カテゴリー別アーカイブ: Viva la 活版

メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭

【アルテピアッツァ美唄】間もなく雪解けの美唄で活発なイベントが開始されます

d08d226ce57d0ffce802ed2acc1126e4東日本大震災の衝撃を乗りこえて、朗文堂 サラマ・プレス倶楽部が<Viva la 活版  Viva 美唄>を開催したのは2013年09月13日-15日でした。美唄にはすばらしいおもいでがいっぱいですし、その後もアルテピアッツァ美唄「ポポロの会」を中心に交流がつづいています。

image-320x227アルテピアッツァ美唄
Blog アルテの日々
3月30日投稿記事によると、まだ美唄には残雪がみられるようですが、春の陽光にめぐまれて、急速に雪解けがすすんでいるようです。

そんな美唄から<Arte 通信 2018 Vol.31>が到着。たくさんのイベント資料が満載でした。その一部をご紹介。

安田侃カン彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄
小島啓二写真展2018「アルテピアッツァ美唄と私」
dbc80529ce7663aa1159ebdefab73a13安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄
小島啓二写真展2018「アルテピアッツァ美唄と私」
会 期  2018年4月7日[土]-16日[月]
会 場  アルテピアッツァ美唄 展示室 A・B
料 金  無 料
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小島啓二さんによる、アルテピアッツァ美唄での5回目の写真展。
今回は、アルテピアッツァ美唄の写真のほか、「私のアルテのフォト日記」を展示します。

安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄
企画展「大理石が彫刻になるまで」
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安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄 企画展
「大理石が彫刻になるまで」
会 期  2018年4月25日[水]-5月7日[月] * 会期中無休
会 場  アルテピアッツァ美唄 展示室A、B
料 金  無 料
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大理石が彫刻になるまで安田侃氏の白い彫刻の素材は大理石です。
遥か昔、何億年という長い年月をかけて海底に積もった生物が、マグマにより結晶化して大理石はできました。地球の一部である大理石を山から切り離し、人の手に渡すことを生業とする石職人。石職人から受け取った大理石に、全身全霊を込めてノミをふるう彫刻家。
地球の一部だった大理石が、私たちがここで触れている彫刻になるまでをご紹介いたします。
<関連企画>
◎ギャラリートーク
大理石の町イタリア・カラーラに住んでいたスタッフがカラーラの街のことなどをお話します。
予約不要です。
日時 2018年5月5日(土)、6日(日) 各日11:00-
会場 展示室 A
料金 無 料
【詳細: アルテピアッツァ美唄
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ギャラリー TOM
安田侃のまなざし展
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ギャラリー TOM
安田侃のまなざし展

日 時  5月3日[木・祝]-13日[日]
     11:00-18:00 * 5月7日は休館
会 場  ギャラリー TOM
     〒150-0046 東京都渋谷区松濤2-11-1
     TEL. 03-4367-8102  http://www.gallerytom.co.jp/
料 金  一般500円 小・中学生200円 * 視覚障害者および付き添い 各300円

<関連企画 鼎談>
5月6日[日] 15:00-
水沢 勉(神奈川県立美術館長)× 柚木 紗弥郎 × 安田 侃
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░  What is Tom gallery ? ── 同ギャラリーホームページより

ギャラリーTOMは、盲人(視覚障害者)が彫刻に触って鑑賞できる場所として村山亜土(故人)・治江によって1984年に創設された私立の小さな美術館です。

ギャラリーTOMの創設者の一人である村山亜土は、独創的な美術家である村山知義を父に、叙情性豊かな童話作家である籌子を母に生まれました。村山亜土自身も児童劇作家として知られています。「ТОМ」という名称は大正時代のダダイストのグループ『マヴォ』の代表的なアーティストとして知られた村山知義の署名のロゴからとったものです。

村山亜土と治江の一人息子、錬(れん 故人)は不運にも生来の視覚障害者として生まれ育ちました。あるとき、錬が「ぼくたち盲人もロダンをみる権利がある」と言った言葉に突き動かされた二人が、視覚障害者のための美術館を設立したというのが ギャラリーТОМの誕生の経緯 です。
それ以来、TOUCH ME ART、触れられるアートというコンセプトで視覚障害者が彫刻に触って美術体験をできる施設として機能してきました。視覚障害者の美術鑑賞の場として視覚障害者も晴眼者も同じように体験ができるような先駆的で実験的な方向を求めています。

【明治産業近代化】株式会社 I H I 社内報『あい・えいち・あい』2018年2月号にて同社創始者:平野富二時代に製造された手引き式活版印刷機を紹介

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株式会社 I H I 社内報『あい・えいち・あい』2018年2月号(通巻687号)

表紙・表紙裏・本文三ページにわたって「手引き式活版印刷機」を紹介

総合重機械大手企業、株式会社 I H I(東京都江東区豊洲3-1-1 豊洲 I H I ビル  光岡次郎社長)は、同社創始者の平野富二のもうひとつの事業、「平野活版製造所 のち 東京築地活版製造所」による、活字版印刷器機製造・活字製造事業を紹介すべく、社内報『あい・えいち・あい』(B5判 中綴じ 28ページ)に表紙を含む3ページにわたる特集記事を掲載しました。

c744292ca56cacab6da941241b982f44 平野 富二(ひらの とみじ)
1846年10月4日〔弘化3年8月14日〕-1892年〔明治25年〕12月3日

実業家、県立長崎製鉄所(現、三菱重工業長崎造船所の前身)最後の経営責任者、石川島平野造船所(現、株式会社IHI)創立者、東京湾汽船会社(現、東海汽船)創立委員・取締役。これに先立ち、東京築地活版製造所(1938年3月17日解散決議)を設立した。
平野富二は活版印刷普及の貢献者、民間洋式造船所の嚆矢、明治産業近代化のパイオニア。

バーナー20180326162657_0000178c9bdb7ed01487055858ec639c66de32017年11月、メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭にあたり{江戸・東京 活版さるく}が実施された。
その折り、株式会社 I H I 豊洲ビル内にある<ものづくり館 アイミューズ>を訪問した。
同館は160年以上にわたり、エンジニアリングの最先端を探求してきた I H I のチャレンジ精神の軌跡を展示する場であるが、現在はきたる4月24日[火]のリニューアルオープンを控えて改修のさなかにある。
ついで創業の地に設けられた<石川島資料館>を訪問し、平野富二と I H I の160年余の歴史を学んだ。
その詳細報告は今夏発行予定の『タイポグラフィ学会誌 11号』に発表予定である。

【関連情報:株式会社 I H I   http://www.ihi.co.jp/ 】{続きを読む …… 花筏

【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-17{展示報告 ①}[サラマ・プレス倶楽部会員]千星 健夫{新技法による活字母型の試作と活字鋳造}── ちいさな一歩、おおきな成果

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tsukiji5_02新技法による活字母型の試作と活字鋳造
千星健夫  NECKTIE design office

tsukiji5_01 tsukiji5_03 tsukiji5_04[サラマ・プレス倶楽部会員]千星 健夫
活字母型製造にデジタル加工技術 CNCを採用して再開可能とする
現在、日本国内で金属活字を鋳造する企業はまだ数十社を数えるが、その複製原型ともいえる「活字母型」を製造する業者は数年前にすでに途絶している。
すなわち明治初期からの「電鋳活字母型(電胎活字母型)」製造法はもとより、1885年(明治18)に英米の特許を取得している「機械式活字父型・母型彫刻機」、いわゆるベントン彫刻法も、業務レベルでの稼動がとまって久しいものがあった。

小型機ながら活字版印刷機を使用し、金属活字のいい知れぬ魅力を日々感じているもののひとりとして、こうした活字母型製造の窮状を側聞して看過できないものがあった。また台湾ではすでに旧方式によることなく、CAD方式による活字母型製造を達成していることも映像で確認できた。

NECKTIE design office はさまざまな造形活動を展開しており、その一環として、いわゆる「モノづくり」にも挑戦してきた。2015年に業界状況を知悉している朗文堂から、コンピューター制御による新規活字母型彫刻開発の可能性に関して相談があり、国内での活字母型製造のあらたな道筋をつくるために「モノづくり」仲間の金属加工会社を中心にいくつかあたってきた。

デジタル時代のいま、いかんせん130年余以前の技術であるベントン彫刻法を復活させることは、関連技術や資材が途絶している現代では現実的ではなかった。
今回採用した加工技術は「コンピューター数値制御切り削り加工」であり、金属加工業界では「CNC」とする一般的な加工技術で「Computer Numerical Controlled (CNC)Cutting」とされる技術である。

「CNC」のメリットは、コンピューターのCADファイルから直接素材に削りだすことができ、複雑な形象でも正確に対応でき、今回の素材とした真鍮をふくめ、ほぼどんな材料(素材)にも使えることにある。
デメリットとしては、大量一括生産に向かず、加工時間がかかることがあげられている。
試作段階で、単なる切り削りではなく、鋳型から活字が抜けやすくするために活字母型にもとめられる「抜き勾配  Bevel」の加工も可能なことがわかり、本格試作へのステップにはいった。
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今回試作した活字書体は、いわゆる「築地五号かな」(東京築地活版製造所 明治十年見本帳より)を選択し、試作として「いろは」の三文字を製作した。また現在の五号サイズ(10.5 pt.)に鋳造することから、鋳造を依頼した横浜:株式会社築地活字が保有する五号明朝体(漢字)との混植を想定して製作を進めた。

「築地五号かな」の考察
上掲図の、いわゆる『東京築地活版製造所 明治十年見本帳』の「第五號」ページのデーターの分析を重ねながら、コンピューター上にトレースした。ボディサイズに収まっていないようにみえる部分や、印刷されて文字部の一部分が太ったり痩せたりしていることも予想された。
そこでトレースしたデーターをそのままCADデーターとして使用するのではなく、活字母型彫刻用にデータに微調整を調整を加えながら作業を進行した。

実際の活字母型彫刻(CNC)に際しては、「母型深度」の設定、「抜き勾配」、「カウンター内の補強」など、印刷面には出てこない部分も細かく設定する必要があり、現状の活字母型と活字をそれぞれ分析して活字母型彫刻の作業にあたった。
実際に活字母型を製造し、活字鋳造を実施したのは「五号ひら仮名 いろは」の三文字である。
活字鋳造は横浜:株式会社築地活字で実施した。同社とは事前の打ち合わせを重ねていたこともあって、鋳造機に活字母型をセットすると、おもいのほか迅速に活字鋳造がなされた。
ついでさっそく実際に活版印刷をしてみたが、試作段階では望外の成果をみた。
tsukiji5_06 (1) tsukiji5_09 tsukiji5_08tsukiji5_04トリミング今回の試作によって、今後国内でも「既存の傷んだ活字母型の刷新」といった緊急の命題には対応が可能となったとみなされる。またこうした経験を重ねることによって、「あたらしい金属活字書体」の開発もなされるようになったら嬉しくおもわれた。
もちろん既存書体の刷新に際しては、製造コストだけでなく、乗りこえるべき難問も多い。また欧文活字であれば、ベースラインの設定やセット幅の研究も必要とおもわれる。

しかしながら、リニアスケーリング(比例対応)とはいえ、汎用コンピューターによって製作されたCADデーターから、大小さまざまな金属活字が鋳造できることになった。課題は多多あるが、この成果が活版印刷愛好者の皆さんにとって、金属(鋳造)活字の前途にたいする光明となればと念願している。

千星健夫 NECKTIE design office 特設 Works  /株式会社朗文堂/株式会社築地活字 ]

★ 本稿に関連する既発表の記事
花筏 タイポグラファ群像*002 杉本幸治氏 ─ 本明朝・杉明朝原字製作者/ベントン彫刻法の普及者 ─ 三回忌にあたって再掲載 初出:2011年06月10日
花筏 朗文堂-好日録 010 ひこにゃん、彦根城、羽原肅郎氏、細谷敏治翁 初出:2011年08月27日
花筏 タイポグラファ群像*004 安形文夫 ベントン活字母型彫刻士 初出:2012年08月16日
花筏 朗文堂-好日録019 活版カレッジ台湾旅行 新活字母型製造法を日星鋳字行でみる 初出:2012年10月22日
花筏 朗文堂好日録-025  台湾の活版印刷と活字鋳造 日星鋳字行 +台湾グルメ、圓山大飯店、台湾夜市、飲茶 初出:2013年01月22日
花筏 タイポグラファ群像*003 細谷敏治氏 初出:2013年05月08日

【アルテピアッツァ美唄】新春特別号 popolo 便りが到着 厳冬の美唄で粘り強い活動を展開中

20180118160129_00003 20180118160129_00004 20180118160129_00005Viva-la-活版-Viva-美唄タイトルデザイン04 墨+ローシェンナ2[1]2013年《Viva la 活版  Viva 美唄》開催の地、アルテピアッツァ美唄から、いつもの通り『popolo NEWS LETTER』が到着。ことしのアルテピアッツァ美唄は開園から25周年になるそうです。
彫刻家:安田侃カン(1945-)氏の挨拶に、
  だいぶ昔ですけど、
  「お母さん、この卵ちいさくなったよ」
  「違うよ、あんたが大きくなったんだよ」
というはなしを聞いたそうです。この少女はどの作品を卵とみなしたのでしょう。勿論石彫作品が小さくなるわけはなく、
「何年も何年も通い続けていると、知らないうちに自分がおおきくなったということですね」
と安田侃氏はかたっています。この空間の開放感はなんともおおらかで、心がなごみます。

無題──────────
アルテピアッツァ美唄 Blog アルテの日々から

「ブロンズ展」「まなざし展」報告冊子発売!
投稿日 2018-01-11

昨年の夏にアルテピアッツァ美唄25周年事業として開催しました「安田侃ブロンズ展-時をつなぐ」、「安田侃のまなざし展」の報告冊子が発売されました。

各展覧会の記録写真、作品リスト、展覧会概要などがコンパクトに綴られています。会期中にアルテへお越しくださった方はもちろん、「見に行きたかったけれど、行けなかった」という方にもご覧いただきたい冊子です。安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄のギャラリー(木造校舎2階)とカフェアルテにて販売していますので、どうぞお手に取ってご覧ください。
■「安田侃ブロンズ展-時をつなぐ」、「安田侃のまなざし展」冊子セット
■ サイズ:各15cm×15cm
■ ページ数:各10ページ
■ 価格:500円(税込)※2冊セット

送料一律100円にて、発送も承ります。詳しくは、安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄(0126-63-3137)までお問合せください。

かんじき貸し出ししています
投稿日 2018-01-14

DSC_0271昨日、カフェアルテの窓から、ヒヨドリがナナカマドの赤い実を食べているのを見かけました。このように安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄の敷地内では、雪景色の中で動物たちに会える機会も少なくありません。
今朝、かんじきを履いて1mの高さはある雪原を歩きましたが、いつもと違う視線から見る景色は新鮮でとても気持ちのよいものでした。当館ではかんじきを貸し出ししております。動物たちの足跡を辿りながら歩くのもまた楽しいですので、みなさんもかんじきを履いて雪原の中を歩いてみませんか?ご希望の方は、ギャラリー(木造校舎2階)、カフェのスタッフにお声掛けください。

【 詳細情報 : アルテピアッツァ美唄

【Season’s Greetings】アルテピアッツァ美唄 安田侃さんからのメッセージと初雪の写真が到来

20171222142355_00001安田侃カン 彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄
雕刻作品:生誕

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33755fe2f8b8ae06ff4b283ae2a03bf1-320x226「アルテの森語り」は、磯田憲一さんと、素敵なゲストをお招きし、季節の節目に開催している朗読会です。

冬至に合わせて開催する今回は、磯田さんによる朗読「雪明かり」のほか、チェロ奏者のフリーデリケ・キーンレさん、鈴木友美さんをお招きします。
冬至の長い夜、静かなカフェアルテで、朗読にじっくりと耳を傾けてみませんか?朗読のあとは「交流会」を行いますので、こちらもぜひご参加ください。

■ 日  時  2017年12月23日[土・祝]16:30-
* 終演後交流会があります。 * 持ち込み、差入れ大歓迎
■ 場  所  カフェアルテ
■ 出  演  ○ 朗読:磯田憲一さん/藤沢周平著「雪明かり」 
            ○ 演奏:フリーデリケ・キーンレさん(チェロ)、鈴木友美さん(チェロ)
■ 料  金       2,000円(冬至かぼちゃ付き)

【 詳細情報:アルテピアッツァ美唄 】

【展覧会】 萩博物館 萩の鉄道ことはじめ ’17年12月16日─’18年4月8日+日本鉄道の父:井上 勝

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萩博物館 企画展

萩の鉄道ことはじめ  ― 待ちに待ったる鉄道いよいよ開通す―
◯ 開 催 日 : 2017年12月16日[土]-2018年4月8日[日]
◯ 時     間 : 09:00-17:00(入館は16:30まで)
◯ 会     場 : 萩博物館 企画展示室
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日本近代化の象徴である鉄道は萩に何をもたらしたのでしょうか。
「鉄道の父」井上勝をはじめ、草創期の「鉄道技術者」飯田俊徳、
「時刻表創刊者」手塚猛昌など、萩ゆかりの人びとが鉄道をつうじて
近代化に貢献していったことに注目し、萩と鉄道のかかわりを
多角的な視点から紹介します。
【 詳細情報 : 萩博物館
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{ 新塾餘談 }

* 飯田 俊徳(いいだ-としのり、1847-1923)
日本の鉄道の父といわれる井上 勝らと共に、日本の鉄道敷設に努めた明治時代の官僚、技術者。山口県萩市出身。元長州藩士。
萩藩大組飯田家の子として生まれ、幼名吉次郎。藩校明倫館に学んだ後、吉田松陰の松下村塾にまなび、また大村益次郎らに師事する。高杉晋作率いる奇兵隊にも所属していた。

1867年(慶応3)12月、藩命で長崎・米国・オランダへ留学。帰国後工部省鉄道局に入局。
1877年(明治10)、大阪停車場(現大阪駅)構内にて日本最初の鉄道技術者養成機関として設立された「工技生養成所」で教鞭を執り、多くの技術者を育て上げる。翌年、東海道本線京都・大津間にて逢坂山トンネル建設の総監督を務め、2年後完成させた。これは日本人の手で施工された最初の鉄道トンネルである。
その後も東海道本線をはじめとする東海地方・関西地方の数々の鉄道敷設を主導、1890年(明治23)に鉄道庁部長となるが、3年後鉄道国有化問題で退職。晩年は長男新の住んでいた愛知県豊橋市に隠居し、そこで没した。

* 手塚 猛昌(てづか-たけまさ  1853-1932)
明治-昭和時代前期の実業家。「時刻表の父」として知られる、明治期の実業家。日本最初の月刊時刻表とされる「汽車汽船旅行案内」の発行者。現在の山口県萩市須佐出身。
嘉永6年11月22日生まれ。神職をつとめたのち慶応義塾にまなぶ。明治27年「汽車汽船旅行案内」を発行。星亨(ほし-とおる)らと東京市街鉄道をおこし、39年東洋印刷を設立し社長。明治40年帝国劇場の創設にも参加した。昭和7年3月1日死去。享年80。本姓は岡部。

バーナー井上勝 小学館ライブラリー井 上  勝(いのうえ-まさる 1843-1910)

明治期の鉄道技術者。鉄道庁長官。日本鉄道の父とされる。
長門国(山口県萩市)の長州藩士井上勝行の三男として天保10年(1843)8月1日生まれる。いっとき野村家を継ぎ野村弥吉と名のり、明治維新後実家に復籍して井上勝と称した。
長崎や江戸、そして箱館(函館)の武田斐三郎(たけだ-あやさぶろう)の塾で洋学を修めた。

長州五傑/長州ファイブ在英中の長州五傑 前列右から時計回りに紹介
山尾庸三、井上馨、遠藤謹助、井上勝、伊藤博文

職掌は唯クロカネの道作に候
吾が生涯は鐵道を以てはじまり、すでに鐵道を以て老いたり
まさに鐵道を以て死すべきのみ
井 上   勝

1863年(文久3)いわゆる「長州五傑・長州ファイブ」のひとりとして、伊藤俊輔(伊藤博文 ひろぶみ)、井上聞多(井上馨かおる)、山尾庸三(わが国工学の父 1837-1917)、遠藤謹助(近代貨幣制度の導入者・造幣局長 1836-1893)らとともにイギリスに密航、このとき井上勝は二〇歳、養家の姓から野村弥吉と名乗っていた。

英国滞在中はユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(ロンドン大学群)で鉄道、鉱山技術を学び卒業、1868年(明治1)帰国。1871年工部省鉱山頭兼鉄道頭に任ぜられ、翌1872年鉄道頭専任となり、東京-横浜間(新橋駅-桜木町駅)の鉄道敷設に尽力した。
関西で鉄道建設がはじまると鉄道寮の大阪移転を断行した。外国人技師主導からの自立を目ざし、飯田俊徳をはじめとする日本人鉄道技術者を養成し、1871年からの京都-大津間の敷設には、井上自身が技師長となって逢坂山トンネル建設の難工事を乗りこえ、はじめて日本人だけの手で工事を完成した。技監、工部大輔、鉄道庁長官などを歴任、東海道線ほか幹線の敷設に貢献した。

また鉄道庁長官として東北線を敷設する際に、広大な荒地を農場に変えようと念願し、岩手県におよそ900万坪の宏大な敷地に「小岩井農場」(現小岩井農牧株式会社 岩手県岩手郡雫石町)を創設した。
この農場の名称は共同創立者三名、日本鉄道会社副社長:小野義眞(おの-ぎしん)、三菱社社長:岩崎彌之助、鉄道庁長官:井上勝の姓の頭文字をとって「小岩井」農場と名づけられた。すなわち小岩井の「井」は井上勝の頭文字の「井」である。
なお「小岩井農場」は宮澤賢治の詩文集『春と修羅』にも「小岩井農場 パート一-九」にかけて印象深く描かれている。

1893年、幹線国有化論を主張したことがもとで鉄道庁長官を辞任した。
1896年汽車製造合資会社(のちに株式会社となったが、1972年川崎重工業に吸収)を設立、社長となった。欧州での鉄道視察中に病に倒れ、若き日を過ごしたロンドンで1910年8月12日息をひきとる。享年68。
遺言によって、現地で荼毘に付されたのち、東海寺大山墓地(東京都品川区北品川4-11-8)に埋葬された。ここはJR東海道本線・JR山の手線・京浜急行・東海道新幹線の鉄道線路に近接した場所である。井上 勝、愛称 : オサルの得意やいかにとおもわせる地でもある。
東京駅(丸の内北口付近)に彫刻家:朝倉文夫による銅像があったが、同地区再開発工事中のため撤去されており、現在はみられない。
(追記 : 本稿アップロード寸前、2017年12月07日丸の内広場北西端、オアゾビルと新丸ビルの近くに、井上勝像が10年ぶり再建されたことを夕刊で各紙が報じていた)

【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-17  東京築地活版製造所アンソロジー 全日程を無事終了しました 

バーナー20171126221422_00001メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭
東京築地活版製造所アンソロジー
全日程を無事終了いたしました

協賛をたまわりました、株式会社 I H I、株式会社イワタ、株式会社モリサワをはじめ、力強い協力とご支援を頂戴しました、平野ホール、「平野富二生誕の地」碑建立有志の会、タイポグラフィ学会の皆さま、そしてサラマ・プレス倶楽部会員の皆さまにあつく御礼を申しあげます。
またプレイベント「江戸・東京 活版さるく」、本イベントにご参集いただきました多くの皆さまに、衷心より御礼を申しあげます。
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<メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭>は、開港地の長崎にうまれ、27歳にして上京、それからの20年間、明治産業の近代化におおくの功績をのこして47歳で逝去した平野富二の生涯をつうじて、メディアの越したかたをさぐり、ゆくすえを見定める機会でした。

ご存知のように、「媒体・媒介物」をあらわす{medium ミィーディアム}の複数形が {media 媒体・手段}です。
産業革命の負の側面がまさに露呈したともいうべき、19世紀世紀末・英国でのメディアの大混乱と同様に、I T 革命進行中のいまは、メディアが多様化し、氾濫し、流動化して瞬発的・刹那的となって、まさに混乱のさなかにあります。

こんな時代だからこそ、あらためてメディアの原点をみつめ、メディアに降りつもった猥雑物や夾雑物を取りのぞいたとき、キラリと輝く原石のようなものがありました。その原石を平野富二がもたらした近代活字版印刷術 ≒ タイポグラフィとして、そのよき{Renaissance 復興・再生}をめざすために、今後ともかわらぬ精進を重ねてまいります。

関連URL紹介 : 「平野富二生誕の地」碑建立有志会  タイポグラフィ学会
【継続情報は、おもに { 朗文堂 花 筏 } になります。あわせて { サラマ・プレス倶楽部 イベントアーカイブ } に収録されますので、引きつづきご声援・ご支援のほどお願いいたします】

メディア・ルネサンスロゴ01 メディア・ルネサンスロゴ03 メディア・ルネッサンス

【展覧会】 萩博物館 没後百年企画展{日本工学の父 山尾庸三}

山尾庸三フライヤー(表)[1] 山尾庸三フライヤー(裏)[1]
日本工学の父・山本庸三の人物像に迫る

幕末に伊藤博文・井上馨・山尾庸三・井上勝・遠藤謹助らとともに、「長州ファイブ」のひとりとしてイギリスへ密航留学、帰国後は日本工学教育の分野で活躍し、工部大学校(後の東京大学工学部)創設に尽力するなど、日本の工学教育形成に尽力した山尾庸三を紹介。
本展は、2017年が山尾庸三没後100年という節目の年にあたることから、これを記念し開催されたもので、2016年3月に山尾家から萩市に寄贈された約1000点の資料の中から一部を展示。大部分が初公開となる貴重な資料を観覧できる。

【詳細情報 : 萩博物館 】   
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バーナー {新塾餘談}

Yozo_Yamao_01[1]山尾庸三 (やまお-ようぞう 一八三七-一九一七)

明治時代の旧長州藩出身の官僚。天保八年(一八三七)十月八日、萩藩士山尾忠治郎の次男として出生。
文久元年(一八六一)、幕府が江戸その他の開市開港の延期を諸外国と交渉するため、勘定奉行竹内保徳をヨーロッパに派遣した際、庸三は同使節に随行し、シベリアに渡る。
翌年、帰国後、高杉晋作らの攘夷運動に加盟して、品川御殿山のイギリス公使館の焼打ちに参加したこともある。
その後、英国商人のT・グラバーの助力を得て、四人の同志とともにイギリスにおもむき(密航)、その産業や文化を視察したのち、ロンドン大学で学び、グラスゴーで実習生として造船術を習得した。この時の同行者のなかには、のちの伊藤博文・井上馨・山尾庸三・井上勝・遠藤謹助らがいた。

