活版凸凹フェスタ*レポート04

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「江川次之進活字行商の図」を拝見してお預かりした。 左:冨澤ミドリさん、右:片塩二朗

《ご退屈でしたか? 活版凸凹フェスタ*03》
もしかすると、4月11日にアップした「活版凸凹フェスタ*03」は、一部の読者さまには退屈だったかもしれません。しかしながら江川次之進と江川活版製造所、その機械「手引き式活版印刷機」と、その活字製造は、今回の《活版凸凹フェスタ1012》の枢要な企画展示となっています。
ご来場いただいて、会場でとまどう
ことができるだけ少ないように、これまであまり紹介されたことのない、江川次之進と江川活版製造所のあらましをご紹介しました。

これまで江川次之進に関しては、ほとんど『本邦活版開拓者の苦心』(三谷幸吉、津田三省堂、昭和9年11月25日)に紹介をみるばかりで、その余の資料は、ほとんどすべてが三谷幸吉からの引用にとどまっていました。
今般、ご親族からの資料提供をうけ、またさまざまなお話しをうかがうなかから、江川次之進の紹介に際して、どうして三谷幸吉は、その出身地、生年月日をしるしたあと、なぜかおおきく飛んで、にわかに31歳になった江川次之進を紹介したのかがぼんやりとみえてきました。

この時代にはまだ結核という宿痾のやまいもあり「人生50年」とされていました。ですから31歳とは、もはや中年といえ、あらたな職業に就くことは少なかった時代です。その厄介で難解な理由がようやく理解できる手がかりが発見できたようです。
すなわち三谷幸吉の記述の行間に、今回の資料のご提供と、ご親族からの聞き書きによって、わずかに資料を補足することができましたが、まだまだ現地調査や精査が必要な事項がたくさんのこされています。

江川次之進氏[1851-1912]は、福井県坂井郡東十郷村の人、由右衛門氏の次男として、嘉永四年[1851]四月二十五日に生れる。
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明治十四年[1881]、三十一歳と云う中年で俄かに志を樹てゝ上京、某医師の書生を勤め、又は横浜に出て、運送店の書記に住込む等、此間容易ならぬ難行苦行を重ねたのである。

すなわち、江川次之進は1851年(嘉永4)、福井県坂井郡河和田村(現福井県坂井市坂井町河和田)の庄屋、江川家の次男として誕生しました。当時の風習で、次男のことですから、家格のつり合いがよい、福井県坂井郡本荘ホンジョウ村藤沢(現福井県坂井市三国町藤沢)の庄屋、旦丘アサオカ家の養子となって、おそらく31歳になって上京するまでは、養家の旦丘アサオカ姓を冒していたものとおもわれます。上京時にはふたたび江川姓をもちいて別家・江川家をたてています。

旦丘家には男子の誕生が少なく、何代にもわたって江川家から養子を迎えたことがあり、また旦丘家の戸主は、代代旦丘治良右衛門アサオカ-ジロウエモンと名乗るのが習慣でした。
その逆に、江川家でも必ずしも男子の誕生にめぐまれず、旦丘家から養子を迎えたこともあったとされます。

旦丘アサオカ家における次之進の妻女の名は現時点の調査では不詳ですが、ここで長男・旦丘督三郎(のちに江川活版製造所朝鮮・京城支店長に就任)、次男・旦丘貫三郎(のちに別家・江川姓となり江川貫三郎。次之進とともに江川姓にもどって上京した。江川活版製造所第二代代表。三谷幸吉は終始この貫三郎をもって長男とし、旦丘督三郎をもって異兄としている)のふたりの男子をあげています。この江川貫三郎につらなるご親族がいまも東京におられて、江川家墓地には香華が絶えません。

