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【字学】 わが国活字の尺貫法基準説からの脱却と、アメリカン・ポイントとの類似性を追う*02 〔松本八郎〕 活字の大きさとシステム

昨秋逝去した松本八郎は、朗文堂に公刊書 『 エディトリアルデザイン事始 』 ( A5判 224ページ 1989年09月08日)をのこした。
その第三章に 「 活字の大きさとシステム 」 (p.39-53 ) があった。
この章の初出はふるくて、多川精一氏らによるジャーナル 『 E + D + P 』 (1980年09月第05号、同1981年06月第07号) に連載したものを 加筆修整して、 『 エディトリアルデザイン事始 』 に紹介された。

松本八郎_顔松 本  八 郎 (1942-2014 ) 遺 影
(  大枝 隆司郎氏 提供  )

ジャーナル 『 E + D + P 』 のころから、松本八郎とはこの 「 活字の大きさとシステム 」 では議論をかさねた。 ときには第三者もまじえて激論になったこともあった。
そしていま、 松本八郎 『 エディトリアルデザイン事始 』 第三章 「 活字の大きさとシステム 」を再度紹介して、 わが国の号数制の金属活字が、鯨尺クジラジャクや曲尺カネジャクを基本尺度とした、尺貫法にもとづいた製品であるという 「 神話 」 を再検証してみたい。
9784947613219エディトリアルデザイン事始 』 の刊行はもう四半世紀も前になる。 さほど売れた図書ではない。 だからいまでも30冊ほどの在庫があるほどのものだ。
しかし一九六〇-七〇年代うまれのグラフィックデザイナーのおおくは、本書でエディトリアルデザインを知り、その初歩をまなんだはずである。 図書とはもともとそんな存在である。

松本八郎とは、これも黄泉のひととなった 加藤 美方 ( かとう-よしかた 1921-2000 ) の紹介で知りあった 【 花筏 タイポグラファ群像*001 加藤美方氏 】。
どこで勘違いをしたのか知らないが、筆者は松本と同年うまれだとしばらくはおもいこんでいた。
したがっていまとなれば汗顔のきわみであるが、本人を眼前にしても気軽に 「 ハッちゃん 」 などと呼んでいた。 どこかで勘違いに気づいてお詫びしたが、松本は嫌がるふうもなく、おもしろいつきあいをかさねた。

ともあれ松本八郎は先に逝ってしまったが、遺著にのこされた 「 活字の大きさとシステム 」 をさきがけとして、いくつかの論考や資料を紹介したい。 そこでの論点は <「  活字の大きさとシステム  」 + 活字鋳造機器 > となる。
さいわい、古谷昌二 『 平野富二伝-考察と補遺 』 (朗文堂 2013年11月12日) の刊行をきっかけとして、自発的に参集した有志が、この <「 活字の大きさとシステム 」+活字鋳造機器> をテーマとして、さまざまな資料をもとに研鑽をつづけている。 その研究の進捗と、諸賢の検証をまちながら、本論をすすめていきたい。

わが国における <号数制金属活字が、鯨尺や曲尺による、尺貫法にもとづいた製品であるという 「 神話 」 > は、本木昌造の稿本、仮称 『 本木昌造活字版の記事 』 にその淵源をみるものである。
爾来、この稿本 ( 手書きの原稿本 ) は地元の長崎に埋もれていたが、大阪の印刷業界誌に、「 故本木昌造翁伝 」  『 大阪印刷界第三二 本木号 』 ( 大阪印刷界 明治四五年六月一七日) として、その一部 ( 前文とあわせて全六章のうちの三章 ) がちいさく不鮮明ながらも 影印資料とともに、活字となって紹介された。

阿津坂実氏阿津坂 実氏 (『 ヴィネット〇四 活字をつくる 』 より )
( 元長崎県印刷工業組合専務理事、本木昌造顕彰会相談役 1915年09月12日-)
──────────
本項掲載後に長崎印刷界の重鎮/阿津坂実氏が天寿をまっとうされ逝去されました。
ご冥福を祈るとともに、ここにご報告いたします。
阿津坂 実 1915年09月12日-2015年05月07日 行年99 
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「 故本木昌造翁伝 」  『 大阪印刷界第三二 本木号 』 のなかには、「 本木昌造翁はその活字に関する著述を公にした。 その書名は逸してわからない 」 としているが、それから百年余の歳月をへても、こうした 「 本木昌造の活字に関する公刊書 」 の発見の報告はみない。
またこのオリジナル資料は、どういうわけか長崎から、東京築地活版製造所の手にわたったとされ、
「 それは関東大震災のとき〔1923年09月01日〕に全部烏有に帰した 」 ――  『 活版印刷史 』 ( 川田久長、印刷学会出版部、初版 ・ 昭和24年03月20日、再版 ・ 昭和56年10月05日。 初版は紙やけがひどいので、再版書によった  p.94 ) とされてきた。

ところが、俗称 『 本木昌造活字版の記事 』が焼失することなく、長崎市立博物館の<本木家文書>のひとつとして、畳紙タトウに 『 本木昌造活字版の記事 』の仮題を付された状態で収容されているとの報告が、阿津坂実氏 ( 元長崎県印刷工業組合専務理事、本木昌造顕彰会相談役 1915年09月12日-)によってなされた。

20150423164159195_0002 20150423164159195_0001その報告をうけて、板倉雅宣氏 ( 元東京書籍。 タイポグラフィ学会 ・ 印刷学会会員。 1932-) ならびに筆者が長崎にかけつけて、二〇〇〇年に 「 長崎市立博物館 ( 現在は長崎歴史博物館が所蔵。目下のところ非公開 )」 に、 「 本木家文書 」 として現存していることを報告した。
また、その存在の事実と、巻首ページだけを原寸で、縮小したものの比率を表示して、全ページの影印図版紹介、その平易な読みくだしを 「 本木昌造の活字づくり 」 『 ヴィネット 〇四 』 ( 片塩二朗、朗文堂、二〇〇二年六月六日) に紹介した。
【 関連情報 : 花筏 タイポグラフィあのねのね*005  長音符「ー」は「引」の旁から 『太陽窮理解説』

なにしろ一四〇年余にわたり、本木昌造活字版印刷術創始のことはかたられつづけてきた。そして、わが国における <号数制金属活字が、鯨尺や曲尺による、尺貫法にもとづいた製品であるという 「 神話 」 > は、オリジナル資料が焼失したと訛伝されたまま、「故本木昌造翁伝 」  『 大阪印刷界第三二 本木号 』 からの、さらにその一部だけの引用、引抄がかさねられてきた。

これから、<わが國における号数制金属活字とは、本木昌造がさだめたものであり、鯨尺や曲尺による、尺貫法にもとづいた製品である >  という「神話」の解明にむけて考察を開始する。
まずは、松本八郎が問題提起した、

◯ <なぜ、 「四号」 〔 活字の 〕  下 〔 うしろ 〕 がないのか> の紹介をつうじて、
◯ <なぜ、明治最初期からスタートしたわが国の号数制活字のうち、 「 初号活字、二号活字、五号活字、七号活字 」 のグループは、のちの一八八六年(明治一九)に制定された、アメリカン ・ ポイントシステムとボディサイズが極似ないしは合致しているのか>
◯ <なぜ、わが国の号数制活字は三つのグループに大別され、そのグループ間に共用性がとぼしいのか>
の諸問題の解明を 蟷螂の斧を振りかざしてはかりたい。
筆者は精緻な検証作業には向いていないことを十分に自覚している。 江湖のご支援を期待するゆえんである。

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〔松本八郎〕 エディトリアルデザイン事始
                                活字の大きさとシステム

20150421193950685_0002
なぜ 「四号」 〔 活字の 〕  下 〔 うしろ 〕 がないのか
私はときおり、つまらないことに疑問を持つくせがある。 それでいて実用的で実際的なことがらには何ひとつ疑問を感じないまま やり過ごしてしまって、間のぬけたことをして失敗する。
でも、時にはこのつまらないことで勉強をさせられることもあって、けっこう 「 頭の体操 」 くらいにはなっている。

もはや今日 〔一九八九年〕 となればどうでもいいことなのだが、「 活字 」 のことでどうしても理解できないことがある。
号数活字の大きさのとりきめについてである。
以前はよく講師に行った〔武蔵野美術大学などの〕学校などで、活字について教えなければ先に進まないことがあった。 本木昌造の名を出し、ついでに号数活字を中国より導人したことに掛れ、黒板に、

                           一号活字 ―― 四号活字
  初 号活字 ―― 二号活字 ―― 五号活字 ―― 七号活字
                三号活字 ―― 六号活字 ―― 八号活字

と、わかったような顔をして書き記す。
学生たちは必死でノー卜をとる。「 質問はありませんか?」。 無言である。 ホッと安堵する。
なぜ四号の下でなく 五号の下〔うしろ〕に七号があるのか? なぜ四号の下〔うしろ〕は空いているのか? だれも聞いてこない。 そのあと、

「 五号は鯨尺 クジラジャク の一分にあたり、これが基本となって大きさが決められ、五号の倍数が二号で、そのまた倍数が初号です」
などといっているうちに、なぜかみな 納得したような顔になる。 内心はいつ質問が飛びだすかと、ドキドキしながらおちつかない。
20150421193950685_0003『 エディトリアルデザイン事始 』  p.40 挿図

「 もっともこのごろでは、普通の印刷所 〔 大手の印刷所 〕 は みなポイント活字に切りかわっていて、号数活字などは町の小さな名刺屋さんぐらいでしかお目にかかりません。 ですから活版印刷の歴史の一端として、この表ぐらいは覚えておいてください」
と、なおも追い討ちをかけると、全員まったく素直にうなずいてくれる。
十数年間の教師稼業をしていた後半、こうしたテクニックばかりが冴えわたり、どうにも行きづまってしまった。

学生時代、印刷関係の入門書を何冊も丹念に買い求めた記憶がある。 するとかならずこの号数活字の表がついている。 それなのに、どの本も この四号下 〔 うしろ 〕 の空欄については触れていない。 買い求めた本の数だけ苛立ちが増したことを覚えている。

つい最近出された 〔 タイポグラフィ関連の 〕 本にも、「 三号、四号、五号、六号、七号の大きさの間隔は それぞれ二厘五毛 」 とは書かれているものの、やはり四号下 〔 うしろ 〕 の空きの疑問には答えてくれず、「 三号、二号、一号の間隔はそれぞれ五厘、一号と初号のそれは一分五厘である 」 と終わっていて、なぜそういう間隔をもって 〔 活字が 〕 作られたのか、ということに触れていない。

こういう教科書的なものですら、「 なぜそうなのか 」 ということが往々にして書かれていない。 その成り立ちを解き明かしてこそ、本を新しく出すことの意味があるのではないか?
日本の活字印刷の始まりから百年以上もたっていながら、なお一律にこのていどの記述である。

一、号数活字の基準
一九三三年(昭和八)に出された 『 本木昌造 ・ 平野富二詳伝 』 ( 三谷幸吉編 ) という本がある。 その中に 「 我国最初の日刊新聞社を創立す 」 という項目があり、そこに 「 編者曰、註 」 として、活字の大きさの決定について記された一文が載っている。
『 活版印刷史 』 〔 川田久長、印刷学会出版部、昭和二四年 〕 にもいま少し詳しく、本木昌造の活字規格について記されている。 いずれも本木昌造が自ら著した活字製法によっているが、号数活字の成立を解き明かすには欠かすことのできない記録である。

三谷幸吉氏などは、その 〔 紹介に 〕 あたり得意絶頂のおもむきで、次のような付記まである。
「 されば本木昌造先生が 活字の高さは 西洋(外国)の活字の高さに倣はれたが、大きさは日 本の物差に依られたのであって、外国の活字の大きさに倣って、五号活字を スモールパイカ と パイカの中間等と言ふ 、永い間の歴史は誤伝であったと云ふことが判然したのである ( 編者は此研究のために費やせし時間、労力、苦心は 到底他人の窺ひ知ることの出来ないことであった。 今茲ココに之を発表することを得たのは、本木昌造先生の加護と、編者の苦心の結晶であることを承知ありたし)。」 ( 原文正字。一部句点を加えた )

では、その〔本木昌造の〕自筆稿本の一節を〔「 故本木昌造翁伝 」  『 大阪印刷界第三二 本木号 』 から三谷幸吉が引用したものを 〕再録してみよう。
「 蝋形を取る文字の製法
黄楊ツゲを以て其欲する処の文字の大小に随て、正しく四角の駒を製す。 其長は好に応ずべし。 但し予の製する処のものは 西洋の活字に倣ひ、其長七歩八厘あり、此駒に文字を刻す。 其文字は成べく深く刻するを良とす。 凡二歩五厘角の文字は 其深五厘余、五歩角のものは 其深一歩余にして、左右上下勾配を施し、以て、蝋形を取るに及んで 能く蝋より抜出る様に彫刻するなり。」 ( 原文正字 ・ 句読点引用者 )

ここで 「 二歩五厘角 」 とあるのは 曲尺カネジャクの二分五厘角をさし、「 五歩角 」 とは同じく曲尺の五分角のことである。 前者が二号活字、後者が初号活字にあたる。 これによって本木昌造の号数活字の最初は、二号、初号から作られたと推測される。
その後大小の活字を造るのに際しては、各号の間の差を曲尺の五厘にとるとその差が大きすぎるので、鯨尺クジラジャクの二厘五毛として系列が整えられた。

ちなみに、曲尺の五分と鯨尺の四分は同じ長さである。

『 本木昌造 ・ 平野富二詳伝 』 の三谷幸吉氏の 「 註 」 から、鯨尺と曲尺の寸法を比較した数値表を転記すれば、以下のようである。

初号活字   鯨尺  四分        曲尺  五分
一号活字   鯨尺  二分五厘     曲尺  三分一厘二毛五糸
二号活字   鯨尺  一分五厘     曲尺  二分五厘
三号活字   鯨尺  一分五厘     曲尺  一分八厘七毛五糸
四号活字   鯨尺  一分二厘五毛  曲尺  一分五厘六毛二糸五忽
五号活字   鯨尺  一分        曲尺  一分二厘五毛
六号活字   鯨尺  六厘五毛     曲尺  九厘三厘五毛
七号活字   鯨尺  五厘        曲尺  六厘二厘五毛
(引用者〔松本〕注/鯨尺の六号および、曲尺の六号と七号は誤植?)
〔 以下 略 〕

松本八郎は六号活字、七号活字の一部に誤植の疑念は呈したが、ママとして数値に補整は加えていないが、初号活字から五号活字の寸法例にならって算出した数値を以下に掲げる。
六号活字   鯨尺  七厘五毛     曲尺  九厘三毛七糸五忽
七号活字   鯨尺  五厘        曲尺  六厘二毛五糸 

平野富二と活字*12 平野富二夫妻の一対アルバムにみる妻こまのこと

_MG_0422uu_MG_0421uu修整富二修整古ま夫人アルバム 《あまりに資料がすくない、平野富二の妻・こまのこと》
もともと平野富二に関する資料がまことにすくなかったのだから、その妻・平野こまに関しては、ほんの点描のような記録しかなかった。それを古谷昌二氏が丹念に資料を掘りおこして『平野富二伝』にまとめられた。
平野富二の夫人、こまは、
「長崎丸山町に居住する安田清次・むら夫妻の長女こま(戸籍上は「古末」の変体仮名[ひら仮名異体字]で表記)[古ま・コマ・駒子ともする]で、嘉永五年(一八五二)一一月二二日生れ、富二とは六歳違いであることはわかっているが、結婚した時期については明らかになっていない」
と古谷昌二『平野富二伝』に紹介された。

