもとめるために、親戚や知人のつよい諫めを聴かず、単身旅したくをととのえて上京の途につけり〔曲田成数えて二五歳の頃〕。

嗚呼たれか安逸を望まざるものがあろうか。嗚呼たれか娯楽を欲せざるものあらんや。そのようなわけで〔然り而して〕、この安逸のために不測の辛酸を嘗め、この娯楽のために惨憺たる悲劇を演じて、ついに失望の域に沈み、落胆の岩に触れ、いまだ彼岸に達せざるに、すでにその身をおくに苦しむものはいずれも〔比比〕皆同様である。
しかるに曲田君が職を辞して、さらにあらたな路に向かって自営の道をもとめ、意を決して東上したことは、ただ気ままに遊び楽しむこと〔目前の逸楽〕は他日の不幸となることを前もって知った〔前知〕ためではなかろうか。

曲田君が征途についたとき、ほんのわずかな資金をふところにし、そまつな笠をかぶり、みずからひと包みの服を背負い、気力をふるいおこして〔慨然〕故郷をさった。道中では幾多の艱苦をなめたが、かろうじて東京に達した。
しかしながら寄るべき朋友は無く、訪問すべき故旧をおとなうこともなく、ひとりぼっちで〔孤影単身〕艱苦は身に迫ってしまった。

江戸名所道外尽 十 外神田佐久間町resized『江戸名所道尽 外神田佐久間町』歌川広景 安政六年(1860)
平野富二・曲田成の東京での出発点となった藤堂和泉守上屋敷の門長屋の風景。

江戸期以来、町人地とは異なり武家地と社寺地には町名がなく、この絵士:歌川広景も「外神田佐久間町」として庶民の正月風景を描いているが、外神田佐久間町は画面左手にあたり、ほとんど描かれていない。
実際に描かれたのは現・東京都千代田区神田和泉町一にあたる、藤堂藩の藩屏たる門長屋の風景である。この藤堂藩三十二万三千石屋敷(上屋敷)の敷地と門長屋はおおきく、平野富二は画面右側の最奥部あたり(現千代田区和泉公園の南端あたり)に仮工場を設置したものと見られる。

平野富二がここを本拠地とした期間は、一八七二年七月-七三年七月までのほぼ一年間という短い期間であったが、平野と曲田成の膠漆の交わりがはじまったのは、この現・東京都千代田区神田和泉町一の東南あたりの地であったとみてよい。

ここには東京大学医学部の前身「大学東校 だいがく-とうこう」が開設され、森鷗外もこの門長屋での寄宿生活をすごし、小説『雁』にこの風情をのこしている。
 (平野の会:古谷昌二・平野正一氏同日情報提供 『江戸名所道外尽 神田佐久間町』広景画、辻岡屋、国立国会図書館 請求記号:寄1-9-1-7)
現在はこの歌川広景の錦絵を「平野富二の会」も所有するにいたっている。

幸いなことに当時東京築地活版製造所の創始のときに際し、平野富二君が神田佐久間町〔藤堂和泉守屋敷門長屋の一隅・現千代田区神田和泉町一、和泉公園の神田佐久間町三丁目の右斜め向かい側あたり〕に、長崎出張所〔長崎新塾出張活版製造所〕を開設し、ひろく活版業の需要をはかり、将来にむけて有為の士をもとめていた。

曲田君ははからずも平野君の知遇を得て、今後この事業をともにすることを約した。それからの平野君と曲田君の親密なる交際〔情交〕は、骨肉の兄弟のように一挙一動を共にして一体の観をなした〔平野富二:弘化三年八月一四日うまれ、曲田成:弘化三年一〇月一日うまれ。ふたりは同年のうまれである〕。

平野君が佐久間町〔千代田区神田和泉町一〕に斯業を創始したのは明治五年七月〔一八七二年六月〕のことで、まだ世間ではおおむね活版とは何であるかを理解するものは無く、顧客、ユーザー〔需用者〕はまたわずかであった。 しかしながら曲田君はひたすら平野君のさしず〔指顧〕にしたがって日夜事業の進展をもとめ、あえてほかを顧みることはしなかった。
まさしく当時の曲田君の心境は、いわゆる南海の一寒生〔貧しい書生・自分の謙称〕にして、平野君の知遇を得たるをもって、ひたすらつとめはげみ〔孜々黽勉 ししびんべん〕、ただそれでも及ばざることを恐れ、そのはじめはみずから活版配達夫となって奔走した。
累進して鋳造係りとなり、翌明治六年八月〔長崎新塾出張活版製造所が〕築地二丁目に移転するにおよび、ますます平野君とともに斯業に勉励した。

長崎新塾出張活版製造所uu[1]

わが国最古級の冊子型活字見本帳の口絵に描かれた東京築地活版製造所社屋の図版は、
木口木版を印刷版とし活版印刷機で印刷された/笹井祐子(日本大学藝術学部教授)

この図版の版式と印刷方式は不詳だったが、『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所平野富二、平野家蔵、明治一〇)の原本を間近にご覧になった日本大学藝術学部教授(版画コース担当)/笹井祐子氏により、版式は木口木版、印刷方式は活版印刷機使用であると判断された。
従来はわが国における西洋式「木口木版」の開始は、生巧館・合田清のフランス留学からの帰国一八八七(明治二〇)年をもってはじめとするが(『日本印刷技術史』中根  勝、八木書店  pp 246)、その通説をくつがえす報告である。

平野富二が単身で上京し、東京での市場調査と、携行した活字を販売したのち、本格的に首都東京に進出したのは、まだ改暦前で一八七二年六月(明治五年七月)のことであった。
平野富二がこの上京に際して、上海 → 長崎 → 神戸 → 横浜間の定期貨客船(外国飛脚船)をもちいて、まだ普及していなかった海上損害保険に本木昌造の反対を押しきって加入していたことは記録されている。
このとき活字鋳造器機、活字母型その他の荷物とともに、新妻・こま、品川徳太郎(品川徳多とも、品川藤十郎長男、一八五一-八五)、松野直之助(一八四六-七八 上海にて歿す)、松尾徳太郎、桑原安六(のち東京築地活版製造所支配人)、和田国雄(のち東京築地活版製造所支配人)、相原市兵衛、大塚浅五郎、柘植広蔵らとともに海路上京した。

この旅の詳細は記録されていないが、おそらく横浜で外国船をおりて、小型船を乗り換えながら、品川沖から石川島沖を経由して隅田川に入り、さらに神田川を遡上して和泉橋河岸-かし-あたりで荷物を降ろしたものと想像される。
すなわち、平野富二が当時の呼称、神田佐久間町大学東校表門通り〔和泉藤堂守上屋敷門長屋/現在の千代田区神田和泉町一〕に「長崎新塾出張活版製造所」の看板をかかげて斯業を創始したのは一八七二年六月(明治五年七月)のことであった。

ここには「文部省活版所」の名で、本木昌造の命をうけて一年前に先行していた小幡正蔵と営業部員の大坪本左衛門が、どういうわけか「小幡活版所」の看板を掲げていた。
この「文部省活版所」、「小幡活版所」の業容と消長は知るところがすくないが、小幡正蔵は一八七一年(明治三)一〇月本木昌造が「文部省活版御用」を任ぜられ、平野富二が大阪活版製造所の小幡正蔵をともなって上京したと記録されている。
したがって小幡正蔵はもともと大阪活版製造所のひとで、短期間の在京で帰阪したものとみられる。一部の記録には下掲の「大坪活版所」に合流したともされている。
また平野富二一行到着の翌年、大坪本左衛門は平野富二の了解を得て、湯島嬬恋坂下に「大坪活版所」を設けて独立開業して、平野富二の活字取次販売と活版印刷業をはじめた(『本木昌造伝』島屋政一、朗文堂)

東京日本橋のたもとに設置されている銀座大火の記録。この大火のために銀座地区の復興に際して耐火性にすぐれた煉瓦がもちいられ、次第にガス灯がともって、一大商業地が登場した。[画像提供:青葉水竜]

この前年、一八七二年四月三日(旧暦では明治五年二月二六日)、「銀座大火」とされる大火災があった。銀座大火は和田倉門内旧会津藩屋敷から出火、折からの強風にあおられ、、東京の中心地、丸の内、銀座、築地一帯が焼失した。こまかくは、銀座の御堀端から築地までの九五万四百平方メートル(四一町、四千八百七九戸)を焼失した。焼死八人、負傷者六〇人、焼失戸数四千八百七四戸という記録がのこる。

京橋の町人地を一通り焼いた火焔は、ふたたび東隣の旧武家地に侵入、伊達宗徳邸(旧宇和島藩伊達家上屋敷)、亀井茲監邸(旧備中松山藩板倉家中屋敷)、西尾忠篤邸(旧横須賀藩西尾家中屋敷)などを焼いて、築地川(現首都高速都心環状線)を越え、開墾会社・牛馬会社など新興会社が拠点としていた現築地一-三丁目を横断、築地本願寺に到達し、築地本願寺の大伽藍はもちろん、周辺の末寺も焼失した。
この「銀座大火」をきっかけに、明治新政府はこの周辺から寺社と墓地の移転をはかり、銀座周辺を耐火構造の煉瓦をもちいて、西洋風の街路へと改造することとなった。

平野富二は教育施設となった「大学東校 文部省活版所」内、あるいは隣接地での仮工場は、活字鋳造には不適であると判断し、また森鷗外と同様になにかと居心地がわるかったとみえる。
そこで平野富二が注目したのは、水運に恵まれ、焼亡地となっていた築地二丁目二〇番地の一画一二〇坪余であった。
上京後一年、はやくも一八七三(明治六)年夏には金三千余円をもって購入手続きをすませ、七月某日「長崎新塾出張活版製造所」を築地の仮工場に移転し、同年一二月二五日、自費で建築した耐火性に富んだ煉瓦家屋の引き渡しをうけた。

この築地の土地は、のちに東京築地活版製造所の本社工場敷地、隣接して平野富二邸敷地として周辺が買い増しされていくが、明治六年〔一八七三〕一二月に完成した煉瓦づくりの新社屋の図がのこる。
東京進出からわずか五年後、アメリカ合衆国独立100周年を記念して開催されたフィラデルフィア万国博覧会(一八七六年五月一〇日-一一月一〇日)への出展に際して製作されたとみられる冊子型活字見本帳、通称『活版様式』(一部欠損本、印刷図書館蔵、明治九)の口絵である。
同展には先行したパリ万博・ウィーン万博での中心展示となった漆器・陶磁器・扇子・屏風・浮世絵などに加えて、文明開化の成果としての近代産業の展示が政府からもとめられた(『米国博覧会報告書 日本出品目録第二』米国博覧会事務局、明治九年、国立国会図書館、請求記号:特28-157)。

この際、直接の担当者(官僚)は手島精一で、のちに蔵前の東京高等工業学校校長、現東京工業大学の創立者のひとりとされる人物であった。手島精一はその後も東京築地活版製造所に支援をかさね、『花の栞』巻四、五に序文をしるしている。
この手島精一らの要請をうけて、官営の印刷局とならんで、民間企業の東京築地活版製造所も和田国雄を主任として現地フィラデルフィアに派遣し、活字類・手引き式印刷機などを出展した。

その翌一八八七年(明治一〇年)、東京上野公園で第一回内国勧業博覧会(政府主催)が開催された。その際に出展したものとみられる東京築地活版製造所『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所平野富二、平野家蔵、明治一〇)も現存している。
この俗称「平野活版所活字見本 明治九年版・明治一〇年版」の二冊の活字見本帳は、それぞれ孤本(明治九年版はほぼ完本で一九八〇年頃にはイギリスの図書館にあったが、現在は所在不明)とされているが、二冊ともに口絵図版の門柱に「長崎新塾出張活版製造所」の縦長看板があり、一八七三年(明治六)年一二月に完成した煉瓦づくりの新社屋の図がのこる。

この版式と印刷方式は不詳だったが、『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所平野富二、平野家蔵、明治一〇)の原本を間近にご覧になった日本大学藝術学部教授(版画コース担当)/笹井祐子氏により、版式は木口木版、印刷方式は活版印刷機使用であると判断された。
従来はわが国における西洋式「木口木版」の開始は、生巧館・合田清のフランス留学からの帰国一八八七(明治二〇)年をもってはじめとするが(『日本印刷技術史』中根勝、八木書店  p.246)、その通説をくつがえす報告である。

当時の〔活字〕鋳造は、いまのような「カスチング」をもちいず、はじめは「流し込み」たりしものにして、「ハンドポンプ」をもちいるようになったのはひとつの進歩というべきほどのことであった。曲田君は日常の談話でよくこのことに触れ、手足や顔に火傷をすることがたびたびであったとかたっていた〔この部分は稿をあらためて解説したい〕。

一八七六年〔明治九〕六月二六日、曲田成は平野富二の奥書を得て、家禄奉還のことを出願した。家禄を奉還して自力で食い扶持を得ようとすることは、実に常人のできることではない。日本帝国中でこのような断りの意思を示した行為は稀有のことであるとして、知事はこれをよしとして、銀盃一個を賞賜した。
その文に曰く、
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乞 家 禄 奉 還 書 (家禄奉還を乞う書)
士族  曲 田  成 謹言す

名東ミョウドウ県令公閣下 維新以来文明は日に進み、開化は月にあらたに、都市もひなびた地方でも〔都鄙〕様相をかえて〔革面〕、旧習をのぞき、善政がおこなわれ農民も商人も食に満ち足りて、生業を楽しんで〔鼓腹〕います。
このような時に際して、士族はほんのすこし〔繊毫〕も役にたつこと〔裨益〕もなくして、家禄をたまわり、空しく日日の食事にありつくこと〔素飱〕に甘んじています。あるいは〔士族の籍を〕奉還して賜金をもとめ、子孫への遺産となしています。これは実にみずからを省みることが無きこと甚だしいものです。
不肖 曲田成がかんがえるに〔以為〕、彼もひとなり、我もひとなり。我ひとり日日の食事にありつくこと〔素飱〕をしていてよいのでしょうか。ですからみずから活路をもとめ、子孫のために策を設け、早急に自由の美郷に奔走しようとする以外ないと〔駆馳〕鋭意奮起して、ついに世間のつよい諫め〔指謗〕を顧みず、こころざしを奮い起こして〔慨然〕、一八七三年〔明治六〕二月出京して、活版製造所社長平野富二なるものに遇い、活版の用法を熟聞しておおいに感得するところがありました。

説に曰く、ひとがこの世にあるときは、おのれの能力に応じて食していくべきである〔人の世に在る各其力に食せざるに可らず〕。而してひとりのために謀るは衆のためにするのにおよばない〔若かず〕。一己のために謀るはひろく天下の利益〔洪益〕を謀るのと同等ではない〔如かず〕。その説深く肝肺に銘ず。
それ天下のことに労するものは、必ず報酬を得て、労なくして報酬をえるのは、いわゆるただ喰い〔素飱〕である。 これにおいて断然平野氏と将来の盛衰を共にせんと約託し、該社に入社(投員)してこの業に従事し、社員と共に夜も日もなくつとめ励んではたらき〔孜々労作〕、忍耐倦まず。まさに時運に応ずる該社の事業は倍増しこんにちの盛大にいたる。

然り而して既往の事跡を追想するに、社長の常にあらざる勉強と、社員のねばりづよい労働〔労耐〕による。そしてここに前掲のようにますます該社は盛大となり、社則も精設して、拙工といえども給与金の三分の一をもって永途就産の資本に予備するの方法〔失業保険制度のこと〕を設け、これにおいて活路すでに確定す。これは勉励によるといえども、そもそもまた、天皇陛下〔天子〕のすぐれた知徳と恩沢〔聖明徳澤〕がもたらしたところである。

よって今回家禄を奉還して平民の戸籍〔民籍〕にはいり、その身のほど〔分〕をまもり、活路にいささかも安んぜずして、ますます素志を拡伸し、確実な資産〔確産〕を子孫にのこす〔遺設〕ことを希望する。

さきに〔曩に〕家禄奉還許可の政令あり。このときにあたって、同属はつぎつぎと〔陸続〕士籍を奉還して、政府から下賜されるお金〔賜金〕を請求した。
不肖 曲田成がおもうには〔以為〕、ここにおいて家禄を拝受するは無駄喰い〔素飱〕なり。賜金を拝受するのもまた素飱なり。素飱をあまんずることは同一である。

不肖 曲田成が家禄を仰ぐことにはもとより希望のものではない。いわんや賜金を貪ることも同様である。然れども、当時はいまだ家禄を辞退することができなかった。これは小生 曲田成の遺憾として切歯するところなり。ここにおいて眼前の小利に営々とせず、また遠大な志を企て、常に活路の方法に着目し、もし事が成就したならば、家禄を奉還せんと日夜願うところただ此れのみ。
しかるにまた一八七五年〔明治八〕七月家禄奉還を中止するとの政令があった。しかれどもいま、なりわい〔活計〕の方法すでに確定す。いまにして家禄を奉還しなければ〔せざれば〕、これは禄を貪っておのれが儲けをためる〔儲蓄〕を欲しいままにすることになる。これはいさぎよさを傷つけること〔傷廉〕、はなはだしきものというべし。

よってまず家禄を奉還し、民籍に編入せんこと懇願す。伏して乞う、この許可を賜らんことを。かつ賜金拝受のごときは天皇陛下の恩恵が親切で手厚いこと〔徳澤の優渥〕に因るといえども、食のために働かない連中を、いさぎよい態度とはおもえないところである。ゆえに特に辞して免除〔辞免〕を蒙らん。 ここにまたあらかじめお願い申しあげます。右陳述するごときであるので、憐れみ、お察しくだされ〔請禹閣下憐察を垂れ〕、そのそそっかしくてくるっていること〔疎狂〕を許して〔寛〕採用あらんことを請う。

もっか〔方今〕県務多端に属す。こまかくてつまらぬ〔区々〕志願をかえりみず、あえて尊厳を干犯す。恐惶のいたりにたまらず伏して明旨を俟つ。

名東県下淡路国津名郡物部村士族 東京築地二丁目四八番地寄留
明治九年六月二六日                曲 田   成(印)
頓首再拝     

前書願い書のとおり、曲田成儀とは四ヵ年前より居食をともにし、兼ねて同人儀も素飱を悔いて日夜勉励し、こころざしを同じくし、すでに活路の見込みも相定まり候のとき〔場合〕に至り、わたくしにおいてもしかと〔聢〕保証いたしますので(仕り候間)、本人の願いどおりご採用くだされたく奥書つかまつり候なり。

        東京築地二丁目二〇番地        平 野 富 二(印)
────────────────────────────────────────────────────
名東県令富岡敬明公閣下

※名東ミョウドウ県は、明治初期に、阿波国・讃岐国・淡路国を範囲とした県。範囲は、当初は現在の徳島県および兵庫県淡路島であったが、長らく香川県の一部も含まれていた。県庁所在地は徳島。一八七一年一二月二六日に設置され、一八七六年八月二一日に廃止された。
※富岡敬明 最後の名東県令。一八七五年(明治八年)九月五日-一八七六年(明治九年)八月二一日:権令・富岡敬明(前山梨県参事、元小城藩士)

一八七九年〔明治一二〕東京築地活版製造所の「四号明朝活字」と、「六号明朝活字」の活版〔活字〕書体の改良のために、曲田君は上海に出張し、翌一三年春に帰朝した。

はじめ東京築地活版製造所が斯業を長崎の地におこすのにあたっては、なにぶん草分け〔草創〕のためもあって、その活字書体・原字書体〔字母書体〕を精選するにいとまがなく、得る〔獲得〕のにしたがって、これを製造し、これを販売してきた。したがってその活字書体は雑駁にして、みやびやかな風情〔雅致〕も、感興をさそうあじわい〔趣味〕も有していなかった。

M7,M37社屋それでも活版印刷の需用者は、平野君およびその他の尽力と、社会の進歩の刺激にともなって、都下はもちろん、ひなびた地方〔隦陬〕にまでおよび、その発達を誘導して、活版の利便であることを知ると同時に、その地金の良し悪し〔精錬〕を論じ、活字書体〔字体〕の良否によって活字を選択する傾向があることを察していた。
平野君は社員のなかで、がまん強く、困難に屈しない〔堅忍不撓〕精神を持ち、かつ熱心に事にあたる事業家を採用して活字書体の改良を計ろうとしていた。

そして遂に平野君はこの大任を曲田君に任せることにした。曲田君はこれに応えて、一層の奮発と励精とをもってその任にあたった。幾多の歳月を積みかさね、ようやくにしてこの活字書体の改良を大成することができた。その間活字原字彫刻〔種版彫刻〕の技術に関して得ることができた経験と知識はわずかなもの〔尠少〕ではなかった。

こんにち活字の良品とするもので、まずわが東京築地活版製造所に指を屈するようになったのは、ひとえに曲田君の刻苦勉励がもたらしたものである。そして逝去の一日前にも、旅先の姫路から書簡を社員に寄せて、ますます精進するように命じていた。

これより先、平野君は造船製鉄事業を東京石川島に開き、〔東京築地活版製造所と石川島平野造船所〕の両方の事業がますます繁盛におもむくのをもって、さらに北海道函館港に造船工場を設置せんとして、一八八〇〔明治一三〕九月曲田君を伴って函館に出かけ、その地の有力家渡辺熊四郎氏ほか数名とともに、同所にある海軍省の造船用の器械類の払い下げを請求するのにあたり、曲田君は終始これの斡旋の労をとり、計画に参加してよい結果を得た。

翌一八八一〔明治一四〕東京築地活版製造所支配人の桑原安六氏の退社に際し、函館より帰京して支配人補助となり、一八八五年〔明治一八〕和田國雄氏にかわって支配人となった。

その後社会の文運はますます進歩し、斯業の発達は愈〻迅速になった。東京築地活版製造所は常にその指導者となり、これら斯業者のよき仲間〔夥伴〕となり、活字の改良も益〻あゆみ〔歩武〕を進め、先進者たることの名声を失墜させることがなかった。これらは実に支配人として、事業家として、曲田君の操縦よろしきに因るものあった。

本木 小太郎本木小太郎
本木昌造次男・継嗣
安政4年9月18日-明治43年9月13日 1857. 09. 18-1910.  09. 13
長崎大光寺本木家墓所、本木昌造(あざな:永久)の墓標のすぐ右側にある「本木小太郎」墓
小ぶりな墓標正面には仏の座像が刻まれ、その下に六字名号:南無阿弥陀仏が刻されている。
向かって左側面には「本木永久次男俗名小太郎行年五十三歳 明治四十三年九月十三日東京卒」とある。 このとき同道した掃苔会会会員:故 桜井孝三氏は「ここには十何回はきているけど、小太郎さんのお墓がこんなすぐ近くにあるこ
とは知らなかった」と感慨深げにかたられていた。

一八九九年〔明治二二〕六月、本木小太郎氏が海外留学七年の星霜を経過して(閲して)帰朝した。そこで平野君は創業者たる本木昌造君の遺志にそって、また自分の日頃からのおもい〔素願 ここでは造船と器械製造〕を遂げるために、東京築地活版製造所社長の職を小太郎氏に譲ることとした〔社長心得〕。
そのとき曲田君は支配人から工務監査の職に転じ、いささかの閑を得たが、止むことなく益〻工事の作業を研究していた。

ところで当時の経済と社会のさわぎ〔波瀾〕はほとんどその極に達し、商工業者はみな衰えて元気をなくして〔萎靡〕振るわなく、沈滞の歎声は国内全体〔海内〕にかまびすしく、朝に起こりて夕に倒れたるもの、指を屈するにいとまがないという惨憺たる状況となった。商工業者は挙げて、まさにおおきな惨禍〔一大旋禍〕のなかにひきこまれようとする危機的状況にあった。

東京築地活版製造所もまたその渦中に巻きこまれようとしたことは数次におよんだ。そのためにしばしば〔屢〻〕株主総会をひらき、将来の営業方針を討議したが、いつも重要な点をつかむ〔要を得ず〕ことができなかった。このときにあたり、このこんがらかった糸のように、まぎれ乱れた〔紛乱せる乱麻〕議論を整理し、こんにちのような盛大な企業にしたるゆえんは、あげて曲田君の力によった。

当時の曲田君はおおいに計画するところがあって、一八八九年〔明治二二〕一二月三〇日、株主総会最終日、すなわち東京築地活版製造所の存廃を決するという日において、七項の条件を委任〔たれから? どんな条件を? 当時の株主は平野富二・初代谷口黙示・松田源五郎・品川藤十郎と島屋政一は記録する〕せられて社長の任につき、翌三一日事務員一同の辞職を聞き届け、各部の職工を解雇した。年をこえて一八九〇年〔明治二三〕一月二日、再度曲田君が信任するものを挙げて事務を分担させ、職工の雇い入れなどをなさしめた。

