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タイポグラファ群像007*【訃報】 戦後タイポグラフィ界の巨星 : 吉田市郎氏が逝去されました

 

yoshida_sama[1]吉 田 市 郎
1921(大正10年)01月28日-2014(平成26年)09月29日 行年93

元株式会社晃文堂代表取締役/株式会社リョービ印刷機販売代表取締役、株式会社リョービイマジクス代表取締役、リョービ株式会社取締役、吉田市郎氏が、2014年09月29日肺炎によりご逝去されました。
ここに謹んで皆さまにご報告いたします。

吉田市郎氏にお世話になったのは、朗文堂:片塩二朗がまだ小学生のころに、日本橋丸善の店頭にあったスミスコロナ社の欧文タイプライター(パイカとエリートサイズを搭載していた)に惹かれ、神田鍛冶町二丁目18 にあった、株式会社晃文堂-欧文活字の晃文堂をオヤジとともに訪ねたのが最初でした。

以来半世紀余にわたり、筆舌につくせないご薫陶をたまわりました。
ご高齢でもあり、いつかこの日がくることは覚悟していたつもりでしたが、お知らせをいただいて、まさに <巨星 墜つ> のおもいで ことばもございません。

いずれ別項 <タイポグラファ群像> をもうけてご報告いたしますが、吉田市郎氏は、終戦後ようやく復員し、まもなく晃文堂を設立され、金属活字 ・ 活版印刷関連機器の製造販売からスタートし、写真植字、デジタル世代の三代にわたって、つねにその先頭にたって業界を牽引したかたでした。
またタイポグラファの見地から、印刷術をシステムとしてとらえ、その基盤の書体開発から、印刷までの、一貫したシステムの開発に尽力されました。

ともかく仕事一筋のかたでしたから、業界紙誌への寄稿はたくさんありますが、まとまった著述はのこされませんでした。わずかに吉田市郎氏からの聞き語りと、頂戴した資料をもとに記述した拙著 『逍遙 本明朝物語』 (オフセット印刷版は完売。樹脂凸版印刷版のみ在庫。朗文堂) が、わずかにそのタイポグラファとしてのお姿を伝えるばかりです。
【 朗文堂ブックコスミイク : 既刊書案内 『逍遙 本明朝物語』

また、吉田市郎氏は多年にわたる業界への貢献によって、数数の顕彰を受けてきましたが、2008年(平成20)タイポグラフィ学会による、第一回 平野富二賞を受賞されました。そのことをとても喜ばれて、
「活字と印刷機器の製造販売を担ってきた者として、平野富二賞の受賞はとても嬉しいことでした」
と再再述べられていたことも、鮮明なおもいでとしてのこっています。
第一回平野富二賞 吉田市郎氏吉田市郎氏賞状組版
受賞者 吉田市郎氏 について ── タイポグラフィ学会
吉田市郎氏は、終戦の翌年に晃文堂を創業されて、活字製造の事業を興され、その後リョービ印刷機販売株式会社(現リョービイマジクス株式会社)の経営にあたられ、総合的な印刷システムの開発と普及に尽力されました。
社会や技術の急速な変化の中にあっても、同氏は活字書体とタイポグラフィに対する深い理解と愛着を堅持され、その普及・発展に貢献してこられました。 
タイポグラフィ学会は同氏の功績を顕彰するため 「第 1 回 平野富二賞」 受賞者に選考いたしました。

【 タイポグラフィ学会 URL : 第一回平野富二賞受賞者 吉田市郎氏 2007.08.18 】

そこで、吉田市郎氏の晩年の2006年に発足した、朗文堂 アダナ ・ プレス倶楽部の <ニュース第一号> にお寄せいただいたご祝辞を紹介させていただき、せめてもの吉田市郎氏のお人柄をしのぶよすがとさせていただきます。 DSC03368[1] DSC03405[1]
【 元記事 : アダナ・プレス倶楽部ニュース No.001- Adana-21J の誕生おめでとう 2006.09 
──────────
ニュース No.001 【アダナ・プレス倶楽部便り】
── アダナ・プレス倶楽部は、登録商標<サラマ・プレス>にあわせて2014年04月に「サラマ・プレス倶楽部」に名称変更しているが、ここでは初出のママとした。

アダナ型印刷機 < Adana – 21 J > の誕生、おめでとう  !

吉田 市郎 株式会社リョービイマジクス顧問 (元 ・ 株式会社晃文堂代表取締役)

このたび、朗文堂/アダナ・プレス倶楽部からアダナ型小型活版印刷機「 Adana – 21J 」が誕生されるとうかがい、大変嬉しく存じます。

古い話しになりますが、株式会社晃文堂の時代に 「アマチュア用印刷機 ADANA 」 を 2 機種 (3×5 inch, 5×8 inch) 輸入販売いたしました。
当時のわが国では活版印刷はとても盛んでしたが、国家そのものに外貨の蓄えがなく、外貨の為替管理がきわめて厳しくて、海外からの、活字、活版印刷関連機器など、物資の輸入には様々な困難がありました。

幸い多くのユーザーの皆さまを得て、アダナ印刷機はご好評をいただきましたが、その後イギリスのメーカーが製造を中止し、また活版印刷全般も衰勢をみせるようになって、アダナ印刷機の代理販売業務からは撤退いたしました。
従いまして、多くのユーザーの皆さまには、不本意ながらご迷惑をおかけすることになったことにたいして、内心忸怩たるものがありました。
それが今般、長年ご厚誼をいただいている朗文堂さんの新事業部門、アダナ・プレス倶楽部によって、新設計による国産活版印刷機 「 Adana-21J 」 が誕生するとうかがい、大変嬉しく思っております。

おそらく活版印刷と鋳造活字には、まだまだ寒風が押し寄せるでしょうが、それにめげず、創意と挑戦の意欲を持って、これからの開発 ・ 販売にあたって頂きたいと存じます。
「 Adana-21J 」 の試作機のご発表、おめでとうございます。

平野富二と活字*05 ついに驟雨のなかに迎えた『活字発祥の碑』除幕式

『活字発祥の碑』 除幕式挙行
なぜか剣呑なふんいきにおおわれた除幕式の会場
そしてついに、周旋役の座を追われた牧治三郎

平野富二と娘たちuu

『活字発祥の碑』20131014180912139_0002

パンフレット『活字発祥の碑』 編纂・発行/活字の碑建設委員会
昭和46年06月29日 B5判 28ページ 針金中綴じ
表紙1-4をのぞき 活字版原版印刷
『活字発祥の碑』落成披露時に関係者に配布された。 

『活字界』合本。

『活 字 界』
発行/全日本活字工業会 旧在:千代田区三崎町3-4-9 宮崎ビル
創刊01号 昭和39年06月01-終刊80号 昭和59年05月25日
ほぼ隔月刊誌  B5判8ページ  無綴じ  活字版原版印刷

01号―40号/編集長・中村光男
41号―56号/編集長・谷塚  実
57号―75号/編集長・草間光司
76号―80号/編集長・勝村  章
編集長を交代後した昭和49年以後、中村光男氏は記録がのこる
昭和59年までは、全日本活字工業会の専務理事を務めていた。
このころ筆者は吉田市郎氏の紹介を得て、事務局を数度訪問した。
────
『活字界』はパンフレット状の業界内に配布された機関誌で、残存冊子、なかんずく
全冊揃いはほとんど存在しないが、中村光男氏が2分冊に合本して保存されており、
それを個人所有しているものを拝借した。