《平野富二と平野こま夫妻の写真の補整》
これまで平野こま夫人の遺影は、三谷幸吉『本木昌造 平野富二 詳伝』に、ちんまりとした座像として、不鮮明でちいさな写真が紹介されてきただけである。
今般の『平野富二伝』(古谷昌二)刊行記念展示・講演会に際して、平野富二夫妻の遺影が、一対のアルバムにまとめられた写真が披露された。上段のガラスケース奥の列、左から二番目で公開した。

ふるいアルバム台紙には「A Morikawa  TOKYO」とある。
左側の平野富二の遺影は、1890年(明治23)ころにふたりの愛娘と撮影した下掲写真から、上半身だけをトリミングして、加工したものとみられる。
右側のこま夫人は、髪がすっかり白髪になっているが、しっかりとした躰躯で、芯のつよい女性だったとみられる風貌である。また当時もまだ一部で信じられていた、
「写真を撮られると、指先から魂がぬきとられる(魂が指先から抜け出てゆく)」
とする俚言を信じていたものか、たもとに両手をかくして撮影されている。おそらく夫富二の逝去後、明治後半に撮影したものとみられる。
平野富二と娘たち

もともと平野富二もあまり写真は好きではなかったようで、石川島平野造船所における進水式や竣工式での集合写真(当然平野自身は豆粒のようなおおきさでしかない)のほかには、これまで紹介してきた平野家に伝承されてきた三点の写真以外は発見されていない。
『平野富二伝』(古谷昌二)刊行記念展示・講演会では、平野家に継承されてきた貴重な一次資料を公開した。しかしながら明治初期のふるい資料がおおく、また関東大震災の業火に際して、これらの資料のほとんどが土蔵に収蔵されていたために、焼失はまぬがれたものの、資料がムレがひどく、一部資料はガラスケースに収納して展覧した。また、フラッシュ撮影などによる劣化防止のために、残念ながら会場での写真撮影をお断りした。

とりわけ、この平野富二夫妻の写真は、銀塩の経時変化(劣化)がはげしく、このままでは画像としての有効性を失いかねないとみられた。そこで平野家のご意向をうけて、過剰な解釈はしないように注意しながら、適度な補整をくわえたものをここに紹介した。オリジナルプリントはできるだけ空気を遮断して保存することとした。
────────
『平野富二伝』(古谷昌二 朗文堂 p.745)
補遺5 家族との写真
明治二三年(一八九〇)頃に撮ったと見られる平野富二と二人の娘の写真が平野家に残されている。これを図17-17[上掲写真]に示す。 数少ない平野富二の写真の中で、家族と一緒に写した写真はこれが唯一と見られる。

平野富二は、先年発病して病床に就き、その後、事業整理により仕事から暫らく離れて摂生し、漸くこの頃、小康を得た。その記念として娘に宝石を嵌め込んだ指輪を買ってやり、記念写真を撮ったものと見られる。 この[明治二三年(一八九〇)]年に撮ったとすると、平野富二は満四十四歳、上の娘津類は満十五歳、下の娘幾美は満九歳となる。
平野富二は、第一二章に掲載した図12-14[p.532]の肖像写真と比較すると、摂生に努めたためか、頬肉は引締まり、身体も肥満から脱却して上着とズボンがややダブダブに見える。カメラを意識しながら目線をそらしている。半身を少し右にそらしていることから、まだ身体が不自由だったのではないかと見られる。
上の娘津類は髷を結った姿で、やや下に目をそらし、指輪を嵌めた右手を目立つようにして膝のうえに載せている。
下の娘幾美は頭に髪飾りを着け、恐れ気も無くカメラに向って眼を据え、指輪を嵌めた左手をさらし、右手は袖にかくしている。
三人の眼の遣り場が違うのは、それぞれの時代を反映しているものと見られ、興味深い。
後年に撮ったとみられる古ま(駒)夫人の写真を図17-18に示す。白髪ではあるが、いまだ矍鑠として、芯の強い女性であったことをうかがわせる。

 《平野家一門から提示された平野富二夫妻の位牌》
また、今般のイベントを契機に、平野富二嫡曾孫の長男、故平野義政(平野文庫主宰者、1932-93)家に継承されていた、家祖:平野富二夫妻の位牌が関係者に披露された(撮影:平野健二氏)。
この位牌は、平野富二夫妻の逝去後、平野津類によって発願されたものとみられ、黒漆に金泥をほどこした格調のたかいものである。
ところが、ここでまたいくつかの課題が発生した。

まず正面上部の家紋である。これまで平野一門の家紋は、谷中霊園内の平野家塋域エイイキの墓石、水盤などにみる家紋、三谷幸吉『本木昌造 平野富二 詳伝』の装本部にみる図版などにそれぞれ相違がみられて、「丸に違い鷹の羽紋」、「六つ矢車紋」、「丸入り六つ矢車紋」、「出抜き六つ矢車紋」などの諸見解があった。
ところがこの位牌にみる家紋は「丸に違い鷹の羽紋」である。
平野富二は生家の矢次家をでて、平野家を再興して別家をたてたひとである。また平野富二自身は家紋などに頓着しない性格だったかったかもしれないが、この平野家家紋に関しての調査を継続して、古谷昌二氏が中心となっておこなうことをお願いした。
平野富二夫妻位牌表3uu平野富二夫妻位牌裏uu

基本 CMYK 基本 CMYK 三谷幸吉『本木昌造 平野富二 詳伝』の装本部にみる図版。三谷は函、表紙などに上図の家紋を紹介し、表紙の箔押しには、平野家家紋とあわせて、下図のように、本木昌造の私製の家紋とされる、俗称「まる も 」紋を重ね合わせた「デザイン」をもって本木昌造、平野富二の両者を紹介している。
三谷幸吉『本木昌造 平野富二 詳伝』の刊行に際しては、平野鶴類、平野義太郎の両者が物心共に最大の支援をしており、その関連記録として「三谷幸吉関連寄贈先名簿」「図書館寄贈先名簿」などが平野家に現存している。したがって平野津類、義太郎はこれらの図版を見ていたはずで、父祖の位牌にみる「丸に違い鷹の羽紋」との相違にどのような対処をしたのか興味のあるところである。

位牌の表面は、
「 修善院廣徳雪江居士 ── 平野富二法名
興善院明勤貞徳大姉 ── 平野こま法名 」
位牌の裏面は、
「 故平野富二
弘化三年八月十四日生
明治二十五年十二月三日卒
故平野駒子
嘉永五年十一月二二日生
大正元年十二月二一日卒 」
とある。
この記録は、戸籍とも、これまで記録されてきた諸資料とも齟齬はない。ここでのふたりの生年は、和暦(旧暦)で表示されているとおもわれるが、これを西暦(新暦)になおすと、こま夫人の生年月日ですこしく困ることが発生する。
「 故平野富二
一八四六年一〇月〇四日生
一八九二年一二月〇三日卒
故平野駒子
一八五二年〇一月〇一日生
一九一二年一二月二一日卒 」
となる【試験データ: CASIO こよみの計算】。

すなわち嘉永五年とは、ふつうは西暦一八五一年とされる。筆者もこれまでそのように表記してきた。しかし厳密に計算すると、平野こまの生年月日とされてきた「嘉永五年十一月二二日」とは、西暦では年がかわって、それもあらたまの新年元旦の「一八五二年〇一月〇一日うまれ」となる。
この和暦(旧暦)をまたいでいきたひとの記録には、和暦(旧暦)と、西暦(新暦)の混用があったりして悩ましいが、平野こまの記録に関しては、これまでどおり、筆者は「1851年(嘉永5)10月4日うまれ」とさせていただくことにした。

平野こま(古ま・コマ・駒子とも)は1851年(嘉永5)11月22日-1911年(大正元)12月21日をいきた。
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『平野富二伝』(古谷昌二 朗文堂 p.144
平野富二の結婚
[平野富二の結婚の]相手は、長崎丸山町に居住する安田清次・むら夫妻の長女こま(戸籍上は「古末」の変体仮名で表記)で、嘉永五年(一八五二)一一月二二日生れ、富二とは六歳違いであることはわかっているが、結婚した時期については明らかになっていない。

しかし、「矢次事歴」[平野富二の生家・矢次ヤツグ家の歴史をつづった記録]の記録によると、明治五年(一八七二)一〇月七日付けで町方に提出した矢次家(温威とその家族)の事歴の中には、平野富二の名前はなく、その後に作成された別の記録に「明治五未年温威弟平野富治外浦町ヘ分家シ平野家ヲ立ル妻おこま」とある。

谷中霊園平野家塋域にある、夭逝した長女・ことの墓。ほぼ正方形のちいさなもので、妙清古登童尼とだけ刻されている。

谷中霊園平野家塋域にある、夭逝した長女・ことの墓。ほぼ正方形のちいさなもので、妙清古登童尼とだけ刻されている。

また、三谷幸吉『本木昌造平野富二詳伝』の【補遺】(一二三ページ)に、長女こと[古登トモ]が明治八年(一八七五)七月に三歳で病死したとあり、このことから、明治五年(一八七二)中に長女が出生していたことが分かる。
なお、長女ことについては[当時は戸籍法がまだ未整備なために]平野富二の戸籍上には記載がないので、出生の月日までは確認できない。

以上のことから、平野富二の結婚は、明治四年(一八七一)の年末から明治五年(一八七二)二月の新戸籍届出までの間と見ることができる。

『平野富二伝』(古谷昌二 朗文堂 p.792
本木昌造と平野こま(古ま)夫人との間の逸話
平野富二夫妻が長崎から東京への移転に際して、本木昌造とこま(駒子)夫人との間の逸話が、三谷幸吉『本木昌造平野富二詳伝』(一二三ページ)に紹介されている。

平野先生が長崎を發足せらるゝに際し、本木先生は平野先生の夫人駒子さんを招かれて、先生御自身が着て居られた縞シマの着物を切り裂いて財布をつくり、當時、本木先生は非常に窮乏して居られたにも拘らず、何所で何う工面せられたか、其の財布に身を裂く如き金貮拾圓を入れて夫人の小遣銭として渡された。
夫人は、本木昌造先生の内情を餘り良く知って居られる関係上、非常に固辞されたのであった。が、しかし夫人は強いて言はれるまゝに、それを受けられたのであったが、其の金は決して小遣銭等に使ふべきものでないと、大切にし、東京に上られてからも肌身を離さぬ位にして居られた。

果せる哉、上京以来、活字製造の資金難が忽ち襲来して、夫人が受けられた餞別金貮拾圓也も其の儘、その資金に放り出して仕舞はざるを得なかった。しかし本木昌造先生より受けられた記念の縞の財布は、これを永らく平野家に保存して置かれて、大正十二年(1923)までいたったが、惜しむらくは、大正十二年の大震災は、この貴重の記念品をも烏有に帰して仕舞ったとのことである。
十五両   浅五郎渡

    五 両   吉田    渡  
以上は平野先生自筆の「金銀銭出納帳」(平野家所蔵)[現在は発見されていない]に明記してある興味ある事柄である。──編者[三谷幸吉]

『平野富二伝』(古谷昌二 朗文堂 p.145)
補遺7 平野(旧姓佐藤)龍亮との出会い

明治二五年(一八九二)の或る時、平野富二は仙台から上京して苦学している佐藤龍亮と知合い、好感の持てる好青年であったので、平野の姓を与えて東京石川島造船所に入社させた。 

平野龍亮は、明治七年(一八七四)七月七日、仙台藩士佐藤文弥の四男として仙台に生れた。明治二三年(一八九〇)、数え年十七歳のとき東京に出て、牛乳配達や新聞配達などをして苦学していたが、明治二五年(一八九二)、平野富二の面識を得、好まれてその養子となり、東京石川島造船所に入社した。平野富二には、後継ぎで二女の津類(当年九月で満十七歳)がいたが、その伴侶にさせる意志があったものと推察される。
しかし、平野富二はその年の一二月に突然死亡してしまった。津類とはどの程度の接触があったか分からないが、翌年、津留は青森県出身でカリフォルニア大学卒業の建築技師堺勇造を入婿として迎えた。 

明治二七年(一八九四)、平野龍亮は東京石川島造船所を離れ、海軍の募集に応じて機関兵となった。その頃、海軍ではイギリスの造船所で建造していた軍艦「富士」の回航員選定が行なわれ、選抜されてイギリスに赴き、一年半ばかりで帰国した。
明治三一年(一八九八)、軍籍満期となり、機械学を研究するためアメリカに渡ったが、間もなく修業のため一船員となって船中労働を経験しようとイギリス行きの貨物船に乗り込んだ。明治三二年(一八九九)、イギリスに到着し、ヴィッカース造船所に入ったが、余りに熱心なため日本の軍事密偵と見誤られて退社した。その後、ヤルロー、テームズ、アームストロング等の各造船所に勤務し、明治三五年(一九〇二)春、帰国した。

[平野龍亮は]同年一一月二七日に東京谷中で行なわれた「平野富二君碑」の建立記念式典に列席している(二〇-四の補遺8を参照)。
明治三八年(一九〇五)六月、京橋区月島東仲通八―二に平野鉄工所を開設し、船舶用諸機械、陸用機械、ボイラー、ポンプなどの製造を開始した。明治三九年(一九〇六)六月、平野富二の妻こまを養母として入家・入籍させ、京橋区新湊町五丁目一番地に分家させた。明治四四年(一九一一)一二月、平野こまの死亡により平野家から廃家され、平野姓のまま独立した。

その後の[平野龍亮の]動向については不明であるが、昭和一五年(一九四〇)に発行された『図説日本蒸汽工業発達史』に、平野龍亮氏所蔵の「石川島造船所製作品写真帳」からとされる、石川島造船所の初期の写真が抜粋掲載されている。
なお、平野龍亮は、富士九合名会社の代表社員である富士田九平の六女と結婚した。〈以上、『日本百工場』、『明治人名辞典』〉

朗文堂好日録-035 王のローマン体活字 ローマン・ドゥ・ロワの紹介

フランス王立印刷所 フランス国立印刷所シンボルロゴ フランス国立印刷所カード フランス国立印刷所 新ロゴ

《火の精霊サラマンダーとフランス国立印刷所》
朗文堂ニュースアダナ・プレス倶楽部ニュースの双方で、「火の精霊サラマンダーとフランス国立印刷所」の奇妙な歴史を紹介してきた。それに際してフランス国立印刷所刊『Étude pour un caractère : Le Grandjean』の画像を YouTube に投稿して紹介してきた。

トラジショナル・ローマン体とされる、「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」に関する資料は、もともとフランス王立印刷所の専用書体であり、それだけに情報がすくなく、わが国ではほとんど紹介されてこなかった。
その「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」を紹介する、書物としての 『Étude pour un caractère : Le Grandjean』 は、おおきなサイズであり、銅版印刷、活字版印刷、箔押しを駆使した限定60部の貴重な資料である。しかしながら周辺資料に乏しく、厄介なフランス語であり、また大きすぎるがゆえにコピーもままならない。
すなわちいささかもてあまし気味である。そのためにできるだけ資料を公開し、もし「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」を研究テーマとされるかたがいらしたら、できるだけ便宜をはかりたいとかんがえている。

【画像紹介:YouTube 3:53  『Étude pour un caractère : Le Grandjean』】

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写真上) フランス国立印刷所では、いまなお活字父型彫刻術を継承しており、『Étude pour un caractère : Le Grandjean』完成披露にあわせて、展示資料として、おおきなサイズで、わかりやすく活字父型、活字母型、活字を紹介した。
写真中) フランス国立印刷所では『Étude pour un caractère : Le Grandjean』の刊行に際し、ジェームズ・モズレー James Mosley 氏に寄稿を依頼し、それを仏語と英語の活字組版によって印刷紹介している。この写真は、その寄稿文の組版の実際である。英語版から河野三男氏が日本訳をされたが、本書製作の裏話が多く、あまり参考にならなかった。日本語版テキストは保存しているのでご希望のかたには提供したい。