およそ社会のことは、盛んにもてはやされたり、敗れたり、また、張りつめることもあれば、弛むこともある〔一興一敗一張一弛〕ことは免れざるところにして、またやむを得ないことである。
そしてその歳月〔年所〕を経るにしたがって、まちまちであり、また私情がからんで処置のしにくい事柄〔区々の情実〕がまとわりついて〔纏綿〕、ついに一種の疾病となることは往往みなそのとおりである。 当時の東京築地活版製造所も、実にこのような疾病を得た状態にあった。しかしながら社会の風潮はようやく実業の前途において、その場のがれや、一時的にとりつくろう〔姑息の緶縫〕ことを許さないという状況にいたっていた。

それに加えて不景気の嘆声は東京築地活版製造所の前途の販路を押しこめてふさぎ〔壅塞〕、閉店の杞憂を抱かしめ、早晩の挽回の方法を講じなければいかんとも〔奈何〕なすことができないという状況に瀕していた。
こうした事情があって、株主が一致して曲田君を挙げて、東京築地活版製造所の挽回を一任したのである。

このような時機に際しては、あたかも名医が快刀一下、病疾の宿瘍を切開するように根本的な改革をおこなわなければ、この危機を救済することはできない。曲田君はおおいにそこに覚悟があって、事務員と職工を解雇するという英断を施すにいたったのである。そもそも数年にわたる親密な交際〔情交〕がある者に向かって、いきなり〔一朝〕解雇 の厳命を伝えるのは人情において忍びないところがあるが、曲田君のきっぱりとした決心は、幾多の毀誉を顧みずに、改革の企図のもとその効験を確信しておこなわれた。
こんにちふたたびその基礎を確実にして、社運が隆盛にいたったのは、実にこの曲田君の英断と卓識に因ったものであった。

一八九〇年〔明治二三〕一一月東京活版印刷業組合創立に際し、同業の諸氏とともに運動してこれを成立させた。ついで翌一八九一年〔明治二四〕六月東京石版印刷業組合の創立にも曲田君は創立に尽力し、同組合でも事務委員となり、爾後重任を重ねて晩年にいたった。

一八九一〔明治二四〕二月『印刷雑誌』発刊の挙があって、故本木昌造君の偉大なる事業〔鴻業〕の伝記が掲載された。これを全国の同業者知らしめんと欲して、特に数百部を購入して各同業者に配布した。

一八九三年〔明治二六〕製版協会の設立を斡旋し、翌年同会が解散して東京彫工会に合併するのにあたり、その交渉委員に挙げられた。

同年七月印刷物見本交換〔同会発行冊子『花の栞』〕を創定した。これはわが国におけるこの種の〔印刷物交換の〕嚆矢にして、斯業者を益すること尠少ではなかった。翌年第二回を挙行し、その結果をみずして歿す。当初のその一冊を帝国博物館〔館長/手嶋精一 のち『花の栞』四号・五号に序文をしるす。のち現東京工業大学学長に就任〕に納めたところ、官はこれを嘉して木盃を賜った。

一八九三年〔明治二六〕八月東京彫工会製版部長に挙げられ、同二七年東京活版印刷業組合副頭取に挙げられた〔頭取/秀英舎・佐久間貞一〕。

またこれより先、曲田君は播但鉄道株式会社の創立に従事した。曲田君の名望卓識は遂に同社株主をして君を監査役としたため、しばしば〔屢〻〕山陰山陽一帯を遍歴〔跋渉〕していた。

一八九四年〔明治二七〕一〇月もまた、播但鉄道株式会社のために兵庫県姫路に出張していたが、一〇月一五日午後、突然脳充血症をもって姫路の旅宿に歿した。ときに数えて四九歳であった。

急ぎの電報が自邸に達し、驚愕、悲傷のさまはたとえようもなかった。遺族はただちに西下し、遺骸を護って帰ってきた。一〇月二一日東京府白金大崎村に葬った。当日東京活版印刷業組合頭取/秀英舎・佐久間貞一ほか一名が左の弔文を朗読せり。

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曲田成君ヲ弔フ文

これ、明治二七年十月二一日、築地活版製造所長曲田成君の葬儀を挙行する。東京活版印刷業組合委員等が棺の前に参会し、謹んで〔寅テ〕君の霊に告げる。

即ち、君は本木・平野両氏の後を承けて、ますます活版製造の事業を拡大し、諸種の活字が精確で、花形・片画〔ママ 罫画か装飾罫の可能性〕が斬新なことは、すべて君が熱心に企画した所に関係している。これによって、築地活版製造所の名声は国内・国外に鳴りひびき、欧米の印刷雑誌もこぞって〔嘖嘖〕賞賛するようになった。

感心することには〔嗚呼〕、君のようなひとは、よく草創の事業を継ぎ、先輩の偉業を衰えさせない者ということができる。

今や欧米の印刷術は一変して、精妙で巧緻を競うようになった。君はこれに対して、この風潮に伴って美術的観念を活版製造上にうまく傾注するばかりでなく、また、うまく活版印刷上に用いて、見本交換を発起し、同業者と提携してこの技術の改良・進歩を計画すること、至れり尽くせりであった。ああ、嘆くしかないが〔嗟々〕君が同業社会に功労あるのは、このようにまったく多大である。仮にも君の後継者が十分に君の意思を体してその規模を倍々に拡張したとして、それは君がすでに死んだというけれども、生きていると同じことである。心から希望するに〔庶幾クハ〕君の霊が、また少しく慰め労わるところがあるであろう。

活版印刷業組合を組織されてから、われわれ仲間は君と手を一堂に握り、この技術の進歩を企画すること数回であるが、君は、或る日、われわれ仲間をそのままにして、遠くに逝ってしまった。今後は相談仲間が一人少なくなってしまった。これを思うと涙が止まらない。これ以上ことばがおもいつかない。
東京活版印刷業組合頭取
明治二七年一〇月二一日                  佐久間貞一再拝
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曲田成氏を追弔する

人の世に暮らしてゆくには、必ず艱難なしにはできない。艱難がなければ、目的を達する気持ちが堅固で確実なものにはなり難い。したがって、艱難に遭遇することがますます多ければ、ますます奮励して不撓不屈の精神により、これを克服することができる。そうでなくても、もしも、途中でその艱難辛苦のために、むなしく目的達成の気持ちが折れ曲がることがあれば、はたして、その年来の志望を達成して美しい花を咲かせることができるだろうか。

昔から洋の東西を問わず、英雄豪傑と称されてその勲功を永く伝え、その名声を百代まで伝える人は、皆、この定められた道を踏まない者はないであろう。

考えてみれば、あのアメリカを発見して世界に他の人のない勇敢者と言われたコロンブスは、自分の身をはるかに巨大な浪に直面させ、技量を茫漠とした海洋で練り、何日も生死の目に遭い、数多くの風雨にさらされて、ついに念願の志望を達成し、絶大な大業を樹立して、世界に冠たる者となったのではないだろうか。

あれこれ多くの人がいうには、人間が人間として大業・偉功によって人を驚かすようになるには、不撓不屈の精神で艱難に立ち向かって全力を尽くし励む力があって、ここに至るというより他に道はない。

いま、曲田氏の来歴のようなものも、また、同様である。活版事業の羅針盤となり、鉄道事業家の指導者と仰がれ、内では多くの人に尊敬され、外では多くの人が従う地位を授けられたのも、これまでになったのは偶然ではない。

もの悲しい風が寂しく吹き、悲しみの涙が雨のように落ち、堅固な精神と断ち切る断腸の思いで、身を置くところもなく、温かい着物もなくて飢えに苦しむという年月も、あるいは、幾星霜のことか。

公〔曲田茂氏〕は、よくこれを実践し、これを耐え忍んだことで、今日、世間の人が尊敬し、功名が朝日のように昇るに伴って、死んでも名前が残る者であるということができる。感心することに、これは尋常で平凡な人ではないと、われ等は声を大きくして憚らない。

そうとはいっても、不老不死の薬を得る者が誰かあるだろうか。生きる者は必ず死し、会う者は必ず別れの時が来る。川はながれ流れて昼夜の別なく変転すること速く、昔の人は今は居ないという格言を免れることはできない。

曲田成君にても、本月一五日、播州姫路の旅館で、錦風蕭颯の声のように突然、
病魔に襲われ、年令四十余りを一期として、急にあの世へと帰らぬ人となった。
これにより肉親・知己の者達は、悲しみの涙が胸中にあふれ、哀悼の情につつまれた。
喪に服すよりも、むしろ、涙してかなしみなさい。嘆き悲しむに情けある人ならばこの人に対して誰か追悼し、惜別の涙を流さない者はあるだろうか。

悲しみに涙することで、人をいきかえらすことができるだろうか。嘆いても声のない帰らざる旅路は、いっそのこと、縁ある導師を招いて、およそ即身成仏の印契を受けるほかないであろう。

よって、導師は、仏号を得芳院慈運明成居士と与え、堂の柱上にある飾り受木は雲上の荘厳をよそおい、読経の梵唄は粛々として内院に導き、焼香の芳薫は馥郁として霊魂を慰める。

行きたまえ、行きたまえ、奥深く荘厳な密厳の園へ。

名園の赤く色づいた樹木は、霜枯れた枝をより良いとは思わない。ひらひらと舞い落ちる木の葉は、落葉の時にその奇妙さを競う。これらを快く思うことに疑いがあるだろうか。

 よって、もし、人が仏の慈悲を求めるならば、菩提心に通達する。

     父母が生む所の身体は、速やかに大いなる悟りの境地を保証する。

時に明治二七年一〇月二一日    密厳の末に資する 栄隆 謹んで申す
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※上記の後半六行ほどは意味不明のところもありますが、ひとまずこの程度でご容赦を〔弔文釈読/古谷昌二〕。

曲田君の資性は篤実で人情にあつく〔敦厚〕、穏やかで慎み深い〔穆乎〕温容は、ひとをして心服させる。その凛乎たる決心は、ひとをして感動せしむ。君の先見は着々と企図にあたり、君の熱心はいちいちそのおこないにみられる。君の統率は寛厳その良きを得て、君の心のひろさ〔襟度〕は児女もなおこれを慕う。
早くから〔夙に〕本木君の小伝〔『日本活版製造始祖故本木先生小伝』曲田成編 明治二七年九月〕を著してこれを世上に紹介し、『実用印刷術袖珍版』を著して同業者の進歩をはかり、近日また平野君の小伝の稿あり〔未見〕。
惜しいかな、天は命を君に仮さず、この有為のひとをして有為の年に遠逝せしめたり。
君に二女あり。伊藤氏の子を以て長女に配す。 

『印刷雑誌』(明治27年10月号)に掲載された追悼記事「曲田成君を弔う文」
明治27年10月21日 東京活版印刷業組合頭取 佐久間貞一
同号雑篇には「本誌に挿入せる曲田成君の肖像は写真半色版製造〔ママ〕を以て有名なる小川一真氏の寄送せらるたるものなり」とある。小川一真の渡米費用の一部は曲田成が拠出していた。

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跋 〔あとがき〕
〔名村泰蔵 Ⅰ-Ⅱ  四号明朝体 20字詰め 08行 字間二分 行間全角〕

噫、胸がつまってため息がでるが、本書は故曲田成君の略伝なり。君の歿後に予〔名村泰蔵〕は推薦せられて東京築地活版製造所社長の重任を承けた。 君の計画していたところを挙行し、君の企図したところを実施し、地下にある君をして遺憾の意をいだくことがないように希望するのにほかならない。

ここに社員に委嘱して君の略伝を作製し、福地先生に閲読、刪正〔文章・字句などをけずり改める〕をお願いした。こうして原稿が完成し、これを印刷し、社友および曲田君を知る諸君に贈呈する。これは社員一同のこころざしなり。
明治二八年一〇月
東京築地活版製造所社長  名村泰蔵しるす

【資料紹介】国立国会図書館所蔵|『東京盛閣図録』ゟ|編輯・出版:新井藤次郎|明治18年(1885)9月

国立国会図書館所蔵
『東京盛閣図録』ゟ 部分紹介
著   者  新井藤次郎 編
出 版 者  新井藤次郎(東京府下谷区練塀町四十九番地)
出版年月日  明治18年(1885)9月
請 求  記 号  特52-102
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篤志者や富商・富農から資金をつのり、「紳士録」のような目的で製造・販売された、いわゆる「魁-さきがけ-もの」のひとつで、銅版印刷による横開きのアルバム状の図書である。表題部を欠く。
ここでは国立国会図書館データーから、見開きページの余白部だけを詰めて紹介した。またこのような「魁もの」の類書には、『大日本博覧図』、『日本博覧図』などがある。
[画像処理協力:青葉水竜]

『日本盛閣図』 刊記

◉ 活版製造所(東京築地活版製造所)
この見開きページの右端に東京築地活版製造所の案内がしるされている。
業務内容「活版及び印刷器械 其の他諸器械製造 幷 舶来各種インキ売り捌き」、住所・社名「東京京橋区築地二丁目十七番地 活版製造所」とある。

東京築地活版製造所というと、現在は活字を中心にかたれれることがほとんどであるが、活字判印刷には、印刷機と活字はもとより、木工製品(のちに活版木工とされた特殊分野)をふくめ、じつにさまざまな機器と資材が必要となる。
近代印刷術の普及にあたった平野富二は、明治05年(1872)の上京直後から、それらの開発・製造を、支援のないままに開始し、しだいに後発企業が登場してくると、その軽工業製造事業の一部を惜しげもなく譲渡していた。

活版印刷資材のうち枢要な資材のひとつが印刷用インキである。官設の印刷局では開設直後から紙幣寮を中心として国産インキの開発にとり組み、紙幣の偽造防止に尽力し、あわせて一部を民間にも販売したとしているが、それをいつから開始したかの記録には乏しい。
また民間業者による国産インキの製造・販売は、明治20年代初頭、西川忠亮(初代、東京築地活版製造所役員、東京印刷株式会社監査役)による西川求林堂が最初とされている。したがってこの明治18年(1885)時点では、まだ「舶来各種インキ売り捌き」と取扱品目にしるしている。

住所地としてしるされた「東京京橋区築地二丁目十七番地」は注意が必要な部分である。
平野富二は神田和泉町から移転してきた直後は「築地二丁目二十番地」、「東京築地二丁目万年橋東角二十番地」の仮工場を住所地として表示し、ついで煉瓦建ての本工場が完成してからは、築地川にそった「築地二丁目十九番地」としていた。それが「東京京橋区築地二丁目十七番地」に変わった経緯は{ 古谷昌二ブログ 2019年06月 }に詳細に説かれている。こちらを参照していただきたい。なお本図上部にみる築地川に架設されている橋は、万年橋ではなく、築地西本願寺に通じる祝橋である。

銅版画『東京盛閣図録』に表示された社名は、あきらかに「活版製造所」とだけある。どういうわけか平野富二は、活版製造業・造船重機械製造業・土木建設業・交通運輸業などのさまざまな事業を展開したが、社名表記にはほとんど無頓着であったようで、とかく研究者を悩ませている。

株式会社東京築地活版製造所は、登記上では明治18年(1885)6月26日に開業したことになっている。このときはじめて同社に社長職が置かれ、株主総会において平野富二が初代社長として選任された。平野富二は数え年40だった。

不惑を迎えたころの平野富二の肖像写真

この時の会社の規模は、資本金8万円、株主20名、社長以下役員19名、職員・工員(男女共)175名で、初年度の営業収入は、活字類売上高23,521円、機械類売上高5,750円であった。
20人の株主には、出資関係の厚薄に応じて株券を配当し、また、これまでの社内での業務貢献の軽重に応じて社員に株券若干を与えたという。株主名簿は未詳。
役員は、取締役社長:平野富二、取締役副社長:谷口黙次、取締役:松田源五郎、取締役:品川藤十郎、支配人:曲田 成、副支配人:藤野守一郎で、その他は未詳。

そのいっぽう、平野富二は「石川島平野造船所」「平野土木組」の事業などでも繁忙を極め、一等砲艦「鳥海」の建造に着手し、それに必要な資金は渋沢栄一の提案により「匿名組合」を組織して不足資金を調達していた。
またドコビール軽便鉄道を駆使して、各所の土木建設にもあたっていた。
この『東京盛閣図録』が刊行された年の8月には、東京と神奈川でコレラが猖獗をきわめ、明治期最大の流行となり、石川島平野造船所 造機技師長:アーチボルド・キング がコレラに罹患して病死した年でもあった。

『実測東京全図』に示されている新地番
<内務省地理局「実測東京全図」(明治17年)の部分図>

上図は区画整理後に新しく付け替えられた新地番が表示されている。築地に移転したときの仮工場と新築煉瓦建て事務所は、築地二丁目(貮町目と表示されている)17番地となり、築地活版製造所の所在地は築地二丁目17番地に変更された。のちに14番地は突出部を分筆して、14-1番地と14-2番地とした〔現コンワビル周辺〕。平野富二は13、14-1、17番地の土地を築地活版製造所に譲渡し、15、16番地の土地を購入して平野邸を新築した〔現築地えとビル周辺〕。

古谷昌二氏講演<中央区区民カレッジ>資料ゟ 2016年10月21日

[ 詳細:平野富二 ── 明治産業近代化のパイオニア 古谷昌二ブログ 2019年06月

◉ 時事新報  日本橋区通三丁目十一番地 時事新報本局 慶應義塾出版社
時事新報は、かつて存在した日本の日刊新聞である。明治15年(1882)3月1日、福沢諭吉の手によって創刊された。その後、慶應義塾およびその出身者が全面協力して運営した。戦前の五大新聞のひとつとされた。
創刊に当たって福沢諭吉は「我日本国の独立を重んじて、畢生の目的、唯国権の一点に在る」と宣言した。1936年(昭和11年)に廃刊になり『東京日日新聞』(現『毎日新聞』)に合併された。

『時事新報』の紙面 1889年(明治22)2月1日 ウィキペディアゟ

『時事新報』に関しては、丁寧な解説が ウィキペディア にあるので、それを参照いただきたい。
ここでは福沢諭吉を生涯をかけて支援した「小幡篤次郎」を紹介したい。

【小幡篤次郎 おばたとくじろう 1842-1905】 [参考:国史大辞典 吉川弘文館]
明治時代の学者、教育家。慶応義塾長。その生涯をつうじて福沢諭吉を補佐して慶応義塾の発展に力をつくし、晩年は塾の最長老として重きをなした。
啓蒙期には著述家としても活躍。『学問のすゝめ』初編(明治五年)には、著者として福沢諭吉とともにその名を連ね、明治六年にはトックビル Tocqueville の  De la démocratie en Amérique(『アメリカ民主政治』)の出版の自由を論じた一章を、英訳本から重訳して、『上木自由論』と題して刊行した。これは出版の自由を論じた最初の単行本である。そのほか『博物新編』『英氏経済論』『宗教三論』などがある。

小幡篤次郎は天保十三年(一八四二)六月八日、豊前国中津藩士(現大分県北部の中津市)の子として生まれ、藩地にあって漢籍を学び、十六歳より二十三歳まで藩校進修館で句読、塾頭館務の職に任じまた剣にも長じた。
元治元年(一八六四)、弟甚三郎らとともに、同郷の洋学者福沢諭吉に連れられて江戸へ赴き、福沢のもとで英学を学び、頭角をあらわして、慶応二年(一八六六)より明治元年(一八六八)まで福沢塾の塾頭に任じ、また慶応二年以降、幕府の開成所の助教授をつとめた。

明治四年中津市学校の創立にあたり、初代校長として英学普通教育のモデルを作った。同九年、文部省より招かれて中学師範学科(のちの高等師範学校)の創立のさい教授監督にあたり、翌十年には欧米を巡遊、十二年には東京学士会院の会員に選ばれた(同十四年これを辞す)。
同十三年、交詢社の創立以来、幹事としてその運営にあたり、また十五年の『時事新報』の創立にも福沢を助けて尽力した。
同二十三-三十年慶応義塾長、三十年より同塾副社頭に任じ、三十四年に福沢が死去してのちは、このあとをおそって慶応義塾社頭に推された。この間、二十三年より貴族院議員に勅選され、また貨幣制度調査会委員をつとめた。同三十八年四月十六日、六十四歳で病没。

製紙分社   日本橋区兜街(東京府日本橋区兜町)
王子製紙会社

いずれも渋沢栄一との関連が深い「製紙分社」、「王子製紙」の明治前半期の姿が描かれている。
王子製紙はともかく、「製紙分社」と、その「支配人:陽其二」、さらにその後継企業の「東京印刷株式会社」に関しては、横浜・東京両店ともにきわめて公開資料がすくなかった。
『東京盛閣図』には「製紙分社 日本橋区兜街(東京府日本橋区兜町)」が紹介されている。門柱には「製紙分社 官許 洋紙売捌所」がみえるだけで、なかなかその実態はわからない。
この分野を補完すべく資料収集されていたかたがいたが、本年06月に逝去された。したがってここでは断片資料であることをお断りして、一部の資料をまとめてみた。

[参考:『国史大辞典』吉川弘文館、『日本印刷大観』東京印刷同業組合編、『日本紙業総覧』王子製紙販売部調査課編、『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』(青淵先生七十寿祝賀、1911)pp 61 東京印刷株式会社]

陽 其二 よう そのじ/みなみ きじ 1838-1906
幕末-明治時代の活版印刷技術者。製紙分社支配人。平版印刷の一種「コンニャク版-Hektograph」の紹介者。『穎才新誌-えいさいしんし』発行人。晩年には中国料理店「偕楽園」を創業して「爆弾料理-詳細不詳」を紹介した。
内国勧業博覧会審査員、長崎での同門として東京築地活版製造所にふかくかかわり、跡見女学校教授等も歴任した。いっぽう書藝と中国料理に造詣がふかく、一部では酔狂人ともされる。
明治39年(1906)9月24日死去。享年69。あざなは大有。通称は子之助。号は天老居士など。墓は義兄弟の加福喜一郎とともに東京谷中霊園にある。

陽  其 二 肖像(故:桜井孝三氏提供)

コンニャク版は平版印刷の一種である。少部数の印刷や、陶器、焼き物の絵付けに使用された。
世界的には一般にヘクトグラフ Hektograph と呼ばれた。本図はキット販売の英文資料

陽其二(1838)は本木昌造(1824)より14歳ほど年少、平野富二(1846)よりは18歳ほど年長であった。ともに肥前長崎出身。曽孫に陽 敏朗氏がいる(故桜井孝三氏と昵懇)。
本木昌造(1824-75)にまなび、文久2年(1862)に幕府海軍長崎丸汽関方となり、元治元年(1864)に江戸に出て、中邦逸郎・鬼塚辰之助の三名で 鉄砲洲時代の 慶應義塾 に学ぶ。慶応元年(1865)長崎製鉄所に勤務、かたわら本木昌造とともに活版印刷技術を研究・開発し、さらに新町活版製造所で活字版印刷を修得。

神奈川県令:井関盛艮-いせきもりとめ-が企画した『官許横浜新聞』を発行するために、本木の抜擢をうけて横浜活版舎を設立、『官許横浜新聞』『官許横浜毎日新聞』の初期の印刷を担った。
編集者は横浜税関の翻訳官:子安 峻-こやす たかし。この時に出資・創刊にあたった島田豊寛-しまだ とよひろ-が社長に就任。明治三年(一八七〇)十二月十二日これを創刊した。
明治六年(一八七三)には妻木頼矩が編集長となり、その後島田三郎(豊寛の養子)、仮名垣魯文(野崎文蔵)が文章方(記者)となった。

この新聞は当時は高価な洋紙を用いた、タブロイド判両面刷の日刊紙で、当初は木活字、のち長崎の新町活版製造所、さらに東京築地活版製造所製の三号楷書体活字をおもに用いた。同紙は明治四年(一八七一)四月『官許横浜毎日新聞』と改題、同十二年十一月東京に移り『東京横浜毎日新聞』となった。

陽其二は『官許横浜新聞』『官許横浜毎日新聞』の創刊からまもなく、明治五年(一八七二)になるとはやくも横浜活版舎をはなれ、竹谷半次郎・加福喜一郎らとともに印刷業の景諦社を設立した。この三名は長崎出身の同郷であり、伴侶が姉妹だったために、義兄弟ということで、漢字音が共通する「兄弟・景諦-ケイテイ」をとって社名としたとされる。
景諦社は証券印刷などの需要を見込んで、翌七年三月二十五日に渋沢栄一創設の東京抄紙会社(のちの王子製紙会社)にこれを譲渡し、同年四月一日抄紙会社横浜分社(のち王子製紙横浜製紙分社)となった。陽其二はその後も引き続き東京・横浜の両製紙分社の支配人として、印刷業と洋紙販売に従事した。

後年東京印刷株式会社の社長となった 星野 錫(ほしの しゃく 1855-1938)は景諦社に明治6年(1873)に職工として入社しており、景諦社の出身である。星野 錫は東京印刷株式会社(もと製紙分社)の社長兼任のまま、昭和初期の東京築地活版製造所の役員(のち監査役)となって、苦境におちいった同社の再建に尽力している。

