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【WebSite 紹介】 瞠目せよ諸君!|明治産業近代化のパイオニア 平野富二|{古谷昌二ブログ24}|地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海

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平野富二生誕170年を期して結成された<「平野富二生誕の地」碑建立有志会 ── 平野富二の会>の専用URL{ 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、同会代表/古谷昌二氏が近代活版印刷術発祥の地:長崎と、産業人としての人生を駈けぬけた平野富二関連の情報を記述しています。
本稿もこれまでの「近代産業史研究・近代印刷史研究」とは相当深度の異なる、充実した内容となっております。関係各位のご訪問をお勧めいたします。
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[古谷昌二まとめゟ]
茂中貞次と鳥山棄三の兄弟は、明治5年(1872)から6年(1873)にかけて、神田和泉町に開設されたばかりの「文部省御用活版所」で小幡正蔵の下で勤務した。その後、小幡正蔵が独立したため、隣接していた「長崎新塾出張活版製造所」に移り、平野富二の下で勤務した。

鳥山棄三は、のちに文筆家となって宇田川文海と名乗るが、その頃の事柄を自伝『喜壽紀念』に残しており、平野富二の人柄を知るうえで貴重な記録となっている。

この兄弟二人は、関西地方と東北地方で最初の活版印刷による新聞発行に関わった。その後、兄の茂中貞次は活版印刷所の経営者となり、弟の鳥山棄三は新聞記者、新聞小説家となって、兄弟共に神戸、大阪で活躍した。
現在では、宇田川文海といっても、その名前を知る人はほとんどいないが、その才能を見出し、その道に進むよう勧誘した平野富二の人を見る目を高く評価したい。
〔資料:
『喜壽紀念』宇田川翁喜壽紀念会、大正14年、東京大学明治新聞雑誌文庫蔵〕

古谷昌二ブログ ──── 地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海 

ab8a2b0e21f54ff5474ba991de0cb37c-300x199◎ 古谷昌二ブログ
[管理人:「平野富二生誕の地」碑建立有志会事務局長 日吉洋人]

① 探索:平野富二の生まれた場所
② 町司長屋の前にあった桜町牢屋
③ 町司長屋に隣接した「三ノ堀」跡
④ 町司長屋の背後を流れる地獄川
⑤ 矢次事歴・平野富二祖先の記録
⑥ 矢次家の始祖関右衛門 ── 平野富二がその別姓を継いだ人
⑦ 長崎の町司について
⑧ 杉山徳三郎、平野富二の朋友
⑨ 長崎の長州藩蔵屋敷
⑩ 海援隊発祥の地・長崎土佐商会
⑪ 幕営時代の長崎製鉄所と平野富二
 官営時代の長崎製鉄所(その1)

⑬ 官営時代の長崎製鉄所(その2)
⑭ ソロバンドックと呼ばれた小菅修船場
⑮ 立神ドックと平野富次郎の執念
 長崎新聞局とギャンブルの伝習
 山尾庸三と長崎製鉄所
⑱ 本木昌造の活版事業
⑲ 五代友厚と大阪活版所
 活字製造事業の経営受託
 文部省御用活版所の開設
㉒ 東京進出最初の拠点:神田和泉町
㉓ 神田和泉町での平野富二の事績
㉔ 地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海

 地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海 主要内容 >

まえがき
1) 茂中貞次と鳥山棄三について
2) 宇田川文海(鳥山棄三)による平野富二の言動記録
3) 鳥山棄三の秋田での『遐邇新聞』発行
4) 茂中貞次による地方への活版印刷普及
ま と め

わが国最初期の新聞のひとつ『遐邇-かじ-新聞』、第一号(明治7年2月2日)表紙

題号の「遐邇-かじ」は遠近をあらわす。平野富二による長崎新塾出張活版製造所から派遣された鳥山棄三(のち宇田川文海)が編輯者となり、秋田県の聚珍社から発行された。長崎新塾出張活版製造所製の活字が用いられ、漢字は楷書風活字、ルビは片仮名。「人民をして遠近の事情に達し内外の形勢を知らしめ」と記されている。

{新宿餘談}

このたび古谷昌二氏によって紹介されたふたり、兄の茂中貞次はわずかに印刷史にも記録をみますが、弟の鳥山棄三(のち宇田川文海)に関してはほとんど知るところがありませんでした。
当時としては長寿を保った宇田川文海『喜壽紀念』* には、これも記録に乏しい平野富二の生きよう、人柄が鮮明に描かれています。また平野富二一行により、創設直後の神田和泉町と築地二丁目の活版製造所「長崎新塾出張活版製造所」から、想像以上に極めて迅速に、全国各地に、活版印刷関連機器と相当量の活字が、素朴ながらもシステムとして供給されていたことを知ることができます。

読者諸賢は、ぜひともリンク先の古谷昌二ブログ< 地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海 >をご覧いただき、その後さらにご関心のあるかたは、本稿{続きを読む}に、吉川弘文館『国史大辞典』から引用したふたりの記録をご覧たまわりますようお願い申しあげます。

[古谷昌二ぶろぐ まえがきゟ]

平野富二は、東京神田和泉町に「長崎新塾出張活版製造所」を開いて、活字・活版の製造・販売を開始した。
「文部省御用活版所」(のちに「小幡活版所」)で支配人兼技師となっていた茂中貞次と、その下で見習工として働いていた弟鳥山棄三の二人は、明治6年(1873)1月頃、「小幡活版所」が廃止されたため、平野富二の経営する「長崎新塾出張活版製造所」に移り、平野富二の下で働くようになった。
鳥山棄三は、後に大阪における代表的新聞記者となると共に、筆名を宇田川文海と名乗って新聞連載小説家となった。大正14年(1925)8月に『喜壽紀念』として纏めた自伝を残している。その中に、平野富二の下で働いていた頃の事柄が記録されている。

この兄弟二人は、平野富二の指示で、それぞれ鳥取と秋田に派遣され、地方の活版印刷普及の一端を担った。その後、神戸と大阪における初期の新聞発行に貢献している。
本稿では、宇田川文海によって伝えられた平野富二の人柄を示す記録と、鳥取と秋田、更には神戸と大阪における新聞発行とその関連について紹介する。

*  本稿では宇田川文海七十七歳喜寿の祝として開催された「祝壽會」と、東京大学明治新聞雑誌文庫での文献目録にならって『喜壽紀念』とした。そののち国立国会図書館でも館内閲覧が可能であることがわかったので、そこの書誌情報を紹介したい。
◉『喜寿記念』(宇田川文海著、大阪、大正14年、宇田川翁喜寿記念会)

標題/目次/緒言/喜壽紀念/私が新聞記者になるまで/朝日新聞創刊以前の大阪の新聞/阿闍梨契冲/狂雲子〔赤裸々の一休和尚〕/豐太閤と千利休/宇田川文海翁祝壽會の顛末/室谷鐡膓氏/跋

『国史大辞典』(吉川弘文館 ゟ)宇田川文海/茂中貞次 関連資料紹介
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