【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-03  江戸神田川左岸に足跡をのこした長崎の写真士:上野彦馬

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上野彦馬上野彦馬  二二歳の写真(万延元年 一八六〇年)
撮影者 : 伊勢国津 藤堂藩藩士 堀江鍬次郎  撮影地 : 江戸 

上野彦馬(うえの-ひこま 一八三八-一九〇四)は、わが国写真術の先駆者のひとり。肥前長崎生まれ、号は季渓。
鵜飼玉川(うかい-ぎょくせん 一八〇七-八七)、下岡蓮杖(しもおか-れんじょう 一八二三-一九一四)らと並び、もっとも早い時期に「コロジオン湿板法」による営業写真館を長崎の中島川河畔に開いて、職業的に写真を撮りだした人物である。

彦馬の父、上野俊之丞(うえの-としのじょう 一七九〇-一八五一)、あざな常足ツネタリは、長崎の富裕な御用商人であり、長崎奉行所の御用時計士として、出島への出入りを許されていた。
彦馬はその次男であったとされるが、俊之丞の没後一二歳でその家督を相続している。
代〻の絵師でもあった俊之丞は多才なひとで、西洋の知識を積極的に取り入れ、火薬原料である硝石の製造、さまざまな形象や紋様を綿布に型染めにする「更紗」(中島更紗サラサ)の製造もおこなっていた。

また俊之丞は一八四八(嘉永一)年には、フランスでの発明から間もない写真術「ダゲレオタイプ」の機材一式をオランダからいち早く輸入した。
ダゲレオタイプとは、フランスのルイ・ジャック・マンデ・ダゲールによって発明され、一八三九年にフランス学士院で発表された写真術である。
この方式では銀板上にアマルガムで画像が形成される。また一回の撮影で一枚の写真しか得ることができず、複製はできなかったし、できあがった写真は左右逆像となっていた。俊之丞は、日本にはじめてダゲレオタイプ(銀板)の写真機を輸入した人物とされている。

上野俊之丞による写真は管見に入らないが、同様のタゲレオタイプの写真術で、薩摩藩士が撮影した薩摩藩主 : 島津斉彬の写真が、日本人の手になるはじめての写真とされ、重要文化財に指定されている。

島津斉彬1857尚古集成館蔵

島津 斉彬(しまづ-なりあきら 一八〇九-五八)
薩摩藩の第一一代藩主。島津氏第二八代当主。 尚古集成館所蔵。
日本人の手による日本最古の銀板写真。国の重要文化財に指定されている。

そんな上野屋敷には、俊之丞の盛名を慕って多くの蘭学者が集まり、家庭内での会話にも頻繁にオランダ語が使われていたとされる。そうした環境の中で、彦馬も日常的に貴重な蘭書を目にし、西洋の学問についての会話を耳にして育った。こうした父の行蔵は、まだおさなかったとはいえ、実子の彦馬に与えた影響はいわずもがなであろう。
母の伊曽イソも教育熱心で、彦馬は幼少時代の初学を、町内の私塾:松下平塾に通ってまなんでいた。

一八五一(嘉永四)年にその俊之丞が没し、上野彦馬が一二歳で家督を相続した。なにぶんまだ幼少であったので、翌一八五二年から四年間、大分日田の広瀬淡窓の私塾「咸宜園カンキエン゙」に入門して漢学を学んだ。
一八五六(安政三)年長崎へ帰り、オランダ語を通詞名村八右衛門(号:花渓)に伝授された。同門の先輩に福地源一郎(櫻痴 のち東京日〻新聞主筆兼社長、衆議員議員、戯作者)、名村泰蔵(のち司法官僚、貴族院議員、東京築地活版製造所第三代社長)らがいる。

さらに一八五八(安政五)年には、オランダ軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールトを教官とする「医学伝習所」の中に新設された「舎密試験所」に入り、「舎密学」(セイミ Chemie オランダ語・化学)を学んだ。
このとき、蘭書から「コロジオン湿板法写真術」のことを知り、大いに関心を持つにいたった。そこで「舎密試験所」で同僚だった、伊勢国津 藤堂藩藩士 : 堀江鍬次郎(あざな:公粛)らとともに、蘭書を頼りにその技術を習得、感光剤に用いられる化学薬品の自製に成功するなど、化学の視点から写真術の研究を深めた。
また、ちょうど来日したプロの写真家であるピエール・ロシエにも写真術の実際を学んだ。