明治三年(一八七〇)に帰国後、庸三は民部権大丞兼大蔵権大丞を経て工部大丞へ昇進、同十三年には工部卿に就任。
また明治四年(一八七一)には工部大学校(現東京大学工学部)設置を建白した。当時の日本では「未ダ我国二於テ為スペキエ業ナシ、学校ヲ立テ大ヲ作ルモ何ノ用ヲカ為サン」という反対が強かったという。
この間長崎製鉄所の責任者であった平野富次郎(富二)との接触も多かった。 印刷局活字系譜修整版その後山尾庸三は宮中顧問官・法制局長官などを歴任し、また同二十一年、東京日比谷官庁街の建設事業を担当する臨時建築局総裁を兼ねたこともある。同二十年子爵を叙爵。
また岸田吟香らとともに楽善会訓盲院(現筑波大学附属視覚特別支援学校 東京都文京区目白台3-27-6)の創立につくした。
大正六年(一九一七)十二月二十一日没。八十一歳。
[参考文献] 古谷昌二『平野富二伝-考察と補遺』、井関九郎編『現代防長人物史』三、『国史大辞典』(吉川弘文館)
──────────
山尾庸三は現下の<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>でも注目される存在であるが、古谷昌二氏は『平野富二伝―考察と補遺』の「二-六 長崎製鉄所の経営責任者就任と退職」(.p.96-109)のなかで、すでに相当詳しく論述されている。 

山尾庸三は明治三年(一八七〇)に英国から帰国後、当時、工部権大丞で、新設されて間もない工部省の実質的な責任者であった。『文書科事務簿』(長崎県立図書館所蔵)の年表によって全体の流れを見ると、次のことが分かる。

  • 製鉄所御用掛となった井上聞多(井上馨)の示達に基づき、製鉄所頭取助役の青木休七郎は、長崎府からの食禄を辞退し、製鉄所の経営を独立採算制とし、その収益の中から職員の給料を支払うことにより、職員の改革努力で給料が上がる仕組みを作った。
  • しかし、青木休七郎は、職員の給料を捻出するため、部下の経理担当者と共謀して二重帳簿により製鉄所の収益を計上させた。
  • 頭取役本木昌造はそれに気付いて、内々で調査をしたが、井上聞多に直結する青木一派の勢力が強く、限界を感じて頭取職を辞職した。
  • 代わって頭取となった青木休七郎は、部下の経理担当者を昇格させ、本木一派と目される品川藤十郎と平野富次郎を小菅諸務専任として本局の経営から分離した。
  • 明治二年(一八六九)末、製鉄所職員の給料が無視できない程高くなっていることから、長崎県当局から県職員のレベルに合わせるように指示が出された。
  • 明治三年(一八七〇)五月、民部省の山尾庸三が製鉄所事務総管となった。青木休七郎は、それまで製鉄所兼務で、部下の経理担当者に任せ切りであったため、製鉄所専任を命じられた。
  • 同年六月、青木休七郎は大阪出張大蔵省から呼び出しを受け上阪することになった。これは製鉄所の経理不正を疑われた結果と見られる。
  • 青木頭取不在中の対応として、平野富次郎等が諸事合議して運営することを申し入れ、次いで頭取職として県当局から兼務の形で少属の者二名が派遣された。
  • 同年七月、小菅分局に勤務していた品川藤十郎と平野富次郎が本局に呼び戻され、他の機関方六名と共に兼務頭取との合議制による製鉄所の経営が行われた。
  • 明治三年(一八七〇)秋(九月頃)になって、経理担当の責任者二名が逼塞を命じられ、製鉄所経営陣の刷新が行われた。このとき品川藤十郎は頭取心得、平野富次郎は元締役となった。
  • 同年閏一〇月になって、品川藤十郎が退職すると共に、平野富次郎が長崎県権大属に昇格した。(このとき、頭取にはならず、県職員の頭取兼任者との合議によって製鉄所の運営が行われたらしい。)
  • 明治三年(一八七〇)三月に長崎製鉄所の工部省移管準備として山尾庸三が事務総管となって以来、青木一派の経理不正が疑われるようになり、遂に悪事が露見して製鉄所経理不正の首謀者たちは免職させられ、東京に連行された。
  • 明治四年(一八七一)三月、県営製鉄所の最後の責任者となっていた平野富次郎は責任を取って辞任した。

このように、慶応四年から明治四年にかけて、製鉄所の経営改善を名目にして経理上の不正が行われ、これが工部省移管の過程で発覚し、その渦中に巻き込まれた平野富次郎の様子を窺がい知ることができる。

長崎製鉄所の工部省移管のために、山尾庸三が長崎に出向き、平野富二と対面したとき、山尾庸三は算えて三四歳、五年におよんだ英国留学を終え、すでに新政府の高官であり能吏であった。
いっぽう長崎製鉄所の事実上の責任者として中央官僚と対峙することになった平野富二は、算えて二六歳、長崎の地下役人の立場でありながら、前任者たちの乱脈経営をきびしく指摘され、つらい立場となった。

それでも富二は終止誠実に対応し、山尾庸三は富二に好感をもったようである。
富二も明治一七年(一八八四)一二月三日「工学会への寄付により同会の賛助会委員として登録される」などの記録をのこしている。日本工学会は山尾庸三の設立によるものであり、その会長を三六年間にわたって勤めていた。

また先般開催された<メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭>の「江戸・東京 活版さるく」でも山尾庸三の設立にかかる工部大学校(後の東京大学工学部)跡地を訪問した
DSC_1337 DSC_1333工部大学校時代の山尾庸三は以下のようなことばをのこしている。
おそらく山尾庸三は若き平野富次郎/平野富二にも、おおきな可能性を見いだしていたのではなかろうか。平野富二は翌年上京し、多くの近代工業と産業を興している。

― 仮令当時為スノ工業無クモ 人ヲ作レバ其人工業ヲ見出スベシ ―
たとえ今は工業が無くても、
人を育てればきっとその人が工業を興すはずだ

【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-16  東京築地活版製造所アンソロジー 全日程を無事終了しました 

バーナー20171126221422_00001メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭
東京築地活版製造所アンソロジー
全日程を無事終了いたしました

協賛をたまわりました、株式会社 I H I、株式会社イワタ、株式会社モリサワをはじめ、力強い協力とご支援を頂戴しました、平野ホール、「平野富二生誕の地」碑建立有志の会、タイポグラフィ学会の皆さま、そしてサラマ・プレス倶楽部会員の皆さまにあつく御礼を申しあげます。
またプレイベント「江戸・東京 活版さるく」、本イベントにご参集いただきました多くの皆さまに、衷心より御礼を申しあげます。
──────────
<メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭>は、開港地の長崎にうまれ、27歳にして上京、それからの20年間、明治産業の近代化におおくの功績をのこして47歳で逝去した平野富二の生涯をつうじて、メディアの越したかたをさぐり、ゆくすえを見定める機会でした。

ご存知のように、「媒体・媒介物」をあらわす{medium ミィーディアム}の複数形が {media 媒体・手段}です。
産業革命の負の側面がまさに露呈したともいうべき、19世紀世紀末・英国でのメディアの大混乱と同様に、I T 革命進行中のいまは、メディアが多様化し、氾濫し、流動化して瞬発的・刹那的となって、まさに混乱のさなかにあります。

こんな時代だからこそ、あらためてメディアの原点をみつめ、メディアに降りつもった猥雑物や夾雑物を取りのぞいたとき、キラリと輝く原石のようなものがありました。その原石を平野富二がもたらした近代活字版印刷術 ≒ タイポグラフィとして、そのよき{Renaissance 復興・再生}をめざすために、今後ともかわらぬ精進を重ねてまいります。

【継続情報は、おもに { 朗文堂 花 筏 } になります。あわせて { サラマ・プレス倶楽部 イベントアーカイブ } に収録されますので、引きつづきご声援・ご支援のほどお願いいたします。

メディア・ルネサンスロゴ01 メディア・ルネサンスロゴ03 メディア・ルネッサンス
【速報写真集】
日展会館新館 一階講演会場 講師 : 平野正一氏 「子孫から見た 平野富二と縁者たち」、谷中霊園・明治産業人{掃苔会}を中心に

会員 : 春田ゆかりさん提供写真
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【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-15  東京築地活版製造所アンソロジー 日展会館新館での展示・WS/講演会二日目を迎えてヒートアップ

バーナー_1040429 _1040541 _1040542東京築地活版製造所アンソロジー
日展会館新館での展示・WS/講演会
二日目を迎えてヒートアップ

本日はご来場ありがとうございました。
あす26日[日]は最終日。二階展示 ・ WS は10時開始
フィールドワークで{ 掃 苔 会 } そうたいかい が早朝10時半出発
13:30-14:30 【最終講演会】
講師 : 平野正一 「子孫から見た 平野富二と縁者たち」

より一層パワーアップしたコンテンツでご来場をお待ち申しあげます。
15時(午後三時で終了です。お早めにご来場ください)

【速報写真集】 日展会館新館 二階 主会場、一階講演会場をを中心に
会員 : 日吉洋人さん提供写真 _1040572 _1040556 _1040586 _1040433 _1040611 _1040613 _1040614 _1040578 _1040544 _1040516 _1040522 _1040518 _1040520 _1040525 _1040526 _1040524 _1040519 _1040521 _1040519 _1040523 _1040552 _1040561 _1040574 _1040575 _1040579 _1040581 _1040582 _1040515 _1040429 _1040498 _1040501 _1040502 _1040514 _1040566 _1040590 _1040567 _1040593 _1040601 _1040607 _1040595 _1040455 _1040456 _1040457 _1040460 _1040473 _1040475 _1040472 _1040485_1040494 

【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-14  東京築地活版製造所アンソロジー 愈〻日展会館新館での展示・WS/講演会スタート

バーナー!cid_11D50FD2-7F39-4717-80C5-58E092A70F7E東京築地活版製造所アンソロジー
メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭年祭
11月24日[金] 会場点景報告

本日はご来場ありがとうございました。
あす25日[土]も、より一層パワーアップしたコンテンツで
ご来場をお待ち申しあげます。

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日展会館新館 二階 主会場を中心に 会員 : 時盛 淳さん提供写真
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【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-13 東京築地活版製造所アンソロジー 東京大学医学部と近代タイポグラフィ揺籃の地/津藩 藤堂和泉守上屋敷と門長屋  

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東京大学医学部と近代タイポグラフィ揺籃の地
津藩 藤堂和泉守上屋敷と門長屋

《大名屋敷 上屋敷 ・ 中屋敷 ・ 下屋敷と、神田和泉町の成立》
 大名屋敷とは、参勤交代によって江戸に参勤する大名に幕府から与えられた屋敷である。
一六五七(明暦三)年のいわゆる「振袖火事」とよばれる江戸大火を契機に、幕府は江戸城内にあった尾張、紀伊、水戸の御三家をはじめ、幕府重臣の屋敷を城外に移すとともに、大名屋敷を、上(かみ)屋敷、中(なか)屋敷、下(しも)屋敷の三つに分けた。
以下に『切絵図・現代図であるく江戸東京散歩』 (人文社)から「東都下谷絵図」を紹介した。

 「切絵図」では、家紋の刷ってあるところが大名の上屋敷で、表門の位置もあらわす。■ 印は大名の中屋敷、● 印は大名の下屋敷をあらわす。それぞれ印のある位置が表門である。

江戸切り絵図秋葉原周辺この時代、地図左端に描かれた神田川にもうけられた橋があり、藤堂和泉守上屋敷にちなんで「和泉橋」と呼ばれていたが、神田川左岸に「和泉町」という呼称はまだなかった。
「和泉町」の起立は『千代田区史』によれば明治5年であるが、一般社会にその名が知られるのにはだいぶ時間がかかった。

現在はこの橋も道も拡幅されて昭和通りとなっている。当時はこの通りの左右に徒士衆カチシュウと呼ばれ、徒歩で行列の供をしたり、警固にあたった徒組カチグミに属する侍(下級士族)が多く居住しており、切絵図には「此通御徒町ト云」としるされている。現在の御徒町のゆらいである。

《伊勢の国 津藩 藤堂和泉守  二十七万九百五十石の上屋敷と門長屋》
<メディア・ルネサンス>の本番に先立ち、11月11日[土]開催のプレイベント「江戸・東京 活版さるく{愛称 :ブラ富二}」が開催された。
平野富二(1846-92)の生誕170年を記念して、平野の生誕地:長崎に設けられていた官立「長崎製鉄所」をはじめ、「海軍伝習所」、「医学伝習所」、そしてあまりにも資料不足だった「活版伝習所」などの、施設と人員と物資が、相互に関連しながら、いつ・どこへ・どのように江戸・東京にもたらされたのかを、豊富な資料をもとに探るツアーであった。

詳細な報告はいずれタイポグラフィ学会誌でなされるが、参加者のほとんどがおどろかれたのが、近代医学と近代タイポグラフィの揺籃の地が、ともにこの「東京都千代田区神田和泉町一」であり、明治最初期にはまさに激動のさなかにあったことであった。
詳細報告までの間、今回のイベントの AD をつとめられた日吉洋人さんの報告が日展会館でパネル展示によってなされることになった。
旗resized 缶バッジresizedブラ富二引率責任者日吉洋人さん医学館跡プレート 引率:日吉洋人神田某所一亀店主:山本氏・エミリー・字遊人 

津藩上屋敷-01 津藩上屋敷-02 【 プリント用PDF  津藩藤堂和泉守上屋敷・門長屋 】

【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-12  東京築地活版製造所アンソロジー 連続講演会+掃苔会

バーナー

!cid_11D50FD2-7F39-4717-80C5-58E092A70F7E東京築地活版製造所アンソロジー 連続講演会
三日間 ・ 五人の講師による 連続七回の講演会

*     *     *
講演会場は日展会館新館一階になります。
講演時間は各講師とも一時間を予定しております。
貴重な原資料の展観をふくめ、著作・画像をまじえての講演となります。
友人・知人をお誘いのうえ、ふるってご参加ください(聴講・参加費無料)。
講座開始五分前までに一階会場にご集合ください。

──────────
★ 11月24日[金]

講演会 ① : 11:00-12:00
講師 古谷昌二氏
「第一部 平野富二、長崎から東京へ」
古谷昌二さんuu[1] DSCN0377 c878506326f7b271f6b5598137212bce[1] 平野DM表 平野DM裏

★ 11月24日[金]
講演会 ② : 13:30-14:30
講師 春田ゆかり氏
「本木一門創始による 京都〔點林堂〕」
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★ 11月24日[金]

講演会 ③ : 15:00-16:00
講師 真田幸治氏
「明治の文芸雑誌と東京築地活版製造所 〔文芸倶楽部〕 と 〔新小説〕 」
明治28年 文藝倶楽部 第六編 泉鏡花「外科室」1頁目 明治28年 文藝倶楽部 第六編 表紙 明治28年 文藝倶楽部 第六編 木版口絵 水野年方
──────────
★ 11月25日[土]
講演会 ④ : 11:00-12:00
講師 板倉雅宣氏
「〔もとき〕 か 〔もとぎ〕か 本木昌造の呼称」
板倉雅宣 タイポグラフィ論攷_表紙 タイポグラフィ論攷フライヤー表 タイポグラフィ論攷裏

★ 11月25日[土]
講演会 ⑤ : 13:30-14:30
講師 古谷昌二氏
「第二部 平野富二、神田和泉町から築地・石川島へ」
古谷昌二さんuu[1]
江戸名所道外尽 十 外神田佐久間町resized東京築地活版製造所変遷
★ 11月25日[土]
講演会 ⑥ : 15:00-16:00
講師 春田ゆかり氏
「近代ひらがな活字の幕開け、池原香穉と周辺の人々」
2池原香穉書-抜刀隊50395-tei 3吉田晩稼碑63413-tei──────────
★ 11月26日[日]
講演会 ⑦ : 13:30-14:30
講師 平野正一
「子孫からみた 平野富二と縁者たち」
正一さんと平野富二 新旧長崎地図 e9fd275dc476af6b4d99a7f56e59b9b5[1] 平野富二-206x300[1]──────────

東京築地活版製造所アンソロジー
掃 苔 会

{掃苔会}は主会場の日展会館新館に隣接する谷中霊園を中心に
明治近代産業とメディアの勃興に貢献した著名人の
記念碑・顕彰碑・墓地・墓標などをめぐります。

プレイベント<江戸・東京 活版 さるく>をうけて、より一層充実した内容となります。
版を重ねた特製ガイドブックをもとに、ベテラン会員がご案内いたします。
歩きやすい靴と服装でご参加ください。また道中に自動販売機がありませんので飲み物を各自ご用意ください。
(26日[日]10:10  二階の受付前にご集合ください。資料代として参加費1,000円)。

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【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-11  特別展示 : 東京築地活版製造所アンソロジー/『花の栞』全5回の刊行

バーナー東京築地活版製造所アンソロジー
『花の栞』 全五回

【展示協力】
第一回 ・ 第三回 株式会社モリサワ所蔵
第四回        きくもとグラフィックス株式会社・菊本裕三氏所蔵 兵庫県丹波市

花の栞第3回活版之部 表紙 1898(M38) 花の栞第3回活版之部 草創時三代肖像

『花の栞』第三回 明治31年10月 東京築地活版製造所出品
創業期の経営者三人、とりわけ第二回の編輯を終え、刊行を目前にして急逝した曲田成を偲んでの東京築地活版製造所「生徒」の製作である。
東京築地活版製造所では明治中期まで、本木昌造は翁、平野富二は先生、長崎新街私塾出身者を生徒とする慣わしがあった。
──────────
『花の栞』は、東京築地活版製造所第二代社長 : 曲田 成が、英国 『British Printer』 にならい、創刊直後の『印刷雑誌』をつうじて全国の印刷業者に呼びかけ、印刷技術の向上と新技術の普及をめざして発行したもので、現代のグラフィックデザイン年鑑・タイポグラフィ年鑑などのデザイン年鑑類のさきがけともいえる図書である。

『花の栞』の事務局は「印刷交換会」と称して東京築地活版製造所社内におかれ、印刷物の現物を公募収集し、それを冊子にまとめて発行したもので、公募作品は商用印刷物の提出は不可とされた。また印刷所名だけでなく、作業にあたった職工名、組版方式、印刷技法を明記するようもとめるなど画期的な逐次刊行物であった。
* 表題はいわゆる変体仮名で-はなのしほり・花のしをり-であるが、本稿では国立国会図書館にならってすべてを『花の栞』とした。

創始者の曲田成を第二号の刊行直前に急逝によって失い、逐年刊行はならなかったが、その遺志をうけた第三代社長:名村泰蔵によって刊行がつづけられ、
①明治26年12月 ②明治27年11月 ③明治31年10月 ④明治35年3月 ⑤明治41年6月
都合五回の刊行をみた。ただし名村泰蔵は貴族院議員でもあったので、印刷人は支配人:野村宗十郎の名で刊行されている。
発行部数は回を追うごとに漸減しているが、応募提出部数規定からみても最大150部程度とみられる。印刷図書館に全五回揃いがあり、国立国会図書館ではマイクロフィルム(モノクロ)で第1回・4回・5回を公開している。
また積極的に海外メディアにも送付していたため、海外の博物館にも一部が残存している。

花の栞4-0 花の栞4-1 花の栞4-2 花の栞4-3『花の栞』第四回 明治35年3月製本より

曲田成曲田 成(まがた-しげり)
東京築地活版製造所第二代社長
弘化03年10月01日-明治27年10月15日 1846. 11.19-1894. 10. 15  享年49

ここで東京築地活版製造所の基礎を築いた創業期の四人の社長をあらためて並べてみた。
◯ 平野 富二
東京築地活版製造所創設者/初代社長、長崎うまれ・元長崎製鉄所所長
弘化03年08月14日-明治25年12月03日 1846. 08. 14-1892. 12.03 享年47
◯ 曲 田 成
東京築地活版製造所第二代社長、淡路島洲本うまれ・元徳島蜂須賀藩士(士籍返上)
弘化03年10月01日-明治27年10月15日 1846. 11. 19-1894. 10. 15  享年49
◯ 名村 泰蔵
東京築地活版製造所第三代社長/長崎うまれ・原姓北村、高級司法官僚・貴族院議員
天保11年11月01日-明治40年09月06日 1840. 11. 24-1907. 09. 06 享年68
◯ 野村宗十郎
東京築地活版製造所第四代社長/長崎うまれ・原姓服部、長崎製鉄所職員、元大蔵官僚
安政04年05月04日-大正14年04月23日 1857. 05. 26-1925. 05. 04 享年69
──────────
平野富二は開港地であった長崎にうまれ、曲田成は当時徳島藩領であった淡路島中央東部、現洲本市にうまれた。ふたりはともに海をみながら幼少期を送ったが、1846(弘化3)年という同年のうまれである。わずかに一ヶ月半ほど平野が先に誕生している。
またふたりとも仕事人間で、平野富二は講演中に脳溢血に倒れそのまま卒した。曲田成は出張先の姫路の旅舎で倒れ、看取るものもなく卒した。わずかな違いは、曲田が二年ほど長命だっただけで、それでもふたりとも五〇歳を迎えることなく卒した。

近年国立国会図書館から『株式会社東京築地活版製造所社長 曲田成君略伝』(編輯兼発行/松尾篤三 明治28年10月16日 請求記号:特29-644)が公開されてさまざまな事柄が判明した。そのひとつが、英国の印刷業界誌『British Printer』とのやりとりから曲田が発案した「印刷物交換 『花の栞』」の刊行企画である。

曲田成は創刊直後の『印刷雑誌』(第1巻2号 明治24年3月28日)に、「印刷様本ノ交換」とする記事を投稿している(原文は文語調片かなまじり。若干意訳)。
「英国ロンドンに印刷用紙および印刷業の日報を発行する会社がある。近来その創意によって万国印刷者の印刷物様本〔見本〕の交換がなされている。それをわが国でも企画し、毎年一回これをおこないたい」
として、英国での現状を細かく紹介した。

ついで『印刷雑誌』(第3巻6号 明治26年7月28日)に11条にわたる詳細な「第一回日本全国印刷物交換方法」の応募規定を掲げて公募を開始した。 それによると、
「第1 条 本法は活版・石版・木版・銅版・亜鉛版・写真版・電気版・細網版・およびその他の製版方式などの各種の版式による印刷物をたがいに交換し、技術の進歩を計ることをもって目的とする。交換とは同様同数の印刷物と、異種の同数の印刷物を交換することの意である」
としている。 さらに寸法は天地 ≒ 31.5cm、横 ≒ 24.5cm(製本時に三方化粧断裁されている)、厚さはボール紙・台紙・合紙したものは不可としている。
事務局は東京築地活版製造所内におき、営利目的ではないので、出品者(有料)と広報のための配布のほか、市場販売はおこなわない旨がしるされている。

国立国会図書館から『株式会社東京築地活版製造所社長 曲田成君略伝』が公開されたこととあわせ、現在『花の栞』に関する研究も進行中である。
すなわち現在伝承されている東京築地活版製造所に関する事柄から、初代社長/平野富二、二代社長/曲田 成、三代社長/名村泰蔵の業績が抜けおち、象徴的な創業者/本木昌造が常にあらざるほど喧伝されてきた理由が判明しつつあり、その欠落部を埋める調査がなされている。
──────────
◎ 花の栞 第一回
東京市京橋区二丁目17番地 株式会社東京築地活版製造所構内
第一回印刷物見本交換事務所 曲田 成
序文執筆者/無署名(第二回と同一人物)
明治26年12月製本(118点収録)
◎ 花の栞 第二回
東京市京橋区二丁目17番地 株式会社東京築地活版製造所
印刷物見本交換事務所 野村宗十郎
序文執筆者/無署名(第一回と同一人物)
明治27年11月製本(111点収録)
◎ 花の栞 第三回
東京市京橋区二丁目17番地  株式会社東京築地活版製造所
印刷物見本交換事務所 野村宗十郎
序文執筆者/陽 其二
明治31年10月製本(110点収録)
◎ 花の栞 第四回
東京市京橋区二丁目17番地  株式会社東京築地活版製造所
印刷物見本交換事務所 野村宗十郎
序文執筆者/手島精一
明治35年3月製本(106点収録)
◎ 花の栞 第五回
東京市京橋区二丁目17番地  株式会社東京築地活版製造所
印刷物見本交換事務所 野村宗十郎
序文執筆者/手島精一
明治41年6月製本 (86点収録)

Seiichi_Tejima[1]手島精一(1849―1918)

創業から間もない平野富二、曲田成にフィラデルフィア万国博覧会(1876年・明治09年)へ漆器・陶磁器・扇子・屏風などのそれまでの博覧会の出展物だけでなく、文明開化の成果として、近代鋳造活字と活版印刷機の出展をうながし、また英国の印刷業界誌『British Printer』を紹介したのは手島精一だった。
手島精一は技術教育の先駆者。アメリカに遊学し(1870-1874)、帰国後東京開成学校監事、東京教育博物館長、東京図書館主幹を歴任した。その間フィラデルフィア、パリの万国博覧会に日本代表として出席、その後も内外博覧会に主役を演じた。

東京高等工業学校本館東京高等工業学校本館(ふつう蔵前の高等工業と呼ばれた)

1890年(明治23)東京職工学校校長に招かれ、以後、同校の後身である東京高等工業学校(現東京工業大学)の校長を1916年(大正5)まで務め、現場技術者の養成に貢献した。
東京高等工業学校は「蔵前の高等工業、芝浦の高等工芸」とされ、工業と技芸教育の双璧をなした拠点校であったが、関東大震災の被害が甚大で、現在地の目黒区大岡山に移転し、1929(昭和4)年に東京工業大学に昇格し現在にいたる。
手島精一は東京築地活版製造所にフィラデルフィア万博のころから支援をかさね、『花の栞』第四・五巻に序文をしるし、より創意にみちた意欲ある製作を呼びかけ激励している。

【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-10  特別展示 : 夏目漱石全集と東京築地活版製造所-内田百間「築地活版所十三号室」

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【作品名】 内田百間 『築地活版十三号室』より

【作者名】 著者 : 内田百間
                印刷 : 田中智子(はな工房)
【版式・技法】 文字 : 凸版(活字版印刷)