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活字発祥の碑建設のいきさつ

パンフレット『活字発祥の碑』(『活字発祥の碑』建設委員会 p.14-15 昭和46年8月)

この中綴じの小冊子は、1,500部ほどが用意され『活字発祥の碑』除幕式に際して

来場者と全国活字工業会会員に配布された。
執筆者は専務理事にして『活字界』編集長、中村光男氏とされる。 

長崎[諏訪公園]には本木昌造翁の銅像があり、また、大阪には記念碑[四天王寺境内・本木氏昌造翁紀年碑]が建立され、毎年碑前祭などの行事が盛大に行なわれておりますが、印刷文化の中心地といえる東京にはこれを現わす何もなく、早くから記念碑の建設、あるいは催しが計画されていましたが、なかなか実現するまでに至りませんでした。
本木昌造銅像 長崎諏訪公園
大阪四天王寺内 本木昌造銅像「日本鋳造活字始祖」

谷中霊園 平野富二墓標前。掃苔会。 大阪四天王寺本木昌造銅像
上) 長崎市諏訪公園の広場にある『本木昌造翁像』
下) 大阪市四天王寺境内にある『本木氏昌造翁紀年碑』。台座には何礼之(ガ-レイシ 1840-1923)による撰文、吉田晩稼(1830-1907)の筆になる勇壮な大楷書による碑文が刻されている。台座の篆書は『日本鋳造活字始祖』とある。東京谷中霊園にある『平野富二墓』も、吉田晩稼の筆による。

長崎の『本木昌造翁像』は、戦前に座像の銅像として建立されたが、時局下の金属供出令で失ったものを、戦後に再建した。幸い戦前の座像の成形鋳型が保存されていたので、「本木昌造活字復元プロジェクト」に際し、印刷博物館によって再鋳造されて披露された。

大阪四天王寺の『本木氏昌造翁紀年碑』も、明治後期に建造されたが、やはり時局下の金属供出例で、台座をのこして1943年(昭和18)に失われた。1952年(昭和27)「本木先生頌徳記念碑」が再建され、さらに1985年(昭和60)に「大阪府印刷工業組合」と、築地の『活字発祥の碑』とおなじ「全日本活字工業会」が中心となって奔走して、現在の士装の旅姿の立像に戻った。(『本木昌造先生銅像復元記念誌』大阪府印刷工業組合 昭和60年9月30日)。

本木昌造先生銅像復元記念誌

こうした中にあった、活字発祥の源である東京築地活版製作所の建物が、昭和44年[1969]3月取壊わされることになり、[同社の]偉大なる功績を[が]、この建物と共に失われていく[ことを危惧する]気持ちをいだいた人が少なくなかったようであります。

たまたま牧治三郎氏が、全日本活字工業会の機関誌である『活字界 第21号(昭和44年5月発行)と、第22号(昭和44年7月発行)に、「[東京築地活版製造所  旧]社屋取壊しの記事」を連載され、これが端緒となって、何らかの形で[活字発祥の地を記念する構造物を]残したいという声が大きくなってきたのです。

ちょうどこの年[昭和44年、1969]は、本木昌造先生が長崎において、上海の美華書館、活版技師・米国人ウイリアム・ガンブル氏の指導を受けて、電胎母型により近代活字製造法を発明[活字母型電鋳法、電胎法活字母型は、すでにアメリカで開発されものを移入したもので、わが国の、あるいは本木昌造の発明とはいいがたい]してから100年目にあたる年でもありました[ガンブルの滞在期間には諸説ある。長崎/本木昌造顕彰会では、興善町唐通事会所跡(現・長崎市市立図書館脇)の記念碑で、明治2年(1869)11月-翌3年5月の半年あまりの間に、ここで伝習がおこなわれたとする。したがってこの年はたしかに伝習後100年にあたった]。

この年[昭和44年、1969]の5月、箱根で行なわれた全日本活字工業会総会の席上、当時の理事・津田太郎氏[1908-不詳]から、[『活字界 第21号(昭和44年5月発行)、第22号(昭和44年7月発行)[5月の時点では予定稿か]、「[東京築地活版製造所  旧]社屋取壊しの記事」と予定稿をうけて]東京築地活版製造所跡の記念碑建設についての緊急提案があり、全員の賛同を得るところとなりました。

その後、東京活字協同組合理事長(当時)渡辺初男氏は、古賀[和佐雄]会長、吉田[市郎、全国活字工業会東京]支部長、津田[太郎]理事らと数回にわたって検討を重ね、記念碑建設については、ひとり活字業界だけで推進すべきではないとの結論に達し、全日本印刷工業組合連合会、東京印刷工業会(現印刷工業会)、東京都印刷工業組合の印刷団体に協賛を要請、[それら諸団体の]快諾を得て、[活字鋳造販売業者と印刷業者の]両業界が手をとりあって建設へ動き出すことになったのです。

そして[昭和44年、1969]8月13日、土地の所有者である株式会社懇話会館へ、古賀[和佐雄]会長、津田[太郎]副会長、渡辺[初男]理事長と、印刷3団体を代表して、東印工組[東京都印刷工業組合]井上[計ケイ のち参議院議員 民社党 → 新進党 1919-2007]副理事長が、八十島[耕作]社長に、記念碑建設についての協力をお願いする懇願書をもって会談、同社長も由緒ある東京築地活版製造所に大変好意を寄せられ、全面的なご了承をいただき、建設への灯がついたわけです。

翌昭和45年[1970]6月、北海道での全日本活字工業会総会で、記念碑建設案が正式に賛同を得、7月20日の理事会において、発起人および建設委員を選出、8月21日第1回の建設委員会を開いて、建設へ本格的なスタートを切りました。

同委員会では、建設趣旨の大綱と、建設・募金・渉外などの委員の分担を決めるとともに、募金目標額を250万円として、まず、岡崎石工団地に実情調査のため委員を派遣することになりました。

翌昭和45年[1970]9月、津田[太郎]建設委員長、松田[友良]、中村[光男 中村活字店]、後藤[孝]の各委員が岡崎石工団地におもむき、記念碑の材料および設計原案などについての打ち合わせを行ない、ついで、9月18日、第2回の委員会を開いて建設大綱などを決め、業界報道紙への発表と同時に募金運動を開始、全国の印刷関連団体および会社、新聞社などに趣意書を発送して募金への協力を懇請しました。

同年末、懇話会館に記念碑の構想図を提出しましたが、その後建設地の変更がなされたため、同原案図についても再検討があり、[新]懇話会館のビルの設計者である日総建の国方[秀男]氏によって、ビルとの調和を考慮した設計がなされ、1月にこの設計図も完成、建設委員会もこれを了承して、正式に設計図の決定をみました。新しい設計は、当初2枚板重ね合わせたものであったのを1枚板とし、その中央に銅鋳物製の銘板を埋め込むことになりました。

また、表題は2月4日の理事会で「活字発祥の碑」とすることに決まり、碑文については毎日新聞の古川[恒ヒサシ、技術部 1910-86]氏の協力を得、同社[毎日新聞社]田中会長に2案を作成して、その選定を依頼、建立された記念碑に掲げた文が決定したわけです。

