A Kaleidoscope Report 004 活字工業会と活字発祥の碑

『活字発祥の碑』
(編纂・発行/活字発祥の碑建設委員会 昭和46年6月29日)
A4判28P 針金中綴じ  表紙1-4以外の本文・活字原版刷り

「活字発祥の碑」を巡る旅も4回目を迎えた。ここではまず、昭和46年(1971)6月29日、その竣工披露にあたって配布されたパンフレット『活字発祥の碑』から紹介しよう。同書に文章をよせたのは以下の各氏である。

『活字発祥の碑』 目次
◉ 活字発祥の碑完成にあたり…………1
渡辺宗助/全日本活字工業会会長・活字発祥の碑建設委員会会長
◉ 活字発祥の碑完成を祝う…………2
室谷 隆/日本印刷工業会会長・印刷工業会会長
◉ 活字発祥の碑建設を慶ぶ…………3
新村長次郎/全日本印刷工業連合会会長・東京都印刷工業組合会長
◉ 活字発祥の碑建設に当たりて…………4
山崎善雄/株式会社懇話会代表取締役
◉ 心の支えとして…………5
松田友良/東京活字協同組合理事長
◉ 東京築地活版製造所の歩み…………6
牧治三郎
◉ 東京日日新聞と築地活版…………12
古川 恒/毎日新聞社
◉ 活字発祥の碑建設のいきさつ…………14
活字発祥の碑建設委員会
◉ 築地活版のこと…………16
今津健之介/全日本印刷工業組合連合会
◉ 父・宗十郎と築地活版…………17
野村雅夫
◉ 築地活版の想い出…………18
谷塚鹿之助/有限会社実誠堂活字店会長
◉ 活字とともにあって…………19
渡辺初男/株式会社文昌堂会長
◉ 建設基金協力者御芳名…………20
◉ 建設委員会名簿・碑建設地案内図…………24

このパンフレットには編輯者個人名の記載はないが、おおかたの編輯にあたったのは、当時の全国活字工業組合広報部長であり、また、活字発祥の碑建設委員会委員長補佐としてここにも名をのこしている中村光男氏としてよいだろう。

ほとんどの寄稿が1ページずつの、いわゆるご祝儀文である。とりわけ関連団体の代表者の文章にはみるべき内容は少ないが、活字鋳造現場からの素朴な声として「築地活版の想い出」(谷塚鹿之助/有限会社実誠堂活字店会長 P18)、「活字とともにあって」(渡辺初男/株式会社文昌堂会長 P19)の記録には、ほかにない肉声がのこされているので紹介しよう。


谷塚鹿之助/有限会社実誠堂活字店会長
東京都台東区松ヶ谷2-21-5に旧在

築地活版の想い出
谷塚鹿之助/有限会社実誠堂活字店会長

私がいっぱしの文選工になろうとの志を抱いて、築地活版所に入ったのが明治43―4年[1910―11]の頃、たしか22才の時でした。当時煉瓦造りとモルタル造りの社屋があり、印刷部と鋳造部とに分かれていて、私は印刷部のほうの活字部門に入りました。当時の社長は野村宗十郎さんで、活字部長が木戸金朔さん、次長が川口さんという方でした。この頃が築地活版所のもっとも華やかなりし時でした。

当時のお給金は1日19銭で、3食とも会社で弁当を食べていましたが、これが16銭、あとはたまの夜業代が[手許に]残るだけでした。そのため私は浅草に住んでいましたが、当時の電車賃5銭5厘(往復)をはらえず、毎朝5時に起きて1時間半がかりで築地の工場まで通ったものです。会社は7時から5時まで10時間労働というきびしいものでしたが、今の人には全く想像もつかないことでしょう。

私はわずか半年ばかりしか[東京築地活版製造所に]勤めませんでしたが、その時『古事記類苑』[不詳]という書物の活字を拾った[文選した]ことを憶えています。[活字]鋳造機は手廻しのもの[ブルース型手廻し活字鋳造機、国産]が100台ほどあったようですが、夏は暑くて、裸になって腰に白いきれをまいて作業をし、たいへんなものでした。

また、当時は月島に分工場が、九州に支店がありましたが、月島からは、築地活版のしるしのついた赤い木箱の車で活字を運んでいました。配達もこの車やモエギの風呂敷に包み、肩にかついでやったようです。

私は大正3年[1914]、26才の時に独立して開業しましたが、やはり築地活版所の活字を[開業]当初は売っていましたから、だいぶいろいろとお世話になったものです。

私も築地活版所が解散する前に、[同社の]株をもっていて、株主総会にも2、3回出たことがあります。会社が思わしくなくなっても、株主には損はさせないと強調していました。しかし、1株55円だったものが、最後には5、6円になったようです。

しかし、築地活版所が無から有を生じることに努力して、印刷界発展の基礎をつくった功績は、まことに偉大なもので、とても筆に尽くせないものがあります。今日築地活版所跡に記念碑が建設されると聞き、昔の想い出を2,3綴ってみました。


