【字学】 わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*03 〔川田久長〕 活字の大きさとシステム

 


《 印刷史研究に独自の視点で臨んだ川田久長の紹介 》
川田久永『活版印刷史』初版20140523121747341_0001川田久長 『 活版印刷史 』 初版本  組版データー
大日本印刷印刷、印刷学会出版部発行 昭和24年03月20日
B6版 並製本

本文 : 9pt  明朝体活字 一行45字、16行、行間 7.5pt
第二次世界大戦の敗戦からまもない
ころに発行されたこの図書は、印刷用紙が劣悪だったために、酸化が発生しており、またカーボン不足から印刷インキが灰色がかった発色を呈する。 製本もほぼ破損寸前の状態となっている。 そのため本論考にさいしてはもっぱら下掲の再版書をもちいた。
DSCN3964DSCN3967DSCN3970川田久永『活版印刷史』増刷20140523121747341_0002川田久長 『 活版印刷史 』 再版本  組版データー
杜陵印刷印刷、印刷学会出版部発行 昭和56年10月05日
B6版 上製本 スリップケース付き

本文 : 9pt 明朝体活字 一行45字、21行、行間 4.5pt
参考 : 印刷を担った杜陵印刷と小社とはながい取引関係にある。 この時代の杜陵印刷の工場は小石川にあり、そこには A全判、A半裁版の活版印刷機が数台あって、本文活字の一部は自家鋳造、ほとんどが外注による自動活字鋳植機 ( KMT ) であった。またムラ取り時間短縮のために、紙型鉛版方式 ( ステロ版 ) での活版印刷〔凸版印刷〕が多かった。  本再版書もステロ版印刷とみられる。
DSCN4054DSCN4045 DSCN4051川田家墓地。 川田久長もここにねむる。 所在地 : 東京谷中霊園 甲3号4側
写真) 掃苔会肝煎り : 松尾篤史氏提供。

20140508172450578_0001 20140508172450578_0002 集合写真「 印刷産業綜合統制組合屋上にて : 矢野道也氏を送る会 」 ( 1946年03月25日 )
写真) 敗戦からまもなく、子息が居住していた九州へ移転のため、矢野道也が印刷学会会長職の辞任を申し出た日に。 当時の印刷学会中核会員に囲まれた矢野道也(前列中央)。 その背後、後列中央の、白髪で長身のひとが川田久長である。  
前列左より : 佐久間長吉郎、白土万次郎、矢野道也、郡山幸夫、大橋芳雄
後列左より : 馬渡 努、柿沼保次、星野後衛、川田久長、光村利之、大江恒吉、今井直一

著作や著述が多い割に、川田久長の人物像は知るところがすくなかった。 痩身で大柄なひとであったようである。 集合写真 : 「 この一冊の書物から 05 ──── 印刷所は金属鉱山-変体活字廃棄運動の禁句 」 『 印刷情報 』 ( 片塩二朗 2007年07月号 ) より部分拡大。
以下に略歴をしるす。

川田久長 かわだ-ひさなが
1890-1963年 明治23年05月25日-昭和38年07月05日
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明治23年05月25日  東京牛込区にて、父 : 麹町区長 ・ 川田久喜、母 ・ むめ子の長男として誕生。
大正02年09月     東京高等工芸学校図案科製版特修部卒業。 浅沼商会入社。 製版材料調査に従事。
大正12年        秀英舎 ( 現 大日本印刷 ) 入社。 同社関連企業の活字製造所 : 製文堂鋳造課工務係。
昭和15年03月27日  大日本印刷常任監査役に就任。
昭和22年03月     印刷図書館初代館長に就任。 のち 「 文部省認可 財団法人 印刷図書館 」 ( 昭和24年設立 ) となる。
昭和24年03月20日  著作 『 活版印刷史 』 ( 初版 ・ 並製本 印刷学会出版部 ) 刊行。
昭和37年07月05日  逝去。 享年72。 墓は谷中霊園 甲 3 号 4 側 に設けられた。
昭和56年10月05日  遺作 『 活版印刷史 』 ( 再版 ・ 上製本 印刷学会出版部 ) 刊行。