東京築地活版製造所アンソロジー : 夏目漱石全集と東京築地活版製造所
内田百間「築地活版所十三号室」

夏目漱石(1867年2月9日(慶応3年1月5日)-1916年(大正5)12月9日)は、1916(大正5)年12月9日に持病の胃潰瘍が原因で永眠した。
『漱石全集』は岩波書店が刊行した夏目漱石の著作集。第一次全集は1917(大正6)年-1919(大正8)年にかけて全14巻で刊行された。
活字組版・印刷製本は東京築地活版製造所であった。 後年刊行のものに「普及版」「新輯 定版」などがあるが、1935(昭和10)年の「決定版」は小宮豊隆により原稿を尊重して編纂されたもので、以降の漱石全集の基礎となった。
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『思想』第162号・特輯漱石記念号(昭和10年11月)
「築地活版所十三号室」内田百間

大正六年の漱石全集初版の校正にあたつたのは、森田草平、石原健生、林原耕三の諸氏と私との四人である。
但し第十何巻日記書簡からは小宮豐隆氏が専らその任にあたられた。
私共がその仕事に取りかかつたのは、何年何月からであつたか、はつきりした記憶はないが、毎日みんなの顔を合はした場所は築地活版所の第十三号室である。〔中略〕

十三号室は本館に隣つた川添ひの煉瓦建の二階で、教室ぐらゐの廣さがあつた。その階段の下が職工達の通路になつてゐたので、夕方ぞろぞろと流れる様に帰つて行く職工達の間にふと老人の顔を見附けたり、綺麗な髷のお神さん風の姿に目を惹かれたりして何となく感慨を起こす様な事もあつた。
大正十二年の大地震で十三号室の建物はすつかり潰れて跡方もなくなつた様である。〔後略〕

M7,M37社屋Uchida_Hyakken内田 百間
(うちだ-ひゃっけん、戦後筆名を百閒と改めた〔読みは同じ〕。1889-1971)

夏目漱石門下の日本の小説家・随筆家。本名は内田榮造。別号百鬼園(ひゃっきえん)。
得体の知れない恐怖感を表現した小説や、独特なユーモアに富んだ随筆などを得意とした。
1910年(明治43)東京帝国大学文科大学入学。文学科独逸文学専攻。
1911年(明治44)療養中の夏目漱石を見舞い門弟となる。小宮豊隆、鈴木三重吉、森田草平らと知り合う。

『夏目漱石全集』(岩波書店)の校閲に従事したのは1917年(大正6)28歳のころ。
夏目漱石没後20年に際して刊行された『思想』第162号・特輯漱石記念号(昭和10年11月)に、「築地活版所十三号室」、「漱石全集は日本人の經典である」をしるしたのは46歳のころ。
また「築地活版所十三号室」には「大正十二年の大地震で十三号室の建物はすつかり潰れて跡方もなくなつた樣である。」とあるが、東京築地活版製造所の本社工場は大正11年のはじめに全面的に取りこわされ、新築がなって、移転の当日に関東大震災に襲われている。此の部分は百間の記憶違いである。
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内田百間による「築地活版所十三号室」の既述と、残された写真とを照合すると、運河沿いの二階角部屋、通路脇の一室が出張校正室につかわれていたことが判明し、大正年代、関東大震災襲来までの東京築地活版製造所の部屋割りの一部があきらかになった。

また東京築地活版製造所はもっぱら活字鋳造所として知られるが、明治初期からさまざまな版式の印刷を手がけており、活字版印刷も『虞美人艸』(夏目金之助〔漱石〕著、春陽堂、明治40年12月29日)をはじめ、岩波書店『漱石全集』14巻を二年ほどでまとめている。

◯ 『虞美人艸』(夏目金之助〔漱石〕著、春陽堂、明治40年12月29日)
菊判 本文606ページ、印刷者・野村宗十郎、印刷所・東京築地活版製造所
基本組版 : 五号明朝活字 一行33字詰め 字間五号四分 一頁13行 行間五号全角
20171122144039_00001 20171122144039_0000420171122144039_00005
◯ 『漱石全集』(第五巻 著作権者・夏目純一、漱石全集刊行会、大正7年5月5日)
菊判 本文970ページ、印刷者・大久保秀次郎、印刷所・東京築地活版製造所
基本組版 : 五号明朝活字 一行44字詰め 字間ベタ 一頁14行 行間五号全角
20171122144039_00002 20171122144039_00003 20171122144039_00006
〔推奨参考図書 『漱石全集物語』(矢口進也著 2016年11月 岩波書店)〕

【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-08  活版印刷ゼミナール 展示・実演+講演会+掃苔会

掲示ポスター用

メディア・ルネサンスロゴ01[1] メディア・ルネッサンスweb !cid_11D50FD2-7F39-4717-80C5-58E092A70F7E プリント用 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭日程表 PDF

 * メーン会場は日展会館新館二階になります。
二階の展示場には、稀覯書をふくめた豊富な資料がならび、また活版印刷実践者による製作品の数数がならびます。皆さまには至近距離から展観していただけます。
また明治六年に平野富二がまっさきに製造したものと同型の、アルビオン型手引き式活版印刷機、朗文堂 サラマ・プレス倶楽部製造・販売 「Salama-21A」、「Salama-LP」 の小型活版印刷機二台を搬入して、ご来場の皆さまに操作・印刷していただきます。ぜひともご体験ください(一部有料です。上掲案内をご覧いただき会場にてお支払いください)。

* 講演会場は日展会館新館一階になります。
講演は各講師とも一時間を予定しております。貴重な原資料の展観をふくめ、著作・画像をまじえての講演となります。
友人・知人をお誘いのうえ、ふるってご参加ください(聴講・参加費無料)。

* 一階講演会場は映写室を兼ねています。
講演の終了後は、朗文堂サラマ・プレス倶楽部所蔵の貴重な動画・スライドショーをエンドレス・ロールでご覧いただきます。講演会が優先で中途上映打ち切りになることがあります。

* {掃苔会}は主会場の日展会館に隣接する谷中霊園を中心に、明治近代産業とメディアの勃興に貢献した著名人の記念碑・顕彰碑・墓地・墓標などをめぐります。
プレイベント<江戸・東京 活版 さるく>をうけて、より一層充実した内容となります。版を重ねた特製ガイドブックをもとに、ベテラン会員がご案内いたします。
歩きやすい靴と服装でご参加ください。また道中に自動販売機がありませんので飲み物を各自ご用意ください。
(11月26日[日]10:10  二階の受付前にご集合ください。資料代として参加費1,000円)
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会場 日展会館新館
110-0002 東京都台東区上野桜木2-14-3
TEL 03-5809-0803
・ JR日暮里駅 南口跨線橋上の駅舎です)より谷中霊園碑文通り経由、徒歩8分
・ 地下鉄千代田線・千駄木駅もしくは根津駅より徒歩10分
日展会館新館地図【 Googleマップ 】

【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-01

メディア・ルネサンスロゴ01 メディア・ルネサンスロゴ02
☆ プレイベント:「江戸・東京 活版さるく」 
無事に終了しました。

  11月11日[土]開催 (バスツアー 先約40名様 参加費7000円)

☆ メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭
会  期 : 2017年11月24日[金]-26日[日] 10:00-17:00(最終日15時まで)
会  場 : 日展会館 新館 (東京都台東区上野桜木町2-14-3)
入場料 : 無 料(催事の一部には参加費が必要なものもあります)
* 展示のほか、講演会、活版ゼミナール、産業人掃苔会開催。詳細は後日WebSiteで

主    催 : 朗文堂 サラマ・プレス倶楽部 160-0022 東京都新宿区新宿2-4-9
協    賛 : 株式会社 I H I 、株式会社イワタ、株式会社モリサワ
協    力 : 平野ホール、「平野富二生誕の地」碑建立有志の会、タイポグラフィ学会

平野富二平 野  富 二
長崎新塾出張東京活版製造所/有限責任東京築地活版製造所 創設者
石川島平野造船所/有限責任石川島造船所(現 IHI) 創設者
明治産業近代化のパイオニア 生誕170年
弘化03年08月14日-明治25年12月03日 1846. 08. 14-1892. 12.03 享年47

【 継続詳細情報 : サラマ・プレス倶楽部 イベントアーカイブ にて連続紹介 】

Main image 製作/日吉洋人会員
主要使用書体/イワタ太ゴシック体欣喜堂・朗文堂 おゝことのはH欣喜堂・朗文堂 銘石B
{漢数字 二} 平野富二墓標「二」より採取・加工 原字:吉田晩稼書 大楷書(蚕頭雁尾)より

【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-04 11月11日[土] プレイベント{江戸・東京 活版さるく}ご案内

 プレイベント{江戸・東京 活版さるく}は
好天に恵まれ、全日程を消化して無事に終了いたしました。
ご参加ありがとうございました。

つぎは「日展会館 新館」でお会いしましょう。
バーナー
さるく01resized さるく02resized さるく03resized さるく04resized    【 江戸・東京 活版さるく 案内パンフレット -参加者配付資料 】
A4判 46ページ 中綴じ 朗文堂 サラマ・プレス倶楽部
コンテンツ協力 : 古谷昌二 ・ 板倉雅宣  デザイン製作 : 日吉洋人会員

map-EdoTokyo1107-2     【 プリント用PDF  江戸・東京 活版さるく概略図 859MB 】
A3 判 カラープリント 参加者配付資料 朗文堂 サラマ・プレス倶楽部
コンテンツ協力 : 古谷昌二  デザイン製作 : 春田ゆかり会員
江戸・東京 活版 さるく【 プリント用PDF  江戸・東京 活版さるく旅程表  514KB 】
旗resized缶バッジresized

☆ プレイベント:「江戸・東京 活版さるく」
11月11日[土]開催 (バスツアー)

平野富二(1846-92)の生誕170年を記念して、平野富二の生誕地長崎に設けられていた官立「長崎製鉄所」をはじめ、「海軍伝習所」、「医学伝習所」、そしてあまりにも資料不足だった「活版伝習所」などの、施設と人員と物資が、相互に関連しながら、いつ・どこへ・どのように江戸・東京にもたらされたのかを、豊富な資料をもとに探るツアーです。

「さるく」とは肥前・肥後など九州北東部の方言で、ぶらぶら歩きをさします。昨年五月開催の<Viva la 活版 ばってん 長崎 崎陽長崎探訪・活版さるく>では、狭隘な長崎市街地を考慮して小型バス二台での「さるく」となりました。 ことしはより広い東京での開催となります。
バスツアーといいながら、相当徒歩でのコースもありますので、歩きやすい靴と服装でご参加ください。

【 お問い合わせ・申し込み先 : 朗文堂 サラマ・プレス倶楽部  » send email 】

【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-06 <江戸・東京 活版さるく>訪問地:お玉が池種痘所

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バーナーDSCN2784江戸・東京 活版さるく 訪問先
27 お玉ヶ池種痘所 跡
所在地 千代田区岩本町2丁目 (もと勘定奉行川路聖謨旧私邸内)

標示物 : 「お玉ヶ池と種痘所跡」標柱、記念プレート、解説板
概  要 : 安政5(1858)年5月に江戸の蘭方医83人が出資して、神田お玉が池に「種痘所」を設置した。この土地はのちに累進して幕府勘定奉行筆頭となった川路聖謨(かわじ としあきら 1801―68)が、かつて所有していた私有地を提供したと伝えられている。
しかしこの地での「種痘所」は、同年11月、開設からわずか半年にして火災により類焼したため、大槻俊斎(おおつき しゅんさい 1806―58)と、伊東玄朴(いとう げんぼく 1801―71)の家を臨時の種痘所とし、その後神田和泉町へ移った。→ ●43、●42

なおこの土地の提供者とされる川路聖謨は、のちに累進して幕府の勘定奉行となり、ロシアのプチャーチンとの外交交渉を担当したことでも知られる。
ロシア側は川路の聡明さを高く評価し、その肖像画(写真)を残そうとしたが、子供の頃に疱瘡(天然痘)を患ったために痘痕(あばた)顔であった川路は、
「自分のような醜男が、日本男児の標準的な顔だと思われては困る」
という機知に富んだ返答をしたという逸話が残っている。また筆まめで『長崎日記』、『下田日記』(東洋文庫124 平凡社)などをのこした。

Toshiakira_Kawaji[1]川路聖謨(1801-68)
天然痘をわずらったため、顔にはあばた(痘痕)が多かったとされる
天然痘予防の「種痘所」が旧宅に設けられたのは、なにか因縁を抱かせる

戊申の折には「表六番町-現在の市ヶ谷近くか」に隠居し、また中風になって右腕が不自由な躰であったが、江戸開城の報を聞き、割腹、さらにピストルを喉に発射、自死して徳川幕府に殉じた。日本で最初にピストル自殺をした人物ともされる。

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読書家のかたにとっては、なにをいまさらといわれかねないが、吉村 昭『落日の宴-勘定奉行川路聖謨』 を読みなおしている。同書帯にも引用されているが、吉村 昭は文芸誌『群像』に連載する前に、二〇年余の準備期間ともいえる時間をかけて川路聖謨の取材をかさねていた。

『落日の宴-勘定奉行川路聖謨』  あとがき
〔前略〕 川路〔聖謨〕は、幕末に閃光のようにひときわ鋭い光彩を放って生きた人物である。軽輩の身から勘定奉行筆頭まで登りつめたことでもあきらかなように、頭脳、判断力、人格ともに卓越した幕吏であった。
このような異例の栄進は、一歩道をあやまれば日本が諸外国の植民地になりかねない激動期に、幕閣が人材登用を第一とし、家柄、序列その他をほとんど無視したからである。
大きな危機感をいだいていた閣老たちは、川路をはじめとした有能な幕吏を積極的に抜擢し、その期待にかれらは十分にこたえた。開国以後の欧米列国との至難な外交交渉、国内の目まぐるしい混乱をへて日本を明治維新にすべり込ませることができたのは、これらの秀れた幕吏の尽力に負う所が大きい。〔後略〕

20171106152311_00001徳川幕府の奉行職とは、ほとんど旗本がその職につき、知名度のわりに禄高はひくかった。
川路聖謨もはじめは200俵の扶持米の軽格であり、勘定奉行の時500石とされている。役職金の500石を加えても、さほどの禄を得ていたわけではない。

神田お玉が池の旧宅に、川路聖謨がいつの時代に居住したのかあきらかではないが、当時は藍染川にそった、湿気のたかい、簡素な家だったようである。
いまは東京大学医学部建立による簡素な石柱がある。

参考資料 : 『 国史大辞典 』 (吉川弘文館)

      川路聖謨 かわじとしあきら (一八〇一-六八)

江戸時代末期の勘定奉行。名は聖謨、通称は弥吉、ついで三左衛門、叙爵して左衛門尉と称し、隠居して敬斎と号し、死の直前に頑民斎と改めた。
享和元年(一八〇一)四月二十五日、幕府直轄領の豊後国日田(大分県日田市)に生まれた。父は日田代官所の属吏内藤吉兵衛歳由。 文化五年(一八〇八)父が幕府の徒士組に転じたので、伴われて江戸に移り、同九年十二歳で小普請組川路三左衛門光房の養子となった。
はじめ小普請組から支配勘定出役・評定所留役を経て、文政十年(一八二七)寺社奉行吟味調役となり、天保六年(一八三五)出石藩主仙石家の内紛の断獄にあたり、奉行脇坂安董を扶けて能吏としての名を挙げ、勘定吟味役に抜擢され、同十一年佐渡奉行、翌十二年小普請奉行、同十四年普請奉行、弘化三年(一八四六)奈良奉行、嘉永四年(一八五一)大坂町奉行を歴任、翌五年九月勘定奉行に昇進し海防掛を兼ねた。
同六年六月ペリーの浦賀来航には国書の受理を主張し、また若年寄本多忠徳に従って房総海岸を巡視した。
ついでプチャーチンの長崎来航により、同年十月露使応接掛を命ぜられ、十二月以降長崎において、翌安政元年(一八五四)十一月以降下田において談判し、十二月二十一日大目付筒井政憲とともに日露和親条約に調印した。
翌二年八月禁裏造営掛を命ぜられ、上京して大任を果たした。
同三年十月老中堀田正睦が外国事務取扱を兼ねると、外国貿易取調掛を命ぜられ、翌四年八月にはハリス上府用掛となった。

同五年正月正睦が条約勅許奏請のため上京するにあたり、外国事情に通じているところから目付岩瀬忠震とともに随行を命ぜられた。 かつて奈良奉行時代に青蓮院宮尊融入道親王(のち朝彦親王)に知遇を得、また禁裏造営掛として公卿間にも知己が多く、大いに運動したが失敗し、四月正睦と帰府した。
時に政治問題となっていた将軍継嗣では、一橋慶喜を擁立する一橋派に属していたため、大老に就任した井伊直弼に疎まれ、同年五月西丸留守居の閑職に左遷され、翌六年八月さらに免職・隠居を命ぜられ、差控に処せられ、家督は嫡孫太郎(寛堂)が継いだ。
文久三年(一八六三)五月外国奉行に起用されたが、十月老疾をもって辞した。
以来官途につかず、慶応二年(一八六六)二月中風を発して身体の自由を失い、読書に親しみ、かつ徳川家の高恩を思い、奉公の念を忘れなかった。
明治元年(一八六八)三月十五日の朝、東征軍が迫って江戸開城も目前にあるを察し、表六番町(千代田区六番町)の自宅において、
「天津神に背くもよかり蕨つみ飢にし人の昔思へは 徳川家譜代之陪臣頑民斎川路聖謨」
の辞世を残し、割腹ののち、短銃をもって果てた。六十八歳。法名は誠恪院殿嘉訓明弼大居士。
上野池ノ端七軒町(台東区池之端)大正寺に葬った。贈従四位。

川路聖謨は平素文筆に親しんで多くの遺著を残したが、遠国奉行中の日記をはじめ、露使と応接した『長崎日記』『下田日記』、京都に使いした『京都日記』『京日記』および晩年の日記は『川路聖謨文書』全八巻(『日本史籍協会叢書』)に収められる。
ちなみに下田奉行・外国奉行などを歴任、外交の第一線で活躍した井上清直は聖謨の実弟である。

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59e3429eb264f1[1]吉村昭記念文学館
吉村昭 生誕90周年記念 企画展
「吉村昭とふるさとあらかわ ~生い立ちとその作品世界~」
会    期 : 10月28日[土]-12月10日[日]
* 11月26日[月]・16日[木]は休館
時    間 : 9時30分-17時(常設展示は20時30分まで)
入館料 : 無料
会   場 :  ゆいの森あらかわ 3階 企画展示室
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荒川区出身の小説家、吉村昭(昭和2年-平成18年)の生誕90周年を記念して、
「吉村昭とふるさとあらかわ~生い立ちとその作品世界~」を開催します。

吉村昭は、昭和2年(1927)、現在の荒川区東日暮里六丁目に生まれました。多感な時期を荒川区で過ごし、その時の経験は「吉村昭」の原点となりました。随筆や短篇小説には度〻荒川区が登場し、最後の長篇小説も荒川区を舞台とした「彰義隊」でした。
本展示では、荒川区で過ごした幼少期から青年期にかけての写真やゆかりの品などから「吉村昭」の原点をたどり、自筆原稿や作品に関連する挿絵を通して、吉村の描いた作品世界を紹介します。

【 詳細 : 吉村昭記念文学館 】

【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭 ─ 07

バーナー メディア・ルネサンスロゴ01[1]メディア・ルネッサンスweb平野富二生誕メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭 活版ゼミナール 日程表 !cid_11D50FD2-7F39-4717-80C5-58E092A70F7E プリント用 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭日程表 PDF

* 一階講演会場は映写室を兼ねています。講演終了後は朗文堂サラマ・プレス倶楽部所蔵の貴重な動画・スライドショーをエンドレスロールでご覧いただきます。
* 講演は各講師とも一時間を予定しております。貴重な原資料の展観をふくめ、著作・画像をまじえての講演となります。友人・知人をお誘いのうえ、ふるってご参加ください。
* {掃苔会}は主会場の日展会館に隣接する谷中霊園を中心に、明治産業とメディア勃興に貢献した著名人の墓地・墓標・記念碑・顕彰碑などをめぐります。プレイベント<江戸・東京かっぱんさるく>をうけて、今回はより一層充実した内容となります。 版を重ねた特製ガイドブックをもとに、ベテラン会員がご案内いたします。歩きやすい靴と服装でご参加ください。
* 二階の展示場には、稀覯書をふくめた豊富な資料がならび、至近距離から展観していただけます。また明治六年に平野富二が製造したものと同様の、手引きアルビオン型活版印刷機、サラマ・プレス倶楽部製造の小型活版印刷機二台も搬入して、実際に操作・印刷していただきます。ぜひともご体験ください。 

【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-02   さぁはじまりました! サラマ・プレス倶楽部名物 宛名面一色+絵柄面二色 3000枚 都合9000回プレスの Postal Card 印刷

バーナーDSCN4375 DSCN4380 DSCN4385 DSCN4368 DSCN4396会報誌『 Salama Press Club NewsLetter  Vol. 35 』の配布を終え、サラマ・プレス倶楽部は本格的に<メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭>の準備態勢にはいりました。
2011年東日本大震災に際し、各地会員の被災者へのおもいと、ご来場者の安全に配慮して、直前に<活版凸凹フェスタ>を中止して以来、久しぶりの東京でのイベント開催です。
メディア・ルネサンスロゴ01 メディア・ルネサンスロゴ02この間に朗文堂内での事業部名が、登録商標にあわせて、「アダナ・プレス倶楽部 → サラマ・プレス倶楽部」にかわり、イベント名も「活版凸凹フェスタ → Viva la 活版」と活版礼讃のイベント名にかわりました。
「Viva la 活版」イベントはその後、地方からの底上げと充実をはかり、北海道美唄市:アルテピアッツァ美唄、鹿児島市:尚古集成館、新潟市:北方文化博物館、長崎市:長崎県印刷工業組合会館での開催をかさねてまいりました。

折しもことしは、近代産業近代化のパイオニアとして、東京築地活版製造所と東京石川島平野造船所(現 I H I )の創業者 : 平野富二生誕170年にあたります。
プレイベント「江戸・東京 活版さるく」(11月11日[土]開催 先約40名様限定)では、長崎に設けられた「海軍伝習所」「医学伝習所」「活版伝習所」などの施設と人員とモノが、いつ・どこに・どのように江戸と東京にもたらされ、どのように消長したのかをバスツアーで探ります。
11月24日[金]-26日[日]に日展会館 新館を主会場として開催される<メディア・ルネサンス 平野富二生誕170周年祭>も、盛り沢山の企画で皆さまをお迎えいたします。
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《 さぁはじまりました! サラマ・プレス倶楽部イベント名物 はがき印刷 》
今回のイベント告知はがきは、宛名面一色+絵柄面二色、3000枚製作ですから、都合9000回プレスの Postal Card (絵はがき)となりました。
10月12日[木]に四台の機械用に印刷版の組みつけ、13日[金]の夜から印刷を開始し、14日[土]、15日[日]と印刷作業に没頭しました。

雨の週末でしたが上掲写真のように、田中・日吉・松尾A・上条・千星・鷹巣・時盛・森田・江並といった多くの会員の皆さんのご協力をいただき、夜1?時ころに無事印刷を終えました。
これから本格的な広報態勢に入りますので、この<活版 à la carte>と同様、<イベントアーカイブ>コーナーに情報を集中しますので、ご訪問をよろしくお願いいたします。

【 継続詳細情報 : サラマ・プレス倶楽部 イベントアーカイブ にて連続紹介 】

【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-05 明治産業人掃苔会訪問予定地 戸塚文海塋域に吉田晩稼の書、三島 毅・石黒忠悳の撰文をみる

バーナー《明治産業人掃苔会訪問予定地 戸塚文海塋域 三島毅・石黒忠悳の撰文、吉田晩稼の書
戸塚文海をはじめとする戸塚家の塋域はひろく、東京谷中天王寺墓地にある。
天王寺(てんのうじ 天台宗 護国山尊重院天王寺 台東区谷中七-一四-八)の創建はふるく、一二七四(文永一一)年の創建である。
はじめ「長耀山感応寺」と称した日蓮宗の寺院で、徳川家光と春日局の外護を受け、寺領二万九千六百九十坪、多くの塔頭を有する名刹であって、一六四四(寛永二一)年に寺領の一画に五重塔を建立した。 谷中五重の塔その後、この寺と五重塔はさまざまな変転をへてきた。
一六九八(元禄一一)年江戸幕府の命によって天台宗に改宗し、その三年後、いわゆる振り袖火事-明和の大火によって五重塔が焼失した。
塔は一七九一(寛政三)年に近江出身で湯島の大工・八田清兵衛が再建し、くだって一九〇八(明治四一)年に東京市に寄贈された。
この五重塔は幸田露伴の小説『五重塔』のモデルにもなった東京名所のひとつで、武蔵野丘陵東端の高台を占める谷中霊園のシンボルになっていた。

五重塔 五重塔2 幸田露伴 『五重塔』 青空文庫+『五重塔』(岩波書店 昭和23)を底本として参考組版
使用デジタルタイプ : イワタ弘道軒清朝体複刻版 「々 漢音繰り返し」、「〻 訓音繰り返し」
〔 『五重塔』参考組版 PDF  gojyuunotou

その後この五重塔は、関東大震災と太平洋戦争の厄災にもよく耐えてきた。したがって平野富二の墓も、これから述べる戸塚文海の墓も、この谷中五重塔をおおきくふり仰ぐような位置に設けられていたことになる。
ところが一九五七(昭和三二)年七月六日早朝、放火心中事件によって心柱をのぞいて谷中五重塔は焼失をみた。焼失後に焼け跡の心柱付近から、男女の区別も付かないほど焼損した焼死体二体が発見された。わずかに残された遺留品から、ふたりは都内の裁縫店に勤務していた四八歳の男性と二一歳の女性であることが判明した。
現場には石油を詰めた一升ビンとマッチ、睡眠薬が残されており、不倫関係の清算をはかるために焼身自殺を図ったことがわかった。
現在は谷中霊園内、いわゆる碑文通り交番の裏手に礎石だけが保存され、ちいさな公園となっている。

寺号も一八三三(天保四)年護国山天王寺と改称され、一八六八(慶応四)年彰義隊と新政府軍の兵火によって、本坊と五重塔をのぞく多くの塔頭が焼失した。
その後一八七四(明治七)年に寺域の大半を東京府に移管して谷中霊園が成立した。
さらに第二次世界大戦の末期、上野駅と鉄道線路付近に投下された米軍機の焼夷弾によって、寺域の相当部分に火焔がおよび、また周辺の谷中霊園東端に面した「平野富二墓標」をはじめ、墓地の損害もおおきかった。