渡辺初男/株式会社文昌堂会長
東京都新宿区東大久保1-489に旧在

活字とともにあって
渡辺初男/株式会社文昌堂会長

[前略]私の父、渡辺嘉弥太郎の話によりますと、明治19年[1886]秀英舎(大日本印刷の前身)に入社した当時[の活字鋳造設備]は、カスチング(手動鋳造機)[ブルース型手廻し活字鋳造機、国産。原型は米国、国産機は弘道軒・神崎正誼の義弟、上野景範が、英国公使時代の明治9年(1876)春に神崎に送ったもの。それを原型として赤坂田町4丁目、大川光次郎兄弟が興した大川製作所が明治16年(1883)に国産化に成功。大川製作所は師弟相伝で、大川製作所→大岩製作所→小池製作所と継承された。小池製作所は2008年8月閉鎖されたが、その主要従業員と特許などは三菱重工が吸収した。『七十五年の歩み――大日本印刷株式会社の歩み』(昭和27年 P27)、『活字文化の礎を担う――小池製作所の歩み』(東洋経済 小池製作所 昭和60年6月30日 P32)より。なお秀英舎は、大川製作所による国産化がなってから、ただちに同機を数台導入したとされる]が3台[あった]とのことでした。後にトムソン(自動鋳造機)[トムソン型自動活字鋳造機]が大正時代に導入されたそうです。明治時代に「欧文のライン[を揃えて鋳造すること]、および規格[活字格とも。活字のサイズ、高さなどの仕様が各社で微妙に異なっていた。そのためこれらの企業の金属活字を混用することは長らく、あるいは最後までできなかった]を作るのに苦労した」等の話も聞き覚えております。


ブルース型手廻し活字鋳造機[参考写真]

トムソン型自動活字鋳造機[参考写真]

それから39年間、[父、渡辺嘉弥太郎は]只活字ひと筋に[秀英舎に]勤め、関東大震災を契機として、大正13年[1924]に独立開業しましたが、その当時の主流をなす3大メーカーとして、築地[活版所]、秀英[舎]、博文館[共同印刷の前身]がありました。いずれも書体とか規格[活字格とも]に特徴がありました。書体も大分近代化し、やや細目のものが出廻り始め、昭和20年[1945]の戦災から後の変遷は、ひときわ目覚ましいもので、ほぼ書体においては、現在の基礎をなすものと思えます。

母型の彫刻機[ベントン型活字母型(父型)彫刻機]、活字自動鋳造機等も続々と新機種が出て、書体の改刻等により新書体の誕生、JIS規格の制定と相俟って生産能力の向上等現在に至っております。

このように考えてみますと、印刷文化に貢献しつつ100年を迎えました。しかし日進月歩の歩みは1秒も休みなく、昨今の印刷技術の進歩は幅広く、変遷も著しく、ややもすると、活字が斜陽化するような誤解を生じ易いと思われますが、文選植字機[文選と植字を同時にこなす、いわゆる日本語モノタイプ、自動活字鋳植機]等の開発も進み、良い持ち味のある印刷物には活字は欠かせないものと自負いたしております。[後略]

また、パンフレット『活字発祥の碑』には、6-9ページの4ページにわたって、牧治三郎が「東京築地活版製造所の歩み」を寄稿している。ここには図版紹介がなく、また一部に詳細不明なところもあるが、簡潔ながら良く整理された貴重な資料である。次回、別項として、筆者手許資料で補完した姿をもってこの「東京築地活版製造所の歩み」の全文を紹介したい。

さらにパンフレット『活字発祥の碑』から紹介するのは、「活字発祥の碑建設のいきさつ」(P14-15)である。この執筆者は、全国活字工業組合広報部長、活字発祥の碑建設委員会委員長補佐として名をのこしている中村光男氏(株式会社中村活字店社長)だとみている。この記録を読むと、除幕のまさにその瞬間まで、中村氏は全面的にこの建碑事業の人脈を、ほぼ牧治三郎にたよっていたことがわかる内容となっている。活字鋳造業者とは、ほとんどが現場の職人出身であり、当時にあっては意外と交友関係は狭く、知識に乏しかったのである。

活字発祥の碑建設のいきさつ
活字発祥の碑建設委員会(P14-15

長崎[諏訪公園]には本木昌造翁の銅像があり、また、大阪には記念碑[四天王寺境内・本木氏昌造翁紀年碑]が建立され、毎年碑前祭などの行事が盛大に行なわれておりますが、印刷文化の中心地といえる東京にはこれを現わす何もなく、早くから記念碑の建設、あるいは催しが計画されていましたが、なかなか実現するまでに至りませんでした。

こうした中にあった、活字発祥の源である東京築地活版製作所の建物が、昭和44年[1969]3月取壊わされることになり、[同社の]偉大なる功績を[が、]、この建物と共に失われていく[ことを危惧する]気持ちをいだいた人が少なくなかったようであります。

たまたま牧治三郎氏が、全日本活字工業会の機関誌である『活字界 第21号(昭和44年5月発行)と、第22号(昭和44年7月発行)に、「社屋取壊しの記事」を連載され、これが端緒となって、何らかの形で[活字発祥の地を記念する構造物を]残したいという声が大きくなってきたのです。

ちょうどこの年[昭和44年、1969]は、本木昌造先生が長崎において、上海の美華書館、活版技師・米国人ウイリアム・ガンブル氏の指導を受けて、電胎母型により近代活字製造法を発明[活字母型電鋳法、電胎法はアメリカで開発されて、移入されたもので、わが国の、あるいは本木昌造の発明とはいいがたい]してから100年目にあたる年でもありました[ガンブルの滞日と滞在期間には諸説ある。長崎/本木昌造顕彰会では、興善町唐通事会所跡(現・長崎市市立図書館)の記念碑で、明治2年(1869)11月-翌3年5月の間にここで伝習がおこなわれたとする。したがってこの年はたしかに伝習後100年にあたった]。

この年[昭和44年、1969]の5月、箱根で行なわれた全日本活字工業会総会の席上、当時の理事・津田太郎氏から、築地活版製造所跡の記念碑建設についての緊急提案があり、全員の賛同を得るところとなりました。