【穎才新誌 えいさいしんし】

明治十年(一八七七)三月創刊、三十二年十月『中学文園』を合併、三十四年六月以降『穎才-えいさい ≒ 英才』と改題。廃刊年月・発行部数などは不詳。
当初は(東京)製紙分社、のち穎才新誌社発行。菊倍判八頁で週刊、定価は二銭。設立時は陽其二が主宰、のち堀越修一郎なども編集に参加、スタッフはしばしば交替した。
学才による立身出世主義の風潮を下地とし、さらに文学的教養と人間的修養をめざす作文教育を志向した。わが国最初の青少年向き投稿専門雑誌となり、彼らの文芸熱の受け皿となった。その趣は田山花袋の『東京の三十年』にも描かれている。
毎号投稿中から選んで作文・和歌・漢詩・新体詩・俳句・図画などを載せ、啓蒙的な教導の文も掲げられた。山田美妙・尾崎紅葉・田山花袋・内田魯庵その他も、少年時代この雑誌に投稿していた。

【東京印刷株式会社】
[出典:『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』(青淵先生七十寿祝賀会1911)pp 61 東京印刷株式会社]

一 所在地 東京市日本橋区兜町二番地
一 目的事業 諸製版印刷製本写真書籍出版及発売
一 創立年月 明治二十九年六月
一 資本金 五拾万円(内払込高弐拾参万七千五百円)
一 積立金 拾弐万六千円
一 壱箇年利益金 四万七千円
一 配当率 年壱割弐分
一 支店所在
深川分社 東京市深川区東大工町四十七八番地
横浜分社 横浜市太田町六丁目九十四番地
一 沿  革
東京印刷株式会社は、もと王子製紙会社の分社として、明治七年(一八七四)横浜に、同八年(一八七五)東京に、王子製紙会社の製紙販売を兼ねて印刷機関を創設したもので、いわゆる横浜製紙分社、東京製紙分社の両製紙分社の後身にあたる。当時印刷製本の事業は政府の紙幣寮を除き、民間にあってはわずか数社にすぎなかった。とりわけ洋式簿冊の製作を経営するものは同社だけであった。

このときにあたり、大蔵省をはじめ各府県において使用する帳簿を洋式に改正したが、その洋式帳簿の製作はほとんど東京印刷の提供によるものであった。こうした時運の進展によって同社は泰西諸国の斯業を調査研究する必要に迫られるにいたった。
そのため現在専務取締役たる 星野 錫 が明治二十年(1887)春、選ばれて渡米し、前後三年米国にあって研鑽をかさね、帰朝後おおいにその成果を応用して規模面目を改めることになった。これは実に青淵先生(渋沢栄一)の指導にもとづいたものであった。

当時の王子製紙会社の取締役であった岩下清周は、製紙事業と印刷事業の分離経営を計画し、明治二九年(1896)青淵先生らの発議によってこれを株主総会に諮り、その可決を経て横浜・東京の両製紙分社の財産を挙げて星野氏に一任し、あらたに資本金拾五万円をもって同年六月東京印刷株式会社の成立を見るにいたった。

これを受けて、あらたに東京府深川区東大工町に工場を設立し、印刷機械を増設した。また横浜分社はそれまでの規模を一新して、着々と経営の歩武を進めている。その専務の椅子を星野氏に与へしもまた青淵先生らの推輓によるものにして、先生は相談役に就任した。
爾来数年間、青淵先生は提撕(テイセイ 教え導く)誘掖(ユウエキ 輔佐)の労を取られたため、社運益々隆昌の域に向かった。四十一年(1908)七月さらに参拾五万円を増額して資本金五拾万円とし、工場を増築し機械を増加し時世の進運に伴はんことを企図しつつありという。

一 東京印刷株式会社と青淵先生との関係
青淵先生はいまも当東京印刷株式会社の重要なる株主にして、常に業務の経営に関し指導誘掖の労を執られつつありという。

一 現任役員
専務取締役 星野 錫
取締役   藤山雷太  取締役  中井三郎兵衛
監査役   鹿島岩蔵  監査役  西川 忠亮

東京印刷株式会社は、のちに主力工場だった深川工場が火災のために全焼した。また1937年(昭和12)廬溝橋事件以降、日本・中国での緊張(日支事変)が高まりをみせていたため、1938年(昭和13)5-6月、ダイヤモンド社系の「美術印刷株式会社」とともに、共同印刷の傘下にはいって、事実上その歴史の幕をおろした。
[参考:『印刷雑誌』1938年2月号 pp 59 ]

【王子製紙株式会社】  [参考:『世界大百科事典』小学館]

日本最大の製紙会社。1873年(明治6)渋沢栄一が三井組・小野組・島田組を勧誘して共同経営の製紙会社を設立したことにはじまる。
最初は社名を〈抄紙会社〉と称し、資本金15万円。機械類を輸入し、またイギリス人技師を雇い入れたのち、1875年(明治8)東京府下王子村の工場が綿ボロを主要素材にして運転を開始した。翌76年社名を〈製紙会社〉に変更。

しばらく経営不振が続いたが、西南戦争を契機とする新聞・雑誌の発展によって、洋紙市場が形成されるにおよび経営基盤が確立した。欧米のパルプ製造技術を学んだ大川平三郎(渋沢栄一の娘婿)の努力で1888年(明治21)天竜川上流の気田に日本最初のパルプ工場(気田工場)建設に着手、1890年完成した。1893年(明治26)に王子製紙株式会社と社名を改めたが、このころには日本最大の製紙会社に成長していた。

1896年(明治29)中部工場建設にともない、三井銀行の援助を受けることになって 藤山雷太 が役員として送り込まれて経営の実権を握った。これに対して労働者の不満が爆発し大ストライキが起こったが、三井から藤原銀次郎が支配人として入りストを収拾、それ以後王子製紙は完全に三井の勢力下に入った。
1910年(明治43)苫小牧に当時としては最新鋭の新聞用紙工場を建設し、1915年以降工場の買収建設で樺太・朝鮮への進出を果たした。

1916年(大正5)には大阪で都島工場を買収、また大蔵省十条分工場の払下げを受け、1924年に小倉製紙所と有恒社、1925年に東洋製紙などをつぎつぎと併合した。
その後も金解禁およびアメリカの恐慌の影響で苦境におちいった樺太工業株式会社(1913年大川平三郎が樺太を拠点に設立)、富士製紙株式会社(1923設立。一時大川が実権を握ったが1929年以降は王子が実権をもつ)を合併し、1933年(昭和8)資本金1億5000万円の王子製紙が誕生、全国洋紙生産の80%余(新聞用紙は95%)を占め世界有数の大製紙会社となった。

このような王子製紙の発展を主導したのは藤原銀次郎(1920年社長38年会長就任)で、彼は関連産業につぎつぎと手をのばし、王子は30余の会社を支配する一つの財閥を形成した。
しかしこうした独占も、第二次大戦後の過度経済力集中排除法によって終止符が打たれ、1949年(昭和24)苫小牧製紙株式会社、十条製紙株式会社、本州製紙株式会社の三社に分割された。
1952年(昭和27)財閥商号使用禁止が解かれたのを機に、苫小牧製紙は王子製紙工業株式会に、さらに1960年王子製紙株式会社に改称した。1989年東洋パルプを合併、また1993年神崎製紙を合併し、新王子製紙と改称したが、1996年(平成8)本州製紙と合併して、旧称:王子製紙株式会社に復した。

現在も王子製紙は業界最大手であり、新聞用紙のシェアは第一位、また膨大な社有林を有する日本最大の土地保有企業である。
資本金1039億円(2005年9月)、売上高1兆1851億円(2005年3月期)。

【王子製紙とウィキペディア】

  • 1873年-1949年に存在した王子製紙(初代)については「王子製紙-初代」を参照。
  • 1960年-1993年および1996年-2012年9月に存在した王子製紙(2-3代目)については「王子ホールディングス」を参照。
  • 2012年10月以降の王子製紙(4代目)については「王子製紙」を参照。

王子製紙豊原工場-樺太(1917年-1945年)
『日本盛閣図』 刊記

【展覧会】東京大学総合研究博物館|スクール・モバイルミュージアム|昆虫の形と色の不思議 ── オサムシ研究の巨匠・ 石川良輔博士の軌跡|5月25日-10月5日

東京大学総合研究博物館
スクール・モバイルミュージアム
昆虫の形と色の不思議 ── オサムシ研究の巨匠・
石川良輔博士の軌跡
会  期  2019年5月25日[土]-10月5日[土] 
休  館  日  日曜日・祝日
開館時間  9:00-17:00
会  場  文京区教育センター 2 階  大学連携事業室
東京都文京区湯島4-7-10

入  館  料  無 料

[ 詳細: 東京大学総合研究博物館 ]

【展示】国文学研究資料館|2019年通常展示|「和書のさまざま」|1月15日ー9月14日

国文学研究資料館
2019年通常展示「和書のさまざま」
会  期  平成31(2019)年1月15日[火]ー9月14日[土]予定
      * 土曜日は北側通用口(正面玄関左手)よりお入りください。
休  室  日  日曜日・祝日・展示室整備日(7月10日、8月13-15日、9月11日)
開室時間  午前10時-午後4時30分 * 入場は午後 4 時まで
場  所  国文学研究資料館1階 展示室
主  催  国文学研究資料館
入場無料
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この展示が対象とする「和書」とは、主として江戸時代までに日本で作られた書物を指します。堅い言葉で言えば「日本古典籍」ということになります。ただし、明治時代頃までは江戸時代の書物の系統を引く本が作られていましたので、それをも取り扱っています。
「和書」と似た言葉で「国書」という語がありますが、これは古典籍の内で、日本人の著作した書物を言います。「和書」はそれより広く、漢訳仏典や漢籍、あるいはヨーロッパ人の著作も含め、江戸時代以前に日本で製作されたすべての書物を指す言葉です。

一般に書物が製作されるには、それを支えまた受容する文化的背景があり、そうして製作された書物が、新たな文化-文学、芸能、思想、宗教など-を生み出す基になるという現象が普遍的に見られます。書物によって展開した日本の文化を考える上で、日本人の著作か否かを問わず、日本で製作されたすべての本を視野に入れなければならない理由がここにあります。
国文学研究資料館は、創設以来四十年以上にわたり、全国の研究者の御協力をいただき、所蔵者各位の御理解のもとに、国内外に所在する日本古典籍の調査を継続して行ってきました。調査を通して得られた、古典籍に関する新たな知見も少なくありません。この展示には、その成果も反映しています。

この展示では、和書について、まず形態的、次に内容的な構成を説明した上で、各時代の写本・版本や特色のある本を紹介し、併せて和書の性質を判断する場合の問題をいくつか取り上げてみました。全体を通して和書の基本知識を学ぶとともに、和書について考えるきっかけとなることをも意図しています。
和書の広大な世界を窺うためにはささやかな展示ではありますが、以て日本古典籍入門の役割を果たすことを願っています。

[ 詳細: 国文学研究資料館

【WebSite 紹介】 瞠目せよ諸君!|明治産業近代化のパイオニア 平野富二|{古谷昌二ブログ26}|活版製造所の築地への移転

6e6a366ea0b0db7c02ac72eae00431761[1]明治産業近代化のパイオニア

平野富二生誕170年を期して結成された<「平野富二生誕の地」碑建立有志会 ── 平野富二の会>の専用URL{ 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、同会代表/古谷昌二氏が近代活版印刷術発祥の地:長崎と、産業人としての人生を駈けぬけた平野富二関連の情報を記述しています。
本稿もこれまでの「近代産業史研究・近代印刷史研究」とは相当深度の異なる、充実した内容となっております。関係各位のご訪問をお勧めいたします。
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[古谷昌二まとめゟ]
明治6年(1873)7月、平野富二は築地2丁目に土地を求めて工場を新設し、神田和泉町から移転した。その頃になると、活字の需要も急速に拡大し、各地からの活版印刷機引合にも応じる必要が増大していた。
当初は約150坪の土地であったが、需要の拡大に応じて次〻と隣接地を買増して工場を拡大すると共に、事務所や倉庫も設けた結果、わずか2年後の明治8年(1875)には敷地850坪余りの東京でも有数の大工場となった。

神田和泉町における約1年間の活字販売高は50万個程度であったが、築地に移転後は、年々増加し、明治11年(1878)9月に活版製造事業を本木家に返還する頃には、年間7百万個以上の販売高に達するようになっていた。
事業主の本木昌造は、明治7年(1874)夏と翌年の春に上京して、平野富二に委託した活版製造事業の現状を確認し、五代友厚からの多額の融資金返済の目途もたったことを悦び、長崎に戻ったが、明治8年(1875)9月、長崎で病没した。
しかし、この時点では、平野富二が本木昌造と約束した経営の安定化の達成と、本木昌造の嫡子小太郎を後継者として育成するまでには至っていなかった。

明治11年(1878)9月に本木昌造没後3年祭を行うのに際して、東京で後継者教育を行っていた本木小太郎を伴って長崎を訪れた平野富二は、活版製造事業の出資者に集まってもらい、東京で行った事業成果を報告し、その事業すべてを本木家に返還することを申し出た。その中には活版製造事業の成果を流用して進出した造船事業も含まれていた。
思いもよらない申出を受けた長崎の出資者たちは、即座には平野富二の申し出を受け入れることはできなかった。

翌12年(1879)1月、平野富二は本木小太郎を伴って再び長崎を訪れ、長崎本店で出資者たち立ち合いの下で資産区分を行った。その結果、資本金4万円相当の石川島造船所と3千円相当の築地の工場用地は平野富二の所有とし、資本金10万円相当の築地活版製造所は出資者を含めた本木家に返還することとなった。また、本木家と平野家とで双方の資本金1万円を持ち合い、永く関係を維持することとなった。

以後、東京の築地活版製造所の所長は本木小太郎となり、平野富二は後見人として身を引いた。しかし、平野富二の出番はこれで終わることはなかった。その後については追い追い紹介する。

古谷昌二ブログ ── 活版製造所の築地への移転

はじめに
(1)築地への移転
(2)営業活動の再開
(3)隣接地の買増しと事務所・工場の増設
(4)急速に伸びた活字の需要と販売高
(5)本木昌造の東京視察
(6)築地に於ける設備増強
(7)活字類の品揃えと改刻
(8)本木家に活版製造事業を返還
ま と め

【かきしるす】タイポグラファ群像*01|加 藤 美 方|かとう よしかた 1921-2000

タイポグラファ群像*001 加藤美方氏

加 藤  美 方 (かとう-よしかた 1921-2000)

印刷人、タイポグラファ。1921年(大正10)うまれ。東京府立工芸学校卒業後、さらに東京高等工芸学校印刷工芸科を卒業。株式会社研究社に入社し、第二次世界大戦中は海軍技術将校として召集された。
終戦ののち大日本印刷株式会社に転じて役員などを歴任。同社を退任後に、吉田市郎(旧晃文堂株式会社社長/当時リョービ印刷機販売株式会社社長、のちリョービイマジクス株式会社社長・会長 1921-2014)に請われて常務取締役に就任。各種の写植活字と写真植字機器開発の指揮にあたるとともに、タイポグラフィ・ジャーナル『アステ』1-9号の編集にあたった。胃がんとの闘病の末、2000年(平成12)12月29日逝去。法名・遇光院釋淨美居士。享年79
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《研究社と研究社印刷》
研究社 は、1907(明治40)年の創立以来、一貫して英語関連の出版事業を展開している。創業当初から、つねに世界に拓かれた出版をモットーとしてかかげ、現在、辞書・書籍・電子の領域において 最高水準の出版物を刊行するための努力を継続中の企業。

研究社印刷 は、
1919年(大正08年)研究社の印刷所として英文図書刊行に備え九段中坂に組版工場設立
1920年(大正09年)牛込区神楽坂に印刷工場新設
1924年(大正13年)改築の為一時飯田町に移転
1927年(昭和 02年)神楽坂印刷工場完成
1939年(昭和14年)吉祥寺印刷工場設立
1947年(昭和22年)富士整版工場設立
1951年(昭和26年)研究社印刷株式会社として分離独立
1984年(昭和59年)富士整版工場、吉祥寺工場を吸収合併し、新座市野火止に新社屋完成

加藤美方(1987年 アステ No. 5 より)本稿の初出は{花筏 2011年6月7日}であった。当時の(小社の)WebSite の容量はきわめて少なくて、スキャン画像などは圧縮して、ちいさく掲載されていた。データーを開いてみたところ、さいわい画像の元データーも保存されていたので、ここに{花筏}の掲載分はそのままのこし、一部を補整、補遺し、また図版を大きくして再度本欄に紹介した。

《加藤役員と、最後まで親しく呼ばせていただきました》
しばしば電話を頂戴した。どちらかというと加藤美方は電話魔ともいえた。
「加藤です」というご挨拶のとき、最初の カ にアクセントがある、いくぶんかん高い声が特徴のかただった。

また圭角のないひとがらで、いつも笑顔でひとと接していた。

筆者と加藤との最初の出会いは、某印刷企業の部長 兼 室長であり、面接担当者(雲の上のひと)加藤と、ただ生意気なだけの(汗)タイポグラフィ研究者?  としての筆者の就職面接だった。
加藤の骨折りもあって入社をはたしたが、すぐさま直属上司と大げんかの末、そこを三ヶ月もたたずに退社して加藤の失望をかった。
それでもその後も随分いろいろな分野の先輩を紹介していただいたし、叱声も頂戴した。したがって最初の出会いからしばらくして(お怒りが溶けてから)は、筆者は加藤を最後まで「加藤役員」と呼んでお付き合いをさせていただくことになった。

1998年7月7日、忘れもしない七夕の日、加藤は胃がんの手術をした。小康を得て牛込矢来町の自宅にもどったとき、見舞いに訪れた筆者に加藤はこうかたった。
「タイポグラフィの研究を本気でやろうとしたら、コピー複写資料に頼ってはいけません。それをやっているひとが一部にいますが、所詮はアマチュアですし、いつか大怪我をします。タイポグラフィとは、活字の判定や調査とは、そんなコピーでわかるほど簡単なものではありませんから」。


高島義雄 → 加藤美方をへて筆者に譲渡された
『 TYPE FACES 』

研究社印刷 1931(昭和6)年版
B 5 判    160 ページ かがり綴じ  上製本
この活字見本帳は、端物用、ページ物用の欧文活字書体の紹介がおもである。
研究社印刷・小酒井英一郎氏によると、研究社の冊子型活字見本帳では、これが最古のものであり、またこれが唯一本とみられるとのことである。

加藤が在職した当時の研究社の本社工場。昭和02年完成。同書口絵ゟ
同社の印刷部門は1951年(昭和26年)研究社印刷株式会社として分離独立して現在に至る

研究社は1907(明治40)年の創業以来、一貫して、英語教育・理科学書・辞書関連の印刷・出版事業を展開している。
現在は印刷部門と出版部門は分離したが、千代田区富士見2-11-3に自社ビルを所有し、辞書・書籍・雑誌の領域における出版企業として著名である。
いっぽうグループ企業の研究社印刷は、創業:大正9年4月、設立:昭和26年2月1日で、現在は埼玉県新座市野火止7-14-8で事業展開を継続中である。

このころの研究社の活字自動鋳植機はライノタイプマシンが主力だったが、こののち、辞書などの高度組版への対応のため、凸版印刷株式会社が所有していたモノタイプマシンと、研究社が所有していたライノタイプマシンと交換という形で、順次モノタイプマシンに設備を変更した。

欧文書体(マシンセット)は、Century Expanded,  Granjon がおもで、Century Expanded は 6 points - 14 points のシリーズ、Granjon は 8 points - 11 points のシリーズが紹介されている。ほかには New Style No.21 が 9 points の 1 サイズだけ、アップライト・ローマンとイタリックの双方を所有している。
マシンタイプの紹介は、すべて左右組幅 27 picas ,  外枠の子持罫は 左右 31.5 picas,  天地 45.5 picas である。
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上掲図のうち、pp 59 の上部を拡大表示した。見落とされがちで、またわが国の活字のほとんどが正方形であるために解りにくいが、これは重要な情報で、中央部にちいさく「 Set 12 Point Body 」とある。
欧文活字の大きさとは A ,  B ,  a ,  b ,  i ,  l ,  M ,  W のように、活字鋳型をスライドさせることによって、左右(字幅)は可変型である。したがって欧文活字の大きさとは、活字ボディの天地のサイズを表すことになる。

上掲図では、「10 points の Granjon 書体の活字母型(文字面の型)をもちいて、天地 12 points ボディの鋳型で鋳込んだもの 」をあらわす。すなわち行間が適度にあくため、インテルの挿入が不要乃至は簡略化することができ、組版効率を向上させることができる。

[参考:NOTES ON TYPOGRAPHY  【かきしるす】文字組版の基本|ポイント (points)、パイカ (picas)、ユ ニット (units) |現代の文字組版者にとって基本尺度/スケールは不要なのか?

研究社の和文活字は昭和6年版ではここに紹介した一ページだけが紹介されている。
明朝体は東京築地活版製造所系とみられるが、ゴシック体の供給元はまったく不詳である。
同社ではすでに本文用サイズの活字は、自動活字鋳植機による自家鋳造体制となっており、また欧文組版が主流の企業だけに、初号 42 points,  二号 21 points,  五号 10.5 points,  七号 5.25 points の倍数関係であることを知悉したうえで、和文活字を展開し、もちいていることがわかる。したがってこのページも、左右の組幅は、欧文書体と同様に 27 picas になっている。
後述するが、当然ながらここに見る「明朝体 初号」は、図書の標本を計測しても 初号 = 42 points になっている。 

研究社は好運なことに、関東大震災、第二次世界大戦での被害は比較的軽微であった。また空襲が激化する前に設備の大半を疎開させていたため、この本社ビルとともに、活字と活字母型は戦後も継続使用が可能となった。

それでも1938年(昭和13)以降の研究社は、東京築地活版製造所からの供給が清算解散によって途絶えていたため、戦後は、吉田市郎によって創立間もない晃文堂から「晃文堂明朝体」「晃文堂ゴシック体」を、印刷局朝暘会、明和印刷、厚徳社、技報堂、清和印刷など、大手ページ物印刷を得意としていた企業とともに率先して導入し、順次和文自動活字鋳植機用の活字母型を購入して、ふたたび活字自家鋳造にあたった。

そのため現在の研究社の自社和文専用書体、とりわけ明朝体は、いまなお60年余以前に導入した「晃文堂明朝」を、自社内でカスタマイズしたものをデジタル化して、ハウス・フォントとしている。
[ 参考:『逍遙 本明朝物語』片塩二朗、朗文堂 pp 42 ]


ところで、このとき「印刷局朝暘会」名義で晃文堂から購入した明朝体の活字母型の動向に関心が持たれることは稀である。もともと「印刷局」は秘密のベールの彼方の存在とされるが、近年は意外に大胆かつ率直に情報公開がなされている。

印刷局「お札と切手の博物館」2014年の展示に際しては、稿者も驚くほど(かつては関与者には秘密厳守がつよく要求された)率直に、官報の書体 ── 明朝体の由来が展示・解説されていた。
すなわち、活字自家鋳造の企業のほとんどと同様に、ひら仮名・カタ仮名を中心に、若干のカスタマイズはされている。とりわけ印刷局では両仮名とも、大正期からの形象に近いものに全面的に変更されている。さらに偽造防止のためもあって、さまざまな工夫が随所にされているが、現在の官報書体の源流を含めて丁寧な展示解説がされていた。

そしてそのデジタル化に際し、最初の TrueType フォーマットでの作製は、晃文堂の後身企業であったリョービイマジクスがあたり、O T F フォーマット変換に際してはモリサワが担当したことが展示解説でなされていた。

[ 参考:活版 à la carte よき日がいつも-日日之好日*03【特別展】 紙幣と官報 2 つの書体とその世界/お札と切手の博物館

『 SPECIMENS OF TYPE FACES 』
(1937〔昭和12〕年  研究社印刷 同社蔵)

B 5 判  160ページ   かがり綴じ   上製本
前掲見本帳から7年後、同社が活字自動鋳植機モノタイプマシンを本格展開した際に製作されたとみられる活字見本帳。
研究社とその関連部所に、都合 2 冊が現存する。
ライノタイプ・マシンが中心の1931年(昭和6)版での欧文活字書体は、Century Expanded,  Granjon が中心だったが、モノタイプマシン中心の1937年(昭和12)版では Garamond,  Aldine Bembo が中心書体に変わっている。いずれの書体も名書体として、いまなお評価が高いものばかりである。
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はなしが若干脇道にそれるが、東京築地活版製造所第四代社長:名村泰蔵の社長時代に「東洋一の活版製造所」を自他ともに許す存在であった東京築地活版製造所は、そののち後継者にめぐまれず、この研究社(印刷所)の見本帳が発行された翌年、1938年(昭和13)3月17日、臨時株主総会の決議によって清算解散を迎えた。