《伊勢国津 藤堂藩藩士 : 堀江鍬次郎と藤堂和泉野守高猷の江戸屋敷》
この時代、肥前長崎は海外情報があふれ、沸騰する坩堝のような様相を呈しており、全国各地・各藩から有為の若者が崎陽長崎に集まっていた。
彦馬は「舎密試験所」で八歳ほど年長の伊勢津藩士(現在の三重県)堀江鍬次郎(ほりえ-くわじろう あざな:公粛 一八三〇-六五)と知りあった。鍬次郎は短命で、その業績に関して知るところは少ないが、正規の藤堂藩の藩士であり、先端知識の取得のため藩命をうけて長崎に派遣されていたとみられる。いずれにせよ鍬次郎は彦馬の良き先輩であり、共同研究者となった。
鍬次郎はときの藩主 : 藤堂高猷(とうどう-たかゆき、通称:和泉守、号 : 観月楼、維新後伯爵 一八一三-九五)に願って、当時一五〇両もした最新式の湿板写真機一式を、藩費で購入することを許された。

藤堂高猷 藩主藤堂高猷(とうどう-たかゆき 一八一三-九五)
明治十二年 明治天皇御下命『人物写真帖』<上>
宮内庁三の丸尚蔵館所蔵 PD

藤堂高猷は、幕末維新期の伊勢国津 藤堂藩藩主。藤堂高虎にはじまる藤堂家一一代藩主にして、最後の藩主となった。
黒船の来航をみた幕末には、幕命をうけて海防のための大砲を鋳造し、江戸湾台場の築造にあたるいっぽう、一八五八(安政五)年に藩領の町人のために郷校「修文館」を開設した。
もともと公武合体論者だったため、幕末には幕府軍と官軍(新政府軍)にたいして中立の立場をとっていたが、鳥羽・伏見の戦に際し、山崎関門で藤堂藩の指揮者:藤堂采女ウネメは、中立から一転してにわかに幕府軍を攻撃、幕軍敗北の原因のひとつとなったとされる。
その後の戊辰戦争では津  藤堂藩は新政府軍に参加して従軍した。

藤堂高猷の維新後は、拝領屋敷であった和泉橋近くの藤堂和泉守上屋敷(現千代田区神田和泉町一)を返上し、いっとき近在にあった旧藤堂藩中屋敷(現台東区)で生活した。一八六九年(明治二)年津藩知藩事となり、同四年六月隠居。伯爵。
明治二八年二月九日死去。享年八三。墓は東京都豊島区の染井墓地にある。法名は高寿院詢蕘文道大僧正。

一八六〇(万延元)年、彦馬と鍬次郎は藤堂高猷の命をうけて江戸に行き、神田和泉橋ちかくの藤堂藩中屋敷(現台東区)に滞在した。
それから一年近くの間、ふたりは幕府「蕃書調所」に通いながら、藤堂屋敷に出入りする大名や旗本諸侯を撮影していた。

上野彦馬その当時(一八六〇年 文久元年)二二歳の上野彦馬を、堀江鍬次郎が撮影した写真が残っている。すなわち本稿冒頭にかかげた肖像写真がそれである。
彦馬は月代を剃らない丁髷姿で、手指は深深と袂に隠している。のちに著名な写真士となる彦馬も、このころはまだ「写真を撮ると手指から魂魄を抜きとられる」とした迷信を信じていたのかとおもうと面白いものがある。
また和泉橋近くにあった藤堂藩邸が撮影地であったとされているが、それが上屋敷(千代田区)か、その北側に近在していた中屋敷(台東区)であったのかは記録されていない。

