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【展覧会】江戸東京博物館 特別展|サムライ ── 天下太平を支えた人びと|9月14日-11月4日

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江戸東京博物館 特別展
サムライ──天下太平を支えた人びと
会  期  2019年9月14日[土]-11月4日[月・休]
会  場  東京都江戸東京博物館 1階特別展示室 (東京都墨田区横網1-4-1)
開館時間  午前9時30分-午後5時30分(土曜日は午後7時30分まで)
      * 入館は閉館の30分前まで
休  館  日  月曜日(9月16日・23日、10月14日、11月4日は開館)、9月24日、10月15日
主  催  公益財団法人東京都歴史文化財団 東京都江戸東京博物館、朝日新聞社
観  覧  料  一般1,100円、大学・専門学校生880円  * 特別展・常設展共通券もあります
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日本をイメージするキーワードとして国内外を問わず多く用いられる〝サムライ〟。しかし、そのことばから何を連想するのかは人によって様〻です。武家・武士・侍・浪人など、サムライが表す人びとについて、歴史的な実態をふまえてこのことばを使用しているとはいいがたいのではないでしょうか。
そこで本展では、現代のサムライイメージの原点である江戸時代のサムライ〝 士 〟の暮らしや仕事のありさまをご覧いただき、サムライのイメージを見直してみたいと思います。

本展覧会では、いわゆる武士道書に登場するような、抽象的なサムライの姿を紹介するにはとどまりません。徳川将軍の居所として、当時、世界有数の大都市であった江戸の風景の中で、サムライがいかに活動していたのか、絵画作品や古写真から浮き彫りにしていきます。
また、有名無名を問わず、サムライの家に伝来した所用品の数〻から、江戸時代の人びとが見聞きし親しんでいた生のサムライの生活をご覧いただきます。
当時、最大の武家人口を誇っていた都市江戸と、その近郊に暮らしたサムライの姿をここに再現していきます。

[ 詳細: 江戸東京博物館 ]

黒田藩江戸上屋敷 江戸東京博物館蔵明治になって官舎に転用された旧大名屋敷 写真に残るその面影
「温古写真集」霞ヶ関福岡藩黒田侯上屋敷表玄関 明治時代初期 東京都江戸東京博物館蔵初代外務省庁舎明治初期に外務省庁舎として使われていた頃の旧霞ヶ関福岡藩黒田侯上屋敷
「ウィキペディア:黒田藩 ゟ」

福岡藩は、江戸時代に筑前国のほぼ全域を領有した大藩。筑前藩とも呼ばれる。藩主が黒田氏であったことから黒田藩という俗称もある。
藩庁は福岡城(現在の福岡県福岡市)に置かれた。歴代藩主は外様大名の黒田氏。支藩として秋月藩、また一時、東蓮寺藩(直方藩-のうがたはん)があった。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの功により、筑前の一部を領有していた小早川秀秋が備前国岡山藩に移封となった。代わって豊前国中津藩主の黒田長政が、同じく関ヶ原の戦功により、筑前一国一円52万3千余石の大封を与えられたことにより同藩が成立した。国主、本国持の大名家である。

徳川将軍家は福岡藩・黒田氏を優遇し、2代・忠之以降の歴代藩主に、松平の名字と将軍実名一字を授与(偏諱)した。江戸城内の席次は大広間松の間、9代斉隆以降、大廊下上之部屋。松平筑前守黒田家として幕末に至る。

筑前入府当初の居城は、小早川氏と同じ戦国武将立花鑑載が築城した名島城であったが、手狭であり交通にも不便であったため、慶長6年(1601年)から慶長11年(1606年)までの約6年をかけて、新たに広大な城郭・福岡城(別名:舞鶴城・石城)を築城した。
同時に領内において福岡藩と小倉藩の藩境に筑前六端城(益増城、鷹取城、左右良城、黒崎城、若松城、小石原城)を築き、黒田八虎で筆頭重臣の栗山利安、井上之房をはじめとする家臣らが城主となる。
なお、長政は質素倹約を旨とする父の藩祖・黒田如水の教えにより藩内には豪壮な別邸屋敷や、大名庭園などは築庭しなかった。黒田家は6代藩主継高が隠居屋敷、数寄屋庭園の友泉亭(現・友泉亭公園)を建立した程度である。

明治初期に外務省庁舎として使われていた頃の福岡藩江戸屋敷
黒田家江戸屋敷は、現在の千代田区霞が関2丁目2番、外務省庁舎の位置に上屋敷があった。明治時代になってからは、創設されたばかりの外務省初代庁舎として使われていたが、1877年(明治9年)2月1日に焼失した。現在も外務省外周には当時の石垣が残り、藩屋敷の面影が残っている。
桜田屋敷と呼ばれ、隣接する芸州浅野家屋敷との間に見晴らしの良い坂があり、江戸霞ヶ関の名所とされた。歌川広重作『名所江戸百景』中の「霞かせき」がそれである。

名所江戸百景 霞かせき 国立国会図書館蔵歌川広重  名所江戸百景「霞かせき」 国立国会図書館蔵 請求記号:寄別1-8-2-1

最後まで残った「海鼠壁ーなまこかべ」の長櫓は旧国宝に指定されていたが、太平洋戦争時の空襲で消失。なお、屋敷の巨大な鬼瓦(雲紋瓦)が東京国立博物館に常時屋外展示してある。
ほかに赤坂に中屋敷、渋谷と白金に下屋敷、郊外には御鷹屋敷、深川に蔵屋敷があった。
長崎、京都、大坂にも屋敷があり、天王寺公園内大阪市立美術館の横には中ノ島にあった黒田家蔵屋敷表門が、移築保存されている。また、秋月藩江戸屋敷の表門は、東京よみうりランドに移築保存されている。
〔なおしばしばもちいられる〝藩邸〟は、明治期になってからのことばで、江戸期ではもっぱら大名屋敷・武家屋敷であった〕

kazari-upperdc44109c143b79f8034291efa598041d「江戸名所道外盡十 外神田佐久間町 廣景画」 安政六年
(平野富二の会 所蔵)

上掲図は「伊勢国 津藩 藤堂家上屋敷」を描いた錦絵である。この建物は明治期には政府に公収されて、おもには医学校と附属病院としてもちいられ、東京大学医学部の発祥の地となった。
またここには文部省活版所が設けられ、ついで明治6(1873)年には平野富二一行八名によって長崎新塾出張活版製造所が開設された、近代医学と近代活版印刷発展の起点となった地である。