◎ 関連既出情報
【[字学] わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*01 考察のはじめに 】
【[字学] わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*02 〔松本八郎〕 活字の大きさとシステム 】
【[字学] わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*03   〔川田久長〕 活字の大きさとシステム
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川田久長 『 活版印刷史 』

ここから『活版印刷史』(川田久長、印刷学会出版部、初版 ・ 昭和24年03月20日、再版 ・ 昭和56年10月05日)を本格的に紹介したい。
同書の初版は紙やけがひどいので、再版書により、旧漢字を常用漢字とし、適宜改行と段落を加えた。 

松本八郎『エディトリアルデザイン事始』のなかでは、おもに三谷幸吉をひいて、わが国の活字が鯨尺や曲尺によるものとする説に疑念を呈していた。
ところが松本はいっとき大日本印刷に籍をおいたことがあり、先輩にあたる川田久長には遠慮があったようで、川田説への言及はすくない。

ここでは『活版印刷史』「本編の三」から、
三 昌造自筆の活字文献と活字の規格及び書体(全)   p. 94-99
四 長崎活字の東京進出 (後述)
五 「活字局」の活字と「印書局」の鉛版(部分)                   p. 100-102
を引用したい。三項では活字の規格を述べており、五項では活字鋳造のための機器の種類とその数量の概略がしるされている。

ここで図版をひきたいところだが、川田久長『活版印刷史』には初版・再版ともに図版は一切無く、丹念に文章をもって述べられている。したがって読者諸賢にとってはつらいかもしれないが、ここではまだ図版や画像は提示しない。もうしばらく我慢していただきたいとお願いしておく。
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三 昌造自筆の活字文献と活字の規格及び書体

本木昌造は邦文活字の完成に努力を傾け、現在なお少なからず使用されている号数活字の規格の土台を定めたのであるが、彼が自から活字のことについて書いたものとしては、その自筆稿本なるものが、東京築地活版所に所蔵されておったのである。

しかしそれは関東大震災の時、全部烏有に帰した 〔 花筏 : [字学] わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*02 〔松本八郎〕 活字の大きさとシステム を参照。 この本木昌造自筆稿本は、現在<本木家文書>の一環として現存し、長崎歴史文化博物館が所蔵している 〕が、その一部分がかつて 『 大阪印刷界本木号 』 〔「 故本木昌造翁伝 」  『 大阪印刷界第三二 本木号 』 ( 大阪印刷界 明治四五年六月一七日)、印刷図書館所蔵 〕に転載されたことがある。 今それを更に引抄する。

活字判の便利なるは、数種の版校を蓄積するに及ばず。 其彫刻に時日を費す事なく、且木版は一度彫刻する処の文字を以て他に用ふる事能はず。 活字は然らずして、彼是の別なく是を摺りたるの後は、其文字を取て又彼に用ふる事を得る益あり。 殊に一度字母を製し得る後は幾千万と雖イエとも同種の文字を得る事容易なり 〔 字母、活字母型のうち、本木昌造らがもちいた電鋳母型は、のちの彫刻母型にくらべると耐久性に劣り、実際には五千-一万字を鋳造すると熱変形が発生するために交換することがふつうだった〕。

其文字は木材ならずして鉱類を用ふ。 是を製するに、往時は欲する処の字画を鋼鉄に彫刻し 〔 活字父型の製造。 市販の針金程度の鉄をもちいたとみられる。 それを焼きなましによって軟鉄とし、そこに字画を裏文字として彫刻、それを焼締めて硬化させた。 punch 〕、是を銅板に打込み 〔 活字母型の製造。パンチのことばから連想されるような「打ちこむ」というより、簡便な器具で、できるだけ深度を一定になるように押し込んだ。  matrix 〕、以て字母を取り、此字母を鋳型の底に填め、鉱類を鋳込み、以て其文字を得るなり。

方今〔現在は〕此字母を製するに往時の如く鋼鉄を以てせずして、普通木版の如く木に彫刻し、是を蝋を以て押形を取り、此蝋形に彼のガルファニの機活を以て鍍銅し、是を以て字母を製するなり。 其製法其他活字判に関係する件々を以て爰ココに示す。 其事件は洋書中より訳するものにあらず。 実地即ち製する処のものにして、其便利を広く知らしめんが為なり〔「蝋型電胎法による母型製作 本木活字の復元へ向けて」『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』(小塚昌彦、近代印刷活字文化保存会、p. 184-213)に詳しい〕。