その後、東京活字協同組合理事長(当時)渡辺初男氏は、古賀[和佐雄]会長、吉田[市郎]支部長、津田[太郎]理事らと数回にわたって検討を重ね、記念碑建設については、ひとり活字業界だけで推進すべきではないとの結論に達し、全日本印刷工業組合連合会、東京印刷工業会(現印刷工業会)、東京都印刷工業組合の印刷団体に協賛を要請、[それら諸団体の]快諾を得て、[活字鋳造販売と印刷の]両業界が手をとりあって建設へ動き出すことになったのです。

そして[昭和44年、1969]8月13日、土地の所有者である株式会社懇話会館へ、古賀[和佐雄]会長、津田[太郎]副会長、渡辺[初男]理事長と、印刷3団体を代表して、東印工組[東京都印刷工業組合]井上[計]副理事長が、八十島[耕作]社長に、記念碑建設についての協力をお願いする懇願書をもって会談、同社長も由緒ある築地活版に大変好意を寄せられ、全面的なご了承をいただき、建設への灯がついたわけです。

翌昭和45年[1970]6月、北海道での全日本活字工業会総会で、記念碑建設案が正式に賛同を得、7月20日の理事会において、発起人および建設委員を選出、8月21日第1回の建設委員会を開いて、建設へ本格的なスタートを切りました。

同委員会では、建設趣旨の大綱と、建設・募金・渉外などの委員の分担を決めるとともに、募金目標額を250万円として、まず、岡崎石工団地に実情調査のため委員を派遣することになりました。

翌昭和45年[1970]9月、津田[太郎]建設委員長、松田[友良]、中村[光男 中村活字店]、後藤[孝]の各委員が岡崎石工団地におもむき、記念碑の材料および設計原案などについての打ち合わせを行ない、ついで、9月18日、第2回の委員会を開いて建設大綱などを決め、業界報道紙への発表と同時に募金運動を開始、全国の印刷関連団体および会社、新聞社などに趣意書を発送して募金への協力を懇請しました。

同年末、懇話会館に記念碑の構想図を提出しましたが、その後建設地の変更がなされたため、同原案図についても再検討があり、懇話会館のビルの設計者である日総建の国方[秀男]氏によって、ビルとの調和を考慮した設計がなされ、1月にこの設計図も完成、建設委員会もこれを了承して、正式に設計図の決定をみました。新しい設計は、当初2枚板重ね合わせたものであったのを1枚板とし、その中央に銅鋳物製の銘板を埋め込むことになりました。

また、表題は2月4日の理事会で「活字発祥の碑」とすることに決まり、碑文については毎日新聞の古川[恒]氏の協力を得、同社田中会長に2案を作成して、その選定を依頼、建立された記念碑に掲げた文が決定したわけです。

なお、表題である「活字発祥の碑」の文字については、書体は記念すべき築地活版の明朝体を旧書体[旧字体]のまま採用することとしましたが、これは35ポイントの見本帳(昭和11年改訂版)[東京築地活版製造所が35ポイントの活字を製造した記録はみない。36ポイントの誤りか?]で、岩田母型[元・岩田活字母型製造所]のご好意によりお借りすることができたものです。

また、記念碑は高さ80センチ、幅90センチの花崗岩で、表題の「活字発祥の碑」の文字は左から右へ横書きとし、碑文は右から左へ縦書きとし、そのレイアウトについては、大谷デザイン研究所・大谷[四郎・故人]先生の絶大なご協力をいただきました。

一方、建設基金についても、全国の幅広い印刷関連業界の団体および会社と、個人[p20-21 建設基金協力者御芳名によると、個人で基金協力したのは東部地区/中村信夫・古川恒・手島真・牧治三郎・津田藤吉・西村芳雄・上原健次郎、西部地区/志茂太郎 計8名]からもご協力をいただき、目標額の達成をみることができました。誌上を借りて厚くお礼を申しあげます。なお、協力者のご芳名は、銅板に銘記して、碑とともに永遠に残すことになっております。

こうして建設準備は全て整い、銘板も銅センターの紹介によって菊川工業に依頼、この5月末に完成、いよいよ記念碑の建設にとりかかり、ここに完成をみたわけであります。

なお、建設委員会発足以来委員長として建設へ大きな尽力をされました津田太郎氏が、この4月に全日本活字工業会長の辞任と同時に[高齢のため、建設委員会委員長の職も]退任されましたが、後任として5月21日の全国総会で選任されました、渡辺宗助会長が委員長を継承され、つつがなく除幕式を迎えることができました。

私ども[活字発祥の碑建設]委員会としては、この記念碑を誇りとし、精神的な支えとして、みなさんの心の中にいつまでも刻みこまれていくことを祈念しております。また、こんご毎年なんらかの形で、碑前祭を行ないたいと思っております。

最後に重ねて「活字発祥の碑」建立へご協力いただきましたみなさま方に、衷心より感謝の意を表する次第であります。

また、この『活字発祥の碑』序幕の時点では、長らく活字工業会の重鎮として要職にあった、株式会社千代田活字・古賀和佐雄は、渉外委員としてだけ名をのこし、欧文活字の開発から急成長し、東京活字協同組合をリードしてきた、株式会社晃文堂・吉田市郎は、すでにオフセット平版印刷機製造と、当時はコールド・タイプと称していた、写植活字への本格移行期にはいっていた。そのため活字発祥の碑建設委員会では建設委員主任としてだけ名をのこしている。

つまり、古賀和佐雄・吉田市郎らの、高学歴であり、事業所規模も比較的大きな企業の経営者は、活字鋳造界の衰退を読み切って、すでに隣接関連業界への転進をはかる時代にさしかかっていたのである。これを単なる世代交代とみると、これからの展開が理解できなくなる。