その理由としては、関東大震災の影響をあげることが多いが、同社は震災後もポイントシステムの活字の販売に熱中するばかりで、辛いことではあるが、活字自家鋳造業者への適切な対応、和欧文の活字自動鋳植機への高度な対応、なによりも印刷術の進歩を見据えた国際化に向けた関心と対応に欠けていたことは指摘せざるを得ない。
すなわち研究社も比較的軽微であったとはいいながら、関東大震災の被害がありながら、ここまでにみてきた、昭和 6 年版、昭和12年版の冊子型活字見本帳をのこしている事実が厳然としてあるからである。

『SPECIMENS OF TYPE FACES』(1937〔昭和12〕年  研究社印刷)扉ページ

『 SPECIMENS OF TYPE FACES 』(1937年[昭和12]   研究社印刷) 本文ページ 

《加藤美方の慨嘆 ── 秀英体初号明朝活字=42 points が、ポイント制活字に切りかえ作業以降 40 points に鋳込まれていた件》
大日本印刷(旧秀英舎)のフラッグ・シップともいうべき代表書体は、四号明朝体活字 ≒ 13.75 points と、初号明朝体活字=42 points である。

秀英舎は明治最末期のころから、順次号数制活字からポイント制活字に切りかえていた。四号明朝体活字は、増刷などに備えて近年まで少量温存されていたが、主体は 14 points に切りかえられていった。その差はわずかに  0.25 poits  ≒ 0.03385 mm であったが、戦後の機械式パントグラフ(いわゆるベントン)の導入に際しては、全面的に手を加える必要に迫られる結果となった。
[参考:「大日本印刷の文字原図となり現在につらなった秀英体明朝四号」『秀英体研究』片塩二朗、大日本印刷、pp 606-649]

『 和文活字  DAINIPPON PRINTING SPECIMEN BOOK 』(大日本印刷  1978年)
製作:大日本印刷CDC事業部、組版:市谷第一工場和文課、表紙デザイン:清原悦志

「いつ、たれがやったかわからない。おおきな組織だから …… 」と加藤美方は述べていた。
すなわち、いつのころからか「秀英体初号明朝活字」は、活字字面はそのままで、42 points から 40 points の活字ボディに鋳込まれるようになっていた。
すなわち活字のボディサイズが 0.7028 mm 四方ちいさくなった。換言すると 95.238 . . ..%ちいさな 40 points の活字ボディの上に 42 points の「秀英体初号明朝活字」は存在することになった。

その差わずか 2 points, 0.7028 mm とはいえ、これは視覚印象には決定的な相違ともいえる、おおきな変化を与えることになった。先に紹介した研究社の「明朝 初号」の資料や、上掲図の 36 points のゆったりと風通しのよい組版表情は、ここでの 40 points になると一変し、まさに湯こぼれ寸前、隣の字画と接触するかという危惧をいだかせるほどまでに字間が窮屈になった。これはもはや誇り高い「秀英体初号明朝活字」とは呼べないものとなっていたのである。

「あれは、わたしにも責任があります」と加藤は明言していた。
この「秀英体初号明朝活字」のデーター(活字清刷り)が株式会社写研に提供された。当時の大日本印刷の担当役員は加藤美方であった。 写研には字面率が本来のものとは異なることを十分説明したそうであるが、この時代、写植組版では「ツメ組み」と称して、広告業界を中心に字間をタイトにして組版することが流行していた。

加藤の忠告をよそに、写研では字枠(仮想ボディ)にたいする字面率を最大限にまで拡張して ── ある意味では提供されたデーター通りに ── 写植活字として販売した。しかもその名称は「秀英明朝体 S H M」という誤解を招きかねないものであった。
すなわちオプティカル・スケーリング(個別対応方式)の鋳造活字の「秀英明朝体」は、サイズごとにさまざまな表情があった。「秀英明朝体四号」と「秀英明朝体初号」では、おおきさ、太さの違いだけでなく、字画形象にもおおきな差異があるのは当然であった。

ところが写植活字では原字はひとつで、さまざまなサイズに対応するリニア・スケーリング(比例対応方式)である。そのため金属活字の初号= 42 points  ≒ 14.7588 mm 角だけでない、15.5 mm 角の 62 Q,  4 mm 角の 16 Q,  5 mm 角の 20 Q でも用いられたし、適性を欠くかとおもえる 2 mm 角の 8  Q でさえ、広告デザイナーは使用に遠慮も容赦もしなかった。
こうして、写植活字を愛用した広告デザイナーには、「秀英明朝体 S H M は、字間がタイトで緊張感がある?」という誤った認識がすり込まれるにいたったのである。

ふしぎなえにしで稿者ものちに、大日本印刷の「秀英体平成の大改刻」に携わることになった。スタッフの獅子奮迅の頑張りで無事プロジェクトを終了できた。この間さまざまな問題が起こるたびに、加藤美方のことを想起した。
「加藤役員なら、笑ってすますだろうな …… 」とおもうことにしていた。


《加藤美方からの資料の譲渡 ── 図書の有効利用に向けて》

手術からしばらくして、加藤夫妻は娘さんの嫁ぎ先の近く、多摩市関戸に移転して病後の療養にあたることになった。そこへの移転を控えたある日、ちいさな段ボール箱にいっぱいのタイポグラフィ資料が宅配便で届いた。おもには加藤が研究社に在籍していた時代の、貴重な印刷関連機器と活字の文書資料であった。

加藤はすでに胃がんの再発を自覚していた。そしてそこには自筆で、
「息子が印刷とは無縁の職場にいますので、このタイポグラフィ関連資料と、活字見本帖類を片塩さんにあげます。書誌関係のものは M 八郎〔故人〕 さんにあげました。
わたしの印刷人としての人生は幸せでした。わたしは二廻り年下の片塩さんを発見することができました。ぜひこれを役立ててください。わたしの研究社時代の先輩・高島義雄さんから譲られた資料も入っています。そしてあなたもいつか、二廻りほど年下の若者を発見して、この資料を譲ってあげてください」

とあった。
不覚ながら、おもわず涙がにじんだ。加藤美方は ── そして奇妙なことに晃文堂:吉田市郎も ── 1921年(大正10)辛酉-カノト -トリ-のうまれで、筆者はちょうどふた廻り下の1945年(昭和20)乙酉-キノト -トリ-のうまれであった。

{追記 2019年06月12日}
加藤美方に関する{花筏}掲載データーが古くなりすぎていたので、その補整をはじめたおりもおり、故吉田市郎の家人からひと抱えの資料を届けていただいた。この授受はこれで三度目ほどになるが、今回はふるい写真が多く、筆者がはじめて吉田市郎と出会ったころの資料も含まれていた。

なにぶん晃文堂・リョービ印刷機販売・リョービイマジクス時代の吉田市郎関連資料は膨大である。なんとか稿者がボケないうちに整理だけでもしたいものである。
それよりなによりも、吉田市郎に関しては「訃報」を伝えただけになっっていることを、迂闊なことに今回はじめて気づいた。これはとてつもなく反省すべきことである。

《タイポグラファとしての加藤美方の軌跡》
タイポグラフィ・ジャーナル『アステ』は、樹立社から『活字の歴史と技術  1 – 2 』(樹立社   2005年3月10日)と改題されてデジタルプリントでの復刻をみた。その『アステ』をのぞくと、加藤には意外に公刊書は少なかった。

それでも研究社に在職中に、『 The Printing of Mathematics   数学組版規定』(The T.W. Chaundy,  P.R. Barrett and Charles Batey,  Oxford University Press)を1959年(昭和34)3月1日に訳出して、高度な組版技術を要する数式を活字組版するための指導書として、研究社の技術基盤を築くのに功績が大きかった。

同書の初版は社内文書ともいえる扱いで、造本は A5判   本文32ページ、くるみ表紙、全活字版スミ1色印刷   中綴じのつくりで、簡素ではあったが、後続の類書に与えた影響は大きかった。
またのちに晃文堂・吉田市郎が研究社の承諾をうけて、同じタイトルでひろく印刷業者にむけて1,000部ほど(加藤談)を公刊した。同書の巻頭の「はしがき」に加藤は以下のようにしるしている。

は し が き

世は正に「科学万能時代」である。出版物にもいわゆる《科学もの》が多くなり、数学ぐらいは必ずでてくるようになった。ところが、現行の理工医学書及び《数学もの》を見るとはなはだ寒心に堪えない。知らぬが仏とはいえ、編集者もコンポジターもあまりにひどすぎる。なにか拠り所があったら……と思っていたら、The Printing of Mathematics が手に入った。

この本は、活字のこと、ランストン・モノタイプのこと、組版のことなどを、印刷需要家[印刷ユーザー]に説明することと、数学書を書こうとし、これを出版しようとする人に対する諸注意で大半のページがさかれていて、最後にオックスフォード大学出版局の「数学組版規定」Rules for Composition of Mathematics at the University Press, Oxford が収録してある。この小冊子はこの規定を訳出し、注釈を加えたものである。

規定の中には重複と思われる項目もあったが、原著に忠実に羅列しておいた。なお、付録には関連資料を添えて参考に供した。
外国での数学書の組版規定がそのまま日本の《数学もの》にあてはまるとは思わないが、参考になると考えたので印刷物にしてみた。日本数学会の意見も加え、このキーストーンの上に、完ぺきな《数学組版規定》が築きあげられる日の一日も早からんことを願ってやまない。

東京大学教授・河田敬義博士、山本建二氏(培風館)にはいろいろご教授を受けた。心から謝意を表明する。
数学の ス の字も知らない私が敢えて訳出したのも  ’ メクラ蛇におじず ’ のたとえ。おおかたのご批判をまつ次第である。

組版ステッキのイラストがあるほうが、研究社版:発行昭和34年3月1日。
本文活字書体は「晃文堂明朝  9 points,  8 points 」が主体である。
欧文書体は「センチュリー・ファミリー」と「バルマー・ローマン」が主体である。

タイトルがセンター合わせになっているほうが晃文堂版(発行日記載無し)。
『 The Printing of Mathematics   数学組版規定 』 本文ページ

ところで、ほとんどのかたはご存知ないようだが、いわゆる『オックスフォード大学組版ルール』も加藤美方が初訳している。稿者所蔵版はあまりに損傷がひどいので、研究社に依頼して保存版を近々紹介したい。したがってこの『NOTES ON TYPOGRAPHY』ブログロールは、ご面倒でも時〻更新操作を加えて閲覧いただけたらうれしい。

また加藤美方は、『日本印刷技術史年表 1945-1980』(日本印刷技術史年表編纂委員会編 印刷図書館 昭和59年3月30日)の編集委員として「文字組版」の部を執筆担当した。この巻末に《編集委員の略歴》があるので、余剰をおそれず、「タイポグラファ群像」のスタートとして紹介しよう。
すなわち、筆者はここにみる諸先輩とは、わずかにその謦咳に接したことはあるが、その詳細はもとより、没年はほとんど知らない。これを機として、読者諸賢からのご教示をまつゆえんである。

『日本印刷技術史年表』 表紙

《編集委員の略歴》
※2011年6月16日、板倉雅宣氏の資料提供を受けて、一部を補整した。

◎ 飯坂義治(いいざか よしはる)
富山県滑川市で1907(明治40年)4月28日うまれ。昭和5年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。共同印刷株式会社専務取締役を経て顧問。1982年(昭和57)以降の消息はみられない。

◎ 板倉孝宣(いたくら たかのぶ)
東京市下谷区西町(現東上野)で1915年(大正4)うまれ。昭和13年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。日本光学工業株式会社、株式会社細川活版所取締役を経て日電製版株式会社取締役。1992年(平成4)6月21日卒。法名・泰光院孝道宣真居士。台東区谷中1-2-14天眼禅寺にねむる。行年77 〔板倉雅宣氏の実兄〕

◎ 市川家康(いちかわ いえやす)
1922年(大正11年)うまれ。昭和21年東京大学工学部応用化学科卒業。大蔵省印刷局製造部長を経て小森印刷機械株式会社常務取締役。

◎ 加藤美方(かとう よしかた)
1921年(大正10)うまれ。昭和17年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。株式会社研究社、大日本印刷株式会社取締役を経てリョービ印刷機販売株式会社常務取締役。2000年(平成12)12月29日卒。法名・遇光院釋淨美居士。行年79

◎ 川俣正一(かわまた まさかず)
1922年(大正11)うまれ。昭和17年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。昭和29年東京理科大学理学部化学科卒業。共同印刷株式会社を経て千葉大学工学部画像工学科助教授。工学博士。2007年(平成11)以降の消息はみられない。

◎小柏又三郎(こがしわ またさぶろう)
東京麻布で1924(大正13)うまれ。昭和20年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。凸版印刷株式会社アイデアセンター部長。1989年(平成元)5月1日卒。行年65

◎ 佐藤富士達(さとう ふじたつ)
1911年(明治44)うまれ。昭和11年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。海軍省水路部印刷所長を経て東京工芸大学短期大学部教授。1985年(昭和60)6月卒。行年74

◎ 坪井滋憲(つぼい しげのり)
1914年(大正3)うまれ。昭和10年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。株式会社光村原色版印刷所専務取締役、株式会社スキャナ光村取締役社長。2000年(平成12)10月15日卒。行年86

◎ 松島義昭(まつしま よしあき)
1918年(大正7)うまれ。昭和13年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。同校助教授を経て写真印刷株式会社社長。全日本印刷工業組合連合会会長。1999年(平成11)4月6日卒。行年81

◎ 山口洋一(やまぐち よういち)
1923年(大正12)うまれ。昭和20年東京大学工学部機械工学科卒業。大日本印刷株式会社常務取締役を経て、海外通商株式会社専務取締役。

◎ 山本隆太郎(やまもと りゅうたろう)
1924年(大正13)うまれ。昭和18年東京高等工芸学校印刷工芸科卒業。日本光学工業株式会社を経て株式会社印刷学会出版部代表取締役。2010年(平成22)2月19日卒。行年86
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加藤が卒業し、上記編集委員にも大勢が名を連ねた、東京府立工芸学校と、東京高等工芸学校印刷工芸科の存在にも簡単に触れておきたい。
東京府立工芸学校は 3-5 年間の履修制の特殊な実業学校で、水道橋のほど近くに設立され、「府立工芸」と通称された。

現在はおなじ場所で3年制の東京都立工芸高等学校になっている。加藤は「府立工芸」を卒業後に、さらに東京高等工芸学校印刷工芸科を卒業している。

東京高等工芸学校は、正式には新制大学にならなかったほぼ唯一の旧制高等学校とされるが、1949年(昭和24)5 月、戦後の学制改革にともなう新制大学として、千葉医科大学、同附属医学専門部、同附属薬学専門部、千葉師範学校、千葉青年師範学校、千葉農業専門学校を包括した「千葉大学」が設立された。そこに旧東京高等工芸学校の教授のおおくが移動して「千葉大学工芸学部」の誕生をみた。そのために、卒業生の多くは「東京高等工芸学校 現 千葉大学出身」としるすことが多い。

しかしながら「千葉大学工芸学部」は、1951年(昭和26)4月1日に改組・改称されて「千葉大学工学部」となった。この改組・改称が一部の教授によって「工芸と工業は根本的に異なる存在である」として反発をかった。また、同校を離れた鎌田弥寿治教授らは、東京写真短期大学に移動した。同校は改組・改称をかさねて現在の「東京工芸大学」となった。

すなわち、工芸と工業と美術といった教育分野が、その目的と定義を巡って激しい論争をかさねた時代であり、この命題はこんにちも完全に消化されたとはいえないようである。
この間の記録はあらかた散逸していたが、近年松浦広氏が「印刷教育のはじまりを考える 前編・後編」『印刷雑誌』(Vol.94  2011. 4 – 5 印刷学会出版部)に詳しく論述されているのでぜひともみてほしい。

ともあれ加藤美方は東京府立工芸学校と、東京高等工芸学校の両校を卒業し、印刷業界のエリートとして重きをなし、終生その中核を歩んだ。そして、さすがに旧制学校出身者の高齢化は避けられないものの、いまもって関東一円の印刷業界では、この両校の出身者の人脈が隠然たる双璧をなしている。
加藤の一生はまさにタイポグラファであり、なかんずく文字活字であった。その軌跡は、株式会社研究社、研究社印刷株式会社、大日本印刷株式会社、リョービイマジクス株式会社のなど、加藤が歩んだ企業の、金属活字、写植活字、電子活字のなかにみることができる。

《新カテゴリー、タイポグラファ群像開設にあたって》
タイポグラフィ関連の記述に際して、先達の略歴はもちろん、生没年の調査にすら手間取ることが増えた。かつて、著名人なら紳士録があり、業界人でも『日本印刷人名鑑』(日本印刷新聞社)、『印刷人』(印刷同友会)など、業界団体や、業界紙誌があらそって名簿を刊行していたので、それらの資料にたすけられることが多かった。
ところが近年は個人情報管理などが過度にかまびすしくなって、肝心の基礎資料すら入手しがたくなった。そこで稿者がお世話になった先輩・先達の肉声を記録しておくのも意味のあることか、とおもうようになった。

加藤美方氏の奥さまからは、昨年〔2010〕までは年賀状をいただいていた。それが今年は来信がなくて気になっていた。また稿者が所有している加藤役員の写真が、パーティでのスナップや、集合写真が多く、御遺影をゆずっていただこうとおもって架電した。ところが矢来町の旧宅も、関戸のマンションの電話も、いずれも「この電話は、現在使われておりません」という機械音声が返るだけだった。

振りかえると、ご逝去の際もあわただしかった。なにしろ師走の 29 日に逝去されたため、ご親族・ご親戚はお別れができたが、携帯電話の普及以前とあって、「仕事納め」を終えた企業の連絡通信網はまったく機能しなかった。
葬儀は四谷にある日蓮宗の古刹寺院でおこなわれたが、かろうじてリョービイマジクスの皆さんと、府立工芸系の学友の皆さんが参集できたのみであった。その末席にあって稿者は、

「加藤役員は、最後まで企業人だったな」
という一抹の寂寥感のなかに沈んだ。

【もんともんじ】ちょっと不気味ながら目出度い瑞兆|蛙と招財進寳|端午の節句と鍾馗様の五毒退治

馴染みとなった中国料理店のレジの脇に、なにやら異様なものが置いてあった。
「小姐-ショウシャ・お嬢さん、これはなんですか」
「それは縁起ものよ、もう片づけるけど」
六月の初旬、小姐はそっけなく答えた。

よくみると丸〻と太った蛙で、足もとには吉語が刻まれた銅貨が積みかさなり、ご丁寧なことに銅貨を咥えており、そこには富貴の吉語「招財進寳」とあった。しかも全体も銅製とみられ、ずっしりと重かった。
小姐は知らんぷりなので、以下はいつもの通り『中国吉祥圖案』を繰ることにした。
[参考資料:『中国吉祥圖案』(台湾 北市、衆文図書公司、1991年02月]
『中国吉祥圖案』pp 640 にその資料「天中避邪 ── 鍾馗像上蝙蝠飛舞圖」を発見。
「古老の説話によると、五月五日、その正午の時刻は、天地の陰陽が交接するときにして端午節とされる。五月五日の五と、正午の午は、ともに Wu 3 であり同音同声である …… 」からはじまるその解説は難渋をきわめるが、できるだけ簡略に説明したい。

この五月五日の端午節の頃(旧暦)になると、蛇・蜥蜴 トカゲ・蠍 サソリ・蜈蚣 ムカデ・蛙 など「五毒」とされる「悪魔的害虫」がわき出てくるので、庶民は門内にこれらの侵入を防ぐために、門口に霊草とされる 菖蒲 ショウブと艾 ヨモギの葉を掲げる。菖蒲の葉は剣に似て、艾の葉は手のひらに似る。
これを合わせて「手のひらで剣を握り、悪魔をはらう。それで一家の一年は平安多福となる」そうである。

わが国の記紀神話、「八岐大蛇-やまたのおろち」を退治した素戔嗚尊-すさのおのみこと-伝承と似て、「鍾馗 ショウキ 伝説」も多々あるが、そのひとつ。
唐の玄宗皇帝が瘧 オコリ で高熱を発したとき、夢に「五毒」の小鬼が出てきて「われの名は虚耗なり」といって悪戯をしかけた。玄宗皇帝は激怒して、禁軍・近衛の兵士に「五毒」討伐を命じたがならなかった。
そこに巨漢の武将があらわれて快刀乱麻の勢いで小鬼をすっかり退治したので「汝は魔鬼か」と訊くと、「わが名は鍾馗なり」と答えた。それ以後皇帝は悪魔的鬼神としての鍾馗像を、空中に舞う吉祥図、蝙蝠-こうもり-とともに描かせて、端午節に掲げるならいとなった。
ちなみに中国で「蝙蝠-ヘンプク」が瑞兆とされるのは、蝙が遍く-あまねく-に、蝠が福に通じるので、「蝙蝠」は吉兆をもたらすめでたい吉祥図とされている。

こうして「鍾馗様」に征伐された五毒は、一転して瑞兆となり、とりわけ丸〻と肥え太った蛙は「招財進寳」をもたらす縁起の良い存在として描かれ、彫刻されるにいたったという。
わが国でもふた昔ほど前までは、五月の節句に菖蒲湯にはいり、門口には艾(蓬)の葉を括って吊るす習慣があった。また女子が誕生すると、桃の節句にお雛様、男子が誕生すると端午の節句に鍾馗様の兜などを贈る風習もあったが、いまはどうなのだろう。

【 YouTube 李玉萍(萍萍老師) 書法/春聯教學 金字「招財進寳」楷書 1 : 49 】

【 YouTube 王興華老師書法教學(疊字春聯)音が出ます 35:33 】


【 YouTube 李玉萍(萍萍老師) 書法/春聯教學 金字「招財進寳」楷書 1 : 49 】
【 YouTube 王興華老師書法教學(疊字春聯)35:33 】

台湾からの動画で、楷書筆法による「招財進寳」を再度紹介する。あわせて少し時間はながいが、行楷書による「疊字=畳字」、春聯の金字書法を紹介したい。最初に書かれるのは記号や絵ではなく、吉祥字の上位におかれる「如」である。「如意-ものごとが意のままになるふしぎな力」を含意している。楷書とは筆順が異なる字画があり、速度もずいぶん早く書かれている。
30分以上の長時間なので途中に飽きがくるが、興味ふかいのは後半、20分過ぎくらいからで、わが国の展覧会書道とはおよそ趣がことなる「畳字」のおもしろさを理解できる時間帯になる。

「春聯-シュンレン」とは、中国・台湾で(旧)正月を祝うために、門の両側や扉などに、赤い紙にめでたいもんじを書いて貼るもの。
「疊字=畳字」は、わが国では「踊り字・重ね字・畳字-じょうじ」などとされることが多く、上掲動画とはなんら関連のみられないことばになっている。残念ながら手許資料では明快な説明ができない。

もともと「畳-たたみ」はわが国での意読で、漢字音ではジョウ・チョウで、意は、かさなる、かさねる、薄く平らなものをかさねるである。したがって熟語に「畳韻-中国音韻でおなじ母音で終わる二字を連ねること。逍遥・連綿・窈窕など」、「畳重-ものをかさねる、またかさなる」、「重畳・稠畳-びっしりと重なりあうこと」などがある。もうしばらく、これを参考にしていただき、「畳字とは字をどんどん積みかさねること」と理解いただけたらうれしい。


吉 祥 如 意  順-したがう

【生意興隆通四海】
天 地 順
得心応手
四季皆宜
平歩星雲
一路栄華

【財源茂盛達三江】
人 情 順
吉星高照
広開財源
歩歩高昇
一帆風順

「畳字」を明快に説明できないお詫びに、この香港飲茶の店の壁に掛っていた「万事如意-順」を紹介したい。字面を眺めているだけで富貴になりそうな気分になる。ちなみに「歩歩高昇」は成句で「トントン拍子」ほどの意である。

[ 参考:NOTES ON TYPOGRAPHY【もんじ】吉祥もんじ 合体字|招財進寳ーしょうざいしんぽう

【かきしるす】図書紹介|新島実と卒業生たち ── そのデザイン思考と実践 1981-2018|武蔵野美術大学 美術館・図書館

新島実と卒業生たち ── そのデザイン思考と実践 1981-2018
展覧会情報  https://mauml.musabi.ac.jp/museum/events/12169/
発    行   年  2018年

判   型  縦 26 ㎝ × 横 19.8 ㎝、上製本、223ページ
価   格  一般:2,000円

発   行  武蔵野美術大学 美術館・図書館
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米国イェール大学大学院でいち早くポール・ランド(Paul Rand, 1914-96)のデザイン理論を学んだ新島実は、帰国後グラフィックデザインを中心に、日本においてランドの視覚意味論を先駆的に実践してきた。
また1999年に武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科に着任して以降はデザイン教育にも尽力し、第一線で活躍する人材を多岐にわたって輩出し続けている。