      蝋形を取る文字の製法
黄楊ツゲを以て、其欲する処の文字の大小に随て正しく四角の駒を製す。 其長は好に応ずべし。
但し予の製する処のものは西洋の活字に倣い、其長七歩八厘あり。 此駒に文字を刻す。 其文字は成べく深く刻するを良とす。 凡二歩五厘角の文字は、其深五厘余、五歩角のものは其深一歩余にして、左右上下勾配〔ヴェベル〕を施し、以て蝋形を取るに及んで能く蝋より抜出る様に彫刻するなり

      駒を組込む法
前の駒を第一に鉄のワク中に組込むなり。 其ワクは長外法一尺五歩、幅八寸五歩、鉄の厚五歩幅一寸あり。 駒を組込むには、駒の左右上下に込物を以て駒に間隙を施す。 左右の込物は厚二歩、上下の込物は厚一歩あり。 其幅は駒と等しく、其高は駒の高より一歩を減じ、駒を突出せしむ。
且駒の上下には込物の外に将棋頭の如きものを組込むなり。 其厚は四歩ありて頭の所に勾配を施し、頂の幅二歩あり。 其高は駒と等し。

此の如く込物を以て駒の間隙を施すは 鍍銅の後、文字を切断つに遊隙を得んが為なり。 其将棋頭の如きものを用ふるは、字母を其處に慎むるに及んで、能く沈着せしめ、以て抜出る事なからしめんが為なり。 如此して駒を組込むの後、鉄ワクの四方にクサビ打込み、以て駒の拔出ざる様に能く締付るなり。                                         

なお昌造自筆の稿本には 「蝋形を取る盆の製法」、「蝋形を取る法」、「蝋形に鍍銅する法」、「ガルファニバッテレイの法」 の各項目について記述されているとのことであるが、これ等は〔「 故本木昌造翁伝 」  『 大阪印刷界第三二 本木号 』 ( 大阪印刷界 明治四五年六月一七日)には〕全く転載されていないので、ここに引抄する便宜を得ない。

しかし明治五年(西暦一八七二年)の二月に新塾活版製造所から刊行された、昌造自著の『 崎陽新塾餘談初編 二 』 の中に 「 ガルファニ鍍金銀の法 」 と 「 銅を以て器物を摸する法 」 と題して ガルファニバッテレイによる電胎法について述べてある。
『 新塾餘談 』 は昌造みずから理化学に関する啓蒙的な記事を取集め、毎月一、二度活字を以て摺り、塾生の閑散に備えるための、各冊十枚の紙数を以て限度とした、四六判の薄っぺらな小冊子である。

「 ガルファニバッテレイの機活によって原型から銅製の模型を得る」 電胎法は、活字の鋳造に志した昌造が、その母型を作るための手段として第一に知ろうとした秘法であった。 そしていろいろ手段をめぐらした結果、ガンブル〔 William Gamble  1830-86/中国表記:姜別利 jiāng bié lì  以下ギャンブルとする〕 の指導を受けてようやくこれに成功をしたのは周知のとおりである。

この昌造の過去の苦心を思う時、彼が自から執筆した 「 ガルファニバッテレイ 」 による電胎法の説明を読むことはまことに興味深いものがあるが、その 〔「 ガルファニ鍍金銀の法 」 『 崎陽新塾餘談初編 二 』 の〕 原文を転載することはこれを省略する〔ヴィネット04『活字をつくる』片塩二朗、p. 156-159に全文紹介ならびに現代通行文による読みくだしがある。〕。

さて以上引抄した昌造執筆の活字関係の各種の文献を検討して見ると、まず 「 蝋形を取る文字の製法 」 と題する種字彫刻に関する記事の中に、「 予の製する處のものは西洋の活字に倣ひ、其長七歩八厘あり 」 と述べているが、この 「 七歩八厘 」 はすなわち曲尺の七分八厘であって、それは二三 ・ 三一七ミリに該当し、また〇 ・ 九一八インチにも当り、英米の活字の標準の高さに倣ったものであることがわかる。

