カテゴリー別アーカイブ: メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭

【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-16  東京築地活版製造所アンソロジー 全日程を無事終了しました

バーナー20171126221422_00001メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭
東京築地活版製造所アンソロジー

全日程を無事終了いたしました
メディア・ルネサンスロゴ01メディア・ルネサンスロゴ03メディア・ルネッサンス

プレイベント : 「江戸・東京 活版さるく」をふくめ、全日程とも好天に恵まれ
本イベント : 日展会館新館での展示・WS・講演会にも多くのお客さまを迎えて
全日程を無事に終了いたしました。

協賛をたまわりました、株式会社 I H I、株式会社イワタ、株式会社モリサワをはじめ、力強い協力とご支援を頂戴しました、平野ホール、「平野富二生誕の地」碑建立有志の会、タイポグラフィ学会の皆さま、そしてサラマ・プレス倶楽部会員の皆さまにあつく御礼を申しあげます。
またプレイベント「江戸・東京 活版さるく」、本イベントにご参集いただきました多くの皆さまに、衷心より御礼を申しあげます。
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<メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭>は、開港地の長崎にうまれ、27歳にして上京、それからの20年間、明治産業の近代化におおくの功績をのこして47歳で逝去した平野富二の生涯をつうじて、メディアの越したかたをさぐり、ゆくすえを見定める機会でした。

ご存知のように、「媒体・媒介物」をあらわす{medium ミィーディアム}の複数形が {media 媒体・手段}です。
産業革命の負の側面がまさに露呈したともいうべき、19世紀世紀末・英国でのメディアの大混乱と同様に、I T 革命進行中のいまは、メディアが多様化し、氾濫し、流動化して瞬発的・刹那的となって、まさに混乱のさなかにあります。

こんな時代だからこそ、あらためてメディアの原点をみつめ、メディアに降りつもった猥雑物や夾雑物を取りのぞいたとき、キラリと輝く原石のようなものがありました。その原石を平野富二がもたらした近代活字版印刷術 ≒ タイポグラフィとして、そのよき{Renaissance 復興・再生}をめざすために、今後ともかわらぬ精進を重ねてまいります。

【継続情報は、おもに { 朗文堂 花 筏 } になります。あわせて { サラマ・プレス倶楽部 イベントアーカイブ } に収録されますので、引きつづきご声援・ご支援のほどお願いいたします】
IMG_3036 main[1] Salama_lp_side[2]──────────
【速報写真集】
日展会館新館 一階講演会場 講師 : 平野正一氏 「子孫から見た 平野富二と縁者たち」、谷中霊園・明治産業人{掃苔会}を中心に
会員 : 春田ゆかりさん・真田幸治さん・中村将大さん提供写真_1040429R0064147 R0064178 R0064160 R0064208 R0063842 R0063972 R0063863 R0063873 image2 R0063808 R0063818 image3R0064021全日程終了後 一階講演会場で平野家・矢次家・山口家の皆さんの記念撮影

23b1e68c3c4de01a96de74855e4a9c45[1]平 野  富 二
弘化03年08月14日-明治25年12月03日 1846. 08. 14-1892. 12.03 享年47
OLYMPUS DIGITAL CAMERA前列右) 平野義和・順子夫妻〔富二曽孫〕、 前列左・後列左端) 山口家〔富二 三女・平野幾みが嫁した家〕のおふたり  後列右四名) 〔富二の生家〕矢次家の関係者、後列二名)平野正一氏〔富二玄孫〕・平野健二氏〔富二玄孫〕

【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-01

メディア・ルネサンスロゴ01 メディア・ルネサンスロゴ02

☆ プレイベント:「江戸・東京 活版さるく」 無事に終了しました。
  11月11日[土]開催 (バスツアー 先約40名様)

☆ メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭
会  期 : 2017年11月24日[金]-26日[日] 10:00-17:00(最終日15時まで)
会  場 : 日展会館 新館 (東京都台東区上野桜木町2-14-3)
入場料 : 無 料(催事の一部には参加費が必要なものもあります)
* 展示のほか、講演会、活版ゼミナール、産業人掃苔会開催。詳細は後日WebSiteで