《大名屋敷 上屋敷 ・ 中屋敷 ・ 下屋敷と、神田和泉町の成立》
大名屋敷とは、
参勤交代によって江戸に参勤する大名に幕府から与えられた屋敷である。はじめは標準とか基準といったものはなく、幕府も屋敷地の下付を申請した大名に対して任意に屋敷地を与えていた。
一六五七(明暦三)年のいわゆる「振袖火事」とよばれる江戸大火を契機に、幕府は江戸の都市計画をたて、江戸城内にあった尾張、紀伊、水戸の御三家をはじめ、幕府重臣の屋敷を城外に移すとともに、大名屋敷を、上(かみ)屋敷、中(なか)屋敷、下(しも)屋敷の三つに分けた。

東都下谷絵図resized

「東都下谷絵図」(『切絵図・現代図であるく江戸東京散歩』 人文社)から『江戸切絵図』(尾張屋版 1849-70)を紹介した。
「切絵図」では家紋の刷ってあるところが大名の上屋敷で、表門の位置もあらわす。■ 印は大名の中屋敷、● 印は大名の下屋敷をあらわす。それぞれ印のある位置が表門である。

この時代、地図左端に描かれた神田川にもうけられた橋があり、藤堂和泉守上屋敷にちなんで「和泉橋」と呼ばれていたが、和泉町という呼称はまだなかった。
現在はこの橋も道も拡幅されて昭和通りとなっている。当時はこの通りの左右に徒士衆カチシュウと呼ばれ、徒歩で行列の供をしたり、警固にあたった徒組カチグミに属する侍(下級士族)が多く居住しており、切絵図には「此通御徒町ト云」としるされている。現在の御徒町のゆらいである。

《伊勢国 津 藤堂藩 二十七万九百五十石 とは》

藤堂高虎藤堂家宗家初代  藤堂高虎
弘治2年1月6日(1556年2月16日)-寛永7年10月5日(1630年11月9日)

藤堂 高虎(とうどう-たかとら)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。
伊予今治藩主。のちに伊勢津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。
藤堂高虎は、浅井・織田・豊臣・徳川と何度も主君を変えた戦国武将として知られる。また築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城などを築城し、黒田孝高、加藤清正とともに築城の名人として知られる。

津藩は伊勢国(三重県)津に藩庁を置いた藩。安濃津藩・藤堂藩ともいう。藩主藤堂氏、城持ち外様大名であった。一六〇八(慶長一三)年藤堂高虎入封後、廃藩置県まで続いた。
高虎は近江国犬上郡藤堂村(近世は在士村)地侍の家に生まれ、はじめ浅井氏に仕えたが、のち秀吉の異父弟秀長に仕え紀州粉河二万石、秀長没後は秀吉の直臣となって文禄四年伊予板島(宇和島)七万石の大名となった。

秀吉没後は徳川家康の篤い信任を受け、関ヶ原の戦の戦功により慶長五年伊予今治二〇万石に封ぜられた。
高虎は伊賀・伊勢入封後、大坂方に備えて同一六年軍事的拠点として伊賀上野、政治的拠点として津城の大修築を行い、津は参宮街道を城下町に引き入れて各町割を定め、上野は三筋町など町割を作って城下町を整備した。

大坂冬・夏の両陣の功により一六一五(元和元)年伊勢国鈴鹿・奄芸・三重・一志四郡内で五万石、同三年積年の功を賞され伊勢国田丸領五万石を加増された。また弟藤堂正高知行の下総国香取郡内三千石領有も認められ三十二万三千九百五十石となった。
一六三五(寛永一二)年二代藤堂高次のとき、高虎の義子高吉統治の伊予越智郡二万石は伊勢飯野・多気郡内と振替となり、一六六九(寛文九)年高次致仕に際し、次男の藤堂高通に五万石を分与して支藩久居(ひさい)藩が立藩した。
一六九七(元禄一〇)年、藤堂高通の弟高堅の久居藩襲封時に三千石を分知して、津藩は二十七万九百五十石となり、この石高は維新時まで変わらなかった。

津は現在の津市となった。三重県中部、伊勢平野のほぼ中心にあり、三重県の県庁所在地で、人口は三重県では四日市市につぐ、およそ二八万人のまちとなっている。

《神田和泉町の名前》
神田和泉町(現:東京都
千代田区神田和泉町)は、一八七二(明治五)年に、伊勢津 藤堂藩上屋敷の旧地と、旧出羽鶴岡藩酒井家中屋敷と、三軒の旧旗本屋敷を合せて起立した。町名は藤堂氏の受領名「和泉守」にちなむ。
西は神田松永町、南は神田佐久間町二-三丁目、東は向柳原(むこうやなぎはら)一丁目、北は下谷徒(したや-かち)町一丁目・下谷二長(したや-にちょう)町(現台東区)。
藤堂氏は一六五七(明暦三)年の大火後当地に土地を拝領して幕末に至る。