写真下) ジェームズ・モズレーの寄稿文を、活字版印刷機に組みつけた状態の写真。
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王のローマン体〔ローマン・ドゥ・ロワ Romains du Roi 1702〕と

活字父型彫刻士 フィリプ・グランジャン〔Phillippe GRANJEAN  1666-1714〕
                      〔取材・撮影・仏語翻訳協力:磯田敏雄氏〕

王のローマン体、「ローマン・ドゥ・ロワ  Romains du Roi ロァとも」と呼ばれる活字書体は、産業革命にわずかに先がけ、それまでの活字父型彫刻士という特殊技能士による視覚と手技だけに頼るのではなく、活字における「数値化」と、幾何学的構成による「規格化」をめざしてフランスで製作された。
それは後世、オールド・ローマン体からモダン・ローマン体へと移行する時期の活字、すなわち「過渡期の活字書体  トラジショナル・ローマン体 Transitional typeface, Transitional roman」とされた。

ローマン・ドゥ・ロワの誕生には、16-18世紀フランスの複雑な社会構造が背景にあった。1517年、マルティン・ルターによる『95箇条論題 独: 95 Thesen』に端を発した宗教改革の嵐は、またたくまに16世紀の全欧州にひろがった。やがてカソリック勢力からは、新興勢力のプロテスタントを押さえ込もうとする巻きかえしがはじまった。
フランスでも拡張するプロテスタント勢力を排除・抑圧するためのさまざまな対策が講じられた。そのはじめは、フランス王ルイ13世(Louis XIII、1601-43)の治世下で、枢機卿リシュリュー公爵(Armand Jean du Plessis, cardinal et duc de Richelieu, 1585-1642)が、1640年ルーブル宮殿内にフランス王立印刷所Imprimerie Ryyal を創設したことである。
その目的は、国家の栄光を讃え、カトリック教をひろめ、文芸を発展させることにあった。一方でリシュリューは文化政策にも力を注ぎ、1635年に「フランス語の純化」を目標とする「アカデミー・フランセーズ l’Académie française」を創設した。

アカデミー・フランセーズの主要な任務として、フランス語の規範を提示するための国語辞典『アカデミー・フランセーゼ(フランス語辞典) Dictionnaire de l’Académie française』の編集・発行があった。その初版はアカデミーの発足後60年の歳月を費やして完成し、1694年、次代のフランス国王ルイ14世に献じられた。同書は初版以後もしばしば改訂され、現在は1986年からはじまる第9版の編纂作業中にあるとされる。

ルイ13世の継承者フランス王ルイ14世(Louis XIV、1638-1715)はブルボン朝第3代のフランス国王(在位:1643-1715)で、ブルボン朝最盛期の王として、またフランス史上でも最長の72年におよぶ治世から「太陽王Roi-Soleil」とも呼ばれた。
1692年、ルイ14世はアカデミー・フランセーズに、「フランス王立印刷所 Imprimerie Ryyal」の独占的な活字資産として、あたらしい活字書体の製作を命じた。アカデミー・フランセーゼはただちに小委員会を結成してあたらしい活字書体の検討に着手した。
ジェームズ・モズレーによるとこの委員会の構成員は、ジル・フィユ・デ・ビレ(Gilles Filleau des Billettes  59歳の科学者)、セバスチャン・トルシェ(Sebastien Truchet  37歳の数学者)、ジャック・ジョージョン(Jacques Jaugeon  38歳の神父にして数学教育者)、ジャンポール・ビニヨン(Jean-Paul Bignon  32歳の教育者)であった。

メンバーは学識はゆたかだったが、必ずしも印刷と活字の専門家とはいえなかった。かれらは手分けして、
「われわれはすべての事柄を保存する必要がある。まず技芸からはじめる。すなわち印刷術の保存である」(『王立アカデミーの歴史 Historie de l’Academie royale des Sciences』)として、印刷所・活字鋳造所・活字父型彫刻士・製紙業者・製本業者などの工場をおとづれて、取材をかさねたり、わずかな印刷と活字製造関連の既刊書を読んでいた。数学教育者のジャック・ジョージョンは、
「消え失せた言語と、生きている言語など、あらゆる言語のキャラクターを集めた。また天文学・科学・代数学・音楽など、ある種の知識にだけ必要な、特殊キャラクターを集めていた」

結局アカデミー・フランセーズは、小委員会のほかにニコラ・ジョージョン Nicolas Jaugeon を中心に、あらたな技術委員会を結成して、現実的な活字書体の研究に着手することとなった。ジョージョンの意図はアカデミーの意向を受けて、活字における徹底した「数値化」と、幾何学的構成による「規格化」にあるとした。
ジョージョンを中心とした技術委員の3名は、視覚と経験にもとづく彫刻刀にかえて、定規とコンパスをもちいて、精緻な活字原図を書きおこした。そしてその活字原図は、アカデミーのたれもが理解できるように、大きなサイズの銅版に彫刻され、少部数が銅版印刷された。銅版彫刻師はルイ・シモノーであった。
このあたらしい活字書体は、この段階で「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」の名称をあたえられた。
しかしこの銅版印刷物からは、書体の「鑑賞と観察」はできても、実際の活字として完成するまでには、もう少しの、そしておおきな努力が必要だった。
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フィリップ・グランジャン(Philippe Grandjean 1666–1714)は、若い頃から活字鋳造と活版印刷に関心をいだいて、パリにでてきていた。
ルイ14世にグランジャンの活字父型彫刻士としての能力を推薦したのはルイ・ポンチャートレイン(Louis Pontchartarain  1643-1727)とされる。その卓越した技倆は「フランス王立印刷所 Imprimerie Ryyal」のディレクター、ジャン・アニゾン Jean Anisson も認めるところとなった。

グランジャンはアカデミーの命をうけて「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」の活字父型彫刻に、1694-1702年の8年余にわたって集中した。最終的には「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」は、21のサイズの、アップライト・ローマン体とイタリック体が完成した。
しかしながらその事業はグランジャン一代で終わることはなく、アシスタントだったジャン・アレキサンダー Jean Alexandre と、さらに後継者のルイス・ルース Louis Luce に継承されて完成をみた。

グランジャンをはじめとする活字父型彫刻士は、アカデミーから提示された「王のローマン体 ローマン・デュ・ロワ」の原図を「参考」にはした。したがっていくつかのキャラクターのフォルムは、たしかに原図にもとづいているし、セリフは細身で、水平線がめだつという特徴は維持されている。
またイタリックの傾斜角度は均一に揃っていて、それまでのオールドスタイルのイタリックとは組版表情を異とする。

あらためて『Étude pour un caractère : Le Grandjean』に再現された、銅版印刷による原図をみると、ヘアライン(極細の線)や、ブラケットの無い細いセリフ──それだけに脆弱であった──は、当時の印刷法や紙の性質(この時代の用紙は当然手漉き紙であり、堅くて厚さが均一でなく、また印刷にあたっては十分に濡らしてから印刷していた)や、手引き印刷機によるよわい印圧、インキの練度では紙面上に再現できないとして、活字父型彫刻士としての矜持をもって、随所に「解釈」を加えていた。

「ローマン・ドゥ・ロワ」は、きたるべき産業革命時代を前にして、グランジョンらは、すぐれて人と関わりのふかい活字のすべてを、科学という人智をもって制御するより、視覚に馴致したみずからの経験と、ながらく継承されてきた技芸を優先させていたことがわかる活字書体である。
すなわちモダン・ローマン体と呼ばれる一連の活字書風が誕生するためには、まだ印刷術および周辺技術そのものが未成熟であった。それがして「王のローマン体 ローマン・ドゥ・ロワ」は、「過渡期の活字書体、過渡期のローマン体  Transitional typeface, Transitional roman」とされたのである。

「王のローマン体 ローマン・デュ・ロワ」には、フランス国王ルイ14世と「フランス王立印刷所 Imprimerie Ryyal」の権威を保証するメルクマール(サイン)が付与されている。それはフランス王ルイ14世 Louis XIVのイニシャル、小文字の「l エル」の左側面のちいさな突起である。この突起の有無が、真正「ローマン・ドゥ・ロワ」の品格を保証した。

「王のローマン体 ローマン・デュ・ロワ」は法による保護のもとに、フランス王立印刷所、そして現代ではフランス国立印刷所における、誇るべき占有書体としての地位をゆるぎなく保持している。
それでも18世紀から、このあたらしい活字書体は、「l エル」の突起部の有無をふくめて、多くの影響と同時に、摸倣書体をうんできた。なかんずく ピエール・シモン・フルニエ P.S.Fournier と、フランコ・アンンブロース・ディド P.F.Didot  らのフランスの活字鋳造者であった。
かれらの活字書体は、ひろく民衆のあいだに流布して「過渡期のローマン体 Transitional roman」と呼ばれている。時代はやがてモダン・ローマン体の開花をみることとなった。

そして、活字設計にあたって、数値化と規格化をもとめて、キャラクターを48×48の格子枠に分割する ── すなわち 2,304  のグリッドをもうけて書体設計をするという「ローマン・ドゥ・ロワ」の基本構想は、良かれ悪しかれ、モダーン・ローマンの開発はもとより、こんにちの電子活字(デジタルタイプ)の設計にまでおおきな影響をおよぼしている。

◎ 参考資料:

Type designers : a biographical deirectory,  Ron Eason, Sarema Press, 1991  
Studies for a Type,  James Mosley ── 本書の解説文:翻訳協力/河野三男氏

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平野富二と活字*11 『平野富二伝』刊行記念 展示・講演会-平野富二没後120年、平野活版製造所(東京築地活版製造所)設立140年、石川島造船所創業160年

平野表紙uu 明治産業近代化のパイオニア
『平野富二伝 考察と補遺』
古谷昌二 編著
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発行:朗 文 堂
A4判 ソフトカバー 864ページ
図版多数
定価:12,000円[税別]
発売:2013年11月22日
ISBN978-4-947613-88-2 C1023 

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『平野展』ポスターs明治産業近代化のパイオニア
『平野富二伝』 考察と補遺  古谷昌二編著
刊行記念 展示・講演会
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日 時 : 2013年11月30日[土]-12月01日[日]
      11月30日[土] 展示 観覧  10:00-16:30
                    著者講演会 14:00-16:00
             12月01日[日] 展示 観覧    10:00-15:00
                    掃 苔 会       10:00-12:00
      編著者・古谷昌二氏を囲んでの懇話会、サイン会は、会期中随時開催
会 場 : 日展会館
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主 催 : 平 野 家
協 力 : 朗 文 堂
後 援 : 理想社/タイポグラフィ学会/アダナ・プレス倶楽部

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明治産業近代化のパイオニア 平野富二  遺影三点紹介平野富二 東京築地活版製造所初号明朝体
1846年(弘化3)8月14日-1892年(明治24)12月3日 行年47
「平野富二」の名は、東京築地活版製造所 明朝体初号活字をもとに書きおこした 

平野富二武士装束 平野富二 平野富二と娘たち


《『平野富二伝』刊行記念 展示・講演会に際し、主催者/平野家ご挨拶 および 親族の紹介》
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 2013年11月30日[土]、古谷昌二氏の講演に先だって、主催者/平野家を代表して、平野富二曾孫・平野義和氏よりご挨拶があった。つづいて平野富二玄孫・平野正一氏より、ご一族と、ご親族の紹介があった。おりしも数日後の12月03日には、「平野富二没後121年」の記念の日を迎えるときであった。
10年前に開催した《平野富二 没後110年祭 》のおりは、あいにくの小雪まじりの寒い日であったが、今回は晴天に恵まれ、多くのご親族と、聴衆の皆さまをお迎えして、会場ははなやいだ雰囲気につつまれた。

写真は上より
◎ 平野家代表  平野義和氏(平野富二曾孫四男:七福会社社長) ご挨拶
◎ 平野家代表  平野正一氏(平野富二玄孫長男) ご挨拶ならびにご親族紹介
◎ 平野家代表  平野克明氏(平野富二曾孫次男:静岡大学名誉教授)
◎ 平野家代表  平野健二氏(平野富二玄孫次男)と、平野家一族のご夫人とお子様たち
◎ 山口家代表  山口景通氏およびご親族(平野家外戚。平野富二の三女:山口幾み様のご後継者)
◎ 矢次家代表  矢次めぐみ氏およびそのご家族(平野富二の生家:矢次重平様のご後継者)

 《古谷昌二氏 『平野富二伝』  刊行記念講演会》
いよいよ『平野富二伝』の編著者:古谷昌二氏による記念講演がはじまった。
講演は途中休憩をはさんで2時間におよぶ長時間であったが、明治産業の近代化と、それをなした先駆者のひとり、平野富二に関して、平易に、諄諄と説かれ、意義深い講演であった。
四半世紀ほどにおよぶ古谷昌二氏のねばりづよいご研鑽によっって、ようやく霧のかなたに霞み、歴史に埋没するおそれすらあった平野富二の実像が、ここに現出したおもいがした。


今回は、日展会館二階全室のすべてを拝借して、ゆったりとした記念展示をこころがけた。
展示品はおもに、一般にははじめて公開される、平野家に継承された貴重な一次資料であった。それらのすべては『平野富二伝』に詳細に紹介されているので、ぜひご購読をいただきたい。

また後援にあたられた「タイポグラフィ学会」では、平野富二賞をもうけて、すぐれた功績をのこしたタイポグラファを顕彰している。
その関連資料と、これまでの受賞者:吉田市郎氏、森澤嘉昭氏、大日本印刷株式会社秀英体開発室の関連資料なども展示された。

「タイポグラフィ学会 ───── 平野富二賞は、タイポグラフィの普及発展に著しく功績のあった個人及び団体に対するもので、その対象者は社会へのタイポグラフィの認識を高める行動及び啓蒙などにおいて、その事績が本学会にとどまらず、広く社会に貢献していると認められるものです」

アダナ・プレス倶楽部は、池原奞・池原香穉による、いわゆる「和様三号活字」をもちいて、平野富二の短歌を組版し、ご来場者ご自身での印刷体験をしていただき、ご来場記念品とした。
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記念講演終了後も、会場は熱い熱気につつまれて、あちこちで議論と情報交換と談笑の輪ができていた。
今回は主会場:日展会館でのイベントを、写真資料をもってご紹介した。
展示資料のほとんどは『平野富二伝』に紹介されているが、今回の催事にあたって、あらたに発見された資料もある。
谷中霊園での「掃苔会」の模様をふくめて、さらに本タイポグラフィ・ブルグロール花筏でご紹介したい。

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活字:『BOOK OF SPECIMENS』 活版製造所 平野富二 明治10年版(平野ホール所蔵)復元活字
「世の中を 空吹く風に 任せおき  事を成す身は 國と身のため」

_MG_0495uu _MG_0490uu _MG_0489uu 『平野富二伝』著者・古谷昌二氏と実兄・古谷圭一氏 DSCN1499uu

平野富二と活字*09 巨大ドックをつくり船舶をつくりたい-平野富二24歳の夢の実現まで 

Web長崎立神ドック
長船よもやま話 ジャケット
長船よもやま話 本文

『長船ナガセンよもやま話-創業150周年記念』
(長船150年史編纂委員会、三菱重工業株式会社長崎造船所 平成19年10月)

三菱重工業株式会社長崎造船所、いかにも長い名前である。地元長崎では愛着をこめて、もっぱら同社を「長船ナガセン」と呼んでいるし、同社社内報のタイトルも『長船ニュース』である。本稿では「三菱長崎造船所」と呼ばせていただく。
「三菱長崎造船所」の淵源はふるく、1857年(安政4)10月10日をもって創業の日としている。その創業150周年記念として刊行されたのが『長船よもやま話』(2007年、平成19年)である。

