紅蓮の火焔を怖れ、敬い、火焔から再生する鋳物
-活字鋳造-に執着した特殊技能者の心性
《ふしぎなビルディングがあった …… 》
このビルの敷地は、旧住所:京橋区築地二丁目万年橋東角二十番地、現住所:東京都中央区築地1-12-22 コンワビルが建つあたりにあって、長崎から上京してきた平野富二らによって、1873年(明治6)から建築がはじまり、数次にわたる増改築をかさねながら、東京築地活版製造所の本社工場として使用されてきたものである。
それが1921年(大正10)、当時の専務(東京築地活版製造所では社長職に相当)野村宗十郎(1857-1925)の発意によって、旧本社工場を取り壊しながら、その跡地に1923年(大正12)3月-9月にかけて、あたらしい本社工場として、順次竣工をみたものであった(現住所・東京都中央区築地1-12-22 コンワビル)。
1923年(大正12)関東大震災の寸前に竣工なった東京築地活版製造所の写真。
正門(左手前角)がある角度からの写真は珍しい。
このあたらしいビルは、地上4階、地下1階、鉄筋コンクリート造りの堅牢なビルで、いかにも大正モダン、アール・ヌーヴォー調の、優雅な曲線が特徴の瀟洒な建物であった。
ところがこのあたらしく建造されたビルは、竣工直後からまことに不幸な歴史を刻むことになった。
下世話なことばでいうと、ケチがついた建物となってしまったのである。
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《活字鋳造士/鋳物士の伝統と、独自の心性と風習》
もともと「活字 Type」とは、鋳型をもちいた鋳物の一種である。
明治初期の活字鋳造所や活字版印刷業者は、ほかの鍛冶や鋳物業者などと同様に、熔解釜や蒸気ボイラーなどの加熱に、木材・炭・石炭・骸炭(ガイタン コークス)などの裸火をもちいていた。
そこでは風琴に似た構造の「鞴 フイゴ」をもちいて風をつよく送り、火勢を強めて地金を溶解し、地金を鋳型に流し入れて「イモノ」をつくっていた。
フイゴはふつうの家庭では「火吹き竹」にあたるが、それよりずっと大型で機能もすぐれていた。
その裸火のために、鋳物工場や、活字鋳造所では、しばしば出火騒ぎをおこすことがおおく、硬い金属を溶解させ、さまざまな成形品をつくるための火を、玄妙な存在としてあがめつつ、火・火焔・火災を怖れること はなはだしかった。
ちなみに、大型の足踏み式のフイゴは「踏鞴 タタラ」と呼ばれる。このことばは現代でも、勢いあまって、空足カラアシを踏むことを「蹈鞴 タタラ を踏む」としてのこっている。
このタタラという名詞語は、ふるく、用明天皇(記紀にしるされた6世紀末の天皇。聖徳太子の父とされる。在位推定585-87)の『職人鑑』に「蹈鞴 タタラ 吹く 鍛冶屋のてこの衆」 としるされるほどで、とてもながい歴史がある。
つまりフイゴやタタラとは、高温の火勢をもとめて鋳物士(俗にイモジ)や鍛冶士が、とてもふるくからもちいてきた用具である。
そのために近年まではどこの活字鋳造所でも、火伏せの祭神として、金屋子 カナヤコ 神、稲荷神、秋葉神などを勧請 カンジョウ して、あさな、ゆうなに灯明を欠かさなかった。
また太陽の高度がさがることを、火の神の衰退とみて、昼がもっとも短くなる冬至の日には、ほかの鍛冶士や鋳物士などと同様に、東京築地活版製造所では「鞴 フイゴ 祭り」が、ほかの活字鋳造所でも「鞴 フイゴ 祭り、蹈鞴 タタラ 祭り」 を催し、一陽来復を祈念することが常だった。
すなわち東京築地活版製造所とは、総体としてみると、近代産業指向のつよい企業ではあったが、こと鋳造現場にあっては、「鋳物士」のふるい伝統とならわしを色濃くのこしていた。
現代では加熱に際して電熱ヒーターのスイッチをいれるだけになって、鋳造「工場」所などでも神棚をみることはほとんど無くなったが、刀鍛冶士の鍛造現場などでは、作業のはじまりには神事をもって作業にはいる習俗としてのこっている。
こうした習俗は、明治-大正期の東京築地活版製造所だけではなく、わずか30-40年ほど前までの活字鋳造業者、すなわちここで取りあげている全日本活字界の業界誌『活字界』が発行されていたときでも、不浄を忌み、火の厄災を恐れ、火焔を神としてあがめ、火伏せの神を信仰する、異能な心性をもった職能者であった。
かつて牧治三郎は、以下のようにしるし、以下のように筆者にかたっていた([ ]内は筆者による)。