沿革図書によると、神田和泉町(現:東京都千代田区神田和泉町)とされる地域は、延宝年中(一六七三―八一)は藤堂藩上屋敷、水野隼人正・中根平十郎の屋敷と酒井左衛門尉抱屋敷、一七一八(享保三)年は藤堂藩上屋敷、酒井左衛門尉抱屋敷、中根内匠・牧野伊予守・松平右近将監・朽木土佐守の各邸が占める武家地であった。

一七四六(延享三)年は朽木邸が植村庄五郎邸、牧野邸が稲葉興三郎邸になっている。
一七六五(明和二)年は松平邸が酒井勝次郎邸、植村邸が岩城伊予守邸に、一七八三(天明三)年は酒井勝次郎邸が松本十郎兵衛邸、岩城邸が三枝源十郎邸に、一七八九(寛政元)年は松本邸が松平兵庫頭邸に、一八〇六(文化三)年には鶴岡藩中屋敷と中根勘解由・三枝修理・能勢伊予守・能勢介十郎の屋敷となっていたが、維新まで一貫して伊勢津 藤堂藩をはじめとする武家地であった。

明治元年津 藤堂藩邸は収公され、ここに「東京医学所」が設置された。翌年医学所は「大学東校、大学医学校」と改称し、一八七八(明治一一)年「大学医学校」が本郷に移設されたのちには、「東京帝国大学医科大学第二病院」(敷地二千九〇〇余坪)となった。
鶴岡藩邸跡には一八七四(明治七)年文部省医務局司薬場が置かれ、翌年医務局は内務省の管轄となった。
明治10年頃の和泉町周辺図『五千分一東京図』より「東京府武蔵国神田佐久間町及下谷区仲御徒町近傍」部分
本図は参謀本部陸軍部測量局によって1876(明治9)年から10年間ほどをかけて作製された三角測量法の精密図で、『図説・明治の地図で見る鹿鳴館時代の東京』(研究社)より紹介した。したがって上野彦馬と堀江鍬次郎が藤堂藩中屋敷に滞在した一八六〇(万延元)年より16年ほどのちの地図であるが、江戸時代と現代をつなぐのには好適な資料となる。

下部を横断している河川は江戸城外堀の役割もはたした神田川で、石神井方面から流出する小河川をあつめた人口河川である。地図上では左から右に流れて隅田川に合流していた。和泉町は江戸時代もいまも神田川左岸のまちであった。

和泉橋から北(上部)へ直行する道は、「此通御徒町ト云」とされた通りで、現在は拡幅されて昭和通りとなり、その上を首都高速道路がはしっている。
地図左下の空き地は一八六九(明治二)年末の大火後に設置された火除地である。ここには鎮火神社として秋葉権現が祀られていたために秋葉原(あきばはら)と称した。現在の秋葉原駅にあたる。
この秋葉原駅昭和通り口からでると、昭和通りを横断して徒歩四-五分で「千代田区神田和泉町」に到着する。

上野彦馬はまたおなじ一八六一年(文久元)年九月、藤堂公と共に藩領の津(現三重県津市)へ同行し、藩校「有造館」の洋学所で蘭語と化学を講義した。
翌一八六二年堀江鍬次郎(公粛)の協力を得て、藩校「有造館」の化学教科書『舎密局必携』を著し、同書中の「撮形術ポトガラヒー」の項で写真技法について詳細に述べている。