「お堅い150年史も必要だけど、社員や家族も気軽に読める、絵本のような150年史はできないものか……」(同書編集後記より)とされて、三菱長崎造船所の「長船よもやま話編纂事務局」の皆さんの訪問をうけたのは2006年(平成18年)のことであった。
当時の筆者は「三菱長崎造船所」の創業とは、官営の造船所から施設を借用というかたちで、経営主体が郵便汽船三菱会社・岩崎弥太郎に移った1884年(明治17)のときと考えていたので、「創業150周年」のことには少少面喰らったが、どこの名門企業も、創業のときをできるだけ遠くにおきたいようで、それはそれで納得した。

三菱長崎造船所 史料館三菱長崎造船所 史料館全景。「長崎造船所史料館」(長崎市飽の浦町1-1。JR長崎駅からタクシーで15分ほど。観覧は無料だが予約が必要)。同館Websiteより。
この赤煉瓦の建物は1898年(明治31)7月、三菱合資会社三菱造船所に併設の「木型場」として建設されたもので、三菱重工業株式会社 (本社:東京都港区港南2-16-5)発祥の地、長崎造船所に現存する、もっとも古い建物である。
1945年(昭和20)8月の空襲における至近弾や、原子爆弾の爆風にも耐えて、100年余の風雪に磨かれた赤煉瓦は、わが国の近代工業の黎明期の歴史を偲ばせるのに十分な風格がある。

「長船よもやま話編纂事務局」の皆さんは、拙著『富二奔る』を精読されており、筆者も 長崎造船所史料館  をたずねたことがあったので話がはずんだ。それにあわせて『大阪印刷界 第32号 本木号』(大阪印刷界社 明治45年)、『本木昌造伝』(島屋政一)、明治24年『印刷雑誌 1-4号』などを前にして、本木昌造と平野富二の業績に関しての話がおおいにはずんだ。何点かの持ちあわせていた画像資料は、一部を平野家のご了承をいただいて提供した。

『長船ナガセンよもやま話-創業150周年記念』は、ふつうの社史とは幾分異なり、創業150周年にあわせて見開きページで完結する150章をもうけて、フルカラー印刷による。ページ構成は、軽妙なイラストと、多くの写真資料で、わかりやすく三菱長崎造船所の長い歴史が説かれている。
すなわち、「三菱長崎造船所」では、創業のことを、徳川幕府の艦船修理工場「長崎鎔鐵所ヨウテツショ」の建設着手のときとして、オランダ海軍機関士官ハルデスらによって、長崎飽の浦アクノウラに建設が開始された1857年(安政4)10月10日をもって創業記念日としている。

1 辛抱強かったハルデスさん
  150年前、飽の浦の沼地に、日本初の洋式工場を建設
1855年(安政2)現在の長崎県庁の位置に開設された長崎海軍伝習所では、オランダから贈られた練習艦「観光丸」で訓練していましたが、そのうち、船や機関に小さな故障が出はじめました。
そこで江戸幕府に艦船修理場の設置を願い出ましたが、とても対応がスローモー。そこで永井伝習所取締は、独断でオランダ側に工場建設のための技術者や、資材の手配を申し入れました。

1857年(安政4)オランダ政府は長崎海軍伝習所第2次教師団長カッテンディーケ以下、教官と技術者37名を派遣して、資材や機械類も長崎に到着しました。
カッテンディーケは主任技師のオランダ海軍機関士官ハルデスと工場建設地を探し、飽の浦アクノウラを適地に決めました。

奉行所の認可を得て、わが国最初の洋式工場建設に着工したのは、この1857年(安政4)10月10日でした。それは今を去ること150年前で、この日が当所の創業記念日であり、日本における重工業発祥の日でもあります。[中略]
ハルデスの努力により、工場はおよそ3年半後の1861年(文久元)3月に落成し、任務を終えたハルデスらは帰国しました。[後略]
『長船ナガセンよもやま話-創業150周年記念』(p.10-11)

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写真) 三菱重工業株式会社長崎造船所 史料館提供

《三菱重工業長崎造船所にある立神ドック建碑由来の説明板》
現在の三菱長崎造船所は、飽の浦アクノウラと立神タテガミ地区を包摂した本工場、香焼コウヤギ工場、幸町サイワイマチ工場、諫早イサハヤ工場の4工場をおもな拠点として活動を展開している。
三菱長崎造船所本工場は、飽の浦地区に本社機能や病院がおかれているほかに、おもにタービン工場や機械工場として使用され、史料館もこの地区にある。

いっぽう、三菱長崎造船所本工場立神タテガミ地区は、平野富二による開削時代には、飽の浦地区とは、岬というか、山ひだ一枚を隔てて離れていた。
それは直線距離ではわずかとはいえ、山越えの道はきわめて不便で、もっぱら海路での往来しかできなかった。それを三菱長崎造船所がトンネルを掘り、拡幅して道路として、現在は飽の浦地区と直結されている。
立神には第1-第3ドックを備えた巨大な造船工場があり、ここでは30万トン級の巨大な船舶の建造も可能とされる[長崎造船所の沿革]。

平野が開削に着手した立神ドックは、拡張されて、いまなお立神第2ドックの首部をなして健在であり、そこに写真で紹介した『建碑由来』がはめ込まれている。
立神に本格的な洋式造船所が設けられた歴史はこのようにふるく、時局下にあっては対岸から見えないように巧妙に遮蔽物を置くなどして、秘密裡に戦艦武蔵が建造された。また最近では2002年に艤装中の豪華大型客船「ダイヤモンド・プリンセス」が火災をおこしたことなどでも知られている。

上掲写真は、三菱重工業長崎造船所本工場の、立神タテガミ通路の壁面に設置されている『建碑由来』説明板の写真である。この説明板の中央右寄りに「立神ドック略歴」とあり、それに続いて平野富二の事績がしるされている。
なお写真右上部に「明治十年竣功(工)」とあるが、一部に不具合があって、実際の竣工は下部の「立神ドック略歴」に記録されたとおり明治12年となった。

「立神ドック略歴  明治三年(一八七〇)長崎製鉄所長平野富二乾ドック築工を民部省に建議、許可となり着工。同四年(一八七一)一時工事中止。明治七年(一八七四)フランス人ワンサンフロランを雇入れ築工工事再開。 明治一二年(一八七九)工事完成。(長さ一四〇米、巾三一米、深さ一〇米 当時東洋一)   (後略)  昭和四三年(一九六八)三月   三菱重工業株式会社長崎造船所」

これに補足すると、
「慶応元年(1865)7月に立神軍艦打建所として用地造成が完了しましたが、当地における軍艦建造が取止めとなり、そのまま放置されていました。 明治2年(1869)になって、平野富二が民部省にドックの開設を建議し、民部省の認可がおりました。同年11月20日、平野富二が「ドック取建掛」に任命され、直ちに着工しました。しかし明治4年(1871)4月、長崎製鉄所が工部省の所轄となるに及んで、平野富二は長崎製鉄所を退職し、工事は中止されました」[『平野富二伝』古谷昌二]

平野富二(1846-91)は長崎出身で、活字と活版印刷関連機器製造「東京築地活版製造所」と、造船と重機械製造「石川島平野造船所」を設立したひとである。
残念ながら、東京築地活版製造所はよき後継者を得ずに、1938年(昭和13)に解散にいたったが、造船・機械製造「石川島平野造船所」は隆盛をみて、「石川島播磨重工業株式会社」となり、こんにちでは「株式会社 IHI」 として知られている。
株式会社 IHI と、三菱重工業とは、ともに官営造船所の払い下げからスタートした民間企業という歴史をもち、なおかつ、さまざまな分野で競合関係にある巨大企業である。

すなわち株式会社 IHI では、創業を水戸藩徳川斉昭が幕命によって、江戸・石川島の地に造船所を創設した1853年(嘉永6)年12月5日としており、同社はことし創業160周年を迎えている。
また設立の年はすこし複雑で、1876年(明治9)平野富二による「石川島平野造船所」の設立と、のちに渋澤榮一らの参加をえて、1889年(明治22)に会社法人「有限責任 石川島造船所」が設立された日の双方を設立の時としている。ただし公的には、同社が法人格を得た1889年(明治22)を設立の日としている。
IHI 会社概要 最下部] [IHI 沿革・あゆみ
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ここで、長崎の地におおきな造船所がつくられた歴史を簡略にしるしてみたい。
1857年(安政4年)  江戸幕府直営「長崎鎔鉄所」の建設着手。
1860年(万延元年)  「長崎製鉄所」と改称。
1861年(文久元年)  江戸幕府直営「長崎鎔鉄所」が完成。
1868年(明治元年)  明治政府による官営「長崎製鉄所」となる。
1869年(明治02年) 平野富二が民部省に立神にドックの開設を建議し、民部省の認可が下りた。
1869年(明治02年) 11月20日、平野富二が「ドック取建掛」に任命され、直ちに工事に着工した。
1871年(明治04年)  長崎製鉄所が工部省所管「長崎造船局」と改称[このとき平野富二は退職]。
1876年(明治09年)  平野富二、東京石川島に「石川島平野造船所」を設立。
1879年(明治12年)  官営「立神第一ドック」完成。
1884年(明治17年)  官営「長崎製鉄所」が払い下げにより三菱の経営となる。「長崎造船所」と改称。

あわせて平野富二(富次郎 1846-91)のこの時代の行蔵を簡略にしるしてみよう。
長崎にうまれた平野富二は、この三菱長崎造船所の前身、長崎製鉄所とは16歳のときから関係をもった。
まず1861年(文久元)長崎製鉄所機関方見習いに任命され、教育の一環として機械学の伝習を受けていた。このころは飽の浦に建設された長崎製鉄所の第一期工事が完成して間もないころであった。
ここでいう「製鉄所」とは、溶鉱炉を備えた製鉄所という意味の現代用語とは幾分異なり、「大規模な鉄工所」(古谷昌二氏談)とみたほうがわかりやすい。

1869年(明治2)平野富二が民部省[1869年(明治2)に設置された中央官庁。土木・駅逓・鉱山・通商など民政関係の事務を取り扱った。1871年廃止されて大蔵省に吸収された]に立神にドックの開設を建議し、民部省の認可がおりた。同年11月20日、「ドック取建掛」に任命され、直ちに工事に着工した。
このとき平野富二は24歳、春秋に富んだときであった。
しかしながら1871年(明治4)4月長崎製鉄所が 工部省 の所轄となるにおよんで、平野富二は退職し、工事は中止となった。

平野富二は、長崎製鉄所を退職したのち、1872年(明治5)7月から、長崎製鉄所の先輩だった本木昌造の再再の懇請により、経営に行きづまっていた「崎陽新塾活字製造所」を継承した。
平野は翌年、既述した「平野富二首證文」などによって資金を得るとともに、東京に出て、1873年(明治6)から活字製造と活版印刷機器の製造所、「長崎新塾出張活版所」、のちの「東京築地活版製造所」で成功して、あらたな資金をつくった。

あわせて幕末に水戸藩が設けた「石川島修船所」の敷地を借りるかたちで、念願の造船業「石川島平野造船所」の事業に1876年(明治9)に進出した。

すなわち巨大なドックをつくり、おおきな船舶をつくりたいという、平野富二24歳のときの夢は、長崎での工事は中断されて自身の手では完成をみなかった。
それでもこの立神の地に、巨大ドックを開設するという事業に着眼した平野富二は慧眼といえ、やがて工部省所管の官営造船所「長崎造船局」によって、1879年(明治12年) 立神第一ドックが完成し、その後三菱長崎造船所の主力工場となった。
それでも平野はあきらめることなく、巨大ドックをつくるという24歳のときの夢を抱きつづけ、その7年後、水戸藩徳川斉昭が、幕命によって江戸・石川島の地に造船所を創設したまま、放置されようとしていた施設を借りる(のち買収)かたちで、東京石川島の地で実現した。
このとき平野富二、31歳の男ざかりであった。

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造船業者や船乗りは「板子一枚下は地獄」とされ、きわめて危険な職業であることの自覚があるようである。したがってライバル企業「石川島平野造船所」、現在の IHI の設立者「平野富二」の名を、自社の主力ドックである立神ドックに、その名を刻した、三菱重工業長崎造船所の皆さんの意気にこころをうたれる。

上掲写真は、2001年「平野富二没後110年祭」に際して、列席された長崎造船所史料館のスタッフからいただいたものである。ここは三菱長崎造船所本工場の最奥部にあって危険があり、また情報管理の面からも、一般人の見学はゆるされていない。したがってこの写真が公開されたことはあまりないようである。

同社はまた『創業150周年記念  長船ナガセンよもやま話』(三菱重工業長崎造船所 平成19年10月 p.22-23)の見開きページで、
「立神に巨大ドックを 壮大な夢を抱いた平野富二、工事現場での大ゲンカ仲裁も」
として、イラストと写真入りで立神ドック建造中の姿を紹介している。

このとき平野富二は25歳という若さで、おそらくまだ髷を結い、帯刀して、3-4,000人のあらくれ労働者の指揮にあたっていたとみられる。

平野富二武士装束uu

平野富二(富次郎)が長崎製鉄所を退職し、造船事業への夢を一旦先送りして、活版印刷の市場調査と、携行した若干の活字販売のために上京した1871年(明治4)26歳のときの撮影と推定される。
知られる限りもっともふるい平野富二像。旅姿で、丁髷に大刀小刀を帯びた士装として撮影されている。
廃刀令太政官布告は1876年(明治9)に出されているが、平野富二がいつまで丁髷を結い、帯刀していたのかは不明である(平野ホール所蔵)。

建設中の立神ドッグ

開鑿中の立神ドック
本図は、横浜で発行された英字新聞『ザ・ファー・イースト』(1870年10月1日)に掲載された写真である。 和暦では明治3年9月7日となり、平野富二(富次郎)の指揮下で開始されたドック掘削開始から、ほぼ 9 ヶ月目に当たる状態を示す。
この写真は、長崎湾を前面にした掘削中のドライドックの背後にある丘の上から眺めたもので、中央右寄りにほぼ底面まで掘削されたドックが写されている[『平野富二伝』古谷昌二]。

考察13 開鑿ニ着手 明治二年(一八六九)一一月二〇日、製鉄所頭取青木休七郎、元締役助平野富次郎、第二等機関方戸瀬昇平は、「ドック取建掛」に任命され、続いて頭取助品川藤十郎と小菅掛堺賢助も要員に加えられた。 この中で筆頭の製鉄所頭取青木休七郎は名ばかりで、実質的な責任者は平野富次郎であった。 この時の製鉄所辞令が平野家に残されている。 
「平野富次郎  右ドック取建掛  申付候」  [『平野富二伝』古谷昌二]。 

任命状

  平野富次郎  右ドック取建掛  申付候図 ドック取建掛の辞令
本図は、平野家に保管されている平野富次郎に宛てた長崎製鉄所の辞令である。この辞令の用紙サイズは、高さ174㎜、幅337㎜で、ここに書かれている巳十一月とは明治2年(1869)11月(和暦)であることを示している[『平野富二伝』古谷昌二]。

長崎縣権大属任免状uu 

平野富次郎の長崎縣権大属任免状 
本図は、平野家に保管されている平野富次郎に宛てた長崎縣の任免状である。 この任免状の用紙サイズは、高さ187㎜、幅519㎜である。 最終行の「長崎縣」と書いた上部に小さく、「庚午 閏十月十六日」と記されており、明治3年(1870)閏10月16日[旧暦]の日付であることが分かる[『平野富二伝』古谷昌二]。
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三菱長崎造船所『創業150周年記念  長船ナガセンよもやま話』(三菱重工業長崎造船所 平成19年10月 p.22-23)には、以下のように平野富二、24歳のときの夢が記録されている。

