【もんじ】吉祥もんじ 合体字|招財進寳ーしょうざいしんぽう|

《馴染みのお店がどんどん消える昨今》
衣食住にはこだわりが無い …… と公言してきた。それはいまも変わらないが、さいきん馴染みの飲食店の廃業が続いてなさけない思いをしている。
酒は呑まないので和食の店はおおきく制限される。中国料理も大型店だとひと皿五人分ほどの料理が提供されるので、退勤途中に少人数で、ちょっと何品かで食事というのには料が多すぎるし、定食では飽きて物足りないこともある。

お気に入りだった中国料理店は「臺灣 ≒ 台湾小皿料理店」で、ママさんは中国瀋陽(中国東北部・旧奉天)出身であるが、コックさんとスタッフは台湾の出身。したがって少量で安いので、フラリと寄っても四-五皿の料理を楽しめるし、南部のお米料理・北部の万頭料理も過不足無くたのしめた。店がすいていれば 莨 も遠慮しながらではあるが吸うことができた。馴染みの店とはそんなものである。

この店が人手にわたったらしい。看板はそのままだったが、すっかり料理もふんいきも変わり、即座に逃げだしたものの代わりの店が無かった。
ようやく「新宿御苑共和会通り」に気に入りの店をみつけた。ホールは小姐-シャオジェとオバサンの中間ほどの姉妹で、キッチンはふたり。旨くて安いから30-40名ほどの団体も相当はいるが、このふたりは平然と消化しているからかなりのものである。

団体席との仕切りに「吉祥もんじ ── 合体字」があった。手許の辞書に熟語「合体字」はなかったが、「合体-ふたつ以上のものがあわさって、ひとつになること」で十分だろう。
月例会でこの写真が話題になり、中国大連近郊出身の張さんが、中国陝西省(日本でも)で流行っている「ビャンビャンメン」も例にあげて「合体字」の解説にあたってくれた。

【 YouTube 李玉萍 (萍萍老師) 書法/春聯教學 金字「招財進寳」楷書 1 : 49 】


《招財進寳の字画構成と意味》
「招財進寳ーzhaocai-jinbaoーしょうざいしんぽう」は金運を招き寄せる吉祥紋ーもんじである。
まず「たから-の異体字のひとつ、寳」を選び、ウカンムリから上部を書き進める。下部の「貝」は何役も兼ねるのでいくぶん細身に書く。ついで右側に「才」を置くと「財」になる。「才」をテヘンにみなして右に「召」を書くと「招」が完成し、左側に「隹ーふるとり」を書き、「辶-シンニュウ」を勢いよく蚕頭燕尾にまとめると、アラふしぎ ── 招財進寶のできあがりである。
紹介動画は台湾の書芸家。YouTube の文字部をクリックすると別ウインドウがひらき、拡大画面でみることができる。

ほとんどの中国人はお金へのこだわりを隠そうとしない。それでも安くて旨い中国料理をたのしんで、お店もお客も大判小判がザックザクとなればいうことなしである。
上掲写真は張さんが陝西省西安で撮影した「ビャンビャンメン」。この合体字も麺もあまりうまくなかったとは張さんの言。なぜかこの「もんじ」は日本の一部ではやっていると聞いた。稿者はこの麺を西安・北京と葛飾区亀有でも食べたことがあるが、やはり流行り物で格別の意見はない。
中国と台湾には、ほかにも吉祥もんじとして「集字」「畳字」があるが、わが国では別の意味でもちられているので、すこし整理していずれ紹介したい。

[協力:青葉水竜さん、張 文一さん]
{関連:花筏 台湾の縁起物 柿+橘+豚=開運臻寳シンポウ 諸事大吉 文と寓意

【ことのは】台湾の縁起物|柿+橘+豚=開運臻寳シンポウ|諸事大吉|文と寓意

台湾みやげ《開運臻寶 諸事大吉》
柿+ミカン+豚の組み合わせは、
なぜ 縁起がよいのか?

◎本稿は2012年10月18日 サラマ・プレス倶楽部ニュースに
    掲載されたものの再録である。いささか旧聞に属するが
  招財進寳ーショウザイシンポウにおもわぬ反応があったので
ここに一部を修整して再掲載した。

────────────────────
台湾旅行にでかけて、おみやげに「諸事大吉」とあった縁起物を買ったものの、もうひとつその縁起がわからないから、わかりやすく説明せよ …… との要望が参加者からあった。

そもそも中国・台湾では、まま  文+字 をもちいて、あるいは、ほかのものごとにかこつけて、それとなくある意味をほのめかせる「寓意」を駆使するから困るのだ。
そしてそれをくわしく説明すると「シッタカ」と揶揄される。ナラバと、おもいきり平易に説明すると「ウザイ」とされるから嫌になるのだが…… 。

これは一見ハロウィンのカボチャのようにもみえるが、柿 + ミカン(だいだい、橘)+ 豚(猪)を組み合わせたもので、正確には「開運臻寶シンポウ ── 諸事大吉」と呼ばれ、幸運をもたらす縁起物とされる。
すなわち「運勢がひらけ、宝物がどんどんやってくる。すべてのものごとが、このうえもなく良くなる」という、きわめておめでたいものである。 

「諸事大吉」の販促カタログをみると、ふんだんに商品解説が加えられている。その解説がおもしろい。原文の字面をながめるだけでも(むしろ原文のままのほうが)この縁起物の、寓意と諧謔 ユーモア がつたわりそうなのでここに紹介しよう。

  • 創新的思維加上古老的吉祥語意再融合藝術大師的手藝便造就了令人驚奇不已的逗趣可愛吉祥外型。
  • 橘子象徵吉祥,笑開懷的圓滾滾【諸事大吉】更象徵著凡事皆歡喜,諸事皆圓滿,大吉又大利,諸事皆順利。
  • 逗趣可愛外型,象徵極好之諸事大吉。
  • 笑顏常開諸事皆歡喜,諸事皆圓滿。

これだけでは不満そうなので、チョイと面倒でいつも嫌われるだが、もうすこしくわしく、写真の子豚ちゃんが寓意するところを解いてみた。
[参考資料:『中国吉祥圖案』(台湾 北市、衆文図書公司、1991年02月]

 【 柿 】
漢字音(中国読み)では、柿(Shih4)と、事(Shih4)は同音同声である。
したがって、ふたつ並んだ柿は「柿 柿」となって、多くのものごと「事 事 ≒ 諸事・百事・万事」をあらわす。
また唐の段成式は『酉陽雑俎』のなかで、柿には以下のような ななつの徳があるとのべている。
   1.壽がある
   2.多陰 → 夏に葉が茂り日陰を提供する
   3.鳥が巣をかけない
   4.蟲が寄りつかない 
   5.秋の霜に負けない(翫) 
   6.嘉実 ≒ 縁起のよい果物
   7.落葉肥大 → 落ち葉が大量で、よい肥料となる
このように柿とはもともと、雅ミヤビであり、俗でもあるが、まことに賞賛すべき果物である。

また、「獅」(Shih1)と、「柿・事」(Shih4)とは同音異声である。
すなわち「柿 柿」は、ここに「百獣の王たる 獅 子」をも寓意する。
これすなわち「諸事如意 ≒ すべてが意のごとくになる」のである。

 【ミカン → 橘】
中国・台湾では、ミカン、だいだいのことを、ふつう 橘 とあらわす。
ところで、おおきな橘 = 大橘(Ta4 Chu2)と、大吉(Ta4 Chi2)は音が相似ている。
すなわち、おおきなミカン=大橘は、幸福をもたらす大吉に相通じ、きわめて吉祥をあらわす。

 【豚 ≒ 猪】
中国・台湾では、ふつう豚は猪とあらわされる。その猪がなぜ珍重されるのかは、中国的形而上学がふんだんに織り込まれていて興味ふかい。
すなわち中国高級官僚登用試験「科挙」の成績上位者 3 名を「解元・会元・状元」の 大三元 と呼び、唐代には玄奘三蔵(ゲンジョウ-サンゾウ 三蔵法師 600?, 602?-664)ゆかりの西安・大慈恩寺の雁塔ガントウにその名を刻し、ひろく天下に公表された。それを「雁塔題名、金榜題名」と呼び、きわめて名誉なこととされた。

ところで豚の「蹄 ヒヅメ」と、「雁塔題名、金榜題名」の「題」とは、中国音ではともに「Ti2」とされ、同音同声である。
こうして猪=豚は、秀才・天才をあらわすこととなり、名誉なこととされる。
────────────────────
このようにして「開運臻寶シンポウ ── 諸事大吉」、すなわち「柿 + ミカン + 豚の組み合わせ」は、「可愛吉祥型であり、諸事に大吉をもたらし、諸事皆円満」となるのである。

さて …… 、これでご納得いただけたであろうか。
あれっ、どこからか、こんな蘊蓄ウンチクを聞かされるより、この愛らしい置物をみてるだけで幸せになれる、という声がきこえたような?

《もうひとつ、おまけ ── ホテルのキーホルダーの寓意》
今回の台湾旅行でのホテルは、皆さんとプチ贅沢して「圓山エンザン大飯店 Grand Hotel Taipei」に宿泊した。見た目は巨大な中国式の宮殿のようだが、街中の近代的なホテルとくらべても、ほとんど料金は変わらない。
かつて「圓山大飯店」は行政府の迎賓館としてつかわれ、台北第一の格式を誇ったホテルだった。それだけに近代ホテルでは味わえない、漢民族の歴史と伝統の重みを感じさせる重厚さがある。
それでも「圓山大飯店」は郊外の山の中腹にあって、交通はすこしく不便である。したがってこのホテルが選ばれたのは、いまの台湾は喫煙にとてもうるさく、かろうじてベランダでの喫煙が許される(黙認)のが、ここが選ばれた最大の理由だった。

ホテルのルームキーは、古風で、重量もかなりあるシロモノだった。これでは外出時にもちあるくのは辛いので、フロントにキー・ドロップすることになり、紛失も少なくなる効果もありそうだ。
このルームキーの形態は、中国春秋戦国時代(前 770-前 221)のころの貨幣「布貨 フカ」を模したものである。「布貨」は農機具のスキやクワに似せ、次次と勃興した春秋戦国時代の各国で、それぞれ意匠をこらしてつくられた。

古来農業国であった中国では、農具はたいせつな財産であり、その農具を模した青銅の貨幣を「布貨」と呼んでいた。その由来は、やはり貴重な商品であった「布帛 フハク ── 織物・絹」とどこでも交換されたので、その名がうまれたとされる。

こうした縁起をもった「布貨」を模したカギの表面には、このホテルの名称「圓山」を巧妙にデザインした意匠がみられる。
また「布貨」の裏面には、篆書風の字による「財」が配され、富貴をねがう国民性をすなおにあらわしている。
これがして台湾を<文+字 の国>とするゆえんである。

{ 新 塾 餘 談 }

2019年03月12日、台湾台北市「日星鋳字行」の張 介冠父子が来社。通訳は劉 慶さん。
台湾でも活字母型にさまざまな問題が発生しており、その解決策のご相談。はなしは複雑多岐にわたり、長時間におよんだ。張 介冠さんは根っからの技術者で、活字鋳造に熱中するだけで十分幸せだというひとであるが、母親から経営・経理を引き継ぎつつあるご子息は真剣だった。

その話し合いのなかで、最近日本からの見学者が多くあって、それは嬉しいことではあるが、
「ちょっと見学だけさせてください …….」という困った訪問客のはなしがでた。わが国ではふつうにみられる光景だが、どこの国でもこうした「Just looking」の訪問者は歓迎されないもの。
「日星鋳字行」は活字鋳造工場であり、活字販売所でもあるが、決して無料の博物館施設ではない。こころして訪問していただきたいところではある。

{初出:花筏 台湾の縁起物 柿+橘+豚=開運臻寳シンポウ 諸事大吉 文と寓意
[関連:Notes on Typography 【もんじ】吉祥もんじ 合体字|招財進寳ーしょうざいしんぽう

【ことのは】東京築地活版製造所 新社屋紹介「郵便はかき」|コロタイプ印刷術|関東大震災直後の貴重資料


《牧治三郎 なにかの えにし であろうか、はたまたなんらかの 因果 であろうか》
2016年「メディアルネサンス-平野富二生誕170年祭」を機に、長崎での平野富二の生誕地が判明し、さっそく「平野富二生誕の地-碑建立有志の会」が結成され、多くの会員の協力をいただき、2018年11月「平野富二生誕の地碑」が建立され、除幕式と祝賀会をへて、長崎市に寄贈された。


平野富二が1872年(明治05)上京後、およそ20年にわたって展開した多様な事業のうち、最初の事業であった、活字製造・印刷機器製造の拠点、長崎新塾出張活版製造所 → 東京築地活版製造所は、明治後期ともなると「東洋一」を自他ともに許す企業に成長していた。ところがどういうわけか東京築地活版製造所には自社の記録が少なく、近年つぎつぎと新資料が発掘されているとはいえ、研究者の悩みの種になっていた。

そのひとつが、竣工直後でちょうど段階的に移転作業が進んでいたさなか、1923年(大正12)09月01日午前11時58分に襲来した関東大震災によって紅蓮の炎につつまれたとされる、新本社工場ビル(地下一階、地上四階)のアールヌーヴォー風の趣のあるビルの記録である。
施工業者は 清水組 ≒ 清水建設 であったことは判明している。しかしながら関東大震災の影響があまりに激甚で、おそらく竣工落成披露などの「慶祝行事」はできなかったのではないかとみられている。そのため比較的近年の建物の割りに、肝心の画像資料がほとんどなく、拡大すると網点が現出する不鮮明な写真にたよるばかりであった。

ところで …… 、牧治三郎は「鮮明な写真資料を所有しているはずだが、現在所在がわからない …… 」と、活字業界誌『活字界』、パンフレット『活字発祥の碑』などにしばしばしるしているが、どうやらその資料らしき「郵便はかき」が、回り回って稿者の手許に転がりこんできた。
そのゆえんを報告したい。

旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し
牧 治三郎『活字界 21号』(全日本活字工業会  昭和46年5月20日)

《活字発祥の〔舞台、〕歴史〔の幕を〕閉じる》
旧東京築地活版製造所の建物が、新ビル〔現コンワビル〕に改築のため、去る〔昭和46年〕3月から、所有者の懇話会館によって取壊されることになった。
この建物は、東京築地活版製造所が、資本金27万5千円の大正時代に、積立金40万円(現在の金で4億円)を投じて建築したもので、建てられてから僅かに50年で、騒ぎたてるほどの建物ではない。 ただし活字発祥一世紀のかけがえのない歴史の幕がここに閉じられて、全くその姿を消すことである。

《大正12年に竣成》
[東京築地活版製造所の最後の]この社屋は、大正11年〔1922〕野村宗十郎〔専務〕社長の構想で、地下1階、地上4階、天井の高いどっしりとした建物だった。特に各階とも一坪当り3噸 トン の重量に耐えるよう設計が施されていた。

同12年7月竣成後〔順次移転作業が進みつつあるなか〕、9月1日の関東大震災では、地震にはビクともしなかったが、火災では、本社ばかりか、平野活版所〔長崎新塾出張活版製造所〕当時の古建材で建てた月島分工場も灰燼に帰した。罹災による被害の残した大きな爪跡は永く尾を引き、遂に築地活版製造所解散の原因ともなったのである。

幸い、〔東京築地活版製造所〕大阪出張所の字母〔活字母型〕が健在だったので、1週間後には活字販売を開始〔した〕。 いまの東京活字〔協同〕組合の前身、東京活字製造組合の罹災〔した〕組合員も、種字〔活字複製原型。 ここでは電鋳法による活字母型か、種字代用の活字そのものか?〕の供給を受けて復興が出来たのは、野村社長の厚意によるものである。

《 ネットショップに東京築地活版製造所のビル写真が…… 》
「平野富二生誕の地」碑建立有志の会の会員からこんな連絡があった。
「ネットショップに東京築地活版製造所のビルの写真が …… 安いですよ」
WebSite に紹介されていた図像は、たしかに 周囲に建物がみられずビル全体をみることができるもので、東京築地活版製造所の震災後まもなく撮影され製作されたとおもえる写真だった。
支払いは前金で、入金確認後に郵送するとあった。即座に注文したが、振込手数料・送料の合計のほうが高くつきそうな価格だった。
千葉県の古書店からの送付であったが、厚ボールに挟みこんでとても丁寧に送っていただいた。

上掲写真がそれであるが、写真ではなく、宛名面に「郵便はかき」とあり、つい先日、本欄{【もんじ】活字書体:ファンテール|誕生から消長|ヴィクトリア朝影響下の英米にうまれ、明治-昭和を生きぬき令和で甦ったもんじの歴史 2019年05月05日}で紹介した、販促用パンフレット『新年用見本』(二つ折り中綴じ、東京築地活版製造所、大正15年10月、牧治三郎旧蔵)と極めて関連性のつよい資料だった。
唸ったのは、ここにもベッタリと「禁  出門  治三郎文庫」の蔵書印があったことである。幸い宛名面だけの押印であったが、牧治三郎は蔵書のどこにでも、所構わず、この特異な蔵書印を赤いスタンプインキでベタベタと押していた。

これらの牧治三郎旧蔵資料は神田 S 堂が一括して引き取ったと聞いていた。S 堂は神保町に店舗をかまえる本格的な古書店で、年に数度「古書目録」を発行しているが、そこに一葉だけの「はがき」をみた記憶はない。したがって古書店仲間の市にでも出して、それを「はがき」の扱いを得意としている業者が入手してネットショップで販売したものらしい。あるいはすでに三次循環として稿者が落手した可能性もある。

宛名面には、下部に再紹介したが『新年用見本』(東京築地活版製造所、大正15年10月)中面右ページ下部にある「電気版」で、「 Np. 7  貳拾銭」として紹介されているもので、右起こし横組み「郵便はかき」である。ここには濁点は無い。
切手貼りつけ欄は、罫線で組みたてたのではなく、名刺・はがき・封筒などの印刷をもっぱらとする「端物印刷所」では、かつては必須のもので、これも電気版をもちいたものであろう。
────────────────
絵柄面は「コロタイプ印刷」で、1923年(大正12)に竣工した東京築地活版製造所本社工場の全景写真である。
なにしろ死者・行方不明10万5000人余、住宅全半壊21万余、焼失21万余とされる大災害のあとだけに、東京築地活版製造所ではいちはやく復興をみたとされるが、やはり世情をおもんぱかって、このような簡素な「写真はかき」として記録をのこしたものとおもわれた。
したがって資料の山に埋もれていた牧治三郎老人にとっては、このたった一葉の「郵便はかき」を見つけだすことはほぼ不可能であったと想像された。
それでも正門には「株式会社東京築地活版製造所」の社名が掲示され、「◯も H 」の社旗がはためくこの貴重な資料は、廃棄や破却をまぬがれ、二次循環・三次循環にまわっているのがうれしく、興味ふかいところであった。

この「コロタイプ印刷」は、オフセット平版印刷法がまだ未熟だった1970年ころまでは写真印刷(写真複製)に威力を発揮した技法で、年輩の読者なら卒業アルバムなどで、倍率の高いルーペでみても網点のみられないこの技法独特のなごりをみることができる。
しかしながらこのコロタイプ印刷法は現代ではすっかり衰退して、現業の業者は京都に三社を数えるのみとなっている。
ウィキペディアに要領よく説明があったので、一段下にその抜粋を紹介する。

下部の右起こし横組みの「株式会社東京築地活版製造所」の社名は、既述のパントグラフをもちいて製作された「平形書体見本」にみるものである。
同社ではこれをしばしば「社名制定書体 ≠ ロゴタイプ」として、縦組み・横組みを問わずにもちいていた。字画形象からみて「二号平形」とみられるが、写真技法を経たせいか原寸を欠いている。

【 コロタイプ 】ウィキペディアゟ
コロタイプ(英語 :  collotype)は製版方法の一種で、平版の一種である。実用化された写真製版としては最も古いもので、かつては絵葉書やアルバム、複製などに広く使われたが、現在では特殊な目的以外では使われていない。

技    法
ガラス板にゼラチンと感光液を塗布して加熱することによって版面に小じわ(レチキュレーション)を作る。それに写真ネガを密着して露光すると、光のあたった部分のゼラチンが硬化して水をはじくようになる。
版面を湿らせると水を受けつける部分が膨張してインクがつかなくなるため、硬化した部分にだけインクが付着する。インク付着量の大小によって連続階調が表現され、オフセット印刷のような網点を持たないことを特徴とする。

欠点は印刷速度が遅いこと、耐刷力がないこと、複版する手段がないこと、多色刷りが難しいことなどで、このために現在ではほとんど行われていない。

歴    史
コロタイプはフランスで生まれ、1876年にドイツのヨーゼフ・アルバートによって実用化された。
日本では  小川一真  が1883年にボストンで習得し、帰国後の1889年に新橋で最初のコロタイプ工場を開いた。日露戦争時にコロタイプと石版を組みあわせた絵葉書が大ブームになった。
1897年には横浜のドイツ商館アーレンス商会出身の上田義三が欧米留学ののち、コロタイプ印刷業「横浜写真版印刷所(のち上田写真版合資会社)」を開業した。

便利堂(1887年創業、1905年からコロタイプ印刷を行う)の佐藤濱次郎は法隆寺金堂壁画の原寸撮影を1935年に行い、それを元にコロタイプによる複製を1938年に作った。1949年に壁画は焼失したが、のちにこのコロタイプ複製をもとにして再現された。

効率の悪さから現在はほとんど消えた技術になっている(社名に「コロタイプ」のつく印刷会社は各地にあるが、実際にはオフセット印刷しか行っていない)。しかし文化財の複製のためには重要であり、便利堂はカラーのコロタイプ印刷も行い、また2003年に「コロタイプの保存と印刷文化を考える会」を発足した。

小 川   一 眞(おがわ いっしん/かずまさ/かずま)
万延元年8月15日(1860年9月29日)-
昭和4年(1929年)9月6日)
日本の写真家(写真師)、写真出版者。写真撮影・印刷のほか、写真乾板の国産化を試みるなど、日本の写真文化の発展に影響を与えた。
東京築地活版製造所第五代社長:野村宗十郎は、自伝のなかで、小川一眞の渡米費用の一部を負担するなどして、同社でもコロタイプ印刷法を獲得しようとしていたことを記録している。しかしながら同社の大勢は積極的ではなかったとみられ、事業化に成功した形跡はみられない。