なお、表題である「活字発祥の碑」の文字については、書体は記念すべき築地活版の明朝体を旧書体[旧字体]のまま採用することとしましたが、これは35ポイントの[活字]見本帳(昭和11年改訂版)[東京築地活版製造所が35ポイントの活字を製造した記録はみない。36ポイントの誤りか?]で、岩田母型[元・岩田活字母型製造所の残存会社のことか。岩田母型製造所は業績不振のために、すでに1968年(昭和43)に倒産していた]のご好意によりお借りすることができたものです。

また、記念碑は高さ80センチ、幅90センチの花崗岩で、表題の「活字発祥の碑」の文字は左から右へ横書きとし、碑文は右から左へ縦書きとし、そのレイアウトについては、大谷デザイン研究所・大谷[四郎・故人。日本レタリング協会 → 現:日本タイポグラフィ協会の創立者。羽衣(リョービ → タイプバンク)、曲水、千草などの書体をのこした]先生の絶大なご協力をいただきました。

ありし日の志茂太郎『活字発祥の碑』の建立に際し、西部地区(岡山)から個人の資格で、ただひとり拠金した志茂太郎を紹介したい。
活字と書物を愛しぬいた「漢」おとこ、志茂太郎(1900-80)。戦前は中野区で伊勢元酒店を経営するかたわら、個人出版社「アオイ書房」をもうけて、愛書誌『書窓』シリーズをはじめ、フォトティポ手法による『サボテン島』、民間出版物では最初期での使用例、写真植字法 → オフセット平版印刷による『夏の手紙』、本格銅版印刷の
『地上の祭』などの記録にのこる書物をのこした。
時局下の「変体活字廃棄運動」に猛然と抵抗し、東京をおわれて郷里の岡山県久米南町山城 クメナンチョウ-ヤマノジョウ にもどった。

戦後は志茂の造語「書票」をもって「書票協会」を設立して活動をつづけた。友人には「岡山の田舎で肥桶を担いでいる」としたためていたが、実際には東京田園調布にも当時から屋敷を構えるほどの資産家でもあった。この書票協会はのちの雑誌『銀花』につらなった。
宏大な山城ヤマノジョウにはいまも番地は無く、あたり一帯が志茂家の所有であった。その一画、志茂家墓地に、晩夏に大輪の花を一斉につけるトロロアオイの花【リンク:朗文堂-好日録032 火の精霊サラマンダーウーパールーパーと、わが家のいきものたち】につつまれてねむる(『活字に憑かれた男たち』片塩二朗、朗文堂)。

かつて山城の旧志茂邸(現在は住居部分は取り壊されている)をたずねたおり、再訪を10月初旬の早朝にもう一度……と、同家をあずかる志茂公子氏に慫慂された。その再訪時には、墓地一面にトロロアオイの花が絢爛と咲きほこっていた。それ以来やつがれはベランダ野艸園でトロロアオイを育てつづけている。
ことしは気候が不順だったためか、下掲の写真の花は2013年10月6日に開花したが、もう一鉢は間もなく開花しそうな勢いである。活字と書物に真摯にとり組み、この花を愛でた志茂太郎のこころがおもいおこされる季節である。
晩夏に大輪の花をつけるアオイ
岡山県久米南町山の城、志茂家専有墓地にある志茂太郎の墓地。
一方、建設基金についても、全国の幅広い印刷関連業界の団体および会社と、個人[p20-21 「建設基金協力者御芳名」によると、個人で基金協力したのは東部地区/中村信夫・古川恒・手島真・牧治三郎・津田藤吉・西村芳雄・上原健次郎、西部地区/志茂太郎 計8名]からもご協力をいただき、目標額の達成をみることができました。誌上を借りて厚くお礼を申しあげます。なお、協力者のご芳名は、銅板に銘記して、碑とともに永遠に残すことになっております。

こうして建設準備は全て整い、銘板も銅センターの紹介によって菊川工業に依頼、この5月末に完成、いよいよ記念碑の建設にとりかかり、ここに完成をみたわけであります。

名古屋・津田三省堂 右)初代津田伊三郎(在米中のもの)、左)二代津田太郎名古屋の活字商:津田三省堂 右)創業者:津田伊三郎(在米中に撮影 1869-1942)、左)第2代:津田太郎(1908-不詳)。津田太郎の従兄弟イトコにして養女:津田幸子氏提供。

なお、建設委員会発足以来委員長として建設へ大きな尽力をされました津田太郎氏が、この4月に全日本活字工業会長の辞任と同時に[高齢のため、『活字発祥の碑』建設委員会委員長の職も]退任されましたが、後任として5月21日の全国総会で選任されました、渡辺宗助会長[民友社活字製造所代表]が[『活字発祥の碑』建設]委員長を継承され、つつがなく除幕式を迎えることができました。

私ども[活字発祥の碑建設]委員会としては、この記念碑を誇りとし、精神的な支えとして、みなさんの心の中にいつまでも刻みこまれていくことを祈念しております。また、こんご毎年なんらかの形で、碑前祭を行ないたいと思っております。
最後に重ねて「活字発祥の碑」建立へご協力いただきましたみなさま方に、衷心より感謝の意を表する次第であります。

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パンフレット『活字発祥の碑』から、簡潔にして要を得た「活字発祥の碑建設のいきさつ」を紹介した。
また、この『活字発祥の碑』序幕の時点では、長らく活字工業会の重鎮として要職にあった、株式会社千代田活字製造・古賀和佐雄(1898-1979)は、渉外委員としてだけ名をのこしている。
戦後まもなく、欧文活字の開発から急成長し、東京活字協同組合をリードしてきた、株式会社晃文堂・吉田市郎(1921-)は、すでにオフセット平版印刷機製造と、当時はコールド・タイプと称していた、写植活字への本格移行期にはいっていた。

そのために吉田市郎は活字発祥の碑建設委員会では建設委員主任として名をのこしていた。吉田氏は戦後に欧文活字の鋳造からスタートしたために、造形界にも知人が多かった。したがって『活字発祥の碑』碑文を、東京築地活版製造所の活字見本帳を参考に書した大谷四郎を起用したのは吉田市郎であり、ここまでの筆者の記述をよく助けてもいただいた。
また、全日本印刷工業組合連合会専務理事、全国中小企業団体中央会理事などを歴任して、のちに参議院議員となった井上  計(1919-2007)、印刷業界誌出身の編集者:三浦  康氏(生没年不詳)なども、みな吉田市郎氏からの紹介であった。
これらのひとの口の端から漏れでたことばを、ひとつひとつ牧治三郎と筆者はかたりあってきた。

若き日の吉田市郎氏

活版印刷にツキせぬ愛着をお持ちの吉田市郎氏吉田市郎氏(1921-2014)。上) リョービ印刷機販売社長時代の吉田市郎氏。
下) アダナプレス倶楽部《活版ルネサンス》にご来場時のもの。
新潟県出身。名古屋高等商業学校(現名古屋大学経済学部)卒業。卒業後三井物産に就職したが、まもなく召集されて軍役につく。
召集解除後まもなく、神田鍛冶町に「晃文堂」を設立し、1970年代に広島の菱備製作所と合弁で「リョービ印刷機販売 → リョービイマジクス」を設立してその社長、会長としてながらく経営にあたった。タイポグラフィ学会「平野富二賞」を受賞している。