7  立神に巨大なドックを
   壮大な夢を抱いた 平野富二  工事現場での大ゲンカの仲裁も
当所の立神タテガミドックは、仏人技師ワンサン・フロラン総指揮のもとに開削されたと一般には知られていますが、それ以前、このドックを開削した長崎人がいました。平野富二です。
富二は長崎うまれ、12歳で奉行所番となり、長崎製鐵所と関わりを持ったのは16歳のときでした。製鐵所では機関手見習いを仰せつけられています。

この後、機関手の実務勉強や実績を経て、製鐵所機関伝習方元締役と、小菅修船場長を兼務し、小菅修船場から海を隔てた対岸の立神に、一大ドック建設の夢をいだき、24歳のとき建白書を書き上げました。
建白書は、
「小菅修船所船渠で得た純益金1万8000円を資金として、立神に巨大なドックを開削し、おおいに造船の業を起こし、内外の航路と諸船舶修復の権利を掌握、加えて長崎港の繁栄を」
というものでした。この建白書は民部省で審議され、民部大丞井上馨から、「直ちに着手せよ」との許可がおりました。

1870年(明治3)9月、富二は立神ドックの開削に着手しました。しかし、この工事はなかなか簡単には進みませんでした。使用者は3千人から4千人と増え、なかには浮浪無頼のやからもおり、ケンカや酒狂、窃盗、博打、仕事もせずに惰眠をむさぼるなど、その取締りも困難でした。当時の富二はほかにも、製鐵所機関伝習方元締役、小菅修船場長の役職があり、その公務は多忙を極めていました。
加えて彼には持病があり、立神ドック開削現場で起こった二派に分かれての大ゲンカを、戸板に乗って運ばれて取り静めたこともありました。

しかし、こうした富二の苦労も報われませんでした。1871年(明治4)4月、長崎製鐵所が民部省から工部省の所管となり、小菅ドックや開削中の立神ドックなど、一切の財産帳簿類を整理し、工部省に引き渡して職を辞しています。
完成に至らなかった立神ドック開削に、それまで要した金額は2万1500円と記録に残されています。

平野富二と活字*08 天下泰平國家安全 新塾餘談初編 一、二 にみる活字見本(価格付き)

基本 CMYK
長崎港のいま
長崎港のいま。本木昌造、平野富二関連資料にしばしば登場する「崎陽 キヨウ」とは、長崎の美称ないしは中国風の雅称である。ふるい市街地は写真右手奥にひろがる。

新塾餘談 初編一 新塾餘談 初編一 口上 新塾餘談 初編一 活字見本 新塾餘談 初編一 売弘所 新塾餘談 初編二 新塾餘談 初編二 口上 新塾餘談 初編二 活字見本 新塾餘談 初編二 売弘所『 崎陽 新塾餘談 初編一、初編二 』  ともに壬申二月 ( 明治05年02月) 牧治三郎旧蔵

『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 は、「 緒言-明治壬申二月 本木笑三ママ 」、「 燈火の強弱を試る法 図版01点 」、「 燈油を精製する法 」、「 雷除の法  図版02点 」、「 假漆油を製する法 」、「 亜鉛を鍍する法 」、「 琥珀を以て假漆油を製する法 」、「 口上-壬申二月 崎陽 新塾活字製造所 」が収録されている。

また図版として計03点が銅メッキ法による 「 電気版 」 としてもちいられている。
『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 は第1丁-10丁までが丁記を付せられてあるが、11丁からは急遽追加したためか、あるいは売り広め ( 広告 ) という意識があったのかはわからないが、丁記が無く、そこに 「 口上 」 がしるされている。
製本売弘所は、「 崎陽 引地町 鹽(塩)屋常次郎 」、「 同 新町 城野友三郎 」 の名がある。

『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 壬申二月  明治05年02月 牧 治三郎旧蔵
『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 は、筆者手許資料は第01-9丁までを欠く。 10-20丁からの記述内容は、もっぱら電気鍍金法メッキの解説書である。 「口上-壬申二月 崎陽 新塾活字製造所 」 は21丁にあるが、ここからは丁記は無い。
「 口上 」 の記載内容は 『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 と同一で、発行もおなじ壬申二月 ( 明治05年02月 ) であるが、製本売弘所は、「 崎陽 引地町 鹽屋常次郎 」、「 同 新町 城野友三郎 」 のほかに、「 東京 外神田佐久間町三丁目 活版所 」、「 大坂 大手筋折屋町 活版所 」 のふたつの名が追加されている。
銅メッキ法による 「 電気版 」 は19丁に、電解槽とおぼしき図版が印刷されている。

また最終丁には、長丸印判によって 「 定價永三十六文 」 と捺印されている。
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新町活版所跡碑部分上掲図版は、長崎の新街私塾 ( 新町活版所 ) から刊行された 『 崎陽 新塾餘談 初編一、初編二 』 ( ともに壬申二月  明治05年02月 平野富二このとき26歳 ) の巻末に掲載された 「 崎陽 新塾活字製造所 」 の活字見本 ( 価格付き ) である。
この図版は、これまではしばしば本木昌造の企画として紹介され、文例から 「 天下泰平國家安全 」 の、本木昌造による活字見本として知られてきたものである ( 小生もそのように紹介してきた。 ここに不明をお詫び申しあげたい )。

武士装束の平野富二。明治4年市場調査に上京した折りに撮影したとみられる。推定24歳ころ。平野富二 ( 富次郎 ) が、市場調査と、携行した若干の活字販売のために上京した1871年 ( 明治04 ) 秋、26歳のときの撮影と推定される。 知られる限りもっともふるい平野富二像。

旅姿で、月代 サカヤキ をそらない丁髷に、大刀小刀を帯びた士装として撮影されている。 撮影年月はないが、台紙に印字された刻印は 「 A. Morikawa TOKYO 」 である。

廃刀令太政官布告は1876年(明治09)に出されたが、早早に士籍を捨て、平然と 「 平民 」 と名乗っていた平野富二が、いつまで丁髷を結い、帯刀していたのかは不明である。
平野富二の眉はふとくて長い。 目元はすずやかに切れ長で、明眸でもある。 唇はあつく、きりりと引き締まっている ( 平野ホール蔵 )。

本木昌造は、このころすでに活字製造事業に行きづまっており、1871年(明治04)06-07月にわたり、長崎製鉄所を辞職したばかりの平野富二 ( 富次郎 ) に、「 崎陽 新塾活字製造所、長崎新塾活字鋳造所 」 への入所を再再懇請して、ついに同年07月10日ころ、平野はその懇請を入れて同所に入所した。
これ以後、すなわち1871年 ( 明治04) 07月以降は、本木は活字鋳造に関する権限のすべてを平野に譲渡していた。

また本木はもともと、活字と活字版印刷術を、ひろく一般に解放する意志はなく、「 新街私塾 」 一門のあいだにのみ伝授して、一般には秘匿する意図をもっていた。 そのことは、『 大阪印刷界 第32号  本木号 』 ( 大阪印刷界社 明治45年 )、 『 本木昌造伝 』( 島屋政一 朗文堂 2001年 ) などの諸記録にみるところである。
長崎活版製造会社之印長崎港新町活版所印新街私塾

『 本木昌造伝 』 ( 島屋政一 朗文堂 2001年08月20日 ) 口絵より。 元出典資料は 『 大阪印刷界 第32号 本木号 』 ( 大阪印刷界社 明治45年 ) であり、『 本木昌造伝 』 刊行時に画像修整を加えてある。 上から 「 長崎活版製造会社之印 」、「 長崎港新町活版所印 」、「 新街私塾 」 の印章である。
長崎の産学共同教育施設は、会社登記法などの諸法令が未整備の時代のものが多く、「 新街私塾 」 「 新町私塾 」 「 長崎新塾 」 としたり、その活字製造所、印刷所なども様様な名前で呼ばれ、みずからも名乗っていたことが、明治後期までのこされたこれらの印章からもわかる。

苦難にあえでいた 「 崎陽 新塾活字製造所、長崎新塾活字鋳造所 」 の経営を継承した平野は、従来の本木時代の経営を、大幅かつ急速に刷新した。
またこの前年、1871年(明治04)の秋の上京に際して、東京を中心とする関東での市場調査と、携行した若干の活字販売をしているが、その際平野は販売に際して、カタログないしは見本帳の必要性を痛感したものとみられる。
それが 「 活字見本 ( 価格付き )」 『 崎陽 新塾餘談 初編一、初編二 』 ( 壬申二月  明治05年02月)につらなったとの指摘が、諸資料を十分検討したうえで 『 平野富二伝 』 で古谷昌二氏よりなされた。

長崎に戻った平野は、それまでの本木の方針による 「 活字を一手に占有 」 することをやめて、ひろく活字を製造販売し、あわせて活字版印刷関連機器を製造し、その技術を公開することとした。
本木の行蔵には、どこか偏狭で、暗い面がみられ、高踏的な文章もたくさんのこしている。
ところが、その事業を継承した平野は、どこかわらべにも似て、一途な面が顕著にみられ、伸びやかかつおおらかで、なにごともあけっぴろげで明るかった。

1871年 ( 明治04 ) 07月10日ころ、「 崎陽 新塾活字製造所、長崎新塾活字鋳造所 」 へ入所した平野は、早速市場調査と、活字の販売をかねて09-10月に上京した。 この旅から平野が長崎にもどったのは11月01日(旧暦)とみられている。
そのとき、長崎ではまだのんびりと 『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 の活字組版が進行していたとおもわれる。 また 『 崎陽 新塾餘談 初編一 』 の緒言に、本木は 「 本木笑三 」 という戯号をもちいて、なんらの緊張感もない序文をしるしていた。

長崎にもどった平野は、本木とその協力者 ( 既存の出資者 ) に 「 活字見本 ( 価格表付き )」、すなわち販売用カタログを緊急に製作する必要性を説き、その承諾をえて、『 崎陽新塾餘談 初編一 』  『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 (壬申 二月  明治05年02月)の両冊子の巻末に、急遽 「 販売を目的とする価格付きの活字見本 」 を印刷させ、まずは活字を、ついで活版印刷機器を、ひろく需用者に販売することにしたものとみられる。
長崎港のいま 新町活版所跡の碑 活版伝習所跡碑 本木昌造塋域 大光寺 本木昌造銅像 長崎諏訪公園このような活字を製造し、販売するという平野富二の最初の行動が、この活字見本 ( 価格付き ) であったことの指摘が、『 平野富二伝 』 ( 古谷昌二編著 朗文堂 p.136-7 ) でなされた。 これはタイポグラファとしてはまことに刮目すべき指摘といえよう。

掲載誌が、新街私塾の 『 崎陽 新塾餘談 初編一 』、『 崎陽 新塾餘談 初編二 』 であり、販売所として、初編一では長崎 ( 崎陽 ) の 「 崎陽 引地町 鹽屋常次郎 」、「 同 新町 城野友三郎 」 であり、初編二には前記二社のほかに、「 東京 外神田佐久間町三丁目 活版所 」、「 大坂 大手筋折屋町 活版所 」 の名が追加されている。
これらの販売所はすべて本木関連の企業であり、当然その効果は限定的だったとみられるが、これが平野のその後の事業展開の最大のモデルとなったとみられ、貴重な資料であることの再評価がもとめられるにいたった。

補遺4 活字の販売 
明治5年(1892)2月に新街私塾から刊行された小冊子 『 新塾餘談 初編一 』 の巻末に、
「  口上
此節雛形の通活字成就いたし片仮名平仮名とも大小數種有之候間  御望の御方へハ相拂可申右の外字體大小等御好の通製造出申候
   壬申 二月          崎陽 新塾活字製造所 」
という記事があり、続いて、初号から五号までの明朝体と楷書体活字を用いた印刷見本と、その代価が掲載されている。

この広告文は、活字を一手占有するという本木昌造の従来の方針を改め、世間一般に販売することにした平野富次郎による経営改革活動の一環と見ることができる。 東京で活字販売の成功と事業化の見通しを得たことが、本木昌造と協力者の方針を変更させ、このような活字販売の広告を出すに至ったものと見られる。              ( 『 平野富二伝 』 古谷昌二 p.136-7 )

壬申、1872年(明治05)、平野富二はたかだかと口上をのべた。このとき平野数えて27歳。
「 口上  ――  [ 意訳 ] このたび見本のとおり活字ができました。 カタ仮名活字、ひら仮名活字も、活字サイズも大小数種類あります。 ご希望のお客さまには販売いたします。 そのほかにも外字やサイズなど、お好みに合わせて製造いたします。
明治五年二月  崎陽 新塾活字製造所 」
以上をのべて、本格的な活字製造販売事業を開始し、あいついで活版印刷機器製造事業をはじめた。

この 「 口上 」 という一種のご挨拶は、本木の高踏的な姿勢からは発せられるとは考えにくく、おそらく平野によってしるされた 「 口上 」 であろう。
同時に平野は、東京への進出に備えて、あらかじめ1872年(明治05)8月14日付け 『 横浜毎日新聞 』 に、陽其二 ヨウ-ソノジ、ミナミ-ソノジ らによる、長崎系同根企業の 「 横浜活版社 」 を通じて、同種の広告を出していた。

同年10月、平野は既述した 「 平野富二首證文 」 を担保として、上京のための資金 「 正金壱千円 」 余を調達した。 その調達先には、長崎六海商社と、元薩摩藩士で関西経済界の雄とされる五代友厚の名前があがっているが後述したい。
そして、退路を断った東京進出への決意を胸に秘めて、新妻 ・ 古ま ほか社員08名 ( のち02名が合流 ) をともなって上京した。

上京後の平野は、ただちに同年10月発行の 『 新聞雑誌 』 ( 第66號 本体は木版印刷 ) に、同種の 「 天下泰平國家安全 」 の活字目録を、活字版印刷による附録とし、活字の販売拡大に努めている。
このときの 『 新聞雑誌 』 の発行部数は不明だが、購読者たる明治の教養ひとにとっては、木版印刷の本紙の付録として添付された、活字版による印刷広告の鮮明な影印は、新鮮な驚きがあったであろうし、まさしく文明開化が具現化したおもいがしたのではなかろうか。

この 「 壬申 二月 」、1872年(明治05)02月とは、わが国の活字と活版印刷術が、平野富二の手によって、はじめて、おおらかに、あかるく、ひろく公開され、製造販売が開始された記念すべき年であったことが、本資料の再評価からあきらかになった。
これからは時間軸を整理し、視点を変えて、再検討と再評価をすべき貴重な資料といえる。

平野富二と活字*07 12月03日、きょうは平野富二の命日です。

 平野富二 東京築地活版製造所初号明朝体
1846年(弘化3)8月14日-1892年(明治24)12月3日 行年47

武士装束の平野富二。明治4年市場調査に上京した折りに撮影したとみられる。推定24歳ころ。

平野富二肖像写真(平野ホール藏)
平野富二と娘たちuu

写真上) 平野富次郎 丁髷士装の写真
平野富二が「平野富次郎」と名乗っていた26歳ころの写真。知られる限り最も古い写真。月代サカヤキを剃らずに丁髷を結い、大刀小刀を帯びた旅姿の士装として撮影されている。撮影年月はないが、台紙に印字された刻印は「A. Morikawa TOKYO」である。
1871年(明治4)夏、本木昌造は巨額の債務にあえいでいた長崎新町活版所の事業のすべてを平野富二(富次郎)にゆだね、その委嘱を受けた平野は同年9月、将来の事業展開を東京に開かんとして、市場調査のために、若干の活字を携えて上京。持参した活字のほとんどを販売し、その記念として長崎に帰る直前に撮影したものとみられる。
推定1871年秋(明治4 富二26歳) 平野ホール蔵

