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【字学 活字と機械論攷シリーズⅠ】 <旧 外浦町ホカウラマチ由来>碑をめぐって-{活版さるく補遺}

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 旧 外浦町由来 [ほかうらまち 振り仮名が彫られている]

この地はもと外浦町と呼ばれた
元亀二年(一五七一年)大村純忠の町割りに
より開かれた長崎最古の町である。
爾来糸割符会所、長崎奉行所等が
置かれ長崎で最も枢要の地として栄
えた。また幕末には海軍伝習所や医
学伝習所が設けられわが国文明開化
胎動の地ともなった。
昭和三十八年(一九六三年)町制変更によ
り万才町(現在地)、江戸町となり四百
年に及ぶその歴史を閉じた。

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[古谷昌二]
この碑文は、万才町の一画に設置されていた石碑の表面に刻まれた碑文を、朗文堂写真から判読したものである。
昭和三八年五月に町界町名変更があったが、それ以前にも、旧島原町が万才町に、町名の無かった出島が出島町になり、明治以前の古地図とは若干の相違が見られる。

この写真が撮影された2010年のころ、「旧 外浦町由来」碑は、長崎県庁前の「農林中央金庫長崎支店」(長崎市万才町5-26)の玄関脇に設置されていたという。
しかし平成25(2013)年5月7日に「農林中央金庫長崎支店」は長崎市出島町1-20に移転しており、現在この写真のビルは取り壊されて工事中(2016年6月30日閲覧)となっている。
したがってこの碑の所在はいまのところ不明である。

{新宿餘談}
この「旧 外浦町由来」碑の写真は2010年晩夏に撮影したものである。
同行したのは故 阿津坂 實 翁、元長崎県印刷工業組合事務局長/岩永充氏、それに大石とやつがれだった。

2-1-49043 RIMG0084 RIMG0083阿津坂翁の「活版さるく」は、いつも出島にある長崎県印刷会館からはじまり、「唐通詞会所跡」碑、「活版伝習所跡」碑(元興善小学校・新興善小学校。現 長崎市立図書館 脇 長崎市興善町1-1)から「活版さるく」をはじめるのを常とした。

ついで「本木昌造宅跡」「医学伝習所跡」碑(旧地名:外浦町5のあたり。万才町5、元グランドホテルの前に設置されていたが、のちに同ホテル内ロビーの一隅に移設された。現在はマンション工事中のため碑文の所在は不明)をまわるのが定番のコースだった。
DSC01028 DSC01024 2016年06月{崎陽探訪 活版さるく}では、「本木昌造宅跡」「医学伝習所跡」碑(旧地名:外浦町5のあたり。万才町5、元グランドホテルの前)も訪問した。ホテルは取り壊され、マンションの工事中であり、碑文は見あたらなかった。

そこから大通りの反対側、厳流坂の「新町活版所跡」碑(元長州萩藩蔵屋敷。長崎県市町村職員共済会館 長崎市興善町6)と、道をはさんで向かいあう「新塾活版製造所、長崎活版製造所跡」(元小倉藩蔵屋敷)を案内されるのを常とされていた。
これらの碑の建立に際しては、阿津坂翁が多大な尽力をなしていたことは紹介した。

「新町活版所」に関しては諸文献でも触れているので、ここでは「新塾活版製造所、長崎活版製造所跡」に関して『平野富二伝』(古谷昌二)から紹介しよう。

小倉藩蔵屋敷は明治維新後に小倉藩が退去し、その屋敷の一部を買収して本木昌造の経営する「新塾活版製造所」が設けられた。平野富二は後にこの活版製造所の経営を任せられることになる。
なお、活版所と活版製造所は明治28年(1895)9月に解散するまで存続した。
この場所は現在では興善町5番の区画に相当し、丸善ハイネスコーポと食糧庁長崎事務所が建てられている。
  IMG_3823 IMG_3824

脚が弱られた阿津坂翁のために、このときの移動はもっぱらタクシーだった。
1997年に閉鎖された「新興善小学校」は、2008年にあらたに開設された「長崎市立図書館」にすっかり変わっていた。当然ふたつの碑文の位置もいくぶんかわっていた。

どこのまちでもありがちなことではあるが、本木昌造宅が外浦町5のあたりにあったことが確実視され、また生家の矢次家をでて独立し、別家平野家をたてたころの平野富二郎(平野富二)も居住していた「外浦町」のよみは、旧来「ほかうらまち」とされてきた。

この[明治4年・1871の暮れから戸籍届出の翌年2月までのあいだ]年、平野富次郎の身辺に大きな異動があった。年が明けて間もなく、長崎在住の安田こまと結婚し、それまで兄矢次重平の厄介として居住していた引地町ヒキジマチ50番地の生家を出て、外浦町ホカウラマチ94番地に家を求めて転居した。
た、この年はわが国で最初の戸籍編成の年に当り、その人別調べに幼名の富次郎を富二に改名して平野富二として届け出た。
『平野富二伝』(古谷昌二)