主    催 : 朗文堂 サラマ・プレス倶楽部 160-0022 東京都新宿区新宿2-4-9
協    賛 : 株式会社 I H I 、株式会社イワタ、株式会社モリサワ
協    力 : 平野ホール、「平野富二生誕の地」碑建立有志の会、タイポグラフィ学会

平野富二

平 野  富 二
長崎新塾出張東京活版製造所/有限責任東京築地活版製造所 創設者
石川島平野造船所/有限責任石川島造船所(現 IHI) 創設者
明治産業近代化のパイオニア 生誕170年
弘化03年08月14日-明治25年12月03日 1846. 08. 14-1892. 12.03 享年47

【 継続詳細情報 : サラマ・プレス倶楽部 イベントアーカイブ にて連続紹介 】

Main image 製作/日吉洋人会員
主要使用書体/イワタ太ゴシック体欣喜堂・朗文堂 おゝことのはH欣喜堂・朗文堂 銘石B
{漢数字 二} 平野富二墓標「二」より採取・加工 原字:吉田晩稼書 大楷書(蚕頭雁尾)より

【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-04 11月11日[土] プレイベント{江戸・東京 活版さるく}ご案内

 プレイベント{江戸・東京 活版さるく}は
好天に恵まれ、全日程を消化して無事に終了いたしました。
ご参加ありがとうございました。

つぎは「日展会館 新館」でお会いしましょう。
バーナー
さるく01resized さるく02resized さるく03resized さるく04resized    【 江戸・東京 活版さるく 案内パンフレット -参加者配付資料 】
A4判 46ページ 中綴じ 朗文堂 サラマ・プレス倶楽部
コンテンツ協力 : 古谷昌二 ・ 板倉雅宣  デザイン製作 : 日吉洋人会員

map-EdoTokyo1107-2     【 プリント用PDF  江戸・東京 活版さるく概略図 859MB 】
A3 判 カラープリント 参加者配付資料 朗文堂 サラマ・プレス倶楽部
コンテンツ協力 : 古谷昌二  デザイン製作 : 春田ゆかり会員
江戸・東京 活版 さるく【 プリント用PDF  江戸・東京 活版さるく旅程表  514KB 】
旗resized缶バッジresized

☆ プレイベント:「江戸・東京 活版さるく」
11月11日[土]開催 (バスツアー)

平野富二(1846-92)の生誕170年を記念して、平野富二の生誕地長崎に設けられていた官立「長崎製鉄所」をはじめ、「海軍伝習所」、「医学伝習所」、そしてあまりにも資料不足だった「活版伝習所」などの、施設と人員と物資が、相互に関連しながら、いつ・どこへ・どのように江戸・東京にもたらされたのかを、豊富な資料をもとに探るツアーです。

「さるく」とは肥前・肥後など九州北東部の方言で、ぶらぶら歩きをさします。昨年五月開催の<Viva la 活版 ばってん 長崎 崎陽長崎探訪・活版さるく>では、狭隘な長崎市街地を考慮して小型バス二台での「さるく」となりました。 ことしはより広い東京での開催となります。
バスツアーといいながら、相当徒歩でのコースもありますので、歩きやすい靴と服装でご参加ください。

【 お問い合わせ・申し込み先 : 朗文堂 サラマ・プレス倶楽部  » send email 】

【朗文堂ブックコスミイク】 好評既刊書 古谷昌二『平野富二伝-考察と補遺』 平野富二生誕170年祭

バーナー c744292ca56cacab6da941241b982f44[1]平 野  富 二
長崎新塾出張東京活版製造所/有限責任東京築地活版製造所 創設者
石川島平野造船所/有限責任石川島造船所(現 IHI) 創設者
明治産業近代化のパイオニア 生誕170年
弘化03年08月14日-明治25年12月03日 1846. 08. 14-1892. 12.03 享年47
平野表紙uu[1]平野DM表平野DM裏『平野富二伝-考察と補遺』 フライヤー PDF 13.93MB 