本書では、ポスター、造本、C I などの代表的な新島作品を収録し、考察を重ねながら挑戦し続けてきたグラフィックデザインの足跡をたどる。


新島実と卒業生たち ── そのデザイン思考と実践 1981-2018:卒業生編

展覧会情報  https://mauml.musabi.ac.jp/museum/events/12169/
発    行    年  2018年
判   型  縦 26 cm × 横 19.6 cm、159ページ
価   格  一般:1,200円 [完売]
発   行  武蔵野美術大学 美術館・図書館

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本書は『新島実と卒業生たち ── そのデザイン思考と実践 1981-2018』と対をなすもので、多彩な新島ゼミ卒業生の作品を一堂に集め、新島イズムがどのように受け継がれ、あるいはそれを越えて展開しているのか、視覚伝達デザイン学科の一端を紹介する。

和語表記による和様刊本の源流
展覧会情報  https://mauml.musabi.ac.jp/museum/events/12166/
発    行    年  2018年
判   型  縦 36.4 cm × 横 25.7 cm 二分冊
ペ ー ジ 数  図版編:224ページ、論考編:352ページ
価   格  一般:5,000円
発   行  武蔵野美術大学 美術館・図書館

[ 詳細: 武蔵野美術大学 美術館・図書館

{ 新 宿 餘 談 }

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【ことのは】明治十年ころ|瓦版「当世名人八景」にみる句と平野富二の活版製造事業

『平野富二と活版製造事業 ── 東京築地活版製造所』 製作:青葉水竜

『平野富二伝  考察と補遺』(古谷昌二、朗文堂 pp 250)
第七章 石川島造船所の操業開始
補遺4 平野富二を描いた瓦版
明治一〇年(一八七七)の頃とされる瓦版「当世名人八景」が刊行され、現代八人の名人とされる中の一人として平野富二が描かれ、その傍らに、

   解かしては
   かためて鋳ぬく
   植文字を
   平野に充つる
   雪の夕景
という句が添えられているとのことであるが、残念ながら実物は未見である[古谷昌二]。

平野号 平野富二生誕の地碑建立の記録
B 5 判 408 ページ ソフトカバー 図版多数
定  価  本体 3,500 円+税
発  行  日  2019年5月30日 初刷
編  集  「平野富二生誕の地」碑建立有志の会
発  行  平野富二の会
発  売  株式会社朗文堂
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明治産業近代化のパイオニアとして著名な平野富二は、長崎にうまれたひとと伝わってきた。長崎では東京に進出したひととだけ伝わった。
富二の生家は長崎の地役人たる町司で、身分は平民ながら、世襲の家禄をうけ、苗字帯刀をゆるされた矢次家の次男であった。幼名矢次富次郎は明治五(一八七二)年に妻帯し、戸籍編成に際して平野富二と改名して長崎外浦町に一家を構えた。中島川右岸、飽の浦の長崎製鉄所、立神ドック、対岸の小菅修船場などにわずかな足跡をのこして、東京に新天地をもとめ、数えて二六のとき、総勢一〇名で長崎をあとにして東京(現 千代田区神田和泉町一)に「長崎新塾出張活版製造所」の看板をかかげた。のちに同社は「東京築地活版製造所」と改組改称、「東洋一の活字鋳造所」として自他ともにゆるす存在となった。

素志である重機械製造と造船事業も明治九(一八七六)年から本格的に開始した。平野富二は石川島平野造船所(現IHI)を設立して数百トンもある巨大な船舶をつくり、橋梁をつくり、蒸気機関をもちいて海上輸送と陸上輸送の進展に貢献した。
平野富二はこうしたおおきな成果をあげつつ、在京わずか二〇年、四六歳にして病にたおれた。それでもその功績は、金属活字製造、印刷機器・資材製造、活字版印刷、重機械製造、造船、橋梁架設、航海、海運、運輸、交通、土木、鉱山開発……と、枚挙にいとまのない事業展開をはかって近代日本の創建に貢献した。

今般「平野富二生誕の地」碑の建立を期して直近二〇年ほどの東京と長崎の交流を本書『平野号』に記録した。あわせて、長崎にもうけられた海軍伝習所、医学伝習所、活字判摺立所、活版伝習所、英語学校などの施設の設備と伝習の成果が、江戸・東京の、どこに・いつ・どのように・たれが伝え移動させたのか、そしてこんにちの状況も記録して、今後の研究の手がかりとした。

本書はいたずらな個人崇拝や、明治の偉人として平野富二をとらえることなく、等身大の平野富二像を描きだすことに尽力した。すなわち平野富二の精神と功績は、明治の偉人という範疇にとどまらず、印刷術という平面設計から、重機械製造という立体造形物にいたるまで、現在のわれわれの日常にも脈々と受け継がれている。
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【 YouTube I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~   音が出ます  03:57 】


* 拡大画面ご希望の際は、画面右下  YouTube の文字部 をクリックすると別枠が開きます。

I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~
I H I  Corporation 2018/10/23 に公開

嘉永6年、ペリー来航による欧米列強への対抗に迫られた幕府が、水戸藩に造船所設立を指示し、石川島造船所を創設した。文明開化、富国強兵、近代への助走 …… その先頭を走る人物こそ I H I の礎を築いた平野富二であった。
I H I ヒストリーミュージアム「i-muse」(アイミューズ)にて放映中の映像の YouTube 版です。

[ 詳細:i – muse WEBサイト  https://www.ihi.co.jp/i-muse/ ]
[ 参考: 平野富二の会

【講演会】第27回モリサワ文字文化フォーラム|[個 と 群 と 律]組市松紋の仕組み|6月27日

【講演会】第27回モリサワ文字文化フォーラム
[個 と 群 と 律] 組市松紋の仕組み
講  演  者  野 老   朝 雄
日  時  2019年6月27日[木]15:00-17:00(14:30開場)
場  所  モリサワ本社  4 F 大会議室(大阪市浪速区敷津東2-6-25)
参  加  費  無  料
定  員  150 名
主  催  株式会社モリサワ
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美術家・野老 朝雄氏は、9. 11 アメリカ同時多発テロに大きなショックを受け、世界の断絶を「つなげたい」という願いからピースマークを考えはじめました。そのマークをつなげることが、現在の紋様制作の出発点になっています。
紋や紋様の平面作品はコンピューターを使って作図していますが、紋様をかたちづくる[個]と[群]は組体操のように一つ一つパーツを置いて描く手法のため、コンパスと定規さえあれば再現可能です。
野老氏の代表作のひとつである「東京2020エンブレム」は、菱形パーツを組み合わせることがベースになっています。今回の講演では「組市松紋」の仕組みを紐解きながら、野老氏の制作の核になっている「律」について語ります。

[ 詳細・申し込み先: 株式会社モリサワ 文字文化フォーラム事務局
[ 参考:活版 à la carte 【字様・紋様】「石畳・霰-あられ」を「 市 松 紋 様 」の名にかえた 歌舞伎役者・佐 野 川 市 松

【かきしるす】国指定重要文化財|水海道風土博物館 坂野家住宅|<銅版画> 大生郷 坂野伊左衛門|茨城県常総市デジタルミュージアムⅡ

国指定重要文化財
水海道風土博物館 坂野家住宅
坂野家住宅は「四間取り」を基調に江戸時代後期に母屋を大幅に増築したもので、東側の土間や南面する客間は、入母屋作りの屋根とともに大型農家の特色をよくあらわしています。また、1 ヘクタールに及ぶ広大な屋敷は、従来武家屋敷に設けられた薬医門と土塀に囲まれ、昭和43年に国の重要文化財の指定を受けました。
現在は、周辺の里山風景や便益機能の整備、主屋の保存修理工事を終え、水海道-みつかいどう-風土博物館として、一般公開しています。
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開館時間  9:00-18:00(04月-10月)* 受付は17:00まで
      9:00-17:00(11月-03月)* 受付は16:00まで
定  休  日  月曜日(祭日の場合、翌日)、年末年始
料  金  一般300円、児童・生徒100円、65歳以上無料
利用予約  予約不要
所  在  地  茨城県常総市大生郷-おおのごう-町2037

問い合わせ先  水海道風土博物館 坂野家住宅 TEL. 0297-24-2131
ホームページ  http://www.city.joso.lg.jp/shigai/kanko/1420716457308.html

[ 詳細: 常総市 水海道風土博物館 坂野家住宅

常総市 デジタルミュージアム
水海道風土博物館  坂野家住宅

<水海道風土博物館 坂野家住宅>には、既述した『大日本博覧図』のほかに、木製の木箱に収納された同様の資料「坂野家住宅」が保管されている。
箱の表書きは「銅版摺 宅地家屋之図 坂野」、裏書きには「干時 明治二十三年十月」とある。中には『大日本博覧図』に収録されているものとおなじ銅版絵図「坂野伊左衛門」邸宅の鳥瞰図があり、それと同一印刷原版とみられる銅版原版がある。

「干時」は聞きなれないことばだが、慣用的に「ときに、とき まさに」と読まれ、購入 乃至は 収納のときとみられる。それが「干時 明治二十三年十月」とされているので、『大日本博覧図』の刊行時:明治二十五年十二月より二年ほど早いときのことである。また印刷業者は印刷原版、とりわけ銅版原版は傷つきやすいので、厳重に管理していた。また銅版印刷専用印刷機を持たない顧客に渡しても意味をなさないし、ふつうならまずみられないことである。

この「坂野家住宅」資料が『大日本博覧図』に先行して坂野家に伝わったことの意図はわからない。可能性としては、『大日本博覧図』の掲載先が突出して茨城県・埼玉県・千葉県に集中していることである。
編輯者であり、発行者でもあった精行社・青山豊田郎は、この地域の有力者「坂野伊左衛門」になんらかの支援を受けたか、あるいはこれを見本として、北関東一円の富農・富商・起業者に向けて(有料での)掲載の働きかけをおこなったものとみられる。

この精行社、青山豊太郎は、このころに秀英舎:佐久間貞一、東京築地活版製造所第三代社長:曲田 成ーまがたしげる-らによって結成された、印刷同業組合、東京石版印刷業組合のどちらにも名前が見あたらない。また手許の人名録などでもみあたらなかった。
おおかたの銅版印刷業者は松田禄山(敦朝)玄玄堂の影響力がつよく、活版印刷業界・石版印刷業界とはあまり交流がなかったものとみられる。
ちなみに玄玄堂印刷所の看板には「銅鉛木石諸版製造 並 摺立所松田敦朝」と大書して、いっとき斯業はおおいに栄えた。鉛版 ≒ 活字版は平野富二がひきいた東京築地活版製造所系ではなく、神崎正誼による弘道軒清朝体活字が主であった。
「坂野家住宅」資料の由来、画像と現状との関係などは、すでに守屋 正彦(筑波大学教授)ほかの研究が発表されているので、以下は主に印刷術と銅版に刻された書風を中心にみていきたい。
「坂野家住宅」絵図右上部、枠で囲まれた掲載者名の表示部をみてみたい。
枠内には坂野家家紋とみられる柏紋が十二ヶ所に描かれている。「茨城県」は大きく、若干隷書味をおびた楷書でえがかれ、明治二十年代の住所「岡田郡管原村大字大生郷-おおのごう」が端整な楷書でしるされている。主部をなす「坂野伊左衛門」(埜は野の異体字)はいくぶん扁平で、八分隷書とみられる書風である。この八分隷書とみられる書風に関しては、再度「石川島造船所 平野富二」の項の紹介で触れたい。

ちいさな瑕疵をことあげするのは趣味がわるいが、すこし気になるのは「岡田郡管原村大字大生郷」にみる、タケカンムリの「管原村」である。大生郷-おおのごう-には村社の菅原天満宮(大生郷天満宮)があり、それが村名「菅原村-すがはらむら・すがわらむら」に連なったとみられるからである。
幸いこのアーカイブは筑波大学との連携のもとに展開されている。研究の一助になればとおもい、以下をしるした。

もともと「管 菅」は、字としても、詠みとしても、しばしば混用・誤用されている。元内閣総理大臣は「菅 直人-かん なおと」であり、やっかいなことに現内閣官房長官は「菅 義偉-すが よしひで」である。
わが国には漢字音・和訓音のほかに、「名づけ」とされる(漢)字の慣用的な詠み(便法)があるために、こうした混乱は避けられないが、それにしても最近の「キラキラネーム」とされる宛字(当て字)のなかには、将来禍根をのこさねば良いがとおもわれるものも多い。

[ 参考: ウィキペディア 菅原村 (茨城県)]
菅原村-すがわらむら-は、茨城県の西部、岡田郡・結城郡に属していた村。現在の常総市の中部にあたる。
村名の由来
村社の菅原天満宮(大生郷天満宮)による。
沿   革
1889年(明治22年)04月01日 – 町村制施行により、大生郷村、大生郷新田、伊左衛門新田、笹塚新田、五郎兵衛新田、横曾根新田が合併して岡田郡菅原村が発足。
1896年(明治29年)04月01日 – 岡田郡が結城郡に統合されたため、所属郡が結城郡に変更。

1954年(昭和29年)07月10日 – 水海道町-みつかいどうまち-に編入。水海道町は市制施行して水海道市となる。同日菅原村廃止。「坂野家住宅」絵図、左下外枠と内枠の間に「東京精行舎印行」と楷書で彫刻されている。『大日本博覧図』をみると、この行の位置は一定せず、左下にも右下にもしるされていることがわかる。主部の図版とのバランスで配置されたものとみられる。
また青山豊太郎は、自序には「東京精行社」としているが、「坂野家住宅」、『大日本博覧図』ともに、「印行-いんこう-図書を印刷し発行すること」名では、「精行社ではなく精行舎」としている。

簡便な装飾に囲まれた掲載者の欧文表記も興味ふかい。まだヘボン式などの欧文表記のルールが無い時代、また、おそらくローマ字教育なども不十分だったであろうこの時代に、サンセリフ系のローマ字を懸命に彫刻していることがわかる。
NIPPON ,  IBARAKI – KEN,  SHIMŌSANO – KUNI,  OKADA – GŌRI,   SUGAHARA – MURA,   SAKANO. IZAIMON〔 , で改行。一部バケて表示されているのは O の上に横棒を置く〕。

「IBARAKI – KEN ── 茨城県」は、現代でもしばしば「いばらぎけん」と濁音で表記されるが、ここにみる「いばらき」が正しい。
「SHIMŌSANO – KUNI ── 下総国」は、しもうさのくに、しもふさのくに、しもつふさのくになどとされてきたが、棒引き仮名遣いでの「しもーさのくに」は、口語ではあったとおもわれるが、現代でも慣用的に「下総国 ── しもうさのくに」とされている。
「SAKANO. IZAIMON ── 坂野伊左衛門」もとても興味ふかい標本である。「IZAIMON ── 伊左衛門」であるから「いさえもん・いざえもん」とおもえるが、この周辺では意外と訛りがあって、いまでも高齢者などは「い  え」が判別しにくい発音をする。そんなことから「SAKANO. IZAIMON ── 坂野伊左衛門」とあらわされたとおもえる。

なにを隠そう、亡妻の母方の実家がこの水海道ーみつかいどうーで、ときおり従妹が遊びにくると「英語の先生いい先生」っていってみて …… とからかっていた。従妹は切りかえして「日比谷で潮干狩り」っていってみて …… と笑いあっていた。
従妹は「い・え」が曖昧であった。また亡妻は東京下町、葛飾柴又の育ちで「ひ・し」の発音が苦手で、地下鉄日比谷線などは乗るのも嫌がったほどであった。

「SAKANO. IZAIMON ── 坂野伊左衛門」の最後は「N」である。最後に彫工の緊張がゆるんだのか、ちょっとしたへまをやってしまったようでおもわず苦笑。
一部にこうした「タイポ ≒ タイポグラフィカル・エラー」を事事しくとりあげる向きがある。これがして、冒頭で「ちいさな瑕疵をことあげするのは趣味がわるい」としたゆえんであり、稿者はこうしたエラーを犯しがちな自分を畏れるばかりである。
「坂野家住宅」銅版絵図右下に、画工とみられる名称「土方雲外」と花押風の印影がある。
右下外枠と内枠の間には、彫工とみられる名称「村上楳山刻」が刻まれている。
このふたりは職人乃至は工人とみられ、こういう職種の常ながら、手許資料を繰ってみたがなにも手がかりは得られなかった。
「坂野家住宅」絵図、『大日本博覧図』が刊行されて百二十五年ほど、もし関係者のご子孫がおられたらご一報をたまえると嬉しい。

【かきしるす】図書紹介|木口木版のメディア史 近代日本のヴィジュアルコミュニケーション|人間文化研究機構 国文学研究資料館編|勉誠出版

勉誠出版
木口木版のメディア史
近代日本のヴィジュアルコミュニケーション
人間文化研究機構 国文学研究資料館 編

定価 8,640円 (本体8,000円)
ISBN 978-4-585-27048-5
B5判・上製  328頁
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繊細・稠密な線が描き出す〈世界〉
明治20年代から大正初期にかけて、繊細・稠密な線による独特な表現で一世を風靡した複製技術、木口木版。
報道や出版・広告の発展に伴う〈世界〉のひろがりのなか、写真と見紛うほどのそのリアルな描写は、近代的なヴィジュアルイメージを伝えるものとして驚きをもって受け入れられ、雑誌や新聞附録、教科書、チラシや商品パッケージなど、様々なメディアを席巻した。

木口木版の日本への導入と展開に大きな役割を果たした合田清、そして彼の興した生巧館の営みを伝える諸資料から、これまで詳らかに知られることのなかった近代日本の視覚文化の一画期を描き出す。
新出の清刷をはじめ、400点以上の貴重図版を収載!

[ 詳細: 勉誠出版

【かきしるす】大日本博覧図|東京石川島造船所 平野富二|茨城県常総市デジタルミュージアムⅠ

常総市デジタルミュージアム
「東京 石川島造船所 平野富二」
大日本博覧図 明治25年12月 東京精行社刊
〔茨城県〕常総市-じょうそうし-デジタルミュージアム は、同市が合併以前から保管していた歴史資料の一部をデジタル化し、WebSite にて広く公開しているもので、「様々な学習・研究の機会に是非御活用ください」と表示されている。

「大日本博覧図」は、名勝旧跡・寺社、豪農豪商の邸宅・庭園、会社・工場、学校の校舎など様々なものを掲載した銅版画集。掲載希望者を募って印刷されたものである。北関東を中心として、東京市29、埼玉県45、茨城県63、千葉県23、群馬県29、栃木県22の、都合221箇所の銅版画が所収されている。

現常総市内では、水海道町 鹿島屋利兵衛・山中彦兵衛・五木田総右衛門、菅原村大字大生郷 坂埜伊佐衛門といった豪農・豪商の屋敷や店舗が鳥瞰図として掲載されている。

常総市/デジタルミュージアム掲載資料によると、『大日本博覧図』は、識別番号: 0030-0000-0000-0000-0000-0000-0010、所蔵機関:坂野家、編輯者:青山豊田郎〔青山豊太郎〕、出版者・製作者等:精行社(東京市浅草区茅町)、撮影、作画年:明治25年(1892)12月、数量:211 pp、形状:冊子(バラ)、大きさ:縦 32 cm、横 21 cm、欠損・保存状況: 表紙、裏表紙 奥付欠落 とされている。

* 紹介ページのなかには『日本博覧図』『大日本博覧図』が混用されているが、本稿では『大日本博覧図』とした。
* 『大日本博覧図』には異体字やいわゆる旧漢字がみられるが、固有名詞の一部をのぞき、常用漢字で表記した。
* 『大日本博覧図』国立国会図書館資料
著者:青山豊太郎編輯 出版者:精行社 出版年月日:1892年12月 請求記号:YQ11 – H199 館内閲覧書
レファレンス協同データベース

いわゆる「魁-さきがけ-もの」のひとつで、篤志者や富農から資金をつのり、「紳士録」のような目的で製造された図書とみられている。類書に『日本博覧図』が紹介されている。
  『日本博覧図』第拾弐編 
  編輯者:東京府平民青山豊太郎(東京市浅草区茅町二丁目三番地)
  発行兼印刷者:東京府平民秋谷楳之助(東京市神田区富松町二番地)

  発行所:精行社(東京市浅草区茅町二丁目三番地)
  発行所:精行社京都出張所(京都市下京区寺町通高辻上ル)
  明治30年4月 3円50銭

【巻首部 1】序文 1 明治廿五年第十二月 従四位 金井之集
【巻首部 2 】大日本博覧図締約者一覧表
【巻首部 3 】自序 明治廿五年十二月 下浣〔下旬〕 編者 青山豊太郎
【巻末部】謹告 大日本博覧図 発行所 精 行 社

謹  告 〔活版印刷のページ。平易な文章として紹介した〕
一 銅版・石版・木版彫刻及び印刷
一 活版印刷並びに製本装訂

〔営業〕課目
株券 手形 切符 印紙
商標 名刺 広告等ノ類

弊社儀 起業以来幸いにして江湖の諸兄のご愛顧をたまわり、陸続ご注文を受け、漸次繁栄に趣きそうろう段、有り難く感謝奉りそうろう。
一層勉励いたし、卓抜巧妙の職工を増備し、要するに美麗鮮明を主とし、価も低廉を旨とし、且つ敏速を専一に、毫もご使用の時期を欠かさず、勉めて需要諸君のご便利を計ります。
府下及び諸県のお得意には、引き続き間断無く相伺いそうろう間、多少に拘わらず御用の向きはお申しつけ下されたく伏して願い奉りそうろう。
日本博覧図発行所 精行社       敬 白

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[古谷昌二氏コメント]
この絵図は、小生にとって初見のものです。この絵図は、横浜 石川口製鉄所 の諸設備が、東京 石川島造船所に移設されたのちのもので、明治17年から同25年の間に描かれたものと推測されます。
造船所内の諸設備が良く描かれていて貴重なものです。  [この項つづく]

[ 詳細: 常総市-じょうそうし-デジタルミュージアム ]

常総市と国指定重要文化財【坂野家住宅】について

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【展覧会】国立公文書館|令和元年度 第1回企画展「紙に願いを-建白・請願の歴史 -」|5月25日-7月7日

国立公文書館
令和元年度 第1回企画展「紙に願いを -建白・請願の歴史 -」
会  期  令和元年5月25日[土]-7月7日[日]
開館時間  月-日曜日    午前9時15分-午後5時00分
      * 期間中無休 入館は閉館30分前まで
会  場  国立公文書館 本館
入  場  料  無   料
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国立公文書館では、板垣退助・江藤新平らが提出したことで知られる民撰議院設立建白書をはじめとした建白書や、大日本帝国憲法で国民の権利として規定された請願権に基づいて国民から政府に提出された請願書を所蔵しています。
本展では、建白・請願に関する制度の変遷とともに、時代を映し出す建白書や請願書から、当時の人びとが紙にこめた願いをご紹介します。

【主な展示資料】

民撰議院設立建白書
明治7年(1874)1月17日、板垣退助-いたがきたいすけ・後藤象二郎-ごとうしょうじろう・副島種臣-そえじまたねおみ・江藤新平-えとうしんぺい-らが左院に提出した建白書。翌日の新聞「日新真事誌-にっしんしんじし」に建白書の内容が公表されると大きな反響を呼び、政府に対して多くの建白がなされるきっかけとなりました。

足尾銅山鉱毒に関する請願書
栃木県の足尾銅山から排出された有害物質によって引き起こされた農作物などの被害について、明治35年(1902)に群馬県渡瀬-わたらせ-村などの住民から出された請願書。明治34年12月、田中正造-たなかしょうぞう-が明治天皇に直訴した事件が起こったことにより、鉱毒事件に対する世間の関心が高まる中で書かれました。
同資料では、銅山における鉱業の停止、政府の手による被害地の復旧など、事件の根本的解決を求めています。

請 願 令
大日本帝国憲法に定められた請願権(第30条)により、天皇や帝国議会への請願が可能となりました。当初、天皇や行政機関への請願手続きは法令などで明示されていませんでしたが、大正6年(1917)に制定された請願令により、天皇や行政機関に対する請願の具体的な手続きが定められました。

[ 詳細: 国立公文書館 ]

【朗文堂ブックコスミイク】好評既刊書|『評伝 活字とエリックギル』(河野三男 訳・著)|在庫僅少

産業としての印刷と、文化としての文字活字、すなわち文明と文化の狭間で
もがきくるしんだエリック・ギルの
『AN ESSAY ON TYPOGRAPHY』の全訳を中心に

近代思想と産業主義に、つよい疑念を表明した
エリック・ギルとその活字にせまります。

原著:ERIC GILL   An Essay On Typography(撮影:青葉水竜)
An Essay On Typography は自主製作活字 Joanna の完成をまって、ハンドセットで1931年初版、1936年第二版が刊行された。第二版からはファンドリー・タイプで 12 points, 左右 19 picas, 3 points leading(行間)の活字組版であった。1941年第三版、1954年第四版と刊行され、1988年には第五版が Linotron 202 13 機によって 13 points で組版された。
本書『評伝 活字とエリック・ギル』は第二版と第五版を比較検討しながら翻訳され、第四章「エリック・ギル設計の活字」pp 279-356 には「パペチュア書体/ギル・サン書体/ジョアンナ書体」が詳細に紹介されている。 