ところが近年、一部の長崎関連文書のなかで「外浦町 そとうらちょう」とする向きがみられたので、故阿津坂 實(1915-2015 行年99)氏にそのことを質したことがあった。
「本木昌造先生の旧宅と、平野富二さんの旧宅があった「ほかうらまち」が「そとうらちょう」になってしまったいるわけかな。それは困ったな…… 。
それなら県庁前に『旧 外浦町由来』の碑があるからそこに戻ってみよう。たしか『ほかうらまち』の振り仮名があったはずだ」

というわけで、急遽タクシーはUターンして、「旧 外浦町由来」碑をみるべく、長崎県庁前の「農林中央金庫長崎支店」(長崎市万才町5-26)の前に戻った。
「旧 外浦町由来」碑はつよい赤味を帯びた自然石に陰刻され、この建物の玄関脇に設置されていた。

大通りに停車していたタクシーを待たせないように慌てていたことにくわえ、この碑文の重要性を当時はさほど重視していなかったので、石碑背面の写真を撮影することを忘れていた。したがってこのビルが取り壊されている現在、「旧 外浦町由来」碑の建造者・建造年月日などの資料が背面にある可能性をのこすことになってしまった。

それでもこの「旧 外浦町由来」碑には、主題語「旧 外浦町由来」に振り仮名が刻されていたことによって、「ほかうらまち」のよみが確定した。また四百年の歴史を有した「外浦町 ほかうらまち」は、1963年(昭和38)の町制変更によって万才町マンザイマチ、江戸町エドマチとに分割されて、その歴史を閉じたことがわかった。
ただしまことに残念ながら、この「旧 外浦町由来」碑の所在はいまのところ判明しない。
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DSC03627RIMG0069 RIMG0071そこからふたたびいつものように、大通りの反対側、厳流坂の「新町活版所跡」碑(元長州萩藩蔵屋敷。長崎県市町村職員共済会館 長崎市興善町6)と、道をはさんで向かいあう「長崎活版製造所跡」(元小倉藩蔵屋敷 長崎市興善町5)をたずねた。
「新町活版所跡碑」は改修され、向かって左側に活字を模したモニュメントが設けられていたが、それまで並立していた「詩儒 吉村迂齋遺跡」碑はすこし移動して、ビル正面側に設けられていた。

このあたりで阿津坂翁に疲労がみられたので、長崎駅前大黒町の自宅兼店舗「飛龍園」に車をまわした。
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《長崎市の地名 ウィキペディア》
◎ 江戸町(えどまち)
1963(昭和38)年、江戸町、玉江町3丁目、外浦町の南半、築町の一部より発足。10街区。長崎県庁があり、町の半分近くを県庁が占める。
その他、東部に江戸町商店街があるなど、商店が多い。中央橋バス停・交差点があり、交通の要所である。

◎ 万才町(まんざいまち)
1963(昭和38)年、平戸町、大村町、万才町、本博多町、外浦町の北半より発足。8街区。
国道34号が縦貫する長崎市屈指のオフィス街で、長崎地方裁判所、長崎地方検察庁、長崎家庭裁判所、長崎県警察本部などの官公庁もある。

[付 記]  『ふうけもん ― ながさき明治列伝 ―』(長崎文献社)
現在の町名である万才(まんざい)町は、明治5年(1872)に明治天皇が長崎を行幸した折の萬歳(万歳)に由来しており、西道仙がその改名を提案したとされている。

当時、萬歳は呉音の「マンザイ」や漢音の「バンセイ」などと発声されていた。
「バンザイ」と発音されるようになったのは大日本帝国憲法発布の日の明治22年(1889)で、「マ」では腹に力が入らないという理由から、漢音と呉音の混用を厭わず「バンザイ」となったとされる。

◎ 興善町(こうぜんまち)
1963(昭和38)年、本興善町、新町、興善町の南半、豊後町の西半、引地町の西半、堀町の南半より発足。6街区。国道34号線が縦貫する長崎市屈指のオフィス街で、長崎市消防局、長崎市立図書館もある。
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活版印刷礼讃<Viva la 活版 ばってん 長崎>では、{崎陽長崎探訪・活版さるく}として、長崎を訪問した全国各地からの参加者、地元勢あわせて60名余でこれらの地を訪問した。
たくさんの新発見があったが、同時に、阿津坂 實翁は卒し、2010年の資料とくらべても、おおくの施設や碑文が移転していることがわかる。
創立10周年企画として<Viva la 活版 ばってん 長崎>に特別参加されたタイポグラフィ学会の皆さんとともに、さらなる資料整理が進行しているいまである。
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【図書紹介】 ふうけもん ― ながさき明治列伝 ―(増永 驍著 長崎文献社 2008年3月13日)

20160517175007358_0001 20160517175154723_0001《崎陽長崎俚諺 さんか と ふうけもん》
長崎では、しばしば自虐的にこのまちを「さんか」のまちとする。
「さんか」とは、急峻な山容がそのまま海に没するこの長崎を特徴づけるもので、
一  坂   「さか」
二  墓   「はか」
三 馬鹿   「ばか」
の三つのことばの語尾が共通して「か」であることから「さんか」とするものである。