廣景による錦絵「江戸名所道外盡十 外神田佐久間町」安政六年-を平野富二の会が購入しているが、この門長屋は明治13(1880)年当時は医学校の寄宿寮としてもちいられており、森鷗外は著作『雁』にそれをしるしている。
福岡黒田家江戸屋敷は明治9年には焼失しているが、このたび錦絵とあわせて写真も公開された。
したがって明治13年(1880)までは確実に存在していた、「霞ヶ関福岡藩黒田侯上屋敷表玄関」と同様な「伊勢国 津藩 藤堂家上屋敷」の古写真が撮影されていた可能性は高い。もしも、こうした古写真を所蔵されておられる方がいらしたら、ぜひともご一報たまわれば幸甚である。

[ 参考: 平野富二の会「藤堂和泉守上屋敷と門長屋-日本近代医学とタイポグラフィ揺籃の地 ]

【古谷昌二 新ブログ】 東京築地活版製造所 歴代社長略歴|終末期の経営を担った吉雄永寿と松田一郎〔シリーズ全七回最終回〕


東京築地活版製造所 終末期の経営を担った吉雄永寿と松田一郎

はじめに
1.終末期の東京築地活版製造所の経営概要
2.専務取締役(第7代社長空席)吉雄永寿について
    2-1 吉雄永春著「東京築地活版製造所と吉雄永寿」
       (一)伝票制会計
       (二)設備の更新
       (三)不用部門の切捨て
       (四)別工場
       (五)内政から外交
          終 焉
    2-2 その他の事績
3.解散を決議した第9代社長松田一郎について
    3-1 東京築地活版製造所との関わり
    3-2 取締役としての事績
    3-3 第9代社長としての事績
まとめ
シリーズ「東京築地活版製造所 歴代社長略歴」を完結するのに当たって
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ま と め

第6代社長松田精一が辞任して専務取締役吉雄永寿に会社経営を託した昭和13年(1935)5月28日から、第9代社長松田一郎が会社解散を決議した昭和13年(1938)3月17日までの2年10ヶ月間は東京築地活版製造所の終末期であった。
この間、第7代社長空席のまま専務取締役として吉雄永寿が2年5ヶ月半、次いで第8代社長空席のまま代表専務取締役坂東長康が4ケ月半、それぞれ経営責任者として勤めた。その後は、代表取締役松田一郎が第9代社長に選任されて即日、会社解散を決議して清算業務に入った。

吉雄永寿と松田一郎の二人は、昭和6年(1931)3月12日の臨時株主総会において初めて取締役に選任され、以後、重任を重ねていた。それを勘案すると、会社役員として経営に参与した期間は共に7年間となる。一方、坂東長康が経営に参与したのは僅か4ヶ月半で、その業績は伝えられていない。

吉雄永寿は、父吉雄永昌が遺した東京築地活版製造所の株式50株に新株50株を加えて100株を所有する株主であった。
吉雄家は長崎のオランダ通詞の家柄で、吉雄永昌は吉雄辰太郎と称していた。初期の東京築地活版製造所の取締役であった品川藤十郎とは遠い親戚で、上京して大蔵省、内務省に出仕した。その頃、平野富二に協力して築地本社事務所の建築代金支払いの保証人となった。また、フィラデルフィア万国博覧会への活字類出品に協力したと見られている。

その後、高砂熱学の役員を経て、東京築地活版製造所の取締役として招聘されたとされている。昭和5年(1930)11月末の決算で大幅赤字を計上した東京築地活版製造所は、印刷業界の老舗「築地活版」をつぶすなとの声に押されて株主吉雄永寿は取締役に選任された。
当時の社長松田精一は長崎の十八銀行頭取や長崎商工会議所会頭を務め、多忙のため病気がちで、「築地活版」の経営に専念することができない状態にあった。その補佐役として長男の松田一郎も同時に取締役に就任した。

会社役員に就任して後、会計に伝票制を取り入れ、人員整理を断行、大阪営業所の縮小、印刷事業に着目した高速オフセット印刷機の導入と、板橋区志村に新工場の計画、同業組合への積極的参画など、経営改善に努めた。
しかし、満州事変に始まる日中戦争への拡大により経済・社会情勢はこれに味方せず、関東大震災後の復興のための多額の借入金と昭和5年後期の大赤字が足を引っ張り、昭和12年後期の決算で前期に続いて赤字計上の見込みとなったため、昭和12年(1937)10月29日開催の臨時株主総会において専務取締役を辞任し、監査役に就任した。

吉雄永寿の跡を引き継いだ代表専務取締役坂東長康は、債権者代表として送り込まれた人物ともいわれ、会社経営上の貢献についての記録は見当たらない。第8代社長空席での経営責任者であったが、会社解散決議の直前まで最後の経営責任者となった。

松田一郎は、松田精一、吉雄永寿、坂東長康の3代にわたる経営責任者の下で都合7年間、取締役を務め、経営を支えてきた。この間の松田一郎が果たした経営上の貢献は明らかにされていないが、資金面での協力が大であったことは推測される。
松田精一を代表とする松田一族の保有する株数は、東京築地活版製造所の発行株数12,000株の40%を越え、東京築地活版製造所とはある意味では松田一族の会社といっても過言ではない。

昭和13年(1938)3月17日、臨時株主総会が開かれ、経営責任者である坂東長康の不審な行動を見抜いた吉雄永寿は監査役の権限で退任を要求し、その結果、代表取締役に選任された松田一郎が第9代社長に就任した。松田一郎は、役員選任が終わった後、引き続いて会社解散の決議を行い、清算に入ることになった。
したがって、松田一郎は社長として会社経営を行うことなく、会社清算に入ったことになる。

この時の会社清算がどのように行われ、何時、解散届が役所に提出されたか不明であるが、築地の土地と建物は日本勧業銀行からの借入金の弁済に充てられた。その他、従業員の解雇手当や債権者への弁済には製品・資材や器械・器具類の売却により、多少の混乱はあったものの無事に清算を完了したと見られる。
なお、株主に対しては、昭和5年後期の決算以降、一度も株式配当を行うことなく会社解散となったが、最大株主である松田一族の代表でもある松田一郎の協力要請により、納得できる処置が講じられたものと見られる。

明治18年(1885)7月の会社設立から数えて53年、平野富二が築地に工場を建設した明治6年(1873)6月から数えると65年、わが国活版印刷の普及と発展に尽くした東京築地活版製造所は、その混乱を表面化することなく静かに幕を閉じた。