また11ヶ月にわたったこの「活字発祥の碑」建立のプロジェクトには、活字鋳造販売界、印刷界の総力を結集したとされるが、奇妙なことに、ここには活字母型製造業者の姿はほとんどみられない。その主要な原因は、いわゆる日本語モノタイプ(自動活字鋳植機)などの急速な普及にともない、活字母型製造業者が過剰設備投資にはしったツケが生じて、業績は急速に悪化し、すでに昭和43年(1968)、活字母型製造業界の雄とされた株式会社岩田活字母型製造所が倒産し、同社社長・岩田百蔵が創設以来会長職を占めていた東京活字母型工業会も、事実上の破綻をきたしていたためである。

前号で吉田市郎のことばとして紹介した「われわれは、活字母型製造業者の冒した誤りを繰りかえしてはならない」としたのがこれにあたる。ただし岩田活字母型製造所は倒産したものの、各支店がそれぞれ、ほそぼそながらも営業を続けた。したがって活字母型製造業者は、かつての「東京活字母型工業会」ではなく、「東京母型工業会」の名称で、わずかな資金を提供した。また、旧森川龍文堂・森川健一が支店長をつとめた「岩田母型製造所大阪支店」は、本社の倒産を機に分離独立して、大阪を拠点として営業をつづけた。同社は「株式会社大阪岩田母型」として資金提供にあたっている。


「活字発祥の碑」完成 盛大に除幕式を挙行
『活字界 30号』(全日本活字工業会広報委員会 昭和46年8月15日)

ここからはふたたび、全日本活字工業会機関誌『活字界』の記録にもどる。建碑とその序幕がなったあとの『活字界 30号』(昭和46年8月15日)には、本来ならば華やかに「活字発祥の碑」序幕披露の報告記事が踊るはずであった。しかし同号はどこか、とまどいがみえる内容に終始している。肝心の「活字発祥の碑」関連の記事は、「活字発祥の碑完成、盛大に除幕式を挙行」とあるものの、除幕式の折の驟雨のせいだけではなく、どことなく盛り上がりにかけ、わずかに見開き2ページの報告に終わっている。

それだけではなく、次の見開きには、前会長・古賀和佐雄の「南太平洋の旅――赤道をこえて、南十字星きらめくシドニーへ、時はちょうど秋」という、なんら緊急性を感じない旅行記をは2ページにわたってのんびりと紹介している。

そして最終ページには《「碑」建設委員会の解散》が、わずか15行にわたって記述されている。この文章はどことなく投げやりで、いわばこの事業に一刻も早くケリをつけたいといわんばかりの内容である。

華やかであるべき「活字発祥の碑」の除幕式が、こうなってしまった原因は、驟雨の中で執り行われた除幕式の人選であった。神主に先導され、東京築地活版製造所第5代社長の子息、野村雅夫夫妻と、同氏の弟の服部茂がまず登場した。この光景を多くの参列者は小首をかしげながらみまもった。そして序幕にあたったのは野村宗十郎の曾孫ヒマゴ、泰之(当時10歳)であった。その介添えには終始牧治三郎がかいがいしくあたっていた。

おりからの驟雨のなか、会場に張られたテントのなかで、野村泰之少年があどけない表情で幕を切って落とした。その碑面には以下のようにあった。ふたたび、みたび紹介する。

特集/記念碑の表題は「活字発祥の碑」に
『活字界』(第28号、昭和46年3月15日)
 


昨年7月以来着々と準備がすすめられていた、旧東京築地活版跡に建設する記念碑が、碑名も「活字発祥の碑」と正式に決まり、碑文、設計図もできあがるとともに、業界の幅広い協力で募金も目標額を達成、いよいよ近く着工することとなった。

建設委員会は懇話会館に、昨年末、記念碑の構想図を提出、同館の設計者である、東大の国方博士によって再検討されていたが、本年1月8日、津田[太郎]建設委員長らとの懇談のさい、最終的設計図がしめされ、同設計に基づいて本格的に建設へ動き出すことになったもので、同碑の建設は懇話会館ビルの一応の完工をまってとりかかる予定である。

碑文については毎日新聞社の古川[恒]氏の協力により、同社田中社長に選択を依頼して決定をみるに至った。

あちこちで漏れた囁きは、しだいに波紋となって狭い会場を駆け巡った。参列者の一部、とりわけ東京築地活版製造所の元従業員からは憤激をかうことになった。その憤激の理由は簡単であり単純である。除幕された碑面には野村宗十郎の「の」の字もなかったからである。前述のとおり、この碑文は毎日新聞・古川恒の起草により、同社田中社長が決定したものであった。当然重みのある意味と文言が記載されていたのである。

式典を終え、懇親会場に場を移してからも、あちこちで「野村さんの曾孫ヒマゴさんが序幕されるとは、チョット驚きましたな」という声が囁かれ、やがて蔽いようもなく「なんで東京築地活版製造所記念碑の除幕が野村家なんだ! 創業者で、碑文にも記載されている平野家を呼べ!」という声が波紋のように拡がっていった。そんななか、牧治三郎だけは活字鋳造界には知己が少なかったため、むしろ懇話会の重鎮――銅線会社の重役たちと盃を交わすのに忙しかったのである。そんな光景を横目にした活字界と印刷界の怒りは頂点に達した。懇親会は険悪な雰囲気のまま、はやばやと終了した。

左) 平野富二
弘化3年8月14日―明治25年12月3日(1846―92)

右) 野村宗十郎
安政4年5月4日―大正14年4月23日(1857―1925)


 

《「碑」建設委員会の解散》

発祥の碑建設委員会は[昭和]45年8月に第1回目の会合を開き、それから約11ヶ月にわたって、発祥の碑建設にかかるすべての事業を司ってきたが、7月13日コンワビルのスエヒロで最後の会合を持ち解散した。