『コロタイプ印刷史』(編著・発行:全日本コロタイプ印刷組合、昭和56年5月8日)
ときおり産業史研究者や、社史編纂者のかたが借りにみえるほど残存部数の少ない資料らしい。コロタイプの歴史・技法が丁寧に紹介され、コロタイプ印刷の製作実例と作品見本が綴じこみ付録として豊富に紹介されている(撮影:青葉水龍 稿者蔵書)。

《まぼろしの 大正16年 正月の年賀状用活字需要に向けて発行された『新年用見本』》

『新年用見本』(東京築地活版製造所、大正15年10月-1926、牧治三郎旧蔵)
<画像修整協力:青葉水龍>

東京築地活版製造所支配人時代の野村宗十郎
東京築地活版製造所専務取締役:第五代社長時代の野村宗十郎

野村宗十郎 のむら-そうじゅうろう 1857-1925

安政四年(一八五七)五月四日長崎に服部東十郎の長男として長崎築地町に生まれる。のち野村家の養子となる。本木昌造の新街私塾に学ぶ。明治二十二年(一八八九)七月陽其二の推薦で東京築地活版製造所に入社。
同二十四年六月『印刷雑誌』に欧米のポイント活字システムを説明したわが国で初の論文を発表。〔ここでの論考はアメリカンポイントの説明としては不十分かつ不適当であり、むしろ現行の DTP ポイントシステムを説いたものだとして、近年では批判もみられる〕。同二十六年米国シカゴで開催の万国博覧会の視察に赴く小川一真に写真製版法の研究を依頼、持ち帰った網版の試験刷に成功し初期の写真製版印刷分野に寄与した。
同二十七年より和文ポイント活字の製造を試み、三十六年大阪で開催の第五回内国勧業博覧会に十数種の見本を出陳した。大阪毎日新聞社は記者菊池幽芳の調査結果を紙上に載せるなどこれに多大な関心を示し、率先して新聞印刷に採用。爾後新聞各社が採用する端緒となった。
出版印刷では四十三年『有朋堂文庫』が九ポイント活字を用いたのが最初である。三十九年社長に就任。大正七年(一九一八)後藤朝太郎に活字の字画整理を、同八年桑田芳蔵に活字の可読性の調査を依嘱するなど活字の改良普及に貢献した。同十四年四月二十三日東京で没した。六十九歳。正七位に叙せられた。
[参考:『日本印刷大観』(東京印刷同業組合編、昭和13年、この項は牧治三郎執筆)]

<タイポグラファ群像*003 牧治三郎 2011年08月11日 花筏 初出

続きを読む

【WebSite 紹介】 瞠目せよ諸君!|明治産業近代化のパイオニア 平野富二|{古谷昌二ブログ25}|平野富二による活版印刷機の国産化

6e6a366ea0b0db7c02ac72eae00431761[1]明治産業近代化のパイオニア

平野富二生誕170年を期して結成された<「平野富二生誕の地」碑建立有志会 ── 平野富二の会>の専用URL{ 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、同会代表/古谷昌二氏が近代活版印刷術発祥の地:長崎と、産業人としての人生を駈けぬけた平野富二関連の情報を記述しています。
本稿もこれまでの「近代産業史研究・近代印刷史研究」とは相当深度の異なる、充実した内容となっております。関係各位のご訪問をお勧めいたします。
────────────────
[古谷昌二まとめゟ]

平野富二による活版印刷機の国産化は、明治5年(1872)7月に上京して神田和泉町に長崎新塾出張活版製造所を開設したときから、準備が進められたと見られる。
その目的は、あくまでも活字・活版の販売を促進するためであったと見られ、開設から3ヶ月後には、早くも印刷機の販売について新聞広告を出している。
取りあえずの対応は、本木昌造が自社で使用するために設計し、長崎製鉄所に依頼して製作した木鉄混用の手引印刷機を複製して販売することからはじめられた。しかし、これは販売を目的として開発されたものではなく、間つなぎ的なものであった。

神田和泉町では、幸い身近に外国製の小型手引印刷機とロール印刷機があったことから、これを分解して型を取り、模造することによって国産化を果たすことができた。それにより、活版印刷の普及と事業の拡大に大きく寄与することになった。
しかし、ロール印刷機の国産化を果たして販売できるようになるのは、築地二丁目に新工場を建設して移転してからであった。
活版印刷の需要が急速に拡大する中で、多くの引合が寄せられるようになり、より大型で高性能の活版印刷機が要求されるようになったことに対応するため、築地二丁目に移転後、各種印刷機の本格的製造体制を整えることになる。
本格的な生産体制の整備と機種の品揃えは、明治6年(1873)7月に築地に新工場を建設してからであり、今後の動向と発展についての紹介は後日に譲ることとする。

古谷昌二ブログ ── 平野富二による活版印刷機の国産化

はじめに
(1)活版印刷機の国産化に着手
<最初の活版印刷機の販売広告>
<当時、新塾出張活版製造所で所有の活版印刷機>
<平野富二の明治6年の「記録」>
(2)最初の自社製印刷機
(3)当初の印刷機製造態勢
(4)ロール印刷機の国産化
(5)その後に国産化された足踏印刷機
(6)わが国における活版印刷機の渡来の歴史
まとめ

【展覧会】宇都宮美術館 企画展|視覚の共振・勝井三雄 visionary ∞ resonance : mitsuo katsui|4月14日ー 6月2日 好評開催中

宇都宮美術館 企画展
視覚の共振・勝井三雄
visionary ∞ resonance : mitsuo katsui
2019年4月14日[日] ー 6月2日[日]
開館時間  午前9時30分-午後5時   *入館は午後4時30分まで
休  館  日  毎週月曜日
観  覧  料  一般 800円、大学生・高校生 600円、中学生・小学生 400円 
主  催  宇都宮美術館

【 詳細: 宇都宮美術館 】 
────────────────

[ 写真提供: 日吉洋人   参考:日吉洋人 Facebook

続きを読む

【もんじ】活字書体:ファンテール|誕生から消長|ヴィクトリア朝影響下の英米にうまれ、明治-昭和を生きぬき令和で甦ったもんじの歴史

『東京築地活版製造所 活版見本』(東京築地活版製造所、明治36年版、486ページ、非売品)
上)書容全貌  下)口絵Ⅰ:銅版画を原版として電気版をおこして印刷したとみられる

『東京築地活版製造所 活版見本』は、当時東洋一の活版製造所を誇り、自他共にそれを許した東京築地活版製造所による、わが国活版印刷史上最大規模を誇る「活版見本」である。
同社では明治中期以降「大見本帖の作成中」としばしば広報していたが、日清戦争(1894-95)、為替変動、経済変動などの影響があって遅延していたものである。

また刊行直後には日露戦争(1904-05)に突入するという国家的な緊張下にありながらも、第四代社長:名村泰蔵(1840-1907)の指揮によって、ようやく明治36年-1903-11月01日に完成をみた大冊の見本帖である。
主要内容 ── 活字:120ページ、花形・オーナメント:174ページ、電気銅版:180ページ ほか。前後のつき物を含めて486ページの威容を誇る。

稿者蔵書には贈呈番号「壱壱貳-112」がしるされ、のちに東京築地活版製造所の役員になった人物への寄贈書であったが、それに続く、口絵Ⅱ、表「本木昌造胸像」図版、裏「第一-第五回 内国勧業博覧会」授賞記録の一丁が脱落していた。
そのため贈呈番号「壹四-14」がしるされた旧帝国図書館に寄贈された同書、現在の国立国会図書館の公開データーからその一丁裏を補って紹介した。

「内国博覧会」受賞記録の口絵は、マイクロフィルムからのデーター変換のため、特色印刷部分がモノクロとなり、やや不鮮明ではあるが、ページ上部の「第一-第五回 内国勧業博覧会」にみる活字は、のちに紹介するいくぶん扁平な一号装飾書体見本「一号三分ノ二 フワンテール形」活字である。

【印刷事典 第二版】(大蔵省印刷局、昭和41年)
* 『印刷事典』では第二版からこの項目が登場し、現行の第五版まで微修正を経て継続紹介がなされている。第五版では「ファンテル → ファンテール」と新かな使いに変更されている。
* 『印刷事典』では「装飾活字」の項目は「ファンシータイプ」へ誘導される。
 
ファンシータイプ fancy type ; Auszeichnungsschrift, Zierschrift
意匠組版に用いられる装飾活字体。本文活字に対していう。アウトライン(outline)・シャドー(shadow)・シェード(shaded)などのように輪郭線だけのもの、影つきのもの、万筋(まんすじ)入りのものなどをはじめ、ローマン体の特に肉太(にくぶと)の書体もこれに含まれ、その他これらの範囲に属さない装飾活字書体も多数ある。(同)装飾活字 →

ファンテルたい ── 体
和文活字の書体名。装飾活字の一種。明朝体とは反対に、縦線が細く横線の太い特殊な書体で、年賀状あるいは広告組版など以外にはあまり使われない。邦文写真植字機〔写植活字〕にもこの書体がある。

口絵Ⅱ「第一-第五回 内国勧業博覧会」受賞賞牌(賞杯)記録の活字(下部)は、いくぶん丸みをおびたゴシック体活字であるが、画線部の肥痩がめだち、重心が揺らぐなどの未整理な形象が気になる。すなわちまだ素朴ではあるが、それだけに味わいのある、初号装飾體見本のうちの「ゴチック書體 ≒ ゴシック体」の興味ぶかい標本である。
この上掲図版とほぼ類似の組み合わせ、すなわちフワンテール FANTAIL と、丸ゴシック系の欧文書体 ROUND GOTHIC が、『東京築地活版製造所 活版見本』 pp 53 に紹介されている。

『東京築地活版製造所 活版見本』活字編 53 ページに紹介された欧文活字に「 FANTAIL.  No.1 」がある。上段は「PICA」で、フォント・スキーム[活版印刷用語集 フォント・スキーム]は 30 A, 60 a, 8 łbs と表示されている。
すなわちこの活字の名称は「 FANTAIL.  No.1 」で、サイズは「PICA=12 pt」、フォント・スキームは 30 本の A, 60本の a のキャラクターで構成されており、重量は 8 łbs = 8 ポンド ≒ 3,628 グラムであることをあらわしている。

『東京築地活版製造所 活版見本』活字編 53 ページに紹介された欧文活字に「 FANTAIL.  No.1 」がある。その下段は「2 – LINE SMALL PICA 」で、フォント・スキームは 28 A, 60 a, 8 łbs と表示されている。
すなわちこの活字の名称は「 FANTAIL.  No.1 」で、サイズは「2 – LINE SMALL PICA =21 pt 二号活字格」、フォント・スキームは 30 本の A, 60本の a のキャラクターで構成されており、重量は 8 łbs = 8 ポンド ≒ 3,628 グラムであることをあらわしている。

【 英和辞書にみる  ファンテール fantail 】

1 扇形の尾[端、部分]。
2 クジャクバト:扇形の尾を持つイエバトの一品種。
3 扇形の尾を持つ小鳥の総称;アジア南部、ニューギニア、オーストラリアなどに分布するオウギヒタキ属 Rhipidura の各種のヒタキ(fantail flycatcher)や、米国産のオウギアメリカムシクイ(fantailed warbler)など。〔以下略〕
[参考:ランダムハウス英和大辞典(小学館)図版とも]

【 欧文活字にみる  ファンテール fantail 】

ファンテール Fantail
欧文活字書体 Fantail は、19世紀英国のビクトリア朝を模した書体として知られ、命名の由来となったとみられる孔雀鳩の尾のように、おおきく広がった画線部先端の処理が特徴である。
またふつうの欧文・和文活字に共通してみられる、縦画を太く、横画を細く描くのとは逆に、縦画が細く、横画が太く書かれていることを特徴とする。いわゆる「猫足型」のカーブや尖端には、仏国のアール・ヌーボーの影響もみられる。

「Fantail」の最初は、米国オハイオ州シンシナティのフランクリン活字鋳造所の1889年版活字見本帳『Convenient Book of Specimens』(Franklin Type Foundry)に「Fantail」の名称で、おもに大きなサイズで登場したとされる。

1892年にアメリカ活字鋳造所会社(略称:A T F,   American Type Founders Company)が設立されると、同社もその販売店となったとみられ、稿者所有の A T F 活字見本帳1907年-明治40-には、Franklin Type Foundry の名称はすでに無く、かつての所在地が「Selling Houses-Cincinnati, Ohio  124 East Sixth Street」とされた紹介をみる。
[参考:フワンテル形、またはファンテール書体について  何某亭 WebSite 雑文集積所

────────────────
中央の罫線から下、上段は「 ROUND GOTHIC,  No.2 」が紹介されている。
すなわちこの活字の名称は「  ROUND GOTHIC,  No.2 」で、サイズは「ENGLISH ≒ 13.75 pt  旧四号活字格 」、フォント・スキームは 35 本の A, 65 本の a のキャラクターで構成されており、重量は 10 łbs = 10 ポンド ≒ 4,536 グラムであることをあらわしている。

中央の罫線から下段は「 ROUND GOTHIC,  No.2 」が紹介されている。すなわちこの活字の名称は「  ROUND GOTHIC,  No.2 」で、サイズは「3 – LINE PICA=36 pt 」、フォント・スキームは 10 本の A, 15 本の a のキャラクターで構成されており、重量は 20 łbs = 20 ポンド ≒ 9,072 グラムであることをあらわしている。

*    本稿でのポイントとは「アメリカン・ポイント」をあらわしている[サラマ・プレス倶楽部 活版印刷用語集 活字の大きさ]を参照
フォント・スキームは[サラマ・プレス倶楽部 活版印刷用語集 フォント・スキーム]を参照。
なお当時の業務用欧文活字の販売は、フォント・スキームによる字種構成・字数配当にもとづき、その重量で価格が設定されていた。

**  『東京築地活版製造所活版見本』の組版版面は、ほんの一部に異同はあるが、左右 35 PICAS( 12pt × 35 PICAS=420 points ),  五号40倍(10.5pt ×40倍=420 points )、すなわち 左右 420 points に統一されている。
***  五号40倍とは「魔法の小箱=文選箱」の長辺の内のりに等しい。そのため活字組版上における利便性がたかく、小社サラマ・プレス倶楽部が現在も製造・販売している「木インテル」は、五号 40倍・12pt  35倍(420pt)と、五号 24倍・12 pt  21倍(252 pt)が主流である。

[参考:【かきしるす】文字組版の基本|ポイント (points)、パイカ (picas)、ユ ニット (units) |現代の文字組版者にとって基本尺度/スケールは不要なのか?

《明治36年 和文活字書体に展開された装飾書体フワンテール形とゴチック形》

『東京築地活版製造所 活版見本』(東京築地活版製造所、明治36年版、28-29ページ)

『東京築地活版製造所 活版見本』の 28-29 ページに、「装飾体活字見本」として、初号(42 pt)、一号( ≒ 27.5 pt)、二号(21  pt)、三号( ≒ 16 pt)の比較的おおきなサイズの活字に「フアンテール形」活字の紹介をみる。文例は「 奉 祝 敬 恭 謹 」の六字種である。
管見ながら、東京築地活版製造所の活字見本帖に「フワンテール形活字」が発表されたのはこれが初出であるが、おそらく先行して、業界紙誌への広告と、需要家(ユーザー)への告知 ── チラシ・パンフレットなどの配布がなされていたとおもえる。

欧文活字「Fantail」と同様に、孔雀鳩の尾のような末広がり状の形象を特長とするので、おそらく欧文活字に倣って和文活字を製造し、名称も「フアンテール形、新かな使い → ファンテール」と名づけたとおもわれる。
明治中期に東京築地活版製造所で精力的につくられた「装飾書体」のひとつであるが、年賀状などの端物印刷に好んでもちいられ、ひろく普及した。
また写植活字の最初期に「字幕体」とならんで「ファンテール」として登場した書体ともなっている。
写植活字「字幕体・ファンテール」に関しては、いずれ志茂太郎による『書窓 11ー印刷研究特輯』(アオイ書房、1936年02月)とあわせて紹介したい。

「初号装飾書体見本」には八種類の活字書体が紹介されている。
「フアンテール形」のほかに、「ゴチックシャデッド形」「ゴチック形(シャデッド色版)」「蔓形」「矢ノ根形」「ゴチック霞形」「唐草形」「色刷見本」などがある。
これらの書体はおもに慶弔用・年賀状用などの使途を意識していたとみられ、多分に実験的に製造されたものであり、どこまでの字種を備えていたかは不明である。

「一号装飾書体見本」には、「ゴチック形(シャデッド色版)」「ゴチックシャデッド」「色刷見本」「フワンテール形」「ビジョー形」のほかに、後述するが、扁平書体を製作するための道具・器具-パントグラフ-をもちいたとみられる「三分ノ二 フワンテール形」がある。
同社ではこの技巧を加えた活字がよほど自慢だったのか、上掲の本書口絵Ⅰ「内国博覧会」受賞記録のページ「第一-第五回 内国勧業博覧会」にもちいられている扁平活字は、この「一号装飾書体 三分ノ二 フワンテール形」活字である。

「二号装飾書体見本」と「三号装飾書体見本」には、ともに「ゴチック形」「フワンテール形」活字がある。

ここまでくどくどと説明をしてきたが、読者諸賢にあっては、わが国における「ゴチック形 → ゴシック体」とは、「フワンテール形」とほぼ同様の歴史をもち、「装飾書体」「ファンシータイプ」、いまならさしずめ「ディスプレータイプ」とされていたということを記憶していただきたい。
さらに言をかさねれば、1930年代に小規模な活字鋳造所「藤田活版製造所」が、意欲的にゴチック形の改刻にあたっていたという歴史も見逃せない。残念ながらそこからは「フワンテール形」は洩れていた。

また昭和15年ころからの時局下で展開された官制の国民運動「変体活字廃棄運動」においては、フワンテール形・ゴチック形双方の活字は、不要・不急の活字とされたこともあわせて記憶して、これ以降を読み進めていただけたら嬉しい。
[参考:「変体活字廃棄運動と志茂太郎」『活字に憑かれた男たち』片塩二朗、朗文堂、1999]

────────────────
『東京築地活版製造所 活版見本』の 80  ページに、「二号ゴチック書体見本」「三号ゴチック書体見本」「四号ゴチック書体見本」「五号ゴチック書体見本」が紹介されている。
さすがにここまでの小ぶりなサイズになると、初号サイズ・一号サイズにもちいられていた「装飾書体」の字句は姿を消しているが、明朝活字へ向けたような強いこだわりはみられず、カウンター(字の内部空間)がつまり気味で、偏と旁のバランスに欠け、全体の結構もまとまりが無く、必ずしも自慢できるレベルには到達していないとみられる。

なによりもここにはひら仮名・カタ仮名の展開はみられないことに注目して欲しい。
この時代には、まだ書体ごとに随伴する仮名活字を製造するならいはないが、pp 26 に「六号仮名書体見本」が四種類紹介されている。ここにゴチック形との併用を意図したとみられる、イロハを文例としたカタ仮名活字をみるが、ここにはひら仮名活字はみられない。
同様に pp 33 に五号サイズのかな活字が七種紹介されているが、ここにもひら仮名はなく、わずかに「五号ゴチック片仮名」がイロハを文例として紹介されている。

「ゴチック/呉竹」などとあらわされていた金属活字の時代、こうした状況は東京築地活版製造所だけではなく、どこの活字鋳造所でも大同小異の状況にあった。
すなわち産業革命下の英国で誕生し、米国経由でもたらされた「サンセリフ ≒ ゴシック」は、直線を主体として、硬質で均等な線巾で描かれていることを特長として登場した。
そんな造形性が背後にあったため、筆写のなごりをとどめて、柔軟で、抑揚と脈絡をともない、起筆と終筆に特長をおき、肥瘦や曲折部を描くことの多かった「わが国の仮名書体製作者」── 多くは木版彫刻士・印判士・書芸家から転じた活字原字製作者 ── にとってはかなり手強い対象だったようである。

すなわち漢字のゴシック体は容易に習得できたとおもえるが、漢字と同様に直線部の多いカタ仮名活字はともかく、ゴシックのウエイトに相当するひら仮名活字の開発は容易には進まなかった。
この現象はこんにちなお尾を引いており、マンガ図書の吹き出しに「ゴシック体漢字+アンチック体仮名」の採用をみる。周知のようにアンチック体は肥瘦と屈曲部に特長があり、かつては大きくて太い明朝体と併用されることが多かったかな活字書体である。
[参考:きみは富士山をみたか-判別性・可読性・誘目性三要素を重視するマンガ組版(
『文字百景 72』片塩二朗、1999年9月]

わずかに昭和初期に、東京神田連雀町:藤田茂一郎による「藤田活版製造所」が、遅れていたひら仮名・カタ仮名の開発をふくめ、初号-六号におよぶゴシック体活字の全面改刻にあたり、あわせて改良型ゴシック、細形ゴシックなどを意欲的に開発した。
なお神田連雀町-れんじゃくちょう-は関東大震災によってほとんどが焼失したが、東京大空襲の被害は軽微だった。それでもその後の区画整理で神田須田町・神田淡路町に名称がかわって、旧在地などは判明し難くなっている。

それだけでなく、「藤田活版製造所」は昭和中期の時局下において、ゴシック体活字は不要不急の活字書体とされたため「変体活字廃棄運動」の影響がおおきく、活字製造設備のほとんどを没収されるという悲劇をみるにいたった。
したがって戦後になると、時局下にあって
四散した「藤田活版製造所」の資料を各社がもちいるところとなり、また機械式活字母型彫刻機の国産化などもあって、現存する電子活字の一部をふくめて、旧金属活字時代からの歴史を有するベンダーのライブラリーのうち、「硬い線質」と評されるゴシック体のほとんどは、四散した「藤田活版製造所」製のゴシック活字の影響下にあることがわかる。