朗文堂コスミイク 既刊書案内

【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-06 <江戸・東京 活版さるく>訪問地:お玉が池種痘所

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バーナーDSCN2784江戸・東京 活版さるく 訪問先
27 お玉ヶ池種痘所 跡
所在地 千代田区岩本町2丁目 (もと勘定奉行川路聖謨旧私邸内)

標示物 : 「お玉ヶ池と種痘所跡」標柱、記念プレート、解説板
概  要 : 安政5(1858)年5月に江戸の蘭方医83人が出資して、神田お玉が池に「種痘所」を設置した。この土地はのちに累進して幕府勘定奉行筆頭となった川路聖謨(かわじ としあきら 1801―68)が、かつて所有していた私有地を提供したと伝えられている。
しかしこの地での「種痘所」は、同年11月、開設からわずか半年にして火災により類焼したため、大槻俊斎(おおつき しゅんさい 1806―58)と、伊東玄朴(いとう げんぼく 1801―71)の家を臨時の種痘所とし、その後神田和泉町へ移った。→ ●43、●42

なおこの土地の提供者とされる川路聖謨は、のちに累進して幕府の勘定奉行となり、ロシアのプチャーチンとの外交交渉を担当したことでも知られる。
ロシア側は川路の聡明さを高く評価し、その肖像画(写真)を残そうとしたが、子供の頃に疱瘡(天然痘)を患ったために痘痕(あばた)顔であった川路は、
「自分のような醜男が、日本男児の標準的な顔だと思われては困る」
という機知に富んだ返答をしたという逸話が残っている。また筆まめで『長崎日記』、『下田日記』(東洋文庫124 平凡社)などをのこした。

Toshiakira_Kawaji[1]川路聖謨(1801-68)
天然痘をわずらったため、顔にはあばた(痘痕)が多かったとされる
天然痘予防の「種痘所」が旧宅に設けられたのは、なにか因縁を抱かせる

戊申の折には「表六番町-現在の市ヶ谷近くか」に隠居し、また中風になって右腕が不自由な躰であったが、江戸開城の報を聞き、割腹、さらにピストルを喉に発射、自死して徳川幕府に殉じた。日本で最初にピストル自殺をした人物ともされる。

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読書家のかたにとっては、なにをいまさらといわれかねないが、吉村 昭『落日の宴-勘定奉行川路聖謨』 を読みなおしている。同書帯にも引用されているが、吉村 昭は文芸誌『群像』に連載する前に、二〇年余の準備期間ともいえる時間をかけて川路聖謨の取材をかさねていた。

『落日の宴-勘定奉行川路聖謨』  あとがき
〔前略〕 川路〔聖謨〕は、幕末に閃光のようにひときわ鋭い光彩を放って生きた人物である。軽輩の身から勘定奉行筆頭まで登りつめたことでもあきらかなように、頭脳、判断力、人格ともに卓越した幕吏であった。
このような異例の栄進は、一歩道をあやまれば日本が諸外国の植民地になりかねない激動期に、幕閣が人材登用を第一とし、家柄、序列その他をほとんど無視したからである。
大きな危機感をいだいていた閣老たちは、川路をはじめとした有能な幕吏を積極的に抜擢し、その期待にかれらは十分にこたえた。開国以後の欧米列国との至難な外交交渉、国内の目まぐるしい混乱をへて日本を明治維新にすべり込ませることができたのは、これらの秀れた幕吏の尽力に負う所が大きい。〔後略〕

20171106152311_00001徳川幕府の奉行職とは、ほとんど旗本がその職につき、知名度のわりに禄高はひくかった。
川路聖謨もはじめは200俵の扶持米の軽格であり、勘定奉行の時500石とされている。役職金の500石を加えても、さほどの禄を得ていたわけではない。

神田お玉が池の旧宅に、川路聖謨がいつの時代に居住したのかあきらかではないが、当時は藍染川にそった、湿気のたかい、簡素な家だったようである。
いまは東京大学医学部建立による簡素な石柱がある。