吉雄永寿の肖像写真
<日本工業倶楽部『創立二十年記念 会員写真帖』、昭和13年3月>

この写真は、東京築地活版製造所 常務取締役として掲載された。
日本工業倶楽部は大正6年に創立され、
東京築地活版製造所も会員の一員として加入していた。

【 古谷昌二ブログ : 東京築地活版製造所 歴代社長略伝 全七回まとめ 】
◉ 第一回 東京築地活版製造所 初代社長 平野富二
◉ 第二回 東京築地活版製造所 第二代社長(空席)、社長心得 本木小太郎
◉ 第三回 東京築地活版製造所 第三代社長  曲 田 成
◉ 第四回 東京築地活版製造所 第四代社長 名村泰蔵
◉ 第五回 東京築地活版製造所 第五代社長 野村宗十郎
◉ 第六回 東京築地活版製造所 第六代社長 松田精一
◉ 第七回 東京築地活版製造所 終末期の経営を担った吉雄永寿と松田一郎

【WebSite 紹介】 瞠目せよ諸君!|明治産業近代化のパイオニア 平野富二|{古谷昌二ブログ26}|活版製造所の築地への移転

6e6a366ea0b0db7c02ac72eae00431761[1]明治産業近代化のパイオニア

平野富二生誕170年を期して結成された<「平野富二生誕の地」碑建立有志会 ── 平野富二の会>の専用URL{ 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、同会代表/古谷昌二氏が近代活版印刷術発祥の地:長崎と、産業人としての人生を駈けぬけた平野富二関連の情報を記述しています。
本稿もこれまでの「近代産業史研究・近代印刷史研究」とは相当深度の異なる、充実した内容となっております。関係各位のご訪問をお勧めいたします。
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[古谷昌二まとめゟ]
明治6年(1873)7月、平野富二は築地2丁目に土地を求めて工場を新設し、神田和泉町から移転した。その頃になると、活字の需要も急速に拡大し、各地からの活版印刷機引合にも応じる必要が増大していた。
当初は約150坪の土地であったが、需要の拡大に応じて次〻と隣接地を買増して工場を拡大すると共に、事務所や倉庫も設けた結果、わずか2年後の明治8年(1875)には敷地850坪余りの東京でも有数の大工場となった。

神田和泉町における約1年間の活字販売高は50万個程度であったが、築地に移転後は、年々増加し、明治11年(1878)9月に活版製造事業を本木家に返還する頃には、年間7百万個以上の販売高に達するようになっていた。
事業主の本木昌造は、明治7年(1874)夏と翌年の春に上京して、平野富二に委託した活版製造事業の現状を確認し、五代友厚からの多額の融資金返済の目途もたったことを悦び、長崎に戻ったが、明治8年(1875)9月、長崎で病没した。
しかし、この時点では、平野富二が本木昌造と約束した経営の安定化の達成と、本木昌造の嫡子小太郎を後継者として育成するまでには至っていなかった。

明治11年(1878)9月に本木昌造没後3年祭を行うのに際して、東京で後継者教育を行っていた本木小太郎を伴って長崎を訪れた平野富二は、活版製造事業の出資者に集まってもらい、東京で行った事業成果を報告し、その事業すべてを本木家に返還することを申し出た。その中には活版製造事業の成果を流用して進出した造船事業も含まれていた。
思いもよらない申出を受けた長崎の出資者たちは、即座には平野富二の申し出を受け入れることはできなかった。

翌12年(1879)1月、平野富二は本木小太郎を伴って再び長崎を訪れ、長崎本店で出資者たち立ち合いの下で資産区分を行った。その結果、資本金4万円相当の石川島造船所と3千円相当の築地の工場用地は平野富二の所有とし、資本金10万円相当の築地活版製造所は出資者を含めた本木家に返還することとなった。また、本木家と平野家とで双方の資本金1万円を持ち合い、永く関係を維持することとなった。

以後、東京の築地活版製造所の所長は本木小太郎となり、平野富二は後見人として身を引いた。しかし、平野富二の出番はこれで終わることはなかった。その後については追い追い紹介する。

古谷昌二ブログ ── 活版製造所の築地への移転

はじめに
(1)築地への移転
(2)営業活動の再開
(3)隣接地の買増しと事務所・工場の増設
(4)急速に伸びた活字の需要と販売高
(5)本木昌造の東京視察
(6)築地に於ける設備増強
(7)活字類の品揃えと改刻
(8)本木家に活版製造事業を返還
ま と め

【ことのは】明治十年ころ|瓦版「当世名人八景」にみる句と平野富二の活版製造事業

『平野富二と活版製造事業 ── 東京築地活版製造所』 製作:青葉水竜

『平野富二伝  考察と補遺』(古谷昌二、朗文堂 pp 250)
第七章 石川島造船所の操業開始
補遺4 平野富二を描いた瓦版
明治一〇年(一八七七)の頃とされる瓦版「当世名人八景」が刊行され、現代八人の名人とされる中の一人として平野富二が描かれ、その傍らに、

   解かしては
   かためて鋳ぬく
   植文字を
   平野に充つる
   雪の夕景
という句が添えられているとのことであるが、残念ながら実物は未見である[古谷昌二]。

平野号 平野富二生誕の地碑建立の記録
B 5 判 408 ページ ソフトカバー 図版多数
定  価  本体 3,500 円+税
発  行  日  2019年5月30日 初刷
編  集  「平野富二生誕の地」碑建立有志の会
発  行  平野富二の会
発  売  株式会社朗文堂
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明治産業近代化のパイオニアとして著名な平野富二は、長崎にうまれたひとと伝わってきた。長崎では東京に進出したひととだけ伝わった。
富二の生家は長崎の地役人たる町司で、身分は平民ながら、世襲の家禄をうけ、苗字帯刀をゆるされた矢次家の次男であった。幼名矢次富次郎は明治五(一八七二)年に妻帯し、戸籍編成に際して平野富二と改名して長崎外浦町に一家を構えた。中島川右岸、飽の浦の長崎製鉄所、立神ドック、対岸の小菅修船場などにわずかな足跡をのこして、東京に新天地をもとめ、数えて二六のとき、総勢一〇名で長崎をあとにして東京(現 千代田区神田和泉町一)に「長崎新塾出張活版製造所」の看板をかかげた。のちに同社は「東京築地活版製造所」と改組改称、「東洋一の活字鋳造所」として自他ともにゆるす存在となった。