現在の天王寺は、谷中霊園から日暮里駅およびその跨線橋にくだる坂の中途にあり、山門内におおきな「釈迦如来座像」がのぞめ、夜には座像がライトアップされて独自の景観を呈している。
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ところで戸塚文海は、海軍軍医総監(海軍少将に相当した)、共立東京病院(東京慈恵医院、現東京慈恵会医科大学の前身)の共同設立などの維新後の活動より、維新史のなかではむしろ旧幕臣のひととされ、なかんづく徳川慶喜の侍医の存在としての評価がおおきく、意外なほど資料が少ないひとである。
ここではまず簡略に、『日本人名大辞典』(講談社)から、戸塚文海と、その後輩にあたる高木兼寛を紹介する。 戸塚文海墓標【戸塚文海】(とつか-ぶんかい 1835-1901)
幕末-明治時代の蘭方医。 天保六年九月三日生まれ。
戸塚静海(とつか‐せいかい 江戸末期の蘭方医。本名維泰、静海は通称。遠江国〔静岡県〕のひと。シーボルトらに蘭医学を学び、幕府奥医師となり法印に叙せられた 1799-1876)の養子となる。
緒方洪庵、坪井信道、のち長崎で蘭医のボードインに師事し、徳川慶喜の侍医となる。 明治五年海軍省にはいり、九年軍医総監、一〇年初代医務局長。退官後に高木兼寛(たかき-かねひろ)らとともに共立東京病院(東京慈恵医院、現東京慈恵会医科大学の前身)を設立した。
明治三四年九月九日卒、享年六七。備中〔岡山県倉敷市〕出身。本姓は中桐、名は正孝。

【高木兼寛】(たかき-かねひろ 1849-1920)
明治-大正時代の医学者。 嘉永二年九月一五日生まれ。
鹿児島で西洋医学をまなび、明治五年海軍軍医。イギリスに留学、一八年海軍軍医総監となる。 脚気の栄養原因説を主張し、麦飯の採用など兵食の改善によって海軍の脚気を撲滅した。
成医会講習所(東京慈恵医大の前身)、有志共立東京病院、看護婦養成所を設立。日本最初の医学博士。
大正九年四月一三日卒、享年七二。日向(宮崎県)出身。幼名は藤四郎。号は穆園。

◎ 東京慈恵会医科大学(本院)沿革(同大URLより)
・ 明治15年(1882年)8月  高木兼寛の主唱により、救療のための病院として賛同者の協力により有志共立東京病院開院
・ 明治18年(1885年)4月  有志共立東京病院に看護婦教育所を付設
・ 明治20年(1887年)4月  皇后陛下を総裁に迎え「慈恵」の名を賜り、有志共立東京病院を東京慈恵医院に改称
・ 明治24年(1891年)2月  高木兼寛 個人経営の東京病院開設
・ 明治40年(1907年)7月  社団法人東京慈恵会設立、東京慈恵医院を東京慈恵会医院と改称。 同医院に附属医学専門学校及び附属看護婦教育所を置く
・ 大正9年(1920年)4月 高木兼寛逝去

《戸塚家塋域の海軍軍醫總監戸塚君墓碑銘をみる》
東京谷中霊園におおきく囲まれるようにして「天王寺墓地」がある。現在では天王寺の飛び地のようにもみえるが、その歴史的な経緯は既述した。
その一隅に相当ひろい敷地を占める戸塚家墓地がある。
敷地は東西にながい長方形で、四方をかこまれた塋域を入って右側中央、南面して、冒頭写真で紹介した戸塚文海の墓がある。墓標正面には「海軍軍医総監従三位勲二等戸塚文海墓」と鐫せられている。

最奥部の「海軍軍醫總監戸塚君墓碑銘」は東向きで、その方向はかつて天王寺五重塔があった方向にあたる。 戸塚文海墓標resized自然石の台石の上に、大きな碑石の「海軍軍醫總監戸塚君墓碑銘」がある。
篆額は徳川家達により、「戸塚文海先生之碑」とある。

徳川家達(とくがわ-いえさと 1863-1940)は旧徳川将軍家第一六代当主、政治家。
三卿のひとつ田安家(徳川慶頼)の三男として生まれ、はじめ亀之助と称した。 一八六八(慶応四)年前将軍慶喜にかわり、かぞえて六歳の幼少ながら新政府から徳川宗家の相続を命ぜられ家達と改名。五月に駿河・遠江(静岡県)・三河(愛知県)七〇万石に転じ、翌年、版籍奉還により静岡藩藩知事となった。
一八七七(明治一〇)年から一八八二年までイギリス留学、一八八四年公爵となり、一八九〇年貴族院議員、一九〇三(明治三六)年同議長につき以後三〇年間同職にあった。また日本赤十字社社長、済生会会長などの名誉職に任じ、ワシントン軍縮会議の全権委員も務めた。

碑文をしるした(撰)のは、漢学者の「東宮侍講從四位勲三等文學博士三島毅」である。
三島 毅(みしま-こわし 中洲と号す。文学博士 1830-1919)も旧幕臣で、老中板倉勝静の家臣だった人物である。
維新後は多くの碑文を撰し、また重野安繹(しげの-やすつぐ 通称:厚之丞、薩摩藩士、昌平黌にまなぶ。維新後政府の修史事業にあたる。東大教授として国史科を設置。1827-1910)らとともに、三省堂編『漢和大字典』の編纂・監修にあたった。
この現代につらなる「漢語字典」の編纂事業が三島 毅のおおきな功績とされている。

《幕末-明治初期の英語辞書、国語辞書、漢字字書・漢和辞典の刊行》 
江戸中期からポルトガル語・オランダ語の辞書が盛んにもたらされ、多くは写本であったが、一部は木版による翻刻本として刊行されていた。
江戸末期にいたり、にわかに英語の有益性が注目され、
・ 『英和対訳袖珍辞書』(わが国最初の活字版英語辞書、堀達之助、洋書調所・開成所刊、一八六二〔文久二〕)
・ 『和英語林集成』(ヘボン編纂、岸田吟香協力。上海で活字版印刷、和英辞典。一八六七〔慶応三〕)
・ 『改訂増補和訳英辞書』(いわゆる薩摩辞書、堀達之助『英和対訳袖珍辞書』を増訂し版を重ねた。薩摩学生:高橋新吉、前田献吉〔正毅〕、前田正名ら。上海で活字版印刷、一八六九〔明治二〕)などの英語辞書が陸続と刊行されていた。

薩摩辞書01鹿児島市 鹿児島県立図書館 正門前「薩摩辞書之碑」
以下「薩摩辞書」第二版
『 大正増補 和訳英辞林 官許 』 (明治四歳辛未 カノトヒツシ ゙ 十月)
薩摩辞書02 薩摩辞書03 薩摩辞書04

『改訂増補和訳英辞書』(いわゆる薩摩辞書)には、開成所版からの増補であることと、その底本が、アメリカの語学者/ウェブスター(Noah Webster, 1758-1843)による英語辞書 『 ウェブスター大辞典 』 を典拠としたものであることが明記されており、以下の三版が知られている。

◯ A 第一版
『 和訳英辞書 』 (明治二歳 己巳 ツチノト ミ  正月 千八百六十九年新鐫)。
鐫センは深く掘る。年月は旧暦/1869年-明治02年)。印刷所 : American Presbyterian Mission Press 上海 美華書館。和文序に 「 改訂増補和訳英辞書 」、英文扉に 「 THIRD EDITION 」 とある。
◯ B 第二版
『 大正増補 和訳英辞林 官許 』 (明治四歳辛未 カノトヒツシ ゙ 十月)。
年月は旧暦/1871年-印刷所 : American Presbyterian Mission Press 上海 美華書館。英文扉に 「 FORTH EDITION REVISED 」 とある。扉ページの 「 大正 」 は、元号を意味するものでは無い。
◯ C 第三版
『 稟准 和譯英辞書 』 (明治六年十二月 紀元二千五百三十三年)。
年月は新暦/1873年-明治06)。印刷所 : 東京新製活版所 天野芳次郎蔵版(一部複写のみ所有。未見)。

同書の刊行にあたっては、薩摩藩士:五代友厚(才助)が大きく関係しており、上海美華書館に依頼して刊行した初版がきわめて好評で、利潤もおおきかったことにより、この再版以降の刊行事業を大阪でなそうとして、長崎の本木昌造らと計った。
本木はこれに応えて人員を大阪に派遣したが、当時の設備と技倆では成功をみなかった。つまり全面的に組みなおされた第二版も上海での組版・印刷・製本となっている。
その折りの五代から本木への貸付金、五千円と利息は、のちに平野富二が本木昌造にかわって返済にあたっている。

「文明開化」とはそういうものさ……、といわんばかりに、英語辞書の刊行が先行したかげで、近代「国語辞典」と「漢和辞典」の刊行はおおきく遅れた。
江戸期までは、まとまった「国語辞典」が編纂されていなかったため、『 ウェブスター大辞典 』などの評価のある底本をえなかった両辞典の編纂は難航をきわめた。

維新からまもなく、一八七一(明治四)文部省編輯寮において『語彙』と称した国語辞典の編纂がすすめられたが、「いろは順」にするか、「あいうえお順」にするかというテーマでも議論が沸騰するばかりで、ようやく「あいうえお順」の配列と決したが、ようやく「あ」行の「え」にいたったころに計画は頓挫した。

この失敗に鑑みて、文部省は文部省報告課に勤務していた大槻文彦(のち国語学者、一八四七-一九二八)に「国語辞典」の編輯を命じた。
文彦は編纂中に幼女と妻を相次いで失うなどしたが、ほぼ独力で『言海』と名づけた国語辞書の原稿を完成させた。ところが当時の文部省は資金不足が顕著で、しばらく「保管」としたため、ついに文彦は一八七一(明治二四)年に私費での刊行を実行した。
印刷局活字系譜修整版見落とされがちではあるが、文部省もこの大槻文彦の挙に際して座視したわけではなく、紙幣寮活版局をもって印刷にあたらしめ、近代辞書にもとめられる大量の諸約物をつくり、膨大な不足字種を新鋳造活字によって提供するなどの支援にあたっていた。
『言海』は本文一千ページ、三万九千語を収録する本格国語辞典として完成し、その後各社から刊行をみた「国語辞典」の形式を定めたものとして評価がたかい。

漢語の辞典は、江戸時代には中国の『玉篇』、『康煕字典』の翻刻本が盛んに発行されていた。当時の教養人は漢字と漢文の素養に長けていたので、もっぱら若干の注釈を加えた程度の翻刻本をそのままもちいていたが、近代英語辞書と国語辞書の発行に刺激されるところがあり、「漢文・漢字・漢語辞典」の発行がまたれる風潮があった。

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20171012151428_00002中国最古の字書『説文解字』(後漢の許慎著)より <糸 ・ 糸編の字の一部>
『説文解字』(中国紫禁城図書館 黄山書社 2010年 宋版徐本の復刻本)

干禄字書『干禄字書』(顔元孫編・顔真卿書、中国唐代、明治12年 東京柳心堂〔翻刻〕)

中国の「字書」として評価のたかい図書二冊を図版で紹介した。
『説文解字』(せつもん-かいじ)は中国最古の漢字字書である。もとは一五巻。後漢の許慎キョシンの著とつたえる。
漢字九千三百五十三字、異体字千百六十三字を五百四十部にわけて収め、漢字字画の構成および用法に関する六種の原則-すなわち、象形・指事・会意・形声・転注・仮借カシャの説によって、その字画・字音・字義を解説した書である。

『干禄字書』(かんろく-字書)は、中国の初唐の顔元孫の著による字書である。干禄とは禄を干(もと)めるの意で、官吏登用試験(科挙)受験者のためにつくられた実用的な字体字書である。およそ八百字を四声によって分類し、字ごとに正体・通体・俗体の三体をあげる。すなわち官吏たらんと欲するものは、通行体や俗体のような字をもちいず、正体をもちいるべきだとしている。
のちに顔玄孫の子孫にあたる顔真卿が清書して科挙の受験生らに公開され、それを木版にした刊本がこんにちでも伝承されている。

現代臺灣における雕字工匠の作業状景現代中国や台湾でも、この『説文解字』、『干録字書』の両書は再評価がすすみ、さまざまな類似図書が刊行されている。
すなわち三島 毅らは、急速に木版刊本の雕字工匠が姿を消した明治時代後半期にあって、活字版印刷術、とりわけ異体字・俗字など、ふつうはもちいられない漢字活字の開発と発展をまって、「漢語 ⇄ 和語  漢和辞典」をつくることができるようになった。
一九〇三(明治三六)年重野安繹・三島 毅・服部宇之吉監修、三省堂編『漢和大字典』は、清の康煕帝の勅命によって一七一一年に成った『佩文韻府』系(はいぶんーいんぷ 詩をつくったり、ことばの出典を調べる際の参考書。一〇六巻 佩文は康煕帝の書斎名による)の辞典で、その後のわが国の一連の「漢和字典・漢和辞典」の形式を創出した。

ほかに三島 毅が名をのこしたのは、「昔夢会筆記-徳川慶喜公回想録」『東洋文庫』七六である。 「昔夢会 せきむかい」とは、会主が元一橋家家臣:渋沢栄一で、徳川慶喜伝記編纂事業の一環として明治末期に慶喜の回顧談を聞き、あわせて史料整理をおこなうための会であった。

会員は慶喜のほか、旧幕臣・新村猛雄、老中板倉勝静の家臣だった三島 毅、老中稲葉正邦の子・稲葉正縄、旧桑名藩士・江間政発、伝記編纂主任・萩野由之および三上参次、小林庄次郎・藤井甚太郎・渡辺轍・井野辺茂雄・高田利吉などの名が記録されている。

「昔夢会 せきむかい」は、一九〇七(明治四〇)年七月-一九一三(大正二)年九月まで、二五回の会が催された。会の談話筆記記録は『昔夢会筆記』として、慶喜没後の大正四年に印刷に付せられたが、まだ世情をおもんぱかるところがあって、わずか二五部のみの印刷で、伝記編纂関係者に配布されただけにとどまったとされている。
いまは幕末史の研究資料として『東洋文庫』七六(平凡社)に所収されている。

《海軍軍醫總監戸塚君墓碑銘を読みとり、釈読する》
海軍軍醫總監戸塚君墓碑銘-戸塚文海先生之碑は、故戸塚文海を顕彰した墓碑銘で、篆額を徳川家達がしるし、文章(撰)は三島 毅がしるし、書は長崎出身の書家 : 吉田晩稼によるものである。

古来中国には「碑碣学 ヒケツ ガク」とする学問がある。すなわち「碑 ヒ」は四角形の石で、「碣 ケツ」は円形の石の意であるが、転じて「碑碣学」は、石碑に刻されて後世にのこされた「いしぶみ研究」のことである。
「碑碣学」にあっては、石に刻し鐫せられたふみ-いしぶみを、ときに拓本術などをもちいて読みとり、それを解釈し、注釈を加え、公刊することが盛んである。

明治維新と、昭和中期の敗戦というおおきな価値観の変動があったわが国では、急速に漢文と漢字の素養に欠けるようになっている。また古文書はおもくみるふうがあるが、実際にはかくいう稿者をふくめ、江戸期通行体の「お家流の書」はもちろん、文書や碑石にのこされた漢文調の ふみ - おもいメッセージを読みとれなくなっている。

こうした風潮のなか、「海軍軍醫總監戸塚君墓碑銘-戸塚文海先生之碑」を、ご自身で撮影した写真画像から、相当長文におよぶ一字一句を読みとり、それを解釈(釈読)されたのが古谷昌二氏である。
まだ未完成だとされるが、テキストをご提供いただいたのでここに紹介したい。

《海軍軍醫總監戸塚君墓碑銘-戸塚文海先生之碑 紹介》
海軍軍醫總監戸塚君墓碑銘
從二位勲四等侯爵徳川家達篆額
明治三十五年九月    東宮侍講從四位勲三等文學博士三島毅撰  吉田晩稼書 戸塚文海墓標resized 戸塚文海・静海墓地部分 谷中天王寺resized 戸塚文海墓地吉田晩稼書部分resized

從二位勲四等侯爵徳川家達篆額

明治中興之初我中備起于布衣顯榮於朝者蓋三民儒學有田甕江洋學有原田一道而醫術則爲戸塚文海君諱正考字子成文海其通稱幼字幸吉號甕浦本姓中桐氏淺田郡王島邨人考諱吉右衛門號逸翁妣堀氏家素富饒至王父頗衰逸翁憂之鋭意恢復君年少發憤就鎌田玄渓阪谷朗盧讀書既而自奮曰區區治章句何足以興家濟世乃去修醫術適有示醫範提綱者乃歎曰學醫不當如此乎遂之福山就寺地船里學和蘭文典尋從遊緒方洪庵及郁造于大阪坪井信道于江戸日夕研瓚矻矻不已然學資不繼或爲食客或傭書攻苦百端業頗進林洞海嘉其爲人延監塾生萬延紀元幕府侍醫戸塚静海聞其才學請養爲嗣配以其女於是冒其姓改稱静泊時長崎或傳習所聘蘭人講習醫術文久二年君奉幕命抵長崎從學蘭醫之杜意武代松本良順幹所務當時物理化學二科未聞君建言起醫學校多聘海外名士購器械書冊資講究又用乏杜意武説購驗温器顕微鏡備究其用方蓋爲吾邦用此器之權興居工年業大進慶応三年爲幕府侍醫改稱文海時内外多事君直言抗論人多不及知明治之初 朝廷屡徴不應五年遂起補海軍省五等出仕無幾任海軍大醫監九年補海軍省四等出仕兼大醫監尋任總監叙正五位會有薩南之亂海軍衛生療養之制未備君拮据經營以濟之事乎以功叙勲二等賜旭日重洸章十六年辭職點茶聴香以消閑自號市隠庵既而叙從四位三十四年春病作 特旨叙正四位未數月陞從三位一歳兩叙蓋異數也遂以九月九日薨于東京距生天保六年九月三日享年六十有七

皇上哀悼賻素縑二匹賜祭粢金七百圓越三日用海軍喪命葬谷中之阡元配戸塚氏先亡無子繼配久保氏生六男二女長男曰悦太郎承家曰幸三殤曰文雄曰春海竝留學西洋曰幸民曰五郎別養林氏子豊策改名環海現爲海軍軍醫總監君爲人頎然長偉剛直有才辯畢生用力醫務徳川氏之未欲建一大病院于京師東西奔走垂成而會戊辰之變不果徳川公之徙静岡也分置麾下士數萬人于駿遠二州士咸以僻地乏醫難之君與林研海坪井信良等謀建病院于静岡且多養生徒俟其業略成分遣各地書士乃安而就之及官于朝亦公餘刱興東京慈恵病院一以療窮民以勸醫術其餘如赤十字社之立案醫會之起首投資慫慂之遺言捐壹萬金資慈恵病院君平素遇門人親子不啻故其就病也遠近來問争之相看護云頃者文雄徴墓銘于余余學謭才劣固非三民之然以郷友之故往來親交誼亦不可辭

嗚呼余嚮嚮銘甕江今又銘君而一道與余皆老而病後誰銘余人者臨筆浩歎遂銘之曰
起身市衣   苦學辛勤   醫傳西術   仁及三軍
濟世志成   家門復興   後昆紹述   三折其肱

明治三十五年九月       東宮侍講從四位勲三等文學博士三島毅撰  吉田晩稼書

〈 海軍軍醫總監戸塚君墓碑銘-戸塚文海先生之碑 読み下し文 〉
明治中興の初、我が中備(備中国)、朝(朝廷)に於いて布衣・顕栄に起つ者は、蓋し三民。儒学に 田甕江 あり、洋学に 原田一道 あり、而して則ち医術は戸塚文海と為す。
君、諱は正考、字は子成。文海は其の通稱。幼字は幸吉、號は甕浦。本姓は中桐氏。淺田郡王島邨(=村)の人。考(=亡父)の諱は吉右衛門、號は逸翁。妣(=亡母)は堀氏。

田甕江 → 【川田甕江】(かわだ-おうこう 1830-96) 幕末・明治前期の漢学者。備中岡山の人。名は剛(たけし)。文章家として知られた。著書『文海指針』など。
原田一道】(はらだ-いちどう 1830−1910)  幕末-明治時代の兵学者,軍人。備中岡山新田(鴨方)藩士。江戸で洋式兵学をおさめる。一八六三(文久三)年池田長発(ながおき)にしたがい、渡欧して兵書を収集・購入。のち兵学大学校教授、砲兵局長などをつとめ、明治一四年陸軍少将。貴族院議員。別名に駒之進、敬策。

家は素(=貧)しく、富饒、王に至る。父は頗ぶる衰う。逸翁、之れを憂いて、鋭意、恢復す
君は年少にして發憤し、鎌田玄渓・阪谷朗盧に就いて読書す。既にして自ら奮して曰く。區區に章句を治めるに、何ぞ興家濟世を以て足らんやと。
乃ち去りて医術を修む。適(=たまたま)医範提綱を示す者あり。乃ち歎いて曰く。医を学ぶは此の如く不当か。

遂に福山に之(=往)き、寺地船里に就いて和蘭文典を学ぶ。尋いで大阪に於いて緒方洪庵及び郁造に、江戸に於いて坪井信道に従遊す。日に夕に研瓚し、矻矻として不已(=止)まず。然るに学資が継(=続)かず、或いは食客となり、或いは書を備なえ、苦しみを攻め、百端の業頗ぶる進む。林洞海は其れを嘉みし、人延監塾生となす。

万延の紀元に幕府の侍醫戸塚静海が其の才学を聞き、養うことを請い、其の女(=娘)を以て配して嗣(=跡継ぎ)となす。是に於いて其の姓を冒(=名乗る)して、静泊と改稱す。
時に長崎の或る伝習所は蘭人を聘して医術を講習す。
文久二年、君は幕命を奉じて長崎に抵(=至)り、蘭醫之杜意武に従って学び、松本良順に代わりて所務を幹す。當時、物理・化學の二科は未まだ聞かず。君は建言して医學校を起し、海外名士を多く聘し、購器械・書冊を購して講究に資す。又、乏杜意武を用いて説いて、驗温器・顕微鏡を購して其の用方に備究す。蓋し吾邦の為に此器を用いる之權興は居工年業大進(?)。

慶応三年、幕府侍醫と為し文海と改称す。時に内外多事。君は直言して抗論す。人は多くを知るに及ばず。
明治之初、朝廷は屡、徴不應。(明治)五年、遂に起(=立)ちて海軍省五等出仕に補す。幾(いくばく)も無くして海軍大醫監を任ず。(明治)九年、海軍省四等出仕兼大醫監に補す。尋いで、總監に任じ、正五位に叙す。
会(たまたま)薩南之乱が有り、海軍の衛生・療養之制が未だ備わらず、君は拮据して以済の事を經營してか、功を以って二等賜旭日重洸章に叙す。(明治)十六年、職を辞して、點茶・聴香し以って閑を消す。自ら市隠庵と号す。既にして從四位叙す。

(明治)三十四年春、病と作(=為)る。 特旨により正四位に叙す。未だ數月ならずして從三位に陞す。一歳の兩叙は蓋し異數のこと也。遂(つ)いに以って九月九日東京に薨ず。生を距(へだてる)は、天保六年九月三日、享年六十有七。

皇上は哀悼して素縑二匹を賻し、祭粢金七百圓を賜る。越えること三日、海軍を用(もち)いて喪を命ず。谷中之阡(=墓道)に葬る。元配(=先妻)の戸塚氏は先に亡くなって子は無く、繼妻の久保氏は六男二女を生む。長男は曰く、悦太郎。家を承(つ)ぐ。曰く幸三は殤(わかじに)す。曰く文雄、曰く春海は並んで留学す。曰く幸民。曰く五郎は別に林氏の子豊策として養われ、環海と改名して現に海軍軍醫總監となる。

君、人と為りては頎然・長偉・剛直にして才辯あり。畢生、醫務に用(もち)う。徳川氏が之れ未だ一大病院を京師に建てることを欲せざるに、東西に奔走して成るに垂(なんなんと)す。而して、會戊辰の変に会いて果さず。

徳川公之徙静岡也分置麾下士數萬人于駿遠二州士咸以僻地乏醫難之。君は林研海・坪井信良等と謀りて病院を静岡に建て、且つ多くの養生の徒を俟つ。其の業略(ほぼ)成りて、各地に書士を分遣す。乃ち安而就之及官于朝。亦公餘刱興東京慈恵病院一以療窮民以勸醫術其餘如赤十字社之立案醫會之起首投資慫慂之遺言捐壹萬金資慈恵病院

君は平素門人を遇するに、親子不啻故。其の病に就く也、遠近から來問し、之れを争いて相看護すと云う。頃者(近頃)、文雄は余(=私、三島 毅)に墓銘を徴す。余は學謭才劣にして、固(もと)より三民の然るに非ず。郷友之故を以て往來し親しく交誼す。亦(=また)辞すべからず。
06_DSCN3634 吉田晩稼書状二resized 吉田晩稼書状一resized 吉田晩稼書状三resized <石黒忠悳がしるした碑文(谷中天王寺墓地 戸塚文海墓所)> 07_DSCN3632戸塚家墓地左手に、無名碑ながら格調のたかい石碑がある。
友人と書して撰したのは「男爵 石黒忠悳」である。
今般、日吉・時盛・玉井の三氏が碑面を損傷しないように配慮して乾式拓本の採取にあたり、それをもとに古谷昌二氏による釈読を得た。

この碑は戸塚文海の逝去にあたり、最後まで看護をつくした門人一一名の名を刻した碑を墓側に建立し、そのゆえんをしるすことを、文海の子、戸塚文雄からの依頼をうけ、石黒忠悳がしるしたものらしい。
ところがこの無名碑の背後は自然石の肌合いをのこしたもので、確認不十分ながら名前を刻した痕跡はみられなかった。
一一名の名を刻してのこしたとされる碑-いしぶみ-は、可能性としてはこの無名碑と正対する、戸塚文海の墓の近辺にもうけられているものを見落としている可能性がたかい。

碑文の末尾に「明治三十五年二月」とあるので、この碑は戸塚文海の没後(明治三四年九月卒)まもなく、塋域正面の「海軍軍醫總監戸塚君墓碑銘」より先に建立されたものと想像されるが、記述内容には「事 碑文に詳らかなり」とあり、墓碑銘の内容を知っていたことをおもわせる既述もある。
もしかすると大きく、文章量の多い「海軍軍醫總監戸塚君墓碑銘」は、作業に手間取り、建立が遅れたのかもしれない。墓碑銘には卒後一年、「明治三十五年九月」建立とある。