DSC00668 DSC00749 DSC00732 DSC00760たしかに長崎はほんのわずかな沖積地をのぞいて、急峻な「坂」のまちであるし、そこに這いあがるようにひろがる「墓」のまちでもある。
それでもさすがに「馬鹿」と口にするのをはばかって〝ふうけ〟とするふうがいまもある。「ふうけたことをいう……」は、「馬鹿なこと、ふざけたことをいう」といったかんじである。
したがって〝ふうけもん〟とは長崎ことばで、直截には馬鹿ものを意味するが、おなじ馬鹿でも、侮蔑のニュアンスはすくなく、もうすこし愛嬌のある馬鹿もののことである。

長崎新聞社の記者をつとめ、のちに長崎県庁に転じた増永 驍は、明治初頭長崎の「稀少人種」の〝ふうけもん ≒ 馬鹿もの〟として、本木昌造・西道仙・松田源五郎を主人公とし、脇役に平野富二・池原香穉・安中半三郎(東来軒・虎與トラヨ書房・素平連スベレン主宰)らを配し、同名の小説『ふうけもん ― ながさき明治列伝 ―』(長崎文献社)をのこした。

本木昌造02 平野富二武士装束 平野富二 平野富二と娘たち_トリミング松田源五郎M10年 松田源五郎アルバム裏面 上野彦馬撮影『ふうけもん ― ながさき明治列伝 ―』増永 驍によって〝ふうけもん〟とされたおとこたち
本木昌造 : 長崎諏訪神社蔵  平野富二 : 平野ホール蔵 松田源五郎 : 松尾 巌蔵

『ふうけもん ― ながさき明治列伝 ―』(増永 驍著)は、明治長崎の40年をかたるとき、おもしろい視座を提供する図書ではあるが、いつものように【良書紹介】としなかったのは、それなりの理由はある。本書をおよみいただきやつがれの意をお汲みいただけたら幸いである。
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『ふうけもん ― ながさき明治列伝 ―』(増永 驍著 長崎文献社 2008年3月13日 第三章 長崎ぶらり p.258 より)
一  一番さん
長崎に「さんか」という俗語がある。
さんかとは、単語の語尾が「か」で終わる長崎の特徴をあらわす言葉、さん(三種)の「か」
というほどの意味である。
天領[江戸幕府直轄の領地]として海外交易で栄えた長崎の港は、外海からの波浪を鎮めるように、三方を小高い山並みに囲まれ平地は極めて少ない。
このため丘や山を削って港の一部を埋め立てて、市街地を造成し、削り取った跡地には山頂をめざして住宅が連なっている。
その街中を貫く生活道路のはとんどぱ坂道と石段である。

まず、さか(坂)が「さんか」の、かのひとつ目である。
信心深い住民ぱ、西方浄土を臨む安息の土地を求め、宅地の上の山際を造成して墓地とした。
町並みを取り囲むように墓地がある。二つ目は、はか(墓)である。
江戸時代、海外交易の一部が住民に還元されるなど、およそ全国でも例を見ない安穏な暮らしを続けた長崎の民は、その気質もまた異なるものがある。

良く言えば、他の土地からの旅人にもあふれるはどの親切心にあふれ、また、変化は好まず日々の安穏を願うお人好しである。
先祖代々、はぐくんできた気質は成熟している。
他人に先駆けて栄達しようなどとの心構えは、数百年をかけてオランダ船と唐人船に積み込んで海の彼方に捨てている。
苦労知らずの世間知らず、空想にふけり、ぼーっとして人生を過ごす者がいる。
したがって、三つ目は、ばか(馬鹿)である。
現実離れして何かのことに夢中になり、巷の者の常識に外れた者を長崎では「ふうけもん」と言う。近い言葉でいうなら馬鹿である。
ただし、ふうけもんにも幾つかの種類がいる。
現実を理解できる能力を有しないものが多数なら、理想と空想を混在し、さらには現実と虚構を混在し、むやみやたらに積極的となり実現不可能な騒ぎを起こす者も存在する。
希少人種の「ふうけもん」が中島川の右岸の土手を軽やかに走っている。
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{著者紹介}
増永  驍 ますなが-たかし
1945年うまれ。日本大学法学部卒。同大学法学専攻科修了。
長崎新聞記者を経て長崎県庁に勤務。総務部消防防災課長、佐世保高等技術専門校長をへて退職。2004年から総務省所管の公益法人の長崎県支部長。
主要既刊書
『ながさき幕末ものがたり 大浦お慶』(1991年 長崎文献社)、『現川伝説』(1994年 長崎文献社)、『鯨神 深澤義太夫異聞』(1997年 長崎文献社)、『友好の奇跡 兪雲登回想録』(2006年 長崎新聞社)

北方謙三<大水滸伝>全51巻完結! 伝説も去りて、残るは物語のみ。君に語れ、漢オトコらの物語。

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20160607224214284_00012016年05月16日、『 岳飛伝 17 星斗の章 』の公刊をもって、ついに北方謙三 「 大水滸伝 」 全51巻が完結した。 十余年におよぶながいつき合いだった。 『 水滸伝 』(全19巻)、『 楊令伝 』(全15巻)、『 岳飛伝 』(全17巻)である。
集英社の特設WebSite <大水滸伝> などは、この終巻をもって、嬉しいのか、哀しいのか、さびしいのか知らないが、阿鼻叫喚、まるでお祭り騒ぎである。