素志である重機械製造と造船事業も明治九(一八七六)年から本格的に開始した。平野富二は石川島平野造船所(現IHI)を設立して数百トンもある巨大な船舶をつくり、橋梁をつくり、蒸気機関をもちいて海上輸送と陸上輸送の進展に貢献した。
平野富二はこうしたおおきな成果をあげつつ、在京わずか二〇年、四六歳にして病にたおれた。それでもその功績は、金属活字製造、印刷機器・資材製造、活字版印刷、重機械製造、造船、橋梁架設、航海、海運、運輸、交通、土木、鉱山開発……と、枚挙にいとまのない事業展開をはかって近代日本の創建に貢献した。

今般「平野富二生誕の地」碑の建立を期して直近二〇年ほどの東京と長崎の交流を本書『平野号』に記録した。あわせて、長崎にもうけられた海軍伝習所、医学伝習所、活字判摺立所、活版伝習所、英語学校などの施設の設備と伝習の成果が、江戸・東京の、どこに・いつ・どのように・たれが伝え移動させたのか、そしてこんにちの状況も記録して、今後の研究の手がかりとした。

本書はいたずらな個人崇拝や、明治の偉人として平野富二をとらえることなく、等身大の平野富二像を描きだすことに尽力した。すなわち平野富二の精神と功績は、明治の偉人という範疇にとどまらず、印刷術という平面設計から、重機械製造という立体造形物にいたるまで、現在のわれわれの日常にも脈々と受け継がれている。
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【 YouTube I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~   音が出ます  03:57 】


* 拡大画面ご希望の際は、画面右下  YouTube の文字部 をクリックすると別枠が開きます。

I H I の原点 ~ 平野富二と石川島 ~
I H I  Corporation 2018/10/23 に公開

嘉永6年、ペリー来航による欧米列強への対抗に迫られた幕府が、水戸藩に造船所設立を指示し、石川島造船所を創設した。文明開化、富国強兵、近代への助走 …… その先頭を走る人物こそ I H I の礎を築いた平野富二であった。
I H I ヒストリーミュージアム「i-muse」(アイミューズ)にて放映中の映像の YouTube 版です。

[ 詳細:i – muse WEBサイト  https://www.ihi.co.jp/i-muse/ ]
[ 参考: 平野富二の会

【WebSite 紹介】 瞠目せよ諸君!|明治産業近代化のパイオニア 平野富二|{古谷昌二ブログ24}|地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海

6e6a366ea0b0db7c02ac72eae00431761[1]明治産業近代化のパイオニア

平野富二生誕170年を期して結成された<「平野富二生誕の地」碑建立有志会 ── 平野富二の会>の専用URL{ 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、同会代表/古谷昌二氏が近代活版印刷術発祥の地:長崎と、産業人としての人生を駈けぬけた平野富二関連の情報を記述しています。
本稿もこれまでの「近代産業史研究・近代印刷史研究」とは相当深度の異なる、充実した内容となっております。関係各位のご訪問をお勧めいたします。
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[古谷昌二まとめゟ]
茂中貞次と鳥山棄三の兄弟は、明治5年(1872)から6年(1873)にかけて、神田和泉町に開設されたばかりの「文部省御用活版所」で小幡正蔵の下で勤務した。その後、小幡正蔵が独立したため、隣接していた「長崎新塾出張活版製造所」に移り、平野富二の下で勤務した。

鳥山棄三は、のちに文筆家となって宇田川文海と名乗るが、その頃の事柄を自伝『喜壽紀念』に残しており、平野富二の人柄を知るうえで貴重な記録となっている。

この兄弟二人は、関西地方と東北地方で最初の活版印刷による新聞発行に関わった。その後、兄の茂中貞次は活版印刷所の経営者となり、弟の鳥山棄三は新聞記者、新聞小説家となって、兄弟共に神戸、大阪で活躍した。
現在では、宇田川文海といっても、その名前を知る人はほとんどいないが、その才能を見出し、その道に進むよう勧誘した平野富二の人を見る目を高く評価したい。
〔資料:
『喜壽紀念』宇田川翁喜壽紀念会、大正14年、東京大学明治新聞雑誌文庫蔵〕

古谷昌二ブログ ──── 地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海 

ab8a2b0e21f54ff5474ba991de0cb37c-300x199◎ 古谷昌二ブログ
[管理人:「平野富二生誕の地」碑建立有志会事務局長 日吉洋人]

① 探索:平野富二の生まれた場所
② 町司長屋の前にあった桜町牢屋
③ 町司長屋に隣接した「三ノ堀」跡
④ 町司長屋の背後を流れる地獄川
⑤ 矢次事歴・平野富二祖先の記録
⑥ 矢次家の始祖関右衛門 ── 平野富二がその別姓を継いだ人
⑦ 長崎の町司について
⑧ 杉山徳三郎、平野富二の朋友
⑨ 長崎の長州藩蔵屋敷
⑩ 海援隊発祥の地・長崎土佐商会
⑪ 幕営時代の長崎製鉄所と平野富二
 官営時代の長崎製鉄所(その1)

⑬ 官営時代の長崎製鉄所(その2)
⑭ ソロバンドックと呼ばれた小菅修船場
⑮ 立神ドックと平野富次郎の執念
 長崎新聞局とギャンブルの伝習
 山尾庸三と長崎製鉄所
⑱ 本木昌造の活版事業
⑲ 五代友厚と大阪活版所
 活字製造事業の経営受託
 文部省御用活版所の開設
㉒ 東京進出最初の拠点:神田和泉町
㉓ 神田和泉町での平野富二の事績
㉔ 地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海

 地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海 主要内容 >

まえがき
1) 茂中貞次と鳥山棄三について
2) 宇田川文海(鳥山棄三)による平野富二の言動記録
3) 鳥山棄三の秋田での『遐邇新聞』発行
4) 茂中貞次による地方への活版印刷普及
ま と め

わが国最初期の新聞のひとつ『遐邇-かじ-新聞』、第一号(明治7年2月2日)表紙

題号の「遐邇-かじ」は遠近をあらわす。平野富二による長崎新塾出張活版製造所から派遣された鳥山棄三(のち宇田川文海)が編輯者となり、秋田県の聚珍社から発行された。長崎新塾出張活版製造所製の活字が用いられ、漢字は楷書風活字、ルビは片仮名。「人民をして遠近の事情に達し内外の形勢を知らしめ」と記されている。