また石黒忠悳の無名碑には書芸家の名前はみられないが、拓本採取にあたった三氏とも、「海軍軍醫總監戸塚君墓碑銘」と同様に、長崎出身の書家:吉田晩稼によるものとみたいとしている。
これまで吉田晩稼は「大楷  ≒ おおきな楷書」の名手とされ、おおぶりな楷書の刻字ばかりが強調されてきたきらいがある。ところがここにみる書は三センチ角ほどのこぶりな字で、八分の味のくわわった隷書にちかく、楷書とはいいがたいものであった。
いずれにしても、吉田晩稼に関する研究はまだ着手したばかりであり、もうすこし時間をいただいてから発表したい。 東京大学医学部略史 同大URL撰者の石黒忠悳は、森鷗外の大学・軍医・大学教授のすべての先輩にあたる人物である。
したがってこの戸塚文海の塋域は、さながら司馬遼太郎『胡蝶の夢』の前半部の登場人物が総出演しているような奇妙な時代感がある。

石黒忠悳は長命で、晩年に近代医学事始のような回顧談『懐旧九十年』(岩波書店)をのこしている。 石黒忠悳20170201133731_00001 ここでは幕末・明治の政治家、大鳥圭介(幕府歩兵奉行、戊辰戦争では榎本武揚らと箱館五稜郭に拠ったが敗れて帰順、のち清国兼朝鮮公使、男爵 1833-1911)の嫡孫にして、慶応大学医学部教授、医学史研究の第一人者とされた、大鳥蘭三郎(1908-96)の簡潔な紹介からみたい。

【石黒 忠悳】(いしぐろ-ただのり 1845-1941)
日本の軍医界の功労者。陸奥国伊達郡梁川(現福島県伊達市)の平野家に生まれ一六歳で祖家石黒家を継いだ。
一八六五(慶応元)年に「医学所」に入って西洋医学を修めた。明治維新後に神田和泉橋ちかくの「大学東校」に出仕、一八七〇(明治三)年大学少助教となった。
翌一八七一年、兵部省軍医寮に出仕して軍医としての第一歩を踏み出し、一八七四年佐賀の乱には陸軍一等軍医正として出陣、一八七七年西南戦争では大阪臨時陸軍病院長を務めた。

一八八八年軍医学校長、一八九〇年陸軍軍医総監となり、陸軍省医務局長に任ぜられた。日清戦争(一八九四-九五)では野戦衛生長官として、日露戦争(一九〇四-〇五)では大本営付兼陸軍検疫部御用掛として活躍し、傷病兵の救護、戦時衛生の確保に貢献した。
明治初期において西洋医学を各方面に移植することに尽力し、陸軍軍医となってからは日本の陸軍衛生部の基礎の確立に功労が大きい。

退職後、中央衛生会会長、日本赤十字社社長、貴族院議員、枢密顧問官などを歴任。
『外科説約』、『黴毒新説』、『虎烈剌 コレラ 論』など多くの著訳書があって、これらが啓蒙的な役割を果たしたところが大であった。 『懐旧九十年』そのほかの著書もある。
医界の長老として重きをなし、よく長寿を保った。嗣子:石黒忠篤(いしぐろ-ただあつ)は政治家となり農政面で知られた。[大鳥蘭三郎]
──────────
亡 友 戸 塚 君 文 海 之 疾 病 也 其
門 人 自 遠 方 来 懇    看 護 宛 如
孝 子 之 於 慈 親 者 凡 十 有 一 人
事 詳 碑 文 令 嗣 文 雄 君 欲 示 其
姓 名 於 将 来 謀 于 予 今 也 軽 浮
成 俗 不 顧 情 義 而 諸 子 之 於 其
師 如 彼 其 厚 洵 足 以 敦 薄 起 懦
是 宣 傳 也 因 使 諸 子 親 書 其 名
刻 之 於 貞 石 建 於 墓 側 予 為 書
其 由 云
友 人   男 爵 石 黒 忠 悳 識
明 治 三 十 五 年 二 月

《石黒忠悳がしるした碑文 読み下し文》
亡友 戸塚君文海 疾病にて之(=逝)く也。其の門人 遠方より来りて 看護に懇(=尽)くすこと 宛(さながら)孝子の慈親に於ける如き者凡そ十一人。事 碑文に詳らかなり。
令嗣文雄君 其の姓名を将来に示すことを欲し、予(石黒忠悳)に謀ること今也。
軽浮成俗なるは情義を顧みず、而して諸子 之れ其の師に於いて彼の如く、其の厚恂は敦薄起懦を以て足る。是れ 宣(=述)べ伝えるもの也。
因って諸子をして親しくその名を貞石(=石碑)に之れ刻み、墓側に建つ。
予は其の由を書となす。云。
友人 男爵石黒忠悳 識す。
明治三十五年二月 

{ 新 宿 餘 談 }

本稿をアップロードしてまもなく「平野の会」の友人から連絡があり、戸塚文海が卒した明治三四年九月九日の四日後、日刊紙『萬朝報』(よろずちょうほう 明治三十四年九月十二日、二千八百六十三号)に戸塚文海の業績紹介が掲載されており、それを引いた論文、「長崎医学の百年 第二章 長崎医学の基礎 第十一節 ボードウィンの来任」『長崎医学百年史』(長崎大学医学部 中西 啓)の存在を教えていただいた。

中西 啓氏の論文は正確で、詳細を極めたものだったが、ここでは適宜改行と改段を加え、〔 亀甲括弧 〕 内に稿者の補遺を加えて紹介したことをお断りしておきたい。
この新聞報道-紙のふみ-の引抄が、 -いしのふみ- からの釈読を試みられている古谷昌二氏への支援になれば幸甚である。

あわせて冒頭に紹介した高木兼寬関連の記録と、東京慈恵会医科大学沿革などに、なぜか戸塚文海の名が残らなかったことに、いまさらながら残念なおもいがつのっている。

*        *        *

「長崎医学の百年 第二章 長崎医学の基礎 第十一節 ボードウィンの来任」
『長崎医学百年史』(長崎大学医学部 中西 啓、1961、pp.97-116)

戸塚文海の韓は正孝、字は子成、通称は文海、本姓は中桐氏で、備中玉島〔現岡山県倉敷市〕の人である。
幼時、学を郷の先輩に
受け、医学に志し、十六才の時、宇田川玄真撰、文化二年刊の『医範提綱』を読み、大いに悟る処あり、洋学を学ぼうと思い、大坂に至り、緒方郁造の門に入り、その後、江戸に出て、坪井信道に随って泰西医学を修め、医学生間に盛名があった。

萬延元年(一八六〇年)、二十六才で、幕府の侍医静春院法印戸塚静海にその才学を愛され、養嗣となつた。
この時、長崎の〔医学〕伝習所にポンペが
教授していたので、幕命を受け、遊学し、更に後、松本良順氏に代って伝習所を督していたが、ポンペの帰国後は、ボードウィンに随って研鐙し、叉医学生を教督した。ボードウィンは文海の内科に精なるを称し、内科病室を挙げて文海に托した。

慶応三年(一八六七年)、徳川慶喜が宗家を継いで将軍になった時、文海を長崎より召して侍医とし、常に傍らに侍さしめたが、医学の他、洋学に関してその顧問格となり、教示した処が多かったと云う。
この時に当って文
海は大いに豪商紳士に説いて市立大病院を起そうとしたが、間もなく、維新の騒乱となり、企画は実現しなかった。
慶応三年十月に慶喜が大政を返上し、上野に謹慎し
た際、文海は随って侍した。
徳川家が封を駿河に受けた
時も従って駿河に移り、林研海等と共に諸生を教督した。
そして、維新政府はしばしば招聴したが辞して起たなかった。

明治五年五月、勝海舟の懲癒〔教え諭す、さそい〕により、遂に維新政府の徴に応じ、同十月、海軍大医監に任ぜられ、同九年二月、海軍軍医総監に陞任〔昇任〕した。
この時は恰も帝国海軍
の創立に際しており、海軍衛生医務の事業において経営規画する所多く、遂に帝国海軍衛生医務の事業を創始した。
同十年の役に功を樹て、勲二等に叙され、旭日重光
章を賜わり、自ら久しく栄職にあっては後進の進路を妨けることを慮り、同十六年十月、病を称して職を辞し、願によって本職を免ぜられ、家に籠った。

ところが、文海の盛名は都下に噴々としていて、辞職後も静養することができず、病客〔患者〕は門に充ち、車轍の静かな日とてなかった。
文海が職を奉じていた余暇に高木兼寛と謀り、首
として自ら資を投じ、他を誘って、東京慈恵院を設立し、一は医学の実修とその進歩を謀り、一は貧苦無事の病民を救療するを期し、その恵に浴するもの多く、遂に現代の盛況に到った。
晩年、専ら病客を謝し、静居安養し点茶・聞香に閑を消したが、その交る所は頗を博く、書画珍器も多く蒐集していた。

その妻配戸塚氏は早く破し、子がなかったので、久保氏を嬰り、六男二女を挙げた。 嗣文雄、三男久保春海は共にドイツに留学し、林氏の子を養子としたが、それは海軍々医大監戸塚環海で、英独に留学せしめた。環海も頗る学名があった。
文海が病臥すると、門人等は四方よ
り集り、病床に侍したが、その病が危くなるに臨んで、特旨を以て従三位に陞叙せられた。享年六十七才であった。
(明治三十四年九月十二日『萬朝報』二千八百六十
三号による)

──────────
協 力/古谷昌二、平野正一、日吉洋人、時盛 淳、玉井一平、春田ゆかり
主要参考資料/『日本人名大辞典』(講談社)、東京慈恵会医科大学(本院)沿革(同大URL)、東京大学医学部URL、古谷昌二『平野富二伝-考察と補遺』(朗文堂)、「昔夢会筆記-徳川慶喜公回想録」『東洋文庫』七六、 『日本大百科全書』(小学館)、「長崎医学の百年第二章 長崎医学の基礎 第十一節 ボードウィンの来任」『長崎医学百年史』(長崎大学医学部 中西 啓)、『干禄字書』(顔元孫遍・顔真卿書、中国唐代、明治一二年東京柳心堂〔翻刻〕)、石黒忠悳『懐旧九十年』(岩波書店)

【WebSite紹介】 明治産業近代化のパイオニア 平野富二 {古谷昌二ブログ10}── 海援隊発祥の地・長崎土佐商会 ──

6e6a366ea0b0db7c02ac72eae00431761[1]明治産業近代化のパイオニア  平野富二生誕170年

古谷昌二さんuu古谷昌二ブログ10月明治産業近代化のパイオニア  平野富二生誕170年を期して結成された
<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>の専用URL
 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、
同会代表/古谷昌二氏が近代活版印刷術発祥の地長崎と、産業人としての人生を
駈けぬけた平野富二関連の情報を意欲的に記述しています。
ご訪問をお待ちしております。

<まえがき> より部分
平野富二は、まだ、平野富次郎と称していた頃の慶応3年(1867)3月から同年12月までのおよそ10ヶ月間、土佐藩に雇われた。土佐藩では、月手当25両7人扶持の待遇で器械方となり、土佐藩所有の蒸気船運行を担当した。
その拠点となったのが、長崎土佐商会で、同年2月に土佐藩が長崎西浜町に開設したばかりであった。

6bbbdb1db947ab88d5124d35a22b83f8[1]「土佐商会跡」碑
長崎路面電車の「西浜町アーケード前」駅の川沿いスペースにたてられている。
その右横に「土佐商会跡」説明板がある。
実際の位置は、この場所から 20m ほど上流の川沿いにあった。
 古谷昌二10月02「夕顔丸」モニュメント
長崎路面電車の西浜町アーケード前駅脇のスペースに建立されている。
「夕顔丸」は通称で、この船中で大政奉還に繋がる「船中八策」が起草された。
幕末維新史の重要な舞台を記念して建立された。

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【イベント】 メディア・ルネサンス 平野富二生誕170年祭-03  江戸神田川左岸に足跡をのこした長崎の写真士:上野彦馬

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上野彦馬上野彦馬  二二歳の写真(万延元年 一八六〇年)
撮影者 : 伊勢国津 藤堂藩藩士 堀江鍬次郎  撮影地 : 江戸 

上野彦馬(うえの-ひこま 一八三八-一九〇四)は、わが国写真術の先駆者のひとり。肥前長崎生まれ、号は季渓。
鵜飼玉川(うかい-ぎょくせん 一八〇七-八七)、下岡蓮杖(しもおか-れんじょう 一八二三-一九一四)らと並び、もっとも早い時期に「コロジオン湿板法」による営業写真館を長崎の中島川河畔に開いて、職業的に写真を撮りだした人物である。

彦馬の父、上野俊之丞(うえの-としのじょう 一七九〇-一八五一)、あざな常足ツネタリは、長崎の富裕な御用商人であり、長崎奉行所の御用時計士として、出島への出入りを許されていた。
彦馬はその次男であったとされるが、俊之丞の没後一二歳でその家督を相続している。
代〻の絵師でもあった俊之丞は多才なひとで、西洋の知識を積極的に取り入れ、火薬原料である硝石の製造、さまざまな形象や紋様を綿布に型染めにする「更紗」(中島更紗サラサ)の製造もおこなっていた。

また俊之丞は一八四八(嘉永一)年には、フランスでの発明から間もない写真術「ダゲレオタイプ」の機材一式をオランダからいち早く輸入した。
ダゲレオタイプとは、フランスのルイ・ジャック・マンデ・ダゲールによって発明され、一八三九年にフランス学士院で発表された写真術である。
この方式では銀板上にアマルガムで画像が形成される。また一回の撮影で一枚の写真しか得ることができず、複製はできなかったし、できあがった写真は左右逆像となっていた。俊之丞は、日本にはじめてダゲレオタイプ(銀板)の写真機を輸入した人物とされている。

上野俊之丞による写真は管見に入らないが、同様のタゲレオタイプの写真術で、薩摩藩士が撮影した薩摩藩主 : 島津斉彬の写真が、日本人の手になるはじめての写真とされ、重要文化財に指定されている。

島津斉彬1857尚古集成館蔵

島津 斉彬(しまづ-なりあきら 一八〇九-五八)
薩摩藩の第一一代藩主。島津氏第二八代当主。 尚古集成館所蔵。
日本人の手による日本最古の銀板写真。国の重要文化財に指定されている。

そんな上野屋敷には、俊之丞の盛名を慕って多くの蘭学者が集まり、家庭内での会話にも頻繁にオランダ語が使われていたとされる。そうした環境の中で、彦馬も日常的に貴重な蘭書を目にし、西洋の学問についての会話を耳にして育った。こうした父の行蔵は、まだおさなかったとはいえ、実子の彦馬に与えた影響はいわずもがなであろう。
母の伊曽イソも教育熱心で、彦馬は幼少時代の初学を、町内の私塾:松下平塾に通ってまなんでいた。

一八五一(嘉永四)年にその俊之丞が没し、上野彦馬が一二歳で家督を相続した。なにぶんまだ幼少であったので、翌一八五二年から四年間、大分日田の広瀬淡窓の私塾「咸宜園カンギエン」に入門して漢学を学んだ。
一八五六(安政三)年長崎へ帰り、オランダ語を通詞名村八右衛門(号:花渓)に伝授された。同門の先輩に福地源一郎(櫻痴 のち東京日〻新聞主筆兼社長、衆議員議員、戯作者)、名村泰蔵(のち司法官僚、貴族院議員、東京築地活版製造所第三代社長)らがいる。

さらに一八五八(安政五)年には、オランダ軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールトを教官とする「医学伝習所」の中に新設された「舎密試験所」に入り、「舎密学」(セイミ-ガク Chemie オランダ語・化学)を学んだ。
このとき、蘭書から「コロジオン湿板法写真術」のことを知り、大いに関心を持つにいたった。そこで「舎密試験所」で同僚だった、伊勢国津 藤堂藩藩士 : 堀江鍬次郎(あざな:公粛)らとともに、蘭書を頼りにその技術を習得、感光剤に用いられる化学薬品の自製に成功するなど、化学の視点から写真術の研究を深めた。
また、ちょうど来日したプロの写真家であるピエール・ロシエにも写真術の実際を学んだ。

《伊勢国津 藤堂藩藩士 : 堀江鍬次郎と、藤堂和泉野守高猷の江戸屋敷》
この時代、肥前長崎は海外情報があふれ、沸騰する坩堝のような様相を呈しており、全国各地・各藩から有為の若者が崎陽長崎に集まっていた。
彦馬は「舎密試験所」で八歳ほど年長の伊勢津藩士(現在の三重県)堀江鍬次郎(ほりえ-くわじろう あざな:公粛 一八三〇-六五)と知りあった。鍬次郎は短命で、その業績に関して知るところは少ないが、正規の藤堂藩の藩士であり、先端知識の取得のため藩命をうけて長崎に派遣されていたとみられる。いずれにせよ鍬次郎は彦馬の良き先輩であり、共同研究者となった。
鍬次郎はときの藩主 : 藤堂高猷(とうどう-たかゆき、通称:和泉守、号 : 観月楼、維新後伯爵 一八一三-九五)に願って、当時一五〇両もした最新式の湿板写真機一式を、藩費で購入することを許された。

藤堂高猷 藩主藤堂高猷(とうどう-たかゆき 一八一三-九五)
明治十二年 明治天皇御下命『人物写真帖』<上>
宮内庁三の丸尚蔵館所蔵 PD

藤堂高猷は、幕末維新期の伊勢国津 藤堂藩藩主。藤堂高虎にはじまる藤堂家一一代藩主にして、最後の藩主となった。
黒船の来航をみた幕末には、幕命をうけて海防のための大砲を鋳造し、江戸湾台場の築造にあたるいっぽう、一八五八(安政五)年に藩領の町人のために郷校「修文館」を開設した。
もともと公武合体論者だったため、幕末には幕府軍と官軍(新政府軍)にたいして中立の立場をとっていたが、鳥羽・伏見の戦に際し、山崎関門で藤堂藩の指揮者:藤堂采女ウネメは、中立から一転してにわかに幕府軍を攻撃、幕軍敗北の原因のひとつとなったとされる。
その後の戊辰戦争では津  藤堂藩は新政府軍に参加して従軍した。

藤堂高猷の維新後は、拝領屋敷であった和泉橋近くの藤堂和泉守上屋敷(現千代田区神田和泉町一)を返上し、いっとき近在にあった旧藤堂藩中屋敷(現台東区)で生活した。一八六九年(明治二)年津藩知藩事となり、同四年六月隠居。伯爵。
明治二八年二月九日死去。享年八三。墓は東京都豊島区の染井墓地にある。法名は高寿院詢蕘文道大僧正。

一八六〇(万延元)年、彦馬と鍬次郎は藤堂高猷の命をうけて江戸に行き、神田和泉橋ちかくの藤堂藩中屋敷(現台東区)に滞在した。
それから一年近くの間、ふたりは幕府「蕃書調所」に通いながら、藤堂屋敷に出入りする大名や旗本諸侯を撮影していた。

上野彦馬その当時(一八六〇年 文久元年)二二歳の上野彦馬を、堀江鍬次郎が撮影した写真が残っている。すなわち本稿冒頭にかかげた肖像写真がそれである。
彦馬は月代を剃らない丁髷姿で、手指は深深と袂に隠している。のちに著名な写真士となる彦馬も、このころはまだ「写真を撮ると手指から魂魄を抜きとられる」とした迷信を信じていたのかとおもうと面白いものがある。
また和泉橋近くにあった藤堂藩邸が撮影地であったとされているが、それが上屋敷(千代田区)か、その北側に近在していた中屋敷(台東区)であったのかは記録されていない。

《大名屋敷 上屋敷 ・ 中屋敷 ・ 下屋敷と、神田和泉町の成立》
大名屋敷とは、
参勤交代によって江戸に参勤する大名に幕府から与えられた屋敷である。はじめは標準とか基準といったものはなく、幕府も屋敷地の下付を申請した大名に対して任意に屋敷地を与えていた。
一六五七(明暦三)年のいわゆる「振袖火事」とよばれる江戸大火を契機に、幕府は江戸の都市計画をたて、江戸城内にあった尾張、紀伊、水戸の御三家をはじめ、幕府重臣の屋敷を城外に移すとともに、大名屋敷を、上(かみ)屋敷、中(なか)屋敷、下(しも)屋敷の三つに分けた。

東都下谷絵図resized

「東都下谷絵図」(『切絵図・現代図であるく江戸東京散歩』 人文社)から『江戸切絵図』(尾張屋版 1849-70)を紹介した。
「切絵図」では家紋の刷ってあるところが大名の上屋敷で、表門の位置もあらわす。■ 印は大名の中屋敷、● 印は大名の下屋敷をあらわす。それぞれ印のある位置が表門である。

この時代、地図左端に描かれた神田川にもうけられた橋があり、藤堂和泉守上屋敷にちなんで「和泉橋」と呼ばれていたが、和泉町という呼称はまだなかった。
現在はこの橋も道も拡幅されて昭和通りとなっている。当時はこの通りの左右に徒士衆カチシュウと呼ばれ、徒歩で行列の供をしたり、警固にあたった徒組カチグミに属する侍(下級士族)が多く居住しており、切絵図には「此通御徒町ト云」としるされている。現在の御徒町のゆらいである。

《伊勢国 津 藤堂藩 二十七万九百五十石 とは》

藤堂高虎藤堂家宗家初代  藤堂高虎
弘治2年1月6日(1556年2月16日)-寛永7年10月5日(1630年11月9日)

藤堂 高虎(とうどう-たかとら)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。
伊予今治藩主。のちに伊勢津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。
藤堂高虎は、浅井・織田・豊臣・徳川と何度も主君を変えた戦国武将として知られる。また築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城などを築城し、黒田孝高、加藤清正とともに築城の名人として知られる。

津藩は伊勢国(三重県)津に藩庁を置いた藩。安濃津藩・藤堂藩ともいう。藩主藤堂氏、城持ちの外様大名であった。一六〇八(慶長一三)年藤堂高虎入封後、廃藩置県まで続いた。
高虎は近江国犬上郡藤堂村(近世は在士村)地侍の家に生まれ、はじめ浅井氏に仕えたが、のち秀吉の異父弟秀長に仕え紀州粉河二万石、秀長没後は秀吉の直臣となって文禄四年伊予板島(宇和島)七万石の大名となった。

秀吉没後は関ヶ原の戦の戦功により徳川家康の篤い信任を受け、慶長五年伊予今治二〇万石に封ぜられた。
その後高虎は伊賀・伊勢入封して、大坂方に備えて同一六年軍事的拠点として伊賀上野、政治的拠点として津城の大修築をおこない、津には参宮街道を城下町に引き入れて各町割を定め、伊賀上野は三筋町など町割を作って城下町を整備した。

大坂冬・夏の両陣の功により、一六一五(元和元)年伊勢国鈴鹿・奄芸・三重・一志四郡内で五万石、同三年積年の功を賞され伊勢国田丸領五万石を加増された。また弟藤堂正高知行の下総国香取郡内三千石領有も認められ三十二万三千九百五十石となった。
一六三五(寛永一二)年二代藤堂高次のとき、高虎の義子高吉統治の伊予越智郡二万石は伊勢飯野・多気郡内と振替となり、一六六九(寛文九)年高次の隠居(致仕)に際し、次男の藤堂高通に五万石を分与して、支藩久居(ひさい)藩が立藩した。
一六九七(元禄一〇)年、藤堂高通の弟高堅の久居藩襲封時に三千石を分知して、津藩は二十七万九百五十石となり、この石高は維新時まで変わらなかった。

津は現在の津市となった。三重県中部、伊勢平野のほぼ中心にあり、三重県の県庁所在地で、人口は三重県では四日市市につぐ、およそ二八万人のまちとなっている。

《神田和泉町の起立と名前の由来》
神田和泉町(現:東京都
千代田区神田和泉町)は、一八七二(明治五)年に、伊勢津 藤堂藩上屋敷の旧地と、旧出羽鶴岡藩酒井家中屋敷と、三軒の旧旗本屋敷を合せて起立した。町名は藤堂氏の受領名「和泉守」にちなむ。
西は神田松永町、南は神田佐久間町二-三丁目、東は向柳原(むこうやなぎはら)一丁目、北は下谷徒(したや-かち)町一丁目・下谷二長(したや-にちょう)町(現台東区)。
藤堂氏は一六五七(明暦三)年の大火後当地に土地を拝領して幕末に至る。

沿革図書によると、神田和泉町(現:東京都千代田区神田和泉町)とされる地域は、延宝年中(一六七三―八一)は藤堂藩上屋敷、水野隼人正・中根平十郎の屋敷と酒井左衛門尉抱屋敷、一七一八(享保三)年は藤堂藩上屋敷、酒井左衛門尉抱屋敷、中根内匠・牧野伊予守・松平右近将監・朽木土佐守の各邸が占める武家地であった。

一七四六(延享三)年は朽木邸が植村庄五郎邸、牧野邸が稲葉興三郎邸になっている。
一七六五(明和二)年は松平邸が酒井勝次郎邸、植村邸が岩城伊予守邸に、一七八三(天明三)年は酒井勝次郎邸が松本十郎兵衛邸、岩城邸が三枝源十郎邸に、一七八九(寛政元)年は松本邸が松平兵庫頭邸に、一八〇六(文化三)年には鶴岡藩中屋敷と中根勘解由・三枝修理・能勢伊予守・能勢介十郎の屋敷となっていたが、維新まで一貫して伊勢津 藤堂藩をはじめとする武家地であった。

東京大学医学部略史 同大URL明治元年、津 藤堂藩邸は収公され、ここに「医学校、大病院」が設置された。翌年医学所は「大学東校」と改称し、一八七八(明治一一)年「大学医学校」が本郷に移設されたのちには、「東京帝国大学医科大学第二病院」(敷地二千九〇〇余坪)となった。
鶴岡藩邸跡には一八七四(明治七)年文部省医務局司薬場が置かれ、翌年医務局は内務省の管轄となった。
明治10年頃の和泉町周辺図『五千分一東京図』より「東京府武蔵国神田佐久間町及下谷区仲御徒町近傍」部分
本図は参謀本部陸軍部測量局によって1876(明治9)年から10年間ほどをかけて作製された三角測量法の精密図で、『図説・明治の地図で見る鹿鳴館時代の東京』(研究社)より紹介した。したがって上野彦馬と堀江鍬次郎が藤堂藩中屋敷に滞在した一八六〇(万延元)年より16年ほどのちの地図であるが、江戸時代と現代をつなぐのには好適な資料となる。

下部を横断している河川は江戸城外堀の役割もはたした神田川で、石神井方面から流出する小河川をあつめた人口河川である。地図上では左から右に流れて隅田川に合流していた。和泉町は江戸時代もいまも神田川左岸のまちであった。