現在は悠悠自適の日日を過ごされているが、やつがれが頭の上がらないおひとりが吉田市郎氏である。

つまり、古賀和佐雄・吉田市郎らの、高学歴であり、事業所規模も比較的大きな企業の経営者は、活字鋳造界の衰退を読み切って、すでに隣接関連業界への転進をはかる時代にさしかかっていたのである。これを単なる世代交代とみると、これからの展開が理解できなくなる。

また11ヶ月にわたったこの「活字発祥の碑」建立のプロジェクトには、活字鋳造販売業界、印刷業界の総力を結集したとされるが、奇妙なことに、ここには活字鋳造所とは唇歯輔車 シンシホシャ の関係にある、活字母型製造業者の姿はほとんどみられない。
その主要な原因は既述したが、いわゆる日本語モノタイプ(自動活字鋳植機)などの急速な普及にともない、活字母型製造業者が過剰設備投資にはしったツケが生じ、業績が急速に悪化し、すでに昭和43年(1968)、活字母型製造業界の雄とされた株式会社岩田活字母型製造所が倒産し、同社社長・岩田百蔵が創設以来会長職を占めていた「東京活字母型工業会」も、事実上の破綻をきたしていたためである。

連載1回目で、吉田市郎のことばとして紹介した、
「われわれは、活字母型製造業者の冒した誤りを繰りかえしてはならない」
としたのがこれにあたる。
ただし岩田活字母型製造所は倒産したものの、各支店がそれぞれ、ほそぼそながらも営業を続けていた。したがって活字母型製造業者は、かつての「東京活字母型工業会」ではなく、「東京母型工業会」の名称で、わずかな資金を提供した。
また、旧森川龍文堂・森川健一が支店長をつとめた「岩田母型製造所大阪支店」は、本社の倒産を機に分離独立して、大阪を拠点として営業をつづけた。同社は「株式会社大阪岩田母型」として、単独で資金提供にあたっていた。

『活字発祥の碑』
「活字発祥の碑」完成 盛大に除幕式を挙行

『活字界 30号』(全日本活字工業会広報委員会 昭和46年8月15日)

ここからはふたたび、全日本活字工業会機関誌『活字界』の記録にもどる。
建碑とその序幕がなったあとの『活字界 30号』(昭和46年8月15日)には、本来ならば華やかに「活字発祥の碑」序幕披露の報告記事が踊るはずであった。

しかし同号はどこか、とまどいがみえる内容に終始している。
肝心の「活字発祥の碑」関連の記事は「活字発祥の碑完成、盛大に除幕式を挙行」とあるものの、除幕式の折の驟雨のせいだけではなく、どことなく盛り上がりにかけ、わずかに見開き2ページだけの簡単な報告に終わっている。

それだけではなく、次の見開きページには、前会長・古賀和佐雄の「南太平洋の旅――赤道をこえて、南十字星きらめくシドニーへ、時はちょうど秋」という、なんら緊急性を感じさせない旅行記を、2ページにわたってのんびりと紹介している。

そして最終ページには《「碑」建設委員会の解散》が、わずか15行にわたって記述されている。
この文章はどことなく投げやりで、いわばこの事業に一刻も早くケリをつけたいといわんばかりの内容である。

《「活字発祥の碑」完成 盛大に除幕式を挙行》

《リード》
「活字発祥の碑」除幕式が、[昭和46年 1971]6月29日午前11時20分から、東京・築地の建立地[東京都中央区築地2丁目13番22号、旧東京築地活版製造所跡地]において行なわれた。この碑の完成によって、印刷文化を支えてきた活字を讃える記念碑は、長崎の本木昌造翁銅像、大阪の記念碑を含めて三体となったわけである。中心となって建立運動を進めてきた全日本活字工業会、東京活字協同組合では、今後毎年記念日を設定して碑前祭を行なうなどの計画を検討している。

 《本文》
小雨の降る中、「活字発祥の碑」除幕式は、関係者、来賓の見守るうちに、厳粛にとり行なわれた。
神官の祝詞奏上により式は始まり、続いて築地活版製造所第4代社長、野村宗十郎氏の令息雅夫氏のお孫さん・野村泰之君(10歳)が、碑の前面におおわれた幕を落とした。

 拍手がひとしきり高くなり、続いて建設委員長を兼ねる渡辺[宗助]会長、松田[友良]東活協組理事長、印刷工業会・佐田専務理事(室谷会長代理)、株式会社懇話会館・山崎[善雄]社長がそれぞれ玉串をささげた。こうして活字および印刷業界の代表者多数が見守る中で、印刷文化を支えてきた活字を讃える発祥の記念碑がその姿をあらわした。
参列者全員が御神酒で乾杯、除幕式は約20分でとどこおりなく終了した。

 《「碑」建設委員会の解散》 最終ページp.8に全15行で、ちいさく紹介されている。
発祥の碑建設委員会は[昭和]45年8月に第1回目の会合を開き、それから約11ヶ月にわたって、発祥の碑建設にかかるすべての事業を司ってきたが、7月13日コンワビルのスエヒロで最後の会合を持ち解散した。

最後の委員会では、まず渡辺[宗助]委員長が委員の労をねぎらい、「とどこおりなく完成にこぎつけることができたのは、ひとえに業界一丸となった努力の賜である」と挨拶。
引き続き建設に要した収支決算が報告され、また今後の記念碑の管理維持についての討議、細部は理事会において審議されることになった。

もともと華やかであるべき「活字発祥の碑」の除幕式が、こうなってしまった原因は、驟雨の中で執り行われた除幕式の人選であった。
神主に先導され、東京築地活版製造所第四代社長の子息、野村雅夫氏夫妻と、同氏の弟の服部茂氏がまず登場した。この光景を多くの参列者は小首をかしげながらみまもった。
そしてあどけない挙措で序幕にあたったのは、野村宗十郎の曾孫ヒマゴ、泰之(当時10歳)であった。
その介添えには、終始牧治三郎がかいがいしくあたっていた。

おりからの驟雨のなか、会場に張られたテントのなかで、東京築地活版製造所第四代代表、野村宗十郎の曾孫・野村泰之少年がまだ幼さののこる表情で幕を切って落とした。その碑面には以下のようにあった。ふたたび、みたび紹介する。

特集/記念碑の表題は「活字発祥の碑」に

『活字界 第28号』 全日本活字工業会 昭和46年3月15日)


昨年[1970年 昭和45]7月以来、着々と準備がすすめられていた、旧東京築地活版跡に建設する記念碑が、碑名も「活字発祥の碑」と正式に決まり、碑文、設計図もできあがるとともに、業界の幅広い協力で募金も目標額を達成、いよいよ近く着工することとなった。

建設委員会は懇話会館に、昨年末、記念碑の構想図を提出、同館の設計者である、東大の国方博士によって再検討されていたが、本年1月8日、津田[太郎]建設委員長らとの懇談のさい、最終的設計図がしめされ、同設計に基づいて本格的に建設へ動き出すことになったもので、同碑の建設は懇話会館ビルの一応の完工をまってとりかかる予定である。