写真中) 平野富二肖像写真
1885年(明治18)3月、平野富二は海軍省から一等砲艦を受注して、長年の夢であった軍艦の建造を実現した。また4月には東京築地活版製造所を本木家から独立させて株式組織とした。これらを記念して撮影したものとみられる。

平野富二肖像写真 台紙裏台紙の裏面には一対の鳳凰を配し、上部に「東京印刷局写真」、下部に「PHOTOGRAPH BY INSETUKIOKU」としるした装飾紋が、薄紫紅色で印刷されている。印刷局では1886年(明治19)まで写真館を営業していた。
推定1885年(明治18 富二40歳) 平野ホール蔵

写真下) 平野富二と 指輪が自慢な愛娘との写真
平野富二には、夭逝した琴(コト、古登とも)、家督を相続した津類(左:ツルとも、1870-1941)、漢学者の山口正一郎に嫁した幾み(右:キミとも、1881-1937)の三女があった。
高血圧のため減量中の富二はズボンがだぶついているが、愛娘の間にあって、照れたようにあらぬ方に視線を向けている。娘たちはおめかしをして、指輪が自慢だったようで、てのひらをひろげて指輪をみせている。この写真は病に倒れる前の、愛情溢れる平野富二一家の記念となった。
推定1890年(明治23 富二45歳) 平野ホール蔵

《平野富二がもちいた社章など》
商標01uu

商標02uu

上左) 『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO』(活版製造所 平野富二、推定明治10年)にみられる築地活版所の社標で、本木昌造の個人紋章「丸も」のなかに、ブラックレターのHがみられる。ながらくもちいられ、明治17年の新聞広告にも掲載されている。

上右) 東京築地活版製造所の登録商標で、明治19年の新聞広告からみられる。

下左) 平野富二と稲木嘉助の所有船痛快丸の旗章で、装飾文字のHをもちいて、明治11年に届け出ている。

下右) 明治18年石川島平野造船所は商標を制定し、登録した。この商標は『中外物価新報』(日経新聞の前身 明治18年7月7日)に掲載した広告にはじめて示されている。イギリス人御雇技師(アーチボルト・キングか)の発案とされ、「丸も」のなかにカッパープレート系のふとい HT が組み合わされている。

平野富二と活字*03|『活字界』牧治三郎二回の連載記事に 戦慄、恐懼、狼狽した活字鋳造界の中枢

『活字界』での牧治三郎 二回の連載記事に
戦慄、恐懼、狼狽した活字鋳造界の中枢

牧治三郎の問題提起「旧東京築地活版製造所跡に記念碑を建設する件」をうけて
当時の執行部は、驚愕、戦慄、恐懼、狼狽して「禊ぎと祓い」にはしった。
牧は不気味な口吻をもって、活字鋳造業者に警告を発するとともに
即座に知己の多い「懇話会」への建碑の根回しをはじめていた。
したがって「活字発祥の碑」建立企画から、落成披露までの間の主役は牧であった。
ところがこの2回・8ページにわたった連載記事の掲載から11ヶ月後
すなわち「活字発祥の碑」の除幕式の直後から、牧は急速に業界の信頼をうしなう。
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掲載号2回目と同じ『印刷界 22号』(全日本活字工業会、昭和46年7月20日)には
早速東京活字協同組合理事会での協議をへた「記念碑建設の方向の決定」を
急遽広告欄を割いて、広報部・中村光男氏が囲み記事として以下のように報告している。
その周章狼狽ぶりがよくわかる内容になっている。

旧東京築地活版製造所その後

全日本活字工業会広報部:中村光男

東京活字協同組合では[昭和46年〕6月27日開催の理事会で、「旧東京築地活版製造所跡に記念碑を建設する件」について協議した。旧東京築地活版製造所跡の記念碑建設については本誌『活字界』に牧治三郎氏が取壊し記事を掲載したことが発端となり、牧氏と、同建物跡に〔新ビルを〕建設される懇話会館の八十島〔耕作〕ヤソジマ-コウサク社長との間で話し合いが行なわれ、八十島社長より好意ある返事を受けることができた。

この日の理事会はこうした記念碑建設の動きを背景に協議を重ねた結果、今後は全日本活字工業会および東京活字協同組合が中心となって、印刷業界と歩調を併せ、記念碑建設の方向で具体策を進めていくことを確認。この旨全印工連、日印工、東印工組、東印工へ文書で申し入れることとなった。
『活字界  22号』 (全日本活字工業会  昭和46年7月20日)
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【お断り】 東京築地活版製造所の呼称は時代によって様様であり、しばしば略称や旧社名とも混用されている。本稿ではその混乱を避け、特殊な引用の場合をのぞき、1873(明治6)創立-1938年(昭和13)清算解散までのあいだのすべての期間の社名を「東京築地活版製造所」とし、また法人社格も表記しないことにした。

東京築地活版製造所明治10年版1
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写真上) 『BOOK OF SPECIMENS  MOTOGI & HIRANO  通称:明治10年版東京築地活版製造所活字見本帳』(活版製造所 平野富二、平野ホール所蔵)。

この口絵は東京築地活版製造所の最初期の建築物。木口木版画を清刷りとして、電気版で印刷したとみられる。右側の袖看板には「長崎新塾出張東京活版所」とある。手前に人力車が描かれているが、これはもっぱら平野富二が愛用したもので、現代の運転手つき自家用車にあたるとみてよい。これに関して次女・幾みがのこした記録を紹介するのには、もうすこし時間をいただきたい。

写真中) 『活版見本』(東京築地活版製造所、明治36年)
この口絵は銅版画を清刷りとして電気版で印刷としたものとみられる。画面中央部のちいさな建物は上掲写真の明治7年完成の創業当初からのもので、このころは事務棟とされていた。その手前、築地川に浮かぶ舟艇とその周辺設備は、平野富二との関連で重要な設備と乗り物であるが、『平野富二伝』(古谷昌二、2013、朗文堂 pp 440)を参照願いたい。

写真下) 記録をのこすことが少なかった東京築地活版製造所最後の本社工場ビル。1923年3-9月にかけて順次設備が完成し、1971年に新築のために取り壊された。
東京築地活版製造所第四代専務、野村宗十郎の発意によって、創業期からの建物を全面撤去して、同地に1923年(大正12)3-9月に竣工。完成直後、本格移転日の前日に関東大地震に見舞われたがビル本体の損傷は少なかったとされる。

1938年(昭和13)東京築地活版製造所清算解散にあたり、債権者から精銅業者の団体「懇話会」に売却され、「懇話会館」の名称のもとに継続して使用された。
1971年(昭和46)3月、懇話会が関東大地震、戦災の猛火を良くしのいできたこのビルを、老朽化を名目に取り壊し、あたらしいビルの建築を決定した。現在は新ビルが建ち「コンワビル」として使用されている。
全日本活字界は「活字発祥の碑」の建造地として、この写真の左角・旧正門(西南)付近に建設を希望したが、所有者の「懇話会」から容れられず、右奥のあたり(東南角)に設けることを許された。

※ このビルの正門が晴海通り万年橋方向にむかい、それは西南方向で裏鬼門にあたる ── とされているが、近年資料の発掘と調査が進み、正門は祝橋にむかい、西北方向にあったという指摘・見解が多くなっている。
稿者はこのふるいビルが取りこわされると聞き、一度だけ夜に前を通ってみたことがあるが、正門の位置などは意識もなく、記憶していない。幸い建設会社が判明し資料紹介中というところ。
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東京築地活版製造所の創立者に本木昌造におき、本木昌造への過剰な称揚と讃仰が目立つようになるのは、ずっと時代がさがって、第五代・野村宗十郎(1857-1925)が専務社長時代になってからになる。なお東京築地活版製造所では歴代専務が社長として会社を総覧し、支配人がそれをたすけていた。
また長崎系の人脈と、長崎系の資金が枯渇した昭和最初期、この時代に刊行された『株式会社東京築地活版製造所紀要』(東京築地活版製造所、昭和4年10月) にも、そうした本木昌造を過剰に称揚する風潮をあおりたてるような文章が冒頭からつづいている。これもちかぢか紹介し たい資料である。

野村宗十郎の本姓は服部であった。のちに野村姓を名乗り、元薩摩藩士と称した。古谷昌二氏が東京築地活版製造所歴代社長略歴を調査されており、その真相があきらかになることが期待される。
父親が長崎在勤であったために、本木昌造の新街私塾にまなび、のちに大蔵省の主計官僚となった。その野村宗十郎を東京築地活版製造所に迎えたとき、どういうわけか平野富二は、倉庫掛の役職を野村に命じた。

本木昌造伝 野村宗十郎寛永寺墓地。野村宗十郎の墓地。東京都目黒区、目黒不動尊の仁王門を入ってすぐ右手に、野村宗十郎の胸像がある。
野村宗十郎とその一家の墓所は、東京谷中霊園内上野寛永寺墓地にある。

この大蔵官僚・野村宗十郎を迎えたとき、おそらく平野富二は、活字製造や機械製造にくらかった野村に、製造業者・現業者としてのはじめを、在庫の管理からまなばせようとしたものとおもわれるが、自負心と上昇意欲がつよく、能力もあった野村は、この待遇にいたく自尊心を傷つけられ、おおきな不満があったとものとみられる。
あるいは、なにかと官僚をきらうふうがあった平野富二とは、単に相性が悪かっただけなのかもしれないとおもうこともある。
牧治三郎はかつてこう述べていた。
「野村先生は平野さんが嫌いでさぁ、平野さんのことになるとムキになっていたなぁ。よっぽど嫌いだったんだろう。平野さんが大蔵省からきた野村先生を、いきなり倉庫係になんかにしたから、恨んでたんだろうな」
それでも野村は東京築地活版製造所でもその才能を発揮して、支配人、専務社長と昇進をかさねた。

平野富二が1892年(明治25)若くして歿し、後継となった第三代専務社長・曲田 茂(マガタ-シゲリ 1846-94)をたすけて支配人となったが、まもなく曲田が旅先に客死するにおよび、1894年、当時貴族院議員をつとめていた顕官の名村泰蔵(長崎出身。新街私塾で英語と数学を教授。大審院長。1840-1907)を第四代専務社長として迎えた。
その名村も歿するにおよび、1907年(明治40)ついにみずからが東京築地活版製造所第四代専務に就任した。
その後野村宗十郎は、東京築地活版製造所の諸記録から、平野富二の存在と、その功績を抹消することに 蒼いほむら を燃やし続けた。
[参考:花筏 【資料紹介】 株式会社東京築地活版製造所第三代社長『曲田成君略傳』(松尾篤三編集兼発行 東京築地活版製造所印刷)

《平野富二の移転当時は、大火災の跡地であった築地界隈》
平野富二が買い求め、1873年(明治6)年に移転した、あたらしい東京築地活版製造所の敷地に関して、牧治三郎は次のようにしるしている。

平野富二氏の買求めたこの土地の屋敷跡は、江戸切絵図によれば、秋田淡路守の子、秋田筑前守(五千石)中奥御小姓の住宅跡地で、徳川幕府瓦解のとき、此の邸で、多くの武士が切腹した因縁の地で、主なき門戸は傾き、草ぼうぼうと生い茂って、近所には住宅もなく、西本願寺[築地本願寺]を中心にして、末派の寺と墓地のみで、夜など追剥ぎが出て、1人[ひとり]歩きが出来なかった。
(『活字界 21号』(牧治三郎、全日本活字工業会  昭和46年5月20日)

現在の築地西本願寺。江戸期の寺領の数分の一の規模になっている。築地万年橋からの風景:右・松竹ビル、中・コンワビル(東京築地活版製造所跡)、左・電通関連企業ところが、牧治三郎が 江戸切絵図 で調べたような情景は、1872年(明治5)2月25日までのことである。
いかに該博とはいえ、どうやら牧はこの記録を見落としていたようである。
1872年2月25日、銀座から築地一帯に強風下での大火があって、築地では本願寺の大伽藍はもちろん、あたり一面が焼け野原と化した。
そして新政府は、同年7月13日に、築地本願寺の寺域をおおきく削るとともに、築地本願寺はもとより、東京中心部の墓地を集合移転させる構想のもとに、青山墓地をつくり、あいついで、雑司ヶ谷、染谷、谷中などに巨大な墓地をつくって、市中から墓地の移転をすすめていた。

したがって築地本願寺とその周辺の末寺の墓地は、ねんごろに除霊をすませて、すでに新設墓地へ移転していたのである(『日本全史』 講談社  918ページ  1991年3月20日)。
現代でも旧京橋区、銀座から築地一帯が繁華な商住地となり、そこに墓地をみることがすくないのは、こうした背景による。

すなわち活字と印刷機器製造のために、また長崎製鉄所出身で「鋳物士 イモジ」の心性を知る平野富二が、牧治三郎が指摘したような場所を選択することは考えられない。
平野富二が選んだ新天地は、火焔によって、また築地本願寺とその末寺の寺僧によって、すっかり除霊が済んでおり、当然移転に際しては神官による「禊ぎと祓い」がなされた土地であったことは注目されて良い。
1873年(明治6)7月、平野富二が本格スタートの地として選び、現在は「活字発祥の碑」が建立されている「築地二丁目万年橋東角二十番地」(現住所:東京都中央区築地1-12-22)とは、こうした場所であった。

《築地川から石川島へ、そして大海原へ。水利にめぐまれた創業の地-古今東西を問わず、活字版印刷は水運の良い場所で創始した》
筆者はかつて、東京築地活版製造所、石川島造船を創業した平野富二が、どのように水利・水運を意識してこの地を選んだのかに興味をもったことがある。
それは陸上輸送が不便で、自動車などの登場するはるか以前、560年ほど前から活版印刷ははじまっていた。
河川・運河沿いに発展した印刷工房マインンツ グーテンベルク工房それらの工房の発祥地をみると、ライン川沿い、マインツで創業したヨハン・グーテンベルク、ヴェネツィアの運河群に面して創業したアルダス・マヌティウス、パリのセーヌ川のほとり、ヴィスコンティ通りに開設されたオノレ・バルザックのちいさな印刷所は、のちにドベルニ&ペイニョ活字鋳造所として盛名を馳せた。
また19世紀世紀末にテムズ河畔に結集した、ダヴス・プレス、ケルムスコット・プレスなどのプライベート・プレスの工房など、歴史に名をのこした活版印刷工房のおおかたが、川や運河に面した地で創業している。
つまり20世紀までの活版印刷士(タイポグラファ)は、重量のある活版印刷機、金属活字、印刷用紙、図書の運搬のために、水運をもちいていたからである。
まして平野富二は、いずれは造船業への進出の夢を抱いての創業であった。

そうした関心から、1872年(明治5)7月、平野富二が最初に「神田佐久間町三丁目門長屋」に設けた「長崎新塾出張東京活版所」の仮工場(現在も佐久間町の町名と家並みがそのままのこる。秋葉原駅から徒歩五分ほど。正しくは通りひとつを隔てた津藩藤堂和泉守上屋敷の門長屋とその抱えこみ地。現千代田区神田和泉町一。千代田区立和泉公園のあたり)の場所から、移転先の「築地二丁目万年橋東角二十番地」(現住所:東京都中央区築地1-12-22)までのあいだを、「江戸切絵図」を手にしながら実際に歩いたことがある。
驚いたことに、和泉公園前、神田佐久間町三丁目のスタート地点から、終始神田川のゆたかな水量にめぐまれ、暗渠になっている部分もあったが、ほぼ「江戸切絵図」に描かれた河川や堀割跡にそって、築地万年橋跡、中央区築地1-12-22まであるくことができた。