北方謙三の < 大水滸伝 > は、まず『小説すばる』に連載され、連載中に並行して四六判書籍が発行され、書籍刊行終了後に文庫版が順次発売されていた。
したがって北方謙三は版ちがいのたびに文章に手をいれており、将来全集でも刊行されるなら、文庫版に記載されたものを定稿としてほしいとしばしばつづっている。

やつがれはといえば、ゴチャゴチャとした雑炊のような文芸雑誌は苦手なので、『 小説すばる 』 はときおり立ち読みし、四六判書籍、文庫版ともに刊行直後に購入してきた。愛読書ではあるが愛書家ではないので、あちらの本棚、こちらの片隅と、未整理なまま山積みになっている。
この作家は、冗長と過剰をきらうので、四六判書籍のときすこしテンポが遅いな、とおもわれた箇所などが、文庫版となるとバッサリ切りすてられていることに驚いたこともあった。

司馬遼太郎(1923-96)が卒したころ、北方謙三は 『 楊家将 』 の連載中だったとおもう。
ほんとうに偶然だった。 所在のないままなんとなく書棚から、ハードボイルド作家だとおもっていたこのひとの作品 『 楊家将 』 を取りだしたのがはじまりだった。ともかくダイナミックな中國歴史演義であり、登場人物のあしらいが鮮明で、読みやすかった。
のちに 『 楊家将 』 は吉川英治賞を受賞しているが、まさかそれから10年余におよぶ 『 水滸伝 』 『 楊令伝 』 『 岳飛伝 』 の <大水滸伝> シリーズにつらなり、ずっと付きあうことになるとはおもってもいなかった。

歴史を作るのは英雄だけじゃない。
歴史に名を残した武人から、人知れず消えていった民草まで。
ここにあるのは「人間」の物語だ。
駈けよ。──── 夢追いし者、永久に。
生きる。──── 去りし者のぶんまで。  [集英社WebSiteより]

ともあれ、これから 『 岳飛伝 』 文庫版の刊行がはじまるとおもうが、やつがれとほぼ同世代の北方謙三は <大水滸伝> 51巻を完結した。 この間やつがれはなにをなし得たかというと忸怩たるものがある。
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そこで、『 岳飛伝 』 の主要な舞台のひとつ、岳飛の墓所がある杭州 (Hangzhou) を紹介しよう [撮影 : 2011年09月]。
岳飛は北宋を滅亡させた女真族金国(満州族王朝 前金)に抵抗して軍閥をなし、「 盡(尽)忠報国 」 の四文字を背に刻んで 「 抗金 」 をさけんでいたとされる。
その墓は杭州西湖のほとり、岳飛廟に息子の岳雲の墳丘とならんである。夜になると岳飛廟のすぐ近くの湖畔で 「 水上ショー 」 が開催され、内外の観光客であふれる。

この街ではかつて、あまたの南宋刊本が刊行され、小説とはことなるが岳飛が刑死した。
やがて南宋も金国もたおれたのち、元(蒙古族王朝 1271ー1368)の時代にやってきたマルコ ・ ポーロが、「 世界でもっとも美しいまち 」 と評した西湖のほとりに、南宋の宮殿跡も、「岳飛廟」もある。

“ Hangzhou, The mosut beatiful and splendid city in the world. ”    Marco polo

その西湖には、白楽天の築造とされる 「 白堤 」 があり、わずかな期間の中華民国時代、そのなかの小丘で、丁 補之・丁 善之兄弟によって、近代宋朝体活字(中国では倣宋体とする)が誕生したことは意外に知られていない。

それを追ってやつがれがはじめて杭州の地をおとづれたのは、もうかれこれ35年余も前のことになる。
その紹介の役割は、できたら辞退したいところであるが、たれも名乗りをあげないまま20余年が経過した。
それよりなにより、これからたれの小説を読めばいいのかというのが喫緊の課題である。

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【北京空港のサインからⅢ】 巨大競技場施設のゲート表示からはずされている、いくつかのローマ大文字の例をみる

トラヤヌス帝

トラヤ02 トラヤ049784947613592 『トラヤヌス帝の碑文がかたる』(木村雅彦 ヴィネット01号 朗文堂)
DSCN7985《 持つべきものは良き友人か 》
これまで「A-L」まである北京空港のチェックインカウンターに、なぜか「G 列」と「I 列」が無いことを紹介してきた。
その理由を考察する前に、このことを報告がてら、サインデザインや空間デザインを多く手がけている「GKデザイングループ」の木村雅彦さんに、ほかにもサインデザイン製作の現場でこのような事例が報告されていないのかを問い合わせてみた。
こののち、木村雅彦さんは台湾行政府からの招聘で現在は台湾出張中であるが、まず、ここにGKデザイングループからの報告をご紹介したい。
あわせて本項をご覧になった読者からの情報提供もお待ちしたい。
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[GKグラフィックス 木村雅彦さんのコメント]
こんにちは。漢字だけ、それも横組みベタ組みを多く見かける中國での字間のコントロールと、北京空港でのサイン表記の記事を興味ぶかく拝見しました。
お問い合わせのあった、大型施設でのサインのキャラクター選択の事例に関し、GK設計でサイン企画を担当している鎌田博美(もとチームの同僚)からのコメントをご紹介します。
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[GK設計 鎌田博美さんのコメント]
今までの業務の中で、スタジアムの仕事の時に同じような状況に遭遇しました。