碑文については毎日新聞社の古川[恒]氏の協力により、同社田中社長に選択を依頼して決定をみるに至った。
───────
除幕式の会場となったテントのあちこちで漏れた囁きは、しだいに波紋となって狭い会場を駆け巡った。
参列者の一部、とりわけ東京築地活版製造所の元従業員からは憤激ももれていた。
その憤激の理由は簡単であり単純である。除幕された碑面には野村宗十郎の「の」の字もなかったからである。前述のとおり、この碑文は毎日新聞・古川恒の起草により、同社田中社長が決定したものであった。
当然重みのある意味と文言が記載されていたのである。

式典を終え、懇親会場に場を移してからも、あちこちで、
「野村さんの曾孫ヒマゴさんが序幕されるとは、チョット驚きましたな」
という声がひめやかに囁かれ、やがて蔽いようもなく、
「なんで東京築地活版製造所の記念碑の除幕が野村家なんだ。創業者で、碑文にも記載されている平野家を呼べ!」
という声がさざ波のように拡がっていった。
そんななか、牧治三郎だけは活字鋳造業界には知己が少なかったため、むしろ懇話会の重鎮 ―― 銅線会社の重役たちと盃を交わすのに忙しかったのである。
そんな光景を横目にした活字界と印刷界の怒りは激しいものがあった。除幕式と祝賀会には、初代文化庁長官・今 日出海(1903-84)も出席していたが、  どこか険悪な雰囲気のまま、はやばやと終了した。

     

左) 平野    富二  1846-92   (弘化3年8月14日-明治25年12月3日)
右) 野村宗十郎  1857-1925 (安政4年5月4日-大正14年4月23日)

 《『活字界』編集長、中村光男の再挑戦》
なにごとによらず、うたげのあとには、虚しさと虚脱感がおそうものである。
ところが意欲家の中村光男氏は、建碑がなったのち、ふたたび全日本活字工業会広報委員長の立場にもどって、同会機関誌『活字界』を舞台に、「活字発祥の碑」を巡って、それまであまり意識してこなかった、活字鋳造の歴史と背景を、調査、記録することにつとめることになった。
すなわち、歴史をひもとき、それに学び、ゆくかたをかんがえるゆとりができたともいえる。

また東京築地活版製造所設立者の平野富二にとっては、『活字発祥の碑』の序幕が、かつての部下だった野村宗十郎一家によってなされても、さしてこだわりは無かったのではないかともおもうことがある。
平野富二とは、維新以降は士籍を捨てて、平然と「長崎縣平民」と名乗っていたし、歿後に従五位を追贈されているが、一門にも、当時の従業員も、さしてそれを喜んだふうはない。どうやら平野富二とは、そういう毀誉褒貶や些事に拘泥することがすくなかったひとではなかったかとかんがえている。

これ以後は、牧治三郎にかわって、毎日新聞技術部の古川恒が、なにかと中村光男氏を支援することになった。そして古川恒の紹介を得た中村光男氏が、芝白金の平野家をたづねることになった。
ここで、ながらく封印されていた「平野富二首証文」の伝承が、嫡孫の平野義太郎から直接あかされることになった。

これに驚愕した中村光男氏は、序幕からちょうど一年後、1972年(昭和47)6月29日再度神官をまねき、「活字発祥の碑 碑前祭」を挙行することとした。その列席者は、関連諸団体の幹部はもとより、一般人まで参列し、除幕式当日より列席者が多いという盛況を呈することとなった。もちろん、今回は東京築地活版製造所設立者、平野富二の嫡孫が主賓ということと、「平野富二首證文」のうわさは、活字鋳造界だけでなく、印刷界にもひろまっていたためである。

「活字発祥の碑 碑前祭」には、平野家一門のうち、嫡孫・平野義太郎と、その実子[曾孫にあたる。義太郎は一女五男をなしているが、現在ではそのうちのたれが列席したかは不明]を主賓として招いて、平野義太郎に「挨拶」を懇請した。
この「活字発祥の碑 碑前祭 挨拶」をもとに、中村光男は原稿をおこし、平野義太郎もそこに手を入れたとみられるが、『活字界 第34号』(昭和47年8月20日)に「平野義太郎 挨拶 ―― 生命賭した青雲の志」と題して、「平野富二首証文」の談話記事を掲載することとなる。
相当おもい気分でいるが、その紹介と考察は次回にゆずりたい。

そして「活字発祥の碑」の序幕にあたった、野村宗十郎の子息、野村雅夫氏とその一家は、まったく邪心の無い人物であり、なにも知らず、ただ牧治三郎に利用されただけだったことが、除幕式から五ヶ月後、『活字界 第31号』(昭和46年11月5日)に以下の記事が掲載され、いつのまにか活字業界人の記憶から消えていった。
平野家の記録
上左)  平野富二  中)  平野義太郎、一高時代、母:平野鶴類 ツル とともに(1916年)
下)  平野義太郎、東大法学部助教授就任のとき
『平野義太郎 人と学問』(同誌編集委員会 大月書店 1981年2月2日)より

平野富二とふたりの娘。向かって左・長女津類 ツル、右・次女幾み キミ (平野ホール藏)

活字発祥の碑除幕式に参列して=野村雅夫

『活字界 第31号』(全日本活字工業会広報委員会 昭和46年11月5日)

《活字発祥の碑除幕式に参列して=野村雅夫》
このたび[の]活字発祥の碑が建設されつつあることを、私は全然知りませんでした。ところが突然、西村芳雄氏、牧治三郎氏の御紹介により、全日本活字工業会の矢部事務局長から御電話がありまして、文昌堂の渡辺[初男]会長と、事務局長の御来訪を受け、初めて[活字発祥の碑の]記念碑が建設されることを知りました。
そして6月29日午前11時より除幕式が行われるため是非出席してほしいとのお言葉で、私としても昔なつかしい築地活版製造所の跡に建設されるので、僭越でしたが喜んでお受けした次第です。何にも御協力出来ず誠に申し訳なく存じております。

なお、除幕式当日の数日前には御多忙中にも拘わらず、渡辺[宗助]建設委員長まで御来訪いただき感謝致しております。当日は相憎[生憎]の雨天にも拘わらず、委員長の御厚意により車まで差し回していただき恐縮に存じました。除幕式には私共夫妻と、孫の泰之それに弟の服部茂が参列させていただき、一同光栄に浴しました。

式は間もなく始まり30分程度にてとどこおりなく終了しましたが、恐らく築地活版製造所に勤務された方で現在[も健在で]おられる方々はもちろんのこと、地下に眠れる役職員の方々も、立派な記念碑が出来てさぞかし喜んでおられることと存じます。
正午からの祝賀パーティでは、殊に文化庁長官[今日出海]の祝詞の中に、父の名[野村宗十郎]が特に折り込まれて、その功績をたたえられたことに関しては、唯々感謝感謝した次第です。

雨もあがりましたので、帰途再び記念碑のところに参りましたら、前方に植木が植えられ、なおいっそう美観を呈しておりました。
最後に全日本活字工業会の益々御発展を祈ると共に、今後皆様の御協力により永久に記念碑が保存されることを希望してやみません。