築地川は現在は埋め立てられ、首都高速道路の一部で上部は公園になっているが、すくなくとも昭和初期までは、喫水の浅い船でなら、神田川、堀割、築地川の水利をもちいて、相当の物資の輸送も可能ではないかとおもわれた。
同様の試みは日吉洋人氏(武蔵野美術大学基礎デザイン学科助手。活版カレッジ修了)もおこなった。

もちろん、天然の良港長崎にうまれ、すでに幕末から艦船に搭乗・操艦していて、船にはおおいに親しんでいた平野富二である。
しだがって本章冒頭で紹介した『東京築地活版製造所 活版見本』(東京築地活版製造所、明治36)の口絵に、ゆたかな水量の築地川が描かれ、そこに小型の舟艇が繋留されているのは決して偶然ではないのである。

平野富二にあっては、河川は道と同様の存在であり、この水利にめぐまれた築地の地をえらんだ背景には、いずれは大道たる大海への足と道、すなわち造船業の創始と、航路開発・港湾開発へ進出の夢を、あつく抱いてこの地を選んだものとおもわれた。

1853年(嘉永6)水戸藩が開設した石川島造船所跡に、1876年(明治9)みずからの造船所(石川島平野造船所)を開設して造船事業をはじめた平野富二は、水運の有効性を十分に知っていた。また終生、船での旅をいとうことなく繰りかえしたひとでもあった。このことは『平野富二伝 考察と補遺』(古谷昌二、朗文堂)に詳述されている。

したがって築地の本格創業にむけた新天地の選択には、ゆたかな水量の築地川と、そこから石川島をへて、渺渺とひろがる東京湾から太平洋につらなる「水運の利便性」という視点から、この地が選択された可能性がおおきいとみられた。
與談ながら……、石川島造船所(現 I H I )が本2013年をもって「創業160年」としているのは、1853年(嘉永6)水戸藩が開設した石川島造船所の開設をもってその起点としている。

江戸切り絵図から

江戸切絵図
数寄屋橋から晴海通りにそって、改修工事がなった歌舞伎座のあたり、采女ヶ原 ウネメガハラ の馬場を過ぎ、万年橋を渡ると永井飛騨守屋敷(現松竹ビル)、隣接して秋田筑後守屋敷跡が東京築地活版製造所(現コンワビル)となった。
いまは電通テックビルとなっているあたり、青山主水邸の一部が平野家、松平根津守邸の一部が薩摩藩出身・英国公使/上野景範カゲノリ家で、義弟とみられる弘道軒・神﨑正誼マサヨシが、この上野の長屋に寄留して楷書体活字のひとつ「弘道軒清朝活字」を創製した。
神崎正誼の弘道軒活版製造所は、本格創業の地としてここから徒歩五分ほど、銀座御幸通り(現ユニクロ銀座旗艦店の裏手)に開設したが、活字製造者やタイポグラファにとっては まさにゆかりの地である。

《大火のあと、煉瓦建築が推奨された ── 火災を怖れた東京築地活版製造所の社風の一端》
東京築地活版製造所の建物が、創業直後から煉瓦づくりであった……、とする記録に関心をむけた論者は少ないようである。
もともとわが国の煉瓦建築の歴史は幕末からはじまり、地震にたいする意外なほどの脆弱さをみせて、普及が頓挫した関東大地震のあいだまで、ほんの65年ほどという短い期間でしかなかった。

わが国で最初の建築用煉瓦がつくられたのは1857年(安政4)、長崎の溶鉄所事務所棟のためだったとされる。その後幕末から明治初期にかけて、イギリスやフランスのお雇い外国人の技術指導を受けて、溶鉱炉などにもちいた白い耐火煉瓦と、近代ビルにもちいた赤い建築用の国産煉瓦がつくられた。
それが一気に普及したのは、前述した1872年(明治5)2月25日におきた、銀座から築地一帯をおそった大火のためである。

築地は築地本願寺の大伽藍をはじめとして、あたり一面が全焼し、茫茫たる焼け野原となった。 その復興に際し、明治新政府は、新築の大型建築物は煉瓦建築によることを決定した。 また、この時代のひとびとにとっては、重い赤色の煉瓦建築は、まさしく文明開化を象徴する近代建築のようにもみえた。

そのために東京築地活版製造所は、その社屋をさまざまな資料などに わざわざ「煉瓦建築で建造」したと、しばしば、そしてあちこちにしるしていたのである。
さらに平野富二にとっては、水運に恵まれ、工場敷地として適当な広大な敷地を、しかも焼亡して、除霊までなされた適度な広さの武家屋敷跡を、わずかに1,000円(米価1俵60kg基準で、現代との価格差を2,000倍とすると、2千万円見当)という、おそらく当時の物価からみても低額で取得することができたのである。

その事実を、平野富二は複数の出資者にたいして、購入価格を開示して、けっして無駄な投資をしたのではないことを表明したために記録にのこったものとみたい。
平野富二は官業をきらい民間企業、民業にこだわったために、のちに渋澤榮一の助言をえて、株式会社に改組するまでは「複数の個人出資者」の存在はおもかった。このことは、嫡孫・平野義太郎があかした「平野富二首證文」をつうじてまもなく紹介したい。
すなわち、牧治三郎が述べた「幕末切腹事件」などは、青雲の志を抱いて郷関をでた平野富二にとって、笑止千万、聞く耳もなかったこととおもわれる。

《野村宗十郎専務時代の東京築地活版製造所新ビルディングの西南角の正門は、裏鬼門に設けられていた》
「寝た子をおこすな」という俚諺がある。
牧治三郎が活字鋳造業者の機関誌『活字界 22号』の連載記事で述べた、
「大正12年に新築された東京築地活版製造所のあたらしいビルの正門は、裏鬼門とされる場所に設けられた」
とする記述は、もしかすると、あまりにも甚大な被害をもたらした関東大地震と、戦災の記憶とともに、歴史の風化に任せてもよいのかもしれないとおもったことがある。
このおもいを牧に直接ぶつけたことがあった。

東洋インキ製造会社の故小林鎌太郎社長が、野村宗十郎社長には遠慮して〔直接には〕話さなかったが、当時の築地活版〔東京築地活版製造所〕の重役で、〔印刷機器・資材輸入代理店〕西川求林堂の故西川忠亮氏に『新ビルの正門は裏鬼門だ』と話したところ、これが野村社長に伝わり、野村社長にしても、社屋完成早々の震災で設備一切を失い、加えて活字の売行き減退で、これを気に病んで死を早めてしまった。
『活字界  22号』 (牧治三郎、全日本活字工業会  昭和46年7月20日)

「西川求林堂の西川忠亮さんから指摘されるまで、東京築地活版製造所の従業員は、自社の新ビルの正門が裏鬼門、それももっとも忌まれる死門の方角にあたることを知らなかったのですか」

「もちろんみんな知ってたさ。 とくにイモジ[活字鋳造工]の連中なんて、活字鋳造機の位置、火口 ヒグチ の向きまで気にするような験 ゲン 担ぎの連中だった。 だから裏鬼門の正門からなんてイモジはだれも出入しなかった。
オレや組合〔印刷同業会〕の連中だって建築中からアレレっておもった。 大工なら鬼門も裏鬼門もしってるし、あんな裏鬼門で、しかも死門とされるとこには正門はつくらねぇな。 知らなかったのは、帝大出のハイカラ気取りの建築家と、野村先生だけだったかな」

「それで、野村宗十郎は笑い飛ばさなかったのですか」

「野村先生は、頭は良かったが、気がちいせえひとだったからなぁ。 震災からこっち、ストはおきるし、金は詰まるしで、それを気に病んでポックリ亡くなった」


家相八方位吉凶一覧(平成26年神宮寳暦』)東京築地活版製造所の新ビルの正門は、家相盤あるいは風水羅針盤とされる
「家相八方吉凶一覧」でいう、裏鬼門に設けられたと牧治三郎は記録した。

『平成二十六年神宮寳暦』(高島易断所本部、東京神宮館蔵版、208p. 2013)

《家相八方位吉凶一覧からみた裏鬼門、そして死門とは》
宅地や敷地の相の吉凶を気にするひとがいる。 ふるくは易学として ひとつの学問体系をなしていた。
またこの時期(10月-翌年1月中)なら、書店のレジの近くに各種の『和暦』が山のようにつまれ、そこにはほとんど上掲のような「吉凶図」をみることができる。

ここで東京築地活版製造所の本社工場のことをあらためてしるすと、1873年(明治6)7月、平野富二らがこの地に煉瓦建てのちいさな建物をもうけた。そして斯業の発展とともに増改築をくりかえした。そして1923(大正12)全面改築がなされて、上掲写真のような姿になっていた。
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このビルは堅牢なつくりであった。不幸なことに完成直後に関東大地震に見舞われ、太平洋戦争でも空襲の猛火に包まれた歴史をもっていた。
東京築地活版製造所の本社工場の新ビルディングは、1923年(大正12)3-9月に竣工した。
地下1階地上4階の堂堂たるコンクリート造りで、活字や印刷機器の重量に耐える堅牢な建物であった。ところが竣工から間もなく、同年9月1日午前11時58分に襲来した関東大地震によって、東京築地活版製造所の新ビルは、焼失は免れたものの、設備の一切は火災によって焼失した。
またこのとき隣接して存在していた、同社設立者の平野家も、土蔵を除いてすべてを焼失し、印刷関連機器の製造工場「東京築地活版製造所月島分工場」も火焔に没した。

関東大地震でも焼失を免れたこのビルは、東京築地活版製造所が清算解散した1938年(昭和13)に債権者をへて、精銅・銅線業者による「懇話会」に売却され、一部を改装して継続使用された。そののち戦災の猛火にもあったが、それにもよく耐えて、1971年(昭和46)まで「懇話会館」の名称で使用されていた。
さすがに老朽化が目立って、1971年(昭和46)3月「懇話会」によって、全面取り壊し、新築ビルが建設されることになったことをきっかけとして、牧治三郎による『活字界』での二回の連載記事が掲載された。
この場所にはあたらしい「コンワビル」が新築されてこんにちにいたっている。

取り壊し前の東京築地活版製造所の新ビルの正門は、西南の角、すなわち易学の「家相八方位」ではもっとも忌まれる死門、坤(コン、ひつじさる)の方角に設けられていた(牧治三郎)。
現代ではこうした事柄は、おおかたからは迷信とされて一笑に付されるが、それでもひとからそれをいわれれば気分の良いものではない。
また戯れにひいた神社のお神籤で「凶」などをひくと、なにか不快になるものだ。迷信とはそんなものかもしれない。つまりソッとしておくことである。
ところが牧治三郎は、取り壊しが決定した元東京築地活版製造所ビルの、こうした「幕末の忌まわしい事件による不浄の地 ── これは事実と反することは既述した」と、「正門が忌むべき裏鬼門にあった ──一部の識者から異論が呈されている」ことの歴史を暴きたてたのである。 まさしく 「寝た子をおこした」 のである。

     

牧  治 三 郎  まき-じさぶう
67歳当時の写真と、蔵書印「禁 出門 治三郎文庫」
1900年(明治33)―2003年(平成15)歿。

これからその牧の当時の写真を再度紹介するとともに、B5判2ページ、2回、都合4ページにわたった活字鋳造業界の機関誌『活字界』の連載を紹介したい。
ここには東京築地活版製造所が、必ずしも平坦な道を歩んだ企業ではなく、むしろ官営企業からの圧迫に苦闘し、景気の浮沈のはざまでもだき、あえぎ、そして長崎人脈が絶えたとき、官僚出身の代表を迎えて、解散にいたるまでの貴重な歴史が丹念につづられている。

この『活字界』の連載での牧治三郎指摘を受けて、当時の印刷人や活字人が、どれほど驚愕し、戦慄し、周章狼狽して、急遽「禊ぎと祓い」のために対処したのかを紹介することになる。
その心性の背後には、不浄を忌み、火を怖れうやまうという、「鋳物師 イモジ」の風習と伝統があったことは、ここまで読みすすまれた読者なら、もうおわかりであろう。
なお、牧治三郎の文章はときおり粗放になることがある。また『活字界』という、いわば身内の業界機関誌でのみじかい連載でもあったので、校正なども粗略に終えたかも知れない。そのため[ ]をもちいて筆者が補筆した部分がある。

牧治三郎の連載は、以下の二冊の小冊子に発表された。そしてその提唱をうけた業界の対応は、なんとも素早く連載二回目と同様の『活字界 22号』に掲載されている。
◎ 旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し
                  『活字界 21号』(全日本活字工業会、昭和46年5月)
◎ 続・旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し
                  『活字界 22号』(全日本活字工業会、昭和46年7月)

この『活字界 21号』と『活字界 22号』の発行のあいだ、わずか2ヶ月のあいだに、全日本活字工業会の下部組織、東京活字協同組合は、はやばやと、6月27日開催の理事会で「旧東京築地活版製造所跡に記念碑を建設する件」について協議をしている。
そして同理事会の協議の結果、連載二回目掲載誌の『活字界 22号』(全日本活字工業会、昭和46年7月)に、同時に、
「東京活字協同組合が中心となって、印刷業界と歩調を併せ、記念碑建設の方向で具体策を進めていくことを確認。この旨全印工連、日印工、東印工組、東印工へ文書で申し入れることとなった」
として、本来は広告のスペースを無理やり潰して、以下の方向性を打ちだすことになった。

旧東京築地活版製造所その後

全日本活字工業会広報部:中村光男
(牧治三郎の問題提起2回目と同じ『印刷界22号』に 、囲み記事として広告欄に掲載された)

東京活字協同組合では6月27日開催の理事会で「旧東京築地活版製造所跡に記念碑を建設する件」について協議した。旧東京築地活版製造所跡の記念碑建設については本誌『活字界』に牧治三郎氏が取壊し記事を掲載したことが発端となり、牧氏と同建物跡に建設される懇話会館の八十島[耕作]ヤソジマ-コウサク社長との間で話し合いが行なわれ、八十島社長より好意ある返事を受けることができた。

この日の理事会はこうした記念碑建設の動きを背景に協議を重ねた結果、今後は全日本活字工業会および東京活字協同組合が中心となって、印刷業界と歩調を併せ、記念碑建設の方向で具体策を進めていくことを確認。この旨全印工連、日印工、東印工組、東印工へ文書で申し入れることとなった。

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旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し

牧 治三郎 『活字界 21号』(全日本活字工業会  昭和46年5月20日)

『活字界 21号』「旧東京築地活版製造所社屋の取り壊し」(昭和44年5月20日)

《活字発祥の〔舞台、〕歴史〔の幕を〕閉じる》
旧東京築地活版製造所の建物が、新ビルに改築のため、去る[昭和46年]3月から、所有者の懇話会館によって取壊されることになった。
この建物は、東京築地活版製造所が、資本金27万5千円の大正時代に、積立金40万円(現在の金で4億円)を投じて建築したもので、建てられてから僅かに50年で、騒ぎたてるほどの建物ではない。 ただし活字発祥一世紀のかけがえのない歴史の幕がここに閉じられて、全くその姿を消すことである。

《大正12年に竣成》
[東京築地活版製造所の最後の]この社屋は、大正11年野村宗十郎社長[専務]の構想で、地下1階、地上4階、天井の高いどっしりとした建物だった。特に各階とも一坪当り3噸 トン の重量に耐えるよう設計が施されていた。

同12年7月竣成後、9月1日の関東大震災では、地震にはビクともしなかったが、火災では、本社ばかりか、平野活版所当時の古建材で建てた月島分工場も灰燼に帰した。罹災による被害の残した大きな爪跡は永く尾を引き、遂に築地活版製造所解散の原因ともなったのである。