主な内容 ── 目次より

  まえがき
Ⅰ エリック・ギルを読むために
Ⅱ エッセイ・オン・タイポラフィ (全訳)
Ⅲ エッセイ・オン・タイポラフィ (解説にかえて)
Ⅳ エリック・ギル設計の活字

『評伝 活字とエリック・ギル』
河野三男 訳・著

四六上製本 360ページ 図版多数
発 行:1999年12月14日

定 価:本体2900円+税
ISBN4-947613-49-1

お近くの大型書店でお求めください。
小社直送のばあいは、送料のご負担をいただきます。
※ 残部僅少となっております。また保存データーが製版フィルム方式(C T F)のため
増刷は事実上不可能となりますのであらかじめご了承たまわりたく存じます。
{関連:朗文堂ブックコスミイク 『詳伝 活字とエリック・ギル』

朗 文 堂

TEL. 03-3352-5070 FAX. 03-3352-5160
E-Mai l: typecosmique@robundo.com

【編著者:まえがきより 部分】
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【ことのは】THIS IS A PRINTING OFFICE|ここは印刷所なり|Beatrice Warde (Paul Beaujon)|

THIS IS A PRINTING OFFICE

Beatrice Warde (Paul Beaujon)

ここは印刷所なり

文明の十字街頭にして

芸術のこもれるところ

時の浸食にめげず

真実の剣が安置されるところ

風聞や浮説にくみせず

機械はうねりをあげる

ここよりひろくことばは飛翔して

電波のように浪費されることもなく

物書きの気ままに左右されることもなく

刷りをかさねて明瞭となり

時空を超えてとどまる

友よ! 君は聖地に足をふみいれた

ここは印刷所なり

Beatrice L. Warde

  • THIS IS A PRINTING OFFICE ── この銘板はワシントン D C のアメリカ合衆国政府印刷所のエントランスに設置されている。
  • Beatrice Warde (ビアトリス・ウォード アメリカうまれの女性 1900-69 Paul Beaujon-ポール・ビュージョン は、当時女性の進出が少なかった印刷界に向けてもちいた男性名前のペンネーム ウィキペディア )。
  • タイポグラファ、印刷史研究家、編集者・評論家。タイポグラフィ・ジャーナル『The Fleuron』,『The Monotype Recorder』誌などで活躍。16編からなるエッセイ集のうち『The Crystal Goblet ── 印刷は不可視である』でも知られる。
  • 16世紀の活字父型彫刻士 Claude Garamont 製作とされてきた活字の多くが、90年ほどのちのジャン・ジャノン-Jean Jannon 作であり、当時では標準的な図書本文用活字であった …… とした論考はおおきな話題を呼び、英国 Lanston Monotype Corporation では『The Monotype Recorder』の非常勤の編集ポストを提供したところ、若い女性の登場で驚愕したという逸話がのこる。彼女の「設定」では、ポール・ビュージョンはながい灰色の髭をはやし、四人の孫をもつ高齢の男性としていたが、実際はまだ20代の女性だった。

{参考:「Garamond Types  大陸を横断したフランス活字 ── ギャラモン活字の行方」『欧文書体百花事典』白井敬尚、朗文堂}
{ 参考: Thoughts On Typography    タイポグラフィ格言集

【古谷昌二 新ブログ】 東京築地活版製造所 歴代社長略歴|第五代専務取締役社長 野村 宗十郎


東京築地活版製造所 第五代社長 野村宗十郎

(1)第五代社長として専務取締役社長に選任
(2)東京築地活版製造所に入社までの略歴
(3)東京築地活版製造所への入社とその後の昇進
(4)支配人時代の事績
    1)活字のポイントシステム調査と導入・普及
    2)コロタイプによる写真印刷の実用化
    3)組織改革と営業活動、博覧会出品
      <組織改革> <営業活動> <博覧会出品>
    4)業界活動と社会貢献
      <外部団体の役員就任> <印刷物見本交換会の開催>
(5)専務取締役社長としての事績
      <事業の拡張・縮小> <ポイントシステムの普及> <社外活動><博覧会出品> 
      <エピソード>
    1)内田百閒と築地13号室
    2)新社屋の裏鬼門
      <持病の悪化と死去>
(6)没後の記録
まとめ
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ま と め

野村宗十郎は、長崎に居住する薩摩藩御用商人の服部家に生まれた。親戚の野村家当主が戦死したため、その名跡を継いで長崎製鉄所の第3等機関方となった。しかし、それは短期間で、技術者としての素養を身に着けたとは考えられない。
実父は、維新により家職を失い、明治3年(1870)に本木昌造が開いた長崎の新町活版所に勤務した関係から、野村宗十郎も活版印刷に多少の関わりを持ったと言われている。

その後、病弱の身を押して勉学にはげみ、大学予備門を中退して簿記を学び、大蔵省に入省した。しかし、専ら外回りの勤務に見切りをつけて退省した。その時、すでに数え年33となっていた。
退省した野村宗十郎は、陽其二の推薦を得て、明治22年(1889)7月、東京築地活版製造所に将来の幹部候補として招聘された。野村宗十郎が最初に配属された先は倉庫係だったが、3年後の明治25年(1892)8月には早くも社長曲田成の下で副支配人となり、その翌年8月に支配人となった。

さらに、明治29年(1896)4月に社長名村泰蔵の下で取締役支配人となった。明治40年(1907)9月には、名村泰蔵死去の跡を継いで専務取締役社長に選任され、大正14年(1925)4月23日に数え年69で病没するまで社長職を務めた。
支配人として15年間、取締役として11年間、専務取締役社長として18年間、それぞれ重複する期間はあるが、東京築地活版製造所の経営に関わったことになる。

野村宗十郎は、入社して間もなく、活版製造事業について学ぶ中で、活字サイズの決め方に疑問を持ち、外国文献にポイント・システムがあることを知った。結果的に、野村宗十郎に一人合点と思い違いがあったと見られるが、このポイントシステムが本木昌造の決めた活字体系に合致することを知り、改めて本木昌造にたいする尊敬の念を強めるとともに、わが国の統一システムとして普及させることを決意したと見られる。

曲田社長の理解と名村社長の積極的後援を得て、野村宗十郎は死去する直前までポイントシステムに焦点を当てて、その普及に努めた。その結果、新聞社がその利便性に着目して採用するものもあったが、読者の受け入れ易さを主に、紙面の構成やバランスなどを試行錯誤する状態が続いた。やがて、全国の新聞界はすべてポイント活字に風靡されるようになり、一般の印刷工場においてもポイント活字を整備することになった。
このようなことから、大正5年(1916)2月15日、野村宗十郎は、ポイント式活字の創造と普及によりわが国の文運隆興を補助したとして、藍綬褒章を下賜された。

会社の経営面から見ても、ポイントシステムへの切替需要により、順調に増収増益を重ね、大正11年(1922)後期の決算では、資本金が30万円であったが、売上高57.7万円余、純利益10.5万円を記録している。
しかし、牧治三郎によると、東京築地活版製造所の全盛期は大正12年(1923)を以って終わった。活字鋳造が次第に自動鋳造機械の普及に従って、大口需要家の新聞社をはじめ、一般印刷業者も自家鋳造へと移行する形勢を示した。
それにも関わらず、関東大震災でほとんど全ての製造設備を失った東京築地活版製造所が採った対応は、旧態依然とした手廻鋳造機を中心とする活字製造事業に注力し、手工業的体質からの脱却、活字需要者の変化に対する対応が見られない。

大正時代になると、一般製造業の発展により女工不足が深刻となった。また、職工組合による賃上げ要求ストライキが発生するようになっていた。
野村宗十郎は、創業者である本木昌造を敬うあまり、実質的に活版製造を事業として完成させ、海外需要にも目を向けた平野富二、時代の局面で同業組合による協調で切り抜けた曲田成、日清・日露の戦争による好況、不況を積極経営で乗り切った名村泰蔵の3人の社長が敷いた布石を発展させることなく、ポイントシステムの成功に酔いしれていたとしか考えられない。

曲田社長が糸口を付けたコロタイプ版や網目版による写真印刷は、新しい印刷事業の方向性を示すものであったが、その後の展開が見られない。また、印刷物蒐集交換会も、社長に就任してから1回開催しただけで、中止してしまった。
明治18年(1885)には、石版技手人名鏡に東京築地活版製造所が国文社と共に勧進元となっているように、活版印刷と石版印刷〔オフセット平版印刷につらなった〕の双方の印刷分野でトップクラスの技術と実績を持っていた。

さらに、名村社長が復活を手掛けた印刷機械製造事業についても、その製造機種は依然として平野富二が製品化した機種ばかりで、急速に普及しつつある輪転印刷機やオフセット印刷機などの国産化には全く関心がなかったようである。
さらに問題なのは、次期社長とするべき後継者を育成することなく死去したことである。

そのため、遠隔地である長崎に居住し、多くの会社の役員を兼任する松田精一が引き継がざるを得なくなった。
それでも、有力な支配人が実質的な経営に取り組んでいれば別であるが、昭和3年(1928)6月の株主総会で取締役に指名された支配人大沢長橘は知名度が低く、それまで、どのように経営に関わっていたかは知られていない。

野村宗十郎は、活版の大業に一大功績を残し、東京築地活版製造所の興隆に尽くしたとされている。しかし、結果的にバランスを欠いた経営が、その後の苦境を乗り切れず、その死去から13年目に会社解散に追い込まれる要因になったと見られる。

【朗文堂ブックコスミイク】『平野号 平野富二生誕の地碑建立の記録』|発行:平野富二の会|発売:朗文堂

『平野号』プリント用 PDF

平野号 平野富二生誕の地碑建立の記録

B 5 判、408 ページ 図版多数
ソフトカバー
定価:本体 3,500 円+税
ISBN978-4-947613-95-0  C1020

発行日 2019年5月30日 初刷
編 集 「平野富二生誕の地」碑建立有志の会
発 行 平野富二の会
発 売 株式会社朗文堂
    www.robundo.com
    typecosmique@robundo.com

<おもな内容 ── 目次より>
記念式典
平野富二 略伝/平野富二 略伝 英文
平野富二 年譜
明治産業近代化のパイオニア
「平野富二生誕の地」碑建立趣意書
 平野富二生誕の地 確定根拠
長崎 ミニ・活版さるく
平野富二ゆかりの地 長崎と東京
 長崎編
出島、旧長崎県庁周辺、西浜町、興善町、桜町周辺、新地、銅座町、思案橋、油屋町周辺、寺町(男風頭山)近辺、諏訪神社・長崎公園、長崎歴史文化博物館周辺、長崎造船所近辺
 東京編
  平野富二の足跡
  各種教育機関
  官営の活字版印刷技術の伝承と近代化
洋学系/医学系(講義録の印刷)/工部省・
太政官・大蔵省系(布告類・紙幣の印刷)
  平野富二による活字・活版機器製造と印刷事業
  その他、民間の活版関連事業
  勃興期のメディア
 「谷中霊園」近辺、平野富二の墓所および関連の地
「平野富二生誕の地」建碑関連事項詳細
「平野富二生誕の地」碑建立
募金者ならびに支援者・協力者 ご芳名
あとがき

跋にかえて ── ちいさな活字、おおきな船 
『平野号』出発進行、ようそろ!

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【もんじ】吉祥もんじ 合体字|招財進寳ーしょうざいしんぽう|

《馴染みのお店がどんどん消える昨今》
衣食住にはこだわりが無い …… と公言してきた。それはいまも変わらないが、さいきん馴染みの飲食店の廃業が続いてなさけない思いをしている。
酒は呑まないので和食の店はおおきく制限される。中国料理も大型店だとひと皿五人分ほどの料理が提供されるので、退勤途中に少人数で、ちょっと何品かで食事というのには料が多すぎるし、定食では飽きて物足りないこともある。

お気に入りだった中国料理店は「臺灣 ≒ 台湾小皿料理店」で、ママさんは中国瀋陽(中国東北部・旧奉天)出身であるが、コックさんとスタッフは台湾の出身。したがって少量で安いので、フラリと寄っても四-五皿の料理を楽しめるし、南部のお米料理・北部の万頭料理も過不足無くたのしめた。店がすいていれば 莨 も遠慮しながらではあるが吸うことができた。馴染みの店とはそんなものである。

この店が人手にわたったらしい。看板はそのままだったが、すっかり料理もふんいきも変わり、即座に逃げだしたものの代わりの店が無かった。
ようやく「新宿御苑共和会通り」に気に入りの店をみつけた。ホールは小姐-シャオジェとオバサンの中間ほどの姉妹で、キッチンはふたり。旨くて安いから30-40名ほどの団体も相当はいるが、このふたりは平然と消化しているからかなりのものである。

団体席との仕切りに「吉祥もんじ ── 合体字」があった。手許の辞書に熟語「合体字」はなかったが、「合体-ふたつ以上のものがあわさって、ひとつになること」で十分だろう。
月例会でこの写真が話題になり、中国大連近郊出身の張さんが、中国陝西省(日本でも)で流行っている「ビャンビャンメン」も例にあげて「合体字」の解説にあたってくれた。

【 YouTube 李玉萍 (萍萍老師) 書法/春聯教學 金字「招財進寳」楷書 1 : 49 】


《招財進寳の字画構成と意味》
「招財進寳ーzhaocai-jinbaoーしょうざいしんぽう」は金運を招き寄せる吉祥紋ーもんじである。
まず「たから-の異体字のひとつ、寳」を選び、ウカンムリから上部を書き進める。下部の「貝」は何役も兼ねるのでいくぶん細身に書く。ついで右側に「才」を置くと「財」になる。「才」をテヘンにみなして右に「召」を書くと「招」が完成し、左側に「隹ーふるとり」を書き、「辶-シンニュウ」を勢いよく蚕頭燕尾にまとめると、アラふしぎ ── 招財進寶のできあがりである。
紹介動画は台湾の書芸家。YouTube の文字部をクリックすると別ウインドウがひらき、拡大画面でみることができる。

ほとんどの中国人はお金へのこだわりを隠そうとしない。それでも安くて旨い中国料理をたのしんで、お店もお客も大判小判がザックザクとなればいうことなしである。
上掲写真は張さんが陝西省西安で撮影した「ビャンビャンメン」。この合体字も麺もあまりうまくなかったとは張さんの言。なぜかこの「もんじ」は日本の一部ではやっていると聞いた。稿者はこの麺を西安・北京と葛飾区亀有でも食べたことがあるが、やはり流行り物で格別の意見はない。
中国と台湾には、ほかにも吉祥もんじとして「集字」「畳字」があるが、わが国では別の意味でもちられているので、すこし整理していずれ紹介したい。

[協力:青葉水竜さん、張 文一さん]
{関連:花筏 台湾の縁起物 柿+橘+豚=開運臻寳シンポウ 諸事大吉 文と寓意

【ことのは】台湾の縁起物|柿+橘+豚=開運臻寳シンポウ|諸事大吉|文と寓意

台湾みやげ《開運臻寶 諸事大吉》
柿+ミカン+豚の組み合わせは、
なぜ 縁起がよいのか?

◎本稿は2012年10月18日 サラマ・プレス倶楽部ニュースに
    掲載されたものの再録である。いささか旧聞に属するが
  招財進寳ーショウザイシンポウにおもわぬ反応があったので
ここに一部を修整して再掲載した。

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台湾旅行にでかけて、おみやげに「諸事大吉」とあった縁起物を買ったものの、もうひとつその縁起がわからないから、わかりやすく説明せよ …… との要望が参加者からあった。

そもそも中国・台湾では、まま  文+字 をもちいて、あるいは、ほかのものごとにかこつけて、それとなくある意味をほのめかせる「寓意」を駆使するから困るのだ。
そしてそれをくわしく説明すると「シッタカ」と揶揄される。ナラバと、おもいきり平易に説明すると「ウザイ」とされるから嫌になるのだが…… 。

これは一見ハロウィンのカボチャのようにもみえるが、柿 + ミカン(だいだい、橘)+ 豚(猪)を組み合わせたもので、正確には「開運臻寶シンポウ ── 諸事大吉」と呼ばれ、幸運をもたらす縁起物とされる。
すなわち「運勢がひらけ、宝物がどんどんやってくる。すべてのものごとが、このうえもなく良くなる」という、きわめておめでたいものである。 

「諸事大吉」の販促カタログをみると、ふんだんに商品解説が加えられている。その解説がおもしろい。原文の字面をながめるだけでも(むしろ原文のままのほうが)この縁起物の、寓意と諧謔 ユーモア がつたわりそうなのでここに紹介しよう。

  • 創新的思維加上古老的吉祥語意再融合藝術大師的手藝便造就了令人驚奇不已的逗趣可愛吉祥外型。
  • 橘子象徵吉祥,笑開懷的圓滾滾【諸事大吉】更象徵著凡事皆歡喜,諸事皆圓滿,大吉又大利,諸事皆順利。
  • 逗趣可愛外型,象徵極好之諸事大吉。
  • 笑顏常開諸事皆歡喜,諸事皆圓滿。

これだけでは不満そうなので、チョイと面倒でいつも嫌われるだが、もうすこしくわしく、写真の子豚ちゃんが寓意するところを解いてみた。
[参考資料:『中国吉祥圖案』(台湾 北市、衆文図書公司、1991年02月]

 【 柿 】
漢字音(中国読み)では、柿(Shih4)と、事(Shih4)は同音同声である。
したがって、ふたつ並んだ柿は「柿 柿」となって、多くのものごと「事 事 ≒ 諸事・百事・万事」をあらわす。
また唐の段成式は『酉陽雑俎』のなかで、柿には以下のような ななつの徳があるとのべている。
   1.壽がある
   2.多陰 → 夏に葉が茂り日陰を提供する
   3.鳥が巣をかけない
   4.蟲が寄りつかない 
   5.秋の霜に負けない(翫) 
   6.嘉実 ≒ 縁起のよい果物
   7.落葉肥大 → 落ち葉が大量で、よい肥料となる
このように柿とはもともと、雅ミヤビであり、俗でもあるが、まことに賞賛すべき果物である。

また、「獅」(Shih1)と、「柿・事」(Shih4)とは同音異声である。
すなわち「柿 柿」は、ここに「百獣の王たる 獅 子」をも寓意する。
これすなわち「諸事如意 ≒ すべてが意のごとくになる」のである。

 【ミカン → 橘】
中国・台湾では、ミカン、だいだいのことを、ふつう 橘 とあらわす。
ところで、おおきな橘 = 大橘(Ta4 Chu2)と、大吉(Ta4 Chi2)は音が相似ている。
すなわち、おおきなミカン=大橘は、幸福をもたらす大吉に相通じ、きわめて吉祥をあらわす。

 【豚 ≒ 猪】
中国・台湾では、ふつう豚は猪とあらわされる。その猪がなぜ珍重されるのかは、中国的形而上学がふんだんに織り込まれていて興味ふかい。
すなわち中国高級官僚登用試験「科挙」の成績上位者 3 名を「解元・会元・状元」の 大三元 と呼び、唐代には玄奘三蔵(ゲンジョウ-サンゾウ 三蔵法師 600?, 602?-664)ゆかりの西安・大慈恩寺の雁塔ガントウにその名を刻し、ひろく天下に公表された。それを「雁塔題名、金榜題名」と呼び、きわめて名誉なこととされた。

ところで豚の「蹄 ヒヅメ」と、「雁塔題名、金榜題名」の「題」とは、中国音ではともに「Ti2」とされ、同音同声である。
こうして猪=豚は、秀才・天才をあらわすこととなり、名誉なこととされる。
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このようにして「開運臻寶シンポウ ── 諸事大吉」、すなわち「柿 + ミカン + 豚の組み合わせ」は、「可愛吉祥型であり、諸事に大吉をもたらし、諸事皆円満」となるのである。

さて …… 、これでご納得いただけたであろうか。
あれっ、どこからか、こんな蘊蓄ウンチクを聞かされるより、この愛らしい置物をみてるだけで幸せになれる、という声がきこえたような?

《もうひとつ、おまけ ── ホテルのキーホルダーの寓意》
今回の台湾旅行でのホテルは、皆さんとプチ贅沢して「圓山エンザン大飯店 Grand Hotel Taipei」に宿泊した。見た目は巨大な中国式の宮殿のようだが、街中の近代的なホテルとくらべても、ほとんど料金は変わらない。
かつて「圓山大飯店」は行政府の迎賓館としてつかわれ、台北第一の格式を誇ったホテルだった。それだけに近代ホテルでは味わえない、漢民族の歴史と伝統の重みを感じさせる重厚さがある。
それでも「圓山大飯店」は郊外の山の中腹にあって、交通はすこしく不便である。したがってこのホテルが選ばれたのは、いまの台湾は喫煙にとてもうるさく、かろうじてベランダでの喫煙が許される(黙認)のが、ここが選ばれた最大の理由だった。

ホテルのルームキーは、古風で、重量もかなりあるシロモノだった。これでは外出時にもちあるくのは辛いので、フロントにキー・ドロップすることになり、紛失も少なくなる効果もありそうだ。
このルームキーの形態は、中国春秋戦国時代(前 770-前 221)のころの貨幣「布貨 フカ」を模したものである。「布貨」は農機具のスキやクワに似せ、次次と勃興した春秋戦国時代の各国で、それぞれ意匠をこらしてつくられた。

古来農業国であった中国では、農具はたいせつな財産であり、その農具を模した青銅の貨幣を「布貨」と呼んでいた。その由来は、やはり貴重な商品であった「布帛 フハク ── 織物・絹」とどこでも交換されたので、その名がうまれたとされる。

こうした縁起をもった「布貨」を模したカギの表面には、このホテルの名称「圓山」を巧妙にデザインした意匠がみられる。
また「布貨」の裏面には、篆書風の字による「財」が配され、富貴をねがう国民性をすなおにあらわしている。
これがして台湾を<文+字 の国>とするゆえんである。

{ 新 塾 餘 談 }

2019年03月12日、台湾台北市「日星鋳字行」の張 介冠父子が来社。通訳は劉 慶さん。
台湾でも活字母型にさまざまな問題が発生しており、その解決策のご相談。はなしは複雑多岐にわたり、長時間におよんだ。張 介冠さんは根っからの技術者で、活字鋳造に熱中するだけで十分幸せだというひとであるが、母親から経営・経理を引き継ぎつつあるご子息は真剣だった。

その話し合いのなかで、最近日本からの見学者が多くあって、それは嬉しいことではあるが、
「ちょっと見学だけさせてください …….」という困った訪問客のはなしがでた。わが国ではふつうにみられる光景だが、どこの国でもこうした「Just looking」の訪問者は歓迎されないもの。
「日星鋳字行」は活字鋳造工場であり、活字販売所でもあるが、決して無料の博物館施設ではない。こころして訪問していただきたいところではある。

{初出:花筏 台湾の縁起物 柿+橘+豚=開運臻寳シンポウ 諸事大吉 文と寓意
[関連:Notes on Typography 【もんじ】吉祥もんじ 合体字|招財進寳ーしょうざいしんぽう

【ことのは】東京築地活版製造所 新社屋紹介「郵便はかき」|コロタイプ印刷術|関東大震災直後の貴重資料


《牧治三郎 なにかの えにし であろうか、はたまたなんらかの 因果 であろうか》
2016年「メディアルネサンス-平野富二生誕170年祭」を機に、長崎での平野富二の生誕地が判明し、さっそく「平野富二生誕の地-碑建立有志の会」が結成され、多くの会員の協力をいただき、2018年11月「平野富二生誕の地碑」が建立され、除幕式と祝賀会をへて、長崎市に寄贈された。


平野富二が1872年(明治05)上京後、およそ20年にわたって展開した多様な事業のうち、最初の事業であった、活字製造・印刷機器製造の拠点、長崎新塾出張活版製造所 → 東京築地活版製造所は、明治後期ともなると「東洋一」を自他ともに許す企業に成長していた。ところがどういうわけか東京築地活版製造所には自社の記録が少なく、近年つぎつぎと新資料が発掘されているとはいえ、研究者の悩みの種になっていた。

そのひとつが、竣工直後でちょうど段階的に移転作業が進んでいたさなか、1923年(大正12)09月01日午前11時58分に襲来した関東大震災によって紅蓮の炎につつまれたとされる、新本社工場ビル(地下一階、地上四階)のアールヌーヴォー風の趣のあるビルの記録である。
施工業者は 清水組 ≒ 清水建設 であったことは判明している。しかしながら関東大震災の影響があまりに激甚で、おそらく竣工落成披露などの「慶祝行事」はできなかったのではないかとみられている。そのため比較的近年の建物の割りに、肝心の画像資料がほとんどなく、拡大すると網点が現出する不鮮明な写真にたよるばかりであった。