和泉橋から北(上部)へ直行する道は、「此通御徒町ト云」とされた通りで、現在は拡幅されて昭和通りとなり、その上を首都高速道路がはしっている。
地図左下の空き地は一八六九(明治二)年末の大火後に設置された火除地である。ここには鎮火神社として秋葉権現が祀られていたために秋葉原(あきばはら)と称した。現在の秋葉原駅にあたる。
この秋葉原駅昭和通り口からでると、昭和通りを横断して徒歩四-五分で「千代田区神田和泉町」に到着する。

上野彦馬はまたおなじ一八六一年(文久元)年九月、藤堂公と共に藩領の津(現三重県津市)へ同行し、藩校「有造館」の洋学所で蘭語と化学を講義した。
翌一八六二年堀江鍬次郎(公粛)の協力を得て、藩校「有造館」の化学教科書『舎密局必携』を著し、同書中の「撮形術 ポトガラヒー」の項で写真技法について詳細に述べている。

舎密局必携01 舎密局必携02resized『舎密局必携』 国立公文書館蔵 請求記号:197-0267

『舎密局必携』(せいみきょく-ひっけい)は、上野彦馬がワグネル(Rudolph Wagner)ほかの蘭書を抄訳し、また宇田川榕庵訳述『舎密開宗』を参考に著述し、堀江鍬次郎(公粛)の校閲になる化学実験便覧である。
一八六二(文久二)年に前篇三巻(総説、無機化学の非金属部、ガラス製法、写真術)を刊行したが、予定した中篇四巻(金属部)、後篇六巻(有機化学)、附録三巻(試薬、雷機器、伝信機、坑工所業など)は、彦馬の帰崎と鍬次郎の逝去もあって未刊に終わった。
それでも化学の入門と写真術の手引き書として好評を博し、津・江戸・京・大坂の書肆(書店)によって発行され、明治中頃まで愛読された。

《長崎にもどり、中島川河畔に「上野撮影局」を開設》
一八六二(文久二)年の暮れ、上野彦馬は長崎中島河畔の自邸に、営業写真館「上野撮影局」を開設、写真撮影業をはじめた。
当初は、長崎に滞在する外国人を顧客とした肖像写真の撮影をおもに手がけたが、やがて日本人にも客層を広げていき、坂本龍馬、高杉晋作をはじめとする多くの幕末の志士たちも上野のもとを訪れ、被写体として肖像撮影に臨んだ。

上野撮影局中島川河畔の「上野撮影局」  上野彦馬撮影
IMG_3749 IMG_3750 IMG_3748 IMG_3746 IMG_3747現在の「上野彦馬邸跡」と「上野撮影局跡」  2016年年05月古谷昌二氏撮影

bf68f72db8e94a4692f5bf51ba72e26a[1] cf112724480f737e17aa85e69ea61519[1]長崎一の「ふうけもん」とも評された
十八銀行第二代頭取・長崎商法会議所会頭 :
松田源五郎
「明治10年内国勧業博覧会」  上野彦馬撮影 : 松尾 巌氏蔵

明治期に入ってからも彦馬は写真士としての活動を旺盛に繰り広げた。一八七四(明治七)年、金星の太陽面通過を観測した日本最初の天文写真を撮影。一八七七(明治一〇)年には長崎県令:北島秀朝(ひでとも 一八四二-七七)の委嘱により、「西南戦争」の戦跡を記録撮影した。

陸軍参謀本部に提出されたそれらの写真は、弟子の冨重利平(とみしげ-りへい 一八三七-一九二二)が、反政府側(西郷軍)の谷干城(たに-かんじょう)の依頼で撮影した同戦争の記録写真とともに、現存する日本写真史上最初の戦争写真として知られており、同年第一回内国勧業博覧会(東京・上野公園)に出品され、鳳紋褒賞を受賞するなど、その写真は歴史的、文化的にも高く評価されている。

一八九〇年年代には「上野撮影局」支店を、ロシア沿海州のウラジオストクや、中国の上海、香港にも開設していた。
その門人から内田九一(内田-くいち 一八四四-七五)、守田来蔵(一八三〇-八九)、冨重利平(とみしげ-りへい 一八三七-一九二二)
をはじめ、明治期に活躍した写真士が輩出した。
一九〇四(明治三七)年五月二十二日長崎新大工町の自宅で没。享年六十七。長崎の皓台寺にねむる。

上野彦馬長崎公園上野彦馬顕彰碑  長崎諏訪公園  古谷昌二氏撮影
165_6526

{ 新 宿 餘 談 }
長崎タイトルresize-627x108[1]宮川雅一氏と平野の会[1] DSCN3541DSCN3536 DSCN3537上野彦馬撮影吉宗ヨッソウresized

上野彦馬撮影 吉宗(よっそう)の正月風景

吉宗 よっそう は創業慶応二年、長崎浜町にある百五十年余の歴史のある老舗の料理店である。
ことし七月の長崎訪問のおり、長崎県印刷工業組合のご好意にあまえて、吉宗名物料理「茶碗むし・蒸寿し揃」を出前で食した。はじめはドンブリ二鉢の量におどろいたが、ともかくとびっきりの旨さで完食した。

たまたまこのあと頂戴した「宮川スクラップブック」に、「上野彦馬撮影 吉宗正月風景」があった。店先は整然と掃ききよめられ、正月らしく、しめ縄が飾られ、門松がたっている。右起こし横組み「蒸椀茶 ⇄ 茶椀蒸」の看板は、ふるい木造船の船板をもちいたものとされていた。
いまも吉宗は出前に注力しているようだが、彦馬の時代にも出前に熱心だったようで、当時としては斬新だったであろう自転車が右側に数台ならんでいる。
吉宗 よっそう のWebSite にはこの「茶碗蒸」について、以下のような解説をみる。

吉宗の茶碗むしは、茶碗むしと蒸寿しが一対となった夫婦蒸しで、ほかにはない、吉宗伝統の名物料理です。
穴子をはじめ、海老、鶏肉、しいたけ、きくらげ、銀杏、たけのこ、蒲鉾、麩、などの吟味された材料と味加減は、百五十有余年の伝統の味がそのまま生きている名物のひとつです。

201303021213034109二〇一七年〇七月、「平野富二生誕の地」碑建立有志会」 の 古谷昌二、平野正一の両氏とともに長崎を訪問した。現地では長崎県印刷工業組合、宮田和夫氏に同行していただき、平野富二の生家跡に記念碑を建立する件につき、長崎市役所に相談にうかがった。

その折り、寸暇をぬすんで、長崎慈善会・虎與号トラヨゴウ書店主にして「明治長崎のふうけもん」とされた、安中半三郎の創立による「長崎盲唖院」(現長崎県立盲学校、長崎県立ろう学校」を訪問して、時津トキヅ町にある長崎県立盲学校正門脇の『安中翁紀念碑』を取材した。
そののち長崎市元助役にして、現在は長崎都市経営研究所所長・長崎市史談会顧問の宮川雅一氏を自宅に訪ね、たくさんの資料を頂戴した。

そのなかの「宮川スクラップブック」に、上掲図版で紹介した「吉宗 よっそう」の正月風景をふくめ、上野彦馬の写真資料が相当数あることに、迂闊ながら帰京後しばらくしてから気がついた。

20170907225211_00001 上野彦馬撮影  桃渓橋-ももたにばし

《さすがに名人とうならせた 桃渓橋 ももたにばし 上野彦馬撮影》
彦馬はおそらく中島川と西山川の合流地点あたりまで重いカメラを(数人で)はこび、中島川上流の桃渓橋を撮影したものとおもわれる。すなわち下流から上流方向に向けて桃渓橋を撮影している。

この橋は一六七九(延宝七)年僧ト意の募財によって架けられたとされる。昭和五七年七月の長崎大水害により半壊したが、西道仙筆のひら仮名異体字(いわゆる変体仮名)を駆使した橋名碑をふくめて原型に復元された。
桃渓橋 ももたに橋」の名前は、河畔に多くの桃の木があったことに由来しているとされるが、現在は大楠がおいしげり独特の風情をかもしだしていた。

稿者はめったに写真を撮らない、というより、デジタル機器を苦手としていて撮れない。
いまの小型デジカメにはさまざまな機能があるらしいが、このときは単なるデフォルト機能(標準設定)のまま、桃渓橋の上から中島川上流にむけて、自分でシャッターを押した。カバンのなかには「宮川スクラップブック」があったわけだから、事前に確認していたら彦馬と同じポイントから撮影ができたのにと悔やんでいる。

もちろん、それでも上野彦馬に敵うべくも無いことは重重承知しているつもりである。
中島川桃渓橋から上流方向をのぞむ[1] 長崎中島川桃渓橋-627x413[1]
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協 力/古谷昌二、平野正一、宮川雅一、田村省三、春田ゆかり、宮田和夫、長崎県印刷工業組合、本木昌造顕彰会、松尾 巌
主要参考資料/『日本大百科全書』(小学館)、『国史大辞典』(吉川弘文館)、『日本人名大辞典』(講談社)、『津市史』一-三、久保文武『伊賀史叢考』、杉本嘉八「津藩」(『新編物語藩史』七所収)、『京都守護職始末 2 旧会津藩老臣の手記』(東洋文庫)、『世界大百科事典』(平凡社)、「東都下谷絵図」(『切絵図・現代図であるく江戸東京散歩』 人文社)、『図説・明治の地図で見る鹿鳴館時代の東京』(研究社)、鈴木八郎他監修『写真の開祖 上野彦馬』、『古写真に見る幕末明治の長崎』(姫野順一、明石書店)、宮川雅一『郷土史岡目八目』(長崎新聞社)、日本学士院編『明治前日本物理化学史』、 『明治維新以後の長崎』(長崎市小学校職員会)、大岩正芳『上野彦馬の「舎密局必携」』(『化学史研究』四)、『日本歴史地名大系』(平凡社) 、増永驍『ふうけもん-ながさき明治列伝-』(長崎文献社)、古谷昌二『平野富二伝 考察と補遺』(朗文堂)

【艸木風信帖】 06 新潟県長岡市の会員「紙漉 サトウ工房」さんからトロロアオイと吾亦紅の開花のお便りをいただきました

【紙漉 サトウ工房 佐藤徹哉さんからのメール】

サラマ・プレス倶楽部の皆さま
ごぶさたしております。
『 Salama Press Club NewsLetter  Vol. 35 』無事に到着しております。
会報誌35号表紙resized

『 Salama Press Club NewsLetter  Vol. 35 』 (Previous 2017 )
表紙使用活字 : 36 pt.  セントール〔Centaur〕、 18 pt.  花形活字
★ 【会員からのお知らせ】
新潟会員 紙漉き「サトウ工房」佐藤徹哉さんからの「良寛と巻菱湖」展報告レポート

秋のバタバタにとり紛れ、お礼遅くなり申し訳ありませんでした。
ひと月ほど前からでしょうか、種を分けて頂いた背の高い方のトロロアオイ〔東京都あきる野市五日市町由来〕がようやく花を咲かせています。よかったです。
この先が心配になるほど肌寒くなったと思ったら、明日はまた暑くなるとか、ややこしい陽気で勘弁してもらいたいですが、皆さまどうかお体に気をつけてお過ごし下さい。
それではまた!
* 
紙漉 サトウ工房 佐藤徹哉
新潟県長岡市軽井沢
IMG_3086【サラマ・プレス倶楽部から 紙漉 サトウ工房さんへの返信メール】

紙漉 サトウ工房
佐藤 徹哉 様  奥 様

こちらこそご無沙汰いたしております。
このたびはサラマ・プレス倶楽部会報誌に寄稿くださりありがとうございました。
おかげさまで、今号は充実した掲載内容となりました。
 
また今般はトロロアオイの写真を添付くださりありがとうございます。
吾亦紅 ワレモコウ とトロロアオイが一緒に咲いている風景をはじめて見ました。なんと風情があることでしょう。
両方の花の色や質感、大きさの対比も素敵ですね。トロロアオイの花の芯と顎の赤茶色がかった部分の色と、吾亦紅の渋みのある赤との色味に共通するものがあり、とてもおもしろいコラボレーションですね。
 
ご報告が遅れましたが、佐藤さんからいただいた背の低いトロロアオイの種から、田中智子さんが育てた株に、花が咲いた写真と記事を サラマ・プレス倶楽部の website に掲載しておりますのでご覧ください。
このように背の低いトロロアオイを鉢植えにしたものを写真で見ると、なんだか黄色いハイビスカスの鉢植えにも似て見える気がします。
 
気温の変化の激しい時節ですし、これからますます紙漉きのお仕事のお忙しい季節到来
となるのではと思います。
佐藤さんも奥さんも、お身体をおいたいのうえ、どうかお健やかにお過ごしください。
朗文堂 サラマ・プレス倶楽部  大石 薫

{文字壹凜 トロアオイ Summary

鹿児島イベント DSCN7733[1] DSCN7734[1]2014年 Viva la 活版 薩摩 dé GOANDO  出品作品紹介

【 テーマ 】     コトバと活字
【 作品名 】    連作 『 秋 』 より ― 吾 亦 紅 ―
【 作者名 】    桐島カヲル ( Lingua Florens )
【 版式 ・ 技法 】  文字 : 凸版 ( 活字版印刷 )  図版 : 凸版 ( 樹脂凸版 )

吾 亦 紅 ―― ワレモコウ ――
―― 野辺に咲く すべての紅い花を集めよ ――
と命じた殿様の
帰路を眺める いにしへの女 ひとり
―― ワレも紅ナリ ――

気位という 衣を纏い
乞うことも 恋がれることもなく
古血の味のみぞ知る

さりとて
女は産まれながらにして 女
そしてまた
女は枯れ尽き果てて なおも 女

【WebSite紹介】 明治産業近代化のパイオニア 平野富二 ── 長崎の長州藩蔵屋敷──

6e6a366ea0b0db7c02ac72eae00431761[1]明治産業近代化のパイオニア  平野富二生誕170年

古谷昌二さんuu古谷ブログトップ明治産業近代化のパイオニア  平野富二生誕170年を期して結成された
<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>の専用URL
 平野富二  http://hirano-tomiji.jp/ } では、
同会代表/古谷昌二氏が近代活版印刷術発祥の地長崎と、産業人としての人生を
駈けぬけた平野富二関連の情報を意欲的に記述しています。
ご訪問をお待ちしております。

20171002114232_00001この石垣の上がかつての長州藩蔵屋敷で、明治最初期「新町私塾」があった。
1934(昭和9)年頃の撮影 『長崎印刷百年史』口絵より
厳流坂01厳流坂02かつて「新町活版所」跡碑と併設されていた「詩儒 吉村迂齋」碑。
現在は見あたらない。

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古谷昌二ブログ
探索:平野富二の生まれた場所
町司長屋の前にあった桜町牢屋
町司長屋に隣接した「三ノ堀」跡
町司長屋の背後を流れる地獄川
矢次事歴・平野富二祖先の記録
矢次家の始祖関右衛門 ── 平野富二がその別姓を継いだ人
長崎の町司について
⑧ 杉山徳三郎、平野富二の朋友
長崎の長州藩蔵屋敷

【コンサート】 プッチーニ〝蝶々夫人のゆうべ〟in アルテピアッツァ美唄 10月14日[土]・15日[日]

20170920181331_00001 20170920181331_00002P1000720uu[1] Viva-la-活版-Viva-美唄タイトルデザイン04 墨+ローシェンナ2[1]

{新宿餘談}
東日本大震災の衝撃を乗りこえ、朗文堂サラマ・プレス倶楽部がそれまでの東京中心のイベント開催の路線を変更しました。つまり、活字版印刷器機をたずさえて、在京の会員と、全国各地の会員との協同で、各地域での活版礼讃イベントを開始したのは、2013年、初夏の風が爽やかな07月、北海道美唄市<アルテピアッツァ美唄>でした。

ですから美唄にはおもいでがたくさんありますし、いまもその記録は「イベントアーカイブ Viva la 活版 Viva 美唄」にたくさんのこされています。
あのときは新緑の翠が溢れるアルテピアッツァ美唄でしたが、今秋、北海道のはやい紅葉にもまけずに、全山・全ホールが緋色に染めあげられるコンサートが開催されます。
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アルテピアッツァ美唄25周年記念コンサート
〝蝶々夫人〟の夕べ in アルテピアッツァ美唄
2017年10月14日[土] 開場 14:00 開演 14:30
2017年10月15日[日] 開場 17:00 開演 17:30
ゲスト : ドナータ・ダヌンツィオ・ロンバルディ
(プッチーニ・フェスティバル2016〝蝶々夫人〟主演ソプラノ歌手)
会場 : アルテピアッツァ美唄 アートスペース(旧体育館)  費用:5000円
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{安 田 侃 カン}
オペラの神秘の一端と、感動を、アルテピアッツァ美唄で身近に感じてもらいたい。

{北海道二期会理事長・北海道日伊協会会長・みべ音楽院院長 三部安紀子}
プッチーニ「蝶々夫人」のゆうべに寄せて

1970年イタリアに留学し、その後大理石の産地のピエトラサンタにアトリエを構え、地球上に彫刻を残してきた世紀の彫刻家安田侃氏を心から尊敬致します。
2000年から北イタリアのトッレ・デル・ラーゴでオペラ界の巨匠ジャコモ・プッチーニのオペラ「蝶々夫人」で、舞台美術を担当、彫刻で蝶々さんの魂を表現。観衆の湧き出る感動は強烈!!イタリアの夏のフェスティバル・オペラの舞台に彫刻のみ。実に素晴らしい!

安田侃氏の彫刻は沈黙の中に幸福、愛、痛み、苦しみが潜むまさに総合芸術といわれるオペラの根源的要素にぴったり。
今回はソプラノ、ドナータ・ダヌンツィオ・ロンバルディさんが「蝶々夫人」をご披露しに、来日。いつか札幌でも安田侃氏の作品と共に「オペラ」を上演したい。

{ゲスト出演 : ソプラノ ドナータ・ダンヌンツィオ・ロンバルディ}
現在プッチーニオペラを表現する第一人者の一人として知られる。
「ラ・ボエーム」「つばめ」「蝶々夫人」「修道女アンジェリカ」「マノン・レスコー」の各主演によりプッチーニ金賞を受賞。
レパートリーには他にも「マリア・スツゥアルダ」「べリザリオ」「オテロ」「ランスの旅」「椿姫」「ポッペアの戴冠」「ティレジアスの乳房」「選ばれた乙女」等がある。

また、D. Oren, B. Bartoletti, Z. Peskò, J. Tate, R. E. Pidò R.Abbado, L. Maazel, P. Domingo, F. Zeffirelli, J. Savary, W. Decker e P.L. Pizzi等多くの指揮者、演出家、芸術監督と共演している。

  【 詳細 : アルテピアッツァ美唄 コンサート

【展覧会+イベント】 アルテピアッツァ美唄25周年「安田侃のまなざし展」

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 アルテピアッツァ美唄25周年「安田侃のまなざし展」
■  会    期     2017年10月7日[土]-10月16日[月] 火曜日休館
■ 場  所     展示室 A 、B
■ 料  金    無 料(任意の寄附をお願いします)
■ 主  催      アルテピアッツァ美唄25周年記念事業実行委員会
■ 協  力      安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄
──────────
彫刻家・安田侃氏と他4名の作家によるコラボレーション展です。
「言葉を超えた何かを追い求めるまなざしの先人とのコラボレーションは、私にとって新しい創造への道と勇気を与えてくれそうで、いまからドキドキしています」
安田 侃


<出展作家>

◯ 柚木沙弥郎(染色家、1922-)
東京都生まれ。民藝運動の提唱者、柳宗悦との出会いをきっかけに、後に人間国宝となる染色工芸家、芹沢銈介に師事。染色家の道を志す。以降、日本における型染の第一人者として、現在に至るまで制作を続け、多くの個展はじめ、絵本、インテリアなど他業種との共同制作も多数発表。

◯ 中野北溟(書家、1923-)
北海道羽幌町焼尻島生まれ。近代詩文書の父と呼ばれる金子鷗亭に師事、書の道を究める。北海道を想起させる作品が多く、北海道を代表する詩人の河邨文一郎や原子修の作品も多く書いていて詩人からも高い評価を受けている。

◯ 吉田喜彦(陶芸家、1936-)
栃木県宇都宮市生まれ。益子の濱田庄司に弟子入りを願うも、夫人の希望により暫く他で学ぶこととなる。1956年、美濃焼の荒川豊蔵に師事し、12年後に独立。伝統的技法を用いながらも現代性を盛り込んだ独特で穏やかな佇まいの陶器は、日本、海外からも高く評価されている。

◯ 関野晃平(漆芸家、1943-2014)
神奈川県藤沢市生まれ。多摩美術大学でデザインを学び、デザイナーとして就職するも、木・漆工芸家の黒田辰秋の作品に出会い1969年に弟子入り。乾漆・螺鈿の漆器を制作。1981年独立。無名であることに徹し、独自の道を歩む。白洲正子に「現代の“漆芸”では一番の人」(『風花抄』1966年世界文化社)と評された。

◯ 安田侃(やすだ-かん 彫刻家、1945-)
北海道美唄市生まれ。1969年に東京藝術大学大学院彫刻家修士課程修了後、イタリア政府招聘留学生として渡伊。大理石の産地として知られるトスカーナのピエトラサンタにアトリエを構え、大理石とブロンズによる彫刻の創作活動を続ける。

 【 詳細 : アルテピアッツァ美唄

【イベント報告】 としょかん de 活版印刷─本木昌造からのおくりもの 長崎県印刷工業組合×長崎市立図書館

無題
としょかん de 活版印刷――本木昌造からのおくりもの

2017年9月9日[土] 10:00-17:00  終了企画
会場 : 長崎市立図書館 多目的ホール
長崎県印刷工業組合 × 長崎市立図書館  共催/本木昌造顕彰会 後援
  
長崎01 長崎02 長崎03去る9月9日[土]、長崎県印刷工業組合 青年部を中心に、会場を長崎市立図書館 多目的ホールで、<としょかん de 活版印刷――本木昌造からのおくりもの>が開催されました。

さすがに近代活字版印刷術発祥の地を誇る長崎とあって、この会場の地は、江戸期は「唐通事会所」で、明治最初期には「長崎製鉄所付属 活版伝習所」が開設された場所です。
その後はながらく「興善町小学校、新興善小学校」がおかれていましたが、2008(平成20)年に長崎市立図書館が開館しました。
[ 協力 : 長崎県印刷工業組合事務局 ]
長崎タイトルresize-627x108[1] w11_唐通事会所 IMG_3880 IMG_3879

【唐通事会所跡】 現:長崎市興善町
本興善町に置かれた唐通事役所の跡。通事と記し、阿蘭陀通詞と区別することが多い。
唐通事は通訳業務だけでなく、貿易の枢機に参画する日本側の役人であり、また海外情報の聴取や異文化の導入などでも重要な役割を担った。
その役料は町年寄に次ぎ、唐貿易がオランダ貿易の約二倍近いため、阿蘭陀通詞より唐通事のほうが重きをなしたとされる。

唐通事は一六〇三(慶長八)年に長崎奉行が任命した馮六(平野氏の祖)以来、長崎在住の潁川・彭城・林・何・呉・陽・神代・東海ら、四〇余姓のすべてが有力明人とその後裔で、大明人としての意識をもっていた。
通訳業務のほか、諸法令の伝達と執行、貿易品の評価や日本側役人としての取引折衝、外国人や出入り商人の管理・統制などにもあたる広い業務内容であった。

はじめ大通事・小通事・稽古通事の三段階で、一七〇八(宝永五)年当時は、風説定役一・目付二・大通事四・小通事五が定員で、ほか稽古通事一二がいたが(「諸役人役料高並勤方発端年号等」長崎市立博物館蔵)、享保(一七一六―三六)以降これら各職に過人・並・格・見習などの職を設け、上席の頭取・諸立合・御用通事を設定した。
唐通事は一八六七(慶応三)年の解散まで、延べ一千六四四人(実数八二六人)を数えた。

役所は年番の唐大通事宅を充てたが、一七六二(宝暦一二)年糸蔵跡に唐通事会所を開設、敷地は一八四坪(長崎市中明細帳)。長崎諸役所絵図(国立公文書館・内閣文庫旧蔵)では「唐通事会所並貫銀道蔵」として総坪数二五六坪。
一八六九(明治二)年 本木昌造がここに「長崎製鉄所付属活版伝習所」を設立ひらいた。
参考:『日本歴史地名大系』(平凡社)

Viva la 活版 ばってん 長崎 文字壹凜Summary

【展覧会報告】 小津和紙ギャラリー/手漉き紙四人展2017  新潟長岡の「紙漉サトウ工房」佐藤徹哉さん

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DSCN2692 DSCN2703 DSCN2701紙漉技芸士:佐藤徹哉さんとは、2015年活版礼讃イベント{Viva la 活版 Let’s 豪農の館}ではじめてお会いした。以来サラマ・プレス倶楽部の皆さんとはすっかり親しくされている。今回は小津和紙ギャラリーに登場、
会場には横ちゃんこと横島大地さん、藤現代版画研究所の楚山さんがおみえだった。
小津和紙】 {文字壹凜まとめ
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【展覧会】 アルテピアッツァ美唄25周年 安田侃ブロンズ展 ─ 時をつなぐ

20170711144026_00001 20170711144026_00002アルテピアッツァ美唄25周年
安田侃ブロンズ展 ―― 時をつなぐ
8月23日[水]-10月6日[金]
開館時間:午前9時-午後5時 休館日:毎週火曜日
会場:安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄
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かつて日本有数の
炭鉱都市であった北海道美唄市。その山間の小学校を再生し、
彫刻家 ・ 安田 侃 カン の大理石やブロンズの作品40余点が設置された野外彫刻美術館は25周年を迎え、今なお創り続けられています。
炭鉱で栄え、衰退していったこの土地の記憶、人〻の思いも場のエネルギーにしながら
過去、現在、未来という時の流れの中で静かに佇み続けています。
広がる景色の中に置かれた彫刻が、自然と一体となって息づくこの空間は、見る人自身のこころを映し、自分との対話ができる場所です。

本展では、既設の彫刻空間に加え、木造校舎二階のギャラリーや屋外に新たにブロンズ作品を展示します。
人の心に深く染み入る風景・空間であることを願いながら、この先も人々の思いを刻む美術館として未来に繋いでいきます。
Viva-la-活版-Viva-美唄タイトルデザイン04 墨+ローシェンナ2[1]《サラマ・プレス倶楽部にとってもおもいでがいっぱい-アルテピアッツァ美唄》
{ Viva la 活版 Viva 美唄 }
【 会  期 】 2013年7月13日[土]―15日[月・祝]    9:00―17:00
【 会  場 】 ARTE PIAZZA BIBAI アルテピアッツァ美唄
         アート・ギャラリー および アート・ストゥディオ
朗文堂 サラマ・プレス倶楽部が、はじめて東京をはなれ、全国各地での活版礼讃イベント「Viva la 活版」を展開したのは2013年、北海道、ここアルテピアッツァ美唄:美唄市でした。
あれから五年も経ったとはおもえないほど鮮烈な記憶として刻まれています。その後美唄・鹿児島・長﨑へと「Viva la 活版」イベントは会をかさね、ことしは{「平野富二生誕170年記念}として晩秋でのイベントが企画されています。
美唄コラム黄uu[1]《ホームページ上部のバーナーから {イベントアーカイブ} をご訪問ください》
サラマ・プレス倶楽部のこうした活動は、歴代のWebSite管理者のご努力によって、特設コーナー { イベントアーカイブ } に記録・保存されています。
Viva la 活版 Viva 美唄 }の記録は、14項目が昇順に配列され、2ページにわたって記録がございます。
ご訪問をお待ちしております。

【展覧会】 小津和紙ギャラリー/手漉き紙四人展2017 新潟の「紙漉サトウ工房」佐藤徹哉さんが参加 6月26日-7月1日

20170622141040_00001 20170622141040_00002小津和紙ギャラリー
手漉き紙四人展 2017
6月26日[月]-7月1日[土]
10:00-18:00 * 初日13:00から、最終日15:00まで
☆ 佐藤徹哉さんが6
30日[土]・7月1日[日]在廊されています!