ちなみに藤田茂一郎の子女:よし子は、1946年-昭和21年-神田鍛冶町に創業した晃文堂:吉田市郎(1921-2014)に嫁したが、結婚後いくばくもなく結核のために子をなさずに逝去した。それでも晃文堂ゴシック、後継企業のリョービゴシックは「硬い線質」といわれ続けた。
活字の玄妙さはこんなところにも潜んでいる。
[参考:花筏 タイポグラファ群像007*【訃報】 戦後タイポグラフィ界の巨星:吉田市郎氏が逝去されました

活字編 pp 81 には「各号竪平形書体見本」が12種類紹介されている。
これはのちの写植活字の時代になると、かまぼこ形の光学レンズをもちいて字画を変形させて、「平形 → 平体」「竪形 → 長体」とあらわされたものであるが、ここでは下掲図にみるような簡便な道具「パントグラフ」をもちいて図形を拡大・縮小させていた。あわせてアーム設定によって縦横比を変え、それぞれ50%ずつ扁平・長体にしたものである。
[参考:「印刷局と工部美術学校の狭間で」『印刷と美術のあいだ』(森 登、印刷博物館、2014年10月18日)]

東京築地活版製造所では本ページの頭頂部「柱」の使用にもみるように、さっそく同社のロゴタイプのようにしてもちいたりしたが、販売は限定的であったとされる。
それでもこの簡便で、ひと目を惹きやすい-誘目性-にすぐれた技法は、大正期の半ばともなると他社の知るところとなり、中京と京阪神の活字鋳造所を中心に、扁平明朝や長体明朝が相次いで製造されるようになった。
大阪の新聞社用に「扁平明朝体・新聞明朝体」を製造販売した森川龍文堂、ハワイの都新聞用にむけて「長体明朝」を製造販売した津田三省堂などが積極的であった。

パントグラグラフの原理をわかりやすく説いた図版。1867年 ウィキペディアゟ

米国 A T F 社のリン・ベントン(Benton, Linn Boyd 1844年-1932年)が1885年-明治18年-に考案した「機械式活字父型・母型彫刻機-俗称ベントン彫刻機」は、上掲図のパントグラフの概念と基本構造はおなじであり、そこに電動モーターによる精密彫刻機を付加したものである。

東京築地活版製造所は印刷局とともに、大正期に「俗称:ベントン彫刻機」を導入したが、その使途は限定的であったとされる。「機械式活字父型・母型彫刻機」は戦後の復興期に国産化され、もっぱら俗称:ベントン彫刻機とされて普及をみた。
[参考:「工芸者の時代から技術者の時代へ」『秀英体研究』(片塩二朗、大日本印刷、2004)]

《『本木号』にみる明治最末期-大正初期に展開したフワンテール形》

『本木号』(大阪印刷界第32号、明治45年06月17日 印刷図書館蔵)

明治帝の晩年に、その治世下における位階贈与に遺漏の詮議があり、故本木昌造への位階進呈が長崎県を通じて申請され、「従五位」が追贈された。
大阪の印刷業界誌「大阪印刷界」は一号につき10銭の月刊誌であったが、この贈位を祝して特別企画『本木号』の刊行をはかり、おもに大阪:谷口活版所(大阪活版製造所の後継企業-二代目谷口黙次)、東京築地活版製造所が、それぞれ「金三百円也」、その他の企業からの資金提供をうけて製作された特別号である。
巻末に取材先、資料提供者の一覧があるが、そこにはすでに病没していた本木昌造の継嗣:本木小太郎はもとより、既知の本木家親類縁者の名前はいっさいみられない。いずれにせよ本誌発行からまもなく明治帝が薨じて、明治45年-1912-7月30日に大正に改元された。

『本木号』は全200ページほどの雑誌であるが、ページ番号がふられた80ページほどをのぞくと、ほかは大小のスペースの慶祝広告によって占められている。
表紙デザインはアール・ヌーボー調で、題字はファンテール形のレタリングによって描かれている。広告の多くにも活字フアンテール形と、レタリングによるフアンテール体、そして装飾活字のゴチック形活字があふれている。

《東京築地活版製造所衰退の予兆となった『活字と機械』》

『活字と機械』(東京築地活版製造所、大正3年6月)

B 5 版、132ページ、和装仕立ての図書である。ページ番号は付与されていない。
活版印刷用の機器と資材を詳細に紹介し、その側面からみると資料性はたかいが、こと活字製造に関しては既述の明治36年版『活版見本』から、花形・オーナメント、電気銅版の都合354ページ分が脱落しており、 活字:120ページも大幅に縮小されて、その活字内容にもおおきな進展はみられない。
その結果、活字版印刷術 ≒ タイポグラフィにおける総合技藝としての側面が減少して、活版印刷=活字という、視野狭窄と視座の幼児性と矮小化を招く一因となったことは指弾せざるをえない。

本書の編輯兼発行者としるされているのは、同社第五代社長:野村宗十郎(1857-1925)であるが、活版印刷用の機器と資材の紹介内容は、先述した名村泰蔵(1840-1907)が10年がかりで計画・実現させた「東京築地活版製造所月島分工場」による製品群であり、野村宗十郎の功績とはいいがたい。

冒頭の活字編には、支配人時代から野村宗十郎が提唱した、号数制からポイント制活字への移行を急ぐあまり、基本書体の明朝体においても、移植が主体であることが目立ちすぎ、開発が場当たり的であり、拙速と欠陥が際立つ結果となっているのは残念である。

五号ゴチック、六号ゴチックには、はじめてひら仮名活字が登場するが、濁点・半濁点の処理にとまどうばかりで、どう評すれば良いのか戸惑うほどの形姿となっている。

いずれにせよ、東京築地活版製造所「中興の祖」とされるのは野村宗十郎であり、昭和13年-1938-に同社が清算解散にいたったのは、関東大震災による被害のためとされるが、ここに稿者は、いくぶん異なった視点から野村宗十郎をみていることだけをしるしておきたい。

《まぼろしの 大正16年 正月の年賀状用活字需要に向けて発行された『新年用見本』》

『新年用見本』(東京築地活版製造所、大正15年10月-1926、牧治三郎旧蔵)

   
牧  治 三 郎 67歳当時の写真と、蔵書印「禁 出門 治三郎文庫」
1900年(明治33)-2003年(平成15)歿。行年103。
[参考:花筏 平野富二と活字*03 『活字界』牧治三郎二回の連載記事に戦慄、恐懼、狼狽した活字鋳造界の中枢

大正12年-1923ー9月13日午前11時58分に関東大震災が発生した。東京築地活版製造所は新社屋(下部左)の落成がなり、月島分工場などに一時移動させていた設備を、新社屋にむけての搬入作業がつづいていたさなかのことである。
汗みずくになって搬入作業にあたっていた従業員に、昼食がつげられた直後に激震が襲ったとされる。ほとんどの家庭では、裸火での昼食の準備中だったためもあって、地震にくわえて火災の影響も大きく、この震災の被害は死者・行方不明者10万5000人余、住家全半壊21万余におよび、京浜一帯は壊滅的打撃をうけた。

幸い重量物の取扱を前提として建築された新社屋は、軽微な被害で済んだが、隣接していた創業家:平野家は、敷地内にあった東京築地活版製造所社員尞ともども土蔵をのぞいて全焼し、第四代社長:名村泰蔵が心血をそそいで建造した月島分工場も全焼した。
それでも復旧作業が全社員をあげて展開され、まもなくビルの一画に「◯も」の社旗が翻って、築地地区の話題となるほどだったとされる。

そんな無理がたったのか、大正14年4月23日、野村宗十郎は逝去した。行年69であった。
この資料の旧蔵者であった牧治三郎は、資料複写を許諾した際にこんなことを漏らしていた。
「野村〔宗十郎〕先生は、頭は良かったが、気がちいせえひとだったからなぁ。 震災からこっち、ストはおきるし、金は詰まるしで、それを気に病んでポックリ亡くなった」

野村宗十郎の逝去によって東京築地活版製造所第六代社長に就任したのは、平野富二と長いつき合いのあった松田源五郎の長男:松田精一(長崎十八銀行頭取・衆議院議員を兼任)であった。
[参考:花筏 [良書紹介]渋沢栄一に学ぶ「論語と算盤」の経営+〝ふうけもん〟か十八銀行:松田源五郎

ちなみに東京築地活版製造所歴代の代表専務取締役社長は、第三代:曲田 成(まがた しげり 元阿波藩藩士)をのぞくと、ほとんどすべてが長崎県出身者によって占められていた。
[参考:花筏 平野富二と活字*02 東京築地活版製造所の本社工場と、鋳物士の習俗

さらに本資料『新年用見本』(東京築地活版製造所、大正15年10月-1926、牧治三郎旧蔵)には、もうひとつのドラマが秘められている。
「このビラは、もしかすると回収されていたかもしれない代物だ。満天下でオレしかこんなものはもってないだろうよ」
すなわち『新年用見本』として用意された、この中綴じ8ページのパンフレットはもちろん、ここに紹介された「初号ゴチック形・初号フアンテール形 壹個定価拾五銭 奉 祝 敬 恭 謹 賀 新 年 春 正 迎 候」の活字も、「大正16年の年賀状」に使われることはなかったのかもしれない。

すなわち大正15年10月-1926-に本パンフレットが配布されたとしても、それからまもなく大正15年-1926-12月25日に改元となって昭和になった。すなわち 大正時代 とは、大正天皇の在位期間である1912年(大正元年)7月30日-1926年(大正15年)12月25日までであった。

1926年(大正15年)12月25日、大正天皇が崩御し、同日、皇太子(摂政宮)裕仁親王(昭和天皇)の践祚を受け、ただちに改元の詔書を公布して 昭和 に即日改元し、1926年の最後の7日間だけが昭和元年となった。
すなわち西暦の1926年12月25日は、大正15年であり昭和元年でもある。

平成-令和への生前贈位とことなり、わずか7日間だけの昭和元年は、当然国をあげての服喪の期間となり、年があけても賀詞を交わすような祝賀気分になれたかどうかは疑問がのこる。
そんなこともあって、牧治三郎はこの「ビラ」をひどく自慢にしていた。

平野富二という漢-おとこ-がいた。
二十六歳で長崎から上京し、在京わずか二十年、まるで村夫子のような風貌からは想像もつかないさまざまな事業をてがけ、四十六歳の若さで逝去した。
わが国が近代国家になるために、幕末の長崎にもうけられた海軍伝習所・医学伝習所・活版伝習所などに結集し、全国各地に羽ばたいた重厚な人脈にたすけられ、なによりも本人の勤勉努力によって、平野富二が興した造船・重機械製造・運輸・交通などの事業は、こんにちなお継続している企業は多くを数える。

「メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭」を契機として、その生誕地に記念碑が建立され、記念誌の刊行もちかい。
平野富二の東京での最初の事業、活字版製造は後継者に恵まれずに昭和13年に清算解散を迎えた。
その遠因を「フワンテール形・ゴチック形」というふたつの活字書体の消長から探ってみた。まだ「口ごもっている」部分も多いが、読者諸賢は稿者の意のあるところをお汲みとりいただけたら嬉しい。

図書のタイトル『平野号』は、もちろん『本木號』にちなむ。タイトル書体は東京築地活版製造所による「フアンテール形」活字を参照し、「平野富二の会」の若い造形者が選択し、みずからの手によって描いたものである。

【平野富二の会】『通運丸開業広告』から|石川島平野造船所が最初に建造した「通運丸」シリーズ|東京築地活版製造所五号かな活字に影響をあたえた「宮城梅素-玄魚」

本項は、近日発行『平野号 平野富二生誕の地碑建立の記録』(編集:「平野富二生誕の地」碑建立有志の会、発行:平野富二の会、B 5 版、ソフトカバー、384頁)より。
その抜粋紹介の記事として「平野富二の会」のウエブサイトに掲載されたものを転載した。
表紙出力『平野号 平野富二生誕の地碑建立の記録』表紙Ⅰ

表紙の画像は以下より採取した。
◉ 右上:最初期の通運丸 ──『郵便報知新聞』(明治10年5月26日)掲載広告ゟ
◉ 右下・左上:『東京築地活版製造所 活版見本』(明治36年 株式会社東京築地活版製造所)電気版図版から採録

◉ 左下:『BOOK OF SPECIMENS MOTOGI & HIRANO』(明治10年 長崎新塾出張活版製造所 平野富二)アルビオン型手引き活版印刷機ゟ
◉ 中心部の図案:『本木號』(大阪印刷界 明治45年6月17日発行)を参考とした。

kazari-upper

【 石川島平野造船所 ── 現:石川島資料館 】

石川島資料館入口石 川 島 資 料 館
[ 所在地:中央区佃1丁目11─8 ピアウエストスクエア1階 ── もと佃島54番地 ]
digidepo_847164_PDF-6東京石川島造船所工場鳥瞰図『東京石川島造船所製品図集』
(東京石川島造船所、明治36年12月、国立国会図書館蔵)

石川島資料館の地は、平野富二が明治9(1876)年10月に石川島平野造船所を開設したところで、昭和54(1979)年に閉鎖されるまでの103年間のながきにわたって、船舶・機械・鉄鋼物の製造工場であった。この地は嘉永6(1853)年、水戸藩が幕府のために大型洋式帆走軍艦「旭丸」を建造するための造船所を開設した所で、これをもって石川島造船所(現:I H I )開設の起点としている。

石川島資料館は、このような長い歴史を持つ石川島造船所の歴史を紹介するとともに、それと深い関わりを持つ石川島・佃島の歴史と文化を紹介する場として開設された。

web用_200090 300dpi 通運丸開業広告 印刷調整 軽量化-1『通運丸開業広告引札』明治10(1877)年
山崎年信 画 宮城梅素-玄魚 傭書 物流博物館所蔵

『通運丸開業広告引札』(物流博物館所蔵)には、平野富二が石川島平野造船所を開いて最初期に建造した「通運丸」が描かれている。
平野富二が石川島平野造船所を開いて最初に建造した船は、内国通運会社(明治5年に設立された陸運元会社が、明治8年に内国通運会社と改称。現:日本通運株式会社)から請け負った「通運丸」シリーズだった。

内国通運会社は、政府指導で組織化された陸運会社であったが、内陸部に通じる河川利用の汽船業にも進出した。
隅田川筋から小名木川・中川・江戸川を経由して利根川筋を小型蒸気船で運行する計画を立て、明治9(1876)年10月末に開設したばかりの石川島平野造船所に、蒸気船新造4隻と改造1隻を依頼した。

明治10(1877)年1月から4月にかけて、相次いで5隻の蒸気船が完成した。新造船は第二通運丸から第五通運丸まで順次命名された。第一通運丸と命名された改造船は、前年に横浜製鉄所で建造された船艇であったが、船体のバランスが悪く、石川島平野造船所で大改造を行ったものである。
同年5月1日から第一、第二通運丸により東京と栃木県を結ぶ航路の毎日往復運航が開始され、もっぱら川蒸気と呼ばれて話題をあつめ、盛況を呈した。

これらの「通運丸」と命名された小型蒸気船は第五六号まで記録されており、昭和23年代まで運行されていた。

この絵図に描かれた通運丸が第何番船かを特定することはできない。しかし宣伝文から推察すると、利根川下流の木下や銚子まで運行していることから、すでに第五通運丸までが就航していると考えられる。
したがって、石川島平野造船所で納入した五隻の通運丸のいずれかが対象になる。後年、船体の外輪側面に大きく「通運丸」の船名が表示されるが、初期には、この航路は内国通運会社の独占だったため標示されていない。

帆柱のある通運丸を描いた「内国通運会社」新聞広告。当初は一本の帆柱を備えていた。
『郵便報知新聞』明治10年5月26日に掲載。(『平野富二伝』古谷昌二 著から引用)

web用_200097 300dpi 東京両国通運会社川蒸気往復盛栄真景之図 野沢定吉画-1 軽量化船体の外輪側面に大きく船名が表示された通運丸
『東京両国通運会社川蒸気往復盛栄真景之図』明治10年代
野沢定吉 画 物流博物館所蔵

上掲の『通運丸開業広告引札』明治10(1877)年は、画は山崎年信、傭書は宮城梅素ー玄魚の筆になる。以下に詳細を掲載した。

【山崎年信 ── 初代】(1857─1886)
明治時代の日本画家。安政四年うまれ。歌川派の月岡芳年(1839─92)に浮世絵をまなび、稲野年恒、水野年方、右田年英とともに芳年門下の四天王といわれた。新聞の挿絵、錦絵などをえがいた。明治19年没、享年30。江戸出身。通称は信次郎。別号に仙斎、扶桑園など。

────────────────────

「傭書家: 宮 城 梅 素-玄 魚 」

通運丸開業広告引札』の撰並びに傭書は、宮城梅素・玄魚(みやぎ・ばいそーげんぎょ)によるものである。以下は錦絵に書かれた文章の釈読である。[釈読:古谷昌二]

廣 告

明治の美代日に開け。月に進みて
盛んなれば。實に民種の幸をやいはん。
國を冨すも亦。國産の増殖に在て。
物貨運輸。人民往復。自在の策を起
にしかず。されど時間の緩急は。交際
上の損益に關する事。今更論をま
たざるなり。爰に當社の開業は。郵
便御用を専務とし。物貨衆庶の乗
客に。弁利を兼て良製迅速。蒸気
数艘を製造なし。武總の大河と聞たる。
利根川筋を逆登り。東は銚子木下
や。西は栗橋上州路。日夜わかたず
往復は。上等下等の室をわけ。
發着の時間は別紙に表し。少も
遲〻なく。飛行輕便第一に。三千
余万の諸兄たち。御便利よろしと
思したまはゞ 皇國に報ふ九牛
の一毛社中の素志を憐み給ひて。
數の宝に入船は。出船もつきぬ
濱町。一新に出張を設けたる。内國
通運會社の開業より試み旁〻
御乗船を。江湖の諸君に伏て希ふ

      傭書の 序  梅素記

梅素_画像合成_02『通運丸開業広告引札』明治10(1877)年の錦絵の広告文を釈読に置き換えたもの

宮城梅素-玄魚(1817─1880)は、幕末から明治時代の経師・戯作者・傭書家・図案家である。
文化14年江戸うまれ。浅草の骨董商ではたらき、のち父の経師職を手つだう。模様のひな形、看板の意匠が好評で意匠を専門とした。
條野傳平・仮名垣魯文・落合芳幾らの粋人仲間の中核として活動。清水卯三郎がパリ万博に随行したおり玄魚の版下によってパリで活字を鋳造して名刺を製作したとされる。

明治一三年二月七日没。享年六四。姓は宮城。名は喜三郎。号:梅素(ばいそ)玄魚・田キサ・呂成・水仙子・小井居・蝌蚪子-おたまじゃくし-など。
江戸刊本の伝統を継承した玄魚の書風は東京築地活版製造所の五号かな活字に昇華されて、こんにちの活字かな書体にも影響を及ぼしている。

東京築地活版製造所五号かな活字_03

東京築地活版製造所 五号かな活字(平野ホール所蔵)
『BOOK OF SPECIMENS MOTOGI & HIRANO』(明治10年 長崎新塾出張活版製造所)

2013平野富二伝記念苔掃会-10一恵斎芳幾(落合芳幾)が書いた晩年の宮城梅素-玄魚
『芳潭雑誌』より

【 詳細: 平野富二の会 】

【 内国通運会社 】 & 【 日本通運 WebSiteゟ 沿革と歴史 】

続きを読む

【もんじ】そこにも徳本・ここにも徳本|徳本行者六字名号碑|広島県福山市から発見報告

昨年から職場も住居も岡山に移転して、子育てに専念しているマッチャンこと松尾さんです。
順調に第二子も誕生して元気なようですが、アレですアレ、あの ── どこか飄逸な『徳本行者名号碑-南無阿弥陀仏』をみると心が騒ぐようです。
今回は稿者にとっては最西端の地、広島県からの『徳本行者名号碑』発見報告です。
[松尾さんからのお便り]
先週の日曜日(2019年04月07日)に、子どもの寝かしつけもかねて
広島県の鞆の浦までドライブに出かけました。

なんの下調べもなく出かけたのですが、鞆の浦グリーンラインという道路の路肩の
展望ポイントで、久しぶりにあの字 ── 徳本行者名号碑 ── に出会いました。
碑は 鞆の浦 (広島県福山市鞆地区の沼隈半島南端にある港湾およびその周辺海域)に
向かって建っています。背後は尾道方面。
じつに見晴らしのよいところに建っていました。

『徳本行者名号碑』
碑正 面  徳本行者六字名号 南無阿弥陀仏
碑右側面  文政十一戌子年五月建立〔1828年〕
碑左側面  発願主藤江村 岡本内松兵衛

[ 参考: NOTES ON TYPOGRAPHY  【もんじ かきしるす】明治の写真士:内田九一| 医学伝習所・幕府医学所頭取:松本良順|牛痘接種法の普及者:吉雄圭斎と八丈島漂着を共にした本木昌造・平野富二|開港地長崎が〝えにし〟となった紐帯|其の壹

《徳本行者》
続きを読む

【WebSite 紹介】 瞠目せよ諸君!|明治産業近代化のパイオニア 平野富二|{古谷昌二ブログ24}|地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海

6e6a366ea0b0db7c02ac72eae00431761[1]明治産業近代化のパイオニア

平野富二生誕170年を期して結成された<「平野富二生誕の地」碑建立有志会 ── 平野富二の会>の専用URL{ 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、同会代表/古谷昌二氏が近代活版印刷術発祥の地:長崎と、産業人としての人生を駈けぬけた平野富二関連の情報を記述しています。
本稿もこれまでの「近代産業史研究・近代印刷史研究」とは相当深度の異なる、充実した内容となっております。関係各位のご訪問をお勧めいたします。
────────────────

[古谷昌二まとめゟ]
茂中貞次と鳥山棄三の兄弟は、明治5年(1872)から6年(1873)にかけて、神田和泉町に開設されたばかりの「文部省御用活版所」で小幡正蔵の下で勤務した。その後、小幡正蔵が独立したため、隣接していた「長崎新塾出張活版製造所」に移り、平野富二の下で勤務した。

