林昆範講演会配布印刷物に関して

金属活字は元気です!    が……
一刻も早い改刻・改修の手が必要です。


去る2月28日、林昆範氏によるタイポグラフィ講演会「宋朝体と明朝体――書写系と彫刻系書体の相剋」に際し、朗文堂アダナ・プレス倶楽部では記念カードを印刷してご来場の皆さまに配布いたしました。なにぶん講演が主の会でしたので、このカードに格段の説明は加えなかったために、数名のお客さまから、使用活字に関するご質問がありました。ここに簡略ながら説明させていただきます。

印刷用紙は、アワガミファクトリーの提供による「竹和紙」を使用しました。カッパン印刷適性テストを兼ねており、斤量はさまざまです。使用活字は築地活字の提供によるものが右半分、左半分はアダナ・プレス倶楽部が所有している、12ポイントの「教科書体」です。この12ポイント活字は、千葉県の印刷所からいただいたもので、袖ケースをみると、元号が大正で、東京市と並んでいます。昭和や都ははじのほうに付けたされています。ですから大正末期から昭和初期のものとみられる活字が混入しており、両仮名だけを新鋳造活字と入れ換えて使用しています。

古い活字にはしばしばみられることですが、この書体メーカー(鋳造所)はいまとなってはわかりません。ただし日本活字鋳造所、岩田母型製造所のいずれのものでも無いことだけがわかっていますが、正確には鋳造所がどこであったのかは分明しません。書体名も「教科書体」というより「教育漢字もしくは教楷」と呼んでいた可能性が大です。

右側半分は築地活字の提供による、二号と三号サイズの新鋳造活字です。右から順に、三号岩田明朝体、三号行書体、二号長体宋朝(縦二号横三号)、二号長体明朝(縦二号横三号)、最終行は三号行書体と隷書体と明朝体となっています。

築地活字には、このほかにも草書体、弘道軒活版製造所清朝体などがありますが、五号と四号は比較的字種が揃っているものの、三号サイズでは極端に字種が少なくて、今回は使用を見合わせました。築地活字の明朝体とゴシック体をのぞくふるい活字は、先々代・平工栄之助(第3代)が、閉鎖される活字鋳造所から活字母型を収集したものがおおく、先代・平工愛子(第4代)、当代・平工希一(第5代)と家業が継承される間に、どこから、どのように持ちこまれた活字母型なのか、明確な資料も、伝承もありません。

そこで各種活字見本帳と、現存する活字母型の姿を見て推量することになりますが、とりあえず、長体宋朝と長体明朝は電鋳法(電胎版とも)による活字母型で、両者ともに戦前版津田三省堂母型、すなわち戦前版津田三省堂長体宋朝、戦前版津田三省堂長体明朝とみて間違いないでしょう。津田三省堂・津田太郎は、昭和20―40年代に、長体宋朝を写研・石井茂吉に、長体明朝を佐藤敬之助に依頼して改刻していますが、カッパン印刷界ではその改刻の評価は芳しくなく、むしろ戦前版の活字母型が珍重されるかたむきがみられます。

左より:南京母型、電鋳母型、機械式直刻母型

行書体、隷書体、草書体に関しても手がかり難ですが、これらの活字母型は、関西地区でよく見られる、いわゆる「南京母型」で、ガラ版が独立して存在し、マテにあたる支持材に嵌め込んで使用するものです。関東では、ほとんどが電鋳法によって得られたガラ版を、真鍮のマテ材に陥入させてカシメて使用するか、戦後は機械式活字彫刻機(いわゆるベントン)による直刻が多いのですが、同社の「南京母型」の使用は関西由来母型のものであることを想像させます。精査を終えていませんが、目下のところ、大阪・青山進行堂活版製造所系か、あるいは江川活版所系の活字母型とみています。

いずれにしても、これらの活字母型は半世紀乃至は一世紀近い歴史を重ねて、ここに現存していることになります。前述したように一部のサイズは字種も少なく、また相次いだ字体変更にはほとんど対応していません。「活字を守れ」というお声をしばしば耳にする昨今ですが、「守る」という後ろ向きの姿勢では文字活字書体は時代の中に埋没します。造りだす意欲、改刻への意志、これらの対応が求められるのはひとり金属活字にとどまらず、はやくも電子活字にも発生しているテーマです。