ところで …… 、牧治三郎は「鮮明な写真資料を所有しているはずだが、現在所在がわからない …… 」と、活字業界誌『活字界』、パンフレット『活字発祥の碑』などにしばしばしるしているが、どうやらその資料らしき「郵便はかき」が、回り回って稿者の手許に転がりこんできた。
そのゆえんを報告したい。

旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し
牧 治三郎『活字界 21号』(全日本活字工業会  昭和46年5月20日)

《活字発祥の〔舞台、〕歴史〔の幕を〕閉じる》
旧東京築地活版製造所の建物が、新ビル〔現コンワビル〕に改築のため、去る〔昭和46年〕3月から、所有者の懇話会館によって取壊されることになった。
この建物は、東京築地活版製造所が、資本金27万5千円の大正時代に、積立金40万円(現在の金で4億円)を投じて建築したもので、建てられてから僅かに50年で、騒ぎたてるほどの建物ではない。 ただし活字発祥一世紀のかけがえのない歴史の幕がここに閉じられて、全くその姿を消すことである。

《大正12年に竣成》
[東京築地活版製造所の最後の]この社屋は、大正11年〔1922〕野村宗十郎〔専務〕社長の構想で、地下1階、地上4階、天井の高いどっしりとした建物だった。特に各階とも一坪当り3噸 トン の重量に耐えるよう設計が施されていた。

同12年7月竣成後〔順次移転作業が進みつつあるなか〕、9月1日の関東大震災では、地震にはビクともしなかったが、火災では、本社ばかりか、平野活版所〔長崎新塾出張活版製造所〕当時の古建材で建てた月島分工場も灰燼に帰した。罹災による被害の残した大きな爪跡は永く尾を引き、遂に築地活版製造所解散の原因ともなったのである。

幸い、〔東京築地活版製造所〕大阪出張所の字母〔活字母型〕が健在だったので、1週間後には活字販売を開始〔した〕。 いまの東京活字〔協同〕組合の前身、東京活字製造組合の罹災〔した〕組合員も、種字〔活字複製原型。 ここでは電鋳法による活字母型か、種字代用の活字そのものか?〕の供給を受けて復興が出来たのは、野村社長の厚意によるものである。

《 ネットショップに東京築地活版製造所のビル写真が…… 》
「平野富二生誕の地」碑建立有志の会の会員からこんな連絡があった。
「ネットショップに東京築地活版製造所のビルの写真が …… 安いですよ」
WebSite に紹介されていた図像は、たしかに 周囲に建物がみられずビル全体をみることができるもので、東京築地活版製造所の震災後まもなく撮影され製作されたとおもえる写真だった。
支払いは前金で、入金確認後に郵送するとあった。即座に注文したが、振込手数料・送料の合計のほうが高くつきそうな価格だった。
千葉県の古書店からの送付であったが、厚ボールに挟みこんでとても丁寧に送っていただいた。

上掲写真がそれであるが、写真ではなく、宛名面に「郵便はかき」とあり、つい先日、本欄{【もんじ】活字書体:ファンテール|誕生から消長|ヴィクトリア朝影響下の英米にうまれ、明治-昭和を生きぬき令和で甦ったもんじの歴史 2019年05月05日}で紹介した、販促用パンフレット『新年用見本』(二つ折り中綴じ、東京築地活版製造所、大正15年10月、牧治三郎旧蔵)と極めて関連性のつよい資料だった。
唸ったのは、ここにもベッタリと「禁  出門  治三郎文庫」の蔵書印があったことである。幸い宛名面だけの押印であったが、牧治三郎は蔵書のどこにでも、所構わず、この特異な蔵書印を赤いスタンプインキでベタベタと押していた。

これらの牧治三郎旧蔵資料は神田 S 堂が一括して引き取ったと聞いていた。S 堂は神保町に店舗をかまえる本格的な古書店で、年に数度「古書目録」を発行しているが、そこに一葉だけの「はがき」をみた記憶はない。したがって古書店仲間の市にでも出して、それを「はがき」の扱いを得意としている業者が入手してネットショップで販売したものらしい。あるいはすでに三次循環として稿者が落手した可能性もある。

宛名面には、下部に再紹介したが『新年用見本』(東京築地活版製造所、大正15年10月)中面右ページ下部にある「電気版」で、「 Np. 7  貳拾銭」として紹介されているもので、右起こし横組み「郵便はかき」である。ここには濁点は無い。
切手貼りつけ欄は、罫線で組みたてたのではなく、名刺・はがき・封筒などの印刷をもっぱらとする「端物印刷所」では、かつては必須のもので、これも電気版をもちいたものであろう。
────────────────
絵柄面は「コロタイプ印刷」で、1923年(大正12)に竣工した東京築地活版製造所本社工場の全景写真である。
なにしろ死者・行方不明10万5000人余、住宅全半壊21万余、焼失21万余とされる大災害のあとだけに、東京築地活版製造所ではいちはやく復興をみたとされるが、やはり世情をおもんぱかって、このような簡素な「写真はかき」として記録をのこしたものとおもわれた。
したがって資料の山に埋もれていた牧治三郎老人にとっては、このたった一葉の「郵便はかき」を見つけだすことはほぼ不可能であったと想像された。
それでも正門には「株式会社東京築地活版製造所」の社名が掲示され、「◯も H 」の社旗がはためくこの貴重な資料は、廃棄や破却をまぬがれ、二次循環・三次循環にまわっているのがうれしく、興味ふかいところであった。

この「コロタイプ印刷」は、オフセット平版印刷法がまだ未熟だった1970年ころまでは写真印刷(写真複製)に威力を発揮した技法で、年輩の読者なら卒業アルバムなどで、倍率の高いルーペでみても網点のみられないこの技法独特のなごりをみることができる。
しかしながらこのコロタイプ印刷法は現代ではすっかり衰退して、現業の業者は京都に三社を数えるのみとなっている。
ウィキペディアに要領よく説明があったので、一段下にその抜粋を紹介する。

下部の右起こし横組みの「株式会社東京築地活版製造所」の社名は、既述のパントグラフをもちいて製作された「平形書体見本」にみるものである。
同社ではこれをしばしば「社名制定書体 ≠ ロゴタイプ」として、縦組み・横組みを問わずにもちいていた。字画形象からみて「二号平形」とみられるが、写真技法を経たせいか原寸を欠いている。

【 コロタイプ 】ウィキペディアゟ
コロタイプ(英語 :  collotype)は製版方法の一種で、平版の一種である。実用化された写真製版としては最も古いもので、かつては絵葉書やアルバム、複製などに広く使われたが、現在では特殊な目的以外では使われていない。

技    法
ガラス板にゼラチンと感光液を塗布して加熱することによって版面に小じわ(レチキュレーション)を作る。それに写真ネガを密着して露光すると、光のあたった部分のゼラチンが硬化して水をはじくようになる。
版面を湿らせると水を受けつける部分が膨張してインクがつかなくなるため、硬化した部分にだけインクが付着する。インク付着量の大小によって連続階調が表現され、オフセット印刷のような網点を持たないことを特徴とする。

欠点は印刷速度が遅いこと、耐刷力がないこと、複版する手段がないこと、多色刷りが難しいことなどで、このために現在ではほとんど行われていない。

歴    史
コロタイプはフランスで生まれ、1876年にドイツのヨーゼフ・アルバートによって実用化された。
日本では  小川一真  が1883年にボストンで習得し、帰国後の1889年に新橋で最初のコロタイプ工場を開いた。日露戦争時にコロタイプと石版を組みあわせた絵葉書が大ブームになった。
1897年には横浜のドイツ商館アーレンス商会出身の上田義三が欧米留学ののち、コロタイプ印刷業「横浜写真版印刷所(のち上田写真版合資会社)」を開業した。

便利堂(1887年創業、1905年からコロタイプ印刷を行う)の佐藤濱次郎は法隆寺金堂壁画の原寸撮影を1935年に行い、それを元にコロタイプによる複製を1938年に作った。1949年に壁画は焼失したが、のちにこのコロタイプ複製をもとにして再現された。

効率の悪さから現在はほとんど消えた技術になっている(社名に「コロタイプ」のつく印刷会社は各地にあるが、実際にはオフセット印刷しか行っていない)。しかし文化財の複製のためには重要であり、便利堂はカラーのコロタイプ印刷も行い、また2003年に「コロタイプの保存と印刷文化を考える会」を発足した。

小 川   一 眞(おがわ いっしん/かずまさ/かずま)
万延元年8月15日(1860年9月29日)-
昭和4年(1929年)9月6日)
日本の写真家(写真師)、写真出版者。写真撮影・印刷のほか、写真乾板の国産化を試みるなど、日本の写真文化の発展に影響を与えた。
東京築地活版製造所第五代社長:野村宗十郎は、自伝のなかで、小川一眞の渡米費用の一部を負担するなどして、同社でもコロタイプ印刷法を獲得しようとしていたことを記録している。しかしながら同社の大勢は積極的ではなかったとみられ、事業化に成功した形跡はみられない。

『コロタイプ印刷史』(編著・発行:全日本コロタイプ印刷組合、昭和56年5月8日)
ときおり産業史研究者や、社史編纂者のかたが借りにみえるほど残存部数の少ない資料らしい。コロタイプの歴史・技法が丁寧に紹介され、コロタイプ印刷の製作実例と作品見本が綴じこみ付録として豊富に紹介されている(撮影:青葉水龍 稿者蔵書)。

《まぼろしの 大正16年 正月の年賀状用活字需要に向けて発行された『新年用見本』》

『新年用見本』(東京築地活版製造所、大正15年10月-1926、牧治三郎旧蔵)
<画像修整協力:青葉水龍>

東京築地活版製造所支配人時代の野村宗十郎
東京築地活版製造所専務取締役:第五代社長時代の野村宗十郎

野村宗十郎 のむら-そうじゅうろう 1857-1925

安政四年(一八五七)五月四日長崎に服部東十郎の長男として長崎築地町に生まれる。のち野村家の養子となる。本木昌造の新街私塾に学ぶ。明治二十二年(一八八九)七月陽其二の推薦で東京築地活版製造所に入社。
同二十四年六月『印刷雑誌』に欧米のポイント活字システムを説明したわが国で初の論文を発表。〔ここでの論考はアメリカンポイントの説明としては不十分かつ不適当であり、むしろ現行の DTP ポイントシステムを説いたものだとして、近年では批判もみられる〕。同二十六年米国シカゴで開催の万国博覧会の視察に赴く小川一真に写真製版法の研究を依頼、持ち帰った網版の試験刷に成功し初期の写真製版印刷分野に寄与した。
同二十七年より和文ポイント活字の製造を試み、三十六年大阪で開催の第五回内国勧業博覧会に十数種の見本を出陳した。大阪毎日新聞社は記者菊池幽芳の調査結果を紙上に載せるなどこれに多大な関心を示し、率先して新聞印刷に採用。爾後新聞各社が採用する端緒となった。
出版印刷では四十三年『有朋堂文庫』が九ポイント活字を用いたのが最初である。三十九年社長に就任。大正七年(一九一八)後藤朝太郎に活字の字画整理を、同八年桑田芳蔵に活字の可読性の調査を依嘱するなど活字の改良普及に貢献した。同十四年四月二十三日東京で没した。六十九歳。正七位に叙せられた。
[参考:『日本印刷大観』(東京印刷同業組合編、昭和13年、この項は牧治三郎執筆)]

<タイポグラファ群像*003 牧治三郎 2011年08月11日 花筏 初出

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【WebSite 紹介】 瞠目せよ諸君!|明治産業近代化のパイオニア 平野富二|{古谷昌二ブログ25}|平野富二による活版印刷機の国産化

6e6a366ea0b0db7c02ac72eae00431761[1]明治産業近代化のパイオニア

平野富二生誕170年を期して結成された<「平野富二生誕の地」碑建立有志会 ── 平野富二の会>の専用URL{ 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、同会代表/古谷昌二氏が近代活版印刷術発祥の地:長崎と、産業人としての人生を駈けぬけた平野富二関連の情報を記述しています。
本稿もこれまでの「近代産業史研究・近代印刷史研究」とは相当深度の異なる、充実した内容となっております。関係各位のご訪問をお勧めいたします。
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[古谷昌二まとめゟ]

平野富二による活版印刷機の国産化は、明治5年(1872)7月に上京して神田和泉町に長崎新塾出張活版製造所を開設したときから、準備が進められたと見られる。
その目的は、あくまでも活字・活版の販売を促進するためであったと見られ、開設から3ヶ月後には、早くも印刷機の販売について新聞広告を出している。
取りあえずの対応は、本木昌造が自社で使用するために設計し、長崎製鉄所に依頼して製作した木鉄混用の手引印刷機を複製して販売することからはじめられた。しかし、これは販売を目的として開発されたものではなく、間つなぎ的なものであった。

神田和泉町では、幸い身近に外国製の小型手引印刷機とロール印刷機があったことから、これを分解して型を取り、模造することによって国産化を果たすことができた。それにより、活版印刷の普及と事業の拡大に大きく寄与することになった。
しかし、ロール印刷機の国産化を果たして販売できるようになるのは、築地二丁目に新工場を建設して移転してからであった。
活版印刷の需要が急速に拡大する中で、多くの引合が寄せられるようになり、より大型で高性能の活版印刷機が要求されるようになったことに対応するため、築地二丁目に移転後、各種印刷機の本格的製造体制を整えることになる。
本格的な生産体制の整備と機種の品揃えは、明治6年(1873)7月に築地に新工場を建設してからであり、今後の動向と発展についての紹介は後日に譲ることとする。

古谷昌二ブログ ── 平野富二による活版印刷機の国産化

はじめに
(1)活版印刷機の国産化に着手
<最初の活版印刷機の販売広告>
<当時、新塾出張活版製造所で所有の活版印刷機>
<平野富二の明治6年の「記録」>
(2)最初の自社製印刷機
(3)当初の印刷機製造態勢
(4)ロール印刷機の国産化
(5)その後に国産化された足踏印刷機
(6)わが国における活版印刷機の渡来の歴史
まとめ

【展覧会】宇都宮美術館 企画展|視覚の共振・勝井三雄 visionary ∞ resonance : mitsuo katsui|4月14日ー 6月2日 好評開催中

宇都宮美術館 企画展
視覚の共振・勝井三雄
visionary ∞ resonance : mitsuo katsui
2019年4月14日[日] ー 6月2日[日]
開館時間  午前9時30分-午後5時   *入館は午後4時30分まで
休  館  日  毎週月曜日
観  覧  料  一般 800円、大学生・高校生 600円、中学生・小学生 400円 
主  催  宇都宮美術館

【 詳細: 宇都宮美術館 】 
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[ 写真提供: 日吉洋人   参考:日吉洋人 Facebook

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【もんじ】活字書体:ファンテール|誕生から消長|ヴィクトリア朝影響下の英米にうまれ、明治-昭和を生きぬき令和で甦ったもんじの歴史

『東京築地活版製造所 活版見本』(東京築地活版製造所、明治36年版、486ページ、非売品)
上)書容全貌  下)口絵Ⅰ:銅版画を原版として電気版をおこして印刷したとみられる

『東京築地活版製造所 活版見本』は、当時東洋一の活版製造所を誇り、自他共にそれを許した東京築地活版製造所による、わが国活版印刷史上最大規模を誇る「活版見本」である。
同社では明治中期以降「大見本帖の作成中」としばしば広報していたが、日清戦争(1894-95)、為替変動、経済変動などの影響があって遅延していたものである。

また刊行直後には日露戦争(1904-05)に突入するという国家的な緊張下にありながらも、第四代社長:名村泰蔵(1840-1907)の指揮によって、ようやく明治36年-1903-11月01日に完成をみた大冊の見本帖である。
主要内容 ── 活字:120ページ、花形・オーナメント:174ページ、電気銅版:180ページ ほか。前後のつき物を含めて486ページの威容を誇る。

稿者蔵書には贈呈番号「壱壱貳-112」がしるされ、のちに東京築地活版製造所の役員になった人物への寄贈書であったが、それに続く、口絵Ⅱ、表「本木昌造胸像」図版、裏「第一-第五回 内国勧業博覧会」授賞記録の一丁が脱落していた。
そのため贈呈番号「壹四-14」がしるされた旧帝国図書館に寄贈された同書、現在の国立国会図書館の公開データーからその一丁裏を補って紹介した。

「内国博覧会」受賞記録の口絵は、マイクロフィルムからのデーター変換のため、特色印刷部分がモノクロとなり、やや不鮮明ではあるが、ページ上部の「第一-第五回 内国勧業博覧会」にみる活字は、のちに紹介するいくぶん扁平な一号装飾書体見本「一号三分ノ二 フワンテール形」活字である。

【印刷事典 第二版】(大蔵省印刷局、昭和41年)
* 『印刷事典』では第二版からこの項目が登場し、現行の第五版まで微修正を経て継続紹介がなされている。第五版では「ファンテル → ファンテール」と新かな使いに変更されている。
* 『印刷事典』では「装飾活字」の項目は「ファンシータイプ」へ誘導される。
 
ファンシータイプ fancy type ; Auszeichnungsschrift, Zierschrift
意匠組版に用いられる装飾活字体。本文活字に対していう。アウトライン(outline)・シャドー(shadow)・シェード(shaded)などのように輪郭線だけのもの、影つきのもの、万筋(まんすじ)入りのものなどをはじめ、ローマン体の特に肉太(にくぶと)の書体もこれに含まれ、その他これらの範囲に属さない装飾活字書体も多数ある。(同)装飾活字 →

ファンテルたい ── 体
和文活字の書体名。装飾活字の一種。明朝体とは反対に、縦線が細く横線の太い特殊な書体で、年賀状あるいは広告組版など以外にはあまり使われない。邦文写真植字機〔写植活字〕にもこの書体がある。

口絵Ⅱ「第一-第五回 内国勧業博覧会」受賞賞牌(賞杯)記録の活字(下部)は、いくぶん丸みをおびたゴシック体活字であるが、画線部の肥痩がめだち、重心が揺らぐなどの未整理な形象が気になる。すなわちまだ素朴ではあるが、それだけに味わいのある、初号装飾體見本のうちの「ゴチック書體 ≒ ゴシック体」の興味ぶかい標本である。
この上掲図版とほぼ類似の組み合わせ、すなわちフワンテール FANTAIL と、丸ゴシック系の欧文書体 ROUND GOTHIC が、『東京築地活版製造所 活版見本』 pp 53 に紹介されている。

『東京築地活版製造所 活版見本』活字編 53 ページに紹介された欧文活字に「 FANTAIL.  No.1 」がある。上段は「PICA」で、フォント・スキーム[活版印刷用語集 フォント・スキーム]は 30 A, 60 a, 8 łbs と表示されている。
すなわちこの活字の名称は「 FANTAIL.  No.1 」で、サイズは「PICA=12 pt」、フォント・スキームは 30 本の A, 60本の a のキャラクターで構成されており、重量は 8 łbs = 8 ポンド ≒ 3,628 グラムであることをあらわしている。

『東京築地活版製造所 活版見本』活字編 53 ページに紹介された欧文活字に「 FANTAIL.  No.1 」がある。その下段は「2 – LINE SMALL PICA 」で、フォント・スキームは 28 A, 60 a, 8 łbs と表示されている。
すなわちこの活字の名称は「 FANTAIL.  No.1 」で、サイズは「2 – LINE SMALL PICA =21 pt 二号活字格」、フォント・スキームは 30 本の A, 60本の a のキャラクターで構成されており、重量は 8 łbs = 8 ポンド ≒ 3,628 グラムであることをあらわしている。

【 英和辞書にみる  ファンテール fantail 】

1 扇形の尾[端、部分]。
2 クジャクバト:扇形の尾を持つイエバトの一品種。
3 扇形の尾を持つ小鳥の総称;アジア南部、ニューギニア、オーストラリアなどに分布するオウギヒタキ属 Rhipidura の各種のヒタキ(fantail flycatcher)や、米国産のオウギアメリカムシクイ(fantailed warbler)など。〔以下略〕
[参考:ランダムハウス英和大辞典(小学館)図版とも]

【 欧文活字にみる  ファンテール fantail 】

ファンテール Fantail
欧文活字書体 Fantail は、19世紀英国のビクトリア朝を模した書体として知られ、命名の由来となったとみられる孔雀鳩の尾のように、おおきく広がった画線部先端の処理が特徴である。
またふつうの欧文・和文活字に共通してみられる、縦画を太く、横画を細く描くのとは逆に、縦画が細く、横画が太く書かれていることを特徴とする。いわゆる「猫足型」のカーブや尖端には、仏国のアール・ヌーボーの影響もみられる。

「Fantail」の最初は、米国オハイオ州シンシナティのフランクリン活字鋳造所の1889年版活字見本帳『Convenient Book of Specimens』(Franklin Type Foundry)に「Fantail」の名称で、おもに大きなサイズで登場したとされる。

1892年にアメリカ活字鋳造所会社(略称:A T F,   American Type Founders Company)が設立されると、同社もその販売店となったとみられ、稿者所有の A T F 活字見本帳1907年-明治40-には、Franklin Type Foundry の名称はすでに無く、かつての所在地が「Selling Houses-Cincinnati, Ohio  124 East Sixth Street」とされた紹介をみる。
[参考:フワンテル形、またはファンテール書体について  何某亭 WebSite 雑文集積所

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中央の罫線から下、上段は「 ROUND GOTHIC,  No.2 」が紹介されている。
すなわちこの活字の名称は「  ROUND GOTHIC,  No.2 」で、サイズは「ENGLISH ≒ 13.75 pt  旧四号活字格 」、フォント・スキームは 35 本の A, 65 本の a のキャラクターで構成されており、重量は 10 łbs = 10 ポンド ≒ 4,536 グラムであることをあらわしている。

中央の罫線から下段は「 ROUND GOTHIC,  No.2 」が紹介されている。すなわちこの活字の名称は「  ROUND GOTHIC,  No.2 」で、サイズは「3 – LINE PICA=36 pt 」、フォント・スキームは 10 本の A, 15 本の a のキャラクターで構成されており、重量は 20 łbs = 20 ポンド ≒ 9,072 グラムであることをあらわしている。

*    本稿でのポイントとは「アメリカン・ポイント」をあらわしている[サラマ・プレス倶楽部 活版印刷用語集 活字の大きさ]を参照
フォント・スキームは[サラマ・プレス倶楽部 活版印刷用語集 フォント・スキーム]を参照。
なお当時の業務用欧文活字の販売は、フォント・スキームによる字種構成・字数配当にもとづき、その重量で価格が設定されていた。

**  『東京築地活版製造所活版見本』の組版版面は、ほんの一部に異同はあるが、左右 35 PICAS( 12pt × 35 PICAS=420 points ),  五号40倍(10.5pt ×40倍=420 points )、すなわち 左右 420 points に統一されている。
***  五号40倍とは「魔法の小箱=文選箱」の長辺の内のりに等しい。そのため活字組版上における利便性がたかく、小社サラマ・プレス倶楽部が現在も製造・販売している「木インテル」は、五号 40倍・12pt  35倍(420pt)と、五号 24倍・12 pt  21倍(252 pt)が主流である。

[参考:【かきしるす】文字組版の基本|ポイント (points)、パイカ (picas)、ユ ニット (units) |現代の文字組版者にとって基本尺度/スケールは不要なのか?