『本邦活版開拓者の苦心』(三谷幸吉、津田三省堂、昭和9年11月25日)の執筆に際して、三谷幸吉は「明治四十五年[1912]二月八日」に逝去した江川次之進との面識はなく、次男江川貫三郎(旧姓・旦丘)からの取材ができたとも考えにくいところがあります。
詳細は江川貫三郎の生没年調査を待ちたいところですが、おそらく当時の江川活版製造所の代表・深町貞治郎からの聞き書きと、三谷独自の関係者からの取材で構成したものとみられます。しかしながら、その記述は比較的精度のたかい取材であったことが、さまざまな記録からあきらかになりました。
また、江川活版製造所は現在は存続しませんが、藤井活版製造所の藤井三太夫にその一部が継承され、そのお孫さんが現在も都内新宿で活字商を営んでいます。

福井の江川家(本家)はいまも存在していますが、そこでは江川次之進は上昇意欲のつよいひとで、福井に逼塞するのに耐えられずに上京したひとだったと伝承されています。
藤沢村(現三国町)の庄屋、旦丘アサオカ家の養子となって、おそらく世襲名の旦丘治良右衛門を名乗っていた「旦丘次之進」は、31歳とき養家を出て別家「江川家」をたてて江川姓にもどりましたが、妻女と長男・督三郎を旦丘家にのこし、次男・貫三郎をともなって上京しました。

このあたりの状況は、矢次ヤツグ家の次男であった矢次富次郎(のちの平野富二)が、吉村家に養子に行き、「故あって養家をでて、とおい先祖の名をとって平野家をたてた」とする記録と共通するものがあって、興味深いものがあります。
また「旦丘次之進」は、長男に「督三郎」とし、次男にも「貫三郎」としていますが、その次第は「変わったひとだった」程度にしか伝わっていないようです。

以上が今回の調査であきらかになりました。また、菩提寺の所在地も判明しましたので、これから、ゆっくり、あわてず、江川次之進と江川活版製造所の事蹟を調査したいと考えています。

また、『印刷雑誌』(第1次 明治24年10月号-12月号掲載)の主要活字書体は、新鋳造の「江川行書」活字ですが、後半部にみる、
●  改良型手引きハンド印刷機(八ページ、四ページ)製造発売
とある印刷機は、アルビオン型手引き印刷機を指し、その4ページ掛け(およそB4判)の印刷機を、とおくハワイのジェームス・ランフォード氏主宰の印刷工房「Mānoa Press マノア・プレス 」が所蔵しており、《活版凸凹フェスタ1012》に画像出展が実現しました。

ハワイのジェームス・ランフォード氏が主宰するMānoa Press 所有のアルビオン型印刷機の正面図。 上部銘板に鋳込まれた「丸にT」のプリンターズ・マークがみられ、まぎれもなく 江川活版製造所製造の「手引き式ハンド・プレス」です。
江川活版製造所が活版印刷機を製造していたとする記録はポツポツみられますが、実機の存在報告はなく、これがはじめての紹介となります。
《活版凸凹フェスタ2012》にはジェームス・ランフォード氏の絵本、それに本機の画像などが出展されます。



1875年、イギリス/フィギンズ社製造〈アルビオン型手引き印刷機〉

《活版凸凹フェスタ012》には、江川次之進の製造した手引き式活版印刷機と同様なアルビオン型手引き印刷機を搬入し、ご来場者の有志には大型欧文活字を使用して、印刷体験もしていただけます。

 

上図:軸装された「江川次之進活字行商の図」。
下図:「江川次之進活字行商の図」部分拡大。端正な顔立ちの人物であったことがわかります。また、肖像写真とも、とてもよく似た顔立ちで描かれています。背景の右うしろ、暖簾に「たばこ」が「ひら仮名異体字」で描かれてます。三谷幸吉は江川次之進がもっぱらたばこ店に行商にまわったことをしるしていますので、その記述が正鵠を得たものであることがわかります。