{新宿餘談}

このたび古谷昌二氏によって紹介されたふたり、兄の茂中貞次はわずかに印刷史にも記録をみますが、弟の鳥山棄三(のち宇田川文海)に関してはほとんど知るところがありませんでした。
当時としては長寿を保った宇田川文海『喜壽紀念』* には、これも記録に乏しい平野富二の生きよう、人柄が鮮明に描かれています。また平野富二一行により、創設直後の神田和泉町と築地二丁目の活版製造所「長崎新塾出張活版製造所」から、想像以上に極めて迅速に、全国各地に、活版印刷関連機器と相当量の活字が、素朴ながらもシステムとして供給されていたことを知ることができます。

読者諸賢は、ぜひともリンク先の古谷昌二ブログ< 地方への活版普及 ── 茂中貞次と宇田川文海 >をご覧いただき、その後さらにご関心のあるかたは、本稿{続きを読む}に、吉川弘文館『国史大辞典』から引用したふたりの記録をご覧たまわりますようお願い申しあげます。

[古谷昌二ぶろぐ まえがきゟ]

平野富二は、東京神田和泉町に「長崎新塾出張活版製造所」を開いて、活字・活版の製造・販売を開始した。
「文部省御用活版所」(のちに「小幡活版所」)で支配人兼技師となっていた茂中貞次と、その下で見習工として働いていた弟鳥山棄三の二人は、明治6年(1873)1月頃、「小幡活版所」が廃止されたため、平野富二の経営する「長崎新塾出張活版製造所」に移り、平野富二の下で働くようになった。
鳥山棄三は、後に大阪における代表的新聞記者となると共に、筆名を宇田川文海と名乗って新聞連載小説家となった。大正14年(1925)8月に『喜壽紀念』として纏めた自伝を残している。その中に、平野富二の下で働いていた頃の事柄が記録されている。

この兄弟二人は、平野富二の指示で、それぞれ鳥取と秋田に派遣され、地方の活版印刷普及の一端を担った。その後、神戸と大阪における初期の新聞発行に貢献している。
本稿では、宇田川文海によって伝えられた平野富二の人柄を示す記録と、鳥取と秋田、更には神戸と大阪における新聞発行とその関連について紹介する。

*  本稿では宇田川文海七十七歳喜寿の祝として開催された「祝壽會」と、東京大学明治新聞雑誌文庫での文献目録にならって『喜壽紀念』とした。そののち国立国会図書館でも館内閲覧が可能であることがわかったので、そこの書誌情報を紹介したい。
◉『喜寿記念』(宇田川文海著、大阪、大正14年、宇田川翁喜寿記念会)

標題/目次/緒言/喜壽紀念/私が新聞記者になるまで/朝日新聞創刊以前の大阪の新聞/阿闍梨契冲/狂雲子〔赤裸々の一休和尚〕/豐太閤と千利休/宇田川文海翁祝壽會の顛末/室谷鐡膓氏/跋

『国史大辞典』(吉川弘文館 ゟ)宇田川文海/茂中貞次 関連資料紹介
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【かきしるす】神田和泉町|近代医学と近代タイポグラフィが本格スタートした記念の地|下谷和泉橋通り・神田佐久間町などと書きしるされた大名屋敷跡周辺

故司馬遼太郎が、新聞連載小説『胡蝶の夢』取材のために、「下谷和泉橋通りの医学所」をたずね、収穫無く帰阪したことを連載中に記録している。
『胡蝶の夢』-こちょうのゆめ-は、司馬遼太郎の歴史小説で、『朝日新聞』の連載小説として1976年11月11日-1979年1月24日まで朝刊で連載された。資料収集にたけ、博覧強記と評された司馬遼太郎でも、目的とした「下谷和泉橋通りの医学所」を探しあてることができず、じつは近接している佐久間町で蕎麦を食しただけで、空しく帰阪したことをしるしている。

東京における最初の西洋医学校でありながら、碑もたてられていないのであろう。
なんだかばかばかしくなって、そばを食いおえると、そのまま東京を離れてしまった。

『胡蝶の夢』(司馬遼太郎 新潮文庫 第1-4 1983年)

『胡蝶の夢』は、徳川幕府の倒壊と徳川十五代将軍慶喜の苦悩、また戊辰戦争での軍医としての松本良順(維新後は松本順)、順天堂出身の関寛斎、島倉伊之助(のちの司馬凌海)の姿があざやかに描き出されている。
図書としての初版は新潮社、のち新潮文庫(全4巻)で刊行。『司馬遼太郎全集 41・42』(文藝春秋)にも収録されている。

長崎海軍伝習所 ── 長崎奉行所西役所内に開設。
奉行所の外周に円弧状に拡がる江戸町の先、海に突出しているのが出島。海軍伝習所・医学伝習所などとほぼ同時期に開設された「長崎奉行所活字版摺立所」の記録はいまだ未発掘である。
ポンペと医学伝習所の伝習生たち、前列椅子に着座する 左)松本良順、右)ポンペ
六カ国語に通じ、医学専門用語の和訳に貢献し、語学の天才とされた島倉伊之助(のち司馬凌海)は文久元年(1861)ポンペに破門された。それ以前の撮影ならこの写真に島倉伊之助も存在しているとおもえるが前列のふたり以外の人物は特定されていない。

『胡蝶の夢』(司馬遼太郎 新潮文庫 第1-4 1983年)

医学所跡を探訪したが成果なく
   佐久間町で蕎麦を食して帰阪

〔前略〕江戸という首都についても、── 都府というものは天下の共有物であって、決して一個人(註・徳川慶喜)の私有物ではない。…… おれにこの論拠があるものだから、誰が何といったって少しも構わなかったのサ。と勝〔海舟〕がいっている。

都市も公であるという、中国史にもなかった思想が、勝が「論拠」としたこの時期にはすでに共有の考え方になりえていたところに、勝の江戸城あけわたしがうまく行った基礎があったのであろう。
この間、この当時の流行語でいう、
「脱走」
が多く出た。みな党を組み、銃器弾薬を持って〔西軍の包囲網が敷かれていない〕東へ奔った。かれらが、古来の法として江戸城や江戸の町を焼いて奔るということをしなかったのは、勝のいう「共有物」という思想がすでに自然にあったといっていい。しかも一面、あえて「私」(徳川氏)に殉ずるというのである。

慶喜が全権を委任した勝安房守(海舟)と、西軍の代表である薩人西郷隆盛とが、慶喜と江戸城の処置について会談したのは〔慶応四年、一八六八〕三月十三、四の両日で、この結果、江戸は無血開城ということになった。
これにつき役人としての〔松本〕良順に仕事があった。下谷和泉橋通りの医学所もまた幕府施設である以上、これを明けねばならなかった。