このときは、ゲート番号をアルファベットで表記し、座席番号をアラビア数字で表記する場合、ローマ大文字の「I」は、アラビア数字「1」との誤読を避けるため、「I」はゲートサインからは抜いた提案としました。
(この時のゲート番号には A-M までのアルファベットをもちいましたが、この中で「I」を使用しませんでした)。
海外のスタジアムでも同じような傾向がみられます。その一部をご紹介します。

[海外のスタジアム事例 Ⅰ]
 ◎ ドイツのサッカースタジアム  「アリアンツ・アレーナ Allianz-arena」
ゲートサインに「 I,  O,  Q 」 を使用していない。
アリアンツ・アレーナ」は、ドイツのミュンヘンにあるサッカー専用のスタジアム。「アリアンツ」とはドイツ最大の保険メーカーの名前。

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●Allianz-arenaの公式HPのSite-and Seatmapsのページ
Stadium Plansより
Level 2 のpdf.
Level 6 のpdf.


[海外のスタジアム事例 Ⅱ]

 ◎ イギリスのフットボールスタジアム 「ウェンブリー・スタジアム Wembley Stadium」
ゲートサインに「 I,  O 」 を使用していない。
サッカーなどのフットボール専用のスタジアムですが、イングランドを発祥とするサッカーとラグビーの2つのフットボールのうち、「トゥイッケナム・スタジアム Twickenham Stadium」が「ラグビーの聖地」と称されるのに対して、「サッカーの聖地」と称されるのがこの「ウェンブリー・スタジアム Wembley Stadium」。
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●Wembley Stadium
公式HPのStadium guideページ
 
1Fフロアガイド(Level 1)
5Fフロアガイト(Level 5)


DSCN8507 DSCN8504北京空港のゲートサインに使用されなかった「G,  I 」とは、ゲート数も違いますので若干ことなりますが、これら三つの大型施設に「共通して I 」がもちいられていないことと、わたしたちが担当したプロジェクトでも、共通してローマ大文字の「I」の使用をさけたことは興味のあるところです。
以上、簡略ながら少しでもご参考になればと思います。[GK設計 鎌田博美]
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「GKデザイングループ」からの報告と、やつがれの発見をまとめてみよう。
◎ GK設計が手がけたスタジアムのサイン設計にあたり、A-M までのゲートサインのうち、「I」を使用していない。
その理由は、アラビア数字の「1」と、ローマ大文字の「I
」との「誤読を避けるため」であったとされている。
◎ ドイツのサッカースタジアム  「アリアンツ・アレーナ Allianz-arena」は、A-R までのゲートサインのうち、「 I,  O,  Q 」 を使用していない。

◎ イギリスのフットボールスタジアム 「ウェンブリー・スタジアム Wembley Stadium」は、A-P までのゲートサインのうち、「 I,  O 」 を使用していない。
◎ 北京空港のチェックインカウンターは、A-L までのゲートサインのうち、「 G,  I 」を使用していない。

DSCN7985《 結論をもとめる前に、サイン用にもちいられることの多い、ローマ大文字の歴史をみる 》
先に羽田空港にある「 BULGARI  ブルガリ ROMA 」の広告を紹介した。
北京清華大学での講義への旅立ちを前にして、この広告には関連したテーマがギッシリとつまっていた。
まず、フォロ・ロマーノにある「トラヤヌス帝の碑文」の伝統を継承した、ローマ大文字の揺らぎのない字画形象、風通しの良いおおらかな字間設定、「U,  V」の古典的なつかいかたが目につく。

そして彫られた文字に特徴的にあらわれる、控えめなセリフ、なかんずく、最終文字に登場する「I」の上下にみられる控えめなセリフと、最終部の「R I」にみられるような大胆かつ見事なまでの字間調整である。

ところで、高齢化して視力の衰えた友人が「C,  G」をあやまって判断することがあると述べたことは既述したが、
「浮世ばなれしたかれなら、イタリアのファッションブランドのブルガリを知らないだろうし、まず BVL で発音にこまって、さらに GARI を CARI とやりかねんな……」 とも考えた。
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上掲書『トラヤヌス帝の碑文はかたる』のなかで、木村雅彦氏は以下のようにしるしている。