舎密局必携01 舎密局必携02resized『舎密局必携』 国立公文書館蔵 請求記号:197-0267

『舎密局必携』(せいみきょく-ひっけい)は、上野彦馬がワグネル(Rudolph Wagner)ほかの蘭書を抄訳し、また宇田川榕庵訳述『舎密開宗』を参考に著述し、堀江鍬次郎(公粛)の校閲になる化学実験便覧である。
一八六二(文久二)年に前篇三巻(総説、無機化学の非金属部、ガラス製法、写真術)を刊行したが、予定した中篇四巻(金属部)、後篇六巻(有機化学)、附録三巻(試薬、雷機器、伝信機、坑工所業など)は未刊に終わった。
それでも化学の入門と写真術の手引き書として好評を博し、津・江戸・京・大坂の書店より発行され、明治中頃まで愛読された。

《長崎にもどり、中島川河畔に「上野撮影局」を開設》
一八六二(文久二)年の暮れ、上野彦馬は長崎中島河畔の自邸に営業写真館「上野撮影局」を開設、写真撮影業をはじめた。
当初は、長崎に滞在する外国人を顧客とした肖像写真の撮影をおもに手がけたが、やがて日本人にも客層を広げていき、坂本龍馬、高杉晋作をはじめとする多くの幕末の志士たちも上野のもとを訪れ、被写体として肖像撮影に臨んだ。

上野撮影局中島川河畔の「上野撮影局」  上野彦馬撮影
IMG_3749 IMG_3750 IMG_3748 IMG_3746 IMG_3747現在の「上野彦馬邸跡」と「上野撮影局跡」  2016年年05月古谷昌二氏撮影

明治期に入ってからも彦馬は写真士としての活動を旺盛に繰り広げた。一八七四(明治七)年、金星の太陽面通過を観測した日本最初の天文写真を撮影。一八七七(明治一〇)年には長崎県令北島秀朝(ひでとも 一八四二-七七)の委嘱により「西南戦争」の戦跡を記録撮影した。

陸軍参謀本部に提出されたそれらの写真は、弟子の冨重利平(とみしげ-りへい 一八三七-一九二二)が、反政府側(西郷軍)の谷干城(たに-かんじょう)の依頼で撮影した同戦争の記録写真とともに、現存する日本写真史上最初の戦争写真として知られており、同年第一回内国勧業博覧会(東京・上野公園)に出品され、鳳紋褒賞を受賞するなど、その写真は歴史的、文化的にも高く評価されている。

一八九〇年年代には「上野撮影局」支店を、ロシア沿海州のウラジオストクや、中国の上海、香港にも開設していた。
その門人から内田九一(うちだ-くいち 一八四四-七五)、守田来蔵(一八三〇-八九)、冨重利平(とみしげ-りへい 一八三七-一九二二)
をはじめ、明治期に活躍した写真士が輩出した。
一九〇四(明治三七)年五月二十二日長崎新大工町の自宅で没。享年六十七。長崎の皓台寺にねむる。

上野彦馬長崎公園上野彦馬顕彰碑  長崎諏訪公園  古谷昌二氏撮影
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{ 新 宿 餘 談 }
長崎タイトルresize-627x108[1]宮川雅一氏と平野の会[1] DSCN3541DSCN3536 DSCN3537上野彦馬撮影吉宗ヨッソウresized

上野彦馬撮影 吉宗(よっそう)の正月風景

吉宗 よっそう は創業慶応二年、長崎浜町にある百五十年余の歴史のある老舗である。
ことし七月の長崎訪問のおり、長崎県印刷工業組合のご好意にあまえて、はじめて吉宗名物料理「茶碗むし・蒸寿し揃」を出前で食した。はじめはドンブリ二鉢の量におどろいたが、ともかくおどろくしかない、とびっきりの旨さで完食した。

たまたまこのあと頂戴した「宮川スクラップブック」に、「上野彦馬撮影 吉宗正月風景」があった。店先は整然と掃ききよめられ、正月らしく、しめ縄が飾られ、門松がたっている。右起こし横組み「蒸碗茶 ⇄ 茶碗蒸」の看板は、ふるい木造船の船板をもちいたものとされていた。
いまも吉宗は出前に注力しているようだが、彦馬の時代にも出前に熱心だったようで、当時としては斬新だったであろう自転車が右側に数台ならんでいる。
吉宗 よっそう のWebSite にはこの「茶碗蒸」について、以下のような解説をみる。