平野富二と活字*01 『活字界』と「活字発祥の碑」

「活字発祥の碑」をめぐる諸資料から
機関誌『活字界』と、パンフレット『活字発祥の碑』

平野富二肖像写真(平野ホール藏)

平 野  富 二 (1846.8.14-92.12.3,  弘化3-明治25)
(平野ホール所蔵)

『活字発祥の碑』

《活字発祥の碑とは …… 》
この『活字発祥の碑』は、旧住所表記 : 築地二丁目万年橋東角二十番地、現住所 : 東京都中央区築地1-12-22、コンワビルの敷地内、東南の一隅にある。


1872年(明治5)7月、長崎から上京してきた平野富二(1846.8.14-92.12.3)らは、神田佐久間町三丁目門長屋に「長崎新塾出張東京活版所」の仮工場を設けて活字版製造事業をはじめたが、たちまち狭隘となった。

そのため平野富二は、活字製造にとどまらず、活版印刷機と関連機器の製造をめざして、本工場設立のための適地をもとめ、翌1873年(明治6)7月、前年の大火によって焼亡地となっていた「京橋区築地二丁目万年橋東角二十番地」に、土地取得代金1,000円とあわせ、都合金3,000円を投じて本格工場を設けることとなった。
すなわち、翌1873年(明治6)7月、旧住所表記 : 築地二丁目万年橋東角二十番地、現住所 : 東京都中央区築地1-12-22にもうけた本社工場が、のちの東京築地活版製造所となった。

このあたり一帯に、平野富二による東京築地活版製造所本社工場と、それに隣接して平野家住居の建築がはじまり、数次にわたる造改築をかさねながら、東京築地活版製造所の本社工場として、創業から66年の歴史を刻み、1938年(昭和13)に唐突に清算解散した。
したがってわが国の活字版印刷術(タイポグラフィ)と、活字版印刷士(タイポグラファ)にとっては、この地は記念すべき「印刷文化の源泉の地」とされる場所である。

この「印刷文化源泉の地」と、東京築地活版製造所設立者・平野富二を顕彰するために、1969年(昭和44)全日本活字工業会が中心となって、牧治三郎(戦前の印刷業者の各種組合の書記を重任。印刷材料商、印刷史研究家。1900-2003)による建碑の提唱から、わずかに11ヶ月という短期間をもって、当時の印刷界の総力をあげて記念碑「活字発祥の碑」が建立された。

「活字発祥の碑」には、毎日新聞技術部・古川恒(フルカワ-ヒサシ 1910-86)の撰文によって、以下の文言が刻まれた。
次第にあきらかになるとおもうが、ここには俗にいう「本木昌造活字・活版印刷創始」説につらなる文言はまったく無い。

活 字 發 祥 の 碑
明治六年(1873)

平野富二がここ
に長崎新塾出張
活版製造所を興
し後に株式會社
東京築地活版製
造所と改稱日本
の印刷文化の源
泉となった

本2013年(平成25)は、平野富二がこの地に東京築地活版製造所を創立してから140年、記念すべき年にあたる。

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『活字発祥の碑』 編纂・発行/活字の碑建設委員会
昭和46年06月29日 B5判 28ページ 針金中綴じ
表紙1-4をのぞき 活字版原版印刷
『活字発祥の碑』落成披露時に関係者に配布された。

『活字界』 1号-80号 合本。

『活 字 界』
発行/全日本活字工業会 旧在:千代田区三崎町3-4-9 宮崎ビル
創刊01号 昭和39年06月01-終刊80号 昭和59年05月25日
ほぼ隔月刊誌  B5判8ページ  無綴じ  活字版原版印刷

01号―40号/編集長・中村光男
41号―56号/編集長・谷塚  実
57号―75号/編集長・草間光司
76号―80号/編集長・勝村  章
編集長を交代後した昭和49年以後、中村光男氏は記録がのこる
昭和59年までは、
全日本活字工業会の専務理事を務めていた。
このころ筆者は吉田市郎氏の紹介を得て、事務局を数度訪問した。
────
『活字界』はパンフレット状の業界内に配布された機関誌で、残存冊子、なかんずく
全冊揃いはほとんど存在しないが、中村光男氏が2分冊に合本して保存されており、
それを個人が所有しているものを拝借使用した(返却済み)。


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★       ★       ★

一部に既発表の記事もふくむが、ここに「タイポグラフィ・ブログロール花筏」において、意をあらたに、またタイトルもあらためて、「平野富二と活字」と題して本稿を書きすすめたい。
本編(本章)は、おもに全日本活字工業会の機関誌『活字界』(昭和39-59年、全80号) と、同会発行のパンフレット 『活字発祥の碑』(同碑完成時に関係者に配布された。昭和46年) のふたつのメディアを往復しながらの記述になる。

《全日本活字工業会と、その業界誌としての小冊子『活字界』》
「平野富二と活字」第1回目の主要な登場人物は「株式会社中村活字店・第4 代代表 中村光男氏」 と、戦前における印刷業界情報の中枢、印刷同業組合の書記を永らく勤めて、当時67歳ほどであったが、すでに印刷・活字界の生き字引的な存在とされていた 牧  治三郎 である。

『活字界』 は1964年(昭和39)の創刊である。 編集長、のちに専務理事は、ながらく中村活字店第4代代表・中村光男氏がつとめていた。
『活字界』はB4判二つ折り、無綴じ二丁、すなわちB5判8ページの活字版原版印刷によるが、パンフレット様の小冊子であって、発行部数も当初は500部、後半になると200部ほどと少なく、残存部数、なかんずく80号にわたる全冊揃いはほとんど存在しない。
ところが幸い、中村光男氏が2分冊に合本して保存され、それを個人が所有していたものを拝借した。

この年は池田勇人内閣のもとにあり、経済界は不況ムードが支配していたが、東京オリンピックの開催にむけて、新幹線が東京―大阪間に開業し、首都高速道路の一部が開通し、東京の外環をぐるりとほぼ半円形に囲んだ4車線幹線道路、環状七号線が部分開通した、あわただしい年でもあった。

こんな時代を背景として、大正時代からあった「活字鋳造協会」と、戦時体制下の統制時代にあった「活字製造組合」を基盤として、全国の活字鋳造業者が集会をかさね、あらたな組織として「全日本活字工業会」に結集し、その機関誌 『活字界』 を発行したことになる。
───────
《活字自家鋳造と、活字自動鋳植機の普及 ── 活字母型製造業者の浮沈》
世相はあわただしかったが、活字製造に関していえば、大手から中堅の印刷所、大手新聞社などのほとんどは、見出し語などのわずかな活字をのぞき、活字を活字鋳造所から購入するのではなく、すでに自社内における「活字自家鋳造体制」になっていた。
それがさらに機械化と省力化が進展して、活字自動鋳植機 (文選・活字鋳造・植字組版作業を一括処理した半自動の組版機、いわゆる「日本語モノタイプ」の導入が大手企業を中心に目立ったころでもあった。