その初めは専らオランダの活字によって活版術を知った昌造も、実際に電胎母型の作り方や活字鋳造の灸所を教えて貰ったのがアメリカ人のガンブルであったから、従って昌造が準據した活字の高さも、大陸型のオランダのそれによらず、ガンブルの指示に従って英米型の〇 ・ 九一八インチを採用したものと推定される。

また同じくその種字彫刻法の中に、「 凡二歩五厘角の文字は其深五厘余、五歩角のものは其深一歩余にして 」 とあるが、「 二分五厘角 」 とあるのは、曲尺の二分五厘を意味して 「 二号活字 」 に当たり、また 「 五分角 」 というのは、同じく曲尺の五分角であって 「 初号活字 」 にあたる。
すなわちこれによって見ても、昌造が最初に鋳造に着手したのは二号活字と初号活字であったと考えてよかろう。 ところがその後次第に大小各種の活字を揃えてゆくに従って、各号開の差を曲尺カネジャク五厘に取ることは大き過ぎるので、改めて鯨尺クジラジャクの二厘五毛を以てこれに換え、各号の活字のボディーの角を次に示すような寸法に定めたのである。

初号活字    鯨尺 四 分 角 ( 曲尺五分 )
一号活字    鯨尺 二分五厘角
二号活字    鯨尺 二 分 角   ( 曲尺二分五厘角 )
三号活字    鯨尺 一分五厘角
四号活字    鯨尺 一分二厘五毛角
五号活字    鯨尺 一 分 角
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( 六号活字   鯨尺 七厘五毛角 )
( 七号活字   鯨尺 五 厘 角 )

三号から七号まではいずれも鯨尺二厘五毛の差、一号から三号までは鯨尺二厘五毛の二倍、すなわち五厘の差、初号と一号の差は鯨尺二厘五毛の六倍(五厘の三倍)、すなわち一分五厘である。

号数活字中の基準活字ともいうべき五号活字は、ガンブルが上海の美華書館館長時代に苦心して創案した小型活字に凖據したものである。 元来ガンブルの工夫完成した小型漢字の活字は、欧文活字のスモール ・ パイカと組合せるのに都合がよいように作られたもので、ヘボンの 『 和英語林集成 』 〔 James Curtis Hepburn、1815-1911 は、米国長老派教会の医療伝道宣教師であり、 ヘボン式ローマ字の創始者。 医師。 わが国初の大型和英辞典 『 和英語林集成 』 は上海美華書館で活字組版 ・ 印刷され1867年 ( 慶応03 ) 完成 〕 に使われたことはすでに述べたとおりであるが、有名な支那学の大家 アレキサンダー ・ ワイリーの如きは、それまでに鋳造されたいずれの漢字活字にもまして、欧文の活字と併用するのに最も便利なものであることを、彼自身の著書の序文の中で推奨している。

ところがスモールー ・ パイカはアメリカン ・ ポイントの十一ポイントに相当し、その大きさは三 ・ 八六五四ミリであって、ほとんど鯨尺の一分に該当するところから、恐らく昌造はガンブルの小型漢字の活字に範を採った五号活字のボディーの寸法を鯨尺一分角と定めたものと推定される。
〔 このパラグラフはおおいに議論の余地がある。 当初の赴任地 寧波 ニンポウ から移動したのち、上海時代に William Gamble が Small pica  としたものは、のちにアメリカン ・ ポイントとして1886年(明治19)に制定された 10.5 ポイントと同様のサイズであり、11 ポイントではなかった。 ご希望の向きには実際のパイカ ・ ポイントスケール提供したいが、計測してみるとギャンブル時代の上海美華書館の  Small pica とは10.5 ポイントであり、これがわが国では五号活字とされたものである。 ここではしばらく宿題とさせていただきたい 〕。

また昌造が活字の書体に明朝を採用したことについては、種字の版下に 『 康煕字典 』 を用いたことによると伝えられているが、上海の美華書館、あるいは香港の英華書院の如き英米伝道団経営の印刷所では、つとに明朝体の漢字活字を鋳造しており、特にガンブルと昌造との関係を考える時、明朝体の採用はむしろ美華書館製の漢字活字に倣って、これを行ったものと見るのが至当であろう。