『本邦活版開拓者の苦心』(三谷幸吉、津田三省堂、昭和9年11月25日)より
当時は煙草が民営であったから、其の袋に販売店の住所番地が一々筆書されてある。それを今日のゴム印の様に、活字をスタンプに入れて押すと、頗スコぶる便利だと云うことに気付いて、毎日小さな行李コウリに活字とスタンプを入れて、各店舗を廻ったものである。
それに又質屋を訪問して、質札や帳簿に年号なり家名なりを押すことを勧誘したので、何れも其の便利なのに調法がられて、急に流行の寵児となったのだから、氏の慧眼ケイガンには生き馬の眼を抜くと云う江戸ッ子の活字屋も推服したものだそうな。

一昨年の最初のお便りでは、家伝の資料に「江川次之進の活字行商図」とされているお軸があるのですが、左手に洋傘を握り、右手に床屋のバリカンのような奇妙なものをもっているのですが、これは何なのでしょうか?」というものでした。当時は「活字ホルダー」の名称も、役割も、活版実践者のあいだでもほとんど知られていなかったのが実情です。

《江川次之進活字行商の図の作者に関して》
「江川次之進活字行商の図」の画幅には、「興宗」とみられる署名と落款がありました。書画はまったく専門外ですが、「興宗」とした日本画家は今村興宗(1873-1918)、草彅興宗(1904-1936)のふたりがいて、画風と年齢からいって今村興宗ではないかとおもわれました。
今村興宗、今村紫光の兄弟には研究者もいらっしゃるようです。ご関心があるかたは、しばらく小社がお預かりしていますのでご連絡ください。また神奈川県立図書館のWebsiteにはPDF版で  飯田九一文庫の百人 今村興宗   にきわめてよく似た図版紹介もあります。



冨澤ミドリさんに曾祖父・江川次之進にならって、活字ホルダーを手にして立っていただきました。

昭和8年のおうまれですが、とてもお元気で、姿勢が良く、相当の読書家でいらっしゃいました。

《江川次之進活字行商の図》
2012年04月11日[水]、長野県北安曇郡白馬村みそら野のペンション「ブラン・エ・ヴェール」に冨澤ミドリさんをお訪ねしました。
冨澤さんは明治の有力活字商、江川活版製造所の江川次之進の係累(玄孫・ヤシャゴ)にあたるかたで、「江川次之進肖像写真」、「江川次之進活字行商の図」などの貴重な資料を所有されていらっしゃいました。
ここにいたる次第は「活版凸凹フェスタ*レポート03」にしるしてあります。

 
江川次之進(1851-1912)

江川次之進の画幅は2点存在したようですが、1点はあまりに損傷がひどいので破棄し、もう一点の軸装された「江川次之進活字行商の図」は、あらたに業者に依頼して軸装しなおしたものだとされました。
また江川次之進の肖像写真は、上図右のものがオリジナルとして冨澤家に存在しますが、ご覧のように損傷が激しいものでした。これをご親族にカメラマンがおられ、その方に依頼して丁寧な修整を加え、紙焼き出力とデジタルデーターを保存されていました。

冨澤ミドリさんとは、お手紙のやりとりや、お電話をしばしば頂戴していましたので、はじめてお会いするかたというより、親しいお仲間とのかたらいのような、素晴らしくも貴重なひとときを、白馬村で持つことができました。
またこのペンション特製のロール・ケーキをご馳走になりました。これは絶品! スキーに、森の散策に、北アルプス登山の基地に、ぜひとも「ブラン・エ・ヴェール」のご利用をお勧めします。

雪の白馬村をご紹介する前に、まず東京の爛漫の櫻をご紹介しましょう。バスで3時間ほど、白馬村にはまだまだたくさん残雪がのこるというのに、東京では春うらら、爛漫の櫻です。日本列島、それなりにひろいものだと実感させられました。