脱   走

余談ながら、このくだりの稿を書くについて、当時の下谷和泉橋通りの医学所の跡とおぼしいあたりに行ってみた。
私は東京に住んだことがなく、その地にゆくこともまれで、不案内というより私の日本地図のなかでそこだけが白い。
このためまず地図の上で ── 現代の地図と幕末の江戸地図を照合しつつ ── 場所をさぐってみたが、よくわからなかった。

やむなく横浜に住む友人のW氏にたのんで現在の場所を調べてもらったところ、私の伝え方がわるかったためW氏は医学所ととりちがえて「医学館」跡(浅草橋四ノ十六ノ七)のほうを見つけ出してくれた。医学館は漢方の奥御医師多紀家の屋敷に付属した施設で、医学所とまぎれやすい。

医学所の変遷でいうと、最初、伊東玄朴が蘭法の町医らに働きかけて神田お玉ヶ池に設けた(一八五八年)私設種痘所がその祖になっており、一九六一年、東京大学医学部がその地(千代田区岩本町二丁目)に碑をたてた。
右の種痘所が開設六ヵ月後に焼けたために、下谷和泉橋通りに移り、ほどなく幕府がこれを官設のものにした。この第二次種痘所が一八六一年、その場所のまま西洋医学所になり、やがて単に医学所と称せられるようになった。

中程度の旗本屋敷にまわりをかこまれた一角で、敷地は四一〇坪である。文久二年江戸下谷の地図では御徒町通り(和泉橋から三枚橋にいたる通り・当時、通称和泉橋通り)にあるが、通りそのものには面せず、すこし東へ入る。
「現在はどの辺でしょうか」
と、順天堂医大の医史学研究室にきいたが、和泉橋から昭和通りをゆけば何とかなるのではないか、ということで、なにしろ大阪からの電話である上に当方が東京に不案内ときているから、反問の仕様もなかった。

結局、行ってみれば何とかなるだろうと思い、羽田からまっすぐに和泉橋をめざして橋畔に立ってみたところ、そのあたりの視界を高速一号線がさえぎり、秋葉原駅があり、車は渋滞し、中小の各種問屋が密集していて、まことに熱鬧の地で、見当もつかない。
江戸地図の医学所へゆくなら巨大な藤堂屋敷が格好の目印になっているのだが、その大空間もこまかく細分化されて幾つもの街衢になっており、江戸の痕跡は和泉橋の名と神田川以外になにもない。

佐久間町のそばやに入って、そばができるまでのあいだ、医学所跡という話をきいたことがありませんか、ときくと、老婦人がかぶりをふって、大正時代から店をやっているけれどきいたことがありませんねえ、ということであった。東京における最初の西洋医学校でありながら、碑もたてられていないのであろう。

なんだかばかばかしくなって、そばを食いおえると、そのまま東京を離れてしまった。
この稿のなかでの〔松本〕良順は、かれの精神の砦であった右の医学所を離れるべく準備をしている。江戸城明けわたしの前後のことで、江戸城とともに幕府施設である医学所も、明けてしまわねばならないのである。〔後略〕

〔 亀甲括弧 〕内は稿者による。改行字下げは WebSite の特性を考慮して実施しなかった。

司馬遼太郎と同様に、稿者もこの周辺で「下谷和泉橋通りの医学所-第二次種痘所」と、その移転地「大病院・大学東校・東校」跡をしばしば訪れている。司馬遼太郎は松本良順の足跡を追って、稿者は長崎から上京した平野富二一行の足跡を追っていた。
あらためて『胡蝶の夢』を読むと、「神田佐久間町三丁目」にある、おそらく同じ店で蕎麦を食したこともある。なによりもほぼ同じ所をぐるぐる廻っていることに笑ってしまった。

司馬遼太郎先生が逝去し、ご令室の福田みどりさんも泉下のひととなったいま、記念館となった東大阪のご自宅をたずねるのはあまりに気が重い。
さいわい「平野富二 生誕の地 碑 建立 有志の会 ── 平野富二の会 」の皆さんが、さまざまな資料と、あたらしいメディアを駆使してこの周辺の調査にあたられている。その成果は『タイポグラフィ学会誌 11』(タイポグラフィ学会、2018)に発表され、さらに単行本にまとめる編集が進行していると側聞する。[図版・データ協力:平野富二の会 日吉洋人

そこで、浅学非才の身ではあるが、おふたりへのささやかな香華として、「下谷和泉橋通りの医学所の跡」をふくむ、この周辺の資料をまとめてみた。
読者諸賢は、故司馬遼太郎とおなじ気持ちでご同行をたまえるとうれしい。

[関連:活版アラカルト 【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-06 <江戸・東京 活版さるく>訪問地:お玉が池種痘所
[関連:活版アラカルト 【展覧会】萩博物館|明治維新150年記念特別展 第 1 弾|手塚治虫が描いた明治維新|2018年9月15日-10月14日

「江戸名所道外盡十 外神田佐久間町 廣景画」 安政六年(1858年)
「平野富二 生誕の地」碑 建立 有志の会」所蔵

廣景(生没年不詳)は「外神田佐久間町」と題して、烏帽子を凧糸に絡め取られて慌てふためく武士と、それを笑う庶民の正月風景を描いているが、登場人物が立っている道は、現在の通称「佐久間学校通り」であり、佐久間町は左下隅に、わずかに描かれているのにすぎない。
実際に描かれているのは現:千代田区神田和泉町、もと:伊勢国津藩藤堂和泉守(外様大名、 二十七万九百五十石 )上屋敷の門長屋と屋敷門(表門)である。
北側(図版では右側)に隣接して「藤堂佐渡守」とされているのは、支藩の伊勢国久居藩藤堂佐渡守上屋敷(外様大名、五万三千石 )で、現在は台東区になっている。このふたつの藩領は、現在はともに三重県の県庁所在地、津市の一部となっている。

《医学校跡》── 司馬遼太郎がたずねたかった施設跡
種痘所(第二次)⇒ 官立種痘所 ⇒ 西洋医学所 ⇒ 医学所 ⇒ 医学校 跡
所在地  台東区台東1丁目28番地全域および30番地南側半分
標示物  無し(近在する伊東玄朴旧居跡の解説板に簡略説明がある)
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お玉ヶ池種痘所(以下第一次種痘所)が近隣からの火災によってわずか半年余で類焼したため、安政五(1858)年11月、下谷和泉橋通りの「伊東玄朴の屋敷」に仮小屋を建て、翌年9月、銚子の豪商浜口梧陵(はまぐち ごりょう 1820-1885 紀伊国〔和歌山県〕出身 醤油醸造業濱口儀兵衛家〔現:ヤマサ醤油〕当主)ら奇特者の出資により、隣接地に(第二次)種痘所が再建された。