小池製作所KMTカタログ 1983年10月

小池製作所KMTカタログ表紙4、インテル鋳造機、活版清刷り期機小池製作所KMTカタログ 活字母型庫小池製作所のいわゆる日本語モノタイプ、「K.M.T. 全自動組版機」(1983年10月)カタログ。下段が活字母型庫の紹介であるが、書体、サイズの相違だけではなく、交換可能とはいえ、現実的には縦組み用と横組み用のために、活字母型の向きが異なる、ふたつの活字母型庫を設備する必要があった。
この「K.M.T. 全自動組版機」が2011年暮れまで稼働していた記録を下掲の動画でみることができる。筆者のしる限りこの「K.M.T. 全自動組版機」は現在2社が所有しているが、稼働しているのは1社のみとなっている。

活字自動鋳植機とは、初期の手動式写真植字機と同様に、導入機の数量と同数の、あるいは活字サイズ、活字書体ごとに、きわめて大量の「活字母型」を必要とした。
したがって組版業務の敏速化と省力化をめざして、活字母型自動鋳植機数十台を導入した新聞社や大手印刷所からは、一挙に、大量の「活字母型」の需要が発生した。

そのため、活字母型製造業者の一部は、それまでの「単母型 Foundry Type」にかえて、日本語モノタイプ導入企業から、瞬間的に膨大な数量の活字母型「Machine Type, 活字母型庫、活字母型盤、いわゆるフライパン」の需要がみられた。
そのために活字母型製造業者は、1950年(昭和25)国産化に成功して主流の技法となった、パンタグラフ理論にもとづく「機械式活字父型・母型彫刻機、いわゆるベントン彫刻機」を一斉に大量増設して、この需要に対処した。
ところが、その導入が一巡したのちは、奈落に突き落とされる勢いで需要が激減して、まず活字母型製造業者が設備過剰となって苦境に陥り、業界としての体をなさなくなっていた。
http://youtu.be/0uZYZi5l0QQ

いわゆる日本語モノタイプにおいて、「Machine Type, 活字母型庫、活字母型盤、いわゆるフライパン」が稼働している姿をのこした長瀬欄罫製作所の動画(朗文堂 アダナプレス倶楽部撮影)。
3分41秒とみじかいものであるが、前半部が小池製作所製の「KMT 日本語モノタイプ/活字自動鋳植機」である。後半部はおなじく小池製作所製「インテル鋳造機」。長瀬欄罫製作所は2011年年末をもって廃業した。

【 詳細 : 花筏 タイポグラファ群像*005  長瀬欄罫製作所/小池製作所を記録する 】

つまり活字鋳造所と、活字母型製造所とは、本来唇歯輔車の関係にあった。、すなわち手彫り直刻による活字母型製造時代にはほとんどが同一事業所であった。それが職能の違いから、次第に活字母型製造が独自に開業したものであったが、それでも表裏の関係にあった。
やがて活字母型製造所が、大手印刷所や新聞社の自家鋳造に対応するための活字母型を、活字鋳造所を経由しないで、独自に提供するようになって、活字鋳造所からの距離をおくようになっていた。

また新設がめだった「自動活字鋳植機」のための「活字庫、活字盤」を提供するために、活字母型製造業界をあげて活況を呈していたために、従来型の「活字単母型」と、ほぼその補充や修理を発注するだけになっていた活字鋳造所と、活字母型製造所との関係は、その原字権をめぐる紛争が頻発したことなどの影響もおおきくあって、きわめて微妙なものになっていたのである。

《まず活字母型製造所、続いて活字鋳造所の衰退を予見した吉田市郎氏の報告》
このようにおもに活字鋳造所が結集した「全日本活字工業会」をあげて、前途に漠然とした不安と、危機感をつのらせていた時代でもあった。 こんな業界の時代背景を「欧州を旅して」 と題して、株式会社晃文堂・吉田市郎氏が『活字界4号』 (昭和40年02月20日、5ページ)に寄稿しているので紹介しよう。
若き日の吉田市郎氏
「欧州を旅して」 ── 株式会社晃文堂 吉田市郎
活字地金を材料とした単活字[Foundry Type]や、モノタイプ、ルドロー、インタータイプ、ライノタイプなどの自動鋳植機による活字[Machine Type]を[鋳造による熱加工処理作業があるために] Hot Type と呼び、写植機など[光工学と化学技法が中心で 熱加工処理作業が無い方式]による文字活字を Cold Type といわれるようになったことはご存知のことと思います。

欧州においては、活版印刷の伝統がまだ主流を占めていますが、Cold Type に対する関心は急激に高まりつつあるようでした。[中略]

こうした状況は、私たち[日本の]活字業界の将来を暗示しているように思われます。私たちは[日本語モノタイプの導入が一巡したのちの]活字母型製造業界がなめたような苦杯をくりかえしてはなりません。このあたりで活字業界の現状を冷静に分析・判断して、将来に向けた正しい指針をはっきりと掲げていくべきではないでしょうか。

現在のわが国の活字製造業は幸いにもまだ盛業ですが、その間にこそ、次の手を打たねばなりません。したがって現在の顧客層の地盤に立って、文字活字を Hot Type 方式だけでなく、Cold Type 方式での供給を可能にすることが、わが活字業界が将来とも発展していく途のひとつではないかと考える次第です。

ここで吉田市郎氏が述べた、
「こうした状況は、私たち活字業界の将来を暗示しているように思われます。私たちは活字母型製造業界がなめたような苦杯をくりかえしてはなりません」
の一節が現代ではわかりにくいかもしれない。
前段でもすこしくその背景を記述したが、この状況を風景として捉えると、現代の急速に衰勢をみせ、苦境におちいったフォントベンダー(電子活字製造販売業者)と、ネットショップなどで独自販売ルートを開発し、ほとんどが小規模なタイプデザイナー(活字書体設計士)がおかれている状況にちかいものがあるようだ。

そこで、東京活字母型工業会の会長職を長年つとめ、活字母型製造界の雄とされた岩田母型製造所と、その代表・岩田百蔵のことをしるしてみたい。
岩田母型製造所は数百台におよんだ活字母型彫刻機の増設などが一気に過剰設備となり、この吉田氏の旅行記の掲載後、3年を待たずして倒産にいたった。

岩田百蔵氏写真54歳当時のもの

岩田百蔵
[『日本印刷人名鑑』(日本印刷新聞社、昭和30年11月5日)]
写真は54歳当時のもの。

埼玉県川越市相生町うまれ。川越尋常小学校卒。
1914年(大正3)堀活版母型製造所に徒弟として入所して斯業の技術を習得。
1920年(大正9)4月京橋区木挽町一丁目11に、実兄・岩田茂助とともに岩田母型製造所を創業。大正12年関東大地震により罹災。滝野川区西ヶ原に移転。大正15年大森区新井宿六丁目に移転。
太平洋戦争中は軍事協力工場として繁忙をきわめた。

1947年(昭和22)11月大森区新井宿六丁目6-2に移転。のち[大阪の活字鋳造所で、時局下の「変体活字廃棄運動」によって大半の活字母型を没収された、旧森川龍文堂・森川健一を取締役支店長として]大阪市西区京町堀通り一丁目16に岩田母型製造所大阪支社を設けた。
岩田母型製造所は業績不振のために1968年(昭和43)に倒産した。
株式会社岩田母型製造所取締役社長。東京活字母型工業会会長。1901-78年。享年77

その後、各地の支店や残存会社がよく経営を持続したが、2007年(平成19)3月残存会社のイワタ活字販売株式会社(代表取締役・鈴木廣子)の廃業にともなって、わが国は金属活字母型製造の一大拠点を失った。