更にまた新塾活版製造所で鋳造した平仮名の活字は、昌造の友人で彼の和歌の師であった池原香穉カワカの筆に成る版下を以て種字を彫った由であるが、これは変体の平仮名で、現在使用されている活字とは全く別種の観を呈して、明朝体との調和を欠いている。

しかしとにかく、昌造が邦文活字に一つのシステムを作り、倍数関係を定めたことは、恐らくガンブルの示唆に負うところであり、欧文活字のそれをまねて試みたものには相違ないが、これによってわが邦の洋式の活版術が、実際に工業的に利用される第一歩を踏み出したことを思えば、彼を日本のグーテンベルグなりと称しても敢えて不当ではあるまい。

また本木時代の活字の鋳造は、最初の頃は小銃の散弾を鋳るのと同じ調子で、手持ちの鋳型に母型をはめこみ、鍋の中に熔かした活字地金を杓子で汲み出してその上から注ぎこんで鋳造していたが、そのうちに手押ポンプで地金を注ぎこむようになり、二号活字ならば一日に千本くらい鋳造できるようになった。
このポンプ〔式活字鋳造機の〕時代に、東京で和田國雄という人が手持鋳型にポンプ鋳込みで一日に五千本を鋳造して最高レコードを作ったが、今もなお使われている手廻しのカスチングは本木昌造が明治四年(西暦一八七一年)に英国から取寄せたのが最初であろうと 〔 東京築地活版製造所第四代社長の 〕 野村宗十郎は語っている〔ここで触れられているポンプ式活字鋳造機、手回し式活字鋳造機、カスチング、などは、近近動画をふくめて紹介したい〕。

四 長崎活字の東京進出

五 「活字局」の活字と「印書局」の鉛版

明治四年(西暦一八七一年)の十一月二十二日、赤坂溜池葵町の旧伊万里県出張邸趾に開かれた、工部省勧工寮の「活字局」は、前に述べて置いたとおり、長崎製鉄所附属の活版伝習所においてガンブルの指導を受けた人たちの一部がその中心を成していたのであるから、やはり本木系の一分派と見倣されるべきである。
そして平野富二が長崎製の活字を携えて東京に上り、活字の鋳造販売を企てるまで、この「活字局」は東京における唯一の活字の供給源であった。

工部省勧工寮の「活字局」の諸設備は、長崎製鉄所にあった「活字一課の諸器械」なるものをそのまま移管したものであるが、活字局備付けの諸設備として次のようなものが挙げられている。

一、 二号字母            凡五千個
一、 三号字母            凡六千個
一、 四号字母            凡三千個
一、 五号字母            凡五千個
一、 七号字母            凡三百個
一、 西洋字母            凡三百個
一、 ハンド・マシーネ・ポンプ     壱 丁
一、 メタル釜                壱 ツ
ー、 カスチング・マシーネ       壱 丁
一、 鋳  型               拾 丁
一、 銅判〔版?〕裹削鉋共       壱 組
一、  活字尻切道具           壱 揃
一、 紙 〆                壱 挺
一、 ハンド・マシーネ          壱 丁
一、 ガルハ用型蝋型〆        壱 ツ
一、 ロール・マシーネ          弐 丁
一、   スペーシ鋳型           弐 挺

勧工寮の活字局は太政官の印書局、あるいは大学南校の活字掛、各府県の布告、布達類の印刷工場などに活字を供給することをその主要の仕事としたのであったが、民間の印刷工場にもその製品の一部を払下げたことはさきに述べたとおりである。
「東京日日新聞」の如き〔は〕、明治五年(西暦一八七二年)の二月二十一日の創刊で、創刊後しばらくして鉛活字を使用し始めたのは勧工寮の製品を買入れてからのことであった。

当時その社は浅草の蔵前にあり、そこから赤坂溜池の勧工寮まで活字を買いに行くのは相当手数が掛ったようである。しかもその活字は組合せるとガタガタして使用に骨が折れたので、これを全部長野県の布告を印刷する御用達の商人に譲り渡し、その後は専ら築地の平野活版所から活字を購入して組版にあてたとのことであるから、その当時の勧工寮活字局製の活字は、鋳造の技術にどこか不完全なところがあり、長崎新塾活版製造所の直系である平野活版所の製品の方に、一日の長があったのであろう〔以下略〕。