上) 下谷和泉橋通り-種痘所の告知『種痘諭文-うえほうそう さとしぶみ』(文久元(1861)年 33×24 cm  東京大学医学部図書館資料)
下) 上掲資料を読み下し、デジタルタイプで追試組版を試みたもの。[協力:古谷昌二]
幕府直轄となった第二次種痘所
が、文久元年に発行した種痘接種を勧める告知文。嘉永2年(1949)長﨑にもたらされた牛痘種痘渡来の由来、種痘所の歴史を述べ、種痘所への案内地図を掲載している。角印状の内部は「散華-疱瘡の別名 済生-いのちを救う」

やがて種痘所は西洋医学の講習所となった。
万延元(1860)年7月に幕府から公式な援助を得られるようになり、同年10月に幕府直轄の「官立種痘所」となった。
文久元(1861)年10月に「西洋医学所」と改称され、文久三(1863)年2月に「医学所」と改称された。

ここまでの第一次種痘所、第二次種痘所の頭取は、初代:大槻俊斎、二代:緒方洪庵、三代:松本良順であった。

慶応四(1868)年4月に新政府は医学所を接収し、同年6月に「医学校」として復興し、近くの藤堂和泉守上屋敷跡に移転して、そこにあった大病院(軍陣病院 横浜:野毛山軍陣病院から移設)と合併した。
明治二(1869)年、「大学東校」と改称された。
すなわちお玉が池(第一次)種痘所ともども、ここ第二次種痘所と、近接する伊勢国津藩藤堂和泉守(外様大名、 二十七万九百五十石 )上屋敷跡が東京大学医学部の出発地である。
前述のように『胡蝶の夢』で、司馬遼太郎は以下のように慨嘆している。

東京における最初の西洋医学校でありながら、碑もたてられていないのであろう。

第二次種痘所の門扉は、厚い板を鉄板で囲い、鉄板の間を頭の丸い鋲釘で打ちつけ、全体を真っ黒に塗ってあったため、江戸の人々は第二次種痘所をもっぱら「鉄門」と呼んでいた。
現在本郷の無縁坂に面する東大医学部の門は大正期に改装されているが、いまもって入口が「鉄門」、同窓会が「鉄門会」と呼ばれるのも、設立当初に第二次種痘所の「鉄門」を移築したことに由来する。
なお、本郷の東京帝国大学設立初期には「鉄門」が正門とされていた(現在より少し西側にあった)ため、森鷗外の小説『雁』、夏目漱石(なつめ そうせき 1867-1916)『三四郎』などの作品には、本郷の鉄門と無縁坂の描写が多く登場する。

《伊東玄朴旧居 跡》
所在地 台東区台東1丁目
標示物 「伊東玄朴旧宅跡・種痘所跡」

解説板   台東区台東1丁目30 台東1丁目交差点近くの歩道植えこみの中
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伊東玄朴居宅跡・種痘所(第二次)解説板 ── 台東区教育委員会設置

この近辺に蘭方医:伊東玄朴の住居兼家塾「象先堂-しょうせんどう」があった。伊東玄朴(いとう げんぼく 1801-71)は幕末から明治にかけての蘭方医、江戸幕府奥医師。近代医学の祖で、官医界における蘭方・西洋医学の地位を確立した。妻は長崎のオランダ語通詞・猪俣傳次衛門の長女・照(1812-81)。
この解説板は稿者が知るだけで数度、撤去・移動を繰りかえしている。ようやく歩道のなかに復帰しているが、再開発の慌ただしい地域でもあり、司馬遼太郎夫妻への香華として、全文を 台東区教育委員会資料 から{続きを読む}に紹介した。

伊東玄朴は寛政一二(1801)年、肥前国〔佐賀県〕にて執行重助の子として誕生した。のちに佐賀藩士・伊東家の養子となり、長崎の鳴滝塾でドイツ人シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold 1796-1866)よりオランダ医学を学んだ。
佐賀藩にて牛痘種痘法を実践し、安政五(1858)年には大槻俊斎・戸塚静海らと図り、江戸に第一次お玉が池種痘所を開設、弟子の池田多仲(いけだ たちゅう 1820-72 石見国〔島根県〕津和野藩出身)を同所の留守居とした。

同年7月3日、江戸幕府第13代将軍・徳川家定の脚気による重態に際し、漢方医の青木春岱・遠田澄庵、蘭方医の戸塚静海とともに幕府奥医師に挙用される。蘭方内科医が幕医に登用されたのは、伊東・戸塚が最初である。

文久元(1861)年より西洋医学所の取締役を務めた。同年12月16日には蘭方医として初めて法印(将軍の御匙=侍医長に与えられる僧位)に進み、長春院と号し、名実ともに蘭方医の頂点に立った。のちの緒方洪庵(おがた こうあん 1810-63 備中国〔岡山県〕出身 大阪に適々斎塾を開く)の江戸招聘も玄朴らの推挽によるところが大きい。

文久三(1863)年、ポンペ(Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort 1829-1908 オランダ出身)門下の松本良順(まつもと りょうじゅん 1832-1907 下総国〔千葉県〕出身)の弾劾により失脚、小普請入りとなる。のちいくぶん地位を回復するが、以後奥医師に返り咲くことはなかった。
明治四(1871)年逝去。墓は東京都台東区谷中の天龍院にある(東京都都指定旧跡)。

《東京都千代田区神田和泉町》── 近代医学と近代タイポグラフィ発祥の地
大学東校、大学東校活版所 跡 ⇒ 東校活版所 ⇒ 文部省編集寮活版所(通称:文部省活版所) 跡
所在地  千代田区神田和泉町1 (もと伊勢国〔三重県〕津藩藤堂和泉守上屋敷門長屋跡)
標示物  なし ── 昭和通りに「神田和泉町」町名由来板が千代田区によって設置されている。
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元和泉橋通り、現昭和通りに建立されている「神田和泉町」千代田区町名由来板 ── 千代田区

この「神田和泉町 町名由来版」のテキストを、千代田区地域振興部コミュニティ総務課コミュニティ係 資料から、全文を{続きをよむ}に収録した。貴重な資料である。ぜひともお読みいただきたい。