東洋インキ製造会社の故小林鎌太郎社長が、野村宗十郎社長[専務]には遠慮して話さなかったが、当時の築地活版 [東京築地活版製造所]の重役で、 [印刷機器輸入代理店]西川求林堂の故西川忠亮氏に『新ビルの正門は裏鬼門だ』と話したところ、これが野村社長に伝わり、野村社長にしても、社屋完成早々の震災で設備一切を失い、加えて活字の売行き減退で、これを気に病んで死を早めてしまった。
「続・旧東京築地活版製造所社屋の取り壊し」(牧治三郎『活字界 22』昭和46年7月20日)
「西川求林堂の西川忠亮さんが指摘されるまで、東京築地活版製造所の従業員は、自社の新ビルの正門が,、裏鬼門、それももっとも忌まれる死門にあることを意識してなかったのですか」
「もちろんみんな知ってたさ。 とくにイモジ[活字鋳造工]の連中なんて、活字鋳造機の位置、火口 ヒグチ の向きまで気にするような験 ゲン 担ぎの連中だった。 だから裏鬼門の正門からなんてイモジはだれも出入りしなかった。
オレや[印刷同業]組合の連中だって、建築中からアレレっておもった。 大工なら鬼門も裏鬼門もしってるし、あんなとこに正門はつくらねぇな。 知らなかったのは、帝大出のハイカラ気取りの建築家と、野村先生だけだったかな」
「それで、野村宗十郎は笑い飛ばさなかったのですか」
「野村先生は、頭は良かったが、気がちいせえひとだったからなぁ。 震災からこっち、ストはおきるし、金は詰まるしで、それを気に病んでポックリ亡くなった」
こうしたイモノを扱う業者が、火を怖れあがめる風習は、わが国だけに留まる習俗では無い。中国の歴史上にはもちろん、現代のフランス国立印刷局にもそうした風習のなごりをみることができる。
欧州における中世の錬金術と、鋳造活字の創始には深い関連があるとされている。そのためか、フランスに本格的なルネサンスをもたらし、またギャラモン活字の製作を命じた フランス国王、フランソワⅠ世(François Ier de France, 1494-1547)の紋章と、パリの「フランス国立印刷局 Imprimerie Nationale」の紋章は、ともに「火の精霊」とされたサラマンダーである。
「火の精霊・サラマンダー」は、古代ローマ時代では、「冷たい躰をもち、たちまち炎を消してしまうトカゲ」、「炎をまとう幻のケモノ」とされ畏怖されていた。
やがてそれが錬金術師・パラケルスス(Paracelsus 1493? -1541)『妖精の書』によって、四大精霊(地の精霊・ノーム/水の精霊・ウンディーネ/火の精霊・サラマンダー/風の精霊・シルフ)のうち、火に属する精霊として定義された。
わが国では神秘性を帯びて「火喰い蜥蜴 ヒクイトカゲ」とあらわされることもあるが、即物的に「サンショウウオの一種」とされることもある。
さらにこの生物のアルビノ個体が、カップ麺のCMによって、ひろく「ウーパールーパー」として親しまれたために、サラマンダーの「火の精霊」「火喰い蜥蜴」としての奇っ怪な側面は知られることがすくない。
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《フランス国立印刷局における、火の精霊・サラマンダー》
朗文堂 アダナプレス倶楽部は2008年の年賀状において、ギャラモン活字をもちいて、
「我ハ育クミ 我ハ滅ボス Nutrisco et Extinguo」
と題して、サラマンダーを、鋳造活字の象徴的な存在として扱ったことがある。
ふり返ってみれば、わが国では鋳造活字と「火の精霊」サラマンダーに関する情報が不足気味のところに、いきなり年賀状として、
「汝は炎に育まれ 炎を喰らいつつ現出す 金青石[鉱石]は熱く燃え 汝に似た灼熱を喜悦する ── 火のなかの怪獣 サラマンダー ── アダナプレス倶楽部ではサラマンドラと表記している」の絵柄を送付したから、正月早早このはがきを受け取られたかたは、その奇っ怪さに驚かれたかたもいらしたようである。ちなみにここでいう「金青石 キンショウセキ」とは鉱石ないしは鉱物の意である。
我ハ育クミ 我ハ滅ボス Nutrisco et Extinguo
―― サラマンドラのごとく金青石は火によって生きる ――
灼熱の炎に育まれし サラマンドラよ
されど 鍛冶の神ヴルカヌスは 汝の威嚇を怖れず
業火の如き 火焔をものともせず
金青石もまた 常夜の闇の炎より生ずる
汝は炎に育まれ 炎を喰らいつつ現出す
金青石は熱く燃え 汝に似た灼熱を喜悦する
朗文堂 サラマ・プレス倶楽部 2008年01月
《わが国の鋳物士・活字鋳造者にみる火の神への信仰》