「トラヤヌス帝の碑文」に刻まれた六行の文字のおおきさは、一見上部の行が大きくて、下の行になるほど徐徐に小さくなっているように見えます。
またこれまでの定説では、ひとが下から見上げたときに、文字の大きさが同じように見えるように、視覚的な遠近法による調整がほどこされているとされてきました。
しかしながら、碑文を採取して実測してみると、二行目がもっとも大きくて、一行目と三行目に対して104%であることがわかりました。この二行目の中央部には「神なるミルウァの息子」という文があって、DIVI つまり「神なる」という意味の単語にみるふたつの「I」には、「アイ・ロンガ」と呼ばれる、神に関することばを強調するための長い「I」がつかわれています。

KIMURA02ジョバンニ・フランチェスコ・クレッシのローマ大文字(1570年)上掲書p.35

ローマ大文字「Q」は英語アルファベット17番目の文字であるが、実際に単語を形成するのは「Quack, Quake . . . . Quote 」まで、「Q」からはじまるほとんどすべての語の次に「u」がくるため、昔から「Q」の尾部(Tail)を長く描き、そこに「u」を乗せて「合字」としたものも多かった。

それにたいして現代の活字書体、なかんずくサンセリフの「Q」の尾部は、ちいさくて貧相で、「O」との判別性 Legibility に劣るものがおおく見かけられる。
DSCN5421 DSCN5437 DSCN5427 DSCN54402014年09月 チェコ、プラハの街角の教会にみた「アイ・ロンガ」の例。建造年などは不詳
[ 花筏 朗文堂好日録038-喫煙ボヘミアン、プラハへゆく-01 プロローグ

logo朗文堂ではこのようなおおらかなローマ大文字の彫刻風の力感をもとめて、ながらくホームページ「ROBUNDO」のタイトル書体としてもちいている。
おりしもヘルマン・ツァップが逝去して一年が経過したが、ここにみる「ROBUNDO」の大文字だけの活字書体は、ヘルマン・ツァップによって設計された、碑文系書体「ミケランジェロ・タイトリング Michelangelo Titling」(D. Stempel AG /フランクフルト 1950年)である。
朗文堂ホームページのメインタイトルは、1999年以来碑文系由来の「ミケランジェロ・タイトリング」がもちいられてきている。
ツァップ夫妻左) Gudrun Zapf von Hesse グドゥルン・ツァップ・フォン・ヘッセ
1918年01月02日 ドイツ、メクレンブルクうまれ
右) Hermann Zapf ヘルマン・ツァップ
        1918年11月08日-2015年06月04日 ドイツ、ニュルンベルクうまれ

1950年の秋、わたしたちは活字書体のインスピレーションをもとめてイタリアへでかけました。この旅ではもっぱらスケッチブックとカメラを手に、フィレンツェ、ピサ、ローマをおとづれて、ふるいローマ時代の碑文を探しました。
 
ここでの数数の碑文との出会いと、フィレンツェとバチカンの図書館で見たすばらしい書物が、その後のわたしたちの活字設計におおきな影響をあたえました。とりわけ刺激がおおきかったのはトラヤヌス帝の碑文との出会いでした。
文字の美しさを理解するひとならだれでも、西暦114年にローマのフォロ・ロマーノ地区に建造されたトラヤヌス帝の大円柱にしるされた碑文をみて、わたしがいかに有頂天になったかを理解していただけるでしょう。
 
ところが残念なことに、この碑文の位置がたかすぎて、歪みのない、まともな写真を撮ることができませんでした。それでも諦めきれずに奮闘するうちに、どうやらわたしはだれの眼にも明らかなほど夢中になっていたようです。
たまたまそばを通りかかった警備員は、メジャーをもって大円柱に詰め寄るわたしを見て、碑文をはぎ取って地面に引きずりおろそうとしているとおもったのでしょうか、あわてて制止されたことが懐かしくおもいだされます。

Zapf_80-1プリント《 そもそもサイン Sign とはなにか。なぜ標識・記号・看板ではいけないのか 》
sign は、名詞では意味をもったしるし、動詞では意味をもったしるしをしるす。
要約すると、あらわれ、形跡、身ぶり、標識、記号となり、それらの情報を記載した「看板」のことである。
看板なら比較的最近まで、町角のおちこちに「看板屋」の看板をかかげた自営業者が見られたが、近年はサインデザインという名称で、平面設計の分野のひとつになり、町角から店舗は消えた。
さらに環境・景観デザインなどということばもうまれてきた。すなわち比較的あたらしい造形のジャンルであり、発展途上にある職種でもある。

そもそも和製英語としての「サイン」は混乱の極致にある。
作家や著名人などにもとめる「サイン」は、Sign ではなく autograph である。
「Can I have your autograph ?」 であり、「サインをください Can I have your sign ?」は誤まりであることは何度かしるしてきた。
野球などでの監督やバッテリー間の「サイン」は Signal 。サイン入りボールは an autographed ball 。図書の「サイン会」は an autograph session である。便利な用具であり、ことばの「サインペン」は完璧な和製語であり、ふつうは「フェルト・ペン」としたい。