こうした活字母型製造業、ひいては活字鋳造業が不振に陥る事態を予測していた吉田市郎氏の転進が、こんにちのプリプレスからポストプレスまでの総合印刷システムメーカーとしてのリョービ・グループの基礎を築くにいたった。
すなわち吉田氏は、かたくなに「活字 Type」を鋳造活字としてだけとらえるのではなく、金属活字 Hot Type から写植活字 Cold Type へ移行する時代の趨勢をはやくから読みとっていた。
そして1980年代からは、写植活字から電子活字 Digital Type への転換にも大胆に挑む柔軟性をもっていた。それでも吉田氏は全日本活字工業会の会員として、事実上同会が閉鎖されるまで、永らく会員のひとりとしてとどまり、金属活字への愛着をのこしていた。
───────
《印刷・活字業界の生き字引とされた牧治三郎》
『活字界』 には、創刊以来しばしば 「業界の生き字引き的存在」として 牧治三郎 が寄稿を重ねていた。
牧と筆者は20-15年ほど以前に、旧印刷図書館で数度にわたって面談したことがあり、その蔵書拝見のために自宅(中央区湊三丁目3-8-7)まで同行したこともある。
当時の牧治三郎はすでに高齢だったが、頭脳は明晰で、年代などの記憶もおどろくほどたしかだった。
下記で紹介する60代の写真の風貌とは異なり、鶴のような痩躯をソファに沈め、顎を杖にあずけ、度の強い眼鏡の奥から見据えるようにしてはなすひとだった。

そんな牧が印刷図書館にくると、
「あの若ケエノ?! は来てねぇのか……」
という具合で、当時の司書・佐伯某女史が
「古老が呼んでいるわよ……」
と笑いながら電話をしてくるので、取るものも取り敢えず駆けつけたものだった。

越後新潟出身の牧治三郎は、幼少のころから東京都中央区の活版工場で「小僧」修行をしていたが、
「ソロバンが達者で、漢字をよく知っていたので、いつのまにか印刷[同業]組合の書記になった」
と述べていた。また、
「昔は活版屋のオヤジは、ソロバンはできないし、簿記も知らないし……」
とも述べていた。すなわち牧治三郎は係数にきわめてあかるかった。

また牧は新潟県新発田市の出身で、郷里の尋常小学校を卒業して、12歳ほどから東京都中央区(東京府京橋区)の印刷所で徒弟としてはたらいた。のちに苦学生として日本大学専門部商科(夜間)を卒業したが、終生中央区周辺に居住してそのふるい街並みを好んでいた。
しかしその街並みを、ふるい呼称の「京橋区」と呼ぶことにこだわり、頑固なまでに「中央区」とはいわなかった。ただ牧の自宅があった湊三丁目周辺の、下町のおもかげをのこした景観は、バブル期からの「地上げ」などによって、現在はすっかりオフィスビルの立ちならぶ風景となり、おおきく変わっている。

寛永寺墓地。野村宗十郎の墓地。牧治三郎とは、東京築地活版製造所の第四代社長・野村宗十郎(1857-1925)の評価についてしばしば議論を交わした。
筆者が野村の功績は認めつつも、負の側面を指摘する評価をもっており、また野村がその功績を否定しがちだった東京築地活版製造所設立者、平野富二にこだわるのを、
「そんなことをしていると、ギタサンにぶちあたるぞ。東京築地活版製造所だけにしておけ」
とたしなめられることが多かった(『富二奔る』片塩二朗)。
ギタサンとは俗称で、平野富二の嫡孫、平野義太郎(ヨシタロウ、法学者、1897-1980)のことで、いずれここでも紹介することになる人物である。

なにぶん牧治三郎は1916年(大正5)から印刷同業組合の書記を長年にわたってつとめ、業界の表裏につうじており、まさに業界の生き字引のような存在とされていた。牧はかつて自身がなんどか会ったことがあるという野村宗十郎を高く評価して「野村先生」と呼んでいた。
したがって筆者などは「若ケエノ」とされても仕方なかったが、野村の功罪をめぐって、ときに激しいやりとりがあったことを懐かしくおもいだす。

しかし 「牧老人が亡くなった……」
と 風の便りが届いたとき、その写真はおろか、略歴をうかがう機会もないままに終わったことが悔やまれた。
牧治三郎の蔵書とは、ほとんどが印刷・活字・製本関連の機器資料と、その歴史関連のもので、書籍だけでなく、カタログやパンフレットのたぐいもよく収蔵していた。書棚はもちろん、床からうずたかく積みあげられた膨大な蔵書は、まさに天井を突き破らんばかりの圧倒的な数量であった。

これだけの蔵書を個人が所有すると、どうしても整理が追いつかず、当時の筆者が閲覧を希望した「活版製造所弘道軒」関連の資料は、蔵書の山から見いだせなかった。
そんなとき、牧治三郎は、
「オレが死んだらな、そこの京橋図書館に『治三郎文庫』ができる約束だから、そこでみられるさ」
と述べていた。どうやらそれは実現しなかったようで、蔵書は古書市場などに流出しているようである。

幸い「牧治三郎氏に聞く―― 大正時代の思い出」 『活字界15』(昭和42年11月15日)にインタビュー記事があった。当時67歳というすこしふるい資料ではあるが、牧治三郎の写真を紹介し、あわせて『京橋の印刷史』からその略歴を紹介したい。
     

牧  治 三 郎  まき-じさぶう
67歳当時の写真と、蔵書印「禁 出門 治三郎文庫」
1900年(明治33)―2003年(平成15)歿。

1900年(明治33)5月 新潟県新発田市にうまれる。
1916年(大正5)7月 東京印刷同業組合書記採用。
1923年(大正12)7月 日本大学専門部商科卒業。
以来、印刷倶楽部、印刷協和会、印刷同志会、東京印刷連盟会、大日本印刷業組合連合会、東京印刷協和会、東京洋紙帳簿協会、東京活字鋳造協会などの嘱託書記を経て、昭和13年7月退職。
京橋区(中央区湊三丁目3-8-7)で印刷材料商を自営。

〈印刷同業組合の事務局に1916年(大正5)7月以来長年にわたって勤務し、その間東京活字鋳造協会の事務職も兼務した。印刷同業組合書記職は時局が切迫した1938年(昭和13年)7月に退任した。筆者と面談していた1980年ころは、中央区湊三丁目で 活版木工品・罫線・輪郭など、活字版印刷資材の取次業をしていた〉
主著 /
「印刷界の功労者並びに組合役員名簿」(前章―7章担当) 『日本印刷大観』
(東京印刷同業組合 昭和13年)

連載「活版印刷伝来考」『印刷界』(東京都印刷工業組合)
『京橋の印刷史』(東京都印刷工業組合京橋支部 昭和47年11月12日)

牧の蔵書印は縦長の特徴のあるもので、「 禁 出門 治三郎文庫 」 とあり、現在も古書店などで、この蔵書印を目にすることがある。このように「禁 出門 治三郎文庫」の蔵書印を捺された資料が、滅却することなく、二次流通にまわっているのをみると、牧治三郎もって瞑すべしとおもわぬでもない。