わが国でも、近年まではどこの鋳物士や活字鋳造所でも、火伏せの祭神として、金屋子 カナヤコ 神、稲荷神、秋葉神などを勧請 カンジョウ して、朝夕に灯明を欠かさなかった。
同様に太陽すなわち火の神がもっとも衰える冬至の日には、どこと活字鋳造所でも 「鞴 フイゴ 祭、蹈鞴 タタラ 祭」を催し、「一陽来復 ── 陰がきわまって陽がかえってくること」を祈念することが常だった。
すなわちわずか20―30年ほど前までの活字鋳造業者とは、火を神としてあがめ、不浄を忌み、火の厄災を恐れ、火伏せの神を信仰する 、異能な心性と、特殊な職能をもった職人集団の末裔であったことは忘れられがちである。
【詳細情報:花筏 朗文堂-好日録032 火の精霊サラマンダー ウーパールーパーとわが家のいきものたち】
それだけでなく、明治初期に勃興した近代活字鋳造業者は、どこも重量のある製品の運搬の便に配慮して、市街地中央部に工場を設置したために、類焼にあうこともおおく、火災にたいしては異常なまでの恐れをいだくふうがみられた。
ところで……、東京築地活版製造所の新社屋が巻き込まれたおおきな厄災とは、関東大地震にともなうものではあったが、おもには鋳物士らがもっとも忌み怖れる、紅蓮の火焔をもっておそった「火災」であった。
1923年(大正12)9月1日、午前11時53分に発生した関東大地震による被害は、死者9万9千人、行方不明4万3千人、負傷者10万人を数えた。 被害世帯も69万戸におよび、京浜地帯は壊滅的な打撃をうけた。
2011年(平成23)の東日本大震災が、地震にともなう津波による死傷者が多かったのにたいして、関東大地震では、ちょうど裸火をもちいていた昼時でもあり、火災による死傷者が目立ったことが特徴である。
このときに際して、東京築地活版製造所では、なんと、新社屋への本格移転を翌日に控えて テンヤワンヤの騒ぎの最中であった …… 。
津田 太郎(1908-不詳)
名古屋:津田三省堂第二代社長 全日本活字会会長などを歴任。
[写真:『日本印刷人名鑑』(日本印刷新聞社、昭和30年11月5日)より。当時59歳]
140年余の歴史を有する わが国の活字鋳造所が、火災・震災・戦災で、どれほどの被害を被ってきたのか、津田三省堂・第二代社長、津田太郎(名古屋在住。全日本活字会会長などを歴任。 1908-不詳)が「活版印刷の歴史 ―― 名古屋を中心として」と題して『活字界4号』(昭和40年2月20日) に報告しているので、該当個所を抜粋してみてみたい。最終部に「物資統制令・故鉛」ということばが出ている。これを記憶しておいてほしい。
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「活版印刷の歴史 ―― 名古屋を中心として」── 津田三省堂 津田太郎
『活字界4号』(昭和40年2月20日。 [ ]内は筆者による)
明治42年12月、津田伊三郎が名古屋で活字[取次販売]業を開始する。
最初は[それまでの名古屋の活字は大阪から導入していたが、津田伊三郎は東京の]江川活版製造所の活字を取次いだ[。ところ]が、たまたま同製造所がその前年に火災を罹り、水火を浴びた[ために熱変形を生じた、不良の]活字母型を使用したため 、活字[の仕上がりが] 不良で、評判[が]悪く、翌43年2月から、津田三省堂は東京築地活版製作所の代理店として再出発した。 -
明治42年、現在の鶴舞公園[愛知県名古屋市昭和区鶴舞一丁目。名古屋で最初に整備された公園]で共進会が開催せられ、印刷業は多忙を極めた。
この頃の印刷界は[動力が]手廻しか、足踏式の機械が多く、動力(石油発動機、瓦斯機関)が稀にあった程度で[あった。]
[四六判]8頁 [B4 サイズほど]の機械になると、紙差し、紙取り、人間動力=予備員という構成で(現代の人にこの意味が判るでしょうか)あったが、この頃から漸次電力時代に移ってきた。 -
活字界も太田誠貫堂が堂々手廻し鋳造機[ブルース型活字手回し鋳造機]5台を擁し、燃料は石炭を使用していた。その他には前述の盛功社が盛業中で、そこへ津田三省堂が開業した。
もっとも当時は市内だけでなく中部、北陸地区[を含めた商圏]が市場であり、後年に至り、津田三省堂は、津田伊三郎がアメリカ仕込み?の経営(コンナ言葉はなかったと思う)で、通信販売を始め、特殊なものを全国的に拡販した。五号活字が1個1厘8毛、初号[活字]が4銭の記憶である。
[現在では初号明朝体は1本800見当で販売されているので、明治末期にくらべると、およそ2千倍の価格となる。これは米価とほぼ等しい] -
