朗文堂-好日録004 吾輩ハ写真機ガ苦手デアル

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朗文堂-好日録
ここでは肩の力を抜いて、日日の
よしなしごとを綴りたてまつらん
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◉吾輩ハ写真機ガ苦手デアル――――どうも写真機、モトイ、カメラとの相性が悪い。3年ほど使っていた、平べったい小型「エスオーエヌワイ」電子カメラが起動しにくくなり、Websiteで検索したら、こうした事例が多い機種とみえて、対処法がいくつか掲載されていた。最初にヒットしたアメリカのユーザーは「手をまっすぐ伸ばして、そこから落下させると起動する……」と、なんとも怖ろしいことを書いていた。おとなしい日本のユーザーは「膝の上でトントンと、やや強く叩くと起動する」などとしていた。どうやら接触不良が原因か? それでもなんとか、だましだまし使ってきたが、ついにまったく起動しなくなった。もちろん保証期間はすぎていた(このあたりは良くできていたな、ウン)ので、泣く泣く次世代機を購入。

伊勢丹ちかくの「大きなカメラ--元 安さ爆発! カメラのさくら屋~♫」で、安物ではあったが「ナイコン」一眼レフ型の新機械を買った。もともとナイコン一眼レフカメラ愛用者だった。その重厚感としっかりしたピント合わせが魅力だった。しかし今回の購入時にはひと悶着あった。接客態度があまりに凄い。「メモリー・チップも欲しいんですけど」、「あそこにありますから」  ト 遠くを指さす。「ふつうどのくらいの容量を買えばいいんでしょう」、「それはお客さんがきめることです」。ト きっぱり。

チョットひどすぎるとおもった。支払い時にチトクレーム。すこし偉そうな店員さんが(格好だけ)平謝り。その説明(言い訳)によると、担当した店員さんは競合某社からの派遣社員であって、「ナイコン」を選んだ小生は(彼のひとにとっては)客ではなかったようだ。偉そうな店員さんがにこやかに(中も確認しない箱のまま)袋に(放り)入れて「これが保証書です」、との説明を受けて退出。ヤレヤレのおもいで帰社。最初にテスト撮影をしたら、レンズがおおきく突き出たまま、そこでフリーズ。なんともトンマな姿であった。「バッテリーを外して再起動すると治る、モトイ、直る」といわれ、やってみたらたしかに起動した。だがまたすぐにフリーズした(いいんだろうか? 写真機とパソコンを同じ用語で語っても)。

そもそも平べったい「エスオーエヌワイ」の小型カメラも最初は難儀した。カメラはファインダーを覘いて撮るものと(いまでも)決めているから、ファインダー(だとおもっていた)穴が、よもやレンズとは露おもわなかった。たいていは「向けて撮~る」だから、撮影後にみたらオカルト画像のような、妙なモノしか写っていなかった。それが自分のメンタマだとわかるのに少し時間がかかった。これですっかり機械オンチであることがバレて軽蔑された。電子カメラもレントゲン撮影機(胸部の)と同じ構造になったとおもいこんだのが間違いだった。

さて「ナイコン」のその後。10回に1回はフリーズするので、保証書と一緒に「大きなカメラ」に修理依頼で持ちこんだら、「新宿ナイコン・サービスセンター」を紹介され(追い出されて)退出。新宿西口までトボトボ歩く。さすがに「ナイコン」は丁重そのもの。即刻にこやかに同型の新台と交換(速攻追い出し)退出。なにか不満足、なにかが物足りないぞ。

精密機器の修理とは、痩身の技術者が、何だかふしぎなルーペを目にはめて、小さなドライバーでシコシコ修理するのだとおもっていた。そして所在なくふるい週刊誌などをみていると、やがて「ハイ、お待たせしました。直りました!」と技術者と共に喜びたかったのだ。精密工業技術を誇る日本製なのに、なんたることかとよくみたら、MADE IN INDONESIAと、底部に豆粒のような字でしるしてあった。嗚呼! 唖唖 !! 精密工業の底辺を支えてきた信州人を愚弄しているではないか。わがふるさとは貧しく、民草は泣いておるというのに。

銀座凮月堂のおいしい和菓子-味の粋

◉吾輩ハ、銀座凮月堂デ「味ノ粋」ヲ食ス――――銀座をぶらつく、というとちょっと格好がいいが、ふるい資料と、例の「ナイコン」を鞄にいれて、晴海通りから一本新橋寄りの「みゆき通り」を徘徊する。晴海通りから、gggギャラリーに続く「すずらん通り」に入って、一本目の道路が「みゆき通り」である。ここをうろうろとさまよい歩く。徘徊の最中は明治11年ころの南鍋町2丁目1番地を歩くこころもち。