鳥山棄三は、のちに文筆家となって宇田川文海と名乗るが、その頃の事柄を自伝『喜壽紀念』に残しており、平野富二の人柄を知るうえで貴重な記録となっている。

この兄弟二人は、関西地方と東北地方で最初の活版印刷による新聞発行に関わった。その後、兄の茂中貞次は活版印刷所の経営者となり、弟の鳥山棄三は新聞記者、新聞小説家となって、兄弟共に神戸、大阪で活躍した。
現在では、宇田川文海といっても、その名前を知る人はほとんどいないが、その才能を見出し、その道に進むよう勧誘した平野富二の人を見る目を高く評価したい。
〔資料:
『喜壽紀念』宇田川翁喜壽紀念会、大正14年、東京大学明治新聞雑誌文庫蔵〕

古谷昌二ブログ ──── 地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海 

ab8a2b0e21f54ff5474ba991de0cb37c-300x199◎ 古谷昌二ブログ
[管理人:「平野富二生誕の地」碑建立有志会事務局長 日吉洋人]

① 探索:平野富二の生まれた場所
② 町司長屋の前にあった桜町牢屋
③ 町司長屋に隣接した「三ノ堀」跡
④ 町司長屋の背後を流れる地獄川
⑤ 矢次事歴・平野富二祖先の記録
⑥ 矢次家の始祖関右衛門 ── 平野富二がその別姓を継いだ人
⑦ 長崎の町司について
⑧ 杉山徳三郎、平野富二の朋友
⑨ 長崎の長州藩蔵屋敷
⑩ 海援隊発祥の地・長崎土佐商会
⑪ 幕営時代の長崎製鉄所と平野富二
 官営時代の長崎製鉄所(その1)

⑬ 官営時代の長崎製鉄所(その2)
⑭ ソロバンドックと呼ばれた小菅修船場
⑮ 立神ドックと平野富次郎の執念
 長崎新聞局とギャンブルの伝習
 山尾庸三と長崎製鉄所
⑱ 本木昌造の活版事業
⑲ 五代友厚と大阪活版所
 活字製造事業の経営受託
 文部省御用活版所の開設
㉒ 東京進出最初の拠点:神田和泉町
㉓ 神田和泉町での平野富二の事績
㉔ 地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海

 地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海 主要内容 >

まえがき
1) 茂中貞次と鳥山棄三について
2) 宇田川文海(鳥山棄三)による平野富二の言動記録
3) 鳥山棄三の秋田での『遐邇新聞』発行
4) 茂中貞次による地方への活版印刷普及
ま と め

わが国最初期の新聞のひとつ『遐邇-かじ-新聞』、第一号(明治7年2月2日)表紙

題号の「遐邇-かじ」は遠近をあらわす。平野富二による長崎新塾出張活版製造所から派遣された鳥山棄三(のち宇田川文海)が編輯者となり、秋田県の聚珍社から発行された。長崎新塾出張活版製造所製の活字が用いられ、漢字は楷書風活字、ルビは片仮名。「人民をして遠近の事情に達し内外の形勢を知らしめ」と記されている。

{新宿餘談}

このたび古谷昌二氏によって紹介されたふたり、兄の茂中貞次はわずかに印刷史にも記録をみますが、弟の鳥山棄三(のち宇田川文海)に関してはほとんど知るところがありませんでした。
当時としては長寿を保った宇田川文海『喜壽紀念』* には、これも記録に乏しい平野富二の生きよう、人柄が鮮明に描かれています。また平野富二一行により、創設直後の神田和泉町と築地二丁目の活版製造所「長崎新塾出張活版製造所」から、想像以上に極めて迅速に、全国各地に、活版印刷関連機器と相当量の活字が、素朴ながらもシステムとして供給されていたことを知ることができます。

読者諸賢は、ぜひともリンク先の古谷昌二ブログ< 地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海 >をご覧いただき、その後さらにご関心のあるかたは、本稿{続きを読む}に、吉川弘文館『国史大辞典』から引用したふたりの記録をご覧たまわりますようお願い申しあげます。

[古谷昌二ぶろぐ まえがきゟ]

平野富二は、東京神田和泉町に「長崎新塾出張活版製造所」を開いて、活字・活版の製造・販売を開始した。
「文部省御用活版所」(のちに「小幡活版所」)で支配人兼技師となっていた茂中貞次と、その下で見習工として働いていた弟鳥山棄三の二人は、明治6年(1873)1月頃、「小幡活版所」が廃止されたため、平野富二の経営する「長崎新塾出張活版製造所」に移り、平野富二の下で働くようになった。
鳥山棄三は、後に大阪における代表的新聞記者となると共に、筆名を宇田川文海と名乗って新聞連載小説家となった。大正14年(1925)8月に『喜壽紀念』として纏めた自伝を残している。その中に、平野富二の下で働いていた頃の事柄が記録されている。

この兄弟二人は、平野富二の指示で、それぞれ鳥取と秋田に派遣され、地方の活版印刷普及の一端を担った。その後、神戸と大阪における初期の新聞発行に貢献している。
本稿では、宇田川文海によって伝えられた平野富二の人柄を示す記録と、鳥取と秋田、更には神戸と大阪における新聞発行とその関連について紹介する。

*  本稿では宇田川文海七十七歳喜寿の祝として開催された「祝壽會」と、東京大学明治新聞雑誌文庫での文献目録にならって『喜壽紀念』とした。そののち国立国会図書館でも館内閲覧が可能であることがわかったので、そこの書誌情報を紹介したい。
◉『喜寿記念』(宇田川文海著、大阪、大正14年、宇田川翁喜寿記念会)

標題/目次/緒言/喜壽紀念/私が新聞記者になるまで/朝日新聞創刊以前の大阪の新聞/阿闍梨契冲/狂雲子〔赤裸々の一休和尚〕/豐太閤と千利休/宇田川文海翁祝壽會の顛末/室谷鐡膓氏/跋

『国史大辞典』(吉川弘文館 ゟ)宇田川文海/茂中貞次 関連資料紹介
続きを読む

【ことのは/もんじ】新元号・令和|なにかと煩瑣なことが多くて……|まぁそのうち馴れるでしょうが

使いますか ? 「元号合字」  ㍾ ㍽  ㍼  ㍻  . .

《 令和 …… 「U+32FF」が既に予約  ヤレヤレ 疲れます 》

2019年05月から使用される元号が「令和」に決まった。発表はエイプリル・フールの四月一日、なにかと想像力が欠如していると感じたが、あまり関心はなかった。こんなことで騒ぐより、もっと肝心なテーマはあるはずだ …… 。
ようやくオンボロパソコンに「令和」を単語登録。その際、無意識にかな変換の「読み」に「りょうわ」としてやりなおし、再登録。「へいせい」のときもそうだったが、この歳になると「れいわ」に馴れるのには時間がかかりそうだ。上掲図版は Windows – OS7、変換ソフトは ATOK の文字パレットである。

ところが、発表以来、印刷業者を中心に「新元号 令和」の活字書体とその字画処理(字体)に関して、悲鳴にも似た@メールや、電話をいただいている。それには誠意をもって対応させていただいている。
また個人的には「令和」、とりわけわが国の一部の活字書体「令」における字体と字画処理の混迷に意見はあるが、「字形」などという意味領域のあいまいなことばが流布した現在、「令」だけで済むわけもなく、基本的にノーコメントとさせていただいている。

金属活字の時代は、活字製造業者が多く、競争が熾烈で、「合字」「連結活字 logotype」と称して、全角の枠の中に明治・大正・昭和などの元号を合わせて鋳込んだ活字を製造販売していた。
それは写植活字にも継承されて、明朝体、まれにゴシック体などの基本書体の「記号」として扱われ、官公庁の文書需要を中心にもちいられた。ただしこれらの時代の「元号合字」は、ほとんどの筆書系活字や、装飾系活字に及ぶものではなかった。

現在の電子活字は、当初は様〻な文字集合コードが存在したが、現在は Unicode(ユニコード)に集約されつつあるようだ。ユニコードは、符号化文字集合や文字符号化方式などを定めた、文字コードの業界規格である。文字集合(文字セット)が単一の大規模文字セットであること- Uni という名はそれに由来する-などが特徴である。

パソコンという軽便なツールが開発され、書体製作ソフトウェアが低廉化・普及して、電子活字は急速に、膨大な書体数と、そのファミリー、ウェイトの拡大、キャラクター数の増大をみるようになった。
そしていつのまにか筆書系活字や、装飾系活字といったジャンルの書体も、同業他社との横並び意識がめだって、キャラクター数の多寡を問われ、良き抑制が効かない時代になっている。
こんな時代 ── 換言すると、およそ官公庁での文書処理での使用が予測されないディスプレー書体(装飾系書体)の、ウルトラボールド/極太書体にまで「元号合字」をつくらなければならなくなった時代 ── 友人知人の書体製作者がかわいそうになる事態である。

しかも上掲図のユニコード「U+32FF」の文字パレットをみると、予約された場所は「◯入りカタ仮名 ㋻ ㋼ ㋽ ㋾」と「合字 ㌀ ㌁ ㌂ アパート・アルファ・アンペアなど」との間(隙間・空き地)であり、やはり もんじ(文字)というより記号の部であることがわかる。
ATOK ではより明瞭で、これらは「単位記号」として、「℃・%・$」などとおなじ場所に配置している。

株式会社モトヤは、金属・写植・電子活字の三世代を生きぬいてきた優良企業である。そこからのメールニュースを紹介したい。
すでにユニコ-ドには上掲図に青で表示した「U+32FF」という領域(陣地)が「令和」のために確保されている。多くの友人・知人は、その予約された領域を埋める作業に追われることになる。
────────────────
株式会社モトヤ

モトショップ メールニュース 20190402
弊社書体の新元号「令和」への対応について

続きを読む

【展覧会】五文庫連携展示|東京・神奈川の五つの特殊文庫で東洋の叡智に触れる千年の旅 ──知の宝庫をめぐり、珠玉の名品と出会う|特殊文庫の古典籍

五文庫連携展示
東京・神奈川の五つの特殊文庫で東洋の叡智に触れる千年の旅
──知の宝庫をめぐり、珠玉の名品と出会う

特殊文庫の古典籍

大東急記念文庫(五島美術館)・慶應義塾大学三田キャンパス(斯道文庫)・東洋文庫・静嘉堂文庫・金沢文庫と「五文庫連携展示 特殊文庫の古典籍」と題して、同時期に書物に関する展覧会を連携して開催します。
詳しくは こちら(リンク先:https://www.gotoh-museum.or.jp/classic.html)をご覧下さい。

【展覧会】宇都宮美術館 企画展|視覚の共振・勝井三雄 visionary ∞ resonance : mitsuo katsui|4月14日ー 6月2日

宇都宮美術館 企画展
視覚の共振・勝井三雄
visionary ∞ resonance : mitsuo katsui
2019年4月14日[日] ー 6月2日[日]
開館時間  午前9時30分-午後5時   *入館は午後4時30分まで
休  館  日  毎週月曜日 * 4月29日[月]・5月6日[月]は開館
観  覧  料  一般 800円、大学生・高校生 600円、中学生・小学生 400円 
主  催  宇都宮美術館 
────────────────
人が人へ情報を伝える、それを不特定多数で共有する、そして世界共通の命題を解決するために役立つコミュニケーション・デザインの歴史は、19世紀に遡ります。人々の生活をより良くし、未来を拓く道具、空間や都市をテーマとする他の領域も同様です。モダニズム(近代主義)の確立、二つの世界大戦、地球環境に対する意識の高まりなど、私たちの暮らし・生き方を変貌させる出来事が次々と起こった20世紀は、デザインがいっそう身近になりました。デザイナーの活躍の場も広がり、その役割が重要となったのはいうまでもありません。

こうした背景を踏まえ、激動の時代を経験してきた勝井三雄-かついみつお-は、常に世の中とデザインの動き、現在の有り様に鋭い視線を注ぎ、明日を見据える創造的な挑戦を60年余にわたって続けています。グラフィック、エディトリアル、C I を中心に、サイン、ディスプレイ、空間構成ほか、多様な媒体のアート・ディレクターを務めるなかで、領域の枠組みにとらわれることなく、デザインの理論・表現について、その可能性と普遍性を模索してきたのです。
すなわち、状況にふさわしい視覚伝達を介して、物事の本質に触れるスムーズなコミュニケーションがどれほど人々の相互理解を促し、生活、文化、社会、環境を充実させることができるか、その優れた手段・取り組みの提案こそが、勝井三雄の仕事の根幹にあります。

本展は、まず「時代」に焦点を当て、今日に至るデザインの社会史と、国内外のデザイナー、写真家、美術家、建築家、音楽家、評論家、編集者、小説家、科学者、民族学者ら、勝井三雄が影響を受け、協働した人々とのつながりを示すところから展示が始まります。続いて、ポスターや映像など「色と光」の分析・実験・展開に基づく作品群、小冊子のエディトリアルから国家的規模の博覧会ディスプレイまで、あるいは企業・学校・文化施設の存在意義を体現するCI、地球を俯瞰するインスタレーションなど「情報の編集」に係る業績の集大成を紹介します。

未発表の資料、最新作も含む今回の展示は、空間構成そのものが勝井三雄の総合的なディレクションにより、「なぜ人間はヴィジュアル・コミュニケーションを必要とするのか」を体感的に考えるための場となります。
長年にわたり宇都宮美術館の C I を推進してきた勝井三雄の活動を通じて、当館が主眼とする「20世紀のアートとデザイン」を視覚伝達の観点からひもとく手がかりにもなるでしょう。
── デザインは、単なる色とかたちの描出、その成果物ではありません。時代・人々・空間と共振する思想であり、これを実践的に構築し、質の高い可視化を担うのがデザイナーの役割です。
勝井三雄のすべての仕事には、そのことが凝縮されています。

【 詳細: 宇都宮美術館 】

【展覧会】国立西洋美術館 本館|ル・コルビュジエ 絵画から建築へ ── ピュリスムの時代|2019年2月19日-5月19日

国立西洋美術館 本館
国立西洋美術館開館60周年記念
ル・コルビュジエ 絵画から建築へ ── ピュリスムの時代
会  期  2019年2月19日[火]-5月19日[日]
開館時間  9:30-17:30
      毎週金・土曜日 9:30-20:00 * 入館は閉館の30分前まで
休  館  日  月曜日(3月25日、4月29日、5月6日は開館)、5月7日[火]
主  催  国立西洋美術館/ル・コルビュジエ財団/東京新聞/N H K
────────────────
20世紀建築の巨匠ル・コルビュジエ(1887-1965)が設計した国立西洋美術館本館は、2016年にユネスコ世界文化遺産に登録されました。開館60周年を記念して開催される本展は、若きシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ(ル・コルビュジエの本名)が故郷のスイスを離れ、芸術の中心地パリで「ピュリスム(純粋主義)」の運動を推進した時代に焦点をあて、絵画、建築、都市計画、出版、インテリア・デザインなど多方面にわたった約10年間の活動を振り返ります。

第一次大戦の終結直後の1918年末、ジャンヌレと画家アメデ・オザンファンは、機械文明の進歩に対応した「構築と総合」の芸術を唱えるピュリスムの運動を始めました。そして、絵画制作に取り組みながら新しい建築の創造をめざしたジャンヌレは、1920年代パリの美術界の先端を行く芸術家たちとの交流から大きな糧を得て、近代建築の旗手「ル・コルビュジエ」へと生まれ変わります。

本展はル・コルビュジエと彼の友人たちの美術作品約100点に、建築模型、出版物、映像など多数の資料を加えて構成されます。ル・コルビュジエが世に出た時代の精神を、彼自身が作り出した世界遺産建築の中で体感できる、またとない機会となるでしょう。

【 詳細: 国立西洋美術館   特設サイト

【かきしるす】神田和泉町|近代医学と近代タイポグラフィが本格スタートした記念の地|下谷和泉橋通り・神田佐久間町などと書きしるされた大名屋敷跡周辺

故司馬遼太郎が、新聞連載小説『胡蝶の夢』取材のために、「下谷和泉橋通りの医学所」をたずね、収穫無く帰阪したことを連載中に記録している。
『胡蝶の夢』-こちょうのゆめ-は、司馬遼太郎の歴史小説で、『朝日新聞』の連載小説として1976年11月11日-1979年1月24日まで朝刊で連載された。資料収集にたけ、博覧強記と評された司馬遼太郎でも、目的とした「下谷和泉橋通りの医学所」を探しあてることができず、じつは近接している佐久間町で蕎麦を食しただけで、空しく帰阪したことをしるしている。

東京における最初の西洋医学校でありながら、碑もたてられていないのであろう。
なんだかばかばかしくなって、そばを食いおえると、そのまま東京を離れてしまった。

『胡蝶の夢』(司馬遼太郎 新潮文庫 第1-4 1983年)

『胡蝶の夢』は、徳川幕府の倒壊と徳川十五代将軍慶喜の苦悩、また戊辰戦争での軍医としての松本良順(維新後は松本順)、順天堂出身の関寛斎、島倉伊之助(のちの司馬凌海)の姿があざやかに描き出されている。
図書としての初版は新潮社、のち新潮文庫(全4巻)で刊行。『司馬遼太郎全集 41・42』(文藝春秋)にも収録されている。

長崎海軍伝習所 ── 長崎奉行所西役所内に開設。
奉行所の外周に円弧状に拡がる江戸町の先、海に突出しているのが出島。海軍伝習所・医学伝習所などとほぼ同時期に開設された「長崎奉行所活字版摺立所」の記録はいまだ未発掘である。
ポンペと医学伝習所の伝習生たち、前列椅子に着座する 左)松本良順、右)ポンペ
六カ国語に通じ、医学専門用語の和訳に貢献し、語学の天才とされた島倉伊之助(のち司馬凌海)は文久元年(1861)ポンペに破門された。それ以前の撮影ならこの写真に島倉伊之助も存在しているとおもえるが前列のふたり以外の人物は特定されていない。

『胡蝶の夢』(司馬遼太郎 新潮文庫 第1-4 1983年)

医学所跡を探訪したが成果なく
   佐久間町で蕎麦を食して帰阪

〔前略〕江戸という首都についても、── 都府というものは天下の共有物であって、決して一個人(註・徳川慶喜)の私有物ではない。…… おれにこの論拠があるものだから、誰が何といったって少しも構わなかったのサ。と勝〔海舟〕がいっている。

都市も公であるという、中国史にもなかった思想が、勝が「論拠」としたこの時期にはすでに共有の考え方になりえていたところに、勝の江戸城あけわたしがうまく行った基礎があったのであろう。
この間、この当時の流行語でいう、
「脱走」
が多く出た。みな党を組み、銃器弾薬を持って〔西軍の包囲網が敷かれていない〕東へ奔った。かれらが、古来の法として江戸城や江戸の町を焼いて奔るということをしなかったのは、勝のいう「共有物」という思想がすでに自然にあったといっていい。しかも一面、あえて「私」(徳川氏)に殉ずるというのである。

慶喜が全権を委任した勝安房守(海舟)と、西軍の代表である薩人西郷隆盛とが、慶喜と江戸城の処置について会談したのは〔慶応四年、一八六八〕三月十三、四の両日で、この結果、江戸は無血開城ということになった。
これにつき役人としての〔松本〕良順に仕事があった。下谷和泉橋通りの医学所もまた幕府施設である以上、これを明けねばならなかった。

脱   走

余談ながら、このくだりの稿を書くについて、当時の下谷和泉橋通りの医学所の跡とおぼしいあたりに行ってみた。
私は東京に住んだことがなく、その地にゆくこともまれで、不案内というより私の日本地図のなかでそこだけが白い。
このためまず地図の上で ── 現代の地図と幕末の江戸地図を照合しつつ ── 場所をさぐってみたが、よくわからなかった。

やむなく横浜に住む友人のW氏にたのんで現在の場所を調べてもらったところ、私の伝え方がわるかったためW氏は医学所ととりちがえて「医学館」跡(浅草橋四ノ十六ノ七)のほうを見つけ出してくれた。医学館は漢方の奥御医師多紀家の屋敷に付属した施設で、医学所とまぎれやすい。

医学所の変遷でいうと、最初、伊東玄朴が蘭法の町医らに働きかけて神田お玉ヶ池に設けた(一八五八年)私設種痘所がその祖になっており、一九六一年、東京大学医学部がその地(千代田区岩本町二丁目)に碑をたてた。
右の種痘所が開設六ヵ月後に焼けたために、下谷和泉橋通りに移り、ほどなく幕府がこれを官設のものにした。この第二次種痘所が一八六一年、その場所のまま西洋医学所になり、やがて単に医学所と称せられるようになった。

中程度の旗本屋敷にまわりをかこまれた一角で、敷地は四一〇坪である。文久二年江戸下谷の地図では御徒町通り(和泉橋から三枚橋にいたる通り・当時、通称和泉橋通り)にあるが、通りそのものには面せず、すこし東へ入る。
「現在はどの辺でしょうか」
と、順天堂医大の医史学研究室にきいたが、和泉橋から昭和通りをゆけば何とかなるのではないか、ということで、なにしろ大阪からの電話である上に当方が東京に不案内ときているから、反問の仕様もなかった。

結局、行ってみれば何とかなるだろうと思い、羽田からまっすぐに和泉橋をめざして橋畔に立ってみたところ、そのあたりの視界を高速一号線がさえぎり、秋葉原駅があり、車は渋滞し、中小の各種問屋が密集していて、まことに熱鬧の地で、見当もつかない。
江戸地図の医学所へゆくなら巨大な藤堂屋敷が格好の目印になっているのだが、その大空間もこまかく細分化されて幾つもの街衢になっており、江戸の痕跡は和泉橋の名と神田川以外になにもない。

佐久間町のそばやに入って、そばができるまでのあいだ、医学所跡という話をきいたことがありませんか、ときくと、老婦人がかぶりをふって、大正時代から店をやっているけれどきいたことがありませんねえ、ということであった。東京における最初の西洋医学校でありながら、碑もたてられていないのであろう。