取引きも掛売りが多く、「活字御通帳 カツジ-オカヨイチョウ」をブラ下げて、インキに汚れた小僧さんが活字を買いに来た。営業は夜10時迄が通常で、年末の多忙時は12時になることは常時で、現在から考えると文字通り想い出ばかりである。
活字屋風景として夜[になって]文撰をする時、太田誠貫堂は蔓のついたランプ(説明しても現代っ子には通じないことです)をヒョイと片手に、さらにその手で文撰箱を持って文字を拾う。 -
盛功社は進歩的で、瓦斯の裸火(これは夜店のアセチレン瓦斯の燃えるのを想像して下さい)をボウボウ燃やして、その下で[作業をし]、また津田三省堂は 蝋燭を使用(燭台は回転式で蠟が散らない工夫をしたもの)、間もなく今度は吊り下げ式の瓦斯ランプに代えたが、コレはマントル(説明を省く) [Gas Mantle ガス-マントルのこと。ガス灯の点火口にかぶせて灼熱発光を生じさせる網状の筒。白熱套とも]をよく破り、のちに漸く電灯になった。
当時は10燭光(タングステン球)であったが、暗いので16燭光に取り代えて贅沢だ!と叱られた記憶すらある。 -
当時の一店の売上げは最高で20円位、あとは10円未満が多かった。もっとも日刊新聞社で月額100円位であったと思う(当時の『新愛知』、『名古屋新聞社』共に[社内にブルース型]手廻し鋳造機が2―3台あり五号[本文用活字]位を[社内で]鋳造していた)。
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大正元年[1912]大阪の啓文社が支店を設け[たために、地元名古屋勢は]大恐慌を来したが、2―3年で[大阪に]引き揚げられた。またこのあと活字社が創業したが、暫く経て機械専門に移られた。
当時は着物前垂れ掛で「小僧」と呼ばれ、畳敷きに駒寄せと称する仕切りの中で、旦那様や番頭さんといっても1人か2人で店を切り廻し、ご用聞きも配達もなく至ってのんびりとしたものである。 -
大正3年(1914)、津田三省堂が9ポイント[活字]を売り出した。
名古屋印刷組合が設立せられ、組合員が68軒、従業員が551人、組合費収入1ヶ月37円26銭とある。
[大正]7年は全国的に米騒動が勃発した。この頃岐阜に博進社、三重県津市に波田活字店が開業した。 -
大正11年(1922)、盛功社[が取次だけでなく、名古屋でも]活字鋳造を開始。国語審議会では当用漢字2,113字に制限[することを]発表したが、当時の東京築地活版製造所社長野村宗十郎が大反対運動を起している。
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大正12年(1923)9月、東京大震災があり、新社屋を新築してその移転前日の東京築地活版製造所は、一物[も]残さず灰燼に帰す。
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大正14年(1925)秋、津田三省堂は鋳造機(手廻し[ブルース型手回し]活字鋳造機 6台)を設置[して関東大地震によって供給が途絶した活字販売を、みずからが鋳造業者となって]再起した。活字界の元老 野村宗十郎の長逝も本年である。
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大正15年(1925)、硝子活字(初号のみ)、硬質活字等が発表されたが、普及しなかった。
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昭和3年(1928)、津田三省堂西魚町[名古屋市西区]より、鶴重町[名古屋市東区]に移転。鉛版活字(仮活字[初号角よりおおきな文字を電気版で製造し、木台をつけて活字と同じ高さにして販売])を売り出す。
また当時の欧文活字の系列が不統一[なの]を嘆じ、英、仏、独、露、米より原字を輸入して100余種を発表した。 -
昭和5年(1930)1月、特急 “つばめ”が開通、東京―大阪所要時間8時間20分で、昭和39年(1964)10月の超特急[開通したばかりの新幹線のこと]は4時間、ここにも時代の変遷の激しさが覗われる。
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昭和5年(1930)、津田三省堂は林栄社の[トムソン型]自動[活字]鋳造機2台を新設、[ブルース型]手廻し[活字]鋳造機も動力機に改造して12台をフルに運転した。