《明治36年 和文活字書体に展開された装飾書体フワンテール形とゴチック形》

『東京築地活版製造所 活版見本』(東京築地活版製造所、明治36年版、28-29ページ)

『東京築地活版製造所 活版見本』の 28-29 ページに、「装飾体活字見本」として、初号(42 pt)、一号( ≒ 27.5 pt)、二号(21  pt)、三号( ≒ 16 pt)の比較的おおきなサイズの活字に「フアンテール形」活字の紹介をみる。文例は「 奉 祝 敬 恭 謹 」の六字種である。
管見ながら、東京築地活版製造所の活字見本帖に「フワンテール形活字」が発表されたのはこれが初出であるが、おそらく先行して、業界紙誌への広告と、需要家(ユーザー)への告知 ── チラシ・パンフレットなどの配布がなされていたとおもえる。

欧文活字「Fantail」と同様に、孔雀鳩の尾のような末広がり状の形象を特長とするので、おそらく欧文活字に倣って和文活字を製造し、名称も「フアンテール形、新かな使い → ファンテール」と名づけたとおもわれる。
明治中期に東京築地活版製造所で精力的につくられた「装飾書体」のひとつであるが、年賀状などの端物印刷に好んでもちいられ、ひろく普及した。
また写植活字の最初期に「字幕体」とならんで「ファンテール」として登場した書体ともなっている。
写植活字「字幕体・ファンテール」に関しては、いずれ志茂太郎による『書窓 11ー印刷研究特輯』(アオイ書房、1936年02月)とあわせて紹介したい。

「初号装飾書体見本」には八種類の活字書体が紹介されている。
「フアンテール形」のほかに、「ゴチックシャデッド形」「ゴチック形(シャデッド色版)」「蔓形」「矢ノ根形」「ゴチック霞形」「唐草形」「色刷見本」などがある。
これらの書体はおもに慶弔用・年賀状用などの使途を意識していたとみられ、多分に実験的に製造されたものであり、どこまでの字種を備えていたかは不明である。

「一号装飾書体見本」には、「ゴチック形(シャデッド色版)」「ゴチックシャデッド」「色刷見本」「フワンテール形」「ビジョー形」のほかに、後述するが、扁平書体を製作するための道具・器具-パントグラフ-をもちいたとみられる「三分ノ二 フワンテール形」がある。
同社ではこの技巧を加えた活字がよほど自慢だったのか、上掲の本書口絵Ⅰ「内国博覧会」受賞記録のページ「第一-第五回 内国勧業博覧会」にもちいられている扁平活字は、この「一号装飾書体 三分ノ二 フワンテール形」活字である。

「二号装飾書体見本」と「三号装飾書体見本」には、ともに「ゴチック形」「フワンテール形」活字がある。

ここまでくどくどと説明をしてきたが、読者諸賢にあっては、わが国における「ゴチック形 → ゴシック体」とは、「フワンテール形」とほぼ同様の歴史をもち、「装飾書体」「ファンシータイプ」、いまならさしずめ「ディスプレータイプ」とされていたということを記憶していただきたい。
さらに言をかさねれば、1930年代に小規模な活字鋳造所「藤田活版製造所」が、意欲的にゴチック形の改刻にあたっていたという歴史も見逃せない。残念ながらそこからは「フワンテール形」は洩れていた。

また昭和15年ころからの時局下で展開された官制の国民運動「変体活字廃棄運動」においては、フワンテール形・ゴチック形双方の活字は、不要・不急の活字とされたこともあわせて記憶して、これ以降を読み進めていただけたら嬉しい。
[参考:「変体活字廃棄運動と志茂太郎」『活字に憑かれた男たち』片塩二朗、朗文堂、1999]

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『東京築地活版製造所 活版見本』の 80  ページに、「二号ゴチック書体見本」「三号ゴチック書体見本」「四号ゴチック書体見本」「五号ゴチック書体見本」が紹介されている。
さすがにここまでの小ぶりなサイズになると、初号サイズ・一号サイズにもちいられていた「装飾書体」の字句は姿を消しているが、明朝活字へ向けたような強いこだわりはみられず、カウンター(字の内部空間)がつまり気味で、偏と旁のバランスに欠け、全体の結構もまとまりが無く、必ずしも自慢できるレベルには到達していないとみられる。

なによりもここにはひら仮名・カタ仮名の展開はみられないことに注目して欲しい。
この時代には、まだ書体ごとに随伴する仮名活字を製造するならいはないが、pp 26 に「六号仮名書体見本」が四種類紹介されている。ここにゴチック形との併用を意図したとみられる、イロハを文例としたカタ仮名活字をみるが、ここにはひら仮名活字はみられない。
同様に pp 33 に五号サイズのかな活字が七種紹介されているが、ここにもひら仮名はなく、わずかに「五号ゴチック片仮名」がイロハを文例として紹介されている。

「ゴチック/呉竹」などとあらわされていた金属活字の時代、こうした状況は東京築地活版製造所だけではなく、どこの活字鋳造所でも大同小異の状況にあった。
すなわち産業革命下の英国で誕生し、米国経由でもたらされた「サンセリフ ≒ ゴシック」は、直線を主体として、硬質で均等な線巾で描かれていることを特長として登場した。
そんな造形性が背後にあったため、筆写のなごりをとどめて、柔軟で、抑揚と脈絡をともない、起筆と終筆に特長をおき、肥瘦や曲折部を描くことの多かった「わが国の仮名書体製作者」── 多くは木版彫刻士・印判士・書芸家から転じた活字原字製作者 ── にとってはかなり手強い対象だったようである。

すなわち漢字のゴシック体は容易に習得できたとおもえるが、漢字と同様に直線部の多いカタ仮名活字はともかく、ゴシックのウエイトに相当するひら仮名活字の開発は容易には進まなかった。
この現象はこんにちなお尾を引いており、マンガ図書の吹き出しに「ゴシック体漢字+アンチック体仮名」の採用をみる。周知のようにアンチック体は肥瘦と屈曲部に特長があり、かつては大きくて太い明朝体と併用されることが多かったかな活字書体である。
[参考:きみは富士山をみたか-判別性・可読性・誘目性三要素を重視するマンガ組版(
『文字百景 72』片塩二朗、1999年9月]

わずかに昭和初期に、東京神田連雀町:藤田茂一郎による「藤田活版製造所」が、遅れていたひら仮名・カタ仮名の開発をふくめ、初号-六号におよぶゴシック体活字の全面改刻にあたり、あわせて改良型ゴシック、細形ゴシックなどを意欲的に開発した。
なお神田連雀町-れんじゃくちょう-は関東大震災によってほとんどが焼失したが、東京大空襲の被害は軽微だった。それでもその後の区画整理で神田須田町・神田淡路町に名称がかわって、旧在地などは判明し難くなっている。

それだけでなく、「藤田活版製造所」は昭和中期の時局下において、ゴシック体活字は不要不急の活字書体とされたため「変体活字廃棄運動」の影響がおおきく、活字製造設備のほとんどを没収されるという悲劇をみるにいたった。
したがって戦後になると、時局下にあって
四散した「藤田活版製造所」の資料を各社がもちいるところとなり、また機械式活字母型彫刻機の国産化などもあって、現存する電子活字の一部をふくめて、旧金属活字時代からの歴史を有するベンダーのライブラリーのうち、「硬い線質」と評されるゴシック体のほとんどは、四散した「藤田活版製造所」製のゴシック活字の影響下にあることがわかる。

ちなみに藤田茂一郎の子女:よし子は、1946年-昭和21年-神田鍛冶町に創業した晃文堂:吉田市郎(1921-2014)に嫁したが、結婚後いくばくもなく結核のために子をなさずに逝去した。それでも晃文堂ゴシック、後継企業のリョービゴシックは「硬い線質」といわれ続けた。
活字の玄妙さはこんなところにも潜んでいる。
[参考:花筏 タイポグラファ群像007*【訃報】 戦後タイポグラフィ界の巨星:吉田市郎氏が逝去されました

活字編 pp 81 には「各号竪平形書体見本」が12種類紹介されている。
これはのちの写植活字の時代になると、かまぼこ形の光学レンズをもちいて字画を変形させて、「平形 → 平体」「竪形 → 長体」とあらわされたものであるが、ここでは下掲図にみるような簡便な道具「パントグラフ」をもちいて図形を拡大・縮小させていた。あわせてアーム設定によって縦横比を変え、それぞれ50%ずつ扁平・長体にしたものである。
[参考:「印刷局と工部美術学校の狭間で」『印刷と美術のあいだ』(森 登、印刷博物館、2014年10月18日)]

東京築地活版製造所では本ページの頭頂部「柱」の使用にもみるように、さっそく同社のロゴタイプのようにしてもちいたりしたが、販売は限定的であったとされる。
それでもこの簡便で、ひと目を惹きやすい-誘目性-にすぐれた技法は、大正期の半ばともなると他社の知るところとなり、中京と京阪神の活字鋳造所を中心に、扁平明朝や長体明朝が相次いで製造されるようになった。
大阪の新聞社用に「扁平明朝体・新聞明朝体」を製造販売した森川龍文堂、ハワイの都新聞用にむけて「長体明朝」を製造販売した津田三省堂などが積極的であった。

パントグラグラフの原理をわかりやすく説いた図版。1867年 ウィキペディアゟ

米国 A T F 社のリン・ベントン(Benton, Linn Boyd 1844年-1932年)が1885年-明治18年-に考案した「機械式活字父型・母型彫刻機-俗称ベントン彫刻機」は、上掲図のパントグラフの概念と基本構造はおなじであり、そこに電動モーターによる精密彫刻機を付加したものである。

東京築地活版製造所は印刷局とともに、大正期に「俗称:ベントン彫刻機」を導入したが、その使途は限定的であったとされる。「機械式活字父型・母型彫刻機」は戦後の復興期に国産化され、もっぱら俗称:ベントン彫刻機とされて普及をみた。
[参考:「工芸者の時代から技術者の時代へ」『秀英体研究』(片塩二朗、大日本印刷、2004)]

《『本木号』にみる明治最末期-大正初期に展開したフワンテール形》

『本木号』(大阪印刷界第32号、明治45年06月17日 印刷図書館蔵)

明治帝の晩年に、その治世下における位階贈与に遺漏の詮議があり、故本木昌造への位階進呈が長崎県を通じて申請され、「従五位」が追贈された。
大阪の印刷業界誌「大阪印刷界」は一号につき10銭の月刊誌であったが、この贈位を祝して特別企画『本木号』の刊行をはかり、おもに大阪:谷口活版所(大阪活版製造所の後継企業-二代目谷口黙次)、東京築地活版製造所が、それぞれ「金三百円也」、その他の企業からの資金提供をうけて製作された特別号である。
巻末に取材先、資料提供者の一覧があるが、そこにはすでに病没していた本木昌造の継嗣:本木小太郎はもとより、既知の本木家親類縁者の名前はいっさいみられない。いずれにせよ本誌発行からまもなく明治帝が薨じて、明治45年-1912-7月30日に大正に改元された。

『本木号』は全200ページほどの雑誌であるが、ページ番号がふられた80ページほどをのぞくと、ほかは大小のスペースの慶祝広告によって占められている。
表紙デザインはアール・ヌーボー調で、題字はファンテール形のレタリングによって描かれている。広告の多くにも活字フアンテール形と、レタリングによるフアンテール体、そして装飾活字のゴチック形活字があふれている。

《東京築地活版製造所衰退の予兆となった『活字と機械』》

『活字と機械』(東京築地活版製造所、大正3年6月)

B 5 版、132ページ、和装仕立ての図書である。ページ番号は付与されていない。
活版印刷用の機器と資材を詳細に紹介し、その側面からみると資料性はたかいが、こと活字製造に関しては既述の明治36年版『活版見本』から、花形・オーナメント、電気銅版の都合354ページ分が脱落しており、 活字:120ページも大幅に縮小されて、その活字内容にもおおきな進展はみられない。
その結果、活字版印刷術 ≒ タイポグラフィにおける総合技藝としての側面が減少して、活版印刷=活字という、視野狭窄と視座の幼児性と矮小化を招く一因となったことは指弾せざるをえない。

本書の編輯兼発行者としるされているのは、同社第五代社長:野村宗十郎(1857-1925)であるが、活版印刷用の機器と資材の紹介内容は、先述した名村泰蔵(1840-1907)が10年がかりで計画・実現させた「東京築地活版製造所月島分工場」による製品群であり、野村宗十郎の功績とはいいがたい。

冒頭の活字編には、支配人時代から野村宗十郎が提唱した、号数制からポイント制活字への移行を急ぐあまり、基本書体の明朝体においても、移植が主体であることが目立ちすぎ、開発が場当たり的であり、拙速と欠陥が際立つ結果となっているのは残念である。

五号ゴチック、六号ゴチックには、はじめてひら仮名活字が登場するが、濁点・半濁点の処理にとまどうばかりで、どう評すれば良いのか戸惑うほどの形姿となっている。

いずれにせよ、東京築地活版製造所「中興の祖」とされるのは野村宗十郎であり、昭和13年-1938-に同社が清算解散にいたったのは、関東大震災による被害のためとされるが、ここに稿者は、いくぶん異なった視点から野村宗十郎をみていることだけをしるしておきたい。

《まぼろしの 大正16年 正月の年賀状用活字需要に向けて発行された『新年用見本』》

『新年用見本』(東京築地活版製造所、大正15年10月-1926、牧治三郎旧蔵)

   
牧  治 三 郎 67歳当時の写真と、蔵書印「禁 出門 治三郎文庫」
1900年(明治33)-2003年(平成15)歿。行年103。
[参考:花筏 平野富二と活字*03 『活字界』牧治三郎二回の連載記事に戦慄、恐懼、狼狽した活字鋳造界の中枢

大正12年-1923ー9月13日午前11時58分に関東大震災が発生した。東京築地活版製造所は新社屋(下部左)の落成がなり、月島分工場などに一時移動させていた設備を、新社屋にむけての搬入作業がつづいていたさなかのことである。
汗みずくになって搬入作業にあたっていた従業員に、昼食がつげられた直後に激震が襲ったとされる。ほとんどの家庭では、裸火での昼食の準備中だったためもあって、地震にくわえて火災の影響も大きく、この震災の被害は死者・行方不明者10万5000人余、住家全半壊21万余におよび、京浜一帯は壊滅的打撃をうけた。

幸い重量物の取扱を前提として建築された新社屋は、軽微な被害で済んだが、隣接していた創業家:平野家は、敷地内にあった東京築地活版製造所社員尞ともども土蔵をのぞいて全焼し、第四代社長:名村泰蔵が心血をそそいで建造した月島分工場も全焼した。
それでも復旧作業が全社員をあげて展開され、まもなくビルの一画に「◯も」の社旗が翻って、築地地区の話題となるほどだったとされる。

そんな無理がたったのか、大正14年4月23日、野村宗十郎は逝去した。行年69であった。
この資料の旧蔵者であった牧治三郎は、資料複写を許諾した際にこんなことを漏らしていた。
「野村〔宗十郎〕先生は、頭は良かったが、気がちいせえひとだったからなぁ。 震災からこっち、ストはおきるし、金は詰まるしで、それを気に病んでポックリ亡くなった」

野村宗十郎の逝去によって東京築地活版製造所第六代社長に就任したのは、平野富二と長いつき合いのあった松田源五郎の長男:松田精一(長崎十八銀行頭取・衆議院議員を兼任)であった。
[参考:花筏 [良書紹介]渋沢栄一に学ぶ「論語と算盤」の経営+〝ふうけもん〟か十八銀行:松田源五郎

ちなみに東京築地活版製造所歴代の代表専務取締役社長は、第三代:曲田 成(まがた しげり 元阿波藩藩士)をのぞくと、ほとんどすべてが長崎県出身者によって占められていた。
[参考:花筏 平野富二と活字*02 東京築地活版製造所の本社工場と、鋳物士の習俗

さらに本資料『新年用見本』(東京築地活版製造所、大正15年10月-1926、牧治三郎旧蔵)には、もうひとつのドラマが秘められている。
「このビラは、もしかすると回収されていたかもしれない代物だ。満天下でオレしかこんなものはもってないだろうよ」
すなわち『新年用見本』として用意された、この中綴じ8ページのパンフレットはもちろん、ここに紹介された「初号ゴチック形・初号フアンテール形 壹個定価拾五銭 奉 祝 敬 恭 謹 賀 新 年 春 正 迎 候」の活字も、「大正16年の年賀状」に使われることはなかったのかもしれない。

すなわち大正15年10月-1926-に本パンフレットが配布されたとしても、それからまもなく大正15年-1926-12月25日に改元となって昭和になった。すなわち 大正時代 とは、大正天皇の在位期間である1912年(大正元年)7月30日-1926年(大正15年)12月25日までであった。

1926年(大正15年)12月25日、大正天皇が崩御し、同日、皇太子(摂政宮)裕仁親王(昭和天皇)の践祚を受け、ただちに改元の詔書を公布して 昭和 に即日改元し、1926年の最後の7日間だけが昭和元年となった。
すなわち西暦の1926年12月25日は、大正15年であり昭和元年でもある。

平成-令和への生前贈位とことなり、わずか7日間だけの昭和元年は、当然国をあげての服喪の期間となり、年があけても賀詞を交わすような祝賀気分になれたかどうかは疑問がのこる。
そんなこともあって、牧治三郎はこの「ビラ」をひどく自慢にしていた。

平野富二という漢-おとこ-がいた。
二十六歳で長崎から上京し、在京わずか二十年、まるで村夫子のような風貌からは想像もつかないさまざまな事業をてがけ、四十六歳の若さで逝去した。
わが国が近代国家になるために、幕末の長崎にもうけられた海軍伝習所・医学伝習所・活版伝習所などに結集し、全国各地に羽ばたいた重厚な人脈にたすけられ、なによりも本人の勤勉努力によって、平野富二が興した造船・重機械製造・運輸・交通などの事業は、こんにちなお継続している企業は多くを数える。

「メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭」を契機として、その生誕地に記念碑が建立され、記念誌の刊行もちかい。
平野富二の東京での最初の事業、活字版製造は後継者に恵まれずに昭和13年に清算解散を迎えた。
その遠因を「フワンテール形・ゴチック形」というふたつの活字書体の消長から探ってみた。まだ「口ごもっている」部分も多いが、読者諸賢は稿者の意のあるところをお汲みとりいただけたら嬉しい。

図書のタイトル『平野号』は、もちろん『本木號』にちなむ。タイトル書体は東京築地活版製造所による「フアンテール形」活字を参照し、「平野富二の会」の若い造形者が選択し、みずからの手によって描いたものである。

【平野富二の会】『通運丸開業広告』から|石川島平野造船所が最初に建造した「通運丸」シリーズ|東京築地活版製造所五号かな活字に影響をあたえた「宮城梅素-玄魚」

本項は、近日発行『平野号 平野富二生誕の地碑建立の記録』(編集:「平野富二生誕の地」碑建立有志の会、発行:平野富二の会、B 5 版、ソフトカバー、384頁)より。
その抜粋紹介の記事として「平野富二の会」のウエブサイトに掲載されたものを転載した。
表紙出力『平野号 平野富二生誕の地碑建立の記録』表紙Ⅰ

表紙の画像は以下より採取した。
◉ 右上:最初期の通運丸 ──『郵便報知新聞』(明治10年5月26日)掲載広告ゟ
◉ 右下・左上:『東京築地活版製造所 活版見本』(明治36年 株式会社東京築地活版製造所)電気版図版から採録

◉ 左下:『BOOK OF SPECIMENS MOTOGI & HIRANO』(明治10年 長崎新塾出張活版製造所 平野富二)アルビオン型手引き活版印刷機ゟ
◉ 中心部の図案:『本木號』(大阪印刷界 明治45年6月17日発行)を参考とした。

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【 石川島平野造船所 ── 現:石川島資料館 】

石川島資料館入口石 川 島 資 料 館
[ 所在地:中央区佃1丁目11─8 ピアウエストスクエア1階 ── もと佃島54番地 ]
digidepo_847164_PDF-6東京石川島造船所工場鳥瞰図『東京石川島造船所製品図集』
(東京石川島造船所、明治36年12月、国立国会図書館蔵)

石川島資料館の地は、平野富二が明治9(1876)年10月に石川島平野造船所を開設したところで、昭和54(1979)年に閉鎖されるまでの103年間のながきにわたって、船舶・機械・鉄鋼物の製造工場であった。この地は嘉永6(1853)年、水戸藩が幕府のために大型洋式帆走軍艦「旭丸」を建造するための造船所を開設した所で、これをもって石川島造船所(現:I H I )開設の起点としている。

石川島資料館は、このような長い歴史を持つ石川島造船所の歴史を紹介するとともに、それと深い関わりを持つ石川島・佃島の歴史と文化を紹介する場として開設された。

web用_200090 300dpi 通運丸開業広告 印刷調整 軽量化-1『通運丸開業広告引札』明治10(1877)年
山崎年信 画 宮城梅素-玄魚 傭書 物流博物館所蔵

『通運丸開業広告引札』(物流博物館所蔵)には、平野富二が石川島平野造船所を開いて最初期に建造した「通運丸」が描かれている。
平野富二が石川島平野造船所を開いて最初に建造した船は、内国通運会社(明治5年に設立された陸運元会社が、明治8年に内国通運会社と改称。現:日本通運株式会社)から請け負った「通運丸」シリーズだった。

内国通運会社は、政府指導で組織化された陸運会社であったが、内陸部に通じる河川利用の汽船業にも進出した。
隅田川筋から小名木川・中川・江戸川を経由して利根川筋を小型蒸気船で運行する計画を立て、明治9(1876)年10月末に開設したばかりの石川島平野造船所に、蒸気船新造4隻と改造1隻を依頼した。

明治10(1877)年1月から4月にかけて、相次いで5隻の蒸気船が完成した。新造船は第二通運丸から第五通運丸まで順次命名された。第一通運丸と命名された改造船は、前年に横浜製鉄所で建造された船艇であったが、船体のバランスが悪く、石川島平野造船所で大改造を行ったものである。
同年5月1日から第一、第二通運丸により東京と栃木県を結ぶ航路の毎日往復運航が開始され、もっぱら川蒸気と呼ばれて話題をあつめ、盛況を呈した。

これらの「通運丸」と命名された小型蒸気船は第五六号まで記録されており、昭和23年代まで運行されていた。

この絵図に描かれた通運丸が第何番船かを特定することはできない。しかし宣伝文から推察すると、利根川下流の木下や銚子まで運行していることから、すでに第五通運丸までが就航していると考えられる。
したがって、石川島平野造船所で納入した五隻の通運丸のいずれかが対象になる。後年、船体の外輪側面に大きく「通運丸」の船名が表示されるが、初期には、この航路は内国通運会社の独占だったため標示されていない。

帆柱のある通運丸を描いた「内国通運会社」新聞広告。当初は一本の帆柱を備えていた。
『郵便報知新聞』明治10年5月26日に掲載。(『平野富二伝』古谷昌二 著から引用)

web用_200097 300dpi 東京両国通運会社川蒸気往復盛栄真景之図 野沢定吉画-1 軽量化船体の外輪側面に大きく船名が表示された通運丸
『東京両国通運会社川蒸気往復盛栄真景之図』明治10年代
野沢定吉 画 物流博物館所蔵

上掲の『通運丸開業広告引札』明治10(1877)年は、画は山崎年信、傭書は宮城梅素ー玄魚の筆になる。以下に詳細を掲載した。

【山崎年信 ── 初代】(1857─1886)
明治時代の日本画家。安政四年うまれ。歌川派の月岡芳年(1839─92)に浮世絵をまなび、稲野年恒、水野年方、右田年英とともに芳年門下の四天王といわれた。新聞の挿絵、錦絵などをえがいた。明治19年没、享年30。江戸出身。通称は信次郎。別号に仙斎、扶桑園など。

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「傭書家: 宮 城 梅 素-玄 魚 」

通運丸開業広告引札』の撰並びに傭書は、宮城梅素・玄魚(みやぎ・ばいそーげんぎょ)によるものである。以下は錦絵に書かれた文章の釈読である。[釈読:古谷昌二]

廣 告

明治の美代日に開け。月に進みて
盛んなれば。實に民種の幸をやいはん。
國を冨すも亦。國産の増殖に在て。
物貨運輸。人民往復。自在の策を起
にしかず。されど時間の緩急は。交際
上の損益に關する事。今更論をま
たざるなり。爰に當社の開業は。郵
便御用を専務とし。物貨衆庶の乗
客に。弁利を兼て良製迅速。蒸気
数艘を製造なし。武總の大河と聞たる。
利根川筋を逆登り。東は銚子木下
や。西は栗橋上州路。日夜わかたず
往復は。上等下等の室をわけ。
發着の時間は別紙に表し。少も
遲〻なく。飛行輕便第一に。三千
余万の諸兄たち。御便利よろしと
思したまはゞ 皇國に報ふ九牛
の一毛社中の素志を憐み給ひて。
數の宝に入船は。出船もつきぬ
濱町。一新に出張を設けたる。内國
通運會社の開業より試み旁〻
御乗船を。江湖の諸君に伏て希ふ

      傭書の 序  梅素記

梅素_画像合成_02『通運丸開業広告引札』明治10(1877)年の錦絵の広告文を釈読に置き換えたもの

宮城梅素-玄魚(1817─1880)は、幕末から明治時代の経師・戯作者・傭書家・図案家である。
文化14年江戸うまれ。浅草の骨董商ではたらき、のち父の経師職を手つだう。模様のひな形、看板の意匠が好評で意匠を専門とした。
條野傳平・仮名垣魯文・落合芳幾らの粋人仲間の中核として活動。清水卯三郎がパリ万博に随行したおり玄魚の版下によってパリで活字を鋳造して名刺を製作したとされる。

明治一三年二月七日没。享年六四。姓は宮城。名は喜三郎。号:梅素(ばいそ)玄魚・田キサ・呂成・水仙子・小井居・蝌蚪子-おたまじゃくし-など。
江戸刊本の伝統を継承した玄魚の書風は東京築地活版製造所の五号かな活字に昇華されて、こんにちの活字かな書体にも影響を及ぼしている。

東京築地活版製造所五号かな活字_03

東京築地活版製造所 五号かな活字(平野ホール所蔵)
『BOOK OF SPECIMENS MOTOGI & HIRANO』(明治10年 長崎新塾出張活版製造所)

2013平野富二伝記念苔掃会-10一恵斎芳幾(落合芳幾)が書いた晩年の宮城梅素-玄魚
『芳潭雑誌』より

【 詳細: 平野富二の会 】

【 内国通運会社 】 & 【 日本通運 WebSiteゟ 沿革と歴史 】

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