昨秋、友人・バッカス松尾さんににいただいた櫻の鉢植えが一輪ほころんでいます。バラ科の櫻には品種がおおく、どんな品種だったのか松尾さんもわすれたそうです。
遠くにみえるのは染井吉野櫻の満開の様子。
「櫻切る莫迦、梅切らぬ莫迦」と俚諺にいうので、こんなに枝を切り刻んだ鉢植えの櫻が咲くのだろうかと半信半疑、疑問におもって見守っていました。うれしいことに4月12日早朝、こんなにあでやかな花をつけてました。
この前日の11日は、東京も白馬村も終日つめたい氷雨がふりそそぐ、とても寒い日でした。

吾が空中庭園は、いま、まさに花盛りで、名も知らぬ草花が絢爛と咲きほこっています。やつがれは雑草という名の草はないとしていますから、水と肥料はやりますが、草抜きはほとんでしません。ですからある意味では吾が空中庭園は雑草園ともいえます。

 《残雪のこる白馬村に、冨澤ミドリさんを訪問》
4月11日[水]、早朝8時半の長距離直行バスで、長野県北安曇郡白馬村まででかけました。東京では櫻開花宣言がなされ、あちこちの櫻が満開を迎えているのに、この日は折悪しく氷雨のようなつめたい雨が降りそそいでいました。

このペンションは、おふたりとも東京うまれの冨澤夫妻が、30年ほど前に、おおきな夢をいだいて白馬村に開設されたものです。
その名「Blanc et Vert ブラン・ェ・ヴェール」は里見弴氏(小説家・文化勲章受章者。「善心悪心」「多情仏心」「極楽とんぼ」など。1888-1983)の命名で、白馬村の真っ白い雪景色と、そこに住むことになった冨澤ミドリさんへのプレゼントとして、フランス語で「Blanc  白」 et, &  「Vert 緑」、すなわち「白と緑」と名づけられています。
またお父上・旦丘俊治郎氏が英文学者だったために、里見弴を慕う関係者や、英文学関係者が、しばしばこの可憐なペンションを利用されているようです。

冨澤ミドリさんは、どちらかというと江川家というより旦丘アサオカ家の係累のかたで、江川次之進(当時は旦丘次之進)を曾祖父とし、その長男・旦丘督三郎を祖父、その長男、旦丘俊治郎(英文学者)を父とされます。
また冨澤ミドリさんの叔父、旦丘政次氏がまた逆に、福井の江川家の養子となっておられます。ですからこの両家の家系略図をつくりますと、少少混乱するほど、江川家・旦丘家は密接な関係にあり、また東京・江川家に係累がすくなく、そんないきさつから、冨澤ミドリさんが貴重な資料を保存されていたことになります。


作家・里見弴による「Blanc et Vert ブラン・ェ・ヴェール」命名由来記。
これも貴重な里見弴の自筆原稿である。

《余談ながら……狩人 あずさ2号のこと》
今回の白馬村行きは、往きは長距離バスであったが、戻りのバスが夕方4時台しかないということで、それでは白馬村での滞在時間があまりに短すぎるので電車でもどることになった。18:05発、JR大糸線白馬駅から信濃大町へ、そこで松本行きに乗りついて新宿にもどることにした。
冨澤ミドリさんと名残惜しいままお別れして、タクシーを呼んだ。車中ドライバーに、
「電車でお帰りですか? この便だと、松本から  8時ちょうどのあずさに  なりますね」
といわれた。おもわず狩人の「あずさ2号」(作詞:竜真智子、作曲:戸倉俊一)のせつない歌詞と、メロディーをおもいだした。

♫ さよならは いつまでたっても
とても言えそうにありません
……
8時ちょうどの あずさ2号で
私は 私は あなたから旅立ちます。♫

松本駅から、本当に8時ちょうどのあずさに乗った。すでに2号ではなく「スーパーあずさ36号」であった。車中は平日のこととて空いていた。やつがれ情緒に耽るいとまもなく爆睡におちいった。