1c451c_36d32d1a8103478caf0e36a94631017f.jpg_srb_p_653_490_75_22_0.50_1.20_01[1]紙漉技芸士 : 佐藤徹哉さんとは、2015年活版礼讃イベント、新潟北方文化博物館での<Viva la 活版 Let’s 豪農の館>で、松尾和夏さんの紹介ではじめてお会いした。以来、サラマ・プレス倶楽部の皆さんとはすっかり親しくされている。
ところが「紙漉 サトウ工房」を自営されている佐藤徹哉さんは、やつがれと同様にアナログ系古典派に属されており、パソコンはつかわれているが、携帯電話やカーナビのたぐいは苦手とされる。

「紙漉 サトウ工房」 佐藤徹哉 連絡先
940-0243  新潟県長岡市軽井沢1192
電話 : 0258-51-5134  メール : tty*nct9.ne.jp 〔*→@〕

【詳細:小津和紙ギャラリー】  {文字壹凜 まとめ

【長崎県印刷工業組合】 Printing Birth Nagasaki ー 『PBながさき』 2016.9 Vol.93 紹介

ながさき93号09月03日は近代活版印刷の祖 本木昌造の命日です。それを記念して、日本印刷産業連合会では09月を「印刷の月」と定め、各種の周知・啓蒙活動を行っています。
長崎県印刷工業組合・本木昌造顕彰会では毎年法要を行っています。

第141回 本木昌造墓参・法要

平成28年9月2日(金)、大光寺において本木昌造先生の墓参・法要が行われました。
午後5時から墓地での焼香を行い、5時30分から本堂において第141回法要が執り行われま

した。
来賓、関連業者、組合員の約40名が参列し、大光寺住職の読経のもと、長崎県印刷工業組合山口善生理事長、本木昌造顕彰会 岩永正人会長、参列者がつぎつぎに焼香を行いました。

山口理事長挨拶、岩永正人会長のあいさつを行った後(要旨は後述)、株式会社朗文堂 片塩二朗氏に今回修復して印刷が可能となったアルビオン型手引き印刷機の価値・重要性についてお話しいただきました。
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◎ 長崎県印刷工業組合 山口善生理事長挨拶
本木昌造顕彰会は昭和60年に発足いたしましたが、本木昌造の顕彰事業は明治20年代頃から当時の商工会などにより本木昌造をたたえる動きがあったようです。

また、昨年、業界の皆様、またモリサワ様の絶大な支援をいただき復刻した本木活字を鋳造
し、これを用いた印刷体験を昨年の長崎市立図書館、今年6月福岡での九州印刷情報産業展、また、明日長崎市立図書館において業界また地域への広報に青年部を中心に行っていきます。
また、今年は印刷会館の倉庫に眠っていたアルビオン型手引き印刷機の修復を行い、印刷することが可能となりました。
今後とも、本木昌造の功績を長崎の文化遺産また印刷業界に携わる者の基礎として顕彰してまいりますのでよろしくお願いいたします。
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◎ 本木昌造顕彰会 岩永正人会長――本木昌造を支えた人々
今年は長崎県印刷工業組合、本木昌造顕彰会にとって記念すべき年となりました。

5月6日-8日の3日間、株式会社朗文堂主催で「Viva la 活版 ばってん長崎」というイベントを長崎県印刷会館で催すことができ、非常に有意義なことでした。
全国から活版印刷の愛好者、研究者、制作者等たくさんの方がお見えになりました。今日も朗文堂の片塩さんがお見えですが、本当にありがとうございました。

 〔平野 富二〕
その時に大きな報告をいたしました。本木昌造を支えた多くの方がいますが、その代表格が平野富二だと思います。本木の陰にかくれ長崎ではあまり注目をあびていないが、その生家を特定いたしました。本木昌造交友者マップにあらわしています。
旧町名 引地町、現在の桜町の長崎県勤労福祉会館です。国立公文書館にある長崎諸役所図にある町使長屋図「矢次」とあるが、平野富二の旧姓矢次家の場所です。
本木が大阪活版製造所を作るときに五代友厚から大きな借金をしたが、この借財を完済したのも平野富二である。印刷業界としても忘れてはならない人です。

 〔西 道仙〕
西道仙という人がいます。眼鏡橋の橋名碑の揮毫も西道仙である。明治時代の文化人であり、長崎の文明開化の先駆者である。ジャーナリストであり、政治家でもあります。明治6年長崎新聞を発行している。その他西海新聞も発行している。

 〔松田源五郎〕
松田源五郎は十八銀行の創始者であるが、当時の政財界をリードしている人である。長崎商工会議所を設立し、初代会頭を務めている。また、長崎新聞の創立にも貢献した人である。経済的に本木昌造を支えた人です。
本木昌造の事業はこういう人たちの応援があってなしえたものであり、そのことも改めて記憶しておきたいものです。
本木昌造交友者マップ.pdf

 〔アルビオン型手引き印刷機の修復〕
長崎県印刷工業組合所蔵のアルビオン型手引き印刷機の修復ができましたが、明治時代のものであり、印刷業界にとってきわめて大きなニュースです。本日その印刷機で印刷したものを資料として配布しています。福岡の文林堂の山田さんに修復いただきました。本当に有難うございました。
アルビオン型手引き印刷機について

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◎ 修復したアルビオン型手引き印刷機実演
平成28年9月2日(金)14:00からの理事会冒頭に修復したアルビオン型手引き印刷機の実演を行った。印刷機の操作は修復をお願いした㈲文林堂の山田善之氏にお願いした。実演には芸術工学会の大串誠寿氏(福岡市)、株式会社朗文堂 片塩二朗氏、大石薫氏(東京都)、タイポグラフィ学会 板倉雅宣氏(東京都)もはるばる駆けつけました。
印刷機の由来等について本木昌造顕彰会の岩永正人会長が説明し、同時に山田氏にアルビオン型手引き印刷機の写真を亜鉛版に作成し、印刷してもらいました。

 PBながさき93号(2016.09)

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長崎印刷組合年賀アルビオン上掲の長崎県印刷工業組合『PB ながさき』に紹介された記事は、おおむね <活版 à la carte>2017年01月23日掲載において紹介した。
【Viva la 活版 ばってん 長崎 Report 21】 長崎県印刷工業組合アルビオン型手引き印刷機一号機復旧再稼働成功報告。愈〻研究本格展開

まことに迂闊なことに、既報の<活版 à la carte・花筏>での紹介は、同組合会報誌『PB ながさき』ほかの記録が、URL上にPDFで公開されていることを知らぬまま記述していた。
ここに 長崎県印刷工業組合 執行部ならびに事務局の皆さまにお詫びすると同時に、長崎県印刷工業組合のURLへリンク設定すると同時に、今後は長崎県印刷工業組合の動向の紹介に注力してまいりたい。
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【図書紹介】 『石川島造船所創業者 平野富二の生涯』 髙松 昇著 株式会社IHI発行 2009年8月1日 非売品

20170209174758_00001 20170209174441_00001 故髙松昇受賞式にて: 前列左より 田村氏、髙松氏、石原氏。後列右より 合田氏、弊所山路理事長

2 0 1 0 年1 0 月2 9 日
プレス・リリース(PDF)
2 0 1 0 年度「住田正一海事奨励賞」、「住田正一海事史奨励賞」及び
「住田正一海事技術奨励賞」決定のお知らせ
                       社団法人日本集会海運所
                       住田海事奨励賞管理委員会

住田正一海事奨励賞は、永年海運造船事業に従事するかたわら、海事資料刊行、海軍史の研究を通じて、広く海事文化発展に寄与された故住田正一氏を記念して設置された。
正一氏のご子息、住田正二氏( 元運輸
事務次官、前J R 東日本社長、現J R 東日本相談役) が、1 9 6 9 年に創設して以来、社団法人日本海運集会所に住田海事奨励賞管理委員会を設け、選考決定している。2 0 0 2 年からは、海事史奨励賞、20 0 8 年度から海事技術奨励賞が設けられた。

本年度も 3  賞それぞれに応募作があり、選考の結果以下のように決定した。
・海事奨励賞受賞
作:石原伸志・合田浩之共著『コンテナ物流の理論と実際』(成山堂書店)
・海事史奨励賞受賞作:髙松 昇著『石川島造船所創業者 平
野富二の生涯』(株式会社 IHI )
・海事技術奨励賞受賞作:社団法人日本船舶海洋
工学会海中技術研究委員会編『海洋底掘削の基礎と応用』(成山堂書店)
2010年10 月2 5 日、日本海運集会所において受賞式が行われ、各
受賞者に賞状と賞金が贈呈された。

< 海事史奨励賞受賞理由>
海事史奨励賞の『石川島造船所創業者 平野富二の生涯』は、幕末から明治という激動の時代を47 歳という短命で逝った富二の生涯を、各地に散逸する新たな資料や情報を地道に長期間かけて発掘し、はじめて知られざる実像に迫ったもの。
同造船所を自らの手で創り上げた情熱と行
動力、そして起業家としての生きざまは、日本のものづくりの危機が叫ばれるなか、時代を超えて読者に訴えかけるものがある。
著者の髙松
昇氏は1943年株式会社東京石川島造船所入社、19841 年専務取締役を経て1991年退社。
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平野富二武士装束 平野富二 平野富二と娘たち 「平野富二生誕の地」碑建立有志会趣意書《ことしは平野富二生誕170年祭》
明治産業近代化のパイオニア-平野富二の生誕170祭の記念すべきとしである。
それを期として<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>が結成され、同会専用URL<平野富二:明治産業近代化のパイオニア>も公開された。
平野富二東京築地活版製造所初号明朝体<平 野  富 二>

弘化03年08月14日(新暦 1846年10月04日)、長崎奉行所町使(町司)矢次豊三郎・み祢の二男、長崎引地町ヒキヂマチ(現長崎県勤労福祉会館 長崎市桜町9-6)で出生。幼名富次郎。数えて16歳で長崎製鉄所機関方となり、機械学伝習。

1872年(明治05)数えて27歳 婚姻とともに引地町 ヒキヂマチ をでて 外浦町 ホカウラマチ に平野家を再興。平野富二と改名届出。
同年七月東京に神田佐久間町東校内に「長崎新塾出張所」(現東京都千代田区神田和泉町1)のちの東京築地活版製造所設立。
ついで素志の造船、機械、土木、鉄道、水運、鉱山開発(現IHIほか)などの事業を興し、在京わずか20年で、わが国近代産業技術のパイオニアとして活躍。
1892年(明治25)12月03日逝去 行年47

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《2002年12月1日 平野富二没後110年記念祭 平野富二碑移築除幕式と故髙松 昇さん》
HiranoH1[1] 20170209164033_00003平野富二碑 旧長崎禅林寺建立平野富二
(弘化3年8月14日-明治25年12月3日)
(1846.8.14 - 1892.12.3)

◎平野富二没後110年記念祭 平野富二碑移築除幕式
主 催  平野家一同
日 時  2002年12月1日 正午より(雨天決行)
場 所  平野家墓苑(東京谷中霊園 乙11号14側)
【 朗文堂ニュース過去ログ : 平野富二没後110年記念祭 平野富二碑移築除幕式 】
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デジタル時代の時計はあまりにはやくておどろかされる。
上掲した<海事史奨励賞受賞作:髙松 昇著『石川島造船所創業者 平野富二の生涯』(株式会社 IHI )>などの貴重な情報も、情報過多の渦に巻きこまれ、つい失念してご報告がおおきく遅延してしまうことがある。

髙松 昇氏は、1919(大正8)年12月04日 富山県高岡市の出身。
1941(昭和16)年 旧制富山高等学校卒業、1943(昭和18)年東京帝国大学経済学部卒業、同年株式会社東京石川島造船所(現IHI
)入社、爾来同社に勤続し1981(昭和56)年石川島播磨重工業(現IHI)専務取締役となり、1896(昭和61)同社常任顧問、1991(平成3)6月退社された。
そのころ筆者は髙松氏の謦咳に接する機会をえて、小田急線で世田谷区成城のお住まいを数度訪問したが数年前に逝去されたかたである。
ここにご報告の遅延を故人にお詫びするとともに、遅ればせながら皆さんに 髙松 昇氏の功績を紹介した。
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2002年12月01日、平野家一門の主催で<平野富二没後110年記念祭 平野富二碑移築除幕式>が開催された。
長崎から移築された「平野富二碑」のご披露のためもあって、会場を「東京谷中霊園内 平野家塋域」とした。告知に際して「雨天決行」としたが、折悪しく早朝から冷たい雨がふり、開始時刻前には本格的な降雪となった。

ご列席いただいた皆さんは、予測をはるかに上まわり115名の多くのご参加をいただいた。なかには遠方から、それも高齢のご出席者が多かった。
あわてて葬祭業者に依頼して、テントをふた張り用意し、石油ストーブも数基設置したが震えあがるほどの寒さはきびしかった。

 とりわけ平野富二の生誕地:長崎からは、三菱重工業株式会社長崎造船所(造船所史料館)、長崎県印刷工業組合(阿津坂 實氏)などの参列者がめだった。

墓前祭のあと、日暮里駅前の料理屋で平野家主催の小宴がひらかれた。ところが列席者が多くて一度では収容しきれず、若手は降りしきる雪の中で<谷中霊園掃苔会>を急遽開催して、90分遅れで小宴に参加していただいた。
平野富二没後110年記念祭 平野富二碑移築除幕式>関連の広報物のデザインは杉下城司氏が担当されたが、このにわかに設定された<掃苔会>のご案内役も担当していただいた。
また<THE CEREMONY TO COMMEMORATE  TOMIJI HIRANO 1846-1892>が、山本太郎氏によって欧文に翻訳・組版され、列席者に配布された(使用書体 : Adobe Jenson pro,  Adobe Warnock pro)。
ついでながら、このときの公式記録はプロの撮影によるビデオデープでのこされている。
デジタルメディア環境の激変もあり、そろそろほかのメディアに書きかえて皆さんのお役に立ちたいとおもう。

20170209164033_00001 20170209164033_00002[PDF:TOMIJI HIRANO 1846-1892

平野富二の在京20年ばかりの間の活躍分野は、<金属活字製造・活字版印刷・機械製造・造船・航海・海運・土木>といったひろい領域におよんでいる。
それぞれの分野でその関連分野の研究はすすんでいたが、とかく専門分野に特化しがちで、平野富二の全体像の把握は困難な情勢にあった。

おもへらく、2002年12月01日、平野家一門の主催で<平野富二没後110年記念祭 平野富二碑移築除幕式>が開催され、髙松氏をはじめとする「平野会-IHIの事業歴史研究会」の研究実績と、印刷・活字界の研究が突きあわされ、その後のひろい交流の基盤となった功績はきわめておおきかった。

あらためて、髙松 昇著『石川島造船所創業者 平野富二の生涯 下巻』 「あとがき」文中の-協力者御芳名-の記事をみると、先般発足した<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>の会員の名前が列記されていることにおどろく。
なかんずくこの「あとがき」は、「最後に、前記平野会の古谷昌二氏のご協力に感謝致します」として結ばれている。
こうした先達の遺徳にみちびかれて、古谷昌二氏を発起人代表として<「平野富二生誕の地」碑建立有志会>が設立され、地道な研究と活動がはじまっている。
皆さまのご支援を期待するゆえんである。
古谷昌二さんuu[1] 平野表紙uu

【イベント】 アルテピアッツァ美唄 安田侃の「こころを彫る授業」 開催決定!

アルテピアッツァ美唄

安田侃の「こころを彫る授業」 開催決定!
通常はNPO法人アルテピアッツァびばいのスタッフにより、月に一度行われています「こころを彫る授業」。

今回は、彫刻家・安田侃氏が講師となって開催します。
不定期での開催ですので、ぜひこの機会にご参加ください。
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◯日 程:2017年3月18日(土)、19日(日)、20日(月・祝)
◯時 間:各日10:00-16:00
◯定 員:40名 申込み制です(新規の方優先)
◯参加費:一 般/15,000円(白大理石) 10,000円(軟石)
  高校生・大学生/10,000円(白大理石)   6,000円(軟石)
  中学生以下/9,000円(白大理石)   5,000円(軟石)

お申込み・お問合せ:安田侃彫刻美術館アルテピアッツァ美唄ギャラリー(0126)63-3137
◯主催:認定NPO法人アルテピアッツァびばい
【詳細:アルテピアッツァ美唄

【Viva la 活版 ばってん 長崎 Report 21】 長崎県印刷工業組合アルビオン型手引き印刷機一号機復旧再稼働成功報告。愈〻研究本格展開

長崎印刷組合年賀アルビオンうれしい年賀状をいただいた。
既報のとおり、昨二〇一六年九月二日、「本木昌造墓前祭」にあわせ、長崎県印刷工業組合所蔵「アルビオン型手引き印刷機一号機」が同組合で復旧され、稼動実演をみた。
同機は大阪・片田鉄工所、明治30-40年ころの製造とみられる百年余も以前の印刷機。

もう一台の「アルビオン型手引き印刷機二号機」、東京築地活版製造所・大阪活版製造所の銘板が表裏に鋳込まれた印刷機は、明治20年代の製造と推測されるが欠損部品が多い。
ところが一号機の復旧をみて、こちらの二号機にも復旧の動きがあると仄聞する。
近代活字版印刷発祥の地、長崎印刷人の意地と底力を見るおもいがする昨今である。
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《 熱意が通じました! イベントから四ヶ月後「本木昌造墓前祭」で復元修復報告と実演 》
長崎県印刷工業組合所蔵「アルビオン型手引き印刷機 一号機」(大阪・片田製造所製造)、同二号機(天板両面に東京築地活版製造所、大阪活版製造所の銘板が鋳込まれている。推定明治20年代製造)は、その由来、存在意義、価値などの詳細が明らかでないまま、同館三階収蔵庫にいつのころからか放置されていた。

19世紀の終わりのころから、長崎にのこされた本木昌造由来の活字を復元しようとする気運があった。その際収蔵スペースが問題となり、スペース確保のために収蔵庫を整理して、前述の「アルビオン型手引き印刷機」二台を処分して展示室にしようとするという話題がもちあがったことがあった。

若気のいたりであったのかもしれない・・・・・・。
まことに余計なことながら、このうわさをを耳にして、当時の専用ワープロをたたいて、「アルビオン型手引き印刷機」二台の保存と再生をつよく訴えたことがあった。
その専用ワープロのデーターはやつがれの手もとではすでに消滅していたが、長崎の印刷組合で紙媒体でしっかり保管されていた。そして再稼働にあたって、その保管文書をもとに二台の印刷機の由来、存在意義、価値を説明する小冊子をつくりたいとの申し出をいただいた。
大慌てで一部の語句を修整し、資料補強をなしたが、いかんせん時間がなかった。そのため一部に重複もみられるが、その一部を紹介したい。

20160914163731_00001[1]☆      ☆      ☆     ☆

長崎県印刷工業組合所蔵
アルビオン型手引き印刷機

モノとコトの回廊
アルビオン型手引き印刷機とは

「手引き印刷機 Hand press」とは、「手動で操作する印刷機の総称」である。
一般にはグーテンベルクがもちいたと想像される印刷機のかたちを継承したもので、水平に置いた印刷版面に、上から平らな圧盤を押しつけて印刷する「平圧式」の活版印刷機の一種とされる。
そのため厳密には手動式であっても、Salama-21A や テキンなど、印刷版面が縦型に設置される「平圧印刷機 Platen press」とは区別されている。

グ-テンベルクの木製手引き印刷機(1445年頃)は、ブドウ絞り機をヒントに考案された木製の「ネジ棒式圧搾機型印刷機 Screw press」であったとされるが、その活字や鋳造器具と同様に、印刷機も現存していないため、あくまでも想像の域を出ない。

現存する最古の手引き印刷機としてぱ、ベルギーのアントワープにある、プランタン・モレトゥス・ミュージアムや、イタリアのパルマ宮殿にあるジャンバティスタ・ボドニ(1740-1813)博物館の木製手引き印刷機の存在が知られている。
またアメリカの政治家として知られるベンジャミン・フランクリン(1706-90)も、木製手引き印刷機をもちいて印刷業を営んでいたことが知られている。

グーテンベルクの木製活版印刷機の時代からその後350年ほどは、細部に改良が加えられたものの、1798年にイギリスのスタンホープ伯爵が、総鉄製の「スタンホープ印刷機」を考案するまでは、活版印刷機の基本構造そのものには大きな変化はなかった。
その後に開発された著名な手引き印刷機としては、「コロンビアン印刷機」、「アルビオン印刷機」、「スミス印刷機」、「ラスペン印刷機」、「ワシントン印刷機」、「八-ガー印刷機」(以上年代順)などがあげられる。

フィギンス社アルビオン写真の活版印刷機は、イギリスの活字鋳造所フイギンズ社による1875年製のアノレビオン型手引き印刷機である(Lingua Florence 所蔵)。
本機は印刷機としての実用面だけでなく、19世紀世紀末のアーツ・アンド・クラフツ運動、アール・ヌーヴォなどの新工芸運動の影響をうけて、アカンサスなどの植物模様が描かれ、金泥塗装の多用、猫脚の形態などに装飾の工夫がみられる。
「アルビオン Albion」とは、ちょうどわが国の古称「やまと」と同様に、イングランドをあらわす古名(雅称)である。ラテン語の「白 Albus」を原義とし、ドーバー海峡から望むグレートブリテン島の断崖が、白亜層のために白く見えることに由来する。

アノレビオン印刷機は、これに先んじてアメリカで考案された「コロンビアン印刷機」を改良した印刷機である。
アメリカ大陸の古名「Columbia」の名をもつ「コロンビアン印刷機」は、1816年頃にクライマーによって考案され、加圧ネジをレバー装置に置き換え、圧盤をテコの応用で楽に持ち上げるためのオモリがアメリカの象徴である鷲の姿をしている。

「アノレビオン印刷機」は、この「コロンビアン印刷機」をもとに、圧盤を重いオモリにかえて、頭頂部に内蔵されたバネで持ち上げるなどの改良を加え、1820年頃リチャード・W・コープ(?-1828)によって考案された。
またコープ社の閉鎖後も格段の規制をもうけられなかったために、キャズロン社、フィギンズ社などが、独自の工夫を加えながら大小様様な同型機の製造を続けていた。

産業革命を経た19世紀末の英国では、すでに蒸気機関などの動力による大型印刷機が
商業印刷の主流であったが、アーツ・アンド・クラフツ運動を牽引したウィリアム・モリスは、手工藝再興の象徴として、手動式で装飾的なアルビオン型印刷機をもちいていた。また、石彫家にしてタイポダラファでもあったエリック・ギルも同型機をもちいていた。

20160523222018610_0004『Book of Spesimens  Motogi & Hirano』
(平野富二活版製造所 推定明治10年 平野ホール蔵)

わが国でも「アノレビオン型印刷機」とのつきあいはふるく、明治最初期に平野富二が率いた東京築地活版製造所、江川次之進による江川活版製造所などの数社によって、アノレビオン
型の手引き印刷機が大量につくられていた。
また明治09年、秀英舎(現・大日本印刷)の創業に際してもちいられた印刷機も、アルビオン型印刷機であったことが写真資料で明らかになっている(片塩二朗『秀英体研究』)。

長崎県印刷工業組合所蔵
アフレビオン型手引き印刷機の再発見と紹介がなされた

2003年07月19日、わが国の印刷人、タイポダラファにとって嬉しいニュースが流れた。
それは長崎県印刷工業組合三階の収藏庫に、国産「アルビオン型手引き印刷機」が二台所
蔵されていることが、朗文堂・片塩二朗によって再発見され、報告されたからである。

そのうちの一台は(以下一号機)、横板部に二つの筋違いの正方形の中に「 K 」のマークがみられ、版盤なども健在で保存状態は比較的よい。
これは南高有家(島原)の「有正舎」の旧蔵品で『長崎印刷百年史』(田栗奎作 長崎県印

刷工業組合 昭和45年11月03日)に写真紹介されていたものである。
201109handpress[1]この一号機を板倉雅宣は『ハンドプレス・手引き印刷機』(朗文堂 p.64)で、同機の「 K 」マークの存在から、明治30年創業の大阪・片田鉄工所製であろうとしている。

もう一台のアルビオン型手引き印刷機は、元長崎県印刷工業組合相談役:阿津坂実(1915-2015 花筏:タイポグラファ群像008)によると、「九州荷札印刷」の旧藏品であったとする(以下二号機)。
機械主要部のほか圧盤までは現
存しているが、加圧ハンドノレ、版盤、版盤案内レール、チンパン、あんどん蓋などは欠損している。

切りぬき02-627x627[1] 切りぬき01-627x627[1]BmotoMon2[1]二号機に特徴的なのは、目立たないが「テコ Fulcrum」に鋳込まれている「丸 も」のマークである。これは本木昌造の裏紋とされている。
もうひとつは、横板(天板)の両面に鋳込まれている社名と
マークの存在である。
正面(加圧ハンドルのある側)には、

「TYPE FOUNDRY OSAKA TRADE MARK JAPAN」とあり、大阪活版製造所の機械類の
マーク「丸 も に旭日」が鋳込まれている。
裏面には「TYPE FOUNDRY TSUKIJI TRADE MARK  TOKIO」とあり、東京築地活版
製造所の「丸 も にH」(ローマン体)のマークが鋳込まれている。