明治二(1869)年12月、当地にあった大病院と医学校とが合併して「大学東校」となった。大学東校とは湯島にあった「大学」に対して、東に位置することに由来する。
医学教科書や講義録を活版印刷にするため、大学中写字生(のちに大写字生)の島霞谷(しま かこく 1827-70 下野〔栃木県〕出身)が鋳造活字を開発し、大学東校官版として発行した。島活字をもちいた大学東校官版としては、石黒忠悳(いしぐろ ただのり 1845-1941 陸奥国〔福島県〕出身 軍医)編訳による『化学訓蒙』『虎烈刺-コレラ-論』などが知られている。
明治三(1870)年11月、島が病死したため、明治四(1871)年6月に本木昌造が活版御用を依頼されて、「文部省御用活版所」の設立に至ったとされる。

御用活版所の設立認可(『公文類聚』、明治4年、国立公文書館蔵)

この公文書によって本木昌造は、大学・大学東校・大学南校の活版御用を申し付けられ、御用活版所の用地拝借を願い出た結果、大学東校区域内にある長屋と接続地に御用活版所を設置する政府からの許可を明治4年6月15日に得たことが分かる。

この大学東校区域は現在の千代田区神田和泉町1番地に当たる。明治四(1871)年7月、文部省が新設されて大学東校は「東校」と改称され、その時、「南校」の活字掛に継承されていた蕃書調所以来の活版諸設備は東校構内に移され、同年9月に「文部省編集寮活版部」となったが、翌年9月に廃止された。活版諸設備は「正院印書局」に移管したとされている。

旧東校表門通りの現状写真

画面の左手の道路が旧東校表門通り(現、佐久間学校通り)で、中央に見えるコンクリート壁面から先方が旧藤堂家上屋敷で、道路沿いに堀と門長屋が中央の表門を介して東西双方に続いていた。
アイビーの絡まる和泉小学校の壁面の辺りは東校表門の東側門長屋で、この一画に平野富二一行によって「長崎新塾出張活版製造所」が設けられたとみられる。
手前は和泉公園で、ここは旗本能勢熊之助の屋敷地だった。

わが国の印刷史研究では、本木昌造と平野富二一行が活版印刷のために最初に東京に進出した場所は「神田佐久間町三丁目」とされてきた。しかし、この「千代田区神田和泉町一」の土地は、もと津藩藤堂和泉守上屋敷の跡地である。
当時、町名があるのは町人の居住地だけであり、武家地・社寺地には町名がなかったことから、新政府に公収された大名屋敷にもっとも近い、現在も存在する「神田佐久間町三丁目」の町名と丁名が便宜的にしるされたのではないかと推測される。
なお「神田和泉町」の町名は明治5年の起立(『千代田区史』)であるが、印刷術が未成熟な時代でもあり、周知には時間がかかったものとみられる。

なお、「千代田区神田和泉町」の土地には現在、Y K K 株式会社の本社(Y K K 80 ビル)、千代田区立和泉小学校、和泉公園、三井記念病院、凸版印刷株式会社本社事務所(本社事務所:東京都千代田区神田和泉町1 本店:東京都台東区台東1-5-1 『会社四季報』ゟ)などがある。

このうち、三井記念病院には、ここが「お玉が池種痘所」に端を発する帝国大学医学部とその附属病院発祥地の跡地であることに関して、簡単な由来の解説板がある。
また同病院の創設百年記念誌には、この地が東京大学医学部発祥の地であり、同病院と東京大学医学部とは長い紐帯関係にあることが強調されている。
[参考:三井記念病院 百年のあゆみ 全ページ〔刊行月:2009年3月〕PDF 1.78MB

また、Y K K 株式会社の本社ビルの入口には、この地が「伊勢国津藩主 藤堂和泉守上屋敷」跡であることがしるされた解説板があり、また、ビルを囲む植栽は、藤堂家の植木職を代々務めた「伊藤伊兵衛」ゆかりの草木が植えられている。
伊藤伊兵衛は江戸一番の植木屋と誉れが高く、染井村〔現:東京都豊島区駒込〕で数代にわたって園芸を営んでいた。なお、藤堂和泉守下屋敷は染井村にあり、広大な庭園を構えていた。

《医学館》── 司馬遼太郎が間違って案内された施設跡
躋寿館(せいじゅかん) ⇒ 医学館 ⇒ 医学所付属種痘館 跡
所在地 江東区浅草橋4丁目
標示物 解説板 〔台東区浅草橋4丁目16〕
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漢方医学の権威であった多紀元考(たき もとたか 1696-1766)は、明和二(1765)年神田佐久間河岸にあった天文台跡に躋寿館-せいじゅかん-を創設して医学講習の道を広めた。
寛政三(1791)年、奥医師多紀元簡(もとやす/げんかん 1755-1810)の願いによって幕府は「官立医学館」とした。文化八(1806)年医学館は類焼して、向柳原の佐竹右京大夫の焼け跡地に移転した〔上掲切り絵図では多記安良とされているところ〕。

多紀家は代々徳川将軍の奥医師としての権勢を誇り、西洋医学を排斥していたが、徳川家定(13代将軍、1824-58、享年35)は生来の病弱で、天然痘も患っており、また当時の難病・脚気で重態におちいったため、その奥医師としての名声を落とした。
家定の死の直前には、大老井伊直弼(いい なおすけ 1815-60 暗殺)と、家定の実母の本寿院(ほんじゅいん 1807-85 江戸出身)の判断で、漢方医の青木春岱・遠田澄庵(とおだ ちょうあん 1819-89 美作〔岡山県〕出身)、蘭方医の伊東玄朴(いとう げんぼく 1801-71 肥前国出身〔佐賀県人〕)・戸塚静海(とつか せいかい 1799-1876 近江国〔滋賀県〕出身)が江戸城登城を許されて家定を診察した。

これ以降、幕府内部にも西洋医学が導入されることになる。その結果、蘭方医大槻俊斎(おおつき しゅんさい 1806-58 陸奥国〔宮城県〕出身)らが奥医師に任命され、西洋医学が重用されるようになった。
慶応四(1868)年7月、旧幕府の医学館は廃止され、同年8月に種痘館と改称して医学所に付属された。このとき小石川養生所と各所にあった薬園(薬草園)も医学所の所属となった。

《伊東玄朴旧居 跡》《医学校跡》── 司馬遼太郎がたずねたかった施設跡
《町名由来板:神田和泉町》── 千代田区資料ゟ

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