なんだかばかばかしくなって、そばを食いおえると、そのまま東京を離れてしまった。
この稿のなかでの〔松本〕良順は、かれの精神の砦であった右の医学所を離れるべく準備をしている。江戸城明けわたしの前後のことで、江戸城とともに幕府施設である医学所も、明けてしまわねばならないのである。〔後略〕

〔 亀甲括弧 〕内は稿者による。改行字下げは WebSite の特性を考慮して実施しなかった。

司馬遼太郎と同様に、稿者もこの周辺で「下谷和泉橋通りの医学所-第二次種痘所」と、その移転地「大病院・大学東校・東校」跡をしばしば訪れている。司馬遼太郎は松本良順の足跡を追って、稿者は長崎から上京した平野富二一行の足跡を追っていた。
あらためて『胡蝶の夢』を読むと、「神田佐久間町三丁目」にある、おそらく同じ店で蕎麦を食したこともある。なによりもほぼ同じ所をぐるぐる廻っていることに笑ってしまった。

司馬遼太郎先生が逝去し、ご令室の福田みどりさんも泉下のひととなったいま、記念館となった東大阪のご自宅をたずねるのはあまりに気が重い。
さいわい「平野富二 生誕の地 碑 建立 有志の会 ── 平野富二の会 」の皆さんが、さまざまな資料と、あたらしいメディアを駆使してこの周辺の調査にあたられている。その成果は『タイポグラフィ学会誌 11』(タイポグラフィ学会、2018)に発表され、さらに単行本にまとめる編集が進行していると側聞する。[図版・データ協力:平野富二の会 日吉洋人

そこで、浅学非才の身ではあるが、おふたりへのささやかな香華として、「下谷和泉橋通りの医学所の跡」をふくむ、この周辺の資料をまとめてみた。
読者諸賢は、故司馬遼太郎とおなじ気持ちでご同行をたまえるとうれしい。

[関連:活版アラカルト 【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-06 <江戸・東京 活版さるく>訪問地:お玉が池種痘所
[関連:活版アラカルト 【展覧会】萩博物館|明治維新150年記念特別展 第 1 弾|手塚治虫が描いた明治維新|2018年9月15日-10月14日

「江戸名所道外盡十 外神田佐久間町 廣景画」 安政六年(1858年)
「平野富二 生誕の地」碑 建立 有志の会」所蔵

廣景(生没年不詳)は「外神田佐久間町」と題して、烏帽子を凧糸に絡め取られて慌てふためく武士と、それを笑う庶民の正月風景を描いているが、登場人物が立っている道は、現在の通称「佐久間学校通り」であり、佐久間町は左下隅に、わずかに描かれているのにすぎない。
実際に描かれているのは現:千代田区神田和泉町、もと:伊勢国津藩藤堂和泉守(外様大名、 二十七万九百五十石 )上屋敷の門長屋と屋敷門(表門)である。
北側(図版では右側)に隣接して「藤堂佐渡守」とされているのは、支藩の伊勢国久居藩藤堂佐渡守上屋敷(外様大名、五万三千石 )で、現在は台東区になっている。このふたつの藩領は、現在はともに三重県の県庁所在地、津市の一部となっている。

《医学校跡》── 司馬遼太郎がたずねたかった施設跡
種痘所(第二次)⇒ 官立種痘所 ⇒ 西洋医学所 ⇒ 医学所 ⇒ 医学校 跡
所在地  台東区台東1丁目28番地全域および30番地南側半分
標示物  無し(近在する伊東玄朴旧居跡の解説板に簡略説明がある)
────────────────
お玉ヶ池種痘所(以下第一次種痘所)が近隣からの火災によってわずか半年余で類焼したため、安政五(1858)年11月、下谷和泉橋通りの「伊東玄朴の屋敷」に仮小屋を建て、翌年9月、銚子の豪商浜口梧陵(はまぐち ごりょう 1820-1885 紀伊国〔和歌山県〕出身 醤油醸造業濱口儀兵衛家〔現:ヤマサ醤油〕当主)ら奇特者の出資により、隣接地に(第二次)種痘所が再建された。

上) 下谷和泉橋通り-種痘所の告知『種痘諭文-うえほうそう さとしぶみ』(文久元(1861)年 33×24 cm  東京大学医学部図書館資料)
下) 上掲資料を読み下し、デジタルタイプで追試組版を試みたもの。[協力:古谷昌二]
幕府直轄となった第二次種痘所
が、文久元年に発行した種痘接種を勧める告知文。嘉永2年(1949)長﨑にもたらされた牛痘種痘渡来の由来、種痘所の歴史を述べ、種痘所への案内地図を掲載している。角印状の内部は「散華-疱瘡の別名 済生-いのちを救う」

やがて種痘所は西洋医学の講習所となった。
万延元(1860)年7月に幕府から公式な援助を得られるようになり、同年10月に幕府直轄の「官立種痘所」となった。
文久元(1861)年10月に「西洋医学所」と改称され、文久三(1863)年2月に「医学所」と改称された。

ここまでの第一次種痘所、第二次種痘所の頭取は、初代:大槻俊斎、二代:緒方洪庵、三代:松本良順であった。

慶応四(1868)年4月に新政府は医学所を接収し、同年6月に「医学校」として復興し、近くの藤堂和泉守上屋敷跡に移転して、そこにあった大病院(軍陣病院 横浜:野毛山軍陣病院から移設)と合併した。
明治二(1869)年、「大学東校」と改称された。
すなわちお玉が池(第一次)種痘所ともども、ここ第二次種痘所と、近接する伊勢国津藩藤堂和泉守(外様大名、 二十七万九百五十石 )上屋敷跡が東京大学医学部の出発地である。
前述のように『胡蝶の夢』で、司馬遼太郎は以下のように慨嘆している。

東京における最初の西洋医学校でありながら、碑もたてられていないのであろう。

第二次種痘所の門扉は、厚い板を鉄板で囲い、鉄板の間を頭の丸い鋲釘で打ちつけ、全体を真っ黒に塗ってあったため、江戸の人々は第二次種痘所をもっぱら「鉄門」と呼んでいた。
現在本郷の無縁坂に面する東大医学部の門は大正期に改装されているが、いまもって入口が「鉄門」、同窓会が「鉄門会」と呼ばれるのも、設立当初に第二次種痘所の「鉄門」を移築したことに由来する。
なお、本郷の東京帝国大学設立初期には「鉄門」が正門とされていた(現在より少し西側にあった)ため、森鷗外の小説『雁』、夏目漱石(なつめ そうせき 1867-1916)『三四郎』などの作品には、本郷の鉄門と無縁坂の描写が多く登場する。

《伊東玄朴旧居 跡》
所在地 台東区台東1丁目
標示物 「伊東玄朴旧宅跡・種痘所跡」

解説板   台東区台東1丁目30 台東1丁目交差点近くの歩道植えこみの中
────────────────

伊東玄朴居宅跡・種痘所(第二次)解説板 ── 台東区教育委員会設置

この近辺に蘭方医:伊東玄朴の住居兼家塾「象先堂-しょうせんどう」があった。伊東玄朴(いとう げんぼく 1801-71)は幕末から明治にかけての蘭方医、江戸幕府奥医師。近代医学の祖で、官医界における蘭方・西洋医学の地位を確立した。妻は長崎のオランダ語通詞・猪俣傳次衛門の長女・照(1812-81)。
この解説板は稿者が知るだけで数度、撤去・移動を繰りかえしている。ようやく歩道のなかに復帰しているが、再開発の慌ただしい地域でもあり、司馬遼太郎夫妻への香華として、全文を 台東区教育委員会資料 から{続きを読む}に紹介した。

伊東玄朴は寛政一二(1801)年、肥前国〔佐賀県〕にて執行重助の子として誕生した。のちに佐賀藩士・伊東家の養子となり、長崎の鳴滝塾でドイツ人シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold 1796-1866)よりオランダ医学を学んだ。
佐賀藩にて牛痘種痘法を実践し、安政五(1858)年には大槻俊斎・戸塚静海らと図り、江戸に第一次お玉が池種痘所を開設、弟子の池田多仲(いけだ たちゅう 1820-72 石見国〔島根県〕津和野藩出身)を同所の留守居とした。

同年7月3日、江戸幕府第13代将軍・徳川家定の脚気による重態に際し、漢方医の青木春岱・遠田澄庵、蘭方医の戸塚静海とともに幕府奥医師に挙用される。蘭方内科医が幕医に登用されたのは、伊東・戸塚が最初である。

文久元(1861)年より西洋医学所の取締役を務めた。同年12月16日には蘭方医として初めて法印(将軍の御匙=侍医長に与えられる僧位)に進み、長春院と号し、名実ともに蘭方医の頂点に立った。のちの緒方洪庵(おがた こうあん 1810-63 備中国〔岡山県〕出身 大阪に適々斎塾を開く)の江戸招聘も玄朴らの推挽によるところが大きい。

文久三(1863)年、ポンペ(Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort 1829-1908 オランダ出身)門下の松本良順(まつもと りょうじゅん 1832-1907 下総国〔千葉県〕出身)の弾劾により失脚、小普請入りとなる。のちいくぶん地位を回復するが、以後奥医師に返り咲くことはなかった。
明治四(1871)年逝去。墓は東京都台東区谷中の天龍院にある(東京都都指定旧跡)。

《東京都千代田区神田和泉町》── 近代医学と近代タイポグラフィ発祥の地
大学東校、大学東校活版所 跡 ⇒ 東校活版所 ⇒ 文部省編集寮活版所(通称:文部省活版所) 跡
所在地  千代田区神田和泉町1 (もと伊勢国〔三重県〕津藩藤堂和泉守上屋敷門長屋跡)
標示物  なし ── 昭和通りに「神田和泉町」町名由来板が千代田区によって設置されている。
────────────────

元和泉橋通り、現昭和通りに建立されている「神田和泉町」千代田区町名由来板 ── 千代田区

この「神田和泉町 町名由来版」のテキストを、千代田区地域振興部コミュニティ総務課コミュニティ係 資料から、全文を{続きをよむ}に収録した。貴重な資料である。ぜひともお読みいただきたい。

明治二(1869)年12月、当地にあった大病院と医学校とが合併して「大学東校」となった。大学東校とは湯島にあった「大学」に対して、東に位置することに由来する。
医学教科書や講義録を活版印刷にするため、大学中写字生(のちに大写字生)の島霞谷(しま かこく 1827-70 下野〔栃木県〕出身)が鋳造活字を開発し、大学東校官版として発行した。島活字をもちいた大学東校官版としては、石黒忠悳(いしぐろ ただのり 1845-1941 陸奥国〔福島県〕出身 軍医)編訳による『化学訓蒙』『虎烈刺-コレラ-論』などが知られている。
明治三(1870)年11月、島が病死したため、明治四(1871)年6月に本木昌造が活版御用を依頼されて、「文部省御用活版所」の設立に至ったとされる。

御用活版所の設立認可(『公文類聚』、明治4年、国立公文書館蔵)

この公文書によって本木昌造は、大学・大学東校・大学南校の活版御用を申し付けられ、御用活版所の用地拝借を願い出た結果、大学東校区域内にある長屋と接続地に御用活版所を設置する政府からの許可を明治4年6月15日に得たことが分かる。

この大学東校区域は現在の千代田区神田和泉町1番地に当たる。明治四(1871)年7月、文部省が新設されて大学東校は「東校」と改称され、その時、「南校」の活字掛に継承されていた蕃書調所以来の活版諸設備は東校構内に移され、同年9月に「文部省編集寮活版部」となったが、翌年9月に廃止された。活版諸設備は「正院印書局」に移管したとされている。

旧東校表門通りの現状写真

画面の左手の道路が旧東校表門通り(現、佐久間学校通り)で、中央に見えるコンクリート壁面から先方が旧藤堂家上屋敷で、道路沿いに堀と門長屋が中央の表門を介して東西双方に続いていた。
アイビーの絡まる和泉小学校の壁面の辺りは東校表門の東側門長屋で、この一画に平野富二一行によって「長崎新塾出張活版製造所」が設けられたとみられる。
手前は和泉公園で、ここは旗本能勢熊之助の屋敷地だった。

わが国の印刷史研究では、本木昌造と平野富二一行が活版印刷のために最初に東京に進出した場所は「神田佐久間町三丁目」とされてきた。しかし、この「千代田区神田和泉町一」の土地は、もと津藩藤堂和泉守上屋敷の跡地である。
当時、町名があるのは町人の居住地だけであり、武家地・社寺地には町名がなかったことから、新政府に公収された大名屋敷にもっとも近い、現在も存在する「神田佐久間町三丁目」の町名と丁名が便宜的にしるされたのではないかと推測される。
なお「神田和泉町」の町名は明治5年の起立(『千代田区史』)であるが、印刷術が未成熟な時代でもあり、周知には時間がかかったものとみられる。

なお、「千代田区神田和泉町」の土地には現在、Y K K 株式会社の本社(Y K K 80 ビル)、千代田区立和泉小学校、和泉公園、三井記念病院、凸版印刷株式会社本社事務所(本社事務所:東京都千代田区神田和泉町1 本店:東京都台東区台東1-5-1 『会社四季報』ゟ)などがある。

このうち、三井記念病院には、ここが「お玉が池種痘所」に端を発する帝国大学医学部とその附属病院発祥地の跡地であることに関して、簡単な由来の解説板がある。
また同病院の創設百年記念誌には、この地が東京大学医学部発祥の地であり、同病院と東京大学医学部とは長い紐帯関係にあることが強調されている。
[参考:三井記念病院 百年のあゆみ 全ページ〔刊行月:2009年3月〕PDF 1.78MB

また、Y K K 株式会社の本社ビルの入口には、この地が「伊勢国津藩主 藤堂和泉守上屋敷」跡であることがしるされた解説板があり、また、ビルを囲む植栽は、藤堂家の植木職を代々務めた「伊藤伊兵衛」ゆかりの草木が植えられている。
伊藤伊兵衛は江戸一番の植木屋と誉れが高く、染井村〔現:東京都豊島区駒込〕で数代にわたって園芸を営んでいた。なお、藤堂和泉守下屋敷は染井村にあり、広大な庭園を構えていた。

《医学館》── 司馬遼太郎が間違って案内された施設跡
躋寿館(せいじゅかん) ⇒ 医学館 ⇒ 医学所付属種痘館 跡
所在地 江東区浅草橋4丁目
標示物 解説板 〔台東区浅草橋4丁目16〕
────────────────
漢方医学の権威であった多紀元考(たき もとたか 1696-1766)は、明和二(1765)年神田佐久間河岸にあった天文台跡に躋寿館-せいじゅかん-を創設して医学講習の道を広めた。
寛政三(1791)年、奥医師多紀元簡(もとやす/げんかん 1755-1810)の願いによって幕府は「官立医学館」とした。文化八(1806)年医学館は類焼して、向柳原の佐竹右京大夫の焼け跡地に移転した〔上掲切り絵図では多記安良とされているところ〕。

多紀家は代々徳川将軍の奥医師としての権勢を誇り、西洋医学を排斥していたが、徳川家定(13代将軍、1824-58、享年35)は生来の病弱で、天然痘も患っており、また当時の難病・脚気で重態におちいったため、その奥医師としての名声を落とした。
家定の死の直前には、大老井伊直弼(いい なおすけ 1815-60 暗殺)と、家定の実母の本寿院(ほんじゅいん 1807-85 江戸出身)の判断で、漢方医の青木春岱・遠田澄庵(とおだ ちょうあん 1819-89 美作〔岡山県〕出身)、蘭方医の伊東玄朴(いとう げんぼく 1801-71 肥前国出身〔佐賀県人〕)・戸塚静海(とつか せいかい 1799-1876 近江国〔滋賀県〕出身)が江戸城登城を許されて家定を診察した。

これ以降、幕府内部にも西洋医学が導入されることになる。その結果、蘭方医大槻俊斎(おおつき しゅんさい 1806-58 陸奥国〔宮城県〕出身)らが奥医師に任命され、西洋医学が重用されるようになった。
慶応四(1868)年7月、旧幕府の医学館は廃止され、同年8月に種痘館と改称して医学所に付属された。このとき小石川養生所と各所にあった薬園(薬草園)も医学所の所属となった。

《伊東玄朴旧居 跡》《医学校跡》── 司馬遼太郎がたずねたかった施設跡
《町名由来板:神田和泉町》── 千代田区資料ゟ

続きを読む

【もんじ かきしるす】明治の写真士:内田九一| 医学伝習所・幕府医学所頭取:松本良順|牛痘接種法の普及者:吉雄圭斎と八丈島漂着を共にした本木昌造・平野富二|開港地長崎が〝えにし〟となった紐帯|其の壹

内田九一奥城 長崎大光寺内田家墓地 吉雄圭斎建立
【もんじ】長崎大光寺上段墓地にある内田家・間淵家墓地と内田九一奥城
大光寺墓地(浄土真宗本願寺派  850-0831  長崎県長崎市鍛冶屋町5-74)

【内田九一 うちだ-くいち 1844-1875】
幕末-明治初期の写真家。
弘化元年肥前長崎うまれ。蘭法医:吉雄圭斎の甥。圭斎の妻が九一の従姉であったため、九一が4歳のおり、妹菊とともに吉雄圭斎によって種痘(牛痘)の施術をうけた。13歳のおり父を亡くし、九一は松本良順が、菊は八歳で伯父の吉雄圭斎が引き取って養育した。松本良順(順)と吉雄圭斎に関してはのちに触れる。

明治天皇の束帯姿(明治5年4月、内田九一撮影)
明治天皇肖像写真(明治6年10月、撮影:内田九一 神奈川県立歴史博物館蔵)
明治帝御真影として官公庁・学校などに下賜されたもの(明治21年1月)。
お雇い外国人エドアルド・キヨッソーネが描いたコンテ画を丸木利陽が写真撮影したもの。

長崎でポンペに化学を、上野彦馬から写真術をまなぶ。慶応元年大阪に滞在していた松本良順をたずね、大坂で写真館をひらき、のち横浜・東京で開業。明治5年宮内省御用掛として明治天皇の肖像写真を撮影、西国九州巡幸にも写真士として供奉してその名を知られた。
内田九一はその九州巡幸の折とみられるが、父祖のねむる大光寺本堂の写真ものこしている(長崎大学中央図書館蔵)。

ここで大光寺住職夫人に紹介いただいた、同寺所蔵:イタリアにうまれ英国に帰化したベアト(Felice Beato  1825-1903)による「大光寺本堂の前に立つ上野彦馬」(フェリーチェ・ベアト撮影、鶏卵紙、慶応年間ころ 長崎大学中央図書館蔵)の複製写真を紹介する。
おりしも2018年3月-5月「東京都写真美術館 ── 写真発祥地の原風景 長崎」が開催され、長崎歴史文化博物館にも巡回展示されていた。この撮影は同年11月下旬になしたものである。

上掲写真部分拡大:中央で棕櫚の幹に手をかけているのが上野彦馬とされるベアト撮影、上野彦馬とほぼ同じ位置に立った日吉洋人氏。2018年11月

この取材の同行者は、日吉洋人・大石 薫の両名であった。大光寺の複製写真はガラス付きの額に入った写真だったが、蘇鉄-ソテツ-に右手をかけた上野彦馬と同じ場所に立った日吉洋人氏を紹介する。蘇鉄の枝ぶりがかわり、慶応年間には無かった松があるが、百五十年余のこんにちでもほとんど大光寺本堂前の景観に変化がないことに驚いた。

これとほぼ同様のアングルからは、「慶応年間」のベアトに続き、上野彦馬が「明治初期」に撮影し、内田九一も「明治5年ころ」に撮影している。いずれも長崎大学中央図書館蔵であるが、「東京都写真美術館 ── 写真発祥地の原風景 長崎」の市販図録 pp 127-128 に見開きページで紹介されている。

本木昌造肖像 撮影:内田九一 推定明治7年

また小社周辺でもちいている本木昌造のおもな写真は、撮影日時は不明ながら、白髪と眼くぼの落ちこみ具合からみて、本木昌造最後の上京となった明治7年(1874)夏ごろの撮影とみられている。また台紙の記載から内田九一が東京で撮影したものとされている。

この写真はだいぶ前のことになるが、上杉千郷氏(当時:鎮西大社諏訪神社宮司)のご好意で、諏訪神社「文学の杜」で複製撮影をしたもので、簡便なカメラで稿者が撮影したものを、小社スタッフが階調補整したものをもちいている。
額入りで裏面は撮影できなかったが、『贈従五位本木昌造先生略傳』(古賀十二郎、昭和9年5月、印刷図書館・長崎歴史文化博物館蔵)には、いくぶん不鮮明ながら同一原版からとみられる写真とともに、台紙の影印も紹介されている。
羽織の家紋は本木家歴代の「◯ に 本」の家紋 ではなく、草体の仮名「も」に丸をあわせたもので、印刷・活字界で俗に「◯ も」とされる、本木昌造の創作による替え紋のようにみられる。

本木家塋域 大型墓前列右端 本木昌造墓
本木家塋域に数ヶ所みられる「◯ 本」の家紋
本木昌造の墓標には家紋・替え紋ともみられない

正面)故林堂釋永久梧窓善士 最勝院釋全託貞操大姉 右端にちいさく 贈 従 五 位 が追刻
右側面) 諱永久通稱昌造久美之義子也以文政十年甲申六月九日乙亥九月三日病歿千家享年五十二 追刻:明治四十五年二月二十一日宣下
左側面) 天保九年戊戌閏四月十二日生安政五年戌年七月十二日卒行年廿一歳本木久美實女永久妻俗号縫

本木昌造は明治8年春、東京での撮影の翌年関西に出向いたがそこで躰調をくずし、大阪活版製造所:谷口黙次(初代)、京都點林堂:山鹿善兵衛(号:栢年-はくねん)をはじめ、東京から駆けつけた平野富二らの介護をうけて、洛外の「落柿舎」で静養し、ようやく帰崎することができた。しかしその後も病床にあることが多く、明治8年(1875)9月3日に長崎で病没した。享年52。
内田九一は本木昌造の撮影後からまもなく持病の肺病が悪化し、本木昌造に先立って明治8年(1875)2月17日肺結核によって東京で逝去した。享年32。
ふたりはともに肥前長崎出身。長崎大光寺山内、本木家墓地に「本木昌造墓」、内田家墓地に吉雄圭斎建立による供養塔「内田九一奥城」がある。