参考資料 : 『 国史大辞典 』 (吉川弘文館)

      川路聖謨 かわじとしあきら (一八〇一-六八)

江戸時代末期の勘定奉行。名は聖謨、通称は弥吉、ついで三左衛門、叙爵して左衛門尉と称し、隠居して敬斎と号し、死の直前に頑民斎と改めた。
享和元年(一八〇一)四月二十五日、幕府直轄領の豊後国日田(大分県日田市)に生まれた。父は日田代官所の属吏内藤吉兵衛歳由。 文化五年(一八〇八)父が幕府の徒士組に転じたので、伴われて江戸に移り、同九年十二歳で小普請組川路三左衛門光房の養子となった。
はじめ小普請組から支配勘定出役・評定所留役を経て、文政十年(一八二七)寺社奉行吟味調役となり、天保六年(一八三五)出石藩主仙石家の内紛の断獄にあたり、奉行脇坂安董を扶けて能吏としての名を挙げ、勘定吟味役に抜擢され、同十一年佐渡奉行、翌十二年小普請奉行、同十四年普請奉行、弘化三年(一八四六)奈良奉行、嘉永四年(一八五一)大坂町奉行を歴任、翌五年九月勘定奉行に昇進し海防掛を兼ねた。
同六年六月ペリーの浦賀来航には国書の受理を主張し、また若年寄本多忠徳に従って房総海岸を巡視した。
ついでプチャーチンの長崎来航により、同年十月露使応接掛を命ぜられ、十二月以降長崎において、翌安政元年(一八五四)十一月以降下田において談判し、十二月二十一日大目付筒井政憲とともに日露和親条約に調印した。
翌二年八月禁裏造営掛を命ぜられ、上京して大任を果たした。
同三年十月老中堀田正睦が外国事務取扱を兼ねると、外国貿易取調掛を命ぜられ、翌四年八月にはハリス上府用掛となった。

同五年正月正睦が条約勅許奏請のため上京するにあたり、外国事情に通じているところから目付岩瀬忠震とともに随行を命ぜられた。 かつて奈良奉行時代に青蓮院宮尊融入道親王(のち朝彦親王)に知遇を得、また禁裏造営掛として公卿間にも知己が多く、大いに運動したが失敗し、四月正睦と帰府した。
時に政治問題となっていた将軍継嗣では、一橋慶喜を擁立する一橋派に属していたため、大老に就任した井伊直弼に疎まれ、同年五月西丸留守居の閑職に左遷され、翌六年八月さらに免職・隠居を命ぜられ、差控に処せられ、家督は嫡孫太郎(寛堂)が継いだ。
文久三年(一八六三)五月外国奉行に起用されたが、十月老疾をもって辞した。
以来官途につかず、慶応二年(一八六六)二月中風を発して身体の自由を失い、読書に親しみ、かつ徳川家の高恩を思い、奉公の念を忘れなかった。
明治元年(一八六八)三月十五日の朝、東征軍が迫って江戸開城も目前にあるを察し、表六番町(千代田区六番町)の自宅において、
「天津神に背くもよかり蕨つみ飢にし人の昔思へは 徳川家譜代之陪臣頑民斎川路聖謨」
の辞世を残し、割腹ののち、短銃をもって果てた。六十八歳。法名は誠恪院殿嘉訓明弼大居士。
上野池ノ端七軒町(台東区池之端)大正寺に葬った。贈従四位。

川路聖謨は平素文筆に親しんで多くの遺著を残したが、遠国奉行中の日記をはじめ、露使と応接した『長崎日記』『下田日記』、京都に使いした『京都日記』『京日記』および晩年の日記は『川路聖謨文書』全八巻(『日本史籍協会叢書』)に収められる。
ちなみに下田奉行・外国奉行などを歴任、外交の第一線で活躍した井上清直は聖謨の実弟である。