吉宗の茶碗むしは、茶碗むしと蒸寿しが一対となった夫婦蒸しで、ほかにはない、吉宗伝統の名物料理です。
穴子をはじめ、海老、鶏肉、しいたけ、きくらげ、銀杏、たけのこ、蒲鉾、麩、などの吟味された材料と味加減は、百五十有余年の伝統の味がそのまま生きている名物のひとつです。

201303021213034109二〇一七年〇七月、「平野富二生誕の地」碑建立有志会」 の 古谷昌二、平野正一の両氏とともに長崎を訪問した。現地では長崎県印刷工業組合、宮田和夫氏に同行していただき、平野富二の生家跡に記念碑を建立する件につき、長崎市役所に相談にうかがった。

その折り、寸暇をぬすんで、長崎慈善会・虎與号トラヨゴウ書店主にして「明治長崎のふうけもん」とされた、安中半三郎の創立による「長崎盲唖院」(現長崎県立盲学校、長崎県立ろう学校」を訪問して、時津トキヅ町にある長崎県立盲学校正門脇の『安中翁紀念碑』を取材した。
そののち長崎市元助役にして、現在は長崎都市経営研究所所長・長崎市史談会顧問の宮川雅一氏を自宅に訪ね、たくさんの資料を頂戴した。

そのなかの「宮川スクラップブック」に、上掲図版で紹介した「吉宗 よっそう」の正月風景をふくめ、上野彦馬の写真資料が相当数あることに、迂闊ながら帰京後しばらくしてから気がついた。

20170907225211_00001桃渓橋  上野彦馬撮影

《さすがに名人とうならせた 桃渓橋 ももたにばし 上野彦馬撮影》
彦馬はおそらく中島川と西山川の合流地点あたりまで重いカメラを(数人で)はこび、中島川上流の桃渓橋を撮影したものとおもわれる。すなわち下流から上流方向に向けて桃渓橋を撮影している。

この橋は一六七九(延宝七)年僧ト意の募財によって架けられたとされる。昭和五七年七月の長崎大水害により半壊したが、ひら仮名異体字(いわゆる変体仮名)を駆使した西道仙筆の橋名碑をふくめて原型に復元された。
桃渓橋 ももたに橋」の名前は、河畔に多くの桃の木があったことに由来しているとされるが、現在は大楠がおいしげり独特の風情をかもしだしていた。

稿者はめったに写真を撮らないというより、デジタル機器を苦手としていて撮れない。
いまの小型デジカメにはさまざまな機能があるが、このときは単なるデフォルト機能(標準設定)のまま、桃渓橋の上から中島川上流にむけて、自分でシャッターを押した。カバンのなかには「宮川スクラップブック」があったわけだから、事前に確認していたら彦馬と同じポイントから撮影ができたのにと悔やんでいる。

もちろん、それでも上野彦馬に敵うべくも無いことは重重承知しているつもりである。
中島川桃渓橋から上流方向をのぞむ[1] 長崎中島川桃渓橋-627x413[1]
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協 力/古谷昌二、平野正一、宮川雅一、田村省三、春田ゆかり、宮田和夫、長崎県印刷工業組合
主要参考資料/『日本大百科全書』(小学館)、『国史大辞典』(吉川弘文館)、『日本人名大辞典』(講談社)、『津市史』一-三、久保文武『伊賀史叢考』、杉本嘉八「津藩」(『新編物語藩史』七所収)、『京都守護職始末 2 旧会津藩老臣の手記』(東洋文庫)、『世界大百科事典』(平凡社)、「東都下谷絵図」(『切絵図・現代図であるく江戸東京散歩』 人文社)、『図説・明治の地図で見る鹿鳴館時代の東京』(研究社)、鈴木八郎他監修『写真の開祖 上野彦馬』、『古写真に見る幕末明治の長崎』(姫野順一、明石書店)、宮川雅一『郷土史岡目八目』(長崎新聞社)、日本学士院編『明治前日本物理化学史』、 『明治維新以後の長崎』(長崎市小学校職員会)、大岩正芳『上野彦馬の「舎密局必携」』(『化学史研究』四)、『日本歴史地名大系』(平凡社) 、増永驍『ふうけもん-ながさき明治列伝-』(長崎文献社)、古谷昌二『平野富二伝 考察と補遺』(朗文堂)