最後の委員会では、まず渡辺[宗助]委員長が委員の労をねぎらい、「とどこおりなく完成にこぎつけることができたのは、ひとえに業界一丸となった努力の賜である」と挨拶。

引き続き建設に要した収支決算が報告され、また今後の記念碑の管理維持についての討議、細部は理事会において審議されることになった。

《リード》
「活字発祥の碑」除幕式が、[昭和46年 1971]6月29日午前11時20分から、東京・築地の建立地[東京都中央区築地2丁目13番22号、旧東京築地活版製造所跡]において行なわれた。この碑の完成によって、印刷文化を支えてきた活字を讃える記念碑は、長崎の本木昌造翁銅像、大阪の記念碑を含めて三体となったわけである。中心となって建立運動を進めてきた全日本活字工業会、東京活字協同組合では、今後毎年記念日を設定して碑前祭を行なうなどの計画を検討している。

《本文》
小雨の降る中、「活字発祥の碑」除幕式は、関係者、来賓の見守るうちに、厳粛にとり行なわれた。

神官の祝詞奏上により式は始まり、続いて築地活版製造所第5代社長、野村宗十郎氏の令息雅夫氏のお孫さん・野村泰之君(10歳)が、碑の前面におおわれた幕を落とした。

拍手がひとしきり高くなり、続いて建設委員長を兼ねる渡辺[宗助]会長、松田[友良]東活協組理事長、印刷工業会・佐田専務理事(室谷会長代理)、株式会社懇話会館・山崎[善雄]社長がそれぞれ玉串をささげた。こうして活字および印刷業界の代表者多数が見守る中で、印刷文化を支えてきた活字を讃える発祥の記念碑がその姿をあらわした。

参列者全員が御神酒で乾杯、除幕式は約20分でとどこおりなく終了した。

ともあれ、「活字発祥の碑建設委員会」は11ヶ月にわたる精力的な活動をもって建碑にこぎつけて解散した。同会委員長代理であった中村光男氏は、同時に、そして引き続き、全日本活字工業会広報委員長でもあった。ここでもう一度建碑までの時間軸を整理してみよう。

たまたま牧治三郎氏が、全日本活字工業会の機関誌である『活字界 第21号(昭和44年5月発行)と、第22号(昭和44年7月発行)に、「社屋取壊しの記事」を連載され、これが端緒となって、何らかの形で[活字発祥の地を記念する構造物を]残したいという声が大きくなってきたのです。

この連載において、牧治三郎は大正12年(1923)秋、野村宗十郎社長のもとで竣工した旧東京築地活版製造所ビルの正門が、裏鬼門、それも死門とされる、[方位学などでは]もっとも忌むべき方角に正門がつくられていたことを指摘した。そしてこのビルの建立がなった直後から、東京築地活版製造所には関東大地震、第二次世界大戦の空襲をはじめとするおおきな罹災が続き、また、野村宗十郎をはじめとするビル落成後の歴代経営陣にも、多くの病魔がおそったとを不気味な調子で記述したり、口にもしたのである。

信心深く、ふるい技能、鋳物士イモジの伝統を継承する活字業界人は、反射的に、それを、折からの不況と、業績不振とに関連づけた。そして除霊・厄払い・厄落としのために記念碑の建立を急ぎ、なにはともあれ昭和46年(1971)6月9日、無事に除幕式にこぎつけたのである。この間わずかに11ヶ月という短期間であったことは特筆されてよい。

なにごとによらず、うたげのあとは虚しさと虚脱感がおそうものである。ところが意欲家の中村光男氏は、建碑がなったのち、ふたたび全日本活字工業会広報委員長の立場にもどって、同会機関誌『活字界』を舞台に、「活字発祥の碑」を巡って、みずからもそれまであまり意識してこなかった、活字鋳造の歴史と背景を調査、記録することにつとめた。これ以後、牧治三郎にかわって、毎日新聞の古川恒がなにかと中村光男氏を支援することになった。そしてここに、ながらく封印されていた「平野富二首証文」の記録が、嫡孫の平野義太郎からあかされることになった。

これに驚愕した中村光男氏は、序幕から一年後に「活字発祥の碑 碑前祭」を挙行して、ここに平野家一門を主賓として招くと同時に、『活字界』(第34号 昭和47年8月20日)に「平野義太郎 挨拶――生命賭した青雲の志」と題して、再度「平野富二首証文」の談話記事を掲載することとなる。

そして「活字発祥の碑」の序幕にあたった、野村宗十郎の子息、野村雅夫とその一門は、まったく邪心の無い人物であり、なにも知らずに牧治三郎に利用されただけだったことが以下の記事から業界に知れて、いつのまにか活字業界人の記憶から消えていった。
平野家の記録
上左:平野富二  中:義太郎、一高時代、母つるとともに(1916)
下:義太郎、東大法学部助教授就任のとき
『平野義太郎 人と学問』(同誌編集委員会 大月書店 1981年2月2日)より

平野富二とふたりの娘。向かって左・長女津類、右・次女幾み(平野ホール藏)

ーーついにあかされた《平野富二首証文)ーー
平野富二の事蹟=平野義太郎」
「活字発祥の碑除幕式に参列して=野村雅夫」

『活字界 31号』(全日本活字工業会広報委員会 昭和46年11月5日)

平野義太郎
平野富二嫡孫、法学者として著名 1897―1980

★平野富二の事蹟=平野義太郎

平野富二が明治初年に長崎から上京し(当年26歳)、平野活版所(明治5年)、やがて東京築地活版製造所(明治14年)と改称、つづいて曲田成マガタシゲリ氏、野村宗十郎氏が活字改良に尽瘁ジンスイされました。このことを、このたび日本の印刷文化の源泉として建碑して下さったことを、歴史上まことに意義あるものとして、深甚の感謝を捧げます。