町の名前からして、江戸期のこのあたりは「居職」商工者の町で、鍋や釜などの鋳物屋が多かったとされる。その一部が文字の鋳物--活字鋳造業者に転じたということ。明治11年、当時ここには「活版製造所弘道軒」があった。そしてご自慢の英国直輸入(原産国は米国)ブルース手廻し活字鋳造機が(最初から最後まで)1台だけあって、清朝活字を製造していた。そのすぐ脇には「日報社・東京日日新聞社、いまの毎日新聞社」があり、数寄屋橋に近寄れば秀英舎活字鋳造部製文堂もあった。いわば築地の東京築地活版製造所とともに、明治の印刷・出版・活字史を飾った企業群があったメディア発祥、活字ゆかりの地である。

かつては東京築地活版製造所、秀英舎の創業の地を訪ねて、やはりその周辺を徘徊した。いまは「活版製造所弘道軒、南鍋町2丁目1番地」である。古地図『東京京橋区銀座附近一覧図』(明治35年、京橋図書館蔵)が頼りとなる。そこでは「菓子商・米津凮月堂」の一軒隣が「活版製造所弘道軒」となっている。凮月堂はいまでもみゆき通りに本社と直営店を構えているが、移転を最低でも三度は繰りかえし、はす向かいの現在地に落ち着いたことがわかった。南鍋町2丁目1番地の弘道軒は、現在は鈴乃屋呉服店(中央区銀座5丁目6-10)あたりであるとみなす。

客足が途絶えたところを見計らって、鈴乃屋呉服店に飛び込む。「まことにつかぬことを伺いますが、こちらは何年ころから営業されておられるのでしょう?」「昭和5年(1930)と聞いています」。このくらいは事前にWebsiteで取材済み。社長が出てきてこんにちは♫ 親切に対応。関東大地震(大正12・1923)の後始末がついて、各店舗が開設されるまでに時間がかかったようである。収穫多し。

みゆき通りからすずらん通りに左折、2軒入ったところ。ここも昭和5年創業の「タカオカ靴店」に「ワンカップ」数本を片手に再訪問。ここは靴屋である。その証拠にショー・ウィンドーに照明が入っているが、商品は革靴が一足だけポツリ。それも確実に4ヶ月は連続して現状のママ、イキ。店主はいつも店右奥でフリーズして、ズック、モトイ、黒いスニーカーを履いている。今回は、みゆき通り、銀座中央通りに、関東大地震のころまで「ドブ・溝・クリーク・川・運河」があったか否かを再取材。タカオカ翁、御齢96歳。まだ昼下がりなのに、まずワンカップをグビリ。

「戦争中か、おぅ、陸軍に召集よ(敬礼)」。[第一師団ですか?]。「冗談じゃねぇ、あんな金ピカ近衛じゃねぇ、第六聯隊、実戦部隊だ」。[第六聯隊はほとんど全滅したとされてますね]。「まあな。青森や岩手の聯隊からは軽くみられてたな、弱兵だってな。逃げんのが早いんだよな」。[ところでタカオカさん、そこのみゆき通りには、関東大地震のころには、ドブか、クリークか、川のようなものはありましたか?]。「震災後も、戦前までは川があった。ここからも中央通りに流れていた」。[それはドブのようなものでしたか?]。「ドブじゃねぇさ。泥鰌やタニシくらいはいたし、中央通りにいけば、鮒やメダカだっていたな。ところで若いの、幾つだ?」。[65歳になりました]。「そうか、若いな(?)。オレの息子の歳だな」。[はい、わたしの母親もタカオカさんと同じ96歳で健在です]。障害難聴者と加齢難聴者の会話は、ここが銀座のど真ん中か、という具合で、端から見たら(たれも入ってこないけど)怒鳴りあいの大声でつづく。

チョイ疲れたし、取材メモを整理するために凮月堂に入る。1階のショーケースで和菓子の品定めをして、2階の喫茶室にあがる。一服して和菓子「味の粋」が食べたかった。ただしこの菓子の読み方がわからなかったので、写真付きのメニューから、「コレと、珈琲をください」と註文。昼下がり、甘いものをひとりで食すのはチト恥ずかしい。テストを兼ねてこっそり「ナイコン」でパチリ。

まもなく妙齢のご婦人が隣席に。「アジのイキと、お抹茶、よろしくね」とこちらは小粋に決めた。同じ和菓子がでてきたぞ。なにか引っかかったので、一階のレジで、伝票にプリントされた「味の粋」の読み方を質問。「当店ではアジ-ノ-スイと呼んでおります」。あぁ良かった、恥をかかなくて済んだ、とおもうと同時に、湯桶ユトウ読みや重箱ジュウバコ読みにはふり仮名を! とおもった。そして「ナイコン」。やはりひどい仕上がりだった。これはカメラのせいではなく、まぎれもなく小生のせいである(らしい、悔)。

中央が鈴乃屋呉服店。すずらん通りの右が旧日報社とみられる。

タカオカ翁、96歳。意気軒昂!

銀座のど真ん中タカオカ靴店。堂々と靴一足!盛業中!