「看板屋」さんの時代は、個性とおもむきのある手書き文字がつかわれてきたが、看板がサインボードと名称が変わったころから、分業化と工業化がみられ、さまざまな機器、現代ならコンピューターを駆使して製作されている。
さらに工業化がすすみ、工業製品のひとつとなってからは、技芸家が文字部をしるすことが急激に減少し、かつての手書き文字にかわって写植活字やパソコン電子活字がもっぱらもちいられている。

そこではローマ大文字の出自、標識や記号の時代はわすれられ、ほとんどが肉厚で、キャラクターの特徴点でもあった、セリフを失った「仏:サン・セリフ、英:セリフレス・ローマン、独:グロテスクとも」の使用がもっぱらである。

この報告はⅢをもって終わる予定でいたが、近年のわが国の欧文電子活字情報には、あまりに正確な情報が乏しく、製品・商品名をもちいた企業宣伝というより、あまりに大量な、掲示板用語でいう「ステマ Stealth marketing」情報が多すぎることに気づいた。
そこで結論を急ぐことなく、読者と共に『欧文書体百花事典』「SANS SERIF  誘目性から出発し、可読性をめざして――サン・セリフ体の潮流」(組版工学研究会編、杉下城司担当 p.441-446 朗文堂)をじっくり読み込んでから、このローマ大文字をもちいたサインシステムの考察をふかめたい。
[この項つづく]

【北京空港のサインからⅡ】 字間調整と、漢字・ローマ大文字の判別性 Legibility, 誘目性 Inducibility をかんがえる

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《北京 清華大学 視覚伝達系でのスペーシングのコントロールのエクササイズ》

五月下旬、清華大学美術学院 視覚伝達系の原 博助教授、趙 健主任教授の招聘で、北京行きとなった
これまでの経験で、矩形の漢字(字、国字)、それもほとんど横組みでの表記をもちいている現代中國では、グラフィックデザイナー(平面設計士)でも字間(字と字の間隔)にたいする認識に乏しいとおもっていた。
もちろんこの字間のスペーシング認識は、日常のビジネス文書やテキスト組版におよぶものではない。

今回の訪中は視覚伝達(グラフィックデザイン)教育、それも中國有数の高度なデザイン教育の現場であるからもとめられると考えた。
この「字間のコントロール」の教育は、わが新宿私塾でも基礎をなす重要な講座と位置づけられている。
東京・北京事前に用意したのは「北京 BEIJING」、「東京 TOKYO」。おおきなサイズ 84pt. のタイムズ・ローマン体で、これをバラバラ(モノスペース)で紙に出力したものを用意した。
上掲図のうち、上部だけを課題資料としてわたし、下部のノーマルスペースにある程度スペース調整を加えたものはのちほど参考資料として提示した。

この課題用紙をもとに、単語としての「BEIJING」、「TOKYO」を組み並べる課題である。
「BEIJING」にはステム(Stem  印刷用語:幹縦線・活字書体のふとい縦線)がならび、「TOKYO」には見出し語などでは処理をせまられるカウンター(Counter 印刷用語:谷[void]、活字面の凹所)「TO,  YO」があって、その調整にまま苦慮するものである。
換言すると通常のパソコン処理でこの見出し語をそのまま(おおきなサイズ)で組むと、「BEIJIN」は詰まりすぎ、「TOKYO」はパラパラと間が抜けた状態となる。

事前に「均等なスペース」と、「均等にみえるスペース」との相違を説き、その調節の簡略なエクササイズを試みておいた。それからこの課題を提供した。
さすがに北京清華大学の学生諸君は優秀で、課題の意味と意図を即座にくみとり、パソコンをはなれ、ほとんど全員がはじめての経験となる、三角定規にかえての金属スケール、カッター、カッターマット、スプレー糊などの「道具」をもちいて、このエクササイズに取り組みはじめた。
DSC04091 DSC04102 DSC04092 DSC04103DSCN8221予想どおりというか、「BEIJIN」のうち、ステムが連続する中央部の「IJI」の処理に苦心しているようだった。
途中うしろの席の男子学生がスマホを片手におおきな声をだした。通訳を担っていただいた同大陶芸系:劉教授(東京藝術大学博士課程修了)によると、
「あの学生はですね、スマホの画面でちいさくしてみたら、字間が詰まりすぎで、ベッタベタだ~! って叫んでいますよ」
と笑われた。やつがれは「そんな テ もあったのか」と逆に感心した。

この評価にあたっては「J」のキャラクターの誕生は意外にあたらしく、それまでは子音と母音の両方をあらわしていた「I」から、16世紀ころに独立したものが「J」であることを説明した。
また「U」はもっとやっかいで、元来「U」は「V」の草書系のキャラクターであり、「U」が母音をあらわすようになる中世後期までは、「V」が母音と子音の双方をかねていた歴史もあった。
したがって欧米からの手紙などで、「U, V」をフリーハンドで書かれると、その判別に苦労することもある。
「U, V」は長年(いまなお)交換可能なキャラクターとして存在したが、1800年のイギリスの辞書ではじめて分離したかたちで表記されたものである(『トラヤヌス帝の碑文がかたる』木村雅彦、2008年11月28日 朗文堂 p.22)。