[参考:『日本人名大辞典』(講談社)]

明治最初期の写真家:内田九一を偲ぶよすがは生誕地長崎ではすくない。わずかに「内田九一奥城」(奥津城-おくつき。墓の古称だが近年はおもに神道の鎮魂碑乃至は供養塔をいう)が、長崎寺町のうしろ山(風頭山-かざがしらやま)の傾斜地、大音寺と崇福寺の墓地にはさまれた大光寺墓地にある。
寺の山内ではあるがこの奥城は神式で、戒名や墓誌めいたものはなく、内田家塋域の向かって右端に、「内田九一奥城」とのみきざまれて建立されている。建立者は長崎の蘭法医:吉雄恵斎によった。森重和雄氏の報告によると以下のようにしるされている。

この墓は『フォトタイムス』(昭和8年10月号)掲載の、松尾矗明「写真秘史古老達の話と諸方の記録(三)内田九一寫眞記(四)」によれば、長崎の吉雄圭斎が、内田九一が亡くなったことを悼みこの墓域内に供養墓を建立したものである。
[参考:幕末明治の写真師列伝 第六十一回 内田九一 その二十六 森重和雄

東京で歿した九一の墓は、はじめ東京王子に設けられ、松本順とその遺族が世話をしていたが、のちに妻:おうたが遺骨のはいった骨壺と「内田九一墓誌銅板」とともに大阪に移設したとされる。

内田家塋域は大光寺本堂左手から「登坂」をはじめ、本木家墓地を経てさらに上部、右手に岡部家の広大な墓地の先を左に折れる。
境界の目印が無いから解りづらいが、岡部家の墓地は隣の崇福寺墓地にあたり「元崇福寺末庵廣徳院」の跡とされる。崇福寺は禅宗のひとつ黄檗宗の寺で、唐寺とも呼ばれ中国との関係が深い古刹である。
その角、大光寺側にある「中島家塋域」 石闕の甲骨文の釈読 {先 祠 中 思 父 祖 ── 祖先の墓所の中では、父祖のことを思え}は、古谷昌二氏の協力を得て既に紹介した。

内田家の塋域入口には石塀があり、蔓草がからんでいるが「間淵 内田」と もんじ があり、上部に半円形の「図形」乃至は もんじ が彫りこまれている。この「図形」はひとまず措いて、もんじからみてみよう。
「間淵」はのちに刻されたもので、大光寺住職夫人によると、現在は間淵家がこの塋域の使用者であるとされる。また内田家縁者が関西方面から毎年訪崎して供養にあたっているという。
塋域中央部に間淵家の墓があり、石灯籠をはさんで右手に二基の石塔、内田家の墓と内田九一奥城がある。間淵家と内田家の関係は不詳である。

また内田家の来歴はつまびらかにしないが、もっともふるいとみられる中央の「釋翠嵒梅甫信士・釋蒼嵒貞松信女」の戒名をもつ墓標に刻された もんじ は興味ふかいものがある。

浄土真宗の寺なので、墓石正面の六字名号「南無阿弥陀仏」はあたりまえだが、二字目が「無 → 无」になっている。これは「无 U+5B83   字音:ム・ブ 意読:ない」であり、易経・乾に「无咎-咎なし」をみる。
したがってここでは「無 → 无」と同音同義の異字に置きかえられたとみられる。これはどこかの墓標か経文で類似のものをみた記憶があったので手許資料を探したが見つからなかった。

最終の「佛」はいわゆる旧字体だが、四字目の「彌 → 弥」は新字体にちかく、よくみると旁の屈曲にみるように、いまも俗字とされる結構になっている。
最大の難関は五字目の「陀」である。阜偏-こざとへん-に、旁・色をあてたような字である。本来「陀」は梵語 ダ を中国音に訳すときに当てられた字で「佛陀 ブッダ」とされた。「解字」によれば「陀 会意兼形声。阜〈こざとへん〉+音符 它 タ ── 長くのびる」の意である。

そこで「它」をみると、「它 U+5B83  字音:タ  tā 意読:へび・ほか」となる。意味は名詞:へび → 蛇 ダ・ジャの原字で「竜它 → 竜蛇」の使用例をみる。
「解字」によれば「象形。毒へびを描いたもの。古代には毒へびが多かったので、{它〈タ〉無キヤ}ときいた。転じて「別状ないか」の意となり、そこから 它 は別のこと、ほかの、などの意となった」とあり、必ずしも吉字とはいえないようである。

したがってここでの六字名号「陀」は、阜偏-こざとへん-はのこして、旁を「般若心経 ── 色即是空・空即是色」、あるいは難読語とされるが「色陀-しこだ」などにより、吉字とみなされた「色」に置きかえたが、やはり憚るところがあったのか、減筆によって一画を減じて書きあらわしたのではないかと解釈した。先行事例ほか、ご意見をたまわれば幸甚である。

餘談になるが…… 、庶民藝能として誕生した歌舞伎は、役者も観客も庶民信仰が篤かった浄土宗・浄土真宗の信徒がおおく、「南無阿弥陀仏」の六字名号を敬し、歌舞伎の演目に六字からなる題名を避けるならわしがある。

また、かつて稿者は東京文京区千石の一行院に 徳本行者 の足跡をたずね、慶応四年刊・お家流書風による木版刊本『徳本行者傳』の活字による現代語訳を試みた経験がある。
徳本は紀州和歌山出身の浄土宗の僧侶で、徳川十一代:家斉の庇護をうけて一行院(文京区千石1丁目14)をもうけて念仏三昧の日々をおくり、また各地に行脚して、そこの浄土の寺には、独特の書風による「徳本名号碑」が建立された。それをどこかの雑誌に書いたが、いまとなるとチト恥ずかしいものがある。

「徳本名号碑」はおよそ能筆とはいえず、六字を単体でばらしたら判読に悩みそうな字であるが、そこは六字名号のありがたさ、たれもが「南無阿弥陀仏」と唱え、その遊行行脚の地には多数の信者からの寄進がよせられた。それらのすべてを滞在先の浄土の寺にのこして去った徳本行者を慕って、文京区小石川:傳通院、長野:善光寺、伊豆や近江、都内の各地をはじめ、東日本を中心に浄財をもとにした「徳本名号碑」がのこされた。

琵琶湖畔彦根にある簡素な浄土宗の寺、宗安寺山門脇の「徳本行者名号碑」
彦根市本町2丁目3-7に宗安寺はある。この通称赤門とされる「山門」は
石田三成の居城、佐和山城の表門を移築したものとされる。

長崎大光寺墓地にある内田家塋域にある六字名号「南無阿弥陀仏」が刻された墓標
徳本名号碑をみたあと、改めて長崎の墓標をみた。やはり特異な もんじ である。

大光寺墓地(浄土真宗本願寺派 850-0831 長崎県長崎市鍛冶屋町5-74)

[参考:花筏 朗文堂好日録-028 がんばれ! ひこにゃん !! 彦根城、徳本上人六字名号碑、トロロアオイ播種

《 内 の金文 内 の角字 》

ここで保留にしていた内田家塋域入口の石塀と、「釋翠嵒梅甫信士・釋蒼嵒貞松信女」の戒名をもつ墓標の献花台・燭台にみる奇妙な「記号」に戻りたい。

『書体大百科字典』(長坂一雄、雄山閣出版、平成8年4月 pp 108)
本書「内」の三段目「51. 西周金文」の標本「内」にきわめてよく似ている。

長崎異国情緒というと、近年はオランダ出島観光を中心にかたられることが多いが、江戸期長崎はまた、中国福建省出身者を中心とする「唐人屋敷」があり、清国との貿易も盛んであった。したがってこんにちでも長崎では、春節 ── 旧正月の祝いが「ランタンフェスティバル」とされて、盛大に催されている。また大光寺は隣接して唐寺とも呼ばれている崇福寺があり、漢学・儒学・字学の素養にたけた人材がいたことは忘れられがちである。
[関連:活版アラカルト 【特別催事】100万人を魅了する、長崎冬の一大イベント!|2019長崎ランタンフェスティバル|2月5日-2月19日

「釋翠嵒梅甫信士・釋蒼嵒貞松信女」の墓標では、『書体大百科字典』にみる「金文-きんぶん- 内」を実に精妙に図形化して献花台・燭台・石塀などに刻されている。この墓の建立者・被葬者は明確でないが、おそらく内田九一の両親の墓とみて良いとおもわれる。建立者も未詳だが、成人になった折りの内田九一による可能性があり、そうすると「字」では無く、瀟洒な「文 ≒ 紋に見立てた「金文 内」の使用も首肯できる。

【 参考:金文 きんぶん 周 しゅう Zhōu 
中国古代の王朝名、またこの王朝が存立した時代・文化の名にも使用する。紀元前1050?-前256年。司馬遷『史記』によると、尭帝の農官であった后稷-こうしよく-が始祖とされる。后稷の15世のちの子孫の武王が、前1050年ころ商と自称していた国家、商王帝辛を牧野(河南省淇県)で破り、ここに商を倒して殷とし、帝辛を紂王(蔑称)として、あらたな王朝「周」を鎬京-こうけい-(陝西省西安近郊)に創設した。
この王朝は前771年に一度滅び、前770年東の成周洛邑(河南省洛陽市)に再興され、前256年第37代赧王-たんおう-のとき戦国七雄のひとつ秦によって完全に滅ぼされた。
そのため前771年を界として、それ以前は都が西の西安西郊にあったので西周時代、以後は都が東にうつったので東周時代(春秋戦国時代ともいう)とよぶ。近年の研究では周も商と同様にふるくから甲骨文-こうこつぶん-をもちい、金文(きんぶん-青銅器などにのこされたもんじ)をのこしている。周が王朝としての実力を保持していたのはおもに西周時代である。

ちなみに戒名にみる「嵒」は「嵒 U+5D52  字音:ガン・ゲン 意読:いわお・いわ」で、同音同義の異体字「嵓」をもつ。「解字」では「会意 口印三つでゴロゴロした石+山」で、山中にころがる岩石をあらわす。
[参考:活版アラカルト【特別催事】100万人を魅了する、長崎冬の一大イベント!|2019長崎ランタンフェスティバル|2月5日-2月19日

最後に「内田九一奥城」は本名(俗名)だけがしるされた簡素なものだが、仔細にみると台座と水盤に「◯ 内」ともみられる同一の紋様がみられる。前述の半円形の金文「内」とは異なり、軽やかさが無く重厚である。

『伊呂波引定紋大全』(盛花堂[浅草区左ヱ衛門町一番地]明治30年頃 雅春文庫蔵)
「伊呂波寄名頭字儘 ── 此の字尽くしの中に出がたき時は、ヘンあるいはツクリに依って作るべし」[釈読:この字種見本に無い字のときは、偏と旁によって作字すべし]

いわゆる文様帳『伊呂波引定紋大全  いろは-びき-じょうもん-たいぜん』を紹介した。こ のような書物は、かつて「紺屋 コウヤ、染め屋」 などと呼ばれていた 「染色士」にむけて、おもに家紋のほとんどを詳細に紹介していたために、俗に 「定紋帳・紋帳・家紋帳」などとされていた実用書であった。

その一部には 「技芸家 ・ 工芸家」 に向けた 「文字の構成と書法」が説かれたいた。類書としては印判士に向けたより豊富な字種と書体による実用書もあるが、こうした書物は文字の紹介書として、魅力と示唆に富む好著が多い。
同書「う」の項目に「内」はなかったが、『伊呂波引定紋大全』などの実用書によれば、10×10の格子目にあわせて、左右対称形の「内」は容易に描くことができる。これは「 内 の角字-かくじ」に丸を冠したもので、ほかにも類例がありそうな「家紋・紋様」であろう。

[関連:花筏 タイポグラフィ あのねのね 002|タイポグラフィ あのねのね 002|【角字 かく-じ】 10×10の格子で構成された工芸のもんじ

────────────────
長崎にあまりにも内田九一の資料がすくないので、ついムキになって資料漁りをした。本稿はまだ松本良順(維新後は松本順)、吉雄圭斎に関しては保留したままになっている。
ここまでの間、岩永正人(本木昌造顕彰会前会長)、宮田和夫(日本二十六聖人記念館)、春田ゆかり、日吉洋人各氏の支援をいただいた。特にしるして謝意を表したい。[この項つづく]

【符号 ≢ もんじ】本木良永|長音符号(音引き)を、漢の字「引」の旁 ツクリ からとって「ー」と制定|『太陽窮理了解説』和解 ワゲ草稿

『太陽窮理了解説』和解 ワゲ草稿 ── 本木良永
長音符号(音引き)を、漢の字「引」の旁 ツクリ からとって、「ー」と制定した

【本木良永 もとぎよしなが 1735-1794】
江戸中期の蘭学者。通称栄之進、のち仁太夫-にだゆう、あざなは士清、蘭皐-らんこう-と号した。長崎の医師:西 松仙-にし しょうせん-の次子として生まれる。伯父本木良固-りょうこ-の嗣子-しし-となり、本木家第三代の通詞となる。オランダ商館長の江戸参府にも随行した。

わが国にはじめて「地動説」を『天地二球用法』(1662年刊のオランダのブラウ Willem J. Blaeu(1571-1638)の著書の抄訳本)から訳出して1774年(安永3)に紹介した。
さらに1791年(寛政3)、長崎奉行の命を受けて、『星術本原太陽窮理了解新制天地二球用法記』7巻325章附録1巻(イギリスのアダムスGeorge Adams(?-1773)の1769年刊のものの蘭訳本が原著とされる)を1793年に訳了、幕府天文方に献上した。
これらの書物は公刊されなかったが、当時長崎に留学してきた蘭学者らによって広まり、とくに司馬江漢-しばこうかん-の『刻白爾-コッペル-天文図解』(1808年刊)などは有名である。ニュートン力学を紹介した志筑忠雄-しづき ただお-は彼の弟子である。
[参考:『日本大百科全書』小学館、『日本人名大辞典』(講談社)]

本木良永肖像 肩衣と羽織に本木家歴代の正紋「本」を図形化したものがみられる
『医家先哲肖像集』(藤浪剛一、刀江書院、1936年)国会図書館デジタルコレクションゟ
長崎大光寺にある本木家塋域:本木良永墓標 燭台に家紋「本」をみることができる
『太陽究理了解説 和解草稿』第二巻冒頭  凡例に相当するページ
(「本木家文書」長崎市立博物館旧蔵 2002年 佐治康生氏撮影 稿者立ち会い)

算数文字別形
1  一  2   二    3  三   4   四  5  五   6  六  7   七   8   八   9  九  0  十
一 オランダ語の音声をあらわすとき、日本のカタ仮名文字を用いる。
濁音[ガギグゲゴなど]には、カタ仮名の傍らに〝 のようなふたつの点を加える。
その余の異なる音声[半濁音、パピプペポ]には、やはりカタ仮名の傍らにこのように ° 小圏[小丸]をしるす。
また促呼する音声[促音]には、ツノ字[角書きツノ-ガキのこと・菓子や書物の題名などの上に複数行にわけて副次的に書く文字]を接し、
長く引く音には、引の字のツクリを取りて『ー』のごとくしるす。
かつカタ仮名の[以下数文字判読不能)新字を為し、このように記し、かつカタ仮名の傍らにこのような字をつけてしるしても、まだオランダ語の語音をあらわしがたい。
そこで唐通事[中国語の通訳]石崎次郎左衛門に唐音をまなんで、オランダ文字と漢字[当て字]をあわせてしるすなり。

いずれにしても、本木良永訳『太陽窮理了解説』和解草稿上下二冊には、今回紹介したようなおどろくべき事実がしるされている。もちろんこうしたあたらしい表記方法は、個人の創意工夫だけによるものではなく、同時発生的に、各地、各個人も実施していた可能性は否定できない。
またここではあくまで印刷術研究の一環としてふれたものであり、記号論・音声学・音韻学的な分析までは及ばないことをお断りしたい。だからこそ『太陽窮理了解説』和解草稿上下二冊のデータ公開が待たれるいまなのである。

[関連:花筏 タイポグラフィあのねのね*005 長音符「ー」は「引」の旁から 『太陽窮理解説』
[参考:国立天文台 暦計算室 貴重資料展示室 江戸時代後期書物に見る「宇宙のはて」

【ことのは】国立公文書館|あの日の公文書|暦年-1月1日ゟ12月31日迄と会計年度-4月1日ゟ3月31日迄のはじまり

国立公文書館 ニュース
Vol . 17  3月-5月  
A 4 判 8ページ 中綴じ フルカラー 表紙四ゟ紹介

会計年度はなぜ四月はじまりなのか

4月は新しい年度を迎え心弾む時期。このように私たちの生活に密接な「年度」は、明治時代の会計年度が元になりました。当初から4月はじまりだったわけでなく、明治政府により会計年度がはじめて制度化された明治2年(1869)は、10月はじまり。続いて西暦を採用した明治6年からは1月はじまりになりました。つまり、暦年と年度のはじまりが同じ時代があったのです。
明治8年からは、地租の納期にあわせるという目的で、7月はじまりになりました。

次に会計年度を変更したのは、明治17年(1884)。その頃の日本は国権強化策から軍事費が激増し、収支の悪化が顕著になっていました。当時の大蔵卿である松方正義は、任期中の赤字を削減するために、次年度の予算の一部を今年度の収入に繰り上げる施策を実施。この施策は珍しくなく、当時はよくおこなわれていました。
そして予算繰り上げによるやりくりの破綻を防ぐため、松方は一策を講じました。明治19年度の会計年度のスタートを7月はじまりから4月はじまりに法改正したのです。この改正により、明治18年度は7月から翌年3月までの9ヶ月に短縮され、予算の辻褄をあわせると同時に赤字も削減されました。

こうして会計年度は4月はじまりになりましたが、この会計年度にあわせる形で学校などの新年度も4月開始になっていきました。その後、現在まで4月はじまりの年度は続いています。

「会計法制定弁会計検査院職制章程更定ノ件」。会計年度を7月から翌年6月とする旨が記され、はじめて会計年度が法制化された。
公文類聚-こうぶんるいしゅう-に収録された「会計年度ヲ改定ス」。明治19年から会計年度を4月はじまりに変更するなどの改定内容と、改定により予算繰り上げの問題が解決する旨が記されている。

【 詳細: 国立公文書館 】 { 活版アラカルト まとめ }

【かきしるす】国立公文書館 ── 館名と「新元号 平成」を書したひとはたれか

国立公文書館 ── 館名と「新元号 平成」を書したひとはたれか

新元号〝 平  成 〟を発表する小渕恵三官房長官(当時)

【 平 成 】
昭和64年(1989)1月7日、昭和天皇の崩御に伴って、政府は新元号を「平成」と制定。

1月8日午前0時から平成元年がはじまった。
政府によって発表された首相談話では、「平成」の出典として、『史記』五帝本紀の「内平外成ー内平かに外成る」、『書経-偽古文尚書』大禹謨の「地平天成-地平かに天成る」が示され、「『平成』には国の内外にも天地にも平和が達成されるという意味が込められている」とされた。

国立公文書館 ニュース
Vol . 17  3月-5月  
A 4 判 8ページ 中綴じ フルカラー 表紙四ゟ紹介

左)元総理府辞令専門官:河東純一氏  右)元内閣官房長官秘書官:石附  弘氏

平成への改元に際しては、ときの小渕官房長官が、額入りの書「平成」をかかげて国民に新元号を披露しました。
披露にあたって額入りとするアイデアは、元内閣官房長官秘書官:石附  弘氏とされます。
この「平成」の揮毫者と、国立公文書館 館名の書藝者は同一人物で、元総理府辞令専門官:河東純一氏(1946-)によりました。
[参考:人事院総裁賞 第18回(平成17年)「人事院総裁賞」個人部門受賞者]加藤純一氏

昭和から平成の改元とはことなり、今回は生前退位によりますから、すでに新元号発表の準備はなされているはずです。それでもこうした裏方ともいえるひとの貢献が公開されるのには時間が必要なようです。

【かきしるす】 ぢゃむ 杉本昭生さん|エスプリに富んだ「次の本ができるまで」京風いろは ── 二句切、四句切短歌の連続でテンポよく都ぶりをくさす田舎者

次の本が出来るまで その122
京風いろは

※ ボロクソに言われてます[杉本昭生]。

次の本が出来るまで その121
俳諧の妙

服部元好という医者の家が火事で全焼した時、誰かが 

「お医者さん家の黒焼何になる」

と茶化すと、元好は澄まして

「大工左官の腹薬なり」

と応えたという。

※ 落語のルーツがこのあたりに[杉本昭生]。


【 詳細  ぢゃむ 杉本昭生 活版小本 】 { 活版アラカルト 活版小本 既出まとめ 

【かきしるす】宮川雅一著『高島秋帆』長崎文献社|東京板橋区の「高島平」は長崎町年寄・砲術師:高島秋帆にちなむ

シリーズ 長崎偉人伝
高島秋帆     
宮川雅一著
定 価 1600円+税
体 裁 四六判 並製
ISBN978-4-88851-282-4 C0023
長崎文献社

東京「高島平」に名をのこす。
砲術師の生涯をひもとく。
門弟たちの業績が「明治産業革命遺産」に輝く。
────────────────

著 者 宮 川 雅 一 氏 紹 介

宮川先生2018年11月24日「平野富二生誕の地」碑建立記念祭「祝賀会」にて
ご祝辞をいただき、乾杯の音頭をとっていただきました

宮川雅一〔みやがわ まさかず〕 続きを読む

【ことのは】クリスマスローズ Christmas rose|花ことのは-わたしの不安を救い給え

【クリスマスローズ Christmas rose】  [学]Helleborus niger L.