幸い、大阪出張所[大阪活版製造所]の字母[活字母型]が健在だった[大阪活版製造所の閉鎖時期については資料が少ない。大正12年に存在していたとは考えにくいが、同社系の企業が谷口印刷所などとして存在していた時代であり、そこからの提供を指すものか?]ので、1週間後には活字販売を開始[した]。 いまの東京活字[協同]組合の前身、東京活字製造組合の罹災[した]組合員も、種字[活字複製原型。 ここでは電鋳法による活字母型か、種字代用の活字そのものか?]の供給を受けて復興が出来たのは、野村社長の厚意によるものである。

大阪活版製造所跡の碑文と景観「大阪活版所跡」碑(所在地:大阪市東区大手通二丁目。写真:雅春文庫提供)

大阪活版所、大阪活版製造所に関しては、その設立の経緯、消長とあわせ、まだ十分には印刷史研究の手がおよんでいない。この「大阪活版所跡」碑の側面の碑文にはこのようにある。
「明治三年三月 五代友厚の懇望を受けた本木昌造の設計により この地に活版所が創設された 大阪の近代印刷は ここに始まり文化の向上に大きな役割を果たした」

この「五代友厚の懇望を受けた本木昌造の設計により この地に活版所が創設された」の部分がわかりづらい。すなわち平野富二は、五代友厚(1836-85)に、のちに巨額の「返済」をしているからである。これは近近「平野富二首證文」のなかで考察したい。

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DSCN1520uuDSCN1414uuDSCN1413uuなお大阪商工会議所ビル,、鹿児島商工会議所ビルの前には、いずれも五代友厚の立像が建つ。また鹿児島中央駅前には「若き薩摩の群像」のおおきな彫刻があり、その中央には英国留学中の五代友厚が前方を指さす勇壮な姿で刻されている。

ところで、『五代友厚伝』をはじめ、ほとんどの大阪・鹿児島発の情報には「五代友厚が大阪活版所を開設した」と記録されている。
ウキペディアの五代友厚にも「明治2年(1869年)の退官後、本木昌造の協力により英和辞書を刊行」とある。
これは通称『薩摩辞書』のことを指すとおもわれるが、『薩摩辞書』は本木昌造一門の当時の力量では組版・印刷がおもうにまかせず、ついに断念して、上海で印刷されたと一部に記録されるものである。
本木昌造、平野富二の両氏に資金を提供したとみられる五代友厚であるが、印刷史研究の手はまだおよんでいないようにみえる。有志の皆さんの奮起を期待するゆえんである。

平野富二が最初に東京の拠点を設けた場所として 「外神田佐久間町三丁目旧藤堂邸内[門前とも]の長屋」としばしばしるされるが、正確な場所の特定はあまり試みられていない。
『東都下谷絵圖』(1862)を手にしてJR秋葉原駅から5分ほどの現地を歩いてみると、神田佐久間町三丁目は地図左端、神田川に沿って現存しており、現状の町並みも小規模な印刷所が多く、街並みにもさほど大きな変化はない。
その後の調査によって、津藩藤堂和泉野守上屋敷の門長屋(千代田区神田和泉町一)とその抱えこみ地に、平野富二一行は一年ほど滞在したことが諸資料から判明した。
(尾張屋静七判『江戸切絵図』人文社、1995年4月20日)

 《明治5年外神田で営業開始》
東京築地活版製造所の前身は周知の通り、本木昌造先生の門弟、平野富二氏が、長崎新塾出張活版製造所の看板を、外神田佐久間町三丁目旧藤堂邸内の長屋に出して、ポンプ式手廻鋳造機〔このアメリカ製のポンプ式ハンドモールド活字鋳造機は、平野活版所と紙幣寮が導入していたとされる。わが国には実機はもとより、写真も存在しない〕2台、上海渡りの8頁ロール(人力車廻し)〔B4判ほどの、インキ着肉部がローラー式であり、大型ハンドルを手で回転させた活版印刷機〕 1台、ハンドプレス〔平圧式手引き活版印刷機〕1台で、東京に根を下ろしたのが、太陰暦より太陽暦に改暦の明治5年だった。
[東京築地活版製造所は、資料『東京築地活版製造所紀要』などでも、創業を築地移転後の明治6年としている。またこの項目の機械設備紹介はあまり先行事例をみず、牧治三郎独自の貴重な調査・紹介記録とおもわれる]。

新塾活版開業の噂は、忽ち全市の印刷業者に伝わり、更らにその評判は近県へもひろがって、明治初期の印刷業者を大いに啓蒙した。

《明治6年現在地に工場に建築》
翌6年8月、多くの印刷業者が軒を並べていた銀座八丁〔越後人ながら銀座・京橋自慢の牧は、この呼び名を好んで口にした〕をはさんで、釆女が原ウネメガハラから、木挽町コビキチョウを過ぎ、万年橋を渡った京橋築地2丁目20番地の角地、120余坪を千円で買入れ、ここに仮工場を設けて、移転と同時に、東京日日新聞の〔明治6年〕8月15日号から6回に亘って、次の移転広告を出した。

是迄外神田佐久間町3丁目において活版並エレキトルタイプ銅版鎔製摺機附属器共製造致し来り候処、今般築地2丁目20番地に引移猶盛大に製造廉価に差上可申候間不相変御用向之諸君賑々舗御来臨のほど奉希望候也 明治6年酉8月 東京築地2丁目万年橋東角20番地
長崎新塾出張活版製造所 平野富二

《移転当時の築地界隈》
平野富二氏の買求めたこの土地の屋敷跡は、江戸切絵図によれば、秋田淡路守の子、秋田筑前守(五千石)中奥御小姓の跡地で、徳川幕府瓦解のとき、此の邸で、多くの武士が切腹した因縁の地で、主なき門戸は傾き、草ぼうぼうと生い茂って、近所には住宅もなく、西本願寺[築地本願寺]の中心にして、末派の寺と墓地のみで、夜など追剥ぎが出て、1人歩きが出来なかった。

《煉瓦造工場完成》
新塾活版〔長崎新塾出張活版製造所〕の築地移転によって、喜んだのは銀座界隈の印刷業者で、神田佐久間町まで半日がかりで活字買い〔に出かけるための〕の時間が大いに省けた。商売熱心な平野氏の努力で、翌7年には〔煉瓦づくりの〕本建築が完成して、鉄工部を設け、印刷機械の製造も始めた。

《勧工寮と販売合戦》
新塾活版〔長崎新塾出張活版製造所〕の活字販売は、もとより独占というわけにはいかなかった。銀座の真ん中南鍋町には、平野氏出店の前から流込活字〔活字ハンドモールドを用いて製造した活字〕で売出していた志貴和助や大関某〔ともに詳細不詳〕などの業者にまじって、赤坂溜池葵町の工部省所属、勧工寮活版所も活字販売を行っていた。同9年には、更らに資金を投じて、工場設備の拡張を図り、煉瓦造り工場が完成した。

勧工寮は、本木系〔の平野富二らと〕と同一系統の長崎製鉄所活版伝習所の分派で、主として太政官日誌印刷〔を担当していた〕の正院印書局のほか、各省庁及府県営印刷工場へ活字を供給していたが、平野氏の進出によって、脅威を受けた勧工寮は、商魂たくましくも、民間印刷工場にまで活字販売網を拡げ、事毎に新塾活版〔長崎新塾出張活版製造所〕を目の敵にして、永い間、原価無視の安売広告で対抗し、勧工寮から印書局に移っても、新塾活版〔長崎新塾出張活版製造所〕の手強い競争相手だった。

《活字割引販売制度》
この競争で、平野氏が考え出した活字定価とは別に、割引制度を設けたのが慣習となって、こんどの戦争〔太平洋戦争〕の前まで、どこの活字製造所でも行っていた割引販売の方法は、もとを質だせば、平野活版所と勧工寮との競争で生れた制度を踏襲した〔もの〕に外ならない。勧工寮との激烈な競争の結果、一時は、平野活版所〔長崎新塾出張活版製造所〕の身売り説が出たくらいで、まもなく官営の活字販売が廃止され、平野活版所〔長崎新塾出張活版製造所〕も漸やく、いきを吹き返す事が出来た。

《西南戦争以後の発展と母型改刻》
西南戦争〔1877年/明治10〕を最後に、自由民権運動の活発化とともに、出版物の増加で、平野活版所〔長崎新塾出張活版製造所〕は順調な経営をつづけ、そのころ第1回の明朝体〔活字〕母型の改刻を行い、その見本帳が明治12年6月発行された。
〔牧治三郎はこの明治12年版東京築地活版製造所の見本帳を所有しており、しばしば有料貸し出しに応じていた。東京築地活版製造所では明治9年にすでに冊子型見本帳を発行しており、一冊は英国セント&ブライド博物館が所蔵しており、稿者は一部コピーを保存している。ここには発行所として「東京築地活版製造所」の使用をみることができる。10年ほど前から同博物館では所在不明としている。
もう一冊は印刷図書館蔵であるが、表紙など一部ページを欠き、仮表紙に「活版様式」とある。
ついで明治10年版があり、これは平野富二の旧蔵書で関東大地震の際、火炎が迫ってきたので家人が家の前の溝に投げ込んで非難したと伝わる。水をかぶっているが原姿をたもって平野ホール藏。その俗称明治10年版の「改訂版」としるされたのが明治12年版、牧治三郎ご自慢の品であった〕 。

次いで、同12年には、活版所の地続き13番地に煉瓦造り棟を新築し、この費用3千円を要した。残念なことに、その写真をどこへしまい忘れたか見当らないが、同18年頃の、銅版摺り築地活版所の煉瓦建の隣りに建てられていた木造工場が、下の挿図である。この木造工場は、明治23年には、2階建煉瓦造りに改築され、最近まで、その煉瓦建が平家で残されていたからご承知の方もおられると思う。

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続 旧東京築地活版製造所 社屋の取り壊し

牧 治三郎 『活字界 22号』 (全日本活字工業会  昭和46年7月20日)

『活字界 22号』「続 東京築地活版製造所社屋の取り壊し」(昭和44年7月20日)

《8万円の株式会社に改組》
明治18年4月、資本金8万円の株式会社東京築地活版製造所と組織を改め、平野富二社長、谷口黙次副社長、曲田成支配人、藤野守一郎副支配人、株主20名、社長以下役員15名、従業員男女175名の大世帯に発展した。その後、数回に亘って土地を買い足し、地番改正で、築地3丁目17番地に変更した頃には、平野富二氏は政府払下げの石川島造船所の経営に専念するため曲田成社長と代わった。

《築地活版所再度の苦難》
時流に乗じて、活字販売は年々順調に延びてきたが、明治25-6年ごろには、経済界の不況で、築地活版は再び会社改元の危機に直面した。活字は売れず、毎月赤字の経営続きで、重役会では2万円の評価で、身売りを決定したが、それでも売れなかった。

社運挽回のため、とに角、全社員一致の努力により、当面の身売りの危機は切抜けられたが、依然として活字の売行きは悪く、これには曲田成社長と野村支配人も頭を悩ました。

《戦争のたびに発展》
明治27-8年戦役〔日清戦争〕の戦勝により、印刷界の好況に伴い、活字の売行きもようやく増してきた矢先、曲田成社長の急逝で、東京築地活版製造所の損害は大きかったが、後任の名村泰蔵社長の積極的経営と、野村支配人考案のポイント活字が、各新聞社及び印刷工場に採用されるに至って、東京築地活版製造所は日の出の勢いの盛況を呈した。

次いで、明治37-8年の日露戦役に続いて、第一次世界大戦後の好況を迎えたときには、野村宗十郎氏が社長となり、前記の如く東京築地活版製造所は、資本金27万5千円に増資され、50万円の銀行預金と、同社の土地、建物、機械設備一切のほか、月島分工場の資産が全部浮くという、業界第一の優良会社に更生し、同業各社羨望の的となった。

このとき同社の〔活字〕鋳造機は、手廻機〔手廻し式活字鋳造機・ブルース型活字鋳造機〕120台、米国製トムソン自動〔活字〕鋳造機5台、仏国製フユーサー自動鋳造機〔詳細不明。調査中〕1台で、フユーサー機は日本母型〔?〕が、そのまま使用出来て重宝していた。

《借入金の重荷と業績の衰退》
大正14年4月、野村社長は震災後の会社復興の途中、68才で病歿〔した。その〕後は、月島分工場の敷地千五百坪を手放したのを始め、更に〔関東大地震の〕復興資金の必要から、本社建物と土地を担保に、勧銀から50万円を借入れたが、以来、社運は次第に傾き、特に昭和3年の経済恐慌と印刷業界不況のあおりで、業績は沈滞するばかりであった。再度の社運挽回の努力も空しく、勧業銀行の利払にも困窮し、街の高利で毎月末を切抜ける不良会社に転落してしまった。

《正面入口に裏鬼門》
〔はなしが〕前後するが、ここで東京築地活版製造所の建物について、余り知られない事柄で〔はあるが〕、写真版の社屋でもわかる通り、角の入口が易でいう裏鬼門にあたるのだそうである。

東洋インキ製造会社の故小林鎌太郎社長が、野村社長には遠慮して話さなかったが、東京築地活版製造所の重役で、〔印刷機器・資材輸入代理店〕西川求林堂の故西川忠亮氏に話したところ、これが野村社長に伝わり、野村社長にしても、社屋完成早々の震災で、設備一切を失い、加えて活字の売行き減退で、これを気に病んで死を早めてしまった。

次の松田精一社長〔第六代専務社長、長崎十八銀行頭取を兼任〕のとき、この入口を塞いでしまったが、まもなく松田社長も病歿。そのあと、もと東京市電気局長の大道良太氏を社長に迎えたり、誰れが引張ってきたのか、宮内省関係の阪東長康氏を専務に迎えたときは、裏鬼門のところへ神棚を設け、朝夕灯明をあげて商売繁盛を祈った。

ところが、時既に遅く、重役会は、社屋九百余坪のうち五百坪を42万円で転売して、借金の返済に当て、残る四百坪で、活版再建の計画を樹てたが、これも不調に終り、昭和13年3月17日、日本商工倶楽部〔で〕の臨時株主総会で、従業員150余人の歎願も空しく、一挙〔に〕解散廃業を決議して、土地建物は、債権者の勧銀から現在の懇話会館に売却され、こんどの取壊しで、東京築地活版製造所の名残が、すっかり取去られることになるわけである。

以上が由緒ある東京築地活版製造所社歴の概略である。叶えられるなら、同社の活字開拓の功績を、棒杭でよいから、懇話会館新ビルの片すみに、記念碑建立を懇請してはどうだろうか。これには活字業界ばかりでなく、印刷業界の方々にも運動参加を願うのもよいと思う。

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旧東京築地活版製造所その後

全日本活字工業会広報部:中村光男
(牧治三郎の問題提起と同じ『印刷界 22号』に、囲み記事として急遽広告欄に掲載された)

東京活字協同組合では6月27日開催の理事会で「旧東京築地活版製造所跡に記念碑を建設する件」について協議した。旧東京築地活版製造所跡の記念碑建設については本誌『活字界』に牧治三郎氏が取壊し記事を掲載したことが発端となり、牧氏と同建物跡に建設される懇話会館の八十島〔耕作〕社長との間で話し合いが行なわれ、八十島社長より好意ある返事を受けることができた。

この日の理事会はこうした記念碑建設の動きを背景に協議を重ねた結果、今後は全日本活字工業会および東京活字協同組合が中心となって、印刷業界と歩調を併せ、記念碑建設の方向で具体策を進めていくことを確認。この旨全印工連、日印工、東印工組、東印工へ文書で申し入れることとなった。