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昭和6年(1931)、津田三省堂で宋朝活字[長体活字先行。もとは中国上海/中華書局聚珍倣宋版の活字書体を導入して、それを宋朝体と呼称したのは、津田伊三郎の命名による]を発売した。
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昭和8年(1933)、津田三省堂が本木翁の[陶製]胸像3,000余体を全国の祖先崇拝者[本木昌造讃仰者]に無償提供の壮挙をしたのはこの年のことである。
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昭和10年(1935)、満州国教科書に使用せられた正楷書[中国上海/漢文正楷書書局が元製造所とされるが、津田伊三郎はわが国の支配下にあった満州(中国東北部)から原字を入手した]を津田三省堂が発売した。当時の名古屋市の人口105万、全国で第3位となる[2012年226万人余]。
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昭和12(1937)年5月、汎太平洋博覧会開催を契機として、全国活字業者大会が津田伊三郎、渡辺宗七、三谷幸吉(いずれも故人)の努力で、名古屋市で2日間に亘り開催、活字の高さ 0.923 吋 と決定するという歴史的一頁を作った[これは1941年(昭和16)東京印刷同業組合活字規格統制委員会が追認したが、1958年(昭和33)全国活字工業会は23.45mmと決めた。活字の高さの統一は世界的にもいまもって容易ではない]。
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昭和12年(1937)7月7日、北支芦溝橋の一発の銃声は、遂に大東亜戦争に拡大し、10余年の永きに亘り国民は予想だにしなかった塗炭の苦しみを味わうに至った。
物資統制令の発令 [によって]活字の原材料から故鉛に至るまで[が]その対象物となり、業界は一大混乱をきたした。受配給等のため活字組合を結成し、中部は長野、新潟の業者を結集して、中部活字製造組合を組織して終戦時まで努力を続けた。 -
次第に空襲熾烈となり、昭和20年(1945)3月、名古屋市内の太田誠貫堂、盛功社、津田三省堂、平手活字、伊藤一心堂、井上盛文堂、小菅共進堂は全部被災して、名古屋の活字は烏有に帰した。
津田太郎の報告にみるように、関東大地震のため、東京築地活版製造所は不幸なことに、
「新社屋を新築して その[本格]移転前日の東京築地活版製造所は、一物も残さず灰燼に帰した」
のである。
活版印刷機と関連機器の製造工場は「月島分工場」にすでに移転していたが、その「月島分工場」も火焔に没した。また東京築地活版製造所本社工場の活字鋳造機はもちろん、関連機器、活字在庫も烏有に帰した。
不幸中の幸いで、重い活字などの在庫に備えて堅牢に建てられたビル本体は、軽微な損傷で済んだ。すなわち地震にともなう火災によって、東京築地活版製造所の設備のほとんどは灰燼に没した。すでに引退を決めていた野村宗十郎であったが、さっそく再建の陣頭指揮にあたり、兄弟企業であった大阪活版製造所系の企業からも支援をうけて再興にとりかかった。
津田三省堂は、関東大地震までは活字販売業者であったが、震災で主要仕入れ先の東京築地活版製造所からの活字の供給が途絶したため、このときをもって活字鋳造業者に転ずることになった。
津田太郎はまた、名古屋を中心とした中京地区の活字鋳造所は、第二次世界大戦の空襲によって、すべてが灰燼に没したとしている。
ところが……、本来なら、あるいは東京築地活版製造所設立者の平野富二なら、おそらく笑い飛ばしたであろう程度のささいなことながら、関東大震災を契機として、ひそかにではあったが、この場所のいまわしい過去(事実はことなっていたが)と、新築ビルの易学からみたわるい風評がじわじわとひろがり、それがついに専務・野村宗十郎の耳に入るにいたったのである。
こんな複雑な背景もあって、この瀟洒なビルはほとんど写真記録をのこすことなく消えた。 不鮮明ながら、ここにわずかにのこった写真図版をパンフレット『活字発祥の碑』から紹介しよう。
1921年(大正10)ころ、取り壊される前の東京築地活版製造所の本社工場の写真。
上掲の明治36年版『活字見本帳』口絵図版とおおきな違いはみられない。
1923年(大正12)野村宗十郎専務の発意によって竣工なった東京築地活版製造所の写真。
正門(左手前角)がある角度からの写真は珍しい。