この両社のマークが制定されたのは1885年(明治18)ころとされている。したがって二号機は明治中期の製造とみられるが、いずれも本木昌造一門につらなる、大阪・谷口黙次/大阪活版製造所、東京・平野富二/東京築地活版製造所のいずれで製造したのかは判明しない。

アルビオンとはイギリスの古名で、「アルビオン・プレス」はイギリスのリチャードー・コープが1820年に発明、同工場のジョン・ホプキンスンが1824年に改良した手引き式の活字版印刷機である。
コープ社が閉鎖されたのちも、格別の保護を主張しなかったために、英国では数社が同型機の製造を継続していた。

わが国では明治初期から平野富二(東京築地活版製造所)、江川活版製造所、金津鉄工所、国友鉄工所、片田鉄工所などによって国産化され、安定した活字版印刷機として評価され、ふつうは単に「手引き印刷機|と呼ばれていた。
また秀英舎(現・大日本印刷)の創業時の印刷機も「アノレビオン・プレス」であったことが、
最近創業時の工場写真が出てきたことで判明している。
いずれにしても同型機の多くは昭和中期まで、一部で校正機などとして長年にわたって用いられていたすぐれた印刷機であった。

活字版印刷術、タイポグラフイとは、活字だけでは成立しない。当然印刷機も必要である。このたび長崎県印刷工業組合から再発見されブこ本機は、平野富二関連では『BOOK
OF SPECIMENS MOTOGI &HIRANO』(活版所平野富二 平野ホール所蔵 推定18フフ)の最終ページに図版で紹介されていたものとほぼ同一のものである。

いずれにしても本機の発見は嬉しいニュースであった。なによりも本木昌造と、その師弟であった平野富二/東京築地活版製造所、谷口黙次/大阪活版製造所が誕生した長崎で
発見されたことを欣快としたい。
そして印刷関連業界、タイポグラフイ界・造船工学界・
機械工学界の研究者がひとしく同機に熱い視線を注いでいる事実を記録しておこう。

《急速に進展した総合技術としての活字版製造術の研究-活字製造だけの研究の陥穽を脱し、関連器械・技術研究への視点 》
長崎県印刷工業組合でのアノレビオン型手引き印刷機の再発見と紹介がなされたのち、顕
著な変化があった。それはこれまで活字版印刷術研究 ≒ タイポグラフイとはいいながら、ともすると活字だけに偏するかたむきがみられたのにたいし、総合技藝としてのタイポグラフィの視点から、活字と器械研究への視座の転換がみられたことである。

『日本の近代活字 本木昌造とその周辺』(近代印刷活字文化保存会 2003年9月30日)は、「本木昌造活字復元プロジェクト」の旗のもとになされ研究であった、同書の執筆者の多
くは、すでに活字製造と関連人物の資料発掘に偏することなく、その研究の視座を大きく
転換していた。

同書刊行の直前、筆者片塩二朗は肺炎から敗血症となって入院中であった。しかしながら不完全ではあったが、「文明開化とタイポグラフイ勃興の記録」をしるし、そのコラムとして「長崎県印刷工業組合所蔵アノレビオン型手引き印刷機 p.291」をのこし、両機の保存と再生・再稼働をつよく希望した。

また、印刷博物館開館三周年記念企画展図録『活字文明開化一本木昌造が築いた近代』(印刷博物館2003年10月6日)では、主要展示に同館が所蔵する三台の「アノレビオン(型)手引き印刷機」を出展し、おおきな関心をよんでいた。

『ハントプレス・手引き印刷機』(板倉雅宣 朗文堂 2011年9月15日)は、真っ向から手引
き印刷機に取り組み、論述したものである。
著者:板倉雅宣は国内各所に現存している手引

き印刷機を丹念に調査し、その形状・マークの採用時期などから、それぞれの印刷機の製造
元・製造年度に関して詳述している。

それによると、一号機は「K」のマークの存在から、明治30年創業の大阪・片田鉄工所製であろうとしている。
二号機に関しては、両社のマーク
の採用時期と照らし明治18年(1885)から大阪活版製造所の名前が見られなくなる明治末年までの間のものであろうとしている。

『明治近代産業のノベイオニア-平野富二伝』(古谷昌二 朗文堂 2013年11月22日)においては、ついに長崎で発祥した活版製造業のことを、長崎製鉄所による産業の近代化の事業の一環としてとらえ、その中心に長崎出身の平野富二の事業をおいて、まったくあらたな
視点から、近代産業としての活版製造業にとり組んだ。その成果はおおきく、小指の先ほどもないちいさな活字と、巨大な造船事業が、長崎製鉄所の事業を基盤として誕生し、それがそれぞれ飛躍していった姿を記録し尽くすことに成功した。

《長崎と全国のタイポグラフアの交流の場となった<Viva la 活版ばってん長崎>》
朗文堂サラマ・プレス倶楽部による活版礼讃イベント<Viva la 活版 ばってん 長崎>が長崎県印刷会館を主会場として、2016年5月6-8日に開催された。

東京をぱじめ、全国各地から訪崎した会員は50余名。マイクロバス二台をレンタして開催された{崎陽長崎 活版さるく}には、地元勢の参加があって45名を超えてていた。また会場には熱心な来場者多数を連日お迎えした。

DSCN7279-627x470[1] DSCN6689-627x470[1]事前準備、撤収作業と、一部の会員は五泊にわたる長崎滞在となり、140年余にわたっ
て蓄積された長崎の活版印刷事業の奥深さを実感する機会となった。
その際、同館所蔵の小型プラテン印刷機だけでなく、貴重な「アルビオン型手引き印刷機」もなんとか稼動・実演したいという意見があり、部品の欠損が少ない一号機を復元する試みをした。
ところがなにぶん出張先での修復作業であったブこめ、工具も足りず、部品の補充もでき
ずに稼動実現の成果をあげることはできなかった。

その際、訪崎され<Viva la 活版 ばってん 長崎>の会場にみえられていた板倉雅宣氏が詳細に点検され、一号機はやはりカムの破損が原因とわかり、著作『ハンドプレス・手引き印刷機』(板倉雅宣 朗文堂)と、カムの復元のために木型を製作して組合に送り、将来の復元稼動を支援することになった。

また長崎県印刷会館の収蔵庫には、本木昌造の逝去後の「新町活版所」を経営し、本木昌造の叙位に際して資料提供にあたった境 賢治(1844-?)がもちいていたとされる「インキロ
ーラー鋳型」かおり、これも主会場に展示されて話題を呼んだ。
こうして2003年から13年あまりの時間が経過していた。

☆      ☆      ☆     ☆

《本木昌造141回忌に際し アルビオン型手引き印刷機が復旧披露》
2016年9月2日[金]開催の「本木昌造141回忌法要」に際し、長崎県印刷工業
組合の力により「アノレビオン型手引き印刷機」一号機が修復・復元され、稼動・実演されるとの情報に接した。とてもうれしく、わが国の印刷産業史に特筆すべき快挙となった。

うかがったところによると、<Viva la 活版 ばってん 長崎>におけるサラマ・プレス倶楽部会員の皆さんの関心の推移をみて、長崎県印刷工業組合もついに「アルビオン型手引き印刷機」(一号機)の本格修復を決断されたとされる。
復元稼動に際しては、福岡市の有限会社文林堂/山田善之氏の助力を得て再稼働に成功したのは<Viva la 活版 ばってん 長崎>から四ヶ月後の九月になってからだった。

板倉雅宣『手引き印刷機』より 20160914163336_00002[1] 20160914163336_00001[1] DSCN6742-627x470[1] DSCN6744-627x470[1]

「長崎県印刷工業組合・本木昌造顕彰会」によって、本木昌造の墓参・法要がなされた九月二日、印刷会館三階で「一号機」が実際に稼動し、印刷がなされた。
「チンパン Tympan」は<Viva la 活版 ばってん 長崎>会期の前日、ホテルの一室で徹夜作業で張り替えにあたった日吉さんのものが、そのままもちいられていた。

 (有)文林堂/山田善之氏は、レバーハンドルを引きながらながら曰く、
 「あぁ、このチンパン、うまく張り替えてあったよ」
手引き印刷機のチンパン-627x470[1] DSCN6687-627x470[1]
ついで本木昌造の菩提寺「大光寺」で、「アルビオン型手引き印刷機が復旧」したことの報告とその意義を、片塩が簡単ではあったが解説にあたった。
DSCN6804-627x352[1]
{文字壹凜:印刷工業組合所蔵「アルビオン型手引き印刷機」を修復、本木昌造墓前祭・法要にあわせて稼動披露

【Season’s Greetings】 2013年07月開催/Viva la 活版 Viva 美唄の会場 安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄から初雪の Postal Carad 到来

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20161222190725_00002《2013年07月開催 Viva la 活版 Viva 美唄の会場:アルテピアッツァ美唄》
2006年発足の{アダナ・プレス倶楽部/2016年07月よりサラマ・プレス倶楽部}が、活版印刷の大型イベント<Viva la 活版 ―― 活版礼讃>の会場として、はじめて東京都内をはなれて地方都市での開催に踏みきったのが北海道美唄市の「安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄」でした。

その後<Viva la 活版 ―― 活版礼讃>イベントは、鹿児島、新潟、長崎とつづきましたが、2017年は明治産業近代化のパイオニア:平野富二生誕170周年でもあり、久しぶりに東京にもどっての開催となりそうです。
ともかく北海道と美唄市にはおもいでがいっぱい積もっています。
そんな美唄から彫刻家:安田侃カンさんのシグネチュア入りの絵はがきをいただきました。
サラマ・プレス倶楽部会員の皆さまによろしくとの添え状もございました。
ここにご報告いたします。
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《 安田侃彫刻美術館 アルテピアッツァ美唄 》
アルテピアッツァ美唄は、このまち出身の彫刻家:安田侃(かん)氏がいまなお創り続ける、大自然と彫刻とが相響する野外彫刻美術館です。

美唄市は、かつて北海道有数の炭鉱都市として栄えました。ところが国のエネルギー政策の変更にともなって1973年に最後の炭鉱の灯が消え、炭鉱住宅はひっそりと静かになり、こどもたちがいなくなった学校は閉校されました。

それから時が過ぎ、イタリアで創作活動を続けている美唄出身の安田が、日本でアトリエを探していた際、1981年に閉校された旧栄小学校に出会いました。
その朽ちかけた木造校舎には、こどもたちの懐かしい記憶がそのままに残ってあり、そして、校舎の一部に併設されていたちいさな幼稚園に通う子どもの姿が安田侃の心をとらえました。
時代に翻弄された歴史を知らず、無邪気に遊ぶ園児たちを見て、安田侃はおもう。
「この子どもたちが、心をひろげられる広場をつくろう」。
これがアルテピアッツァ美唄誕生のきっかけとなりました(中略)。

アルテピアッツァ美唄を訪れる人びとは、初めて来た人でもどこか懐かしい気持ちがするといいます。
安田侃はこう述べています。
「アルテピアッツァは幼稚園でもあり、彫刻美術館でもあり、芸術文化交流広場でも、公園でもあります。
誰もが素に戻れる空間、喜びも哀しみも全てを内包した、自分自身と向き合える空間を創ろうと欲張ってきました。
この移り行く時代の多様さのなかで、次世代に大切なものをつないで行く試みは、人の心や思いによってのみ紡がれます」。

アルテピアッツァ美唄は、自然と人と芸術の新しいあり方を模索し、提案し続け、訪れる人びとに自分の心を深く見つめる時間と空間を提供します。
それはまさに、芸術の本質に通じているからです。

【活版 à la carte  Viva la 活版 Viva 美唄 アルテピアッツァ美唄 まとめ

明治産業近代化のパイオニア『「平野富二 生誕の地」碑建立有志の会』発足/趣意書と平野富二生誕の地確定根拠を発表

05d9667f855a2b65e94d936bdeaca6ed[1]本2016(平成28)-’17年は、長崎の生んだ明治時代の実業家:平野富二の生誕一七〇周年に当たります。
その記念を兼ねて本年5月<Viva la 活版 ばってん 長崎>が開催され、活版製造に縁のある長崎市内の各地を訪問する「崎陽長崎 活版さるく」の計画がなされました。
8ed979955048d3208a8a4c7c96c739b41-1024x175[1]その計画の一環として、地元長崎の歴史研究家の方々のご協力を得て、平野富二の生家である矢次家の場所を示す歴史資料が発掘され、長崎県勤労福祉会館(長崎市桜町9番6号)の建てられている敷地の一画が平野富二の生家跡であることが判明しました。w21_引地町町使長屋 44fb978b853aae4f20258b5d23743605[1] 48632901d887fc7558749f89fba250971[1]平野富二は、弘化3年8月14日(1846年10月4日)、長崎引地町(ひきぢまち)に居住する町司:矢次豊三郎の次男として生まれました。
幼名は矢次富次郎と称し、のちに兄の継いだ矢次家から独立して、矢次家始祖の旧姓である平野姓を名乗り、次いで明治5年(1872)の近代戸籍編成に際して「平野富二」と改名しました。
e9fd275dc476af6b4d99a7f56e59b9b5平野富二初号平野富二は、活版製造事業はもとより、造船事業に付随して、蒸気船運輸、機械製造、橋梁・鉄構物架設、大規模土木工事など多方面の分野でわが国近代化のパイオニアとして貢献しました。

2015(平成27)年7月、世界文化遺産として「明治日本の産業革命遺産」が登録されました。その中に、長崎エリアとして八遺産が含まれており、平野富二の関係した長崎造船所の諸施設があります。

長崎市では観光推進の一環として、市内の歴史的に由緒ある地を訪ね歩く「長崎さるく」が行われています。これを機会に、その訪問地のひとつとして、平野富二に由緒ある地を加えて頂き、そのような先人が長崎で生まれ育ったことを多くの方々に知って頂くことは意義あることと存じます。
ついては、先賢の偉業を回顧しこれを顕彰するため、平野富二生誕の地とされる長崎県勤労福祉会館のある敷地で、道路沿いの一画に記念碑を建立することが最適と考えております。

それを実現させるためには、土地所有者である長崎市と現使用者である長崎県の使用許可が必須となりますが、多くの賛同者を得て資金面でのご支援が欠かせません。また、長崎市関係団体のご理解とご協力も必要と考えております。

なにとぞ私共の趣意をご理解いただき、格別のご賛助を賜りたく懇願申し上げます。   

2016年(平成28)年12月
発起人代表 古谷昌二

──────────
05d9667f855a2b65e94d936bdeaca6ed[1]明治産業近代化のパイオニア
「平野富二生誕の地」碑 建立趣意書

発  行:2016年12月
発行者:「平野富二生誕の地」碑建立有志の会
連絡先:「平野富二生誕の地」碑建立有志の会
      メール  info@hirano-tomiji.jp
事務局:朗 文 堂
     160-0022 東京都新宿区新宿2-4ー9
     電話 03-3352-5070 ファクシミリ 03-3352-5160

☆「平野富二生誕の地」碑建立有志の会は、<Viva la 活版 ばってん 長崎>の開催を契機として自発的に発足しました。
ご関心のあるかたは事務連絡先までご一報いただけたら、「趣意書」と、「平野富二生誕の地 確定根拠」を収録した小冊子を進呈いたします。
また2017年(平成29)早早から専用URLの発足も準備中です。

「平野富二生誕の地」碑建立有志の会 発起人申込書
趣意書

明治産業近代化のパイオニア『「平野富二 生誕の地」碑建立有志の会』発足

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本2016(平成28)-’17年は、長崎の生んだ明治時代の実業家:平野富二の生誕一七〇周年に当たります。
その記念を兼ねて本年5月に、活版製造に縁のある長崎市内の各地を訪問する「崎陽長崎 活版さるく」の計画がなされました。

長崎タイトルresize-627x108[1]その計画の一環として、地元長崎の歴史研究家の方々のご協力を得て、平野富二の生家である矢次家の場所を示す歴史資料が発掘され、長崎県勤労福祉会館(長崎市桜町9番6号)の建てられている敷地の一画であることが判明しました。
DSC_0045これを契機として「崎陽長崎 活版さるく」に参加したメンバーの中から、この場所に平野富二の記念碑を建立する要望が出され、現在有志者により具体化のための検討ならびに予備調査が行われています。
────────

平野富二は、弘化3年8月14日(1846年10月4日)、長崎引地町(ひきぢまち)に居住する町司:矢次豊三郎の次男として生まれました。
幼名は矢次富次郎と称し、のちに兄の継いだ矢次家から独立して、矢次家始祖の旧姓である平野姓を名乗り、次いで明治5年(1872)の近代戸籍編成に際して「平野富二」と改名しました。

e9fd275dc476af6b4d99a7f56e59b9b5長崎での平野富二の知名度は、恩師である本木昌造の陰に隠れて高いとはいえません。しかし平野富二は県営時代の長崎製鉄所において、その付属施設となった小菅修船場の初代責任者として抜擢され、長崎製鉄所の経営に大きく貢献しました。
その収益により立神ドックの掘削を建言して、長崎製鉄所を本格的な造船所とする道を造り上げました。この掘削工事は、当時長崎市内に溢れていた失業者の救済にも役立てられました。  

その貢献が認められて長崎県官吏の資格である権大属に任じられ、長崎製鉄所が長崎県から工部省に移管された時の最後の経営責任者となりました。そのとき平野富二は数え年で26歳でした。
今の三菱長崎造船所の前身は平野富二が貢献した長崎製鉄所であり、長崎造船所立神地区の壁面にある記念碑の銘板には、平野富二の名前が記録されています。  

工部省移管に伴い長崎製鉄所を退職した平野富二は、その後活版製造事業で経営に行き詰まった本木昌造の要望を受けてその経営を引き継ぎ、短期間のうちに活字の品質とコストの問題を解決して、大量生産の技術を完成させて事業を成功に導きました。
のちに平野富二が農商務省に提出した文書には、
「創業の功は専ら本木氏に在りて、改良弘売の功は平野の力多きに居る」
と述べています。

本木昌造の創業した活版製造事業を軌道に乗せるため、平野富二は需要の中心地である東京に拠点を移しました。
当時の公文書や書籍類は、筆写や木版摺りで作成されていました。これらを活版印刷化することによって得られるメリットは大きく、それを宣伝すると共に、輸入に頼っていた活版印刷機の国産化を図りました。
その結果、官公庁や府県が発行する布告・布達類の活版印刷化が促進され、また、近代的新聞の普及に結び付き明治初期における文明開化の実現に大きく貢献しました。

また平野富二は、長崎製鉄所時代に決意した、
「造船事業を興して国家に寄与する」
との志望を実現するべく、1876(明治9)年、海軍省から旧石川島造船所の跡地を借用して、わが国最初の民間造船所を設立しました。
そこでは、河川運行用の小形蒸気船を開発して内陸部への交通運輸の便を開き、海難事故の多かった海上運送で堅牢・安全な洋式船舶を建造、また、民間造船所としてわが国最初の軍艦建造を行いました。

1892年(明治25)年12月3日、平野富二は演説中に発症した脳溢血により病没しました。享年47でした。生前の功績により、
「民設西洋型造船所の嚆矢たり。我邦造船事業の先達として従五位を贈し可然」
として1918(大正7)年に従五位を追贈叙位されました。

このように平野富二は、活版製造事業はもとより、造船事業に付随して、蒸気船運輸、機械製造、橋梁・鉄構物架設、大規模土木工事など多方面の分野でわが国近代化のパイオニアとして貢献しました。
2015(平成27)年7月、世界文化遺産として「明治日本の産業革命遺産」が登録されました。その中に、長崎エリアとして八遺産が含まれており、平野富二の関係した長崎造船所の諸施設があります。

長崎市では観光推進の一環として、市内の歴史的に由緒ある地を訪ね歩く「長崎さるく」が行われています。これを機会に、その訪問地のひとつとして、平野富二に由緒ある地を加えて頂き、そのような先人が長崎で生まれ育ったことを多くの方々に知って頂くことは意義あることと存じます。
ついては、先賢の偉業を回顧しこれを顕彰するため、平野富二生誕の地とされる長崎県勤労福祉会館のある敷地で、道路沿いの一画に記念碑を建立することが最適と考えております。

それを実現させるためには、土地所有者である長崎市と現使用者である長崎県の使用許可が必須となりますが、多くの賛同者を得て資金面でのご支援が欠かせません。また、長崎市関係団体のご理解とご協力も必要と考えております。

なにとぞ私共の趣意をご理解いただき、格別のご賛助を賜りたく懇願申し上げます。   

2016年(平成28)年12月
発起人代表 古谷昌二

【「平野富二生誕の地」碑建立有志の会】 「平野富二生誕の地」確定根拠を発表

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平野富二の生前に発行された東京築地活版製造所編纂『長崎新塾活版所東京出店ノ顛末 並ニ 継業者平野富二氏行状』によると、「平野富二氏、幼名ハ富次郎、長崎ノ士人、矢次豊三郎ノ二男、……、弘化三年丙午八月十四日、長崎ニ於テ生ル。」とある。

平野富二の生家である矢次ヤツギ家の記録「矢次事歴」によると、1874(明治7)年4月に記録された矢次家の住居表示は、第一大区四ノ小区引地町50番地となっている。

矢次家の始祖矢次関右衛門は元大村藩士で、故有って浪人となり長崎に移り住んでいたところ、正徳3年(1713)、空席となった町使役を仰せ付けられた。のちに町使は町司と表記されるようになるが代々世襲して、父豊三郎は矢次家八代目として町司を勤めていた。

町使長屋は、寛文3年(1663)、現在の引地町ヒキヂマチに初めて建てられたが、宝暦5年(1755)に類焼したため建て替えられた。以前は11軒(戸)だったものが13軒(戸)となって、2軒(戸)が追加された。このことは「引地町町使長屋絵図」〈添付資料1  長崎歴史文化博物館所蔵「長崎諸御役場絵図」第一巻〉に記載されている。

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添付資料1
上図:「長崎諸御役場絵図」第一巻、長崎歴史文化博物館所蔵
下図:上図の白枠部分の拡大図
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添付資料1 は焼失後に建て替えられた町使長屋の絵図で、2棟ある長屋の各軒(戸)に入居名が記載されている。絵図で右側に描かれている長屋の右端から二番目に「矢次」と明記されている。

焼失前の町使長屋の絵図も別途存在するが、それには「矢次」の名前はどこにも記載されていない。そのことから、矢次家が引地町の町使長屋に入居したのは、建て替えられて2軒(戸)が追加されたときの1軒(戸)に入居したと見られる。

引地町町使長屋の位置は、明和年間(1765年頃)に作成されたと見られる『長崎惣町絵図』〈添付資料2 長崎歴史文化博物館所蔵〉に「町使屋舗」と表示されている。
くだって嘉永3年(1850)に再板された『長崎明細図』〈添付資料3 長崎勝山町文錦堂刊〉には、その位置に「丁じ長や」と明記されている。嘉永三年(1850)は平野富二が数え年五歳であることから、引地町にある町使長屋が平野富二の生誕の地であると見ることができる。

w21_引地町町使長屋国立公文書館『長崎諸役所絵図』より「引地町町使長屋」

添付資料1と類似の絵図が国立公文書館所蔵の「長崎諸役所絵図」に含まれている。その絵図を現在の長崎法務局の「国土基本図」に重ね合わせて合成し、「町使屋鋪」と表示した地図〈添付資料4〉が、布袋厚著『復元! 江戸時代の長崎』に掲載されている。
それには現在の勤労福祉会館の建物などに重ね合わせて町使屋舗が描かれており、それによって矢次家の在った場所を確定することができる。 以上

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上図:「長崎惣町絵図」明和年間制作、長崎歴史文化博物館所蔵

下図:上図の白枠部分の拡大図
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上図:「長崎明細図」嘉永3年(1850)再板、長崎勝山町文錦堂刊

下図:上図の白枠部分の拡大図
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◯ 添付資料4
『復元! 江戸時代の長崎』布袋 厚 著から引用

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〈備考〉平野富二生誕の地 位置確定目安
引地町町使長屋は、7戸建てと6戸建ての2棟の長屋が引地町筋の道路に面して建てられており、この2棟の長屋は本大工町筋に抜ける道路によって隔てられている。

添付図2によると、矢次家のある7戸建て長屋が建てられている敷地は、前面道路に沿って長さ27間(当時、長崎では六尺五寸を一間としていたことから、これを換算すると約53.1メートルとなる)と表示されている。1戸当たりの幅は平均約7.6メートルとなる。

焼失前の「町使町絵図」(添付省略)によると、同じ敷地と見られる場所にある6戸建て長屋には、5戸が間口5間、一戸が4間と表示されている。長屋内に路地は設けられていないので、長屋の全長は29間となる。添付図2とは2間の差があるが、その理由は不明。この「町使町絵図」には「矢次」の名前はない。

添付図1では、各戸はすべて間口が3間と表示されており、これとは別に前面道路から裏庭に通じる路地が7戸建て長屋では4本ある。その内、2本の路地には途中に井戸があり、他の2本の路地には井戸はないので同じ幅とは限らない。路地の幅は明記されていないので、長屋全体の長さ(間口)は不明である。

敷地の北東に隣接する窪地に現在建てられているビルの境界が当時と同じとすれば、境界を基点としてほぼ8メートルから15メートルの間が矢次家居所跡、すなわち平野富二生誕の地の目安となる。
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〈参考〉添付資料1の左側添え書き

【原文】
此図元長崎奉行所支配普請方用屋敷所蔵也明治維新後故西道仙翁得本図十襲不措後與故長崎區長金井俊行氏謀模寫本図納諸長崎區役所以便研究者焉 大正二年 月及翁歿余請得本図於其嗣某氏分為弐巻施装訂就明嶽道人有馬祐政先生龍江深浦重光先生求其題字以備座右

巻中所在自政所衛門至陣営望台米廩等凡四拾有弐図(全長約拾弐間、上下弐巻)奉行所幷管掌町悉載焉 實長崎史研究者必須之図也
大正四年孟春下沈      鶴城 福田忠昭識

【現代文】
この図は、元長崎奉行所支配普請方の用屋敷に所蔵されていたものである。明治維新の後、故西道仙翁が本図を得て大切に秘蔵して手放さなかった。後に故長崎区長金井俊行氏と相談して本図を模写し、長崎区役所に納めて研究者の便とした。大正二年 月、西翁が没し、私はその嗣者である某氏から本図を得た。分割して二巻とし、装丁を施し、明嶽道人有馬祐政先生に従って龍江深浦重光先生にその題字を依頼し、座右に備えた。
巻中には、政所・衛門から陣営・望台・米蔵などに至るまでおよそ四十二図(全長約十二間、上下二巻)があり、奉行所と管掌する町がことごとく載せてある。実に、長崎史研究者にとって必須の図である。

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