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59e3429eb264f1[1]吉村昭記念文学館
吉村昭 生誕90周年記念 企画展
「吉村昭とふるさとあらかわ ~生い立ちとその作品世界~」
会    期 : 10月28日[土]-12月10日[日]
* 11月26日[月]・16日[木]は休館
時    間 : 9時30分-17時(常設展示は20時30分まで)
入館料 : 無料
会   場 :  ゆいの森あらかわ 3階 企画展示室
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荒川区出身の小説家、吉村昭(昭和2年-平成18年)の生誕90周年を記念して、
「吉村昭とふるさとあらかわ~生い立ちとその作品世界~」を開催します。

吉村昭は、昭和2年(1927)、現在の荒川区東日暮里六丁目に生まれました。多感な時期を荒川区で過ごし、その時の経験は「吉村昭」の原点となりました。随筆や短篇小説には度〻荒川区が登場し、最後の長篇小説も荒川区を舞台とした「彰義隊」でした。
本展示では、荒川区で過ごした幼少期から青年期にかけての写真やゆかりの品などから「吉村昭」の原点をたどり、自筆原稿や作品に関連する挿絵を通して、吉村の描いた作品世界を紹介します。

【 詳細 : 吉村昭記念文学館 】

【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-02   さぁはじまりました! サラマ・プレス倶楽部名物 宛名面一色+絵柄面二色 3000枚 都合9000回プレスの Postal Card 印刷

バーナーDSCN4375 DSCN4380 DSCN4385 DSCN4368 DSCN4396会報誌『 Salama Press Club NewsLetter  Vol. 35 』の配布を終え、サラマ・プレス倶楽部は本格的に<メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭>の準備態勢にはいりました。
2011年東日本大震災に際し、各地会員の被災者へのおもいと、ご来場者の安全に配慮して、直前に<活版凸凹フェスタ>を中止して以来、久しぶりの東京でのイベント開催です。
メディア・ルネサンスロゴ01 メディア・ルネサンスロゴ02この間に朗文堂内での事業部名が、登録商標にあわせて、「アダナ・プレス倶楽部 → サラマ・プレス倶楽部」にかわり、イベント名も「活版凸凹フェスタ → Viva la 活版」と活版礼讃のイベント名にかわりました。
「Viva la 活版」イベントはその後、地方からの底上げと充実をはかり、北海道美唄市:アルテピアッツァ美唄、鹿児島市:尚古集成館、新潟市:北方文化博物館、長崎市:長崎県印刷工業組合会館での開催をかさねてまいりました。

折しもことしは、近代産業近代化のパイオニアとして、東京築地活版製造所と東京石川島平野造船所(現 I H I )の創業者 : 平野富二生誕170年にあたります。
プレイベント「江戸・東京 活版さるく」(11月11日[土]開催 先約40名様限定)では、長崎に設けられた「海軍伝習所」「医学伝習所」「活版伝習所」などの施設と人員とモノが、いつ・どこに・どのように江戸と東京にもたらされ、どのように消長したのかをバスツアーで探ります。
11月24日[金]-26日[日]に日展会館 新館を主会場として開催される<メディア・ルネサンス 平野富二生誕170周年祭>も、盛り沢山の企画で皆さまをお迎えいたします。
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《 さぁはじまりました! サラマ・プレス倶楽部イベント名物 はがき印刷 》
今回のイベント告知はがきは、宛名面一色+絵柄面二色、3000枚製作ですから、都合9000回プレスの Postal Card (絵はがき)となりました。
10月12日[木]に四台の機械用に印刷版の組みつけ、13日[金]の夜から印刷を開始し、14日[土]、15日[日]と印刷作業に没頭しました。

雨の週末でしたが上掲写真のように、田中・日吉・松尾A・上条・千星・鷹巣・時盛・森田・江並といった多くの会員の皆さんのご協力をいただき、夜1?時ころに無事印刷を終えました。
これから本格的な広報態勢に入りますので、この<活版 à la carte>と同様、<イベントアーカイブ>コーナーに情報を集中しますので、ご訪問をよろしくお願いいたします。

【 継続詳細情報 : サラマ・プレス倶楽部 イベントアーカイブ にて連続紹介 】