ともあれ、全角ベタ組み、矩形の漢字(字・国字)の国に、字と字のあいだのスペーシングへの配慮という、ひと粒の種子だけは置いてきた。
DSCN8089DSCN7985 2016年05月29日 北京への旅立ちを前に「BVLGARI」の広告の前で 於:羽田空港

DSCN8507北京空港のビルは、鳥瞰図としてみるとおおきなジェット機が翼をひろげたようなかたちをなしている。先の【 北京空港のサインからⅠ 】で、この空港のチェックインカウンターに「G」と「I」のカウンターが無いことを指摘した。

ここで「I」のカウンターが無いことの発見がおくれたのは、実はこの「吸烟区」のかたわらにある、巨大なサインボードの基調色が暗灰色であり、そこに重要な情報が存在することがわからなかったのが気になっていたのである。
まして、そこに白抜きで表示された、このボードの主題語ともいえる「辦理乗机手続区域指示図 Check-in Area Diagram」(漢字は簡体字)が、判別性 Legibility と、誘目性 Inducibility に乏しいことが気になっていた。
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【 参考 : 朗文堂 タイポグラフィ 実践用語集 カ 行 活字書体の判断における三原則 より 】

活字書体の判断における三原則
レジビリティ、リーダビリティ、インデユーシビティ:
legibility, readability and inducibility


これらのタイポグラフィ専門用語の外来語は耳慣れないことばかもしれません。本来は活字版印刷の業界用語でしたから、一部の英和辞典や和英辞典には掲載されていないものもありますし、紹介があっても混乱しがちです。
したがって、その翻訳語としての紹介(日本語)は混乱の極致にあります。
その結果わが国における活字書体の差異判別や特徴をかたることばも混乱しがちです。
しかし活字書体の評価や判断にあたってはたいせつなことばです。タイポグラファなら、ぜひとも記憶していただきたいたいせつなことばです。

◎ 判別性   Legibility    レジビリティ
   活字書体におけるほかの文字との差異判別や、認識の程度。

◎ 可読性   Readability   リーダビリティ
   文章として組まれたときの語や、文章としての活字書体の読みやすさの程度。

◎ 誘目性   Inducibility   インデューシビリティ
   視線を補足して、活字書体などの情報に誘うこと。またはその誘導の程度。

《誘目性 Inducibility 》  判別性 Legibility と 可読性 Readability はリンク先で。

英語の形容詞 Inducible =誘致[誘引]できる;誘導できる ; 帰納できるの名詞形で、名詞形の Inducibility としての初出は 1643 年のことである。
すなわち「視線を補足して、活字書体などの情報に誘うこと。またはその誘導の程度」をあらわす活字版印刷の業界用語として登場したので、和英辞書などには未紹介のものが多い。

誘目性が重視されるのは、サインボードや広告の世界が多い。空港や駅頭で、的確な情報を提供し、そこに視線を誘導することは文字設計の重要な役割である。
またポスターやカタログなどの商業広告においても、旺盛な産業資本の要請にこたえて、誘目性を重視した活字書体や印刷物が製作されてきた。

産業革命以後、この誘目性が活字書体設計でも「ディスプレー書体」などとして強く意識されるようになり、黒々とした、大きなサイズの活字が誘目性に優れているという誤解も生じた。
しかしながら、もともと「 Display 」は動物の生得的な行動のひとつで、威嚇や求愛などのために、自分を大きく見せたり、目立たせる動作や姿勢のことで、誇示・誇示行動をあらわす。

もちろん、現代では表示・展示・陳列などの意でも用いられるし、コンピュータの出力として、図形・文字などを画面に一時的に表示する装置にも用いられるが、原義とは怖ろしいもので、ディスプレー書体の多くは、誘目性を過剰に意識するあまり、あまりに太かったり、奇妙なデザインに走って、一過性の流行の中に消滅してしまったものも少なくない。
活字の世界で求められるのはいつも判別性と可読性であり、誘目性はむしろ押さえ気味にしたほうが無難なようである。すなわち、芭蕉翁にまなんで「不易流行」ということか。
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ダークグレーに白抜き文字のメーンタイトルの表示の是非はともかく、せっかく字画の整理が進んで、判別性 Legibility が向上した字(漢字・国字)による「辦理乗机手続区域指示図」(表記は簡体字)にたいして、下部の「Check-in Area Diagram」がふとく見え、しかも字間がタイトなので、ひとつの土塊のかたまりのように凝固していることが気になって仕方なかった。DSCN8507表示がデバイス任せになっているWebSiteでかたっても成果はとぼしいが、「Check-in」の箇所にみられる短いダーシュ、ハイフン?の、「k-i」のスペース、なかんずく k のうしろのアキと -i のアキが不揃いで、しかも -i の息苦しいスペースが気になって煙草どころでは無くなってしまうのである。
せめて -i のあいだにシンスペース(Thin space  薄いが原義。わずかなスペース)を置いてくれたら、このビルに一歩でも脚を踏みこんだが最後、長時間にわたる羽田空港までの禁煙地獄に陥るこの際、しみじみとおいしく煙草を味わえそうなのだ。
[この項つづく]