1)風雲急な明治維新の真只中における、祖父・平野富二の畢生ヒッセイの事業は、恩師である学者、本木昌造先生の頼みを受け、誰よりも早く貧乏士族の帯刀をかなぐり棄てて、一介の平民となって、長崎新塾活版所の経営を担当したことでした。そのときすでに販売に適する明朝活字、初号から五号までを完成していました[初号活字は冷却時の熱変形(ヒケ)が大きく、木活字を代用とした。鋳造活字としての初号の完成は明治15年ころとされる]。しかも平野は他の同業者に比し、わずか4分の1の1銭で五号活字を売り捌いたということは、製造工程の生産性がいかに高かったかを示すものでした。

2)さて印刷文化の新天地を東京にもとめ、長崎から東京にたずさえてきた(明治5年7月)のは、五号・二号の字母[活字母型]および、鋳型[活字ハンドモールドのことか]各1組、活字鋳込機械[平野活版所には創業時から「ポンプ式活字ハンドモールド」があったとされるが、これを3台を所有していたとは考えにくい。詳細不詳]3台、ほかに正金壱千円の移転費だけでありました。四号の字母[活字母型]は、そのあと別送したものです。平野は長崎で仕込んだ青年職工・桑原安六以下10名を引きつれて上京、ついに京橋区築地2丁目万年橋際に新工場を建てました(明治6年7月)。そこはいま碑の建てられた場所です。この正金壱千円の大金を、平野はどのようにして調達したのでしょうか。

この正金壱千円の移転費を、長崎の金融機関であった六海社(平野家の伝説では薩摩の豪商、五代友厚)から、首証文という担保の、異例な(シャイロック型の)[Shylock シェークスピアの喜劇『ヴェニスの商人』に登場する、強欲な金融業者に六海商社を義太郎は擬ナゾラえている]借金をしたのでした。

すなわち、「この金を借りて、活字鋳造、活版印刷の事業をおこし、万が一にもこの金を返金することができなかったならば、この平野富二の首を差し上げる」という首証文を担保にした借金だったのである。

3)平野活版所は、莫大な費用を投じ、煉瓦建工場を建設(明治7年5月)、つづいて阿州[阿波藩・現徳島県]藩士、曲田成 マガタ シゲリ を社員に任用し、清国上海に派し、あまねく良工をさがしもとめ、活字の種板を彫刻させた――これが活字改良の第一歩であった。

曲田成氏という人は、平野富二について、つねに片腕になって活動された人であって、しかも特筆すべきことは明朝活字の改良は、曲田氏の手によってなしとげられたといって[も]過言ではないことである。

明治14年3月(1881年)、築地活版所[長崎新塾出張活版製造所から改組・改称し、東京築地活版製造所]と呼称した。平野は従来の投資になる活版製造所の一切の所有権を恩師・本木昌造先生の長子、[本木]小太郎社長に譲渡した。それで平野は本木先生の信頼にたいして恩義に報いたのであり、また自分は生涯の念願である造船業に全エネルギーを注ぎ込んだ(石川島平野造船所の建設)。
曲田 茂 マガタ  シゲリ
阿波徳島の士族出身、幼名岩木壮平、平野富二と同年うまれ
弘化3年10月1日-明治27年10月11日(1846-94)

ちなみに、曲田成氏は明治26年、東京築地活版製造所の社長となり、わずか1ヶ年余の活動ののち、明治27年に死去された。

★活字発祥の碑除幕式に参列して=野村雅夫

このたび[の]活字発祥の碑が建設されつつあることを、私は全然知りませんでした。ところが突然、西村芳雄氏、牧治三郎氏の御紹介により、全日本活字工業会の矢部事務局長から御電話がありまして、文昌堂の渡辺[初男]会長と事務局長の御来訪を受け、初めて[活字発祥の碑の]記念碑が建設されることを知りました。そして6月29日午前11時より除幕式が行われるため是非出席してほしいとのお言葉で、私としても昔なつかしい築地活版製造所の跡に建設されるので、僭越でしたが喜んでお受けした次第です。何にも御協力出来ず誠に申し訳なく存じております。

なお、除幕式当日の数日前には御多忙中にも拘わらず、渡辺[宗助]建設委員長まで御来訪いただき感謝致しております。当日は相憎[生憎]の雨天にも拘わらず、委員長の御厚意により車まで差し回していただき恐縮に存じました。除幕式には私共夫妻と、孫の泰之それに弟の服部茂が参列させていただき、一同光栄に浴しました。

式は間もなく始まり30分程度にてとどこおりなく終了しましたが、恐らく築地活版製造所に勤務された方で現在[も健在で]おられる方々はもちろんのこと、地下に眠れる役職員の方々も、立派な記念碑が出来てさぞかし喜んでおられることと存じます。

正午からの祝賀パーティでは、殊に文化庁長官[今日出海]の祝詞の中に父の名[野村宗十郎]が特に折り込まれて、その功績をたたえられたことに関しては、唯々感謝感謝した次第です。