吾が「空中庭園」ではクリスマスローズが花をつけた。例年着花状況がおもわしくなかったが、鉢植えにかえ、施肥を十分に施したら、スミレに続いて寒風のなかで元気に花をつけた。
実際には花弁はうつむき加減で咲いているが、撮影者のノー学部が強引に上向きにしたらしい。キンポウゲ科の常緑多年草。ヨーロッパの原産で明治のはじめに渡来した。根茎は太く短い。葉は根生し、15-30センチメートル、掌状複葉で革質、暗緑色。小葉は7-9片で先端部に鋸歯がある。花茎はよく分岐して1-3花をつける。花の大きさは径5-6センチメートルであるが、花弁は小さく、筒状で、雄しべより短く目だたない。萼-がく-の5片が大きく花弁状をなして美しく、咲き始めは白色で、のちに紫色を帯びる。

根にはサポニンが含まれていて強心剤、利尿剤として用いられる。
変種も多いが、オリエンタリス H. orientalis Lam. は西南アジアの原産で、花茎が分岐して3-6花をつける。緑色または黄緑色で縁辺は紫色。花期は4、5月で、栽培されるものの多くは本種の系統が主体になる。寒さに強く、排水のよい半日陰地を好む。繁殖は11月ころの株分けが普通で、実生-みしょう-もできる。

<民間伝承>
クリスマスローズはその黒い根に魔力があると信じられ、古代ギリシア時代には狂気をなおす霊薬の一つに数えられていた。また、頭を良くする薬として当時の劇作家や哲学者が服用したともいわれ、イギリスではこの根を取るための魔術的な方法が定められていた。それは、花のまわりに剣で円を描き、呪文を唱えて引くというものである。
また、引き抜いている姿をワシに見られると、採取者は死ぬともいわれた。《セルボーンの博物誌》には、イギリスの婦人が子どもの虫下しにこの葉の粉末を飲ませるとある。

俗説によれば、アダムとイブが楽園を追われたとき、きたるべき罪の浄化の象徴として持ち出したのが、この花であったとされ、以来、この花を〈楽園の思い出〉の象徴とする美意識も生まれ、コールリジや H.G.ウェルズ らがそれを文学化した。花のことのは〈私の不安を救いたまえ〉。

[参考:『日本大百科全書』(小学館)、『世界大百科事典』(平凡社)]

【ことのは】北京紫禁城|故宮博物院|高級官僚執務所としての武英殿と皇帝図書館の文華殿・文淵閣

紫禁城-故宮博物院を北側の神武門の裏山、景山山頂からみる

景山は中国の首都・北京のほぼ中央、紫禁城の北の一郭を占める景勝地。標高43メートルの人工の丘であるが、かなり急峻な坂道をのぼる。
金代(前金)に離宮を造営した際、現在の北海を掘った土を堆積してつくられた。
元代には宮廷の庭園とされ、明の永楽年間に紫禁城を囲む筒子河-とうしが-をさらって五つの峰をつくり、清朝(後金)乾隆帝がその峰の上に万春亭をはじめ、壽皇-じゅこう-殿、観徳-かんとく-殿などの山亭や宮殿、花園を設けた。

紫禁城にはさらに周囲をおおきくかこむ堅固な外壁があったが、現在では楼閣の一部を除いて撤去されて幹線道路となっている。この外壁の内側(旧内城地区。旧市街)では景観保存のために、紫禁城の正殿、外朝の「大和殿」より高い建造物は禁止されており、上掲写真では靄っているが、高層ビル群の建築はかなり遠方の旧外城地区(新市街)でなされている。

紫禁城-しきんじょう (北京)故宮博物院 概略図

上掲写真とは異なり、南側から紫禁城を概観した。よく知られる天安門・端門はこの図版よりもっと南(下側)に位置する。
紫禁城は中国、明・清(後金)時代の北京の宮城であった。紫禁とは、天帝の宮城とみなされていた星座の紫微垣-しびえん-からでた語で、皇帝の居所を意味する。

はじめ明の永楽帝-えいらくてい-が国都を南京から北京に移すのに際し、元の大都の宮城址付近を利用して造営し、十数年を費やして1420年に完成した。
その後、明・清時代を通じて宮殿や門はたびたび改築修補され、それらの名称も変更されている。現在の建物は、ほとんどが明代の様式をおおむね継承して、清(後金)時代に建てられたものである。

紫禁城は北京の旧内城の中央南部寄りに位置する、東西約750メートル、南北約960メートルの城壁に囲まれた約72万平方メートルの区画で、その外側に濠(筒子河-とうしが)を巡らしている。
城壁の四周にそれぞれ一門があり、南から天安門・端門を経ていたる午門-ごもん-が正門としてとくに雄大で、北に神武門、東に東華門、西に西華門が開き、四隅に角楼-かくろう-がある。
現在は混雑防止の見地から、南の午門から入場し、北の神武門から退場する一方通行とされていて逆行はできない。また東華門、西華門は関係者のみが使用している。

城内は南と北の二区画に大別され、南は公的な場所の「外朝」で、午門から北へ太和門、太和殿、中和殿、保和殿が中軸線上に一列に並び、その東西に文華殿、武英殿などの殿閣が配置されている。なかでも中和殿、保和殿とともに、三層の白色大理石の基壇上に建つ太和殿は、東西約60メートル、南北約33メートルの堂々たる建物で、紫禁城の正殿として重要な儀式に使用された。

外朝の北は皇帝の私的生活の場所の「内廷」で、保和殿の北の乾清-けんせい-門から、乾清宮、交泰殿、坤寧-こんねい-宮などが中軸線上に一列に並び、その左右に后妃らが住んだ東西の六宮をはじめ多くの建物がある。
皇帝の日常の起居はもっぱら内廷の「養心殿」でなされ、その南西の隅には、しばしば温室とあらわされる「三希堂」があり、皇帝の学問所であった。内廷と外朝を連結するのは、外朝の北端で、養心殿と隣接する「軍機処」でほとんどがなされた。

このように紫禁城には大小無数の建物と、紅殻色の牆壁-しょうへき-や門が整然と配置され、黄瑠璃瓦-こうるりがわら-や朱塗りの柱とあいまって集団美をなしている。
そしてこの豪華な大宮殿は、明・清時代の皇帝権力の強大さをよく表すものである。1925年以来、故宮博物院として一般に公開され、中国文化財の一大殿堂となっている。
────────────────
中国での改革開放政策が滲透し、またわが国からは中国へビザ無し渡航ができるようになったこともあり、多くの友人・知人が訪中するようになった。ところが造形者の一部のかたが訪中して、

「長年の念願だった武英殿をぜひともみたい」
とされて、紫禁城-故宮博物院を訪問したところ、門(武英門)とその扉が固く閉ざされ、武英殿の写真は一枚も撮れなかったと嘆かれるかたが増えてきた。

武英殿は午門を入ってすぐ左側にあるが、地図では見えない障壁が幾重にも通路に立ちはだかる。かくいう稿者も1970年代の末からこの門扉の前に空しく五度ほど立った。
その折り、なんとかのぞくだけでもと思ったが、名刺一枚も挟めぬ(悔しいが実際にやった)ほど固く閉ざされた門扉に撃退された。
その扉がようやく開いたのは、長年にわたった武英殿の改修がなって、しかも北京オリンピックが終わってから暫くしてからのことである。

現在の武英殿の本殿は「書画館」と名づけられて美術館・博物館として利用されているが、一度の会期が半年から一年と長く、次回展までの間の閉鎖が数か月に及ぶことも珍しくない。したがって上掲の造形者は、休館中に訪問されたことになり、運が悪かったとしかいいようがない。
のちに知ることになったが、人口一億二千万ほどのわが国では、国立博物館などでも三ヶ月ほどの会期が設定されている。ところが人口十四億余の中国では、

「一部の民衆に展観していただくだけでも、最低半年、ほとんど一年間の会期設定が必要です。それに紫禁城内外の各所に埋もれている展示品を整理し、清拭し、修理・修繕し、資料整備などを考慮すると、次回展の準備にも数ヶ月の時間が必要です」
とのことであった。

修理と蔵書の再収集が続く 皇帝図書館の文華殿・文淵閣

武英殿と中心軸をはさんで正対する御殿が文華殿である。ここは中華皇帝が臨席する図書館(閲覧室)であり、その背後にある文淵閣は宮廷の蔵書蔵である。既述のように紫禁城の屋根は黄瑠璃瓦であるが、文華門・文華殿・文淵閣などの一画だけは、図書の保護のためとされる深い緑色の瓦が葺かれている。

武英殿は長年の修理ののちようやく公開されたが、文華殿一円はおおきくフェンスで囲われ、いまだに非公開の一画となっている。2013年の訪中の折り、紫禁城図書館のご好意でこの宮殿にはいることができた。
文華殿は皇帝の臨席に備えた豪勢なつくりで、建物の各所に図書にまつわる絵画や彫刻がほどこされていた。その背後の文淵閣にはいったときに、おもわず息を呑んだ。文淵閣にあったはずの『四庫全書』をはじめとする万巻の図書はまったくなく、そこには広大な空間だけが拡がっていた。
「ここの蔵書は、すべて台湾に持ちさられました」

続きを読む

【かきしるす】文字組版の基本|ポイント (points)、パイカ (picas)、ユ ニット (units) |現代の文字組版者にとって基本尺度/スケールは不要なのか?

『欧文組版入門』の原著者:ジェームス・クレイグ氏 1989年

『欧文組版入門』本体4369円 A4変形判 208p 在庫極僅少 最終案内

計測単位 Measuring Type

デザイナーなら必ず知っておきたい文字の計測単位に、ポイント (points)、パイカ (picas)、ユニット (units) の 3 つがある。
デザイナーにとってのこれらの計測単位は、いわば建築家のフィ
ートやインチにあたるものであり、これらの計測単位によってデザイナーは印刷物の紙面を整える。


ポイント ── は文字サイズを表す単位であり、パイカ ── は行の長さを表す単位として使われる。
12 ポイントは 1 パイカ、そして 6 パイカ(または 72 ポイント)は 1 インチに相当する。


インチをフィートに換算できるように、ポイン卜もパイカに換算できる。ただし文字サイズを指定する時には、パイカではなく常にポイントを使う。

ユニットはアルファベット各文字の幅や、字間のアキ、語間のアキを表す単位として使われる。

注:本書ではインチ、ポイント、パイカ、ユニットという単位を使っている。しかし、イギリスやヨーロッパでは、文字組版の基準になる計測単位にメートル法を採用しようという活発な動きがあるので、読者はこのことを知っておいたほうがよい。

[『欧文組版入門』20ページゟ]
────────────────
もう30年余ほど前のこととなる。
『欧文組版入門』(ジェームス・クレイグ著、朗文堂、1989年12月5日)の原著は『 Basic Typography A Design Manual 』(James Craig,  Watson – Guptill Publication, New York,  1978)であった。
原著の刊行年、1978年(昭和53)とは、アメリカでもまだ DTP システムの夜明け前であったが、いわゆる「電算写植」システムが普及して、次世代の大変革を予感させる微妙な年であった。したがって同書の巻頭扉ページの著者の献辞には以下のようにあった。

「あいまいな知識だけで欧文写植を使っているデザイナー諸氏に本書を捧げる」

当時 J・クレイグ 氏とはしばしば続編のはなしがあり、ジョークとしてその献辞は、

「あいまいな知識でパソコン組版をおこなっているデザイナー諸氏に本書を捧げる」

にしようと同氏は嗤っていた。

続きを読む

【恥ずかしながら かきしるす】吾がふるさとは信州信濃の国|豪雪でなる飯山なり|されど故郷忘じがたく候

飯山市・信州中野市・木島平村の境ににそびえる休火山「たかやしろ 高社山、別称・高井富士」。右のうしろがわには溶岩流が流れた美しい山裾がみられる。ここから4キロほど上流の旧飯山町内からは、左側の主峰はかくされて、右端の支峰だけが、まるでシルクハットを伏せたようにみられる。たかやしろは、飯山では東を指ししめす絶好のランドマークとなっている

「手前自慢」と「郷里-いなか-自慢」はとかく格好がわるいとされる。
ところがやつがれ、いつの間にか郷里:信州信濃の国、飯山市の応援団団員になり、「菜の花大使」なる証明書まで支給される惨状とあいなった。読者諸賢にはしばしのご寛恕を願う次第である。
上掲写真は飯山が町制から市制による飯山市になった昭和30年の古写真である。やつがれ時に10歳、この写真でみえる山・川・野面の一帯で悪さのかぎりをして育ち、15歳で郷里をはなれた。
オヤジ・オフクロ・アニキと順次黄泉のひととなったいまでは、帰省はおろか冠婚葬祭でも逃げまわっているのが実情である。

さりながら四月下旬、遅い雪解けのころ、千曲川の河川敷と対岸の田畑では一斉に菜の花が開花し、櫻も桃も杏も何もかもが一斉に開花するのはまさに桃源郷としかいいようがない。
疎林にわけいると濃い紫のカタクリの花が可憐に咲いている。
雪国ならではの歓びと、辛さが同居しているのが吾がふるさと ─── 飯山 ─── である。

たまたま国立公文書館で「諸国城郭絵図 信濃国飯山城絵図」を入手した。15年ほど前に「諸国城郭絵図」の特別展があり、その折りにはモノクロながら原寸のコピーを購入した。現在はデジタルアーカイブでダウンロードもできるようになっていた。あえてご紹介するゆえんなり。
[参考:『飯山町誌』(飯山市公民館、昭和30年11月3日)、飯山市公式 WebSite ]
飯山市は長野県の最北西部にあり、千曲川沖積地に広がる飯山盆地を中心に、西に関田山脈・東に三国山脈が走る南北に長い地形をもっており、南西部には斑尾高原、北西部には鍋倉山、東部には北竜湖などがあり、多くの自然資源に恵まれた地となっている。
近傍都市への距離は、長野市へ36キロメートル、中野市へ15キロメートル、新潟県妙高市へは25キロメートルである。
主要交通網としては、北陸新幹線飯山駅があり、関越・上信越高速自動車道の「豊田・飯山インター」がある。また国道117号・292号・403号が市内を走り、長野市から新潟県十日町方面へ JR 飯山線が走っている。

飯山市の歴史

飯山は、古くから山国信州と日本海を結ぶ交通の要所として栄え、塩、魚などの海産物の集散地、また大和朝廷時代の越後・出羽開拓における重要な駅路としての役割を担ってきた。
戦国時代においては、上杉謙信の川中島出陣の際の前線基地として、戦略的にも重要な地となり、永禄7年(1564年)には千曲川左岸に飯山城が築かれた。飯山の都市形成は、この飯山城を中心になされ、江戸時代には幾度かの城主の変転を重ねる中で、しだいに城下町としての機能を整えてきた。

江戸時代の初期から中期にかけては、千曲川を利用した舟運と、越後に通じる街道を使った物流機能が発達し、また新田開拓とかんがい用水の整備が積極的になされ、農業の基盤が確立された。

明治維新後は、明治4年の廃藩置県によって飯山県となり、さらに長野県に編入され、町制は明治22年に施行された。
戦後の昭和29年8月の町村合併促進法の施行により、飯山町を中心に秋津村・柳原村・外様村・常盤村・瑞穂村・木島村の1町6村が合併して飯山市が誕生した。飯山市はその後、昭和31年に太田村・岡山村を編入し、現在の姿にいたっている。

明治26年、飯山を経由しない信越本線の開通により、徐々にその物流拠点としての機能を失い、その後は農業を中心として、飯山仏壇、内山紙などの伝統工芸をはじめとする地場産業により発展。しかしながら昭和30年代後半からの高度経済成長期において、産業が立地する条件をもたなかったこと、さらに豪雪地帯であるというハンディもあって経済成長が停滞し、若年層を中心とした人口の流出を生じた。現在の飯山市の人口は過疎化がすすんでおよそ二万人まで減少している。

飯山市の気象

飯山市の特徴として、四季の変化とその折々の景観の豊かさがあげられている。飯山の気候は、春から秋にかけては内陸盆地型気候となっているが、冬季は日本海からの季節風が、南西の斑尾山から北西の鍋倉山にかけて連なる関田山脈の影響によって上昇気流を生じるため、日本でも有数の豪雪地帯となっている。最深積雪平均は平地で176センチ、山間部では350センチを上回り、一年のうち12月下旬から3月下旬まで、およそ3分の1の期間が雪におおわれている。

諸国城郭絵図 信濃国飯山城絵図(国立公文書館蔵 請求記号:169-0335)

【飯山藩-いいやまはん】

信濃国飯山(現長野県飯山市)を藩庁とした藩。関ヶ原の戦後、飯山城には関・皆川・堀・佐久間・松平・永井・青山・本多の諸氏が交替して藩政を行なった。
関一政は慶長六年(一六〇一)二月より同八年二月まで高井郡・水内郡の両郡のうち四万石を領し、ついで松平忠輝(譜代・城持)が信濃国川中島を領するや、彼の傅役を勤めた皆川広照が飯山城代となって四万石を支配したが、同十四年二月松代城代花井吉成の悪政を非難したために領知を没収された。その後堀直寄が同十五年閏二月入部して四万石を知行し、千曲川の氾濫をおさめ、置目を定めて広大な新田の開発を行なった。

越後高田城主となった松平忠輝が大坂の陣の失態で改易となり元和二年(一六一六)七月移封され、飯山城には佐久間安政が入部して三万石を領し、佐久間安長についで佐久間安次にいたったが、同家には嗣子がなく寛永十五年(一六三八)除封された。

寛永十六年(一六三九)三月松平忠倶(譜代・城持)が遠江掛川より入部し、四万石を知行、孫の松平忠喬が旧領掛川に移封されるまで治世六十八年間におよんだ。慶安より延宝年間(一六四八-八一)にかけ、領内総検地、千曲川の治水、野田喜左衛門を起用しての新田開発など民政に尽くし、大坂城加番たることも四度におよび、また慧端禅師(正受老人)に深く帰依して城下西郊に「正受庵」を与えた。
宝永三年(一七〇六)正月永井直敬(外様・城持)が三万三千石を領して在城五年、青山幸侶(譜代・城持)は正徳元年(一七一一)二月より四万八千石を領したが七ヵ年の在城で転封された。

これについで越後糸魚川(一万石)より入部したのが本多助芳(譜代・城持)で、領知二万石と領高一万五千石を支配し、九代助寵-すけたか-まで百五十余年間にわたって藩政をおこない維新を迎えた。
元来本多氏はその祖広孝より譜代の家臣として勲功があったが、利長は故あって遠江横須賀城(五万石)を召し上げられた。のちに殊遇により飯山城主となった甥の助芳は家門の復興を祖先に謝し、旧臣を招致して治政にあたった。
しかし千曲川沿岸の所領は連年の水害を被り、増封の喜びもつかの間、水災との戦いに財政は窮乏し、やむなく領地替えの嘆願を重ね、享保九年(一七二四)その目的を達した。今まで高井郡と水内郡の二郡にまたがっていた所領は、水内郡の山手にまとめられ、領内は城下・外様・山ノ内・川辺の地区に分け、代官をして支配し、藩政に治績をあげた。

たまたま明治元年(一八六八)四月、旧幕府の古屋作左衛門らの浪人軍が越後の諸藩を説き、親藩の高田藩を説得しようとして500余人の軍勢で飯山城下に迫った〔浪人の役・飯山戦争〕。この際200名ほどの藩士からなる飯山藩の藩論は官軍に傾いたので、浪人は家中屋敷および町方に放火しして甚大な被害を与えて去った。
同四年七月廃藩置県により、一時飯山県が設けられたが、やがて同年北信濃の諸県とともに長野県に統合せられ、九年、南信濃の筑摩県と合併して現在の長野県となった。

[参考:『国史大辞典』吉川弘文書館ゟ抜粋]

【関連:花筏 朗文堂ー好日録020 故郷忘じ難く候 

【ことのは】版画同人誌『月映』|恩地孝四郎 ── 田中恭吉わかくして逝き そののこすところの作、あまた。

『田中恭吉作品集』
(著者:田中恭吉、編者:三木哲夫、1997年、玲風書房)

  上版のことば
一人あり。ここにいのちをこめてつくしたるこの世のわざ、あはれ
漸くその扉を開きしのみにしてその身を失ひたり。 田中恭吉わか
くして逝きそののこすところの作、あまた。 そのいける時心願就
らざりしかば、なげきいくばくぞや。さはれ、そののこせるもの、
未だ彼のすべてを張らざりといへ既にそののちの姿を潜ましむ。捨
つるに惜し。そをとりあつめて世に遺さむ願、ただに己の私情にあ
らず。彼、世をあいしいのちをあいし、我、世を愛しいのちを愛す
れば、ここに版に上して、心を齊しうする人々のまへに置き、彼を
愛する人とともに、彼世にありしを記銘せむ希ひなり。
一九一六年二月                 恩地孝四郎

【『月映』の三人の同人と田中恭吉を巡って】

◯ 恩地孝四郎(おんち-こうしろう 1891-1955)
大正-昭和時代の版画家、装本家。明治24年7月2日うまれ。東京出身。東京美術学校(現東京藝術大学)中退。抽象木版画の先駆者。竹久夢二と親交をむすび、大正3年同人誌『月映』を創刊する。
愛書家・活字狂を自認していた志茂太郎の委嘱により、愛書誌『書窓』シリーズの著作とデザインにあたった。日本創作版画協会、日本版画協会の創立に参加。萩原朔太郎の『月に吠える』や『北原白秋全集』などの装幀も手がけた。昭和30年6月3日死去。63歳。著作に『本の美術』、『工房雑記』など。

◯ 藤森 静雄(ふじもり-しずお 1891-1943)
大正-昭和時代前期の版画家。明治24年8月1日生まれ。東京美術学校(現東京藝術大学)在学中に恩地孝四郎、田中恭吉と詩と版画の同人誌『月映』を刊行。大正7年日本創作版画協会の創立に参加した。『新東京百景』(恩地孝四郎らとの共同制作)や『大東京十二景』が代表作。昭和18年5月28日死去。53歳。福岡県出身。