雨もあがりましたので、帰途再び記念碑のところに参りましたら、前方に植木が植えられ、なおいっそう美観を呈しておりました。

最後に全日本活字工業会の益々御発展を祈ると共に、今後皆様の御協力により永久に記念碑が保存されることを希望してやみません。

「活字発祥の碑」建碑を終えてからも、『活字界』は積極的に取材を重ね、周辺情報と、人脈を掘りおこしていた。なかでも平野富二の嫡孫・平野義太郎の知遇を得たことが中村光男氏にとって、井戸のなかから大海にでたおもいがしたようである。驚くかもしれないが、そもそも平野富二の嫡孫であり、また東大法学部助教授の俊才として名を馳せた、高名な法学者・平野義太郎が、東京都内に現住していることは、当時の活字業界人は知らなかった。その次第はあらかた『富二奔る――近代日本を創ったひと・平野富二』(片塩二朗 朗文堂 2002年12月3日)にしるした。端的にいえば、天下の悪法・治安維持法のためであった。また平野義太郎の詳細な評伝も刊行されている。『平野義太郎 人と学問』(同誌編集委員会 大月書店 1981年2月2日)。両書をご参照願いたい。

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碑前祭り厳粛に挙行、活字発祥記念碑から一年
『活字界』(34号 全日本活字工業会広報委員会 昭和47年8月20日)

『活字界』34号は、落成・除幕式の折の陰鬱な記録とはまったく様相を異とし、「活字発祥の碑」建碑から1年、碑前祭りの記録――が、全8ページのうち、6ページをもちいて、中村光男氏の弾み立つような文章に溢れている。ここで平野義太郎がかたった「首証文」の借用書に関して名前が出てくる、長崎・大阪の豪商・金融業者・「協力社、永見松田商社、六海商社、五代友厚」に関してあらかじめ簡略に紹介しよう。

『百年の歩み――十八銀行』
(十八銀行、昭和53年3月28日

《長崎における会社》 P11
当時の長崎に存在した会社、商店についての資料は非常に少ない。明治11年『県統計表』によると国立銀行五行(第十八、第九十七、第九十九、第百二、第百六)の外に、会社としては、つぎの8社があげられているにすぎない。
勧業会社(対馬厳原   物産繁殖           株金1万5、000円)
六海商社(長崎区西浜町 物産繁殖          株金5万円)
以文会社(長崎区勝山町 書籍ならびに活字印刷  株金  5、000円)
又新社 (長崎区東浜町 石鹸製造           株金  2、000円)
養蚕社 (対馬厳原   養蚕ならびに職工      株金  1、000円)
漸成社 (東彼杵郡大村 養蚕             株金  1、500円)
長久社 (東彼杵郡大村 桑苗ならびに茶園     株金    800円)
新燧社 (本社東京   マッチ製造              株金1万円)

《第十八国立銀行の前身――永見松田商社の設立》 P12
明治3年1月長崎の有力商人たちのうち、中村六之翁、盛千蔵、山下右一郎、永見伝三郎(当行初代頭取)、村上藤平、三田村庄次郎、和田伊平次、松田勝五郎、永見寛二、深川栄三郎、伊吹卯三郎、下田嘉平の13人は、長崎県の要請により、「協力社」という為替会社とは性格を異にする商社を組織することになった。

この協力社は長崎産物会所が旧幕時代に海産物商その他に前貸ししていた貸付金約9万5,000両の整理をはかるため設立されたもので、協力社はこの貸付金を回収して明治4年から10ヵ年賦上納することと定められていた。しかし、これらの貸付金は諸国産物商に対する滞り貸付や、幕府の残した抵当物件のようなもので回収は急速にははかどらず、協力社は為替、貸金業などをいとなんでいたものの運営資金は乏しく、金融の効果はあげ得なかった。

松田源五郎(当時第2代頭取)は、かねて新時代を迎えてこれからの長崎の発展のためには、近代的金融機関「バンク」の設立が必要であると痛感し、当時の有力な商人、富商らに、その実現について極力働きかけていたが、旧商慣習になずむ人たちが多く、その実現は容易なことではなかった。

しかし、永見伝三郎、松田勝五郎、永見寛二その他の一部の有志は、ようやくこの進歩的主張に動かされ、明治4年会社設立に踏み切り、12月15日資本金5万円をっもって、東浜町326番地に本店をおき、合資組織による「永見松田商社」を設立、松田勝五郎を社長として翌明治5年1月2日をもって開業した。この永見松田商社こそ、後年における第十八国立銀行および株式会社十八銀行の先駆をなすものであり、九州における近代商業銀行の嚆矢といってもあえてさしつかえない。

また「永見松田商社」へ参加しなかった人びとも、明治6年1月「協力社」を「六海商社」という合資組織の会社に改組し、盛千蔵が社長となった。

平野義太郎は「平野富二首証文」の提出先として、長崎の伝承では六海社としているが、これは上記資料からみても「六海商社」のことであろう。六海商社はもともと長崎銅座の豪商による一種の講であったとされる。いまはわずかに長崎市街地に銅座川の名をのこすにすぎないが、わが国はながらく産銅国として知られ、銅竿を長崎に集め、ふき替えをして銀や金などを取り出してから輸出して、巨利をあげていた業者の講があった。そして、その町人地を江戸期は銅座と呼び、明治以後はそれらの富商は六海商社に結集していたとされる。「協力社」系の企業、六海商社の資金力は、前記資料をみても、のちのナンバー銀行「十八銀行」と同額の5万円であったことに注目したい。ここに「平野富二首証文」を提出したという風聞は、長く長崎には流布していたようである。

しかし平野一家では、それを大阪の豪商、五代友厚(1835―85)として、いまも伝承している。五代は元薩摩藩士として外遊を重ね、維新後は外国事務局判事などをつとめた。のち、財界に身を投じて、おもに大阪で政商として活躍した人物である。その興業は造船・紡績・鉱山開発・製藍・製銅などにおよび、大阪株式取引所、大阪商法会議所(現大阪商工会議所)などの創立に尽力した。また五代関連の資料では、大阪活版製造所の創立者を五代に擬すものが多い。