◯ 田中 恭吉(たなか-きょうきち 1892-1915)
大正時代の版画家。明治25年4月9日うまれ。白馬会洋画研究所をへて、明治44年東京美術学校(現東京藝術大学)に入学。その後恩地孝四郎との間で自刻版画集を刊行しようと計画し、藤森静雄も巻き込んで大正3年(1914年)4月に私輯『月映』〔いわゆる私家版『月映』-つくはえ-* 01 〕を刊行した。
しかし恭吉は大正2年(1913年)頃から肺結核を発病しており、療養のために和歌山に帰郷。版画への熱意もむなしく仲間と別れる無念さは『焦心』に表れている。
その作品はエドヴァルド・ムンクの影響からか、結核を病む作者の心情を映してか、一種の病的な冴えた神経を示していた。帰郷後は躰に負担のかかる版画ではなく、詩歌を中心に創作活動を続け、大正3年(1914年)9月には公刊『月映』が刊行されたが、大正4年(1915年)10月23日、和歌山市内の自宅で23歳にして逝去。
遺作が萩原朔太郎の詩集『月に吠える』の挿絵として紹介された。装幀は友人の恩地孝四郎。和歌山県出身。号は未知草。
────────────────
『田中恭吉作品集』には「田中恭吉小伝 ── 大槻憲二」(p.79 – 90)が収録されているが、その最終部には以下のようにある。

〔前略〕最後にあたって彼の遺友たる我々十数名の者の彼に対する友愛と、さゝやかな努力の集積とが、変して彼の遺作展覧会となりたる事を、自分は附記しておかねばならぬ。
それは一九一五年(大正四年)十二月三、四、五日の三日間、日比谷美術館で催された。
それは可成りの成功を収めたようであった。一堂の下に集められた彼の生涯の作品は、実によくまとまった立派なものであった。
また恩地の努力と好意とによって、今や彼の遺作集は出版される事になり、自分はその内に収めるために、彼の小伝の筆をとる事になった。

[追 記]
併しその出版は成功しなかったようで、私の書いた「伝記」も空しく筐底に埋もれることとになって今日に至った。

この大槻憲二による「田中恭吉小伝」がおよそ八十余年ののちに筐底を脱するのには、当時和歌山県立近代美術館・学芸課長/三木哲夫氏(のち国立国際美術館学芸課長、現兵庫陶芸美術館館長)の常にあらざる努力によった。
『田中恭吉作品集』「あとがき」(p.134 – 5)からみてみたい。

あとがき

田中恭吉は、大正四年十月二十三日、自らの生命を燃焼させ、生と死とのすさまじい緊張を表現した作品を残して、二十三歳の短い人生を閉じた。
数日を経て、和歌山から東京の友人たちに訃報が伝えられると、その死を追悼するに当たって、藤森静雄は遺作展の開催を、恩地孝四郎は遺作集の出版を主張したという。

この二つの計画は、直ちに実行に移され、遺作展は十二月三日-五日の三日間、日比谷美術館で開催されたが、遺作集の方は、恩地の懸命の努力にもかかわらず、大正五年二月、資金難のために出版を断念するに至った。
恩地はこのことを生涯負目として持ち続けていたようで、私が恩地家に保管されていた恭吉の作品を一括して和歌山県立近代美術館に譲っていただくために、昭和五十四年頃から恩地孝四郎の長女三保子さんをお訪ねするようになった時にも、

「父は恭吉さんの遺作集を出版できなかったことを生涯悔やんでいました」
としばしば聞かされた。

またその後、昭和五十九年に恭吉の作品・資料を一括して当館に寄贈することを内諾された折にも、三保子さんが当館に示された条件は、
「一、作品を大切に保管すること。二、展覧会を開催すること。三、きっちりとした画集を出版すること」
の三つであり、三保子さんご自身も父孝四郎の遺作集断念を相当気に掛けられていたようであった。(なお、この寄贈の話は、同年十二月に三保子さんが急逝されたため一時中断したが、六十二年六月に恩地孝四郎の長男邦郎氏から、恭吉の友人であった香山小鳥の作品・資料とともに一括して当館に寄贈された。)

この三保子さんと当館が結んだ公約の三番目、画集出版は経費面からなかなか難しいと思っていたが、幸いにも玲風書房の生井澤幸吉氏からお話をいただき、ここに実現の運びとなった〔後略〕。

【奇遇でした。三木哲夫氏とはほぼ同世代。
       1980年代の初頭、ほぼ同じころに荻窪の恩地邸を訪ねていたようです】
続きを読む

【もん】先 祠 中 思 父 祖 ── 祖先の墓所の中では、父祖のことを思え

Notes on Typography  2019年02月01日
【もんじ】長崎大光寺墓地にある門標-これは 文 はたまた 字?
大光寺墓地(浄土真宗本願寺派 850-0831 長崎県長崎市鍛冶屋町5-74)

大光寺と崇福寺墓地のうしろ山(風頭山-かざがしらやま)の境界、大光寺側の広大な墓地で、内田九一の奥城(奥津城-おくつき。墓の古称だが近年はおもに神道の鎮魂碑をいう)を訪ねた際に、たまたま発見したもの。
この石の門には、どんな 文、はたまた 字 がつづられ、どんな 意味 があるのでしょう?
────────────────

長崎の墓所入口にある甲骨文について判読してみました。
甲骨文は異体(字)が多く確定はできませんが、次のように判読しました。
向かって右側の門柱は、「 先  祠  中 」
向かって左側の門柱は、「 思  父  祖 」
その意味するところは、
「祖先の墓所の中では、父祖のことを思え」
と解釈しました。頭の体操をさせて頂きました。[古谷 昌二]

☆    ☆    ☆    ☆

2019年02月01日、上掲写真を紹介すると共に、その読みと意味を何人かに質問した。早速回答をいただいたのは古谷昌二さんで上部に紹介した。
その間「石の門柱」ではいかにも座りがわるいので、知り合いの石材店に呼称をうかがった。ふつうは単に「門・石門」などと呼んでいるが、「石闕-せっけつ」と呼ぶことがあるとの回答をいただいた。

この「石闕」は長崎大光寺の墓地中腹にあるが、すぐ隣接して長崎「三福寺」のひとつ、唐寺として名高い「崇福寺-そうふくじ」の墓地とも正対している。すなわち唐文化からの影響もおおきいとみられた。そこで大光寺と崇福寺の両寺の歴史をみてみた。

大光寺は浄土真宗本願寺派の寺。慶長一九-1614年僧慶了が創建、万治三-1660年現在地の鍛冶屋町にうつり、一度も火災に合わなかったが、堂宇の一部は大正二-1913年に新しく建てなおされている。墓地には本木家歴代墓、西郷四郎墓、内田九一供養塔などがある。

崇福寺-そうふくじ」は、長崎市にある黄檗禅宗の寺院。大雄宝殿と第一峰門は国宝建築である。興福寺・福済寺とともに「長崎三福寺」に数えられる。
寛永六-1629年、長崎で貿易をおこなっていた中国福建省出身の華僑の人々が、福州から超然を招聘して創建。中国様式の寺院としては日本最古のものである。福建省の出身者が門信徒に多いため福州寺や唐寺と称せられた。

第四代住持 隠元隆琦 は、のちに徳川家の庇護をうけて宇治に黄檗山萬福寺を創建し、仏教百科事典ともいうべき萬暦版一切経『嘉興蔵』(下掲図版左)をもたらした。
その萬暦版一切経をもとに、山内の宝蔵院住持:鉄眼禅師が覆刻(かぶせ彫り)したのが「鉄眼一切経」(下掲図版右)で国の重要文化財となっているが …… 。

【闕-けつ 石闕-せっけつ】

闕は古代中国の宮殿、祠廟、陵墓などの門前の両脇に張り出して左右対称に設けられた望楼。中間が闕然として何もないことから、その名がある。闕の名称は西周時代の文献にすでに見える。一般に高い基壇の上に楼閣を立てたが、のちには石造でそのかたちをかたどったものもつくられた。
実物としては高頤闕-こういけつ-などの漢代の石造墓闕や、画像石に描かれたもの、壁画墓の墓道両脇に描かれたもののほか、北京故宮(紫禁城)の午門がこの形式になる。

石闕は本来木造であった闕を石でまねてつくった石造物で、大型墓の神道(神道碑-しんどうひ)や、祠廟の入口を飾った。石闕は必ずしも古代の木造の闕を忠実に模倣したものでなく、かなり簡略化したり誇張されており、個々によってかなり異なった形態をとる。
[参考:『世界大百科事典』平凡社]

【かきしるす】顔真卿自筆の尺牘 ≒ 書簡文『祭姪文稿-さいてつぶんこう』をめぐって

東京国立博物館で開催されている「顔 真卿展」は中国でも関心が高い  Photo : DOL
DIAMOND online  2019年02月04日

「 DIAMOND online  2019年02月04日 」に王 青(おう せい 日中福祉プランニング代表)女史が<顔真卿-王羲之を越えた名筆>展に関して、五ページにわたって興味深い報告をしてる。

それによると、台湾故宮博物院所蔵、顔真卿自筆の尺牘 ≒ 書簡文『祭姪文稿』が東京で展示されることが広報された直後から、書藝の至宝ともいえる『祭姪文稿』が中国ではなく、日本での公開となったことに対して、中国の SNS メディアを中心に、愕き、嘆き、悲しみ、怒りの情報が溢れ、いわゆる炎上状態になったそうである。

ところが、たまたま中国の旧暦の正月「春節休暇」と重なったため、多くの中国人が展観に駆けつけ、東京国立博物館での展示・広報記録の丁寧さをみて、さっそく好意的な報告をしたためたため、炎上は鎮火し、逆に東京展への人気が高まっているという。
【 詳細:  DIAMOND online  2019年02月04日 】

中国陝西省西安市雁塔路の噴水公園に建つ、武将姿の顔 真卿石像

西安城内中央通りの開放路・和平路を縦貫し、玄奘三蔵 ゲンジョウ-サンゾウ ゆかりの慈恩寺大雁塔 ジオンジ-ダイガントウ にいたる広い道幅の縦貫道「雁塔路 ガントウ-ロ」には、唐の太宗(李世民 在位626-649)の盛大な巡幸行列の再現彫刻をはじめ、唐王朝時代の政治家・文人・書法家などの巨大な石像が列をなしている。夜は噴水とともにライトアップされ、古都・長安(西安)のあたらしい観光名所となっている。

唐の太宗・李世明の陵墓。西安市郊外九嵕山-キュウソウザン-にある「昭陵」

近年になって李世明の巨大な立像が建てられ、観光地として整備されつつあるが、ここにいたるには狭隘な山道(車で走行できるがチョット怖い)がつづき、道中には案内板もなく、訪れるひとは少ないようだ。
管理人が十人ほど番小屋のような建物の前でゲームに耽っていた。この山稜のいずこかに太宗・李世民は偏愛した王羲之の書とともにねむっているという。このあたりに墓碑があったとされるが、現在はアメリカにあると聞いた。
────────────────

【顔 真卿  がん しんけい  709-785】

中国、唐代中期の政治家、書家。顔氏一族は「琅邪臨沂-ろうやりんぎ 山東省」の人であるが、父:顔 惟貞-いてい-の任地であった陝西長安に生まれた。あざなは清臣。北斉の学者:顔之推-がんしすい-五世の従孫にあたり、代々学者、能書家を輩出した名家の出である。
幼くして父を亡くしたが、伯父や兄から教えを受け、少壮より書をよくし、博学で辞章に巧みであった。734-開元22年、26歳で進士に合格し、のち刑部尚書、吏部尚書、礼儀使などの高位に上った。

唐の中期、玄宗皇帝の755-天宝14年、安禄山-あんろくさん-と、史思明-ししめい-による反乱、いわゆる「安史の乱」に際しては、平原太守として義兵をあげ、唐朝のために気を吐いた。わが国では「安禄山の乱」として知られるが、楊貴妃に溺れて治世を怠りがちだった玄宗皇帝の晩年に、節度使の安禄山と史思明らが起こした反乱をいう。763年、粛宗の代に鎮圧。以後、唐の中央集権型封建体制はおおきく弱体化した。

その後の顔真卿は魯郡開国公を封ぜられ、太子太師-たいしたいし-を授けられたが、生来剛直な性格の彼は人と相いれることすくなく、とかく敬遠されがちで官界を転々とした。
やがて李希烈-りきれつ-謀反のとき、死を覚悟して諭しに出向いたが逆に捕らえられ、拘留三年ののち蔡州(河南省)竜興寺において弑された。

書は顔氏一族歴代の書法を継承し、石碑にのこる書は「一碑一面貌」とも評される。また楷・行・草の各体に多肉多骨の書風を創始した。肉太の線と胴中を張らせた構成、それにどっしりした量感は顔真卿の全人間性を表出したものであり、開元・天宝期の書藝様式を確立した中心人物であるといっても過言ではない。
すなわち初唐のころ盛行した優美な王羲之-おうぎし-風とはまったく異なる、強烈な書風を示している。おもな作品に多宝塔碑、祭姪文稿-さいてつぶんこう、麻姑仙壇記-まこせんだんき、争坐位稿-そうざいこう、顔氏家廟碑-がんしかびょうひ-などがあり、『顔魯公文集』などの著がある。

[ 関連: 花筏 新・文字百景*004 願真卿生誕1300年+王羲之 2012年07月10日 ]

bnr_ganshinkei_3_224_1先行チラシ_A4_表東京国立博物館
特別展「顔真卿 王羲之を超えた名筆」
会  期  2019年1月16日[水]-2月24日[日]
会  場  東京国立博物館 平成館(上野公園)
開館時間  9:30-17:00(入館は閉館の30分前まで)
      * 会期中の金曜・土曜は21:00まで開館
休 館 日  月曜日 * 2月11日[月・祝]は開館、翌12[火]は休館
観覧料金  一般1600円、大学生1200円、高校生900円、中学生以下無料
主  催  東京国立博物館、毎日新聞社、日本経済新聞社、NHK
────────────────
中国の歴史上、東晋時代(317-420)と唐時代(618-907)は書法が最高潮に到達しました。書聖・王羲之(おうぎし、303-361)が活躍した東晋時代に続いて、唐時代には虞世南、欧陽詢、褚遂良(ぐせいなん、おうようじゅん、ちょすいりょう)ら初唐の三大家が楷書の典型を完成させました。
そして顔真卿(がんしんけい、709-785)は三大家の伝統を継承しながら、顔法と称される特異な筆法を創出します。王羲之や初唐の三大家とは異なる美意識のもとにつちかわれた顔真卿の書は、後世にきわめて大きな影響を与えました。

本展は、書の普遍的な美しさを法則化した唐時代に焦点をあて、顔真卿の人物や書の本質に迫ります。また、後世や日本に与えた影響にも目を向け、唐時代の書の果たした役割を検証します。

* 本展は「祭姪文稿」コーナーを中心に相当な混雑が広報されています。
* 混雑状況は Twitter @ganshinkei2019 にて確認できます。
   また下掲ページ、本館開催の関連展 王羲之書法の残影-唐時代への道程-もお勧めです。

【 詳細: 東京国立博物館 】 { 関連: 活版アラカルト

【ことのは】春節-己亥大吉 旧正月の祝|有朋自遠方来不亦楽乎 ── 朋有り遠方より来たる亦た楽しからずや|

《邢 立 老師、ことしの春節をご夫人とともに日本ですごす》

<上海に営業所を有する知人からの情報>
今年の中国春節の休暇は 2月4日[月]-10日[日]、実質 3 日[日]をあわせて連続 8 日間の休暇となっています。弊社の上海事務所は政府の規定どおりの休暇ですが、生産工場などは 2 週間から 1 ヶ月間を休業としているところが多いようです。

’19年11月末、長崎で開催された<「平野富二生誕の地」碑建立祝賀祭>に北京から参加され、会話翻訳機を駆使して、すっかりサラマ・プレス倶楽部会員とも親しくなられたのが邢 立-シン リツ- さん。
[ 参考: Notes on Typography 【ことのは】春節 シュンセツー旧正月|中国:春節 連続8日間の休暇|長崎新地地区を中心に「2019長崎ランタンフェスティバル」2月5日-19日 ]

さきに愛娘が結婚され、まもなく出産ということで(邢 立 老師はオジイサンになる)、北京印刷大学教授でもあるご夫人は、日本の温泉を楽しみ、またベビー用品のお買い物に忙しいとか。
そこで邢 立さんはひとりで朗文堂に来社して、いつものタイポグラフィ論議。
中国の春節のすごしかたも、少しずつ変わってきているようです。
北京の印刷・出版社の中華書局数字出版中心:李 晨光さんから、『己亥大吉-きがいだいきち』のデスクダイアリーと、『唐詩之美日暦』『宋詞之美日暦』の春節を祝う携行カレンダーが到着した。

中華書局は自社活字書体の「聚珍倣宋版」を有し、中国有数の印刷・出版企業の中核企業である。「中華書局数字出版中心」での数字はデジタルを、中心はセンターをあらわすので、李 晨光さんは同社のデジタル・パブリッシング部門の総括責任者ということになろうか。

李 晨光さんとの最初は2015年04月03日、東京での学会にパネラーとして参加された中華書局と商務印書局のおふたりが、中途で「脱出」して、小社を訪問されたことにはじまった。その後はやつがれが北京を訪問したり、招聘された際にお会いしていた。

政府系企業から招聘をうけて訪中した際に、主催者にお願いして前夜祭のパーティーに李 晨光さんをお招きしていただいた。驚いたのは並みいる有名大学の教授陣が競って李 晨光さんのもとに駆け寄って名刺交換にあたっている光景であった。
宴が終わったのちに、親しい某教授に伺ったところ、
「中華書局は学生の憧れの職場ですから。ねっ」と艶然と微笑まれた。
やつがれも現役時代にはそれなりに学生の就職先を気にしていたが、巨大大国となった中国では、著名企業への求職競争は熾烈なものがあることをのちに知った。

[ 関連: 朗文堂好日録-045 卯月四月がおわり、新緑と薫風の皐月五月のはじまり ]

続きを読む

【もんじ】花のことのは-誠実・控えめ|字であらわすと厄介なスミレ

【菫 解字】ウエブサイトでは表示できない「槿-キン・むくげ、僅少-キンショウ」の旁、「キン」を含むので、以下「僅」を代用して説明。
会意・形声。艹と僅を合わせた字。僅-キン-が音をも示す。艹は草の意、僅-キン-は僅と似て、わずかとか、ちいさいの意がある。そこで小さな草、すみれをいう。
面倒ではあるが「菫」と、「槿・僅」の旁は別字である。

《春は名のみの …… 寒い毎日がつづきます》
吾が空中庭園では、ここのところ寒風をものともせずスミレがひっそりと開花している。
ここは南面しているので、晴天なら陽だまりになるが、この頃の曇天のなかではさすがに寒そうである。
本格的な春の到来を待ちわびる日々がつづく。

【 スミレ 菫 菫菜-キンサイ 】
春、道ばたや森の中で深い紫の花を咲かせる。自生している場所や、その色から奥ゆかしい花とされ、「花のことのは」は、「誠実」「ひかえめ」。
歳時記では卯月-四月の花とされている。

日本では多くの種類のスミレが自生しているので香りは種類によって異なる。スミレを特定の種の和名として用いるほか、スミレ属各種を総称することも多い。
スミレの名は、下弁の形が、大工が使用する墨壺に似ているからつけられたもので、墨入れの略とされる。漢の字「菫-キン」を与えて「菫-すみれ」とするのは俗用(意読)で、中国では「菫菜-キンサイ」と書かれることが多い。
英語では「violet バイオレット」と書くが、サンシキスミレ( V. tricolor L. ビオラ・トリコロル)系のものは、主として園芸品種の系統を「pansy-パンジー」、また主として野生種のものを「heartsease-ハートシーズ」とよんで区別する。

[参考:『日本大百科全書』(小学館)]

【ことのは】30センチのエスプリ|懐紙・短冊-書はかたる| 徳川美術館・名古屋市蓬左文庫展ゟ

本木昌造自筆短冊五首 ── 釈読:古谷昌二(平野ホール所蔵)

本木昌造の平素の自筆稿本『本木昌造活字版の記事』(仮題、長崎歴史文化博物館:参考『活字をつくる』p.100 片塩、朗文堂)などをみると、決して能筆とはいえず、むしろ「金釘流」にちかいものがある。
ところが長崎歌壇同人としてのこした歌の短冊は、流麗な「お家流」の書で、艶冶な歌をしるし、署名はあざな「永久-ながひさ」としてのこした。この短冊は関東大震災、太平洋戦争などの罹災をこえて、こんにちでも平野ホールに継承されている。

【 YouTube I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~   音が出ます  03:57 】

I H I ヒストリーミュージアム「i-muse」(アイミューズ)にて放映中の映像の YouTube 版から平野富二の「歌」を紹介した。
この「歌」の出典は『本木昌造 平野富二 詳伝』(発行兼編輯人:三谷幸吉、同書頒布刊行会、p.172  昭和8年4月20日)である。

同書平野富二編には、しばしば「日記」「金銀錢出納帳」が紹介され、不鮮明ながら131ページには「日記」、148ページには「金銀錢出納帳」の写真凸版による影印図版がみられる。

したがって三谷幸吉が調査にあたった昭和7-8年ころには現存した資料であるが、残念ながら現在原資料は発見されていない。また上掲の一首以外の歌は紹介されておらず、短冊の存在も報告されていない。

平野〔富二〕先生は無骨一點張りの裡にも、亦、風流なところがあったと見えて、時々和歌を詠ぜられて居る。左〔下部〕の和歌は、明治二十年五月より七月に到る「日記」(平野家所蔵)に記載しありたるものである。
   世の中を空吹く風に任せ置き
   事を成す身は國と身のため

【補遺 古谷昌二さんはときおりこんな瀟洒なことをひっそりと …… 。「植文字」まさに活字の本質をついた名句です!】

『平野富二伝 考察と補遺』(古谷昌二、補遺4 p. 250)
平野富二を描いた瓦版
明治一〇年(一八七七)の頃とされる瓦版「当世名人八景」が刊行され、
現代八人の名人とされる中の一人として平野富二が描かれ、その傍らに、
 「解かしては
 かためて鋳ぬく
 植文字を
 平野に充つる
 雪の夕景」
という句が添えられているとのことであるが、残念ながら実物は未見である。

【展覧会】徳川美術館・名古屋市蓬左文庫|企画展:書 は 語 る ─ 30センチのエスプリ ─|1月4日-2月3日|本展示は終了しています

【 詳細: 徳川美術館・名古屋市蓬左文庫 】
続きを読む