しかし五代は近代主義者であり、開明派をもって任じており、26歳の有為の青年・平野富二に、「首証文」を担保として提出を求めたとは考えにくい。もちろん軽々しく断定はできないが、筆者はむしろ長崎の伝承にしたがって、ふるい銅座の旦那衆であった「六海商社」が、上京開業資金の借り入れに際して担保を要求したため、青年・平野富二は六海商社に「平野富二首証文」を提出したものとみなしている。

また平野義太郎は、平野富二の右腕兼後継者として、曲田茂マガタ-シゲリを何度もあげたが、野村宗十郎に関しては、冒頭にわずかに一度触れただけで、ほとんどそれを無視した。これは通説にたいする見事なしっぺ返しである。義太郎が再々のべたように、いわゆる「活字書風築地体」の確立に果たした役割は、やはり創業者・平野富二と、その右腕の曲田茂によった、と筆者もみなしている。野村宗十郎の役割と功績は、少し別な見地から再評価されるべきであろう。

ともあれ、明治維新に際して長崎の富商は「協力社」に集められ、そのうち金融業者を中心に、これまた長崎出身、福地櫻痴による新造語「BANK→バンク→銀行」に変貌した。そのうち「永見松田商社、のちの立誠会社、長崎十八銀行」は、本木昌造の事業、平野富二の事業にきわめて積極的に関与していた。とりわけ実質的な創業者であり、第2代頭取・松田源五郎は、東京築地活版製造所、大阪活版製造所の取締役としても記録されている。また第5代頭取・松田精一は、、十八銀行頭取(1916―36)と、東京築地活版製造所の社長職(1925―35)を兼任していたほどの親密さでもあった。

したがって松田精一が歿し、長崎人脈と、長崎金脈が事実上枯渇したとき、明治5年(1872)7月、神田佐久間町3丁目長屋に掲げた「長崎新塾出張東京活版所」、すなわち、のちの東京築地活版製造所は、あっけなく解散決議をもって昭和13年(1938)3月、66年の歴史をもって崩壊をみたのである。このあたりの記録は次稿『東京築地活版製造所の歩み』でさらに詳細記録をもって紹介したい。

6月29日午後3時から、東京・築地懇話会館前の「活字発祥記念碑」の前に関係者など多数が出席して碑前祭が行われた。[全日本活字]工業会では昨年6月29日、各界の協力を得て旧築地活版所跡に「活字発祥記念碑」を建立した。この日はそれからちょうど1周年の記念日に当たる。

碑前祭には、全印工連新村[長次郎]会長、日印工佐田専務、東印工組伊坂理事長、全印工連井上[計]専務、懇話会館山崎[善雄]社長、同坂井支配人、同八十島[耕平]顧問、全印機工安藤会長はじめ、毎日新聞古川恒氏、平野義太郎氏(平野富二翁令孫)、牧治三郎氏(印刷史評論家)など来賓多数も列席、盛大な碑前祭となった。

碑前祭は厳粛に行われ、神主が祝詞をあげ、渡辺会長を先頭に新村会長、伊坂理事長とつぎつぎに玉串を捧げた。

懇話会館入口では出席者全員に神主から御神酒が配られ、この後は同会館の13階のスヱヒロで記念パーティが行われた。渡辺[宗助]会長はパーティに先立って挨拶し、その中で「ホットとコールド[金属活字と写植活字]は全く異質なものであり、われわれは今後とも[金属]活字を守り、勇気をもって努力していきたい」と語った。つづいて挨拶に立った全印工連新村[長次郎]会長は、「活字があったればこそ、今日の]印刷業の]繁栄があるのであり、始祖を尊ぶ精神と活字が果たしてきた日本文化の中の役割を、子孫に伝えなければならない」と活字を讃えた。

また、和やかな交歓が続くなかで、日本の活字発祥の頃に想いをはせ、回顧談や史実が話された。毎日新聞社史編集室の古川[恒]氏は、グーテンベルグ[ママ]博物館の話を、平野義太郎氏はそのご子息と一緒に出席、祖父について同家に伝わるエピソードを披露した。牧治三郎氏からは本木昌造翁、平野富二翁、ポイント制を導入して日本字のポイント活字を鋳造・販売し、その体系を確立した野村宗十郎翁などを中心に、旧築地活版所の歴史を回顧する話があった。

活字をめぐる情勢は決して良いとはいえないが、こうして活字業界の精神的な柱ともいうべき碑ができ上がったことの意義が、建立から1年を経たいま、確かな重さで活字業界に浸透していることをこの碑前祭は示していたようだ。

平野義太郎氏挨拶――生命賭した青雲の志

私はここで[晴海通り側からみて、懇話会館ビル奥のあたりが平野家であった]生まれましたが、平野富二はここで死に、その妻、つまり私の祖母[駒・コマ 1852―1911]もここで死んでおります。その地に碑を建てられ、今日またここにお集まりいただいた活字工業会の方々はじめみなさまに、まず御礼を申し上げます。

エピソードをなにか披露しろということですので、平野富二が開国直後の明治5年に東京へ出てくる時の話をご紹介します。この時、門弟を4-5人連れて長崎から上京したのであるが、資本がないし、だいたい上京の費用がない。そこで当時の薩摩の豪商[五代友厚を意識しての発言とみられる]に、“もし返さなかったらこの首をさし上げる”といって借金した[という]話が、私の家に伝わっております。それくらいに一大決意で[活字製造の事業を]はじめたということがいえましょう。本木昌造先生の門弟としてその委嘱を受けて上京、ここではじめて仕事を始めたということです。

これら創生期の人々も、その後築地活版を盛り立てた方々も、きっと今日のこの催しを喜んでいることだろうと思います。